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寮美千子  首相官邸にメールを送ろう! 2006年05月07日(日)00時01分20秒
追悼/萱野茂氏を国葬に! へのコメント

【萱野茂氏をぜひ国葬に!】

5月6日、元参議院議員の萱野茂氏がお亡くなりになりました。氏は、日本の文化の一つであるアイヌ文化の復興に、大きく寄与なさいました。萱野氏がいなければ、日本国は、その麗しい文化の一つを、跡形もなく失っていたかもしれません。萱野氏の功績をたたえ、ぜひ、国葬としていただきたく、ここにお願い申しあげます。

▼メール送付は、以下のフォームから。↓

http://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken.html

寮美千子  追悼/萱野茂氏を国葬に! 2006年05月06日(土)22時24分19秒

【アイヌ文化の保存継承に尽力 萱野茂さん死去】>asahi.com
2006/05/06/21:33

 アイヌの英雄叙事詩ユーカラを紹介するなどアイヌ文化の振興に多くの功績を残し、参院議員も務めた萱野茂(かやの・しげる)さんが、6日午後1時38分、急性肺炎で死去した。79歳だった。通夜は11日午後6時半、町葬は12日午前10時から、いずれも北海道平取町本町88の1の中央公民館で。喪主は妻れい子さん。

 72年北海道平取町に二風谷アイヌ文化資料館を開館、館長などを務めアイヌ文化の保存継承に尽力した。94年に参院比例区で、社会党(当時)から繰り上げ当選。その後、民主党に移った。アイヌ民族初の国会議員となり、アイヌ文化振興法の成立などに尽力した。国会ではアイヌ語を交えて質問した。4年間務め、98年に引退した。

 アイヌ語の散文詩をまとめた「ウエペケレ集大成」を刊行し、75年に菊池寛賞を受けた。50年間かけて収集したアイヌの生活用具1121点は、国の重要有形民俗文化財の指定を受けた。

 同町の二風谷ダムを巡っては「アイヌの聖地が奪われる」と建設に反対し、アイヌ民族を先住民族と認めない国を提訴。97年の札幌地裁判決で「アイヌは先住民族」とする判決を受けた。

 北海道ウタリ協会の加藤忠理事長(67)は「残念の一言。国会でアイヌ語を交えて質問をした萱野さんの行動は日本にアイヌ民族がいるんだということを印象づけた。萱野さんの強い民族的な自覚を我々も受け継いでいきたい」と話した。
母語が日本語とアイヌ語の二つの言語だったという萱野さん。とうとう生前、お目にかかることができなかった。二風谷を訪ねたときは、ご病気で入院中、東京のイベントで萱野さんが出演なさると聞いて駈けつけたときも、やはり体調を崩されてご欠席だった。

それでも、わたしはどれだけ多くのことを萱野エカシから学ばせてもらっただろう。その著作は勿論のこと、札幌のTV局STVによるアイヌ語ラジオ講座の録音を、繰り返し聞かせていただいた。そのお声のおやさしいこと、アイヌ語の響きのなつかしいこと。映像も忘れがたい。ビデオ映像でダムに沈んだ二風谷を見つめ語るそのお姿の悲しみに満ちていらしたこと。その悲しみと怒りは、映像を越え、まるですぐそこで萱野エカシが深い嘆きの声を上げているかのように、ひしひしと心にしみた。

萱野茂氏は、お若い頃、当時非常に高価だったテープレコーダーを購入、アイヌのおじいさんやおばあさんの歌や物語を録音して歩かれたという。消えゆく言語であったアイヌ語に、価値があるとは思われていなかった時代、萱野氏がいたからこそ、消えずに残された多くの記録がある。アイヌ文化とアイヌ語の復興に寄与した力の大きさは計り知れない。

教育基本法には、いま「愛国心」が盛りこまれようとしている。しかし、その「日本国」こそが、一つの民族から、そのライフスタイル、つまり文化を根こそぎ奪ったのだ。そして、その言葉さえ奪った。

「日本=大和民族」ではない。アイヌ民族も、沖縄の人々も、在日の人々も含めての「日本」だ。だとしたら、消えようとしていた「アイヌ文化=日本の文化」の復興に、かくも大きな寄与をした人物を、わたしたちは忘れるわけにはいかない。

わたしは、萱野茂氏は国葬にさせていただくべきだと思う。

もしも、萱野茂氏をアイヌ文化復興の旗手として国葬をしたならば、諸外国の、日本を見る目がどれほど変わるだろうか。特に、アジアの人々は、どれほどの驚きをもって、そのことを受け止めるだろう。

「靖国参拝」などでアジアの近隣諸国の感情を逆撫でしている日本国。八紘一宇の大和民族ばかりが日本ではない。日本という国は、自らが虐げてきたアイヌ民族に光を当てる心もあるのだと、世界に理解されたらどんなにかいいだろう。

それにしても、さみしい。ふとアイヌ語が口を衝いて出てくる人々。子どもの頃、ごく自然に日常の中でアイヌ語を耳にしていた人々が、一人、また一人と、あの世であるポクナモシリへと旅立ってしまう。萱野エカシもまた、そうやって旅立ってしまわれた。ポクナモシリからの波が、ひたひたと押し寄せて、足を濡らしていくように感じる。

アイヌ語を、本やCD、研究室や教室の中だけの言葉ではなく、日常の言葉として、もういちど生き返らせるには、どうしたらいいのだろう。アイヌ文化の一端に触れた者の一人として、非力ながら考え続けてきたいと思う。

萱野先生。ほんとうにありがとうございました。これからも、あのおやさしい眼差しで、みなを見守っていてください。ご冥福をお祈りします。

寮美千子  提案/「民の代」斉唱 2006年05月04日(木)16時34分41秒
新しい歌/民の代 へのコメント

「君が代」斉唱の時、起立しないと、処分されるということが、
教育現場で起こっています。
わたしの友人も処分対象となり、都庁まで訓告を受けにいきました。
http://www.asahi.com/edu/nie/kiji/kiji/TKY200404090173.html

いっそ「民の代」を歌うという形で抵抗したらどうでしょう。
起立する、歌う、でも「君が代」ではなくて「民の代」。
起立し、歌っているから、処分はされない。
一人なら、その声はかき消される。
でも、少しずつ増えていけば「民の代」という声が聞こえてくる。
いつの日か「民の代」が大きな声で響くようになる!

「民」が意味するものは、日本国民だけではない。
あらゆる民衆、世界で日々を必死に生き抜いている人々そのもの。
国境を越え、民族を越え、人々がしあわせに生きられる世の来ることを願う歌。

「民の代 斉唱」
どうでしょう。
寮美千子からの提案です。
♪民の代は 
 千代に八千代に 
 さざれ石の 厳となりて 
 苔のむすまで♪

寮美千子  新しい歌/民の代 2006年05月04日(木)16時11分41秒

mixi というクローズのサイトがあります。
といっても加入者が百万人を超えているから、ほぼオープンも同然。
そこのブログの日記に「新しい歌」という文章を書いたら、
いくつかのコメントをいただきました。ここに一部再録します。
【新しい歌】寮美千子 2006/5/4
♪民の代は 
 千代に八千代に 
 さざれ石の 厳となりて 
 苔のむすまで♪

この歌だったら、起立して胸に手を当て空を仰ぎ見てもいい。

【俺の代】某氏
♪俺の代は 
 千代に八千代に 
 さざれ石の 厳となりて 
 苔のむすまで♪
なんちて

【♪俺の代♪ 万歳!】
あれ、苔のつかない「転がる石」じゃなかったの?
でも、基本は「わたし」「俺」つまり「一人一人の人権」ですよね。
民の一人一人が健康でしあわせに生きられる状況を整えること。
それが国家の使命です。
だから、「俺の代は」「おらが代は」はとても正しい。
あくまでも「わたくしのための国家」であって
「国家のためのわたくし」ではない。

それをねじまげて「国家のためのわたくし」を製造しようとしているのが、
教育基本法に盛りこまれた「愛国心」ではないでしょうか。

「愛国心」という前に、まず「国」とはなんなのか、
「国家」の成り立ちや歴史を、子どもたちは学ぶべきだと思います。
そこには、支配者が民を支配し搾取してきた歴史がある。
植民地主義で領土拡大を目指したこともある。
戦争で多くの民が命を失い、また他国の人々の命を奪った歴史もある。
そんな「国」とはなんのか?
「国」とはどうあるべきなのか?
「国」の実態もわからないまま、その国を愛せといわれても困る。
忠誠を誓わされても困る。

だいたい、いまの「日本国」になったのは、第2次世界大戦後。
その前は「大日本帝国」。
そしてその前の「日本」とは、なんだったのか。

「日本」の名の下に、アイヌや沖縄民族の文化を破壊してきた歴史もあります。
アイヌは言語さえ違う別の民族だったし、沖縄には琉球王朝があった。
「国」とはつまり、暴力的な「権力」でもあった。

まずは、そこから「国」とはなんなのかを知っていかなければならない。
そして「心から愛せる国」「誇りに思える国」を創るにはどうしたらいいのかを、
みんなで考えていかなければならない。

「君が代」とは天皇のことを示したともいいます。
どこかにある抽象概念としての「国」や「天皇」の長命を祈る前に、
まず、わたしたち一人一人の長命と幸せを祈らなければならないのではないでしょうか。
それは同時に、家族の、友人の、隣人の幸せを祈ることでもあります。
だって、人は一人では幸せになれない社会的動物なのだから。

♪俺の代♪ 万歳!

【転石困難】某氏

最近は転がるのは一苦労ですぅ。110kgあるんで。

【憲法=いかに国家の権力行使を制約するか】寮美千子
友人の日記に、憲法改正に関する考察がありました。以下一部引用。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=128300696&owner_id=142541(mixi会員のみ)

  現行の憲法は、本当の意味での主権在民で、
  「いかに国家の権力行使を制約するか」
  ということを記述しているのに対して、
  自民党案は
  「いかに国民の権力行使に制約を課すか」
  ということを記述している。(引用おわり)

先日、大和の9条の会の発足式に行って来ました。そこで佐高信氏が、
「憲法とは本来、人権をもって特権を制約するためのもの」
と表現していました。
人権とは、ひとりひとりの国民の権利、
特権とは、国家権力によって生まれる超越的な権利のことだそうです。
なるほど。

寮美千子  サハリンの環境破壊について/土岐帆氏からのメール 2006年04月16日(日)15時13分57秒

友人でアラスカの自然を多く撮っているの写真家の土岐帆さんから、サハリン開発プロジェクトに関するメッセージが届きました。
【土岐帆さんのメールより一部引用】
ヨーロッパ復興開発銀行(EBRD)と(日本)開発協力銀行(JBIC)はまもなく一般からの意見公聴期間を終え(4月20日まで)、今年5月までには20億ドル規模のサハリンIIプロジェクト(事業主体:シェル、三井、三菱からなるSEIC−サハリン・エナジー社)の融資の承認を決定しようとしています。融資が実行されれば(非常に可能性が高くなりましたが)、サハリンやオホーツク海全体の環境が脅かされるばかりか、今後のサハリン石油・天然ガス事業へ一機に加速させ、いずれはオホーツク海全体に渡る化石燃料開発ブームにつながるでしょう。

今この融資を阻止するか、少なくとも遅らせることで、サハリン・エナジー社に環境対策の見直しせまり、今後のサハリン開発の事業主たちに、サハリンがいま彼らが考えているほど安易な金儲けにならないことを知らせることは非常に重要だと思います。

われわれが今失いつつあるものはあまりにも貴重です。ご参照ください。
FoE Japan : http://www.foejapan.org/aid/jbic02/sakhalin/index.html
Pacific Environment : http://www.pacificenvironment.org/

寮美千子  アメリカ軍戦闘機の爆音の響く日々@相模大野 2006年04月12日(水)13時34分17秒
石和の空襲は甲府と同じ頃でしょうか。 へのコメント

▼小宮山利恵子さま

>母はおかしなひとで、どうせわかってもらえないからと話さないんですよ私達には。

戦争の記憶は、語らずにはいられないほど強烈なものである一方で、語りたくない、触れたくない、つらい思い出なのでしょう。わたしの母も、同じ体験をした母の姉妹とは、よく戦争体験を語り合っていましたが、娘であるわたしたちには面と向かっては話してくれませんでした。

改めて母に訊いてみて、その体験の恐ろしさに足が震え、涙が出るような思いがしました。ああ、この人は少女時代、そんな思いをしてきたのだ、そんな時代をくぐり抜けて、いまここにいるのだと、心が震えました。本などの活字で知るのと、直接体験をした人に聞くのとでは、浸み方が違いますね。

いまでも、戦争で恐ろしい思いをしている子どもたちや大人たちが世界の各地にいます。結局のところ、イラクはアメリカの介入により、それ以前よりも混乱した戦争地帯になってしまいました。アメリカが介入しなければ、これだけの死者を出し続けることもなかったはずです。アフガニスタンも、まだまだ復興途上です。そんなイラクに、武器を持った兵士を送りこんでいる日本とは? 明らかに憲法違反ではありませんか。それを憲法違反ではないといいくるめ、挙げ句に「憲法が実情に合っていないから改正しよう」とは何事?

いま、わたしは相模原に戻っていますが、連日、マンション上空でアメリカ軍の戦闘機の爆音が鳴り響いています。歯医者さんにいく途中の米軍補給廠のフェンスの向こうには、芝生の広がりの中、桜が満開でした。基地のなかは別世界。ゆったりと建てられた一戸建ての住宅が優雅に点在しています。フェンスの外には、小さな家が軒を触れるようにしてひしめいているというのに。補給廠の門には、いつも長い銃を持った兵士が立っています。その前を通るとき、いつだって不快な、怖い思いをします。こんな状況を見ると、日本はまだまだアメリカの占領下にあるのだと感じます。

アメリカ軍基地のある大和で「9条の会」をたちあげるとのこと、先日メールをいただきました。よかったら、詳細をお知らせください。

小宮山 利恵子  石和の空襲は甲府と同じ頃でしょうか。 2006年04月05日(水)21時47分31秒
▼Review Lunatique:戦争の記憶/母・寮八重子の回想 へのコメント

私は寮さんとは、なんだかとてもひかれるのはなんでか一つに,山梨の人の流れがあったんですね。寮さんの潔さとか、正義感とか、このひとはーっておもってました。
母は現在86歳.戦時中は山梨のなかで疎開していたとおもいます。
焼夷弾の話しは同じようによく聞きました。千葉のほうにお住まいなんですよね。お加減はいかがですか。相模大野にいらしたら、母とあっていただいて、その頃の話しができたらいいですね
きっと戦争前の、楽しい思い出もでてくることでしょう。古い街の様子,お店のこと話しのわかるかたがいらしたら、母のどんなによいお話相手となることでしょう。私など、遠慮のないコワイ娘になっていますから、とんと話にはつきあえません。寮さんのように書きとめておくといいのでしょうね。母はおかしなひとで、どうせわかってもらえないからと話さないんですよ私達には。今聞く耳あるっていってるんですがね。今頃この記事にコメントするのまがぬけてますね。
ゆっくり読む時間ができたってことだとおもいます。おゆるしを。

大住 邦宏  遠くをみたい を見てました 2006年04月02日(日)05時00分45秒

⇒この投稿はカフェルミに移動しました

寮美千子  星兎からの伝言 2006年03月28日(火)10時06分48秒
みなとみらい大橋の風 へのコメント

とみたとおるさま

とみたさんが一番最初に手に取られて、いままさに読もうとなさっているわたしの作品が『星兎』とお伺いして、胸が詰まる思いがしました。ああ、あのラストシーンを、どんな気持ちで読まれるんだろう? そう思うと、自分が書いた作品なのに、自然と涙が溢れてしまいました。まるで、じゅんこさんがその本を選んで、お兄さまに手渡したようにさえ感じてしまいました。なにか、言葉をおかけしたいと思いながら、なんといったらいいのかもわからなくなって、書き込みもしないままでした。

でも、あの作品のすべてが、わたしが、伝えたいことなのかもしれません。じゅんこさんとお兄さまとに。

「どうしてきれいなだけじゃだめなの? この世界では?」
「忘れないでいられるなら、宇宙の果てまで忘れない」

吉木さんもまじえて、ぜひお目にかかりましょう!

とみたとおる  みなとみらい大橋の風 2006年03月27日(月)03時05分34秒
付属中同窓会 へのコメント

いつどこでのことかは忘れた。
それは、かわいい瞳をしているマリア像だった。
ボクは一人になりたくて、白木蓮の大きな庭木のならぶ屋敷まちをあるいていた。
そのマリア像はよろこんでいいんだと、とボクにささやいた。
よろこんでいいんだから、ありがとう、とも言えるんだよ、と。
マリア像を抱える少女はニコニコしながら、ボクを振り返った。
風がさーっと涙をなでた。

「星兎」を読み終えました。途中で「The有頂天ホテル」を遅ればせながら観ました。
みなとみらい大橋の上で、光が空へ飛んでいくのを感じました。
手放していいんだと思いました。
素敵な作品です。
ファンになっちゃうかもね。
いろいろ活動なさっているみたいです。
どこかでお会いできると嬉しいです。
では。

DORONKO  21日は、ぜひ下北沢に!! 2006年03月18日(土)12時35分00秒
山梨・下北沢・奈良/なんのための新道路計画? へのコメント

<都内や近郊にお住まいのみなさんへのご案内になります。>

この21日(火・祝)、街を破壊する道路計画の見直しを求めて、
下北沢で、以下のようなイベントが予定されています。

シモキタらしく、楽しい音楽もあります。

ぜひ、遊びに来てみてください!

☆☆ 3・21 『まもれ シモキタ!』パレード ☆☆

 世田谷区は街を破壊する道路、「補助54号線」(最大幅26m)の
3月中の事業認可を目指しています。事業認可がおりると法的に
道路予定地の買収が可能になり、道路工事がいよいよ現実化して
しまいます。

 事業認可をストップさせるためには、今ここでみなさんが声を
上げることが必要です。
 わたしたちの街、下北沢が道路によって排気ガスと高層ビルの街
にならないように、この計画の見直しを求める声を盛り上げて、
パレードという形でアピールしていきましょう!

 一人でも多い方のご参加が、とても大きな力となります。
 みなさんのご参加を心よりお待ちしております。

開催日 :2006年3月21日(火・祝)「春分の日」
集合場所:CLUB251(クラブ・ツー・ファイブ・ワン)
     下北沢駅南口徒歩5分「餃子の王将」の先 CLUB440の地下
     TEL:03-5481-4141
     http://www.club251.co.jp/

タイムテーブル:
11:30〜  駅前パフォーマンス
12:30〜  CLUB251にて記者会見
13:00〜  CLUB251にて決起ライブ 出演「渋さ知らズ」
13:30〜  パレード開始!
      CLUB251〜ピュアロード〜茶沢通り〜小田急踏切〜
      北沢公園(東北沢駅直近)
14:30〜  北沢公園にて集会
15:00   解散

・パレードへの途中参加、沿道からの応援、大歓迎です。
・音の鳴るものを持って参加してくださいね!
・パレードにご協力くださるパフォーマーの方は、事前に
 ご一報くださると幸いです。

【主催・お問い合わせ先】
 “Save the 下北沢” http://www.stsk.net/
  世田谷区北沢3−20−1 2F NeverNeverLand
  TEL:090-3538-3679(下平) FAX:03-3373-3894

なお、以下のブログを読むと、このイベントの背景などもよく
わかるでしょう。
3月14日のところには、チラシも貼ってあります!

http://shidaayumi.exblog.jp/

とみたとおる  おっとっと。 2006年03月15日(水)15時28分50秒
久しぶり! へのコメント

吉木どの 何ゆえに貴君が登場するのかね?びっくりの10乗だぜ!!!
でも嬉しいね。よろしくね。また。行ってきます。

とみたとおる  「うさぎ」と「マザーテレサ」買いました。 2006年03月15日(水)15時26分05秒
じゅんこさんの思い出 へのコメント

寮さん ありがとうございます。ちょうど思い出していらしたとのこと。偶然のような星のいたずらのような。でも、妹が知らせてくれてのだと思ってました。このタイミングで、ということの意味を探してみますね。

そういえば、昔、千葉に住んでいたとき、あなたたちが何人も妹のお誕生日に遊びに来てくれたことを思い出しました。昭和30年代の終わりごろかなあ。

東京の私立に行ってからも、「りょうさん」という名前は何度も聴いた記憶があります。それで覚えていたんでしょう。

「うさぎ」。びっくりしています。何が、と言葉にできませんが、とにかく。
まだ途中なので、全部読んだらまた書きますね。

おっと、出張に出る時間になりました。

そうそう、妹はクリスチャンでした。市川の聖公会ですが。
マザーテレサの本を我が家の仏壇(私はいい加減な仏教徒!)にお供えしました。
では、また。


寮美千子  付属中同窓会 2006年03月15日(水)01時34分31秒
久しぶり! へのコメント

吉木先輩と冨田先輩は、同じ学年でしたね。
わたしより二つ上。
あのころの二つ上って、とっても大人に見えたなあ。
近寄りがたいくらいに。

13分の2と、50分の2じゃあ、
2歳の重さがまるで違いますものね。
このまま、2歳の重さは軽くなる一方。
ということは、歳の差は縮まる一方、ということでしょうか。

いつの日か、同窓会を開きましょう!

吉木克実  久しぶり! 2006年03月14日(火)19時16分22秒
ほんとうにびっくりしました。うれしいです。 へのコメント

冨田君!!

お久しぶりです。
ここは私も時々お邪魔しています。
これも何かの縁でしょう。
これからもよろしくお願いいたします。

寮美千子  じゅんこさんの思い出 2006年03月12日(日)22時03分53秒
ほんとうにびっくりしました。うれしいです。 へのコメント

とみたとおるさま

じゅんこさんのお兄さまですね。
書き込みを見て、胸が詰まり、涙が溢れました。
じゅんこさん、お若いときに事故で亡くなられたと、
風の便りにお伺いしていました。
それから、ずっと気になってきました。

実は、昨日も、じゅんこさんのこと、思い出していたのです。
嘘のような話ですが、ほんとうにそうなのです。
じゅんこさん、鼻の下にかわいらしい黒子がありましたよね。
小学校のとき、わたしも彼女と同じ場所に小さな傷ができて、
かさぶたになったことがありました。そうしたら、じゅんこさん、
「わたしとおんなじね」とちょっとうれしそうにいいました。
そんなこと、鏡を見ていて、ふいに思い出したのです。

じゅんこさんとは、小学校のクラスがいっしょで、
とてもなかよくさせていただきました。
彼女は、東京の私立の学校に進まれたと覚えています。
それからは、疎遠になってしまいました。

Hの鉛筆で、几帳面な四角い文字を書いていたじゅんこさん。
ちょっと手塚治虫の字に似ていたかもしれない。
その字に憧れて、わたしも真似して書いてみたりしました。
「文字の上の方を大きめに書くのよ」なんて教えてもらった。

本がお好きで、たくさん本を読んでいらして
「大きくなったら、翻訳者になりたいの」とおっしゃってました。
「翻訳者」なんていうものの存在さえ意識していなかったわたしは、
それを聞いて、ほんとうにびっくりしたものです。
賢い、聡明な少女でした。

小学校4年生の終わりの春休み、
じゅんこさんとふたりで、附属第一小学校の校舎にもぐりこんだことがありました。
学校は統合され、四月の新学期からは、千葉大学のなかの校舎に移転。
古い木造の校舎は、壊される寸前だったのです。
1年生から4年間を過ごした懐かしい校舎。
それは、古い時代に建てられた洋館風のものでした。
正面玄関にはステンドグラスがあり、
その上は、オペラハウスの様式を模した音楽室。
教壇は舞台になっていて、
舞台に向けて斜めに下がってゆく床に、テーブル付きの椅子が並べられ、
背後には天井桟敷までありました。
美しい校舎でした。

壊される寸前の校舎は荒れ果て、埃まみれでした。
それをみて、二人でとっても哀しくなってしまった。
過ごした日々の思い出ももろともに、壊されてしまうような気がして。
もう二度とそこを訪れることができない。
わたしたちは、そんな無常を感じるたりする、少しおませな少女でした。

物書きになってから「なぜ、わたしが」と思うことが度々ありました。
「なぜ、あの聡明なじゅんこさんではなく、
こんなぼんやり者のわたしが物書きになったのだろう?」と。

生きていらっしゃれば、じゅんこさんはきっと夢を実現なさって、
翻訳家か文筆家として名をはせていらしたことでしょう。
そうしたら、同じ道を歩んだ幼なじみとして、
言葉を交わす喜びもあったことでしょう。
それができないことが、残念でなりません。

懐かしい、懐かしいじゅんこさん。
わたしはときどき、遠くにいるじゅんこさんに話しかけてきました。
「あなたほど賢くもなく、努力家でもないわたしが、
運よく生きのびて、運よく物書きになっている。
世の中って、ずいぶん不公平だよね」と。
そのことを思うと、ぐずぐずとしている自分を情けなく、申し訳なく思い、
もっともっとがんばらなくては、と思うのです。
じゅんこさんは、いまも遠くから、わたしを励ましつづけてくれています。

お兄さまのこと、よく覚えています。
じゅんこさんは、お兄さまにお顔がそっくりでしたから、
学校でも、ひと目でお兄さまだとわかりました。
お兄さまはわたしの小中高の先輩。
「じゅんこさん、どうしてますか?」と声をおかけしたいと思ったけれど、
勇気がなくて、とうとうできませんでした。

こうやってご連絡いただき、ほんとうにうれしいです。
また、じゅんこさんに会えたような、そんな気がしています。
どうぞ、これからも、ご連絡ください。よろしくお願いします。

ほんとうに、ほんとうにこんなに遅くなってしまいましたが、
じゅんこさんのご冥福をお祈りします。

でも、まだ、どうしても、どこかで元気でお暮らしのような気がしてならないのです。

とみたとおる  ほんとうにびっくりしました。うれしいです。 2006年03月12日(日)18時58分24秒

なくなった妹と同級生だった「寮さん」と知り、びっくりしています。
作品はこれから読ませていただきます。
妹と会えるような気がして、どきどきわくわくです。
受賞こころよりお祝いいたします。おめでとう。
小中高の先輩としてもとても誇らしいです。
では、また。

寮美千子  山梨・下北沢・奈良/なんのための新道路計画? 2006年03月06日(月)01時36分53秒
はじめまして。田舎者ですが、よろしくおねがいします へのコメント

萩原直彦さま

お久しぶり。あれは四半世紀ほど前、山手線だったか東急線だったか忘れたけれど、かなり夜遅くのことでした。わたしは読みかけの雑誌「anan」を網棚に置いてしばしまどろみ、目を覚まして網棚を見ると、雑誌が消滅。あれっと思うと、向かいの席でサラリーマン風の若い男性が二人、「anan」を開いて、なにやら楽しそうに話しているではありませんか。モデルさんを見て「この人は10点」「この子は8点」なんて批評しているのです?! どう考えてもそれはわたしの「anan」。勇気を出して「あの、それ、網棚にあったんじゃありませんか?」と聞いたのが、萩原さんと出会った最初でした。「お詫びに」ってコーヒーをおごってもらったように覚えています。当時、萩原さんは若き建築士。あれから、ずいぶん時間がたちました。

その萩原さんが、甲府で農業をしながら、新しい暮らしをなさっているとのこと、先日、メールをいただいて知りました。

山梨には、わたしの母方の実家があり、幼い頃から毎年夏になると、祖父母の家に遊びに行きました。緑なす山、甘い香りを漂わせる果樹園、鯉のいる堀、水草の生えた用水路、山の畑の奥の石の間から湧きだす清水。みんなみんないい思い出です。自然と触れることの少なかった新興住宅地育ちのわたしにとって、それはかけがえのない時間だったと、いまでも思います。

その甲府盆地をぐるりと回る環状道路。なぜ? 一体、なんのための道路でしょう? その道路がなければ、医者に行けない、なんてことがあるはずもないのに。

祖父母のいた山梨、若き日々を過ごした下北沢、そしてこれからの人生の拠点にしようと考えている奈良。わたし自身の人生にとても縁の深い3つの土地で、期せずして新しい道路の計画がある。それも「どうしても必要な道路」ではなく、しかも道路を作るために失うものがあまりに大きいというのに。ほんとうに、日本社会はいつまで「経済の奴隷」でいるつもりなのでしょう。人間のための経済ではなく、経済発展のために人間が犠牲になる。

思えば50年前、自家用車を持っている家なんて、多くなかった。だから、町の中の車も、多くはなかった。それが、いまや道路という道路に車が溢れ、「もっと便利に!」という声があがり、新たな道路の計画が持ちあがります。

車一台の重量は普通車でおよそ1トン。たった50キロから80キロくらいの人間一人運ぶのに、その20倍の鉄の塊を動かさなければならない。こんなナンセンスな乗り物があるでしょうか? よく車のコマーシャルで「エコな車」なんていっているけれど、冗談ではありません。エコを考えるのなら、なるべく車に乗らない生活を心がけるべき。自家用車を持たず、電車やバス、時にタクシーなど、公共の乗り物を使用する。それに越したことはありません。断然エコです。もちろん、農家や商店などは、いまや車を使わざるをえない。しかし、これも、仕事用に使うことにして、休日などのレジャーには、自家用車は使わない。それでも使うときは、なるべくたくさんの人で乗るようにする。そう心がけるだけで、道からどれだけ車が減るでしょうか。

そうしない最大の理由は、おそらく「便利だから」。でも、この便利さのおかげで、どれだけのものをわたしたちは失ったのか。それを改めて考えるべき時だと思います。

そして、もうひとつは「経済」。車は、日本経済の発展に大いに寄与してきました。いまも、多くの人が車を生産することによって生活している。しかし、売れ行きがどこまでも伸び続けなくてはいけない、という構造はおかしい。限りある地球の上で、それが無理であることぐらい、火を見るよりも明らかです。

新たな社会モデルが求められています。それは「耐久」とか「耐乏」とか「がまん」の社会だと、みんな感じているかもしれない。でも、それは違うと思うのです。多くの人が騙されている。消費の快楽が、一番の快楽だと。でも、消費は心を満たさない。さらなる消費の欲望をかき立てるばかり。ほんとうに心と体を満たすものを、わたしたちはちゃんと求めなければならない。

道ばたの雑草を摘み、ザリガニをとった子ども時代。あの豊かさは、ヴァーチャルなゲームでは得られないものです。農業に手を染められた萩原さんも、その大変さの中に、きっと大きな喜びや豊かさを感じられていることと思います。ほんとうに心と体を満たすものは、自然のなかにあり、文化のなかにあり、芸術のなかにあります。

そんな豊かさを取り返すために必要なのは「道路」ではありません。もっと別の所にお金を使ってほしい。大切なものを壊すために使うのではなく、大切なものを守り、育て、復活させるために。

山梨、下北沢、奈良。それぞれ状況は異なりますが、同じ問題を抱えています。互いに連絡を取り合いながら、がんばっていきましょうね!

DORONKO  下北沢の状況。 2006年03月02日(木)13時52分22秒
はじめまして。田舎者ですが、よろしくおねがいします へのコメント

萩原さんのお気持、とてもよくわかります。

ぼくは寮さんのかなり以前からの知り合いで、今、東京・世田谷の
下北沢で計画されている「補助54号線」という都市計画道路の
抜本的な見直しを求める運動に参加しています。全国でも有数の
にぎわいがある下北沢の街の心臓部をつぶしてしまうという、
あまりにも乱暴な計画ですので、この計画を疑問視する声はとても
強く、昨年末から今年にかけて、合わせて500店以上ものお店が、
世田谷区長に対して計画の見直しを求める要望書に賛同するという
事態にもなりました。

しかし、世田谷区の姿勢のひどさは形容に困るほどで、区長は、
この要望書を受け取るのを避けるために逃げ回り、担当の役人は、
商店街のボスたちを抱き込んできただけのことなのに、「地元の
同意は得ている」と言い張り続けている…という有様です。

そこで、ここから萩原さんにもつながる話になるかと思うのですが、
ぼくたちは今、世田谷区や東京都を相手にした行政訴訟を起こす
準備に取りかかっているところです。

これまで、行政を相手に訴訟を起こしても、「訴える資格がない」
などとされることが多かった(いわゆる“門前払い”というやつ
です)のですが、ご存じかどうか、去年の12月7日の最高裁の
大法廷判決で、その状況が劇的に変わる端緒が開かれました。

そこで、もしうまく行けば、ぼくたちが下北沢の問題をめぐって
起こす訴訟は、この可能性を現実のものにしてゆくための、最初の
大きな訴訟になるかも知れません。

つきましては、今後も下北沢の問題にもご注視いただき、荻原さんの
方でも、仲間の方たちとよく話し合われて、行政の非を問う訴訟の
準備に着手されてはいかがかと思います。

上記の最高裁の大法廷判決は、下のリンクのサイトをご覧いただけば
わかります。判決文へのリンクもあります。

どうか、頑張って下さい。

http://www.bekkoame.ne.jp/~fk1125/

萩原直彦  はじめまして。田舎者ですが、よろしくおねがいします 2006年03月01日(水)20時33分42秒 http://www.geocities.jp/hagiwara_atelier/

 甲府市に住んでいます。51歳になります。
 26年前、東京で暮らしていたとき、ふとしたきっかけで、寮さんとお知り合いになりました。数ヵ月後、私は郷里の甲府に戻ったため、それ以来、寮さんにお目にかかっていません。ただ、子どもが小さい頃、図書館で借りた絵本の中に、寮さんの書かれた本があったので、絵本作家をされていることは存じ上げていました。
 
 本業ではありませんが、12年前から2反の畑で野菜作りと養鶏をしています。念願かなって昨年から1反の田んぼが借りられ、稲作も始めました。塩や砂糖などを除き、たいていの食べ物は自給しています。

 昨年、寮さんのHPを見つけました。26年前には、話題にも上らなかった、平和に対する思い、宮沢賢治とかアイヌ文化に対する思いが、私のそれと酷似していて驚いていました。このところの私の興味の中心は「有機農業と社会」です。

 眺めていたばかりの掲示板に思い切って投稿したいと思ったのは、道路計画のことがCafe Lumiereにあったからです。昨年ようやく借りられた田んぼの付近に、甲府盆地を一回りするという新山梨環状道路の計画がもち上がり、その反対運動を始めたところです。お田植えや稲刈りに来てくれた人達が中心です。

 国土交通省と山梨県は費用を安くするために、人家を避けて農地に道路を計画しています。御用学者による有識者協議会はこちらも同じです。食料自給率の低い日本で、わざわざ農地を潰して道路を造るという愚が有識者によって推進されています。また、もともと低湿地であるところへ他区間で掘ったトンネルの土を運んできて盛土構造の道路とする計画です。水害の頻度が以前にも増して高くなる道路計画に有識者は異を唱えません。財政が破綻状態なのに行政は道路だけは別だと言い張ります。道路特定財源は一般財源化しなければならないのは誰の目にも明らかでしょう。その上、人口減少社会です。有識者でなくても道路を造っている場合ではないことは気づくでしょう。

 後継者のいない農家は、農地を売りたくて道路が自分の農地を通ってほしいと言い道路計画に賛成します。しかし、そういう社会自体が異常です。農家に後継者がいないのは、農家の責任よりも行政の責任、ないしは社会の責任でしょう。経済だけが豊かさを測るものさしだとすれば、農業は立ち行きません。社会のあり方を変えなければ、次世代に残せるものは、借金と道路ばかりになってしまいます。
 
 歴史を紐解くまでもなく、農業が衰退すれば、国家が崩壊します。

寮美千子  追悼詩/天空に交響する  伊福部昭氏に捧げる 2006年02月09日(木)22時36分34秒
訃報/伊福部昭先生 へのコメント

人生のほんの一瞬でしたが、巨星・伊福部昭氏のお人柄に触れることができたことを、運命に感謝します。

勇崎さん、リトさんをはじめ、どれだけの方々深い哀しみに浸っているでしょうか。
寮美千子は、追悼の詩を書きました。

【天空に交響する  伊福部昭氏に捧げる】

伊福部先生! 
美しいものに囲まれ、最後まで音楽を紡いでいらした先生!
もっともっとお目にかかりたかったです!

寮美千子  訃報/伊福部昭先生 2006年02月09日(木)16時08分30秒
ご冥福を祈ります へのコメント

【訃報/伊福部昭さん91歳=作曲家 映画「ゴジラ」も作曲】>毎日新聞

 「ゴジラ」などの映画音楽、北海道の原野を思わせる雄大な民族色豊かな交響的作品などによって幅広い人気を持つ作曲家、伊福部昭(いふくべ・あきら)さんが8日、東京都内の病院で直腸がんのため死去した。91歳。自宅は世田谷区尾山台2の7の7。葬儀の日取りなどは未定。
 北海道・釧路生まれ。北海道帝大専門部卒。アイヌ音楽や樺太のギリヤーク民族の音楽を研究、「民族の特異性を経て普遍的な人間性に至る」ことを作曲理念に据え、ほぼ独学で民族色豊かな作品を作り出した。1935(昭和10)年、「日本狂詩曲」でパリのチェレプニン賞に入選。同曲は翌年米国でも演奏され、国際的な脚光を浴びた。来日したロシア出身の作曲家、チェレプニンに近代管弦楽法を師事。「土俗的三連画」、「オホツク海」など独自の交響作品を次々に完成させた。
 時代の趨勢(すうせい)にかかわりなく民族的な作曲姿勢を貫き、「釈迦」などを作曲。東京音楽学校講師、東京音楽大学学長などを務め、故・芥川也寸志、故・黛敏郎、松村禎三、故・石井真木、三木稔など多くの作曲家を育てた。
 また、約400曲の映画音楽を作曲、なかでも54年、東宝映画「ゴジラ」では、重厚な行進曲風のテーマで強烈な印象を与え、以来「ゴジラ」シリーズの多くの音楽を担当、大きな人気を得た。
 ここ数年、体調を崩していた。「ビルマの竪琴」で毎日映画コンクール音楽賞。紫綬褒章。勲三等瑞宝章。03年に文化功労者。【梅津時比古】
尾山台のお宅にお伺いしたときの、おやさしい表情、コンサートの後の卒寿記念パーティでのウィット溢れるご挨拶、さまざまな伊福部先生の面影が走馬燈のように心を過ぎります。すばらしい方でした。「芸術」が、ちゃんと大地から生えてきていた。いま、大地と人間とが切り離されたこの時代、あのようなすばらしい音楽家が日本から再び現われることは、実にむずかしいことかもしれません。伊福部先生は、わたしが『ラジオスターレストラン』のなかで追い求めた音楽家そのものでした。90歳を過ぎても盛んにお仕事をなさっていらっしゃいました。「惜しい、百歳まで生きて欲しかった」と心からそう思います。90歳を越えてなお「惜しい」と思わせるほどの創造の泉を蔵した方でした。まだまだ書きたいことがあるけれど、なんとネットにつながったコンピュータのあるこの部屋は、先日から暖房器が壊れて部品待ち。打っているうちに指先が凍えてしまいます。ご冥福をお祈りします。

吉木克実  ご冥福を祈ります 2006年02月09日(木)08時18分25秒

伊福部さん、亡くなったんですね・・・
ご冥福をお祈り申し上げます・・・

吉木克実  聞き取りしてきます 2006年01月20日(金)13時58分07秒
戦争の記憶/みんなで集めよう へのコメント

両親からポツリポツリと聞いていたのは、
父は亡くなってから6年になりますが、招集されたのが降伏直前で、一発も弾を撃つことなく武装解除されソビエトに抑留されたこと、
母はハルビン在住時に終戦となり中国の人たちに助けられながら大連から引き上げ船で帰ってきたこと。
父の抑留中のことも少しは聞いていますが、母のこととあわせ今度ゆっくり聞いてこようと思っています。
父の存命中は、そのことを聞くのがなぜかあまりいい気持ちではなかったので、
積極的にこちらから聞いたりすることはありませんでした。
今となっては少し悔やまれます。
聞いてきたことまとめてからアップさせてください。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD

なんくる  寮さんへ 2006年01月20日(金)09時17分17秒 http://plaza.rakuten.co.jp/sansin/
▼Review Lunatique:中学生諸君へ/本なんか読まなくたっていいよ へのコメント

中学生諸君へ
本なんかよまなくたっていいよ

の文章、大阪市立波除小学校の6年生に読ませていただきます。
今度2月2日に絵本読みにいきます。
そこで読んできます。
30〜40分、ひとりでおはなし会してきますので、寮さんの絵本も紹介します。
初めていく小学校ですが、心こめて届けてきますね。

寮美千子  戦争の記憶/みんなで集めよう 2006年01月15日(日)12時09分24秒
母の戦争体験を聞いて へのコメント


昨日、南の島パラオを取材したテレビを見ていたら、
老人たちが実に流暢な日本語を話すので、軽いショックを受けました。
日本語教育がなされたことを知ってはいても、
それを実際に耳にすると、さまざまが感慨がわきます。


戦後60年。
あの戦争はすぐそこにあるのに、
まるで何もなかったかのような繁栄と賑わいを見せる日本社会。
自分の痛みも、他者の痛みも忘れた世界は、
「いつか来た道」を再び歩もうとしているように思えてなりません。

終戦の時10歳の子どもだった人が、いまは70歳。
直接戦争を体験し、記憶している世代が、高齢化しています。
身近な戦争体験を、みんなで集めましょう。
きっと、すぐそばにだれかがいるはず。

どんな断片的なことででも構いません。
終戦後の混乱の時代のことでもいいです。
あなたが聞いた戦争体験を、ぜひ、ここCafe Lunatiqueで聞かせてください。
お待ちしています。


タイトルの頭に以下のようにつけていただくと、あとで検索するときに助かります。

戦争の記憶/

寮美千子  母の戦争体験を聞いて 2006年01月06日(金)04時35分47秒
▼Review Lunatique:戦争の記憶/母・寮八重子の回想 へのコメント

昨年の終戦記念日、母に電話で、戦争の話を聞きました。いままでも何度も聞いたことのある話。直接面と向かって、ではありませんでした。おばたちが集まると、自然とその話になるのです。母たちにとって、それは、なんどもなんども、繰り返し語らずにいられない体験、語ることで、なんとかお互いに癒そうとしていた体験だったように思います。

改めて母から話を聞いて、涙が出てきました。16歳だった母。その母が、空襲で幼い妹に防空頭巾を被せ、その手を引いて、火の中を逃げまどう。そして、防空壕に飛び込んだとたん、背後で爆音がして、爆弾が炸裂する。おばあさんがぼうぼうと燃えているのを見る。そこに、水をかけてもかけても、焼夷弾の火は消えない。燃え落ちるわが家。空襲から9日目に父親宛に舞い込んだ召集令状。家を失い、大黒柱を失った家族の耐乏生活。B29の爆音に怯えて、芋畑に突っ伏す少女だった母。

自分の母親が、そんな体験をしてきたということ。そのことに、足が震えてきます。そして、今も同じ体験をしている子どもたちが無数にいるこの世界。なんとかしなければいけない。心の底から、そう思います。そのために何ができるか、今年はそれを、少しずつ形にしていきたいと願っています。

寮美千子  戦後六十一年目のお正月に 2006年01月06日(金)04時17分04秒
▼Review Lunatique:戦争の記憶/母・寮八重子の回想 へのコメント

あけましておめでとうございます。

世界は 少しずつ美しくなる
世界は 少しずつ美しくなる
世界は 少しずつ美しくなる

「未来のための呪文」に願いをこめてそう書きましたが、世界は坂を転がるように、不穏になっているように感じる今日このごろです。「愛国心」が過剰に美化され「正義」という名の侵略戦争がまかり通っています。振り返れば、日本はかつて「正義」を大義に掲げ、アジアの国々を侵略した国でした。その当時のニュース映像のナレーションが、現在のアメリカ大統領の言葉と瓜二つであることに、驚きを禁じ得ません。

武力が、軍隊が、ほんとうにわたしたちを守ってくれるのでしょうか。戦争をしない。それ以外に、戦争による惨禍を防ぐ方法はありません。戦争をしないためにするべきこと。それは果たして軍隊を持つことでしょうか。それ以外の解決方法はないのでしょうか。そんなはずはない。多くの、様々な手段があるはずです。

日本という国が、暴力によってアジアの諸国を侵略し、人々から彼らの言葉まで奪おうとしたという事実。そのような過去をきちんと認識し、相手の痛みを知ること。謝罪すること。そういったことも、平和の維持には欠かせないことです。日本の首相は、靖国参拝を「心の問題」だといいましたが、では、侵略された人々の「心の問題」はどうなるのか。被害者の心の問題を置き去りにして、加害者が自分の心の問題を主張することなど、できません。そのようなことをおざなりにしていて、憲法9条を改正しようというのは、わたしにはまったく納得がいきません。

「9条が現状に合わないから」という意見がありますが、ということは、我々が憲法を無視してきたということに他なりません。憲法とは、そのように簡単に無視され、破られるものであったのか。それでは、憲法の意味がない。正すべきは、憲法を無視してきた現実の方であって、憲法ではありません。イラク派兵など、もってのほかです。

戦争は、どんな戦争でも無惨です。たとえ勝っても、多くの命が犠牲になります。わたしたちは、そうとは知らないうちに、戦争を一歩一歩近づけてはいないでしょうか。戦争の犠牲になるのは庶民なのに、その戦争を招くのも、実は庶民なのです。憲法9条を改正しようという政党を支持して、圧倒的な勝利をさせたのは、庶民に他なりません。

その庶民が、一旦戦争になったら、どんな悲惨な目に遭うか。それを自分の体験として知っている人が、まだまだ日本にはたくさん生きています。けれども、その人々も年老いて、やがて戦争を知らない世代だけの世の中になるでしょう。その前に、せめて自分の身近な人の体験は聞いておかなければ、という気持ちになりました。

昭和4年生まれのわたしの母の戦争体験を、昨年の終戦記念日に聞きました。簡単なものですがまとめましたので、読んでみてください。母の戦争回想記をもって、新年のご挨拶に代えさせていただきたいと思います。

DORONKO  ぼくも見ました。 2005年12月23日(金)10時59分09秒
失礼ながら へのコメント

「リトルバーズ」、ぼくも見ました。

静かに、心にしみてくるドキュメンタリーでした。

みなさんにも、ぜひご覧になるようお勧めしたいと思います。

現在は、自主上映を主体に各地を巡回しているようですね。

まれびとさんご案内のトップページの下部の「各地の上映予定」を
クリックすると、おわかりになるでしょう。

イラクで起きたことはいったい何だったのか。

少なくとも、ぼくたち日本人は、綿井さんがまとめたこの記録を
抜きに語ることは難しいのではないかと思います。

silica  戦争体験のない世代の怖さ 2005年12月17日(土)13時56分29秒

きょう、ネット上のニュースを眺めていて、愕然といたしました。

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<召集令状>生徒に配り、「非国民」批判も 福岡の中学教師

 福岡県志免町の町立志免中学校(結城慎一郎校長)で社会科の男性教諭(48)が、授業で「臨時召集令状」を全2年生218人に配って戦争参加の意思を聞き、「いかない」と回答した女子生徒に「非国民」と書いて返却していたことが分かった。結城校長は「戦争の悲惨さなどを教えるためで、問題はない」と話している。
 町教委の説明によると教諭は10月27、31日に「第二次世界大戦とアジア」の授業をした。教諭は副教材に掲載されている「臨時召集令状」をコピーし、裏面に戦争に「いく」「いかない」の、どちらかを丸で囲ませ、その理由を記入させた。
 「いく」「いかない」の意思表示をしたのは208人で白紙が10人。「いく」理由は「当時としては仕方がない」「家族を守るため」など。「いかない」は「家の事情」「今はいきたくない」などだった。
 「いかない」と回答した女子生徒の一人が、理由に「戦いたくないし死にたくないから。あと人を殺したくないから」と書いた。これに対し、教諭は赤ボールペンで「×」印を付け「非国民」と書き入れて返した。
 女子生徒はショックを受け事情を知った女子生徒の保護者らは「社会科の教諭を代えてほしい」と話しているという。
 町教委は、非国民と書いたことについて「確認できず分からない」という。そのうえで授業の狙いを(1)召集令状の持つ意味を理解させる(2)生徒の歴史認識を把握する――としており「決して思想信条を調べるものではない」と説明している。
【中原剛】
(毎日新聞) - 12月17日10時21分更新
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この記事の中のこの部分に心が強い拒否反応を示します。

>結城校長は「戦争の悲惨さなどを教えるためで、問題はない」と話している。

>教諭は副教材に掲載されている「臨時召集令状」をコピーし、裏面に戦争に「いく」「いかない」の、どちらかを丸で囲ませ、その理由を記入させた。

> 「いかない」と回答した女子生徒の一人が、理由に「戦いたくないし死にたくないから。あと人を殺したくないから」と書いた。これに対し、教諭は赤ボールペンで「×」印を付け「非国民」と書き入れて返した。


「戦いたくないし死にたくないから。あと人を殺したくないから」

もっとも基本となるこの正直な心を封じ込めてしまったら、戦争を起こさせない力をどうやって人が持つというのでしょう。

「非国民」といとも簡単に書いて渡せた教諭が私とそう世代の変わらない人間であることに私自身がショックを受けています。「国がそういう事情になったら仕方がないんだ。」と妙に素直に納得してしまいそうな、「戦争を今のところ体にしみこませないで済んでいる幸せな世代」の盲点を感じ、とても怖いと感じました。
九州という土地柄の気質も感じますが、「戦争になったら」ではなく「戦争そのもの」が何をもたらすのかを先生と生徒でいっしょに見つめ考えることをしようとは思わなかったのでしょうか。
外国で今も現実にある戦争をどれくらい自分に近づけて思いめぐらせることができるか、そんな想像力を促す授業を切に望みたいと思います。



吉木克実  ただただ涙 2005年12月17日(土)01時34分21秒
失礼ながら へのコメント

長い言葉は要りますまい。

怖れ、怒り、そして慟哭。

まれびと氏のとめどなく流れ落ちる拭うべきではない涙。

私にもたとえようのない感情があふれ出てきます。

そう、私たちもまた無知な傍観者だったのです。

そしてそれははやり「背負うべき罪」なのでしょうね。


まれびと  失礼ながら 2005年12月11日(日)23時59分42秒 http://www.geocities.jp/marebit/

じぶんのサイトに書いた文章と引用ですが、ここに転載させてください。

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《 静かに想像してみてほしい。

「お父さん泣かないで、私たちは天国で鳥になりました」

 小さな墓標の裏に書かれたその言葉は、アリ・サクバンの三人の子どもたちが埋葬されるときに、それを手伝ってくれた人たちがそっと墓標の裏に書いた文字だった。2003年4月10日、バグダッドへの空爆で三人の子どもを一度に失ったアリ・サクバン(31歳)は、その日もいつもと同じ朝を迎えていた。いつもと同じ朝の風景になるはずだった。しかし、朝食の準備をしている最中、突然空から襲った爆撃・爆音とともに彼の周囲は一変する。

 じっと想像してみてほしい。

「おはようお父さん」とさっき会話を交わしたばかりの子どもたちが自宅の瓦礫の中に埋まり、必死で彼らを探す父親の姿を。脳みそが出たままの5歳の娘を抱きかかえて、銃声が鳴り響くバグダットの街中を、救急車に乗って三つの病院を回らなければならなかった彼の光景を。やっとたどりついた病院で生死をさまよう娘の手を取り、彼が着ていた真っ白なシャツが、真っ赤な血で染まっていく瞬間を。 》

「リトルバーズ 戦火のバグダッドから」(綿井健陽・晶文社)


 7日、水曜午前。市民ホールでドキュメンタリー・フィルム「リトルバーズ イラク戦火の家族たち」 (綿井健陽監督)を見た。臓腑にこたえた。全身がわなわなと顫え、いつしか血のような涙が頬を伝い流れ落ちたが何故かそれを拭うまい、いや拭うべきではない、と思った。涙はとめどなく溢れ出た。止まらなかった。まるでじぶんが巨大な圧縮機の中につめこまれたような気分でじっと画面を凝視し続けた。激しく憎悪した。この不合理を成り立たせている、すべての欲望を、冷酷さを、無関心を。この国のメディアはいったい何を伝えてきたのか。屁のようなものだ。わたしたちの想像力はいったい何を考えたのか。屁のようなものだ。屁のような取り澄ました日常を、おのれ自身を憎悪した。けっして許すまいと誓った。呆然自失といった態でホールを出た。煙草に火をつけて吐き出した。おだやかな平日の青空が目の前に広がっていたが、それは偽装された青空だった。反吐が出た。脳味噌が飛び出した幼いわが子に必死で吸入器をあてがう父親の姿が脳裏に焼き付いて離れない。あの父親の身を切るような慟哭に、無惨に変わり果てた姿で横たわっていたあの幼子の寄る辺なき魂に、この世界の中で、いったい誰が向き合えるのか。「餓死する子供のいる場所を、世界の中心とするならば、もっと思考が戦闘化してもいいのではないか」(辺見庸) わたしはいま、確信をもって“YES”と言おう。屁のようなものすべてを粉砕してやりたい。少なくとも、あの戦争を支持した国に住んでいるわたしたちには、“少女は天国の鳥になった”などといったことは、言えまい。わたしは、わたしの立っているこの地面を、憎悪する。


《この映像を観てほしい。なにがなんでも観てくれ。そしていま一度、自分の頭で、静かに、静かに考えようじゃないか。あの戦争とはいったいなんだったのか。いや、そもそもあれは戦争だったのか・・・。あまたあるイラク映像のなかで,私はLittle Birdsに最もつよく心揺さぶられた。》

(辺見庸)


《...その一方で、日本が、日本人が自ら問い続けなければならない言葉もある。

「 You And Bush 」(お前とブッシュは同じだ)

「 How many children have you killed today? 」(お前たち、きょう何人の子供を殺したんだ?)

「お前」「お前たち」とは、アメリカや米軍だけではない。紛れもなく「私」「私たち」のことだ。そう思っておいたほうがいい。イラクのためにも、日本のためにも、自分のためにも、本当にそう思っておいたほうがいい。

 戦火のバグダッドで私が出会った人たちからの問いかけ、そして殺されていった人たちからのメッセージだった。 》

(綿井健陽)


リトルバーズ公式サイト http://www.littlebirds.net/

中川敬のシネマは自由をめざす! http://www.breast.co.jp/cgi-bin/soulflower/nakagawa/cinema/cineji.pl?phase=view&id=156_littleBirds

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http://www.littlebirds.net/

寮美千子  知事への手紙/事情聴取より人命救助の優先を! 2005年12月10日(土)01時37分24秒
人命救助と事情聴取、どちらが優先? へのコメント

神奈川県知事 松沢成文さま

寮美千子と申します。文筆業をしております。相模原市相模大野在住ですが、本日、人命救助をないがしろにして事情聴取を優先している警察官を見たので、そのことについて強い憤りを感じ、知事よりぜひ警察に注意を促していただきたく、お手紙差し上げることにしました。

12月9日午後5時、伊勢丹デパートそばの行幸道路に、パトカーが止まっていました。警官が2名、通行人に事情聴取をしていました。ぶつかった車もバイクもなく、交通事故ではなさそうだが、はて、何があったのかと、わたしは道の反対側から見ておりました。すると、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきて、ほどなく救急車が到着。救急隊員が出てきて、路上から人をストレッチャーに乗せたのでした。その時になって、わたしははじめてそこに人が倒れていたことを知りました。その人のそばに「だれもいなかった」ので、気づかなかったのです。ストレッチャーに載せられた人は、だらりと腕を垂れて、意識がないようでした。見ると、若い男性のように見えました。

横断歩道をぐるりと回って救急車に近づくと、なかで心臓マッサージをしている姿が見えました。わたしは愕然としてしまいました。そんな事態なのに、だれも倒れた人のそばにいなかったということがです。警官までもが、事情聴取をしていて、倒れた人の様子を見ようとしていなかったことです。

警官に話を聞かれていたバックパックの若い男性に訊くと、男の人が、道でいきなり倒れたとのことでした。だれもその人の面倒を見ず、救急隊員がくるまで、放置されていたのです。警官が二人もいたのに! 二人とも事情聴取!

人命救助と事情聴取と、一体、どちらが大切だと思っているのでしょうか? 救急車は一向動く気配がなく、中では必死の心臓マッサージが続いていました。

なにもできることがないので、わたしは家に戻り、神奈川県警の「相談係」に電話をしました。見てきたことを話しますと「でも、わたしたちは専門的なことはわかりませんからねえ」「動かしちゃいけないってこともあるでしょう」「救急隊員が処置してくれたんだから、いいじゃないですか」「何か問題、ありますか」との返答。話にならないので、上司を出せ、というと「なんでその必要があるんですか」といわれ、出してくれません。名前を聞いて電話を切りました。Kさんという人でした。

次に相模原南警察署の地域課に電話をしたところ、こんどはきちんと対応してくれました。担当した警官に早速連絡をとり、事情をきき、電話をかけてくれたのです。若い警官だったので、気が動転して、何もできなかったとのことでした。応援に駈けつけたもう一人の警官も、同じように何もできずに、回りの人に話を聞いていたそうです。以後、事情聴取より人命救助を優先させるよう、きつく申し渡しておくとのことでした。対応に出てくださったのは、地域課の0さんという方でした。

知事にお願いがあります。どうか、神奈川県の警察官全員に「事情聴取より、人命救助を優先させる」よう、ご通達いただけないでしょうか。警察学校では、基本事項として、人工呼吸と心臓マッサージの訓練を受けると聞いています。一般人が正しい対処ができないときでも、警察官ならできるばずです。その警察官が、倒れた人を放置して、事情聴取をしているとは、一体、どういうことでしょうか。しかも、かけつけた応援の警官までもが、やはり病人に触れず、事情聴取をしていたとは! これは、担当の警官一人の問題ではなく、全体に「何よりもまず人命尊重」の意識がないからではないかと思います。どうか、よろしくお願い申しあげます。

追伸:倒れていたあの方は、助かったのでしょうか。助かっていることを祈っています。しかし、もしも亡くなっていたのだとしたら、警察官の方の責任は追及されてしかるべきだと思います。ご遺族は、その状況を知る権利があると思います。

※以上の文章を、神奈川県のHPの「知事への手紙」へ送りました。>寮美千子


http://www.pref.kanagawa.jp/teian/teian.htm

寮美千子  人命救助と事情聴取、どちらが優先? 2005年12月10日(土)00時58分12秒

きょう、郵便局に郵便物を出しにいった。午後5時まであと10分という時だったので、急ぎ足で向かった。幸い列もできてなくて、3通の郵便物を出して、同じ道を戻ろうとすると、道の向こう側に1台のパトカーがとまっていた。警官が2人、事情聴取のようなことをしている。何があったのか、わからない。ぶつかった車もバイクもないし、近くにあるのは自転車だけ。自転車が歩行者にぶつかったのだろうか。だれにぶつかったのだろう。5〜6人の人がいたが、どの人も怪我をした様子もない。泥棒でも入ったのだろうか。中年女性が、警官に何か訊かれて、うしろのバタンと倒れるゼスチャーをおおげさにしている。

不思議に思ってしばらく見ていると、遠くから救急車のサイレンが響いてきた。それが見る見る近づいて、救急車の後ろの扉が開いて、救急隊員が出てきた。ストレッチャーを降ろす。そして、地面に横たわっていた人を乗せた。その時点で、わたしははじめて、そこに人が倒れていたことを知った。そのそばには「だれもいなかった」ので、そこに人がいると気づかなかったのだ。ストレッチャーに乗せられた人は、だらりと手を垂らして意識があるように見えない。ストレッチャーがぐるりとまわったときに、その人が見えた。髪も黒く、若い男性だった。

横断歩道がなかったので、わたしはぐるっと横断歩道までいって道を渡り、そのまま帰ろうかと思ったが、どうしても気になったので、見に行った。救急車は、一向に動く気配がない。中の人が、やけに慌ただしく動いているのが、運転席のほうから見えた。脇まで行って窓をみると、必死で心臓マッサージをしている救急隊員の姿が見えた。

わたしは、頭から血が引くような思いがした。そばにいた若い男性に(バックパックを背負った人で、さっきからずっとそこにいて、警官に話を聞かれていた人だ)訊いてみた。いきなり倒れたという。そこにいた若い女性も、同じ事を言っていた。「どうして、だれも人工呼吸をしなかったの」わたしはそういって、救急車を見た。中では、まだ心臓マッサージが続けられていた。救急車は、一向に動く気配がない。「倒れていると知っていたら、横断歩道なんか渡らないでここに走ってきて、何かしてあげられたのに」

しばらくそこにいたが、どうしようもなかった。わたしが、あと少し遅くあの道を歩いていたら。そうしたら、郵便局に行く途中で、その人が倒れる現場に居合わせたかも知れない。携帯電話を持っていないから、救急車を呼ぶことはできないけれど、声をかけ、呼吸がなければ人工呼吸ができた。心臓マッサージもできたのに。救急車が来るまで、だれもそばにいなかったなんて。遠巻きに見ていただけなんて。そして、なによりも、そこにいた警官2名が、2名とも「事情聴取」をしていたなんて!

泣きながら家に戻り、神奈川県警に電話をした。「相談係」に出たKという警察官は、その話をすると、こういった。「でも、わたしたちは専門的なことはわかりませんからねえ」「動かしちゃいけないってこともあるでしょう」「救急隊員が処置してくれたんだから、いいじゃないですか」「何か問題、ありますか」

話にならないので、上司を出せ、というと「なんでその必要があるんですか」といわれ、出してくれない。まったくひどい話だ。話にならないので、名前を聞いて電話を切った。

次に相模原南署にかけた。さきほどとはうってかわった親切な対応だった。交通事故ではなさそうだ、ということで、地域課に回してくれた。ここで対応してくれた警察官も、話の通じる人だった。事情を話すと「そのとき、警官は何人いましたか」などと詳しいことを訊き「それはいけませんねえ。申し訳ありません。すぐに事情を聞いて、きつく申し伝えます」とのこと。結果も電話してくれると約束してくれた。

すぐに電話がかかってきた。「すいません。若い新米警察官で、徒歩で巡回していたところ、倒れている人を見つけて驚いてしまったようなんです。周りに人にきくと、もう救急車を呼んだとのことで、当人は急いで応援の警官を呼んだそうです。応援が駈けつけたのと、救急車が着いたのは、ほぼ同時だったそうです」

「違います。わたしが見た時には、すでにパトカーが来ていました。警官も、二名いました。そして、その二名とも、倒れている人には構わないで、周りの人に話を聞いていたんです。だれも病人のそばにいなかったから、わたしはそこに病人がいることさえ気づきませんでした。それからです、遠くから救急車の音がしたのは。救急隊員が行くまで、倒れた人は放置されていました。嘘は困ります。警察では、人命救助を第一と考えていないんですか。そういうときの処置について、学んでないのですか」

南警察の方は、警官は警察学校で必ず人工呼吸や心臓マッサージについて学ぶといった。そこにいた若い警官は、ともかく気が動転していたので何もできなかった、これからそのようなことがないようにきつく申し渡すとのこと。わたしは、その人だけではなく、警察署全体にそれを行き渡らせてほしいと頼んで、電話を切った。

哀しかったし、情けなかったし、頭に来た。あの人は助かっただろうか。心臓が止まっても、2分以内に人工呼吸と心臓マッサージをはじめれば、救命率は抜群に高くなる。5分を超えると、死んでしまうし、助かったとしても、五分も脳に血が行かなかったので、重大な後遺症が残る。救急車は、長い時間動かなかった。その間、ずっと心臓マッサージをしていた。蘇生したならば、すぐに搬送するだろうに……。

いま思えば、病人が倒れていた場所には、だれもいなかった。それを遠巻きにするように人が散らばっていた。みんな「よけて」いたのだ。通行人も、警察官も、彼をよけて話をしていたのだ。なんということだろう。

そこは、相模大野の伊勢丹デパートのそば。人通りも多いところだ。そこで倒れても、誰にも手当てしてもらえないなんて! 警察官までいるのに! 

倒れている人がいたら、そばに駈けよって様子を見る。声をかける。そういう、人として自然な行動が、みな、できなくなってしまっている。それが都市というものだろうか。あの、周囲で見ていた人や、警官の事情聴取に応じていた人々。若い男性、若い女性もいれば、中年の女性もいた。その、だれも、彼に駈けろうとはしなかった。

百歩譲って、一般人がいくら気が動転して、処置がわからなかったとしても、警察官は違うはずだ。人命救助について、警察学校で学んでいるはずだ。事情聴取と人命救助、どちらが優先事項だというのだろう。警官として以前に、人として行動してほしい。強くそう思う。

道ばたで突然倒れたあの男性の、命が助かりますように。どうかどうか、無事でありますように。助けてあげられなくて、ごめん。もっともっと好奇心剥きだしで、そばに寄ればよかった。そうすれば、道路にばたんと倒れているあなたを見つけることができただろうに。

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管理者:Ryo Michico <mail@ryomichico.net>
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