ハルモニア Cafe Lunatique (No.0011)

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勇崎哲史  “行動力”と“イマジネーション”の問題 2002年06月09日(日)22時31分18秒
フィールドワーカーの方誤解しないでください。 へのコメント

吉木さんには、僕の投稿「覚悟の問題」を再読いただきたいと望んでいます。研究者のかたのご意見と僕のそれとは、似て非なものです。

まず、研究者のかたのご意見がどんなに厳しく、厳しさゆえに受け取る側に不都合があったとしても、そのかたはそれを書くために相当の時間を費やしてくださったと思います。ですから、対面ではなく言葉だけでコミュニケーションをとるBBSでは、まずそのご苦労に敬意を抱くことが基本的な態度であり、誠意だと、僕は思っています。

僕の伝えたい論旨は、
>しかしながら、「自分は体感した」という論法で、
>とんでもない勘違いを押しつけてくる不可解を感じたことがままある
というところから、はじまっています。
そして、
>僕自身に戒めていることは、
>僕もそのようにあるのかも知れない、という自身への疑いです。
と論を展開しています。過敏な感受性をお持ちのかたであれば、これは自問や寮さんへの意見ではなく、ある意味で研究者のかたに向けられた反論、と読まれるかも知れません。

それで、最後まで読んで欲しいのですが、僕の伝えたいことは、モンゴルの人たちが大切にしている文化の本筋をおさえていれば、創作があっても相手は面白いと思ってくれるし、結論は「そりゃ、行かないより、行った方がいい」程度のことであり、それを判断するのは寮さんであり、覚悟の問題であるとお伝えしています。

僕は、写真家、ということもしていますので、現場からものごとを考えようとします。ですから、僕が写真家である以上、口が裂けたって「寮さん、行く必要なんかないよ」なんていえません。かといって、僕は研究者のかたのように、行くことを強要するようなことも言っていません。強要はしていませんが、実際に4月の帯広で、ナムジルの後に考えておられる「熊のイヨマンテ」について、アイヌの人たちと面談できたことで、寮さんはその構想をさらに豊かなものにされたと、僕は伺いました。そのようなことから察すれば、出来ことなら寮さんを現地に行かせてあげたい、と希望的なことを述べているだけです。

また、僕が「覚悟」という言葉をあえて持ち出しているのは、寮さんのこれからのプロジェクトは、「民族」という問題に踏み込まれる方向にもあること。ご存知のように冷戦の時代がおわり、かつてはイデオロギーで構えていれば事が済んだのでしょうが、そうもいかず、差異の表出が「民族」へと移行しました。それゆえに「民族」への関心は地球規模でたかまり、一方ではエスニック・ブーム、もう一方では、「戦争や政治的テロの火種」をイデオロギーではなく「民族」へと移行させました。
寮さんは、環太平洋にまたがるモンゴロイドの民話をこれから採集し、創作民話を展開されようとしています。その出発点がモンゴル。チンギスハーン以降、モンゴリアンの領土の侵略が、強姦による混血化(クレオール)の進行と、侵略で追われた他のモンゴロイド(少数)民族の移動が環太平洋に亘った要因のひとつであるかも知れないということ。環太平洋にモンゴロイドの居住がまたがっていることを、ロマンという安易なイメージとスケールの大きさで、僕ら一般大衆を煙に巻く「グレート・ジャーニー」のような、ノーテンキな展開にはして欲しくありません。

そのように思いを巡らせると、僕が投稿の冒頭に記した、研究者のかたが書かれた、
>モンゴルの風も、ウマも、体全部で感じたことの無い方に、
>「すばらしいウマ」とか「うつくしい・・」とか言われることに、
>不可解なものを感じます。
には共感を示しておくべきですし、この種の発言と、発言する側の感情、といったことは、ずうーとついてまわるのですから、「覚悟」の問題であることをお伝えしました。
ただし、
>不可解なものを感じます。
というもの言いについて、僕はその尻馬に乗るつもりはないので、
>しかしながら、
と続けたしだいです。

以上が、以前の投稿についての再投稿です。
以下は、吉木さんより今回いただいた内容へのレスです。

> フィールドワーカーの方誤解しないでください。

と書かれていますが、この表記には、ふたつほど意見を述べます。
ひとつは、個別の人格をもつ人たちを、あるひとつの言葉でくくってしまうことは好ましいことではありません。くくられる側は不快な感情をいだくものです。例えば、「フィールドワーカーの方誤解しないでください」の対語である「ディスクワーカーの方誤解しないでください」と表記してこのレスを書いたら、吉木さんはどのようにお感じになりますか? もしかして、ディスクワーカーの方としてひとくくりにされることが吉木さんの望むところであれば、この質問は愚問ですが、、、。
もうひとつは、フィールドワークを失ったかつてのクソ・アカデミズムのことを思い出して下さい。そして、あなたが学生の頃に現れたニュー・アカデミズムが80年代に入り、「知」を活性化させることを出来た理由について考えてみて下さい。自らを活性化し、他も活性化させえたのはフィールドワークを失わなかった学問だけです。ディスクワークに頼った学問は沈没しました。そして、ニュー・アカデミズムが90年代に入って力を失っていった要因、それは自らのフィールドワークの場や事象をブランド化してしまったから、と僕は考えています。問題は「フィールドワーク」ではなく、「ブランド化」です。
もし、吉木さんがこの「ブランド」としての「フィールドワーカー」として記さたのであれば、吉木さんは僕のことをどの程度知っておられるのでしょう。よく知った上でのご指摘であれば、どのような点をご指摘されているのか、、、。
僕としては、あの投稿のように、
>僕自身に戒めていることは、
>僕もそのようにあるのかも知れない、という自身への疑いです。
のつもりでいますが、僕も改めて自省してみます。そして、もしよろしければ、具体的にお教え下さい。的はずれな自省ではなく、しかるべき的確な自省ができますので。
それから、僕は吉木さんのことを、ほとんど知りません。知らずにレスするほどリスキーなことはありません。それでお願いがあるのですが、カフェルナやカフェルミにはじめて投稿される場合、最初に自己紹介をするというルールが記されています。ルールといっても緩やかなものですので、拒否されても、それを咎められるものではありませんが、できれば、そのルールを遵守していただき、自己紹介されることを希望します。

>体感がなければということでひとくくりにされてしまうと、
>戦争を体験していない僕らが戦争を非難するのは、あるいは非戦を唱えるのは
>「資格なし!」ってことになってしまう。

とありますが、まず、「体感」の意味を、「体験」あるいは「経験」の意味とはき違えておられないでしょうか。
もしそうだとすれば、現存する場にトリップすることはできても、過去にタイムトリップすることが出来ないことは、知性を発揮せずとも誰にでもわかることです。今回の件は「現存する場」のレベルで話し合ってます。そこに別の階層のレベルを持ち込むのは、議論のための議論になるおそれがありますので、避けられるべきでしょう。僕は「体感」とは「頭ではなく、身体ごと感じること」の意味で用いているつもりです。
もしはき違えておられないとすれば、吉木さんの上記のご発言は「議論が好きで“行動力”と“イマジネーション”に欠落した人」とも受け取られかねません。
吉木さんは、例えば沖縄や広島を訪れたことがあるでしょうか? 戦跡や唯一残ったドーム、移動可能なものやことがらを記憶のために収蔵展示する記念館など。僕も戦争を体験していませんから決して当事者ほどの体感は出来ていないのかもしれませんが、本当のことを知りたいという気持ちで行動すれば、それらを訪れることで、少しは体感できると確信しています。ヨーロッパの人々がホロコーストの事実を伝えるために、アウシュビッツを残したり、世界遺産にしようと熱心なのは、過去にタイムトリップすることは出来ないけれど、それらを残すことで未来の人たちに戦争のことを体感してもらえるという希望を抱いているからにちがいありません。
そして、それらの希望は、体感することで拡がり深められる“イマジネーション”に託すしかないのです。たとえば、広島の記念館に行くと、高熱で溶けて変形したガラス瓶が展示してあります。“行動力”で記念館を訪れてくれても、そのガラス瓶の状態から、どんなことがあったのか、そこはどんな状態だったのかを想像され、できうれば身体が震えてしまうほどの“イマジネーション”がなければ、体感は望めません。たんなるへんてこな造形をしたガラスというだけ。金を払って価値のないものを見せられた、と思われるかもしれません。
しかし、そこを訪れた人たちが書き残していかれたおびただしい数の手記を読むと、僕(たち)を失望させるものではありません。“イマジネーション”の豊かさと深さを確認させられるだけです。

>あなたなら寮美千子に貴重な材料を最短距離で提供できるはずなのに

と書かれた「あなた」とは僕のことでしょうか?
もしそうだとしたら、僕に提供できるものはありませんし、これは僕が答えることではありませんが、寮さんもきっと「最短距離で」提供されることは、決して望んでいないと想像します。

たいへん長くなってしまいましたが、以上です。
推敲が足りないとは思いますが、このまま投稿します。

吉木克実  フィールドワーカーの方誤解しないでください。 2002年06月08日(土)03時44分43秒
覚悟の問題 へのコメント

勇崎さんも似たような意見のようですが、
体感がなければということでひとくくりにされてしまうと、
戦争を体験していない僕らが戦争を非難するのは、あるいは非戦を唱えるのは
「資格なし!」ってことになってしまう。
そして、寮美千子がドキュメンタリ作家でないということを言いたかったのです。
もともとの民話を汚す行為はそれは許されません。
しかし、その根幹を日本語で伝えようとしている寮美千子の手をとることはあっても足は引っ張りたくないというのが僕の気持ちです。

あなたなら寮美千子に貴重な材料を最短距離で提供できるはずなのに、
と、僕は考えています。
僕は寮美千子のファンクラブではありません。
昔から知ってはいますが、熱狂的追っかけでもありません。
ただ作家としての寮美千子によい作品を残してもらいたいと思っているだけです。

先の投稿で攻撃的な表現と感じた箇所もあったかもしれませんが、
あそこまで突っ込むなら、あなたも寮美千子の力になってあげて欲しい。
フィールドワーカーとして作家を利用するという構図でも構わないかもしれませんね。
要はよりよいものが読みたい。
それが本心です。

勇崎哲史  覚悟の問題 2002年06月08日(土)01時47分05秒
▼Review Lunatique:青いナムジル/研究者からのご指摘2 へのコメント

研究者のかたが述べられていることで大切だと感じることは、

>モンゴルの風も、ウマも、体全部で感じたことの無い方に、
>「すばらしいウマ」とか「うつくしい・・」とか言われることに、
>不可解なものを感じます。

というところかと思います。
これは僕も大いに共感するところです。

しかしながら、「自分は体感した」という論法で、
とんでもない勘違いを押しつけてくる不可解を感じたことがままあることも
僕にとっては事実です。

例えば僕がかかわりつづけている沖縄について。

ご自身が沖縄で体感された、という強い立場だけで、
勘違いを押しつけてこられるかたもおられます。
僕自身に戒めていることは、
僕もそのようにあるのかも知れない、という自身への疑いです。

では、体感した確信と自身への疑いというジレンマから
どのように自身を解放するのか。
自身を導きだすのか。

それは「覚悟」です。
僕における、例えば沖縄にかかわる言動は、
すべて自身の「覚悟」の上にだけ成立できます。

寮さんが日誌上に今回のことを公開され、
ここに集う人たちがコメントする場を用意されているのは、
当然ながら、寮さんの作家としての「覚悟」と感じております。

多くの人たちの感想をここに投稿してもらうために、
最初にナムジルを公開されたときに感想をお伝えしたことのなかから
あえて、もういちど書かせてもらいますが、
青いナムジルを創作されることで伝えられるといいなあ(伝えて欲しい)、と思うことは当時の投稿のなかの以下の部分です。

-----------------------
「ベトナム戦争時、モンゴルはベトナムに馬を数百頭送りました。そのなかの一頭がベトナムで行方不明になりましたが、数年後、持ち主のところに疲れ切って帰って来て、そのまま力尽きたというニュースがありました。モンゴルの人々と馬との関係は、単なる家畜とその飼い主ではなく、共に生きる仲間であるということがわかっていただけるでしょう。」
こういったモンゴル特有の文化や心情も絵本のなかでさりげなく感じて貰えるよう伝えられると素晴らしいですね。

青いナムジルを読んで 2002年04月04日(木)22時58分19秒
▼Review Lunatique:青いナムジル/草稿 へのコメント
lumi0003.html#lumi20020404225819
-----------------------

投稿当時は、「さりげなく感じて貰えるよう」と遠慮して書きましたが、ここが決め所だと思います。ここが貫かれていたら、ストーリーが違っていても、根本的な問題ではないし、その違いが現地の人にとって「面白い」と感じさせることだってあります。

僕は写真にかかわる人間ですから、意見を述べられた研究者のかたと同じように、現場に立って、ものごとを考えます。(なぜ現地にいくべきかは、研究者のかたと僕の伝えたいことは、少し違うとは思うのですが、、、)
そういう意味で、僕たちみんなでカンパしてでも寮美千子をモンゴルに送り出したい(註:できれば、寮美千子をダンボールに詰めて、割安に済む宅急便で)と思うほどです。

また、寮さんがモンゴル以降計画されている、環太平洋を巡る物語探しと絵本化のことを考えると、その環太平洋のネイティブの大きな源流はモンゴルにあるわけで、そのような意味でもモンゴルを訪れて体感して欲しい。

ただし、冒頭の繰り返しになりますが、
「自分は体感した」という論法で、
とんでもない勘違いを押しつけてくる不可解を感じたことがままあります。

ですから、
現地にいかれること。
あえて、行かないこと。
その選択は、寮さんの「覚悟」の問題、
としか、いいようがありません。


おまけコーナー
吉木さま>
ネットって闇鍋風釣り堀みたいで、ある言葉がキーワードになって、ときたま思いもかけぬものが釣れるんだよね。「ローリング・ココナツ・レビュー」は、針についた餌じゃないんだけど、けっこう似たようなもの。ほんと、僕も思わぬ人が釣れたし、先日も「伊福部昭」で、びっくりした存在が釣れましたねえ(釣れたなんて、silicaさんや僕には不釣り合いな表現ですが)。

lumi0003.html#lumi20020404225819

吉木克実  ひゃああああ〜〜〜〜〜〜 2002年06月07日(金)22時10分56秒
ローリング・ココナツ・レビュー へのコメント

過去ログ見ててびっくり!!

宇井純さんって公害原論の宇井さんですよね?
そういえば館野のやつも通ってたって言ってたような・・
ちなみに私、純さんの弟の宇井・あれ??名前忘れちゃった・・・「ていじ」だったか「たくじ」だったか、とにかくその宇井先生に定性、定量分析教わってました!!
学校はドロップアウトしちゃったけど(というとかっこよすぎだな、確かにポリシーの問題もあったけど要は学業不振で退学ってことだ)
なつかし〜
ってことは・・・・
あのころはよく渋谷のロック常打ち小屋BYGに通ってました。
あの「通りぬけられます」ってフレーズが今でも頭に残ってます。
ライブのチラシ、予定表の類なんかよくうちの学校で学生会の紙使って(公費の横領!!)刷ってました。
どこかでみんな近いところにいたんだ。
不思議なもんですね。

吉木克実  確かに・・・ 2002年06月07日(金)18時19分45秒
▼Review Lunatique:青いナムジル/研究者からのご指摘2 へのコメント

確かにおっしゃるとおりだと思います。
民話といえばあの、柳田国男氏の遠野物語執筆の際の取材、聞き取り調査を連想します。
私も童話といえ、さしたる検証もなしに書かれることを良しとはしません。
しかし原典どうのという話になりますと、いささかしっくり来ないものを感じます。
作家としての寮美千子がどの程度の調査をしたのかさえ知らないのに、彼女を擁護するわけにも行きませんので、
一般論として考えを述べさせていただきます。
アプローチの方法論ですが、民俗学の観点からとらえれば多数の取材源から正確に
原型なり変遷を探り出す作業は必至でしょう。
そこで疑問。極端な言い方になりますが、どれかが正解ということが有り得るのでしょうか?
作家「寮美千子」は、作家としてのイマジネーションをふくらませ、寮美千子のナムジルを書いています。
原典を示すこと、それら古事、伝承、の類の精査。
もちろん必要でしょう。
しかし、数え切れないほど演じられたシェークスピア劇でさえ解釈は唯一というわけでは
ありません。モンゴルの寓話よりはるかに明確、確実な資料や証言があるのにです。
寮美千子が寮美千子として解釈した結果の童話ならばそれでよいのではないでしょうか。
もちろん、モンゴル人々を傷つけることがあってはならないと思います。
しかし、ここでまた極論。
伊藤博文を暗殺した安重根は、韓民族にとっては英雄ですが、
日本では、単に殺人者として語られます。
これが、単に伊藤博文と安重根二人の物語なら簡単でしょうが、背景はそれを許しません。
ああ、まとまらない!!!!!
しかし一つ言えるのは、あなたは寮美千子よりはるかにモンゴルの民を理解しているのだとは思うが、
あなたがモンゴル人ではないということ。
その「程度の差」を問題にするなら、私にはナンセンスとしか思えない。
また、作家の故意の装飾を認めないというならば、作家の存在そのものが否定されたことになる。
もちろん、寮美千子がいい加減な書き方をしないというのが大前提の話ですけれど、
私は、作品を見てから判断したい。

寮美千子  時空を越えた「なごみ」のカフェ 2002年06月06日(木)23時14分32秒 http://ryomichico.net
そうだったんです。 へのコメント


吉木さん、パルステラさん、みなさま。
ありがとう。
なごみのカフェルナ。すごくすてき。
なごみながらも、真剣に語り合う。
それが大事だと、このごろつくづく思います。
怖い顔して、眉根にしわよせて、それも時には大切だけれど、
そればっかりじゃ、世界はよくならない。
みんなが語りの輪にはいってこられない。
全方位に開かれた、向日性の議論や会話、大歓迎です。
楽しく行こう!
それが世界を美しくするんだ!


それから、カフェルミでは「このスレッド終わり」というのは、
原則としてなしにしようと思っています。
いつまでもだらだら語っていてもいいし、
ずっと昔の化石化した会話を掘り起こして続けてもいい。
「流れ」を大切にする掲示板もあるけれど、
ここではむしろ「時空を越えて、いつでも会話できる」ことを重視したい。
世の中には、考えるべきことがいくらでもあるから、
それをいつも心の片隅にひっかけながら、
ゆるゆると会話をして、考えを深めていきたいと思うのです。
いまのマスコミじゃあ、それができない。
話題は、生鮮食料品のように供給され流されていく。
そうじゃなくて、自分たちの速度で、みんながゆっくりゆるゆる考え続ける。
思い出したようにぽつりぽつりと語る。
そんなカフェにしていきたいと思います。
よろしく。

過去のログを見て、興味あることがあったら、
みなさん遠慮しないで語ってください。
                    カフェルミ店主より

吉木克実  そうだったんです。 2002年06月06日(木)14時29分03秒
こんな・・・・ へのコメント

そう、ここはカフェルナなんです。
このスレッド、流れを少し変えなきゃと思って脱線しました。
寮さんごめんなさい。
許しておくれ!
ってことで、このスレッド終了!!
いつものカフェルナに戻りましょう。
みんな、ありがとさんでした!

パルステラ  こんな・・・・ 2002年06月06日(木)13時29分52秒
そんな・・・・ へのコメント

私でよろしければ。折畳んでコンパクトにお持ち帰り頂けます。

*ワタシハ「A.I.」SG2002型。壁掛ケタイプ。メンテ不要。
ジンルイ ノ ビカ ニ ゴホウシイタシマス。

(ここはカフェルナか?ルミか?ま、いっか。)

吉木克実  そんな・・・・ 2002年06月05日(水)21時03分28秒
あはは・・・ へのコメント

はじめまして、パルステラさん。

とんでもございません!
袋叩きなんてそんな真似しませんって、
袋詰めにしてテイクアウトって手はあるけど。

人類にとって貴重な素材、額に入れて毎日拝みたいくらいです・・・

ははは!!!!!

勇崎哲史  あほほ・・・ 2002年06月05日(水)18時11分09秒
あはは・・・ へのコメント

その通りでございます。
センチメンタル通りのはちみつぱいのお店にて

パルステラ  あはは・・・ 2002年06月05日(水)17時52分26秒
はは・・・ へのコメント



実は、男の"美しき武器"とは「感涙」と「酔った勢い」----だったりして。

(*わ、こりゃ袋叩きだっ!安心できないキャラかしら?ごめん。)
                        

吉木克実  はは・・・ 2002年06月05日(水)14時30分25秒
バキューーン! へのコメント

朝だって言うのにこのお人は・・・
はは・・・

本多さんはいつまでもそのキャラでいてください。
うまく茶化されたとわかりながら安心できるから。
どうも!でした。

本多信介  バキューーン! 2002年06月05日(水)09時22分55秒
僕ももうぐしょぐしょです・・・ チーン!! (失礼!) へのコメント


女の武器には弱ーーい

吉木克実  僕ももうぐしょぐしょです・・・ チーン!! (失礼!) 2002年06月05日(水)05時32分10秒
ながれぼし へのコメント

感動したのは勇崎さんだけじゃないっす。
僕もです。
酔っ払っていようが勢いだろうが、関係ないっすよね?
目玉おやじさんは愚かなんかじゃありません。

武器を捨てろなんて言って攻めてこられたらどうするんだって?
いいじゃないすか、目玉おやじさんみたいな人がたくさん出てくりゃ絶対武器には負けませんって。
何でかわからないほんとの馬鹿はほっときましょうよ。

僕らがおセンチに感動してるって思ってる人たちもほっぽらかしときましょ!

(本多さんも酔っ払ってるときのほうが、素敵だったりするって言ったら失礼か?)

勇崎哲史  ながれぼし 2002年06月05日(水)02時57分05秒
過激な反応を示してしまい、ごめんなさい へのコメント

目玉おやじさま>
なんか、感動してます。
ながれいしが、ながれぼしになった感じ。
あ、見とれてて、願い事しとくの忘れちゃったけど、
そんなけちな考え、この感動の前では、あさましいかもね。

目玉おやじ  過激な反応を示してしまい、ごめんなさい 2002年06月05日(水)02時40分30秒
ごめんね、寮さん、勇崎さん。 へのコメント

武器、それは、人を傷つける道具。

人間には、言葉という万能な道具があるじゃないか。物理的にやっつけるような道具を使うのは
愚かな畜生だけなんだよ。
という、激情に推されて、あのコメントを投稿してしまいました。アルコールの勢いも手伝って…

でも、寮さんを始め、皆さんがフォローして下さり、とても助かりました、ありがとう。
小学生の頃から作文が苦手なのですが、それ以上に、ちょっとした事に過剰に反応してしまう自分が怖い。

「武器を使うのは馬鹿だけだ」という言葉の根底には、今まさに問題となっているイスラム系の紛争や、インド・
パキスタンなどのいざこざ、そんな「くだらないぶつかり合い」を非難する気分があって、そんな過激な表現を
してしまった自分が愚かに見えます。

喧嘩を売ったのに、それをカッコ良く受け流して下さり、ありがとう御座います。

勇崎哲史  飾らない感受性 2002年06月04日(火)22時18分55秒
ごめんね、寮さん、勇崎さん。 へのコメント

僕は吉木さんのように、ごまかしたり、飾ったりしない感受性を持っている人が好きです。
僕も、そうありたい。

吉木克実  ごめんね、寮さん、勇崎さん。 2002年06月04日(火)21時16分06秒
美しい武器 へのコメント

>>僕は信ずるもののために武器を取ることはためらわない。

>僕は、何のためであっても、ずぇった〜いに、武器を取らない。

目玉おやじさん、反論はしません。また、綺麗事、理想論と切り捨ててもいません。
僕は素直に、「うん」と納得するだけです。

>吉木さん「人殺しの武器はいやだ、美しい武器を持ちたい」っていってるんだよね。
>でしょう?

ごめんね。僕が武器といって想起するのは、言葉、行動もちろんそれもあるけど、あの文脈の中では、目玉おやじさんのいうばかだけが使う道具の意味。
僕も昔目玉おやじさんみたいに思ってた、というより自分はそう行動すると信じて疑わなかった。
でも、突然目の前の第三者に振って沸いた災難に無意識に反応して素手以外で相手に殴りかかったことがある。
ずいぶん昔の話だけどね。
その直後、当時僕が「敵」と思っていた連中に袋叩きにされた。
袋叩きにされながら、その連中を恨むより、自分がそういう行動をとる人間なんだってことを認識してしまったのさ。
今でも袋叩きにした連中を恨んだりしちゃいない。
それが仕事なんだから仕方ないとおもうだけ。
だからいまでもきっと、例えば罪のない子供に対して誰かが今まさに殺意を持ってナイフを振り下ろしつつある現場に出くわしたとしたら、僕は自分の体を盾にするとは思えない。
だって僕を刺してその次の一撃はまた子供に向かうかもしれない。
それと、
僕には絶対に自分自身が殺意を持たないという自信はない。
だから僕が持とうとするであろう武器を「不快」といったのさ。
寮さん勇崎さんごめんね、せっかくうまくまとめてくれたのにね。

最後に
でもね、目玉おやじさん、一つだけ言わせて。
僕は、目玉おやじさんは絶対正しいと思ってる。
素直に、心の底からね。

勇崎哲史  ながれいし 2002年06月04日(火)12時16分44秒
言葉に、文字にならないもの へのコメント

信介どん>wrote

>人類に憲法やら、法律やらがなくなりますように

いつもながら真摯で人智を究めたご投稿。
ながれいし(流石)!。
その通り!

ところで僕的タイトルでは「イルカバレー&サーカス楽団 with 寮美千子」の映像拝
見完了(拝見は2度目だよん)。
夢のように美しい!

吉木さん&目玉おやじさん>へ
吉木さんの心の広がり方には、すごいなあと感じるし、素直に共感できます。
等身大の怒り、死にたくない、という当然のセンス。
ところが、そのセンスが、他者を殺めたくないことへの感情へとつながっていく広が
り。素直さ。
そして、なによりも目玉おやじさんをここに呼び出す力。
吉木さんと目玉おやじさんが心の一番大事なところで叫んでいることって、とてもい
っしょだって、僕には感じるんだけどな。

寮美千子  美しい武器 2002年06月04日(火)02時23分58秒 http://ryomichico.net
武器は馬鹿だけが使う道具だ へのコメント


人殺しの道具だけが武器じゃない。
詩も武器になる。
音楽だって武器になる。
一枚の絵も武器になる。
野に咲く花や、幼子の微笑みさえも。
かけがえがない、傷つけたくない、失ってはいけない、
あらゆる人に自然とそう思わせるすべてのもの。
すべての人に、醜い武器を放棄させるような美しい武器がある。
傷つけることではなく、深く世界を癒すやさしさ。
そんな武器を持ちたい。
そんな武器でありたい。


吉木さん「人殺しの武器はいやだ、美しい武器を持ちたい」っていってるんだよね。
でしょう?
目玉おやじさんも、きっとそうだよね。

目玉おやじ  武器は馬鹿だけが使う道具だ 2002年06月04日(火)02時09分00秒
テロルと聖戦?専守防衛?なんじゃそりゃ! へのコメント

>僕は信ずるもののために武器を取ることはためらわない。

僕は、何のためであっても、ずぇった〜いに、武器を取らない。

寮美千子  千代に八千代に三千世界 2002年06月03日(月)14時21分23秒 http://ryomichico.net
本多さん!! 申し訳ありません。 m(_ _)m へのコメント

そういえば、わたしもよく名前を間違えられます。
いちばん多いのが「三千子」。
千の字から「三千世界」にひっぱられるんだろうなあ。
次が「美千代」。
これは千の字が下に影響しちゃったケースで「千」とくれば当然「千代」との連想か?

ということはつまり、わたしの名前の中でいちばん印象深い字は「千」ということに。
わたし自身は「美」の字の印象が強いのですが、不思議なものです。

というわけで、愛があれば字なんかどうでもいいんだけれど、
やっぱり間違えないほうがうれしいです。
因みに、わたしの名前は「美千子」です。

吉木克実  本多さん!! 申し訳ありません。 m(_ _)m 2002年06月02日(日)18時01分33秒
なぬ?@ へのコメント

ここのところ連日フルハウスで飲んでからPCに向かう習慣がついてしまっていたもので、つい変換ミスを見逃してしまいました。
いやはや、申し訳ない。
本田さんっていうギター屋さんも実在するんで、まあ、その彼ってことにしてもらって、今回はすんませんでしたってことで許しておくんなまし。

憲法にしろ法律にしろ理念と便宜的な妥協を明文化したものとする説に賛成!!
要はそんなもんがなくたっていいように「我々がなればいい」ってことでしょ。
それが理想論だってことは十分承知してるけど、根っこはそういうことじゃないのかなあ。

寮美千子  イルカには憲法もお金もない 2002年06月02日(日)00時32分23秒 http://ryomichico.net
言葉に、文字にならないもの へのコメント

▼必要悪としての憲法

吉木さん、お久しぶり。怒ってるね。同感です。まったく、怒って然るべきだと思います。みんながイルカみたいになれればいいのに。

>人類に憲法やら、法律やらがなくなりますように by 信介さん

「法律も憲法も、みんな必要悪」と、某憲法学者も言っていました。
「すべての人間に徳があれば、そんなもの必要ない」のだとも。
憲法学者は、憲法については、次のように解説してくださいました。
社会を統治していくためには国家が必要ですが、必ず権力者は暴走するから、それを防ぐためにどんな国家機関を創設し、それらは何をするのか(何をしてはいけないのか)を憲法で定めたのです。だから英語で憲法のことをconstitution(構造、組織)というのです。

なーるほどね(北海道イントネーションで)。つまり、権力者である国家の暴走を防いで、国家を善導するためにあるんだ、憲法は。さらにいえば、国家を縛るためにあるんだ。その憲法を無視して、いまの日本の国家は好き放題に暴走しているよなあ。

信介さんのいうように、人類に憲法やら法律やらがなくなっても、お馬鹿が権力を振り回さない世の中が到来しますように! と願わずにはいられない。

▼必要悪としてのお金

そして、わたしはまたお金も「必要悪」じゃないかなあと、このごろ特に思うようになりました。気持ちよく暮らせること、喜びに満ちた人生を送れること、それがいちばん大切。お金はそれを実現する道具のひとつではあるけれど、じゃあ、お金だけあればしあわせになれるかっていったら、それは絶対にない。断言できる。(などと胸を張っても、それほどお金があった試しはないけれど……)。反面、お金がなくても、結構しあわせになれる人はいる。わたしがそうだ。でも、飢え死にするくらいお金がないと、やっぱりしあわせとかいってる場合じゃなくなるから、暮らしに不自由しない程度のお金は必要。つまり、お金は、必要悪のひとつでしかない、と思うのです。

ところが、所詮道具でしかないお金のために、とんでもないことをしでかす奴もいる。例えば、ミサイルの不良在庫を処分するために、罪もない砂漠の民のうえにドカドカとミサイルを落としまくるどっかの大統領とか。それで買えると思っている「しあわせ」とは、いったいなんなんだろう?

人類に憲法やら、法律やら、お金やら、国境やら、死刑やら、戦争やらがなくなりますように!!!! そのためには、どうしたらいいんだろう? イルカになるしかないのかな。どうしたら、人は人のままで、イルカのように生きられるだろう?

本多信介  なぬ?@ 2002年06月01日(土)19時26分54秒
言葉に、文字にならないもの へのコメント

こいつはあほや、酔っぱらいダー

おれだーー

本多信介  言葉に、文字にならないもの 2002年06月01日(土)19時08分03秒
テロルと聖戦?専守防衛?なんじゃそりゃ! へのコメント


人類に憲法やら、法律やらがなくなりますように


吉木克実  テロルと聖戦?専守防衛?なんじゃそりゃ! 2002年06月01日(土)04時42分15秒

そんなもの、どれだって同じだ。
僕は信ずるもののために武器を取ることはためらわない。
しかし、その武器が紛れもなく人の命を奪うものであることは不快そのもの。
それだけのこと。
僕は命を奪うとするならば、せめてその命を奪ってなお守るべきと思えるもののためにだけ罪を背負いたい。
僕はガンジーにはなれない。
目の前(あるいは五感の届かぬところで)で奪われようとする命を他の命をそれに代えることで決着をつけようとする。
しかもそれは更なる連鎖を生む。結果、終焉ははるかなものとなる。

そんな僕でも、押し付けられたものであっても9条は大好きだ。
自虐的といわれようと、先の大戦の反省は決し間違っていない。
戦争の結果として得られるのはせいぜいどちらか側の勝利(そしてそれは正義の勝利とは限らない)
と、経済環境の劇的変化、まあそれと、人口増加の一時的抑止ぐらいなものだろう。何でそんなものに大金を注ぐかね。
納得できない殺人(納得できる殺人があるとしての話だが)を強制されるなら論ゲバを挑んであっけなく殺される方を選びたいね。できることなら。
国民を外国の武力侵略から守る?どうやって?
世界最強しかも絶対無敵の武装国家になるか、国土自体はあっさり明け渡し、進駐させた上で局地ゲリラを挑むしかないじゃないの。どう考えたって。
つまり、銭か屍のどちらかをどのくらい積み上げたところで手を打つかってことでしかないわけでしょ。どちらを選ぶの?って。
あ〜ばかばかしい。さっきも書いたけど、どうせ正義が勝つとは限らないんだからいっそのことじゃんけんできめれば?
大して変わらんと思うけどなあ。
本田さんのギターを聴いたり寮美千子のリーディング聴いてわかったような気になってるほうがずっとずっと価値あるんじゃない?
まだ先があるわけだし。
あ〜ねみい・・・長々書いてごめんなさい。
ねよっと。
みなさんおやすみなさい。

勇崎哲史  法案ごっこ  2002年05月27日(月)18時13分45秒
「自前」は「男前」! へのコメント

  
DORONKOさま>

かつて、某・寮さん(これではすでに某ではなくなった)から、僕の投稿は直感的な飛躍が大きすぎて理解されないことがある、とのご指摘をいただき、なるほど、と思い肝に命ずることにいたしました。
ところがぎっちょん。
先般、「被災国医療援助法」とか「国際教育機会創造法」とか、、
などと書きましたが、これは僕が勝手にでっちあげたものでして、その説明をはしょっておりました。ただ、架空の法案であることさえ理解されれば、読んで字のごとしなので、あえて説明も不要かと思いますが、一応しるしておきます。

●被災国医療援助法:海外で災害や疫病が発生したら、すぐに医療団(医師・看護婦・技師・救急ヘリ病院(ヘリコプター機内が病院施設になっている)・薬剤師・救助隊・カウンセラー・通訳など)の派遣と医療物資を輸送し、人命救助に貢献するための法律。

●国際教育機会創造法:教育機会に恵まれない国や地域に、当地の文化(=価値観)を尊重することを大前提とし、教育費、教材、施設などを援助する法律。また、日本国内には、世界民族・地域文化研究機関を設立し、我々の文化を押しつける教育ではなく、彼の地に相応しい適切な援助を行えるよう努める。

この他、でっちあげるとすれば、、、

●世界飢餓地域撲滅法:飢餓地域への食料援助や農業技術援助(人的派遣や農業資材援助や干ばつ対応テクノロジーなど)を行い、世界から飢餓地域を撲滅する使命を果たす法律。一方、国内では、減反政策をあらため、海外の飢餓地域への食料援助のための米の備蓄を行う。

●井戸掘隊法:アフガニスタンなどに井戸を掘りたい人を派遣する法律。

●国際芸能団派遣法:芸能団などが、紛争などに疲れた人たちを励ましに行く法律。

法制化するためのテーマ&コンセプトは、
日本国憲法の理念を実現するものであることを大前提に、
1.その行為が、紛争や国際的な遺恨(=テロと呼ばれてる行為)の火種を絶つことに役立つかどうか。
2.相手の文化を尊重しているかどうか。

ほんとうのテロ対策というのは、こういうことだと思うんだけどね。
個人的には、冗談みたいな、笑える法律がいいと思っています。
笑ってもらえると、愛されると思うし。
たとえば、「飢餓地域の子供たちにおまけつきグリコを贈る特別措置法」とか、「紛争地域における人気アニメ野外上映活動隊派遣法」とか、とまでいくと、笑いを超えてヒンシュクを買ってしまうか、、、。

あと、戦車や装甲車なんかのパレードって、どっかであるけど、「9条パレードの日」みたいなのつくって、僕のでっちあげた法律に関係する人たち、たとえば、あの有名なヘリ「アパッチ」にぴかちゅーのキャラでグラフィックされた空飛ぶ病院、病室仕立ての装甲車のなかから手をふるきれいなおねえさん(看護婦さん)やおにいちゃん(看護士さん)とかがパレードすると、子供たちもそんな仕事に憧れれちゃうよね。パレードのユニフォームつくるとしたら、迷彩色じゃなくて漫彩色といって、どらえもんブルーとピカチューいえろーのキャラ満載がいいね。

税金で武器や兵器を買うより、上記のようなことがらに税金を使ってくれたら、納税者としても納得するだろうし、少しは日本人(僕ら)も、世界から愛されるとおもうんだけどね。

笑える法案ありましたら、みなさんもこの「法案ごっこ」の列に加わって下さいな。

DORONKO  「自前」は「男前」! 2002年05月27日(月)01時46分16秒
「有事法」から「無事法」へ へのコメント


勇崎さんからの提案に、心からの喝采を送ります。
(きっと寮さんも賛成してくれるでしょう!)

有事法をめぐっての先のぼくの書き込みは、いかにも消化不足な
ものでした。
でも、勇崎さんのような提案の仕方なら、「ウン。これなら
わかってもらえるかな?」と思えてきます。

細かなことをいえば、有事法制が一番ダイレクトに関係するのが
憲法第9条であることはもちろんですが、今、国会で審議されている
有事3法案の問題は、第9条だけの問題ではなく、憲法の「精神」が
集約されている「前文」や、さらには、そもそも憲法や法律というものに
意義を認める「法治主義」という考え方そのものまでも否定する内容に
なっている点がとても重大で、このことだけを考えてみても、
この法案を国会に上程した小泉首相を始めとする現内閣の閣僚は、
全員がすでに「犯罪者」であると言わねばならないと、ぼくは
思っています。
(勇崎さんが憲法第9条を示してくださったのは、とてもよいこと
 だと思いますが。)

勇崎さんの「素顔の雪」の“行間の想い”を、まさしく今、みんなで
共有できればなあと思います。きっと勇崎さんは、「自前」であるとは
どんなことなのかを、身をもって示してくれたのですね。
やっぱり、われらの兄貴は「男前」だなあ!と思います。
(ぼくは決して、「男の方が女よりエライんだ」なんて考えて
 いるわけじゃありませんが――。)

なお、「軍隊をすてた国コスタリカ」については、「週刊金曜日」の
4/26号にも記事が載っていますが、webでは以下の記事でおおよその
ことを知ることができます。


http://www.asahi.com/column/aic/Wed/sunayama.html

勇崎哲史  有事ではなく無事 2002年05月26日(日)01時46分44秒
「有事法」から「無事法」へ へのコメント

  
じつは、これも僕の古いコラムをもうひとつ投稿いたします。以前の“所有”同様、行間に想いを詰めすぎているコラムです。
このコラム以前に、北海道ではスパイクタイヤがアスファルトをひと冬で10cm以上も削り、削られたその微塵なミクロレベルの粉を、車粉(しゃふん)といい、その車粉公害に悩まされていました。しかも雪はいつも車粉で汚れていました。
車粉は、その重量から、道路に近い低いところに蔓延することから、身長の足りない子供たちや、犬などのコンパニオン・アニマルの肺にことさら吸引されることも、札幌市民の杞憂でもありました。
札幌市民は、そのスパイクを脱ぎ捨て、運転する上ではリスクを伴うスタッドレス・タイヤに履き替えました。それで車粉はなくなり、素顔の雪が札幌に戻ってきました。
このコラムを書いた当時、日本人留学生が訪問先の玄関において拳銃で射殺されるという事件があり、そういったことを背景にしながら、アメリカ合衆国内では、それぞれが所持している銃を捨てる、というムーブメントがおこりはじめました。
有事ではなく無事、というのはこういうことだと思うのです。“「有事法」から「無事法」へ”に呼応すると思われる僕の古いコラムから以下転載させていただきます。

---------------------------------------------
素顔の雪
勇崎哲史

 白い雪が帰ってきた。車粉を産み、空気や雪を屍(しかばね)のようにしたスパイクタイヤを脱ぎ捨てた僕たちは、清楚で表情の豊かな素顔の雪と再会した。
 街路樹に戯れて純白の花を咲かせる雪。細い電線に居座った軽業師のような雪。近道を教えてくれる、子供の足跡で固められた雪。とうせんぼをする雪。踊る雪。笑う雪。
 空から舞い降りる、雪という名の自然は、コンクリートの街の中に忘れかけた天然の光景をつくり出す。
 空気中の粉塵量を示す電光掲示板を横目に、公園に集い、スパイクタイヤのピンを抜いていた、かつての僕たち。その姿とどこか似たようなニュースが海の向こうから届いた。
 時々刻々と増加し、電光掲示板に表示される銃弾犠牲者の数。そのボードを見つめ、銃を捨てに、たくさんの市民が集まってくる。みんなが身を守るつもりで銃を持つ限り、実は、いつも危険と隣合わせ、決して家族や自身は守られないという現実を知りはじめた。
 人は自然への敬虔や一度得てしまった便利さを捨て去ることを後退と思ってきた。でも、それらがいのちや地球にとって、必ずしも良いものばかりではないことに気づきはじめている。
 未来のために、刹那な便利さを捨てられる勇気をこれからも試されてゆくだろう。その試練を乗り越える人の心と知恵は、きっと、素顔の雪のように、豊かで美しい。
<1994年2月7日 北海道新聞朝刊掲載>

勇崎哲史  あわでんぼーのぼく 2002年05月26日(日)01時05分44秒
「有事法」から「無事法」へ へのコメント

いやはや、とうこうしたものの、アクセスの方法について、全く抜けていました。

星川 淳氏(作家・翻訳家/屋久島環境政策研究所)
stariver@ruby.ocn.ne.jp
ウェブ連載「屋久島インナーネット・ワーク」月刊更新中
 →http://www.hotwired.co.jp/ecowire/

参考サイト
『非戦』坂本龍一+sustainability for peace 監修(幻冬舎)
『非戦』公式サイト→http://sustainabilityforpeace.org/
パレスチナ子どものキャンペーン→http://plaza17.mbn.or.jp/‾CCP/
広河隆一通信 from パレスチナ→http://www.hiropress.net/
アフガン難民支援→http://www1.mesh.ne.jp/‾peshawar/
ユージホーセーって何?→http://www.nowar.jp/

以上です。

勇崎哲史  「有事法」から「無事法」へ 2002年05月26日(日)00時35分27秒

  
またまたマッチポンプな投稿です。
過日、“「ミリタリー」から「ボランタリー」へ”と題して投稿しましたが、
cafe0010.html#cafe20020519041602
その趣旨とほとんど同様の声明(チェーンメール)が友人から送られてきましたので、ここにご紹介させてください。この声明は星川淳さん、田中優さん、江坂健さん、枝廣淳子さん、そして僕が敬愛してやまない宮内勝典さんらによるものです。

このメールの本BBSへの転載にあたり、寮さんの許諾を得ようと、ご出演終了後を見計らって、会場の赤坂商店に電話したのですが、その番号は仮設電話だったようで、既にはずされていて、連絡をとることが叶いませんでした。お戻りになるであろう、吹田のTさん宅に深夜に、とも思いましたが、それは失礼とも思い断念しました。
でも、ことは緊急ですし、多くの人がBBSを開いてくれるであろう明日の日曜日を逃したくなくて、寮さんには無許可で投稿いたします。
ここに転載するのは、この内容をみなさんに押しつけようということではありません。僕と同じ事を考えて、しかも行動をとられている方々がおられることがうれしくて、ついご紹介するしだいです。僕も呼びかけることを表明させていただきました。もし、共感いただけ、表明を共にしていただけることがあるとすれば、なによりも歓喜の至りです。

[転送歓迎]---------------------------------------

●有事法案ではなく無事法案を!

私たちは有事法案(有事法制三法案)を認めません。

日本国憲法前文と第九条は戦後日本が世界と結んだ一番重い約束でした。
戦争の反省から日本国民が政府にはめたタガでした。
(前文に「日本国民は…政府の行為によって二度と戦争の惨禍が起こることのないように…この憲法を確定する」とあるのはそういう意味です。)

二度と軍隊をもたず、戦争をしない。
国際紛争を非軍事的な手段で解決する――
そう宣言した国に軍事発動で備える「有事」はないはずです。
日本国憲法は平和的手段で「有事」を「無事」にする方針を定めています。

ところが、私たちはまだ第九条を本気で実践したことがありません。
国全体で体系的な“地球無事化”の努力をしたことがありません。
中米コスタリカのように非武装平和を実行する自信がなかったのです。

怖れを武力で覆い隠す安易な道に引き返すか
第九条を実践する勇気をもつか――
有事法案はそれを問いかけています。

第九条の実践には、パレスチナで「人間の楯」となったNGOのような
地球市民による積極的・予防的な平和創出活動も含まれるでしょう。
仮にそれをPeace Making Operation(PMO)と呼べば
そうした備えこそが人類共通の憂いをなくすのではないでしょうか。

私たちは武力に頼らない平和維持・構築の努力を呼びかけます。
アジアと世界に平和をもたらす道は武力ではありません。
武器ではなく一人ひとりの体と頭を使い
世界の人びとと汗や涙を流すこと――。

いま、世界中で武力攻撃に出る可能性が一番高いのは米軍です。
アメリカの軍事行動が引き起こす「有事」に備えるのではなく
あらためて平和憲法を生かす「無事」の道へ踏み出しましょう!

日本の国民と政府が取り組める非軍事平和創出活動(J-PMO)は
食料援助から教育支援や緊急医療・人道介入までたくさんあります。
防衛予算をそうした「人間の安全保障」にまわしましょう!

私たちは以上のような考え方にもとづいて
内閣総理大臣に有事法案の廃案を求めるとともに
国会には世界に先がけたPMO「無事法案」の策定を要請します。


[呼びかけ人]
星川 淳(作家・翻訳家)○
田中 優(日本国際ボランティアセンター理事)○
江坂 健(Hotwired Japan)○
宮内勝典(作家)○
枝廣淳子(会議通訳者・環境ジャーナリスト)○
小林一朗(環境・サイエンスライター/CHANCE!東京)○
坂本龍一(音楽家)○
金澤 尚(流木アーチスト)○
辻 淳夫(藤前干潟を守る会)○
岩熊幸男(中池見湿地トラスト)○
きくちゆみ(グローバルピースキャンペーン)○
森田 玄(ハーモニクスライフセンター)○
森沢典子○
前田幸浩(樹木医)○
寺尾光身(名古屋工業大学元教員)○
小川美沙子(無所属草の根・鹿児島市議)○
天津正剛(宇城エスペラント会)○
山田和尚(OPEN Japan、グローバルピースキャンペーン日本事務局)○
今村和宏(グローバルピースキャンペーン)○
志葉 玲(フリーランスジャーナリスト)○
山下正行(陶芸家)○
渡瀬釉子(主婦・母親)○
石堂頼子(教員)○
坂野正明(天文学者)○
早川千晶(作家、ケニア在住)○
熊谷伸一郎(季刊『中帰連』編集委員)○
吉田悟郎(比較史・比較歴史教育研究会)○
寺田光雄(埼玉大学名誉教授)○
寺田稔子○
増本 亨(佐賀県議会議員)○
斉藤睦男(弁護士)○
中村大真(電算技術職)○
林  幸 ○
打越さく良(弁護士)○
村木一郎(弁護士)○
木村真実(弁護士)○
今泉亜希子(弁護士)○
白岩佳子(つみほろ星)○
植松晃岳(野生生物資料情報室)○
大木 晃(国家公務員)○
渡辺さと子(香川県議)○
星川まり(自営)○
鎌田東二(宗教哲学者)○
田中久美子(会社員)○
勇崎哲史(プランナー/写真家)○
--------------------------------
[以下、集計のため番号順に連名をどうぞ。「呼びかけ人」として名前と肩
書きの公表を認める方は右側に○印をつけてください。]
1.
2.
3.
4.
5.
6.
7.
8.
9.
10.

◎転送は自由ですが、チェーンメール化を避けるために、転送で受け取って自分
で10人に達した方は、連名部分を stariver@ruby.ocn.ne.jp まで送り返してく
ださい。10人以下で送り返していただくのも歓迎です。また、自分が集約係となっ
てとりまとめていただく場合は連名の上限を設けません(連名リストを送り返す
とき合計人数を書き添えてください)。法案成立前の適切な時期に集約して、内
閣総理大臣と衆参両院議長に提出します。連名受け付けは法案廃案か成立の時点
までとします。

◎このような方法をとるため、連名者全員に結果を報告することはできませんが、
最初に声明を流す経路に沿って適宜レポートするつもりです。名前と肩書きのあ
とに○印をつけた方(呼びかけ人)については、必要に応じて上記声明文ととも
に公表する場合があります。また、声明文の引用・転載などを希望する方は連絡
ください。


日本国憲法第九条

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動
たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段として
は、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国
の交戦権はこれを認めない。

[転送終わり]-------------------------------------

松永洋介  記憶の彼方から、あの言葉を呼び戻す 2002年05月24日(金)22時39分26秒 http://www.ceres.dti.ne.jp/‾ysk/

掲示板に検索機能をつけてみました。

この掲示板プログラムに元から備わっている機能なのですが、いろいろありすぎると鬱陶しいかと思って、いままで隠してあったのです。

ためしに「ゴジラ」で検索してみましょう。
⇒「ゴジラ」で検索(結果を「日付順」で「名前と題名のみ」表示)

新カフェルナでの「ゴジラ」という語の初出は、以下のところだったとわかりました。
読み返してみると、目玉おやじさんの提案に、べらべらとおしゃべりしすぎました。
ここは寮さんのお部屋でした。いつか誰かが言ってたように、放浪をやめて、やはり自分のBBSを持つべきなのでしょうね。
でも、当分持てないでしょうね。生来の放浪癖はなかなかぬけない。
でも構想はあるんですよね。「ゴジラ対太陽の塔」っていうんですけどね。岡本太郎と作曲家・伊福部昭について、その共通性について研究しあう、ってやつですが、ほとんど誰も乗ってこないでしょうね。
これが10月19日の勇崎さんの投稿。なるほど、だいぶ前から構想があったんですねえ。すみません、この発言、あんまり気に留めてませんでした。(ちなみにシークレット「ゴジラ対太陽の塔」掲示板の最初の書込みは11月26日。)

ほかにもいろいろ試してみましたが、けっこういい感じです。
いつ誰が言ってたんだか忘れちゃった話題へも、わりとすぐに到達できます。
掲示板に集うみなさまの、思考結果の共有と利用にお役立てください。

寮美千子  リトさんの消息 2002年05月24日(金)02時44分04秒 http://ryomichico.net
こちらでははじめまして へのコメント

伊福部昭米寿記念コンサートの直後、しばらく行方不明になったリトさん。
感動のあまり、トイレで嗚咽していた、という説と、
トイレまで行く着くこともできず、座席で腰を抜かしていた、という説があります。
コンサートホールの天井、シャンデリア近くで天使の羽根をつけて浮かんでいたという怪情報も。
きっと、天にも昇る気持ちだったのでしょう。ほんと。

リト  こちらでははじめまして 2002年05月24日(金)01時57分03秒 http://rito.2.hotspace.jp/
空白の時間 へのコメント

こんにちわ。30歳の自営業で松永さんと特撮談義すればたぶん朝まで話せるリト(北海道)ともうします。好きな作家は寮美千子、夢野久作、木部与巴仁、久生十蘭、好きな映画人は本多猪四郎、円谷英二、川島雄三、チャップリン、ヒッチコック、好きな音楽家は伊福部昭とジョン・レノンとアニー・ハズラム(ルネッサンス)と早川義夫です。

ということで明日、1日かけて5/19伊福部昭米寿記念コンサートのこと書きます。拙い文ですが、目を通していただけたら幸いです。ちなみに「行方不明」の時間、記憶がありません。明日、全力で思い出します(トイレにはいってないと思いますがぁ〜。でも記憶なし)。


勇崎哲史  空白の時間 2002年05月24日(金)01時03分48秒
うるさい、だけじゃないコンサート へのコメント

自分で自分の投稿にコメントする、この自虐的マッチポンプ状態(某国の首相さま。ジギャクテキとはこのようなことをいうのであり、あのように意固地にされているご自身こそくだらなジギャクテキなのです)をなんとしようか。
リトくん。
キミは演奏が終わってすぐに、しばらく行方不明になりましたね。
「どっかで、一人隠れて泣いてんだよ」と一同、噂しておりましたが、さてはて、その実態は如何に。
その空白の時間について、セルフ・レポートいただけたら幸いです。

勇崎哲史  うるさい、だけじゃないコンサート 2002年05月23日(木)00時46分39秒
ウルサイお願い。 へのコメント

  
DORONKOさま>

清水氏と僕とをゴジラ対メカゴジラにしたてて、カフェ・ルナ対決でこの板を盛り上げようとされたもくろみ。あるいは、僕が作家I氏との公開往復書簡に応じるためのトレーニングで投稿量を増やしている、と聞き及んで、星一徹の心で、論理性に欠ける僕を鍛えようとしてくれたんですね。あんがとね。
ところが、キュートな美人先生みたいな主宰者にはばまれてしまったようですねえ。
男子生徒たるもの、やっぱ、きれいな姉さん先生に言われちゃうと、弱いよねん。
さあ、次の話題どうしよか。
話題を消費してきたのではなく、そこから創造してきたのですよね。そういういみでの次の話題だ。
ちょっと、内輪的だけど、先日の伊福部昭のコンサートのことにしよか。
あそこにいたのは、DORONKO、リトラリア、グレン、洋介、きれいな姉さん先生、そして僕、の6人だったけどさ。
じゃ、最初の曲「土俗的三連画」。僕はいつもCDでしか聞いてなくて、ライブ初めてだったんだけど、14人の演奏者=14の楽器が、あんなに繊細に仕組まれているとは思わなかったよ。CDでは、力強い生命力(だけ)を感じてたけど、いライブではそれだけじゃな楽しげな繊細さに感動しちゃいました。
この曲のライナーノートの紹介はリトラリア氏にお願いしますね。(おいおい、リトラリアくん、眠ってる場合じゃないでしょ。起きてるかい。)
とりあえず、あの会場にいた6人で、協奏しあいましょ。
そして、“持ち前”から探る「有事法」については引き続き審議継続、ってことでね。

寮美千子  否定的ではなく前向きに語り合おう 2002年05月21日(火)22時25分56秒 http://ryomichico.net


「ウルサイお願い。」に
「うるさいっ! ひっこめドロンコ!」
と(眼は怒っているものの)笑顔で一喝したいところですが、
飲み会なら、それでなごやかに意志疎通できるものの、
ここは文字だけが頼りの掲示板ゆえ、顔も見えず、表情も伝えられないので、
そうもいかないのが泣きどころです。


それにしても、最近のカフェルミは雰囲気が悪い。
どうしてこうなっちゃったんだろう?
店主であるわたしが、うまく雰囲気作りできなかった
ということがいちばんの原因だといたく反省します。
みなさん、ごめんなさい。


さて、このワルーい空気を、ナゴヤカーな空気に変えるには、
一体、どうしたらいいのか?
頬をピクピクひきつらせながらも、
一生懸命笑顔をつくりながら、わたしも考えました。


この掲示板を作ったときのわたしの願いは何だったのか?
みんなが、世界や地球や人類の今後について真摯に、
そしてなごやかに語り合い、考える場にしたい。
遠いところを見据えながら、けれど、遠い理想を語り合うだけでなく、
それを現実につなげるためにはどうしたらいいのか、
それを、みんなといっしょに、ゆっくりゆっくりとさぐっていきたい。
それが、わたしの願いでした。
「新生カフェルミ宣言」参照


911以後、わたしは痛切に感じたことがあります。
いままでは、政治にコミットする人と、そうでない人が、
くっきりと分かれていました。
コミットしない人が、きっと90パーセント以上。
いや、それ以上かもしれない。
残りの少数派が、必死で声を張りあげる。
でも、それじゃ世界はよくならない。
ほんとうは、みんなが自分の頭で考えなくちゃいけないし、
自分で何かを選ばなければいけない。


正面切って政治にコミットしていない90パーセントの人のなかにも、
なんかヘンだなあと思ったり、人類の行く末に不安を感じたり、
漠然と生きにくいと思っている人はとても多いはずです。
「無関心右翼」も多いけれど、「声なき左翼」もかなりの数いると思うのです。
けれど、現実の政治は、なんだか難しそうだし、
知らない用語もばんばん出てくる。
それを訊くことさえ気後れしてしまうので、
政治のことを語っているところに入れない。
だから、語らない。
だから、声にならない。
そういうことが、きっととても多いと思う。


わたしも含めて、そのような人々が、気後れしないで声をあげられるような
そんな掲示板であったらなあという気持ちが、わたしのなかにはあります。
もちろん、そこに専門家や学者や研究者がいてもいい。
むしろ、いてほしい。
素人が、なにかとんでもない勘違いをしたり、わからないことがあったりした時、
すっきりとその本質を教えてくれるのは、例えば清水さんのような専門家です。


「それでは、充分な議論がつくせない」
と専門家は思うかもしれません。
確かにそうです。
用語さえきちんと理解していない人々、
マルクス主義と資本主義の歴史について無知な人々、
そういう人々を相手に、いきなり本格の議論はできない。
その意味においては、カフェルナ主催者であるわたしもまた、
本格の議論ができないひとりです。
主催者からしてそうなのだから、
この掲示板に、そのような本格議論を求めるのは、実際のところ無理です。
もし、そういった議論を求めたいのであれば、
研究者や専門家、そして知識がある人々が語り合う掲示板を見つけるか、
専門家が集う掲示板を自分でつくるしかない。


しかし、ここで考えるべきことがあると思う。
もし、専門家が語り合う掲示板、というものがあったとして、
そこで考えが深められるのはとてもいいことだけれど、
そこにだけ自足していたら、一般の人には、その考えは伝わらない、ということです。
その言葉を咀嚼し、やさしく語り直し、みんなに知ってもらわなければ、
それは「力」になっていかない。


いま、この掲示板で「有事法制」のことが話題になっています。
有事法制を成立させないためには、どうしたらいいのか?
有事法制なんてとんでもない、という世論を盛りあげなくてはいけない。
それにはどうしたらいいのか。
それが本当はどんなものであるのか、それを啓蒙することが第一。
法律の言葉を、日常の言葉に置き換えて、わかりやすく解説することが必要です。
そして、みんなが、自分のレベルで、自分の言葉で、
のびのびと語り合うことのできる空間が必要です。
カフェルナは、そのような場として機能したい。
わたしはそう願っています。


いろんなレベルの人がいる。文章を書くのが上手な人も、そうでない人もいる。
でも、みんなが前向きに「何かを語ろうとしている」
そのことを汲みとって、より前向きなやりとりをすることが大切だと思います。


清水さんが「飲み会での議論」に疑問を呈されたことがありました。
「お酒の場では参加者に優劣が出る」という意見でした。
お酒の強い人は、酔っても雄弁だし、弱ければ思考力も低下してしまう。
お酒が好きで楽しめる人もいれば、楽しめない人もいる。
「本当に真面目な議論は酒の場はふさわしくありません」という結論でした。


確かに、よっぱらっては、議論はワヤになるでしょう。
でも、そこで大切なのは「話すこと」「話題にすること」です。
ああやこうやいいながら、大切な政治のことに関心を持つということです。
いろんな人の、いろんな意見を耳にすることは、
どんな場であろうと、とても有効で大切なことだと確信します。


「参加者に優劣が出る」のは、酒の場だけではありません。
この掲示板だって、おんなじ。
政治や法律に詳しい人もいれば、そうでない人もいる。
弁の立つ人もいれば、いいたいことが上手にいえない人もいる。
優劣がでるのは当たり前。
それが世間というものです。
バラつきがある。
けれど、少なくともここに「書き込んだ」ということは、
基本的に「語ろうとしている」「話しかけようとしている」ことです。
無関心ではなく、関心をもっているということです。
それだけでなく、書き込むという勇気ある行動に出たということは、
それだけで評価するに値することだと思います。
わたしはまず、そのことを大切にしたい。
そして、みんなにもそのことを大事にしてほしい。
バラつきがあるということは、つまり多様性があるということです。
専門家もそうでない人も、
多様な人々だからできる豊かな対話ができたらと願います。


正しい議論も必要です。
しかし、それが正しくできるためには、
「流れを読む」「雰囲気を読む」ことが必要不可欠です。

例えば、本多信介氏の書き込み。
あれは、カフェルミの場の雰囲気が険悪であることを感じ、
それを打開したいと願う趣旨の前向きの書き込みだったと、わたしは感じています。
みんなが、もっと気持ちよく語り合えるようにするための、
ひとつの提案だったと思います。
いつもは「小長老」とハンドルネームの信介さんが、
あえて本名で書き込んだことも、
正面切って、正々堂々と語り合いましょう、というすがすがしい意志表示だったと
わたしは解釈しました。

そういう「気持ち」を少しも受け取ろうとしないで、
言葉を単に額面通り受け取って、言葉だけで応じる。
「忙しい先生に質問する前に、自分で調べなさい」などと説教する。
それでは「対話」は成立しない。
ましてや「議論」もできない。

▼清水さんへの提案

専門的で突っ込んだ議論を求めるなら、
ご自分の掲示板を立ちあげられたほうが有効だと思います。
この掲示板参加者は、わたしをはじめ専門的知識のない者も多いので、
お望みのような有効な議論はできないと思います。

政治のことを、より多くの人に知ってもらい、語ってもらいたいとお考えなら、
この掲示板は有効かもしれません。
その場合「酒の場の議論がどれほど有効か疑問です」などという否定的な発言は、
みんなのやる気を萎えさせて逆効果です。
どんなきっかけからでも、政治に関心を持ってもらうのはウェルカム、
という姿勢で語っていただければ、みんなも気持ちよく参加できると思います。
参加したくなるような場をつくる努力なしに、
みんなが参加しないと憤っても、だれも乗ってきません。
「議論」をしかけているからみんなが引いてしまったのではなく、
「場」のつくりかたに問題があったのだと思います。
その責任の一端は、もちろんわたしにもあります。
「参加したくなる雰囲気作り」も含めて、ご協力いただけると幸いです。

▼ドロンコさんへの提案

文章の表面や言葉に捕らわれず、
「流れ」のなかでその発言の趣旨を捕らえられたほうが、
すれ違いの少ない、実りある対話が可能だと思います。
言葉の表面だけを捕らえて、他者に否定的な発言をするのは控えてください。

▼信介さんへ

妙な緊張感を強いるようになってしまった掲示板へ、
一石を投じてくださってありがとう。
信介さんの投稿を読んで、ほっとした人も多数だと思います。
感謝してます。

▼勇崎さんへ

いつも注意深く流れを読んでくださり、言葉を丁寧に選んでくださっての投稿、
感謝しています。
直感人間の勇崎さん、時に論理が大飛躍ですが、それもまた楽し。
楽しみながら、少しずつ実のある対話を続けていきたいと願っています。
よろしくお願いします。

▼「撤退宣言」について

なんども書きましたが、掲示板はみんなが空いた時間を使って参加している場。
問いかけに応答がなくても、仕方ないということを前提としています。
今後、参加したくないというのであれば、
どうか黙ってフェードアウトしてください。
どうしても必要でない限り「撤退宣言」はしないでください。
後に不要な波紋を残し、場の雰囲気を乱します。
ここは、わたしが時間もお金も使って、無償で提供している「対話の場」です。
そして、参加者のみんなが、自分の時間を使ってこの場を盛り上げてくれています。
そうやって、みんなの力で育ててきた「カフェルナ」です。
去るにあたっても、そのことを大切にしてほしい。
「前向きに疑問を呈する」のであればともかく
「捨てぜりふ」を残して撤退するようなことは、絶対に謹んでください。

▼「新生カフェルナ宣言」
この掲示板の趣旨を理解していただくために、
みなさんどうかいま一度「新生カフェルナ宣言」を読んでみてください。

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