寮美千子ホームページ ハルモニア Cafe Lunatique (No.0008)

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松永洋介  メカゴジラ対エキスポタワー 2002年03月30日(土)04時47分54秒 http://www.ceres.dti.ne.jp/~ysk/
「ゴジラ対太陽の塔」再生計画 へのコメント

前の発言の続きを書いてあったのですが、そのハードディスクごとパソコンを修理に出してしまいました。
すぐには直ってこないようなので、「ゴジラの時代 SINCE GODZILLA」展の開催もいよいよ間近に迫ったことでもあるし、書いてあった内容の概略をメモとして提出しておきます。


▼ヤノベさんへの感謝について

まずなによりも、ヤノベさんに感謝する。
内輪で始めたとはいっても、多くの人の見られる場所で、公共の美術館でのワークショップの内容について検討したり情報を提供してくれていたことには、ほんとうに感謝する。
前回の文章を提出するにあたって、ぼくがいちばんおそれていたのは「公開の場所でワークショップの打合せなんかすると、うるさいやつがやってきていろいろ口を出されたりするから、そういうリスクは避けるようにしよう」という考えが人の頭に浮かんだり、そういう考えが実行に移されることだった。
今回の、掲示板でのワークショップの内容の打合せというのは、とてもすばらしい試みだったと思う。
今後、公共の美術館とかでワークショップとかを実施するなら、事前に、単なる告知だけではなく、たとえば今回のようなスタイルを発展させたりしての盛り上げがあってしかるべきではないか、と思う。
また、掲示板上での突然の意見表明にていねいに回答していただいたことにはヤノベさんの誠実な人柄があらわれており、正直いってほっとした。

▼作家の作品の評価について

勇崎さんの「美術家は基本的には言葉の人ではないので、言葉は不適切であっても、評価は美術家としての本筋である、その作品をもって行いたい、という基本姿勢を僕は持っています」という基本姿勢は、わかる。
美術家の作品は作品として評価されるべきだ。同時に、言葉は言葉として評価されるべきだ。

また、その作家に「基本的には言葉の人ではない」とかいった立場を認めるかどうかはまた別な話である。
ヤノベさんの場合、コンセプトも知ったうえで評価してほしいと自分でいっていることでもあるし、ヤノベさんの発した言葉は、造形作品とセットで考えるべきかもしれない。

▼ヤノベさんの作品について

ぼくがヤノベさんの作品を見ないで、掲示板での発言だけを見ていろいろ言ってると思っている人もいるようだけれど、ぼくは99年にNTTのICCで、展示されていたアトムカーを見た。
見ただけでなく、百円硬貨3枚を投入して乗った。乗ってみるように展示されているからには、乗ってみないと真価はわからないのかも、と思って、800円の入場料に300円をプラスして。
アトムカーに実際に乗ってみた結果、ぼくは、なんの知的興奮も美的感動も抱かなかった。(自然放射線の検出と原子力テクノロジーのもたらす危険とのあいだになんらかの関連を見出しているようだったので、思考が混濁しているのかな、という印象は受けた。)
すごく広いスペースを使って展示されていたのに、あまりにもつまらなかった。
そしてぼくは、この体験をきっかけとして、美術館の役割についての疑問を抱くようになった。
「美術館が作品を展示するのは、特定の美術品を公衆に体験させることに肯定的な意味や価値をおいているからではないのか。だとしたらなぜこのような、なんの意味も価値も感じられないものが展示されているのか? 美術館はなんのために存在しているのか? なんのために作品を展示するのか?」
このような疑問を抱くきっかけとなったのが、ヤノベさんの作品だった。
(ヤノベさんにご紹介いただいた展覧会は先日見た。感想は後日。)

▼公共的な施設での催しについて

ところで、去年のいまごろ旧Cafe Lunatiqueで、国立科学博物館の「天文学普及講演会」が話題になっていた。(ぼくはその顛末を自分のサイトで書くといって、一年経ってもまだ載せてないんだけど。)
主には、科博のSさんという人があらゆる意味で失礼な運営をしていたことについて怒っていたのだが、その西城さんの運営がなぜ失礼でイカンかったかというと、“外部の人”――招待講演者と来場者――に向けての配慮が、驚くほど、完璧に、欠如していたからだ。国立の公共の博物館の、定期開催の公開イベントなのに。
公共の場で公衆にむけて芸術とか科学とかの普及活動をおこなう立場にある人というのはそう多くない。そのような立場にある人が“内輪”の気分に閉じこもって、まともなイベント運営を放棄している。それはゆるしがたい損失なのだ。
もっとまじめにやれ。

▼公共の美術館でのワークショップについて

話は戻って、ヤノベさんやその他の人たちが、純粋に内輪で「ゴジラ対太陽の塔」という映画を撮ろうとしていたのだったら、たぶんぼくは何も言わなかっただろう。
でもそれは実際には、公共の美術館での公開ワークショップの企画なのだった。
せっかく近所のへんな美術館で面白そうな展覧会があるのに、そのワークショップで、内輪ノリでテキトーなことをやってもらっては困る。
いくら「ゴジラ対太陽の塔」掲示板が内輪で始めたものだ(公開を前提していなかった)といっても、もうちょっとまじめにやってほしかった。いや、内輪で楽しくやるのはいいけど、展覧会におけるワークショップの位置づけや、ワークショップに参加する一般来場者のことを考えている形跡がなさすぎた。それは本質的に内輪の企画ではなく、公共のものなのに。
もうちょっとなんとかなってほしかった。もうちょっとなんとかなってもらうにはどうしたらいいかと考えて、とりあえず前回の発言を書いた。
まずは交信可能な言語基盤の確立から始めなければならなかったので、ずいぶんまわりくどくなってしまったが、ようするに、今回書いたようなことが本題(の一部)として控えていたのだった。

▼スタート・ライン

つまり、川崎市岡本太郎美術館における「ゴジラの時代 SINCE GODZILLA」展でのワークショップ企画「ゴジラ対太陽の塔」周辺の話はひとつの具体例であり、問題は、公共的なふるまいにともなう責任のありかたとか、社会のなかでの美術家の役割とは何か、といった根源に直結している。

そういう観点からすると、およそ全員が、ここからはじまる問題提起の“有資格者”であって、ぼくがヤノベさんの作品を見たことのある人間かどうかというのは枝葉末節の話だ。それに、いきなり「前に見たけど何の感動もなかった」というとなんかケンカ売ってるみたいで、それを理由に返事がもらえなかったりするのもヤなので、ヤノベさんの作品を見たことはあえて書かないでいたのだった。……


メモとかいって長くなったけど、だいたいこんな感じです。
「ゴジラの時代」展は期待しています。Cafe Lunatiqueで生田緑地オフ実施か?

清水雅彦  「トロツキスト」というレッテル張りはえげつないなあ 2002年03月24日(日)23時33分05秒
巻頭を飾ることの光と陰 へのコメント

勇崎様

所有論の続きの議論があれば書こうかと思っていたのですが、なかったので投稿しませんでした。でも、いまから書かれても今週は不在にするのですぐ答えられませんが。新たな投稿については、今のところコメントはありません。

ドロンコ様

お帰りなさい。また議論・意見交換などができればと思います。カフェ・ルミへの投稿に関することですが、私は10数年前にフリーダ・カーロの展覧会に行って、苦悩や嫉妬などが「ぐっちょり」(変な表現ですが)と描かれたあの一連の絵に衝撃を受けましたね。私は彼女がトロツキーと関係があったことに興味を持ちました。

寮美千子  ネットにおける所有の概念からの離脱、及びヤノベケンジ論 2002年03月23日(土)15時56分07秒 http://ryomichico.net
続“持ち前”探検隊・ビート編?「60年代の遺言」  へのコメント

▼勇崎さま

シアター・キノのHPを見たら、清水雅彦さんおすすめの映画「ぼくの神さま」を上映中。おっ、と思って住所を見る、札幌なんですね。そうか、ちょっと遠いな。HPへこちら。
http://www.infosnow.ne.jp/~kino/

ネットワークを機能させるのに、インターネットがすごく有効な手段だと思う。それから「所有の概念からの離脱」を実感させるのにも。大概の情報はタダ。頼まれもしないのに、せっせと情報を蓄積する人がいて、無償で提供。これはすごいことです。法律とかつくって、上から「無償にせよ!」といって無償になったんではなくて、現実の中でなし崩し的に無償になっているネット情報ってとこに、大きな意味があると思う。「お金」が介在しないと回っていかないこの社会で、これがどういうふうに機能していくのか、これからが見所。ひとつの大きな実験です。

これに反して、ネット情報をちゃんと経済社会に組み込もうとする動きも当然ある。作家の池澤夏樹氏は、自分が書いた書評を、有料で読めるサイトを制作。どうりで、ネット上の朝日新聞の書評欄の記事、池澤氏のだけ掲載されていなかったわけだ。なるほど。

それもひとつの実験だけれど、せっかくいまある経済社会の枠からはみ出して、無償で流通している情報、それをまた、経済社会の枠組みに押し込めてしまうのは、わたしとしてはいかにも残念な気がしています。

まあ、いろいろあるさ。事実上、ネット創世期だからね。生物進化の大爆発があった頃みたいに、いろんな試みがなされるはず。どれが生き残るか、いまはまだわからない。そのうち、Cafe Lunatique なんか「ありゃあ、ネット世界のアノマロカリスだったなあ」なんていわれるかもね。

▼ドロンコさま

おかえりなさい。
ヤノベケンジ氏のことですね。そろそろ寮さんから、彼の仕事についての正式?見解が出なければならないのではないかと
長くなるから、時間があるときゆっくり書きます。ヤノベケンジ論に留まらず、現代芸術にかかわる話になるから。ゆるゆる行こうぜ。ところで、そういうドロンコ氏こそ、見てきたなら、率直な感想、聞きたいなあ。言葉じゃなくて、作品そのものから感じた率直なものを。
一つだけ言えることは、
彼がとてもたくましく成長している人だということかと思います。
ううん。これだけじゃ、わからない。もっと聞かせて! 楽しみにしてます。ごくごく簡単に言うと、わたしはヤノベ作品は「かわいい」と思った。

勇崎哲史  続“持ち前”探検隊・ビート編?「60年代の遺言」  2002年03月23日(土)02時51分05秒
巻頭を飾ることの光と陰 へのコメント

三夜連チャン、冒頭をかざるのかなあ。
なんか息詰まったので、新たなる提起をいたしまあす
相当昔になってしまいましたが、友人のお店が20周年を迎え、そのお祝いに本をつくろう、ということになり、僕は以下のような論考を寄稿したことがありました。

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60年代の遺言

勇崎哲史(プランナー/写真家)

 50年代。アメリカの物質文明を批判し、精神と人間性の探求をめざして、簡素な生活や自然の中での生活を求め、放浪もいとわなかったビート世代(ビートニク:作家のジャック・ケラワック、詩人のアレン・ギンズバーグ、ゲイリー・シュナイダーなど)。その影響は、60年代に入りヒッピー・ムーブメントへと広がりをみせた。当時、ヒッピーをする理由はそれぞれであったが、その背景には、65年2月の米軍による北ベトナムへの爆撃(北爆)開始、いわゆるベトナム戦争への反戦や徴兵拒否としてのヒッピー・ムーブメントが本流であったと記憶する。
 ヒッピーとは、いうまでもなく既成の価値観や体制に対して尻(ヒップ)を向ける(拒否する)姿勢であり、他には、キャンプ(共同生活)して抗議(キャンプ・イン)する行為から、キャンピーと呼ばれる集団もあった。そして彼らが共通に唱えたのは、“ラブ”であり、“ピース”であり、“自然”であった。
 年をおうごとにベトナムでの米軍劣勢が顕著になり、68年3月、南ベトナム・ソンミでの米軍による大虐殺によって、その追い詰められた状況を露呈させ、同年10月からの北爆全面停止、そして73年1月、パリでのベトナム和平協定により、ベトナム戦争は終結した。
 この間の米軍の縮小、撤退、終結に至るまでに、反戦や徴兵拒否の理由からヒッピーをしていた人たちはその目的を遂げ、別な表現をすれば、ヒッピーを続ける意味を失い、“社会復帰”する方向へと歩んでいった。ところが、彼らの考えを認める社会、アートを受け入れるギャラリー、表現を扱う劇場はどこにも無く、当然ながら、もうひとつの道を模索しなければならなかった。そして、このような現実の社会に対して、彼らは新しい活動のパターンを生みだし、それはやがて、60年代から今日へ向けて、3つの大きな潮流へと膨らんでいった。

 ひとつ潮流は、<オールターナティブ:もうひとつ別の>という発想である。たとえば、既存の価値観や生き方に対して、“もうひとつの”価値観や生き方をみつけ実践することであったり、権威にしばられた既存のギャラリーや劇場に対して、倉庫(ロフト)や空き家などを活用した“もうひとつの”ギャラリーや劇場をつくっていった。
 ふたつめの潮流は、<ネットワーキング>という新しい行動のパターンである。これは、当時発売されたポーターパック(ポータブルビデオカメラ)で作品をつくっていたビデオアーティストたちから興ったムーブメントである。彼らの作品を一般のテレビ局や大手の有線テレビは全く取り上げず、そういった既存マス・メディアの巨大な“ネットワーク”に対し、動詞としての“ネットワーキング”という発想と行動を掲げたのである。つまり、自分たちがポータブルビデオを肩に担いで、集会や家庭をまわり、そこで作品を上映することで、既存のネットワークにはない、“もうひとつのネットワーク”を創りあげていった。
 この“ネットワーキング”は勿論、“オールターナティブ”の一環ともいえる。だが、その発想と行動のパターンは、やがてビデオアーティストたちを超え、全米のあらゆる種類の市民運動形成の方法に応用され活用されてゆき、ボーダーのない地下水脈にも似た、大きな潮流となったのである。
 みっつめは<サバイバル(生存)>と<エコロジー(生態系・環境)>に関わる潮流、その代表例が「全地球カタログ(ホール・アース・カタログ)」の出版である。これは、ヒッピー生活によって獲得した、地球・自然・人間の関係をエコロジーの視点から捉え、社会のシステムから外れても生きてゆけることを実証。その知恵やノウハウを満載した大きな分厚い書籍として編纂されたものである。3つの潮流のなかで、「全地球カタログ」は最も早くに普及し、世界的なブームとなった。爆発的に版を重ね、商業的にも巨大な成功を収めるに至った。

 これら3つの潮流は、70年代から80年代にかけて、日本にも移入された。「全地球カタログ」の発想はいち早く展開され、手垢に汚されていった。換骨奪胎の商業出版界は一大カタログブームをつくり、国民もそれに踊った。<サバイバル>の発想はアウトドア・ブームにすり替えられ、巨大市場を形成し、つつましやかに都市に暮らすことよりは、自然に囲まれてという、もっともらしい理由付の自然破壊の道を開拓した。
 <オールターナティブ>の発想は、若い無名のアーティストたちによって、70年代の初めから取り入れられ実践されたことから、本来の理念が長く保たれたと思われる。しかし、70年代の後半には、概念そのものが一般化してゆく至福な時を迎えながら、一方、ファッション化の運命を辿った。昼の人気テレビ番組が毎日生放送されている新宿の「アルタ」というビルの名称はオールターナティブの英文の最初の4文字から取られたものである。オールターナティブを象徴した倉庫(ロフト)は、そのものがおしゃれに商品化され、80年代に入り、「ロフト」という名の巨大商業施設も“新築”された。
 <ネットワーキング>は80年代に入ってから一部の市民運動家たちによって移入されたが、3つ潮流の中では、最も惨めな命運を辿ったように思われる。83年頃、D社という“ビジネス書”専門の出版社が「ネットワーキング」を翻訳、発売し、この概念は一気に広がった。70年代から80年代初頭のアメリカの市民運動にみられる緩やかで奥深いつながりという現象面を分類、網羅した著作である。しかし、この著者は概念の出発点を知らなかったようで、ビデオアーティストたちの初心は、全く記載されていなかった。市民運動論の本でありながら、出版社の性格もあってか、この潮流は、すっかりとビジネス用語に化けてしまった。そして、日本の悪習ともいえる、知故を頼りに楽してうまいことをしようする「コネ」や「人脈」という言葉と全く同義にされてしまったのが情けない。
 ビデオアーティストたちが、その志を秘め、敢えてINGをつけて動詞化。既存のネットワークに対抗し、理念の差異を明確にしたにもかかわらず、また元の名詞に戻されてしまった。シャレにもならぬが、“名刺”を配ってコネをつくる習性のある、悲しい日本人による顛末である。

 ところで、20数年来、僕にとってかけがえのない親友がいる。中島洋という映像作家である。彼の映像は非商業的であり、心に響く。いわゆるシリアスな作家である。彼は一方、シアター・キノという日本一小さな常設映画館を愛妻と共に切盛りし、さらに一方、エルフィンランドという居酒屋を持ち、夜はいつもカウンターの中で動き廻る。居酒屋からあがる僅かな“あがり”は、彼がこだわりを感じる幾多の活動や日本一小さな常設映画館の存続にあてがわれる。
 僕は、2か月に一度くらいのことであるが、彼の居酒屋にゆくのが楽しみである。なぜなら、彼が選ぶ食材や酒、そして、その調理法は<サバイバル&エコロジー>の本流であり、その居酒屋と彼の映画への愛情と誠実に溢れた小さなシアター・キノは<オールターナティブ>、彼の活動は<ネットワーキング>の初心そのものである。つまり、僕にとって忘れたくない3つの潮流が、骨太に、汚れを知らずに、ここには息づいているからである。僕が中島洋に会いにゆくのは、昔にこだわり、時代のゆりかごに揺られて寝ていたいのではない。彼を見ていることで、勇気づけられたいのである。
 60年代の遺言は、ここでは今夜も眠らない。
(ゆうざきてつし:1994.4.12)
-----------------------------------
追伸
親友・中島洋のシアター・キノはその後、二室の上映室を有し、決して日本一小さな常設映画館ではなくなりました。ある意味では日本一小さなシネマ・コンプレックスといえるかも知れませんが、、、。でも、それが、喜ぶべきことなのか、どうか、今の僕にはわかりません。

勇崎哲史  巻頭を飾ることの光と陰 2002年03月22日(金)03時00分22秒

BBSに勇んで投稿するときの光。
巻頭を飾ってるじゃん。
そして、翌日、その翌日、はてまたその翌翌日。
変わらぬ巻頭を見続けることの陰。
恥ずかしくって、哀しくなるじゃん。

今日もおやすみの前に、ひとこと、ふたこと、3っつのBBSの巻頭を飾ってしまいました。
じゃん
じゃん。

勇崎哲史  祝辞 2002年03月21日(木)03時26分51秒
生還者の弁 へのコメント

ご生還おめでとうございます。
静観しないでよかった、
と思っております。

次のランデブー計画は帯広、ということで、
よろしく!

DORONKO  生還者の弁 2002年03月20日(水)23時40分55秒

たまたまではあるにせよ、洋介氏のコメントはあまりにうまく出来ていて
(とぼくには見え)、「所有」について論じていたのはぼくだけではなかった
のに、無造作に投げ出されたのではなく、ほかならぬぼくに切っ尖きが
向けられていることを意識すると、当人としては身動きもとれなくなり、
これはもう自爆テロにでも訴えるしかないか――と思うに至ったのでした。
その点では、勇崎さんのおっしゃる「ボタンの押し間違い」説は、ぼく
には共感できるもので、事実はどうであったにせよ、洋介氏が押し間違いなど
してくれなければ、どんなによかっただろうと切実に思います。

しかし、「突っ込んだ」つもりが、みなさんのやさしさに助けられ、こうして
灰にもならずに呼吸していられるのは、有難いことです。

それにしても、われわれニンゲンの、感じ方の差って、随分大きいものなんだ
なあということを、改めて学習させていただいたような気がしています。

どうせ拾った命と、ついででは申し訳ないとも思うのですが、このところ気に
なっていることを、二点だけですが述べさせていただきましょう。

一つは、このたびのリニューアル以降、ページのデザインが同じになって
しまったということもあって、どうも「ルナ」と「ルミ」の区別がつきにくく
なってきたなあ、ということです。ぼくの疑心暗鬼も、「ここはルナなんだし
――」ということと関係してなかったといえばウソになるでしょう。

もう一つは、ヤノベケンジ氏のことですね。そろそろ寮さんから、彼の仕事に
ついての正式?見解が出なければならないのではないかと、これは本当に
心配になっています。ぼくも、先日ようやく二つの会場を制覇し、彼がどんな
仕事をしてきた人なのかを知りましたが、一つだけ言えることは、彼がとても
たくましく成長している人だということかと思います。彼は自分で「わたしは
『直感型』の人間なので、理路整然とさせるまでに時間や実際行動が必要なの
です。」と書いていますが、ぼくは、これは掛け値なしの真実だと感じました。
ですから、彼の発した言葉だけから彼の姿を描こうとするのは、時には必要も
あるとしても、かなり酷なのではないかと感じています。

酸素マスクをつけているような状態で、ちょっとしゃべりすぎてしまったかも
知れません。もっと休んでいろと、お空の上から叱る声が聞えてくるような
気がします。

#清水先生、お気遣い、本当にありがとうございます。でも……すでに
お気付きの方もいらっしゃるでしょうが、ぼくの言っていることは、半ばは
本心ですが、半ばは意図的なものです。どのみち、そんなに純真なオジサン
ではないのでした。(みなさま、ゴメンナサイ!)


寮美千子  ゆっくり考える掲示板にしよう 2002年03月20日(水)22時07分48秒 http://ryomichico.net

▼清水さま

歯に衣着せぬ、とはこのことか、と目も覚めるような直截なご意見、ありがとうございます。

物事は何でもそうだけれど、躓きがないと、そのまま見過ごしてしまうようなことが多々あります。躓きがきっかけとなって、いろんなことを見直すきっかけになる。ドロンコ氏の撤退発言も、その意味において、考えるチャンスをくれたと思っています。

▼全世界的に試行錯誤中の掲示板の使い方

掲示板は、ある意味もともと無責任なメディア。参加を強制することもないし、基本的には参加を制限することもない。主催者はいるけれど、責任の所在は明らかではない。結局、各自、自分の発言に責任を持ってもらう、ということを暗黙の了解として成り立っているメディアです。新しいメディアだから、まだルールらしいルールも確立していないし、みんな手探り状態。ネット上といえでも「世間」であるから、世間の常識、が掲示板での常識になるはずですが、そのへんもまだよくわからない。

このような躓きをひとつひとつ乗り越え、そのたびに考えていくことで、きっとよりすばらしい使い方ができるようになると思うのです。

発言にレスポンスがなかったり、遅れたりするのは期待はずれ。わたしも、そう感じることはある。けれど、レスポンスを強制することもないのも、掲示板のよさ。まあ、気長に待つしかない。

とはいえ「常識」を超えるような「なしのつぶて」も問題は問題。

だけど、やっぱり、みんな仕事もあるし、出張もあるし、いつでも掲示板を見られるわけじゃないし、見ても書く暇がないこともあるし、基本的には「気長に待つ」が正しい対処だと思うのです。ゆるゆる話しましょう。この掲示板を、過去ログが残る形式にしたのも、そうやって古い話題をゆっくりと継続的に考えていきたいと思っているからです。

▼撤退宣言の是非

もともとメンバー制ではない掲示板。基本的には、誰がいつ参加しても、しなくてもいいものです。そこであえて「撤退宣言」をすることの意味とは? わたしは、ここのところ、ずっとそのことを考えてきました。

充分に議論を尽くしたうえで「もう、やってられねえよお」とばかりに撤退宣言をするのはありだと思います。けれど、怒りや不快を表明し、それを表明された相手との話し合いの機会も持たないまま、一方的に撤退表明、というのは、やはり違うと思う。たとえ相手が謝ってきても、無反応でも構いはしないし、事実上撤退しても構わないけれど「一方的撤退表明」をすることは、掲示板参加者の不安をあおり、参加者に不要な緊張感を強いるものです。それは、残された参加者への不快な、そして重たい置きみやげとなってしまいます。

この掲示板だけではなく、わたしが参加している中学校の同窓会MLでも、同じようにある参加者が不快を表明して脱会するということが起こり、一時はML閉鎖説も出ました。衝突が起こるくらいなら、閉鎖してしまおう、ということです。

しかし、それでは「相互理解」のチャンスは永遠に失われる。それは、いかにも惜しいことです。対話、というのは、お互いの違い(単なる行き違いまで含めて)があることを前提に、わかりあおう、何かをいっしょに考えていこうとする行為だと思います。

不快表明を言いっぱなしの撤退表明は、対話になり得ない。

掲示板上でケンカをしてもいいし、徹底抗戦してもいい。無言で撤退してもいいけれど、掲示板そのものに打撃を与えるような、対話なしの撤退表明は、やめてほしい。今後も、撤退したい人は、議論を尽くし、対話を尽くした上で撤退表明してほしいし、そうでないなら、黙って消えてもらいたいと考えています。

▼少しずつ学ぶこと

しかし、そのようなことも、今回の「撤退宣言」があったからこそ考えられたことで、そうでなければ、考えることもなかったことだと思います。その点では「撤退表明」をしてくれたドロンコ氏に、深く感謝をしなければなりません。そうやって、現実の困難にぶつかって、少しずつ考え、そのたびごとに対処していくことで、わたしたちの「対話」のスキルはあがっていくのだと思います。

なかよしのはずの友とさえ、ちゃんと対話ができなかった。その問題をクリアできないでいて、どうやって異文化への理解なんてあるだろう。そう思ってしまいました。足許から「対話」の方法を地道に築いていきたい。わたしはいま、そう思っています。

さいわい「撤退宣言」をしたドロンコ氏は「一時休業宣言」に変更してくれました。ありがとう。

「一時休業宣言」も、例えば出張の折りなど、すぐに返答できない旨、伝えるのは親切えす。けれど、お互いに忙しい身、宣言などなくても、ゆっくり待つつもりで対話していきたいと思っています。みんなも、どうかそういうゆったりした気持ちで参加してください。よろしくお願いします。ドロンコ氏、ゆっくり待ってるからね。

清水雅彦  二、三思うこと 2002年03月20日(水)20時50分49秒
収まらないなら丸く収めなくていい、とわたしは思うの記 へのコメント

門坂様
長い書き込みを読んでいただきありがとうございました。「菊タブー」の強い日本社会の中で、私の考えに同意していただけると嬉しく思います。

寮様
私の授業に出る!? 知っている人が授業に出てくるなんて、元々照れ屋の私としては恥ずかしいやら、嬉しいやら。でも、お忙しいのに、毎回出てこられますか? 学生にも言うのですが、諸般の事情から度々欠席されるようでしたら、ちょっとという気がします。もちろん、1回1回の授業で内容は独立していますが、やはりこちらとしては年間を通して憲法の全体像を知ってほしいので、欠席が多いようでしたらお薦めできません。お仕事との関係でよく検討していただければと思います。

ドロンコ様
松永さんが書いているように、私は16日に会った時に口頭で彼の投稿を批判したのです。何を投稿しようともちろん自由ですが、私はあの投稿は嫌い(よくない)と。あれは真面目に所有論について議論している者(ドロンコさんだけでなく、私なども含めて)をちょっとおちょくった内容になっています(寮さんの「あのお、、、」という投稿も、その時批判したのですが)。だから、ドロンコさんが怒るのももっともですね。そういう意味で、ドロンコさんが「問題にされない」と書いている点は、掲示板で松永さんを批判しなかった私にも不十分な点はあったかもしれません。

でも、こういう掲示板は難しいですね。ドロンコさんが他の人の無反応に不満に思うように、私も自分が投稿した内容について必ずしも十分な反応がないと不満というほどではありませんが、期待はずれと思うこともなきにしもあらずです。しかし、掲示板というのはそういうものだと思うしか仕様がないですね。直に議論しているわけではないのですから。例えば、所有論について勇崎さんを批判したのに、反論がないからといって不満に思うようなものではありません(勇崎さんに催促しているわけではありません)。

松永さんにはきつい言い方になりますが、あのような投稿についてはドロンコさんが正面から失礼だと批判するのもよし、無視して哀れんでもよし。ただ、寮さんの松永さんに対する批判に関連して言えば、松永さんの釈明は私には官僚・政治家的なごまかしがあると思いました。もちろん、私のコメントに対して松永さんがどのような反応をされるかは自由ですが。

それに対して、ドロンコさんの気持ちもわかりますが、投稿をやめてしまうと宣言することは、率直に言って大人げない。この掲示板を見ているほとんどの人は、直接ドロンコさんと会う機会がないのでしょうが、何人かの方はそうではないでしょう。よく知っている人からは心の狭い人と思われてしまいますよ。機嫌の悪いときに酒を飲んで書きすぎた位にして、またいつか復活というよりは、一連のことは忘れて今まで通り投稿されてもいいとは思いますが。

寮美千子  地球創生の「大いなる時間」の視点を持つことの光と闇 2002年03月20日(水)17時10分20秒 http://ryomichico.net
▼Review Lunatique:地球創生の「大いなる時間」の視点を持つことの光と闇 へのコメント

鳥海さんちの掲示板、「BBS地球の地軸を星野道夫に傾ける」で話題になっていた惑星物理学者・松井孝典氏の考え方について、以前より???に思っていたことがあったので、黙っていられなくなり、熱があるのにまた長文を書いてしまいました。これは、おなじく鳥海さんの掲示板に勇崎哲史さんが書かれた「癒されて、思考を昇華されたくない 投稿者:勇崎哲史 投稿日: 3月 5日(火)22時36分25秒」にも関連してくる問題です。

「大いなる時間」の視点を持つ。それは「傲慢」になることと「謙遜」になることの二面性を持っている。そこを嗅ぎ分けなくてはいけない、というような主旨です。

われらが天才ギタリスト本多信介氏は、そのへんとても「鼻」が利く。理屈にならなくても直感でわかる。そこが凄い。信介流の言葉にすると、「傲慢視点=ロック(ンロール)していない」で、「謙遜視点=ロック(ンロール)してる」っていう表現になる。「いっとくけど、おれは傲慢だよ」と信介なら言いそうだけど、信介の傲慢は謙遜なんだよねえ。だから、す・て・き!

そんなわけで、読んでね。何がロックしてて、何がロックしてないか、きっとわかるから。>ほんとかよ?

review0001.html#review20020320161427

パルステラ  「ショウユ」のお話は・・・ 2002年03月20日(水)02時22分39秒

あれは、松永クン特有の茶目っ気だと思いました。
高密度の流れの中にポトンと落とされた緊張緩和剤のような。
受け止め方は人それぞれでしょうし、それもまた多様性ですが、
少なくとも私はあの「お茶目なコメント」のおかげで、直後に書き込む勇気を得ました。
「*ナンプラー、好きですよん。」と最後に書き添えたかったな。 (もう、遅いけど)

*寮さん、風邪早く撃退してね。お外は桜がきれいだよ。**:..**・.・*

寮美千子  収まらないなら丸く収めなくていい、とわたしは思うの記 2002年03月19日(火)09時49分26秒 http://ryomichico.net
イマジネーション〜国際立公園という発想 へのコメント

▼勇崎さま

さっそくのフォローありがとうございます。お手間をかけてすみません。とてもありがたいと思っています。でも、ちょっとだけ気になることがあったので、取り急ぎ書かせてもらいます。

>松永氏のレスは貴兄へのコメントとなっていましたが、
>彼は、僕へのコメント・ボタンと貴兄のそれとを、
>単純に間違って押してしまったのだと思います。

「と思う」勇崎さんの推測を、推測としては否定することはできないんだけれど、推測に基づいて「よく解釈」して丸く収めようとするのは、わたしはやっぱりいけないんじゃないかと思うのです。これは、人生への対処の仕方の違いで「嘘も方便」とお釈迦さまもおっしゃってるし、丸く収めることが優先、という方法論はあるとは思う。でも、それでは、根本の問題はいつまでたっても解決しないんじゃないか。そう思うのです。

松永氏が、ドロンコ氏へのコメント・ボタンを押そうとして押したのか、間違えて押したのか、本人に聞いてみないとわからない。でも、表面に出てきているのは、というか人の目に見える形で表現されているのは、いまのところドロンコ氏へのコメントという形式。

もし、それがとてもイケナイことなら、それをごまかしてはイケナイし、ごまかしてドロンコ氏に納得してもらおうとするのだとしたら、たとえそれがどんな親切心から出たものでも、それはやっぱりドロンコ氏に失礼になっちゃう。ドロンコ氏は怒るところは怒っていいし、許せないなら許さなくていいし、本当のことをわかってなおも許すなら許してもいいし、あとでちょっと過剰反応だったなと思い直すなら、それでもいい。でもね「ごまかし」によって納得するのだけは、やっぱりイケナイのだと思うのです。

真実を真実と受けとめた上で、お互いに納得するのが、わたしは一番だと思います。それが、ほんとうの相互理解になる。ごまかして丸く収めるのは、理解にならない。ごまかすくらいだったら、丸く収める必要はない。決裂しても、いや決裂したからこそ、きっといつか、真実の理解に到達するチャンスがあると思う。だから「容赦ない人」っていわれちゃうんだけどね。

>ジャレ方が松永氏のボタン押し間違いの単純操作ミスであることを知らなければ、
>カチンときて心を傷つけられてもあたりまえです。
>僕も同じ立場だったら、傷ついているかも知れない。うん、絶対に傷ついてる。

勇崎さんがそうお感じになるのだとしたら、これはやっぱりカチンときてしかるべきことになるのだと思います。勇崎さんは、松永氏を傷つけないように苦言を呈しているのだろうか。やさしいなあ。でも、ちょっとやさしすぎ。イカンのなら、正面切ってイカンといってやればいいのです。それでヘタるようなやわな松永氏ではないと信じます。

わたしは、松永氏の投稿は単なる「悪い冗談」と捕らえました。というか、しょうがない駄洒落だなあと思った。松永氏は、普段からなんでもすぐに駄洒落にしてしまう人。だけど、駄洒落をいうのに、わざわざ調べてリンクまで張って、その几帳面さにあきれたというか、世の中いろんな人がいるものだと感心したというのが、わたしの感想でした。

▼ドロンコさま

さっそくのレス、ありがとう。気分を悪くさせてしまってごめん。だけど、勇崎さんのいうように、誰もあなたを傷つけようとは思っていないと思います。お互い、近しいからずけずけ言うことはあっても、悪気はない。親しいからじゃれてる子犬の気分じゃないかなあ。気分、直ったらまた遊びに来てね。

DORONKO  自主休業にします。 2002年03月19日(火)08時31分23秒

人誰も、邪推、疑心暗鬼、被害妄想……にとらわれたりすることは
あるもの、とお考えください。

ともあれ、(迷惑でなければ)いずれ復帰させていただくことはある
でしょうが、ディープなテーマはぼくの身には余り続けそうですので、
当分、自主休業させていただきたいと思います。

寮さんも、随分お疲れのようですね。あんなに長い言葉をいただく
ものとは思ってもいませんでしたが、ご趣旨に異論はありません。
どうか無理をせず、お体を大切にされますよう。


勇崎哲史  イマジネーション〜国際立公園という発想 2002年03月19日(火)05時44分35秒

“所有”をめぐって、みなさんの貴重なお考えを活発に投稿下さり、ありがとうございます。
もともとの原稿が650字程度の制限のなかでのコラムということで、不備だらけの論旨であったことは否定できません。少ない字数に詰め込むには不自由過ぎる想いからすれば、詩にも近いような記述であり、そのような意味から、僕らのなかでは誰よりも多くの詩を書かれ、読みとられている寮さんが解釈下さった[寮美千子「多様性が世界を救う?!2002年03月15日(金)17時25分27秒投稿]ようなことが、そもそもの論旨でした。
でも、それぞれにお考えを記述された、そのイマジネーションの素晴らしさ(嵐のような拍手!)、多様さに僕は歓喜しています。

「“差別”という言葉がなくならない限り、この世から差別はなくならない」と誰かがいっていたように思うのですが、、、。あるいは、ジョン・レノンの「イマジン」のように、なにかを想像(イメージ)してみることで、新しい世界が創造(クリエーション)できるかも知れない。“所有”という言葉がない世界を想像することで、新しい歓喜を創出できるかも知れない。僕はイマジネーション(想像力)がもつ、そういう力を信じたい。

発想は、“共有”から“共生”へ。
地球上の酸素は全てのいのちが共有していますが、共有という“所有”感では、京都議定書も絵に描いた餅? 必要なのは、所有感から離脱した“共生”のイメージだと思うのです。

“共有”から“共無”へのイマジネーション。
PALSTELLAさんがご紹介下さったエピソード[パルステラ ショウユ?いや「所有」を巡るエピソード二件 2002年03月13日(水)20時08分11秒投稿]は、“共無”という世界をイメージしてみると、共有という“所有”感とは違った、もうひとつのセンスを僕(たち)にもたらしてくれるように思います。

所有の概念から離脱したイマジネーション。
土地に限って例をあげれば、「南極大陸は、どこの国の領土でもない」ことが約束されています。これは、所有の概念から離脱したひとつの好例かと思います。
自然を保全するためにイギリスで興った“ナショナル・トラスト”運動も、共産主義(マルクス?)でも資本主義(ケインズ?)でもない、所有の概念から離脱したイマジネーションからの贈り物だと思います。

所有の概念から離脱しようとした僕のイマジネーション。
所有の概念から離脱しようとした僕は、世界のどこにもない“国際立公園(インターナショナル・トラスト・パーク)”という構想をイメージしました。
例えば沖縄にある米軍基地や、国後・択捉島などの北方四島。“所有”感にもとづく“返還”運動ではなく、“ナショナル・トラスト”運動の手法を応用して、誰のものでもない“国際立公園”化運動として展開したとしたらどうだろう。
(インターナショナル・トラストによる“国際立公園”については、沖縄国際大学でのレクチャーを再録したブックレット「思考方法としての写真〜沖縄から学んだこと、そして21世紀の沖縄への伝言」発売元:東洋企画<toyoplan@ryukyu.ne.jp>の終章で多少具体的に語っています。この内容で¥500とは、なんとお得!などと、ちゃっかりPR)

地球外へのイマジネーション。
アポロ飛行士がはじめて月面に降り立ったとき、星条旗をそこに突き刺しました。
同じような光景はかつて大航海時代にもありました(提起の出発点としたコラムはこの大航海時代の話からはじまっています。乞う再読。[勇崎哲史 続“持ち前”探検隊:“所有”をめぐって 2002年03月08日(金)00時56分40秒投稿])。

遠くて近い未来の人類が、どこか降り立った星に人間の富を約束する物質が、もしあったとしたら、人間はこれまでの所有の概念から離脱しない限り、地球外でも同じ歴史の過ちを犯してしまうかも知れません。

宣言から千言へのイマジネーション。
DORONKOさんへ>
僕もついこの前、よそのBBSとここのBBSとのことでトラブルを起こしてしまいました。このトラブルを未然に防いだり、コトを大きくしないで済ませる道はありました。それは当事者たるY氏が、いくつかのポイントにおいて、適宜にレスをされることです。そのレスがなかったのでコトが大きくなってしまいました。
今回のトラブルは、そのY氏と同じように、当事者たる僕(なぜか僕もイニシャルはY氏)のレスが今日まで全くなかったことが、事態を深刻にしてしまったように思います。
長い出張だったとはいえ、そのような時に、提起するような投稿はするものではない、と深く反省しています。ごめんなさい。
その反省を込めて、一刻も早いレスと思い、未明から書き始めるにいたりました。(ところが、何度投稿してもエラーになり、投稿は明日以降になりそうです)
松永氏のレスは貴兄へのコメントとなっていましたが、彼は、僕へのコメント・ボタンと貴兄のそれとを、単純に間違って押してしまったのだと思います。なぜなら、真面目な顔をして投稿する僕が、実は陰ではダジャレ大魔王であることを彼は知っているので、子猫のようにジャレて来ただけなのです。しかも前の僕のトラブルには彼自身も重要なファクターになっているので、なおのこと親しみを込めてジャレたくなった。
貴兄は、誰よりも早くに今回の「“所有”をめぐって」にレスをされ、深い論考での投稿でした。その投稿が呼び水になって、みんなの深い議論を喚起した。僕には感激モノです。それくらい真剣にレスしてくれたのだから、このジャレ方が松永氏のボタン押し間違いの単純操作ミスであることを知らなければ、カチンときて心を傷つけられてもあたりまえです。僕も同じ立場だったら、傷ついているかも知れない。うん、絶対に傷ついてる。
実物の貴兄は、ネット上よりもさらにホノボノとした人柄で、僕は大好きです。そう感じているのは僕だけではないでしょう。誰も貴兄を傷つけようなんて思ってないよ〜ん。
宣言を撤回して、レスを千言下さいな。

さて、貴兄へのレスのなかにダジャレが2つあります。
気が向いた時でいいですので、解答のレス、お待ちしています。
みごと正解の場合は、北海道にこられた時にラーメンをおごる(大盛でもOK)、というので、いかがでしょう。

もう眠いの。それと一刻も早く投稿したいので、推敲なしでクリックしちゃいます。
誤字脱字など、あらゆる不備、ご高配下さいませ。

大長老  感想 2002年03月19日(火)01時11分06秒 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8863/rojin/rojin_index.html
「掲示板の公正さ」は誰に求められるのだろう? へのコメント

洋介君の冗句は、長くて下手だなー。
そう感じました。
それだけです。
悪意は感じません。
ましてや「巧妙」なんてほめすぎですねえ♪。

寮美千子  「掲示板の公正さ」は誰に求められるのだろう? 2002年03月19日(火)00時19分20秒 http://ryomichico.net
撤退宣言。 へのコメント

>先般のぼくの書き込みに向けて寄せられた松永洋介氏からのコメントは、
>きわめて巧妙―天才的というべきでしょう―かつ陰湿な中傷であると考えます。
>それが何ら問題にされないという点において、
>ぼくはこの掲示板の公正さについて疑いを抱かずにはいられません

松永氏のコメントに悪意があったかどうか、その真実は本人が知るのみ。まあ、本人は悪のりしすぎたと思っているみたいだけれど、読者が「真実はこれだ!」と判断できるものではなかったと思います。その点が、ドロンコ氏いうところの「巧妙」なところなのかもしれないけれどね。

松永氏のコメントに悪意を感じた人がいたとしても「何ら問題にしなかった」のは、悪い冗談として軽くいなす、ないし完全無視したからではないでしょうか。あえて話題にしないという方法論をとった。少なくとも、わたしはそう感じていました。

誰も、ドロンコ氏の発言を無視しているわけじゃない。ありていにいって、無視されたのはむしろ松永氏の方です。その証拠に「所有論」については、パルステラさんも清水さんも、書き込みをしてます。

「掲示板の公正さ」というのは、一体誰に求められているのだろう? 参加者全員? それとも主催者であるわたしでしょうか? 最終的には主催者であるわたしが責任を取ることには間違いありませんが、だからといって、すべての発言をコントロールすることは不可能ですし、またそのつもりもありません。できうる限り、参加者の自主性を尊重したいと思っています。

わたしが「あのお、、、」を書いたことにも腹を立てていらっしゃるかもしれません。あの時は、ドロンコ氏の発言は、勇崎さんのいいたかったこととはちょっと違うのではないか?と思い、しかしその場ですぐに詳しくどこにどう違和感を感じたかを書くだけの力がなかったので、とりあえず違和感の表明をしたのでした。違和感表明だけで、内容が伴っていなかったことに不快を感じられたのであれば、申し訳ありません。

言い訳になりますが、人はすぐに反応できるものでもないし「とりあえずの表明」も会話の内とみなしていただければと思います。実際、ドロンコ氏の松永発言への対応のタイムラグもありました。時間が経ってから、ぼちぼち会話できるのも、掲示板の利点のひとつではないかと思っています。

その後、なぜ違和感を感じたのかいろいろ考え、結局「多様性が世界を救う?!」というコメントのなかで、直接ドロンコ氏とは名指しはしませんでしたが「所有の概念」に触れることで、わたしの見解を示しました。つまり「所有の概念」の話題は、途切れずに続いていたわけです。

ネット掲示板は、顔を見ないで文字だけのメディアなので、さまざまな行き違いがおきやすく、無用な摩擦や感情のもつれが起きることが多々あります。だから、充分に注意しなくてはいけない。それは、確かです。

しかし、だからといって過剰に気を遣いすぎると、自由に物が言えなくなる。「何か、まずいことをいうんじゃないか」「こんな表現で、人を怒らせてしまったらどうしよう」と、びくびくしていては、せっかくの議論も進みません。

だから、悪い冗談程度のことであれば、軽くいなすか、無視する。相手にしない。それがいちばんの方法だとわたしは思っています。そして、Cafe Lunatiqueの参加者は、そのような態度をとってくださったと感じています。

ドロンコ氏は不愉快な思いをされたのは、大変お気の毒だったと思います。しかし、怒りの余り、掲示板参加者の「公正さ」まで疑うのは、過剰反応だと思います。この掲示板では事実上、松永氏の発言こそ無視され、ドロンコ氏の発言には誠実なレスがあったことをご理解いただけたらいいなあと思っています。それが通じなかったことを、大変残念に思っています。いまからでも、ご理解いただけたらなあと思います。

松永氏の発言が、大歓迎すべきものだったとはわたしも思ってはいません。笑いはあったけれど、棘も感じました。しかしながら、重ねていいますが、わたしは、この掲示板は、悪い冗談くらい飛ばせるような自由な場でありたいと思っています。そして、それを無視したり軽くいなして応酬できるような粋な掲示板でありたいと願っています。「物言えば、唇寒し」みたいな恐怖政治みたいなことにはしたくない。

ご理解いただければ、さいわいです。

松永洋介  すみません 2002年03月18日(月)12時01分52秒 http://www.ceres.dti.ne.jp/~ysk/
撤退宣言。 へのコメント

ぼくの書込みで不快な思いをさせてしまい、すみませんでした。
しょうゆの概念については、最初「しょゆう」と打つつもりが「しょうゆ」と打ってしまったところ、ダジャレの虫が騒いでおもしろくなってしまい、しょうゆのことを調べはじめるとまたまたおもしろくなってしまい、そのまま投稿してしまいました。
悪気はなかったのですが、16日にも清水さんに注意されて、反省していたところです。ドロンコさんだけでなく、まじめに所有の話を進めたかった他のかたがたにもおわびします。

DORONKO  撤退宣言。 2002年03月18日(月)09時54分21秒

先般のぼくの書き込みに向けて寄せられた松永洋介氏からのコメントは、
きわめて巧妙―天才的というべきでしょう―かつ陰湿な中傷であると
考えます。それが何ら問題にされないという点において、ぼくはこの
掲示板の公正さについて疑いを抱かずにはいられませんので、この
書き込みをもって、この掲示板からは撤退させていただくことにします。
パルステラさんはじめ、善意の意見を寄せられたみなさんには申し訳
ありませんが、以上の理由をもって、疑問にお答えすることはもちろん、
さらにぼくの考えを述べることは控えさせていただきます。一人の素人
として、みなさんが大いに議論を深められるようにと祈ります。
どうかご理解下さい。


  読んじゃいましたよ。 2002年03月17日(日)15時31分26秒 http://www.pci.co.jp/~moriwaki/ryu/
誤りの指摘と補足 へのコメント

清水さんへ

最後の一行が眼に止まってしまい読んでしまいました。
憲法が権力者の手を縛る為のものとは思ってもいないことでしたね〜。
天皇制に関する事には深く同感しました。

勇崎哲史  レスポンスは、まだよ。 2002年03月16日(土)20時24分55秒

1週間の出張から帰ってみると、“醤油”VS“所有”を巡って、たくさんのレスポンスがあり(しかも、それぞれ長〜い)、驚いてしまいました。
1週間も席をあけると、帰ってからがたいへん。仕事に追いかけられる日々がつづきます。これから、ゆっくり拝読し、レスしたく思います。
13日、14日と、ここでおなじみのみなさんと僕の友人らとの連日合コン。よく語り、よく呑み、よく食べた、充実の二夜物語、ありがとうございました。
ところで、PULSTELLAとは、「パルス星」の術語だと思っていたのですが、パルステラさんの造語だったんですね。

パルステラ  変換/御苦労をおかけしました 2002年03月16日(土)03時38分54秒
パルステラさま へのコメント

>大長老さま

確かにPULSTELLAは厄介な名前ですね。(妙な造語をする癖あり。)
中には発音に困った方もおられました。(門坂さ〜ん、お元気ですか。)

変換と言えば、ちなみにうちはローマ字入力ですが、
ATOK→パルス寺 / ことえり→波留守テラ
:二つ合わせて波留守寺。
海辺に建つ、いつもお留守のさびしいお寺か。

もひとつおまけに、カンダハルを変換すると、
ATOK→神田ハル/ことえり→神田春
:ああ、神田にも春が来たと、ハルばあさんが呟いた?

どうも失礼しました!(*L*;)

寮美千子  新しい光源 或いは珍獣としての憲法学者(ほめてる) 2002年03月16日(土)01時10分39秒 http://ryomichico.net
誤りの指摘と補足 へのコメント

▼清水雅彦さま

さっそくの誤りのご指摘、ありがとうございました。きのう(もやは一昨日)飲み屋で酔っぱらって聞いてあやふやだったところが、一気にはっきりしてすっきりしました。みんなにもちゃんと伝わってよかった。感謝です。

清水さんと話していると「毎日の生活の基盤となっている法律や国家のことを、もっとよく知らないといけないなあ」という気持ちになります。和光大学での清水さんの講義、新学期から潜ってみようかなあ。ほんと。いろいろ勉強したいことがあって、忙しいなあ!

>最後に寮さんにお願い。一昨日は対等な形で色々な方が集まったのだから、
>私だけ何度も名前を出すのはやめましょうよ。

ははははは。わたしにとって清水さんはいわば「珍獣」。いままで知らなかった世界の人です。だから、新鮮でたまらない。法律や人権の話なんかも、面白くてたまらない。世界を、新しい光源によって眺めている気持ちです。何度も名前が出ちゃうのは、しょうがないのです。

自然科学の世界で得た世界や知識を、どうやって人間社会に反映させたらいいか、それを思い悩んでいたときに出会ったものだから、よけいにうれしい。ここぞとばかりいろいろと教えてもらおう!と手をこまねいているところ。わたしに懇切丁寧に教えてくれると、Cafe Lunatiqueの200人読者(推定)にも同時に啓蒙できるのです! それって、よくない?

しかも、わたしは根が素直な人間なので、ハンサムな男には、どうしても目がいってしまうのでした。実を言えば、わたしがハンサム呼ばわりした人のことを「え? なんであれが?」という人も多数いることはいますが、同席したグレン横田氏は「清水さん、ハンサムだよ。ぼくには負けるけど」っていってました。

清水雅彦  誤りの指摘と補足 2002年03月16日(土)00時12分26秒
多様性が世界を救う?! へのコメント

寮さん、皆さん、一昨日は楽しい会に参加させていただきありがとうございました。まさに「異業種交流」という形で、普段接点のない方々とお話ができてよかったと思います。

その一昨日の会合をメモを取っていたわけではないのに、早速文章化するとは寮さんすごい!、と思って読み進めていくと……。やはり記憶違いが二三あるので、一昨日直接話さなかったことも加えながら説明したいと思います。

憲法に対する私の立場は「憲法改悪阻止」で、今は「活憲(憲法を活かす)」、将来的には「改憲」です。戦後の政権が憲法の平和主義・国民主権・基本的人権の尊重に反するようなことをしてきたから、改悪は許せないし、まずは憲法の理念を徹底的に実現すること。例えば、国民主権の下、天皇は象徴にすぎないはずなのだから、まずは元号法・国旗国歌法を廃止し、天皇の行為は国事行為に限定する。ただ天皇制は平等・民主主義・国民主権とは本来両立しえないので、将来的には改憲して天皇制を廃止すべきだということです。

憲法第99条の説明は、これは全く寮さんの聞き違い。この規定は全く正しく、憲法尊重擁護義務は国民ではなく、公務員にあることを考えるべきだと言ったのです。自然状態では弱肉強食の社会になってしまうから、市民革命で社会を統治していくために作ったのが憲法です。社会を統治していくためには国家が必要ですが、必ず権力者は暴走するから、それを防ぐためにどんな国家機関を創設し、それらは何をするのか(何をしてはいけないのか)を憲法で定めたのです。だから英語で憲法のことをconstitution(構造、組織)というのです。そのため、国家権力の担い手である公務員を縛るために第99条があるわけです(ついでに言えば、権力者は憲法が邪魔で仕様がない。でも、憲法は形式的に国民が権力者に押しつけたものなので、昨今のように権力者の側から改憲を言い出す場合は疑ってかからなくてはならないのです)。

さらに「国家・法は必要悪で、将来的に死滅するのが望ましい」と言いました。しかし、そのためには全ての人間が徳のある人物にならなければ不可能なので(小さなコミュニティーなら可能かもしれませんが)、これからも長きに渡って国家と法はなくならない。ただ、国家や法というものは、社会を支配していくための手段だということは、忘れてはならないということです(単純に、支配階級が法を作るというのではなく、実際には社会の力関係で法は作られますが)。

法とはそういうものだから、当然悪法もある。だから国民が単純に「法律だから守らなければいけない」と考えるのは誤りです。その法律が正義にかなっているか否かを判断しなくてはなりません。昨日話さなかった例を挙げれば、封建制支配のための法は悪法だから、それを破った市民革命は正しかったといえます。また、議会が多数決で可決した法律だから守れというのも誤りで、そのような誤った考えをドイツの人々が持ったからナチス支配の悲劇が起こったのです。多数決で作られた法律も常に正しいわけではない、という考えの反映が、憲法第81条の裁判所による違憲立法審査権の規定です(しかし、日本はこれが機能していないのが現状)。

だから、先ほどの天皇制との関連で言えば、私は今の天皇制の運用は行き過ぎだと思っています。放送法でNHK受信料を収めなければならないし、元号法で元号があり、国旗・国歌法で日の丸・君が代が国旗・国歌になっていますが、私はこれらの法律は悪法だと考えるので、放送終了時に日の丸・君が代を流す(これ以外の理由もありますが)NHKに受信料を払わないし、定期購入時などに用紙の「平成」を消して西暦(これも問題はあるのですが)で記入しています。

最後に寮さんにお願い。一昨日は対等な形で色々な方が集まったのだから、私だけ何度も名前を出すのはやめましょうよ。「先生」という言い方も。「ハンサム」論もそうですが、これは寮さん流の「誉め殺し」ですか? 結局、まんまと引っかかって、長い書き込みになってしまいました(あーあ、こんなに長いと門坂さんが読んでくれない)。

寮美千子  利潤追求が目的でなくなるためには、どうしたらいいのだろう? 2002年03月15日(金)23時39分47秒 http://ryomichico.net
ショウユ?いや「所有」を巡るエピソード二件 へのコメント

パルステラさんの所有を巡るお話、興味深く読ませていただきました。

神父さんの話、前に聞いたけれど、こうやって改めて字で読み直すと、その神父さんのこと、一層鮮やかに印象づけられました。イギリス人とアラブ系の隣人の話も、なるほどと思った。
また、個と個、種と種、民俗と民俗......それぞれ違っていて当たり前なのであって、その違い(以前『持ち前』という言葉が出て来ましたが)、つまりそれぞれの「らしさ」を、「違っている」からこそ、お互いに愛し、尊重し、と同時に根源的な共通の願いを見つけだす事は、困難ではあっても、決して不可能ではないと私は信じます。
単なる概念や総論だけではなく、現実に出会って、一歩一歩歩み寄り、時間をかけてお互いを知っていく。真の改革や革命は、一夜にしてなるものではなく、実際、こうした日常の、地道な努力の積み重ねだとつくづく思います。

パルステラさんの話を読んで、わたしも、ひとつ思い出したことがありました。

インドをさまよっていた頃、夕暮れになると、街にはいい匂いが立ちこめます。路上生活者が、道ばたで炊事を始めるから。お腹がすいていると、ついそっちに目がいってしまう。その時のわたしは、いかにもお腹がすいた、というような顔をしていたのでしょう。七輪のようなものでカレーを煮ていた貧しい女性が「おいでよ。いっしょに食べよう」というように手招きしてくれたのです。

彼らが料理しているものは、きっと食堂の裏から拾ってきたような野菜クズ。さすがに食べるわけにはいかない。申し訳ないなあと思いながら、断ったけれど、あの、即座に手招きしてくれた気持ちは、忘れられません。

悪く考えようとしたら、いくらでも考えられる。後で法外な値段を要求するつもりだったのかもしれないとか、食べ物に睡眠薬でも入っているかもしれないとか。けれど、あの時のあの女性の顔は、お母さんの顔だった。お腹の空いた子に食べさせてあげたいと思ってる、そんな顔。

インドでは、極貧、とつくような貧しい人の方が、むしろ「共有」の概念を強く持っていたように思いました。きょう、少しでも余分な食べ物があるなら、お腹の空いている人と分ける。明日は明日の風が吹く。そういう気持ちです。

むしろ、小金持ちの人の方が、執着が強い。ここまでが自分の領域だと、はっきりさせたがる。人間て、そんなものかもしれない。今日一日を生きていければしあわせ、というような人の方が、きっと欲がない。

わたしは最近、経済というものが不思議でならない。人ひとり、この世界で飢えずに生きていくのに、そんなに大きなお金はいらないはずです。けれど、ひとりでは使い切れないようなお金を持っている人がたくさんいる。社会に還元しない限り、そのお金は「余分」でしかない。困っている人にあげても、痛くも痒くもないはずなのに、一般にそうはいかない。

企業が「利潤追求」のためにあるのではなく「働く人をしあわせにする」ために存在したらいいのに。お金、というものは、本来、生きていく糧をみんなに行き渡らせるための方便であると、みんなが了解したらいいのに。そうすれば、お金や企業に「滅私奉公」しなくてもすむようになるはずなのになあ、などと夢想しています。

悪いことをした雪印の社員も、ひとりひとりになれば、きっとまともな人なのでしょう。それが「企業の論理」にのみこまれて「人としての論理」を投げ出してしまう。どうしたら「企業」や「組織」や「お金」を怪物にしなくてすむのか。人が人としての論理を守っていけるのか。

インドの路上生活者のように、失うものが何もない、という状態でしか、人は人になり得ないのか。いや、失うものは何もない、という貧しさのなかでさえ、人にやさしくし分け与えることができるのが人ならば、やはり希望はあるのか。

一人一人の意識の向上、が必要なのは勿論のことです。でも、それだけに頼っていては、時間が足りなくなりそうな昨今、特効薬などないだろうけれど、何かできないものか。「限りなき成長」を前提としない経済システムのありようのモデルを、経済学者は提出してくれないだろうか。「生態系のなかの人間」という認識をきちんと育てることを軸とした教育はできないものだろうか。そんなことを考えています。

寮美千子  多様性が世界を救う?! 2002年03月15日(金)17時25分27秒 http://ryomichico.net

昨日、勇崎哲史氏を囲む飲み会があり、多彩なメンバーが原宿に集結。女性論から岡本太郎、芸術論、憲法論、先住民のコスモロジーから癒しというイメージの問題点まで、話題が沸騰して、大変な盛会でした。質量ともに、とても再録できるものじゃないのが残念。いずれ、折に触れぼちぼち昨夜話した内容に触れられたら、と思っています。

とはいえ、さわりを。

▼「護憲か改憲か」
話が憲法に及んだとき「護憲か改憲か」という言葉が出て、憲法論の専門家である清水雅彦氏より「ちょっと一言!」がありました。
一般に、憲法第九条のみに焦点を当て「護憲か改憲か」といいがちであるが、これは語句としておかしい。ぼくは憲法第九条は護っていきたいと考えているが、第一条の天皇制については改憲すべきであると考えている。(ここで、九十九条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」という条項についても書きましたが、これはわたしの理解不足による完全なる聞き違いだったので、誤解を防ぐために削除します、正しくは清水雅彦氏の投稿をご参照ください/2002年03月16日・記)従ってわたしは「改憲派」であるけれど、第九条については大切にしたいと考えている。第九条について護りたいといっている人々を「護憲」という言葉でいっしょくたにしては、誤解を生むのでいけない。
記憶に頼って書いているので、正確ではありません。清水先生、添削してください!
しかし、このお話、目から鱗。確かに「護憲」という言葉で、戦争放棄と天皇制の擁護をいっしょくたにしてはいけない。言葉は正確に使わないと、思わぬところで足を取られることがあると感じました。

▼法律は必要悪である
本来、人々がお互いに高い倫理観を持って、各個人で責任を持ってすべてを判断できれば、それにこしたことはない。しかし、それは理想論で実現不可能なので、便宜的に「法律」をつくっている。だから「法律だから守らなければいけない」という考えは間違っている。守らなければいけないのは「法律だから」という理由ではなく、それを侵すと迷惑を被る他者がいるからである。法律を考える上で、そのことを忘れてはいけない。
といった主旨のお話も、清水先生より伺い、これもまた目が覚めるような思いがしました。「人権」も生まれながら自然にそこに存在しているものではない、人々がたゆまざる努力によって獲得してきたものである、という考え方も新鮮でした。清水先生にとっては、当然のことだろうけれど、わたしも含め、一般人は意外とそんなことを理解していない。ぼんやりとそう思っていても、ちゃんと言葉になっていないことが多いと思うのです。その、根底的な認識を抜きにして、個別の「法律」について語っても、土台が欠如していては、まっとうな議論にならない。枝葉末節にこだわるということになってしまう。

▼必要悪としての「所有の概念」
そこで、思いあたったのが、いまCafe Lunatiqueで話題になっている「所有論」。原始共産制とか、マルクス主義とか、いろいろ出てくるけれど、わたしはこう思うのです。

まず、資本主義とか共産主義以前に「地球」は誰の者でもない。この地球に棲んでいる生き物すべての命を支える存在、それが地球だと。それも、無限ではなく有限な存在だと。

生命は、それぞれしのぎを削りあいながらも、調和して生きている。一つの種だけが永久に生き続けることはできない。かならず「生態系」のなかですべてが循環して、そのひとつとして生きていかなければならない。

そこから見ても、たとえば「ここは人間だけの土地」というような線引きは、本来できないものである。それが、生命の普遍の、そして根源的な姿である。

人間がなにかを「所有」しているのは、所有という概念なくしては、人間社会をうまく回せないので、便宜上採用しているだけである。つまり、法律と同じように「必要悪」としての所有である。ということを念頭において、人間がどんな「所有」の概念を作ってきたか、それが何をもたらしたのか、考えなくてはならない。そういうことじゃないか。

▼「アイヌに学べ」の真意は?
勇崎哲史さんが「アイヌに学べ」と書いたそのことの意味は、そういうことだったのではないかと、わたしは受け取りました。まず「地球は本来だれのものでもない=すべての生命と非生命のものである」「われわれは生かされて生きている」「循環する生態系の一員である」ということをきっちり押さえて、そこからすべてを見直しましょうよ、という提案だったと思うのです。

その観点から、いまの人間の社会や経済活動を見直すとどうなるか。どうすれば、より「調和」した生き方が可能となるか。破滅へと突き進まなくてすむのか。生命システムとしての地球まで視野に含めた人間社会のあり方が問われている。

原始共産制やマルクス主義、から先の話ではなく、それ以前の、生命進化のシステムそのものからの見直し。「人間の経済論」だけに捕らわれていると、そこが見えなくなる危険がある、とわたしは思います。

▼学際的な思考の必要
しかし、またそのような大きな視野で得られた結論を、実際に施行していくためには、具体策が必要。そこで、もちろん「経済論」や「法律」が必要になってくる。そこをどうやって結びつけるか。「生命システムとしての地球」の問題を、どうやって「経済システムとしての人間社会」に反映していくのか。それがいま、わたしたちに課せられた大きな課題だと思うのです。

地球生態系について語る学者は、政治や経済に疎い。経済や政治について語る学者は、生命システムとしての生態系について不案内。それが、細分化した学問の世界の現状だと思います。そのうえ、わたしのような一般人は、そのどちらにも疎い。

各ジャンルに、どうやって橋を架けるか。いわゆる「学際的な」方法論をいかにしてとるか。そこで得られた知識や叡智を、いかにして一般人に流通させるか。

▼歓迎! いろんな人
問題は山積ですが、清水雅彦氏のような憲法学者から、天文学者、中国語エキスパート、童話作家、画家、音楽家、福祉関係仕事をする人、自主的プー太郎、広告関係者、主婦などなど、さまざまなひとが集まるCafe Lunatiqueが、そのような「お互いの枠を超えた理解」の一助になれば、と主催者は野望を抱くのでありました。

そんなわけで、どちらかというとアート系、マスコミ系の仕事人が集まった昨日の会合に憲法学者の清水雅彦氏が来てくださったことは、大収穫。生物世界の大原理と同じように「多様性」が世界を強靱にし、真の安定を招くってわけか?! これからも、よろしくね。

大長老  パルステラさま 2002年03月15日(金)02時19分31秒 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8863/rojin/rojin_index.html
ショウユ?いや「所有」を巡るエピソード二件 へのコメント

↓小生、仮名入力なので「パルステラ」とてもたすかります。
ことえり、平仮名入力で変換するとカタカナになるし…年寄りにとってのバリアフリ−。

パルステラ  ショウユ?いや「所有」を巡るエピソード二件 2002年03月13日(水)20時08分11秒

おひさしぶりにお邪魔します。

このところ、「所有」についての議論が活発になされているのを、
興味深く拝読させて頂きました。
私は、思想の中での「所有」権については無知無学この上ない人間ですし、
これまでの御意見についての建設的な考えを述べるという主旨でもありませんが、
以前、個人の所有意識について、何度か考えを改めさせられた事があり、
私には印象深い事でしたので、余談ながら書かせて頂きます。

ひとつは、バチカンの神父という方にお会いした時の事。
この方は現役の日本人神父で、友人宅でたまたま御一緒したのですが、
彼からいろいろカソリック美術について話を聞くうち、私がイコンについて
興味を持っていると感じられたのか、イタリア版のかなり立派なイコンの本を、
バッグから取り出して惜し気も無く私に下さったのでした。
それは、彼がある人から貰ったものだそうでしたが、自分には個人所有という観念が
ないからだとの事。
さらに聞けば、世界中を神父として旅をする際に持ち歩く物の中で、
バチカンから支給されるお金や服、下着に至るものをはじめとして、外から
講演などで得たもの、貢ぎもの、すべては( 消耗するものは返すわけではないが、)
使命のために預かっているその身体と同じであって、自分個人として所有するものは
一切無いのだそうです。むろん彼等は「神に仕える身」という訳ですから、
当然と言えば当然なのですが、バチカンや、神が彼を「所有」しているということかな......
という思い以前に、御本人の「私物全く無し」の徹底ぶりに、改めて所有とは何かを
それまでの自分に照らして根源から考えさせられたのでした。
ある意味では、その意識の潔さが羨ましくさえ感じられました。

もうひとつは、イギリスに住むある人と、アラブ系の隣人の話。
ごく普通の庭のある家に住むイギリス人の隣に、アラブ系の家族が引っ越して
来て、お互いに隣人として暮らすようになります。ある日、アラブ系の隣人が、
自宅にはまだ庭の水道が完備されていないので、お宅の庭の水を使わせてくれるようにと
頼みに来たそうです。それでイギリス人の方の婦人が快く庭のホースを貸したところ、
毎日、ほぼ終日水を使い続け、また遠い自国への国際電話も借りる事まで加わって、
数日それが続き、一段落しても一切御礼すら言わなかったと、イギリス側の家族は憤慨しました。
「ずうずうしさにもほどがある!」と。
ところが、実はアラブ系の家族にとって、所有の意識というものがまるで違っていたのでした。
水は広大な砂漠地帯の中では分かち合うもの。
電話すらもめったに引けない区域では、皆で共有するものに他ならなかったのです。
ですから、その後、アラブの隣人も自分の庭で育った物やその他様々なものを、
ごく当然のようにイギリスの隣人と分け合い、イギリス婦人から御礼を言われて、
ひどくけげんな顔をしたというのです。
これは、どちらが善い悪いの問題ではなく、所有意識のあり方の違いでした。
その「意識の違い」に、お互い気付くまでには、かなりの時間と努力が必要だった事でしょう。

個を超えて、大自然の恵みと厳しさ(あるいは神)へ真摯に心を向ける事を知る人達の中には、
そうでない人間よりも遥かに共有(分かち合いの意識)がしっかりと存在しているように思えます。
さまざまなネイティブの少数民俗の人達の中にも、装身具や道具類を除けば
基本的に共有の意識が脈打っているように思われます。私有と共有のバランスが出来上がっているのです。
彼等が憤然と立ち上がるのは、その神そのものとも言える聖域が外から一方的に侵された時が多く、
自然という異形の神との交感が妨げられる事こそが彼等の最も深刻な悲しみと怒りなのでしょう。
このあたりは、寮さんの著作のテーマにもありましたし、以前にも何度か話題になりましたから、
繰り返すまでもありませんが。

個人所有(日々の営みの為の便宜的な所有)のものと、共有すべきもの(分かち合うべきもの)とは
双方調和を保つのが望ましいわけで、それは、時代の変化と共に必ず変貌していきますが、
その調和のためには、後者(真に世界で共有すべきもの)が具体的に何であるのかを
はっきりと見通す意識がこれから必要なのかも知れません。
また、個と個、種と種、民俗と民俗......それぞれ違っていて当たり前なのであって、
その違い(以前『持ち前』という言葉が出て来ましたが)、つまりそれぞれの「らしさ」を、
「違っている」からこそ、お互いに愛し、尊重し、と同時に根源的な共通の願いを見つけだす事は、
困難ではあっても、決して不可能ではないと私は信じます。
イギリス人家族とアラブ系の家族は、お互い隣人として付き合ううちに、その「所有意識」の違いについて、結局はお互いを理解し合えたのですから。 この雛形のような例は、本当に奇跡でしかないでしょうか。

このところ、絵描きとしての眼の神経細胞がしきりにこう申しております。
「まず真に美しいものは、自然であれ、人工物であれ、すべて共有財産でございます。」

****長々と失礼致しました。絵描きの不慣れな文ということで、お許し下さい。

松永洋介  しょうゆの概念について 2002年03月13日(水)18時01分02秒 http://www.ceres.dti.ne.jp/~ysk/
自然vs人工? へのコメント

しょうゆといえば、日本では大豆を原料にしたものが主流ですが、魚を原料とした魚醤(ぎょしょう)を忘れることはできません。
秋田には有名な「しょっつる」があります。能登には「いしる」、小豆島には「いかなごしょうゆ」というのがあるらしいのですが、不勉強にもぼくはいかなごしょうゆを知りませんでした。
東南アジアへ目を向けると、タイ、ベトナム、フィリピン、……、広い地域で魚醤が使われています。呼び名は地域によってニョクマム、ナンプラーなどいろいろです。(⇒参考

うちはエスニック料理をよく食べるのですが、うちで使っている魚醤は、小田急相模原のサリサリ・ストアという小さなフィリピン食材屋で買ってくるパティス(フィリピンの魚醤)です。
(サリサリ・ストアは小田急相模原駅から東海大学附属中高へ行く細い通り、ブラック・モンクスというジャズ屋の隣。サリサリ・ストアではパティスのほか、餃子や饅頭に欠かせない、唐辛子入りの辛いお酢も入手しています。)
ちなみに、うちで使っている魚醤でないしょうゆは、ふだんはキッコーマンの丸大豆醤油ですが、入手できるかぎりは、西はりま天文台近くの平福(ひらふく)「たつ乃屋」の三年醤油と米しろ醤油を愛用しています(たつ乃屋とヒガシマル醤油との関係は不明)。こんど行ったらまた買わなきゃ。

ところで、ナンプラーは魚を原料としたしょうゆですが、猫を原料としたしょうゆは「ニャンプラー」といいます。独特の風味があるといいますが、いま味わえるのは広州のみのようです(さすが“四本足のものは椅子と机以外なんでも食べる”土地柄です)。
また、博打うちを原料としたしょうゆを「ギャンブラー」といいます。東南アジアではマカオが有名ですが、最近はモナコ、ラスベガスなど、欧米でもつくられているようです。いちかばちかのダイナミックな味わいが特徴です。

え?「しょうゆ」でなくて「しょゆう」の概念について話してる? こりゃまた失礼いたしましたー。

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