▼「人間圏」を提唱する松井孝典氏への違和感
鳥海さんが、
掲示板「BBS地球の地軸を星野道夫に傾ける」で「気になる」とおっしゃった宇宙物理学の松井孝典氏について、わたしも別の意味で「気になり」、著作を読んだだけではなく、以前、大枚払って松井氏のカルチャー講座の連続講義を聞きにいったことがありました。
松井さんの「人間圏」の考え方、及び「月のあたりから俯瞰して地球・生物・人間を捉える」という見方。大きな時間スケールのなかでいまの人間の問題を考えなくてはいけない、という点において、一見わたしの考えと重なるように見えますが、実はとても微妙なところで、違うのではないか、松井氏の考え方には、かなりの「傲慢」が潜んでいるのではないか、ということをわたしは危惧しています。
▼シミュレーションは神の視点か?
「太陽系生成をシミュレーションする」というのが、松井さんの大きな仕事のひとつでした。コンピュータでシミュレーションして、宇宙塵が太陽系になっていく様を目に見える形で復元する、ということをしている。その時の松井さんの心境は「いま、まさに太陽系を生成している。ぼくは神の視点に立った」ということでした。だれもが、地上にはいつくばって目先のことしか見えないのに、ぼくは神の視点で高みからその全体を俯瞰している。そういう気分です。
その「優越」の気分が、松井思想の根源に流れていることは否めないと思います。それは、著作のはしばしに現れています。(わたしはかつて、彼の著作を読みながら、どうしてもそれが鼻について、そこに線を引きながら読みましたが、読み終わってすぐに、古本屋に売ってしまいました)
(余談になりますが、松井氏の「太陽系生成シミュレーション」は、NHKの科学番組でも大々的に取りあげられ、話題を呼びました。しかし、シミュレーションというものは、投入する数値によって激しく結果が変わってくるものです。そして、投入できる可能性のある数値の幅はかなり広い。松井氏の場合、得たい結果が得られるように任意に操作した数値が投入された結果、得られた生成理論でした。巷では話題になりましたが、惑星科学の世界では、そのような認識があり、科学的評価は低いと、理化学研究所のある科学者から聞いたことがあります。専門外なので、真偽のほどはわかりませんが、その時、なるほどそういうことだったのか、と思ったことを覚えています。)
▼松井氏の根底に流れる悲観論
例えば、人類の未来について、松井氏は根本的に悲観論を持っています。「どこまでも増えていこうとするのが生物の本質なのだから、人口爆発はどうやっても食い止めることはできない」という本音を抱いています。そして「でも、ぼくは悲観しない。宇宙は、生命を生み出すようにできている。地球の人類が滅びても、宇宙にはそれこそ星の数ほどの生命や文明があるはずだ」といいました。
これは、人類の未来について、わたしが直接質問したときの松井氏の返答でした。つまりそれが「ぼくは神の視点を持っている」ということなのでしょう。その時、わたしが重ねて「それは『人間はたくさんいるから、ひとりくらい死んでもどうってことない』という考え方と、どう違うのでしょうか?」と質問したところ、松井氏は「もう時間ですから、きょうはここまでにしましょう」と打ち切りにしてしまいました。実際、お忙しかったのかも知れませんが、とても残念でした。
さて、松井氏のそのような基本認識の上で、いくら「人類はストック利用型の文明(=石油などのストック・エネルギー資源利用型文明)からフロー利用型の文明(太陽エネルギーおよび地球システムによって生じる物質循環の流れに乗った文明)に転換すべきである」といっても、どうも説得力に欠ける。表面的には正論だけれど、そこに真実がこもっていない、とわたしは感じてしまう。
▼われわれは、どの時間スケールにフォーカスすべきか
松井氏は「未来の地球」について語るとき、結論はいきなり50億年後の話になってしまいます。
これから人間圏がどうなっていくのか。短期的なスパンでどうなるかはぼくにはわからない。我々がどんな生き方を選択するかにかかっていますから。でも、時空スケールをうんと長くとって、地球という星がどうなるのかは見えます。
50億年後に地球がどうなるか──。(中略)
地球の歴史は、今ちょうど折り返し点にきているということです。これからは、これまでたどってきた道を逆にたどり始める。ガスから火の玉状態になり、これが冷えて海になり、大陸が生まれ、生物圏が生まれ、そこから人間圏が生まれ、現在の地球システムになった。これから以降は、この逆の過程をたどって終焉に向かうと考えられます。
これは確かに、現在科学が到達した地球の行く末の姿です。けれど、文明論を話しているときに、いきなりそこへ飛ぶことに、一体いかなる意味があるのか? 「結局は無に帰す」ことを結論じみた場所に位置させることに、いかなる意義があるのか? さらに、松井氏はこう述べます。
ぼくがものを見る視点というのは、俯瞰的な見方です。地表に這いつくばって見るのではなく、空からものを見ている。空から見るのであってもその高度によって見える時空スケールには違いがある。ぼくの場合には宇宙に出てしまって、月のあたりから地球を見ているわけで、これが今、人間が持っている俯瞰する高度としてはいちばん高いだろうと思います。こういう高度から人間のあり方や地球がどうなっているかを考えることが大切だと考えます。
人間の存在を絶対視するのではなく、相対視してみる。人間の歴史だけでなく、宇宙、地球、生命の歴史を踏まえたパラダイムで、現代を見つめ直し、価値観を問い直していくことが必要でしょう。
一見、とても正しい論理です。確かに正しい。しかし、そこには危険な陥穽が潜んでいると、わたしは思います。
科学的認識をもつことは大切。50億年後に人類が地球ごと消えてしまうという認識は、いまの科学では正しい結論です。
しかし、それを持つことで得られる視点にこそ、意味がある。
試しに、この50億年を50年に縮めて考えてみましょう。50歳未満の人なら、こんなことがいえる。「50年前にはわたしは生きていなかった。50年後にも生きてはいないだろう」 この考えが人間の視点に何をもたらすか。死を思うことです。メメントモリ。それが何をもたらすか。「だから、何をしても無駄だ」ということになる人もいるかもしれない。けれど、それよりは、「だからこそいま生きていることの大切さ、かえがえのなさを認識する」ことが多いのではないか。50年、という時間単位は、日常からは遠いけれど、充分に実感的な時間です。
松井氏が50億年後について語るとき、それは何を意味しているのか? 人生の50年と、地球の50億年は、それこそ「スケールが違う」。50億年未来の消滅は「いまを生きていることのすばらしさ」には直結しにくい。逆に、50億年かけてつくられた地球のいまの姿、ということを考えると「いま、こうあることのすばらしさ」が際だつはずです。実感的でない途方もない時間をかけてつくられた精妙なシステムに対する敬意が生まれるからです。では、なぜ松井氏は「結論」の部分に、あえて「50億年かけてできた地球」ではなく、「50億年後の地球の消滅」を語らなくてはならないのか?
▼50億年後の消滅を語ることの無意味
それは、うがった見方をすれば、松井氏は、そのような大スケールを最後に持ってくることで、自らが「神の視点にいる」ことを確認したいからではないか。個や人類を超越した視点を持つことで、自分は個や人類を超越したと感じたいのではないか。わたしは、そう感じないではいられない。
ぼくの場合には宇宙に出てしまって、月のあたりから地球を見ているわけで、これが今、人間が持っている俯瞰する高度としてはいちばん高いだろうと思います。
この言葉からも、松井氏が「一般人」とは違って、自分はすでに神の視点にある。そのような自負が感じられます。それさえも乗り越え、さらに銀河系の中心に位置する視点をぼくは持っているといわんばかりの物言いに、わたしには思えてしまう。
環境問題を論じるとき、もちろん50億年後の地球消滅という事実はあっても、我々がフォーカスすべきは、そこではないことは明白です。同じ50億年でも、わたしたちが見るべきは、生物が生まれ、システムとして機能して今日の地球環境をつくったというその事実。未来の消滅ではなく、むしろ過去の積み重ねの結果だと思います。
そして、その20億年という長い長い生物の歴史のなかで、松井氏のいう「人間圏」の作用は、実はたかだか1万年、化石燃料を消費するようになってからは、わずか250年の歴史しかない、という恐るべき事実です。この、瞬間にも等しい時間に、人類は地球の大気の組成さえ変えるほどの働きかけをしてきてしまった。50億年をかけて物質と生物が巧妙につくりあげてきた恒常的システムを、とんでもない短い時間で乱している。そのことにこそ問題があり、考えるべき要素がある。その時に、50億年後の消滅を語ることは、ナンセンス以外の何ものでもない。
▼「大きな時間単位で考える」ことの傲慢と謙虚
真実の科学は、それが進めば進むほど、人間を「人間中心」の世界観から、人間が世界のはしっこの一員である世界観へと移行させてきました。天動説から地動説しかり、太陽系が銀河の辺境の惑星系であるとわかったことしかり、そして進化論は、人間が万物の霊長として最初から君臨していたわけではないことを示してくれました。
しかし、科学技術は「なんでもできる」幻想を与え、それとは正反対の世界観へと、人間を導いてきました。そして、その全能感が、人間の文明を加速させ、短い期間で地球環境を激変させることになったのです。
そして、その全能感は、本来「謙虚」をもたらすはずの科学そのものまでも汚染し、「なんでもわかる」という不遜な幻想さえ、人類に抱かせました。
そのような不遜な幻想を以てして科学が得た結論を解釈すると、ひどい歪みが生じる。例えば、進化論。「人類の源はひとつ」と解釈すれば平等論になるけれど、優性遺伝幻想を重ねるとそのままヒトラーの差別主義につながる。自然に対しても、「生物の一員としての人類」という観点は、人を限りなく謙虚にさせるけれど、「頂点に立つ人類」と解釈することで、限りない自我の拡大をもたらす。進化それ自体に善悪の価値はないのに、「進化=すばらしきこと」とすることで、大航海時代の舞台をそのまま「宇宙」へと移したような、侵略的幻想を持ってしまう。
その「全能感」にブレーキをかける「叡智」を働かせない限り、人間は他の生物もろともに滅びてしまう。科学技術が「全能感」の根源なら、真の科学は「叡智」の元だと、わたしは思います。
科学技術のもたらした「全能感」と、真の科学がもたらす「叡智」をごっちゃにしてはいけない。そこは厳しく峻別すべきであるとわたしは考えます。前者は人間を傲慢にし、後者は人間を謙虚にします。
「どうせ帰依するなら、生物の時間に、宇宙の時間に帰依すべきだ」とかつてわたしは語りました。それは、科学によって得られた事実を元に、自分という存在の位置を知り、より謙虚になろうという呼びかけです。
大きな時間を考える、ということの裏側には「神の視点のような大きな時間について考えられるわたしという偉大な存在」という陥穽があります。同じ、大きな時間について考えても、一生物の視点に立つか、神の視点に立つか。どちらの視点に立って見るかで、世界の感じ方は一変します。
▼似て非なるもの
かつて、吉田兼好は「諸行無常」を語りました。宮澤賢治は「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じていくことである」と、一見誇大妄想のような言葉を「農民芸術概論」の中に書きつけています。
しかし、これらが「自我の肥大」を意味していたか。というと明らかに違うとわたしは思うのです。逆に、だからこそ謙虚に生きるということを語っていると感じます。自然の声に耳を傾け、死すべき運命を持ったすべてを慈しむ。
松井氏の言葉は、表面上は、吉田兼好や宮澤賢治によく似ている。けれど、決定的に違う。似て非なるものだと、わたしは感じます。その巨大な時間を自己の中に感じたからこそ、謙虚になるのではなくて、自我を肥大させ、自己を神の視点に置く。
「かけがえのないわたし」「かけがえのない地球」という思想は、自己を神と同一視するところからは生まれないのではないか、とわたしは思うのです。
▼微妙なる差異を嗅ぎわける力
環境問題について、積極的発言をしている科学者に対して、どうしてこのような異議を唱えるか。わたしは、地球の未来に、あるいはこの現状に心を痛めているすべての人が、そのような鋭敏な感受性があるからこそ陥りやすい陥穽にはまってほしくない、と思うからです。考えるべき道筋を巧妙に逸らされてしまうことで、本来、地球の未来に力になるはずの人が、うまくごまかされてしまう。さらに深く進められるはずの思考を、そこで停滞させられてしまう。そのことが惜しくてたまらない。勇崎さんが以前、鳥海さんの掲示板に書かれた「癒されて、思考を昇華されたくない 投稿者:勇崎哲史 投稿日: 3月 5日(火)22時36分25秒」も、おそらくは、わたしと共通の気分を持たれていたのではと思います。映画「ガイアシンフォニー」についても、実は松井氏に感じるのと同じような微妙な部分で、決定的に「違う」と感じられずにはいられないものがありました。そのことについては、また別の機会に書きたいと思っています。
このような微妙な差異。微妙で、表現された言葉としては一見、ほとんど同じようにみえるものの陰に、実は正反対の思想や感受性が紛れていることを、言葉によりきちんと説明することは、大変な労力がかかることです。わたしは松井孝典氏や「ガイアシンフォニー」を排除したいと考えているわけではありませんが、人々がその「匂い」の決定的違いに気づいて欲しいと願っています。もちろん、峻別しつつ、そのなかでいいところはいいと受け取る。でも、ちょっと違うぞそれは、という部分に気づいてほしい。丸呑みにしないでほしいと願っています。そのように峻別できてこそ、その向こうにほんとうに着実な「叡智」への道が開けると考えているからです。
※松井孝典氏の文章は、以下のWEB講義より引用させていただきました。
http://eco.goo.ne.jp/magazine/files/lesson/nov00.html