映画『PRISM』試写の後、この映画のプロデューサーである水戸芸術館の鈴木朋幸氏のはからいで、監督の福島拓哉氏とお茶をする機会をいただいた。下北沢の喫茶店でシナモンロールを食べながらの雑談。録音機もなく、ノートも忘れたのでメモもない。記憶だけに頼っての再現なので、不正確なところがあるかもしれないが、あまりに興味深い話だったので、忘れないうちに記しておきたい。
▼現実と幻想を逆転させた色彩設計
――映画の中で、現実の映像の色合いがくすんでいたけど、あれは?
福島 現実の方を、東欧のようなイメージにしたかったんです。東欧って、行ったことないんですけどね。どこか希薄な、色彩のくすんだ感じ。そんな感じにしたかったので、色や光を落としました。
――逆に、映画の中の映画の映像の方がクリアで、色彩もヴィヴィッドでしたね。
福島 作中の映画の方が、作中の現実よりかえって現実に見えてくる。そんなふうに撮りたかったんです。そういうことって、あるでしょう。現実より、夢の方がずっとリアルだってこと。
――ありますよね。夢の方が、夾雑物がない分、感情が純化されている。例えば、悲しいって思うと、もうほんとに悲しくて悲しくて、理由なんかなくて、悲しいって感情だけが純粋に存在する。だから、ぼろぼろとめどなく涙が流れたりして。そういう、純粋な夢の感情に比べると、現実は夾雑物だらけ。感情はそこに紛れてしまう。
福島 そうなんです。紛れて、希薄になってしまう。現実の映像では、その希薄さを表現したかった。だから、現実の場面の方が、色も光もずっと希薄に撮ってあるんです。夢の場面の方が、ずっと生々しくてリアルでしょう。映像もだけれど、物語もね。どろどろの三角関係の話だし。
――そうですね。見ながら、ああ、わざと撹乱させてるなって思ってドキドキした。現実と幻想が逆転していく感覚が面白い。
福島 ぼく、ほんとうに現実でもそんなふうに感じるんです。ぼくが感じてる現実って、ほんとうに現実なんだろうかって。そんな感じを表現したかった。
――それ、よく出ていたと思います。わたしがいま連載中の小説も、実は同じこと、考えて書いているんですよ。残念なことに、いまひとつその混乱が出ていないけれど。でも、目論見としてはそうだった。ただ、主人公は、現実と幻想、二つの世界を行き来しながらも、自分の足場は現実だというところに、あくまでも踏んばろうとする。あっちの世界に足をすくわれないように抵抗する。
作品は、主人公の一人称で書かれているので、どうしてもその「現実が足場」の枠をとっぱらえないところがあるんです。
でも、それでいいかもしれない、とも思っている。二つの世界があることを認めながらも、こっちの世界に自分の意志で留まろうとする主人公を描きたい。
『PRISM』のなかでも、かなり幻想よりの人物がいる一方で、非常に現実的な人物が出てきますよね。ボクサーと女子学生。わたし、とくにボクサーのキャラが好き。
▼幻想的人物を救う現実的人間
福島 どのキャラがいちばん好きかって聞くとホモの男子学生を好きだっていう人がほとんどですね。あの役は、繊細で、いちばん感情移入しやすい得な役柄かもしれない。ボクサーを好きっていう人は、玄人筋っていうか、ちょっとひねくれた物の見方をする奴が多い。そういう人には人気です、あのボクサー。
――じゃあ、わたしもかなりひねくれ者の部類ってわけかな。ははは。
その人気のホモの男の子に「直るわよ。わたしが直してあげる」っていう、あのピンのはずれた女子学生の描きかたも、すごくよかった。あの二人がいるから、この映画は単なるアブナイ幻想映画じゃなくて、もっと骨太のものになっているって感じたんです。
福島 あの女子学生は、実をいうと、もっとも観客の目線に近い人間かなって思っているんです。ある意味、いちばん自分と近しく感じられて、感情移入しやすい。
――世間の規範を、そのまま自分の規範として受け入れて、強い矛盾を感じないでいられる。そういう存在ですよね。
福島 女子学生もボクサーも、自分のことしか考えていない困った奴。でも、元気。
――相手のことを深く思いやる繊細さに欠けている。悪く言えば、無神経。だから、元気でいられるって面、ありますよね。その元気さ、健康さが、病んでいる人を救っちゃう。繊細じゃないから人を救えるっていう、そういう逆説みたいなことが成立しちゃう。
福島 そういうことって、実際あると思うんですよ。同質の人間、深くわかりあえる人間同士って、実は、長いこといっしょにいられないんじゃないかって思う。お互いがわかりすぎ、見え過ぎちゃって、息苦しくなって。
でも、ああいう無頓着な奴が元気にしていてくれると、なんかこう、自分の細かい悩みなんて、存在しないも同然に扱われるから、かえってそれで救われるのかもしれない。
――いますいます。わたしの友だちにも、そういうカップル。男の方がすごく繊細。繊細すぎてむずかしい人なんだけれど、それがよくわからない女の子と結婚した。無神経ってわけじゃないけれど、資質が違うから、わからないんですよね。女の子の方は、かわいくて、いつもにこにこした元気な子。友だちは、結局その子の笑顔に救われちゃう。それでボコボコ子どもつくって、いい家庭つくっています。
福島 それは、本人が求めていたものとは違うかもしれない。胸焦がすような恋、っていうのとは、やっぱり違うでしょう。でも、平穏無事だし「ま、いいか」って。
――なんかズレていて、ほんとのしあわせとは違うかもしれないけれど、その「ま、いいか」に救われることってありますよね。そうじゃなきゃ、救われないことも。
『PRISM』には、そういう健康さを感じたんです。純粋さにのめりこんで、そこに淫してしまわない。あのような、純粋な精神にとっては夾雑物であるような現実を差し挟むことで、映画全体が強靭になっている。そこに、すごく好感を持ちました。福島さんて、とても純粋で幻想的なのに、そこにしがみつかない余裕がある。その余裕が、いいですね。
▼恋する心の視線
――しかし、映画の中の映画に出てくる男、あれ、ひどい男ですね。婚約者がいて結婚するのに、別につきあっている恋人とも別れようとしない。あんなバカ男の、どこがそんなにいいんだって、思っちゃう。
福島 みんなにそう言われます。
――どんな恋だって、傍から見れば「あんな奴のどこがいいの?」みたいなものだけれど、本人にとってはたまらなく魅力的で、この人じゃなくちゃだめ、って感じ、あるでしょう。その本人の視線が、映像にもっとあったらなあって思ったんです。
福島 あのふたりの物語、もっとたくさん撮ったんですが、編集でずいぶんカットしたんです。それで、描き切れていなかったところもあったなあって思っています。もう少し、切らないで入れたらよかったかなあ。
――そうかなあ。素人考えでこんなこというのも何だけれど、あの男の魅力を、物語で説得する、っていうんじゃないような気がするんですね。長くなくてもいい。魅力的に見える一瞬が、映像として切り取られていたら、それで充分説得力あると思うんですよ。ちょとした仕草、目線。そんなものだけでも充分じゃないかって。恋それ自体が、そういうものでしょう。文脈のなかで恋するっていうより、なんか一瞬のことに魅力を感じてしまう。女の子の側のそんな視線が欲しかった。
福島さん、男だから、なかなか女の子の視線になりきれないのかなあ。
そういえば、ホモの学生が恋する切ない気持ち。あれがすごくよくわかった。やっぱり、男の気持ちは、描きやすいのかなあ。
もしかして、女の気持ちがよくわかってない?
福島 ははは。そうかもしれません。もっと勉強します。
――でも、女の子が悲しむシーン。あれはよかった。悲しい気持ち、すごく伝わってきた。だから、一層惜しい。男の魅力がわかったら、もっと感情移入できただろうになって思いました。
とはいえ、わたしも小説の中で、バカ男にひっかかるバカ女を描いているんですが、やっぱりむずかしい。どうしてこんな男に? こんな男のどこがいいの? ってことになっちゃう。まあ、わたしの物語は、相手に魅力があるっていうより、恋する本人に問題があって、それでバカ男に惹かれちゃうんだけれどね。だから、その本人の内面を描くことに重点を置いたんですが。
福島 女の子が「濃密な恋をした」って語るでしょう。ああいう濃密な恋って、相手がフツーの人じゃ、できないんですよ。相手がデタラメな奴だから、濃密にならざるを得ない。濃密って、そういうことかもしれない。
――納得です。相手がまっとうだと、まっとうな恋になるものね。
結局、女の子はそのバカ男と自分の意志で別れるわけだけれど、やっぱり恋する気持ちが消えたわけじゃない。最後の、泣きながら地下街を歩くシーン、すごくよかった。
福島 あれ、撮影が大変だった。いろいろあって、一回しか撮れないってわかってたから、地上で何回もリハーサルして、思いっきりテンションあげて「さあ、行くぞ」って、まるで桶狭間の戦いに出陣するみたいな気分で行きました。
――その緊張感、こっちにもびんびん伝わってくるいい映像でした。
▼解決のない結末
――いいなって思ったのは、この物語、解決がないでしょう。安易な答えが与えられていない。
福島 いろいろあって、その結果、主人公や登場人物が何かを得たり、成長する。そういう形の方が、商業映画としては、わかりやすい座りのいいものができたと思うんです。でも、そういうことはしたくなかった。だって、人はそんなに簡単に成長できない。じわじわじわじわ成長して、すごく時間が経って、ぐっと後ろに引いてみると、ああ、成長したなってわかる程度しか、成長できない。
――それを描こうとしたら、大河ドラマになっちゃいますよね。
福島 限られた時間を切り取って映像にする場合、そんなに飛躍的な成長っていうのが最後にくるのは、嘘になる。ほんの少し変わったかもしれない、なにか目に見えないくらいの成長があるかもしれない。それを描くことしかできないと思うんですよ。
――わたしも、そう思うんです。簡単に成長させたり、悟らせたりしたら、嘘になる。そんなご都合主義的な嘘は、書きたくない。
でも、そういうのを期待して読む読者は多いと思うんです。最後に救いがないと、そんな読者はがっかりする。
それでもやっぱり、誠実に描こうとしたら、安易な解決は与えられない。
『PRISM』は、その意味においても、誠実な映画だと思いました。
ホモの青年は、結局フツーの女の子といっしょになる。それは、自分の望んだ理想のすがたではないかもしれない。でも、ま、いいか。それで生きていける。
映写技師は、複数と関係を結びながらも、誰もちゃんと愛せない。愛したことがないという。「もしできるなら、やり直してみたい気もするけど、やっぱり同じ人生になると思うんだ」と告白する。
正しい解決もなければ、成長もできない。でも、なにか生命力みたいなものの側に足場を持って、しぶとく生きている人。そんな力を感じました。
福島 ぼくはね、星座を読むみたいに、ぼくの映画を見てくれたらなって思うんです。ひとつの軸になる物語があって、それが解決されて終わるのではない。映画のなかに、いろんなことが、星みたいに散りばめられている。昔の人が、星をつなげて、そこに自分で物語を付与したように、みんな自分でそこに物語を読みとってほしい。そう思っています。
――だから、映画をひとつだけの物語に収斂させてしまうような結末が用意されていないんですね。
▼映画でしか語れないこと
――ノベライズはしないんですか。
福島 ぼくがしようとは思いません。誰か、ぼくの映画を見て触発された人が、小説にしたいというなら、それは歓迎だけど。最近思うんですが、やっぱり映画でしか言えないことがあると思う。映画だけの手法があると思う。
たとえば、小説や物語だったら、起承転結、の結の部分だけが異様に短かったりしたら、バランス悪くてだめってことあるでしょう。でも、映画はそうじゃないんじゃないか。結が短くてもいいんじゃないか。映画の一瞬一瞬で訴えていけばいいんじゃないか、と思うんです。
――落語だって、オチなんて、どうでもいい。その過程を楽しめれば、それでいいってこと、ありますよね。
福島 ええ。ぼくのやりたいことには、やっぱり映画という形が、いちばんふさわしいと思う。だから、もっと映画を作りたいですね。
――期待しています。次の作品は?
福島 三本くらい並行して考えているんですが「痛い恋愛ロード・ムーヴィー」かな。
――それすてき。楽しみ。はやく見たいな。がんばってください。
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