アメリカの報復攻撃に対して、ビンラディン氏が、ビデオで声明を述べている。その映像を見た。背景は砂漠らしき場所の岩。その前にあぐらをかいてゆったりとすわった姿で、声を荒げるでなく、しかし熱のこもった演説をするビンラディン氏の姿は、わたしにとっては、ある種の新鮮な衝撃だった。あぐらをかいたビンラディン氏のそばには、何人もの同志たちが同じようにあぐらをかいて座り、静かに水など飲んでいる。それはどこか、アラビアンナイトの世界、わたしたちの知らない砂漠の国の、とてもエキゾチックな風景のように見えたのだ。
世界をゆるがすテロ行為の司令部(と推測される場所と人)が、SF映画に出てくるようなコンピュータだらけの密室や、大仰で権威的な執務室や記者会見場ではなく、単なる砂漠の岩の前、という前近代的な風景にあることを、ビデオは嫌というほど強くわたしたちに印象づける。
印象が強いといえば、9月11日のアメリカにおけるテロ攻撃も勿論そうだった。ニューヨークの世界貿易センタービルの崩壊といい、鉄壁と思われていたワシントンのペンタゴンへの攻撃といい、あれほど印象の強いテロ攻撃を、わたしは他に知らない。
まず、一機目が国際貿易センタービルに突っ込み、何事かとテレビカメラが向けられ、それを世界中に同時中継しているその時をねらいすましたように、二機目がもう片方のビルに激突した。世界中に電波で流されたリアルタイムの衝撃は、計り知れない。いままでの「テロ」という概念を覆し、安全で揺るがないと思っていた西欧諸国の足許は、実は水面に発泡スチロールの板を並べたようなものだったということを暴露した。最小限のコストで最大限の効果を上げるように周到に準備されたテロ行為だ。
もしも、ビンラディン氏が今回のテロ攻撃の首謀者だとしたら、その目的はなんだろうか? 和光大学へ行った折、アフガニスタンにも何度も足を運んでいる美術史の松枝到氏に素朴な疑問をぶつけてみた。まだ、テロが勃発して間もない頃のことだ。松枝氏は、こう答えてくれた。
「そこに問題があるということを、より多くの人に気づかせることじゃないのかな」
そうだとしたら、今回のテロ攻撃の効果は絶大だったといえるだろう。あの、世界貿易センタービルが砂の城のようにもろく崩れさる映像には、首謀者が期待した以上の効果があったかもしれない。飛行機がぶつかる瞬間の映像と、ビル崩落の映像をのせた電波は、首謀者が一銭も払わなくても世界中を駆けめぐり、繰り返し放映され、人々に忘れがたい印象を与え、考えるきっかけを提供した。「人々に強い印象を与えるために、最小限のコストで最大限の効果をあげる」という意味において、首謀者はどんな大企業もなしえなかった広告効果をあげた。つまり、首謀者は、最大級に優秀な広告プランナーだったといえるだろう。
その首謀者がビンラディン氏であるのかどうか、アメリカははっきりした証拠を握ったというものの、それがどんな証拠なのか、その情報はいまひとつはっきりしない。その説明はいまのところ以下のように口頭でなされただけだという。<毎日新聞
1 事件の2日前に義母に「大きなニュースがあるだろう。しばらく連絡が取れなくなる」といったことを盗聴したこと。
2 事件発生直前にアルカイダのメンバーが訓練施設から一斉に姿を消したこと。
3 ハイジャック犯のひとりが、アルカイダの幹部から資金提供を受けていた。
4 実行犯のふたりが、クアラルンプールでアルカイダの幹部と接触していたところをビデオ撮影されていた。
動かぬ証拠というには、それを説明する文書ひとつ披露されていないことが不思議だ。
これが、一国に攻め入るに足る充分な「動かぬ証拠」といえるだろうか? という疑問はおいておき、とりあえず、ビンラディン氏のことだ。
ビンラディン氏は報復後に行われた声明の中で、9月11日のアメリカにおける連続テロを、自身の所業とははっきりとはいわなかったものの「イスラムの神」がこれを祝福していると語っている。これはテロを賞賛する発言であり、事実上の犯行声明とも受け取れる。
このビデオはアメリカの報復攻撃以前に撮影されていたという。報復は夜間にされたのに、間をおかず発表されたビデオの映像が昼の映像だったからだ。つまり、報復があったら、どう対処するか、どう世界にアピールするか、ビンラディン氏は、予め考え、用意していたということに他ならない。そして、映像はまたもや世界を駆けめぐった。それが、あの、砂漠の岩の前であぐらをかいて座る姿だ。
アメリカの大統領には、専属のスタイリストやアドバイザーがいて、どんな服を着て、どんな口調で、どんな姿勢でしゃべれば効果的か、示唆しているという。そのアメリカ大統領の影が薄れるほど、ビンラディン氏の映像は「広告的効果」を持っていたと、わたしは感じている。
そのなかでビンラディン氏はいう。
>巨大なビルが破壊され、米国は恐怖におののいている。
>米国民が味わっている恐怖は、これまで我々が味わってきたものと同じだ。
(中略)
>米国民よ、私は神に誓う。
>パレスチナに平和が訪れない限り、
>異教徒の軍隊がムハンマドの地から出ていかない限り、米国に平和は訪れない。
たかだかビデオ一本。それだけで、ビンラディン氏は、アメリカを恐怖に突き落とし、飛行機に乗ることを恐れた人々が飛行機を利用しなくなったことで、航空会社は絶大な損害を被り、廃業する会社まででてきた。次の標的がどこなのか、あらゆる恐ろしい可能性を考えて原発やダムは厳戒態勢。人々は枕を高くして眠れない。
確かに、今回のテロ攻撃は綿密に計画されたもので、その裏に莫大な資金が投入されていることは事実だろう。しかし、今回のテロのほんとうに恐ろしいところは、そのような莫大な資金がなくとも、飛行機のチケットを買うお金と、カッターナイフ、そして数人の命知らずの男がいれば、一気に六千人もの命を奪い、アメリカを混乱に陥れるようなテロ行為が「理論的には」可能だということを、突きつけたことだろう。
つまり、ビンラディン氏は、アメリカ、そして西欧諸国が築いてきた「資本主義社会」の枠組み、つまり「金と力=経済力と軍事力を握った者が世界をコントロールできる」という世界の枠組みに対して「ノー」と強い否定を申し立てた、ということなのだと、わたしは感じている。
ビンラディン氏がつきつけていることは、こういうことだ。経済力と軍事力があれば、世界は思いのまま、自分たちは安全に快適な暮らしができると思ったら大間違いだ。きみたちが信じていた金も力も、当てにならない。「経済力でも軍事力でもないもの」が世界を脅かすことが可能なのだ。
そして、いままで「経済力と軍事力」で他国に介入し、そこを戦地と化して、多くの人命を奪ってきた「アメリカがしてきたこと」を、わたしたちはアメリカに「かなり小規模に」お返しして、その痛みをわかってもらおうとしている、ということなのだろう。
わたしはテロを支持する者ではない。テロはひどいことだと思う。しかし、正義の名をかたるいかなる戦争も、またテロと変わらずに許せない行為だと思っている。
「経済力と軍事力で動く世界の枠組み」に異を唱えるための行動が、あのような凄惨なテロ攻撃だったことを許していいなどとは微塵も思っていない。しかし、そのようにして異が唱えられたからには「ほんとうの平和」のために、わたしたちが新しく、どんな世界をつくっていったらいいのか、考えなければならないと思っている。
「経済力と軍事力で動く世界の枠組み」それは、二十世紀にわたしたちが営々として積みあげてきたものだ。経済成長なしにはやっていけないそのシステムが、地球の環境を破壊し、とんでもない破綻を招くことを、わたしたちはもう気づいている。このやり方一本槍では、だめなのだ。
しかし、アメリカはまだその方法論を捨てようとしない。京都議定書のサインも蹴飛ばし、アラスカの大自然を破壊して石油開発を進めようとしている。
そして、今回もまたアメリカは「経済力と軍事力で動く世界の枠組み」に異を唱えられたのに、それを無視して「経済力と軍事力」で対応している。大量の兵士が艦隊や戦闘機とともに送り込まれ、一億円ミサイルが湯水のように使われている。アメリカは、すでにこの「不朽の自由」計画に、どれくらいのお金をつぎこんだのだろう? そして、そのコスト・パフォーマンスは? ニューズウィーク誌が、揶揄するようにこう書いたという。「一億円のミサイルを使って、十ドルのテントを壊してどうするのだ?」と。アフガニスタンは、アメリカが爆撃する以前から、すでに瓦礫の山だという。「壊すものはもう、人の命しか残っていない」といわれるほどに。この、圧倒的な不釣り合いは、一体何なのだろう?
結局、アメリカが勝とうが負けようが、ブッシュ大統領が利益代表を務めているアメリカの石油資本と軍需産業は儲かる、ということだろうか? アフガニスタンは、使わないで積んであった不良在庫のミサイルの処分場として利用されているということだろうか?
ブッシュ大統領の支持率は、今回のテロ事件で、一気に90パーセントを超えたという。湾岸戦争のときのパパ・ブッシュ元大統領の支持率を抜いて、歴代の大統領のなかでいちばんの支持率だという。大統領選で、ゴアと僅差を争い、いつまでも当選が決まらなかったあのブッシュが、である。高支持率を後ろ盾に、軍隊を出動して、不良在庫のミサイルを使い、さらに石油資本と軍需産業の喝采を浴びる。今回のテロ事件で、いちばん株をあげたのは(得をしたのは)実際、アメリカではブッシュ大統領だろう。
ただでさえ不毛なアフガニスタンの、すでに瓦礫と化した街を攻撃しても、テロ組織を壊滅することはできない。それは確かなことだ。たとえ今回、ビンラディン氏を死に追いやったとしても、それで組織壊滅とはいかないだろう。組織が壊滅しても、大きな不満が鬱積する限り、また新たなテロ組織が登場するだろう。
わたしは、今回の戦いは「宗教の戦い」ではないのではないか、と思っている。金と武器という、人間の「外側」にあるものがすべてを律する世界の枠組みに対して、心という人間の「内側」にあるものに立脚した世界を主張し、その重要性を訴える戦いなのではないか。アラビア半島に生まれ育った彼らにとって「イスラム原理教」が「心の世界」を代表する世界だった、ということではないかと感じている。
アメリカは大艦隊を出動させ、最先端の戦闘機を飛ばし、物量作戦でアフガニスタンに襲いかかっている。なんでそんなにものものしくするの? と首を傾げたくなるような、金と力を注いだ大パフォーマンス。大げさにすればするだけ、わたしには、お金ばっかりかけて効果の薄い下手な広告に見えて仕方ない。二十世紀的な、古くさい方法論にしか見えない。
カッターナイフという武器だけで、資本主義を象徴するふたつのビルを破壊し、誰もが鉄壁だと思っていたペンタゴンのビルを壊し、さらにはたった一本のビデオテープで、世界の人々を震撼させたビンラディン氏のやり方は、異常にコスト・パフォーマンスのいい広告だ。そして、その方法論自体が「金と力」の世界へのアンチテーゼを示しているという、象徴的な方法だ。そんなにも鮮やかな新しい方法=二十一世紀的方法が、岩と砂の砂漠からやってくるなど、誰が想像しただろうか?
しかし「金と力の暴力」を否定するために「暴力」を使ったところに、テロリストたちの自己矛盾が生じている。その矛盾は、見過ごされるものではない。だからといって、それを否定するために「暴力」を使うことが、許されるわけがない。ビンラディン氏の暴力を「テロ」と呼んで否定するならば、アメリカの数々の戦争行為もまた、テロと変わらない暴力に違いない。
わたしは、アメリカは即刻、軍事による報復行動を中止するべきだと思う。強大な軍事力を経済力をふりかざして他国に介入するのもやめるべきだと思う。日本がアメリカの報復行動を支持することも、やめるべきだと思う。暴力によって暴力は解決できない。他者と異文化への敬意なくして平和はありえない。
しかしながら、アメリカが否定しているのは、テロ行為ではない。暴力でもない。アメリカが否定しているのは「金と力がモノをいう世界の枠組み」が否定されることを、否定しているのだ。そのアメリカに、いかに「暴力はいけない」といっても通用するわけがない。アメリカのいう「自由」とは「金と力があればなんでもコントロールできる自由」だ。それを「不朽の自由」と呼んではばからない。いつまでも、それが通用すると夢見ていたいのだろう。
アメリカ人のすべてが、自由をそのように考えているとわたしが考えているわけではないということは、いうまでもないけれど、いっておこう。アメリカには、もっとすばらしい意味での自由があったと、わたしは感じてきた。その自由は、どこへ押しつぶされてしまったのだろう。
「金と力があればなんでもコントロールできるという世界の枠組み」を、考え直すべき時が到来したのだと思う。もちろん、考えも変革も、ゆっくりとしか進まない。革命のように、一発逆転できるようなものは、ほんとうの本物ではないだろう。「金と力」の世界は、わたしたちに物質的な豊かさをもたらしたが、ほんとうの心の豊かさをもたらしたわけではなかった。むしろ、物質で満たされれば満たされるだけ、心が渇くような世界だった。物質を手に入れるために、心と身体の心地よさを犠牲にするような社会だった。そんな物質社会に棲んで、何か違うと感じている人は多い。環境汚染が進めば進むだけ、心が渇けば渇くだけ、人々はもっと気づいてくるだろう。この枠組みでは、人間はほんとうにしあわせにはなれないと。
その小さな違和感のひとつひとつを積み重ね、よりよき豊かさを求める心をつないで、いつか、世界が進もうとしている方向を、少しだけでも変えることはできないだろうか。そんなことはありえない、と人々はいうかもしれない。
しかし、そんなことはありえない、と思うことが、いくつも起こった二十世紀だった。ソ連はなくなり、ベルリンの壁も消えた。さらに遡れば、人類には天動説から地動説へとコペルニクス的転回をしてきた歴史がある。いまだって、だれもが空を見あげれば、自分が動いていると思うより、太陽や月が動いていると思う方が、実感的だろう。それでも、人々は地動説を信じる。それは、自己中心ではない眼差しを勝ち得たからだ。ここから、ここを見るのではなく、遠くからここを見たらどう見えるのか、その視点を得たからだ。遠い視線を得たからに他ならない。
中国やインドネシアなど、わずかの国を除いて、いま世界中がアメリカの軍事報復を支持しているように見える。けれども「強く支持」している国の中にも、支持しない人々もたくさんいるはずだ。目先の利益や平和ではなく、真の平和としあわせを考えたとき、心の眼は遠くに焦点を結ばなければならない。そんな遠い焦点距離を持つ人々が少しでも増え、世界の枠組みが穏やかに変わっていくことを、願わないではいられない。そのためにわたしたちは、わたしは、何をしたらいいのだろう?
http://www2.asahi.com/international/kougeki/K2001100801230.html