ハルモニア Review Lunatique/意見

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■青いナムジル/研究者からのご指摘2

Wed, 05 Jun 2002 03:25:45

第2稿をお送りしたところ、さっそく先日ご意見をくださった研究者の方から、新たなご意見をいただきました。端的にいうと「モンゴルの土を踏まずして、モンゴルを語るなかれ」「愛と情熱なくして、安易に仕事にするなかれ」というご指摘です。「民話」を題材にするとき、どのようなスタンスで書くべきか、自分との距離をどうとるか、改めて考えさせられました。遅まきながら、じっくりと考えていきたいと思います。ご意見をおよせいただいたご厚情に感謝します。わたし以外の個人名に言及している部分を割愛して、ここに紹介させていただきます。


こんにちは。ざっとですが、目を通しました。きちんと読まないと、いけないとはおもいつつ、先にお伺いしておきたいことがありまして、メールを出しました。

この話の原典はどのフフーナムジルなのでしょうか?中身を非常にふくらまし、モンゴル文化全般に関わるような内容で、作ろうとされているのは、わかるのですが、それゆえに、原典が気になります。

内モンゴルの人は別にして、ハルハの人は、「ナムジル」「ジョノンハル」と言えば、特別なタームとして捉えます。ピンと来るわけです。「ジョノンハル」は馬頭琴弾きの数だけ存在し、それらを聞かせあう特別な音楽祭が開かれるくらいなのです。近年、モンゴルと日本との行き来が盛んになる中で、モンゴルを日本で検索する人も多いわけです。そこでヒットするものになろうという今回の絵本は、モンゴル人からすれば、オリジナルとの違いとかが非常に気になるところだと思います。

なぜ、モンゴル国の研究者や演奏家から、「ナムジル」「ジョノンハル」の話を聞かないのでしょうか?誰でもいいわけではありません。物知りのハルハの人を、しかも出来れば老人で牧民とか、ウマを愛し続けた人、物語を知る人から取材をなぜされないのですか?
「いないから」では理由にならないと思います。私が、「モンゴル人にとってとても大切なもの」というのはそういうことです。

いくつかの原典(といっても、いくつかのパターンで収録されたものということになりますが)にあたり、それらのエッセンスをまとめたものなのか、寮さんの創作という部分を表に出してくるのか?後者だという話であるならば、場合によってはナムジルという名前やジョノンハルという名前を使うかどうかということも、考え直す必要も出てくるのではないか?とも思えます。なぜなら、この二つの単語は、一定のイメージをすでに持っている「ターム」だからです。モンゴル人のために作るものではないにせよ、それを読んだ日本人は、ほぼ間違いなく寮さんのナムジルをモンゴルに持っていくようになります。そして、「あれー話がちがうのね」となるわけです。今でも多くの日本人は、モンゴルに行って「スーホの白い馬」のことばかりいいます。ハルハの人は、ぜんぜん知らない話です。とても不愉快な想いをする人もいます。

文字化すると言うことは、意図しようがしまいが、一つの形になにかをはめてしまいます。それを外国人であるわれわれがやろうというのですから、かなり気を遣う作業だと思います。

そんなことは重々承知かと思いますが、原典がなにか、それの考証をするにあたり、あたるべき人々から十分に話を聞いたか?という点がどうも気になって仕方在りません。

私の恩人は、生前「馬に乗ると言うことは草原を知ると言うことだ」と言いました。草原を知ると言うことは、草原に住むと言うことです。今の寮さんのナムジルからは、そういう彼らの深い土地への愛情とそれに連なる愛馬ということが、表面的な部分でしか感じられません。もしかすると、それは、私が「寮さんはモンゴルに行っていない」と思っているから感じているのかも知れません。

子供向けにわかりやすくということを考えれば修辞に凝ることもままならないこととも判るのですが・・・

モンゴルの風も、ウマも、体全部で感じたことの無い方に、「すばらしいウマ」とか「うつくしい・・」とか言われることに、不可解なものを感じます。

なんか、なんくせをつけてるだけみたいに思われるのは不本意ですが・・・・

たとえば学生が、モンゴルに行かずに牧民生活について文学作品を書いたとしたら、やはり、「偽物」と「感じ」ます。まして、論文なんて書かれても、あきれるだけです。写真をみて、それを「絵」にされても、面白くない。嵯峨治彦氏は、モンゴルに行かずに馬頭琴をひたすらに勉強しました。独学とはいえ、モンゴル人が近くに来たとしるや、出向いて教えを請いながら、モンゴルへのあこがれや想いを抱きながら、「嵯峨の馬頭琴」を作り上げました。その想いが、彼とモンゴルを近付け、人を感動させるものになったのだと思っています。並々ならぬ時間が費やされています。

モンゴルのことで何かをしようとされるのでしたら、やはり、まずはモンゴルの大地に立っていただきたいです。そうして、寮さんのモンゴルというのを堂々と、感じたままを表現していただくのであれば、私ごときがアドバイスなどをするまでもない作品となると思います。

私は徹底的に現地主義です。フィールドワーカーですから。あくまでもその立場から、いわせていただいております。モンゴル人が、特別な意味を持って感じ取る「ナムジル」「ジョノンハル」を扱うのであれば、結果、文体等に変わりが無かったとしても、現地の人とウマと、空と風、雲、水、太陽などに身をさらして頂きたいと思います。

まずは、そこから始まると思います。
馬に乗って突っ走るときの、胸の高鳴り、丘に登って遠くを見渡したときの喜び、牧民たちの、ナムジルの日々の感動を共有しようと言う努力無くして、彼を語ってほしくありません。

だんだん、自分が勢いづいてくるのがわかるので、とりあえず、このへんにしておきます。
<引用終わり>

■青いナムジル/2稿

Tue, 04 Jun 2002 17:39:36

青いナムジル   大草原をかける翼ある馬の物語

■1
いつも青く澄んだ草原の空が、どこまでも果てしなく澄んだ日、
大草原の小さなゲルに、ひとりの男の子が生まれました。
子どもは「青いナムジル」と名づけられました。

■2
ナムジルは、内気な子どもでした。めったに口もききません。
けれども、馬や羊とは、兄弟のようになかよくできました。
ナムジルが小さな声で話しかけるだけで、
どんながんこな馬も、あまえんぼうの子羊も、
すなおにナムジルのいうことをきくのでした。

■3
大きくなると、ナムジルは、すばらしい羊飼いになりました。
ナムジルの飼う羊たちは、とてもよく太り、毛もつややかだと、
村でもすっかり評判です。

ナムジルは、羊飼いの暮らしがほんとうに好きでした。
見渡すかぎりの大地。果てしない青空。わきあがる雲。
地平線の果てから吹いてきた風が、
草を波のように揺らしながら、ナムジルを吹きぬけていきます。
そんなとき、ナムジルはうれしくて、思わず口笛をふきました。
雲が流れ、その影がナムジルと羊たちを覆います。
そんなとき、ナムジルはたのしくて、思わず大声で歌いました。

「大空の 果てなき青き草原を
 馬よ駈けろ 果てを探して
 馬よ駈けろ 風より速く」

すると、馬は矢のように走り、たちまち雲の影を追いこし、
まぶしい太陽の光のなかに躍りでるのでした。  

■4
羊たちを遠くに連れていく日、ナムジルも星の下で眠りました。
まっ暗な空にかがやく、無数の星。
ナムジルは火を燃やしながら、ひとり、歌いました。

喉の奥の谷に、こだまが棲んでいるように、
胸のなかの草原で、風が歌っているように、
ナムジルの声は響きます。はるかな星の彼方まで。
すると、羊たちはみなすっかり安心して、
おとなしく眠りにつくのでした。

けれども、内気なナムジルは、村に戻ると、けっして歌いませんでした。
ですから、村のだれも、ナムジルの歌をきいたことがなかったのです。

■5
そのころ、村では、若い男はみな、一度は兵士になって、
西の果ての地を守りにいくのが決まりでした。
とうとう、ナムジルの番がやってきました。
ナムジルは、馬や羊たちと別れるのがつらく、
また、年老いた両親のことも心配でした。
けれども、しかたありません。
ナムジルは、兵士になるために、西の果てへと旅立ちました。

軍隊には、兵士を乗せるためのたくさんの馬と、
荷物を運ぶためのたくさんの駱駝がいました。
ナムジルは、ほんとうは、だれとも戦いたくありません。
できれば、馬や駱駝の世話をしていたかったのです。
しかし、兵士のナムジルには、それは叶わぬことでした。

■6
そんなある日のことです。若い駱駝に子どもが生まれました。
はじめてのお産で、勝手のわからない駱駝は、
生まれた子どもにお乳を飲ませようとしませんでした。
むりに飲ませようとすると、駱駝はひどく暴れます。
「だれか、駱駝に乳を飲ませられないか」と上官がたずねました。
「駱駝に乳を飲ませることのできた者には、好きな仕事をあたえよう」
「わたしがやってみます」とナムジルがいいました。

ナムジルは、駱駝に寄りそうと、低い声で、そっと歌いはじめました。
それは、故郷の星の下で、羊たちのために歌ったでした。
すると、気が立ち暴れていた駱駝は、みるみるおとなしくなり、
大きな目から、ぽろぽろと大粒の涙を流しました。
そして、子どもに乳を飲ませはじめたのです。

■7
それだけではありません。
ナムジルの歌声は、兵士たちに、遠い故郷を思いださせました。
淡い夜明けの光に包まれた村の朝。
寝床のなかにいると、お茶の葉を突く杵の音がきこえてきます。
火を起こす、火打ち石の音もします。
目を覚ました子羊たちが、愛らしい声で鳴きだします。
やがて、ぱちぱちという火の音や、お湯の沸く音がして、
お茶の香りもしてきます。
だれもが、子どものころの、なつかしい景色を思い浮かべ、
涙をこぼしそうになりました。

「よし、ナムジル。おまえはどんな仕事がしたい」
上官は、そっと涙をぬぐいながらききました。
「はい。わたしは、馬や駱駝の世話をしたいのです」
「よろしい。おまえはきょうから馬番になれ。
馬の世話をするだけではなく、時々は、兵士たちに歌を歌ってやってくれ」
「はい、よろこんで」
そんなわけで、ナムジルは晴れて馬番となったのでした。
そして、みんなから「かっこうナムジル」と呼ばれるようになったのです。

■8
つぎの朝、ナムジルはさっそく馬を湖に連れていくことになりました。
気の荒い馬たちも、ナムジルが歌うと、まるで子羊のようにいうことをきいて、
すなおに水を飲みました。

そのとき、どこからか歌声がきこえてきました。
「駱駝に乳を飲ませ 馬に水を飲ませる
 草原を吹きわたる 風の声を持った人はだれ?」
ナムジルは、歌で答えました。
「わたしは青いナムジル 国境のしがない兵士
 風を甘く切なく染める 花の声を持った人はだれ?」

湖の木陰から、馬を連れた娘が出てきました。
草原の馬飼いの娘でした。
ふたりは見つめあい、
そしてもう、お互いに目をそらすことができなくなりました。
ふたりは、恋に落ちたのです。

■9
朝ごとに、ふたりは湖で会いました。
やがて、星の降る夜も、ナムジルはそっとテントを抜けだして、
娘に会いに行くようになったのです。
それを知っている兵士もいましたが、
いつもやさしい歌声で心をなぐさめてくれるナムジルのことを、
上官にいいつけるような人は、ひとりもいませんでした。

やがて、いくつかの春が過ぎ、新しい春がめぐってきました。
「ナムジル、おまえの勤めはもう終わりだ。故郷へもどるがいい」
ナムジルは、うれしくもありましたが、心配でもありました。
娘は、いっしょにきてくれるでしょうか。

■10
ナムジルは、娘とはじめて出会った湖のほとりでいいました。
「わたしは故郷へもどります。
どうか、わたしの妻になって、いっしょに来てください」
「そしたいのは、やまやまですが、それはできません。
わたしには、年老いた父と母がいます。
あなたこそ、ここに残って、わたしの夫になってはくれませんか」
ナムジルは、胸が張り裂けそうになりながら答えました。
「わたしにも、故郷でわたしを待つ、年老いた父と母がいるのです」
娘は、泣きながらいいました。
「わかりました。それでは、あなたに馬をさしあげましょう。
わたしの馬のなかで、いちばん足の速い馬です。
この馬に乗って、きっとわたしに会いにきてください」
娘は、一頭の黒い馬を差しだしました。美しく強い馬でした。
その馬でさえ、大地の東の果てから西の果てへと旅するのに、
ひと月はかかるのを、娘もナムジルもよく知っていました。
会いにくることなど、できるはずもありません。
「馬の名は、ジョノン・ハルといいます」
「ジョノン・ハルを大切にします。あなたを大切にするように」
ナムジルは、娘をきつく抱きしめ、馬に乗りました。
馬は、黒い風のように草原を駈けていきました。
その後ろ姿を、娘はいつまでも見送っていました。

■11
ナムジルが無事もどってきて、年老いた父親と母親は大喜びでした。
ナムジルも、元気なふたりの顔を見て、ほっとしました。
けれども、心が晴れません。
羊を追っていても、馬に乗って草原を走っていても、
すこしもたのしくもなければ、うれしくもないのです。
青空の深さを見あげては、かなしみの深さを思うだけ。
光りながら波打つ見渡すかぎりの草原さえ、
娘と自分とをへだてる、いじわるな大海原に見えます。
まぶたに浮かぶのは、西の果ての娘のことばかり。

■12
ある星の夜のこと、ナムジルは、もうどうにもがまんがならず、
あてどなく、馬を西に向かって走らせました。
走るうちに、早く、もっと早くと馬を鞭うちます。
それでも、草原の景色は少しもかわりません。
それほど、草原は果てしなく広いのでした。
「娘よ、おまえに会いたくて、会いたくて、ならないのだ。
 ああ、花の香りのする娘よ」
かなしみに引き裂かれ、そう歌うと、どうでしょうか。
馬の背に、翼が生えてきたのです。
それは月の光に銀色に輝き、ゆっくりとはばたきます。
すると、馬の体が宙に浮き、
風よりも速く、草原の上を滑るように駈けていくのでした。

■13
見開き/イラスト 草原を翔る天馬

■14
ナムジルが去ってから、娘は眠れない夜を重ねていました。
その夜も娘は、湖のほとりで、涙にくれて歌っていました。

「ナムジル。
 あなたに会いたくて、会いたくて、なりません。
 ああ、やさしい風のようなナムジル。

 青い草の根を 踏みちぎり
 固い石ころを 踏みくだき
 風はらむ 服の縫い目を破るほど
 走れ わたしのジョノン・ハル
 わたしのいとしい人をのせて
 わたしのもとに運んでおくれ
 東の果てから 西の果てへと」

すると、東の地平線から、一頭の馬が光のように駈けてきました。
ジョノン・ハルです。
その背にのっているのは、ナムジルではありませんか。
馬は、たったひと晩で、
東の果てから西の果てへと駈けてきたのでした。

その夜から、ふたりは湖の畔でたびたび会うようになりました。
翼のある馬ジョノン・ハルが、ナムジルを娘のもとへ運んだのです。

■15
ナムジルは、ますますりっぱな青年になりました。
羊飼いとしても、並ぶ者がないほどの腕前です。
評判が高まり、たくさんの娘たちが、ナムジルのお嫁さんになりたいと思いました。
けれども、ナムジルはどんな娘にも、目もくれません。

ある日、お金持ちの旦那がやってきて、
ナムジルに、娘の夫になってほしいといいました。
その娘は、太陽よりも光り輝いているという評判の、美しい娘でした。
それでも、ナムジルは心を動かしません。
「わたしには、愛する人がいます」とナムジルは娘にいいました。
「どこにいるのですか」と娘はたずねました。
「大地の西の果てです」
「そんな遠くの人を愛して、どうなります。
 どうか、わたしを愛してください。
 わたしは、太陽よりも美しい娘。
 わたしより美しい娘は、この草原のどこを探してもいません」
「おっしゃる通りです。あなたは太陽よりも美しい。
 けれども、わたしは野に咲く名もない花が好きなのです」

■16
金持ちの娘は、くやしくてなりません。
一体、だれがナムジルの心を捕らえて離さないのだろうと、
ナムジルをそっと見張りました。
すると、どうでしょう。
月夜の晩、ナムジルはジョノン・ハルに乗って、
草原を西へと駈けてゆくではありませんか。
ジョノン・ハルの背中に、銀色の翼が生えるのも、娘はしっかり見届けました。

娘は、裁ちばさみを持って、ナムジルの帰りをそっと待ちぶせました。
夜明けになると、ナムジルが馬で戻ってきました。
たった一晩で、草原を東から西へ、西から東へと駈けた馬は、
さすがに疲れ、翼もたたまず、汗まみれで湯気をたてていました。
ナムジルが、はずした鞍をもって馬から離れたすきに、
娘は持っていた裁ちばさみで、馬の翼を断ちきってしまったのです。

■17
馬の叫び声をきいて、ナムジルがかけつけたときには、
馬は、おびただしい血の海のなかで、もがいていました。
そばには、宝石で飾られた裁ちばさみが落ちていました。
ナムジルは、それを見て、すべてを知りました。
「かわいそうに、ジョノン・ハル。苦しいだろう、痛いだろう」
ナムジルは、馬の首を胸に抱えました。
そして、泣きながら歌いました。

「かがやく月を 踏み越えて
 きらめく星を 踏み散らし
 光降る 夜明けの露を撒きながら
 走れ わたしのジョノン・ハル
 水より澄んだ魂を乗せ
 天の果てまで 駈けてゆけ
 草の海から 星の海へと

馬はナムジルの腕のなかで息絶えました。
流れ星がひとつ、光の尾を引いて流れました。
遠い西の果てで、娘はその流れ星を見あげました。
ナムジルの流した涙は、後から後から、
草原に降る雨のように、ジョノン・ハルに降りそそぎました。

■18
すると、ふしぎなことが起こりました。
ジョノン・ハルの頭は木の彫り物に、首は棹に、胴体は皮を張った箱になり、
その美しく長い尾は、楽器に張られた弦と、しなやかな弓になったのです。
ナムジルは、その楽器をいだき、鳴らしました。
その音色は、草原のやわらかな風のよう。
ジョノン・ハルのいななきや、軽やかな足取り、
その名を呼んだときのうれしそうな姿を、思い起こさせたのです。
ナムジルは涙にくれながら、
いつまでもいつまでも、その楽器を弾いていました。

■19
金持ちの娘は自分の行いを恥じて、
二度とナムジルの前に現われませんでした。
翼ある馬を失ったナムジルは、
もう西の果ての娘に会いに行くことは叶わなくなりました。

娘は、湖のほとりで、いつまでもナムジルを待ちつづけました。
ナムジルも娘を思いながら、いつまでも楽器を奏でつづけました。

娘は時折、風になかに、ナムジルの声をきいたように思いました。
ナムジルも時折、風になかに、花の香りをかいだように思いました。

そして、ふたりとも年老いて、いつしか草原の土になりました。

■20
それからというもの、人々は、ナムジルの持っていた楽器をまねて、
馬頭琴という楽器をつくるようになりました。
馬頭琴の音色は、故郷のなつかしい音色。
モンゴルの人なら、だれもが、
お茶の葉を突く杵の音や、火打ち石の音、
子羊たちの愛らしい鳴き声や、お茶の香りを思いだします。
そして、ふしぎなことに、馬頭琴をきかせると、
子どもに乳をやろうとしない気の立った若い駱駝も、
涙を流し、心やすらいで乳をやるようになるのです。

■21
馬頭琴を弾ける人がいない時、人々は馬頭琴を草原の風にかざします。
青空から----
どこまでも、どこまでも果てしなく澄んだ青い空から吹いてきた風は、
馬頭琴をかすかにうならせ、
駱駝はやっぱり、子どもに乳をやりはじめるのです。

■青いナムジル/研究者の方からのご指摘

Tue, 04 Jun 2002 17:33:08

制作中の絵本『青いナムジル』の草稿を公開したところ、ある民族学者の方より、さまざまなご指摘をいただきました。このようなご指摘をいただいたことを深く感謝します。このご指摘を参考にさせていただき、さらに推敲を重ねていきたいと思っています。また、専門家・素人を問わず、広くご意見を聞かせていただきたいと思っています。物語に関する感想でも構いません。掲示板カフェルミにどしどしお寄せください。以下、原文とご指摘いただいた文章(【】内)を掲載させていただきます。

『青いナムジル   大草原をかける翼ある馬の物語』
【フフーナムジルの原語の意味は、「カッコウ ナムジル」になる。カッコウのように美しい歌声を持つナムジルということである。】
■1
むかしむかし、モンゴルの大草原にナムジルという子どもがいました。
ナムジルは、村人から「青いナムジル」と呼ばれていました。
いつも青い草原の空が、ナムジルの生まれた日はいっそう青く、
どこまでも、どこまでも果てしなく澄んでいたからです。

ナムジルは、内気な子どもでした。めったに口もききません。
けれども、馬や羊とは、兄弟のようになかよくできました。
ナムジルが口笛をふくだけで、小さな声でささやくだけで、
どんながんこな馬も、あまえんぼうの子羊も、
すなおにナムジルのいうことをきくのでした。

■2
大きくなると、ナムジルは、すばらしい羊飼いになりました。
ナムジルの飼う羊たちは、とてもよく太り、毛もつややかだと、
村でもすっかり評判です。

ナムジルは、羊飼いの暮らしがほんとうに好きでした。
見渡すかぎりの大地。果てしない青空。
地平線の果てから吹いてきた風が、
草を波のように揺らしながら、ナムジルを吹きぬけていきます。
そんなとき、ナムジルはうれしくて、思わず口笛を吹きました。
【口笛は狼を喜ばすという言い方が地方にはある。「歌を歌うと自然が喜ぶ」という言葉がある。従って、馬に乗って移動するときには歌を歌うのが良いと言われる。ただし、これは地域によって違いがあるかもしれない。】
空を、雲がゆっくりと流れていきます。
雲の影が草原を走ってきて、ナムジルと羊たちを捕まえます。
そんなときナムジルは、天に届かんばかりの声で歌いました。

「大空の 果てなき青き草原を
 馬よ駈けろ 果てを探して
 馬よ駈けろ 風より速く」

すると、雲は足の速い馬のように流れ、
まぶしい太陽が、ナムジルたちに降りそそぐのでした。  
【遊牧中の日陰は、人にも、家畜にも良いものと理解されることが多い。むろん、ここでナムジルが何を願って雲を追いやるのかによって解釈は変えることは可能。】
■3
羊たちが眠るとき、ナムジルも星の下で眠りました。
まっ暗な空には、無数の星が輝いています。
ナムジルは焚き火を燃やしながら、ひとり、歌いました。
羊たちを寝かしつける、やさしい風のような歌を。
【ヒツジを追いながら移動するというモチーフであるが、これは季節移動中のことだろうか?日常の遊牧において、ヒツジとともに寝るというのは、ナンセンス。一日の放牧サイクルから考えると、家に戻ってくるのが当然。ただし、夏場、ゴビ地方などでは、水やりや塩をなめさせるためにつれていくことがある。この場合は野宿になることが多い。】
なにもさえぎるもののない草原。
ナムジルの声を響かせる、岩の山も深い谷もありません。
ナムジルはいつしか、自分の体で、声を響かせることを覚えました。
すると、ナムジルのなかから、もう一つの声がきこえてきたのです。
まるで、喉の奥の谷に、小さなこだまが棲んでいるような、
胸のなかの草原で、風が歌っているような、そんな声です。
ナムジルが歌うと、その声も歌いました。
ひとりで歌っているのに、いつもどこからか
透きとおった高い声が、寄りそうようにきこえてくるのでした。

けれども、内気なナムジルは、村に戻ると、けっして歌いませんでした。
ですから、村のだれも、ナムジルの歌声をきいたことがなかったのです。
【物語の中での設定ということで・・・。原作とは全く逆。】
■4
そのころ、村では、若い男はみな、一度は兵士になって、
遠い西の果ての地を守りにいくのが決まりでした。
とうとう、ナムジルの番がやってきました。
ナムジルは、馬や羊たちと別れるのがつらく、
また、年老いた両親のことも心配でした。
けれども、しかたありません。
ナムジルは、兵士になるために、遠い西の果ての地へと旅立ちました。

軍隊には、兵士を乗せるためのたくさんの馬と、
荷物を運ぶためのたくさんの駱駝がいました。
ナムジルは、ほんとうはだれとも戦いたくありませんでした。
できれば、馬や駱駝の世話をしていたかったのです。
しかし、兵士のナムジルには、それは叶わぬことでした。
【ナムジルが歌が上手いことはとても有名であったため、最初から兵役というよりも、歌手の扱いで、軍の仕事をさせなかったという。まぁ、創作の設定と言うことで。】
■5
そんなある日のことです。若い駱駝に子どもが生まれました。
はじめてのお産で、勝手のわからない駱駝は、
生まれた子どもにお乳を飲ませようとしませんでした。
むりに飲ませようとすると、駱駝はひどく暴れます。
「だれか、駱駝に乳を飲ませられないか」と上官がたずねました。
「駱駝に乳を飲ませることのできた者には、好きな仕事をあたえよう」
「わたしがやってみます」とナムジルがいいました。
「よし、やって見ろ」
【創作にしては・・・。モンゴル人であれば、見たことは無くとも、仔に乳をやらないラクダに馬頭琴を聞かせてやると、涙を流して乳をやるようになるということは知っている。これを、上官の示す提言としては・・・楽すぎ。まぁ、当時、まだ馬頭琴が無い時代だと仮定して一つのイベントということなら。。。しかし、牧民たちは馬頭琴を使わずともラクダをなだめる方法を知っているはず。知らないと言うのは、牧民ではない。】
ナムジルは、駱駝に寄りそうと、低い声で、そっと歌いはじめました。
故郷の星の下で、羊たちを眠らせるために歌った歌を、
静かに静かに歌いました。
天の草原に吹く澄んだ風のようなもう一つの声が、
ナムジルの声に重なりました。
気が立ち暴れていた駱駝は、みるみるおとなしくなり、
大きな目から、ぽろぽろと大粒の涙を流しました。
そして、子どもに乳を飲ませはじめたのです。

■6
それだけではありません。
ナムジルの歌声は、兵士たちに、遠い故郷を思いださせました。
淡い夜明けの光に包まれた村の朝。
寝床のなかにいると、お茶の葉を突く、かあさんの杵の音がきこえてきます。
火を起こす、とうさんの火打ち石の音もします。
目を覚ました子羊たちが、愛らしい声で鳴きだします。
やがて、しゅんしゅんとお湯の沸く音がして、お茶の香りがしてきます。
だれもが、子どものころの、なつかしい景色を思い浮かべ、
涙をこぼしそうになりました。
【日々、かまどに火をおこすのは母親の仕事。父親は、この母親をはじめ家族と家畜を守るのが仕事。】
【細かなことだが、鍋でお茶を沸かすのが普通であり、ヤカンをつかうことはない。鍋でお茶をいれて、ヤカンに移す。従って、「シュンシュン」は現実的とは言えない。】
「よし、ナムジル。おまえはどんな仕事がしたい」
上官は、そっと涙を拭いながらききました。
「はい。わたしは、馬や駱駝の世話をしたいのです」
「よろしい。おまえはきょうから馬番になれ。
しかし、おまえは歌がうまい。
馬の世話をするだけではなく、時々は、兵士たちに歌を歌ってやってくれ」
「はい、かしこまりました。よろこんで」
そんなわけで、ナムジルは晴れて馬番となったのでした。

■7
つぎの日、ナムジルはさっそく馬を湖に連れていくことになりました。
気の荒い馬たちも、ナムジルが歌うと、まるで子羊のようにいうことをきいて、
すなおに水を飲みました。

そのとき、どこからか歌声がきこえてきました。
「駱駝に乳を飲ませ 馬に水を飲ませる
 草原を吹きわたる 風の声を持った人はだれ?」
ナムジルは、歌で答えました。
「わたしは青いナムジル 国境のしがない兵士
 風を甘く切なく染める 花の声を持った人はだれ?」

湖の木陰から、馬を連れた娘が出てきました。
草原の馬飼いの娘でした。
ふたりは見つめあい、
そしてもう、お互いに目をそらすことができなくなりました。
ふたりは、恋に落ちたのです。

■8
夜明けごとに、ふたりは湖で会いました。
やがて、星の降る夜も、ナムジルはそっとテントを抜けだして、
娘に会いに行くようになったのです。
それを知っている兵士もいましたが、
いつもやさしい歌声で心をなぐさめてくれるナムジルのことを、
上官にいいつけるような人は、ひとりもいませんでした。
【絵がどのようになるかと関係があるが、一時的な住まいだとしても、テントよりもゲルの方が現実的。テントにするか、ゲルにするかは難しいところ。3年間の兵役だという記述からすればゲルと考えるのが妥当だと思われる。】
やがて、いくつかの春が過ぎ、新しい春がめぐってきました。
「ナムジル、おまえの勤めはもう終わりだ。故郷へもどるがいい」
ナムジルは、うれしくもありましたが、心配でもありました。
娘は、いっしょに故郷にきてくれるでしょうか。

■9
ナムジルは、娘とはじめて出会った湖のほとりでいいました。
「わたしは故郷へもどります。どうか、わたしといっしょに来てください。
そして、わたしの妻になってください」
娘は、いいました。
「そうしたいのはやまやまですが、それはできません。
わたしには、年老いた父と母がいます。ふたりは、ここを離れることはできません。
わたしが見なくて、だれがふたりの面倒を見るでしょう。
あなたこそ、わたしの夫になって、ここで暮らしてはくれませんか」
ナムジルは、胸が張り裂けそうになりながら答えました。
「わたしにも、故郷でわたしを待つ年老いた父と母がいるのです」
娘は、泣きながらいいました。
「それでは、どうか、月に一度でいいですから、わたしに会いに来てください」
「わたしの国は、大地の東の果て。とてもここまでは来られません」
「では、わたしの馬のなかで、いちばん足の速い馬をさしあげましょう。
この馬なら、きっとあなたを一晩で、わたしのもとへ運んでくれることでしょう」
娘は、一頭の黒い馬を差しだしました。美しく強い馬でした。
その馬でさえ、大地の東の果てから西の果てへと旅するのに、
ひと月はかかるのを、娘もナムジルもよく知っていました。
「馬の名は、ジョノン・ハルといいます」
「ジョノン・ハルを大切にします。あなたを大切にするように」
ナムジルは、娘をきつく抱きしめ、別れを告げて馬に乗りました。
馬は、黒い風のように草原を駈けていきました。
その後ろ姿を、娘はいつまでも見送っていました。

■10
ナムジルが無事もどってきて、両親は大喜びでした。
ナムジルも、元気な両親の顔を見て、ほっとしました。
けれども、心が晴れません。
羊を追っていても、馬に乗って草原を走っていても、
もう以前のように、楽しくもうれしくもないのです。
大好きだった見渡すかぎりの草原さえ、
娘と自分とをへだてる、いじわるな大海原に見えます。
まぶたに浮かぶのは、西の果ての娘のことばかり。

■11
ある星の夜のこと、ナムジルは、もうどうにもがまんがならず、
あてどなく、馬を西に向かって走らせました。
走るうちに、早く、もっと早くと馬を鞭うちます。
それでも、草原の景色は少しもかわりません。
それほど、草原は果てしなく広いのでした。
「娘よ、おまえに会いたくて、会いたくて、ならないのだ。
 ああ、花の香りのする娘よ」
かなしみに引き裂かれそうになって、そう歌うと、どうでしょうか。
馬の背に、翼が生えてきたのです。
それは月の光に銀色に輝き、ゆっくりとはばたきます。
すると、馬の体が宙に浮き、
風よりも速く、草原の上を滑るように駈けていくのでした。

■12
見開き/イラスト 草原を翔る天馬

■13
娘はナムジルと別れた湖のほとりで、涙にくれながら歌っていました。

「ナムジル。
 あなたに会いたくて、会いたくて、なりません。
 ああ、やさしい風のようなナムジル。

 草原の 草の根を踏みちぎり
 草原の 石ころを踏みくだき
 風はらむ 服の縫い目を破るほど
 走れ わたしのジョノン・ハル
 わたしの愛する男をのせて
 わたしのもとに運んでおくれ
 大地の東の果てから 西の果てへ」

すると、地平線の夜明けの光のなかから、
黒い風のように、一頭の馬が走ってきたのです。
ナムジルを乗せたジョノン・ハルでした。
馬は、たったひと晩で、ナムジルを大地の東の果てから西の果てへ運んだのでした。
【一晩で往復できたというのが、原文。毎晩ナムジルは西の娘の所へでかけ、帰ってくる途中で、自分の馬群たちを集めて家に戻る。原文ではウマを夜に放牧に出して、朝、家の付近に集めてくるという実際のウマの放牧サイクルに合った話になっている。】
それからというもの、ふたりはたびたび会うようになりました。
翼のある馬ジョノン・ハルが、ナムジルを娘のもとへ運んだのです。

■14
ナムジルは、ますますりっぱな青年になりました。
羊飼いとしても、並ぶ者がないほどの腕前です。
評判が高まり、たくさんの娘たちが、ナムジルのお嫁さんになりたいと思いました。
けれども、ナムジルはどんな娘にも、目もくれませんでした。
ある日、村いちばんのお金持ちの旦那がやってきて、
ナムジルに、娘の夫になってほしいといいました。
その娘は、太陽よりも光り輝いているというほど評判の、美しい娘でした。
それでも、ナムジルは心を動かしませんでした。
「わたしには、愛する人がいます」とナムジルは娘にいいました。
「どこにいるのですか」と娘はたずねました。
「大地の西の果てです」
「そんな遠くの人を愛して、どうなります。
どうか、わたしを愛してください。
わたしは太陽よりも美しい娘。
わたしより美しい娘は、この草原のどこを探してもいません」
「おっしゃる通りです。
 けれども、わたしは野に咲く名もない花が好きなのです」
【羊飼いとしての腕前なんていうのは、オトコにとってはなんの勲章にもならない。良いウマを持つことがオトコの夢。ウマを飼う意味にステイタスシンボルという要素は非常に大きい。】
【日本の子供向けと言うことなので、「村」という表現は仕方ないのだろうが、モンゴル草原に住む牧民たちが、「村」に住んでいるという間違った先入観を助長するとも考えられる。】
■15
金持ちの娘は、くやしくてなりません。
一体、だれがナムジルの心を捕らえて離さないのだろうと、
ナムジルをそっと見張りました。
すると、どうでしょう。
月夜の晩、ナムジルはジョノン・ハルに乗って、
草原を西へと駈けてゆくではありませんか。
ジョノン・ハルの背中に、銀色の翼が生えるのも、娘はしっかり見届けました。

娘は、裁ちばさみを持って厩にひそみ、ナムジルの帰りをそっと待ちぶせました。
夜明けになると、ナムジルが馬で戻ってきました。
たった一晩で、草原を東から西へ、西から東へと駈けた馬は、
さすがに疲れはて翼もたたまず、すっかり汗をかいて湯気をたてていました。
馬からおりたナムジルが、馬に水を汲みにいっているすきに、
娘は持っていた裁ちばさみで、馬の翼を断ちきってしまったのです。
【ジョノンハルは、一晩に東西を往復しても大丈夫なくらいタフなウマである。それが疲れ切って翼をたたまずと言うのもどうか。。。また、原文では、ナムジルが近づいてきたのと勘違いして翼を出してしまったとある。これは、主人とウマがそれほどまでに信頼関係を作ると言うことを伝えようとしている。】
【また、手桶から水をウマにやるということは、まずありえない。ウマは人の手のついたものを口にしない。それはたとえ主人からであってもだ。家畜とはいえ食事という生きる根幹を、人間に依存しないというのが孤高たるウマの本分でもある。ヒツジ、ヤギ、ウシのような家畜たちは人間の手からでも食物を得る。しかし、ウマはまずそのようなことはしない。人もそのようにウマを扱わない。ウマをペットのようには決して扱わない。しかし、とても大切にする。この大切にするということが、理解するのは難しいかも知れない。しかし、これを無くしてウマを語ることも難しい。】
■16
馬は、鋭い叫び声をあげました。
ナムジルがその声をききつけて戻ってきたときには、
馬は、おびただしい血の海のなかで、もがいていました。
そばには、宝石で飾られた裁ちばさみが落ちていました。
ナムジルは、それを見て、すべてを知りました。
「かわいそうに、ジョノン・ハル。苦しいだろう、痛いだろう」
ナムジルは、馬の首を胸に抱えました。
そして、泣きながら歌いました。

「夜空の月を 踏み越えて
 夜空の星を 踏み散らし
 流れ星を 撒きちらしながら
 走れ わたしのジョノン・ハル
 水より澄んだ魂を乗せ
 天の果てまで 駈けてゆけ
 草の海から 星の海へと
【モンゴルでは流れ星は死を連想させるモチーフ。すなわち、この記述は沢山の命を蹴散らしてという意味になる。】
馬は、ナムジルの腕のなかで息絶えました。
ナムジルの流した涙が、後から後から、
草原に降る雨のように、流れる川のように、
ジョノン・ハルに降り注ぎました。

■17
すると、ふしぎなことが起こりました。
ジョノン・ハルの頭は木の彫り物に、首は棹に、胴体は皮を張った箱になり、
その美しく長い尾は、楽器に張られた弦と、しなやかな弓になったのです。
ナムジルは、その楽器をいだき、鳴らしました。
その音色は、草原のやわらかな風のよう。
ジョノン・ハルのいななきや、軽やかな足取り、
その名を呼んだときのうれしそうな姿を、思い起こさせたのです。
ナムジルは涙にくれながら、いつまでもいつまでも、その楽器を弾いていました。

■18
金持ちの娘は自分の行いを恥じて、二度とナムジルの前に現われませんでした。
翼ある馬を失ったナムジルは、
もう西の果ての娘に会いに行くことは叶わなくなりました。

娘は、いつまでも湖のほとりでナムジルを待ち続けました。
ナムジルも、いつまでも娘を思いながら、楽器を奏でました。

娘は時折、風になかに、ナムジルの声をきいたように思いました。
ナムジルも時折、風になかに、花の香りをかいだように思いました。

そして、ふたりとも年老いて、いつしか草原の土になりました。
【モンゴルでは人は死ぬと天に帰る。土に戻るのは死のイメージではない。】
■19
それからというもの、人々は、ナムジルの持っていた楽器をまねて、
馬頭琴という楽器をつくるようになりました。
馬頭琴の音色は、故郷のなつかしい音色。
モンゴルの人なら、だれもが、
お茶の葉を突く杵の音や、火打ち石の音、
子羊たちの愛らしい鳴き声や、お茶の香りを思いだします。
そして、ふしぎなことに、馬頭琴をきかせると、
子どもに乳をやろうとしない気の立った若い駱駝も、
涙を流し、心やすらいで乳をやるようになるのです。

馬頭琴を弾ける人がいない時、人々は馬頭琴を草原の風にかざします。
青空から----
どこまでも、どこまでも果てしなく澄んだ青い空から吹いてきた風は、
馬頭琴をかすかにうならせ、
駱駝はやっぱり、子どもに乳をやりはじめるのです。
【この部分は、起源説話を逆にしている。】

■新釈「うさぎとかめ」

Sun, 02 Jun 2002 17:29:52

むかしむかし……ではなく、ごく最近のお話です。

うさぎは、以前から不思議でならないことがありました。
かめのことです。
かめはどうして、あんなにゆっくりと歩けるのでしょう。
じりじりと地をはうように歩むかめの姿を見ると、
うさぎは深い感動を覚えずにはいられませんでした。
なぜって、うさぎはどんなにゆっくり歩こうとしても、
ついぴょんと飛びはねてしまうからです。
「ああ、かめさんのように、じっくりと大地を歩きたい。
どうしたら、あんなふうにゆっくりと歩けるようになるのだろう」
うさぎは憧れの眼差しで、かめを見るのでした。

うさぎはインターネットの掲示板に、とうとうこんな書き込みをしました。
「もしもし かめよ かめさんよ
世界のうちで おまえほど
あゆみののろい ものはない
どうしてそんなに のろいのか」

すると、かめからこんな返事が戻ってきました。
「なんと おっしゃる うさぎさん
それなら わたしと 駈けくらべ
むこうの お山の ふもとまで
どちらが さきに いきつくか」

なんだか、かめは怒っているみたいです。
そういうつもりじゃないのになあ、とうさぎは思いましたが、
お返事の書き込みをすればするほど、話はもつれていきます。
うさぎを擁護する者、かめに同情を寄せる者、もう侃々諤々の大騒ぎ。

これはまずい、顔を見ないで話すから誤解が生まれるのだ、
みんなで会って和気藹々とやって、誤解をとこうじゃないか。
だれかが、そんなことをいいだしたので、
オフ会が開かれることになりました。

ところが、どういう手違いなのか、行ってみると、
オフ会は「うさぎとかめの大競争」という催しになっていました。
かめはもう、いきりたっていて、
なにがなんでも競争しないと気がすまないという勢い。
うさぎは、競争なんかしたくなかったのですが、
みんなが騒いで収まらないので、仕方なしに競争することにしました。
ヨーイ・ドン!

しかし、もともと競争するつもりなんかないうさぎは、
すっかりやる気がありません。
みんなから見えないところまでくると、
ごろんと草原に転がってしまいました。

「どんなに かめが いそいでも
どうせ 晩まで かかるだろう
ここらでちょっと ひとねむり
グーグーグーグー グーグーグー」

気がつくと、もう日が暮れています。
いくらなんでも、ちょっと寝過ぎたようです。

「これはしまった しくじった
ピョンピョンピョンピョン ピョンピョンピョン」

やっとお山のふもとに行きつくと、
かめが、いかにもしてやったりという顔でいいました。

「あんまりおそい うさぎさん
さっきの じまんは どうしたの」

じまんじゃないのになあ、とうさぎは思いましたが、
いえばいうほど、さらなる誤解を招きそうです。
(ま、いいか。かめさん、とってもごきげんだし、
これでわだかまりも解けて、万々歳)
うさぎは心のなかでそう思って、にこりと笑いました。

そして、みんなで宴会をして、楽しくやりましたとさ。おわり。

※それにしても、かめさん、
 どうしてあんなにゆっくり歩けるのかなあ>うさぎ

■怪奇亀洗い女/都市伝説はこうして生まれる……かも?

Sun, 02 Jun 2002 17:14:36

いまから数年前、ひとりでぶらりと鎌倉の海を見に行ったときのことです。
久しぶりにゆっくりしようと七里ヶ浜の波打ち際を歩いていると、
なんとそこに亀が?!
見れば、30センチほどに育った立派なミドリガメではありませんか。
ミドリガメは外来種の淡水の亀。
縁日で売っていたりしてカワイイけれど、こいつ、育つと怪獣じみた怖い顔になる。
それで、捨てられたのかも知れない。
亀は、潮水に浸かって息も絶え絶え、という感じです。
あ〜あ、せっかくゆっくりしようと思ってきたのに、これだ。
こいつの面倒、見てやらなくちゃ。

情けなくなりながらも、わたしは亀を川に帰すべく、
すぐそばにある境川の河口に向かったのでした。
ところが、川には堰があって、一旦滑り落ちたら、もう戻れない仕組みになっている。
ここで放してはかいそうと、どんどんさかのぼっていきましたが、
どこまでいっても次々と堰があって、亀が棲めそうにない状態です。
ああ、きっと川に放した亀が、堰をどんどん滑り落ちていって、戻れなくなり、
それで海に流されたんだなあと、ますます亀がかわいそうに。

わたしは腹をくくって、亀を連れて帰り、看病して、
元気になったらどこかの池に連れて行こうか、
生態系を乱さないためには、やっぱり公園の人工池か、などと考え、
藤沢の駅に向かったのでした。

亀くん、どう見ても元気がない。
まずは、真水で洗ってあげようと、女子トイレにいって、
洗面台で水に浸けてあげました。
通りかかった人が、不審そうにわたしの手許を覗いては去っていきます。
わたしは、できるだけさりげなく、にっこりと微笑み
「亀、いりませんか? さしあげます」
その人は、慌てて走り去っていきました。

それから、藤沢の近辺では
「亀、いりませんか?」といってニッと笑う
頭の変な女が出没する……という噂があったとかなかったとか。

さて、その亀ですが、看病も虚しく、数日後に亡くなってしまいました。
「玄武」ってことにして、マンションの北側の植え込みに埋めようかとも思いましたが、
園芸用スコップで植え込みに穴を掘ってたら、みんなが変な目で見るので、
いたたまれなくなってやめました。
深夜にこっそりとも思いましたが、それもさらに怪奇なので断念。
結局、生ゴミの日に「ごめんね」といって亀の遺骸を出してしまいました。

玄武作戦を決行していたら、さらに「怪奇亀埋め女」の都市伝説が生まれたかも。
これは、相当怖いかも。

亀さん、あの時はごめんね。
いまごろは、亀の天国にいるだろうか。亀の天国って、どんなところだろう。
亀ってなんだかのんびりしていて、生きているときから天国暮らしみたい。
少なくとも、亀の天国には堰はないんだろうなあ。

わたしはあのあと、翼の生えた亀の絵を、何枚も描きました。
海岸で助けたけれど、助けきれなかったせいでしょうか、
いまだに竜宮城への招待状は来ていません。

あ、もともと淡水の亀だから、竜宮城じゃないか。ごめん。

■追悼・矢川澄子氏/その少女のような人の背中にはいつから翼が生えていたのだろう

Sat, 01 Jun 2002 04:28:25

作家の矢川澄子さんが亡くなった。5月29日、ひとり暮らしの黒姫の自宅で亡くなっていたという。自殺らしい、との報道だ。

ショックだった。最後にお目にかかったのは、銀座での建石修志氏の個展「月よ!」の会場。「わたし、子どもの本を書いているんです」とおっしゃる少女のような方が、矢川澄子さんだった。それまでも友人の個展のオープニング・パーティで何度もお目にかかっていたのに、その人があの憧れの作家矢川澄子さんだとは、わたしはその時まで気づかなかったのだ。

それまでの、わたしのなかの矢川澄子像は、一枚の写真として強く刻印されていた。澁澤龍彦氏とふたり、鎌倉は由比ヶ浜の砂浜で花札をしている写真だ(雑誌「太陽」1991/358号特集「澁澤龍彦の世界」P42〜43)。1965年のものだというその写真のなかで、澁澤龍彦氏は和服の着流し姿、矢川澄子さんはノースリーブのワンピースだった。着流しとワンピースという取り合わせも妙なら、ふたりがそのいでたちで砂浜にじかに座っているのも変わっていた。しかも、興じているのは花札のコイコイだ。写真は、限りなく優雅で、そして野蛮な香りを湛えていた。まるで、コクトーの「アンファン・テリブル」のように。

その写真のなかで、矢川さんは、肘まである白い手袋をはめ、つばの広い帽子をかぶり、ハイヒールの踵は砂まみれにしていた。強い真夏の日差しが、細い腕の輪郭をくっきりと照らしだす。背後には、海と空。波の音が聴こえてくるような写真だった。帽子のつばに隠れて、顔は見えない。けれど、その横座りになった姿勢が、澁澤氏に向かって延ばされた花札を持った手の表情が、なんとも可憐で華奢で、それでいて野蛮で、なんとすてきな人だろうかと、わたしはため息まじりで何度もその写真に見入ったものだった。

もちろん、写真ばかりではない。矢川さんの本にも惹かれてきた。最近では『「父の娘」たち』(新潮社1997)という本を読み、不思議な感慨を抱いていた。純粋少女がそのまま大人になって書いた文章。そんな優雅さと脆さを感じていたのだ。ポール・ギャリコの「雪のひとひら」をはじめとする、さまざまな名訳も忘れられない。

建石修志氏の個展のパーティが終わり、まだ人々が名残惜しそうにしている夜の銀座の路上で、わたしはようやくその人とわかった矢川澄子さんに、わたしのなかのそんなイメージと長年の憧れを語った。矢川さんは、屈託のない子どものような笑顔で笑って、そして軽い足取りで夜の街に消えていった。まるで、背中に見えない翼でも生えているように。

訃報に接して、わたしは動揺をひとりで抱えきることができず、矢川さんをよく知るある知人に電話をした。黒姫の矢川邸にもよく招かれたというその人は、矢川さんの家の食堂の壁に、自殺したオリンピック選手円谷幸吉の遺書のポスターが貼られていたという。それは、こんな切ない、切なすぎる文章だ。
 父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。干し柿、餅も美味しゆうございました。敏雄兄、姉上様、おすし美味しゆうございました。克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゆうございました。
 巌兄、姉上様、しめそし、南ばん漬け美味しゆうございました。喜久蔵兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゆうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
 幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。モンゴいか美味しゆうございました。正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。
 幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敦久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正祠君、立派な人になって下さい。
 父上様、母上様。幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません。何卒お許し下さい。気が休まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。
「遺書なんか、食堂に貼るかな?」と、その人は電話の向こうでつぶやくように言った。
「貼らないよ、ふつう。それ、いつから貼ってあったの?」
「最初に見たのは、三年くらい前かな」

もしかしたら、その時から「死」は、すでに矢川さんの視界に入っていたのだろうか。あの、少女のように可憐で、妖精のように軽やかに歩いていく矢川さんの視界に。それは、わからない。だれにもわからない。

先日、奈良の「たんぽぽの家」で朗読のワークショップをしたときに、金子みすゞの詩を読んだ人がいた。それを聴いていたひとりが、こんな感想を述べた。
「わたし、金子みすゞの詩って、あんまり純粋で痛々しく感じてしまうんです。こんなふうに感じていたら、さぞかし生きにくかっただろうなって」
そして、話題は金子みすゞが自死したことに及んだ。

「あんな繊細な感受性を持っていたから、自殺しなければならなかったんだ」
人は、そんなふうに考えがちだ。それも一面、事実かもしれない。繊細な、感受性豊かな心は、時に人生を困難にする。けれど、時に人生を限りなく美しく輝かせる。繊細な心の光と闇。人は、光だけを享受することはできないのだろうか。

繊細なまま、光と闇、その双方を受け容れて、なお光に向かえるほど深く強い心を持ちたいと思う。持たなければと思う。壊れやすく傷つきやすい心の形を活字にしてばらまいてきた者の、それは務めではないかと、わたしはある時から思うようになった。もし、わたしが自分から死ぬようなことがあったら、わたしの言葉に共感してくれた人々に「やっぱりこの道の先にあるのは自殺なんだ」と落胆させてしまう。それは、いけない。金子みすゞは、ほんとうに残念だった。つらかったとは思うけれど、やっぱり生きて欲しかった。

矢川さんに何があったのか、わからない。矢川さんは71歳。年齢による内分泌系の乱れが、強度の鬱を招くこともあるという。意志的な自殺なのか、そのようなことの結果なのか、わからないけれど、どちらにしても、とても残念だ。憧れの人は、憧れの人のまま、可憐に年老いて、いつまでもみずみずしい言葉を紡いでほしかった。いや、言葉などつむがなくともいい、ただそこでにこやかに微笑んでいてほしかった。人生は、生きるに値するものだと、年老いてなおすばらしいものだと、生きているというそのことで、わたしたちに教えてほしかった。

けれども、遺された矢川さんの言葉たちは、いつまでも人生の美しさを歌いつづけていくだろう。そして、人に生きる勇気を与えつづけてくれるだろう。ありがとう、矢川澄子さん。その透明な翼で、いま、どこを翔んでいるのですか? 

矢川澄子さんのご冥福をお祈り申しあげます。

▼矢川澄子さんの著書

■友だちの赤ちゃん ちいさなKくんのこと

Fri, 24 May 2002 01:50:54

▼不妊治療の末に生まれた、待望の赤ちゃん
今年の3月、友人に赤ちゃんが生まれた。結婚して十数年、待ちに待った赤ちゃんだった。長く苦しい不妊治療を乗り越えて、ようやく授かった赤ちゃんだった。

SACHIさんに赤ちゃんができたとわかったのは、昨年の夏のこと。毎日毎日、ホルモン注射を打ちに炎天下を病院まで通い、やっと授かった赤ちゃんだった。わたしは、自分のことのようにうれしかった。

他人であるわたしは手放しで喜んだけれど、SACHIさんはそうはいかなかった。彼女は三十代後半。不妊治療でやっと赤ちゃんができたことはうれしかったが、同時に、赤ちゃんが無事生まれてくるかどうか、不安で不安でならなかったのだ。マタニティー・ブルーもあったかもしれない。いつもの彼女らしくなく、ひどく弱気になったり、ぐるぐると堂々巡りの思考をしたり。そんなSACHIさんの心配をよそに、お腹の赤ちゃんはすくすく育って、月満ちて生まれてきた。元気な、目のぱっちりした玉のような男の子だった。赤ちゃんは両親から、Kくんという、月に因んだすてきな名前を贈られた。

▼突然の暗転/胆道閉鎖症
それから二カ月。ある日、彼女から電話があった。
「Kくんがね、難病になっちゃったの」
「え?」
唐突なその言葉に、わたしの頭は空回りした。彼女が過敏になって、風邪くらいのことを大袈裟に受け取っているのだろうか。育児ノイローゼなんて、よくある話だ。
「一昨日病院に連れていって検査をしたらわかって、昨日、緊急入院したの。胆道閉鎖症っていって、一万人にひとりの難病なんですって。とてもむずかしい病気なのよ」
まさか。わたしは、言葉もなかった。

胆道閉鎖症は、胆管が狭窄したり詰まってしまう病気。日本では、年間二百人から三百人ほど、その病気を持った赤ちゃんが生まれるという。生後六十日以内に手術をしないと、危険だという。手術が間に合えば、五人に一人は健康な子どもとして育つ。では、残りの四人は? やがて肝臓に胆汁が溜まって肝硬変となり、死に至る。それを回避する手段は、生体肝移植だけだ。

「生体肝移植がうまくいっても、免疫抑制剤を飲み続けなくちゃならないし、風邪を引いたり熱を出したり、ずっと病院と縁が切れないらしいの。Kくんも、長い戦いになるかもしれない。がんばらなくっちゃ」
そういった端から、SACHIさんはいう。
「でも、五人に一人は元気になるんだもの。Kくん、すぐに元気になるかもしれない」
楽観と悲観、ふたつの間で揺れるSACHIさんの気持ちが切ない。
「毎日、三時から七時まで病院に詰めているの。Kくんに会いに来てやって」

▼ガラス越しの笑顔
驚いたわたしは、翌日すぐに病院に駈けつけた。ガラス越しに会うKくん。ほんとうにかわいい。赤ちゃんらしくふっくらとして、いわれなければ、病気だとはわからない。
「見てやってよ。かわいいでしょう」
SACHIさんは、うれしそうにKくんを抱いてわたしに見せてくれた。その姿は、どこにでもいるおかあさんと変わらない。

「ミルクもよく飲んで、とっても元気だったの。色が黒かったけれど、男の子だからかなって。うちの子、精悍に見えるね、なんていっていたのが、実は肝臓が悪くて、肌が黒くなっていたのね。クリーニング屋のおばさんにの『ちょっと黄色いんじゃない?』といわれて、心配になって近所の病院に連れて行ったら、早速検査。翌日にはもう入院よ、なにがなんだか、わからなかったわ」
「病名を聞いて、旦那とふたり、声を上げて泣いちゃった。わたし、あの人が泣くの、はじめて見た」
「でも、もうだいじょうぶ。涙も出つくしたから。前を見て歩くしかないもの」

彼女はいう。これから長期戦になる、退院できてもずっとずっと病院と縁が切れない生活になるかもしれない、万が一手術が失敗してKくんを失うことだってあるかもしれない。まるで、自分に言い聞かせるように、ネガティブな展開になる可能性を何度も何度も語る。覚悟を決め、それを受け容れようとするように。

けれども、最後には必ずこういうのだ。
「でも、元気になって退院できるかもしれない。赤ちゃんって、生きる力が強いもの。すごい回復力があるっているじゃない。赤ちゃんにはね、お医者さんもびっくりするような奇跡がおきるんですって」

気丈に頑張るSACHIさん。顔を合わせていたときは、わたしもずっと笑顔だったけれど「じゃあね」と別れてエレベーターに乗ったとたん、涙が溢れてきた。

▼百パーセントの希望と百パーセントの覚悟
数日後、電話で話したとき、彼女はこういった。
「わたしね、思うの。希望を失わないことは大切。けれど、万が一の時のために覚悟を決めることも大事。希望と覚悟、半々なの」
わたしはいった。
「半々じゃないよ。きっと希望が百パーセント、覚悟も百パーセント。両方あわせて二百パーセント。病気の赤ちゃん持ったおかあさんは、きっと人よりずっと大きくならなきゃいけないんだね」
「そうね。ほんとにそう。でもね、わたし、思ったの。Kくんのことだけじゃない。Kくんがいなくったって、人間、どんな時でもおんなじなんだって。明日のことはわからない。何に対しても、希望と覚悟、両方持って生きていかなくちゃならないんだなって。Kくんがこうなって、それがすごくよくわかった。Kくんが、教えてくれたの。すごいよね。生まれてからまだ二カ月しか経ってないのに、人に何かを教えるなんて」
そして彼女は、こういった。
「Kくんてすごいって思うの。二カ月の赤ちゃんなんて、だれも注目しないし、大して気にもかけないでしょう。ああ、生まれたの、程度よね。それなのに、みんながKくんのこと気にしてくれるし、声をかけてくれる。この子、愛されているなあって思うの。美千子さんがくれた翡翠といっしょにね、石屋さんのお友だちがくれたラピスラズリ、Kくんの頭の上に飾ってあるのよ。みんなから、あったかい贈り物をたくさんいただいちゃった。ありがたいなあって。みんなのそんな気持ちが、きっとKくんを守ってくれる。
 それにね、わたしKくんに感謝してる。この腕に自分の赤ちゃんを抱きたかった。それをKくんがさせてくれたんだもの」

待ちに待った赤ちゃん。元気だと思っていたわが子が、突然難病だと言われ、一生むずかしい問題を抱えるかもしれないと宣告される。つい昨日まで、バラ色の未来を夢見ていたのに、茨の道が待ち受ける。どんなに大きな驚きと悲しみだっただろう。宣告からわずか二週間しか経っていない。その間にSACHIさんは、その運命を受け容れ、気丈に前だけを見て歩こうとしている。

▼現代医学の光と影
つい二十年前までは、胆道閉鎖症は、助からない病気だった。手をこまねいて、緩やかにやってくる死を見守ることしかできなかった。それは「育たなかった子」として、静かに受容するしかないことだったのだ。

それが、現代医療の進歩の成果で助かるようになった。しかし、全員が助かるわけではない。手術が成功しなかった子は、一生闘病をしなければならない。感染症を恐れて外へも出られないような暮らしになることもある。両親は、それを背負わなければならなくなった。昔なら、亡くなってあきらめざるを得なかった子と、一生二人三脚で歩かなければならない。その過酷な日々を、現代医学が両親にも子どもにも要求するようになったのだ。

手術するお金がない。それで手術を見送る人もいるかもしれない。或いは、あえて手術をしないと決断する人もいるかもしれない。生体肝移植にしても、するかしないか、決断が強いられる。胆道閉鎖症の子どもを持った両親は、さまざまな場面で決断を迫られ、分かれ道を選びながら歩かなければならない。それは大きな負担だ。

死ぬしかなかったはずの子どもが、助かるようになった。その代償として、両親は過酷な選択と決断を強いられる日々を背負わなければならなくなったのだ。

それでも、万が一でも助かるのなら、助けたいと思うのが人情だろう。自分の肝臓を切り取ってでも、なんとかしたいと願うのだろう。それで、我が子が助かるなら。

医学の進歩は、光を与えてくれたと同時に、人々に、以前は背負わずにすんだはずの大きな重荷を背負わせてしまったわけだ。その過酷な日々を、わたしたちは否応なしに背負わなければならない。

▼祈り
「占いなんてね、信じないけど、でも、行ってみたの。そうしたらね、Kくんて、とても強い星の下に生まれてきたんですって。まわりのみんなに支えてもらえる運命なんだって。『この子は生命力が強いからだいじょうぶ』っていわれた。安心させるために、そういってくれたのかもしれないけれど、あの子の顔を見ていると、きっとそうだって思えてくる」
SACHIさんは、明るい声で、そう伝えてくれた。

「K, You are strong. You can go through it. 」
わたしは、カードにそうしたためてSACHIさんに渡した。そう言葉に書くことで、それが事実になるような気がして、そうしないではいられなかった。万葉の時代から、人々は言霊を信じ、言葉を発することで祈念してきた。いにしえ人の気持ちが、いまはよくわかる。

明日、二十四日、Kくんは手術を受ける。小さな体で八時間におよぶ大手術になる予定だ。どうか、うまくいきますように。手術の成功を、心から祈ります。Kくん、頑張ってね。SACHIさん、わたしもずっと祈っているから。

■名古屋国際水中映像フェスティバル2002/ポエトリー・リーディング原稿

Wed, 22 May 2002 17:30:33

2002年5月18日、名古屋国際水中映像フェスティバルのイベントのひとつとして、名古屋港水族館アンダー・ウォーター・ビュー(イルカの大水槽)前で行われた詩の朗読と音楽のコラボレーション・ライブの原稿を収録します。出演は本多信介(ギター)、ベルナール・アベイユ(コントラバス)、寮美千子(ヴォイス)でした。

▼第1部 本多信介・寮美千子
オルカへの讃歌
水の色
珊瑚
Summer in the city
やわらかな海
だからイルカは微笑みながら泳ぐ

▼第2部 ベルナール・アベイユ・本多信介・寮美千子
遠い言葉
都市の記憶
水の名前

▼共演者略歴
【本多信介/HONDA Shinsuke】
 1950年広島生まれ。現ムーンライダーズの鈴木慶一氏らとバンド「はちみつぱい」を結成。ギタリストとして活躍する。解散後は、ソロ活動のほか、南佳孝、あがた森魚、吉田美奈子などのバックアップ・ミュージシャンとしてレコーディング、コンサートをサポート。 また同時期には、映画音楽を手がけるなど精力的に音楽活動を展開していく。

  彼が手がける音楽は幅広く、90年のLD「マリンパラダイス」シリーズの音楽に代表されるような、ヒーリング音楽の制作も多数手がけている。作品の中には、伝説の冒険家・望月昭伸氏の作品に音楽をつけたCD-BOOK『クジラの棲む青い地球』『イルカがくれた海物語』もある。

 彼の異才ぶりはまた、90年に放映が開始したフジテレビ系の番組「新諸国漫遊記」のテーマ音楽となった「風まかせ」に現れている。ハウス・ミュージックをベースにしたこの和製ヒップホップは、当時にしてみればまったくの新奇な音楽であった。日本音楽をワールドミュージックとして広めることをライフワークとして、現在も活躍中である。

主な作品は、はちみつぱい『センチメンタル通り』(キング・ベウウッド)『ライブ』(ソリッド)『9th June 1988』(徳間ジャパン)『はちみつぱいラストライブ』(東芝EMI)、ソロアルバム『サイレンス』(アポロン)『晩夏』『guitar resort』(アルファ・エンタープライズ)ほか。映画音楽では、99年に塩田明彦監督の『月光の囁き』の音楽を担当している。

【ベルナール・アベイユ/Bernard ABEILLE】

1952年にフランスのマルセイユに生まれる。ジャズギター奏者としてコンセルバトワールに通 い、その後、1980年にはピアニストのフレッド・ラマモン、アンリ・フローランとともにグループを結成。このときコントラバスに転向を果 たす。それ以降、さまざまなミュージシャンの伴奏をつとめる傍ら、1990年には、独創的な演奏会「クジラとコントラバス」、また最近では「象の記憶」と題された演奏会を開くなど活動をしている。

彼は、こうした活動をFLCBGV(Front de Lib?ration dela Contrebass et des Gros Volumes/コントラバスと巨大創造物たちの自由戦線)と称している。また彼は、地球の環境保護を訴えて活動をつづける、Circonf?rence 360のメンバーの一人である。

▼Voice原稿

(オルカへの讃歌)

白と黒
海から跳躍する 美しい肉体
オルカ

白は 光
まばゆい光

水が割れて 白がのぞく
滑らかなその胸が 夕陽に染まり
大きく翻って
尾びれが 海原をたたく
舞いあがる 金のしぶき

黒は 闇
深い闇

昏い水を裂いて 銀河へと
一気に躍りあがる オルカ
その肉体の形に 流れおちる光は
星の数ほどの
夜光虫の燐光

海から 空へ
高く もっと高く
地球から 宇宙へ
遠く もっと遠く 跳ねあがる オルカ

                   Copyright by Ryo Michico

(水の色)

水の色を わたしは知らない

揺れる水は 青く
砕ける波は 白い
湖は 緑に静まりかえり
せせらぎは 透きとおり
雲の巣にかかる雫は 銀色に光る
立ちのぼる水は 白い雲になり
夕暮れには その縁を 金色に輝かせる
海は一面 金の小舟を揺らし
波打ち際は 鏡になって 燃える空を映す
やがて降りてくる 夜のなかで
星を映す 川
月を映す 海

そのどれを 掌にすくってみても
ただひとしずくの 透明な水なのに
時に 空のただなかで 虹色に輝く

水の色を わたしは知らない

                  Copyright by Ryo Michico

(珊瑚)

月が 満ちる
月が 満ちて 
潮が 満ちる
珊瑚は 海の底で
いっせいに 卵を産み
幾億の 小さな月を産み
月の光は
水底まで 青く射しこみ
ゆらゆらと 波に揺れ
生まれたばかりの
幼い月たちの 光の揺りかごになる

                    Copyright by Ryo Michico

(Summer in the City)

空を映すはずの ビルのガラス窓が
いっせいに きらめいて
青い海原を 映す

だから こんな都市のまんなかで
ふいに
海の匂いがする

ガラス窓に映った 海のなかを泳ぐ
都市の人魚たち

ここでは 人が
海に いちばん 近い

                     Copyright by Ryo Michico

(やわらかな海)

きみは やわらかい 小さな 海

いのちの記憶を たずさえて
結晶都市を さまよっている

夢のなかで きみに会う
きみのなかで 海に会う

人は やわらかい 小さな 海

あたたかい眠りのなかで
同じ 波の音を 聴く

二十億年前の 波の音を 聴く

                     Copyright by Ryo Michico

(だからイルカは微笑みながら泳ぐ)

海が 抱きしめてくれるから
わたしを
わたしの愛する者たちを
やわらかなその腕で
どこまでも抱きしめてくれるから
もう 何もいらない
愛する者たちを 抱きしめる腕さえ
わたしは捨てた
だから
自由に泳ぐだけ
ここには 確かに
哀しみよりも より多くの歓びが満ちている

この海の青さは
きっと空の青より 深い
あなたがたが目指す 空よりも

陸のうえの兄弟たちよ
どうして そんなに哀しい顔をする
愛する者を抱きしめる その腕で
もっと 多くをつかもうとし
いつも 何かをつくりつづけて
どこまでも 走ろうとするのは
きっと いつも何かが足りないからだ
何を探しているのだろう
いつになったら 足りるのだろう
どこまでいったら 安らぐのだろう

いつも何かを求めて
なお さみしげな二本足の兄弟よ
できることなら
戻っておいで
ここに戻っておいで

この海の青さは
きっと空の青より 深い
あなたがたが焦がれる あの遠い空よりも

                     Copyright by Ryo Michico

(遠い言葉)

なぜ 帰ったのだろう 海へ

遠い昔
わたしたちは ともに
陸を目指して 海を離れた
それなのに なぜ 海へ帰ったのだろう
オルカは

わたしたちは 陸のうえで
二本の足で 立ちあがり
自由になった手で 道具をつくった
道具は 力を生み
力は わたしを自由にした
武器をつくり
都市をつくり
空を飛び
海に潜り
数式を操り
わたしは 月にまでたどりつく
地上に 無数の小さな太陽を燃やし
莫大なエネルギーを取りだし
空の果てに
宇宙のはじまりを のぞきこんだ

けれども それで
ほんとうに わたしは 
自由になったのだろうか

オルカ
生まれ故郷の海を 目指した者たち
歌いながら 海を泳ぐ
星々の間を 泳ぐように
必要なだけ 食べ
海藻で 遊び
子どもたちを 育てる
この惑星の なにひとつ けがすことなく

オルカ
きみは なにを見ているのだろう
なにを感じ なにを思い
なにを歌っているのだろう
海で

遠い時間を隔てて
わたしたちは 再び出会った
まるで 異なる惑星で生まれ育ったように
わたしたちの言葉は 通じない

けれど わたしたちは  
遠い昔 陸を目指した兄弟だから
きっと いつか わかりあえる

そうしたら 教えておくれ
オルカ
きみは なぜ 海へ帰ったのかを
そんなにも美しく 自由なのか

               Copyright by Ryo Michico

(都市の記憶)

百年後の廃虚に
いま
棲んでいる

千年後の砂漠に
いま
生きている

無数の窓が 
鏡になって
青空を反射している
だれも 見あげない

区切られた四角い空を
すべる昼の月
よぎる鳥の群れ

大理石の壁のなかで
アンモナイトは 夢見ている
時の彼方を

エレベーター・ホールに
ときおり響く 波の音
だれもが 空耳だと思っている

一万年後に ふたたび海となる地に
いま
都市がある

百万年後に だれが
それを
記憶しているだろう

                Copyright by Ryo Michico

(水の名前)

その水の名前は 雲
雲は 地上にこがれて

その水の名前は 雨
やわらかい 五月の雨になる

その水の名前は 川
歓びの声をあげて 流れる

川は 大地を潤し
水は 音もなく 吸いあげられる
草に 木に

その水の名前は 花
一面に咲き乱れる 名もない花たち

その花びらを 食めば

わたしは 水

あらゆる 草や木とともに
めぐる水に 足を浸している

あらゆる 生き物とともに
わたしは
めぐる水の名前のひとつ

その水の名前は 海
無数のせせらぎは
ただひとつの 大きな水となり

たゆたう光のなか
空に こがれる

その水の名前は 雲

                Copyright by Ryo Michico

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■TKL公開講座「ゆっくり生きよう スローフードから見えてきたしあわせの形」レジュメ

Mon, 06 May 2002 14:57:05

第69回 十勝環境ラボラトリー 国際環境大学公開講座
「ゆっくり生きよう スローフードから見えてきたしあわせの形」レジュメ    20 Apr. 2002

▼はじめてのパン作り

今年の2月、はじめてパンをつくった。
10年ほど前に一度挑戦したのだけれど、発酵がうまくいかなくてギブアップ。
それ以来、はじめての挑戦。

元はといえば、水餃子づくりが発端。
とある無骨な男友達が「ぼくは水餃子の達人だ」と豪語していたのをきき、
あいつにできるなら、わたしにも、と思って、粉から練ってつくってみた。

けっこうむずかしい。
むずかしいだけに、挑戦しがいがある。

そして、完成した私流の水餃子。
これが、おいしい。
歯ごたえもいいし、中身も自分の好きなアレンジができる。

それ以来「粉」に執心。
そこへ、友人より「こね機」をもらう
押入に死蔵していたやっかいもの。
これなら、パンも楽にできるんじゃないか、と再挑戦する気に。

▼小麦をおいしく食べる方法

米は偉い。
炊けば、そのままおいしく食べられる、たいへん優れた食材。
小麦粉は、お米とは違う。
そのまま炊いても、おいしくたべられない。
そのために、世界中で小麦粉をおいしく食べる技法が発達した。

ひとつは麺。
うどん、ラーメン、スパゲティ。
そして、パン類。

パンには2種類ある。
ひとつは、ふくらし粉の化学反応で膨らませる方法。
これには薄力粉という、グルテンの少ない小麦粉を使用。

もうひとつは、イーストや天然酵母など、微生物をつかって発酵させる方法。
これには強力粉という、グルテン含有率の高い粉を使用。

▼パン作りは生き物が相手

さて、相手は生き物である。
まずグルテンの弾力が出るまで、粉を充分にこねなくてはならない。
時間にして20分〜30分。
とても、体力がいる。
わたしの場合はこね機がやってくれるけれど、
こね機に入れる前に、粉を手でまとめる段階でも、結構力がいる。

そして一時発酵。
30分ほどして、倍に膨れるまで待つ。
ガス抜きをして、作りたい形に成形し、二次発酵。
ここでまた、30分ほど待つ。
そして、熱したオーブンへ。
200度ぐらいで、30分〜50分ほど焼く。

発酵の時間にもよるけれど、
準備から完成まで、2時間から3時間は必要。

▼面白くて目が離せない

はじめは、待ち時間にパソコンに向かって仕事をすればいいと思っていた。
が、しかし、そうはいかなかった。
目が離せない。
初心者、ということもある。
こね機のなかで、まるで宇宙生物のようにのたうつ粉の塊を眺めていると飽きない。
焚き火や、水の流れや、波を見ていると飽きないのと同じ。
発酵タイムに入ると、自分で勝手にじわじわと膨らんでいくのが面白い。
つい、蓋をあけて、確かめたくなってしまう。
小麦粉の相が変わるのも、面白い。
さらさらした粉と水。
それが、ぽろぽろの塊になったかと思うと、
こねているうちに、弾力のあるつやつやした生地になり、
手触りも全然違ってくる。
それが、焼くとあのふっくらと、そして外側はぱりぱりっとしたパンになる。
まるで、魔法のよう。

▼生き物相手だから目が離せない

しかし、目が離せないのは、初心者で物珍しいからだけではなかった。
発酵の加減がむずかしい。
過剰発酵は、パンの風味を落とすばかりでなく、弾力もなくす。
だから、ちょうどいい時を見計らわなければならない。

イーストは微生物だから、安定しているとはいえ、毎日状態が違う。
材料の配合でも違うし、その日の温度湿度でも違う。
同じ配合でも、その日の粉の湿り具合でさえ、違ってくる。
だから、一律何分待てばいい、というわけにないかない。
ちゃんと様子をみて、ごきげんをうかがって、
それでちょうどのタイミングで次の作業に入らなければならない。

▼大変なコスト

大変といえば、大変。
精神的にも肉体的にも、大変な重労働。

しかも、それだけ時間と手間をかけて焼きあがっても、食べるのは一瞬。
特に焼きたてはおいしいものだから、ぱくぱく食べちゃって、
あっという間になくなっちゃう。

こんなたいへんなら、スーパーで「超熟」とか買ってくれば
一斤たった170円だし、品質は一定しているし、まあおいしいし。
ともかくも、あの安定しない生き物である酵母を使いこなして、安定した製品を、
しかもあの低価格で送りだすパン工場の技術はすごいものだと改めて感心。

▼パン屋以前

このような大量生産のパンが生まれる前、人々はどうしていたのか?
あるいは、専門のパン屋ができるまえは、どうしていたのか?

日本は、パンなんか食べないで、米を食べていたわけだからいいけれど、
小麦粉文化圏の人々は、どうしていたのか?

もちろん、各家庭でパンを焼いていた。
多くは、おかあさんが焼いていた。
こね機もないところで、大変な重労働をしていたわけです。
しかも、家族全員の分だから、半端な量じゃない。
これはもう、大変なことだったんじゃないか。

▼パン屋出現による女性解放

水道ができて、女性が水汲みから解放されたように、
パン屋やパン工場ができて、女性はパン焼きという重労働から解放された。
自由な時間ができて、社会参加ができるようになった。
働いてお金も稼げる。
経済的自立をすれば、発言権も強くなる。
夫の言いなりにならないで、自分の人生を謳歌できる。
お金があれば、好きなものも買える。
素敵な服で着飾ることもできるし、旅行にも行ける。
いいことづくめだ。パン屋さん、バンザイ!

▼道楽としてのパン作り

そうなると、今日の都市生活におけるパン作りなんて
余暇を利用した「単なる道楽」「奥さまの優雅な趣味」以外の何物でもない、
ということになってしまう。
つまり「好き好んで、わざわざ苦労しているタデ食う虫」ってことになる。

でも、ほんとうにそうだろうか?

▼パンはパンのみにあらず

だんだん粉やイーストとのつきあいが深くなっていくと、
相手の様子がわかってくる。
毎日の粉の調子、天候、それによる出来の微妙な差異が面白い。

さまざまな挑戦もできる。
配合を変えたり、レーズンやクルミや、オリーブの実を入れたり、
バターをオリーブオイルに変えてみたり、
全粒粉やライ麦粉やトウモロコシの粉を混ぜてみたり。
ふすまや胚芽をいれたり。
同じ強力粉でも、銘柄が違うと、味や出来が全然違ったり。
つまり、パン作りはとてもクリエイティブな作業である。

それは、とりもなおさず「喜び」。
じっくりと粉と向き合い、微生物と向き合い、
その日の天気と向き合い、季節の収穫を織りまぜ、
しかも、それを自分の日々の「糧」にする。

「人はパンのみにて生きるにあらず」というけれど、
そのパン作りのなかに、すでにパン以外の要素がぎっしり詰まっている。
自然の命、生命の流れ、そんなものが、
パンを接点として人間の心と体に豊かに流れこんでくる。
生きている、生かされているという天然自然の手触りが、そこにはあった。

パン屋さんは便利だけれど、
その手触りや喜びを人々から奪ったともいえるのではないか。

▼パン作りを手放して、わたしたちは何を手に入れたのか?

しかし、パン屋さんのお陰で、ぐっと自由時間も増えたことは事実です。
それは、ありがたい恩恵だった。
では、その手に入れた時間で、わたしたちは何をしてきたのだろうか?
人生は、ほんとうに豊かになっただろうか?
人々は、ほんとうにしあわせになっただろうか?

▼便利が世界を加速する

パン屋、と同じように、生活を便利にしたものに、
電話、コピー、ファクスがあります。
さらに、これに携帯電話とインターネットが加わった。

出版社の場合、電話がないころは、手紙でやりとりするしかなかった。
とても時間がかかりました。
急ぐときは、直接訪ねるしかなかった。
そこで、顔を合わせる。
人と人の交流が深まる。

コピーがないから、原稿はすごく大切なものだった。
一部しかないものを紛失しては大変だから、
原稿を受け取りに、新入社員が汽車に乗ってでかける。
半日、一日がかりで行かなければならないところもある。
そうすると、新入社員はその間、汽車にのってゆっくりと本を読んだり、
窓の外を眺めたり、人生に思いを馳せたり、そんな時間が持てた。
それは、短い有給休暇みたいなものです。
そんな時間がたっぷりとあった。

コピーが発達してからは、コピーを郵送すればよくなったけれど、
ファクスができると、さらに便利になった。
もう、郵送の必要もない。電話線で送ればいいだけ。

そして、インターネットが普及してからは、原稿はメールで送るようになった。
そのまま印刷用のデータにするから、文字校正もうんと楽になった。
おかげで、写植屋さんは失業。

さて、それで時間に余裕ができたか、というとちっともそうじゃない。
もっと忙しくなった。
空いた時間、ゆっくりなんかしてられない。
その分、もっと走らなければいけなくなった。

▼なんのためのローンか?

時間の余裕を作るために、便利なものが発達する。
けれど、それで時間に余裕ができたかというと、どうも違うらしい。
わたしたちは、もっともっと忙しくなっている。

物がたくさんあれば、人はしあわせになるといわれてきたけれど、
ほんとうにそうだったか?
お金を払って、たくさんの物を手に入れなければならなくなって、
そのために朝早くから夜遅くまで働かなくてはならなくなった。
たとえば「家」なんていう買い物がそうです。
ローンの支払いのために、満員電車で遠距離通勤して、くたくたになって、
家族とゆっくり過ごす時間も持てない。

▼奪われた大切なもの

「便利」「快適」という名のもとに、
わたしたちは、なにかを奪われているのではないか。
とても大切なものを。
ゆっくりと、人間らしく生きるという、
根本的な「人権」を奪われているのではないか。

▼引きこもりは、幸せでない社会への抵抗?

けれども、みんながそうしているから、それが普通。
それが当たり前と思って、みんな歯を食いしばってがんばっている。
それができない人は「落伍者」だとか「引きこもり」とかいわれてしまう。
「社会参加」をはたしていないとして、
人間としての義務を果たしていないようにいわれてしまう。
果たして、そうだろうか?

おかしいのは「世界」の方ではないか?
こんなおかしい世界に迎合できない。
でも、どうしたらいいかわからない。
わからないから、引きこもるしかない。
とりあえずプーをする。
そういう人の方が、むしろ、この世界のおかしさに敏感に気づき、
それに対して体を張って抵抗しようとしているのではないか。

▼戻れない

だからといって、では水汲みとパン作りをしなければ
生きていけない社会に戻ればいいのか? というとそうではない。
戻れないし、戻ることがほんとうにいいこととは思えない。

問題は「便利なもの」によって得た余剰の時間を、どう使うかということ。
それを、過剰な生産と消費に使い、
世界をただ加速するだけでは、だめだということ。
便利さによって得た恩恵を、どう人間のしあわせに生かすか?

▼社会の大枠を考え直す

生かせない原因。
それは、「限りなき成長」なしにやっていけないという社会構造にある。
余暇を余暇として過ごしていたら、競争に負ける。
負けるとやっていけなくなるので、
余剰の時間も、すべて仕事に振りむける。
そういう社会構造自体を変えていかなければならない。

▼ファーストフードからスローフードへ

人々は、ようやくそのことに気づいてきた。
ファースト・フードがもてはやされた時代から、
いまやスロー・フードが見直される時代になってきた。
まだるっこしくて、不便だけれど、
そこにはファースト・フードでは得られない喜びがあると、人々は気づいてきた。

筍と花山椒。

▼苦労=喜びではない

ここで、間違えてはいけないのは、
苦労したことそれ自体に価値があるのではないということです。
そのほうが、結果的に作る過程が楽しく、面白く、
できあがりが断然おいしいから、価値があるのです。

苦労したから価値があるとか、
まずいけれど手作りだから価値があるというのは、おかしい。
それはイデオロギーに毒されている。
全然リアルじゃない。
むしろ、ヴァーチャルです。

▼原動力としての「喜び」

「喜び」こそが原動力になる。
「忍耐しよう」とか「我慢しよう」っていうだけじゃ、魅力的じゃない。
世界をよくするために、みんな痛みを分け合いましょう、
というだけじゃ、世界はそっちに進もうとしない。
後込みするばかり。

そうじゃなくて、そこにある「喜び」に気づくことが大切。
奪われてきた喜びに気づくこと。
それを奪われていることは不当だと目覚めること。
奪われた喜びを回復しようとすること。
お金じゃない、ほんとうの豊かさを取り戻すこと。

それによって、世界はよりよき方向に動いていく可能性がある。

▼安上がりな、ほんとのしあわせ

ほんとうのしあわせは、実は安上がり。
パン作りだって、時間コストを考えなかったら、安上がり。
心が豊かなら、きれいな夕陽を見ただけでも幸せになれる。
自転車も実に楽しい。
ママチャリではなくて、せめて5万円の自転車に乗れば、世界は変わる。
そこから「脱自動車社会」への思考も広がっていく。

しあわせなんて、簡単だ、ということに気づくこと。
それが「物」中心の世界観を変えていく。

▼利潤追求からしあわせの追及へ

会社も「利潤追求」が目的ではなく
「しあわせの追及」を目的とするようなものになっていかなければならない。

だいたいが「利潤追求」は「しあわせの追及」のためだったのではないか。
それが自己目的化して、社員の人権やしあわせ、人倫を踏みにじってまで
利潤を追及するようになってしまったのではないか。

▼新しい経済モデルの提出

経済学者や政治家は「限りなく経済成長」を前提としなくても回っていく
新しい経済モデルを提出すべきである。
それをしようとしないのは、怠慢だ。

そのとき、念頭に置くべきは「地球の時間」。

▼インターネットが開く可能性

インターネットは、新しい道具。
コピーやファクスとは、根本的に違う。

いままでは、マスコミが一方的に情報を発信してきた。
いわば、大量生産のパン屋。
どこにでも均一な情報が行き渡る。
日本のマスコミは、マスコミとして機能してこなかったから、
事実上の「大本営発表」となんら変わりがない。

しかし、ネットの普及によって、誰もが発信者になることができるようになった。
大量生産の均一なパンだけではなく、
とても個別個的な情報が、マスコミ情報と同じように流通するようになった。
家で作ったパンを、みんなが味わえるようになった。
これは、画期的な変化。

しかも、ネットは「経済」から自由でいられる稀な場所。
すべてが「お金」で動いていた社会に、
まったく別の価値観を持ちこむことになった。

いまのところ、一部の進んだ人だけがネットを使える。
だから、ネットは「強者」のための道具だと誤解されているが、
この道具は、本来「弱者」のための道具である。

この道具を使いこなすことで、新しい世界像が描ける。

インターネットという新技術による情報革命、
そしてスローフードへの回帰。
それは、実はコインの表裏だった。

この両面から世界を変える可能性があるのでは?

http://www.kankyo-lab.com/

■『父は空 母は大地』/群読用テキスト

Mon, 06 May 2002 14:44:00

Father Sky, Mother Earth / Text for Reading

1---------------------------------------------------
▼寮
ワシントンの大首長が 土地を買いたいといってきた。

2---------------------------------------------------
▼A
どうしたら 空が買えるというのだろう?
▼B
そして 大地を。
▼寮
わたしには わからない。
▼AB
風の匂いや 水のきらめきを
あなたはいったい どうやって買おうというのだろう?

3---------------------------------------------------
▼C
すべて この地上にあるのものは
わたしたちにとって 神聖なもの。
▼D
松の葉の いっぽん いっぽん
岸辺の砂の ひとつぶ ひとつぶ
▼C
深い森を満たす霧や 
草原になびく草の葉
▼D
葉かげで羽音をたてる 
虫の一匹一匹にいたるまで
▼CD
すべては 
わたしたちの遠い記憶のなかで
神聖に輝くもの。

4---------------------------------------------------
▼A代表
わたしの体に 血がめぐるように
▼A
木々のなかを 樹液が流れている。
▼B代表
わたしは この大地の一部で
▼B
大地は わたし自身なのだ。

5---------------------------------------------------
▼C代表
香りたつ花は 
▼C
わたしたちの姉妹。
▼D代表
熊や 鹿や 大鷲は 
▼D
わたしたちの兄弟。

6---------------------------------------------------
▼A
岩山のけわしさも 
▼AB
草原のみずみずしさも
▼ABC
小馬の体のぬくもりも
▼ABCD
すべて おなじひとつの家族のもの。

7---------------------------------------------------
▼寮
空気は すばらしいもの。
▼ABCD
それは 
すべての生き物の命を支え 
その命に 魂を吹きこむ。
▼AD
生まれたばかりのわたしに
はじめての息を あたえてくれた風は
▼BC
死んでゆくわたしの
最期の吐息を うけいれる風。

8---------------------------------------------------
▼寮
それなのに 白い人は
母なる大地を 父なる空を
まるで 羊か 光るビーズ玉のように 
売り買いしようとする。
大地を むさぼりつくし
後には 砂漠しか残さない。
▼AB
白い人の町の景色は わたしたちの目に痛い。
▼CD
白い人の町の音は わたしたちの耳に痛い。

9---------------------------------------------------
▼寮
たおやかな丘の眺めが 電線で汚されるとき
薮は どうなるだろう?
▼ABCD
もう ない。
▼寮
鷲は どこにいるだろう?
▼ABCD
もう いない。

10---------------------------------------------------
▼AB
ひとつだけ 確かなことは
▼CD
どんな人間も 
▼AB
赤い人も 白い人も 
▼CD
わけることはできない ということ。

▼ABCD
わたしたちは結局 おなじひとつの兄弟なのだ。
わたしたちが 大地の一部であるように
あなたがたも また この大地の一部なのだ。

11---------------------------------------------------
▼寮
だから 白い人よ。
わたしたちが 
子どもたちに 伝えてきたように
あなたの子どもたちにも 伝えてほしい。
▼ABCD
大地は わたしたちの母。
▼寮
大地にふりかかることは すべて 
わたしたち
大地の息子と娘たちにも ふりかかるのだと。
▼ABCD
あらゆるものが つながっている。
わたしたちが この命の織り物を織ったのではない。
わたしたちは そのなかの 一本の糸にすぎないのだ。

12---------------------------------------------------
▼A
生まれたばかりの赤ん坊が
母親の胸の鼓動を したうように
▼AB
わたしたちは この大地をしたっている。
▼ABC
もし わたしたちが 
どうしても  
ここを立ち去らなければ ならないのだとしたら
▼ABCD
どうか 白い人よ
わたしたちが 大切にしたように
この大地を 大切にしてほしい。

▼AB
そして あなたの子どもの 
そのまた 子どもたちのために
▼CD
この大地を守りつづけ
わたしたちが愛したように 愛してほしい。
▼ABCD
いつまでも。

▼寮
どうか いつまでも。

▼ABCD
どうか いつまでも。

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