ハルモニア Review Lunatique/寮美千子の意見

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■写真批評/エドウィン・ズワックマン

Thu, 08 Aug 2002 17:16:47

東川町国際写真フェスティバルにゲストとして招かれ、受賞作家を囲むフォーラムに参加させてもらい、特別賞の風間健介氏と、海外作家賞のエドウィン・ズワックマン氏の写真に関する感想を述べた。その時、語りきれなかったことも含めて、感想を述べたい。

▼ありきたりな風景をあえて精度の低い模型にすること

ズワックマンの写真をはじめて見たのは、インターネットだった。その小さな写真を見てまず感じたのは「どこか変だ」ということだ。そこにあるのはごくありきたりのオランダの風景や、引っ越し後のがらんとした部屋だったが、どうも釈然としない。解説を読むと「自ら精緻な模型を制作して、それを撮影」と書いてあった。模型だから、違和感を感じたのかもしれないと思ったが、それが精緻であるかどうかも、写真が小さくてわからなかった。しかし、奇妙な感じのする写真だったことだけは確かだ。

東川にいって、大きく引き延ばされた写真の展示を見ても、その気分は変わらなかった。釈然としないのだ。そこに写っているのはごく一般的な風景や室内。しかし、なぜか違和感がある。よく見ると、それが模型であることを了解する。模型の精度が低いからだ。

ここが微妙なところだ。一目で模型であるとわかるわけではないが、だからといって現実を撮影したものだと感じるわけでもない。その境界線上の微妙なところに位置しているのがズワックマンの写真だ。そこに写っているすべてが模型でできている。ビルの壁面から、ガレージにある細々した物、海面、岩壁、街灯。ありとあらゆるものを模型でつくるというそのこだわり。そのこだわりはどこから来るのだろう、という疑問が頭をもたげる。

その次に湧いてくる疑問は、そこまでの熱意で模型を作っているのに、なぜ、こんなに精度が低いのか、ということだ。すべてを模型で制作するという熱意と、模型の精度が釣りあっていない。そこまでつくるなら、もっと精度を高くしてもよさそうなものだ、と精度の高い模型に慣れているわたしは思ってしまう。なにしろわたしは、お菓子のおまけについてくる動物でさえ、あきれるほどに精巧に作られている国にすんでいるのだ。ズワックマンの模型の微妙な精度の低さが、作者が意図したものなのか、単に手先が不器用だったせいなのかわからないために、その釈然としなさが、さらに違和感を呼ぶ。

もうひとつ、不思議なのが、題材の選び方だ。そこにあるのは、いかにも典型的なオランダの風景。といっても、よく見る風車とチューリップといった観光用の風景ではない。ありきたりの街の風景や海岸沿いの景色だ。特別にきれいであるわけでも、かっこいいわけでもない。かといって、荒んだ都市を表現するものでもない。ほんとうに「ありきたり」なのだ。凡庸と言い換えてもいい。なぜ、作者はこのような風景を模型にしたのか。何を意図し、何が面白くてこのような題材を選んだのか。このような風景を「あえて」模型でつくろうとしたその意図が、やはりよくわからない。
(注:ズワックマン自身による作品解説 参照)
題材の選び方、模型にする理由、模型の精度の低さなど、すべてが釈然としない。つまり、アイデンティファイしにくい作品なのだ。そのわからなさが、こちらの気分に小さな揺さぶりをかけ、微かな不安を呼び起こす。妙な気分になるのだ。

それを面白いと感じるか、つまらないと感じるか、面倒くさいと切り捨ててしまうか、それは人それぞれだろう。ズワックマンを囲むフォーラムのゲストとして呼ばれていた大竹昭子は、とても面白いと感じたという。残念ながら、わたしにとってそれは退屈だった。「ふうん」といって、そのまま足早に通過してしまう類の作品だったといえるだろう。しかし、今回はコメントを求められている。わたしは、自分の中に生じた「微かな不安」や「妙な気分」と向きあわなければならなかった。

▼ズワックマンの芸術理念

7月28日にはズワックマンの講演が行われ、ズワックマン自身による自作解説のスライドショーが行われた。わたしは、彼の写真を解釈する手だてにしようと耳をそばだてた。ズワックマンはそこで、なぜ模型であるかをこう語った。
わたしが哲学の師としているヴァルター・ベンヤミンやアンドレ・マルローも言及していますが、我々が「名画」として出会うものの8割以上は、写真や複製です。ならば、写真が最終作品であっても、なんら問題はないわけです。

美術大学の学生たちのいちばんの関心事。それは、芸術によって名をなすこと、有名になることです。そのために、みんな躍起になっている。わたしもその一人でした。わたしは、その欲望をそのまま作品化したらどうだろうかと思いついたのです。地道に絵画描いて評価を得ようとするのではなく、一足飛びに自分の美術館をつくってしまう。もちろん、現実につくれるわけがありませんから、模型で作らざるを得ない。とはいえ自分自身の美術館です。それは、自分自身の「有名になりたい」という野望をそのまま実現化し、作品化したものであり、同時にそのような野望を揶揄する意味もこめられているのです。
「ああ、ズワックマンは観念で遊んでいるんだ」というのが、彼の話を聞いたわたしの印象だった。この話でわたしがまず思い出したのは、現代美術の作家ヤノベケンジのことだった。実は、わたしはヤノベケンジの作品に対して、ズワックマンの作品に感じたような釈然としない気分を抱いている。なにか、同質のものを感じるのだ。ヤノベケンジもズワックマン同様、美大の出身である。ふたりとも「美術大学を出たから、美術の分野で仕事をするのが当然」というようにして現代美術に足を踏みこんだのではないか、という気がしてならない。「なぜ現代美術なのか」という大前提を検証することを抜きに、現代美術のフィールドで仕事をしているように思えてならないのだ。(もちろん、わたしの一方的な印象であって、事実かどうかは別の話だ)

世の中には、現代美術ではない美術作品がゴマンとある。チョコエッグのオマケやアニメのキャラクター・デザインなど、職人の世界までいれたら、世界のすべては美術であるといっても過言ではない。そこには、祖先から受け継がれ磨かれた技もある。そのすべてを視野にいれ、それでもなお「現代美術」でなければならない必然を、彼らはどこまで認識しているのだろうか。

ヤノベケンジの仕事の背後にはアニメの世界があり、ズワックマンの仕事の背後には映画の特撮の世界が広がっている。その広がりにおいて、なぜ彼らは「純粋芸術」でなければならないのか。アーティスト側もその自覚を持たなければならないとわたしは思うし、また批評する側も、その広がりを視野に入れて、彼らの仕事を評価するべきではないかと感じる。逆にいうと、現代美術と名づけられたものだけが美術ではなく、一般社会の中にも、実は現代美術の要素が広く紛れこんでいると思うのだ。

▼オランダを知る者には親しい風景

さて、ズワックマンの写真は、わたしには親しい風景だった。というのも、今から20年ほど前、わたしが生まれてはじめて訪れた外国はオランダであり、その後も縁あって何度もオランダを訪れているからだ。

はじめてオランダに行った時、スヘベニンゲンという有名な海水浴場で、坂道を上っていったところで突然目の前に開けた海には、度肝を抜かれた。振り返れば、地面は海面よりずっと低い。背筋がぞっと寒くなった。そのイメージは強烈で、20年を経てもなお、わたしに取りついている。現在執筆中の「夢見る水の王国」という作品は、海面下の土地を旅して歩くファンタジーで、この時のイメージを引きずっている。

低所得者層のたむろするトルコ人街の独特のすさんだムードも、朝の食卓も、大きなガラス窓も、わたしにはみな親しいオランダの風景だった。ズワックマンの写真が、それらの、観光写真ではないオランダの日常の風景をわたしに想起させたことは事実だ。その意味において、ズワックマンの写真はオランダを知っている人間にとっては極めて強いある種の喚起力を持っているといえるだろう。

しかし、オランダをよく知らない人にとって、当然ながら、それは説明を受けなければわからないことでもあったようだ。スカーフの女性をすぐにトルコ人とわかった人は少なかったようだし、トルコ人が想起させる低所得者層の住む街の荒んだ空気感を想起することもできない。堤防の風景は、知らなければ単なる堤防の風景で、その向こうに地面より高い水面があるとは思いもよらない。説明を聞いて知れば、ひとつずつ興味深い話ではあり、その向こうに広がる物語も見えてくるが、説明を聞かなければわからない写真というものはどうしたものだろうか。それは写真として自立していないのではないか。だったら、いっそのこと言葉もつけて、大竹昭子の本のように写真と言葉とで合わせて一つの作品としたらいいのではないか。わたしはそう思いながら、ズワックマンの自作解説を聞いていた。

▼フォーラムでの各氏の発言

翌28日、ズワックマンを囲んでのフォーラムがあった。大竹昭子は、ズワックマン自身による作品説明を聞く前から、その作品がある種の心の揺れを呼び起こすものであったことを指摘した。そして、それを非常に面白いことだと高く評価した。彼女はさらに、ズワックマンの解説を聞いて、写真が「ナラティブ(=物語的)」であることが一層理解され、さらに興味がかきたてられたと語っていた。

写真キュレーターの山岸享子は、一点一点を仔細に見た面白さについて語ってくれた。ミルクピッチャーと外のビルの高さが同じこと、部屋の写真の高さと奥行きの比率の不均一がもたらす効果などについてだ。

ともかく、語ることならいくらでもあった。ズワックマンの写真は、語ろうとする者にいくらでも言葉を与えてくれる作品であることは確かだ。彼の模型が精緻なようにみえて精緻でないように、写真それ自体にいくらでも語る「隙」があって、解釈する側は好きなように言葉を連ねていくことができる。その意味においてズワックマンの写真は、極めて現代美術的というか、現代美術として都合のいい作品なのかもしれない。

▼なぜ現代美術なのか

しかし、わたしはそこでまた「なぜ現代美術なのか」という先程の問いに戻ってしまうのだった。ズワックマンの写真は、わたしには退屈である。退屈だけど「これは現代美術です」といわれ「コメントしてください」といわれるから、じいっと見る。見て、どこが面白いのか探そうとする。なるほど、語ることならいくらでもありそうだ。さまざまな意味づけもできる。それができるのは、作品が退屈だからかもしれない。退屈だから、どこが面白いか仔細に見つめて探さなければならず、それゆえ、普段なら考えたりしないこと、気にしないで通過してしまうことにひとつひとつ気づいていくことになる。

現代美術とは、そのように「わからない」「つまらない」ことを契機にして、人にモノを考えさせる装置なのだろうか。自明過ぎるものは、考えるチャンスを奪うから、そこに自明の何かが表現されていては都合が悪いのだろうか。

▼大衆の破壊欲望を満たす怪獣映画

釈然としないままに、ズワックマンの写真を見て思った。これはどこかで知っている感覚だ。模型を撮影して、実物大の映像にする。それは、怪獣映画お得意の手法ではないか。模型で作られた街を怪獣がばりばりと破壊していく。ズワックマンは自作の模型写真のなかの「パワーショベル」を破壊の象徴であると語っていたが、怪獣たちは象徴もへったくれもないすごいパワーで世界を破壊しまくっている。

人々は、なぜ怪獣映画を好むのだろう。怪獣がかっこいいから? ストーリーが面白いから? しかし、自分が惹かれていると思っているのとは実は別の部分で、人々は怪獣映画を好きなのかもしれない。怪獣映画は、破壊を求める人々の潜在意識に強く働きかけているのではないかと、わたしは思う。

怪獣は、我々がよく知っている風景を容赦なく破壊する。銀座4丁目の和光の時計台、渋谷109、東京都庁、札幌すすきの、福岡ドーム、などなど、枚挙にいとまがない。わたしたちが自明のものだと信じていたもの、生活の基盤である都市という枠組みを、怪獣はあっけなく破壊する。

都市は、いわば都市生活者のための保育器だ。都市の機能なくして、人は生命さえつなぐことができない。その都市が壊れたらどうなるか。人工的につくりあげた都市という存在に、実は人々はいつも心の底で強い不安を抱いている。けれど、その不安を直視していては日常を送れないので、なかったことにしてしまう。しかし、それで不安が解消されるわけではない。むしろ、抑圧されたことによって、不安はいつも無言で人を脅す存在になる。

怪獣映画は、その不安を白日のもとに晒けだす。都市というものは、実は脆くて壊れやすいものだと視覚化してくれる。人々は、恐ろしくて言葉にできなかった不安を言語化し、視覚化して見せてもらうことで「ああ、やっぱりね」と納得して、ほっとすることができる。それが、怪獣映画の真の魅力なのではないだろうか。大衆の心の底に根深く巣くう不安に訴えかけるから、怪獣映画はこんなにも息長く繁栄しつづけているのではないか。

さらにいえば、破壊は恐怖の対象であるだけではなく、憧れの対象でもある。かわり映えのしない日常。すべてが固定化され死に至るまでの道筋がきっちりと描かれた人生。そのようなものにうんざりしている人々は、社会の枠組みそのものをぶち壊してしまうような大きな変化を心の底で望んでいる。その欲望を肩代わりしてくれるものが、怪獣映画なのかもしれない。

コンピューター・グラフィック全盛の今日でも、怪獣映画では模型も多用されている。ことに、日本の特撮用模型は精度が高いといわれている。精度の高い模型の都市風景が派手に破壊される映像が、劇場の大画面に映しだされる。しかも、動画で。迫力という点だけ見れば、大きく引き延ばしたズワックマンの写真よりも、ずっと迫力があるかもしれない。

▼「楽しさ」「面白さ」という夾雑物を排除したところにある現代美術?

しかし、怪獣映画には、さまざまな夾雑物が付与されている。怪獣のキャラクターやストーリーなど、わかりやすく人を引きつけるエンターティメントの要素が満載だ。それゆえ「潜在する不安を視覚化し言語化して癒す」といった、もしかしたら魅力の根源であるかもしれない深層心理は、意識に浮上しないのかもしれない。

こう言い換えることができる。ズワックマンの写真は「怪獣映画から面白さ、楽しさ、わかりやすさなど、人を楽しませるすべての要素を注意深く取り除いたところに成立するもの」であると。その退屈さゆえに、人に深く考える機会を提供するものだと。

▼境界線を無化するべきではないか

ズワックマンの写真は「現代美術」という限定のなかで評価されている。その背後に広がる特撮映画まで含め、そのなかで現代美術として面白いと思われるものを発見していこうという意志があったとしたら、ズワックマンの写真はそのなかでどこに位置づけられるだろう。もしかしたら、もっと面白いものがごろごろと転がっているのかもしれない。例えば「ブレードランナー」のピラミッド・ビルの姿はどうだろうか。あの酸性雨の街の描写はどうだろうか。あの模型やセットのスチル写真を「作品」として展示したら、かなりのインパクトがあるのではないか。映画という娯楽作品から「楽しさ」や「物語」をすべて排除して剥きだしの模型やセットだけにしても、そこにあるのは「退屈」ではないのではないか。退屈を強調しなくても、充分に人に何かを考えさせるきっかけとなりうるものではないか。

現代美術は、現代美術の土俵にのぼってきたものしか相手にしない。そのなかでしか競争相手がいないから、競争相手の少ない方法論を「現代美術」であると宣言すれば、それだけで突出できるシステムになっている。

ということは「模型の風景を撮影する」という方法論を「現代美術」と名づけ、そのフィールドで勝負しようとしたそのこと自体が、現代美術ギョーカイにおけるズワックマンの勝利なのかもしれない。模型を最終表現方法としてオブジェとして提出したら、おそらく評価は低かったのではないか。それをさらに「写真」というメディアを通して表現するというアイデア自体が新鮮だったし、模型の精度の低さも含めて、結果的に大きな効果を生むことになった。精度の低さは作者が意図したものかもしれないし、だから「結果的に」ではなく、作者の意図した通りの結果を得たのかもしれない。どちらにしても、彼は、表現の方法論を選ぶ時点からして勝利し「芸術において名をなしたい」という彼の野望を正しく実現したわけだ。

ズワックマンの方法論は、写真ギョーカイにも通用した。「作品」としての写真の被写体が、現実でもなく、生身のモデルでもなく、マネキンでもなく、自ら作り込んだ「風景の」模型であるというところが斬新だったのだ。つまり、写真ギョーカイにおいても、競争率が低いジャンルだったわけだ。

しかし、それでいいのだろうか。現代美術の土俵にあがったものだけを、その範囲で評価する。それは、例えばライオンという動物をサンプリングしようとしたときに、動物園のライオンだけをみてサンプリングしようとするようなものではないだろうか。野生のライオンは、もっと別な生き物なのに。そこに、もっと驚くべき美があるかもしれないのに。

現代美術作品は現代美術であるということを自明のこととして、その枠内でしか語られない傾向が強い。わたしは、そのことに、どうしても違和感がぬぐえない。コレを面白いといい、芸術だというなら、純粋芸術とは呼ばれていないアレだって充分に面白いし、もっと冴えている。技術も高い。だけど、現代美術の土俵に乗ってこないから、ソレを芸術としてはだれも注目しない。そんなものが、ヨソにあるのではないか。わたしは、そのヨソを芸術作品として指定しろ、といっているわけではないが(しても面白いが、それはまた別の話だ)、評論家は、そのヨソの出来事も視野に入れて現代美術作品を評価すべきではないだろうか。また、作家も現代美術という狭い枠のなかで自足していないで、広く世間を見渡して、それらを横目で見ながら、自分の作品のあるべき姿を摸索するべきではないか。現代美術は、作家と評論家の蜜月関係のなかに自閉しているように見える。それを外側に向かって解放しないと「現代美術」という狭いジャンルの中でしか通用しない作品が横行し、現代美術の世界はますます蛸壺と化すのではないか、とわたしは強く危惧する。

■エドウィン・ズワックマン/経歴と作品の自己解説

Thu, 08 Aug 2002 16:55:45

▼エドウィン・ズワックマン経歴
2002年7月、第18東川町国際写真フェスティバル海外作家賞を受賞。賞は、「ファサード」に至る一連の作品に対して与えられた。

ズワックマンはオランダ生まれ。ロッテルダム芸術大学、ドイツのフランクフルト市立美術学校、アムステルダムのオランダ国立美術学校で学び、1997年より個展やグループ展を精力的に開催、現在アムステルダムを中心に活動している。

彼の写真の特徴は、自らがつくりこんだものを被写体としているということだ。例えば風景、あるいは朝の食卓。ズワックマンはそれらを模型で制作し、撮影する。また、スイスのローザンヌでは、トラックに「UN」と大きくペイントし、それを写真撮影している。スイスにいるはずのない国連軍のトラックがそこに出現する。現実に揺さぶりをかける違和感を仕掛けることが目的であるというズワックマンの仕事は、写真を最終表現手段とした現代美術の作家の仕事であるといってもいいだろう。その点において、今回東川町国際写真フェスティバルの国内作家賞を受賞した森村泰昌と同じ手法の作家であるといえる。

▼ズワックマンによる作品自己解説
授賞式のあった7月28日、東川町において、海外作家賞を受賞したエドウィン・ズワックマン自身による作品の解説があった。ここに、その概略を再録する。

●高速道路の8の字型のインターチェンジの模型を空撮した写真。雲も写っている。
オランダの生んだ偉大な画家ブリューゲルの「バベルの塔」には、その時代の人の世のあらゆるものが描かれている。あらゆる産業、あらゆる職人、あらゆる風景……。これは、それと同じことをもくろんだもの。「バベルの塔」の現代版である。高速道路のインターチェンジだが、道路に関わるあらゆるものをひとつの画面に容れようと試みた。空にかかる雲は綿でつくり、霞んだ空気感をだすために、湯気を使っている。
●港とビルの風景写真。海面が地表よりも高く、いかにもオランダ的。
オランダの風景は美しい田園風景の代表のようにいわれているが、実はすべてがとても人工的なものだ。堤防を築き、干拓したため、海面より低い土地が多い。常に海面より低いところで暮らしている不安感が、実は人々の心の底に巣くっている。海面下の人工的な風景を描くことで、人工的な世界に生きる人々の不安を描きたかった。
●丘のように盛り上がった堤防を下から見上げた。堤防の向こう側から人が現れ、ずっと手前に街灯が一本立っている。
大きな山のないオランダでは、堤防こそが「向こうに何があるのだろう?」と思わせてくれるものである。その向こうには、実際には地面より高い水があるのだが。
●朝食の食卓をテーブル。コーヒーカップやミルクピッチャー、シリアルの箱などが無造作に並んでいる。テーブルに近い低い目線でアップでとらえた写真。窓の向こうには、別のビルがあり、その向こうに水平線が透けて見える。ミルクピッチャーと同じ高さのビルも見える。
オランダでは日光が大切にされ、窓は目一杯大きく取られている。そのために、窓から外を見ると、他人の家が見え、その家の窓を通過して、さらにその向こうの風景が透けて見えることがある。その典型的オランダの風景を表現したかった。ミルクピッチャーとビルは、模型では実は同じ大きさ。遠近法の思いこみが、窓の外のビルを遠くにある巨大なものだと錯覚させる。
●マンションにきらめく一面のガラス窓。反対側のビルが映りこんでいる。その一つのガラス窓から、ひとりの男がこちらを見ている。見られている視線の先には、ひとりの女性がいる。女性は、路上から窓の男を見上げている。スカーフを被った後ろ姿だが、一目でトルコ人とわかる。
オランダには多くのトルコ人が移民として流入し、風景の一部と化している。その多くは低所得者で、一種の社会問題ともなり、非人間的な暮らしを余儀なくされている。女性は窓の男と視線を交わし、そこに物語を予感させたかった。この作品のヒントとなったのは、わたしの恋人の体験談だ。彼女は、散歩の時、全裸の男が窓から彼女を見ていることに気づき、目があったことがあったという。その話は、わたしにもとても印象的だった。
●引っ越し後のようながらんとしたマンション。
住宅政策として新しく建築されたビルは、生活のための最低限のつくりで、とても非人間的だ。合理性の追求は人をしあわせにしない。実寸をそのまま縮尺して模型を制作すると、人が感じている殺伐とした気分を再現できないので、高さと奥行きの比率を変えて、より「感じたままの風景」つまり「現物」に近づけようとした。
(注:日本の基準から見ると、結構いい感じのマンションである)
●引っ越し後、空っぽになったイケアの戸棚。棚板がはずれて斜めになり、塗装が禿げたところまで再現された模型を撮影。
「イケア」はオランダで若い人が使う典型的な安物の家具。置き去りにされた家具の風景。
(注:イケアの家具は、日本では結構なブランド家具として扱われている)
●パワーショベルで工事中の街の風景。背景に教会が写っている。
この写真の意味するところは変化。パワーショベルのような大きな力で暴力的に世界を変えてきたことの象徴である。背後の教会にも深い意味がある。オランダで我々がなにをしてきたのかのメタファー。


http://www.akinci.nl/Edwin_Zwakman/Zwakman.htm

■写真批評/風間健介「星啼の街」他

Sun, 04 Aug 2002 01:25:57

東川町国際写真フェスティバルにゲストとして招かれ、受賞作家を囲むフォーラムに参加させてもらい、特別賞の風間健介氏と、海外作家賞のエドウィン・ズワックマン氏の写真に関する感想を述べた。その時、語りきれなかったことも含めて、感想を述べたい。

▼第18回東川町国際写真フェスティバル特別賞
 風間健介の「星啼の街」他、夕張炭坑遺跡にかかわる一連の作品に対して

子どもの頃から、わたしはなぜか廃墟が好きだった。医学部の壊れかけた煉瓦の廃墟にたたずんでは、その美しさに打たれ、近所の打ち捨てられた工場の割れたガラス窓に射す光に心奪われた。もっと幼い頃、海岸で夢中になって拾った貝殻も、わたしにとっては一種の廃墟だったのかもしれない。完全な形の物よりも、波に洗われて芯の螺旋を剥きだしにした巻き貝や、陶器のようにすべすべに磨かれた二枚貝の欠片に興味を引かれる子どもだった。一度は完全な形に完成されたものが、本来の用途や使命から解放され、名前すら忘れて一片の石に戻っていく途上の風景。それが好きでたまらないのだ。

第18回東川町国際写真フェスティバルで特別賞を受賞した風間健介氏の作品は、夕張炭坑を題材にしたものだった。題材が廃墟ときいて、心躍らないわけがなかった。事前に渡された東川町国際写真フェスティバルのビラの表に大きく使われていたのも、風間氏による一枚だった。夜の廃墟。闇の中から浮かびあがる、ねじまがり、破壊され、錆びついた剥きだしのパイプ。長時間露光のため、空には星が同心円の軌跡を描いている。大きな展示写真を見るのが楽しみでならなかった。

しかし、実際の展示を見て、実に意外な気持ちがした。廃墟が、廃墟らしくない。廃墟のミニアチュールのようなのだ。実際には、圧倒されるほど巨大であるはずの発電所の発電機も、その重量も大きさも感じられない。「星啼の街」は、深夜長時間露光で何度もストロボを焚いて撮影したものらしいが、その光の当たり具合が「つくりすぎ」の感を与え、廃墟がことさらに玩具のように見えてくる。廃墟は、崩壊していく過程、名前を失っていく途上そのもののであるはずなのに、そこにあるのは「廃墟」と名づけられ、概念としての廃墟に向かってつくりこまれた「完成された廃墟」という矛盾した存在。そうなると、廃墟はもう廃墟ではない。廃墟を演じるミニアチュールでしかない。

それは、残念ながらわたしにとっては魅力ある廃墟の映像ではなかった。一体写真家は、どのような気持ちでこの写真を撮ったのだろう? 廃墟の何に惹かれてこれを写真にしようとしたのだろう? それを不思議に思っているうちに、受賞者を囲むフォーラムの話題は「夕張炭坑遺跡の保存」といった話題になっていった。写真家は、炭坑遺跡保存に向けての呼びかけもしているらしい。そして、ここに撮られた廃墟のいくつかは、すでに存在せず、一部ではこれらの写真は「貴重な記録写真」であるとも認識されているらしい。これは果たして「記録写真」なのだろうか? 記録という観点から大きくずれている。記録なら真っ昼間に撮ればいい。なにも、暗い夜に長時間露光でストロボを焚いたりする必要はない。

何のための写真か? なぜ撮ったのか? わたしはとうとう、写真家その人に「なぜ、廃墟なんですか?」と直接尋ねた。風間氏の返答は至極明解だった。
「近くにあって、絵になるものだったからです」
口べたでシャイな写真家の言葉だから、どこまで信じていいのかわからない。そういって、はぐらかされたのかもしれないが、もしかしたら、それは写真家の素直な言葉ではないかとも感じられた。被写体が廃墟でなければいけない必然性は、どうもないらしい。

さらにしつこく訊いてみると、ストロボを焚いたのは、ストロボの効果に気づいてそれが面白く、いろいろと試したみたとのこと。背景の空に星が映りこんでいるのは、長時間露光の思わぬ効果で、計算していれたものではないこと、などが作家の口から語られた。

つまり、最初にわたしが直感したように、廃墟という巨大な玩具を前にして、写真家は光で遊んでいたのだ。風間氏にとって、夕張炭坑遺跡は、巨大な玩具だったのだ。

それならばそれで、もっとはっきりと意識すればいいのでは、とわたしは思う。夕張炭坑という歴史ある、人々のさまざまな思いが交錯する重い意味を持った遺跡を、徹底的に玩具として遊び尽くす。彼が記録写真家ではなく作家ならば、それくらいの不遜さがほしい。

しかし、写真家はまだそれを自覚していないらしい。「廃墟のどこに惹かれるのか?」という質問には、結局明解な返答は得られなかった。崩れゆくその途上の姿そのものに否応なく美を感じてしまうのか、さまざまに光を反映するその構造を、光を遊ばせる素材として楽しんでいるのか、それとも崩れていくことを惜しみ、本気で保存してほしいと願って告発のつもりで撮っているのか。夕張炭坑遺跡の保存を訴えながら、写真家の意図はいまひとつはっきりしない。

このはっきりしないところが、問題だとわたしは思う。だから、写真の印象がはっきりしないのではないか。巨大建造物をあえてミニアチュールに見せる面白さがあるわけでもないし、保存しなければと社会派として訴える力があるわけでもない。確かにきれいに写ってはいるけれど、なぜそれなのか、そこに写っていなければいけないのか、それが見えてこない。写真家の欲望が、伝わってこないのだ。

あまりにも基本的なことだけれど、なぜそれを写すのか、わたしはそれを写真家に問い直したいと思った。

ファーラムの後、風間氏より、いま撮っている写真を何葉か見せていただいた。「雲に凝っているんです」という氏の写真は、建物と、その背後に広がる空を映したものだった。長時間露光なのだろうか、流れていく雲の姿が、いかにも輪郭のないつかみどころのないものとして描かれている。

多くの写真は、わたしにとって魅力的には見えなかった。原爆ドームを背景に空を映したものなど、はっきりいって全然よくなかった。これも、夕張炭坑遺跡写真と同様、何を写したいのか、写真家がはっきり意識をもってないのではないか。原爆ドームは、単なる「廃墟」の延長線上に漠然と意味不明のまま存在しているように思われてならなかった。

しかし、一枚だけ、目を引くものがあった。一本の煙突。その背景の雲。それしか写っていない。ごく単純で清潔な写真。その写真に、わたしは心奪われたといってもいい。煙突はあくまでもまっすぐに屹立している。細部まできっちりとピンが合い、いかにも硬質なものとしてそこに厳然とある。その背後の空を流れる雲は、長時間露光のためか流れて輪郭がはっきりしない。そのあやふやな、いかにもはかない感じ。

写真家がどこまで意識していたのかは知らない。「星啼の街」のように、雲があやふやに流れたのは、煙突の隅々にまできっちりピントを合わせようとした結果なのかもしれない。写真家が意図したかしないかに関わらず、この写真において、主役は煙突ではなく、雲だ。硬質な煙突は、雲の「背景」に過ぎない。煙突は、空の広がりと、流れゆく雲のはかなさをいやがうえにも強調する対比物なのだ。だからこそ、それは原爆ドームであってはならない。煙突というような、究極の単純な構造物、どこにでもある「意味のないもの」でなくてはならない。

わたしがいたく感心すると、写真家は気前よくそのオリジナル・プリントをわたしにくれた。何度見ても、この写真は魅力的だ。わたしは、フォーラムで問いただしたように、もう一度写真家に問いたい。なぜ、原爆ドームなのか。ほんとうに原爆ドームである必要があるのか。「廃墟つながり」で、漠然と被写体を選んではいないか。ほんとうに撮りたいものは何なのか。

森村泰昌さんの新刊『女優M 演技の花道』(晶文社2002)のなかに、こんな言葉があった。
いちばんいけないのは、役者がどういう含みでそのセリフを発しているのかがあいまいなばあいである。あいまいだと、観客にメッセージが伝わらない。
明確に意志を持って表現しているとき、その意志から溢れだし、はみだしてしまうもの。意志以上のなにか。個人の意志を超えた予期せぬなにか。それが表現の面白さではないかとわたしは思う。そこに到達するためには、まずはっきりした意志を持つこと、自分の欲望がどこにあるのかをよく見つめることではないだろうか。

■書評/クマにあったらどうするか アイヌ最後の狩人

Sat, 03 Aug 2002 15:11:26

移動しました⇒偏光図書館/寮美千子の書架


■断片北海道/フチとエカシはみんなの宝

Sat, 03 Aug 2002 14:59:36

東川国際写真フェスティバルにゲスト・コメンテーターとして招いていただいたのをきっかけに、7月27日から31日まで、北海道を旅してきました。今回の旅行では、アイヌの古老たちと話す機会を得ました。ムックリの名手として名高い幕別の安東ウメ子(70)さん、千歳アイヌ語教室を主宰するアイヌ語の伝承者・中本ムツ子(74)さん、そしてアイヌ最後の狩人といわれる千歳の姉崎等さん(78)です。

▼安東ウメ子さん
わたしたちの祖先は、おたま(おたまじゃくし)もなかったし文字もなかったけれど、すばらしい歌や物語を残してくれました。わたしがおばあさんやおかあさんから教えてもらったものを、みなさんに少しでも知ってもらいたい。そう思って、機会があれば、どんな機会でも喜んで歌ったり語ったりさせてもらっています。

歌の歌詞で「それ、何の意味?」と聞かれることがあるけれど、わからないこともあるの。ただ、そう歌ってきたからわたしもそう歌っているとしかいえないの。こうかもしれないなあと思っても、確かじゃないままにわたしがそういってしまうと、そうなってしまうでしょう。それが怖いからねえ、なんともいえないのよ。
ウメ子さんは、会っているだけでこちらがなごんでしまうお人柄。女性の地母神的な包容力というのは、こういうことなんだなあと深く納得してしまいます。いつまでもいつまでもウメ子さんの声を聞いていたい。ウメ子さんの子守歌で眠れたら、どんなにしあわせだろう。

そう感じさせるやさしいウメ子さんが、反面、驚くほど実証的な態度を持っていることも、尊敬です。みんなに聞かれて、当てずっぽうでも答えれば、みんなは喜ぶ。けれど、ウメ子さんは、決して確証の持てないことは発言しない。伝承者が途絶えそうないま、自分が間違ったことを伝えれば、それがそのまま後世に伝わってしまう。そのこわさを、とてもよくご存じなのです。きっぱりとした責任ある態度は、実に学問的。すごいなあ、ウメ子さん。大好きです。

▼中本ムツ子さん
アイヌっていうのはね「人」という意味なの。だから、あなたたちもみんなアイヌなのよ。

アイヌはね、すべてに命があると考えているの。食べ物として口に入る肉や魚はもちろんのこと、こんなお茶碗ひとつにしても、命があると考える。お茶碗が壊れて使えなくなると、それはお茶碗の命が尽きたのだと思う。そして「ありがとうね」と感謝する。

わたしね、最近お茶碗を小さく欠いても「あ、ごめんね」と口に出るようになったの。お風呂でもね、水をいっぱい溜めるでしょう。すると「ああ、ありがとう」って思って、使い終わって水を流すときにも「ご苦労様でした」ってひとりで話しかける。ああ、いまになってやっとアイヌになれたのかしらって思うの。
はきはきと語るムツ子さんは、ちょっぴりきびしい姑さんのような感じ。おどろくほどクリアな記憶をお持ちです。千歳アイヌ語教室で、リトさんのお師匠さんでもあります。次世代に文化を伝えようと奮闘なさっている姿は感動的。熊送りの子熊を家で育てていたこともあるとのことで、たくさんのお話をお伺いすることができました。ありがとうございます。

▼姉崎等さん
クマの心を知らない人には、クマは獲れないの。わたしは、ずっとクマを見てきたから、クマの心がわかるの。

大学の先生がね、ほんとうと違うことをいろいろいうの。例えばね「姉崎さん、クマは冬眠中でも物を食べてますよ」とかね。そんなことないの。クマは、止め糞っていってね、固いコルク栓みたいな糞を肛門に詰めて冬眠する。それ以外、お腹もからっぽ、小便袋もからっぽ。止め糞はね、発酵しない木の皮なんかを食べてつくる。冬眠前は、もうそんなものしかクマは食べないの。わたしは、森も見ているし、クマを獲ったらひとりで解体して隅から隅までみるから、よくわかるの。だから。わたしはいってやるの。「先生、クマは机の上にはいないでしょう。机の上にあるのは紙と鉛筆でしょう」って。

狩人はね、よくほらを吹く。こんなんだあんなんだって、自慢話をする。けれどね、いい加減なことをいってはいけないの。嘘を本当と思って、事故が起こるでしょう。だから、わたしはね、とても気をつけて話すんです。嘘はいわない。ほんとうに確かなことしかいえないの。責任あるからねえ。
『クマにあったらどうするか』(木楽舎2002)でご自分の狩人生活を詳しく語っていらっしゃる姉崎さん。あの本を読んでも、直接お話しをお伺いしても、その科学的な観察眼と思考方法には、驚かされます。科学者顔負け。実践の強さを思い知らされました。

そして、熊撃ちである姉崎さんが、だれよりも熊思いのやさしい心を持っていることにも、強く打たれました。まるで宮澤賢治の「なめとこ山の熊」の猟師・小十郎のようです。ほんとうの理解とは、観念ではないのだなあとつくづく感じました。

▼フチの知恵 エカシの知恵
ほんとうは、こんなフチ(おばあさん)やエカシ(おじいさん)の経験談や知恵は、日常生活の中で受け継がれていくべきものです。わたしのような者が、わざわざ遠くから録音機片手に聴きに行くようなものではないはず。自然自然と親から子へ、子から孫へと伝わり、共同体全体の利益としていくべきはずのものです。そうやって知恵が伝承されていったら、世の中はそんなにひどいところにならなかったかもしれない。

けれど、その共同体が失われたいま、こんなふうにしないと、フチやエカシの知恵は伝承されにくくなっている。残念なことです。

フチやエカシは人々の宝。おじいさんやおばあさんは、みんなの宝。身近に、お年寄りがいたら、みんなもぜひ話を聞いてほしいなあと思いました。尊敬する先輩としてオリパクして(敬って)、大切に大切にして、知恵を授けてもらいたいと思います。「お年寄りを大切にしよう!」というのは、空念仏じゃない。ほんとに実のあることなんだと実感した北海道の旅でした。

■青いナムジル/3稿

Sun, 07 Jul 2002 19:31:58

青いナムジル   大草原をかける翼ある馬の物語

この秋、出版を目指して制作中の絵本『青いナムジル』。草稿を公開したところ、多くの方々からの意見をいただきました。ありがとうございます。研究者の方のご意見をいれて、さらに改訂してみました。★印のところが改訂したところ。「天の縫い目」は、天の川のことです。モンゴルでは、そのような呼び方をするそうです。

■1
いつも青く澄んだ草原の空が、どこまでも果てしなく澄んだ日、
大草原の小さなゲルに、ひとりの男の子が生まれました。
★青空のように澄んだ心を持つようにという願いをこめ、
「青いナムジル」と名づけられました。

■2
ナムジルは、内気な子どもでした。めったに口もききません。
けれども、馬や羊とは、兄弟のようになかよくできました。
ナムジルが小さな声で話しかけるだけで、
どんながんこな馬も、あまえんぼうの子羊も、
すなおにナムジルのいうことをきくのでした。

■3
大きくなると、ナムジルは、すばらしい羊飼いになりました。
ナムジルの飼う羊たちは、とてもよく太り、毛もつややかだと、
村でもすっかり評判です。

ナムジルは、羊飼いの暮らしがほんとうに好きでした。
見渡すかぎりの大地。果てしない青空。わきあがる雲。
地平線の果てから吹いてきた風が、
草を波のように揺らしながら、ナムジルを吹きぬけていきます。
そんなとき、ナムジルはうれしくて、思わず口笛をふきました。
雲が流れ、その影がナムジルと羊たちを覆います。
そんなとき、ナムジルはたのしくて、思わず大声で歌うのでした。

「大空の 果てなき青き草原を
 馬よ駈けろ 果てを探して
 馬よ駈けろ 風より速く」

すると、馬は矢のように走り、たちまち雲の影を追いこし、
まぶしい太陽の光のなかに躍りでるのでした。  

■4
羊たちを遠くに連れていく日、ナムジルも星の下で眠りました。
まっ暗な空にかがやく、無数の星。
ナムジルは火を燃やしながら、ひとり、歌いました。

喉のおくの谷に、こだまがすんでいるように、
胸のなかの草原で、風が歌っているように、
ナムジルの声は響きます。はるかな星の彼方まで。
すると、羊たちはみなすっかり安心して、
おとなしく眠りにつくのでした。

けれども、内気なナムジルは、村に戻ると、けっして歌いませんでした。
ですから、村のだれも、ナムジルの歌をきいたことがなかったのです。

■5
そのころ、村では、若い男はみな、一度は兵士になって、
西の果ての地を守りにいくのが決まりでした。
とうとう、ナムジルの番がやってきました。
ナムジルは、馬や羊たちと別れるのがつらく、
また、年老いた両親のことも心配でした。
けれども、しかたありません。
ナムジルは、兵士になるために、西の果てへと旅立ちました。

軍隊には、兵士を乗せるためのたくさんの馬と、
荷物を運ぶためのたくさんの駱駝がいました。
ナムジルは、ほんとうは、だれとも戦いたくありません。
できれば、馬や駱駝の世話をしていたかったのです。
しかし、兵士のナムジルには、それは叶わぬことでした。

■6
そんなある日のことです。若い駱駝に子どもが生まれました。
はじめてのお産で、勝手のわからない駱駝は、
生まれた子どもにお乳を飲ませようとしませんでした。
むりに飲ませようとすると、駱駝はひどく暴れます。
「だれか、駱駝に乳を飲ませられないか」と上官がたずねました。
「駱駝に乳を飲ませることのできた者には、好きな仕事をあたえよう」
「わたしがやってみます」とナムジルがいいました。

ナムジルは、駱駝に寄りそうと、低い声で、そっと歌いはじめました。
それは、故郷の星の下で、羊たちのために歌ったでした。
すると、気が立ち暴れていた駱駝は、みるみるおとなしくなり、
大きな目から、ぽろぽろと大粒の涙を流しました。
そして、子どもに乳を飲ませはじめたのです。

■7
それだけではありません。
ナムジルの歌声は、兵士たちにも、遠い故郷を思いださせました。
淡い夜明けの光に包まれた村の朝。
寝床のなかにいると、お茶の葉を突く杵の音がきこえてきます。
火を起こす、火打ち石の音もします。
目を覚ました子羊たちが、愛らしい声で鳴きだします。
やがて、ぱちぱちという火の音や、お湯の沸く音がして、
お茶の香りもしてきます。
だれもが、子どものころの、なつかしい景色を思い浮かべ、
涙をこぼしそうになりました。

「よし、ナムジル。おまえはどんな仕事がしたい」
上官は、そっと涙をぬぐいながらききました。
「はい。わたしは、馬や駱駝の世話をしたいのです」
「よろしい。おまえはきょうから馬番になれ。
馬の世話をするだけではなく、時々は、兵士たちに歌を歌ってやってくれ」
「はい、よろこんで」
そんなわけで、ナムジルは晴れて馬番となったのでした。
★そして、みんなから、小鳥のように歌がうまいとほめられ、
★「かっこうナムジル」と呼ばれるようになったのです。

■8
つぎの朝、ナムジルはさっそく馬を湖に連れていくことになりました。
★気の荒い馬たちも、ナムジルが歌うと、
★まるで子羊のようにいうことをきいて、まっすぐに湖へむかいました。
★そして、すなおに水を飲んだのです。

そのとき、どこからか歌声がきこえてきました。
「駱駝に乳を飲ませ 馬に水を飲ませる
 草原を吹きわたる 風の声を持った人はだれ?」
ナムジルは、歌で答えました。
「わたしはナムジル 国境のしがない兵士
 風を甘く染める 花の声を持った人はだれ?」

湖の木陰から、馬を連れた娘が出てきました。
草原の馬飼いの娘でした。
ふたりは見つめあい、
そしてもう、お互いに目をそらすことができなくなりました。
ふたりは、恋に落ちたのです。

■9
朝ごとに、ふたりは湖で会いました。
やがて、星の降る夜も、ナムジルはそっとテントを抜けだして、
娘に会いにいくようになったのです。
★満天の星の下、ふたりは白々と夜があけるまで、語りあうのでした。
それを知っている兵士もいましたが、
いつもやさしい歌声で心をなぐさめてくれるナムジルのことを、
上官にいいつけるような人は、ひとりもいませんでした。

やがて、いくつかの春が過ぎ、新しい春がめぐってきました。
「ナムジル、おまえの勤めはもう終わりだ。故郷へもどるがいい」
ナムジルは、うれしくもありましたが、心配でもありました。
娘は、いっしょにきてくれるでしょうか。

■10
ナムジルは、娘とはじめて出会った湖のほとりでいいました。
「わたしは故郷へもどります。
どうか、わたしの妻になって、いっしょに来てください」
「そうしたいのは、やまやまですが、それはできません。
わたしには、年老いた父と母がいます。
あなたこそ、ここに残って、わたしの夫になってはくれませんか」
ナムジルは、胸が張り裂けそうになりながら答えました。
「わたしにも、故郷でわたしを待つ、年老いた父と母がいるのです」
娘は、泣きながらいいました。
「わかりました。それでは、あなたに馬をさしあげましょう。
わたしの馬のなかで、いちばん足の速い馬です。
この馬に乗って、きっとわたしに会いにきてください」
娘は、一頭の黒い馬を差しだしました。
★つややかな毛なみの、見るからに強い足を持った馬でした。
その馬でさえ、大地の東の果てから西の果てへと旅するのに、
ひと月はかかるのを、娘もナムジルもよく知っていました。
会いにくることなど、できるはずもありません。
「馬の名は、ジョノン・ハルといいます」
「ジョノン・ハルを大切にします。あなたを大切にするように」
ナムジルは、娘をきつく抱きしめ、馬に乗りました。
馬は、黒い風のように草原を駈けていきました。
その後ろ姿を、娘はいつまでも見送っていました。

■11
長い長い旅のすえ、ナムジルはようやく故郷にたどりつきました。
★たくましくなったナムジルと、すばらしい馬を見て、
年老いた両親は、大喜びでした。
ナムジルも、元気なふたりの顔を見て、ほっとしました。
けれども、心が晴れません。
羊を追っていても、馬に乗って草原を走っていても、
すこしもたのしくもなければ、うれしくもないのです。
青空の深さを見あげては、かなしみの深さを思うだけ。
光りながら波打つ見渡すかぎりの草原さえ、
娘と自分とをへだてる、いじわるな大海原に見えます。
まぶたに浮かぶのは、西の果ての娘のことばかり。

■12
ある星の夜のこと、ナムジルは、もうどうにもがまんがならず、
あてどなく、馬を西に向かって走らせました。
走るうちに、早く、もっと早くと馬を鞭うちます。
それでも、草原の景色は少しもかわりません。
それほど、草原は果てしなく広いのでした。
「娘よ、おまえに会いたくて、会いたくて、ならないのだ。
 ああ、花の香りのする娘よ」
かなしみに引き裂かれ、そう歌うと、どうでしょうか。
馬の背に、翼が生えてきたのです。
それは月の光に銀色に輝き、ゆっくりとはばたきます。
★すると、馬の体が宙に浮き、たてがみは風に燃えあがり、
草原のうえを、滑るように駈けていくのでした。


■13
見開き/イラスト 草原を翔る天馬

■14
ナムジルが去ってからというもの、娘は眠れない夜を重ねていました。
その夜も娘は、湖のほとりで、涙にくれて歌っていました。

「ナムジル。
 あなたに会いたくて、会いたくて、なりません。
 ああ、やさしい風のようなナムジル。

 青い草の根を 踏みちぎり
 固い石ころを 踏みくだき
 風はらむ 服の縫い目を破るほど
 走れ わたしのジョノン・ハル
 わたしのいとしい人をのせて
 わたしのもとに運んでおくれ
 東の果てから 西の果てへと」

すると、東の地平線から、一頭の馬があらわれました。
ジョノン・ハルです。
その背にのっているのは、ナムジルではありませんか。
★どんなに遠くても、娘には一目でわかりました。
★たてがみを、炎のようにひるがえし、
★風よりも、夜明けの光よりも速く、まっしぐらに駈けてきます。
馬は、たったひと晩で、
ナムジルを東の果てから西の果てへと運んできたのでした。

その夜から、ふたりは湖の畔で会うようになりました。
翼のある馬ジョノン・ハルが、ナムジルを娘のもとへ運んだのです。

■15
ナムジルは、ますますりっぱな青年になりました。
羊飼いとして、並ぶ者がないほどの腕前です。
★りっぱな馬を持っていることも、たいそうな評判になりました。
たくさんの娘たちが、ナムジルのお嫁さんになりたいと思いました。
けれども、ナムジルはどんな娘にも、目もくれません。

ある日、お金持ちの旦那がやってきて、
ナムジルに、娘の夫になってほしいといいました。
その娘は、太陽よりも光り輝いているといわれるほど、美しい娘でした。
それでも、ナムジルは心を動かしません。
「わたしには、愛する人がいます」とナムジルは娘にいいました。
「どこにいるのですか」と娘はたずねました。
「大地の西の果てです」
「そんな遠くの人を愛して、どうなります。
 どうか、わたしを愛してください。
 わたしは、太陽よりも美しい娘。
 わたしより美しい娘は、この草原のどこを探してもいません」
「おっしゃる通りです。あなたは太陽よりも美しい。
 けれども、わたしは野に咲く名もない花が好きなのです」

■16
金持ちの娘は、くやしくてなりません。
一体、だれがナムジルの心を捕らえて離さないのだろうと、
ナムジルをそっと見張りました。
すると、どうでしょう。
月夜の晩、ナムジルはジョノン・ハルに乗って、
草原を西へと駈けてゆくではありませんか。
ジョノン・ハルの背中に、銀色の翼が生えるのも、娘はしっかり見届けました。

娘は、裁ちばさみを持って、ナムジルの帰りをそっと待ちぶせました。
夜明けになると、ナムジルが馬で戻ってきました。
たった一晩で、草原を東から西へ、西から東へと駈けた馬は、
さすがに疲れ、翼もたたまず、汗まみれで湯気をたてています。
★ナムジルは鞍をはずし、馬の汗をていねいにぬぐってやりました。
★そして、馬の首をなでて、やさしくねぎらうと、
★まだ息を弾ませているほてった体を、草原へ投げだしにいったのです。

そのすきに、娘は持っていた裁ちばさみで、馬の翼を断ちきってしまいました。

■17
するどい馬の悲鳴をきいて、ナムジルがかけつけたときには、
馬は、おびただしい血の海のなかで、もがいていました。
そばには、宝石で飾られた裁ちばさみが落ちていました。
ナムジルは、それを見て、すべてを知りました。
「かわいそうに、ジョノン・ハル。苦しいだろう、痛いだろう」
ナムジルは、馬の首を胸に抱えました。
そして、泣きながら歌いました。

「かがやく月を 踏み越えて
 きらめく星を 踏み散らし
 ★夢はらむ 天の縫い目を破るほど
 走れ わたしのジョノン・ハル
 水より澄んだ魂を乗せ
 空の果てまで 駈けてゆけ
 草の海から 星の海へと

馬はナムジルの腕のなかで息絶えました。
流れ星がひとつ、光の尾を引いて流れました。
遠い西の果てで、娘はその流れ星を見あげました。
ナムジルの流した涙は、後から後から、
草原に降りしきる雨のように、ジョノン・ハルに降りそそぎました。

■18
すると、ふしぎなことが起こりました。
ジョノン・ハルの頭は木の彫り物に、首は棹に、胴体は皮を張った箱になり、
その美しく長い尾は、楽器に張られた弦と、しなやかな弓になったのです。
ナムジルは、その楽器をいだき、鳴らしました。
その音色は、草原のやわらかな風のよう。
ジョノン・ハルのいななきや、軽やかな足取り、
その名を呼んだときのうれしそうな姿を、思い起こさせたのです。
ナムジルは涙にくれながら、
いつまでもいつまでも、その楽器を弾いていました。

■19
金持ちの娘は自分の行いを恥じて、
二度とナムジルの前に現われませんでした。
翼ある馬を失ったナムジルは、
もう西の果ての娘に会いに行くことは叶わなくなりました。

娘は、湖のほとりで、いつまでもナムジルを待ちつづけました。
ナムジルも娘を思いながら、いつまでも楽器を奏でつづけました。

娘は時折、風のなかに、ナムジルの声をきいたように思いました。
ナムジルも時折、風になかに、花の香りをかいだように思いました。

そして、ふたりとも年老いて、いつしか草原の土になりました。

■20
それからというもの、人々は、ナムジルの持っていた楽器をまねて、
馬頭琴という楽器をつくるようになりました。
馬頭琴の音色は、故郷のなつかしい音色。
モンゴルの人なら、だれもが、
お茶の葉を突く杵の音や、火打ち石の音、
子羊たちの愛らしい鳴き声や、お茶の香りを思いだします。
そして、ふしぎなことに、馬頭琴をきかせると、
子どもに乳をやろうとしない気の立った若い駱駝も、
涙を流し、心やすらいで乳をやるようになるのです。

■21
馬頭琴を弾ける人がいない時、人々は馬頭琴を草原の風にかざします。
青空から----
どこまでも、どこまでも果てしなく澄んだ青い空から吹いてきた風は、
馬頭琴をかすかにうならせ、
駱駝はやっぱり、子どもに乳をやりはじめるのです。

review0002.html#review20020604173936

■アイヌ民話/クマの物語

Sun, 07 Jul 2002 03:24:30

▼安東ウメ子さん(幕別)の家に伝わる昔話
2002年4月、帯広にいった折に、聞かせてもらいました。
「オコッコとシントコ」
これはね、親の代からずっとわたしの家に伝わってきた話なの。

お父さんとお母さんと子どもと、三人で暮らしていました。
明日は仕事にでかけるよと、お父さんがいいました。
お父さんが出かけた日の夜
お母さんは「さあ、もう寝ましょう」といってトイレに行きました。
昔のトイレは、家の外にあったんだねえ。
外へ出て、東の方を見たら、
ツプトン、ツプトンってね、光るものがある。
さあ、たいへん!
お母さんは、家のなかに走っていって、子どもに
「オコッコ(こわーいもの、恐ろしいもの)が来たよ。
あなたは絶対に泣かないでいてね」といって
オンネ(大きな)シントコ(交易によって本州よりもたらされた蓋のある大きな漆の器)ブタ(蓋)をマカて(開けて)そこに子どもを入れた。
「絶対に泣かないでね。泣かないでね」といって、
自分は外へ出て、西の方へ向かって走った。
大声で叫びながら走っていった。
すると、西のコタン(部落)の方から、みなさんが
「どうしたのー、どうしたのー」と叫びながらやってきた。
カンビ(白樺)の皮を捻ってタイマツみたいにしたのを灯して走ってきた。
コタンの人ら、アイヌみんなやってきた。
クマがねえ、人間を襲うんだってねえ、昔は。
光るものは、クマの眼だったんだね。
自分の家に入ったら、クマも追いかけて入ってくるから、
お母さんは、子どもをシントコに隠して、
「オンネ シントコ カムイ」って
神さま、子どもを守ってくださいって祈って、
わざと家から出て、走って逃げたんだね。
子どもを守ろうとしてね。
すると、とうとうクマがお母さんに追いついて、足をかじった。
そこへ、西のコタンの人らがタイマツを灯してやってきた。
クマは、音や光が嫌なんだそうです。
山へ入る時は鈴を持っていくと
クマが襲ってこないって話が昔からあるように、
みなさんがタイマツを持ってきたので、クマは逃げちゃったとさ。
お母さんは「わたしのことはいいから、子どもを見てほしい」って頼んだ。
ある人が、走って家に入って、子どもの名前を呼んだら、
オンネ シントコ ブタがあがったりさがったりして、子どもの声があったと。
「ああ、よかったあ、子どもも元気だった、ほんとうによかった」って。
シントコに入るくらいだもの。
子どももまだ小さいよ。
ポン(小さな)エカチ(子ども)だねえ。二歳くらいかねえ。
それが、お母さんのいいつけきいて、ちゃんと泣かないでいたんだねえ。
えらいもんだねえ。
お母さんは、足を噛まれたけれど、命に別状はなかったと。
仕事にいっていたお父さんもかえってきて、
それからは、お父さんとお母さんと子どもと、
みんな無事に暮らしましたとさ。

(おまけ)
シントコっていうのはね、乾燥させた食べ物を蓄えておくの。フキとかギョウジャニンニクとか。それはちゃんと、漆で色も塗ってあるんですよ。アイヌの人がこんな漆を塗ったんですかっていうけど、それは違う。シントコがなぜ、アイヌにあるのっていうとね、ある人から聞いた話。昔は、大津(十勝川河口の浜)っていう浜があるんです。そこに年に二回ほどいろんなものを積んで、北前船が来たんだと。北前船が積んできたいろんなものを、アイヌの鹿の皮やシャケと交換したんだと。その時に、交換したもので、大きな樽みたいなものがシントコ、蓋もちゃんとある、漆が塗ってあってね。アイヌはそれを大事に大事にしたの。これはお宝、これはすばらしいものってね。

昔話はね、ただしゃべればいいってもんじゃないの。音っていうものが、必ずあるから。意味がわかっているからって、やっぱり発音ってものを大事にしなくちゃ。自分が(アイヌ語を)わからんということを誉れに思っているようなアイヌもいるの。ひょいとアイヌ語を話すと「それ何? いまいったそれ、何さ」ってバカにするような人もいるのさ。残念ながらね。言葉は、大事にしたいねえ。

■アイヌ民話/クジラの物語

Sun, 07 Jul 2002 03:19:54

▼金子恵さん(白糠)から聞いた昔話

2002年4月、帯広にいった折に、聞かせてもらいました。
「カラスと寄りクジラ」
昔、アイヌの村がひどい飢饉になったとき、浜の方でさかんにカラスが鳴いた。行ってみると、浜には大きなクジラが打ち寄せられていた。カラスが知らせてくれたのだ。アイヌの人々は喜び、カラスとクジラに感謝し、カラスたちとともにクジラを食べ、飢えをしのいだ。それで、生きのびることができた。それ以来、寄りクジラがあがった浜は「パシクル」(カラス)と呼ばれるようになり、秋にはフンペ(クジラ)祭りが行われ、フンペの踊りも踊るようになった。
※パシクルの浜は、海流の関係で大きな漂流物が打ち上げられるポイントなのかもしれません。2002年4月に金子さんとリトラリアさんと訪れた浜にも、巨大な流木とともに、なんと大型冷蔵庫まで打ち上げられていました。しかし、どこから流れてきたんだろう?
「石炭にまちがえられたクジラ」
クジラとシャチが喧嘩をして、クジラが川に逃げこんだ。人々が集まってきて「あれは何だ?」と騒ぎだした。黒くてつやつやと光るので「きっと石炭だろう」といった。クジラはとうとう海へ戻れず、そのままそこで息絶えたので、飢饉だったアイヌの人々は、とても助かり、クジラに深く感謝した。
※クジラと石炭の黒いつやつやとした輝きの類似が面白い物語。こんな物語を聞かされると、石炭のつやは、なるほどクジラの背中だなあと深く納得。北海道では石炭が採れたけれど、最近最後の炭坑が閉鎖したそうです。釧路の飛行場に、大きな石炭の塊が展示してありました。

■2ちゃんねる裁判を考える/Webという新しいメディアの新しいルール

Wed, 03 Jul 2002 15:03:21

▼2ちゃんねるの裁判の新聞報道
先日、Web上の巨大掲示板2ちゃんねるの裁判の判決が出ました。
【「2ちゃんねる」に賠償命令】>産経新聞社
2002/06/26 インターネットの掲示板「2ちゃんねる」に書き込まれた中傷発言の削除に応じなかったとして、東京都内の動物病院と経営者の獣医師が、管理者の西村博之さんに損害賠償などを求めた訴訟の判決で、東京地裁は26日、請求をほぼ認め、400万円の支払いと書き込みの削除を命じた。

 判決によると、2ちゃんねるはメールアドレスなどを明らかにしなくても匿名で書き込みができる掲示板。昨年1月以降、「ペット大好き掲示板」などに、病院名や獣医師の名前が分かる形で「えげつない病院」「過剰診療、詐欺」などの書き込みがされた。

 西村さんは「発言の真実性などが明らかでない場合は削除義務を負わない」と主張していたが、山口博裁判長は「被害者が書き込み者を特定することは事実上困難。被害回復の方法が著しく狭められ公平を失する」と退けた。

 西村さんは「不当な判決で控訴する」としている。
▼2ちゃんねる側の報道
【動物病院裁判、2ちゃんねる一審敗訴】>電波2ちゃんねるweb
2002/06/28  2ちゃんねるでユーザーに名誉棄損の書き込みをされたとして、「(有)谷澤動物病院」と谷澤浩二さんが2ちゃんねる暫定菅直人の ひろゆき に500万円の損害賠償などを求めた訴訟の一審判決が26日13時10分から、東京地裁第627号法廷であり、山口博裁判長は、西村氏に400万円の支払いなどを命じた。
2001/09/19 に第1回口頭弁論がおこなわれ、本日判決がでたもの。
判決では、言論の自由は認めつつも、管理の不行き届きにより無用の混乱を招いたとし、「匿名掲示板であるために被害者が書き込み者を特定できず、名誉回復の機会などが与えられないのは公平ではない」として原告の訴えを認め、400万円の支払いなどを命じた。
▼裁判所はいつも正しいか?
「裁判所が賠償命令を出した=2ちゃんねるはヒドイところ」というイメージが、一般に流布しています。「やっぱりねえ」などという声も聞こえてくる。しかし、ほんとうにそうでしょうか。それは、中身を見てみなければわかりません。裁判所が馬鹿げた判決を出した例は、枚挙にいとまがありません。

検証し、間違った判決であると思うならば、きちんと声をあげていくのが市民の役割。それでこそ、まっとうな民主主義が機能するというものではないでしょうか。(まじめだなあ、わたしって)

「地球がもし100人の村だったら」の件など、わたしが先日来述べていることのほんとうの論旨はこれ。「出典を明示せよ」は、その一部に過ぎません。「人のいうことを鵜呑みにしないで、きちんと自分で検証して判断する態度を育てよう」ということです。「100人の村」出版以前のチェーンメール騒動のときに書いたレビュー「疑り深い人になろう」の時から、そのことは一貫しています。
正確に調べようがない統計を、正確なもののようにして流通させる。そして、それを鵜呑みにしてしまう人がたくさんいる。もし、悪意の人が恣意的な情報を流したとしても「疑ぐり深くない人々」は、きっと丸呑みしてしまうでしょう。その構造こそが、世界に恐ろしい結果を招く要因のひとつではないか、とわたしは思うのです。

そんな結果を招かないためにも「疑う気持ち」「自分で調べる態度」が大切だとわたしは考えます。
▼マスコミとWebを同列に論じてはいけない
そんなわけで、2ちゃんねる裁判の件も、裁判所の決定を鵜呑みにできない。情報はないか、探してみました。

谷澤動物病院はHPを持っていない。裁判記録はWebには載っていない。これからは、正式な裁判の記録はWebに載せてみんなが検証できるようにするべきだとわたしは思うのですが、ともかく、探してみても詳しい情報はあまりない。結局、2ちゃんねるの情報を見るしかない。訴えられた側の言い分しか見ることができないのだから、これは不公平なような気もするけれど、結局のところそこにしか情報がないことのほうがおかしい。

WebのHPをつくるなんてことは、高校生でもしていることで、そんなにむずかしいことでもなければ、莫大な費用がかかることでもありません。つまり、マスコミが週刊誌などで一方的な名誉毀損的な情報を載せるのとはわけがちがう。一般人は、週刊誌に対抗するメディアを持たないけれど、Webなら対抗するメディアが持てる。しかも、Webの掲示板ははじめからインタラクティブなメディアなので、自らのHPを持たなくとも、そこで論争を繰り広げることができる。いわれた側も対抗手段を持つフェアなメディアだといえるでしょう。

「名誉回復の機会などが与えられないのは公平ではない」という判決は、まったくナンセンスだということがわかります。

けれどもそれは、名誉回復の書き込みを掲示板主催者が削除しないという条件においてのみ「公平」が保障されるわけです。その時、掲示板の主催者が勝手に「悪口に対する反論」を削除したらどうなるか。悪口ばかりのせて、反論の機会を奪う。それがアンフェアなことは、火を見るよりも明らか。わたしが自分の主催する掲示板で、かなりヒドイ書き込みでも、削除をなるべく避けようとするのは、掲示板をできうる限りフェアな場所にしたいと願っているからです。

とうことから考えると「悪口」を削除することもまた、アンフェアであるといえる。悪意の書き込みか、正当な評価かは、実態を見ないとわからない。わからないままに削除することは、正当な評価の機会を奪うことになります。

「悪口」には、正当な反論の機会が提供されている。それなら、裁判する前に正当に反論すればいい。その評価は、読んでいる側がくだすでしょう。「大勢の目に晒す=世論を形成する」という形で、評価していくしかない。そのときにこそ「風評」などではなく、実際の確実な「情報」が価値を持ってくる。病院側は、自己の正当性を提示できる確実な情報を提示すればいいのです。

「動物病院」ということであれば、その病院の評判を云々されることは致し方ない。大切なペットを失った人が、ペットを死なせた病院に悪い印象を持つことは致し方ないことです。しかし、反対にペットの命を救われたなら、その病院は神のごとくにありがたがられる。もし、評判を口にしてはいけないのだとしたら、わたしたちは、医者の言いなりになったまま、医療過誤に対しても、過剰診療に対しても、発言できなくなってしまうのです。そして、いい病院をおすすめすることもできなくなる。

▼2ちゃんねるにしか記録がない?!
さて、実態はどんなものだったのか。2ちゃんねるの記録にたよるしかありません。2ちゃんねるは巨大な掲示板です。どこにその情報があるのか、探すだけでも手間でした。だいたい、わたしは田中宇のメールマガジンで2ちゃんねるが911テロの情報解析をしている、との情報を得て、はじめて2ちゃんねるに接触した者です。その後「奇跡の詩人」問題に興味を持って、その本スレッドを覗くようになっただけ。それ以外の場所は未踏の荒野です。やっと見つけた裁判情報は、ここにまとまられていました。

http://dempa.2ch.net/report/020628/hos.html

ここをたどって実際に悪口が書かれたという掲示板を覗いてみると、ありました。悪口が。悪意による悪質な書き込みとは思えない、一般の悪口が書かれていました。そして、ありました。擁護派の意見が。「わたしはあの病院にかかっているけれど、いい病院です」そんな書き込みも散見される。病院の評価をする「井戸端会議」として機能しています。谷澤動物病院からの書き込みは、ここでは見つけられなかった。

▼事件の経緯を検証する
では、どういう経緯で削除依頼がされたのか。これも記録に残っていました。2ちゃんねるには「削除依頼」という板がある。ここに削除依頼を出しておくと、定められたボランティアの削除人が、削除ガイドラインに従って削除するようになっている。

谷澤動物病院は、ここに削除依頼をしました。ところが、その書き方がひどい。単に「削除してください」だけ。あの膨大な掲示板のどこにあるどんな発言かを特定していない。これでは、削除も出来ない。2ちゃんねる側は、なんども「削除依頼の仕方を読んで、それに従って依頼してください」という旨、伝えるけれど、まったく聞く耳なし。
>谷澤動物病院
またまた同一人物と思われる書き込みがありますが,削除お願いします。
>名無し
「>>1 先日も↓のスレ立ててましたが、板の説明もURLも無いと誘導もできません。
TOPをよく読んで削除依頼してください。

>谷澤動物病院
いつもの悪意のアル掲載驚かされます。あまりに不毛です。できればもう乗せないでほしい。一回ずつの削除願いは大変です。
>名無し
この動物病院、何度言われれば依頼の方法覚える気になるんだろうなあ
こんな調子です。どこが目的の削除してほしい文章なのかを特定せず、しかも自分は一回ずつ指摘するのが面倒だという。だとしたら、ボランティアで削除している人の労力はどうなるのか? 一回ずつ、指摘する前に探しだして削除しろとでもいうのでしょうか?

▼ルールを守らなかったのは誰か?
この谷澤動物病院の言い分を認めるとすると「匿名による批評」それ自体が否定されることになる。2ちゃんねるはいいます。
2ちゃんねるは誰も拒むことはない自由な掲示板です。
ただ一つ、ルールを知り守ってくれること、それだけなのです。
簡単なルールの遵守が、気持ちのいい環境を生み出すことを判って下さい。
ルールを守らなかったのは、谷澤動物病院に他なりません。その非を認めず、2ちゃんねるに400万円という莫大な損害賠償を求めた判決の真意はどこにあるのか?

▼判決は単なる無知か、自由な言論に対する弾圧か?
考えられる可能性のひとつは、裁判官がWebというメディアをまったく理解していない人で、週刊誌の名誉毀損との違いが全然わからなかった。

もうひとつは、わかっていたのにあんな判決をだした。ということは「自由な言論の場」を封じようとしたということではないか。裁判所側は、書き込み者を特定するためにIPアドレスを提出しろと、2ちゃんねるの主催者「ひろゆき」に要求したそうです。ひろゆきは「個人情報の開示」を拒否したとのこと。ならば、ひろゆきがエライ! 悪口とは言え、あの程度の書き込みで個人情報を開示せよといわれるのは、言論の自由の侵害に他なりません。裁判所、つまり国側は、こんな小さなことから、自由な評論活動を牽制しようとしている。

▼パブとして機能するWeb掲示板
イギリスには「パブ」と呼ばれる酒場があります。「パブリック・バー」というのがその正式な名前。日本の酒場と違い、飲んでくだまく、というより、そこに集って政治や社会について活発に論議を交わす場として機能してきました。顔見知りと話す、というだけではなく、知らない人でも、同じ話題で語り合う。そんなことができる場です。それが、イギリスの市民意識を高め、民度を高くしてきたひとつの要因だったともいわれています。

日本の酒場はそんな風に機能してこなかった。日本におけるパブに匹敵するものは、一杯飲み屋。「疑似おかあさん」がいて、常連という「疑似家族」がいて、あったかく迎えいれられる。会社でも家でも戦い続けなければならないおとうさんたちの、せめてもの憩いの場であったのです。そこで、政談なんかしない。第一、シャイな日本人は、見知らぬ人に「石原をどう思う?」なんて聞けるわけがない。

Webは、そんなシャイな日本人にとって、パブの役割を果たすものだったと、わたしは思っています。実は語りたかったけれど、語れなかった人々が、わっと集まってきた。だから、2ちゃんねるのような巨大掲示板が成立した。あそこは、巨大井戸端会議の場です。

そこでは、悪口もでれば、擁護論もでる。真面目な論議もあれば、おふざけもある。いろいろあるけれど、大切なのはそれが常に開かれていること。公開され、誰でもが参加でき、反論もできる場であること。そんななかで、いままでのマスコミによる操作とは別なところで、世論が形成されることは、実によろこばしいことだと、わたしは思います。

しかし、パブがどんな地域にあるかで客層が異なるように、すべての掲示板がよく機能しているわけではない。なかにはならず者だらけのところもある。スレッドの目次を見れば一目瞭然。「NHK板」でも「 ☆速報☆のど自慢に巨乳娘 」などというセクハラでおバカなスレッドから「異議あり!Nスペ「奇跡の詩人」」まで、さまざま。そのスレッドに出入りする人々のなかでも、人柄はさまざまです。

でも、そのさまざまがいい。ルールさえきちんとしておけば、そのゴミの山のような情報のなかからでも、自然ときちんとした社会批判が育ってくるところがすごい。

<エピローグ>「西村博之」という幻想の終わり なんていう、裁判に負けたひろゆきを揶揄して罵詈雑言を吐き散らすような掲示板さえも、2ちゃんねるは削除せずに放置してある。むやみに削除したりしないところが、2ちゃんねるの見識です。

そして、この掲示板の主催者・西村博之氏は、2ちゃんねるガイドで正々堂々と自らの氏名と住所も公表し、削除ガイドラインで「2ちゃんねるの全責任は、管理人たる西村博之が負います。」と明記。見あげたものです。

個人として全責任を負って、このような言論の場を確保している西村博之氏が、掲示板の掟を守らない馬鹿者に400万円もの損害賠償を支払わなければならないなんて、完全に間違っている! とわたしは思う次第です。

2ちゃんねる裁判に関して、わたしが主催する掲示板カフェルナにおいて、安易な2ちゃんねる批判がなされたので、義憤にかられてのレビューでした。

▼論旨は「世界をまともな場所にするために何ができるか」である
繰り返しますが、わたしの論旨は「人のいうことを鵜呑みにしないで、きちんと自分で検証して判断する態度を育てよう」ということ。それによって、健全な世論が形成されること。そうやって人々の意識を底上げして、世界をより美しいところにすることです。カフェルナへの書き込み Webの最終目標は「世界中に散らばっている私たちが織りなしている 網の目のような存在を支援し改善すること」だとわたしは思うも、その一環であり、Webが自由な討議の場として、またWebが人類共通の貴重な情報アーカイブとして機能することを望んでいることの表明です。

▼結語
ああ、疲れた。よく考えていない発言や判決にコメントするためには、かくも膨大な解説が必要です。しかし、それなくしては人々は「裁判で損害賠償の判決なら、被告が悪いんだろう」で通り過ぎてしまう。それでは、人々の意識は変わらない。「検証しましょう!」なんて、抽象的なことをいってもわからないから、このようにひとつひとつ実例にあたったときに、丁寧に解説していかなければならない。がむばります。掲示板も、そういうつもりで運営していますので、よろしくお願いします。

なお、わたし個人としては匿名批評は否定しませんが、推奨もしません。寮美千子運営の掲示板では、書き込む方全員にメール・アドレスの開示を求めています。実名もしくは固定ハンドル・ネームでお願いします。

■地上にあることの深い歓びに触れるまで 生きていてほしかった

Sat, 22 Jun 2002 23:45:43

従兄弟の娘への追悼文です。和光大学「物語の作法」授業の掲示板に投稿したものを、ここに再録します。ご冥福をお祈りします。

今朝、わたしの三つ上の従兄弟の娘が亡くなりました。
二十三歳。彼女は、過食症だった。
つまり、食べては吐き、また食べては吐いてしまい、結局ちゃんと食べられない。
大学受験に失敗して、希望の学校に行けず、専門学校にいったあたりから、
変調を来したらしい。
東京の親類の家から、専門学校に通っていたものの、
過食症がひどくなって、休学して山梨の実家へ戻りました。
それから、入退院の繰り返し。
「家にいたい、家においてほしい」と強く願って自宅療養中のところでした。

従兄弟は、そのことを話してくれなかった。
大学受験に失敗して調子を崩したとは聞いていたけれど、
このごろ、なんの話もなかったので、ああ、彼女は切り抜けたのだ、
きっと元気になったのだと、勝手にそう思っていました。

壊れ物のような娘を、そっと「家族」という殻のなかで守ろうとしていたのかもしれない。

昨晩、彼女はいつもと変わらない様子で「おやすみなさい」を家族にいい、
自分の部屋に入ったといいます。
今朝、いつまでたっても起きてこないので、家族が見に行ったところ、
すでに蒲団のなかで冷たくなっていたそうです。
心筋梗塞だったそうです。

いまの彼女の体重がどれくらいあったのか知らないけれど、
きっと小枝のようにやせ細っていたのだと思います。
この病気の特徴は、本人が元気な気分でいること。
ハイな気分になっているというか、テンションが高い。
それに、体がついていけない。
体が悲鳴をあげているのに「まだだいじょうぶ」と思ってしまう。
本人が元気だから、家族も、だいじょうぶかなあと思ってしまう。
彼女の父親である従兄弟も、母親であるその妻も、
まさか娘が死に瀕しているほど衰弱しているとは思わなかったのかもしれない。

とうとう体が限界を越え、生命体としてのバランスを保てなくなって、
心臓が止まってしまった。
きっと、そういうことだったのだと思います。
冷たくなった彼女の枕元では、目覚ましがわりにかけたラジオが、
音楽を奏でていたそうです。
亡くなった彼女は、目覚めるつもりでいた。
ふいにやってきた、人生の終わり。
もう、二度とこの世界には戻れない。

きっと、いくつかの分かれ道があったと思う。
その分かれ道で、少しでも違う道を選んでいたら、彼女は、いまも生きていたはず。
その分かれ道のひとつに、わたしもいた。
彼女に、彼女の父親に「このごろどうなの?」と声をかけてあげられれば、
何かが変わっていたかもしれない。
ちゃんと、気づかってあげられなかった自分が、深く悔やまれます。

分かれ道を、なんとか生きる方に選んだとしても、
彼女の苦しみは続いていたかもしれない。
人間は、たやすく癒されない。
きれいさっぱり、青空のように爽快な気持ちになることなんて、
そう簡単にはできなかったはずです。

それでも、その苦しみを抱えてでも、やっぱり生きていた方がいい。
わたし自身も、少女の頃から心の中にさまざまな苦しみを抱えて生きてきました。
死んだ方がましだと、何度思ったかしれない。
それをくぐり抜けてここにあるいま、胸を張っていえます。
ぜったいに、生きていたほうがいい。
本人のためにも、周りの人々のためにも。

人ひとりが、精一杯生きていくこと。
そのことで、世界は、より豊かな場所になる。
一歩一歩、苦しみも悲しみも、踏みしめながら生きていく。
その体験は、確実に世界の記憶として降り積もり、
世界を厚みのある場所にしていく。

抱えきれないと思うほどの苦しみや哀しみを引きずって生きているとき、
それがこの先ずっと続くのではと思って、途方に暮れるとき、
どこか遠くへ去って行けたらと思ってしまう。
美しい世界の記憶だけを心に残して、
肉体を脱ぎ捨て、魂となって翔けていく空のかなた、
純粋な光に満ちた場所があるのではないかと、思いたくなる。
そこへ行けたら、どんなにいいだろう。
どんなに楽になるだろう、と。

けれども、それは違う。
そこは、哀しみもないが、喜びもない世界。
なにもない、空白の世界。
そして、地上に深い哀しみと悔恨の種をばらまいていくことになる。
癒えることのない傷を、人々の心に刻む。

哀しみもある世界だから、喜びもある。
けれど、ほんとうは喜びの方が強い。
生きている深い喜びが、哀しみや苦しみを、消失させることがある。
太陽の光が、霧を晴らすように。
生きているというそのことは、ほんとうは、
太陽を内に秘めているということ。
そこに触れることさえできれば、
人生の哀しみや苦しみさえ、深く味わいながら生きていくことができる。

彼女は逝ってしまった。
自分のなかの太陽に触れるまえに。
生きるという深い喜びに気づく前に。

とてもとても残念です。
彼女をこの地上に留める力になれなかったことが、深く悔やまれます。

学生諸君。生きましょう。
心の内を、言葉にして吐き出すことは、大切なことです。
世界に自分の心を投げかけることです。
そこには、本来、技巧もなにもありません。
真摯に心を投げかけること、それを真摯に受けとめること。
そのなかで、心を伝える技は自然と磨かれていくはずです。

言葉は、それがどんな深い哀しみに彩られ、苦悶を表現しようとも
「生きていることの表現」です。
表現するということそれ自体が、生きる方向へ向かおうとする肯定的な力です。
みんなのなかにある「太陽の欠片」を、ここでみんなと共有できることを、
わたしは大きな喜びに感じています。

■1992夏アリゾナ/先住民の声に耳を澄まして

Sat, 22 Jun 2002 03:20:35

移動しました⇒隕石標本/寮美千子の新聞雑誌等発表原稿


■英語版『父は空 母は大地』

Sat, 22 Jun 2002 03:00:45

FATHER SKY, MOTHER EARTH
Chief Seattle's Speach

※このテキストは、「Chief Seattle's Speach」としてアメリカに伝わる複数のテキストを参照し、寮美千子が新たに再編集したものです。

Edited Text by Ryo Michico

P.5

Yonder sky has wiped his tears away.
Today is fair.
Tomorrow it may be overcast with clouds.
But my words are like the stars that never change.
The Great Chief of the White Man at Washington
sends us the word that he wishes to buy our land.

P.6

How can you buy or sell the sky,
the warmth of the land?
The idea is strange to us.
If we do not own the freshness of the air
and the sparkle of the water,
how can you buy them?

P.8

Every part of this earth is sacred to my people.
Every shining pine needle,
every sandy shore,
every mist of dark woods,
every humming insect.
All are holy in the memory and experience of my people.

P.10

We know the sap which courses through the trees
as we know the blood that courses through our veins.
We are part of the earth and it is part of us.

P.12

The perfumed flowers are our sisters.
The bear, the deer, the great eagle, these are our brothers.
The rocky crests, the juices in the meadow, the body heat of the pony,
and man, all belong to the same family.

P.14

The shining water that moves in the streams and rivers
is not just water,
but the blood of my grandfather's grandfather.
The water's murmur
is the voice of my grandmother's grandmother.
Each ghostly reflection in the clear waters of the lakes
tells of events and memories in the life of my people.

The rivers are our brothers.
They quench our thirst.
They carry our canoes and feed our children.
So, White Man,
you must give to the rivers the kindness you would give any brother.

P.16
The air is precious to us.
The air shares its spirit with all the life it supports.
The wind that gave me my first breath
also will receive my last sigh.
So, White Man,
you must keep it apart and sacred,
as a place where man can go to taste the wind
that is sweetened by the meadow flowers.

P.18

The White Man's dead forget the country of their birth
when they go to walk among the stars.
The Red Man's dead never forget this beautiful earth,
for it is the mother of our people.

The ground beneath your feet
is the ashes of our grandfathers and grandmothers.
The earth is rich with the lives of our kin.

P.20

The White Man treats his mother earth, and his father sky,
as things to be bought, sold like sheep or bright beads.
His appetite will devour the earth
and leave behind only a desert.

The sight of the White Man's cities pains the Red Man's eyes.
The clatter of the White Man's cities only insults the Red Man's ears.P.22

The Red Man prefers
the soft sound of the wind darting over the face of a pond,
and the smell of the wind itself,
cleaned by rain or scented with the pine corn.
What is the meaning of life
if a man cannot hear the lonely cry of the whippoorwill
or arguments of the frogs around a pond at night?

P.24

I do not understand
how the smorking iron horse can be more important
than the buffalo that we kill only to stay alive.

I really do not unserstand what the White Man want.

What will happen
when the buffalo are all slaughtered?
The wild horses tamed?
What will happen
when the secret corners of the forest
are heavy with the scent of many men?

P.26

What is man without the beast?
If all the beast were gone,
man would die from the great loneliness of spirit.

The earth does not belong to man.
Man belongs to the earth.

P.28

What will happen
when the view of the ripe hills is blotted by the talking wires?
Where will the thicket be?
Gone!
Where will the eagle be?
Gone!
And what will happen
when we say goodbye to the swift pony and the hunt?
The end of living
and the beginning of survival.

P.30

When the last Red Man has vanished with his wilderness
and his memory is
only the shadow of a cloud moving across the prairie,
will these shores and forests still be here?
Will there be any of the spirit of my people left?

P.32

One thing we know,
there is only one God.
Our God is also your God.
He is the God of man.
No man, be he Red Man or White Man, can be apart.
His compassion is equal for the Red Man and the White Man.
We are brothers after all.

As we are part of the land,
you too are part of the land.
This earth is precious to us,
it is also precious to you.

So, White Man,
will you teach your children
what we have taught our children?
The earth is our mother.
What befalls the earth
befalls all the son and the daughter of the earth.

P.34

All things are connected
like the blood that unites us all.
Man did not weave the web of life,
he is merely a strand in it.

P.36

We love this earth
as a newborn loves its mother's heartbeat.
If we have to sell you our land,
White Man,
please care for it
as we have cared for it.
Hold in your mind the memory of the land
as it is when you receive it.
Preserve the land for all children
and love it
as we have loved it.

P.38

Please love it, forever.

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