いつしかあることが気にかかり始めた。それはヒグマのことだった。自分が生きている同じ国で、ヒグマが同時に生きていることが不思議でならなかった。(中略)満員電車に揺られながら学校に向かう途中、東京の雑踏を歩いている時、ふとそのことが頭に浮かんでくるのである。今、この瞬間、ヒグマが原野を歩いているのかと……。
(『星野道夫著作集4』、二〇〇頁、「悠久の時間」より)
少年だった星野道夫が、電車に揺られながら、遠い山のヒグマを思っていた頃、少女だったわたしは、中学校のプールサイドで抜けるような青空を見あげ、遥かな宇宙を思っていた。一九六九年七月。人類がはじめて月に足跡を残した夏、十三歳だったわたしは、まばゆい青空がどこから暗い宇宙の闇に変わるのだろうかと、焦がれるような気持ちで見あげていた。
人類が月へ行くなんて、不思議な気分だった。大好きなおとぎ話の月に、人類が足跡を残す。土足で心の奥の神聖な場所に踏みこまれたような思いがする一方で、彼方にある未知のものに実際に手が届くことに、強い驚きと興奮を感じていた。心の内側に広がる物語の宇宙と、心の外側に厳然と存在する現実の宇宙。物語と現実のふたつの世界が激しく矛盾する。矛盾しているのに、その両方に、たまらなく惹かれる自分がいる。自分という小さな器のなかに、相反する二つの世界を抱え、どう受けとめていいのかわからなくて、わたしは奇妙な居心地の悪さを感じていた。
その夏、十六歳だった星野道夫は、たったひとりで、北米大陸を目指した。移民船アルゼンチナ丸で太平洋を渡り、ヒッチハイクの旅に出たのだ。はじめて踏むアメリカの大地。それは、十六歳の少年にとって、人類がはじめて月に降りたつことと同じ重さとときめきを持っていたことだろう。
遠方への想像力。それは、自分が存在する「いま・ここ」を超えた遥かなるものへの思いだ。「恋」にも似た、未知なるものへの強い憧れだ。人生を歩みだすはじまりの季節に、そんな憧れに出会うことができた者はしあわせだ。星野道夫は、その憧れのままにまっすぐに人生を歩み、アラスカへ渡った。写真家になろうとして、その題材にアラスカを選んだのではない。アラスカと関わり続けるために写真家になったのだ。そのことは、彼自身が繰りかえし著作のなかで語っている。恋する相手とどうやって終生いっしょに暮らしていくか、その手段として写真家という職業を選んだのだということが、彼の言葉の端々から手に取るように伝わってくる。いじらしいまでの、恋する若者の姿だ。
『アラスカ 光と風』は、一九八六年、星野道夫三十四歳の時に出版されたはじめての著作だ。それは、驚くべきみずみずしさに満ちている。恋焦がれたアラスカに足を踏みいれた彼には、撮るべき写真も、語るべき言葉も山のようにあった。「ぼくの好きな人は、こんなにすてきなんだ」と、大声で叫びながら走っていく少年のような、目を瞠るほどまっすぐな気持ちがまぶしい。
ほんとうにこの本には、いたるところに「はじめて」がちりばめられている。はじめてのアラスカ、写真で見ただけの小さな島シシュマレフに降りたったはじめての一歩、村人とはじめて交わす言葉、はじめて嗅ぐ村の匂い……。人生のなかに一度しかない「はじめて」が次々に立ちあらわれ、そのたびに感じる胸のときめきが、鮮やかに立ちあがってくる。出会うものすべてが「はじめて」である子どもの時間に似た輝き。
それは、星野道夫が撮った、生まれたばかりのカリブーの子どもの姿に重なる。
まだうぶ毛におおわれたような子どもは、川を渡り終えると、まるで踊るように飛び上がりながら真すぐこちらへ走ってくる。一体何がそんなに嬉しいのだ。暖かい夏の陽光か、それとも、何となく思いきり大地を蹴ってみたかったのか。
(『星野道夫著作集2』、四四頁、「イニュニック〔生命〕」より)
星野道夫の写真を見て、思いが溢れ、思わず言葉が口を衝いて出てくることがある。例えば、生まれたばかりのカリブー。まだへその緒をつけたまま、よろよろと立ちあがって懸命に母親の乳首に吸いつこうとしている。母親は胎盤を食べている。一刻も早く群れに戻らなければ、狼や熊の餌食になる。誕生の歓びと裏腹の自然の過酷さ。母親の、つやのない毛皮が気にかかる。思わず「がんばって」とつぶやいている自分がいる。この親子の無事を祈らずにはいられない。それはきっと、シャッターを押した瞬間の星野道夫の祈りだったのではないか。そう感じさせる力が、彼の写真にはある。その時それを見た瞬間の彼の心が、自分の心に重なるような気がする。
それだけではない。恋人の眼差しで見つめ、見つめられた者が心を許した瞬間にしか撮れない写真があるように、アラスカもきっと、星野に心を開いたのだ、と感じさせられる。そこに写っているのはアラスカと星野道夫とのしあわせな関係だ。だから、心が震える。
星野道夫のその驚きの心は、時を経ても、一向に磨滅しなかったのではないだろうか。世界に向きあうたびに、彼は何かを発見し、驚きの声をあげているように感じられるのだ。
通学電車に揺られてヒグマを夢見た少年は、そうやってアラスカをベースに活動する自然写真家になっていった。
けれども、プールサイドで宇宙の闇を夢見たわたしは、天文学者にも宇宙飛行士にもならなかった。なろうと思ったことさえなかった。迷いだらけの凡庸な人生を送って、書くべき確かなバックボーンを何ひとつ持たない、しがない物書きになった。
人は、どうやって「その人」になるのだろう。星野道夫は、どうやって星野道夫になったのだろう。
多くの選択があったはずなのに、どうして自分は今ここにいるのか。なぜAではなく、Bの道を歩いているのか、わかりやすく説明しようとするほど、人はしばし考え込んでしまうのかもしれない。誰の人生にもさまざまな岐路があるように、そのひとつひとつを遡ってゆくしか答えようがないからだろう。
(『星野道夫著作集3』、一四〇頁、「旅をする木」より)
確かにそうだ。いわゆる普通の人生において、右に行っても左に行っても変わり映えのしない分かれ道があったとき、たまたま選んだ道が結果的に後の人生を決定づけてしまう、ということはよくある。
けれど、星野道夫の場合、それは少し違うのではないか。アラスカにまっしぐらに向かう意志、のようなものが最初から揺らがずにあったように感じられて仕方ない。確かに、大切な友人が山で不慮の死を遂げたことは、彼の人生に大きな影響を与えただろう。彼はその時、命のはかなさを知り、一度しかない人生を「好きなことをやって生きよう」と決意したという。
しかし、その「好きなこと」が、これほどはっきりと迷いなくある人生は稀だ。自分がほんとうは何をしたいのか、それを探すだけで一生を終える人も、また、探すことさえなく終える人も多いというのに。
わたしが驚くのは、星野道夫の迷いのなさだ。はっきりと志向する心だ。しかも、それが「いまいるこの場所、この自分からの逃避」というネガティブなものではなく、ひたすらまっすぐに「憧れ」を追い求めていくポジティブな力だということだ。傷を感じさせない無垢な心のまま、ひと欠片の憂いもなく、夢を実現しようとする前向きな力。
十六歳の時、アルゼンチナ丸でロサンゼルスの港にひとり降りたった時のことを、星野道夫はこう書いている。
町から離れた場末の港には人影もまばらで、夕暮れが迫っていた。知り合いも、今夜泊まる場所もなく、何ひとつ予定をたてなかったぼくは、これから北へ行こうと南へ行こうと、サイコロを振るように今決めればよかった。今夜どこにも帰る必要がない、そして誰もぼくの居場所を知らない……それは子ども心にどれほど新鮮な体験だったろう。不安などかけらもなく、ぼくは叫びだしたいような自由に胸がつまりそうだった。
(『星野道夫著作集3』、一四二頁、「旅をする木」より)
わたしならきっと、不安に胸潰れる思いがしただろう。しかし、星野道夫は違った。楽天的、などという生やさしい言葉ではとても足りない。不安よりも百万倍も大きな歓びが、不安の存在すらかき消す。神々しいまでの恐れのなさ。
アラスカに本拠地を移し、カリブーの季節移動を求めて、いよいよひとりでブルックス山脈に入ろうとする時も、彼は同じことを感じている。セスナ機が、一ヶ月半の後に彼を迎えに来ることを約束して飛びたった後、彼は思う。
さあ、もうひとりぼっちだと思うと、自分で自分を元気づけたくなる。とともに、それとは裏腹の、叫びだしたいような解放感があった。
(『星野道夫著作集1』、五一頁、「アラスカ 光と風」より)
こんな資質がなければ、とても星野道夫のような仕事はできなかっただろう。容易に人を寄せつけない山脈や氷河に入り、たったひとりで一ヶ月以上を過ごすなど、並大抵の人間にできることではない。そうやって持ち帰った「遠い自然」の消息を、星野道夫は、都市でしか呼吸できないわたしたちに、贈り物のように届けてくれた。
それは、自然から遠く離れてしまい、そのつながりも流れも感じることのできなくなってしまったわたしたちに、どれだけ大きなものを与えてくれたことだろう。アラスカの山の峰から流れてくる清冽な水のように、星野道夫の写真と言葉は、都市生活者の心を洗い、潤してくれた。自分と大地とのつながりを、もう一度考えるきっかけを与えてくれた。
これほどまっすぐに夢見る力を持ち、それを実行する力を持った人間は実に稀だ。わたしの人生のなかで、そんな人に出会ったのは、ただ一度だけ、カルカッタで会ったマザー・テレサだった。たったひとり、修道院を出て、カルカッタの路上で貧しい人々を救おうとしたとき、彼女のポケットにはわずか五ルピーしかなかったという。なんのツテも手がかりもないままに、彼女はまっすぐに街のなかへ歩みだした。
それを支えたのは信仰の力だったかもしれない。しかし、信仰を持つ人すべてが、彼女のように行動できるわけではない。自己を信じ肯定する力、強く憧れる力、そして並外れた実行力。その資質がひとつになって、ひとりの修道女は、はじめてマザー・テレサになりえたのだ。
それと同じ力が、ひとりの少年を「星野道夫」にしたのだと思う。決して偶然ではなかった。岐路をたどった結果ではなかった。電車に揺られながら遠い山のヒグマを思ったその時から、星野道夫は、すでに確固として星野道夫だったのだろう。それは「持って生まれた資質」としかいいようがないものかもしれない。
もしかしたら、と思う。星野道夫にとって、アラスカは巨大な聖堂だったのではないか。聖なる大地アラスカ。想像もつかないほど大いなる存在。「遠方への想像力」は、限りなく信仰に近い。
いや、星野道夫だけではない。ある憧れを持ってアラスカへ移り住んできたすべての人にとって、アラスカは巨大なる聖堂だったのかもしれない。
とはいっても、アラスカの自然は過酷だ。教会のように誰でも受けいれてくれるわけではない。単なる憧れだけでは、とてもアラスカ暮らしはできないだろう。冬のきびしさに舌を巻いて逃げだす人もいれば、幾冬かを越しただけで満足して去っていく人もいただろう。残った人々は、心底タフな心と体を持った、アラスカを深く愛する人々だ。
つまり、彼らはただそこに暮らしているというだけで、すでに通底する何ものかを持っているということになる。星野道夫が出会った人々は、自らアラスカで生きることを選びとり、何かを掴みとってきた、純粋で強い意志を持った人々だったはずだ。
だからこそ星野道夫は、国境も人種も越えて、アラスカ暮らしの先輩たちに許容されたのではないだろうか。アラスカを深く愛する仲間として。
「いや、星野道夫が、心底純粋でやさしい、すばらしい人間だったからだ」という人もいるだろう。そうなのかもしれない。
先日、はじめて彼のインタヴューの録音を聞く機会があったのだが、その声も語り口も、驚くほどやわらかく、星野道夫という人の無垢な魂を感じさせるものだった。その声を聞いているだけで、心の深いところが自然と和むような声だった。そのやさしさはどこか、マザー・テレサの底なしの包容力を髣髴とさえさせた。
しかし「いい人」なのは星野道夫だけではない。事実上の星野道夫の追悼映画となった『地球交響曲 ガイアシンフォニー第三番』に登場する、アラスカの星野道夫の友人たちも、みな彼に負けないほど無垢な魂を持った人のように感じられた。
わたしには、それはどこか、同じ信仰を持つ者たちのようにも感じられてならないのだ。
そして、実はそれがわたしに、小さな息苦しさを感じさせる原因にもなっている。同じ信仰を持てば、限りなく許されるけれど、そうでなければやんわりと排除されるような、そんな匂いをどうしても感じてしまうのだ。
それは、星野道夫その人や、彼の遺した仕事に感じる、というより、むしろ、彼の死後、大きな潮流のようにして湧きあがった星野道夫をめぐる一連の動きに対して感じているといったほうがいいのかもしれない。熊に襲われるという衝撃的な死の後、彼の物語は過剰に神話化されているように感じられてならない。そして、その神話を信仰のように求める人々がいる。気持ちはわかる。でも、その雰囲気に、わたしはどうしてもなじめない。
そんなふうに感じるのは、単にわたしがへそ曲がりだからかもしれない。自分が、そのように純粋になりえないという嫉妬からかもしれない。けれど、わたしの内的事情ばかりでないところにも、多少の原因があるのかもしれないとも思う。そのことを、もう少し考えてみたい。
その前に、わたし自身と星野道夫との出会いを語っておこう。わたしが「星野道夫」という名を強く意識したのは、残念ながらその訃報を聞いたときだった。「動物写真家・星野道夫氏、テレビ局の取材で行ったカムチャツカで、熊に襲われ死亡」という報道だった。
正直いって、わたしはその時「自然に対して充分に敬意を払わなかったのではないか」という印象を抱いてしまった。星野道夫がどんな仕事をした人なのか、よく知らなかったのに、いま思えばたいへん失礼なことだったと深く反省する。
彼が、アラスカの大自然の写真を撮っている人だということは知っていた。「ナヌークの贈りもの」という絵本も手にとって見たこともあった。しかし、わたしにはピンとこなかった。命の連鎖を語ろうとする絵本であることはよくわかったけれど、その言葉は観念的に過ぎるように感じられた。写真だけ見ればまるで「かわいいシロクマさんの絵本」に見えてしまうことも不満だった。食べたり食べられたりするぎりぎりの関係が見えてこない。言葉だけが一人歩きしていて、なんだかちぐはぐに感じていた。
訃報が報道されて間もなく、わたしはセント・ギガという衛星放送ラジオ局の仕事で、サウンド・デザイナーの野川和夫氏と取材旅行に出ることになった。いまでもよく覚えているが、野川氏は飛行機に乗りこんだとたん、堰を切ったように亡くなった星野道夫のことを話しだした。誰かに話さずにはいられない、という感じだった。野川氏は、一九九一年、セント・ギガの仕事で、東京とアラスカで、星野道夫にインタヴューをしていたのだ。この時のインタビューの一部は、当時セント・ギガで放送された。
野川氏から、星野道夫の人柄、仕事ぶりなどを聞き、わたしは自分のイメージが間違っていたのかもしれないと思いはじめていた。
カムチャツカの事故の詳しいことも、野川氏から伝え聞いた。テレビ局の人々と同じ小屋に泊まらず、単独でテントを張っていて熊に襲われたという話だった。クリル湖畔に棲息する熊は、観光客やテレビの取材班など人間と触れる機会が多く、人間との適切な距離感を失っている可能性があったかもしれないという。
そんな状況下、星野道夫は、なぜあえて単独でテントを張ったのか。都市の匂いをさせた人々といることよりも、カムチャツカの大地を選びたかったのだろうか。
話を聞くほどに、それは自然への敬意を欠いて起こった事故ではなく、逆に自然と限りなく一体化しようとした末の大変不幸な事故のようにも思われ、胸が痛かった。
その年の十一月、偶然、然別湖を訪れることになった。凍りはじめた湖の岸辺には、不規則な氷の欠片が打ち寄せて美しい幾何学模様をつくっていた。然別湖のネイチャー・センターでは、真冬に凍った湖の上で行う星野道夫写真展の準備が進められていた。写真展は、生前から準備されていたものだという。事故ゆえに、追悼展になってしまったと、悔しそうに話した担当者の表情が忘れられない。その時、わたしは、氷の上の展覧会を必ず見に来ようと決意した。
だから、わたしにとって星野道夫の写真とのほんとうの出会いは、凍った湖の上だった。どこまでも平らな氷の上に、数十メートルおきに展示された巨大な写真。晴れた日の青空の下でも見たし、夕暮れの光のなかでも見た。クロスカントリーから戻る吹雪のなかでも眺めた。それは、わたしにとって、東京の空調の効いたヴァーチャルな空間で出会うよりも、ずっとしあわせな出会い方だったと思う。写真の放つ光が、鋭い寒気とともに、心だけではなく体にも深く染みこんでくるように感じられた。
それから、わたしは少しずつ星野道夫の写真と文章に触れるようになった。
星野道夫の言葉に、電撃のように打たれたのは、一九九八年、福音館書店の月刊絵本として「クマよ」が出版されたときだった。「クマよ」というタイトルに続き「いつか おまえに 会いたかった」とはじまるその最初のページを開いたとたんに、胸が衝かれる思いがして、思わず涙が溢れてきた。そこには、大きな熊の顔が写っていた。やさしげにみえるその熊の手には、鋭い爪もくっきりと写っていた。熊に殺された星野道夫の遺作である絵本の一行目が、熊に語りかける「いつかおまえに会いたかった」という言葉であるということに、どうしたらいいかわからないほど心が揺さぶられた。絵本は、こう続いていた。
遠い 子どもの日/おまえは ものがたりの中にいた/ところが あるとき/ふしぎな体験をした/町の中で ふと/おまえの存在を 感じたんだ/電車にゆられているとき/横断歩道を わたろうとするしゅんかん/おまえは/見知らぬ 山の中で/ぐいぐいと 草をかきわけながら/大きな倒木を/のりこえているかもしれないことに/気がついたんだ
(星野道夫・文/写真『クマよ』より)
それは、少年の日に星野道夫が感じたそのままの素直な言葉だ。さらにページを繰ると、熊が点景に入ったアラスカの広大な風景写真が続く。
ぽつんと おまえがいるだけで/風景は/なんだか もう いっぱいだ
(同前)
熊は、熊そのものだけで生きているのではない。広大な自然という背景があって、はじめて熊が生存できる。その背景を含めて熊なのだ。星野道夫の写真は、その自然という背景も含めて熊を撮っている。熊が、人や獣を襲って食べる猛獣であるという緊張感も含めて、限りない愛しさで見つめている。
それが、なんと端的に表わされた写真であることか、そして言葉であることか。
それは『ナヌークの贈りもの』にあったような観念的な言葉ではなかった。少年の日に心に熊を感じたそのことからはじまり、星野道夫がアラスカで得た自然観が、自然体のまま、だれにでも通じるやさしい言葉でリアルに、かつ驚くほど詩的に表現されていた。
ほんとうに星野道夫が書いたのだろうか、と疑う気持ちが湧きあがるほど、完璧な出来だった。福音館書店の知り合いの編集者に聞くと、確かに星野道夫の遺したメモに基づいて制作されたものだという。
それまで、星野道夫の著作はぽつりぽつりと虫食いのようにしか読んでいなかったが、興味を持って読んでみると、確かに『クマよ』に書かれた言葉は、星野道夫がその著作の中で繰り返し語っている言葉だった。それを、見事に洗練させ、結晶化させたものだった。
語るべき何ものかを確固として持っているわけではないわたしは、語るべき自らの体験を持ち、鮮烈に表現する星野道夫の仕事を、ただただまぶしい思いで見るばかりだった。
その反面、星野道夫を取りまく状況に、わたしは少しずつ違和感を感じてきていた。渦巻く神話の匂いと熱狂。それは一体、何なのだろう。そう思ったわたしは、手にしたまま未読だった『森と氷河と鯨』を読んでみることにした。雑誌連載された星野道夫最後の仕事だ。星野の死で、それは未完に終わっている。
それを読んで、わたしは違和感の理由が少しわかったような気がした。今回、この原稿を書くために、改めて『星野道夫著作集』を通読してみて、その思いはさらに強くなった。
さて、話を星野道夫の物語に戻そう。憧れを実現してまっすぐにアラスカへと向かった彼を、アラスカの大地も、人々も、快く受けいれてくれた。それは、星野道夫とアラスカとのしあわせな蜜月時代だったのかもしれない。
未踏の谷あいをスキーを駆ってはいってゆくのはじつに楽しいものだ。自分が大きな風景の中の一点にすぎなくとも、まわりのすべての自然が自分に属しているような気がする。
(『星野道夫著作集1』、五二頁、「アラスカ 光と風」より)
こんなすばらしい山が存在し、それを今見ているのは自分だけかと思うと、改めてアラスカの広がりを実感する。
(同前、一三〇頁より)
誰も踏みいれたことのない大地を、いま自分が踏んでいることに、星野道夫は興奮し、胸を熱くした。しかし、ここではまだ、先住民やそこに住む生き物たちが、ほんとうの意味では、彼の視野に入っていない。動物が山を見ることと、自分が山を見ることは、別のことであると感じている人間中心主義の、無邪気な探検家の視点の星野道夫がいるだけだ。
しかし、星野道夫はやがてそれが誤謬であったことに気づいていく。
ぼくはかつてアラスカの未踏の原野に魅かれていた。セスナで何時間も飛び続けながら、まったく人気のない原野を驚嘆をもって見下ろしていたものだった。が、それは大きなまちがいだった。太古の昔から、アラスカの原野は足跡を残さぬ人々の物語で満ちていたのだ。
(『星野道夫著作集4』、一〇七頁、「森と氷河と鯨」より)
“木も、岩も、風さえも、魂をもって、じっと人間を見据えている”
ぼくは、まるでひとつの生命体のような森の中で、いつか聞いた、インディアンの神話の一節を、ふと思い出していた。
(『星野道夫著作集5』、一〇五頁、「ノーザンライツ」より)
星野道夫は気づく。「未踏」と思っていた大地が、実は先住民の大地だったことを。そして、先住民は動物たちと深い絆を持っていて、人とそれ以外の生き物は、対等な存在であるということを。すべてが命と魂を持つアニミズムの世界。星野道夫の関心は「大自然」から、そこで生きる人々の心の世界へと向かっていく。
しかし、それは、いままさに失われつつある世界だった。近代文明との出会いが、古き世界を音を立てて壊していく。それが完全に失われる前にしっかりと捕らえたいという、使命感とも呼べるような強い思いに、星野道夫は衝き動かされていたように見える。
しかし、先住民たちは容易にその心の底を見せない。
「ミチオ、おまえはおれたちの言葉を話すことができない。だからしかたがないんだ」
それは優しく拒絶するような言いかただった。
「おれはそのことを英語では語りたくないし、試みようとも思わない。グッチンの言葉でしか伝えられない世界があることを、おまえはもう知らなくてはいけない……」
(『星野道夫著作集1』、一七八頁、「アラスカ 光と風」より)
星野道夫は、それを知ろうとして、自ら神話の森深くに歩みいろうとした。そこで「ワタリガラスの神話」に出会う。それこそが、陸橋であった太古のベーリンジアを渡ってきたモンゴロイドを統べる神話ではないか、と直感する。
星野道夫には、物語を遡上して物事の根本を見極めたいという強い欲求があっただろう。
けれども、それだけではないような気もする。もしかしたら彼は、アラスカ先住民と自分自身とを直接結びつける強力な神話が欲しかったのかもしれない。自分もまた、彼らと「同じ言葉」を話す一族であると自ら確信したかったのではないか。「旅をする人」であった彼が、アラスカに腰を落ちつけ、終の棲家とするための、必然としての物語が欲しかったのではないか。
それは同時に「わたしはどこから来たのか」「何者なのか」という根源的な問いを問うことであっただろう。そして「どこへ行くのか」という未来を示唆するものでもあったはずだ。
ぼくは、“人間が究極的に知りたいこと”を考えた。一万光年の星のきらめきが問いかけてくる宇宙の深さ、人間が遠い昔から祈り続けてきた彼岸という世界、どんな未来へ向かい、何の目的を背負わされているのかという人間存在の意味……そのひとつひとつがどこかでつながっているような気がした。
けれども、人間がもし本当に知りたいことを知ってしまったら、私たちは生きてゆく力を得るのだろうか、それとも失ってゆくのだろうか。そのことを知ろうとする想いが人間を支えながら、それを知り得ないことで私たちは生かされているのではないだろうか。
(『星野道夫著作集4』、八四頁、「森と氷河と鯨」より)
ちょうどそんな時期、星野道夫はボブ・サムという先住民の語り部に偶然のようにして出会い、彼に導かれるように「雲をつかむような」旅が始まる。
ボブは、現実の世界では見えにくい、不可解な世界の扉を少しずつぼくに開いていた。それは“ビジョン”と呼ばれる体験、すなわち霊的世界の存在だった。(中略)偶然の一致に意味を見出すか、それとも一笑に付すか、それは人間存在の持つ大切な何かに関わっていた。その大切な何かが、たましいというものだった。
(『星野道夫著作集4』、五〇頁、「森と氷河と鯨」より)
星野道夫は、そこからぐっと「目に見えない世界」へと足を踏みこんでいく。その軸足は、滑らかに、けれども驚くべき速さで完全にそちら側に移動していく。それは、わたしをひどく不安な気持ちにさせた。そこにいるのはもう、あの大地を蹴るだけで歓びを感じるカリブーの子どものような、とことん無邪気な星野道夫ではない。霊的な世界に魅かれ、不可知な世界へとのめりこんでゆこうとするその姿は、まるでたったひとり荒野に出て、困難なイニシエーションを迎えようとしている青年ようだ。
星野道夫は、ボブ・サムを誘って、古のトーテムポールが渚で朽ち果てようとしているクイーンシャーロット島に旅をする。白人たちがそれを博物館に保存しようとするのを、先住民は阻止している。
「その土地に深く関わった霊的なものを、彼らは無意味な場所に持ち去ってまでしてなぜ保存しようとするのか。私たちは、いつの日かトーテムポールが朽ち果て、そこに森が押し寄せてきて、すべてのものが自然の中に消えてしまっていいと思っているのだ。そしてそこはいつまでも聖なる場所になるのだ。なぜそのことがわからないのか」
その話を聞きながら、目に見えるものに価値を置く社会と、目に見えないものに価値を置くことができる社会の違いをぼくは思った。そしてたまらなく後者の思想に魅かれるのだった。夜の闇の中で、姿の見えぬ生命の気配が、より根源的であるように。
(『星野道夫著作集4』、二六頁、「森と氷河と鯨」より)
星野道夫の言葉は美しい。そして神秘的だ。それゆえ、わたしの不安と違和感は、決定的なものになる。星野道夫がいわんとすることはわかる。とても深淵で魅力的に響く。けれど、ほんとうにそういいきってしまっていいのだろうか。
大英博物館が、まるで盗賊のように、世界の珍しいものを博物学的に集めた、あのやり方は確かにひどい。そこにある文化への、ほんとうの敬意が払われていない。つまり「目に見えないものの価値」への敬意がないのだ。それは、その本来の所有者である人々の心と魂を踏みにじるような行為だった。
しかし、だからといって「朽ち果てるまま」にすることが、ほんとうにいちばんいいことだろうか。それが真実、本来の所有者たちの心と魂に敬意を払うことになるのだろうか。
こんな例がある。エディンバラにある国立スコットランド博物館に「マンロー・コレクション」と呼ばれる膨大なアイヌ民具のコレクションがある。これは、明治末期に来日した英国人医師マンローが、日本で収集し母国の博物館へと送ったコレクションだ。マンローは、昭和初期、アイヌ文化に興味を持って北海道の二風谷に移住、医師としてアイヌの人々を無償で診療する傍ら、民具を収集しつづけた。その興味は、単に博物学的興味に留まらなかった。アイヌの文化を深く理解しようと心を砕いていたことは、その著作からもうかがえる。アイヌの人々からも深い信頼をえていたということが、伝わっている。
二〇〇二年、このマンロー・コレクションをベースにした「海を渡ったアイヌの工芸」という展覧会が開催された。この展覧会で画期的だったのは、現在、アイヌの伝統工芸を復活させようとしている人々が、展覧会前にエディンバラにわたり、博物館に収蔵された工芸品を調査して、そのレプリカを制作したことだった。和人によって、徹底的に破壊されたアイヌの伝統は、マンロー・コレクションの存在によって時を超え新たな形で甦った。
「物」さえあれば、再生の可能性が残される。そこから、失われた精神を取り戻すことも、むずかしくはあるが不可能ではない。そのよすがとなる物を単に「目に見えるものでしかないから」と、その世代で失ってしまってほんとうにいいのだろうか。それは、現在そこに生きる人々だけのものではなく、未来の子孫のものでもあるのに。いや、人類すべての遺産でもあるはずなのに。
本来の所有者だからといって、文化遺産を朽ち果てるに任せることは、例えば、自己の所有物だからといって、名画を焼いてしまうことと変わらない側面もあるのではないか。それは、所有者の、それも「いま現在の所有者」の心を満たすためのエゴではないか。
単に博物学的な興味からではなく、その精神を深く理解をしようとする姿勢が収集者の側にあれば、もしかしたらトーテムポールは、朽ち果てさせる必要はないのではないか。そのための、相互からの歩み寄りの努力がなされるべきではないか。
わたしは、そんなふうに考える。実際には、それはとてもむずかしいことなのかもしれない。長く不幸な歴史がつくった埋めきれない溝が、互いの間にあるのかもしれない。しかし、であればこそ、地を這うようにその溝を埋める努力がなされるべきだと感じる。「森が押し寄せてきて、いつまでも聖なる場所になる」という美しいイメージに安易に回収してしまうことで、存続の道を放棄してはいけないと思う。
「目に見えるもの」と「目に見えないもの」を、単純な二項対立として考えているうちは、解決の糸口は見つからないだろう。目に見えるものと、目に見えないものを、どうやって重ねていくか。時として矛盾する心のなかの物語と、現実に起こっていることを、どうやって矛盾のまま抱えていくか。それが可能なほど、人の心はほんとうは寛いのではないか。そうやって矛盾を抱え続けることで、あるいは矛盾を止揚することで、人はより豊かな何かを得られるのではないか。
いや、神話とは、本来現実と深く共振するものだったのではないか。その起源に遡り、注意深く見れば、実は物語が生じる必然が、遠い過去に事実としてあったのではないか。
ごくわかりやすい例をひとつあげよう。アイヌはヨモギを「世界のはじめに生じた草」として、神聖で魔除けの力があるとしているが、植物生態学的に見れば、ヨモギは確かに何もない荒れ地に最初に出現するパイオニア植物なのだ。強力な薬効もある。「だから神話と現実はイコールだ」などという身も蓋もない話ではない。大切なのは、その現実を単なる事実として受けとめるだけではなく「世界のはじめに生じた草」と名づけることで、深い心の納得として内なる宇宙に位置づけることだ。そのことにより、世界も自己も、より豊かなものになる。
だから、神話や物語を心のなかにだけ閉じこめてしまってはいけない。それは、物語を痩せさせてしまう。物語を現実とを呼応させ、共振させること。そこから、豊かな世界への可能性が開かれるのではないだろうか。
ぼくは“遠い自然”という言葉をずっと考えてきた。北極圏野生生物保護区を油田開発のために開放すべきだと主張するある政治家の言ったことが忘れられなかったからだ。つまり、アラスカ北極圏の地の果てに一体誰が行けるのか、カリブーの季節移動を一体何人の人が見ることができるのか、そんな土地を自然保護のためになぜ守らなければならないのかという話だった。そして彼が言ったほとんどのことは正しかった。アラスカ北極圏の厳しい自然は観光客を寄せつけることはないし、壮大なカリブーの旅を見る人もいない。人々が利用できない土地なら、たとえどれだけその自然が貴重であろうと、資源開発のために使うべきではないか。
が、私たちが日々関わる身近な自然の大切さとともに、なかなか見ることの出来ない、きっと一生行くことの出来ない遠い自然の大切さを思うのだ。そこにまだ残っているということだけで心を豊かにさせる、私たちの想像力と関係がある意識の中の内なる自然である。
(『星野道夫著作集5』、一二九頁、「ノーザンライツ」より)
「現実」を語る政治家に対し、星野道夫は「心」の問題を語ろうとしている。世界を、外側にある現実と、内側にある心の宇宙との二項対立として捉えようとしている。
しかし、「心の物語」を語ることが、この政治家への反論として有効だとは思えない。ほんとうに「心の物語」として語ることしか、反論の道はないのか。
熱帯雨林がそうであるように、北極圏の大自然も、地球全体の気候安定に大きく寄与している。人類が都市で破壊的な活動の限りをつくしても、地球が何とかバランスを保っていられるのは、そのように広大な自然が控えているからだ。地球のホメオスタシスにとって、なくてはならない存在なのだ。
それ以前に、油田開発は、そこから採れた石油を燃やすことを前提としている。それは、動植物が何億年という気の遠くなるような年月をかけて回収し定着した二酸化炭素を、再び急激に空中にばらまくことに他ならない。大気の組成のバランスを崩すことをさらに加速することを意味している。
多様化を本来とする遺伝子のプールとしての意味も見逃せない。多様な遺伝子があってこそ、地球生態系もつつがなくめぐることができる。
そのように「現実」のなかにも、具体的な「利用価値」を見出すことができるのが、北極圏の自然だ。「観光資源」「石油資源」としての利用価値など、愚かな目先の価値でしかないと断言できるだけの現実的・科学的根拠がある。
「現実」を語る政治家に対抗するのであれば、まずそのことを語らなければならない。「想像力と関係がある意識の中の内なる自然」という美しいイメージに回収してしまうだけでは、実効性が限りなく希薄になっていくばかりだ。
だから「内なる自然」に意味がない、というのではない。地球を支える北極圏の自然の現実を科学的に認識し、それを内なる自然として心のなかにしっかりと位置づけること。「現実」と「神話」とを、車輪の両輪のように持つことで、わたしたちはまっすぐに歩むことができるのではないだろうか。
星野道夫は、その晩年に「心=神話的視点」の車輪に重きを置き、「現実=科学的視点」という車輪をおろそかにしてしまったのではないか。それがゆえに彼が乗った人生という乗り物は、みるみる現世という道を逸れて、神話世界の闇へと消えていってしまったのではないか……。
物語の風に吹かれながら、ある想いが心の中にふくらんでいた。ワタリガラスの伝説を捜しに、シベリアへ渡ろうと思った。
(『星野道夫著作集4』、一一八頁、「森と氷河と鯨」より)
それが、わたしたちに遺された最後の言葉だった。星野道夫は、そのままふいに、だれも予想だにしなかった方法で、「目に見えないもの」と「深い闇」を指し示したまま、神話のなかへと歩みいってしまった。
星野道夫は、神話の英雄になった。彼を失った激しい喪失感から立ち直ろうとする人々にとって、それはどうしても必要な心の仕事だっただろう。実際、彼は英雄だった。未知の世界から、命をかけて大切な何かを持ち帰り、わたしたちが忘れていた大切なものを取りもどそうとしてくれた英雄なのだ。
強い憧れに衝き動かされて遠い世界へと旅立ったその姿も、わたしたちにもたらしてくれた遠い自然の消息という宝も、その突然の死も、すべてが英雄と呼ばれるにふさわしい。
彼がその文章のなかで繰り返し同じ出来事を語り続けたことも、きわめて神話的な行為だったように感じられる。アラスカでの出来事は、どんなささいなことでも、きっと語るに値することだっただろう。それなのに、彼は、いくつかの限られた出来事を繰り返し語り続けた。まるで部族の語り部のように。そのなかで、イメージは純化され、結晶になった。彼の著作には、人が心の糧として抱いていけるような言葉に満ちている。あたかも聖典のごとくに。
人々は、それを手にすることで遠い世界の消息を知り、不安ないまを生きる自分の位置を確かめることができる。
そしてある人々は、星野道夫が最後に指し示した「目に見えないもの」と「深い闇」にさらに深く歩みいろうとする。星野道夫がしたように、軸足を速やかにそちらの世界に移動して。時にそれが、あまりに平衡を欠いたものになる不安を、わたしは感じないではいられない。
星野道夫を、ただ美しい神話としてだけ語り継いではいけないのではないか、という思いが、わたしのなかにある。それは、物語としての側面だ。もうひとつ、事実としての側面がある。例えば、その死だ。
われわれは、みな、大地の一部。おまえがいのちのために祈ったとき、おまえはナヌークになり、ナヌークは人間になる。いつの日か、わたしたちは、氷の世界で出会うだろう。そのとき、おまえがいのちを落としても、わたしがいのちを落としても、どちらでもよいのだ。
(星野道夫『ナヌークの贈りもの』より)
「ナヌーク」とは、イヌイットの言葉で白熊のこと。死の半年ほど前に出されたこの絵本で、星野道夫はこんな予言のような言葉を記した。そして、シベリアからカムチャツカに渡り、熊に襲われて亡くなった。それは、深い神話的解釈をもたらさずにはいられない出来事だ。そして、確かにそのように神話的な出来事だったのだと思う。彼は、熊に食べられることで、大いなる大地の一部となり、永遠にめぐる命になった。
けれども、その一方で、極めて現実的な解釈も存在する。「クマの中には人を襲うものもいることを自覚し、そういうクマが襲ってくる場合のことを想定し武器(鉈など)を携帯すべきであった」「鉈などで反撃していれば、生還しえたであろう」と動物学者の門崎允昭氏は指摘している。
(門崎允昭・犬飼哲夫『増補改定版ヒグマ』北海道新聞社)
門崎氏の解釈を採れば、星野道夫の死は、熊と人、ぎりぎりのところで命をやりとりしたのではなく、失わなくてもよかったはずの場面で大切な命を失ってしまったということになってしまう。もしもそうだとすれば、それはあまりにも残念で、悔しく悲しい事実だ。人命を奪った熊は、殺さざるをえない。実際に、その熊は殺されてしまった。熊にとっても人にとっても、やるせないほど不幸な出来事だ。
このような解釈は、死者に鞭打つことのように思われるかもしれない。けれども、わたしたちはその事実から学ばなければならない。星野道夫の死を無駄にしないためにも。彼の死を美しい神話としてだけ回収してしまうと、新たな熊の事故を防ぐことができなくなってしまう。
だからといって、星野道夫に関する神話的解釈が無効になるわけではない。彼が生きた神話は、神話として崇高に語り継がれるべきだ。ただし、過酷な現実から目を逸らすことなく、車の両輪のひとつとして。
目に見えるものと見えないもの、現実的解釈と神話的解釈。矛盾するその両方を受けいれる心の強さと寛さとを、わたしたちは持たなければならない。星野道夫という類稀なひとりの男を、美しい神話として、そして現実の人間として、しっかりと受けとめ、正しく語り継ぐために。星野道夫が指し示した「魂の世界」を取りもどし、いまここにある現実をより豊かなものにするために。
しかし、ほんとうにそんなことができるのだろうか、とわたしは不安になる。
十三歳の夏、おとぎ話の月と、人類が足を踏みこんだ月、矛盾するふたつの世界を抱えて、わたしは途方に暮れていた。そのまま、わたしはいまも途方に暮れ続けているのかもしれない。
けれども、星野道夫は語りかけてくる。神話世界から、そして現実世界から、結晶のような言葉で、美しい写真で、静かに、けれども魂を揺さぶるように力強く語りかけてくる。そのふたつを、ふたつとも受けいれる道を探せと。それが、彼が遺してくれたいちばん巨きな贈り物のように、わたしには思えてならない。
(りょう みちこ・作家)
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