ハルモニア 隕石標本/寮美千子の新聞雑誌等発表原稿

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■泣いた青鬼/『詩と思想』2006年8月号 特集:フェイク

寮 美千子

 わりあい最近の話です。あるところに、赤鬼と青鬼の夫婦がおりました。赤鬼は一本角の女の鬼、青鬼は二本角の男の鬼でした。ふたりとも、顔はなかなかに恐ろしげではありましたが、心持ちはたいへんやさしく、とても気だてのよい鬼でした。
 ということは、しかし、鬼の世界では完全な落ちこぼれ、情けないほどの落第生である、ということです。鬼というものは、他人よりもまず自分、自分が幸せになることが何より大切、ということを尊ぶ種族だったのです。
 鬼の子は、幼いころから、そのようにきびしく教育されます。幼稚園の砂場で、友だちのオモチャを力尽くで奪うと「よくやった!」とほめられ、反対に、オモチャを取られたといって泣いているような子鬼は「奪い返すくらい強くなりなさい」と叱られます。試験の時もそうです。カンニングをしていい点を取るような子鬼は「要領がいい」といわれ、真面目に勉強をした者よりずっとほめられます。それよりほめられるのは、試験なんかほったらかしにして、校庭で元気に遊んでいる子鬼たちでした。鬼の先生が血相を変え「こらあ!」と金棒を振り回して追いかけてきても、ものともせずに「あっかんべー」をして、逃げていくような子鬼は、学期の終わりになると、通信簿でとてもいい点をもらうのです。
 そんなわけですから、心やさしい赤鬼と青鬼は、子鬼の頃からずっと、落第生のいじめられっ子でした。猫の尻尾を持ってぐるんぐるんと振り回すことも、トンボの羽をむしって遊ぶようなこともありません。それどころか、九九をすっかり暗唱し、給食のパンをわざわざとっておいて、小鳥にやったりするのです。二人の子鬼の親は「うちの子はほんとうに情けない」といって、いつも嘆いていました。
 そんな二人が大きくなり、恋をするようになるのは、当然の成り行きでした。ある日のこと青鬼は「父さん、ぼく、結婚したい娘がいるんだ」といいました。
「そうか。で、どんな娘だ」
 青鬼は、赤鬼の写真を見せました。
「ほう、なかなか恐ろしげな顔をしているじゃないか。いい娘を見つけたな。おまえにしては上出来だ」
 写真のなかの赤鬼は、それはそれはすごい形相をしていました。顔は血のように赤く、かっと見開いた目玉は血走り、眉間には深い縦皺がよって、口は耳まで裂けています。その口からのぞく乱杭歯の尖ったこと! 顔を縁取るのは、腰まであるふさふさとした金髪。それがわーっと広がって、まるで連獅子のお獅子のよう。大変な迫力です。
「こんな美人に好かれるとは、おまえにも、親が気づかないような、いいところがあったんだなあ」
 いうまでもありませんが、鬼の世界では、顔が怖ければ怖いほど美人なのです。
「で、性格はどうなんだ?」
 青鬼は正直者でしたから、バカ正直に答えました。
「それが、父さん。彼女は、心がやさしくて、思いやりがあって、いつだって自分より周りの鬼のことを考えて……」
 すると、親鬼の顔色がみるみる変わっていきました。もともと緑だったのが、赤くなったり青くなったり、とうとう七色の渦巻き模様になって爆発寸前です。
「馬鹿野郎! ふざけるな。いくら美人でも、そんな根性の悪い女といっしょになって、しあわせになれるわけがないだろう! おまえ、女は見かけじゃないぞ、中身だぞ」
 事情は、赤鬼の家でも同じでした。写真を見てその恐ろしげな風貌は気に入られたものの、やさしい性格がまったく気に入られず、結婚を反対されたのです。
 そんなわけで、二人は、手に手を携え、駆け落ちしなければなりませんでした。それが、生まれて初めての、親への反抗でした。
 親たちは、もちろんそれを嘆いたりはしませんでした。
「親に逆らうなんて、あいつも、やっと世間並みになった!」と喜んだということです。
 さて、そんなことがあっていっしょになった二人ですが、やはり世間はなかなかにきびしく、流れ流れて、とうとうある山の麓に住みつきました。そこはもう、人間の村のすぐそば、近くには鬼の一匹も住んでいないような辺境です。
 それでも、二人は幸せでした。鬼世界の価値観などどうでもいい、ここで二人で毎朝、小鳥に餌をあげられればそれでよいと、二人は心からそう思っていました。そして、小さな畑を耕し、森で木の実を拾い、仲むつまじく暮らしていました。
「おまえには、苦労をかけるなあ。俺がいっぱしの鬼だったら、いまごろは人間からぶんどった金銀財宝に囲まれて、ぜいたくな暮らしができたのに」
「なにをいっているんです。わたしは、いまの暮らしが好きなんです。あなたこそ、わたしなんかといっしょになったせいで、こんな貧乏暮らしでごめんなさい」
 けれども、ほんとうのところをいえば、二人はほかに話し相手もなく、それを内心さみしくも思っていたのでした。ですから、二人はたまにほっかむりをして、人間の夫婦に変装し、気晴らしに人間の村に遊びに行きました。
 人間の村には、きれいなもの、すてきなものが溢れていました。明るいショーウインドウには、きらびやかな宝石や最新流行の服が飾られ、青鬼も赤鬼も、ついつい見入ってしまいました。赤鬼は、髪に飾るすてきな櫛を見ては、ため息を漏らしました。(あんな櫛があったら、この恐ろしげに広がる髪も、すっきりまとまって、きれいに女らしく見えるでしょうに)と、心のなかでつぶやきました。青鬼は、すてきな金の鎖を見ては、ため息を漏らしました。(ああ、あれは俺の金時計にぴったりだ。あの鎖さえあれば、誰だって俺に一目置くに違いない) その時計は、実は、青鬼が家出をしたとき、母親が青鬼の服のポケットにそっとしのばせてくれたものでした。
 それぞれウインドウに見とれていた二人ですが、元々、相手のことを第一に考える赤鬼と青鬼の夫婦です。お互いのこのため息に、気づかぬはずがありませんでした。
 やがて、二人が駆け落ちをした記念日がやってきました。このところ、二人はすっかり生活に疲れ、気分も塞ぎがちでした。友だちの一人もいないのだから、仕方ありません。二人は、お互いになにかすてきな、ぱっとした贈り物をして、この灰色の日常に花を添えたいと思ったのでした。
 けれども、鬼の夫婦の家には、お金というものがありません。そこで、赤鬼はばっさりと髪を切り、村にいってその髪を売りました。金髪なので、大変いい値段で売れ、金の鎖を買うことができました。一方、青鬼は、大切な金時計を古道具屋に売ってお金を作り、宝石のついた鼈甲の櫛を買いました。相手を喜ばせることができるなら、大事な物を手放してもちっとも惜しくないと、二人ともがそう思ったのでした。
 さて、その夜の鬼の夫婦の家で何が起こったでしょう。二人は、思いやりがすれ違いだったことを知り、ひどくがっかりしました。がっかりしながらも、結局はお互いを思う気持ちを確かめ合い、歓びの涙に暮れて、ひしと抱きあったのです。ほんとうの贈り物、それは「互いが互いを思いやるあたたかい気持ち」だったのです。めでたしめでたし。
 ところが! お話はそれで終わりませんでした。その日から、何かが変わってしまったのです。赤鬼は、髪をいじりながらぼんやりとしていることが多くなりました。「どうしたの?」と聞いても「なんでもない」というばかり。
「ねえ、ほんとうにどうしたの?」
 赤鬼は、やっといいました。
「なんだか、このまま何もしないで、ここで年をとっていくのが、怖くなってしまったのよ。あのね、わたし、喫茶店をやりたいの。そうしたら、いろんな人が来てくれるわ。人間って、やさしい生き物でしょう。わたし、やさしい人間たちとなかよくなりたいの」
「そうか。そうだよね。実はぼくも思っていたんだ。このままでいいんだろうかって。喫茶店、いいよねえ。でも、鬼の喫茶店なんかに、人間が来てくれだろうか」
「そうなのよ。無理よね」と、赤鬼はため息をつきました。そして、さみしそうに笑っていいました。「いいの、いいのよ。わたしは、あなたがいれば、それだけでしあわせなの」
 そういう赤鬼は、少しもしあわせそうには見えませんでした。青鬼は、赤鬼のためにどうしたらいいのかを夜も寝ないで考えました。そして、いいことを思いついたのです。
「きみは見かけは怖いけれど、心はやさしい。それを人間にわかってもらえばいいんだよ」
「でも、どうやって? みんな、わたしをひと目見るだけで、逃げちゃうのよ」
「こうするんだ。ぼくが、村に行って、暴れまわる。そうしたら、きみが来て、ぼくをやっつける。そうすれば、人間はきみを信用するだろう」
「でも、それじゃあなたが……」
「ぼくは、ほとぼりが冷めるまで、山にひっこんでるよ。きみが人間とすっかりなかよくなったら、ほんとうのことをいえばいい。きっとみんなわかってくれるさ。その時は黄色いハンカチを窓に掲げておくれ。そうしたら、ぼく、戻ってこよう」
「いやよ。わたし、そんなの」
「なあに、心配ない。人間は、きみのやさしさにすぐに気づくさ。いくらも時間はかからないよ。それにね、きみがしあわせでいることが、ぼくのしあわせなんだ。ぼくのためにも、がんばってくれよ」
 そういって、作戦を実行しました。
 まったく、作戦は思い通りにいきました。人間は、赤鬼のもとを訪れました。赤鬼の喫茶店は、お茶もケーキもおいしくて安いし、店の女主は、顔は怖いけれど心はやさしいいい人だ。そういう評判が立つと、どんどんお客が増えました。赤鬼は、いままで見たこともないほど張り切って、毎日をいきいきと過ごしました。そろそろ青鬼のことを告白しなければ、と思いながらも、忙しさにかまけ、また、告白したらお客が逃げてしまうのではと心配にもなり、明日告白しよう、明日こそ、と思いながら、毎日が過ぎていきました。
 青鬼は、その様子を遠くからそっと見ていました。いくら待っても、窓辺に、黄色いハンカチは掲げられません。赤鬼は、いつもいつも、実にしあわせそうです。いまさら自分が現われて、その生活をぶち壊しにするくらいなら、自分が身を引こう、と青鬼は決意しました。青鬼は、心底やさしい奴だったのです。青鬼は、手紙を書きました。
「ぼくは、きみのしあわせを壊したくありません。だから、旅に出ます。どうか、ずっとしあわせでいてください。きみがしあわせでいること。それがぼくのしあわせなのです」
 手紙を、喫茶店の扉の下にはさむと、青鬼はひとり、泣きながら去って行きました。
 朝になって手紙を見つけた赤鬼は、気が狂ったように家から走り出しました。青鬼の名を呼んで走りましたが、もうどこにも、青鬼の姿は見えないのでした。
 赤鬼は、自分を責めました。確かに、いまの暮らしは楽しくて張りがあります。でも、愛する青鬼がいなくて、なんの意味があるでしょう。それなのに、そんな大切なことをおざなりにし、目先の忙しさを言い訳に、青鬼のことを先送りにしたのです。赤鬼は後悔しました。罪悪感に苛まれました。赤鬼は、もう少しもしあわせではありませんでした。
 赤鬼は決心して、みんなに青鬼のことを話しました。案ずるより産むが易しです。人間たちは、赤鬼の話に耳を傾けてくれました。そして、いっしょに青鬼の帰りを待つといってくれたのです。赤鬼は、窓に黄色いハンカチを掲げました。そうやって、ずっとずっと待ちましたが、青鬼は戻っては来ませんでした。
 さみしさに心荒んだ赤鬼をなぐさめる男がおりました。妻も子もいる男でしたが、心のやさしい男で、悲しげな赤鬼を見ていると、放っておけなくなってしまったのです。慰めているうちに、二人は自然と深い仲になり、とうとう赤鬼はその男の子どもを宿しました。ところが、それを知った男は、ぷつりと姿を見せなくなってしまいました。
 赤鬼は、たったひとりで子どもを生まなければなりませんでした。不倫の子を産んだという噂が広まり、喫茶店にも人が来なくなりました。赤ん坊を抱えて、これからどうすればいいのか。赤鬼は途方に暮れ、いっそ死んでしまいたいとさえ思いました。
 さて、この赤ん坊ですが、鬼の子なので、ちょっと変わっていました。まず、色です。赤い鬼と色白の人の間に生まれたので、きれいな桃色。鬼の血を引いているので、自分で自分の身を守る力がありました。ですから、すっかり思い詰めた母親が、赤ん坊を川に流したときも、くるりと体を丸めて、水に浮いてぷかりぷかりと流れて行きました。
 それを、たまたま川に洗濯にきていたおばあさんが、大きな桃が流れてきたと思って拾いました。持ち帰って割ろうとすると、赤ん坊だったのでびっくり。おじいさんといっしょに大切に育てました。それがあの「桃太郎」です。
 桃太郎が大きくなって「鬼退治」に出かけ、鬼ヶ島から金銀財宝を持ち帰ったことは、よく知られています。実はその退治された鬼のなかには、鬼ヶ島に流れ着いたあの青鬼もいたのでした。青鬼は、桃太郎に退治されるいまわのきわに、桃太郎になつかしい赤鬼の面影を観て、その名を呼びながら身罷ったのでした。桃太郎は、そんなことは知るよしもなく、英雄として、脳天気に栄光に満ちた一生を送りました。
 かわいそうなあの赤鬼ですが、それから行方知れず。いまでは外国のサーカスで見世物になっているとも、六本木でSMの女王様になり大評判になっているともいわれています。
 さて、風の便りに青鬼と赤鬼の消息を聞いた鬼の親たちは、深いため息をつきました。
「だから、あれほどいったのに。なまじっかな『やさしさ』なんて偽物、だあれもしあわせにしないって」
「じゃあ、本物のやさしさってなあに?」
 膝のうえに座った孫がかわいらしい声できくと、鬼のおばあちゃんは「おばかさん。自分で考えなさい」と、孫の頭をぽかりと殴りました。青い子鬼は角をべきっとへし折られ「あーん」と割れんばかりに泣きだしました、とさ。

■「夢見る水の王国」連載予告/『月刊北國アクタス』2006年9月号

寮 美千子

写真1
1998年2月
I shall return! と心に誓う
写真2
2005年11月
I'm back! のVサイン

 はじめまして。来月号からはじまる連載小説『夢見る水の王国』の作者、寮美千子です。
 昨年、第三十三回泉鏡花文学賞をいただき、久しぶりに金沢を訪れることができました。実は、その八年前、真冬の金沢を訪れたことがあります。兼六園の雪景色のなか、急に降りだした霰が、軽やかな音を立て、生命ある音符のように跳ねていたのを、昨日のことのように思い出します。その時、石川近代文学館で泉鏡花文学賞の展示を拝見し「いつの日か、わたしも」と夢想して、記念写真を撮りました。叶わぬ夢と思っておりましたが、まさかの夢が実現し、八年後、同じ場所で、歓びのVサインを掲げることができました。
 幻想文学の大家である泉鏡花先生縁の金沢から、受賞後初の長編となる異郷遍歴幻想小説『夢見る水の王国』を発表できることを、心からうれしく、誇らしく思っております。
 この作品は、十五年来温めてきたもの。泉鏡花文学賞の受賞作である『楽園の鳥』にも、すでに作中作の童話として登場しています。いよいよ、この作品を世に問うことができると思うと、胸の高鳴りを押さえることができません。
 ――宇宙のなかにわたしがいて、わたしのなかに宇宙がある。
 人間はひとりひとりが、ひとつの銀河であるような、広大な心の世界を持っています。もしも、世界のすべてが消え、人の心だけが見えたとしたら、闇に浮かぶ無数の銀河が見えることでしょう。それぞれ独自の形で煌めき、ゆるやかに回転し、きっと息を飲むような美しさに違いありません。その銀河は、孤独な存在ではありません。どんなに離れていても、お互いの光が届き、お互いが重力を及ぼしあっているのです。
 目に見える現実の世界の裏側には、そんな心の宇宙が広がっているような気がしてなりません。そして、いまここにある「現実」と、目に見えない「心の世界」もまた、互いに影響を及ぼしあっているように感じるのです。
 わたしが夢を見ることで、心の宇宙が存在するように、心の宇宙のなかのわたしが夢見ることで、ここにわたしが存在する。童話作家ミヒャエル・エンデは『はてしない物語』のなかで、幻想と現実、二つの世界を描き、互いの世界が健やかでなければ、豊かな世界はやってこないと説きました。宮澤賢治は『銀河鉄道の夜』で、心の内に広がるもう一つの宇宙である、幻想の四次元空間を旅しました。ル・グウィンは『ゲド戦記』で、自分探しの旅を描きました。『夢見る水の王国』は、わたしにとっての『はてしない物語』であり、『銀河鉄道の夜』であり、『ゲド戦記』です。
 物語は、海辺の町からはじまります。祖父と二人きりで暮らす幼い少女マミコ。突然の悲劇に、少女はすべての記憶を失います。失われた「名前」を探しに、もう一つの世界へと旅立つ少女。そこで待ち受けるものは……。少女と共に旅する木馬の正体は……。物語の背景に見え隠れする古都金沢の風景。みなさまといっしょに、この壮大な旅路を、一歩一歩、歩んでいきたいと思います。美しい景色もあれば、つらく悲しい光景もあるでしょう。この世のものとは思われぬ絶景に巡り会うかもしれません。けなげに旅する少女を、どうか応援してください。よろしくお願いします。

初出:『月刊北國アクタス』2006年9月号
【10月号よりスタート/待望の連載小説/受賞後初の長編/世代を超えた冒険ファンタジー「夢見る水の王国」/読者のみなさんと壮大な旅路へ】

■『楽園の鳥』の名前/『季刊アゴラ』35号

寮 美千子

 十五年ほど前、下北沢から相模大野に越してきた時、うれしかったことのひとつが、鎌倉の海に近づいたことだった。一時間で海まで行けると思うだけで、日常に潮風が吹きこんでくるような開放感があった。
 その頃、七里ヶ浜ではじめて陶片を拾った。波に洗われ、すっかり角がとれて、やさしい丸みを帯びていた。青い微塵唐草の模様を見て、古い伊万里の破片だとわかった。以来、海岸に行くと陶片を探すようになった。
 鎌倉の海岸は陶片の宝庫だ。江戸から明治にかけて生活雑器として使われていた伊万里の欠片なら、ざくざくある。さらに古い、中国は宋の時代の青磁片が見つかることもある。鎌倉幕府全盛の頃、大陸から輸入したものだ。
 それを見つけられるようになったのは、鎌倉で長く陶片を拾っている方のお屋敷で、青磁片を見せていただいてからだった。粒混じりの灰色の土や、こっくりとした釉薬を、この目と手で確かめてから、海岸でも自然と目につくようになった。それは翡翠のように深い青緑色で、欠片になっても凛として美しい。あまりにも自然に近い存在なので、そうと知らなければ砂の色に紛れてしまうのだ。
 陶片は、幼い頃遊んだ房総の海にも、きっとあったに違いない。見つからなかったのは、その存在を知らなかったからだろう。大人になり、骨董市で伊万里の皿を買い求め、日常で使うようになっていたからこそ、わたしはあの日、鎌倉の海岸で、青い印判の陶片を見つけることができたに違いない。
 知らないものは目に入らない。存在しないも同然なのだ。そして「知る」ということは、まず、その名を覚えることなのかもしれない。
 陶片を求めて鎌倉の海岸を歩くとき、わたしの目は、陶片だけを探しているわけではない。「何かすてきな物はないかしら」と期待混じりで砂浜をスキャンしている。その「何か」が何なのか、わたしはまだ知らない。だから、なかなか見つからないが、時として珊瑚の化石や鯨の椎骨など、びっくりするようなものに出会う。もしもわたしが、自分が既知のものだけを、例えば陶片だけを探していたら、それらに出会うことはなかっただろう。心を開いているからこそ、遭遇できるのだ。
 砂浜を目でスキャンしている時、脳はフル回転している。砂浜には、無分別に物が打ちあげられるから、そこにあるのは、まだ名づけられる以前の小さな混沌だ。わたしは、それを片っ端から分別していく。「これは貝殻」「これはプラスチック」「木片」「小石」「海藻」と、猛烈な勢いで名づけ、手を伸ばす価値のある物とそうでない物を選り分ける。
 ある時、イワガキと小さなサザエを拾った。持ち帰って食べると、とてもおいしかった。以来、生の貝類にも目がいくようになった。同じ貝でも、カコボラのように毒のあるものもある。わたしは、脳に「食べられる貝」の色や形を刻印する。イワガキなど、不定形で一つとして同じ形はないのだけれど、その色合いや表面の質感で識別する。
 そうやっているうちに、なるほど「同じ形」「同じパターン」に反応するというのは、生きていく上でとても大切な要素だったのだろうと感じた。「食べられる貝」の特徴を脳に刻印し、それと同じ物があったときに、すばやく手を伸ばす。そうすれば食べ物を得ることができる上に、「おいしさ」という格別の喜びも待っている。人間は、それを半ば本能のように発達させてきたのかもしれない。
 自然というものは、海でも山でも、大きな混沌だ。よく見れば、確かにそこに法則性があるが、それは長年観察し、経験を積まなければわからない。そうやって得た知識は蓄積し、人々に共有され、伝承され、文化になる。
 例えば、いつ、どこに、どんなキノコが生えるのか。単に知識として知っているというだけではだめだ。実物を見て、よく似た毒キノコと分別できるようにならなければ、死が待っている。つまり、「同じ形」を、大自然の混沌のなかから見つけだし、同定する能力は、人が自然のなかで生きる上で、欠くべからざるものなのだ。
 そこで、ふと思い当たった。根強いブランド志向というのは、実はその能力の変形ではないか。「同じ形」「同じパターン」を選ぶと生存に有利だったという記憶が深く本能にまで刻印され、どうしても「同じ形」「同じパターン」に惹かれてしまうのではないか。
 もちろん、ブランド志向の過熱の要因が、それだけだったとはいわない。ブランド品であれば、品質が保証されている。伝統によって磨き抜かれたセンスがある。だから、ブランド品を選ぶ、という実利的な面も多分にあるだろう。また、高級品を持っていれば、ステータスの誇示にもなるだろう。
 しかし、昨今のブランド熱は、それだけでは説明ができないほど過熱している。安月給の若者が、十数万円もするようなルイ・ヴィトンの鞄を持っているのはなぜだろう。その様子は、幼児が機関車トーマスやドラえもんのキャラクター商品を無闇に欲しがるのによく似ている。そこには、本当は合理的な理由などないのかもしれない。単に人は、もともとそのようにできているのではないか。わかりやすい「同じ形」に、どうしても本能的に惹かれてしまうのではないか。
 しかし、よく考えてみると、ここで恐るべき逆転が起こっていることに気づく。人間は、大自然の混沌のなかから有用な「同じ形」を自ら発見して抽象してきた。しかし、いまや他者から与えられた「同じ形=ブランド」を見て、それがいいものであると鵜呑みにしている。「ルイ・ヴィトン」だからと、その品質を自ら確かめることもなく、盲目的に買う。だから、偽物にもたやすく騙されるのだ。
 この奇妙な逆転現象は、例えば、体に脂肪を溜めこむという能力で飢饉を乗り切ってきた人々が、飽食の社会のなかで肥満という問題を抱えてしまう、ということにもよく似ている。本来、持っていると有利だったはずの能力が、環境が違ってきたことで、空回りし、時に生存に不利になってしまうのだ。
 ブランド、というのは「名づける」ということだ。名づけられたものの本質が何であるのか、人はもはや確かめようとしない。というのも、世界を名づけられる前の存在それ自体として見るというのは、大変な労力を要することだからだ。砂浜に転がっているものをひとつひとつ判別して歩くように、日常生活で出会うものすべてを自分自身の目と手でいちいち確かめていたら、人生の時間はいくらあっても足りない。だから、人は「名前」というレッテルだけを見て、中身を確かめずに足早に通り過ぎる。そうやって、大量の情報を素通りさせて生活を省力化する。そうしているうちに、自分の目で物を見て、それが何であるのかを判断する力をなくしてしまう。
 そうなると、人は、名づけられたものしか見えなくなる。名づけ得ぬものや、名前からはみだす存在は、なかったことにされる。
 「言葉」とは、世界を名づけることだ。名づけることで、わたしたちは世界を理解している。言葉に心を託して伝えあうこともできる。けれど、名づけることで、こぼれ落ちていくものが、実はたくさんあるのだ。
 先日、拙著『楽園の鳥―カルカッタ幻想曲―』が、泉鏡花文学賞をいただいた。この作品は、昨年の十月に出版されて以来、一部に激烈な反応があったものの、文壇的には鳴かず飛ばず、評論家もその俎上にさえ載せてくれなかった。千二百枚という長編だったことも原因しているだろうが、それ以上に、この小説をいったいどこに分類していいのか、わかりかねたことが、世間にこの作品が「存在しなかった」理由ではなかったか。
 『楽園の鳥』は異国を遍歴する紀行小説であり、恋愛小説、冒険小説、グルメ小説、幻想小説、詩でもあり、哲学小説ともいえるが、そのどれでもない。そのような「名づけ得ぬもの」を拾いあげ、賞をくださったということは、まさに浜辺に散乱する「何だかわからないもの」を拾いあげ、名づけてくださったことに等しい。審査員の先生方には、いくら感謝しても、したりないほどだ。
 『楽園の鳥』は「泉鏡花文学賞受賞作」という新たな名前を得て、ようやく世界に存在することができた。ブランドともいうべきその名に惹かれて手にとってくれる人が、一人でも増えればと願っている。と同時に、読んだ人が、物語のすべてを再び名前のないものに還元し、そこにある名づけ得ぬものを感じ取ってくれたら、と願わずにはいられない。その時にこそ『楽園の鳥』のほんとうの名が明かされるだろう。

初出:『季刊アゴラ さがみはら市民のひろば』35号(2006年1月1日)リレー随筆 ことばの魅力

■ぼくは うんてんしゅ/『こどもおだきゅう沿線』No.86

寮 美千子

 おかしなはがきが、とどきました。でんしゃのきっぷを、ぐうんとおおきくしたみたいなはがきです。
「太一さま
 あなたは 一日うんてんしゅにえらびました。
 あしたうんとはやく 駅にきてくなさい。
           こどもおだきゅうより」
 なんだか、へんなぶんしょうです。でも、太一はうれしくてたまりません。だって、太一は電車がだいすき。いつもいちばん前にたって、うんてんしゅさんをみています。いっぺんでいいから、じぶんで電車をうんてんしてみたいと、おもっていたのです。
「だけど、だれが、こんなはがきくれたんだろう」と太一はくびをかしげました。「小田急線なら、しっているけれど『こどもおだきゅう』なんて、しらないな?」とおもいながら、太一ははがきをおひさまにかざしたり、うらがえしたりしました。
 その夜、太一はうれしくてうれしくて、なかなかなむれませんでした。

 朝になりました。太一は、おかあさんにおにぎりをつくってもらい、すいとうをもって、駅にずんずんあるいていきました。
 駅につくと、だあれもいません。始発電車も、まだなのです。
「はやすぎたかなあ。あれ、あんなところにぼうしがおちているぞ」
 うんてんしゅさんのぼうしです。ひろうと、ぼうしのしたから、子犬がかおをだしました。せなかに小さなリュックをしょっています。「あれ、おとなりのポチじゃないか」
「わん。ポチだなんて、きがるによばないでください。ぼくは駅長さんなんです」
「駅長?」
「そう、こどもおだきゅうのね。どうぶつのこどものための電車です。ぼくが、太一さんを、一日うんてんしゅにすいせんしたんですよ。あ、みんなきたきた」
 あちこちから、子犬や子猫があつまってきました。みんな、くびにふろしきをくくりつけたり、すいとうをぶらさげています。
「おい、カメキチくんもつれてきたか」
「わん」とほえたしろい子犬のくちから、ころんと小さなカメがころがりおちました。カメも、リュックをしょっています。
「よしよし。これでみんなそろったな。さあ、太一くんの運転で、遠足に出発だ!」
 そういって、ポチは太一のあたまに、ぼうしをのせてくれました。太一は背中をぴしっとのばして、けいれいしました。
「でも、遠足って、どこへ?」
「そりゃあ、箱根にきまってますよ。いい温泉があるんです」とポチがいうと、よこから、まっくろな猫がとびだしてきていいました。
「ちがうにゃあ! 江ノ島です! おさかなのヒモノがいっぱいあるんですもの!」
 よくみると、おむかいのクロです。
「いや、箱根。どうしても箱根」
「いいえ、江ノ島。ぜったいに江ノ島」
 犬はみんな箱根にいきたがり、猫はみんな江ノ島にいきがりました。「江ノ島」「箱根」といいあって、ケンカになりそうです。
「まってまって。ケンカはダメだよ。じゃあ、カメキチくんにきいたらどうだい」
 そういうと、カメキチくんはのんびり「ぼく、どっちでもいいやあ」といいました。
「だから、箱根」「いいえ、江ノ島」と、またまたおおさわぎ。
「わかったわかった。りょうほういけばいいじゃないか。ね」と太一がいうと、みんな「わあ! やったあ!」といいました。
「ホームは0番線です」とポチ。0番線なんて、聞いたこともありません。1番線のホームのはしっこまでいくと、ちいさなエスカレーターがあって、そこをおりると、ちいさなホームがあり、ちいさなロマンスカーがとまっていました。
「すごい。ぼくにぴったりのおおきさだ!」
 太一くんは、うんてんせきにすわりました。いつもうんてんしゅさんをみているので、どうしたらいいかわかります。
「しゅっぱーつ、しんこう!」
 ロマンスカーがはしりだしました。上りと下りの線路のあいだにちいさな線路があって、それがこどもおだきゅうなのです。ちいさいけれど、はやいことはやいこと。ぐんぐんはしって、あっというまに箱根につきました。
 犬たちはおおよろこび。野原や森のなかをさんざんはしりまわってあそぶと、ざぶんと温泉にとびこみました。
「ああ、ごくらくごくらく」
 猫は、つまらなそう。だって、猫はおふろがだいきらいなのです。
「はやく江ノ島にいきましょう。わたし、ヒモノをおかずに、おべんとうがたべたいの」
「それはちょっとむずかしいなあ。江ノ島へいくには、相模大野までもどらなくちゃならないんだ。おひるには、まにあわないよ」
 太一がそういうと、クロはなきそう。
 そのとき、ざあっと雨がふって、ぱっとあがりました。おひさまがかおをだすと、おおきなにじがかかりました。そこに、二本のレールがきらきらひかっています。
「こどもおだきゅうは、まほうのてつどう。でんしゃのすきなこどもだけがのれるんです。さあ、いきましょう!」とポチがいいました。
 太一がレバーをにぎると、ロマンスカーはひゅーんとにじをのぼっていきました。
 山をこえ、もうそこには海がきらきらひかっています。猫も犬もおおよろこび。カメキチくんも「わあ!」とこえをあげました。
 みんなは、かいがんでおべんとうをたべ、はしったり、かいがらをひろったり、たくさんあそんで、かえりました。
 おうちの駅につきました。
「太一くん。きょうはどうもありがとう」
 ポチもクロもみんな太一とあくしゅをしたがりました。カメキチもあくしゅしました。

 それから太一はずっと、あのはがきがくるのをまっています、でも、まだきません。おとなりのポチも、おむかいのクロも、きいてもしらんぷり。駅にいっても0番線はみつかりません。でも、きっとまたいつか、あのはがきがくると、太一はおもっています。
「もし来なかったら、ぼく、おとなになって、ほんもののうんてんしゅになるんだ!」

初出:『こどもおだきゅう沿線』No.86(2006年4月20日)日本児童ペンクラブ発行

■コンバット/『小説新潮』2006年1月号 コラム招待席・想い出TVジョン

寮 美千子(第33回泉鏡花文学賞受賞者)

 女の子なのに、女の子たちが苦手だった。女王さまを中心にヒエラルキーがあったからだ。わたしは女王さまも嫌いなら、ゴム飛びの時、何の不平もいわずゴムを持っているだけの子の従順さも、気に入らなかった。
 勢い、わたしは男の子たちと遊んだ。当時、流行っていたのは「母艦水雷」という戦争ごっこ。捕虜になると、味方がタッチしてくれるまで、戦線に復帰できない。捕虜を救出するため、わたしたちは、赤土まみれになって校庭を匍匐前進した。
 みんな、気分はサンダース軍曹で、ヘンリー少尉だった。体の大きな子は、リトルジョンと呼ばれた。テレビ映画『コンバット』で、大男の兵士がそう呼ばれていたように。
 この番組の放映は一九六○年代。わたしの小学校時代とちょうど重なる。あの勇ましいコンバットのマーチが流れてくると、それだけでワクワクした。安全ピンを口で引き抜き、三つ数えて投げこむと爆発する。それがかっこよくて、あんな手榴弾がほしいと思った。
 そんなある日、幼なじみのタカハシ・マサオくんがいった。
「『コンバット』は嫌いだ。人がたくさん死ぬから」
 彼のいう「死ぬ」とは、手榴弾で爆破されるドイツ軍の若い兵士や、機関銃に撃たれて倒れる名もない人々のことだった。
 わたしは愕然とした。サンダース軍曹はかっこいい。そしてやさしい。でも人殺しなのだ。
「物語」はいつだって、名前のある登場人物でできている。名前のない者は、虫ケラ同然。死んでも、だれも痛みも感じない。罪悪感もない。けれど、名前のない人にも名前があり、物語がある。その時、わたしは、そのことに気づいてしまった。
 それからは『鉄腕アトム』を見ても『ウルトラマン』を見ても、やっつけられる側の怪獣や爆破されるその他大勢のことが気になって仕方なくなった。
 泉鏡花文学賞を受賞した『楽園の鳥』以前の四作の小説は、すべて十一歳の少年が主人公。そのため、心ならずも「児童文学」に分類されてきた。しかし、どの作品も、わかりやすい善悪二元論からかけ離れ、児童文学らしくないと異端扱いされてきた。物語に「絶対の正義」を設定してこなかったためだ。
 善玉と悪玉が戦う物語を作るのはやさしい。盛りあがりもする。けれど、いま必要なのは、矛盾するいくつもの物語を包含する巨きな物語。それはもう物語を超えた、まったく新しい「何か」なのかもしれない。
 サンダース軍曹をかっこいいと本能のように思ってしまうわたしたちに、果たしてそれを見つけることができるだろうか。

■ミームとしての「宇宙の微塵」 宮澤賢治と寮佐吉/『一冊の本』2005年11月号

作家 寮 美千子 Ryo Michico

 宮澤賢治に出会ったのは、十五の夏だった。『春と修羅』の「わたくしといふ現象は/假定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です」にはじまる「序」を読んだとたん、雷に打たれたような衝撃を覚えた。ちりばめられた難解な科学用語が、きらびやかな宝石のように感じられた。
 その体験が、やがてわたしを物書きへの道に導いたことは確かだ。「文学を志すなら、科学に精通しなければならない」と己の実力を顧みずに理数系に進み、数IIBであっけなく挫折、大学受験にも失敗し、人生は思わぬ方向に転がりだした。その果てに、殺人歴のある男とヒマラヤ山中をさまよい、相手からさんざん殴られるという愚かしい人生に行きつくことになるのだが、その時は知る由もない。自ら招いたその体験を元に、千二百枚の長編小説『楽園の鳥』を書き、昨年やっと上梓することができた。深い闇の時代から、ようやく抜けだせたように感じている。そこに至るデタラメな暮らしのなかでも、賢治のことは一時も忘れなかった。
 その宮澤賢治の蔵書の中に、祖父・寮佐吉の手がけた本があると、つい最近になって人から知らされ、大変驚いた。
 祖父は明治二十四年生まれ。大正末期から昭和にかけて府立四中の英語教師をしながら科学書の翻訳を行い、「週刊朝日」「科學畫報」などに科学記事を寄稿していた。当時それは、大学教授など専門家の仕事だったから、師範学校しか出ていない祖父の存在は異例だった。いわば、科学ライターの走りだ。量子力学のマックス・エルンスト、天文学者アーサー・エディントン、哲学者バートランド・ラッセル、核物理学者ラザフォードなどの著作を翻訳、精神分析の訳書まであり、仕事の領域は驚くほど広い。
 祖父は、わたしの生まれる十年前の昭和二十年に結核で五十三歳の短い命を閉じた。死の直後に市谷の自宅が空襲で全焼、著作のすべてが焼けてしまった。わたしは祖父の仕事を知らないままに育ち、三十代半ばになって、ようやくその一端を知った。
 賢治の蔵書にあったのは、その祖父が訳した『通俗電子及び量子論講話』(ジョン・ミルス著 黎明閣1922)。賢治の蔵書目録に記された、唯一の日本語の物理学書だった。目録には千数百冊に及ぶ本がリストアップされているが、科学書はわずか五十数冊にすぎない。そのほとんどが彼が専門としていた地質学や土壌学関連の本で、物理学は洋書一冊と、祖父の本があるのみだった。しかも、その『通俗電子及び量子論講話』は、専門書ではなく、一般向けに比較的やさしく書かれた、科学解説書だった。
 相対性理論との深い関連が指摘される「四次元幻想」を生みだした「科学者賢治」のイメージからすると、意外だった。
 賢治が「四次元幻想」の原型を胚胎したといわれる大正十一年に、アインシュタインが来日している。しかし、賢治の作品にも書簡にも「相対性理論」「アインシュタイン」という文字は登場しない。アインシュタインは仙台でも講演を行ったが、賢治は足を運んでいない。講演のわずか六日前に、賢治は最愛の妹トシを病気で失っている。それどころではなかったのだろう。
 とはいえ、時代は相対性理論一色。新聞も雑誌もこぞってアインシュタインの来日を報じた。その年には、二十七冊以上もの相対性理論の関連本が出版された。当時の出版事情から考えると、驚くべき点数だ。賢治は、その中のどれかを手にしたはずだ。
 蔵書にあった『通俗電子及び量子論講話』は、「通俗科學講話叢書」という四冊シリーズの中の一冊だった。残りの三冊は、なんとすべて相対性理論の本だ。うち二冊が佐吉の編訳。佐吉はさらにもう一冊『アインスタイン要約』も翻訳している。
 当時は、情報もいまほど豊かではない。シリーズ本の巻末にある広告を見て、本を注文するということは充分に考えられる。相対性理論の本は山のようにあったが、賢治は、もしかしたら佐吉が手がけた一般向けの解説書を選んだかもしれない。
 周辺の事情を調べていると、当時の相対性理論のイメージが、そのまま心霊主義につながっていたことがわかった。当時発見されたX線が「透視」と重なり、無線通信が「テレパシー」と重なった。このまま科学が進歩すれば、神秘や超能力のすべてが、科学によって解明されるのではないか、という期待の高まった時代だった。心霊学はオカルトではなく科学として認識されていた。
 そこへ現れたのが「時間と空間はひとつ」とする相対性理論だ。時空を超え、死後の世界や過去を覗くことも可能なのではないか、というイメージが流布していった。賢治が熟読したといわれる『トムソン科學大系』にも「相対性理論」と並び、大まじめで「心霊學」の項目が立てられている。
 妹トシを失った賢治は、サハリンへ傷心の旅へ出る。そこで、霊界のトシとの通信さえ試みている。このイメージがやがて「銀河鉄道の夜」に結実していった。そこで語られる「幻想第四次の銀河鉄道」とは、死後の世界へと通じる鉄道に他ならない。そしてそれは、当時、心霊主義と紙一重であった「相対性理論」受容の延長線上に、無理なく存在するものだった。
 佐吉が編訳を手がけた「通俗科学講話叢書」の一冊『通俗第四次元講話』も、当時の風潮を色濃く反映し、その函には「我々の奇蹟不思議も四次元生物には茶飯事也」などという、かなり扇情的な言葉が躍っている。
 しかし、この本の内実は正統派の科学解説書だ。雑誌「サイエンティフィック・アメリカン」の懸賞に入選した、数式を使わない相対性理論の解説や、数式による「四次元の代数的考察」、アインシュタイン自身が執筆した「幾何学と経験」などが掲載されている。思わせぶりなキャッチコピーで強引に読者をつかまえ、まっとうな物理学の世界に引きずりこもうという魂胆が丸見えだ。
 この本に限らず、佐吉はよくその手を使った。東西の古典や神話、文学作品を引用しながら読者を科学へと導いた。というより、科学そのものにロマンを見いだし、科学に軸足を置いて、科学を文学していたのだ。それは文学に軸足を置きながらも、科学と重なる領域で独自の作品を制作した賢治の姿勢に通底するものだ。
 二人のつながりを証明する証拠を、つい先日、偶然見つけた。九月に花巻で開かれた宮沢賢治学会で研究発表を行った帰途、賢治が住んでいた「羅須地人協会」を訪れると、連れ合いが「あっ」と叫んだ。賢治が描いた教材絵図「原子・分子と岩手県」が展示され、解説に、祖父の『通俗電子及び量子論講話』が出典だと記されていたのだ。祖父の本では原子を拡大して太陽系と重ね、賢治はそれを岩手県と重ねていた。『宮澤賢治科学の世界 教材絵図の研究』(宮城一男他 筑摩書房1984)からのコピーだった。
 賢治が祖父の相対性理論の本を読んだかどうかはわからない。けれども、祖父の手がけた本を読んだことだけは確かなのだ。
 わたしが今生で賢治の本を読んだということは、ただ読んだというそれだけで「このからだそらのみぢんにちらばれ」と祈った賢治の魂の微塵が、わたしに宿ったということだと感じている。ならば、会ったこともない祖父も、賢治という魂を形成する無数の微塵のひと粒として、賢治に宿ったのかもしれない。それが巡り巡って、わたしに届いているのかもしれない。実は、まるでそれを証明するかのような、不思議な出来事があった。
 雑誌「新青年」の編集長だった森下雨村は、昭和九年の雑誌「衆文」に「科學小説出でよ」という一文を寄せている。「日本の少年讀物に欠けてゐるのは科學小説」であり「海野十三君、もしくは寮佐吉君あたりが、この方面に手をつけてくれゝば、面白いものが出來はしないかと思ふ」と呼びかけている。佐吉がそれに応えたという記録は、残念ながら見つかっていない。しかし、宮澤賢治の影響を受けて書いた、わたしのはじめての小説『小惑星美術館』は、まさにその「少年科学小説」だったのだ。書いた時は、祖父がどんな人か、全く知らなかったというのに。
 それを思うと魂の不思議を感じないではいられない。生物学者ドーキンスいうところの文化を伝達する遺伝子「ミーム」という、魂の微塵の不思議を。それはオカルトとはまったく無縁な存在だが、それ以上に神聖な光を放ち、いまも人々の間を巡っている。

⇒『一冊の本』2005年11月号(朝日新聞社)
⇒祖父の書斎/科学ライター寮佐吉


■渚の陶片たちが語りかけること/公明新聞 2005年10月14日

掌で弄んでいると遠い時代の人の手と心がすぐそこに

作家 寮 美千子

極上のおはじきのように

写真:鎌倉・材木座、由比ヶ浜で拾った陶片(撮影筆者)
 鎌倉は七里ヶ浜で、青い模様のついた陶片をはじめて拾ったのは、もう十五年以上も前のことだ。貝殻や小石の溜まった場所にそれはあった。波に洗われ、すっかり角がとれて、やさしい丸みを帯びていた。一目で古い伊万里の破片だとわかった。たかが、かけら。しかし、それは、わたしのためだけに用意された、極上のおはじきのように思えた。
 以来、海岸に行くと陶片を探すようになった。そのつもりで見ると、ずいぶんとあるものだ。紀州の古い港町、四国の小さな漁村、房総や湘南の海水浴場にも、探せば必ずあった。一個や二個のこともあったが、鞄が重くなるほど見つかって、困ったことさえある。
 幼い頃、それがわたしの宝物にならなかったのは、そんなものがあるとは知らなかったからだと気づいた。知らないものは見えない。逆に一度知ると、どこに行ってもよく見えるようになる。
 その証拠に、知人の坊やは、わたしの家で陶片を見た直後、カヌー教室で訪れた相模川の川原で、美しい印判や染付けの陶片を拾い、わたしに自慢気に見せてくれた。それはいま、彼の宝箱の中に大切にしまわれている。
 そう、川原でも見つかるのだ。昔、人は茶碗が欠けると川原に捨てたという。それが流れ流れ、時の果てで海岸に打ちあげられる。

染料や模様に時代の面影

 拾える陶片の時代もいろいろだ。呉須という天然染料で描かれた穏やかな青の染付けは、主に江戸期のもの。日用雑器だが、職人が一つ一つ手で描いたものだ。何千何万と描いたからこそできあがった勢いのある線が美しい。
 明治になるとベロ藍という合成コバルト染料が外国からふんだんに入ってくるようになる。目に突き刺さるような鮮やな青が、器一面に、くどいほど敷きつめられているのが特徴だ。それも、かけらになればみな可憐だ。みじん唐草、萩唐草、蛸唐草、青海波など、典型的な模様の陶片たちは、その色鮮やかさゆえ、砂浜で真っ先に目に飛びこんでくる。
 大正、昭和と時代が進むと、銅板印刷が開発されて、細かい模様が描かれるようになる。時代を感じさせるモダンな意匠など、集めれば、当時の流行が見えてくるのも楽しい。
 古いものでは、七百年以上も昔の北宋南宋の青磁片も見つかる。かけらになっても、吸いこまれてしまいそう翡翠色の釉薬の美しさは変わらず、凛とした気品を保っている。

後の時代に何を手渡せるか

 陶片たちは、もう壊れているのだから、いまさら壊す心配もいらない。様々な模様を収集できることも楽しみの一つだ。掌で弄んでいると、遠い時代の人の手と心をすぐそこに感じる。大皿のなかで目立たなかったはずの小さな花や蝶が、そこだけうまく残っていたりすると、なんともいえずにうれしい。
 以前は、海へ行ったついでに陶片を拾ったのだが、最近は陶片目当てで、わざわざ海へ出向くようになった。渚には、小石や貝殻や流木ばかりでなく、プラスチックや発泡スチロールも流れついている。ほんの百年前には、世界中のどこの海岸にもなかったものだ。
 これから百年二百年の後、わたしたちは何を残すことができるのだろう。海岸陶片のように、壊れて破片になってもなお美しく、人の心を慰めてくれるようなものを、わたしたちは、未来に手渡していけるのだろうか。

(りょう・みちこ)

※海岸に打ち寄せられた物を拾い集めて楽しむ「ビーチコーミング」の愛好家が集う日本漂着物学会の総会が2005年10月29、30日に神奈川県葉山などで開かれる。会員以外も参加可能。詳細はhttp://sunabi.com/drift/tokyo.htm

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■イオマンテ アイヌの儀礼に学ぶ知恵/公明新聞文化欄 2005年4月22日

寮 美千子

―命と真正面から向き合うことで 代えがたい尊さを心と体から実感―

 命の実感が薄い、としか思えない事件が相次いでいる。ネットで知りあった青年たちは誘いあって集団自殺をし、幼い子が身の毛もよだつような殺人事件を起こす。「どうして人を殺してはいけないの」という子どもたちの問いに、大抵の大人は即答できない。
 できなくて当然だ、とわたしは思う。当たり前のことを「なぜ」と問われて、すぐに答えられる人などいない。「人を殺してはいけない」というのは、実につい先日まで、言葉にする必要もないほど当たり前のことだった。
 なぜ当たり前だったのか。それはきっと「死」が身近にあったからではないか。漠然とそう考えていたが、「イオマンテ」を主題とした絵本を作るために、アイヌの古老たちに取材をして、その思いを新たにした。
 昔、アイヌの人々は冬の終わりに穴熊狩りを行った。熊は冬眠中に子どもを産むので、穴の中には子熊がいる。母熊は獲物にするが、子熊は「熊の神さまからの預かりもの」として村に連れ帰り、家族同然に大切に育てる。そして、一年か二年の後、母熊のいる神の国に送る。つまり、その命を奪うのだ。
 その時に、村をあげて盛大な祭りを行う。それがイオマンテだ。祭りでは、殺した子熊の肉を食べる。肉と毛皮は、熊の神が人間にくれた「贈り物」とされているからだ。
 その概要だけを見ると、いかにも残酷に思える。実は、わたしも最初はそう思った。
 ところが、実際にアイヌの古老たちに話を聞いて回って、まったく逆のことを感じた。 イオマンテとは命を深く慈しむ儀礼。子熊を殺すとき、人々は苦しみ、悲しみの涙に暮れ、叫ぶように歌うという。それなのに、なぜ、そんなことをするのか。それに明確に論理で答えられる人はいなかった。けれど、彼らの存在そのものが、その答えを語っていた。
 アイヌの古老の誰もが、心の深いところから、溢れるような感謝の気持ちを持っていた。それは、わたしたち人間に生きる糧を与えてくれる、自然への深い感謝の気持ちだ。
 アイヌの人々が感謝を捧げるのは、熊の神ばかりではない。川や森に溢れるほどいたという鮭や鹿を捕ったときも、必ず短い祈りの言葉を捧げたという。植物にも命を感じ、春一番の山菜をいただくときにも、感謝の祈りを捧げた。それどころか、鍋やお椀などの道具にも命があると考え、大切に扱い、壊れれば送り儀礼も行ったという。
 イオマンテとは、一切れの肉がどこからやってくるのか、どんな犠牲の上に我々にもたらされるのか、命と真正面から向きあい、共に確認するための儀礼ではないだろうか。
 別れの痛みを深く胸に刻むからこそ、人は、子熊が大切な命と引き替えに手渡してくれた肉や毛皮を、心底ありがたく思う。鮭も鹿もアワもヒエも、その子熊と何ら変わらない命。みんな、その命と引き替えに、わたしたちに「贈り物」を手渡してくれるのだ。一粒のアワだって無駄になどできない。
 ましてや、無数の命によって支えられている「わたし」という命をおろそかにすることなど、できるはずもない。人はみな、自分一人の命を生きているのではない。命を支えるために犠牲になった無数の命を生きているのだから。それを頭だけではなく、心と体で理解したとき、きっと人は自ら命を絶つことも、人を殺すことも、できなくなるのではないか。
 イオマンテという儀礼がほとんど行われなくなった今も、アイヌの古老たちは、命への深い畏敬の念を失わずにいる。彼らの中を脈々と血のように流れるアイヌ文化に、多くを教えてもらった。感謝と共に絵本『イオマンテ めぐるいのちの贈り物』を、今を生きる子どもたちと大人たちに手渡していきたい。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4894190311/harmonia-22


■アイヌ文化に命の尊さを学ぶ イオマンテの儀礼/産経新聞 2005年3月26日

寮 美千子

 先住民文化がブームだ。「自然と共生する人々」という美しいイメージで縁取られ、時には縄文とのつながりの中で強い憧れを持って語られる。
 実は、わたしも安易にその流行に乗った一人だった。まず、アメリカ先住民に興味を持ってアリゾナの居留地を訪れ、次に、日本の先住民であるアイヌに目を向けた。
 そして出会ったのが「イオマンテ」と呼ばれる熊送りの儀礼だった。
 アイヌは、山で生け捕りにした子熊を村に連れ帰って大切に育てる。そして、一年か二年の後に殺し、その肉を食べる。その時、村をあげて行う祭りがイオマンテだ。
 その背後には、こんな世界観がある。熊のカムイ(神を示すアイヌ語)は人間と同じ姿で熊の神の国に住んでいて、気が向くと、毛皮と肉をコートのように羽織り、やおら熊の姿となって人間の里に遊びにくる。熊は、喜んで人間に殺され、みやげとして持参した肉と毛皮とを、人間に手渡すのだ。

 なんという人間本意の身勝手な考え方だろうか、と最初は思った。熊は、人間に肉や毛皮を与えるために生きているわけではないのに。憧れの先住民文化は、人間中心のエゴイスティックな文化だったのかと落胆した。
 しかし、さらによく調べていくうちに、それは大きな間違いだったと気づかされた。そのことを身をもって教えてくれたのは、アイヌの古老たちだった。
 彼らは口々に、子熊の愛らしさ、子熊と暮らした日々の楽しさを語ってくれた。そして、イオマンテで子熊と別れるつらさを、目に涙さえ浮かべて語ってくれたのだ。
 わたしは、心底ほっとした。神話世界では、母熊の許へ送りかえすことになってはいても、現実には、やはり身がちぎれるほどつらいのだ。
 けれど、なぜそのようなつらさをあえて引き受けるような儀礼を、アイヌは持っているのだろう。その「なぜ」に論理的に答えられる人は、いなかった。しかし、彼らの存在そのものが、わたしに答えを示唆してくれた。
 わたしが出会ったどの古老も、自然と生命に対して深い畏敬の念を抱いていた。細胞の一つ一つにまでしみこんでいるのではないかと思われるほどのその感覚が、話していると、ひしひしと伝わってきた。そのなかで、わたしはこう感じた。
 確かに、わが子同然に育てた子熊を殺すことはつらい。けれども、だからこそ、人はその命の重さを実感する。ひと切れの肉が、どのような犠牲の上にここにあるのかを、嫌というほど思い知らされる。イオマンテとは、それを共同体で確認するための儀礼ではないのか。祭りという形で、共同体全体で、あえて命そのものと真摯に向き合ったのではないだろうか。
 そこで奪われる熊の命の重さは、人の命の重さと変わらない。だからこそ、神話世界の熊のカムイは、人と同じ姿をしているのではないだろうか。

 イオマンテでは、死を隠さない。人々の輪のなかで子熊に矢を放ち、二本の丸太で首を挟んで、息の根を止める。それゆえ、この儀礼は「残酷である」という理由で、ほとんど行われなくなった。
 しかし、本当に残酷なのは、どちらだろう。ひと切れの肉の背後にある命に思いを馳せることも感謝もなく、飽食し、平気で食べ物を捨てる現代人の方が、よっぽど残酷なのではないか。
 子熊の命を奪った後、アイヌの人々は感謝の気持ちをこめ、熊のカムイを心からもてなす。歌や踊りで楽しんでいただき、たくさんのみやげ物を捧げ、それを神の国に持ち帰っていただくのだ。
 アイヌが感謝の祈りを捧げるのは熊ばかりではない。彼らにとっては、万物がカムイ。大地の底から湧いてでてくるほど豊富にいたという兎や鹿をしとめても、必ず祈りの言葉を捧げたという。さらには、植物にも祈りを捧げる。植物も命ある存在。神の国では人と同じ姿で暮らしていると考えられているのだ。
 イオマンテは、食物連鎖の頂点に位置する熊に祈りを捧げることで、万物への祈りと感謝を象徴する儀式なのだろう。


http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4894190311/harmonia-22


■元気な歯で宇宙をかじろう―りんごと銀河と望遠鏡―/歯科広報・佐用郡「8020だより」22号(2005年3月)

寮 美千子

 食べる、というのは、考えてみれば不思議なことだ。目の前にあるまっ赤なりんごが、ガリリとかじられ、噛み砕かれ、呑みこまれた瞬間に「わたし」になる。米も魚も菜っぱも「わたし」になる。もし、食べられた者たちが前世の記憶を持ち続けるとしたら、わたしの心はきっと、いろいろな記憶で溢れかえって、絢爛たる万華鏡になるだろう。
 たとえば、りんご。りんご畑を潤したやわらかな雨、木を育んだまっ黒な土、葉をそよがせたやさしい風。そして、まばゆい太陽の光。満天の星を見あげ、小鳥のさえずりや虫の音を聴きながら、りんごの木はたくさんの実を実らせた。そのすべての記憶が、たった一個のりんごの中にある。
 りんごを食べるとは、そんな記憶のすべてを食べること。「わたし」という存在は、雲や雨や土や光という、地球の物質の巨大な巡りに結んだひと滴の露だと知ることにほかならない。つまり、ガリリとかじる一個のりんごは、地球そのものなのだ。
 その巡りが、実は宇宙規模のものであると教えてくれたのが、現代天文学だ。そもそも地球そのものが、星が生まれ、砕け、また生まれるという大循環の中に結んだ小さなひと滴だという。死んだ星のかけらをかき集め、新たな命を得たのが地球。つまり、わたしたちはみんな、星のかけら。ガリリとかじるりんごも、やっぱり星のかけら。それは、宇宙の記憶を食べることでもある。想像力をはばたかせれば、ひとかじりのりんごに、わたしたちは銀河を感じることさえできるはずだ。
 二〇〇四年十一月、西はりま天文台に公開望遠鏡では世界一という、口径二メートルの巨大望遠鏡が誕生した。宇宙は、わたしたちのふるさと。国境も民族も宗教も超えたあらゆる人の共通のふるさとであるということを、望遠鏡はわたしたちに静かに語りかけてくれる。なんという深い心の体験だろう!
 目の前のりんごが、地球そのものだと感じられれば、だれも地球を汚そうとは思わないだろう。星を見るとき、そこが遠いふるさとだと感じられれば、人はきっと、この地上での愚かな戦争をやめることができるだろう。
 一個のりんごは地球であり銀河である。それをきちんと味わうには、何といっても歯が大切。歯を大切にすることは、地球を大切にし、人類を平和へ導く、第一歩に違いない。

http://www.kouiki.sayo.hyogo.jp/kouiki/8020dayori/8020_22/


■神話になった少年/『ユリイカ』2003年12月号 特集=星野道夫の世界

寮 美千子

 いつしかあることが気にかかり始めた。それはヒグマのことだった。自分が生きている同じ国で、ヒグマが同時に生きていることが不思議でならなかった。(中略)満員電車に揺られながら学校に向かう途中、東京の雑踏を歩いている時、ふとそのことが頭に浮かんでくるのである。今、この瞬間、ヒグマが原野を歩いているのかと……。
(『星野道夫著作集4』、二〇〇頁、「悠久の時間」より)
 少年だった星野道夫が、電車に揺られながら、遠い山のヒグマを思っていた頃、少女だったわたしは、中学校のプールサイドで抜けるような青空を見あげ、遥かな宇宙を思っていた。一九六九年七月。人類がはじめて月に足跡を残した夏、十三歳だったわたしは、まばゆい青空がどこから暗い宇宙の闇に変わるのだろうかと、焦がれるような気持ちで見あげていた。
 人類が月へ行くなんて、不思議な気分だった。大好きなおとぎ話の月に、人類が足跡を残す。土足で心の奥の神聖な場所に踏みこまれたような思いがする一方で、彼方にある未知のものに実際に手が届くことに、強い驚きと興奮を感じていた。心の内側に広がる物語の宇宙と、心の外側に厳然と存在する現実の宇宙。物語と現実のふたつの世界が激しく矛盾する。矛盾しているのに、その両方に、たまらなく惹かれる自分がいる。自分という小さな器のなかに、相反する二つの世界を抱え、どう受けとめていいのかわからなくて、わたしは奇妙な居心地の悪さを感じていた。
 その夏、十六歳だった星野道夫は、たったひとりで、北米大陸を目指した。移民船アルゼンチナ丸で太平洋を渡り、ヒッチハイクの旅に出たのだ。はじめて踏むアメリカの大地。それは、十六歳の少年にとって、人類がはじめて月に降りたつことと同じ重さとときめきを持っていたことだろう。
 遠方への想像力。それは、自分が存在する「いま・ここ」を超えた遥かなるものへの思いだ。「恋」にも似た、未知なるものへの強い憧れだ。人生を歩みだすはじまりの季節に、そんな憧れに出会うことができた者はしあわせだ。星野道夫は、その憧れのままにまっすぐに人生を歩み、アラスカへ渡った。写真家になろうとして、その題材にアラスカを選んだのではない。アラスカと関わり続けるために写真家になったのだ。そのことは、彼自身が繰りかえし著作のなかで語っている。恋する相手とどうやって終生いっしょに暮らしていくか、その手段として写真家という職業を選んだのだということが、彼の言葉の端々から手に取るように伝わってくる。いじらしいまでの、恋する若者の姿だ。

 『アラスカ 光と風』は、一九八六年、星野道夫三十四歳の時に出版されたはじめての著作だ。それは、驚くべきみずみずしさに満ちている。恋焦がれたアラスカに足を踏みいれた彼には、撮るべき写真も、語るべき言葉も山のようにあった。「ぼくの好きな人は、こんなにすてきなんだ」と、大声で叫びながら走っていく少年のような、目を瞠るほどまっすぐな気持ちがまぶしい。
 ほんとうにこの本には、いたるところに「はじめて」がちりばめられている。はじめてのアラスカ、写真で見ただけの小さな島シシュマレフに降りたったはじめての一歩、村人とはじめて交わす言葉、はじめて嗅ぐ村の匂い……。人生のなかに一度しかない「はじめて」が次々に立ちあらわれ、そのたびに感じる胸のときめきが、鮮やかに立ちあがってくる。出会うものすべてが「はじめて」である子どもの時間に似た輝き。
 それは、星野道夫が撮った、生まれたばかりのカリブーの子どもの姿に重なる。
 まだうぶ毛におおわれたような子どもは、川を渡り終えると、まるで踊るように飛び上がりながら真すぐこちらへ走ってくる。一体何がそんなに嬉しいのだ。暖かい夏の陽光か、それとも、何となく思いきり大地を蹴ってみたかったのか。
(『星野道夫著作集2』、四四頁、「イニュニック〔生命〕」より)
 星野道夫の写真を見て、思いが溢れ、思わず言葉が口を衝いて出てくることがある。例えば、生まれたばかりのカリブー。まだへその緒をつけたまま、よろよろと立ちあがって懸命に母親の乳首に吸いつこうとしている。母親は胎盤を食べている。一刻も早く群れに戻らなければ、狼や熊の餌食になる。誕生の歓びと裏腹の自然の過酷さ。母親の、つやのない毛皮が気にかかる。思わず「がんばって」とつぶやいている自分がいる。この親子の無事を祈らずにはいられない。それはきっと、シャッターを押した瞬間の星野道夫の祈りだったのではないか。そう感じさせる力が、彼の写真にはある。その時それを見た瞬間の彼の心が、自分の心に重なるような気がする。
 それだけではない。恋人の眼差しで見つめ、見つめられた者が心を許した瞬間にしか撮れない写真があるように、アラスカもきっと、星野に心を開いたのだ、と感じさせられる。そこに写っているのはアラスカと星野道夫とのしあわせな関係だ。だから、心が震える。
 星野道夫のその驚きの心は、時を経ても、一向に磨滅しなかったのではないだろうか。世界に向きあうたびに、彼は何かを発見し、驚きの声をあげているように感じられるのだ。

 通学電車に揺られてヒグマを夢見た少年は、そうやってアラスカをベースに活動する自然写真家になっていった。
 けれども、プールサイドで宇宙の闇を夢見たわたしは、天文学者にも宇宙飛行士にもならなかった。なろうと思ったことさえなかった。迷いだらけの凡庸な人生を送って、書くべき確かなバックボーンを何ひとつ持たない、しがない物書きになった。
 人は、どうやって「その人」になるのだろう。星野道夫は、どうやって星野道夫になったのだろう。
 多くの選択があったはずなのに、どうして自分は今ここにいるのか。なぜAではなく、Bの道を歩いているのか、わかりやすく説明しようとするほど、人はしばし考え込んでしまうのかもしれない。誰の人生にもさまざまな岐路があるように、そのひとつひとつを遡ってゆくしか答えようがないからだろう。
(『星野道夫著作集3』、一四〇頁、「旅をする木」より)
 確かにそうだ。いわゆる普通の人生において、右に行っても左に行っても変わり映えのしない分かれ道があったとき、たまたま選んだ道が結果的に後の人生を決定づけてしまう、ということはよくある。
 けれど、星野道夫の場合、それは少し違うのではないか。アラスカにまっしぐらに向かう意志、のようなものが最初から揺らがずにあったように感じられて仕方ない。確かに、大切な友人が山で不慮の死を遂げたことは、彼の人生に大きな影響を与えただろう。彼はその時、命のはかなさを知り、一度しかない人生を「好きなことをやって生きよう」と決意したという。
 しかし、その「好きなこと」が、これほどはっきりと迷いなくある人生は稀だ。自分がほんとうは何をしたいのか、それを探すだけで一生を終える人も、また、探すことさえなく終える人も多いというのに。
 わたしが驚くのは、星野道夫の迷いのなさだ。はっきりと志向する心だ。しかも、それが「いまいるこの場所、この自分からの逃避」というネガティブなものではなく、ひたすらまっすぐに「憧れ」を追い求めていくポジティブな力だということだ。傷を感じさせない無垢な心のまま、ひと欠片の憂いもなく、夢を実現しようとする前向きな力。
 十六歳の時、アルゼンチナ丸でロサンゼルスの港にひとり降りたった時のことを、星野道夫はこう書いている。
 町から離れた場末の港には人影もまばらで、夕暮れが迫っていた。知り合いも、今夜泊まる場所もなく、何ひとつ予定をたてなかったぼくは、これから北へ行こうと南へ行こうと、サイコロを振るように今決めればよかった。今夜どこにも帰る必要がない、そして誰もぼくの居場所を知らない……それは子ども心にどれほど新鮮な体験だったろう。不安などかけらもなく、ぼくは叫びだしたいような自由に胸がつまりそうだった。
(『星野道夫著作集3』、一四二頁、「旅をする木」より)
 わたしならきっと、不安に胸潰れる思いがしただろう。しかし、星野道夫は違った。楽天的、などという生やさしい言葉ではとても足りない。不安よりも百万倍も大きな歓びが、不安の存在すらかき消す。神々しいまでの恐れのなさ。
 アラスカに本拠地を移し、カリブーの季節移動を求めて、いよいよひとりでブルックス山脈に入ろうとする時も、彼は同じことを感じている。セスナ機が、一ヶ月半の後に彼を迎えに来ることを約束して飛びたった後、彼は思う。
 さあ、もうひとりぼっちだと思うと、自分で自分を元気づけたくなる。とともに、それとは裏腹の、叫びだしたいような解放感があった。
(『星野道夫著作集1』、五一頁、「アラスカ 光と風」より)
 こんな資質がなければ、とても星野道夫のような仕事はできなかっただろう。容易に人を寄せつけない山脈や氷河に入り、たったひとりで一ヶ月以上を過ごすなど、並大抵の人間にできることではない。そうやって持ち帰った「遠い自然」の消息を、星野道夫は、都市でしか呼吸できないわたしたちに、贈り物のように届けてくれた。
 それは、自然から遠く離れてしまい、そのつながりも流れも感じることのできなくなってしまったわたしたちに、どれだけ大きなものを与えてくれたことだろう。アラスカの山の峰から流れてくる清冽な水のように、星野道夫の写真と言葉は、都市生活者の心を洗い、潤してくれた。自分と大地とのつながりを、もう一度考えるきっかけを与えてくれた。

 これほどまっすぐに夢見る力を持ち、それを実行する力を持った人間は実に稀だ。わたしの人生のなかで、そんな人に出会ったのは、ただ一度だけ、カルカッタで会ったマザー・テレサだった。たったひとり、修道院を出て、カルカッタの路上で貧しい人々を救おうとしたとき、彼女のポケットにはわずか五ルピーしかなかったという。なんのツテも手がかりもないままに、彼女はまっすぐに街のなかへ歩みだした。
 それを支えたのは信仰の力だったかもしれない。しかし、信仰を持つ人すべてが、彼女のように行動できるわけではない。自己を信じ肯定する力、強く憧れる力、そして並外れた実行力。その資質がひとつになって、ひとりの修道女は、はじめてマザー・テレサになりえたのだ。
 それと同じ力が、ひとりの少年を「星野道夫」にしたのだと思う。決して偶然ではなかった。岐路をたどった結果ではなかった。電車に揺られながら遠い山のヒグマを思ったその時から、星野道夫は、すでに確固として星野道夫だったのだろう。それは「持って生まれた資質」としかいいようがないものかもしれない。
 もしかしたら、と思う。星野道夫にとって、アラスカは巨大な聖堂だったのではないか。聖なる大地アラスカ。想像もつかないほど大いなる存在。「遠方への想像力」は、限りなく信仰に近い。
 いや、星野道夫だけではない。ある憧れを持ってアラスカへ移り住んできたすべての人にとって、アラスカは巨大なる聖堂だったのかもしれない。
 とはいっても、アラスカの自然は過酷だ。教会のように誰でも受けいれてくれるわけではない。単なる憧れだけでは、とてもアラスカ暮らしはできないだろう。冬のきびしさに舌を巻いて逃げだす人もいれば、幾冬かを越しただけで満足して去っていく人もいただろう。残った人々は、心底タフな心と体を持った、アラスカを深く愛する人々だ。
 つまり、彼らはただそこに暮らしているというだけで、すでに通底する何ものかを持っているということになる。星野道夫が出会った人々は、自らアラスカで生きることを選びとり、何かを掴みとってきた、純粋で強い意志を持った人々だったはずだ。
 だからこそ星野道夫は、国境も人種も越えて、アラスカ暮らしの先輩たちに許容されたのではないだろうか。アラスカを深く愛する仲間として。
 「いや、星野道夫が、心底純粋でやさしい、すばらしい人間だったからだ」という人もいるだろう。そうなのかもしれない。
 先日、はじめて彼のインタヴューの録音を聞く機会があったのだが、その声も語り口も、驚くほどやわらかく、星野道夫という人の無垢な魂を感じさせるものだった。その声を聞いているだけで、心の深いところが自然と和むような声だった。そのやさしさはどこか、マザー・テレサの底なしの包容力を髣髴とさえさせた。
 しかし「いい人」なのは星野道夫だけではない。事実上の星野道夫の追悼映画となった『地球交響曲 ガイアシンフォニー第三番』に登場する、アラスカの星野道夫の友人たちも、みな彼に負けないほど無垢な魂を持った人のように感じられた。
 わたしには、それはどこか、同じ信仰を持つ者たちのようにも感じられてならないのだ。
 そして、実はそれがわたしに、小さな息苦しさを感じさせる原因にもなっている。同じ信仰を持てば、限りなく許されるけれど、そうでなければやんわりと排除されるような、そんな匂いをどうしても感じてしまうのだ。
 それは、星野道夫その人や、彼の遺した仕事に感じる、というより、むしろ、彼の死後、大きな潮流のようにして湧きあがった星野道夫をめぐる一連の動きに対して感じているといったほうがいいのかもしれない。熊に襲われるという衝撃的な死の後、彼の物語は過剰に神話化されているように感じられてならない。そして、その神話を信仰のように求める人々がいる。気持ちはわかる。でも、その雰囲気に、わたしはどうしてもなじめない。
 そんなふうに感じるのは、単にわたしがへそ曲がりだからかもしれない。自分が、そのように純粋になりえないという嫉妬からかもしれない。けれど、わたしの内的事情ばかりでないところにも、多少の原因があるのかもしれないとも思う。そのことを、もう少し考えてみたい。

 その前に、わたし自身と星野道夫との出会いを語っておこう。わたしが「星野道夫」という名を強く意識したのは、残念ながらその訃報を聞いたときだった。「動物写真家・星野道夫氏、テレビ局の取材で行ったカムチャツカで、熊に襲われ死亡」という報道だった。
 正直いって、わたしはその時「自然に対して充分に敬意を払わなかったのではないか」という印象を抱いてしまった。星野道夫がどんな仕事をした人なのか、よく知らなかったのに、いま思えばたいへん失礼なことだったと深く反省する。
 彼が、アラスカの大自然の写真を撮っている人だということは知っていた。「ナヌークの贈りもの」という絵本も手にとって見たこともあった。しかし、わたしにはピンとこなかった。命の連鎖を語ろうとする絵本であることはよくわかったけれど、その言葉は観念的に過ぎるように感じられた。写真だけ見ればまるで「かわいいシロクマさんの絵本」に見えてしまうことも不満だった。食べたり食べられたりするぎりぎりの関係が見えてこない。言葉だけが一人歩きしていて、なんだかちぐはぐに感じていた。
 訃報が報道されて間もなく、わたしはセント・ギガという衛星放送ラジオ局の仕事で、サウンド・デザイナーの野川和夫氏と取材旅行に出ることになった。いまでもよく覚えているが、野川氏は飛行機に乗りこんだとたん、堰を切ったように亡くなった星野道夫のことを話しだした。誰かに話さずにはいられない、という感じだった。野川氏は、一九九一年、セント・ギガの仕事で、東京とアラスカで、星野道夫にインタヴューをしていたのだ。この時のインタビューの一部は、当時セント・ギガで放送された。 
 野川氏から、星野道夫の人柄、仕事ぶりなどを聞き、わたしは自分のイメージが間違っていたのかもしれないと思いはじめていた。
 カムチャツカの事故の詳しいことも、野川氏から伝え聞いた。テレビ局の人々と同じ小屋に泊まらず、単独でテントを張っていて熊に襲われたという話だった。クリル湖畔に棲息する熊は、観光客やテレビの取材班など人間と触れる機会が多く、人間との適切な距離感を失っている可能性があったかもしれないという。
 そんな状況下、星野道夫は、なぜあえて単独でテントを張ったのか。都市の匂いをさせた人々といることよりも、カムチャツカの大地を選びたかったのだろうか。
 話を聞くほどに、それは自然への敬意を欠いて起こった事故ではなく、逆に自然と限りなく一体化しようとした末の大変不幸な事故のようにも思われ、胸が痛かった。
 その年の十一月、偶然、然別湖を訪れることになった。凍りはじめた湖の岸辺には、不規則な氷の欠片が打ち寄せて美しい幾何学模様をつくっていた。然別湖のネイチャー・センターでは、真冬に凍った湖の上で行う星野道夫写真展の準備が進められていた。写真展は、生前から準備されていたものだという。事故ゆえに、追悼展になってしまったと、悔しそうに話した担当者の表情が忘れられない。その時、わたしは、氷の上の展覧会を必ず見に来ようと決意した。
 だから、わたしにとって星野道夫の写真とのほんとうの出会いは、凍った湖の上だった。どこまでも平らな氷の上に、数十メートルおきに展示された巨大な写真。晴れた日の青空の下でも見たし、夕暮れの光のなかでも見た。クロスカントリーから戻る吹雪のなかでも眺めた。それは、わたしにとって、東京の空調の効いたヴァーチャルな空間で出会うよりも、ずっとしあわせな出会い方だったと思う。写真の放つ光が、鋭い寒気とともに、心だけではなく体にも深く染みこんでくるように感じられた。
 それから、わたしは少しずつ星野道夫の写真と文章に触れるようになった。
 星野道夫の言葉に、電撃のように打たれたのは、一九九八年、福音館書店の月刊絵本として「クマよ」が出版されたときだった。「クマよ」というタイトルに続き「いつか おまえに 会いたかった」とはじまるその最初のページを開いたとたんに、胸が衝かれる思いがして、思わず涙が溢れてきた。そこには、大きな熊の顔が写っていた。やさしげにみえるその熊の手には、鋭い爪もくっきりと写っていた。熊に殺された星野道夫の遺作である絵本の一行目が、熊に語りかける「いつかおまえに会いたかった」という言葉であるということに、どうしたらいいかわからないほど心が揺さぶられた。絵本は、こう続いていた。
遠い 子どもの日/おまえは ものがたりの中にいた/ところが あるとき/ふしぎな体験をした/町の中で ふと/おまえの存在を 感じたんだ/電車にゆられているとき/横断歩道を わたろうとするしゅんかん/おまえは/見知らぬ 山の中で/ぐいぐいと 草をかきわけながら/大きな倒木を/のりこえているかもしれないことに/気がついたんだ
(星野道夫・文/写真『クマよ』より)
 それは、少年の日に星野道夫が感じたそのままの素直な言葉だ。さらにページを繰ると、熊が点景に入ったアラスカの広大な風景写真が続く。
ぽつんと おまえがいるだけで/風景は/なんだか もう いっぱいだ
(同前)
 熊は、熊そのものだけで生きているのではない。広大な自然という背景があって、はじめて熊が生存できる。その背景を含めて熊なのだ。星野道夫の写真は、その自然という背景も含めて熊を撮っている。熊が、人や獣を襲って食べる猛獣であるという緊張感も含めて、限りない愛しさで見つめている。
 それが、なんと端的に表わされた写真であることか、そして言葉であることか。
 それは『ナヌークの贈りもの』にあったような観念的な言葉ではなかった。少年の日に心に熊を感じたそのことからはじまり、星野道夫がアラスカで得た自然観が、自然体のまま、だれにでも通じるやさしい言葉でリアルに、かつ驚くほど詩的に表現されていた。
 ほんとうに星野道夫が書いたのだろうか、と疑う気持ちが湧きあがるほど、完璧な出来だった。福音館書店の知り合いの編集者に聞くと、確かに星野道夫の遺したメモに基づいて制作されたものだという。
 それまで、星野道夫の著作はぽつりぽつりと虫食いのようにしか読んでいなかったが、興味を持って読んでみると、確かに『クマよ』に書かれた言葉は、星野道夫がその著作の中で繰り返し語っている言葉だった。それを、見事に洗練させ、結晶化させたものだった。
 語るべき何ものかを確固として持っているわけではないわたしは、語るべき自らの体験を持ち、鮮烈に表現する星野道夫の仕事を、ただただまぶしい思いで見るばかりだった。

 その反面、星野道夫を取りまく状況に、わたしは少しずつ違和感を感じてきていた。渦巻く神話の匂いと熱狂。それは一体、何なのだろう。そう思ったわたしは、手にしたまま未読だった『森と氷河と鯨』を読んでみることにした。雑誌連載された星野道夫最後の仕事だ。星野の死で、それは未完に終わっている。
 それを読んで、わたしは違和感の理由が少しわかったような気がした。今回、この原稿を書くために、改めて『星野道夫著作集』を通読してみて、その思いはさらに強くなった。

 さて、話を星野道夫の物語に戻そう。憧れを実現してまっすぐにアラスカへと向かった彼を、アラスカの大地も、人々も、快く受けいれてくれた。それは、星野道夫とアラスカとのしあわせな蜜月時代だったのかもしれない。
 未踏の谷あいをスキーを駆ってはいってゆくのはじつに楽しいものだ。自分が大きな風景の中の一点にすぎなくとも、まわりのすべての自然が自分に属しているような気がする。
(『星野道夫著作集1』、五二頁、「アラスカ 光と風」より)
 こんなすばらしい山が存在し、それを今見ているのは自分だけかと思うと、改めてアラスカの広がりを実感する。
(同前、一三〇頁より)
 誰も踏みいれたことのない大地を、いま自分が踏んでいることに、星野道夫は興奮し、胸を熱くした。しかし、ここではまだ、先住民やそこに住む生き物たちが、ほんとうの意味では、彼の視野に入っていない。動物が山を見ることと、自分が山を見ることは、別のことであると感じている人間中心主義の、無邪気な探検家の視点の星野道夫がいるだけだ。
 しかし、星野道夫はやがてそれが誤謬であったことに気づいていく。
 ぼくはかつてアラスカの未踏の原野に魅かれていた。セスナで何時間も飛び続けながら、まったく人気のない原野を驚嘆をもって見下ろしていたものだった。が、それは大きなまちがいだった。太古の昔から、アラスカの原野は足跡を残さぬ人々の物語で満ちていたのだ。
(『星野道夫著作集4』、一〇七頁、「森と氷河と鯨」より)
“木も、岩も、風さえも、魂をもって、じっと人間を見据えている”
 ぼくは、まるでひとつの生命体のような森の中で、いつか聞いた、インディアンの神話の一節を、ふと思い出していた。
(『星野道夫著作集5』、一〇五頁、「ノーザンライツ」より)
 星野道夫は気づく。「未踏」と思っていた大地が、実は先住民の大地だったことを。そして、先住民は動物たちと深い絆を持っていて、人とそれ以外の生き物は、対等な存在であるということを。すべてが命と魂を持つアニミズムの世界。星野道夫の関心は「大自然」から、そこで生きる人々の心の世界へと向かっていく。
 しかし、それは、いままさに失われつつある世界だった。近代文明との出会いが、古き世界を音を立てて壊していく。それが完全に失われる前にしっかりと捕らえたいという、使命感とも呼べるような強い思いに、星野道夫は衝き動かされていたように見える。
 しかし、先住民たちは容易にその心の底を見せない。
 「ミチオ、おまえはおれたちの言葉を話すことができない。だからしかたがないんだ」
 それは優しく拒絶するような言いかただった。
 「おれはそのことを英語では語りたくないし、試みようとも思わない。グッチンの言葉でしか伝えられない世界があることを、おまえはもう知らなくてはいけない……」
(『星野道夫著作集1』、一七八頁、「アラスカ 光と風」より)
 星野道夫は、それを知ろうとして、自ら神話の森深くに歩みいろうとした。そこで「ワタリガラスの神話」に出会う。それこそが、陸橋であった太古のベーリンジアを渡ってきたモンゴロイドを統べる神話ではないか、と直感する。
 星野道夫には、物語を遡上して物事の根本を見極めたいという強い欲求があっただろう。
 けれども、それだけではないような気もする。もしかしたら彼は、アラスカ先住民と自分自身とを直接結びつける強力な神話が欲しかったのかもしれない。自分もまた、彼らと「同じ言葉」を話す一族であると自ら確信したかったのではないか。「旅をする人」であった彼が、アラスカに腰を落ちつけ、終の棲家とするための、必然としての物語が欲しかったのではないか。
 それは同時に「わたしはどこから来たのか」「何者なのか」という根源的な問いを問うことであっただろう。そして「どこへ行くのか」という未来を示唆するものでもあったはずだ。
 ぼくは、“人間が究極的に知りたいこと”を考えた。一万光年の星のきらめきが問いかけてくる宇宙の深さ、人間が遠い昔から祈り続けてきた彼岸という世界、どんな未来へ向かい、何の目的を背負わされているのかという人間存在の意味……そのひとつひとつがどこかでつながっているような気がした。
 けれども、人間がもし本当に知りたいことを知ってしまったら、私たちは生きてゆく力を得るのだろうか、それとも失ってゆくのだろうか。そのことを知ろうとする想いが人間を支えながら、それを知り得ないことで私たちは生かされているのではないだろうか。
(『星野道夫著作集4』、八四頁、「森と氷河と鯨」より)
 ちょうどそんな時期、星野道夫はボブ・サムという先住民の語り部に偶然のようにして出会い、彼に導かれるように「雲をつかむような」旅が始まる。
 ボブは、現実の世界では見えにくい、不可解な世界の扉を少しずつぼくに開いていた。それは“ビジョン”と呼ばれる体験、すなわち霊的世界の存在だった。(中略)偶然の一致に意味を見出すか、それとも一笑に付すか、それは人間存在の持つ大切な何かに関わっていた。その大切な何かが、たましいというものだった。
(『星野道夫著作集4』、五〇頁、「森と氷河と鯨」より)
 星野道夫は、そこからぐっと「目に見えない世界」へと足を踏みこんでいく。その軸足は、滑らかに、けれども驚くべき速さで完全にそちら側に移動していく。それは、わたしをひどく不安な気持ちにさせた。そこにいるのはもう、あの大地を蹴るだけで歓びを感じるカリブーの子どものような、とことん無邪気な星野道夫ではない。霊的な世界に魅かれ、不可知な世界へとのめりこんでゆこうとするその姿は、まるでたったひとり荒野に出て、困難なイニシエーションを迎えようとしている青年ようだ。
 星野道夫は、ボブ・サムを誘って、古のトーテムポールが渚で朽ち果てようとしているクイーンシャーロット島に旅をする。白人たちがそれを博物館に保存しようとするのを、先住民は阻止している。
 「その土地に深く関わった霊的なものを、彼らは無意味な場所に持ち去ってまでしてなぜ保存しようとするのか。私たちは、いつの日かトーテムポールが朽ち果て、そこに森が押し寄せてきて、すべてのものが自然の中に消えてしまっていいと思っているのだ。そしてそこはいつまでも聖なる場所になるのだ。なぜそのことがわからないのか」
 その話を聞きながら、目に見えるものに価値を置く社会と、目に見えないものに価値を置くことができる社会の違いをぼくは思った。そしてたまらなく後者の思想に魅かれるのだった。夜の闇の中で、姿の見えぬ生命の気配が、より根源的であるように。
(『星野道夫著作集4』、二六頁、「森と氷河と鯨」より)
 星野道夫の言葉は美しい。そして神秘的だ。それゆえ、わたしの不安と違和感は、決定的なものになる。星野道夫がいわんとすることはわかる。とても深淵で魅力的に響く。けれど、ほんとうにそういいきってしまっていいのだろうか。
 大英博物館が、まるで盗賊のように、世界の珍しいものを博物学的に集めた、あのやり方は確かにひどい。そこにある文化への、ほんとうの敬意が払われていない。つまり「目に見えないものの価値」への敬意がないのだ。それは、その本来の所有者である人々の心と魂を踏みにじるような行為だった。
 しかし、だからといって「朽ち果てるまま」にすることが、ほんとうにいちばんいいことだろうか。それが真実、本来の所有者たちの心と魂に敬意を払うことになるのだろうか。
 こんな例がある。エディンバラにある国立スコットランド博物館に「マンロー・コレクション」と呼ばれる膨大なアイヌ民具のコレクションがある。これは、明治末期に来日した英国人医師マンローが、日本で収集し母国の博物館へと送ったコレクションだ。マンローは、昭和初期、アイヌ文化に興味を持って北海道の二風谷に移住、医師としてアイヌの人々を無償で診療する傍ら、民具を収集しつづけた。その興味は、単に博物学的興味に留まらなかった。アイヌの文化を深く理解しようと心を砕いていたことは、その著作からもうかがえる。アイヌの人々からも深い信頼をえていたということが、伝わっている。
 二〇〇二年、このマンロー・コレクションをベースにした「海を渡ったアイヌの工芸」という展覧会が開催された。この展覧会で画期的だったのは、現在、アイヌの伝統工芸を復活させようとしている人々が、展覧会前にエディンバラにわたり、博物館に収蔵された工芸品を調査して、そのレプリカを制作したことだった。和人によって、徹底的に破壊されたアイヌの伝統は、マンロー・コレクションの存在によって時を超え新たな形で甦った。
 「物」さえあれば、再生の可能性が残される。そこから、失われた精神を取り戻すことも、むずかしくはあるが不可能ではない。そのよすがとなる物を単に「目に見えるものでしかないから」と、その世代で失ってしまってほんとうにいいのだろうか。それは、現在そこに生きる人々だけのものではなく、未来の子孫のものでもあるのに。いや、人類すべての遺産でもあるはずなのに。
 本来の所有者だからといって、文化遺産を朽ち果てるに任せることは、例えば、自己の所有物だからといって、名画を焼いてしまうことと変わらない側面もあるのではないか。それは、所有者の、それも「いま現在の所有者」の心を満たすためのエゴではないか。
 単に博物学的な興味からではなく、その精神を深く理解をしようとする姿勢が収集者の側にあれば、もしかしたらトーテムポールは、朽ち果てさせる必要はないのではないか。そのための、相互からの歩み寄りの努力がなされるべきではないか。
 わたしは、そんなふうに考える。実際には、それはとてもむずかしいことなのかもしれない。長く不幸な歴史がつくった埋めきれない溝が、互いの間にあるのかもしれない。しかし、であればこそ、地を這うようにその溝を埋める努力がなされるべきだと感じる。「森が押し寄せてきて、いつまでも聖なる場所になる」という美しいイメージに安易に回収してしまうことで、存続の道を放棄してはいけないと思う。
 「目に見えるもの」と「目に見えないもの」を、単純な二項対立として考えているうちは、解決の糸口は見つからないだろう。目に見えるものと、目に見えないものを、どうやって重ねていくか。時として矛盾する心のなかの物語と、現実に起こっていることを、どうやって矛盾のまま抱えていくか。それが可能なほど、人の心はほんとうは寛いのではないか。そうやって矛盾を抱え続けることで、あるいは矛盾を止揚することで、人はより豊かな何かを得られるのではないか。
 いや、神話とは、本来現実と深く共振するものだったのではないか。その起源に遡り、注意深く見れば、実は物語が生じる必然が、遠い過去に事実としてあったのではないか。
 ごくわかりやすい例をひとつあげよう。アイヌはヨモギを「世界のはじめに生じた草」として、神聖で魔除けの力があるとしているが、植物生態学的に見れば、ヨモギは確かに何もない荒れ地に最初に出現するパイオニア植物なのだ。強力な薬効もある。「だから神話と現実はイコールだ」などという身も蓋もない話ではない。大切なのは、その現実を単なる事実として受けとめるだけではなく「世界のはじめに生じた草」と名づけることで、深い心の納得として内なる宇宙に位置づけることだ。そのことにより、世界も自己も、より豊かなものになる。
 だから、神話や物語を心のなかにだけ閉じこめてしまってはいけない。それは、物語を痩せさせてしまう。物語を現実とを呼応させ、共振させること。そこから、豊かな世界への可能性が開かれるのではないだろうか。
 ぼくは“遠い自然”という言葉をずっと考えてきた。北極圏野生生物保護区を油田開発のために開放すべきだと主張するある政治家の言ったことが忘れられなかったからだ。つまり、アラスカ北極圏の地の果てに一体誰が行けるのか、カリブーの季節移動を一体何人の人が見ることができるのか、そんな土地を自然保護のためになぜ守らなければならないのかという話だった。そして彼が言ったほとんどのことは正しかった。アラスカ北極圏の厳しい自然は観光客を寄せつけることはないし、壮大なカリブーの旅を見る人もいない。人々が利用できない土地なら、たとえどれだけその自然が貴重であろうと、資源開発のために使うべきではないか。
 が、私たちが日々関わる身近な自然の大切さとともに、なかなか見ることの出来ない、きっと一生行くことの出来ない遠い自然の大切さを思うのだ。そこにまだ残っているということだけで心を豊かにさせる、私たちの想像力と関係がある意識の中の内なる自然である。
(『星野道夫著作集5』、一二九頁、「ノーザンライツ」より)
 「現実」を語る政治家に対し、星野道夫は「心」の問題を語ろうとしている。世界を、外側にある現実と、内側にある心の宇宙との二項対立として捉えようとしている。
しかし、「心の物語」を語ることが、この政治家への反論として有効だとは思えない。ほんとうに「心の物語」として語ることしか、反論の道はないのか。
 熱帯雨林がそうであるように、北極圏の大自然も、地球全体の気候安定に大きく寄与している。人類が都市で破壊的な活動の限りをつくしても、地球が何とかバランスを保っていられるのは、そのように広大な自然が控えているからだ。地球のホメオスタシスにとって、なくてはならない存在なのだ。
 それ以前に、油田開発は、そこから採れた石油を燃やすことを前提としている。それは、動植物が何億年という気の遠くなるような年月をかけて回収し定着した二酸化炭素を、再び急激に空中にばらまくことに他ならない。大気の組成のバランスを崩すことをさらに加速することを意味している。
 多様化を本来とする遺伝子のプールとしての意味も見逃せない。多様な遺伝子があってこそ、地球生態系もつつがなくめぐることができる。
 そのように「現実」のなかにも、具体的な「利用価値」を見出すことができるのが、北極圏の自然だ。「観光資源」「石油資源」としての利用価値など、愚かな目先の価値でしかないと断言できるだけの現実的・科学的根拠がある。
 「現実」を語る政治家に対抗するのであれば、まずそのことを語らなければならない。「想像力と関係がある意識の中の内なる自然」という美しいイメージに回収してしまうだけでは、実効性が限りなく希薄になっていくばかりだ。
 だから「内なる自然」に意味がない、というのではない。地球を支える北極圏の自然の現実を科学的に認識し、それを内なる自然として心のなかにしっかりと位置づけること。「現実」と「神話」とを、車輪の両輪のように持つことで、わたしたちはまっすぐに歩むことができるのではないだろうか。
 星野道夫は、その晩年に「心=神話的視点」の車輪に重きを置き、「現実=科学的視点」という車輪をおろそかにしてしまったのではないか。それがゆえに彼が乗った人生という乗り物は、みるみる現世という道を逸れて、神話世界の闇へと消えていってしまったのではないか……。
 物語の風に吹かれながら、ある想いが心の中にふくらんでいた。ワタリガラスの伝説を捜しに、シベリアへ渡ろうと思った。
(『星野道夫著作集4』、一一八頁、「森と氷河と鯨」より)
 それが、わたしたちに遺された最後の言葉だった。星野道夫は、そのままふいに、だれも予想だにしなかった方法で、「目に見えないもの」と「深い闇」を指し示したまま、神話のなかへと歩みいってしまった。
 星野道夫は、神話の英雄になった。彼を失った激しい喪失感から立ち直ろうとする人々にとって、それはどうしても必要な心の仕事だっただろう。実際、彼は英雄だった。未知の世界から、命をかけて大切な何かを持ち帰り、わたしたちが忘れていた大切なものを取りもどそうとしてくれた英雄なのだ。
 強い憧れに衝き動かされて遠い世界へと旅立ったその姿も、わたしたちにもたらしてくれた遠い自然の消息という宝も、その突然の死も、すべてが英雄と呼ばれるにふさわしい。
 彼がその文章のなかで繰り返し同じ出来事を語り続けたことも、きわめて神話的な行為だったように感じられる。アラスカでの出来事は、どんなささいなことでも、きっと語るに値することだっただろう。それなのに、彼は、いくつかの限られた出来事を繰り返し語り続けた。まるで部族の語り部のように。そのなかで、イメージは純化され、結晶になった。彼の著作には、人が心の糧として抱いていけるような言葉に満ちている。あたかも聖典のごとくに。
 人々は、それを手にすることで遠い世界の消息を知り、不安ないまを生きる自分の位置を確かめることができる。
 そしてある人々は、星野道夫が最後に指し示した「目に見えないもの」と「深い闇」にさらに深く歩みいろうとする。星野道夫がしたように、軸足を速やかにそちらの世界に移動して。時にそれが、あまりに平衡を欠いたものになる不安を、わたしは感じないではいられない。
 星野道夫を、ただ美しい神話としてだけ語り継いではいけないのではないか、という思いが、わたしのなかにある。それは、物語としての側面だ。もうひとつ、事実としての側面がある。例えば、その死だ。
 われわれは、みな、大地の一部。おまえがいのちのために祈ったとき、おまえはナヌークになり、ナヌークは人間になる。いつの日か、わたしたちは、氷の世界で出会うだろう。そのとき、おまえがいのちを落としても、わたしがいのちを落としても、どちらでもよいのだ。
(星野道夫『ナヌークの贈りもの』より)
 「ナヌーク」とは、イヌイットの言葉で白熊のこと。死の半年ほど前に出されたこの絵本で、星野道夫はこんな予言のような言葉を記した。そして、シベリアからカムチャツカに渡り、熊に襲われて亡くなった。それは、深い神話的解釈をもたらさずにはいられない出来事だ。そして、確かにそのように神話的な出来事だったのだと思う。彼は、熊に食べられることで、大いなる大地の一部となり、永遠にめぐる命になった。
 けれども、その一方で、極めて現実的な解釈も存在する。「クマの中には人を襲うものもいることを自覚し、そういうクマが襲ってくる場合のことを想定し武器(鉈など)を携帯すべきであった」「鉈などで反撃していれば、生還しえたであろう」と動物学者の門崎允昭氏は指摘している。(門崎允昭・犬飼哲夫『増補改定版ヒグマ』北海道新聞社)
 門崎氏の解釈を採れば、星野道夫の死は、熊と人、ぎりぎりのところで命をやりとりしたのではなく、失わなくてもよかったはずの場面で大切な命を失ってしまったということになってしまう。もしもそうだとすれば、それはあまりにも残念で、悔しく悲しい事実だ。人命を奪った熊は、殺さざるをえない。実際に、その熊は殺されてしまった。熊にとっても人にとっても、やるせないほど不幸な出来事だ。
 このような解釈は、死者に鞭打つことのように思われるかもしれない。けれども、わたしたちはその事実から学ばなければならない。星野道夫の死を無駄にしないためにも。彼の死を美しい神話としてだけ回収してしまうと、新たな熊の事故を防ぐことができなくなってしまう。
 だからといって、星野道夫に関する神話的解釈が無効になるわけではない。彼が生きた神話は、神話として崇高に語り継がれるべきだ。ただし、過酷な現実から目を逸らすことなく、車の両輪のひとつとして。
 目に見えるものと見えないもの、現実的解釈と神話的解釈。矛盾するその両方を受けいれる心の強さと寛さとを、わたしたちは持たなければならない。星野道夫という類稀なひとりの男を、美しい神話として、そして現実の人間として、しっかりと受けとめ、正しく語り継ぐために。星野道夫が指し示した「魂の世界」を取りもどし、いまここにある現実をより豊かなものにするために。

 しかし、ほんとうにそんなことができるのだろうか、とわたしは不安になる。
 十三歳の夏、おとぎ話の月と、人類が足を踏みこんだ月、矛盾するふたつの世界を抱えて、わたしは途方に暮れていた。そのまま、わたしはいまも途方に暮れ続けているのかもしれない。
 けれども、星野道夫は語りかけてくる。神話世界から、そして現実世界から、結晶のような言葉で、美しい写真で、静かに、けれども魂を揺さぶるように力強く語りかけてくる。そのふたつを、ふたつとも受けいれる道を探せと。それが、彼が遺してくれたいちばん巨きな贈り物のように、わたしには思えてならない。

(りょう みちこ・作家)

http://www.seidosha.co.jp/eureka/200312/
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■1992夏アリゾナ 先住民の声に耳を澄まして/『詩と思想』2000年9月号

寮 美千子

1992年、機会を得てアリゾナにある先住民の居留地を訪問したことは『父は空 母は大地』(パロル舎1995)執筆のきっかけとなりました。その時のことを、後日、詩誌『詩と思想』2000年9月号に書かせてもらいました。ここに転載させていただきます。

 一九九二年、夏。わたしはアリゾナの砂漠に立っていた。ロックフェラー財団が援助しているアジアン・カルチュラル・カウンシルの助成を得ての取材旅行だった。
 旅の目的はふたつ。ひとつは、アメリカの科学技術の最先端をゆくNASAを取材すること。もうひとつは、アメリカの先住民の文化に触れることだった。アメリカの両極端を見たいと思っていた。ケネディ宇宙センターで、日本人初のクルーである毛利衛氏が搭乗したスペース・シャトルの打ち上げを見た興奮も醒めやらぬうちに、わたしはアリゾナへと向かった。
 フェニックスの空港に降りたつと、乾いた熱い風が吹きつけてきた。「夏のフェニックスは地獄よりひどい」と地元の人が自嘲気味にいう。湿った海風の吹くフロリダから来た身には一層堪える。
 しかし、この空の青さは半端ではない。青すぎて、暗く感じるほどだ。地平線までまっすぐ続く砂漠のハイウェイを、ひたすらに走る。いくら走っても、風景は変わらない。赤い砂と白い砂、そしてまっ青な空とまばらなサボテン。
 その荒れ果てた風景がぐんと貧しくなり、さらに乾いたと思ったら、そこがナバホ族の居留地だった。そして、驚いたことに、それがさらに乾燥して、もう砂と岩しかないのではと思わせる荒涼とした風景になったと思ったら、そこからがホピ族の居留地だった。
 道の脇に、大きな立て札が立っていた。
「ここよりホピ族の土地。撮影、スケッチ、録音、一切禁止。ホピ族の掟に従わないものは、追放する」
 どういうことだろうか。カメラやテープレコーダーを嫌悪する気持ちはわからないではない。しかし、スケッチまで禁止とは……。
 予約を入れておいたホピの居留地内唯一の宿泊施設「ヴィジター・センター」がすぐにわかったのは、それが村の入り口にあったからだ。想像しうる限り最高に愛想の悪いホピのレディーが受付に出てきて「村には一歩も入ってはならない」「見学したいなら、隣村へ」と念を押された。つまりここは、体のいい旅行者隔離施設のようだ。彼らにとって、観光客は疫病神同然の存在らしい。
 翌日、隣村を訪れると、入り口に観光センターという名の小屋があって、きのうよりは心持ち愛想のいい太ったおばさんが出てきたのだが、にこにこしながら「ガイドを離れては一歩も歩いてはいけない」という。お金目的ではない。その証拠に、彼らは料金を請求しない。結局、監視つきで十五分ほど村を歩かせてもらえただけだ。といっても、それでひとめぐりできてしまうほど村は小さいのだが。
 百年前の写真集と寸分違わない風景がそこにはあった。メサと呼ばれる細長く砂漠に突きでた台地の上に肩を寄せるように作られた土の家々。崖の高さはどれくらいだろう。地上はひどく遠く、まるで空中の城塞だ。地上よりもさらに強い乾いた風が、びゅうびゅうと吹きつけてくる。小さな窓、粗末な木の扉。なぜか、人影もない。
 突然、木の扉から年老いた女が転がるように飛びだしてきた。掌に入るほどの小さな土器を見せる。いくらかと訊くと、法外な値段をいう。首を横に振ると、値引きもせずに実にあっさりと部屋に引っこんでいった。どういうつもりなのか、さっぱりわからない。あんな値段では、だれも買わないだろう。売るつもりがないのだろうか。それなら、どうして売ろうとするのだろう。
 そこで知った彼らの暮らしぶりも、また不可解だった。たとえばトウモロコシの育て方。彼らは乾ききった砂漠に、野生種に近い、小さな実の成るトウモロコシの種を蒔く。「『カチーナの精霊』が水をもたらしてくれることを願って、大地に深く穴をうがつ」のだそうだ。ただ、それだけ。水も撒かない。それから収穫までの農作業はたったひとつ。芽生えたばかりの若葉が、砂漠の風で乾燥して枯れてしまわないように、風よけのついたてを立てるだけだという。
 勤勉が美徳の日本の常識から考えたら、まったく理解不能だ。
 では、人々は何をしているのか。男たちは、土の家の薄暗がりで、カチーナの精霊を象る人形をこつこつと作っていた。女たちも、おそろしく手がかかるやり方で、土器をつくっている。そうやって、彼らの人生の時はゆっくりと静かに過ぎてゆくのだ。
 外はまばゆい真昼。永遠が見えそうなほど青い空。土の家がくっきりと黒い影を落としている。その間を、砂漠の乾いた風が吹き抜け、がらんとした道に、土ぼこりが舞っていた。
 その時、路地からふいに、やせた犬を従えた老人が出てきた。老人は、すれ違いざまに、わたしに笑顔を向けた。日に焼けた顔の深いしわが、さらに深くなる。そして、ふいにこういった。
「こんなに高くって、恐くないかい」
 一瞬、空のことだと思い、それから、崖の高さをいっているのだと気づいた。その笑顔には、何の媚びも屈託もなく、わたしはそのまま、その無垢な輝きに圧倒されてしまった。これは一体なんだろうか。くらくらとして、わたしはそこに立ちすくんでしまった。
 その夜、星を見た。鼻をつままれてもわからないとはこの事か、と思うような濃い闇。どこまでが大地でどこからが空なのか、区別がつかない。それがはっきりわかるのは、地平線からいきなり天の川が立ちあがっているからだ。
 星々が、きらめきながらまっすぐに空へと駈けのぼっていた。目で追ってぐるりと頭をめぐらせると、それは頭上で巨大な弧を描き、反対側の地平線へと沈んでいた。見たこともないほど大きな虹のような天の川の姿に、わたしはただただ息を飲んだ。
 突然、不思議な感覚に襲われた。生まれてはじめて、星々への果てしない距離を実感したのだ。その時、星々のきらめきは、もう闇天井に開けられた無数の針の穴ではなくなった。ひとつひとつが違う距離を持って、がらんとした宇宙空間に浮いていると感じられたのだ。そして、その間に広がる真空の闇の、恐ろしいほどの冷たさを、痛いほど感じた。
 それは同時に、何億光年という真空のただなかに、剥きだしの生命としてぽつんと存在している自分に気づくことでもあった。わたしとは、なんという脆い、壊れやすい命の形だろうか。寒いだけで、水がないだけで、死んでしまう。震えるような思いがした。
 すると、地球という惑星の大気が、まるでやわらかな産着のようにやさしく感じられたのだ。わたしは守られている。地球という惑星に。真空の闇の深さよりも、もっと大きな大地の体温が、わたしを包んでくれている。母なる大地。いや、わたしは大地の一部なのだと、心と体の深いところが、感じていた。
 そうか、そういうことか、と思った。こんな、壮絶なまでに美しい星空を夜毎に見ていたら、いやでも生かされてあることの不思議を思わずにはいられない。
 その時はじめて、この土地に住む人々の心に、少しだけ近づけたような気がした。ここは、荒れはて枯れはてた、不毛の砂漠。けれど、人々はその砂漠から恵みを受けて暮らしている。ここの人々は、自然から奪わない。自然が与えてくれるものだけを、喜びとともに受け取っている。トウモロコシは命をつなぐために自然から勝ち得た糧ではなく、精霊からの贈り物なのだ。だから、野生種に近い小さな粒のものをいまだに栽培しているし、水さえも撒こうとはしない。すべてを自然の意志にゆだねた彼らは、人生の時のすべてを深い祈りに捧げている。カチーナ人形作りも、土器作りも、きっと祈りそのものなのだ。
 彼らは、その祈りを乱されたくないのだ。祈りが何かを知らない人々に、それを説明するには、言葉はあまりにも無力だから、彼らは人々を排斥し、ただ沈黙を選んだのかもしれない。
 きっと、彼らの心のなかには、星空のように無辺の空間があるのだろう。そこに遍満する大いなるものに触れ、交感すること。それが、彼らにとっての人生なのかもしれない。

 拡大しようとする文明と、その状態に充足しようとする文明が出会えば、当然、拡大しようとする文明がもう一方を侵略する。西洋人と先住民が出会って、先住民は荒れはてた居留地へと追いやられた。けれども侵略者は、いや、わたしたちは、彼らの心のなかにある神聖な場所までは奪うことはできなかった。
 スペース・シャトルと無数の人工衛星が飛び交う空。その空に、彼らは何を見、何を感じているのだろう。
 物が溢れ、物に満たされれば満たされるほど、心の渇きが増すわたしたちの暮らし。それでもなお、より多くを生産し、得ることが幸せだと、闇雲に走りつづけている。その終わりのない深い渇きを癒してくれる、ひと口の清冽な湧き水が、そこにある。だからこそ、人々はいま、先住民の言葉や物語に強くひかれるのではないか。
 けれど、だれもそこに戻ることはできない。「あの頃はよかった」と、ノスタルジーに浸っているだけでは意味がない。こんな時代だからこそ、テクノロジーの果てで、人がなお人として生きるために、わたしたちはもう一度「自ら充足する文明」に真実の言葉を発見し、それを、新しい物語として生き直さなくてはならないと思う。

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