寮美千子ホームページ ハルモニア Cafe Lunatique (No.0041)

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寮美千子  削除について 2004年12月14日(火)15時13分23秒
重ねて削除依頼 へのコメント

▼ペリーさま

まず、経緯に関して基本的に誤解があるようなので、それを解くことからはじめましょう。

>私の書き込みに対して基本的に削除するとおっしゃっており、
>私も削除をお願いしました。

更なる誤解を招くといけないので、原文を再録します。
この掲示板は、固定ハンドルネームないし実名で、きちんとしたアドレスを書き込むことを前提としての参加を求めています。違反者の投稿は原則として削除させていただきます。お書きになられたメールアドレスは無効なものです。今後も参加なさる場合は、正式のアドレス記入をお願いします。
ということを申しあげ、それに対してペリーさんがこうおっしゃったのです。

>私の書き込みはどうぞ、全部削除なさって下さい。

これは削除依頼とは呼べません。「正しいメルアドなしの書き込みは削除しますよ」と警告したら「どうぞご自由に」と答えが帰ってきたというだけです。ペリーさんは、使い方が分からなかったという旨おっしゃったので、わたしはさらにこのように続けました。
これからは正しいメールアドレスでのご参加をお願いします。
ちょっとくどい書き方になりましたが、掲示板でのやりとりは顔を合わせてするものではなく、文字だけが頼りなので、誤解を解こうとすると、どうしても元の文章を引用してくどい話になってしまいます。すいません。

以上のよう理由で削除はしませんでした。また、ペリーさんの投稿はたいへん有用なご意見なので、ぜひこのまま掲載させていただきたいと存じます。

>読解力が無い見本のように挙げられています。

これも大いなる誤解です。わたしの投稿をよく読んでみてください。

ペリーさんのご投稿に関して、いろいろと考えるところがありました。異文化理解に関する重大な問題を含んだものだと思います。その示唆を与えてくださったことに感謝しています。これに関しては、また後で詳しく書かせていただきます。

ペリー  重ねて削除依頼 2004年12月14日(火)04時49分55秒
イオマンテ絵本/第12稿発表 へのコメント

寮さんは8月23日に、私の書き込みに対して基本的に削除するとおっし
ゃっており、私も削除をお願いしました。
また、下の引用は私の名前も記されないまま、読解力が無い見本のよ
うに挙げられています。これはさらしものにされているようで、愉快
とは言えません。

以上、この書き込みを含めて、すみやかな削除をお願いします。

なお、パソコンのディスプレイの向こうにはあなたと同じ、感情を持
った人間がいることをご理解いただければ幸いです。

寮美千子  イオマンテ絵本/第12稿発表 2004年12月12日(日)03時10分21秒
▼Review Lunatique:イオマンテ―めぐるいのちの贈り物―/第12稿 へのコメント


十勝場所と環境ラボラトリーの企画により、制作進行中の絵本『イオマンテ―めぐるいのちの贈り物―』の第12稿をレビューに掲載しました。博物館の学芸員や研究者の方々のご意見をいれ、改稿を重ねること11回、いまのところ、これを最終原稿とする予定です。けれども、まだ時間的余裕があるので、さらなるご意見があれば、ぜひ検討させていただきたいと思っています。みなさまの建設的ご意見をお待ちしています。

この作品は「イオマンテ」を題材として、寮美千子が創作したものです。創作ではありますが、アイヌの文化をなるべく歪ませない形で広く人々に伝える役に立ちたい、という願いを持って書いたものです。

絵は『おおかみのこがはしってきて』でもコラボレーションさせていただいた小林敏也氏。絵もまた、研究者の方々のチェックを受けて、大きな間違いや誤解のないものにしたいと思っています。

この作品は、原稿全編を提出した上で、2004年度の(財)アイヌ文化振興・研究推進機構の出版助成を受けて、ただいま制作中。来年2月いっぱいには完成・出版の予定です。


この作品には、カフェルナ掲示板でも、賛同の声とともに、批判の声も聞こえてきました。思いもよらない解釈だったので、なるほど、そういう読み方もあるのかと驚き、また勉強になりました。

批判の声は、次のようなものでした。当サイトより一部引用します。
イオマンテはカムイの信仰、美しく飾られた矢、酒と踊り、美食、大人の言葉によって、心の痛みを麻痺させる装置として機能する。その結果、大人になった少年は熊に矢を放つとき、何の思いも躊躇も無い。これは現代日本の姿を映しているという意味でリアルな物語でした。
この解釈は、わたしが意図したものとはまったく反対のものでした。作者が意図したものとまったく違う解釈が提出された場合、いくつかの可能性が考えられます。

1 作者の表現力が至らず、作者の思いが伝わっていない
2 読者の読解力が至らず、作者の思いを読みとれない
3 受け手によって、さまざまな読みとりが可能な作品である

そのどれかではなく、この複合形もあるはずです。作者の思いを文章からきちんと受け取ってくれた読者が多数いる場合は、可能性としては2と3が残されます。どちらにしても、思いもよらぬ読み方が可能である、ということを出版前に知ったことは、大いに参考になりました。

万人に向けて、一つの誤解もなく作者の思いを伝えられる文章をつくることは、大変むずかしいことだと思います。事実上、不可能かもしれません。しかし、本当に伝えたいことを伝えられるよう、これからも、わたしなりの最善を尽くしたいと思っています。

というわけで、小林敏也氏は、いま制作の真っ最中。ラフスケッチの段階では、すでに見せていただいていますが、本番はやはり違います。別物です。どんな作品に仕上がってくるのか、とても楽しみです。ご期待ください。

辻井 豊  ありがとうございます 2004年11月03日(水)23時48分08秒
記録と表現 へのコメント

 勇崎様、とても丁寧なご返答をいただき、ありがとうございます。
 勇崎様のレスを読んで、人を語るには、まず人と接することから始める、そのことが、とても大切であると感じました。オフラインのことですが、貧乏暇なし金もなしで、なんともし難い状況であります。ですが、機会を作ることができれば、是非、お話をさせていただきたく思います。今回の藤野の方には、残念ですが、お伺いすることはできません。申し訳ありません。

勇崎  記録と表現 2004年11月03日(水)00時25分02秒
う〜ん、頭が整理できない。。。 へのコメント

記録と表現

辻井氏からかなり以前に質問をいただき、そのレスポンスを全くしていませんでした。実はすぐに途中(以下のちょうど半分くらいのところ)まで書き始めたのですが、雑事に追い込まれ、中断のまますごしてしまいました。
以下、たいへん遅れましたが、辻井氏への返信です。

辻井さま>
僕もあまりにもネガティヴな側面を捉えて、もしくは誇張して投稿し、さらには勢いでレスしてしまった感があり、床についてからも、気になってちょっと眠れぬ(といいつつ、バタンQでしたが)ところがありました。真摯に再質問していただけた辻井さまの丁寧なお気持ち、ありがとうございます。

当時、学者さんのとられた態度の記憶を、いまだに許容できないことは確かですが、民俗学者たちは、もう聞くことのできない口承文化の記録を残してくれたという素晴らしい貢献をされています。また、当時には既に伝承できる人もいなくなり、民族の遺産を留めておけなかったことに、涙された学者さんたちもおられます。

>>>2の質問は、(以下辻井さまの再レス要約)研究者のスタンスが、論文や著作に現れているのではないか。それを読めば、良い印象を持たなかった研究者の、別の側面が、そこから読み取れるではないか。論文といえども、例えば、フィル―ドワークに重きを置く学問ならば、そこには研究者の、研究対象への思いが表れていることもあると思う。

その通りだと思います。僕が「良い印象を持たなかった研究者」の論文等については、彼の名も知らず、残念ながら見つけることができませんでした。それを読まずして批判することを咎められそうですが、研究対象とされた側の苦痛(学問や研究といった大儀をふりかざし、不本意なことをさせられた体験や、奪われたり利用されたと感じて尊厳を踏みにじられた体験等)を垣間見てきて、あのような態度を僕自身の反面教師としたく、根深く記憶しつづけているのだと思います。

この記憶は1972年の夏のことで、話題にした狩俣では、当時ちょっとしたフィールドワーク・ブームがありました。その発端は、前年の1971年まで、狩俣とその対岸にある池間島に9年間に亘って通われ、そのふたつの村落に口承されている歌謡(ニーリ、ピャーシ、フサ、アヤグ、クイチャー、トーガニなど)を採録し、その記録に徹した『宮古島の神歌』(外間守善・新里幸昭著)という本が発行されたり、1957年に刊行され72年夏に新版が復刊された『宮古島庶民史』(稲村賢敷著)、そして僕が尊敬してやまない文化人類学者・野口武徳氏の『沖縄池間島民俗誌』の刊行も72年の夏であり(これらの本は、僕にとってとても大切な本)、その過程も含めて、口承採録のブームは、人間の行為をあらぬ方向に、さらに過熱させたのだと思います。
ちなみに、上記の3册は、「フィル―ドワークに重きを置く学問ならば、そこには研究者の、研究対象への思いが表れていることもあると思う」という意味で、まさに名著だと思います。

>>>1,3と末尾の一文について。(以下辻井さまの再レス要約)「口承文化」には、批判者の存在が影響することもあり、それが織り込まれていることも、あるのではないか。例えば、先代の方が良かったというような批判が、伝承者に対して、明に暗に伝わる場合もあったのでは。そのような批判を、伝承者が技量(?)に昇華させたり、あるいは昇華できずに技量(?)が萎縮したり。伝承者が神格化されるような場合は、凶作や災害の責を問われて伝承者自身が人身御供にされ、そしてそれが、また伝承に織り込まれて行くようなことも、あったのではないか。

優れた学者は、自身の存在によって変質させてしまうことにとても敏感で、注意深いようです。口承ではありませんが、そうではない近年の例として、宮古群島多良間島で聞いた話があります。この島では旧暦の8月8日から「八月踊り」という豊年祭が行われ、三日三晩、舞台芸能に明け暮れます。そこでの代表的なプログラムに沖縄の伝統的な「組踊(くみおどり)」があります。ある研究者がその演技を見て、足の運びが沖縄本島のそれとは違う、改めるべきではないか、と言い残していったそうで、多良間島の人たちは、たいへん悩んでいました。

僕がはじめて多良間を訪れたのは1972年ということもあり、親交も古かったので、それをどう思うかと相談をうけました(ちょっと自慢話みたいで、ごめんなさい)。
「沖縄本島の所作が正しく伝承されたのかどうかだってわからなし、もしかしたら多良間島の足の運びの方が古式組踊を継承してるのかも知れないし。仮に研究者のおっしゃる通りだったとしても、これが多良間の組踊の独自性や個性(オリジナリティ)だって考えて、変える必要なんて絶対ないですよ」とお伝えしました。

「八月踊り」では、プログラム内容や役割によって、担当するいくつもの「座(ざー)」があり、現代モノを行うのが「狂言座」です。10数年ほど前に、ここで「少女誘拐事件」という勧善懲悪モノの練習から本番までを見ることができました。シナリオ、演出ともに書き残されたものはなく、すべて口承で行われていました。現代モノといっても「少女誘拐事件」は戦前の話で、島では「今年の狂言座は少女誘拐事件をやるそうだ」と久々にかかる出し物として前評判が高く、島のみんなが期待し楽しみにしていました。

この「少女誘拐事件」も、あと数十年すると、おそらく初演から100年の歳月が流れることになります。その年の「少女誘拐事件」も初演からは変化していると思います。口承で舞台がつくられるプロセスを見て、このようにして伝承され、伝統化されていくのだと感じ、その現場を垣間見れたことに感動してしまいました。そして、「時代による変化(伝承に織り込まれて行くこと等)はあっても、そこに宿るメッセージ(伝承に込められた願い)は変質しないのだ」と強く感じました。

次に僕が見聞した人身御供的な例としては、ある島にちょっとした不幸があったとき、研究者を受け入れた世帯のせいとされ、その世帯が村八分にあい、その時のつらさを語りながら涙を流されました。

前述の「時代による変化(伝承に織り込まれて行くこと等)はあっても、そこに宿るメッセージ(伝承に込められた願い)は変質しないのだ」という捉え方は“記録”という立場からは、容認できない側面があるかも知れません。しかし、人間の“表現”という見地からは、是とされるものと思います。


>>>(以下辻井さまWROTE)わらべ歌や、昔し話について。
ですが、「少女誘拐事件」の話は、少しだけそのレスにもなっていると思うのですが、いかがでしょう? 

前回の僕の投稿は、この“記録”と“表現”を混ぜこぜにしたままであったことを反省しています。あるいはこの件についてはじまった議論も、“記録”と“表現”という視点から語り合えば、別の方向にも向かったように思いました。

MARIKOさんがカフェルミに投稿して下さいましたが、今月上京し17日に相模湖の近くの藤野を訪れます。もし、可能なら、これ以降のやりとりはオフラインでできたら、幸いです。

推敲をはじめると、この投稿、またいつになるかわかりませんので、このまま投稿します。

寮美千子  十日町市「ミティラー美術館」より震災レポート 2004年10月25日(月)12時56分04秒
新潟県中越地震 へのコメント

新潟県越中地震。昨晩も、ここ相模原まで揺れを感じるような余震が何度もありました。一体、地面のなかで何が起こっているのだろう? ライフラインも断たれ、困難な避難生活をしている方々の疲労はいかばかりかと、胸が痛みます。

新潟県十日町市の小学校の廃校跡を利用してつくった私設美術館「ミティラー美術館」は、インドの「ミティラー画」を中心に独自のコスモロジーあふれる様々な民俗芸術を収集・展示した美術館。館長は『宇宙の森へようこそ』(地湧社1988)の長谷川時夫氏です。

このミティラー美術館でも、大きな被害が出たとのこと。被害状況を長谷川氏がネットで報告しています。
http://www.bekkoame.ne.jp/‾mithila/

活発な余震に、ほんとうに心も体も安まる暇がないと思います。余震が一刻も早く収まることを祈るばかりです。

追伸:関東地方もこれだけ揺れると、これがトリガーとなって連鎖的に地震が起こるかも?などと心配になってしまいました。杞憂だとは思いますが、備えあれば憂いなし。我が家では、とりあえず非常用の水を詰め替えておきました。

寮美千子  新潟県中越地震 2004年10月24日(日)16時57分39秒

昨日は加藤周一氏の講演会があって、和光大学へ。講演終了後の懇親会に出席しているときに、ぐらりときました。家に戻ると、電話が鳴りました。アイルランドの友人からでした。「ミチコ、テレビで日本が地震で大変だって見たけれど、きみは大丈夫か?」という切迫した声。遠い国から心配してくれる友人の気持ちをありがたく思うとともに、ああ、海外にまで大きく報道されているのだと知りました。

新潟県中越地震、何度も何度も繰り返す余震とは呼べないような大きな揺り返しに、現地の方は、心の安まる暇もないと思います。さっきまで元気だった人が、突然命を奪われてしまう理不尽。ほんの一瞬の運不運が、人生を左右してしまいます。わたし自身も、そういう大地に暮らしているのだと、改めて思い知らされました。お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りすると共に、被災地の方々が、一刻もはやく安心できるようになることを、心からお祈り申しあげます。

あの揺れが東京だったら、被害は十倍にも百倍にも膨れあがったかもしれません。人間が密集している都市というものの脆さを感じないではいられません。

それにしても、巨大台風に地震。それも、いままでに出会ったことのない、繰りかえし激しく揺れるタイプの地震。これから、大地はどうなってしまうのだろうと、不安が胸をよぎります。大きな気候変動や地殻変動を繰り返してきた地球からみれば、それはひとつの季節の変化に過ぎないのかもしれません。その前で、人間はあまりに無力。

けれどもまた、その無力なはず人間が、もしかしたらこんな事態を引き起こしているのかもしれないとも思うのです。二酸化炭素排出による地球温暖化。それによる気候変動。台風の進路が日本を直撃することになった背景には、きっとこの問題が絡んでいることでしょう。

地震の最後のトリガーは、潮汐力にあるという説もあります。巨大な台風が何度も何度も通り過ぎたことが、もしかしたら地盤になんらかの影響を与え、地震発生のトリガーとなった、という可能性も、完全には否定できないかもしれない。多分に妄想チックだけれど。

いままでのバランスが崩れるということは、そこから連鎖的に様々なバランスが崩れる可能性があることを意味しています。災害が立て続けに起こるというのは、もしかしたらそういうことかもしれない。

被害は、人間に留まりません。熊が、やたらと人里に出てくるのも、自然界のバランスが乱れているからに他なりません。熊が飢えているということは、熊以外の、森の様々な生き物が飢えている可能性を示します。

地震など、避けることの出来ない自然災害の前に、人間は無力です。けれども、避けることのできる災害もあるはず。複雑に絡み合った地球の仕組み。そして、生態系。どれかひとつを原因としてあげつらうことはできません。でも、だからこそ、原因かもしれないことは、できるだけなんとかしようという姿勢が必要だと、つくづく思いました。

地震がはやく静まりますように!

silica  早寝したので、出遅れて恐縮です。 2004年10月23日(土)08時11分56秒
silica様、望様 へのコメント


>意見する必要を感じません。感じませんがその理由は、黙殺する以上、言う義務があるので書きます。申し訳ありませんが思い込みです。

>物事をいいほうに考えすぎではないでしょうか。

う〜ん。ほんとう。ハルさんのこと、そう思いすぎてました。そのとおり。


寮美千子  「戦争によって世界の平和は保たれる」という「世界」とはどこの世界か? 2004年10月23日(土)04時08分26秒
silica様、望様 へのコメント


>選挙運動によって公平性を欠いた文学賞に何の意味があるでしょう。

わかりました。ハルさんのおっしゃりたい肝は、ここなのですね。

わたしなりに一度説明したつもりですが、どうも真意が伝わっていないようなので、もう一度別の言い方で説明してみましょう。

「読者賞」は、審査員が公平な審査をして与える「文学賞」とは性格が違います。「文学賞」は一種のお祭りで、主催者側もそのお祭りを期待しています。基本的には、親類縁者を総動員してもいいのが「読者賞」です。そのようにしてより多くの人に知ってもらうことこそが、この賞の狙いです。そのことを理解すれば「選挙運動」がお祭りを盛りあげる要素として、歓迎されることがおわかりいだたけるかと思います。

さて、では、そのように応援されてうれしいかうれしくないか、という問題がありますね。それは、本人次第。

ハルさんだったら、うれしくないんですね。そして、被害者のような気分になってしまわれるんですね。

よくわかりました。ハルさんがそのような立場に立たれたときには、わたしも気をつけ、たとえどんなにいい作品でも、絶対に選挙運動はしないようにしましょう。ご安心ください。

佐伯ツカサは、むしろそのような応援を糧として、ぐんぐん伸びていく人です。こんどのことも、同じ授業を受ける受講生たちの熱い声援を受けて、とても張り切っていました。他の受講生たちも、とてもやる気になっています。この「お祭り」は「物語の作法」にとってよい効果のみがあったと確信しています。


さて、ハルさんは審査の「公平性」を気にかけていらっしゃるようです。

はっきりいって、審査はどんな審査も公平ではありえません。「身内だから票をいれる」というような問題ではありません。ある水準以上の作品が並んでいるとき、どれに賞を与えるかは、審査員の「好み」の問題でしかないので、絶対の公平などありえないのです。

もっといえば、Aという審査員が絶賛したものを、Bがこきおろす、といったこともあります。わたしも、小学館の「おひさま大賞」の審査員をしていますが、全員一致で決まったことなど、数えるほどしかありません。意見がまとまらなければ、最後は多数決ですから、わたしが納得のいかない作品が大賞をとったりすることさえあります。

ハルさんは、どこかに「絶対の公平」が存在しているかのように錯覚しているようですが、そんなものはどこにもないのです。ことに芸術作品においては、絶対の評価なんてない。それぞれが心に感じたものが、「それぞれの絶対評価」でしかありえない。

とはいえ「水準」というある種の基準線は存在します。間違えてもらっては困るのですが、「絶対の公平が存在しない」というのは、ある水準を超えた作品の評価に関しての問題です。箸にも棒にもかからないものは、それ以前の問題です。

>それにご自分の見込み違いだったらと、不安には思わなかったのでしょうか。
>間違いだったではすまなかったでしょう。

「見込み違い」とは、何のことでしょうか。もしも佐伯ツカサが大賞をとりそこねたとしても、それはわたしの「見込み違い」にはなりません。なぜなら、彼女が大賞をとろうがとるまいが、わたしが彼女の作品をいいと思った事実に、少しも変わりはないからです。

「大賞」をとったとしても、それは絶対の評価ではない。審査員の趣味や好みや、時の運もあります。だからこそ、わたし自身がいいと確信した作品は、出来るだけ応援したい。そういうことです。

わたしが佐伯ツカサを応援した故に、読者賞を逃した応募者もいたかもしれません。お気の毒です。けれど、そのような応援者を得ることも、その人の「能力」に含まれているのです。それに、ハルさんのおっしゃる「公平な」大賞の審査が別途あるのですから、ほんとうに圧倒的にいい作品なら、そこで拾われるでしょう。それでいいではありませんか。


>愕然としました。天皇制、生徒ではなく学生などといった、
>論理の本流ではない些末なミスだけを指摘した挙句、
>必要を感じないので反論すらしない。
>理不尽な校則にうるさい先生との、職員室での問答のようですね。

それは「些末なミス」ではありません。「日本は天皇制を廃止した」と書いて、それを些末なミスと思っているとしたら、大きな問題です。歴史、というものの重みを理解していないことに他なりません。

大学の学生を「生徒」と書くこともまた、些末なミスとはいえません。高校生までは「先生に教えてもらう生徒」でしかありません。しかし、大学生という存在は、それとはまったく別のものです。「自ら学ぶ者」なのです。教師と学生は、ある意味対等です。自ら学ぼうとする者に対して、自ら学んできた者がその知を分け与える、そして、互いにその知を研鑽する場が「大学」なのです。そのことを忘れてはいけません。大学は、なにかを「教えてもらう」場ではないのです。

>もし私が寮様の生徒なら、ここで引いてしまう講師に何かを教わろうとは思えません。
>議論に価するかを判断するのは今回だけは見逃して、
>納得のいく考えを教えていただけないでしょうか。教育者として。

ここに見えるのは「生徒根性」です。あなたはわたしの「生徒」ではないし、わたしはあなたの「先生」ではありません。わたしは大学でも、学生を生徒扱いしていませんし、ここに集う人々は、もちろんわたしの生徒なんかであるはずがありません。

佐伯ツカサはわたしの教え子です。けれども、物書きとしての同志でもあるのです。一歩先んじてきたわたしが、同志の応援をする。わたし自身、いい物を書いてきたという自負があっても、なかなか世に出られなかったという苦汁をなめてきました。才能のある同志には、無駄な苦しみを味わってほしくない。早くのびのびと活躍してほしい。その一心です。


さて、以上のようなことを「些細なミス」としか認識できない人とは、とても議論できません。言葉の使い方が粗雑すぎる。議論は言葉でするものですから、言葉の定義から一々やり直さなければ話し合いができないような相手とは、議論などしていられません。わたしはそんなに暇ではありません。議論の域に達していないとは、そういうことも含みます。しかし、ご自分ではそう思っていらっしゃらないようです。それがまた、問題です。どこがどう議論に価しないのか、を一々説明する必要は感じません。それは、ご自分で考えてください。

>これでここに書き込むのは最後でしょう。

最後にしてください。

佐伯ツカサの件についてのみは、回答しました。わたし自身のことではなく、佐伯ツカサの名誉に関することだからです。望さんがいってくれたように、彼女を勝手に「被害者」呼ばわりするような失礼なことは見逃せないからです。


ハルと名乗る方には説明義務は感じませんが、ハルさんの考え方、感じ方からいろいろと思うところもありました。以下は、ハルさん宛の回答ではなく、ハルと名乗る人の発言から、わたしが感じたことのまとめです。

新たな発見がありました。いわゆる「右翼」ではない立場の人でも、現状追認のアメリカ万歳的な感受性を、かくも強く持っているのだ、ということです。「日本は天皇制を廃止した」と平然といってしまう人が、アメリカとアメリカ追従の日本の姿勢を強く支持している。保守的な考え方は、いまやイデオロギーの問題ではないということを、改めて思い知らされました。

>戦争によって世界の平和は保たれ

この恐ろしい言語矛盾。それに気づかないでいることの怖さ。ここでいう「世界」とは、一体どこの世界なのか? 現に戦争で命を奪われる子どもや市民がイラクにいるというのに、この世界のどこが「平和」なのか? ここでいう「世界」とは、つまりわれわれのいるアメリカ陣営の世界でしかありません。世の中の多くの人が、実はこのような狭義の「世界観」しか持っていない。そのことを如実に表わす言葉遣いでしょう。そのような「世界観」こそが、世界を悪くする。

>イラクのこれから生まれる子供が
>日本のような平和を手にいれられたと将来思う可能性は十分にあります。

これから生まれる子どもたちのために、今生きている子どもが犠牲になっていいわけがありません。それは、今を生きている人々の尊厳を損なう発言です。失礼です。人と人とも思っていないということです。「多少の犠牲はやむを得ない」などということは、こと人命に関しては、絶対にあってはならないことです。

「犠牲」によって保たれている「世界の平和」というのは、実は「自分たちが住む場所に限定した世界」に限っての平和でしかない。つまるところ、地域エゴイズムでしかない。

まずは「世界」という言葉のほんとうの意味を問うところから、考えていかなければならないのだと、思い知らされました。おかげで、とても勉強になりました。

  返信 2004年10月23日(土)02時49分50秒
silica様、望様 へのコメント

>ハルさん

最後になりますが。

望です。少々引用文前後しますが、返信いたします。


>どの辺が代弁なのでしょう。佐伯さんが私のように考えていると思います、な
>どと言った覚えはありませんが。

 確かにハルさんはそうは言っていませんね。
 ただ、今回も書いていらっしゃいますが、

>選挙運動によって公平性を欠いた文学賞に何の意味があるでしょう。そしても
>しそれしか取れずに将来揶揄される立場になってしまったら、これは被害者と
>は呼べないでしょうか。


 もしそうなったら「被害者」であった、ということ。
 ただ、佐伯さん自身が、そう感じていると言うならそれはわかりますが、
 他の人が横から、佐伯さん自身がどう感じているか以前に「被害者」というふ
 うに呼ぶのは、失敬なことだと感じるんですよ。わたしは。

 人は自分が自分をそう思っていなくても、そのように扱われて傷つくこともあ
 ります。

 ただ佐伯さんと寮さんの信頼関係は、私やハルさんが逆の立場で案じるように
 は揺るがないものと思いますよ。

 誰かがそうなるのではないかというのをその前に案じてかばうというのは、人
 を育てはしないです。本当にその人を守るよりも、その人の感じるところを先回
 りしてしまうことにもなります。


>いいと思ったものを勧めるのは大いに結構です。ただ、投票後にして欲しかった。

 私自身は寮さんの取った行動は至極真っ当だと思っています。
 けれど今回の投稿では以前よりハルさんの言いたいことはよくわかりました。


>>さて、この掲示板は、相手の論理の矛盾、飛躍を突くための場ではありません。

>議論に価する異論は歓迎しますとあったので書き込みました。自分と同じ意見
>を賛美するだけにとどまり、自分に都合の悪い異論は黙殺する掲示板というこ
>とでしょうか。

 そうは言っていませんよ。先走っちゃいけません。

 ハルさんの感じている疑問や憤りにはハルさんなりの理由がありますね、
 けれど、言葉が伝えることの意味を知りたいと思うに、いきなり論理の構造上
 の欠点をあげつらうようなことでは、お互いの理解には達しないのではないで
 しょうか?


>そうです。議論や、相手を説得するにはまずお互いが向かい合わなければなりま
>せん。当たり前です。上記の言い換えは議論におけるルールと全く同じものでは
>ないでしょうか。議論が成り立つには自力だけではどうしようもありません。

 私には、自分の言葉に相手が答えるべきだと思えるハルさんの気持ちが理解で
 きないでしょう。
 人との断裂を繰り返して、最終的に自分に向き合うか否かは相手の決めること
 と、感じ取りました。(まあだからといって好きな人などに応えてもらえない
 場合は平気で生きてるわけじゃないですけどね(^_^;)余談ですね)

 インターネット上に言葉を熱を注いで書き込む。あるいは冷静に時間をかけて。
 そうした言葉に意図した相手が応えないのは気持ちの落ち着かないことでしょ
 うけれども、そうしてくださいと願うことはできても、するべきだと迫ることは
 できないものなんですよ、それが人との距離というものだと私は思っています。


>私が見逃してくれといったのは、議論に価しないと都合よく黙殺される恐れを抱
>いてのことで、自分の言葉が至らないとは感じません。
>自分としては主張には理由を、反論には問題点の指摘を怠らずにしているつもり
>です。

 わかりました。

 けれどそういう時は、自分の言葉は最後まで守らなければなりませんよ。
 黙殺されるかもしれないという自分の恐れで、見逃してくださいと言ってしまっ
 ては、伝えようとした大切なことがあってもその程度のことと軽く見られてしま
 う可能性があります。

 本当に伝えたいことがある時、自分が守りに入ってしまうと、よく言葉が伝わら
 なくなってしまいます。


>お互い自分の考えが間違っていたと思い、意見を収めることなどありえないとい
>うことでしょうか。わかりあうことなどできない。わかりあうために言葉がある
>のにそれすら満足に使えない。

 いやあ、抽象的な書き方をしてしまいましたね。
 私はわりに決め付けが過ぎるのでわけわからん文ですみません。

 分かり合う可能性は、充分ありえたと思いますよ。
 現に私の見方も刻一刻と変わります。

 一つだけ言うならば、ハルさんの言葉の遣いかたが、すべての人に適応するわ
 けではありません(ハルさんはかなり厳しい意見のぶつけ合い、論理的な闘いを
 お望みのようですが)。人には人の言葉遣いがある。はじめから同じ文法で話す
 人ばかりがいるのが社会ではありません。臨機応変に自分の言葉の遣い方、議論
 の方法、話しかけるやり方を、変えていっても、それはハルさん自身の信条なり
 を変えることではありませんからね。
 人に優しくあってください。対等なものを相手に求めるのならそれが礼儀です。

 寮さんはハルさんの意見が都合が悪いからといって返信しないわけではありません。
 最後にそこのところ、感情を収めて、あるいは好きなことをして昇華して、それから、
 御自身でお考え下さい。


ハル  silica様、望様 2004年10月23日(土)00時46分14秒

寮様から何かコメントをいただけるかと思い、待っていましたが、どうやらそのようなことはなさそうなので、最後にsilica様、望様宛てに私なりの意見を置いていきます。なお、反論していただいて結構ですが、それに対する異論はきりがないので差し控えます。また、山田様のコメントに、私の意見に対する意見が明らかにあるのですが、私宛のコメントとしての投稿ではないのでコメントは差し控えます。

silica様
>もしハルさんが寮さんのサイトに刺激を受けて、寮さんと話をしてみたくなったのなら、お会いできる機会をこのサイトから見つけられると思います。それは、お膳立てをしてやってもらうようなことではもちろんありません。情熱があるのなら、発見してみてはいかがでしょう。
>寮さんは、すでに本当にハルさんが欲しがっているものは、求めているものは何だろう、というところまで見つめておられると思います。

意見する必要を感じません。感じませんがその理由は、黙殺する以上、言う義務があるので書きます。申し訳ありませんが思い込みです。物事をいいほうに考えすぎではないでしょうか。

>ちなみに、ハルさんがここで寮さんに対話してほしいと願っている内容は、申し訳ないけれど、「かまってください。」の域にとどまっており、議論として傍聴するのにおもしろくありません。

そのような域にとどまっている理由が聞きたかったです。ではどのような内容ならよいのでしょう。私が異論を唱えたのは全て寮様のコメントからの抜粋なのですが。どちらかというと「いいかげんにしてください」という心境でコメントしました。

望様
>「有効投票数」という明記がある通り、読んでいない、感想を書けない人の票が数えられたようなことはないと判断を下すことは難しくないです。

あれぐらいの長さの文章を読むことは難しくないし、感想を書くのも難しくないのでそれは読んでいない人の投票に対する抑止力にはなりません。…ってそんなことに意見したつもりはありませんが。

>「〜賞」というものは誰かがその作品を読み、いいと思って与えてくれるものであって、それそのものに芸術とかなんとかはありません。

問題はここです。芸術性なんて言ったから分かってもらえなかったんでしょうが、私が言いたいのは、選挙運動は『「〜賞」というものは誰かがその作品を読み、いいと思って与えてくれるものである』という文学賞の性格をねじ曲げはしないかということです。人によって感じ方は違うのだから、評価も人それぞれです。その中で少しでもよいものを選ぶには、先入観なく、公平な立場で選ぶべきでしょう。アイドル作家といわれて芥川賞を取った方々が、作品で選ばれたわけではないのではないかと揶揄されているのは、「公平な審査ではなかったのではないか」と思う人がいるからです。選挙運動によって公平性を欠いた文学賞に何の意味があるでしょう。そしてもしそれしか取れずに将来揶揄される立場になってしまったら、これは被害者とは呼べないでしょうか。

いいと思ったものを勧めるのは大いに結構です。ただ、投票後にして欲しかった。投票のシステム上、選挙運動は許されているし、出版社もそれを望んでいるかもしれませんが、作家が、まして教え子の教師がやることでしょうか。上記のような想像力はないものでしょうか。

>ハルさんに佐伯さんの言葉を代弁する権利はありませんし、そうすることで寮さんを
揶揄するのはいただけません。喧嘩をするなら自分の責任の範囲で、人を巻き込むの
はずるい事です。

どの辺が代弁なのでしょう。佐伯さんが私のように考えていると思います、などと言った覚えはありませんが。

>さて、この掲示板は、相手の論理の矛盾、飛躍を突くための場ではありません。

議論に価する異論は歓迎しますとあったので書き込みました。自分と同じ意見を賛美するだけにとどまり、自分に都合の悪い異論は黙殺する掲示板ということでしょうか。

>自分自身を主語に置いた言葉でそこから物事を語ってください。

私は〜と思います、という意見を語れということでしょうか。はっきり言ってこの引用のあたりからよく意味がわかりません。

>私 を説得するには 私 の間違いを指摘することです。と言い替えるなら、ハルさんがどれだけ他力本願なことを言っているか感じられますか?

そうです。議論や、相手を説得するにはまずお互いが向かい合わなければなりません。当たり前です。上記の言い換えは議論におけるルールと全く同じものではないでしょうか。議論が成り立つには自力だけではどうしようもありません。世界情勢を見れば一目瞭然です。

>自分だったらあなたを評価しませんよとおどかして人を留めようとするのはあまり効
果のあるやり方ではありません。

思惑が幼稚でした。きっとコメントなさってくださらないだろうと思い、行き過ぎてしまいました。申し訳ありません。

>自分の言葉を引き受けることもなく見逃してくださいというのは甘いです。そこに基
づかずに私たちはなにをハルさんに答えるのですか?
自分の言葉に至らないところがあったと感じるなら、それはきちんと自分で訂正して
行かなければいけません。

私が見逃してくれといったのは、議論に価しないと都合よく黙殺される恐れを抱いてのことで、自分の言葉が至らないとは感じません。自分としては主張には理由を、反論には問題点の指摘を怠らずにしているつもりです。

>ハルさんはここでのやり取りから感じることがきちんとあるんではないでしょうか。

お互い自分の考えが間違っていたと思い、意見を収めることなどありえないということでしょうか。わかりあうことなどできない。わかりあうために言葉があるのにそれすら満足に使えない。

これでここに書き込むのは最後でしょう。何だかこれこそがまさしく徒労そのものだったように思います。

  主体であること 2004年10月17日(日)06時37分26秒
徒労に賭ける へのコメント

>ハルさん

望と申します。
数年前から寮美千子さんの作品を好いて、ここに来る者です。
小説を10年くらい膝の上で継続して書きつづけてきた人間です。

賞には選考委員がいます。「有効投票数」という明記がある通り、読んでいない、感
想を書けない人の票が数えられたようなことはないと判断を下すことは難しくないで
す。そこを疑わしいと憤るならまずあさよむ携帯文学賞のほうに読者賞のシステムに
対して質問を投げかけてみてはどうですか?

根本的なことを言えば、「〜賞」というものは誰かがその作品を読み、いいと思って
与えてくれるものであって、それそのものに芸術とかなんとかはありません。

今回の場合は投票されたひとつひとつが評価であり、1位だろうと2位だろうと自分
の作品を読んで心を動かしてくれたお客さんの存在は、数に替えられるものじゃない
んじゃないでしょうか。ありがたいじゃないですか。自分の書いたものが人に読んで
もらえて、心を動かしてくれるということは。

大賞が後付けになったからよかったようなことをハルさんは書いていますが、私はそ
んなふうにはまったく考えません。寮さんの佐伯さんの作品への評価は、他の誰かの
評価によって変わるものではないからです。
誰かに許可を与えられるべき理由があるから人は動くのではないんじゃないですか?
好きと思ったもの、面白いと思ったものを人に勧める時に、それが世の中で認めら
れているかどうかを先に気にする必要はありません。


>それにご自分の見込み違いだったらと、不安には思わなかったのでしょうか。間違
>いだったではすまなかったでしょう。

たとえ文学賞によって「証明」されなかったという場合でも「見込み違いだった」と
いう結論にはなりません。
先にも書きましたように寮さんが佐伯さんの作品に見込んだものは、誰かの意見や
賞という他の評価に左右されるものでははじめからないのです。
寮さんが佐伯さんの作品にじかに感じ取ったものだからです。

それは賞と変わりない一つの大切な評価です。


>それにより受賞できなかった方もいるわけですし、選挙運動で芸術から外れてしまっ
>た読者賞だけとっても、本人は自分の力に自信を持つことはできないでしょうし。
>あさよむの宣伝効果にはなりますが、編集者のためにはなっても佐伯様のためには
>なりません。

「選挙運動で芸術から外れてしまった読者賞」という先入観が、ハルさんの弱みです。
物事を理解する上でそれがつっかえています。

佐伯さんをかばうような言葉遣いで自分の意見を書いてらっしゃいますが、それは佐
伯さんを勝手に被害者にして貶めているのと変わりありません。

ハルさんに佐伯さんの言葉を代弁する権利はありませんし、そうすることで寮さんを
揶揄するのはいただけません。喧嘩をするなら自分の責任の範囲で、人を巻き込むの
はずるい事です。

文学に関心があるならば自分の言葉の使い方に関心を持ってください。


>このように相手の論理の矛盾、飛躍をつき、相手に指摘されようのない論理を伝
>えることが議論です。だから正誤の違いはあるものの、論理でないものなど基本
>的にはありません。

さて、この掲示板は、相手の論理の矛盾、飛躍を突くための場ではありません。
主催者がなんのためにどのような想いでこの場を提供しているのか、よく読み、理
解して、自分自身を主語に置いた言葉でそこから物事を語ってください。それが人に
伝える、「あなたの言葉」です。


>論理の本流ではない些末なミスだけを指摘した挙句、必要を感じないので反論す
>らしない。理不尽な校則にうるさい先生との、職員室での問答のようですね。論
>理でないものを説得するには、相手の論理の間違いを指摘することです。

人事のように語られていますが、
 私 を説得するには 私 の間違いを指摘することです。
と言い替えるなら、ハルさんがどれだけ他力本願なことを言っているか感じられま
すか?

どこかが人と摩擦して、間違ってるのかもしれないけれど
どこが間違っているのかわからなくて苦しいのなら、
訴えたいことの主観、主語にきちんと自分を据え、その言葉が派生させたものをよ
く見る。結果の責任をきちんと引き受ける、人の意見を一度、自分の胸に容れる。
自分で「自分が間違っている」と感じたところを、羞恥を超えてきちんと自分で見直
すこと。(それがイコール自分の感じたことを全否定することではありません)

ハルさんはここでのやり取りから感じることがきちんとあるんではないでしょうか。


>もし私が寮様の生徒なら、ここで引いてしまう講師に何かを教わろうとは思えま
>せん。議論に価するかを判断するのは今回だけは見逃して、納得のいく考えを教
>えていただけないでしょうか。教育者として。(学生さんの意見も聞いてみたかっ
>たですね。ディベートという授業もあるくらいですから。受講生としては立場的
>に無理でしょうか)

自分だったらあなたを評価しませんよとおどかして人を留めようとするのはあまり効
果のあるやり方ではありません。自分の価値や人の関心を試すとがっかりします。

自分の言葉を引き受けることもなく見逃してくださいというのは甘いです。そこに基
づかずに私たちはなにをハルさんに答えるのですか?
自分の言葉に至らないところがあったと感じるなら、それはきちんと自分で訂正して
行かなければいけません。

教育者という言葉を振りまわす前に、人に教えを求めることの重みを御自身で考えて
ください。学生さんの意見を聞きたいのであれば、人に話そうという思いを懐かせる
質問を削り出す努力が必要です。

人はそこに漫然と転がっているのではないです。
関わるということは、道の向こうから勝手にやってくるものとは違います。
あなたは一人の人としてここに立っている。
それを私は見ています。あなたの言葉を通して。

関わるとはそういうことです。
言葉は大切な船です。


山田  ひとりごと 2004年10月15日(金)09時44分43秒

・寮さんの掲示板では新しく来られる方の自己紹介が楽しみの一つだったのに、最近、自分の意見を聴いてくれぇぇ〜!と一所懸命な人は多いけどさっぱり自己紹介になってない「来訪者」の方が多いなぁ。イヤだなぁ。ってオレのことも忘れている人もいたから自己紹介をまたしよう。北海道在住の自営業・山田と申します。HNとして「リト」を使ってますが「山田」より「リト」の方が有名になってしまいました(…)。30代の男です。寮さんとは掲示板の常連である札幌在住の写真家・勇崎さんからご紹介を受け、02年にアイヌ絵本の取材をお手伝いしてからのお友達です。好きな作曲家は伊福部昭(最近ネタないからこの方の演奏会情報ばっかり書いてます)。アイヌ文化と歴史の勉強を私的にやっております。ってこれくらい書くのが自己紹介だったような気がするけどなぁ。まず「オレの話を聴いてくれぇ!」ってか。

・「議論に値するか」。極論すりゃどんな掲示板でもそれを決めるのは管理人さんでしょ。オレだって寮さんと意見の違うところいくらかあるけど、別に掲示板に書くほどのことはないから書いてないし、書いたとして「議論に値しない」といわれたらそれに従うけどな。ここは寮さんの掲示板だもん。ひょっとしたらマイムの方の演技見たらオレ感動したかもしれない。でもそれを批判した人の掲示板に土足であがりこんで「あ〜!**@¥・:@:!!」という勇気はないですよ。というかそこまで無神経になれるかなぁ。「私は寮さんとは違って〜という感想を持っております」ならわかるけど、批判すること自体が悪いような勢いで。

・下の下の方の書きこみ読んだけど、素晴らしいアメリカ賛美だなぁ。経済制裁でイラクの子供たちが殺されていることも今現在も無差別爆撃で殺されていることもなかったことになるんだなぁ。なんで戦後日本と比較できるのかさっぱりわからん。でも残念ながらこの思想が今、現実に権力を持ち、米軍という世界最大の殺し屋を動かしてるんだよなぁ。あぁウツだ…。03年3/20以来、精神状態おかしい男のひとりごと。

・さ、もうこのこと考えるのやめてやるべきことやろう!!寮さんお元気でね!!

silica  老婆心・・・と申しましょうか。 2004年10月15日(金)08時46分57秒
徒労に賭ける へのコメント

>もし私が寮様の生徒なら、ここで引いてしまう講師に何かを教わろうとは思えません。
>議論に価するかを判断するのは今回だけは見逃して、納得のいく考えを教えていただけ
>ないでしょうか。教育者として。(学生さんの意見も聞いてみたかったですね。
>ディベートという授業もあるくらいですから。受講生としては立場的に無理でしょうか)

もしハルさんが寮さんのサイトに刺激を受けて、寮さんと話をしてみたくなったのなら、お会いできる機会をこのサイトから見つけられると思います。それは、お膳立てをしてやってもらうようなことではもちろんありません。情熱があるのなら、発見してみてはいかがでしょう。

ちなみに、ハルさんがここで寮さんに対話してほしいと願っている内容は、申し訳ないけれど、「かまってください。」の域にとどまっており、議論として傍聴するのにおもしろくありません。

寮さんは、すでに本当にハルさんが欲しがっているものは、求めているものは何だろう、というところまで見つめておられると思います。

高まった気持ちを少し冷やして、若い学生さんであるハルさんが寮さんに興味を持たれたご縁を大切になさることを願っています。

ハル  徒労に賭ける 2004年10月15日(金)01時06分30秒
議論に価する異論は歓迎 へのコメント

>第一、舞台でそのような印象を与えたのならば、観客にとっては、それがその人の表現のすべてです。その人が普段どんないい人か、心やさしい人かなんて、まったく関係ありません。もし、その人の「私的」な部分を考慮しないと、その人の表現をよきものとして受け取れないようなものだとしたら、それはもう、その時点で、プロの芸術家としては失格です。芸術家は、表現こそが勝負です。舞台なら舞台がすべて、小説家なら小説がすべて。その人がいい人かどうかなんて、まったく関係ありません。プロというのは、そういうことです。見ず知らずの人を感動させられなくては、プロとは呼べません。
>佐伯ツカサには、強力に応援してくれる人々がいた。同じ教室で応募作の前身となる作品を批評しあう仲間がいた。掲示板を通じて、その作品を読んでくれた人々がいた。その人々が応援してくれた。それは、佐伯ツカサ自身の努力の賜物であり人徳でもあるわけです。

前者は清水氏の件で寮様がおっしゃられた考え方です。このような考え方をしている方から、後者のような発言がでるなど理解に苦しみます。前者の理論の通りに考えると、候補者の誰か一人でも選挙運動をしてしまったら、読者賞を文学という芸術とは違う分野におとしめるといえるのではないでしょうか。

>佐伯ツカサは、今回の文学界新人賞の一次選考37作品のうちのひとつに選ばれました。文学界新人賞は、毎回1500編ほども応募のある人気の賞です。残念ながら二次には残らなかったとのことですが、彼女が安定した力を発揮して作品を作り続けていることは事実。

大賞を受賞した事実とともに、この事実は佐伯様の文才の証明、そしてその才能を見抜いた寮様の眼力の証明になります。それだけです。この事実が選挙運動の許可を与えうる要素は、先に示したとおりありません。それにご自分の見込み違いだったらと、不安には思わなかったのでしょうか。間違いだったではすまなかったでしょう。それにより受賞できなかった方もいるわけですし、選挙運動で芸術から外れてしまった読者賞だけとっても、本人は自分の力に自信を持つことはできないでしょうし。あさよむの宣伝効果にはなりますが、編集者のためにはなっても佐伯様のためにはなりません。友達ではない、見ず知らずの人にも認めてもらうために応募したんでしょうに。

このように相手の論理の矛盾、飛躍をつき、相手に指摘されようのない論理を伝えることが議論です。だから正誤の違いはあるものの、論理でないものなど基本的にはありません。でも例えば宗教や思想に論理はなく、論理は介入できません。それぞれに理由無く絶対的なものがあり、そこから数珠繋ぎに論理が発展していくからです。

>投稿される異論は、論理というよりは、むしろ「気分」であることのほうが多く、いちいち反論するに及ばないものも多いと思います。そういうものには、論理で反論しても意味がない。がんばっても徒労になってしまう。論理でない者を論理で説得することは、不可能です。
>日本はまだ天皇制を廃止していないし、おっしゃることに数々の異論はありますが、すべてに応える必要を感じないので、書きません。

愕然としました。天皇制、生徒ではなく学生などといった、論理の本流ではない些末なミスだけを指摘した挙句、必要を感じないので反論すらしない。理不尽な校則にうるさい先生との、職員室での問答のようですね。論理でないものを説得するには、相手の論理の間違いを指摘することです。

もし私が寮様の生徒なら、ここで引いてしまう講師に何かを教わろうとは思えません。議論に価するかを判断するのは今回だけは見逃して、納得のいく考えを教えていただけないでしょうか。教育者として。(学生さんの意見も聞いてみたかったですね。ディベートという授業もあるくらいですから。受講生としては立場的に無理でしょうか)

追記
書き忘れました。佐伯様、大賞受賞おめでとうございます。読者賞にとどまらなかったことで、このように議論の引き合いに出しても佐伯様の非を訴えることにはならないと判断しました。胸を張って、作家として活躍していただきたいと思います。色々申し訳ありません。

寮美千子  議論に価する異論は歓迎 2004年10月14日(木)03時13分32秒
寮美千子様 へのコメント

▼ハルさま

日本はまだ天皇制を廃止していないし、おっしゃることに数々の異論はありますが、すべてに応える必要を感じないので、書きません。

しかし、一点だけ、あさよむ携帯文学賞についてだけははっきりさせておきたいと思います。「読者大賞」というのは、もともと読者と交流的な仕掛けをつくって読んでくれる人を増やすための手法です。この賞を知った人々が、賞のことをあちこちで広報することは、あさよむ携帯文学賞主催者にとっても、歓迎すべきことです。

それによる投票で不公平が生まれたとしても許容されることが前提のシステムです。友人が多くて動員をかけることが可能なら、動員をかけても構わないシステムなのです。むしろ、動員をかけることでより多くの人に「あさよむ携帯文学賞」のことを知ってもらいたい、ということなのです。

佐伯ツカサには、強力に応援してくれる人々がいた。同じ教室で応募作の前身となる作品を批評しあう仲間がいた。掲示板を通じて、その作品を読んでくれた人々がいた。その人々が応援してくれた。それは、佐伯ツカサ自身の努力の賜物であり人徳でもあるわけです。

もしも、寮美千子のファンが作品を読まずにやみくもに投票したとしても、それは寮美千子の授業をとったという本人の選択が反映されているだけのことです。そのラッキーをつかみとる能力が、彼女にあったということです。そういうことも、人生の行方を決める大きな要因です。

読者賞を取ったからといって、大賞がとれるとは限らない。大賞は客観的な評価です。佐伯ツカサは結果的に大賞を取りました。これは、編集部の客観的評価も高かったことを示します。

けれど、もし大賞を逃したとしても、それで佐伯ツカサが「被害者」になるでしょうか。わたしはそうは思いません。それだけ応援してくれる人がたくさんいたということです。そういう運をつかみとる力が彼女にはあったということです。それを励みに、もっともっとがんばってもらいたいと思います。そのための読者賞です。

第一、佐伯ツカサの作品がそれほどひどかったら、わたしは投票を呼びかけたりしません。むしろ、そのような作品を最終選考に残した編集部の良識を疑います。わたしは、単に佐伯ツカサが教え子だから推したわけではなく、そこに才能の煌めきを感じるからこそ、世に出る機会を得てほしいと切望しているのです。他の応募作も読みましたが、佐伯ツカサが内容的にもダントツでした。

わたしはこれからも、才能ある学生が(大学で学ぶ者のことは「生徒」ではなく「学生」と呼びます)世に出る機会があるなら、どんな時も全力で応援したいと思います。

因みに、佐伯ツカサは、今回の文学界新人賞の一次選考37作品のうちのひとつに選ばれました。文学界新人賞は、毎回1500編ほども応募のある人気の賞です。残念ながら二次には残らなかったとのことですが、彼女が安定した力を発揮して作品を作り続けていることは事実。喜ばしい限りです。

▼ひとりごと

寮美千子に対して異論を唱える人々がいます。ある種の人にとっては、寮美千子は、かなり目障りな、気になる存在らしいのです。わざわざ労力を費やして投稿するほどに気になる存在らしい。つまり、関心がある。(関心とは愛の別名?) 

投稿される異論は、論理というよりは、むしろ「気分」であることのほうが多く、いちいち反論するに及ばないものも多いと思います。そういうものには、論理で反論しても意味がない。がんばっても徒労になってしまう。論理でない者を論理で説得することは、不可能です。問題は「気分」。では、その「気分」とはなんなのか? そこに、大きな鍵があるように、最近感じています。

いきなり飛ぶけれど、アメリカの行動も、論理では理解できない部分がある。理屈でないものが人々を動かしている。それについて、いろいろと考える今日この頃です。

追伸:議論に価する異論は歓迎です。

ハル  寮美千子様 2004年10月14日(木)02時01分10秒

以下の文章は、こちらの掲示板での議論がふさわしいと考え、カフェルミエールからこちらに移動しました。辻井さん、サンキュ。寮美千子
--------------

【ハル  寮美千子様 2004年10月14日(木)00時26分20秒】

はじめまして、ハルと申します。物語の作法の批評など、勝手ながらいつも楽しく拝見させていただいていました。これからもご迷惑でなければ拝見させていただきたいと思っております。

作家であり、教育者でもあられるとか。そのような影響力のある立場の方でなかったならこんなことを意見しようとは思わなかったのでしょうが、生徒様をはじめとして、全くといっていいほど寮様の考えに疑問をもった意見が見られないので僭越ながら思い至った次第です。弱冠失礼な部分もありますが、耳を傾けていただければ幸いです。

寮様の意見や返信を見ていると、一見正しいと思えるし、世間でもそれが正しいとされるであろうものが多くを占めているように私には見えます(私には、です)。しかし本当にそうなのでしょうか。

例えば清水氏のマイムの件について。

>同じものを見てある人はいいといい、ある人は悪いという。そうなる理由のひとつは、受け手の資質にあります。すべての芸術が万人に感銘を与えるわけではない。ある人はいいと思い、ある人はそう思わない。自然なことです。
>いやしくもプロをなのっている芸人が、結局はそういうコミュニティーに支えられ「教育」という特殊な場で棲息していることに、わたしは憤りを感じます。半端な芸を見せられる子どもたちを、心底気の毒だと思います。

前者の点から、『私は私、あなたはあなた』という考えに至るまではまったく問題ないのですが、その後清水氏のマイムを散々罵倒した挙句、半端と言い切ってしまうのはどうでしょうか。どんなに叫んでもSKYさんが感動したことは事実であり、清水氏がマイムのプロとしてやっていけているのも事実です。子供に理解力がなかっただけとは思わないのでしょうか。子供は正直とLumiereでおっしゃっておられましたが、それならもはや小説より漫画のほうが相対的に上と言えるでしょう。芸術にあう定規がないのは作家である寮様も痛いほどわかっているように前者の文では見受けられるのですが、私にはその後の矛盾が垣間見られてなりません。

佐世保の事件に関する意見についてもそうです。バーチャル、リアル、空虚といった言葉を多用して背景やこれからなすべきことについて考えておられますが、そのような他者への安易な想像は意味をなさないのではないでしょうか。小さい頃人を殺したいと思い、無益な妄想を巡らしたことはないのでしょうか。そしてその妄想が気がつくと無くなっていたプロセスを思い返したことはないのでしょうか。想像力は受け手に対する思いやりに使うものであって、他人の行動の背景を安易に決め付けるためのものではないのではないでしょうか。

イラクの戦争についてもそうです。

>わたしはいいたい。だったら、イラクへ武装した自衛隊を派遣するなと。殺される危険のみならず、殺す側に回る可能性もあるというのに、そんなことを是認していいのか。自衛隊員が、米軍が新たに投下した200トンもの劣化ウラン弾により低線量被曝することも避けられない。

>国家や大人が、命を軽んじる世界をつくっている。子どもたちに命の大切さを訴えるなら、まず、大人が命を大切にしなければならないというのに。

このような話を例えば大学の講義でなさる時に、湾岸戦争の発端がイラクのクウェート侵略にあったこと、そしてその時の政権を握っていたのがフセインであることは触れているのでしょうか。イラク派兵を支持するような政治家を選ぶ国民に責任があるともおっしゃっておられましたが、それならフセイン政権を自分達で対処しなかったイラク国民にも責任はあり、罪のないイラク市民が…(以下省略)というくだりの戦争反対意見は安易に思えます。今の日本の発展はあの敗戦からの復興であり、天皇制の廃止や復活した国民の自由にあり、フセイン政権下の国民に自由などなかったことは明らかです。アメリカの私欲も含まれてはいるでしょうが、戦争によって世界の平和は保たれ、イラクのこれから生まれる子供が日本のような平和を手にいれられたと将来思う可能性は十分にあります。事実上、世界のリーダーであり、辛い役回りともいえるアメリカにこれほど批判を浴びせ、平和を叫ぶことが果たして本当に正しいのでしょうか。ましてこの文は長崎の少年犯罪の事件によせて書かれています。少年犯罪と戦争をつなげてしまうなど安易の極みではないでしょうか。

自己紹介遅れましたが、あさよむ携帯文学賞について検索していた所、流れついた学生です。だからここで投票を募っていたのも、それが原因かは定かではありませんが、あのダントツの結果も知っています。大賞が取れたからよかったようなものの、もし読者賞だけだったら一番の被害者は佐伯さんだったでしょう。「でも読んでから投票してください」という前置きに意味があるでしょうか。作家であり教師であるという影響力の大きさに対する自覚に欠けるのではないでしょうか。

長々と意見してしまいましたがいくつかの安易さと矛盾を感じて書き込みました。ただこのホームページの魅力も重々承知しているつもりです。心の片隅に、このような考えもあるんだなという実感を置いておいていただければ幸いです。

lumi0049.html#lumi20041014002620

辻井 豊  あの。。。 2004年10月14日(木)01時12分10秒

軽い掲示板でやっておられること、重い掲示板へ誘導された方が良いのでは。。。
軽い方に普段書き込まれている方々も、困惑されてはいないでしょうか?


  怒りや憎しみが利用されるとき 2004年10月09日(土)03時38分08秒
加害者の不在が世界にさらなる被害者を生む へのコメント

「死刑」
 それについて、やむをえない、仕方がなかった、と「言える」ようなことは本当はいつも一つもないんじゃないかと思っています。

 その人が同じこの世に生きていると考えるだけで辛く苦しい、
 その人が罰されること、あるいは処刑されることを願うことしか解決を考えられない。

 そんな思いをおぼろに思い浮かべることはできますが、それは「出来る」とは言えないくらいのことだと思いますし、誰かを殺してやりたいと心底思っても、どこか底の1ミリで冷静に「それはできない」と考えるのが自分です。処罰を望んでもそうした自分を引きとめる生来のいやないい子さが、出て来ます。(それはそれで一つの利点も持つ立場なんだろうなと、恥じながら、考えます。)

 死刑を望む気持ち。
 それそのものを指差していけませんと言うことはできない。
 それは良い、良くない、以前に強烈にそこに存在している感情だから。
 けれど感情を受けとめたり昇華したり叶えることと、物事の解決や解明は、別々のところで動いていくし、そうでなければ憎しみを持つ人間は辛いです。
 そのためになにかが間に立つものだと私は考えていましたが、実際は違っていた。
 
 遺族の気持ちを受け止めることと、「国民」の処罰感情を受け止めることと、「死刑」という制度は、遠く離れているべきことであるし、べき、ということとは別の意味合いで実際にそうなんではないかと思います。

 執行を決めるのが誰であったか忘れてしまったので、どういう判断が間でなされるのかがわかりません。これはちょっと勉強してきます。

 子どもが殺される犯罪に関してはどこでも厳しいのは変わりなく、痛ましい事件てあったから死刑を早く執行するとか、被告がそれしか望んでおらず改善の余地がないから執行するのだとか、いうのは少し現実味がないような気がします。

 実際宅間被告は死刑になりたかっらから、自殺したかったから、そのためにたくさん、人を殺そうと思ったと供述したと報道されていて、よくわからないけれどみんながそれを望んでいるようだから、手の尽くしようがないから、あの世に送ってしまおう、としか取れなかったです。私は。

 ここで考えなければいけない一番重要なことは、死刑に代わるものがどんなものなのか、
 それをどう構築して行けるかというアイデアを出しつづけることなのではないかと思います。

 それができたら死刑なんてなくなるんではないかなと、まあ夢みたいな絵空事みたいなことを茫漠と考えます。
 実際にそれは死刑よりも有効であれば、人間は死刑なんてしたいはずはないですから。

 それをできれば、死刑しかないはずと思わせたい人の誘導にも、負けないんです。
(なんだか自分で書いていることをよくわからなくなってきましたが)


「テロのこと」
 戦争が憎しみから始まったとしても、それは実行される段階で憎しみからは切り離されていて、それによって、たとえ憎しみに対する補償がなされようとしたとしても、戦争は止まらないような気がします。
 戦争を実際にやっている人は、憎しみを利用している。
 憎しみを利用されている。

「加害者」
 自分の加えた危害を、以前に受けた被害の対価だと言うこと。――を、許すこと。
”正当防衛”という考えの、拡大解釈。

 危害を加えられそうになって自分を守ろうとした手が相手に怪我をさせたら正当防衛と言いますが、危害を加えられてのち、仕返しに行ったらそれは復讐と言います。
 危害を加えられたことを恨み、別の弱いものを相手にそれを晴らしてもそれは、防衛ではありません。加害です。

 そういう厳しいところに立たされているのがまた、被害者の立場でもあります。
 自分が加害者にならないかという不安をいつも抱えているのが被害者の立場です。

 それを解決するのは復讐の手助けをすることでなく、その気持ちを分かつこと、受け止めること、直接的な復讐を止めるためにも、周囲の人は「そこに存在」しなければいけない。
 弱さを切り離したあくまで一般論ですが。

 その気持ちを利用したのが今回の戦争ではないでしょうか。
 それは復讐のためですらないかもしれませんね。

 あなたと心中しますよ、一緒について行きますよ、と言いながら、自分たちが危機に瀕しないための助力であるなら、日本もそのために、戦地を利用することになってしまう。
 平和のための、はこの場合、空襲で死んでしまう人たちには適用されない。
 それ意外の人たちすべてが死なないための、平和活動。
 それに嘘を感じないで居られるわけがありません。


「その気持ちを分かつこと、受け止めること、直接的な復讐を止めるためにも、周囲の人はそこに存在しなければいけない」
 のですが、そういう存在になれるほど足をしっかり世の中に踏ん張っている人はあまりいないのでしょうか。

 ガソリンスタンドの従業員はそのとき何を感じたんだろう。
 どうしたいと思っただろう。どうしようと思っただろう。
 今、何を思っているだろう。

 みんな、という言葉はもう死語なのでしょうか。
 誰かの子どもが自分に迫るものではもうないのでしょうか。(本当に?)
 人の子どもも自分が守るという気持ちはもう起こされないものでしょうか。
 まだ守られる立場なのでしょうか。
 私たちが自分で自分を守るしかない「子ども」だからでしょうか。(本当に?)

 誰かを「守りたい」と思った時、守り抜きたいと思った時、見えてくることも、
 自分に起こることに埋没してしまっていたら、気がつきません。
 そういう指と指の間から、小さな者が零れ落ちて行きます。


 疲れてしまって、磨耗してしまって、
 感じることを取り落として行ったのちに、
 大事なものが守られることなく失われて行き、


 毎日がつらいものでもどうか、感じたことを亡くすことなく、生きていってほしいと思うものなのです。この厳しい世の中の中ならなおのことです。
 人を助けられないことは、自分を助けられないことでもある。
 どうかそれを悔やめるだけ悔やみ、後悔して、望みをつないで、諦めず、生きていってほしい。できないことのほうが多いのは、まだはじまりに過ぎません。


 自分の持つ力をいったい何のために使えるのか、誰のためなら走れるのか。
 いつも考えています。


  人を守る力 2004年10月05日(火)02時43分02秒
加害者の不在が世界にさらなる被害者を生む へのコメント

寮さん、論文の制作お疲れ様です。
以前に寮さんが書いてくださったこと、覚えているので、
今一番にやること、をされていてのことだろうなあと70%くらい思っていましたので、
寮さんのお返事についてはあんまり激しくは(^^ゞ心配していずに待っていました。
早速書いてくださってすみません、というかありがとうございます。

掲示板に他の方の書き込みもあまりなくなってしまっていたので、
少し心配をした次第です。
自分のせいかなって弱気な心配もありましたが、
つまり「うまく」書けば、

ここに来ている方々、お元気かな?
ということですね。

発言して関わらない話題に関しても結構読んでいます。関心を持っています。


「加害者の不在」
人を守るということは、たぶん自分が傷つくかもしれないことで、
自分を守らないことが数分含まれるくらいでないと守れない場合もあって、
そこに傍観者という立場はない、んですが、

事件が加害者と被害者が生まれて終わって、それが人の口に上る時や、
再現映画になる時、そこには余裕を持った傍観者の視点が、ほぼほとんど、
はさまれます。それが主観となります。
事件という瞬間には存在しなかった、文字通り存在しなかった視点が、
つくられます。

そこに痛みはありません。
殺すほうがその手に感じなければならなかったはずの痛みも、
殺された人間の感じた痛みも。

それはすなわち、それを語る人間や、映画を撮る人間の心が痛まなかったか、
痛くない振りをして語ることが現実を語ることだと思っているか、
痛みを感じて生きてきて摩滅したのか。
それを知るのは私ではなくてそれぞれの人だと思いますが、、


人は人が考えもしない理由で人を殺すし、
「抵抗できない人間」(場合によってはそういう条件の揃った家)
を選ぶ目の上にすべての人たちがさらされていて
隠されている感情の中でされるその選別や計画を、
あらかじめ防ぐことは大変に難しい。

難しいから、
だけど、大事な人間を守るために現実を見てそれに心を痛め行動しつづけていなければいけない。
諦めたり磨耗したら、守れない。

それでなくても守れないのに、と、思うのです。


毎日誰かが死んでいく世の中で、それが明日には自分の大事な人かもしれないというより前に、
自分かもしれないと怯えて、
自分を守るために人を救えないなら、
そんなに胸の痛いことはありません。
神様はひっぱたかれる前にぴっぱたけと教えただろうか。

それが現実だとか格好の良いようなことを言う人もいるけれど、
最後に自分を守る人間という現実を選ぶのは自分自身です。
それが与えられた現実だというなら自分の力で跳ね返して生きていくしかない。
それが意地というものです。

ここで踏みとどまらなくてどこへ行くというんだろう。

誰かを守れる自分がいるんではなくて、誰かを守りたいと思った瞬間に強くなれたんだ、
というような、むかし読んだ小説の一節を思い出しました。


知らない人への「こんにちは」という挨拶の中に、
人は昔、あなたを傷つけませんというメッセージを送りながら、
知らない人たちと社会を築いてきたんではないかと思います。

そこに誰かとはわからないから挨拶をしないという冷たさはなく、
わからないものと挨拶を交わしあって人は折衝してきたのではないでしょうか。


感情に走りすぎてちょっとまとまりませんでしたので、
またあらためてレスというかたちで、投稿させていただきます。



寮美千子  加害者の不在が世界にさらなる被害者を生む 2004年10月04日(月)00時48分27秒
死刑執行、その他 へのコメント

このところ、宮澤賢治と大正時代の相対性理論の受容に関する論文制作に没頭していた寮美千子です。ようやく一区切りつきました。

▼人が人を殺すことにいかなる正当性も認めてはいけない
望ちゃん。掲示板が止まっていたのは、望ちゃんのせいじゃないから安心してください。「それは違うよ」と思うような内容の投稿が最後だと、黙っていられないけれど、きちんと納得のいくことが書かれていると、安心して放っておけるのです。みんな、その最後の投稿をよく読んで、考えてくれたらいいなあと思います。だから、わざと放置している面もあります。

望ちゃんが書いてくれた「大変な事件の報道を見てうんざりすればいい」とうのは、実に正しいと思います。どんなに大変な事件も、次々押し寄せる新しいニュースの影に隠れて、簡単に「過去のこと」になってしまう。被害者にとっても、加害者にとっても、それは絶対に過去にはなりはしないのに。それを世間的に無理矢理「過去」にしてしまおうというのが、宅間死刑囚の処刑だったと思います。

わたしも、仕事をしながら、このことには様々な思いを抱きました。宅間の死でほんとうに溜飲が下がった人なんて、一人もいないはずです。万が一いたとしたら、それは宅間本人だったでしょう。なぜ、そんな事件を起こしてしまったか。それは、本人が生きていなければ、解明もできない。結局のところ、すべてを闇に葬ってしまったことにしかなりません。それも、人が人を殺すという「死刑」という最悪の方法で。

どんな事情であろうとも、人が人を殺すことに正当性を認めない。これを人類の共通理解としない限り、戦争もなくならないと、わたしは思っています。

▼加害者の不在が幼い兄弟の命を奪った
小山で川に投げ捨てられた幼い二人の兄弟のことも、余りにも痛ましい事件でした。これについて、ドロンコ氏が、ご自身の掲示板で、注目すべき発言をしていました。一部引用させてもらいます。
昨日、夕方のニュースを見ていて、ぼくは心底驚き、そして怒りを覚えずにはいられなかった。――ぼくが言いたいのは、この、幼い児童二人の誘拐・殺害という痛ましい事件の、“中心人物”たちについてではない。いわば、脇役中の脇役とでもいえそうな、実に“地味な”立場の人間についてだ。

それは、この事件が起きた日、二人を殺害した容疑者が、二人を連れて立ち寄ったというガソリンスタンドの従業員のことだ。もちろんぼくは、彼の顔も名前も知らないし、年齢も知らない。ただ、その声や話しぶりからすると、かなり若いのだろうということはわかる。下手をすると、まだ20代の半ばか、それ以下でさえあるかも知れない。だから、彼にはまだ十分な社会的経験がないのだとしても、ある程度は割り引いて考えなければならないには違いない。

しかし、彼は、TVのスタッフにマイクを向けられて、こう言ったのだ。すなわち、自分は、あの二人が、容疑者にトイレの中に連れて行かれて、中でひどく殴られているようだということはわかっていた、実際にトイレから出てきた二人(兄の一斗ちゃんの方だけ?)の顔はひどく腫れていて、殴られたことに間違いはないこともわかった、と。

でも、それだけのことがわかっていても、彼は何もしなかった。まったく何も――。
まさかと思ったのですが、その後わたしが見たニュースにも、このガソリンスタンド店員の映像があり、その時はなんと「男は車のバンパーに子どもの頭を激しく何度もぶつけていた」と発言していて、仰天しました。そして、ドロンコ氏同様、心底やりきれない気持ちになりました。

殺された兄弟の父親が、初期の会見で「犯人が憎い。殺してやりたい」とだけいい、虐待の事実を知った後も加害者と同居をした自分を少しも責めていないことも、納得のいかないことでした。この父親が、葬儀の時にした「殺された二人の分も幸せになってほしいと、みんなに祈ってもらいたい」といった発言は、もう理解を遙かに超えていました。

ガソリンスタンドの店員も、父親も、救える立場にあったのに、子どもたちを救わなかった。つまり、加害者同然です。しかし、ここには加害者がいない。いるのは、無垢な傍観者と被害者ばかりです。

その「加害者の不在」が、子どもたちの命を奪ったのだと思わずにはいられません。幼いながら助け合って生きていたという兄弟。そのまわりにいたのが、このような人々であったということは、なんというつらく悲しいことでしょう。

結局、この父親も覚醒剤で逮捕されました。加害者とのいかにも不自然な同居生活は、実は覚醒剤を手に入れるためだったのかもしれない。ひどい。ひどすぎるけれど、そのひどさというのは、父親が覚醒剤をやっていてもいなくても同じです。いるのは無垢な傍観者と被害者ばかり。加害者の不在が、結局は兄弟を死に追いやった。

▼国際的な加害者の不在が引き起こす悲劇
9.11の報道を見てみても、同じことを感じました。アメリカは、完全なる「被害者」であり、そのような被害者を生みだしたテロは、悪魔のような存在だという認識です。被害者には、復讐をする正当性がある。あるいは、テロから身を守る権利がある。なぜなら、彼らは一方的な被害者だから。

けれど、どうしてそのテロが起こったのかをみれば、逆のことがいえるのです。過激なイスラム勢力が、自らを被害者だと思い、その正当な報復と抗議のためにテロを行った。アメリカが加害者だと思っている過激イスラム勢力は、自らは被害者だと思っている。

ここにあるのも、加害者の不在です。自らを被害者と同定してしまえば、どんな残忍な行為も許されることになる。それが何を生んだのか。9.11のビル崩壊で亡くなった二千人を超える尊い命。さらにその半数になる千人のアメリカ兵の命が失われた。負傷者や、そのために障碍者になった人は、いったいどれだけいるでしょうか。さらに、その十倍を超える一万人以上のアフガニスタン市民が、イラク市民が、命を落としている。こんな馬鹿なことが、これ以上続けられていいはずがありません。

それを傍観している。声を上げて反対といえば、止められたかも知れない事態を、止めずにいる。あのガソリンスタンドの店員と同じことをしているのが、日本です。

確かに被害者であるかもしれない。けれども、他者の生殺与奪の大きな権力を握ったものは、常に自らが加害者であるかもしれない可能性について反芻しなければならない。被害者意識だけを振り回していては、事態は悪化する一方です。

▼弱者こそがほんとうの被害者
ほんとうの被害者がいます。それは権力のない弱者です。あの幼い兄弟は、誰に対しても加害者ではなかった。加害者になりようがなかった。爆撃を受けたアフガニスタンやイラクの市民もそうです。

権力を持つ人々は、自らの力が何を引き起こしているのかを、常に考えなくてはいけない。

わたしたち日本の市民は、権力ある強者の側に立っていることを、いつも忘れてはいけないと思います。平和憲法を無視して派兵をする国家を許している国民は、あのガソリンスタンドの店員と同じ立場であるということを、忘れてはいけないのです。

▼間違っているのは憲法ではなく現実の方
「憲法が実情に合わなくなったので、改正を」という声があがっています。それは、取りも直さず、憲法を無視してきたという証ではありませんか。こんな馬鹿なことが、まかり通っていいはずがありません。一番大切にしなければならない憲法を破っておいて「だって現実が違うから憲法を変えろ」なとどいうのは、あまりにも本末転倒ではありませんか。

イラクへの派兵は既成事実になっています。けれども、明らかに違憲です。既成事実だから当たり前のこととして捕らえるのではなく、憲法の大本の精神を思い起こし、おかしいことはおかしいと、言い続けることが大切だとわたしは思います。間違っているのは憲法ではなく現実の方なのです。

平和な地球にするために、わたしたち一人ずつが、大切なことを大切にしなければと思います。望ちゃんの、絶えざる自己検証は、その意味でもほんとうにすばらしいことだと思います。

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