寮美千子ホームページ ハルモニア Cafe Lunatique (No.0040)

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  死刑執行、その他 2004年10月03日(日)16時07分39秒 http://www.h4.dion.ne.jp/~eulalie/top.htm

こんにちは。
私の投稿を最後に掲示板が止まってしまっているので、話をそらしてしまったかなとちょっとだけ気になっています。

ほんとうにこのごろ、世の中(日本)で毎日のように遺体が発見されたりしているので、
(テロと大量殺人は終わっていませんし)
言葉でわざわざそれを俎上にのせていくことの空しさのほうが、どんどん大きくなる時
かも知れません。
空しいと感じることを、感じていることを、忘れないでおきたいです。


先日、宅間守被告の死刑が執行されました。
あまりの速さに、お荷物を降ろしてしまったような印象を受けました。
ただ、読売を取っているのですが、新聞の報道では執行に区切りを求めた遺族の方の言葉がいくつも載っていて、そのためにはこれはそういう面では、良かったんだろうかと思いながら釈然としない気持ちがあります。

死刑について、それと加害者と被害者との関わりを知りたくて「弟を殺した彼と、僕」(著:原田正治 ポプラ社刊)という本を勇気を出して買ってきました。(信頼していた知人に弟を保険金目当てで殺された方の、その後の加害者との関わり、関わるための運動と望まなかった死刑の執行の周辺を、ご本人が書かれた本です。)それから図書館から「犯罪被害者遺族」(編著:小西聖子 東京書籍刊)という本を借りて読んでいます。
自分にとっては読むこと自体が厳しい時もある本ですが、読むと自分にある感情がそこに書かれていて安堵することもあり、知るということはそれと対峙する力を得ることでもあると思いました。読了して感想等書かせていただければと思います。

私、こういうことばかりに埋もれているかと言いますとそうでもなく、今はもっぱら人形作りとフランスやドイツのアンティークドールを骨董屋さん等に見に行くことを生きがいにどちらかというとそちらに埋もれて生きています。

両方あっての自分です。
被害感情というものを抱えている自分を、ことさら罪悪にも恥にも思う必要はない、と、自らを励ましつつ、人生の人と共有される部分や、楽しみの部分を失ってはならないという、モットーで。

固いところの多い文章ですがお付き合いいただけたら幸いなのです。

  メディア-メディウム 2004年09月05日(日)03時00分18秒 http://www.h4.dion.ne.jp/~eulalie/top.htm
北オセチア共和国・学校占拠事件/世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない へのコメント

寮さん、こんにちは。
テレビのニュースや新聞で痛ましい事件を見るたびに、のちの人生につらいものを抱えていかざるを得ない人が毎日増えていくことを思い、その割にその人たちがそれぞれに抱える現実的な苦労、日々のやりづらいことなどは時々思い出したように特集されるけれど、本当の意味で社会的に認知されているとは言い難いなあ、と、思います。

それは、ある意味では誰もが耐えて来たことだから口にされず、ある意味では、誰もがそれほどと思っていないために見過ごされていくことで、どちらにせよそれでも、私はそこに不特定多数の人の力が必要なのだと思います。

本当は身近な人だけで充分だったのかもしれない。
けれど人が孤立しているような現代で、身近に頼むことが難しくなっている人が現に存在していることを思うと、名前のない人間でも入っていけるような閉じていない、コミュニティなりシステムなりが(それはもちろん人間でできていて)、必要だと思います。
そしてそれがもっときちんと、基礎的に、人に知られているということが。

子どもがたくさん殺されたという。本当に非情に、無差別に。
大阪の殺傷事件の時のようなやるせなさを感じます。
守るべきもの、守られるべきものがいとも簡単に失われ殺されることを知ると、そこに対しての感覚が知らず鈍く磨耗してしまう。
こういう世の中、と思ってしまうことが、時々ひどく重いものとして感じられます。

私はそれが現実だからという言葉が嫌いで、
けれど現実を認識するために、誰かを守るために、
それが現実であるという事実を見るだけの足元の確かさを欲します。
(元来私の家系はお人好しらしく、イコール『騙されやすさ』の極地に居りますので、その長所を殺さずに、成長したいものです)



> そう投げかけると「わたしは2週間ずっと続くオリンピック報道にうんざりしたけれど、も
> し、美浜事故と沖縄の話がニュースの8、9割を占める日が二週間続いたら、どんな気分に
> なると思いますか?」という内容の返答が返ってきて驚愕した。しかも、だれもその意見に
> 異を唱えないことにも驚いた。

私はニュースを見ていて個人的に引っかかる事件というのがあって、それが尻切れとんぼで放送されなくなると「ああ水面下に潜ってしまった」となんとなく気になります。
可能であればネット上の記事を追うことで補えますが、それは個人的なレベルでの活動ですし、やはりニュース番組や新聞報道は、共有される場としてのメディアなんだと思います。
そこで扱われなくなった事件というのは、社会から影を薄くしてしまう。

上記引用の場合は、大変な事件の報道を見てうんざりすればいいんだと思います。
それが日本で実際に起きていることなのだから。
いくらでもやるせなくなって怒って嫌な気持ちになってそれを記憶すればいいんです。
そうしたらそれはよそごとじゃなくなるから。(ちょっと極論ですけれどね)

オリンピックの高揚は、祭事のように人々の心をたかめて、開放的にするのはとてもいいと思います。事件のニュースとオリンピックのニュースは住み分けたら良いのでしょうかね。

仕事や生活で疲れているのに嫌なニュースは見たくない、心情的に理解できます。
けれど、なんでしょうね、社会、というもの。
そこで起きていることを知らずにどうして社会人で居られるだろうか。
みながみな、自分を保つことに精一杯で社会を持つことを諦めたら、
人はバラバラです。
どこまでも。

気持ちよいことは大事。生きていく上で。
けれど気持ちよくないことをその目で見ることでしか、本当に生きることはできないし、
誰かを守ることもできないように思います。

どうしてか、右手の中に左手を上げると、まるでその左手が右手をひっぱたいたかのような「反応」が起こる。
だがそうではなくて、つまりは右手が生きていくことに、左手が生きていることも必要というような、それを考えることは他の否定にはならないということを、
恐怖や不快を鎮めて、
じっくりと考えてみてほしいなと思います。

余裕がほしいですね。ほんと。 >自分も含め


ちょっと秋めいてきてへこんでいて、このような話題の時にしか反応しない「恨み勝ち常態」な望ですが、浮上してきたらまた楽しいことも書きますので(;_;)/

寮美千子  北オセチア共和国・学校占拠事件/世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない 2004年09月04日(土)18時46分01秒


またしても、痛ましいテロ事件が起こった。その犠牲者の多さに、そして幼い子どもたちが犠牲となったことに、慄然とする。
【死者250人に 武装集団27人死亡、4人が逃走】
ロシア南部の北オセチア共和国で起きた学校占拠事件で、ロシア連邦軍は4日未明(日本時間4日早朝)、学校校舎を戦車で砲撃するなどして、立てこもっていた武装集団を完全制圧した。インタファクス通信は現地対策本部の話として、死者が約250人に上ったと伝えた。同本部は武装集団のうち27人が死亡、3人を逮捕したとしているが、4人が逃走した可能性がある。死亡したうち10人はアラブ人で、チェチェン独立を求める勢力に国際テロ組織が連携したと見ている。ロシアのプーチン大統領は同日早朝、現地を訪問した。(朝日新聞 09/04 14:21)

【各国、対テロ連帯表明 】
ブッシュ米大統領は3日、ウィスコンシン州で演説し、ロシアの学校占拠事件で多数の犠牲者が出たことについて「テロリストたちが文明世界をどれほど脅かしているかという厳しい現実を改めて想起させる一例だ」と述べ、武装集団を非難した。 (朝日新聞 09/04 12:52)
あまりにも凄惨な、胸の痛む事件だ。どんな理由があろうとも、テロは許されない。

けれども、テロを徹底的に叩くことが正義かと言えば、それも違う。このテロ事件で殺された何倍もの市民が、アメリカの「テロ撲滅戦略」のために、アフガニスタンやイラクで殺されている。この事件に強い衝撃を受けるのだとしたら、わたしたちは同じように、「テロ撲滅」の名の下で行われている「正しい戦争」にも、身の毛をよだたせないといけない。

テロはいけない。しかし、テロリストだって、不満がなければ命を賭けてまでそんな行動に出るはずもない。テロも酷いが、テロ行為を誘発する世界もまた間違っているのだ。

「テロに屈してはいけない」ということが、いかにも誇り高き行動のように喧伝される。屈する必要はない。けれども、テロを生みだしてしまうこの社会の構造そのもの、われわれが暮らしている世界の枠組みそのものを、自ら問い直すことが必要だ。

ブッシュ大統領の言葉は、そのまま単語を入替えれば、イラクのテロリストたちの言葉になるだろう。
「ブッシュ大統領が文明世界をどれほど脅かしているかという厳しい現実を改めて想起させる一例だ」と述べ、世界一の武装集団であるアメリカを非難した。
こう言い換えても、少しも不自然ではない。


ある科学ジャーナリズム関連のメーリングリストで、オリンピック報道に関して、国による偏重が著しいのではないか、と話題になった。そして、かなり活発に意見が交わされていた。

確かに、その枠組みの中では、その問題は議論に価するだろう。けれども、わたしは思ったのだ。そもそも、オリンピック報道のために、美浜原発の事故や、沖縄のヘリコプター墜落事故の報道が、影に隠れてしまっている。そのことの方が、ずっと問題ではないかと。

疑問や質問が投げかけられた時、その疑問の答えを考えるだけではなく、その疑問や質問自体が適正かどうか、まずそれを疑ってみることこそが「科学的」な態度ではないだろうか。

そう投げかけると「わたしは2週間ずっと続くオリンピック報道にうんざりしたけれど、もし、美浜事故と沖縄の話がニュースの8、9割を占める日が二週間続いたら、どんな気分になると思いますか?」という内容の返答が返ってきて驚愕した。しかも、だれもその意見に異を唱えないことにも驚いた。


論じる枠組みを一段大きく取ってみると、小さな枠組のなかでは当然だったことが、そうではないということがわかることがある。

テロ問題にも、そのように大きな枠組みで物を見る態度が必要だ。小さな枠組みで見れば、一見「テロに屈する」と見えることも、もっと大きな枠組みから見れば「世界の不平等を正す」ことかもしれない。

逆にいえば「テロに屈しない」「正義を貫く」と、あたかも崇高な目標であるが如く喧伝されることも、実は、世界の不平等をそのままにして、虐げられた人々に文句を言わせないだけの行為であるかもしれないのだ。

目先の枠組みを外して、地球上のすべての人が幸せに暮らせる世界を創るにはどうしたらいいのか、そこをまっすぐに見据えながら、目先の現実に対処していくことこそが、政治家のなすべきことではないか。


宮澤賢治は「農民芸術概論」のなかで、こういっている。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
ファシズムにも利用されそうな危険な言葉だ。しかし、この言葉を現代的な視点から捉えなおせば、こういうふうにも解釈できるだろう。

安穏と暮らしている「文明国」の人々。しかし、その安穏とした豊かな暮らしが、ほんとうはどんな犠牲の上に成り立っているのか。それを知り、その不平等を正さない限り、テロリズムは止まず、ほんとうの平和は訪れない。世界全体の人々のことを思いやってこそ、今ここにある平和が、真実の平和になるのだ。虐げられた人々が強い不満を抱くような社会構造がある限り、平和はなく、個人の幸福は保障されない。


それにしても、どうして辺境の人ばかりが大きな犠牲を払わなくてはいけないのか。チェチェンもイラクも、石油を産出するばかりに「中央」の思惑に振り回されている。「世界の中心で正義を叫ぶ」人々は、辺境の人々のことは人間だと思っていないような様子だ。


犠牲者の冥福を心から祈る。とともに、これが「テロ撲滅」の名の下の新たな大量虐殺につながらないことを、心から祈念する。ほんとうの意味の「テロ撲滅」は、テロリストを見つけだして殺すことや、テロリストがいるかもしれないところを爆撃することではない。テロの起こらない社会をつくることだ。

寮美千子  追いつめる網の目ではなく、人をあたたかく掬う網の目に 2004年09月02日(木)15時03分27秒
世保小6女児殺害事件について考える へのコメント

わこくじさま。ご投稿ありがとう。この掲示板では、はじめて投稿する方には、自己紹介をしていただく決まりになっています。よろしくお願いします。

佐世保の同級生殺害事件、風化させてはいけない事件だと思います。わたしもずっと気になっていました。殺された少女は永久に戻らず、ご家族の心の傷は癒えず、殺した少女もまた、両親から引き離されてどのような日々を送っているのでしょう。

確かに、わこくじさんのおっしゃるとおりだと思います。単に殺された女の子と殺した女の子の間だけの問題ではない。彼女たちをとりまく全体の状況の中で、加害者が追いつめられ凶行に及んだのでしょう。

どんなに追いつめられても、彼女を追いつめる網の目にひとつでも破れ目があり、そこから救いの手が差し伸べられれば、防げたかもしれない事件だったかもしれません。教師も、両親も、クラスメートも、結局のところ、だれも彼女を救えなかった。結果的に追いつめるだけになってしまった。或いは、彼女が追いつめられていることに気づかず、気づかないその事が、彼女をさらに追いつめたのかもしれません。

ただ、追いつめられた時、その反撃が容易に「殺人」に結びつくことの不可解。そのハードルの低さは、どこから生まれたのか。それもまた、見つめなければならないことのひとつだと思います。

これもまた、彼女の特異な資質、だけでは片付けられないというのが、わたしの考えです。「命」についてのリアリティを失っている現代社会のあり方そのものが、彼女にそうさせてしまったのではないか。

加害者と被害者という狭い範囲ならば探れる「原因」も、その二人を包み込む人間関係の網の目という中に拡散していくと「これが原因」と安易に断定できなくなってしまいます。「いじめ」に加担したクラスメートも、公にはその責任は問われることもないでしょう。

しかし、だから責任がないというわけではない。クラスメートたちは、このような悲惨な事件になってしまったことを、ただ加害者ひとりの責任として責めるのではなく、ひとりひとりが胸に手を当てて、なぜこのようなことになってしまったのか、そのことを真摯に考えなくてはいけないと思います。けれど、それを云々するのは、遠くにいるわたしたちではありません。それは、加害者と被害者の近くにいた人々、先生や親たちが、それぞれの人生の中で真剣に考えていくべき事であり、子どもたちに真心を持って語っていくべき事でしょう。

事件の傍観者であるわたしたちにとって本当に大切なのは、加害者と被害者を取り巻く網の目の中に、わたしたちもいるのだという自覚だと思うのです。遠いけれど、わたしのいるこの場所は、人と人との関係が紡ぐ網の目の中に含まれ、確実に彼女たちにつながっている。子どもを、容易に殺人に追い込むような社会をつくっているのは、他ならぬわたしたち自身なのです。

人と人とが織りなす人間関係の網の目が、いじめや無関心などで人を追いつめるためのものではなく、溺れそうになっている人を救う大きな掌のような存在になっていかなくてはなりません。そのために、いまここで、わたしは何ができるのか? 前向きに、それを考えていこうではありませんか。

わこくじさんは、いじめによって追いつめられていく加害者の心の状況を、実に細やかに我が事のように感じられています。もしかしたら、いじめられた経験をお持ちだからこそ、そこまで感じられるのかもしれないと思いました。いじめの被害者のつらい心情を伝え、軽い気持ちでいじめをしている無自覚な人々に警鐘を鳴らすことは、とても大切なことだと思います。わこくじさんは、それを一生懸命伝えようとなさっていると感じました。

つらい記憶があればこそ、人は、人の心の温かさを一層ありがたく感じられます。人にやさしくもなれます。わたしのなかにも、つらい記憶がないわけではありません。それを、怨念にするのではなく、やさしさの輝きにしていきたいと願っています。

わこくじ  世保小6女児殺害事件について考える 2004年09月02日(木)05時06分20秒
▼Review Lunatique:佐世保小6同級生殺害事件/完璧な表現と内実の空疎 へのコメント

佐世保小6女児殺害事件について考える
私は、加害者が 喧嘩した事やHPに怜美さんが悪口を書いた
事に怒だけで怜美さんを殺害したとは、思えません
実際に人を殺すということはたやすいことではありません。
その一線を越えるほどの問題が2人の間にあったとも思えません。
本当に2人の間のトラブルだけが問題で殺してしまったのでしようか
加害者には、別のトラブルが在ったのかも知れません。

加害者の事についていろいろ調べてみる
 元担任は30代後半で、今も大久保小に勤めている。1学年1クラス。同級生によると、別の男性教師が担任だった4年生のクラスはまとまりがあったが、「5年生になって急にバラバラになった」という。学校で菓子を食べたり、授業を無視する。いじめ、担任への暴力も起きた。元担任は「精いっぱい私なりにやったつもり」と言いつつ、「うまくまとまらなかったのは事実。難しかった。私のせいと言われても仕方がない」と悔やむ。暴力を受けたことも「私が悪かった面もある」と語る。

加害女児荒れクラスで孤立
 心がすさみ、クラスの輪から遠ざけられていく女児と最後まで「親友」でいたのが怜美さんだった。
6年生になった5月の連休明け。放課後に残っていた男子にからかわれて女児が追いかけ回し、倒して踏みつけた。「お前、うざったい(うっとうしい)。さっさと帰れ」。気づいた同級生が「やりすぎだよ」と押さえ込んだ。女児はさびしそうな目をして一つため息をついた

学校関係者によると、2人は他の同級生を交えて少なくとも4冊の交換日記をしていた。女児はそのうちの1冊で、毎回最後に「NEXT」の文字と次の順番の同級生の愛称を書き添えていた。被害者を含む同級生がこの手法をまね始めたところ、女児は5月中旬ごろ「パクらないで」と日記に不満を書いた。
 怜美さんは日記の中で謝り、その後は使用を避けたが「NEXTは絵文字じゃないし、パクりにならないのでは」とも主張。この後「NEXT」をめぐるやり取りはなくなったが、女児は別の日記でもイラストなどについて「パクりはしないで」と書き、オリジナリティーへの強いこだわりを見せていたという。

加害者が本読んで居たら同級生の男子児童に覗き見されてカッターナイフを振り上げる動作。大事には至らず。

加害者が怜美さんにおんぶしてもらった際、「重い」と言われ立腹。
 「失礼じゃない」と食ってかかったが無視される
怜美さんがHPの掲示板に「ぶりっこ」 「いい子ぶってる」 と書いた
怜美さんはHPの掲示板で事件3日前の5月29日、「最近正直に言えないことが多い。前の方が良かった気がする」などと書いていた。そして嫌いなタイプの人間として、しつこい▽自己中心的▽孤独をアピールする−−などを列挙。中でも「失礼じゃない」と言う高慢な人が一番嫌い、という趣旨の書き込みをしていた。
加害者は怜美さんのHPを見て自分が非難されていると感じ、怜美さんのHPに侵入して書き込みを消したり、キャラクターを勝手に消すなどしたとみられる。
 大久保小の運動会でホームページの書き込みをめぐって文句を言うと口げんかになった
女児が最後に告げたのは絶交の言葉だったのか。「あなたには関係ない」。
怜美さんは事件の起きた6月1日午前の2時限目終了後の休憩時間中、交換日記仲間に
「もう疲れた。勉強で大変になるし(複数ある交換日記の)一部をやめようと思う」と書いたメモを回した。これを人づてに聞いた加害者は「なんなら全部やめれば」と話していたという。その後、給食準備中に加害者が怜美さんをカッターナイフで殺害
事件直後、5年生担任の女性教師に「救急車を呼んで。怜美(さとみ)ちゃんが死んでしまう」とつぶやいていたことが、市教委による学校からの聞き取り調査で分かった。加害者が御手洗怜美さん(12)を切りつけた後、この女性教師が保健室へ連れて行ったが、取り乱すことはなく、外見上は落ち着いていたという。
 

加害者は、何故クラスの輪から遠ざけられて孤立したのかまた「NEXT」の文字の事ことや、本読んで居たら同級生の男子児童に覗き見された又、からかわれたなど、嫌だと思ったとき過剰に怒り豹変するようになった理由はなにか探る、
加害者がHPに2003年12月26日に書いた「うぜークラス」というタイトルの日記を読む

うぜークラス
つーか私のいるクラスうざったてー。(うっとうしい )
エロい事考えてご飯に鼻血垂らすわ、
下品な愚民(支配者の言いなりになるようにさせる政策)や
失礼でマナーを守っていない奴や
喧嘩売ってきて買ったら「ごめん」とか言って謝るヘタレ(根性なし)や
高慢でジコマン(自己満足)なデブス(デブでブス)や
カマトト(わざととぼけた物言いをする人)女 しったか(実際には知らないのに知っているような様子をする人)男、
ごく一部は良いコなんだけど大半が汚れすぎ。
寝言言ってんのか?って感じ。
顔洗えよ。

加害者は、この日記で何を伝えようとしているのか考える
クラスの大半の子が支配者の言いなりになってい汚れていて加害者は、
支配者の命令いでクラスの大半の子からじめられている、けれどごく一部は良いコ(友達)がいますと言っているのだと私は、思います。
次は、加害者がHPに書いた詩よむ
2004年2月1日
詩@それが全てではないのだから・・・
闇をこえてこそ光はきっとある―――
影、漆黒の才が闇を満たしていようと
構わない。
今の私は私。それが全てではないのだから。
いくら奈落の底まで落とされ、絶望を
味わおうと、無意味ではない。
苦汁、絶望、苦しみが私を支配するけれど、
全てと戦い、闇を葬り
光とこの身の有り難さをそのぶん欲したい。
そう、雲で隠れた月は地上に光を与えない
けれど、光は存在するから、だから、
真っ暗になってもずっと月にたよらないで、
皆で頑張ると、月よりも明るく
照らし合えるはず。
七転八起 私は最初は転んでばっかり、
でも、最後は起き上がるのもいいと思う。

私は、この詩は、いじめられて、絶望、で苦しいだから全てと戦いたいと言う気持ちを表現していると思います
2004年2月2日
詩@嘆きの賛美歌
闇夜の空に沢山の星がちりばめられる、夏の空
心地良い草の香りのする草原、リンリンと鈴虫の鳴く音
田舎だが、私はこの環境がすきだ。
都会に無いモノがあるのだ。
人間は自分たちの生活が豊かになるために、
木を沢山切ったり、ゴミ、不燃物などを平気に捨てたり・・・
そんな事をしているらしいが本当に豊かなのだろうか?
熱帯雨林、環境破壊、有毒ガス、生活が豊かになる一方、
数え切れないくらいの自然破壊が多数ある・・・
川が汚れ、魚たちが死にいたり、森も破壊され
生き物たちの生きる場を失っている。
聞いて欲しい、人間の生活が豊かになるのはいいが
私たち、生き物・自然に迷惑をかけないで、
この地球に住んでいるのは、人間だけではないのだから。
わかっているのでしょう?
自然や生き物のこのままでの未来が。
わかってよ・・・・
今では人間が生き物を殺すと何もならないことが多いけれど、
私たちは人間が生き物と同じ、
虫も
魚も
動物も
木、花も
たった一つだけのかけがえのない、
「命」をもっているのだから・・・・・
殺さないで、沢山殺して殺して殺して殺して・・・・
森の木も人の手によって焼き払われたりしたよ。
「自然も生きているのだから、息をしているのだから」
木や花も動いたり、話したりはしないけど、
生きているのだよ・・・・・・・。
生きているのだから、全て生きているのだから。
神様はいるのですか・・・・・助けて下さい・

この詩の前半私は、よく理解できませんが後半では、生きているのだから殺さないで、下さいと訴えているのです。神様はいるのですか・・・・・助けて下さい・と言っているので加害者は、いじめられて殺されてしまう相思ったのでしょう だからやらなきゃ、やられる

いじめる奴やからかう奴そして悪口言う奴を完膚なきまでにやっつけ加害者えのいじめは、無くなったそして友達からは、怖い奴と思われて避けららて クラスの輪から遠ざけられて孤立してしまうが怜美さん、だけが加害者がいじめられていた事をよく理解しているので仲良くしてくれた 加害者は、このいじめが、原因で些細な事でも嫌だと思うと過剰に怒り豹変するようになったと推測される こ言う事がきっかけでBATTLE ROYALEに興味を示したのでしょう。もうひとつ加害者が書いた詩がある「親が死んでしまった少女」の気持ちを描た題名「詩@許せない」である 怜美さんは、母親を病気でなくしている  加害者と怜美さんが、いしょにいる時にクラスメイトの子が母親なんていなかったら良かったと言っていたが怜美さんは、その子に何も言わなかった 加害者も何も言えなかった。そう言うことがあった後加害者は、怜美さんのかわりに文句言ってあげれば良かったかなと思ったので詩を書いたと推測する 加害者の書いた詩や日記は、一見すると空虚に見えるのだがよく見ると加害者の心の中の叫びが表現されているのだと思う 5年生ときは、クラスがバラバラになり、荒れていたと言っているが、見た目は、バラバラでも裏では、まとまっているのである 一人の生徒がクラスの大半の生徒を自分の言いなりにさせて学校で菓子を食べたり、授業を無視する いじめや、担任への暴力などを強要してバラバラになるようにまとめているのである 加害者の言葉で言うと「下品な愚民」なのだ 担任の教師がクラスを一つにまとめようとしても、裏に支配者が居るのでうまくまとまらないのである


怜美さんは、加害者と本当は、仲良くして居たいのだが、仲良くすることが出来ない理由が出来た、加害者に正直に言えないので態と加害者を怒らせて、喧嘩して友達の関係を無理やり断ち切ろうとしたと思われる
加害者は、5年生の時いじめられた事が原因で些細な事でも嫌だと思うと過剰に怒り豹変するようになっている嫌だと思う感情が精神異常なのかも知れない、怜美さんに嫌な事たくさん言われて HPの掲示板にも嫌な事たくさん書かれて加害者は、完全におかしくなって一線を越えて怜美さんを小学校の校舎3階の学習ルームで殺害してしまったのです。10分から15分の間その場所いて返り血をハンカチで拭いて居たそして冷静を取り戻し、怜美さんが態と喧嘩して友達の関係を無理やり断ち切ろうとした事に気付き、怜美さんを助けたいと言う思いに駆られる 助けを求める為に6年生の教室行き女性教師に「救急車を呼んで。怜美(さとみ)ちゃんが死んでしまう」とつぶやいた
その時には、すでに遅かったのです
怜美さんが、正直に言えなかった理由は、何だったのだろうか 裏で支配者の命令でクラスの誰かにいじめられて、加害者と仲良くするのを辞めたら、いじめるの辞てあげると言われたのかもしれません。この事に裏で支配者かかわっているのは確かだ
下品な愚民に潰された
事件は、加害者と怜美さんのトラブル、喧嘩で加害者が怜美さんを殺害、だけで解決させたら同じような事件が又何処かの学校で起きるかも知れません。何処の学校でもクラスを裏で支配している生徒がいる可能性在るからです。
見えない所に本当の真実が在る
全部これは、私の推測です

勇崎  夏バテは過ぎたけど 2004年09月01日(水)00時36分17秒
夏バテには、やっぱ焼肉! へのコメント

辻井さま>
レスができずにいて、ごめんなさい。
来月12日に大きめの仕事があって、追われっぱなし状態です。
必ず、レスしますね。

辻井 豊  夏バテには、やっぱ焼肉! 2004年08月24日(火)01時26分31秒
影踏みゲーム へのコメント

 勇崎様、レスはいつでも結構です。でも、話題が流れてしまったみたいなので、一度仕切りなおしをしましょうか。
 掲示板での対話は、とても面白いのですが、でもなにより生活が大事。自分の体が大事。疲れが溜まると、マイナス頭になってしまいます。

 で、話は変わって、今日、以下の本を読みました。先日読み始めた本もまだ読み終わってなくて、こんなことをやっているから、中途半端な知識ばっかり増えてゆくのですが。。。

・「平成11年度 普及啓発セミナー報告書」財団法人 アイヌ文化振興・研究推進機構 発行,2000年3月.

・宝島社から国際先住民年に発行された、別冊宝島(書名などメモ忘れです).

 1冊目には、文化とメディアの話も出てきます。映画、「君の名は」に見られるアイヌ差別とか。2冊目は、いろいろ書かれているのですが、中でも印象に残ったのは、大学生(当時)のアイヌの方が、どこにでもいる普通の学生と同じ暮らしをしていること、でもやぱり自分がアイヌであることを意識していること、などが短く書かれている文章でした。

 この2冊を読んで、わたしはなんだか、“怖い”と思いました。それは、生半可な知識でものを言ったりしたら、怒られるのではないかと、そう言った“怖い”という思いです。誰かを傷つけてしまう、といったことよりも先に、怒られるのではないかと、その思いの方が、より強くなりました。これは、やっぱり無知から来る偏見でしょうか。自分の専門でない、ある分野で、その分野の専門家の方々と議論を重ねたことがあります。その時には、このような、“怖い”という思いは、全く感じませんでした。どうやら、本を読んだことで、わたしの心の中に、自分自身で壁を作ってしまったようです。まず、これを取り除かないと、だめかもしれません。


 相変わらず暑いですね。少しは涼しくなったのでしょうか。夏バテには、やっぱり焼肉です。でも、暴飲暴食はいけません。それから、早寝早起き。できれば、そうありたいですね。


寮美千子  論理と心情の狭間 2004年08月23日(月)22時11分42秒
やむを得ませんが退場いたします へのコメント

大野君。わたしもカッとなってつい言葉がきつくなってしまいました。「助けて! お願いだから、もう勘弁して!」と叫んでいるつもりなのに、一向に伝わらないので、とうとうブチキレ、あのような書き方になってしまいました。心情的にはあのような気持ちだったことは事実ですが、大人気ないことだったと反省しています。すいません。

大野君の言いたい論理の道筋は分かります。しかし、それはわたしの考えとは一致しません。ひとつひとつにわたしなりの反論と反証を出すこともできます。しかし、ここにはいわゆる「温度差」とでもいえるものが大きく立ちはだかっています。それを乗り越え、その論理をひとつひとつ子細に検討して徹底的に話し合う必要性を、わたしは感じませんでした。莫大な時間と労力とが必要なことが目に見えていたからです。この件を徹底討論することのメリットとデメリットを思うと、余りにデメリットが大きく思えました。それだけの労力を注ぎこんで実りある論争になるとも思いません。人生には、もっともっと大切なことが他にあるはずです。しなければならないことが山積みです。

コミュニケーションは論理だけではない部分があります。心情や感情の部分です。これを理解しないで互いが互いの正論ばかりを主張しても、本当の理解は深まりません。

わたしはどちらかというと本来、原理原則の人間です。今回のことも、今までのわたしであれば実名を削除しないで貫き通したと思います。なぜなら、いままで書いた理由により、今回の件は、実名で書くことは絶対なるマナー違反だとは思っていないからです。卑怯なことをしたとも思っていません。ご本人に隠れてやっているわけでもありません。掲示板は世界中に公開されています。ご本人にはむしろ読んでいただきたく思うほどです。そして、どうして絵本にしてはいけないのか、そのことについて、もっと教えを乞いたいくらいです。

それでも削除したのはなぜか。それについて、日記でもメールでも書きました。ひとつには、いかに論理として間違っていなくとも、友好的でない書き方がコミュニケーションの妨げになると思ったからです。この点は深く反省しました。

もうひとつは、大野君への信頼です。わたし自身が気づいていないことを気づいて心配してくれていると思ったからです。
だから、いやいや削除という対応はあまりいいことではありません、納得されてないのでしたらきちんと話し合いましょう、と私は呼びかけましたが覚えてらっしゃいますか。それを「話し合いを強要」していると、おとりになるとは本当に残念です
人は、すぐにすべてを理解して納得するものではありません。分からないけれどここは一応相手の言うことを聞いてみる、という態度もあるでしょう。相手を信頼し尊敬しているならなおさらに、自分自身の小さな主義主張を一旦引っ込めて、異なった考えを苦悩とともに自身に受け入れるということもあります。その苦しい心情は、わたし自身が日記で充分に吐露していると思います。そして、掲示板ではこの話を一旦終息させていただけないかと、再三にわたりお願いしました。

そこまで吐露しても、まだ「話し合いましょう」といわれることが、どれほどわたしの心の負担になるか、ご理解いただけないでしょうか。「完全な理解は得られなかったけれど、きょうのところはここらで勘弁してやる」というわけにはいきませんか。

そのような譲り合いをしてこそ、円滑なコミュニケーションが可能なのではないでしょうか。

原理原則主義のわたしが自分の原理原則を曲げてまで大野君の進言を受け入れたのは、大野君に対して、大いなる信頼と未来への期待をもっているからです。アイヌ文化に関してもっともっと教えを乞いたい、わたしの知らないこと、書物では学ぶことのできない様々なことを実際に体験なさっている大野君からお聞きしたい。そう思っているからです。

ですから、話題をより生産的な方向に持っていこうと努力しました。掲示板参加者の方々のなかにも、アイヌ文化についてより突っ込んだ話をききたいと書いてくださった方が何人もいらっしゃいました。わたしのみならず、多くの人がそのような期待を持っているのです。

そのような心情を、どうかご理解いただきたいと思います。

それでもなお、理屈が通っていないとご満足できないでしょうか。書かれた言葉のひとつひとつにこだわらなければならないでしょうか。そこまでして突っ込まなければならない大野君の「心情」が、申し訳ありませんが、わたしには理解ができないのです。なぜそんなに怒らなければならないのか、残念ながらその気持ちを汲むことができません。研究者を糾弾するような言葉を見て、研究者の一人として、義憤を感じられたのでしょうか。

このような話題にエネルギーを時間を費やす変わりに、アイヌの口承文芸を文字化する問題について話し合っていたとしたら、どれだけの成果があったでしょう。みんなが、どれだけの新しい知識を得ることができ、いままで考えてもみなかった角度から物を見るチャンスを得られたことでしょう。

アイヌ文化を研究したり学んだ入りする人は、まだまだ少数です。だからこそ、その情報を持っている人は貴重です。大野君は、その貴重な人の一人であり、アイヌ文化をより多くの人に知ってもらい、理解してもらうキーパーソンであることを、ぜひもっともっと自覚してもらいたいと思います。

ここに集う多くの人と、大野君は、ある意味、平等ではないのです。その「ある意味」というのは、アイヌ文化の理解に関して、という意味です。大野君は圧倒的に知識があり、他の者にはありません。大野君は、いわば先生の立場です。何度も書きましたが、大野君が大人なら、我々は子どものようなものです。理解も浅く、見当違いのことも言うでしょう。その見当違いに基づいて、トンチンカンなこともいうでしょう。でも、それを徹底的に追及する前に、するべき事があると思うのです。その見当違いのどこが見当違いなのか、きちんと説明して、アイヌ文化への理解を深めることです。より多くの人に、アイヌ文化の正しい形を知ってもらうことです。

情報は権力だと書きました。その意味に於いても、我々は平等ではありません。情報を持っている人が、その情報を抱え込んで出し惜しみすれば、他の人はその情報を享受することができないのです。知りたければ、頭を下げるしかありません。頭を下げても、気に入らないと教えてもらえないこともあるでしょう。そこに、どうしても力関係が発生するのです。

アイヌ文化は、日本社会の中で虐げられた位置にあります。研究者の数も少なく、専門に勉強できる学問の場も限られています。アイヌ文化の研究者は、その意味に於いて社会的な弱者でしょう。

しかし、同じその意味に於いて、強者でもあることを忘れないでほしいのです。情報が満ち溢れていれば、その情報を持っている人は貴重な存在ではありません。大切にされることもないでしょう。しかし、ごく少数の人しかその情報を握っていないとなれば、情報を持っている人は自動的に「権威」になります。その情報が欲しければ、みんなは頭を下げてお願いしなければならなくなります。

アイヌ文化研究者には、そのような強者の一面があるということを、自覚してほしいと思うのです。そして、アイヌ文化に関しては情報弱者であり、時にトンチンカンなことをいう「子どもたち=学生たち=わたしたち」が、憧れの眼差しを持って、大人である大野先生の言葉を待ちわびているということを知ってほしいのです。

大野君の、曲がったことが大嫌いな一直線な性格は、愛しく麗しい資質だと思います。けれど、上記のようなこともご一考いただければと願ってやみません。

寮美千子  メルアド 2004年08月23日(月)21時39分02秒
お詫び へのコメント

>メールアドレスをログイン何とかというものと間違えていたようです。

そうでしたか。それでは、これからは正しいメールアドレスでのご参加をお願いします。

大野徹人  やむを得ませんが退場いたします 2004年08月23日(月)20時16分12秒
本当に大切なことは何か へのコメント

誤解がありますが、私はここにアイヌ文化について「お教え」するために投稿しているのではありません。あくまで、DORONKOさんの投稿に納得がいかないのでそれに疑問を呈するために投稿したのです。

〜〜〜
実名で書いたことの是非を、どうしてもここで問わなければなりませんか。
〜〜〜

この件については、すでに寮さんが誠意のある対応をなさっているので、この掲示板で私はこの件について一切問題にしていません。ここしばらくの私の投稿をよくお読みください。

〜〜〜
実名を削除せよという。削除すると、納得して削除したのではないなら、もっと話し合えと強要する。
〜〜〜

勘違いされているようです。
私は実名を削除せよとは一言も言ってません。私は日記の内容はマナー違反の可能性があると申し上げましたが、その投稿を削除せよとは一度も言ってません。私のメールを読み返してください。どこにもそんなことは書いてないはずです。

私は、日記の内容の問題を指摘しましたが、具体的にどうすべきかは何も言ってません。
実名を削除するのも一つのやり方ですが、本人に連絡をとって謝るなり、本人に事後承諾を求めるなり、対応のしかたはいくつか思いつきました。
しかし、具体的にどうすべきかは私から言わずに、寮さんの意見を聞いて話し合って寮さんに考えていただこうと思ってました。まずは何よりも日記の内容が問題であることを寮さんに気づいて欲しかったからです。対応は二の次です。

また、納得してないのにいやいや削除した、というのはあまりいいことではありません。
なぜなら、納得してないのでしたら、こうやってあとまで尾を引くからです。あとになって、納得してないけど私がうるさく言うので妥協して削除しました、みたいなことを言われては私も気分がよくありません。
もし本当に納得してないのでしたら、寮さんの責任において実名削除はしなくてよかったのではないでしょうか。
私はSさん本人ではありませんし、こうすべきであるとは言うつもりはありませんでした。

実際、最初の注意のメールを出してからいただいたお返事では私の意見に納得してない感じでしたので、私の意見を受け入れてもらえる可能性は低いと思いました。もし、ご自分の信念があって実名は削除しない、本人の目に入ってもかまわない、というお考えならそれ以上は私も言えないなと私は思ってました。
実名を削除すべきだと私は言ってませんし、仮に削除すべきだと思ったとしても私のウェブサイトではないので、削除するかどうかは寮さんの判断にかかってます。
ご自分の意思でなさったことをあたかも私の要求であったかのように勘違いされては困ります。

だから、いやいや削除という対応はあまりいいことではありません、納得されてないのでしたらきちんと話し合いましょう、と私は呼びかけましたが覚えてらっしゃいますか。
それを「話し合いを強要」していると、おとりになるとは本当に残念です。

〜〜〜
アイヌ文化そのものに関しての話題ではなく、マナー云々をこれ以上云々するのであれば、大野君には退場していただきます。
〜〜〜

「掲示板上の問題は掲示板上で解決を」と寮さんは掲示板での投稿および私あてのメールで再三書かれています。ですので私はあくまでここで寮さんやDORONKOさんと話し合おうと思ってここでしばらく投稿を続けてきました。

しかし、ここでは「アイヌ文化に関しての話題」以外はしてはならない、さもなくば退場してもらう、とのことなので、今回をもって本当に最後の投稿とします。
大変不本意ですが、ここは寮さんのお持ちになっているウェブサイトの掲示板なので、管理人である寮さんの指示に従います。
アイヌ文化についての意見交換以前に、安直な学者批判をやめてもらわない限り、会話が成立しないと思って投稿を続けていましたが、そのことが伝わらなくて非常に残念です。

前々回も書きましたが、この掲示板で違う方向で議論が進んでいるので、その投稿をもってここでのDORONKOさんとのやりとりを最後にしようと私は思っていました。もし必要ならメールで寮さん・DORONKOさんと話し合いを続けようと思っていましたが、メールでのやりとりもしないでほしいということなのでメールもしません。

寮さんあてのメールをDORONKOさんに転送したのは、私の個人メールなので掲示板に転載するのはふさわしくないと思ったからです。そのことをご理解ください。

それから私は自分を「研究者」だとは思っていません。学会や大学には属していないのでプロの研究者ではないという意味です。
変に「研究者」と「そうでない人」の間に大きな壁を設けて議論を進められていることについて私は違和感を感じています。
プロではないかもしれないが民間のアマチュア研究者ではないか、と言われたらそうかもしれませんが、だとしたらそれは寮さんも同じではないでしょうか。本業は絵本作家でいらっしゃいますが、今までアイヌ文化について勉強を続けてこられて絵本を出版されたり新聞に記事を書いてらっしゃるのですから立派なアマチュア研究者の一人ではないのでしょうか。私にはそう見えます。私と何が違うのでしょうか。私には著書の一冊もないのですよ。ましてや寮さんのように大学で講義を行っている方のほうがずっとアカデミズムに近い位置にいらっしゃると感じますが。

以上です。失礼いたします。

ペリー  お詫び 2004年08月23日(月)18時49分48秒
投稿前に必ず「掲示板のご案内」をご一読ください へのコメント

メールアドレスをログイン何とかというものと間違えていたようです。
大変失礼いたしました。
調べればわかるはずなのですが、取り急ぎそのまま書いています。
私の書き込みはどうぞ、全部削除なさって下さい。
ご迷惑おかけしました。

寮美千子  投稿前に必ず「掲示板のご案内」をご一読ください 2004年08月23日(月)17時00分51秒
口承を文字化するデメリット へのコメント

ご感想ありがとうございます。

作者の意図とまったく正反対とも思える読み方をなさる方もいるのだなと、驚きを持って読みました。つまり、わたしの意図するところはまるで「伝わらなかった」ということです。表現に至らないところがあるのかもしれません。一考してみます。このような読み方をなさる方もいるということは、わたしにとって思いもよらないことであり、自分の表現を考える上で、とても参考になりました。

この掲示板は、固定ハンドルネームないし実名で、きちんとしたアドレスを書き込むことを前提としての参加を求めています。違反者の投稿は原則として削除させていただきます。お書きになられたメールアドレスは無効なものです。今後も参加なさる場合は、正式のアドレス記入をお願いします。

詳しくは「掲示板のご案内」及び「cafe宣言」をお読みください。

DORONKO  スローにいきましょう。 2004年08月23日(月)12時53分56秒
RE本当に大切なことは何か へのコメント

そうですよね。
寮さん、やはりちょっと気にしすぎかな、という気もします。

それは、友人のカタワレであるぼくのことをかばおうとする気持からでも
あるとはわかるのだけれど、ぼくが軽率だったことははっきりしているし、
そのことをかばってくれなくっても、ぼくは別にメゲるようなこともないわけで――。
(寮さんにもゴメンナサイ、だけれど!)

ともかく、大野さんには、改めて申しわけないと言いたいと思いますし、
ベリーさんのような方がいらっしゃる(ここにおいで下さった)ことを、
ぼくはとても心強いことと感じています。

寮さんは、今、とても大事な仕事にかかっているところですし、
ぼくたちはアイヌの人たちの文化にどう向き合えばよいのか――という
ことについても、結論を急がず、ゆっくりと考えていけたらいいなと思います。

ペリー  RE本当に大切なことは何か 2004年08月23日(月)08時20分39秒
本当に大切なことは何か へのコメント

あのう、とても雰囲気の良い掲示板だと拝見していました。
それで、文章を書くのは苦手なのですが、話しの流れが変わればと思って書き込んでいました。

私はこちらのどなたとも面識はありませんので第三者の目で拝見しています。
大野さんの発言は過去ログもチェックしましたが全てまっとうな常識に見えます。
DORONKOさんは、最初のほうは誹謗中傷にしか見えませんでしたが、良くご自分を押さえて歩み寄り、最期は誠意のある発言になっていると感服しました。

寮さん、ほっとけばもうほとんど終わっていますよ。

最期に、大野さんはおっしゃらないと思うので勝手に代弁させていただきますが、大野さんの寮さんへのメールというのは掲示板でさらし者にならないための寮さんへの配慮だと思います。まあ、配慮が伝わらないのでは仕様がないけれど、普通の男の感覚では配慮です。

寮さん、知ったようなことを書いて申し訳ありませんでした。
悪意の無いことをご理解のうえ、許してただければ嬉しいです。
終わりになると良いですね。

ペリー  口承を文字化するデメリット 2004年08月23日(月)06時57分39秒
知という権力とノブレス・オブリージュ へのコメント

寮さん、今日は。
先に感想を和らげて書いたつもりですが、通じなかったようなので新
たに書き直します。

口承文学の命は、伝えられる過程で常に変化しつづけるところにある
と思います。文字化するということは、この命のある時点での断面を
切り取って定着するということです。
ここまではよろしいですね?

文字化するということは、口承文学の命を絶って標本にしてしまうよ
うな一面がある。しかしこれだけではデメリットとは言えません。書
かれた物語という口承とは別の形で新しい命を得ることができるから
です。

さて、ここでは口承文学の担い手をアイヌと限って考えてみます。
アイヌの優れた文学が世の中に広まるためには、書かれた物語として
出版されることが必要だと思います。これはメリット。

書かれた物語がアイヌの、これから伝承を担う若い世代に読まれれば、
変化しつづけるところにある口承文学の命が歪められることになりま
す。変化とは常に創造される、創造という営みが続けられるというこ
とです。
もし、書かれた物語が優れたものであれば、それだけ規範性を獲得し
て弊害は大きなものになります。これがデメリット。

現在、アイヌの文化は総体として生きられている状態にはないのだろ
うと想像します。つまり、アイヌの人たちは現代の日本人として現代
の文明を享受しているだろう。狩猟のみに頼って、イオマンテの祭り
をしながら暮らしているわけではないだろうということ。
そうであれば、「イオマンテ絵本」がアイヌの人たちに浸透する可能
性は大きく、また弊害も大きいと予想できるのではないでしょうか。


===============================
知の権力者が協力を拒んだ。「わたしは関わりたくありません」とい
う態度をとった。
===============================

協力を拒んだということは、結果として寮さんが「イオマンテ絵本」
で何を書こうと黙認したということですね。

遼さんがプロの作家でいらっしゃるなら、言論の自由を行使する権利
と、言論の自由を守る義務があると考えられないでしょうか。
誤謬を避けようとなさる努力は立派だと思いますが、御自身の書かれ
るものには御自身で責任を持ったうえで、自由に書かれるのが作家の
義務ではないでしょうか。

プロでいらっしゃれば、その作品から個人的な収入が得られるだろう
と考えるのが常識です。これは、事実上の収支とは別問題です。
平たく言えば、「イオマンテ絵本」はあなたの商売でもあるのです。
学者には知識を公開する義務があったとしても、他人の商売に協力し
て、その責任の一端を担わなければならない義務は無いと思います。
これは相当な報酬を積まれても拒否する権利があると思うのですが、
いかがでしょうか。

寮さんが大学の図書館を利用できる立場におありなら、ご自分の責任
で調べて堂々とお書きになれると思うのです。
かりに、デメリットや錯誤があったとしても、「イオマンテ絵本」に
それを上回る価値があれば平気なのではありませんか?


===============================
「イオマンテ絵本」そのものに対しての具体的な検討や感想を求めま
す。
===============================

私も「ユーカラの人びと」金田一京介著、入手しました。
232頁から要約して引用します。

 子供が女に養育されている。
 ある日、この女の生首を持って
 入れ墨をしたおばあさんがあらわれる。
 「これみやげ」、と子供にさしだし、
 女の生首を鍋で煮て、子供に食べさせようとする。
 子供が「わーわー」と泣いたら
 「何だまだ頑是ない子供でしかなかったのか。
 では大きくなったら、仇討ちに来い」。
 子供は、泣いて、泣いて、泣いて、
 泣きながら、とうとう神がかりする。

このように神がかりして自分の過去を理解する話があるという金田一
の報告が書かれています。
この金田一の報告をそのまま受け取って正しいかどうかは学者が判断
べきところですが、私は学問には興味がありません。
私は、この話の残虐のなかに深い真実が見えるようで魅了されるので
す。

アイヌの人が人間の命を動物の命と同等に扱わなければならなかった
現実の切迫。
その現実のなかで、アイヌの人が人間の命と同等に扱った動物の命へ
の敬意。
特に、さんざん泣いた末に神がかりするくだりにリアリティを感じま
す。

「イオマンテ絵本」においては、小熊が殺されるより以前に
  >「さあ、とってくれ。おまえのものだ」
すでに小熊の声が聞こえ、小熊の殺戮を小熊が正当化してくれる。

  >ぼろぼろ、なみだがこぼれてきた。
さんざん泣くこともなく、エカシにはげまされて、つまり人の助けを
得て解決されてしまう。

口承だからこそ、つまり言質をとられる心配が無かったからこそ大胆
に伝えることができた残酷さのなかに潜む強靭なリアリティが、「イ
オマンテ絵本」では温かく、深刻でないものに薄められ、砂糖にくる
まれている。

もし、このようにリアリティが変質した作品を、口承文学を文字化し
たと主張するならば、それは明らかに間違いです。

しかし、寮さんは最期の注で、新たに創作したものだと断っていらっ
しゃる。創作なら間違いかどうかということは問題外だと思います。
いかがでしょうか?

寮美千子  再告/掲示板上の問題は掲示板上で解決を 2004年08月23日(月)05時06分38秒
本当に大切なことは何か へのコメント

>参考までに私が寮さんに送ったメールをDORONKOさんに転送いたしますのでご覧ください

掲示板上での議論は、掲示板上で解決してくださいと、先日投稿したばかりです。そもそも、実名投稿批判が、掲示板ではなくわたしに直接メールで来たこと自体が、問題を起こすきっかけになりました。議論が公にならず、結果的にわたし側の発言だけを元にしてみんなが推測せざるを得なくなったからです。

掲示板は開かれています。異なる意見も、異なる意見として受け入れる準備はあります。そこで、揚げ足の取り合いではなく「建設的な議論」が行われることを望んでいます。そのようなダイナミックで率直な意見交換あってこその掲示板です。

これ以上、問題を複雑にしないためにも、メールでのやりとりは避け、掲示板上でお願いします。

寮美千子  本当に大切なことは何か 2004年08月23日(月)04時48分29秒
DORONKO様へのお返事 へのコメント

この問題について、言葉尻を捕らえて云々するのではなく「研究者」という専門家というお立場から、アイヌ文化についてお教えいただきたいと再度お願いしたにもかかわらず、またしてもアイヌ文化それ自体とは関わりのないご投稿をいただきました。このような態度こそが、コミュニケーションの上での重大なマナー違反であると思います。

実名で書いたことの是非を、どうしてもここで問わなければなりませんか。わたしが大野君の進言を受け入れて実名を削除してもなお、問い続ける必要のあることでしょうか。わたし自身が大野君の理屈を心底納得しなければ、大野君の気は済みませんか。その原理原則を相手が納得しなければ、コミュニケーションは成立しませんか。それは本当に建設的なことでしょうか。

わたしの見解と大野君の見解は違います。しかし、その見解の違いをここで徹底的に闘わせるつもりはありません。そのことに建設的な意味を見いだせないからです。お互いにとって、実りある議論になるとは思われなかったからです。だからこそ、自分の主義主張とは反する部分もあるという矛盾を受け入れながらも、大野君のご意見を受け入れました。実名も削除しました。それが、わたしの大野君への友好と信頼の証でした。

人生の時間は限られています。ほんとうに大切なことは何か、それを見極めて、時間もエネルギーも使いたいと思います。いま、ここで本当に大切なことはなんでしょうか。議論の仕方を議論することでしょうか。アイヌ文化をよりよく知りたい、という人々が集っているここで大切なのは、その「知りたい」「理解したい」という気持ちを大切にして、知ってる人が知らない人に知識を分け与えることではないでしょうか。みんなで考えていくことではないでしょうか。

実名を削除せよという。削除すると、納得して削除したのではないなら、もっと話し合えと強要する。専門家ではない一般人がごく常識的な感想を述べると、無根拠に非難されたと言って責める。相手が謝罪すると、謝罪の仕方が悪いと怒る。そのような態度こそ、非友好的な態度だと思います。友好的に語り合うことの大切さを指摘してくれたのは、大野君だったではないですか。その大野君が、なぜかくも非友好的な態度をとるのでしょう。

大野君は、一人でも多くの人にアイヌ文化に興味を持ってもらい、きちんと理解してもらいたいのではなかったのですか。そのことのために、今回の議論はどうしても必要なことでしょうか。本当に大切なことは、なんでしょうか。

アイヌ文化そのものに関しての話題ではなく、マナー云々をこれ以上云々するのであれば、大野君には退場していただきます。

勇崎  弱い者いじめ的様相 2004年08月23日(月)01時40分22秒
DORONKO様へのお返事 へのコメント

なぜDさんだけが攻撃をうけるのでしょう。
僕もDさんと同じようにリアクションしていますし、過去ログ
http://ryomichico.net/bbs/cafe0038.html#cafe20040805014011
にもあるように、「寮美千子自身は実名であり、自らを匿名にして某研究家の発言主旨を採録していたわけではありません」とし、某研究家を批判し、寮美千子を是とする僕の態度は、なにもDさんとなんら変わりありません(今も)。僕も脇は甘いけど、Dさんはお人好しなだけに、さらに脇が甘かっただけのこと(ちなみに僕は子供の頃から腋臭です)。
その刃、僕のようなオヤジにも向けられたらいかがでしょう。
ここでおやめにならないのなら、弱い者いじめにしか見えてきません。
Oさんが潔く気持ちのいい奴であるという僕の直感には、自信があります。
すいません。もう寝ます。


http://ryomichico.net/bbs/cafe0038.html#cafe20040805014011

勇崎  影踏みゲーム 2004年08月23日(月)00時13分59秒

脇の甘い投稿と、辻井さんへの全身たるんだレスをしてしまい、頭が整理できていないのは僕で、その巻き添えの被害を辻井さんに与えてしまい、反省しきり。辻井さんごめんなさい。仕事に追われていて、ちゃんとできずにいて、少し、呼吸する時間下さいね。
それにしても、ネットはもどかしい。言葉尻にしか根拠がないから、影踏みゲームみたいなことをくり返す。顔を合わせてみれば、なんてことはないはずなのに。OさんとDさんゲームはおしまい。Oさんのことは未知だけど、きっと潔くて気持ちのいい奴な感じ。Dさんとは何年ものつきあいだけど、とにかくいい奴なんだ。だからというわじゃないけど、Oさん、Dさん、影踏みゲームはやめにして、リアル・スペースでの出会い相談しあってほしいな。

辻井 豊  訂正 2004年08月22日(日)23時50分41秒
イオマンテで検索すると、いっぱい出てくる。 へのコメント

誤:「アイヌの伝承と民族」
正:「アイヌの伝承と民俗」

申し訳ありません。

辻井 豊  イオマンテで検索すると、いっぱい出てくる。 2004年08月22日(日)23時28分46秒
知という権力とノブレス・オブリージュ へのコメント

 少し時間があったもので、図書館で以下の書籍を読みました。まだ少ししか読んでいませんけど。

「アイヌの伝承と民族」 ジョン・バチラー(バチェラー) 著,安田一郎 訳,青土社,1995年4月25日第1刷印刷,同年5月15日発行

「ユーカラの人びと」金田一京介の世界 I,金田一京助 著,藤本英夫 編,平凡社,2004年4月10日初版発行第1刷

 どちらも、原文はとても古いものです。

 わたしは、アイヌについては、日本史と同和教育で教わったくらいで、ほんの少ししかしりません。あとは、何年か前に、少数民族を取り上げた国際年があって(多分)、そのときにメディアで取り上げられていたことは覚えています(うろ覚えですが)。
 “イオマンテ”で、ネットを検索してみると、ずいぶんたくさんヒットします。専門の方から見れば、どれが玉で、どれが石か、わかるのでしょうけど、わたしには、わかりません。ですから、自分のペースで、少しづつ勉強してゆきたいと思います。研究者の方々が抱いていらっしゃる思いに、少しでも近づくことができればと思います。メディアの担い手たる方々のご意見は、こちらの掲示板に散見できるようですね。でも、やっぱり、よくわからないので、これも、書籍を中心に勉強してみます。

 「口承文化」、いつか実物をみたくなるかも。でも、実物を見て、それで理解したと思ってはいけないのですね。ですから、わたしは、まず、本を読みます。




大野徹人  DORONKO様へのお返事 2004年08月22日(日)22時54分04秒
整理してみると。 へのコメント

「できるだけ最後」にしようと思って前回投稿しましたが、これで終わりにするわけにはいかなさそうなのでお返事します。

〜〜〜
ぼくは「大野さんのお立場については、何の根拠もない推測
でしかありませんでした」と書いています。
(中略)
また、ここで「大野さんのお立場」というのは、要するに「大学の先生
なのか、そうではないのか」といったことを指して言ったつもりでした。
(中略)
大野さんが、実際にどのような考えをお持ちなのかということを指して
言ったのではありません。「立場」という言葉はどちらとも解釈できますが、
ここにも誤解があったようですね。
〜〜〜

だとしたらDORONKOさんが最初に書かれた「お詫び」は、私の「立場」についての推測のみについてお書きになったということでしょうか。
だとしたら私の「立場」以外について、DORONKOさんが私にについて述べられたこと(私が「どのような考え」を持っているのか)については、それなりの根拠があり、訂正・撤回する必要がないという意味だととれますがそれでよろしいでしょうか。

〜〜〜
大野さんには、過度の「客観性信奉」の傾向があるように思います。
「私が何を言ったか」に基づくことが「望ましい」ことであることを
否定はしませんが、実際の研究の中でも、常に「望ましい」ことが
100%見つかるなんてありえないのではありませんか?
〜〜〜

「望ましい」どころか、そうでなければならないのではないでしょうか。
繰り返しになりますが、私の見解が妥当かどうかは、私が何を言ったか書いたかによって判断されるべきであります。それ以外のことから判断するのはおかしいと思いませんか。

〜〜〜
大野さんは、「推測」はすべていけないとおっしゃっているかの
ようにも取れるのですが、一切の推測を排除してしまったら、
学術論文といえども、書くことは不可能なのではないのでしょうか?
〜〜〜

私は「推測」することを否定するなどまったくしていません。
私は前々回の投稿でこう書きました。

===
「推測」というものは、ある程度の根拠があって、それをもと「こうじゃないだろうか」と予想することです。まったく根拠もないのでは「推測」でさえありません。
===

私の考えはこれにつきます。

〜〜〜
ただ、ぼくは「一対一の個人的な談話の内容を無断で掲示板に要約して紹介
して論評する」ことが、すべていけないとは思いません。
〜〜〜

はい。内容によっては問題にはならないと思います。ですので「特に内容が攻撃的な内容、デリケートなものでしたらなおさらです」と書きました。

〜〜〜
大事なことは、やはり、実名をあげて、つまり、特定の個人について
「名指しで」するのか、そうではないのかということだろうと思います。
もちろん、実名を出さなければ何をどのように書いてもいいとは思いませんが、
その違いはとても大きいということは、認める必要があると思います。
個人的な談話でも、「ある人から…といった考えをお聞きした」といった
書き方であれば、許されてしかるではないかとぼくは思います。
〜〜〜

はい。私もそう思っています。

〜〜〜
なお、最後になりますが、ぼくにとっては、大野さんからの意見が
寮さんを「鬱にする」ほどのものだったということが、実際の内容が
どうだったかはよくわからないまでも、やはりショックだったのです。
〜〜〜

投稿を見て、私は重大なマナー違反だと思うので注意のメールを送りました。
そのあと何度かやりとりをしましたが、重大なマナー違反だと私は思ったので率直な意見を私は述べました。もしや「きびしい」とおとりになられるかもしれませんが、私なりに筋道を立てて冷静に書いたつもりです。
参考までに私が寮さんに送ったメールをDORONKOさんに転送いたしますのでご覧ください。私はそんな理不尽なことは言ってないはずです。

寮さんのご意見については日を改めてお返事します。

寮美千子  知という権力とノブレス・オブリージュ 2004年08月22日(日)18時47分36秒
さらにお返事です へのコメント


わたしは、学者というのは、社会の余剰によって研究が可能になっている人々、いわば「貴族」であると思っています。そして、そのようにして社会に支えられている者には、その成果を社会に還元するという義務「ノブレス・オブリージュ(Noblesse Oblige)」があります。学者には、研究に於いて得た情報を、一般社会に還元する責務があるとわたしは思います。

「Noblesse Oblige」は仏語で、直訳すると「高貴なる者(身分の高い者)の果たすべき重責」という意味です。高貴なる者、身分の高い者には、ことあれば命をも賭して果たさねばならない重 い社会的責任があるということです。

情報は権力です。情報を握っているということは、権力を握っているも同然です。実際、わたしたち素人は、頭を下げなければ、専門の情報を分けてもらうことはできません。そのひとつを見ても、情報が権力を生むことは自明だと思います。


一方「出版」というのもまた権力です。活字になることで、それが固定化され流通してしまう。ですから、出版をする者は、自分が権力者であるということを深く自覚しなければなりません。もし、甚だしく間違ったことを書けば、それが流通してしまうからです。

つまり、今回の「イオマンテ絵本」に関しては、作家という権力者が、その権力を行使するにあたって、間違いがあるといけないので、学者という知の権力者に協力を頼んだということです。

しかし、知の権力者が協力を拒んだ。「わたしは関わりたくありません」という態度をとった。

「絵本にしてはいけないと思っている」ということは、そういう考えもあるでしょう。しかし、その考えは素人にはよくわからない。だとしたら、素人の勘違いを正す義務が、研究者にはあると思います。場合によっては、出版差し止めさえ要求すべきだと思います。それが、学者の「Noblesse Oblige」ではないでしょうか。

そういうことをしないで「わたしは関わりたくありません」という態度をとったこと自体に対して、わたしは異議を申し立てたかったのです。そして、それはいまでも正当なことだと思っています。そういう、学問を囲い込んで一般に還元しようとしない体質は、糾弾されてしかるべきだと思います。それを伏せておくことは、学問の世界のそのような体質を温存することだと思います。


しかし、異議を申し立てたてればそれですむか? わたしがほんとうに問題にしたかったのは「絵本にするのがいけない」というのが、どういう意味であるかを知ることです。

「だから、どうして絵本にしてはいけないのか、お教えください」と呼びかけているのが、この論争の発端となったわたしの日記の文章でした。

それなのに、異議申し立ての気分が前面に出てしまい、親和的な態度ではありませんでした。やはりそれでは呼びかけになっていないなと反省し、大野君の進言に従い、実名を削除した次第です。

しかし、それは、大野君が述べている理由を納得したからではありません。学者はその学問を一般に還元すべきであると、確信します。その大前提を否定するような発言は、どのような場でされた発言であっても「公的な」発言として取り扱われるべきであると、今でも思っています。


さて、わたしをはじめとして、ここに集う多くの人は、アイヌ文化に関して素人です。素人が研究者に何を求めるか。それは、的確なアドヴァイスです。独占所有されている知の解放です。それを拒む研究者に対して「責務を果たしていない」と怒るのは、当然の反応です。つまり、一般人としての常識的な範囲の反応であるとわたしは思います。そして、大野君のことを「学者の肩を持っている」と印象してしまうことも、至極当然の反応であると思います。ドロンコ氏の投稿についても、責められるべき大きな落ち度があったとは思いません。

アイヌ文化に関して、素人にはわからない深遠にして幽玄な「絵本にしてはいけない理由」があるのかもしれません。だとしたら、それがなんであるのかを示唆してくれることこそが、研究者や専門家の責務ではないでしょうか。

大野君もまた研究者の一人なのに、そこを説明してくれようとはしません。「素人が学者は協力を拒否するとはけしからんと怒った」ということに怒りをぶつけるばかりです。また、ひとつひとつの言葉をとって理詰めで責めるばかりで、一般人が研究者に何を求めているのかを汲みとうろうとする対話的な姿勢がありません。それは、極めて不毛なことです。

「なるほど、一般の人は学者に対してこのような期待を持っているのか」というサンプルのひとつとして冷静に受け取ってほしいと思います。大野君自身が、アイヌ文化に関する情報を他者よりずっと多く握っているということ、知の権力者の一人であるということに、もっと自覚的であって欲しいと思います。アイヌ文化理解に関して、大野君が大人なら、素人であるわたしたちは幼稚園児も同然です。わたしたちは教えを乞うているのです。もしそこに間違いや勘違い、認識不足があるなら、「言い方がおかしい!」ということを云々するまえに、その認識の間違いを正し、誤解を解くことにこそ、精力を使うべきだと思います。

アイヌの本質は口承文芸にあるとするドロンコ氏に対して、大野君はこのような意見を述べられました。
もしアイヌ文化が「“口承の文化”であるという性格を強く帯びている」のでしたら、それを文字で紹介することにはある意味「無理」があることにお気づきでしょうか。なぜなら、口承の文化を文字で伝えようとした時点でそれはもうすでに「口承」ではなくなってしまうからです。あえて言うならば、ある意味その文化はその時点で「変容」してしまい、別のものになってしまいます。そのことの"デメリット"をどのように考えてらっしゃいますか。
このような点について、もっと詳しく、素人にも分かるようにご解説いただくことこそが、大事なことだと思います。

「絵本にしてはいけない理由」にどんな内容が考えられるのか、口承文芸について、わたしたちがどんなご誤解をしているのか、それをきちんと教えていただくことが、いちばん大切ではないでしょうか。

研究者は「知の権力者」です。権力を持つ者は、それを社会の利益に還元することをこそ旨とすべしだと思います。

もちろん、その還元の仕方に関してはさまざまな方法があると思いますが、それはまた別の話です。


わたしは、今回の問題に関して、大変な労力を割きました。思い悩みもしました。大野君には、実名削除でご納得いただけると思いましたが、その後もこうです。しかし、議論の甲斐のある建設的なことがあったかといえば、そうではありません。議論の仕方のみを問題として、議論の内容そのものが置いていかれています。このような不毛な議論はもうやめたいと思います。

口承を文字化するデメリットがあるとすれば、それは具体的にどういう事なのか。メリットがあるとすれば、それは何か。また、抽象的議論ではなく、今回の「イオマンテ絵本」そのものに対しての具体的な検討や感想を求めます。

http://ryomichico.net/bbs/review0008.html#review20040519112652

DORONKO  整理してみると。 2004年08月22日(日)15時45分20秒
さらにお返事です へのコメント

再び、大野さんにお答えします。

まず、

>最初は「何の根拠もない推測でしかありませんでした」と書いてらっしゃい
>ましたが

とのことですが、ぼくは「大野さんのお立場については、何の根拠もない推測
でしかありませんでした」と書いています。この「大野さんのお立場については」
という極めて基本的な限定をカットしてしまうことを「恣意的」といわずに
何といえばよいのか、ぼくにはわかりません。在野であろうがなかろうが、
このような引用の仕方は、研究者であれば絶対にやってはいけないことだという
ことぐらい、大野さんならご存じだろうと思うのですが?

ともかく、大野さんがぼくのことをあまりに“無根拠の権化”ででもあるかの
ようにお書きになるので(はっきり言っておきたいと思いますが、それはあまり
に失礼というものです)、直近のカキコは、「そんなことはありえない」という
気持で書いたものです。

また、ここで「大野さんのお立場」というのは、要するに「大学の先生
なのか、そうではないのか」といったことを指して言ったつもりでした。
大野さんが、実際にどのような考えをお持ちなのかということを指して
言ったのではありません。「立場」という言葉はどちらとも解釈できますが、
ここにも誤解があったようですね。

また、ぼくも大学教師批判とも取られかねないような書き方をしてしまった
とは思いますが、「大学の先生なのか、そうではないのか」ということ自体に
ついては、ぼくはとくに価値判断をしてはいないつもりです。ただ、ぼくの
最初の書き方では、大野さん(と「おぼしき人物」)について、「きっと、
どこかの大学の先生なのだろう」と思っていて、それが立論の柱のようにも
なっていたので、これは「勇み足」だったし、ぼくの論じ方には明らかに
不備があったと認めて、謝罪させていただいたわけです。

>私を論評されたことについての根拠にあたるものは何も見当たりません。

これは、すでに認めているように、もちろん「確実な論拠」といえるほどの
ものはありません。くり返しますが、今はこれも「勇み足」だったと思って
いるのですが、大野さん(と「おぼしき人物」)は「あまりに(Sさんの)
肩を持ちすぎている」と、ぼくは感じたのです。
なお、ひと口に「根拠」といっても、その中身やレベルは様々で、大野
さんは「対象の属性」のようなものだけを考えておいでのようですが、
ぼくの方は、ぼくの「意識の中にあった動機」のようなもののことをお伝え
しようとしたつもりです。その動機がどれだけ正当なものであったかは別と
しても、それがぼくに最初の書き込みをさせた大きな理由だったことは
否定できないと思います。

>私について論評・批評されるのでしたら、あくまで私が何を言ったかに
>基づいて意見を表明するのが当然のことではないでしょうか。

大野さんには、過度の「客観性信奉」の傾向があるように思います。
「私が何を言ったか」に基づくことが「望ましい」ことであることを
否定はしませんが、実際の研究の中でも、常に「望ましい」ことが
100%見つかるなんてありえないのではありませんか?
大野さんは、「推測」はすべていけないとおっしゃっているかの
ようにも取れるのですが、一切の推測を排除してしまったら、
学術論文といえども、書くことは不可能なのではないのでしょうか?
「論拠」というよりも、「素材」をないがしろにしてよいとは思いませんが、
それが自動的にすべてを語ってくれるわけではない以上、研究者と
いえども「推測」や「解釈」を行なうことは避けられず、また、自分の
「考え方の筋道」を明らかにすることも、非常に大切なことだろうと
ぼくは思っています。

>今回の件についての私の意見をまとめますと〜

ここで大野さんがおっしゃっていることには、ぼくもほぼ全面的に賛成です。
ただ、ぼくは「一対一の個人的な談話の内容を無断で掲示板に要約して紹介
して論評する」ことが、すべていけないとは思いません。
大事なことは、やはり、実名をあげて、つまり、特定の個人について
「名指しで」するのか、そうではないのかということだろうと思います。
もちろん、実名を出さなければ何をどのように書いてもいいとは思いませんが、
その違いはとても大きいということは、認める必要があると思います。
個人的な談話でも、「ある人から…といった考えをお聞きした」といった
書き方であれば、許されてしかるではないかとぼくは思います。
ただ、その場合も、はっきりと面識がある人についてであれば、実名を出して
よいかどうかも含めて、まず当人の「了解を得る」ように努力はしてみる
べきでしょう。最初、寮さんがSさんについて(おそらく、当人には何の
ことわりもなく)実名を上げて批判したのは、やはりちょっと行き過ぎで、
これは少なくとも、実名と合致しないイニシャルなどにすべきだったろうと、
ぼくも思っています。

なお、最後になりますが、ぼくにとっては、大野さんからの意見が
寮さんを「鬱にする」ほどのものだったということが、実際の内容が
どうだったかはよくわからないまでも、やはりショックだったのです。
寮さんは「強い抗議」と書いていますが、ぼくは、彼女がそれほどひどいこと
をしたとも思っていなかったので、「そんなにきびしいことを言わなくても
よいのでは?」と思ったのでした。
今になってみれば、大野さんは寮さんに対して、それほど理不尽なことを
言ったわけでもないようだ――とわかるのですが、最初は、「よほど
ひどいことを言われたに違いない」と(明確な根拠もなく)思ったの
でした。

ともかく、この件については、もうこれぐらいにしませんか?

大野さんは、アイヌの人たちの文化について、ぼくたちとは比較に
ならないほど様々なことをご存じなのでしょうから、その様々な側面に
ついて、ここで論じてみて下さるといいのに――と思います。

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管理者:Ryo Michico <mail@ryomichico.net>
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