寮美千子ホームページ ハルモニア Cafe Lunatique (No.0038)

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寮美千子  おかえりなさい 2004年08月09日(月)01時17分11秒
疑問 へのコメント

▼大野徹人さま

おかえりなさい。先住民交流プログラムに参加してお忙しかったとお伺いしています。実り多き日々だったと存じます。よかったら、そのこと、お聞かせください。

ドロンコ氏の発言についてのことですが、この掲示板に書かれたこの件についての発言は、みな、わたしの投稿や日記を見て得た情報から書いたものです。つまり、わたしの発言に偏りがあったから、それを元にして書いた人の発言に反映しているだけです。どうか、追及するなら、わたくしを。

わたしの考えは、日記に書いたり、メールでお知らせしたとおりです。いろいろな思いはありますが、やはり、友好的な物言いが大切だと思いました。ですから、実名は削除しました。

ネットでどこまでを書いていいのか、悪いのかは、それぞれで線引きが違うと思います。考え方の相違もあると思います。基準線を完全に一致させることは、むずかしい場合もあります。いくら考えても一致しない場合は、自分の考えにに固執しないで、相手の考えを尊重するという必要もあります。わたしは、大野さんのことをとても大切に思っているので、今回は大野さんの判断を尊重しました。全面的に納得というわけではないけれど、なるほどと思うところも多々あります。全体として、やはり大野さんのご意見に従うのが正しい対処と判断しての実名削除です。この件、これでお許し願えないでしょうか。

いま「ネットでどこまで書いていいのか、悪いのか」という議論を、あえてここですることより、緊急にするべき事が山積みの状態です。前向きに、よきものを積みあげ、創りあげていきたいと思っています。イオマンテの絵本も制作中です。ラフスケッチがあがってくれば、議論しなければならない点もさらに出てくると思います。そういったことに力を使っていきたいと思っています。よろしくお願いします。

大野徹人  疑問 2004年08月08日(日)03時14分42秒

初めまして。
私は寮さんの以前からの知人でアイヌ文化の勉強を続けているものです。
北海道在住の和人です。アイヌ文化の伝承・研究に多少関わりを持って活動をしてますが、いわゆるプロの研究者ではありません。

イオマンテの絵本についての寮さんの投稿に疑問を抱きメールで問題を指摘したのは私です。
このことについて寮さんと対話を続けています。

この件についての掲示板での反応を見ていて疑問を覚える点もありましたので、私から投稿をして意見を述べようかとも考えていましたが、ここしばらく事情でウェブにアクセスできない場所にいました。

まずはDORONKOさんの投稿について。

〜〜〜
ぼくは、この、寮さんが「深く信頼を寄せている人」にとっても、
「世の中」なり「社会」というものが、「自分たちの世の中」=「学界」という
ものと、「それ以外の世の中」(「部外者の世の中」)=「一般社会」というものに
分裂していて、彼(彼女?)にとっては、明らかに前者(学界)の方が優位(である
べき)であって、その逆もありうるなどということは、ほとんど考えることも
できないという思考の習慣が強固に出来上がってしまっているように思えて
なりません(以上、十分にヤヤコシイかも知れないけれど――)。
〜〜〜

そうおっしゃる根拠はなんでしょうか?
私はそんなこと書いてないし、言ってません。どういう根拠をもとにそのようなことをおっしゃるのか教えてください。
非常に心外です。

勇崎  もうひとり、遅ればせながら…。 2004年08月05日(木)01時40分11秒
「糾弾ではなく対話を」という考え方 へのコメント

この1ヶ月半、モーレツに多忙していました。
おかげさまで、某町における第20回目の某フェスティバルのメイン会期を無事終えることができました。
さて、この間に、寮さんは鬱に陥るほど苦悩されたようで、心中お慰めいたします。
敬愛される方(仮にA氏)からの助言で、実名箇所を訂正されたとのこと。A氏の進言は確かに賢明ですが、いつも裸で体当たりする寮美千子の所作を僕は愛おしく思います。(玉虫色に読まれるかも知れませんが、アンビバレンツなだけです)
例の記述については、寮美千子自身は実名であり、自らを匿名にして某研究家の発言主旨を採録していたわけではありません。寮美千子はもう少し慎重であったほうがよかったかも知れませんが、実名を記してくれたおかげで僕はネットで検索できたので、ネットで調べうるレベルでの某研究家のバックグラウンドを知った上で、某研究家からの確たる反論を期待しつつ、この問題提起に僕も発言を寄せることができました。
僕は、対話の当事者ではありませんので、実名は伏せ「某研究家」と表記いたしましたが、大学の学部名は個人名とは違い社会性を持った存在なので、実表記しました。実表記した理由はもうひとつありました。採録された対話から感じうる某研究家の姿勢は、その学部名からほど遠く、学部名自体が嘘っぱちで綺麗事のように思えたからです(重箱の底をつつくような学部名への懐疑は僕の妄想にすぎないのですが)。寮さんはその箇所まで訂正されたようで、そこに苦悩の深さを感じ取るしだいです。
http://ryomichico.net/bbs/cafe0037.html#cafe20040607033149
http://ryomichico.net/bbs/cafe0037.html#cafe20040607041238

寮さんWROTE
>というわけで、この問題、とりあえず一段落させてください。

とあるにも拘わらず、この件で投稿するのは不躾ですが、寮さんには一刻も早く元気になっていただけますよう。絵本の完成、心待ちにしています。

寮美千子  「糾弾ではなく対話を」という考え方 2004年07月30日(金)16時24分52秒
遅ればせながら…。 へのコメント

ドロンコさま。お返事ありがとう。

学者はその学問を一般社会に還元する義務がある。というのが、わたしの主張の根幹です。そして、いかなる理由であれ、その義務を果たそうとしないのは、学者としての怠慢であり、また特権の濫用であり、その姿勢自体を非難したい、とわたしは考えています。これは、プライバシーとか学説云々の問題以前の問題だと思います。

しかし、某氏にいさめられ、思いました。アイヌ学の業界は狭い。アイヌ文化を専門にする人間すら少ないところで、攻撃的な態度に出て、せっかく作れるかもしれないいい関係を、つくる前から閉ざしてしまうのはあまりではないか。協力を得られないなら、単にそれを非難するのではなく、協力を得られるような形になるべく、粘り強くわたしが努力していくべきではないか。

糾弾、ではなく、対話を。理想論、ではなく、現実への対応を。という方針です。

当の学者さんにしても、決して「怠慢」などではなく、学者としての深い「誠実」から、絵本化を疑問視なさっているのだということはよくわかります。

納得しきれない部分もありますが、確かに、対話を続ける粘り強さも必要かもしれません。ただ、それが「学者」というもともとの特権階級の特権をさらに強化するようなことにつながるのだとしたら、情けなく思います。

そんなわけで、自己矛盾を来たし、困っていたわけです。

この矛盾は、当面解消されそうにありません。恐らく、わたしが名指しをした学者さんと対話し、理解してもらうおうとすると、わたしは大変な時間とエネルギーを必要とするでしょう。それは、基本的に「人生に対する対処の根本的違い」に由来しているからです。いま、それだけの労力を割いてまで、どうしてもその方と対話しなければならないとは、感じていません。積極的に力を貸してくださる学芸員の方々と、より対話を深め、制作中の絵本を、よりよきものにしていくことが、先決だと思っています。

というわけで、この問題、とりあえず一段落させてください。

DORONKO  遅ればせながら…。 2004年07月30日(金)14時10分53秒
▼時の破片:23 Jul. 2004 わたしが鬱になる理由 へのコメント

これって、かなり根が深い問題ですね。
何より、「抗議」が当人からではなく、寮さんが「深く信頼を寄せている人」から
だったというのは、ほとんどその網の目からはずれているようなぼくにとってさえ、
とても「イタイな!」と感じられました。
寮さんの困惑、察するに余りあります。

そこで、こうしたケースでの実際的なアドバイスとしては、「そんなこと(理不尽に
決まっているのだから)忘れちゃうにかぎる!」ということに尽きる――と、ぼくも
思うのですが、どうも、それだけでは済ませない問題がここにはからんでいると
思いますので、遅きに失していることは承知で、ちょっとぼくの考えを書かせて
もらおうと思います。

複雑な問題をなおさら複雑にしたくはないので、まず結論から言ってしまいたいと
思いますが、ぼくは、この、寮さんが「深く信頼を寄せている人」にとっても、
「世の中」なり「社会」というものが、「自分たちの世の中」=「学界」という
ものと、「それ以外の世の中」(「部外者の世の中」)=「一般社会」というものに
分裂していて、彼(彼女?)にとっては、明らかに前者(学界)の方が優位(である
べき)であって、その逆もありうるなどということは、ほとんど考えることも
できないという思考の習慣が強固に出来上がってしまっているように思えて
なりません(以上、十分にヤヤコシイかも知れないけれど――)。
で、今回のケースでは、要するに、寮さんは「部外者」なので、彼らの「世の中」
である「学界」のことについてはミダリに口出しをすべきではない……と言わん
としているように、ぼくには思えてしまうのですが――。

――でも、これもちょっと正確ではないというか、問題はやっぱり「プライバシー」
ということにあるという見方もできなくはないとは思うのだけれど、その場合でも、
この寮さんに抗議を寄せた人の(あまり意識はしてないのかも知れないけれど)意識の
中では、「学界」の優位ということが厳然としてあるように思えて仕方がないのですよね。

寮さんが伝えるところの、彼の抗議の核心部分である「研究者といえども人間だから、
口頭で確実な発言ができるわけではない。その真意を伝えることもむずかしい。
不用意に再録されても困る。研究者としての名誉が傷つけられてしまう」というのは、
これだけを読めば、つい「なるほど」「それはそうかも」と思ってしまいがち
だけれども、でも、立ち止まって考え直してみると、どうも変だぞ?という気も
してくるのですね。

というのも、「プライバシー」って、そもそも何なのかと考えてみると、思い切って
単純化してしまえば、要するに「仕事」と「それ以外のこと」と言うこともできる
のかも知れなくて、そもそもの発端の学者さんについて不用意に発言してしまった
ぼくにしても、彼女のいわゆる「プライベートな生活」、彼女の仕事には何の関係も
ない事柄については、およそ知りたいとも思わないし、関知しようなどとは思って
いないわけです。そうではなくて、ぼくは、やはり、寮さんの紹介による彼女の
姿勢や反応は、研究者としての「あるべき姿」とはかなりかけ離れているのじゃ
ないか?と感じたので、(まだお若い人のようだから)将来への期待も込めて、
「違うんじゃないの?」と言ってみたつもりだったのです。

もちろん、より一般論的に考えてみるなら、学者なり研究者だからといって、
あらゆる人間の要望に応えたりすることは、現実には不可能であることは明白です。
たとえば、講演会を行なったとして、講演の終了後に、すべての聴衆の質問に答える
などということは、時間にも限りがあるし、まず無理な話でしょう。そんな場合は、
講演の中身を各人がソシャクして、自分で考えてみてほしいとか、自分はこれこれの
本も出しているので、それを読んでみてもらえたらと思う――というようなことに
するしかないでしょう。

しかし、今回の寮さんとその研究者の関係というのは、以上のような、一人の学者
対「不特定多数の大衆」というようなものではないということに、もっと注意が
払われて然るべきではないか、とぼくは思います。
寮さんは、ぼくが改めて言うまでもないことだと思いますが、アイヌの人たちや
彼らの文化に関しての学会にこそ所属してはいないにしても、ここ数年、その方面の
ことについてかなりの勉強をしてきていることもたしかで、その成果の一部を、すでに
絵本という形で世の中に送り出してもいるわけです。――ですから、それらの知識や
成果をもとに、研究者たちともっと交流したいと考えるのは極めて当然のことであって、
それは、「不特定多数の大衆からの理不尽な要求」といったものとは、まったく質の
違う欲求であるということは、この寮さんが「深く信頼を寄せている人」にも、ぜひ
認めていただきたいと思います。

ただ、そうはいっても、学者さんたちも決してヒマではないのでしょうから、
たとえ寮さんのように「しっかりと話ができる(に違いない)人」の要求にも
応じるだけの余裕がない……ということであれば、ぼくは、それはそれで仕方が
ないことで(いわば「相手が悪かった」ので)、誰か別の、人間としての度量も
あって、「もっと話がわかる」人を探すようにするしかないと思いますが――。
この点に関しては、寮さんの「研究者という立場の人間の責務」という考え方を
全面的に否定するつもりはないけれど、この考え方が万能だとはぼくには思えないし、
何といっても、人と人とのコミュニケーションというものは自発的なものであって
こそ豊かになりうるのであって、それは強制することで成立するようなものでは
ないということは、よく考えてみてほしいなと思います。

――では、そもそも寮さんはどうすべきだったのかということになると、実は、
ぼくにもまだ答はわかりません。でも、寮さんは、おそらくぼくと一緒で、
やや期待が過剰だったのかも知れないけれど、決して間違ったことはしていない
と思います。ただ、もしぼくが寮さんの立場だったら、本人に確認を取った上で
なければ、実名を出すことはしなかったかも知れないな…という気もします。
なぜといって、ちゃんと話が通じるとも思えない人のことを、あまりあれこれと
書いたりしてもツマラナイし――と、ぼくには思えるので。
もちろん、本や雑誌などの出版物になったものの中での発言や、TVの番組等の
公の場での発言については、自由に批評したり批判してよいと思いますが。

どうも、話にまとまりがつかなくなってしまいましたが、ある方が、日本の「学者の
世界」について、以下のような発言をされています。

 私は大学を「世間」だと思っていますし、学部も「世間」だと思っています。
 したがって、そのなかにいる人々がどういう意識を持つかによってどんどん
 変わっていくわけですが、そのなかにいる人間として見ますと、日本の
(大学の?=ドロンコ補遺)「世間」というのは世界的に見ても特異な構造を
 持っています。つまり、個人が個人として行動していない。
              ―阿部謹也「日本社会で生きるということ」79p―

――この阿部さんというのは、日本における西欧中世史研究の第一人者とも言える方で、
一橋大学の学長もされた方なので、ちょっとは参考になるかな、と思うのだけれど。
ただ、表記の本は、決してわかりやすい本ではないので、あまりお読みになるように
薦めるつもりはありません。

寮美千子  新潟豪雨【楽市楽座】特設サイト 2004年07月29日(木)16時09分49秒

今日も相模原では、異常な雨が降っています。日本全国異常気象。大変な被害をもたらしました。

家が水に浸かるとは、どういうことか? 体験がないと、リアルに思い浮かべられませんが、このサイトを見て、その実態を少しは垣間見ることができました。靴も服もおふとんも炊飯器もトースターもタンスも、みんなみんなダメになってしまう。ほんとうに何もないところからの再出発は、どんなにお金がかかることか! 心のストレスになることか! 気が遠くなります。
【復興への、中期、長期的なサポートが必要です!】
初めのうちは、メディアなどにも露出し、ボランティアもたくさん入ってくれていますが、だんだんメディアに出なくなり、水が引いてもう一件落着したと思われるようになります。ボランティアセンターも数週間もすると閉鎖してしまいます。実はそれからが大変なのではないかと思ったのですが、それ以降の中期、長期的なサポートというのがないことを心配しました。
という趣旨で開かれたこのサイト。NPO地域たすけあいネットワークで、三条市の地域通貨「らて」を担当していらっしゃる加藤寛明氏からの発信です。この情報は、地域通貨まちだ大福帳のいまいけいこさんからいただきました。

ともかく、サイトを見ると「水害に遭う」ということがどういう事なのか、肌で感じることができると思います。ぜひご一読を。新潟豪雨【楽市楽座】特設サイト は以下。

http://www.soho-net.ne.jp/‾tasukeai/rakuichi

寮美千子  ヴォイス149編入力済! 2004年07月25日(日)00時15分03秒
どっきり。 へのコメント


へたっていたら、silicaさんが気にかけてくださったり、北海道のリトさんが励ましの電話をくださったり、おかげで気分がぐっと楽になりました。

リトさんの助言は「とりあえず、忘れて」とのこと。鬱の時は、考えれば考えるだけ、ぐるぐると堂々巡りの思考にはまってしまい、どんどん落ちこんでいくとのこと。「ゆっくりやればいいよ。元気になったら、またやればいいんだから。ゆっくり歩いていこうよ」って、涙が出ました。

甘えてゴメン。ありがと!

ともかく、ほかのことに一時専念しようと、ヴォイス(=詩)の入力をがんばりました。


すでにまとめてあったヴォイス、149編、ようやくアップし終わりました。

これは、2000年までに、約600編のなかから選び、推敲をかけてあったヴォイスのうち、物語詩の5編を除いたものと、新作の数編を足したものです。アップに際して、もう一度推敲をかけました。大幅に変わった作品も、いくつかあります。日蝕の作品など、日蝕を見る前に書いたものでしたが、やはり物足りなく、書き足しました。除外した物語詩は以下の通り。それぞれ少し長めなので、あとでまとめて発表しようと思っています。

宇宙の鉱石ラジオ
ハーモニウム・ファンタジア
星の魚>『星の魚』
銀河の船
月のガムラン


実は、作品のピックアップはまだ道半ば。これから、続きをやろうと思います。いままでのように怒濤のアップはできませんが、ぼちぼちやっていくので、見てやってください。

ご感想は、軽い掲示板カフェルミエールまで。怒濤のようにアップしているわりには、感想がちょっとしか聞こえてこないから、ちょっとさみしい気持ちなのさ。ぜひ!

http://ryomichico.net/bbs/voice.html

silica  どっきり。 2004年07月24日(土)03時05分40秒
▼時の破片:23 Jul. 2004 わたしが鬱になる理由 へのコメント

寮さん・・・「遺言」なんて、あの世を呼び寄せるようなことを言わないでくださいな。

寮さんの言葉はいつも真っ正直です。いつでも、どなたに対してもその時のお気持ちに嘘いつわりがありません。私は、その姿を拝見しに寮さんのサイトをのぞいているようなものです。人とのかかわりへ常に前向きで、潔いと思うからです。寮さんが鬱になるほど葛藤していらっしゃる姿に出会うたびに世の中へ自分が提供するものへどれほど責任、命をかけて向き合っておられるかをひしひしと感じています。
私は寮さんの作品を見る読者が一番、寮さんの心をまっすぐに受けとめることと思います。

寮さんの「Voice」を楽しみに拝見しておりますが、私は寮さんの詩が自分の中に浸透するようになったことが嬉しくてたまりません。私ははじめから寮さんの言葉が頭の中で描ける人間ではなかったのです。サイトでいろいろなことを寮さんと考えながら、時々は朗読会に出かけたりして、寮さんご自身を拝見しながら、少しずつ少しずつ寮さんが五感でとらえていらっしゃる世界へ細胞を目覚めさせていったような感覚でいます。寮さんの言葉が私の中できらきらっと輝くのは今では幸せなことです。
今日のVoice「星の楽譜」からは、オルゴールの響きが聴こえてくるようで、とても嬉しい発見でした。

寮美千子  遺言その1 2004年07月23日(金)19時45分17秒

もし、わたしの死後、ホームページ等の書き込みが再録されることがあれば、常識から考えてどう見ても誤字脱字だと思われる部分は「ママ」にしないで、校正して出してください。寮美千子

追記:別にいますぐ死ぬつもりではないので、心配しないでください。ただ、自分があんまり誤字脱字が多いので心配になってしまっただけです。思いついた時に書いとかないと忘れちゃうから。

寮美千子  青山ブックセンター再建署名チェーンメールに関する提言 2004年07月23日(金)16時48分59秒

青山ブックセンター倒産、7店舗の閉鎖のニュースにショックを受けました。何とかならないだろうかと思っていたところ、青山ブックセンター再建署名についてのメールを友人よりもらいました。メールは「転送」という形できました。

趣旨には賛同します。

しかし、このように「転送」という形で送られてくるメールの内容の信憑性を確かめる術は、受け取った側にはありません。署名を集めている責任者がだれであるのかも明記されておらず、また、ここに名前を連ねられている方々が、ほんとうに賛同なさっているのかどうかも、メールを受け取った者には確かめる術がありません。賛同したくても、確かでない情報を「転送」という形で無責任に送ることは道義上出来ません。また、自分のHPで紹介することもできません。

そこで、署名メールの宛先になっているアドレスに、下記の旨、メールしました。
・今回の署名に関する情報をどこかのホームページに掲載してほしい。
・掲載するホームぺージは、なるべく信頼性の高いホームぺージにしてほしい。例えば、どなたか発起人の方の所属する会社や大学のホームページか、そこにぶらさがった発起人個人のホームページ内など。緊急の場合であれば、発起人の関係者ホームページの掲示板でも構いません。
・発起人および責任者のお名前を明記し、集った署名及びアドレスは、今回の青山ブックセンターの再建に関して以外、使用しないことを明言してほしい。
・ホームページないし掲示板に書き込みをする人は「伝聞」「転送」ではなく、発起人ないし責任者本人である必要があります。

責任ある形で、署名を集めるとすれば、以上のことは最低条件と思われます。わたしも、署名に協力したいし、自分のHPでもぜひ紹介したいと思うのですが、今回のように「転送」という形で伝わってきた情報は、信頼性が低く、発起人の方々のお名前が虚偽であった場合、その方々にご迷惑をおかけすることにもなり、紹介したくてもできません。

ホームページ無しの「転送」という形式は、それがどんなに善意のものであっても、構造的には「デマ」と変わりのない不確実な情報になってしまいます。せっかくの善意を、そのようなものにしてしまうのは、大変残念に思います。ぜひとも、ホームページにご掲載いただきたく、ここにお願い申しあげます。
署名の送り先をここでみなさんに公開したくてもできない歯がゆさ。しかしネットで「デマ」が広がることを防ぐためには、わたしたちは普段からこのようなことに気を付けなければなりません。

「善意だから」「いい情報だから」と信憑性を確認できないまま、友人などに「転送」することが当たり前になれば、いざという時、世間が「デマ」を受容する下地作りをしているのと同じです。いくら「善意」であっても、情報の信憑性を確認できないものを「転送」することは、無責任なチェーンメールです。掲示板などでの紹介も、責任者本人が書き込むならまだしも、他者が「転送」されてきたものを紹介するのでは、責任が取れません。

せっかくの「善意」が、このような形で知らないうちに「無責任」に加担して、「デマ」を受容する素地をつくってしまうこと、とても残念に思います。厳格に過ぎるように思われる方もいるかもしれませんが、これはやっぱり大切なことです。

青山ブックセンター再建署名の情報が、一刻も早くどこかのHPにきちんと掲載されることを祈っています。

寮美千子  安東ウメ子さんのムックリは百万の音色を奏でた 2004年07月22日(木)21時11分08秒
訃報 アイヌ文化の巨星・安東ウメ子さん逝く へのコメント

わたしがはじめて安東ウメ子さんにお目にかかったのは、2002年4月18日のことでした。サンジョルディの日の講演を行うため、帯広の六花亭ホールに行ったところ、幕別からウメ子さんが駈けつけてくださいました。作曲家の伊福部先生つながりで、札幌の勇崎さんがウメ子さんを呼んでくださったのです。ウメ子さんは「せっかくだから、何かやりましょう」とおっしゃってくださって、ムックリを弾いてくださいました。イフンケも、それから昔話もひとつしてくださったのです。その時のことを報告したカフェルミの投稿から、引用します。
ウメ子さんのムックリの音色の、なんと複雑で微妙なことだろう。その音色はまさに「豊穣」と呼んでいい豊かさをたたえていた。音が小さいのも、またいい。耳元で語りかけるようなその小さな音の中に、さまざまな人生の経験や、いっぱいの愛情が詰まっているような音なのだ。いつまでも聴いていたい。いつまで聴いても飽きない。そんな音色だった。

恵さんのムックリの音色が、そこに重なる。それは張りのある、力強く若々しい音色だった。その若さの感覚がまたいい。人生経験豊かなフチ(媼)と、若きメノコ(娘)の語らい。フチは溢れるような深い愛情でメノコを包み、メノコはその若々しい力でフチの命を勇気づける。そんな音に、わたしはすっかり感動してしまった。
そういえば、あの時の録音があったはずだと家の中をひっくり返して、録音テープを見つけました。ウメ子さんのムックリの、なんという微妙な音色。共演してくださった若きメノコ金子恵さんの、張りのある音色。たった二人の人間が奏でているとは信じられないような、オーケストラを聞いているような多彩な音色でした。これが、金子恵さんと安東ウメ子さんが共演した、唯一の録音になってしまいました。もっともっと、共演してほしかった。

一人の人間が亡くなるというのは、ひとつの図書館が燃えおちるようなものだという言葉があります。本当にそうだと思う。人は、ひとつの図書館以上の存在です。一度として同じ旋律を奏でることのない、ウメ子さんの即興演奏のあの絶妙な音色も、もう誰も真似の出来るものではありません。

ムックリというのは、とても原始的な楽器で、だから音色も単純なのだと、わたしはウメ子さんに出会うまでは思いこんでいました。けれど、ほんとうに百万変化の音色がでる。言葉で語るよりもっと多彩な色彩が表現できる。

しかも、一人一人の音色が違うのです。上手な人はいっぱいいるけれど、音色はみんな違う。ひとつとして同じ音色を奏でない楽器、それがムックリなのです。

ムックリという楽器は、限りなく単純な構造をしています。だからこそ、その演奏には人間の技量に頼る部分が多く、人間自体が楽器の一部にならなければなりません。ひとりひとり、顔つきが違うように、その音色も違ってきて当たり前なのです。

それだけではなく、その音色の表現するものも、ひとりひとり違う。人生や心の形がそのまま反映するといっていいほど「何か」が表現されてしまう楽器です。うまくなればなるほど、そうかもしれない。

ウメ子さんを失ったことは哀しいし、埋められない大きな欠落を感じないではいられません。けれど、恵さんをはじめとして、ウメ子さんの薫陶を受けたたくさんの人がいます。まだまだ、隠れたムックリの名手や、語り手もいるかもしれません。一本の木が倒れて、新たな樹木が伸びるように、きっとさまざまな人々が育ってくるでしょう。ウメ子さんの残してくれたものを糧にして、たくさんの後進が、ぐんぐん伸びていくことを祈ります。わたしも哀しんでばかりいないで、未来に目を向けたいと思います。

あれから2年ちょっとたって、金子恵さんのムックリも、きっと音色が変わってきていると思います。聞いてみたいなあ。

DORONKO  小さな思い出。 2004年07月18日(日)14時26分59秒
訃報 アイヌ文化の巨星・安東ウメ子さん逝く へのコメント

ウメ子さんの彼岸への旅立ちは(アイヌの人たちはこんな言い方はしない
かも知れませんが)、あまりにも突然にやってきたような気がします。
たしかにご高齢でしたし、体調もあまりよくはないらしいとお聞きはして
いたのですが、ウメ子さんに会った誰もが感じたに違いない大きな生命の力
のようなものが、ウメ子さんがこんなにも早く亡くなってしまうということ
を想像するのを難しくしていたような気がします。

ぼくがウメ子さんに初めてお会いしたのは、リトさんを案内役にした
寮さんの北海道聞き書きツアー?に同行して、幕別町のご自宅にうかがった
時のことでした。隣家では馬を数頭飼っていて、帰り際に、ウメ子さんに
よくなついているその馬たちに草を食べさせたりしたことも、懐かしく
思い出されます。その後は、伊福部先生のお宅を訪ねた時に運転手を
させていただいたり、寮さんが企画した相模女子大でのイベントで歌や
ムックリを聴かせていただいたり、いつも金魚のフンのように取り巻きの
中にいただけなのですが、ウメ子さんのことは、不思議なほどに鮮明に
記憶の印画紙に焼き付けられているようです。

そんな、束の間の接点があっただけですから、正直なところ、ぼくには、
ウメ子さんがどんな人だったのかを語るほどの資格もないと思います。
ただ、ウメ子さんのそばにいると、神話的な世界と現世のどちらにも
身をおいて、とても逞しく生きてこられた人なのだろうなということが、
本当に肌身に感じられるような気がしました。「神話的」とはいっても、
「絵空事」のようなものではなくて、まだ人間(「和人」というべきかも
知れません)の小賢しい知恵によって汚染される以前の「大地の原風景」
のようなものかと思うのですが、それがウメ子さんの中ではたしかに
生きているという感じがしました。

ウメ子さんのような人を喪うということが、ぼくたちすべてにとって
どのような意味を持つことになるのか、思うことは多々あるのですが、
今はともかく、お会いできたことに感謝しつつ、どうか安らかにお眠り
下さいとだけ申し上げておきたいと思います。

グレン横田  お会いできてよかった 2004年07月16日(金)22時15分15秒
訃報 アイヌ文化の巨星・安東ウメ子さん逝く へのコメント

今日の朝刊でウメ子さんの訃報を知り、呆然としています。私も寮さんとのご縁のおかげで、生前のウメ子さんと2度お会いしてお話をうかがうことができましたが、「お会いできてよかった」と心から思える方でした。夜の帯広で彼女をエスコートした思い出は、私にとって一生の宝物です。彼女とお会いしたときに受け取ることができたなんとも暖かな気持ちも、生涯大事にしていきます。色んな意味で希有な方だったと思います。

古澤 廣  小説「楽園の鳥」出版を知りました。 2004年07月16日(金)17時02分33秒
▼時の破片:8 Jun. 2004 「楽園の鳥」入稿/連載と単行本化の経緯 へのコメント

この投稿は掲示板Cafe Lumiereにふさわしい内容なので、そちらに移動させていただきました。カフェルミへの移動は、以下をクリック!↓ by 寮美千子

・小説「楽園の鳥」出版を知りました。@Cafe Lumiere
 

寮美千子  訃報 アイヌ文化の巨星・安東ウメ子さん逝く 2004年07月15日(木)19時50分02秒

アイヌ文化の継承者でやさしいフチだった安東ウメ子さんが、きょうの午前11時過ぎに息を引き取られたと、ご親類の方からご連絡いただきました。

ウメ子さんを相模大野にお招きして「安東ウメ子+寮美千子ライブ アイヌの歌と語り」を催したのは2002年11月16日のことでした。その後もお元気でしたが、癌の手術をなさったとお伺いして、心配していました。しかし、不死鳥の如く復活。昨年暮れには、トンコリのOKIさんといっしょに、全国行脚のライブ活動をなさり、この4月にも帯広でライブを開かれていました。病気を乗り越えて、このまま長く長く活動なさってくださると信じていただけに、残念でなりません。

ウメ子さんは、体調を崩されてこの一ヶ月ほど入院なさっていらっしゃったとのこと。容態が急変しての、突然の訃報だったとのことです。

わたしが最後にお声をお聞きしたのは、今年1月16日、ウメ子さんが、東京のアイヌ文化交流センターの講演にいらっしゃったときのことでした。わたしは朗読会「小惑星8304」を翌日に控え、東京まで出向けなかったのですが、それでもどうしてもお声だけでも聞きたくて、講演が終わる頃を見計らって、交流センターに電話をしました。ウメ子さんは、電話口に出てくださり、いつものやさしい元気な声で「あなたもお元気でねえ」とおっしゃってくださいました。

もっともっとウメ子さんに聞いてみたいことがありました。ウメ子さんの子どもの頃のお話しなど、いつかきちんと時間を取ってお伺いしたいとも思っていました。ウメ子さんも「あなたが聞いてくれたら、いろいろ思い出せそうよ」とおっしゃってくださいました。

埋もれた宝もののような記憶とともに遠く旅立たれたウメ子さん。けれども、ウメ子さんが記憶の地層の中から掘り起こして甦らせたものも、たくさんあります。それを受け継いで、未来へと向けて育てていくのが、残された者の大切な務めだと感じています。

現在製作中の絵本「イオマンテ めぐるいのちの贈り物」も、ウメ子さんにお話をお伺いさせていただき、それを元にイメージを広げた部分があります。ウメ子さんが、子熊の愛らしさを、すぐ目の前に子熊がいるようにありありと語ってくれたこと、それが、物語の中核を形成しました。かわいい子熊を送るときに、哀しくて哀しくて、お母さんたちはみんな泣いて、子熊にお乳をやった人など「火の神を見ているから」と炉端から離れなかったと、ウメ子さんは話してくださいました。「カムイの国に送るのに、やっぱり哀しいのですか?」と、わたしがバカなことをお伺いすると「そりゃあ、哀しいさあ。哀しくないわけないでしょう」とおっしゃいました。ああ、神話を心から信じていても、現実の別れの悲しさは変わらないのだと、わたしはその時、実感を持って知ったのでした。

ウメ子さんのあのやさしい声が、いまでも聞こえるようです。母なる大地のやさしさに包まれているような、そんな声でした。いまごろは、一足先にあちらへ行かれた息子さんとご主人と、楽しく語らっていらっしゃると思います。ウメ子さんのご冥福を心からお祈りします。

松永洋介  わが自衛隊の晴舞台を見届けよう! 2004年07月13日(火)03時58分00秒 http://www.ceres.dti.ne.jp/‾ysk/

「遊星たちの消息」に、陸上自衛隊の公開大演習の案内を書きました。実施は8月28日。申し込みは来週月曜19日必着。ぜひ応募してください。

わしは兵器に興味があって、厚木基地の航空ショーとか、機会のあるときには見学に出かけたりしています。それで以前、この総合火力演習にも行ったのですが、見て、戦争観が変わりました。あれはいけません。戦争すると、人が死にます。助かりません。大変なことです。死ぬのが自分か他人かは副次的な問題で、勝ちとか負けとか、左翼とか右翼とかも言ってる場合じゃありません。敵に撃たれた戦友を抱いて「衛生兵!」とか呼ぶような羽目に陥る前に、考えるべきことがあるはずです。
ようするに、国家としての組織的な武力行使(戦争)はイカン、ということです。合法とか違法とか、憲法九条がとか、そういう問題ではありません。どれくらいイカンかは、総合火力演習を見てもらえばわかります。テレビではだめです。

「物語の作法」の掲示板に去年書いた文章を引用します。
総合火力演習の会場では、陸自のサイトのビデオ映像にあるように、適宜アナウンスが行われています。これから誰が何をするか、いまどういう状況の見立てか、という親切な解説があるわけです。
でも、「山の反対側から、迫撃砲による援護射撃を行います」とか聞こえた後にババババッと着弾があっても、それが何なのかを理解するのはすごく難しかった。言葉ではわかっても、実感として結びつかない。
戦争映画なら何台もカメラがあって、敵の主観もあるけど、戦場では、カメラもマイクも自分の主観に固定だし、解説なんかないし、ましてや敵がどこから何をしてくるかはわからない。目の前ではっきりと、ものすごい事態が展開していても、それが何なのか理解できる状況は、まず現出しないんじゃないか。
映画『突入せよ!「あさま山荘」事件』で、いかんともしがたい現場の混乱が半ばコメディのように描かれていたけれど、戦争の現場も、きっとあれと似たようなものだと思う。
そういう、ぜんぜんわかんない状況で人が死んだり、人が死んだり、人が死んだり、いろいろあるわけです。そういう状況を作ってはイカン。
わが国がもう一度戦争のできる国になれるよう努力を進めている人たちや、それを容認しちゃってる人たちは、「ロマン」とか「正義」とかの観念や言葉に支配されて、具体的な問題を無視しているのだと思います。地に足がついていない状態でないと、あんなもの(国家による武力行使)を認められるわけがない。だって、ムチャクチャなんだもん。

演習に登場する自衛隊の人たちは、きわめて優秀で、たぶんすごくまじめです。空挺部隊なんか、一糸乱れぬ美しい降下を見せてくれたりして、どうしようもなく感嘆させられたりしました。だからなおさら、そういう能力のある人たちを、ああいう任務に従事させてはイカン、とわしは思います。

planets0006.html#planets20040713025549

寮美千子  投票終了! 風、変わるか? 2004年07月11日(日)23時26分29秒
ミニ「マイ・ブーム」。 へのコメント

開票速報を見ながら、ふと気づきました。
自民・民社・公明・社民・共産の5大政党の党首のうち、
なんと2人までが、県立千葉高校の出身者。
うーん、わたしの母校は、そんな学校だったのか。知らなかった。
因みに、その2人とは、
公明党の神崎武法氏(昭和37年卒)と共産党の志位和夫氏(昭和48年卒)。
志位氏は、わたしの一年先輩です。がんばってるなあ。
しかしながら、この2人の率いる政党、
今回の選挙では、どちらも票が伸びませんでした。

さすがにいまの政治に危機感を感じている人が多かったのか、
政治の風が変わりそうな勢いです。新たな明日への期待が膨らみます。

DORONKO  ミニ「マイ・ブーム」。 2004年07月11日(日)10時20分40秒 http://8410.teacup.com/fauve/bbs
政見放送 明日6日夜11時より へのコメント

<以下は、ぼくの掲示板「ドロンコだ・より」http://8410.teacup.com/fauve/bbs
に書いたものの引き写しです。>

さあて、この国の将来にとっての大きな分かれ目になると思われる参院選も、いよいよ
今日が投票日です。ぼくは、すでに「期日前投票」を済ませましたので、とっても楽な
気分ですが、まだ投票に行ってないという人は、この掲示板に来てくれたのが運のツキ
……じゃなくて、大チャンスだと思って、すぐに投票所に行きましょう!!

以下は、まだ本格的な「マイ・ブーム」と言えるほどには入り込んでいませんが、
しばらくはおつき合いすることになりそうな、ぼくのミニ「マイ・ブーム」たちです。

「エレーヌ・グリモー」
フランス生まれ、現在はアメリカで野性のオオカミを保護する施設を運営しているという、
かなり独特な女性ピアニストです。彼女の演奏は、たまたまカーラジオで流れたラヴェル
のピアノコンチェルトぐらいしか聴いていませんので、ピアニストとしては特に好きと
いえるほどでもありませんが、彼女の才能、彼女の生き方には、とても興味を持って
います。いわゆる、「気になる人」ですね。
「ソトコト」の7月号等、最近、“時の人”でもあるかのようにいろいろな雑誌に記事が
載っていましたので、まず何かで見つけて読んでみるとよいでしょう。

「田鎖 浩さん」
田鎖さんのことは、6月27日に放映されたTV朝日の番組「素敵な宇宙船地球号」で
知りました。途中からだったのですが、見ているうちに、「何なんだ?誰なんだ、この
人は?」と思いました。それぐらい衝撃的な、すごいことをやっている人です。どんな
ことかというと……フィリピンの農村部で、現地の人々が苦しい生活から脱却できる
ようにと、40年以上にもわたって、農業の技術指導や経営指導を行なってきた――という
ことなのですが、その中身は、とても手短かになどは紹介しきれないような、すごいこと
ばかりです。
詳しくは、田鎖さんが理事長を務めているNGO「熱帯農林技術開発協会」(TAFTDA)の
HPを見ていただきたいと思いますが、ここでは、そこに載っていた以下の一節を引用して
おきたいと思います。
「次代を引き継ぐ若者が希望を持てない経済構造はいずれ行き詰まるのです。最も重要
 なのは、資源です。資源は自然そのものです。環境を破壊して成り立つ産業経済が
 長続きしないことぐらい誰もが分かることです」
――これは、今回の参院選の比例代表選挙に10人の候補者を立てた「みどりの会議」の
中村敦夫代表が、日頃から述べていることそのものでもあるということを、今日の今日
ですから、付言しておきましょう。

「タカラ BARBICAN RealTaste」
いわゆる「ノンアルコール・ビール」、最近の言い方ですと「ビアテイストドリンク」の
製品の一つです。この「ビアテイスト」、時節柄?いろんな会社から出ていますが、飲んで
みると、全体には「もう一つ…」という感じがします。
そんな中で、このタカラの「BARBICAN」(バービカン)は出色の出来で、ほとんどの
発泡酒はおろか、なまじなビールよりもおいしいのではないかと思います。かなりしっかり
した苦みもありますので、女性にはちょっとヘビーだと感じる人もいるでしょうが、それ
でもアルコール分は0.1%未満の、正真正銘の「ビアテイストドリンク」です。カロリーも
糖質も抑えめだそうですから、これはほとんど健康飲料とさえ言ってよいのではないか?
とさえ、ぼくは思います。クルマを運転する時には、もちろんアルコールはイカンわけ
ですが、そうでなくても、あまり酒グセがよろしくないという方などにも、これは強力に
オススメできます。
ぼくはマジで、「みんな、もっと、ビアテイストドリンクを飲めばいいのに…」と思って
います。とにかく、この「BARBICAN RealTaste」を、まず飲んでみましょう!

以下は「熱帯農林技術開発協会」のHPです。

http://www.taft-da.org/works04.html

DORONKO  フォローに感謝! 2004年07月06日(火)13時20分29秒
政見放送 明日6日夜11時より へのコメント

何というのか、ぼくのカキコは、現状では「参政権」自体が脅かされるような
状況になりつつあるので、まず「機会の平等」だけでも手放さないように
したいという意図からのものでした。

また、今回の選挙で中村敦夫さんが議席を維持できたとしても、「みどりの
会議」には、課題は山積していると思います。しかし、その課題は、より多くの
人の支持がありさえすれば、きっと確実にクリアして行けるとぼくは思って
いますし、だから希望も持っているのです。

>わたしは、ともかく憲法第九条をきちんと守ってくれる党と人に票を入れたい!

「みどりの会議」は、今回の選挙で、憲法の問題だけを正面に掲げている
わけではありません。しかし、中村さんにとっても、支持者の一人である
ぼくにとっても、戦争ほどの環境の破壊はなく、戦争ほどの資源の浪費もなく、
まして、国家や企業の利害のために多数の人命を奪い、死にはしないまでも、
何十万、何百万という人々の生存権を根底から脅かすなどということが許されて
よいはずがない――ということは、いわば自明のことなのです。
今回の選挙に向けての機関誌でも、「みどりの会議」は「非戦を貫け!」と
主張しています。

選挙戦ですが、4日の日曜日には、中村敦夫さんが横浜の中華街と元町を
訪れ、多くの人たちから、本当に心のこもった声援を受けました。
昨晩のニュース番組で、何日か前に現閣僚の一人である竹中平蔵氏が中華街に
来ていた際の映像をたまたま目にしましたが、あの白々しさとはまったく
質の違う反応だったと思います。

ともかく、今回の参院選、「みどりの会議」は比例区だけでの戦いですし、
選挙は比例区だけではありませんので、みなさん、よくご自分でお考えに
なって投票していただけたらと思います。

――ぼくは、昨日の夕方「期日前投票」を済ませてきましたが、それにしても、
投票所に選挙公報が置いてもないというのは、実にひどいことだと思います。
実に腹立たしい気持のまま、とにかく票は投じてきました。

寮美千子  政見放送 明日6日夜11時より 2004年07月06日(火)00時04分20秒
「みどりの会議」の政見放送。 へのコメント

しまった。見そびれた「みどりの会議」の政見放送。
明日、再放送されます。
放送時間は夜の11時からと、テロップに出ていました。
ドロンコ氏がお知らせしてくれたのより、15分早くなったようです。
11時きっかりにはテレビの前に。わたしも、明日こそは!
NHK総合テレビです。

わたしは、ともかく憲法第九条をきちんと守ってくれる党と人に票を入れたい!

http://www.monjiro.org/

おむすびの祈り  感じたこと 2004年07月03日(土)06時59分20秒
文士よ、自殺するな! へのコメント

「死にたい」と思ったことがある人は沢山いると思います。
のんびり屋の僕でさえ一度や二度はそういう気持ちになった事があります。

今思えば「孤独感」「完全性を求める厳しさ」「自己嫌悪」「絶望」「疲れ」
からくる事が多かったと思います。

今は自分の考え方が随分変わったので思わなくなりました。
個人の考えですが
自分の魂はずっと昔からあり何度もこの世に生まれ変わって
少しずつ魂を磨いていると自分の事を捉えています。

という事は今生で「完全」に到達する必要がないという事です。
その事に気がついたとき随分気が楽になりました。
「じゃあ今生では多くを求めず出来る事をやろう!
目の前の出来事を一つでも乗り越えて生まれた時の自分より
何か一つでも成長があれば今生きたことはそれだけで充分意味があるんだ。」
そんなふうに思うようになりました。

みんな生きているあいだに自分の心の中のダイヤモンドの原石を磨く事こそ大切だ
と気付いてくれれば死のうと思う気持ちも少しは柔らぐんじゃないかなって思います。

文士のお二人もご自分の才能を磨く事をもっと楽しまれたらよかったのに・・・
お二人のご冥福をお祈り致します。


おむすびの祈り
(追伸:寮さん有難うございました)

DORONKO  「みどりの会議」の政見放送。 2004年07月01日(木)12時15分47秒
コイヘルペスと参議院選挙 へのコメント

今回の参院選に「みどりの会議」という“ミニ政党”が名乗りを上げていることを、
みなさんはご存じでしょうか?

政党とはいっても、現在までのところ、国会議員は代表の元“木枯らしの紋次郎”
こと中村敦夫さんただ一人ですから、実際には「政党予備軍」というべきものかも
知れません。

ただ、この「みどりの会議」が掲げている“政策的な目標”(従来の日本の政治で
言われてきた「政策」のワクには収まらないことも多いので、こんな言い方にして
おきたいと思います)には、多くの、とても注目すべき点があるとぼくは思って
います。ですから、もちろんぼくは、この「みどりの会議」を支持しています。

率直なところ、中村敦夫さんという人は、必ずしも“万人向け”のキャラクターの
持ち主ではないとぼくは見ています。ですから、「どうも好きになれない」という
人も、少なくないだろうと思うのです。ただ、この国で行なわれている「公共事業」
の愚かさや異常さを、中村さんほどしっかりと見据えている国会議員は、ほとんど
いないだろうとぼくは思うのです。まあ、共産党などにはいないこともないとは
思うのですが、党全体の体質等、共産党にはちょっとついて行けないということが
あるのも事実でして――。

さて、ともかく、実は度重なる制度の改悪によって、現在の日本の選挙制度は実に
ひどいものになってしまっていて(たとえば、今回の参院選でも、候補者一人に
つき600万円もの供託金を出さなければなりません!)、小さな政党、新しい政党に
対しては極端に不利になるようにできています。今回の「みどりの会議」のチャレンジ
も、そうした不利をはねのけてのチャレンジでもあるのです。

そんな事情もありますので、今日から始まった「みどりの会議」の政見放送を、
ぜひ、一人でも多くの人に見てほしいとぼくは思っています。

当面の放送予定は、以下のようになっています。

NHK総合テレビ

 7月2日(金) 午前8時50分ごろから
 7月5日(月) 午後11時15分ごろから
 7月6日(火) 午後11時15分ごろから


*以上、ぼくの掲示板が目下うまく使えなくなってしまっていますので、ここでの
 お知らせとさせていただきました。(ドロンコ)

http://www.monjiro.org/

寮美千子  文士よ、自殺するな! 2004年06月30日(水)18時47分00秒
▼Review Lunatique:野沢尚氏・鷺沢萠氏の自殺に思う へのコメント

文士じゃなくても、自殺はいけません。いわんや、影響力の大きい文士をや。作品なんか書かなくても、連載途中で投げだしても、超駄作を書いても、作家が生き続けているというだけで、読者は励まされ続けるのに。

4月11日には鷺沢萠氏、6月28日には野沢尚氏が、相次いで自殺。ショックを受けました。おふたりとも、仕事は順調、周囲に自殺の気配すらみせなかったことが共通しています。普段から「死んでやるー」とか「死にそうだー」とか「死にたーい」とか騒いでいるような人間の方が、却ってガス抜きできて、生き延びられるのか?

収まりどころのないやるせない気持ちです。ご冥福をお祈りします。といいたいが、それ以上にいいたいこともある。でも、もう彼らには届かない。無念。ほんとうに「魔の瞬間」を回避するには、どうしたらいいのだろう? 深いところで「生きる力」を支えられるような世界にしなくては、と思わずにいられません。

寮美千子  失われた世界の手触り 2004年06月26日(土)01時59分26秒
実感がないという実感 へのコメント

望ちゃんの言葉の深さ、心の深さには、いつも驚かされます。わたしが思ったように「あざといアピール」なんかじゃなかったのかもしれない。
自分の立場がなくてまずすっとなにかに同化する
それがいわゆる「いい子」を演じると言われることだと思います。

「人の感情の発露の仕方」をトレースしてみることで、
せめて何かの手触りに触れようとする、そういう変な努力
いま、そういう「いい子」って、たくさんいそうな気がする。佐世保の少女の場合、その「自分のなさ」が、そのまま自己への、そして他者へのデリカシーのなさになっていったのかもしれない。

少女が住んでいるのかもしれない具体的な手触りの欠如した世界、というものを想像してみると、ぞっとします。そこには、痛みや感情すらないのかもしれない。少女は、憎悪や怒りといった熱い感情ではなく、もっと別なことであの事件を起こしたのかもしれない。「何かの手触りに触れようとする」ために。そんな気もしてきました。

そして、あれだけのことをしても、少女はやはり「世界の手触り」を得ることはできなかったのではないかと。

少女の心は「闇」というより、放送終了後のブラウン管のように感じられます。ざーっというノイズだけしかなくて、そこに意味や感情が乗っかってこない。少女の周りの人々は、少女の心に触れることができるのだろうか。

殺されて亡くなった少女のためにも、加害者の心に触れてほしい。解明してほしいと願わずにはいられません。

中学生の少女が、五歳児を突き落とす事件がありました。個人の資質、だけの問題ではなく、社会が子どもの心を灰色に蝕んでいるのかもしれない。「心の教育」と叫ばれているけれど、ほんとうに何をしたらいいのか。真剣に考えながら生きていかなければ、と思います。

寮美千子  コイヘルペスと参議院選挙 2004年06月25日(金)17時57分38秒

▼コイヘルペスに感染した鯉を目撃
先週の木曜日(17日)、いつものように和光大学にいくために小田急の鶴川で下車し、鶴見川沿いの道を歩いていると、川の中に死んだ鯉が4匹、お腹を出して浮かんでいました。

その2日後の土曜日(19日)、桜美林大学に行く途中、古淵から境川を自転車で遡っていると、ここでも死んだ鯉が7匹も。

さらには、今週の木曜日(24日)、和光大学に行くため、一週間前と同じ場所を通ると、4匹の鯉が水の中で苦しそうにのたうち回っているのを目撃。ヘルペスだから、痛いのでしょうか。白い腹を見せ、体をよじりながら、水の中でもがいています。大きな大きな、立派な鯉です。かわいそう。胸が痛い。

鳥が、コイヘルペスのウイルスを媒介するといいます。鶴見川も境川も、河口付近でのウイルス汚染は聞いていましたが、ついにここまで汚染されてしまったようです。

コイヘルペスは、河川や水路など天然水域での発生が急増し、33都府県に拡大していると報告されたという報道もありました。
http://www.asahi.com/national/update/0625/012.html

▼未来はわたしたちの手のなかに
子どもの頃、鉄腕アトムの未来である21世紀は、輝く世紀だと思っていました。けれども、世界情勢は混迷、戦争とテロと暴力が横行し、汚れた川で健気に生きてきた鯉たちまで、ウイルスにやられてしまう。世界は、ほんとうにどうなってしまうのだろう?

無力感に打ちひしがれるのではなく、いまだからこそ、まっとうな世界を夢見る力を持たないといけない。

こんどの選挙できちんと意思表示をしよう! この国を動かしていくのは、政治家ではなくわたしたち。「主権在民」であることを肝に銘じて、選択をしましょう。参議院選挙は7月11日。今回から、不在者投票ばかりでなく、期日前投票もできるようになりました。すでに、投票可能です。さっさと投票を済ませてしまいましょう!

  実感がないという実感 2004年06月22日(火)03時03分08秒 http://www.h4.dion.ne.jp/‾eulalie/top.htm
▼Review Lunatique:佐世保小6同級生殺害事件/完璧な表現と内実の空疎 へのコメント

こんにちは。
Review Lunatique と一連の書き込みを読んで、いろいろと考えを巡らせています。


以下、寮さんの Review Lunatique に書かれた
「佐世保小6同級生殺害事件/完璧な表現と内実の空疎」
http://ryomichico.net/bbs/review0009.html#review20040612015910
より引用


>たくみに表現された「親のない子の気持ち」。けれど、心の底から共感していた
>ら、簡単に口にするのははばかられただろう。

>加害者少女には、ただするすると器用に表現できてしまう能力があったのではな
>いか。その能力を使って「わたしはあなたの気持ちがわかります」という、ある
>種あざといアピールをしようとしたのではないか。そんな気がしてならない。


 私は、アピールというより、それすら無意識だったんではないかと思うのです。

 親をなくした友人がそばにいるのに他の子たちが親がいないほうがいいと言って
 いることに対して、怒りを感じて、それを自分の立場からでなく「友達の言葉を
 使う」形で表現してしまうこと。
 友達と同化して語ってしまうこと。

 そうすることが相手の気持ちを置き去りにする可能性には彼女は気づいていなかっ
 たのではないでしょうか。

 共感したようでいて、友人がなにを望んでいるかのほうが置き去りになってしまう
 可能性のある「同一化」、人を守ることのできる独立した自分にはなりきれない弱さ
 というのを、かつて持っていたことを思います。今も持っていると思う。
(それがデリカシーがないという部分ですよね。)

 自分の立場がなくてまずすっとなにかに同化する(できない部分である自分自身は無く
 してしまう)危うさがあると感じます。

 それがいわゆる「いい子」を演じると言われることだと思います。


 そこから考えると、近くにあるものを自分の言葉の代わりに取り入れてみることは、
 自分に強い印象を与えた「人の感情の発露の仕方」をトレースしてみることで、
 せめて何かの手触りに触れようとする、そういう変な努力もあるのではないかと思います。

 それは取り入れることで何かに合わせるという働きと同時に、取り入れてみることでせめて
 自分に触れたいという思いもあるように思います。

(あまりに自分のことと同じだと思い込むのは、違う部分を見つけないので、以上の私の言葉は
 断定的過ぎるかもしれません……)


 でも本当に自分であることを知りたいと思ったら、人と対照にならなければならないこともある。
 それが決して相手の全否定にはならないこと。
 人と違うということが相手への否定ではなく存在できるということ。
 人と同じ思いであるということが没個性ではないということ。

 そういった信頼感が、表面的に同じであることを求められるなかで、自分からも人からも、
 総じて世の中からも失われてきたような気がします。



 女の子の日記より

『ご飯』
『失礼でマナーを守っていない』
『ごく一部は良いコなんだけど』

 という部分は、たぶん身に付いた丁寧な言葉が消しきれていない部分のように思います。
『顔洗えよ。』という言葉遣いのつたなさに、慣れない言葉を使っている感じがあります。

 おそらく、ネット言葉の影響で書きつけてみた暴力的な日記は、彼女の気持ちを
 代弁はしなかったはずです。
(それは表現の手前で止まっているし、なにも重要なことは伝えていないのです)

 そしてその後に起こした被害者を傷つけて殺した行動も、彼女の気持ちを表現することはありません。
 殺人は気持ちの代弁にはなりません。
 結局のところは、そんな酷いことの後で、自分で言葉を探して伝えて行かなければならない。

 でも今はまるで殺人がなにかの表現のごとく、くたくたになるまで読み解かれようとします。
 無い謎を見つけるが如くです。

 後から遅れて出てくる底のほうからの言葉を待たず、殺人を表現として読み解こう
 とする動きは、殺人への境界を薄く弱くしているように感じることがあります。

 犯罪を犯した人間への「共感」を持つこと自体はそうおかしなことではないかもしれない。
 けれどそれがイコール別の殺人へつながったり、
 影響でやりましたという言い訳がさも本当の原因のように言われまかり通っているなかで、
 こう感じたら人殺しをしてしまうものなんだという認識を、言い訳を、弱さを、今使われてい
 る解釈というものが人に与えてしまってはいないでしょうか。
(それに動かされる人間ばかりではないとしても、それを利用できたり、間に受けてしまうある真面目さと小心さを持つ人も、ある程度いると思います)

 恐ろしい行為をした人間や、恐ろしい思いをして亡くなった人たちに対する畏れや距離を失って
 理解できない部分を見るだけの目の強さを失って、
 ただ同化してしまうたやすさを、つくってきたものはなんでしょうか。


 なにかの埋めてはいけない溝を、どんどん埋めているのはなんでしょうか。
 それはどうしてでしょうか。
 具体的にどこから変えていけるでしょうか。

 うまく言うことができません。
 言葉も知識もまだ足りないです。



 私はおそらく元々はこの事件を起こした少女のつかめなさがわかると思ってしまうほうの人間です。
 たまたま『わかる』と言われてしまうことがどんなにやられたほうにむごい言葉であるかを知ったた
 めに、わかると言うことをせき止めているだけの人間です。


 その実感の無さ、つかめなさがそのまま彼女たちの実感であるということ。

 それを正すというより、そこからの言葉をもっと聞きたい気がします。
 それをわかると言うためでなく、その場所から実感の世界への道筋を見つけるために。



silica  愛情の中にいるという感覚を持てないこと 2004年06月19日(土)16時48分28秒
佐世保小6同級生殺害事件/精神科医の感想 へのコメント

同じ年頃の子供を持つ私はこの事件は、大変にショックでした。亡くなったお子さんの親御さんに気持ちを近づけますと、ひととおり悲しみをぶつける相手を思い巡らした後には、相手の子供を刺激したうかつさを持つ娘を育てた「自分」を責めることになるのだろうと胸が痛くなります。

少女が現実にこのような犯行へ及んでしまった原因について、ネットや交換日記での仲間からの言葉、仮想世界への思い入れの強さなどがいろいろと言われています。でも、これらのことが簡単に自分をおとしめることにならないために、あってほしかったものが一番欠けていたのではないでしょうか。寮さんがご指摘されたことが私は本質をついていると思います。

>両親と少女とは触れあうこともなかったという。
>両親が少女を抱きしめることも、少女が抱きついていくことも。
>母親は終始泣いていて、とうとう言葉らしい言葉をかけることもなかった。
>大変な罪を犯し、それを一生背負わなくてはならなくなった11歳の娘。それを抱きしめて
>やることもできない母親。それは、母親としては、あまりに哀しい姿だ。母親でなくして、
>いったいだれが、少女を抱きしめてやれるというのだろう。胸が痛い。
>父親の「(被害者が)天国に行けるように、朝晩拝むんだよ」という言葉も、腑に落ちない。
>被害者の命を奪ったという、その重みを飛び越して「天国」もないものだろうと、理解に
>苦しむ。なんというリアリティに欠けた発言だろうか。

>少女が詩のなかで「いい子」を完璧に演じていたように、家族の一人一人が「普通の家族」を
>演じていたのではないだろうか。そして、少女の詩のように、それは外側から見ただけでは、
>完璧にいい家族そのものに見えたのではないか。つまり「家族」という表現をしていたのでは
>ないか。内側に抱える空虚に気づかないまま。

私がどうしても感じるのは、スキンシップのなさです。少女はいつしか絶対的に愛されているという手応え、皮膚感覚を持つことができなくなっていったのではないでしょうか。犯行へおよぶ時の脳裏にひとかけらでも親のことが浮かばなかったのなら、それは何と悲しいことでしょう。まだ、小学生ですよ。自分の子でありながら、腫れモノに触るようなよそよそしさ、親子の姿としてはあまりにも悲しいと思います。
赤ん坊、幼稚園の頃に子供を抱かなかった親はいないはずなのに、いつの頃から何に遠慮してそれをしなくなってしまったのだろうと思わずにはいられません。寮さんの目に変だなと映った光景が少女の心の中の一番の要因ではないかと私も思います。




寮美千子  佐世保小6同級生殺害事件/精神科医の感想 2004年06月19日(土)03時08分31秒
佐世保小6同級生殺害事件/達者な文章 へのコメント

佐世保の事件のことがどうしても気になり、古くからの友人の精神科医に、精神科では、どのような見方がされているのかを打診してみたところ、このような返答があった。
私も今度の佐世保の事件は、理解の範疇を大幅に飛び越えています。その後、週刊誌を含め断片的な情報(間違ったものも含まれているでしょう)をみているのですが、さっぱりわかりません。私も含め精神科医のある部分(全体のどれくらいを占めるかは?)は、近年の少年の事件は、「××症候群およびその周辺」という理解で、まあわかったつもりになっていました。ただ神戸のA少年が、前記の精神科医達によって「××症候群」ではないかと囁かれていました。ところが、どうも間違っていました。確実な情報から、A少年は××症候群ではない、のです。正直、このことを知って、私は近年の少年犯罪をみる視点がぐらついたのでした。そして今回の佐世保の事件です。だからさっぱりわかりません。
彼は、犯罪者の精神鑑定も多く引き受けているベテラン精神科医。彼にして「さっぱりわからない」という状態だ。加害者の少女に対して精神鑑定は、鑑定をするというよりも、一体何が起ったのか、手探りで探るようなことになるのかもしれない。

未成年ということもあるだろうが、鑑定の結果が公表されることを望む。少女個人の問題としてではなく、わたしたち自身の問題として考えるために。

寮美千子  佐世保小6同級生殺害事件/達者な文章 2004年06月16日(水)01時23分36秒
▼Review Lunatique:佐世保小6同級生殺害事件/完璧な表現と内実の空疎 へのコメント

▼胸を打たない「達者」な文章
大長老こと、作家の馬渕公介氏の掲示板に、漫画家の赤星たみこ氏が、こんな文章を投稿していた。
例の加害者の女の子の文章やサカキバラの文章は、確かに「達者」なんですけど、全然胸を打たないですよねー。
漫画家の友達や、アシスタントの子たちと話をするんだけど、ああいう「一見達者」な文章って、漫画家になった人や、アシスタントの子たちが一度は通る道に必ずある文章なんです。
ある種のオタクの子たちが好んで書く文章、と言ってもいいかな。
(中略)
自分の方がうまいのに、どうして「てにをは」が間違っている文章なのに、牛が出産するとき難産で、お父さんが血だらけになって子牛を取り上げた、というような作文のほうが点が高いの?? 悔しい!! と、いつも世を恨んでいました。
いつも世の中をうらみながら生きるって、不幸ですよね。多分、あの子たちも同じようなことを思いながら生きていたのかも。
(後略)
なるほど、と思った。わたしも、佐世保の同級生殺害事件の加害者が書いた文章に関して、似たような感想を抱いた。ワル達者な文章、というか、妙に口当たりがいい。それなのに、少しも心に響かない。

それに関する考察をレヴューに書いたので、よかったら読んでください。
■佐世保小6同級生殺害事件/完璧な表現と内実の空疎

▼記憶のなかの「ふろたき」という作文
赤星さんの投稿を見て、思い出したことがあった。小学校4年生の時、担任の先生が「この作文はよくできている」とほめた、友人の作文のことだ。大長老の掲示板にも投稿したけれど、ここに再録する。
それは、曽我くんという、ふだんはちょっとひょうきんな男の子が書いたものでした。当時はまだ、薪や石炭をくべてお風呂を焚く家も多くて、曽我くんの家では、彼が風呂焚き当番。作文は、そのことを書いたものでした。「ふろたき」という題で、火のおこしかたの工夫や、めらめらと燃えている炎が面白くて見とれちゃう、なんてことが等身大で書いてある、しみじみとした作文でした。いま思えば、不思議と老成したような作文だったかもしれない。いつもはおどけたりふざけたりばかりしている曽我くんが、そんな作文を書くことにびっくりしたように記憶している。

「風呂焚きの話、そんなに面白いかなあ」なんて、その時は思ったけれど、いまもこうして思い出せるくらいだから、やっぱりいい作文だったんだろうなあ。曽我くんの朗読を聞きながら「そういえば、お風呂の栓についてる銅の鎖を火にかざすと、炎が緑になるなあ」なんて思い出したことまで、くっきり思い出せます。

つるつると、心の表面を滑っていく口当たりのいい言葉、じゃなくて、実感と結びついた言葉って、やっぱり強い。

言葉に対応する実感が発見しにくい都市生活って、子どもにとって、結構過酷なものなのかもしれないなあ。
▼いくつかの疑問
大長老もいっていたけれど「付添人」として登場するのが男性ばかりなのは、どういうことだろう。女性の付添人は、いないのだろうか? 

だいたいが、ちゃんと「子どもと話のできる人」を選んでいるのだろうか。日常、子どもとの接触の経験のない人には、6年生の女の子の気持ちを探ることも聞きだすことも、できないと思う。

「小6同級生殺害:精神鑑定のための留置を決定」というニュースがあった。「精神科医が殺害前後の女児の精神状態などを調べる」とのことだけれど、どういう人物が精神鑑定に当たるのだろう。これだってやっぱり、普段から子どもと接する機会のある人間でなければ、その心を解き明かすことはできないだろう。

それだけではなく、彼女だけを見て、彼女のことがわかるのかどうかも疑問だ。きちんと家族に詳しい話をきいて、家族全体としてカウンセリングをしなければ、加害者の心の形は見えてこないのではないだろうか。家族に非がある、といいたいわけではない。家族のそれぞれが「個」としては逸脱していなくとも「関係性」のなかで病んでしまったり、欠落してしまう部分があるかもしれない。加害者の11歳という年齢を考えると「家族」という関係性のなかで把握しなければ、わからないことが、多くあるように思われる。

そして、その関係性の問題は、実は、ただ彼女の家族だけの問題ではないかもしれない。この社会が、そのような関係の病を生み出しやすいのかもしれない。そのようなことをきちんと解明して、今後に生かさなければ、と思う。

▼何がストッパーとして機能するのか?
ともかく、この事件のことが頭を離れない。事件の原因は、加害者の個人的な資質に起因しているものなのか。それとも、社会全般に、このような事件を起こす素地があって、氷山の一角として出てきたものなのか。

その両方であるのではないか、というのが妥当な判断だと思う。もし、彼女の個人的な資質が関連したとしていても、それにストップをかける仕組みが働いていたら、事件にはいたらなかったかもしれない。ストッパーになるものが、ひとつもないまま、するすると事件まで行ってしまった。そんな気がしてならない。何が事件を起こし、何がストッパーとして機能するのか。「命の教育」をお題目にしないようにするために、どうしたらいいのか。自分なりに考えていきたい。

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管理者:Ryo Michico <mail@ryomichico.net>
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