「物語の作法」雑談板 (0017)


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寮美千子 ネット・リテラシー基本編 ネット上の礼儀について 2003年09月26日(金)02時25分13秒
寮先生、奥野様、皆様へ への応答

▼掲示板利用上のネット・リテラシー
「ネット・リテラシー」というものは、どこかに法律の条文のように存在するわけではありません。それは、わたしたちの「内面」から自然と生まれてくるものです。

「ネトケット」という言葉があります。「ネットのエチケット」を略した造語です。その響きがよくないので、わたしはこの言葉が大嫌いですが、「ネット・リテラシー」においては、このネット上の礼儀、ということが、とても大切に要素になります。

しかし「ネット上の礼儀」は「これが決定版」と明文化されたものがあるわけではない。どこにも基準がないとき、その基準をどこに置けばいいのか。とても簡単です。現実の社会に置き換えて考えてみれば、一目瞭然です。ネットというヴァーチャルな世界といえども、ここは人と人が集う社会。社会の常識が通用します。

「掲示板」を現実社会に置き換えてみると、どうなるでしょうか。井戸端会議かもしれません。だれでも入れる飲み屋での話、であるかもしれない。あるいは、特別の目的を持って集った会議かもしれません。個人が主催者であれば、それはその人の家の庭。バーベキュー・パーティで友だちが集っている場所かもしれない。大学の授業の伝言板の場合もあります。神聖な道場かもしれない。

そこに参加するためには、まず、それがどんな場所かを把握しなければなりません。どんな人が集っているのか、何の目的で集っているのか。それを把握せずにいきなり乗りこんでいって、自分の言いたいことだけを勝手にしゃべりだしたら、どうでしょう。迷惑がられます。無視されるかもしれません。掲示板は、自分がいいたいことだけをいうのではなく、きちんと相手と交流するつもりで参加しなければなりません。交流するためには、まず、相手が何者であるのかを知ること、そこで何が求められているのかを知ることが大切です。

そして、それがわかれば、自分の知っていること、関心のあることなどで参加することは、とても歓迎されることになります。そうやって、コミュニケーションの輪が広がっていきます。

▼「直流」から「交流」へ
以上のことを一言でいうと「直流から交流へ」に尽きます。一方的にこちらの情報を流す直流から、互いに聞きあい、語り合って交流するコミュニケーションへ。これが、なによりも大切なことです。

▼メール引用上のネット・リテラシー
メールは手紙です。個人からの手紙を勝手に世間に公表するようなことは、現実世界ではまずありません。ある手続を要します。それは、ネットでも同じです。簡単にコピー&ペーストできるからといって、気楽に引用してはいけません。相手の了解を取りましょう。

▼掲示板と個人メールの関係に関してのネット・リテラシー
掲示板は、公共の場での発言です。会議のようなものであるといってもいいでしょう。そこでのやりとりは、基本的に公共の場でなされるべきです。個人メールは、現実世界に置き換えれば、いわば裏工作。フェアではありません。掲示板でのやりとりは、なるべく掲示板で完結させましょう。

▼ネットの文章は全人類の共有財産
ネット上の文章は、全人類の共有財産である、とわたしは考えています。また、それが理想の姿であると思っています。ですから、ネットで公開された文章を、商用目的以外で「ネット上で」引用することは、わたしは基本的に自由であると思います。

だからといって、原著作者へ敬意が払われなくてもいいというわけではありません。全人類共有財産であるからこそ、だれが、どこで書いたものなのかは、原典が明記されなければなりません。リンクも必須です。長い文章の場合、全文引用は事実上のパクリになってあんまりなので、部分引用にし、あとはリンクをはるようにしましょう。

ネットの文章を、ネット以外の媒体に掲載するときは、基本的に著作者の合意が必要です。

▼ネットの文章を引用するとき注意するべき点
また、ネットの文章を引用する場合(ネット以外でも)一部分だけ切り取ることで、誤解が生じることがあります。そのような誤解が生じないよう、原文に敬意をはらい、文脈を踏まえた誠実な引用をするよう心がけましょう。

▼ネットと現実の違い
ネット上の出来事をすべて、ただ現実に置き換えて考えればいい、というものでもありません。このへんがむずかしい。ケース・バイ・ケースではあります。ただ、その向こうに「現実の人間がいる」ことを想像した上で行動すれば、だいたいは間違いありません。

インターネットは、時間と空間をこえて、人の心と心を結びつけてくれる道具です。よき使い方をして、すばらしいコミュニケーションを深めていきましょう。

寮美千子 スリリングな物語の行方は? 2003年09月25日(木)22時20分01秒
▼掲示板:外島理香 作品18A/「ミナミ」 への応答

すごいですね。どうなるんだろうと、ぐいぐい読まされてしまいました。描写力もあるし、謎も仕掛けてある。この女の子、どういう事情でゴミ箱になんかいたんだろう。物語は、どう展開するんだろう? まさか、ここで終わりってわけじゃないよね。続きを楽しみにしています。ああ、早く読みたい!

外島理香 お詫びと作品18について。+奥野さんおめでとう^^ 2003年09月25日(木)07時04分16秒

 夢の標本箱の提出が、遅くなってごめんなさい。

 それから、先ほど掲示板に提出しました作品18の「ミナミ」ですが、まだ未完成です・・・。掲示板に載せたものも、これからまた時間をかけて直したり、肉付けしたりしたい箇所が多々あります。いきなり場面が変わり過ぎてますしね・・・。掲示板に載せることで、この作品(と呼べるものでもないですが・・・)を客観視して、もっとこの作品を練っていきたいという思いで載せました。
 
 奥野さん、掲載おめでとうー☆
 それと今度、奥野さんお気に入りの詩集、良かったら貸してくださいね☆

新風舎 村井 たびたびすいません 2003年09月25日(木)03時45分35秒
奥野美和さん『短歌研究』に登場! への応答

あれこれと掲示板への投稿内容を思案しているうちに、
寮先生から非常に好意的なお言葉をいただき、恐縮しています。

自分に「ご参加」といっているあたりに、「表現」とはほど遠い人間というのが
ばれていますが、今後とも宜しくお願いいたします。

新風舎 村井 寮先生、奥野様、皆様へ 2003年09月25日(木)03時40分46秒
再びコミュニケーションとは? への応答

寮先生にメールしましたところ、以下のお言葉をいただきました。

>「物語の作法」の掲示板と雑談板は、いわば「文学道場」です。道場での試合は常に
衆目の目にさらされています。問題提起も問題解決も、隠すところなくあきらかにさ
れています。だからこそ、学ぶものがあり、上達もあります。そこで行われたことは、
道場にいるすべての人の共有の体験となるからです。

先生のお言葉に従い、長文になってしまいますが、こちらに書き込みをいたします。

まず、最初に申し上げたいのは、最初の書き込みはほとんど反射的にしたものであり、
奥野様の名前もほとんど見ずにしたものだということです。
ですから、「そんなものだな」と思われると、非常に心苦しく、また申し訳なく感じます。

なにがしかの言葉を、贈って差し上げたいことはやまやまではあります。
しかし、今回の私のコメントも、当初は好意から書きこんだものが、
思わぬご迷惑をおかけしてしまい、結果的に悔やまれることとなりました。

そういった経緯もあり、また、今回は誠意をもって謝罪するのが最適だと思い、
奥野様へのコメントは控えさせていただきました。

たびたび至らぬ点があり、申し訳ございません。


次に、この掲示板への関わり方について、確認させていただきたいと思います。

寮先生から、私へのメールの中で、

>「うっかりしていましたが、奥野さんは新風舎の受賞者でしたね」といって、作品の
批評などしていただければ、学生もどんなに励みになることでしょうか。これからで
も構いませんから、ぜひそのようなご対応をしてくださるよう、お願い申しあげます。
>需要と供給で円満に成り立っている世界だと思います。ただ、そこに需要と供給以外の
「文化」を育てるお気持ちがおありであれば、なおのこと、奥野や学生たちに、
励ましの声や作品に対する厳しい批評をいただければと存じます。商業出版と自費出版の
分かれ目はどこにあるのか、といったお話などお伺いすることができれば、学生たちも
どんなにか勉強になるかしれません。

とのお言葉をいただきました。

さしずめ、私は、「文学道場」を間違えて足を踏み込んだ無作法ものでしょう。
であれば、私としては、そのことを陳謝し、道場にご迷惑をおかけしたことを恥じて、
その場を去りたいと考えていました。そのため、奥野様のことなども、新たな誤解を
生むのが恐く、まったく触れずにおりました。
ですが、道場主である、寮先生からは、この道場での決着を再三要求していただいています。
もしこのことが、他の学生の方も含めた総意であるならば、今後も、是非、こちらの
掲示板に参加させていただきたいとも思います。

失礼とは思いましたが、公開されているようなので、過去ログも見せていただきました。
掲示板閉鎖に関する記述のところを拝見し、正直、「バカとかいわれたらやだなぁ」と、
道場主である寮先生の気迫に既に圧倒されているのも事実です。
ですが、個人的にも、先生の著作とも関わるアイヌ民話などにも興味がありました。
また、短歌をはじめ、映画、小説、漫画と「表現」の分野への関心の強さも負けない
つもりであります。

私のこの掲示板へのご参加を皆様でご検討いただければ幸いです。

ただ、本当に根が弱いので「バカ」とか言われるとつらいです。寮先生に100%賛成では
ありますが、その点だけは、いわれた学生の方に同情いたします。
掲示板やネットでの文章は、どうしても語調が強くなる場合があるので、苦手なのは確かですが。

寮美千子 奥野美和さん『短歌研究』に登場! 2003年09月25日(木)02時41分56秒
対応が遅くなりすみません。 への応答

すごいね、奥野さん。『短歌研究』に載るなんて、本格だね。おめでとう!
何月号ですか? 情報求む。

奥野さんが、着実に一歩一歩あるいているの、頼もしく思います。
村井さんには、いつかきっと授業に遊びに来ていただきましょう。
わたしからも、お願いしてみます。

村井さん、よろしくね!

「書く」ということは、どんな職業についたとしても、一生続けられること。
卒業を目前にした諸君も、焦点距離を遠くに定めて、焦らずゆっくりがんばろう!
じゃあ、明日。っていうかきょうね!

奥野美和 あっ 2003年09月25日(木)02時31分13秒
対応が遅くなりすみません。 への応答

新風舎の村井さん

わざわさ、遠い道のりのなか、
学校まで来て下さってありがとうございました。
この和光大学には、たくさんものを書いている学生がいます。
わたしは、来春で卒業してしまうのですが、
よかったら、これからも見に来て下さい。

よろしくおねがい致します。
(それも気のせいでありますように、本当に好きな本です!)

奥野美和 対応が遅くなりすみません。 2003年09月25日(木)02時24分17秒
再びコミュニケーションとは? への応答

こんにちは。お久しぶりです。
いよいよ、明日から授業ですね。

新風舎の村井さんが掲示板に書きこんで下さり(はじめまして、
奥野美和です。)寮先生が、疑問を投げかけて下さったのに、
わたしの対応が遅くなりすみません。

きっと村井さんは、わたしのことはご存知なかったのだと
思います……。正直、「そんなものだったのかあ」
「そうだよなあ」と言うのが感想です。

わたしは、今回大賞は逃したものの、
はじめて賞に提出し、
人に見せることの大切さ、自分の中にあるものと、
まわりの人たちのこころが触れ合うときめきを感じました。
ちょっぴり自信にも繋がりました。でも、やっぱり毎日模索中です。
悩んだり、考えたりしています。

村井さんとお話できたら良かったなあ。
感想、よかったら下さい。お願いします!
(ゼロ・ゼロ・ゼロもオーバードライブも読みました)

それよりも、寮先生がわたしの書いたものに対して
ケアして下さったのが、嬉しかったです。
これからも、自分の生活の中で、夢中になれる
「書く」という行為を大切にして行きたいと思います。
これから、出版物を扱いたいと思っている身として、
常に誠実でありたいと思いました。

寮先生ありがとうございました。

あとひとつ報告です。
「あの子はいつも笑ってて悩みがないとクロールする」
に続く2作目、「心臓さかあがり」の中の2作が
短歌研究社の『短歌研究』に掲載されました。
(ほんとうにほんとうに小さくですが……)
なんだか、ねじれたり、悩んだり、胸がいっぱいになったり
することも多いですが、これからも怠けずに
書いていきます。

課題提出遅くなりました。すみません!
では、また明日に……。



http://www.mmjp.or.jp/TANKAKENKYU/

寮美千子 いよいよ授業! 2003年09月25日(木)01時21分05秒

本日25日は、いよいよ夏休み明けはじめての授業です。
みなさん「夏休みの宿題」忘れずに提出してください。
すでにいくつか掲示板に文章の方の提出があり、活気づいていますね!
きょうは授業で「夢の標本箱」をやりたいと思います。
菊池佳奈子さんの短歌は、来週、準備をして合評しましょう!
さあ、楽しみだ! じゃあね。

越智美帆子 すいません 2003年09月24日(水)21時06分17秒
▼掲示板:越智美帆子 課題11/夢の標本箱2003 への応答

オブジェ5点セットに対して一つの文章だと思っていたので、一つしか書いていません。もし、一つに対して一つの文章に書き直しなら早急に書き直します。すいませんでした。

寮美千子 再びコミュニケーションとは? 2003年09月24日(水)18時55分34秒
大変失礼いたしました。 への応答

さきほど、新風舎の村井さんからメールをいただきました。わざわざ和光大学に出向いてお詫びのお手紙と「贈り物」を学部事務室に預けていかれたとのこと。ご丁寧なご対応、恐縮です。

とはいえ、わたしはやっぱり腑に落ちません。わたしが求めていたのは「コミュニケーション」。お詫びの手紙や、贈り物ではありません。大学に来ていただくなら、連絡をいただいて明日にしていただければ、授業も見ていただくことができたし、お話もできました。せっかく時間を使って足をお運びいただいたのに、残念です。

そして、何よりも残念なことは、新風舎のフーコー短歌賞の受賞者である、奥野美和さんのことに、掲示板でもメールでも一言も触れてくださらなかったことです。新風舎における「新人賞」とは、いったい何なのでしょう? 自費出版をする人を効率よく集めるためのシステムでしょうか? そういった側面があることは事実だとは思いますが、それにしても、受賞者に励ましの言葉のひとつ、かけていただくことはできないのだろうか、と思います。

賞をもらった者は、それを励みとし、希望とします。そして、さらなる頑張りがうまれるというものです。賞を出した側の出版社の方から、名前も覚えていただけず、受賞したことを指摘しても声もかけていただけないというのは、もしわたしが受賞者であれば、たいへん傷つくことだと思います。

「自社の出版物が話題になってうれしい」という村井さんのお気持ち、よくわかります。であればこそ、そこから真のコミュニケーションを拡げようではありませんか。よろしくお願いします。

いただきものは、もし分けれれるものであれば、学生たちと山分けさせていただきます。

新風舎 村井 大変失礼いたしました。 2003年09月24日(水)03時23分01秒
掲示板はコミュニケーションの場 への応答

大変失礼いたしました。

たまたま、HPで検索にのったもので、つい自社の本が話題に上っているのが
嬉しく、書き込みをしてしまいました。
ご指摘のとおり、関係者の皆様に大変ご迷惑をおかけし、申し訳ございません。
あらためて謝罪いたします。

今後、こういったことがないよう十全に配慮してまいります。

寮美千子 掲示板はコミュニケーションの場 2003年09月24日(水)03時05分11秒
ご愛読ありがとうございます への応答

この下の投稿は「物語の作法/掲示板」に投稿されたものですが、あちらは課題提出用の掲示板なので、わたしがこちらに移動しました。

しかし、新風舎の村井さんという方は、奥野美和さんが第6回フーコー短歌賞を受賞したことをご存じないのでしょうか? ご存じないとしか思えない書き込みです。

課題投稿用の掲示板に書き込みをしたり、自社の賞の受賞者を把握していなかったり、はっきりいって、失礼。これでは、コミュニケーションではなく、一方的な宣伝です。

掲示板は、コミュニケーションの場です。みなさんも、見知らぬ掲示板に書き込みをるすときは、そこがどんな趣旨の掲示板であるのか、きちんと把握してから、礼儀に反しないように書き込みをしましょう。

「コミュニケーション」とは、相手との交流を求めてするもの。自分の言いたいことだけを、一方的に言い放つことは、コミュニケーションではありません。

文化を担うはずの出版社の人が、こんなことでは、本当に困るなあ。メールを出して、抗議しておきました。無視はコミュニケーション拒否だけれど、抗議はひとつのコミュニケーションです。さて、新風舎は、どんな返答をよせてくれるでしょうか。

http://www.rakuten.ne.jp/gold/net-pu/event/contest/fuko_tanka6_result.html

新風舎 村井 ご愛読ありがとうございます 2003年09月23日(火)21時56分58秒
▼掲示板:奥野美和 00x020 奥野美和です への応答

「それも気のせいでありますように」、紹介していただいてありがとうございます。
版元の新風舎のものです。フーコーというのは、新風舎の別名義のブランドなんです。
ちょっとまぎらわしいんですが、創っているところは同じなんで。

セントラルさんのアートデザイン、ほんといいですよね。
いやー、お目が高い。
ちなみに、他にも短歌では、中島英樹さんや、立花文穂さんがアートデザインをした
本がありますから、是非是非、お手にとっていただければ嬉しいです。

青山ブックセンターとかには、わりと常備してありますよ。

今後とも宜しくお願いいたします。

菊池佳奈子 盲目でいる辛さ 2003年09月23日(火)16時30分35秒

寮先生、大長老様、私のつたない短歌に批評ありがとうございました。
寮先生のおっしゃる通り、その時の気分で書いた短歌ではありますが
プロで活躍なさっているお二人に批評頂いて大変嬉しく思います。
この時の「僕の罪」であった女の子が先日亡くなったようです。
また「盲目」でなければならないこと、彼女への「僕の罪」、重すぎて。
風邪の身体には辛いものがあります。

生きるって色んなことに盲目でなければならないのだろうけれど
見なくちゃいけないこともあって
弱さとか強さとか
全部抱えることのできる器のでかさが欲しいです。

お人形、先生に気に入っていただけた様でとても嬉しいです。
この間ドールアイを見に行ったらまた次の子を作りたくなりました。
早く作りたいなぁ。。。

でわ。木曜日に。
風邪早く治さなくちゃー。

http://www3.ocn.ne.jp/~knyako/hakoniwa/

寮美千子 カナコ・ドール 2003年09月18日(木)21時32分29秒

菊池佳奈子さんが「夢の標本箱2004」の特別出品作として、すばらしいお人形を制作してくれました。まだメールで送ってくれたデジカメ映像を見ただけだけど、すごいよ! 乞うご期待!

http://www3.ocn.ne.jp/~knyako/hakoniwa/

寮美千子 祝!古内旭王国誕生! 2003年09月09日(火)23時13分34秒
ホームページできました への応答

ホームページ見ました。
頼もしい限りです。
古内君が、こんなにクラシック好きだと、はじめて知りました。
ネットのコミュニケーションは面白いね。
何年も付き合っていても知らないその人の側面に触れることができる。
不思議なツールです。

ところで、杉作くん。
きみんちのホームページも、すごく面白かった。
いま、改装中みたいだね。
また見たいです。楽しみにしています。

http://www9.ocn.ne.jp/~joker/

古内旭 ホームページできました 2003年09月09日(火)08時46分25秒

ホーム・ページができましたのでお知らせします。クラシック音楽ばかりですが、「趣味部屋」に入っていくと映画批評とかもあります。ご来訪お待ちしております。



http://www.h7.dion.ne.jp/~furutako/

寮美千子 大切なことをいつまでも抱え続けるしぶとさ 2003年09月09日(火)02時51分37秒
長い補足です への応答

大長老さま。
佳奈子さんへすばらしい言葉、ありがとうございます。こんなに正直に語ってくださって、感激です。学外から、こんなすばらしい感想を寄せてもらい、佳奈子さんも、それを読むことのできる「物語の作法」の受講生は、ほんとうにしあわせ者だと思います。大長老こと、エッセイストで作家の馬渕公介氏に感謝です。

土曜日のETVスペシャル「人に壁あり」で、解剖学者の養老孟司氏がこんな話をしていました。養老氏は、4歳の時にお父さまを亡くされたそうです。その時に「お別れをいいなさい」と親類のみんなにいわれた幼い養老少年は、どうしても「さようなら」といえなかった。「死」を理解できなかったし、「さようなら」といえば、ほんとうの別れになってしまいそうな気がしたから。それが、いつまでも心に引っかかってきたそうです。幼い頃の養老少年は、あまり口をきかない、近所の人に挨拶もしない子だったそうです

「ぼくが、40歳ぐらいの時です。地下鉄の中で、ふと気づいたんです。ぼくは、挨拶のできない子どもだった。それは、もしかしたら、父親に『さよなら』といえなかったから、いいそびれたから、それが心の傷になって、人に挨拶ができなくなってしまったのではないかと。そのことに気づいたとき、バーッと涙が流れてきたんです。おかしいですよね。大の男が、地下鉄で、なんでもないのに、突然涙を流すなんて」
いままで結びつかなかったふたつのことが、突然結びついたその時、養老氏は、お父さんにさよならをいえなかった罪の意識から、やっと解き放たれたように感じたそうです。

養老氏は、半世紀近くも、自分の子ども時代のことについて、心のどこかで考えてきた。表面には出ない深いところで。それが、ふいに結び目が解けるように、あるいはコップの水が溢れだすように、ひとつの答えが出てきた。深い納得がやってきた。すばらしいことだと思います。

養老氏はいいました。「長生きしてよかったと思います。長生きしなければ、こんなこともわからないままに死んでいた。父親への罪の意識も抱えたまま、死ななければならなかった」と。

しつこくしつこくゆっくり考えることは、すばらしいことです。それは同時に、痛みも疑問も、ゆっくりゆっくり抱え続けることでもあります。それはつらいから、人は忘れたふりをする。盲目の振りをしているうちに、なかにはほんとうに忘れてしまう人もいるかもしれない。

けれど、きっと人の心の深いところには、解けない疑問や難問が、氷河のように眠っているのでしょう。それがいつか解けて、すばらしい豊かさをもたらしてくれるかもしれません。

>僕の罪 直視できない ごめんなさい 生きるためにね 盲目でいる

佳奈子さんのこの一首。「直視できない自分を直視している」という意味においても、佳奈子さんが自分にとっての大切な問題をきちんと抱えているんだということ、よくわかります。それは、遠いいつの日にか解けて豊かな恵みの水になるかもしれない。そんな豊かさの予感すらあります。いいぞ、ぐわんばれ、佳奈子!

大長老 長い補足です 2003年09月09日(火)01時31分32秒
しみじみ への応答

えーっと、この「しみじみ」の書き方だとちょっと誤解されるかな・・
補足します。
寮さんの添削に触れなかったのは、あたしには短歌にたいする添削の力量がないからなの。
分を守って触れなかっただけです。
日頃は、寮さんの添削を読んで短歌というものを勉強してるのね。

☆菊池佳奈子さんの短歌でいえば、「生きるためにね 盲目でいる」というところに共震したんです。
人生に同じものなんかないんだけど、短歌だと読み手がワタクシできてうなずけることがありますからね。

あたしの場合は小学校1年のときに両親が他界したことがトラウマになって、
過去を見つめないで生きてきた。
生きるために、自分が崩れないために、見ないで生きてきた。
還暦になるまでそうして生きてきた。

最近ようやく過去を振り返るようになるのですが、それは末期がんになって、
腹を大きくかっさばいて、お盆に山盛りの内臓を摘出したからだろなーと、
思っております。
早くみつめないとあの世にいっちゃうし・・いや今は再発してないですけど、
その子供の頃からの50年以上にわたるあたしの生き方が、「生きるためにね 盲目でいる」というところに強く反応したしだいなのです。

思えば自分の事で精一杯の人生でした。
50代になってようやく人様のことを考える余裕が出来てきたのに、
ガンになって、また自分の事で精一杯。人の事なんてかまってられない人生になってしまいました。
今のあたしの頭の中は「おれ、おれ、おれ、」で一杯です。 敬具

長くなりましたが、年寄りは話はじめると長いのです。
宮田 和美さんの「かえうた仙人」も面白かったです。




大長老 しみじみ 2003年09月08日(月)21時54分21秒
生きるためにね 盲目でいる への応答

>僕の罪 直視できない ごめんなさい 生きるためにね 盲目でいる

いいなー。深く共感いたします。
こういう方が書き続けていくんだろうなー。
蝉の読経を浴びながら・・・しみじみ

寮美千子 生きるためにね 盲目でいる 2003年09月08日(月)19時39分39秒
▼掲示板:菊池佳奈子 作品5A/トリカゴノウタ への応答

>僕の罪 直視できない ごめんなさい 生きるためにね 盲目でいる

ほかにも気になる歌がいくつもあったけれど、まず、これが目にとまりました。「生きるためにね 盲目でいる」というフレーズが、まずガツンときた。そして、その理由が「自分の罪を直視できないから」であるということも。

この短歌はとても素直。自分のことを、素直に順々に語っている感じがします。けれど、その素直さゆえに、印象が少し弱くなってもいる。そこがもったいないです。

この短歌をより印象的にするためには、倒置法を使ったほうが効果的ではないか、と思います。つまり、「生きるために盲目でいる」という強烈なフレーズをいちばん最初に持ってくる。すると、読者は「なぜ?」と思わざるをえない。そこで、理由を説明する。「自分の罪を直視できないから」と。読者は、なるほどと思うでしょう。しかし、なるほど思いながら、またインパクトを受けてしまう。盲目でいる理由はそれなのか!と。こんな短い短歌のなかで、読者は2回も衝撃を受ける。印象の強い短歌になると思います。

これは、ほんの一例ですが、こんなふうにしたら、もっと強い歌になると思います。

生きるため盲目でいる 僕の罪直視できない僕がいるから

「ごめんなさい」という言葉が消えてしまったね。ごめん。でも、詰め込みすぎない方がより印象がクリアということもあります。「ごめん」と言葉でいってしまうより「ごめん」という気分が短歌そのものから漂ってくるようになれば、しめたもの。

ほかにもほんとうにいくつも気になるフレーズのある佳奈子さんの短歌。全体に「いまの気分」がでていて、とてもいいと思いました。またゆっくり読みますね。

菊池佳奈子 システムの問題。 2003年09月08日(月)00時08分54秒
歓迎! 佳奈子的オブジェ! への応答

私のHP。改装の際、IFRAMEというものを使って作っていまして
なんだかそれだとMacだとかなりデザインが崩れたりするみたいで。
ブラウザがネットスケープだと見れないようです。
あとIEでも古いのだと読み取れないみたいで…。
今度また、大改装いたしますね。
前が見れたということは普通のフレームには対応しているブラウザのはずなので。

うぅん。デザインをとるか、多くの人に見てもらうことをとるか、簡単さをとるか…。
なかなか難しいです。

http://www3.ocn.ne.jp/~knyako/hakoniwa/

寮美千子 歓迎! 佳奈子的オブジェ! 2003年09月07日(日)23時26分59秒
そろそろ二十 への応答

いったい、どんな作品が出てくるのか、とてもとても楽しみです。
造形を言葉のコラボレーション。
その気になればいろんな試みができるはず。
佳奈子さんの独特の感性から生まれてくるもの、どきどきしてしまう。

短歌、ゆっくり読ませてもらいますね。
創作意欲旺盛な夏。すばらしいな。

ところで佳奈子さんのサイト「箱庭幻想」リニューアルなんですね。
表紙がとてもよかった!
ところが! なぜだか中のページがわたしのマックでは見えないのです。
何がいけないんだろう?
こっちの環境の問題かな。
ちなみに、わたしのPCは、旧式のiMacです。
よかったら調べてみてね。よろしく。

わたしも、佳奈子さんに負けずに、オブジェに挑戦しよう!

http://www3.ocn.ne.jp/~knyako/hakoniwa/

菊池佳奈子 そろそろ二十 2003年09月07日(日)14時42分02秒

前期最後の授業で、寮先生に短歌を書いてみたらどうかとアドバイスを頂き、
しばらく書き溜めていたものを、提出してみました。
本当はあまりにつたないので、提出するレベルに達してない!とか思っていて(苦笑
でもそろそろ誕生日で20になるので
19才の言葉を残してみるのも良いかなと。
なのでしめが19才です。
短歌って難しいなぁ…。

ちゃくちゃくと夢の標本箱用のオブジェを作ってはいるのだけれども
粘土がたりなくて設計図の時点で止まっている物ばかりです。
焦る。
ちなみに、勝手に立てて展示するものだと思い込んでいたので
設計図も作り直しです。
ヤヴァ。



http://www3.ocn.ne.jp/~knyako/hakoniwa/

松永洋介(アシスタント) 夢の標本箱2002はこんなのでした 2003年09月07日(日)12時23分53秒

■課題11/夢の標本箱2003
の制作は進んでいますか?

遅くなりましたが、昨年の「夢の標本箱」の梅根記念室での展示のようすと、
標本箱の中身をアップしました。
http://ryomichico.net/wako/yhb2002.html

標本に番号を振ってないので、内容物と説明文との対照がむずかしいのですが、
だいたいの雰囲気はわかると思います。

拡大写真にある空きスペースは、標本の提出の遅れたところです。
会期中に追加したので、展示風景の写真では埋まっています。

今年は去年と違って5点セットということなので、だいぶ感じが変わると思います。
標本を5つ用意するのは大変ですが、世界観の提示という面では、むしろ楽になるかも
しれません。
提出まであと二週間ちょっとです。がんばってください。

info0000.html#info20030825060222

寮美千子 杉作の熱い夏! 2003年08月28日(木)02時35分40秒
▼掲示板:杉井武作 作品2A/あたしのつよいボディガード への応答

やあ! 杉作くん。どんな夏を過ごしている?
「つよいボディガード」になるべく、筋力トレーニングにはげむ毎日でしょうか。

ところで、これはもしかしたら「歌詞」かな。
だったら、ぜひ杉作の歌で聞きたい。
休み明けに歌ってください。
楽しみにしています。

寮美千子 横田裕子/炎天下で見た夢 2003年08月10日(日)00時41分35秒
▼掲示板:横田裕子 作品3A 炎天下で見た夢 への応答

いかにも夏まっさかりらしい直球の恋歌の数々。横田さんらしいです。

  待ってるよ 振り向いたなら そっこーで 尻尾振って 抱きついてやる

おお! 乙女心はかくもまっすぐ。最後の「抱きついてやる」の「やる」が余りにやる気で怖いくらい。男の子は怖くて固まってしまい、きっと振り向けなくなる。夏の日の怪談、っていう感じすらします。そんな景色まで見えてきそうで、思わず笑みがこぼれてしまいました。

わたしが一番いいと思ったのは、この作品。

  タイミング いつも悪くて フライング 未だ走れず 君までの距離

これはいい。「きみ」というゴールが見えているのに、どうしてもそこまで走りつけない。50メートル走ほどのその距離が、無限大に見えてしまう。そのもどかしさ。そんな気持ちが、ほこりっぽいグランドの匂いとともに感じられます。

直球もいいけれど、こういう、ちょっとした詩的なイメージが加わると、きっととてもいい短歌になるでしょう。がんばってね。

寮美千子 五十嵐舞/万華鏡 2003年08月10日(日)00時26分12秒
▼掲示板:五十嵐 舞 作品2A/俳句『万華鏡』 への応答

どこか古典的な匂いのする五十嵐さんの俳句。そんな俳句と、五十嵐さんの等身大の乙女心で詠まれた俳句とが混ざって、まさに「万華鏡」のよう。楽しませてもらいました。

古典的な香りのする代表選手は、こんな句。

  舞い落ちる 花の衣を まとう河

  日傘からひらりと見える黒い髪

どちらも秀逸。とてもきれいだし、季節感があるし、清潔な色気を感じます。逆に、とても等身大に見えるのはこんな句。

 待っててね 浴衣を着るの 駄目よ見ちゃ!

 浴衣からうなじが見える どうしよう?

かわいい! いい感じです。でも、こういう感じの作品だったら、きっと短歌にした方がぐっと生きてくるはず。俳句のように「切り取られた絵」ではなくて、そこに物語や調べが見えるような短歌にしてみると、ずっといきいきした表現ができるかもしれません。

舞さんの、一瞬を鮮やかに切り取る俳句的視線、すばらしいです。けれど、どこか「古典の匂い」に縛られている感じもする。「俳句らしさ」みたいなものに足を取られているようにも思います。いちど、そこから完全に解き放たれて、自分の等身大の心のままにのびやかにうたい、その後に再び古典に回帰すると、また違ったよさがでてくるかもしれません。

古典的な匂いと、今の等身大の気持ち。ふたつに引き裂かれた「万華鏡」は、その過渡期の作品にも思えます。そのふたつが途切れなく融合したら、きっと今以上にすばらしい作品になることでしょう。

寮美千子 横田裕子/ポラロイドカメラ 雑感 2003年08月10日(日)00時11分01秒
▼掲示板:横田裕子 作品2 ポラロイドカメラ への応答

暑い熱い夏! 横田さんも、五十嵐さんも、この熱いのにエライ!
暑さにダレずにばりばり創作している姿、頼もしい限りです。

▼横田裕子 ポラロイドカメラ

いまの若い子の気持ちの一場面が、鮮やかに切り取られていると感心しました。「パステルカラーのペンでけばけばしい程に落書きを入れた」ポラロイド写真、っていうのが、いい。もしかしたら、チェキ(小型ポラロイド)の写真かな。そのハデハデでちょっと幼い感じのする落書き写真が、目に浮かびました。いまは、すっかりカメラ付き携帯がとってかわっちゃったよね。

とても鮮やかな一場面であるけれど、残念ながら一場面でしかない。作品というより、習作にしかならないところが残念。

例えば、こんな「いま時の若い子アイテム」をテーマにして、これくらいの長さで50編くらいかけたら、それは作品と呼ぶに値するものになるかもしれない。100編あれば、なおいい。そして、その100編を、最後まで飽きさせずに読ませる力があれば、もう「作家」と読んでもいい。そう思います。

もうひとつ。例えばこれをぎゅっと凝縮して短歌にする。それくらい凝縮できたら、すばらしい。そして、やっぱりそんなものを50も100も書けたら、やっぱりいい作品になっていくでしょう。

タイトルの「ポラロイド」っていうの、この一つの作品にこれだけだったら、さみしい。せめて、タイトルくらいもっと凝った詩的なものが欲しいところです。けれど、さっきいったように「いま時の若い子アイテム」として羅列するなら、むしろこんなふうに素っ気なくアイテムだけ提示するのもいいかもしれない。


横田さんは3年連続でこの講座を受講してきたけれど、まだ習作の域を出ない「破片」のような作品ばかりなのが残念。ここらで腹をくくって、なにかひとつどーんと書いてみてください。小さな破片は、笊ですくうとおっこっちゃうけれど、かなり目の粗い笊でもすくえるような、お腹に響くような、そんな作品、待っています。乙女心の淡い恋が実って好きな男と性的な関係を結ぶことになる、その間の心の変化を子細に描く、なんていうの、どう? 横田のちょっと過剰にポルノちっくな側面と、一見幼い感じの心のアンバランスが描けたら、すごい純文学になるかも。がんばれ!

五十嵐 舞  俳句を投稿しました 2003年08月06日(水)13時42分07秒

お久しぶりです、皆様。
俳句をマトメテ投稿しました。これからもできたらまた投稿します。感想や批評まってます。
 つうか、暑いです。昨日、雨の中、花火見てきました!!ビッショリっす。クーラーが苦手なので・・・ほとんどつけずでは・・・・

滝 夏海 メールアドレス変更のお知らせ 2003年07月23日(水)23時19分49秒

いままで使っていたサービスが終了してしまうので、メールアドレスを変更します。
これからは何かありましたら
bluedrops@sky.707.to
に送って下さい。よろしく。

松永洋介(アシスタント) この夏、きみも戦争に行こう!(抽選制・あす18日〆切) 2003年07月17日(木)02時32分00秒


6月12日に高橋阿里紗さんのプロットを合評しました。戦争状況を舞台とした作品です。
これ以外にも、主役脇役で兵士が出てきたり、武器が使用される状況を描きたいと思っている人もいるかと思います。
戦争について、本を読んだり、小説やマンガや映画を参考にするだけでは“どこかで見たようなもの”になりがち。
借り物の描写は、作品の力を失わせるし、意図しないメッセージを読者に送ってしまうかもしれない。
武器の使用なんて、なかなか取材する機会はありませんが、こんど手近で戦争があるので、ぜひ申し込んで見に行ってみてください。


陸上自衛隊 平成15年度 富士総合火力演習
日時:8月30日(土) 10:20〜12:00
会場:静岡県御殿場市 東富士演習場(畑岡地区)
交通:JR御殿場駅より臨時直通バス

申し込み期限は、あす18日の午後6時です。往復葉書なら、きょう17日の収集に間に合うように投函してください。


ぼくは以前、一度だけ見たことがあるのですが、本当にすごかった。

印象的だったことのひとつは、兵器の威力。
アニメや映画に出てくるレーザー砲というのは、撃つとき、銃口にグワッと光の球が盛り上がって、十分なタメがあってから、ビューンと伸びていったりするものですが(『アキラ』とか参照)、90式の大砲は違った。
撃った瞬間、ドバッと光って(リンク先の写真参照)、その瞬間に着弾している。アニメのレーザーなんか話にならない速さ。絶対よけられません。非現実的でした。あれは見たほうがいい。

もうひとつ感じたのは、戦場の状況の不明瞭さ。
総合火力演習の会場では、陸自のサイトのビデオ映像にあるように、適宜アナウンスが行われています。これから誰が何をするか、いまどういう状況の見立てか、という親切な解説があるわけです。
でも、「山の反対側から、迫撃砲による援護射撃を行います」とか聞こえた後にババババッと着弾があっても、それが何なのかを理解するのはすごく難しかった。言葉ではわかっても、実感として結びつかない。
戦争映画なら何台もカメラがあって、敵の主観もあるけど、戦場では、カメラもマイクも自分の主観に固定だし、解説なんかないし、ましてや敵がどこから何をしてくるかはわからない。目の前ではっきりと、ものすごい事態が展開していても、それが何なのか理解できる状況は、まず現出しないんじゃないか。
映画『突入せよ!「あさま山荘」事件』で、いかんともしがたい現場の混乱が半ばコメディのように描かれていたけれど、戦争の現場も、きっとあれと似たようなものだと思う。

総合火力演習は毎年人気のイベントで、抽選倍率が高くて、なかなか当たらないらしいけど、まあ応募してみてください。見る価値があるのは保証します。

http://www.jda.go.jp/jgsdf/topics/sougo.html

杉井武作 ホームページ完成 2003年07月09日(水)08時47分42秒
自分の眼で見て自分の心で感じよう への応答

なるほど。「こわれかけた古い椅子」を読んでいて郷愁に近いものを覚えました。
それができたらきっと楽しいし迷いも少なくなると思います。
けどなぜかすぐ情報にうわべの感覚が惑わされて、心奪われてしまいます。何年も前からずっと内面が置き去りのままのような気がします。自分と対話することを放棄すると楽だからかな。情報の多い街で、いつのまにか汚染されない自己意識を持つ術を忘れちゃったみたいです。
だから処方箋の一つとして、ホームページを作ってみました。
ここでは、他人の目や社会流行に流されることのない本音で、きちんと自分と向き合いたいです。好きなものやおもしろいと思うものを好き勝手に展開させる場にしていきたく思ってます。どうぞよろしくです。

http://www9.ocn.ne.jp/~joker/

寮美千子 7月10日は瓜屋さんの短歌を合評 2003年06月30日(月)00時50分01秒

7月10日の「物語の作法」は、瓜屋香織さんの短歌の合評をします。奥野美和さんが、評論代表をしてくれることになりました。短歌の先輩でもある奥野さんの司会、楽しみです。

奥野さんは「わたしのつもり」からの脱却を目指して悩んでいるとのこと。「わたしのつもり」から抜けるためのいちばんの手段は、作品を人に見せることです。感想を聞くことで、何が伝わって、何が伝わらないのか、それを具体的に知ることができます。そんなことの積み重ねのなかから、少しずつ「わたしのつもり」から脱却することができるのだと思います。「王道」はない。地道な積み重ねではないでしょうか。それがある臨界点を超えると「化ける」のかも。

奥野さんも就職活動でいそがしいでしょうが、ぜひ短歌をつくってください。就職で悩んだりおちこんだりする日常を即短歌にしてしまってもいいかもしれません。そういうのって、いつでも詠めそうで、その時にしか作れないものだから。

瓜屋も、もう一踏ん張りして作品提出してくれるとうれしいです。頑張ってください。

寮美千子 自分の眼で見て自分の心で感じよう 2003年06月29日(日)15時09分24秒
いろいろ への応答

▼杉作くんへ・そしてみんなへ
一番印象的だったのは、先生と母の意見の違いだった。(中略)母は、同じものを見ても全く違う感じ方をしていたようだったので、なにを信じたらいいのかとまどった。そのとまどいは無意識の内に先生や母の価値観を絶対的なものとしていたところから来るものだった。そしてそれは、生き方にも繋がってくる。自分以外のなにかにすがっていないと不安になってしまう人間の悲しい癖に侵食されてしまっていたのだと思う。
杉作くん、すばらしい自己洞察です。ここに気づいたきみはエライ。大切なのは「感じること」。それも自分の眼で見て、自分の心で感じることです。「わかる・わからない」なんて関係ない。わかっても、わからなくても、人は何かを感じるはずです。「これは何を語ろうとしているのか」とか「作者の意図は」以前に、まず自分が何を感じたのか、それを見つめることが大切です。

この「自分の眼で見る」ということが、簡単なようで実はむずかしい。「評判が高い舟越桂の作品だから」「東京都現代美術館でやっている展覧会だから」そこに何かすばらしいものがあるはずだ、というのは、すでに「ブランド」に捕らわれたギャルと同じです。そこに本当になにがあるのだろうと、無心になって見る。外側からやってくる評価ではなく、自分の内側に湧きおこる声に耳を傾ける。そして、それを手がかりに、いろいろなことを考えてみる。

それができるようになれば、逆に「ほんとうにきれいなもの」「美しいもの」「すばらしいもの」をどこでも発見できるようになるわけです。きれいなものは、美術館の中にだけあるんじゃない。街角に落ちているゴミだって、時にとても美しい。

画家の猪熊弦一郎は、そんなふうに世界から美しいもの、きれいな形を見つけだす天才でした。その目は死ぬまで曇らなかった。幼児のように、自分が興味があり面白いと思うものなら、街角に捨てられた缶カラを拾うことも日常茶飯でした。

猪熊に関して、面白い話を聞いたことがあります。猪熊は四国の丸亀の出身。1989年、母校である丸亀高校で講演をしました。松永は当時在校生で、体育館に並んでこの講演をきいたそうです。猪熊は、ストライプのYシャツにズボン。きゅっと締めたベルトがとても細くて、小柄な人だったことが印象に残っているとのこと。その時、猪熊はこう語ったそうです。
「こちらから見ると、みなさんが並んでいるその姿が美しい。並んでいるけれど、微妙にずれているその配置が面白い。それはすでにひとつの美です」

アンディ・ウォーホルも、スーパーマケットに並んだキャンベルの缶詰に美を見いだしました。

つまり、美は「美」と名づけられる以前から、すでにそこに存在するのです。それを見つけるのは「感じる心」と「自分の眼」。美術館の中にしか美が存在しないと思っている人は、高校の講堂やスーパーマーケットで美を発見することができません。

「学ぶ」ということは、同時に「汚染される」ことでもあります。ひとつの物の見方に固定される。概念を植えつけられることです。多くの場合、人は学べば学ぶほど不自由になる。

しかし、それは学問のほんとうの意味ではありません。それは、学び方が間違っている。ほんとうに「学ぶ」ということは、自由になることです。森羅万象に関する深い知識を身につけ、深い敬意を払った上で、最後にそれを突き抜け、蹴飛ばし、本来の自分自身になる。ほんとうの精神の自由を手にすることです。

それは単に「生意気になる」こととは違うことです。長い時間をくぐり抜け培われてきた文化への畏敬の念を忘れてはいけません。ただ、それに圧倒されてもいけない。自分が自分であることにもまた、充分に敬意を払うべきです。

杉作くんは「僕はまだ見る目が養われていない海綿体のようなもので」という自覚を持っています。そのように自分をアイデンティファイする謙虚さを持つことは、すばらしいことです。しかし、だからといって「自分自身の心」を置き去りにしてはいけない。だれかの意見や、解説書に書いてあることを鵜呑みにしてはいけない。それでは本末転倒です。まず、あらゆる先入観、予備知識、既成概念を取り払って、自分の眼で対象物と向き合うことです。そして、対象物を介して、じっくりと自分自身と対話することが必要です。それは、対象物ときちんと向き合うことであり、同時に自分自身と向きあることでもあります。

そうやって、今の自分の心をきちんと見つめた上で、作品のタイトルを見たり、解説を読んだり、他人の意見を聞けば、それがどんなに自分の印象と違うものでも、きっと「とまどい」にはならないでしょう。「そうか、そんな見方もあるか。ほんとうにそうだろうか」と、再び自分自身の心と照らし合わせて見てみて、「なるほど、そう見える」と新たな発見があるかもしれません。それはすでに「汚染」ではなく、自分の心の拡大と呼べるでしょう。逆に、他者の見方を「それは違う」と確信することもあるかもしれません。頑な、というのではなく、そう思えるのであれば、それはそれで自分自身をきちんと捕まえられているということです。

先入観に捕らわれず、汚染されず、自分自身の眼で世界を見ること、世界を感じることができるようになれば、世界にはさまざまなすばらしいものが満ちあふれていることを知ることになるでしょう。それを「みんなにも分かる言葉や形」に翻訳し、増幅して伝えることができる人を「芸術家」と呼ぶのかもしれません。

芸術家として生きたいという杉作くん。どうぞ頑張ってください。他者の意見に対して謙虚になるのは大切なこと。けれど、自分自身の感性に対しても敬意を払うべきです。ほんとうの自分と対話して、じっくりと自分自身を味わってみてください。

▼参考
こわれかけた古い椅子 ――アントニ・タピエスの言葉による変奏 by 寮美千子

review0007.html#review20030629145239

杉井武作 いろいろ 2003年06月26日(木)02時17分12秒
滝夏海作品合評のその後/舟越桂展/求む! 情報&評論 への応答

一番印象的だったのは、先生と母の意見の違いだった。
舟越桂展は母が見て絶賛していたので、楽しみだった。僕はまだ見る目が養われていない海綿体のようなもので、先生の意見を、「はあ、そうなんだ。あはは舟越はだめだなあ」と思うがまま受け入れていた。しかし母は、同じものを見ても全く違う感じ方をしていたようだったので、なにを信じたらいいのかとまどった。そのとまどいは無意識の内に先生や母の価値観を絶対的なものとしていたところから来るものだった。そしてそれは、生き方にも繋がってくる。自分以外のなにかにすがっていないと不安になってしまう人間の悲しい癖に侵食されてしまっていたのだと思う。
よく考えれば母と先生の意見はそれほど違いはなく、要するに「舟越はどこかで外界を見るのをやめ、心の内側に通じる美しいものを見つめるようになった」ということを、肯定的に見ているか否定的に見ているかということだった。母はとても舟越桂の内面世界に共鳴するものがあったようだ。だから当然放たれる感想はまるで違う言葉になるし、どちらも確信に満ちている。その言葉の持つパワーに僕が流されててんてこまいしているだけであった。言葉ってスゲーな、人間が宗教に洗脳されるのもわかるな、と思うと同時に、自分を見つめて自分を信じ自分を愛して、他人や可変概念に流されることなきよう魂の赴くままに表現しなければ本物の芸術家になれないなあと思った。
ただ、今見ると先生の感想にある「自己模倣」という書き方は留保であると感じた。後期の彫刻が顔は似ているが胴体は全く違う形であるのは、外面から喚起させるものに頼らず身体にさまざまなアレンジを施すことで内的世界と調和させようと試みているからであり、それは共鳴すれば前期の多様な顔と同じくらい味があるものにも見え、小手先のディフォルメとは思えなかった。
僕個人の感想としては、舟越桂の彫刻に一環して現れている世界は、人間のグロテスクさだと思う。言い換えれば「無機物から有機物を眺めたときに見える極端な相違の発見」である。我々は一人一人生命が宿っていて、違った魂を持っている。それを普段生きているなかで当たり前として自然に受け入れているが、舟越桂の彫刻に対峙したときにわかる体験したことにない不気味さは、「生命が宿っていながらも抜け殻」「生き生きした無機物」が浮き彫りにされたことで感じる人間存在のグロテスクさなのかと思った。

文学以外の僕の関心といえば、「お笑い」である。お笑いは「芸術」としての認知度は、音楽、美術、映画に今のところ劣っているが、是非同じ線上で捉えていただきたい。お笑いは手軽に人を楽しませられるので安っぽく見られがちだが、それら以上に奥行きのあるものだということを、どうか世間は知っていただきたい。とりたてて松本人志は「お笑いを芸術のレベルにまで昇華させた男」として知られているが、もともとお笑いは芸術のいちジャンルなのだ。それを実感したい人は、ビデオ「松本人志自選集スーパー一人ごっつ(おそらくTSUTAYAのみ貸出し)」をご覧あれ。これは彼のマニアックな世界と世間に理解できる範囲の笑いをギリギリのレベルで折衷させた一品である(マニアック寄りは「寸止め海峡」わかりやすさは「ごっつええ感じコント集」)。これがわからなければ彼の世界は理解できないし、わかればもっと深みにまでハマッていけるという一品である。
お笑いとは受け手のセンスが要求されるものなので、つまらないと思う人もいるだろう。ただそれは、表現者のせいではなく、受け手の能力の欠如だと言っていい。僕自身に関していえば、笑いへの感受性、柔軟性はかなりのものだと思う(表現できるかは別の能力だとして)。よく「お笑いにレベルなどない」と言われるが、それは違う。万人ウケするダジャレやジョークはある程度誰でもできると思う。しかしながら、レベルの高い人はセンスある若い人を笑わせられるし、レベルを下げて頭の固い年寄りに受ける笑いもできるのだ。センスのある人には、そういったことがわかるのだ。お笑いも音楽、美術、映画と同じく、受け手側のセンスとレベルが要求されるものなのだということが、もっと広く知られればいいと思う。

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管理者:Ryo Michico <mail@ryomichico.net>
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