ハルモニア Cafe Lunatique (No.0031)

寮美千子の掲示板

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DORONKO  ごく簡単に。 2004年02月05日(木)11時23分47秒
ロリコン問題/ドロンコ氏よ 何を憂慮する? へのコメント

ごく簡単にお答えします。

質問3は、仮定の話ですから、答える必要はないとぼくは思います。

で、質問1、2、4は、すべてまとめてお答えできると思います。
ぼくは、掲示板というものがいかに自由な論議の場でありうるとしても、
あまりに「何もかにも」になることは、好きではないのです。
各人各様に、おのずと、テーマが集約されているような掲示板の方が
「ぼくの好み」なのです。
たしかに、今浮上してきた「ロリコン」というテーマは、
先に論じられた七生養護学校の問題につながる点もありますし、
あながちに無視すればよいというものではないと思います。
……ただ、何といえばよいのか、これについての寮さんの書き込みが、
「うえやま」氏に対してというよりも、あまりに急に「みんな」に
対して発されているようで、ぼくは、そうした声の発し方では、
かえって当の「うえやま」氏に届きにくいのではないだろうか
――と感じたのかも知れません。あくまでも、その時の印象のみの
ことですが。

また、言わずもがなだとは思うのですが、ぼくには「ロリコン」を
タブー視するつもりなどありません。だからといって、実際に幼い子どもを
傷つけたりするようなことまで許されるとは思っていないのは
もちろんですが。――有名な例でいえば、「アリス」の作者である
ルイス・キャロルこと数学者のドジソン氏のような愛し方であれば、
それを断じて否定しなければならないなどとは、とても思えません。
「うえやま」氏は、「いや、そんなきれいなことだけじゃ済まないよ」
とおっしゃることでしょうが――。

彼の呼称についてですが、本人が「投稿の最初に、名前を漢字で表記」
しているのに、それをそのまま使うことはいけないという寮さんの考えは、
ぼくには神経過敏としか思えません。彼はたしかに、ハンドルネームは
ひらがなで書いていますが、だからといって、このケースで漢字の方を
用いるということが、それほど言語同断なことでしょうか?
そもそも、この件についてのぼくの物言いの仕方に違和感をお待ちに
でもなったのか、どうも寮さんは、ぼくに対して過度に警戒心を発揮
しているのじゃないか?という気がするのですが、どうなんでしょう?
彼の名前に引用符をつけたのも、別に深い意図があってのことでは
ありません。あの種の投稿をする場合、仮名を用いるというのはほぼ
常識だろうとぼくは思いますし、たとえ本名であっても、彼を犯罪者
扱いしようなどという意図があるわけでもありません。ただ、あの投稿
だけでは、「彼」はぼくにとって相変わらず「未知の人」ですし、何の
面識もない人物です。ですから、ぼくの胸の内では、「A氏」と表記する
ことと何も変わりはなく、あのように書いたまでのことです。
寮さんには寮さんの感じ方があるということは尊重したいと思いますが、
このようなことにまで釈明を要求されるようでは、正直、ちょっと
たまんないな――と思います。

寮美千子  七生養護学校&ロリコン問題/タブーを超えて 2004年02月04日(水)23時36分12秒
ぼくの結論は……やはり憂慮です。 へのコメント

▼タブーを超えて語りあう必要性
「性」の問題にはタブーがつきまといます。だれでも、心のなかでどこかにタブーを設定している。そのタブーの基準線は、人それぞれだと思います。普段あまり話題にすることではないだけに、他者の基準線がどこに引かれているのかを知るのはむずかしい。うっかり「地雷」を踏むようなことにもなりかねないから、なるべく話題にしないほうがいい、という考え方があります。

同時に、「性」の問題は複雑怪奇。「聖なるもの」であり「禁忌」であり「猥褻」である「コンプレックス=複合的」な問題であると思います。それがゆえに、語りたくても語れない、語るのがむずかしい、自分自身でもなにがなんだかよくわからない、ということもあります。

けれども、現実には「だから、触れないようにすればいい」だけではすまない場合があります。七生養護学校での性教育問題もしかり。「触れないようにすればいい」ではすまないから、先生方は工夫をしながらその問題に触れようとしてきた。性教育を試みてきた。しかし「性の問題に触れる」こと自体が非難の的になってしまいました。

それでは、そこから先の議論は全然進まない。性の問題に関して「触れるな」ではなく「どうやって触れるか」「どのような語り方が望ましいか」ということを問題にしないかぎり、七生養護学校の問題は解決しないと思います。

七生養護学校の性教育を非難する側の言い分を聞いてみると、支離滅裂です。思春期、性の問題に直面した障碍児たちに対して、いったいどのように対処したらいいか、その方法についていっしょに考えましょう、という態度ではさらさらない。あたかも「性の話題」に触れること自体をいけないと断言し、嫌悪しているような様子です。

なぜ彼らがそんな態度をとってしまうのか、といえば、きっと彼らの中に「コンプレックス」があるからだと思うのです。強いタブーがあり、しかもそこに様々な意味が絡まり合って、文字通り「コンプレックス」になっている。本人がわけがわかんなくなっているから、その問題に触れるだけで「キーッ!」となっちゃう。

しかし、そのコンプレックスを解きほぐして、互いに理解し合う糸口を見つけなければ、その問題がますますひどく絡みあってしまう。語らずに抑圧だけしていくと、さらにひどいコンプレックス状態を生みだすと思うのです。

「性」について語ることはむずかしい。けれど、こんな状況の中で、ただそれを避けるだけではなんともならないのではないか。手探りでも、語る方法を見つけていかなければならないのではないか、とわたしは思います。

▼「ロリコン問題」について
うえやまさんが提示してくださった「ロリコン問題」は、実は、うえやまさんだけの問題ではないと、わたしは思いました。そのような性向をもっている人々に対しての、社会の受け入れ態勢そのものが、一つの問題だと気づいたのです。つまりこれは、うえやまさんだけの問題だけではなく、わたしたち自身の問題でもあるわけです。犯罪が起れば、困るのはわたしたち自身なのだから。

では、どうしたら犯罪を未然に防げるか。ロリコン者には相談する場所がない。精神科もカウンセリングもあてにならないと、精神科医自身がいっています。では、友だちはどうか? 「異常者」というレッテルを貼られるのではないか、友人を失うのではないか、という恐れを抱かずに、素直に相談できるか? むずかしいかもしれない。もしも、相談できるような信頼できる友人がいたとしても、さらに問題があります。何かの拍子にその情報が世間に漏れたらどうなるか? 世間から白い目で見られる可能性は大です。それどころか、もしもその人が教育の現場で働いていたとしたら、解雇されかねない。

そんな状況のなか、どこにも相談できない、という社会を、われわれがつくっている、ということが問題なのだと、わたしは思います。
今は、かろうじて「理性」で欲望をおさえてはおりますが、
いつ「現実」に行動を起こしてしまうのではないかと、
自分自身、心の中で、はらはらしております。
もし、いつか、自分が、このような惨事を起こして、幼く、かつ尊い人命を奪うような
ことがあった場合は、潔く死刑になって、罪をつぐなうつもりではいます。
あくまで理性のある今の時点は、です。
ただ、危険な情勢ではあります。
私のような犯罪予備軍が、実際に「手を出す」ことのないように、
「予防」することが必要なのです。
実際に事が起きてからでは遅いのです。 by うえやまさん
この、うえやまさんの話が、ひやかしだとしても、作り話だとしても、構わない。ただ、そういう問題提起をしてくれたなら、やはりそのことを考えるべきではないか、考える価値がある、とわたしは判断しました。

▼無力だけれど話は聞ける
わたしは優秀なカウンセラーでもないし、世間知らずだし、ドロンコ氏同様、うえやまさんに「どうしてあげることもできない」と思います。救ってあげることなんか、できない。けれど、話を聞くことはできる。身近な人に相談できないことを、掲示板というこの場で、みんなで共有することもできる。少なくとも「よきコミュニケーション」をうえやまさんがみんなと求める限り、それは可能です。

だれにも話せない。拒否される。そんな状況が、ひとりの人間を追いつめることにもなりかねない。抑圧は、問題をかえってひどくするばかりです。

「ロリコンという困難」は、同時に「ロリコンという孤独」を背負ってしまう。それがいままでの世の中でした。けれども、ここでは少なくとも「ロリコンという孤独」は少しは癒されるはずです。「ロリコンという困難」は消えなくても、孤独でない、話を聞いてくれる人がいる、自分の本性を現しても人と言葉を交わせる、と知るだけで、人はどんなにか勇気づけられるかしれない。そして、結果的にそれが犯罪を「予防」することに少しでも貢献できるかもしれない。

▼うえやまさんに質問
ロリコン者による犯罪が起らないように「予防」が必要とのことですが、一体、どうしたら予防可能でしょう。困難を感じていらっしゃるうえやまさん自身としては、どのようなことがあったら、助かりますか。ぜひ、お聞かせください。

▼ドロンコ氏へ
うえやまさんは、ハンドルネームをひらがなで書かれました。けれども、投稿の最初に、名前を漢字で表記なさいました。それが精一杯の「自己紹介」であったとわたしは解釈しています。それが実名かどうかはわからない。わからないけれど、実名の可能性もゼロではない。だとしたら、うえやまさんのその気持ちを尊重しなければならないとわたしは思います。うえやまさんが「うえやま」とひらがな表記してくるのだとしたら、漢字ではなく、ひらがなで答えるのが筋だと思います。ドロンコ氏がわざわざカギ括弧つきで、漢字表記の名前を使っている神経が、わたしには理解できません。わたしには、うえやまさんへの嫌がらせのようにさえ感じられます。

うえやまさんの投稿が真実かどうかは、うえやまさんのみが知ることです。少なくとも、架空のアドレスでの投稿でもなく、匿名プロキシも経由していないことは確かです。(それが本人のアドレスかどうかは別の話ですが)

もしも、真実の投稿だとして、あえて書いたひらがなのハンドルネームを無視されて漢字で表記されたり、真実かどうかわからないからコミットしないと宣言されたら、どんな気持ちになるか。わたしは、そのことを心配します。せっかく勇気を持って正直に告白したのに、拒絶されたら、うえやまさんは「ロリコンという困難」だけじゃなくて「ロリコンという孤独」まで背負わなければならなくなる。それはいかんと、わたしは強く思うのです。ドロンコ氏がコミットしないのは勝手だけれど、そういう可能性があるということに気づいてほしい。気づいてもコミットしたくない、というのも、ドロンコ氏の自由ですが。

なお、わたしがびっくりしたのは、ロリコンの存在それ自体ではありません。幼稚園の裸マラソンや乾布摩擦を見て欲情する、という話にです。これみよがしに欲情を煽るロリコン・ビデオやロリコン・アニメにそそられる、というのならわかります。想像可能な範囲です。けれども、幼稚園の裸マラソンでそそられる、というのには、やっぱり驚きました。もしそれがほんとうなら、うえやまさんの人生はとても困難であろうと想像しました。そんなうえやまさんの気持ちも、ドロンコ氏には「わかる、わかる」って感じなのかなあ。うーん。男と女の間には〜♪ この歳になっても、はかりしれない違いがあるのかもしれませんね。話してみないと、わかんないよね。

寮美千子  ロリコン問題/ドロンコ氏よ 何を憂慮する? 2004年02月04日(水)22時27分04秒
ぼくの結論は……やはり憂慮です。 へのコメント

▼ドロンコさま
「ぼくはこの掲示板ではロリコン問題にコミットしない宣言」拝読しました。ロリコン問題に直接コミットしろとは言いませんが、いくつかわからないことがあるので、質問させてください。この問題には全くコミットしたくない、というのであれば、お答えいただかなくても結構です。

質問1
この掲示板では、いろいろな問題が語られてきました。ドロンコ氏も、さまざまな問題にコミットしてきました。しかし「掲示板で話題にしない方がいい」というご忠告は、いままで受けた覚えがありません。なぜ、この問題に関してあえて「深追いしないように」というご忠告をくださったのでしょうか。

質問2
「重ねて憂慮を表明させていただくとともに」とありますが、一体、何が「憂慮」なのでしょうか? いただいたメールにも、ここにも、その憂慮の内容が書かれていませんでした。お教えください。

質問3
ドロンコ氏のそばに、もしもうえやまさんのように「ロリコン」で、裸マラソンしている幼稚園児を見るだけで強い性的欲望を感じてしまうような人がいたとして、はたして身近な人に「相談」できると思いますか?

質問4
うえやまさんの書き込みがもしも「作り話」だとして、われわれが「ロリコンという困難」について考えるということに、何か問題があるでしょうか?

寮美千子  削除のお知らせ 2004年02月04日(水)21時43分25秒

三代治生江(みょうじ・なまえ)というハンドルネームの、匿名プロキシ、架空のメールアドレスでの書き込みがありましたので、削除しました。

DORONKO  ぼくの結論は……やはり憂慮です。 2004年02月04日(水)11時31分00秒
「ロリータ・コンプレックス」という孤独 へのコメント

ぼくは、この「ロリコン」というテーマについて、寮さんに対して
「やめといたら?」という趣旨のメールを送った一人です。メールでも
その理由を詳しく述べるようなことはしませんでしたが、もちろん
ここでも、ぼくは自分の姿勢を変えるつもりはありません。ただ、
ぼくと同じようなことを感じた人間がほかにもいたようだということは、
せめてもの救いだなと思っています。
その上で、多少は言っておくことにします。

 うえやまさんのロリコン告白によって、衝撃を受けた読者も多く、
 そのような対応になったのだと思います。わたしもそうだけれど、
 みんなもびっくりしちゃったんでしょう。        by寮さん

……とのことですが、これは、率直にいって、「あまりにもナイーヴだ!」
というしかありません。ぼくは「植山」氏のような人物が「いるであろう」
ということはほとんど自明のことと思っており、したがって、驚きなどは
まったくありません。また、ぼくはその方面の専門家などではありませんが、
「植山」氏の心理的機構(メカニズム)についても、おおよそは理解できる
つもりです。それも、勇崎兄貴と似たようなもので、「いいトシをした
オッサン」の一人として、かなりの程度に「わが身にも縁あるものとして」
理解できるような「気がして」います。
でも、ぼくは、「植山」氏に対して、多分、(ここでは)「どうして
あげることもできないと思う」ので(誤解のないように言いますが、
この「できない」の主体は「ぼく」です。寮さんにも「できるはずはない」
などと決めつけるつもりは毛頭ありません)、ここでこのテーマについて
論議をする輪には入りたくはないのです。

じゃあ、どんな場合なら、ぼくはコミットするのかといえば、その相手が
少なくとも「顔見知り」以上であって、つまり、ぼくの友人であるとか、
あるいは親類であるとかであって、しかも、(この点こそが最重要だろうと
思いますが)その当人が「真剣に悩んでいる」ことが確実であるならば
――ということになるでしょうか。
こんなぼくの態度は、寮さん的な基準からすれば、あまりにエゴイスティックで
実に鼻持ちならないかもしれません。しかし、ぼくにはそんな風にしか
できません。

というわけで、重ねて憂慮を表明させていただくとともに、以後、このテーマ
についてコミットすることは遠慮させていただくことにします。

MOKUMOKU  ラッキョウを喉につめて死ぬのは恥だ 2004年02月03日(火)14時25分21秒

今朝、娘に頼まれた用があって、NYU(ニューヨーク大学)に行ってきました。そのあと、ブリーカー・ストリートの和製イタリアン・レストランで昼飯食おうと思ってたんだけど、雪の中を急いで歩いたら、汗かいてしまった。あんまり汗が出るので、スパゲッティーはあきらめて、一旦家に戻った。そして、シャワーに入って、出てきたら、ラッキョウが食いたくなった。去年、北千住で買ってきたラッキョウの壷を開けて、いちばん大きいのを口にいれました。そして、壷の蓋を閉めようとして力を入れたら、ラッキョウが喉にポンと詰まった。わし、ちょっとあわててしまったよ。Harry Johnson氏の調査によると、日本の年寄りの78%以上は正月に喉にモチを詰めて死ぬそうやから、モチを喉に詰めて死んだら同情も集まるが、ラッキョウを喉に詰めて死んだなんてことがひとさまに知られたら、世の笑いものになる。わし、えらいことになったと思った。死んだ父親にまで恥をかかせることになる。しょうがないから、コンコンと咳をしながら床から3回飛んでみた。そしたら、ラッキョウが喉からポンを外れました。恥かかないですんだよ。

勇崎  同感 2004年02月03日(火)04時43分27秒
. へのコメント

性の議論は、性が持つ創造性に反比例して、不毛に陥る傾向があって僕は苦手です。しかしながら、
信介どんwrote>
ってゆうか、あのおばはん大丈夫か心配だよな
は全く同感です。
おばさんどこかにwrote>
「いやらしくない性など無味乾燥でつまらない」。
は、安部公房が、「猥褻でないヌード写真などない」、となにかに書いていたのと類似していて、その点について、僕はあまり心配していません。
心配なのは、検索して読んでしまったおばさん自身による、「平成15年8月2日、トイレ事件」と題された体験レポートでした(下記末尾URL)。
なにはともあれ、kiyomiさんらが活躍されている七生養護学校の日常における奮闘は、不毛な今日において希望の未来〜光そのものです。
時代錯誤の不毛の輩は、やがて淘汰されます。
かつての僕のことですが、kiyomiさんらと異種同質の体験をさせられたとき、心を鎮めたおまじないはひとつ。「時代錯誤な諸先輩は僕より先にあの世に行く。だから未来に心配することはない」よ。です。
以来、僕自身に戒めてきたことは、そんな諸先輩に僕は死んでも絶対にならない、ということかな、、。

(付録)下記URLの楽しみかた
下記URLにおける論旨を「トイレ」が「おトイレ(音入れ=録音)の隠喩と解釈すれば、おばさんの婉曲的なおばんギャグとして楽しめます。

http://f1.aaacafe.ne.jp/~iserlohn/8-2.htm

勇崎  僕もロリコンと呼ばれていた 2004年02月03日(火)03時49分40秒
非常〜〜〜〜〜に深く考えさせられますな。 へのコメント

高校生時代まで、僕も女性の幼さに惹かれていて、“ロリコン勇崎”と呼ばれていた時代がありました。きっとロリコンという感性は、男の心に結構普通に存在しているのだと思います(思いたい)。

うえやまさんは、まさに赤裸々にその感性を告白されていますが、このようにカミング・アウトできるということは、究極状況にはめ込まれても、きっとご自身を支えることが出来る人なのでしょうね。

ロリータを愛する気持ちが、やがていつか、だからこそロリータを思いやる心に変わる。うえやまさんにそんな日が訪れることを、同類として願っています。

寮美千子  「ロリータ・コンプレックス」という孤独 2004年02月02日(月)17時33分27秒
「ロリータ・コンプレックス」という困難 へのコメント


「ロリコンという困難」の件、知人の精神科医に個人的に問い合わせをしてみました。すると、こんな返事が戻ってきました。
「ロリコンという困難」に対して何か方法があるのか?ということですが、残念ながら答えはありません。せいぜい出来ることは、心理療法士、あるいは精神科医に相談したらどうでしょうか、ということくらいです。しかも、当たりはずれは甚だしいというのが現実です。治療者が「こんなことは私に関係ない」という人から、ひたすら同情しのめり込みニッチもさっちもいかないこじれた人間関係に陥ってしまうという、両極端が現状です。2年前くらいに、精神病理学の専門医と自認していた40歳代の精神科医が、自分の診察している女性の人格障害の患者とニッチもさっちもいかなくなり、その患者を殺してしまうという事件が東京で起きています。これが現状です。答えになっていません。申し訳ありません。
うーむ。これは社会的にほとんど手が着いていない状態、ということだと思います。ロリコンは、お薬で治る病気でもないし、カウンセリングそれ自体もカウンセラー側がロリコンに対応するノウハウすらない、という状況なのだと思いました。うむむ。

世の中に、これほど多くのロリコン・ネタが溢れ、それを助長するような方向にあるのに、ロリコン故に悩んでいる人間に対応する方法は、少しも用意されていない。大きな問題だと思いました。ガソリンぶっかけておいて、ライターや燐寸もわざとのようにそばに置いておいて、それで消防署なんて存在しないけれど、警察だけはある、っていう感じ。

そして、もしも事件が起きれば、それは「異常な性欲」というごく個人的な問題にされてしまう。社会全体で煽っておきながら、その社会は少しも責任を取ろうともしない。予防もしようとしない。「やったら死刑だぞ。ぶっ殺すぞ」と脅かすだけ。これはひどい。

こんど、この知人の精神科医に会う機会があるので、そこのところ、とことん聞いてみたいと思います。


ところで、うえやまさんのご投稿に関して「ひやかしではないか」「でたらめではないか」というようなメールをいくつかいただいています。「からかわれているのかもしれないから、深入りしない方がいい」というご親切なご忠告もあります。精神科医がいっているように「ひたすら同情しのめり込みニッチもさっちもいかないこじれた人間関係に陥ってしまう」という状況に、わたしが陥ることを心配してくださったのだろうと思います。確かに、わたしにはその傾向があるしね。

うえやまさんのロリコン告白によって、衝撃を受けた読者も多く、そのような対応になったのだと思います。わたしもそうだけれど、みんなもびっくりしちゃったんでしょう。

確かに、ここは掲示板だから、うえやまさんがほんとうのことをいっているのかどうか、ということは、わかりません。しかし、それはうえやまさんばかりでなく、みなさんの投稿にもいえることです。誰が真実を語っているのかなんて、実際のところわからない。

語られていることが真実であろうがなかろうが、わたしはうえやまさんのロリコン告白に、目が覚める思いがしました。「ロリコンという困難」と向きあって生きている人々がいるのだということに、はじめて思いが及びました。ロリコン者に対して、なんらかの手が差し伸べられるべきだし、それ以前に、みんなでいっしょに考えていかなくちゃいけない大切な問題なのだと思いました。「なんか、いやらしいこといっているみたいだから、ああいう奴は相手にしないようにしよう」という態度が、ロリコン者を一層の孤独へと追いやり、人生の困難をさらに増すのだと思います。

掲示板というのは、顔が見えない。だからこそ、そんな重大なことを告白することも可能なのかもしれません。このようなメディアの存在により、ロリコン者は自分の真実の姿を晒してコミュニケーションできる機会を、はじめて得たのかもしれません。うえやまさんの書き込みは、その勇気ある一歩だったのではないかと、わたしは感じています。

悪意があっての偽りの書き込みは困りますが、参加者が人々と「よきコミュニケーション」を目指そうとしていると感じられる限り、わたしはできるかぎり対応していきたいと考えています。


そして、掲示板というシステムは「ひたすら同情しのめり込みニッチもさっちもいかないこじれた人間関係に陥ってしまう」ことを回避できるすばらしいシステムだと思います。というのも、個人で向き合うのではなく、ここに書き込むことによって、その問題をみんなで共有できるからです。

ですから、みなさんにお願いがあります。これは、前から何度も申しあげていることですが、掲示板上での論議は、掲示板でお願いします。わたしへのご忠告があれば、それも掲示板でお願いしたい。ここでの議論は、できる限りオープンにしたい。共有することにこそ、価値があるのです。わたしを心配してくださるなら余計に、議論を公にしてもらいたい。よろしくお願いします。

寮美千子  「ロリータ・コンプレックス」という困難 2004年01月31日(土)01時15分55秒
非常〜〜〜〜〜に深く考えさせられますな。 へのコメント

うえやまさま。カフェルナティークへようこそ。

ロリコン・カミングアウト、ちょっとびっくりしましたが、カミングアウトしてくださった勇気に感動しました。そして、これをきかっけにいろいろ考えもしました。まだ、考えがまとまりませんが、まとならないままに書かせてもらいます。

わたしは、ホモセクシュアルという嗜好を、異常だとか変態だと差別するつもりはありません。性的な意味で、男が男を愛しても、女が女を愛しても構わないと思っています。それは、個人の嗜好であり個性で、相手の同意さえ得られれば問題ないと思っています。

けれど、いわゆる「ロリータ・コンプレックス」に関しては、嗜好や個性だから構わないといっていられない部分があります。なぜなら、もしその性的嗜好を実行に移そうとすると、必ず「被害者」が出現するからです。相手は子ども。自分で自分の性的行動に責任を持てないほど幼い人を相手に性的行動をするのは、まさに「犯罪」だからです。

うえやまさんも、そのことを重々承知なさっていて、だから「犯罪者」にならないために、強烈に自制なさっているんですよね。

えらいなあ。大変だなあ。わたしは想像力不足で、そのように強く自制しなければならない人生、というものの大変さに、いままで思い至ることが、ありませんでした。うえやまさんのカミングアウトで、ようやく実感できたといってもいいくらいです。その人生の困難さを想像して、愕然としました。

長崎の少年の場合、彼はまだ少年で、だからこそ、その「心の闇」や「孤独」に手を届かせることのできなかったまわりの大人たちの責任を考えたし、だれも(わたしも含めて世界のだれも)少年の心を救えなかったことに歯痒い思いをしました。

けれど、問題は少年少女のことばかりじゃない。うえやまさんの書き込みで、ようやくそのことに気づきました。立派な社会人としてまっとうに、一見何の問題もなく世間で生きている人のなかにも、そのような深い葛藤があるんですね。そして、考えてみれば、それを受けとめるシステム、というものが、社会にはほとんどない。それは、なんて大変なことだろう。

ロリコンが反社会的であることは確かだけれど、果たして「病気」なのだろうか? ということについても、考えてみました。もしも病気なら、治る可能性があるはずです。しかし、ホモセクシュアルと同じように、単なる個性のひとつであるとすれば、それは病気じゃない。病気じゃなければ、治療は有効じゃない。

わたしは、人生いろいろ困っているときに、激しく情緒不安定になり、ひどい鬱状態や、突発的に自殺したくなるようなことが何度もありました。その時、友人に無理矢理連れていかれた精神科での診断は「神経衰弱」。医者にこういわれました。「病気なら治るけれど、あなたの場合性格だから治りません」 わたしは途方に暮れました。丸薬一つであの深い鬱から抜け出せるならと藁にもすがる思いだったのに、それはないのだと思い知らされたからです。

病気じゃない人は、自力でなんとか生き抜くしかない。病院も医者も薬もアテにならない。わかっていても、死にたくなる自分をなかなか押さえられない。あの時に、力になってくれたのが友人でした。親身になってくれる友人がいなかったら、間違いなく飛び降り自殺していたと思います。この掲示板で、いつもわたしが文句いったりしているドロンコ氏など、あの時、どれだけ力になってくれたかわからない。「死にたい」などとヘヴィーなことをいって、手首なんか切っちゃう友人がいたら、だれでもきっとうんざりするだろうに、心やさしくドロンコ氏は、深夜でもかけつけてくれました。恩義に感じています。

で、ロリコンのことです。それは人生における大困難だとお察しします。だれかを性的に愛したくても、それを成就させたら犯罪になる。それを押さえこむしかない。それは、すごい悲劇だと思う。

もしもそれが、心の中のなにかの事情でそうなっていて、カウンセリングやセラピーでなんとかなるものなら、ぜひなんとかなさったらいいと思います。つまり、病気の一種なら、治したらいい。人生、きっと楽になる。

でも、もしそれが「個性」というものだったら、わたしの性格同様、治しようがない。治しようがないといいながらも、わたしがいまのところ、なんとか適応して生きていけるのは、やっぱりわたしを支えてくれる人々がいるからです。そのサポートを受けるなかで、以前のようにひどい鬱にもならなくてすむし、自傷傾向もずいぶんなくなりました。全然なくなったとはいわない。いまでも、何かの拍子に壁に思い切り頭をぶちつけたくなったりするし、時々そうしたりするけれど、以前に比べれば、だいぶましです。

それは、わたしの「個性」を受けとめて、相手をしてくれる人々に幸いにも恵まれたからです。わたしのほうから、なんとかしたいという気持ちで、いろいろなことを求めてきたということもあるでしょう。

うえやまさんの書き込みを見て、ロリコンの人々をサポートする何かが必要だと、つくづく思いました。相談できるところや、話せる相手がとても必要だと思う。もしも病気なら治せばいいし、そうでないなら、その困難な人生を支える友人や社会が必要。差別するのではなく、みんなで支えるという思想を社会の中に育てることも大切だと、つくづく思いました。困難な人生をみんなでシェアしようとしなければ、困難を抱えた本人も、また万が一事件になった時の被害者も不幸になる。友人だけで支えるっていうのではなくて、社会システムとしてサポートすることも急務だと思いました。人道支援が必要なのは、イラクの人々だけじゃない。

ところで、うえやまさんは、ロリコンであること、だれかに相談したことはありますか? もしよかったら、引き続きお話、お聞かせください。

うえやま  非常〜〜〜〜〜に深く考えさせられますな。 2004年01月30日(金)21時22分28秒
▼Review Lunatique:傷つけるな・殺すな/長崎の少年による幼児殺害事件と自衛隊のイラク派遣 へのコメント

はじめまして。植山と申します。
唐突で申し訳ないのですが、貴 HPの記事を拝読させていただきました。
深く考えさせられますね。
私は会社員として勤務させていただいておりますが、
自分の内面に潜む「凶悪性」と日々みつめあいながら、戦々恐々たる思いで日々を過ごして
おるのです。
ちなみに私は男性です。
20代後半をすぎても過ぎてもいまだに大人の女性とも付き合ったことがなく、
かつ独身のつまらん男です。
さらに言うなら、いわゆる「ロリコン」です。
もっとも、ロリコンであり、何の抵抗もできないような、いわゆる
弱い女性=「幼女」にしか性的興奮を覚えないような異常者であるから、
いまだに「彼女」すらできんのです。
「結婚」なんて夢のまた夢です。
男性であり、かつ、ロリコンであるからこそ、
このような記事には関心を持たざるを得ません。
長崎で、男児が殺害されたという事件!!
痛ましい限りです。
最悪なことに、その事件の被害者は死亡してしまったので、
本人の口からその時の恐ろしい状況を聞くことはできません。
しかし、その後の記事・・・。
知らないお兄さんに連れていかれて、裸にされて・・・
こんなおぞましい体験をしてしまい、くやしくて悲しくて仕方ない、
誰かに話さずにはいられないという
子供の切実な心の内を思うと、
私のようなロリコンであり、かつ精神異常者であっても
心が痛みます。
まぁ・・・このような記事を読んで心にひっかかったのは
他人事じゃないということです。
私は自分のこととして深く受け止めています。
今はAVとか「幼稚園の裸教育」とか
乾布摩擦とか裸教育の幼稚園での運動会とか
真冬時の幼稚園児の上半身裸によるマラソン
いわゆる「裸マラソン」とか
コキネタは巷にあふれてますから私個人のレベルじゃ問題ないのですが、
一番こわいのは、
いつ「現実に」子供に手を出してしまうかもしれない、
私自身の「異常性」です。
そうなってしまえば、当然、その時点で警察に捕まり、私の人生は終わりです。
そのくらいの「現実」は私程度の人間でも理解はできます。
こわいのはその後、です。
今のストレス社会の中、重圧に押しつぶされて、いつ、精神の「タガ」がとれて、
私みたいな異常者が、「実際に」行動を起こさんとも限らんのです。
現に私もその候補者なのです。
蒸し返すようで申し訳ないのだが、大阪の「池田小」事件もその類のものなのです。
今は、かろうじて「理性」で欲望をおさえてはおりますが、
いつ「現実」に行動を起こしてしまうのではないかと、
自分自身、心の中で、はらはらしております。
もし、いつか、自分が、このような惨事を起こして、幼く、かつ尊い人命を奪うような
ことがあった場合は、潔く死刑になって、罪をつぐなうつもりではいます。
あくまで理性のある今の時点は、です。
ただ、危険な情勢ではあります。
私のような犯罪予備軍が、実際に「手を出す」ことのないように、
「予防」することが必要なのです。
実際に事が起きてからでは遅いのです。
私のような実際に異常者である人物の「ナマの声」でもお役に立てましたでしょうか?
非常に長く、うっとおしい、いやな
メールでしたが、私自身としては必死です。
これ以上、こんな痛ましい事件が起きてはなりません。
私の今の願いはそれだけです。
よろしくお願いいたしますm(_ _)m


DORONKO  まさしくそーなんだよな、と……。 2004年01月29日(木)12時53分46秒
Cafe宣言をもう一度! へのコメント

 彼女のことを「おばはん」と呼んで当然という馴れ合いの空気を、
 わたしは持ちたくないだけなのです。         by寮さん

先のぼくの書き込みに、何よりも欠けていたのは、コレですね。自分の
掲示板だったら、ぼくもきっとそれを大事にしたいと思って、なれ合いに
走ろうとするような書き込みに対しては冷ややかに対処するだろうと
思うのですが、「他人様の掲示板」であるここでは、ついオツムやら
指先が滑って?狼藉を働いてしまったような気がします。
それに、ぼくには「旧左翼的思考」のナゴリのようなものがあるのも
事実なのかも知れなくて、彼女は「権力の側についた」、だから「それ
相応の責任がある」ということ(それ自体は、それほど間違った見方では
ないと思いますが)を、いささか過剰に言い立てることに「得々として」
しまっていたようです。――冷静に考えれば、ぼく自身、そんなのは
あまりカッコよくないよ、と思うのですが。
何というのか、批判をするのはいいのだけれど、それは「こいつは敵だ」
と相手にスタンプを押したりすることとイコールなんかじゃない、
相手にもしっかりと理解させようとする姿勢を失わないということが
基本だ――というようなことでしょうか。

くり返しますが、ぼくは、自分の掲示板であったら、きっとそうした
基本を忘れたりはしなかっただろうに……と思うのです。これは、
よく反省しておかねば、と思います。で、ハタ迷惑かも知れないけれど、
せっかくなので、皆さんにも、どうか他山の石としていただければ、
と――。

寮美千子  Cafe宣言をもう一度! 2004年01月29日(木)00時55分23秒
ぼくは「頭にきた」のです……。 へのコメント

▼わかるわかる
ごく単純に、「そんな言い方はないだろ?」「ウソつくなよ!」……と、要するに「頭にきた」のであって、その勢いで書いたのでした。by DORONKO氏
わかります、わかります。頭に来たの。来るよね。とてもよくわかります。

その時、大事なのは「ぼくは」っていう主語だと思う。「ぼくはあの人を『おばはん』と呼びたい。ぼくの中の気持ちがそうさせる」ということを明記した上なら、おばはん呼ばわりも全然構いません。それは、拠り所が「DORONKO氏個人」だとはっきりしているから。彼女のことを「おばはん」と呼んで当然という馴れ合いの空気を、わたしは持ちたくないだけなのです。

▼怒りを通り越して心配
わたしの場合、頭を通り越してトサカも通り過ぎて、怒るっていうより「どうしてこんなことに?」と思ったのでした。「あのおばはん大丈夫か心配だよな」っていう信介さんの気分に近いかもしれない。

七生養護学校の教育を批判している人々の言動を見ていると「大丈夫かよ」と思ってしまう。ごビョーキじゃないかしらと心配にもなる。とても、気の毒な感じがする。内側の空洞を埋めるために、無用な鎧に凝り固まっていて、人生が不自由そう。鎧はずして、もっと本音で話せばいいのに。

けれど、彼らはそのことに気づいていない。自分の弱さに気づくことが怖いから、よけいに自分の内側を見ようとしないで、外側の「権威」にすがり、その権威を少しでも脅かそうとする人々をヒステリックに攻撃する。そんな気がします。七生養護学校の先生方がいつも子どもたちにいっている「あなたは、あなたのままでいいんだよ」っていう、(表面的じゃない)深い肯定の言葉をが必要なのは、あの人たち自身のような気がするのです。悪いけど、対等じゃないっていう気がしてしまう。それって、最大の侮蔑の言葉かもしれないけれど。でも、侮蔑じゃない。心底問いかけたい。「何をそんなに怖がっているの」って。

▼開かれた掲示板を目指したい
そもそもぼくは、このおばさんとは面識もありませんし、おそらく、今後顔を合わせるようなこともまずないだろうという漠然とした意識をベースにして、あれを書いたのでした。
それも、わかります。なぜか参加者が「仲間」であるような気分がしてくる「掲示板」というメディアは、確かにそんな気にさせます。

けれど、掲示板は誰が見ているかわからない。その「おばはん」が、自分の名前で検索すれば、この掲示板が上がってくることでしょう。そして、何が書いてあるのかと読む可能性はある。それが、インターネットの掲示板というメディアです。

実際、わたしが「原発反対」について熱心に書いていたとき「核燃料サイクル機構」から、何度もアクセスがあったことも、記録としてわかっています。

いつも見慣れた名前の書き込みばかりだと、ついそのことを忘れがちだけれど、掲示板は「開かれた」メディア。公共の場での発言と同じ意味を持ちます。わたしも時々忘れちゃいそうになるけれどね。

単なる「なかよし掲示板」じゃない。反対意見の人もウォッチングをしている。そして、反対意見の人もフラットに参加できる掲示板にしたいと、わたしは思っています。

そのためには、あからさまな侮蔑の言葉や、下品に揶揄するような言葉は避けたい。フラットに議論できる雰囲気をつくりたい。

とかいいながら、わたしも頭に来るとアクセス禁止処置をとったり、速やかに退去いただいたりするけれどね。でも、それは、「反対意見」を討議できるような書き方をしない人々に対しての処置のつもりです。単なる「荒し」に等しい書き込み、対等な話し合いが成立しない書き込みはごめんこうむるという意味です。「反対意見」を単に排除しているわけではない。

▼200人以上の読者の存在
また、ここは一日実質で200を超えるアクセスがある掲示板。カウンターは1月1日にゼロにセットし直したから、日数で割れば平均も出ます。書き込んでいるのはごく一部。沈黙のまま読んでいる「読者」もいっぱいいる。そのことを、忘れないでほしいと思うのです。

わたしたちは、ここから発信できる。賛成意見の人にも、反対意見の人にも。ほんとうに小さなメディアだけれど、1人で200人に話をするのは容易ではないことを考えれば、これはとても効率よく自分の意見を伝えることのできるメディアでもあるのです。

▼正々堂々と語り合いたい
掲示板には、読むに耐えない罵詈雑言が書かれたり、何の話か全然わからない、仲間内にだけしか通用しない言葉で書かれたものも多く見受けられます。そういう掲示板は「閉じた」掲示板になっていく。そして、それを目指すならいいのだけれど、ここで目指しているものは、そういうものではありません。Cafe宣言を、ぜひもう一度読んでもらいたい。そのために、掲示板の一番上にリンクもしていあります。一部、引用します。
だとしたら、わたしたちに何ができるのか? 簡単で、むずかしいこと。むずかしいけれど、簡単なこと。それは、わたしたちひとりひとりが、きちんと考えていくことだ。考えるために、互いに誠実に語り合っていくことでしか、それは実現できないのだと、わたしは思う。「遠くを語る言葉」だけではなく、わたしたちは「中距離を語る言葉」を発見しなければならない。それを「近くしか見ていない」日常に取り込んでいかなければならない。そうすることで、ここを彼方へと、表層を根源へと近づけていかなければならない。そして、それをひとりひとりの心に積み上げ、次の世代へと手渡していくことこそが「文化」ではないかと、わたしは思う。 by Cafe宣言 寮美千子
最近、わたしはある大学の学科の中に流通するメールの言葉を見て驚きました。学科の中だけにしか流通しないからと、驚くべき罵詈雑言や、失礼な言葉が並んでいました。大学と呼ばれる場所の、教授や助教授たちが、こんな下品な言葉を交わしているのかと思うと、がっかりするとともに、うんざりもしました。残念な気持ちにもなりました。

いつ、誰に見られても恥ずかしくない言葉で語りたい。物事が決まっていく過程の論議を公表しても、何の問題もないような正々堂々とした討議がなされてこそ、それは真に公共の意味を持つと思います。

ここは個人掲示板で、もちろんそこまでの公共性を求めようとしているわけじゃあないけれど、襟は正したいと思っています。こうでなくちゃいけないとか、これが当たり前と「自分以外の権威」によってたつような議論ではなく、みんなが「自分の言葉」で「自分の気持ち」を素直に語れるようになりたい。

▼必要なのは「深い自己肯定」か?
わたしも、DORONKO氏同様、ほんとうに彼女の発言はひどいと思う。そして、なんども繰り返すけれど、どうしてあんなにも必死に「良識」を味方にしたいと思うのだろうと、そのメンタリティを思います。彼女の心の弱さを思います。自分の内側ではなく、外側の「権威」によりかからざるをえない人間というものの弱さまでをも計算に入れないと、世界はよくならないのかなあ。やっぱり「深い自己肯定」が根本にないと、世界はなかなかよくならない。それをするにはどうしたらいいんだろうと、いっしょうけんめい考えています。それは、一口にいえば「愛」の問題だと思うけれど、それがまたむずかしい。DORONKO氏、いっしょに少しずつ考えていこうね。

http://ryomichico.net/bbs/cafe0000.html#cafe20011002173553

DORONKO  ぼくは「頭にきた」のです……。 2004年01月28日(水)12時00分37秒
相手の発言をよく読んでから反論しましょう へのコメント

これは、ほとんど寮さんご指摘の通りだろうと思いますので、拙文は
このご指摘をガイドにしつつお読みいただければと思います。

ただ、ぼく自身の「気持」の釈明だけはしておくと、ぼくにはあの
おばさんの(「おばはん」は単に対象を特定するのに便利だからと
思って「乗って」しまっただけですが、その語自体に蔑視のひびきが
あるのも事実ですから、重ねて使用することはやめます)「揚げ足取り」
をするつもりなどさらさらなくて、ごく単純に、「そんな言い方は
ないだろ?」「ウソつくなよ!」……と、要するに「頭にきた」ので
あって、その勢いで書いたのでした。

ですから、寮さんが

 相手をわぜと怒らせるような「偉そうな」物言いは、なるべく
 避けた方がいいと思っています。

というのは、実にもっともだなあとは思うのですが、そもそもぼくは、
このおばさんとは面識もありませんし、おそらく、今後顔を合わせる
ようなこともまずないだろうという漠然とした意識をベースにして、
あれを書いたのでした。もしぼくが、彼女(「おばさん」のことです)と
面と向かって話をするとしたら、いくらぼくでも(?)、いきなり
相手を「おばはん」呼ばわりはしないでしょう。これは、ネット
というもののコワさかな、と思います。全面的に責任転嫁しようと
いうのではありませんが――。

下北沢を破壊する大規模道路の建設に反対する運動のアピール文については、
ぼくも文案の作成にはかかわっていますが、寮さんが引用している
「わたしたち同じ地域に住む者同士が」という部分は、ぼくの文案には
なかったもので、現在、この運動の中心になってくれている建築家の
K氏が書き加えたものです。彼は、生まれも育ちも下北沢であるよう
ですので、「地元の人間が中心にならなければ」という気持が、
ぼくなどよりも強いようです。だからといって、「地元の人間」以外は
排除する…なんてことにはなっていませんし、今後も決してならない
だろうということは、ぼくが請け合ってもいいです。

寮美千子  相手の発言をよく読んでから反論しましょう 2004年01月27日(火)12時53分52秒
「私たち」が悪いのではない。 へのコメント

▼文脈の中で理解してください
どんな場合でも「わたしたち」「ぼくたち」というのが悪いといっているわけではありません。いつものことですが、よーく読んでください。「良識」というものが、自分たちの外側に厳然としてあり、それを共有できる、という「わたしたち幻想」を非難しているだけです。まず、己のなかをきっちり見つめよという発言です。

下北沢の道路建設反対運動をするときに使う「わたしたち」を非難しているわけではない、というのは、一目瞭然のように書いたつもりです。なぜなら、下北沢の場合、「わたしたち同じ地域に住む者同士が」という意味の「わたしたち」だからです。これはそんなにおかしくない。けれど、それでさえ、文脈次第では、時におかしな言葉になることもある。というのも、同じ地域に住んでいる人すべてが、同じ意見だとは限らないからです。だから、安易に「わたしたち」を連発するのは、気をつけなければならない。

「良識」というものの出発点を、きちんとひとりひとりの心のなかにおかないと、おかしなことになるとわたしは思います。観念や概念に依存してしまう。たとえば「天皇」という存在に自己をゆだねることで「神風」も辞さないという状況が生まれる。しかし「わたし」にきっちり足をつけていれば、観念や概念に飲みこまれない。「お国のために」「天皇陛下万歳」といって自爆死しなければならない戦争そのものがどこかおかしいという、根本的なことに気づくはずです。「わたしたち」と安易に思うことは、時に「わたし自身」を抹殺することになりかねません。そういう意味です。

言葉は文脈の中で捕らえなければ意味がない。表面にだけ反応して「言葉尻を捕らえた」反論など書かれての、いつものことですが困ります。いつものことですが、よく内容を読んで、その内容ときちんと対話してほしいと思います。ことに、反論をいったり、非難したりするときは、注意深く読んでからにしてほしい。

ドロンコ氏の論評はいつもそうだけれど、人の意見の揚げ足を取るようなところがあります。「おっ、これは反論できるぞ」と思ったとたんに書き込んでいるような風情が見受けられます。そして、だいたいそれは的はずれで、元の文章をきちんと読まず、ざっと読んだ印象だけでいそいで書いてしまったように感じられる文章です。

どうか、ちゃんと対話をしてください。よく読んで、その意味を読みとってから、反論なりなんなり、なさってください。

▼なぜムッとするんだろう?
また、信介さんの「あのおばはん大丈夫か心配だよな 」というときの「おばはん」には、やさしさが含まれていて、わたしは少しも反発を感じなかったけれど、ドロンコ氏の「おばはん」呼ばわりには、なぜかムッとしました。あからさまに見下している風情があったからです。

「まず『私たち良識派は』なんて言い方、自己規定の仕方が、あまりにも尊大だってことでしょうな。」というドロンコ氏の口調にも、同じようにカチンときてしまいました。この言い方、それ自体が「尊大」な感じがしてしまったからです。

わたしは、相手をわぜと怒らせるような「偉そうな」物言いは、なるべく避けた方がいいと思っています。自分を、それこそ「良識派」であると規定したような物言いは、どうしても好きになれません。どこかに「良識」があるんではなくて「ぼくはこう思う」「わたしはこう感じる」と素直に発露してこそ、対等な話し合いが成立すると思っています。

ドロンコ氏には、そのつもりはないのかもしれませんが、全体に、いかにも相手を見下し、バカにした発言のように見え、もしも相手が読めば、大切な内容を話し合う前に、相手をカッとさせてしまうような書き方ではないかと思います。

「『何てふざけたヤツらなんだ!』というのが、ぼくの感想であり結論です。」という言い方は、キツイけれど、納得のいくものです。なぜなら「ぼくの感想であり結論」とはっきり書いてあるから。その「ぼく」をバカヤローだとか「大丈夫か?」と思うのも、こっちの自由だという余地が残された物言いだからです。どこか、自分の外側に基準点を置いて発言するのではなく、こうやってはっきりと「自分の意見」としていうことが、わたしは大切だと思います。毎度のことですが、よろしくお願いします。

DORONKO  「私たち」が悪いのではない。 2004年01月27日(火)11時24分08秒
「私たち良識派」 へのコメント

……これは、「私たち」がいけないわけじゃないと思うけれど?
だって、「私たち」(「オレたち」でも何でも同じ)と言うことが
自然な場面だって、いくらだってあるでしょうに?
それをすべて否定して、「ぼくは…」、「でもって彼は…」とゆーふー
にしか「自分たち」のことを語れなくなるなんてことには、ぼくは
賛成しかねるけれど?

で、話は急に変わるけれど、皆さんよくご存じの(だと思うけれど)
下北沢が、今、大変なことになろうとしています。
詳しくは、まず下のHPを見ていただきたいのだけれど、
ぼくもこの中で「私たち」と語っている一人であるわけで――。

……ここで話を「正論おばはん」のことに戻せば、何がいけないのかと
いえば、(色々あるけど)まず「私たち良識派は」なんて言い方、
自己規定の仕方が、あまりにも尊大だってことでしょうな。ぼくは、
世の中にも「良識」ってもんが「あって然るべきである」と考える
もの(=立場)ですが、ぼくの考える「良識」は、このおばはんの
ものとはまるで違うんだろうなと思います。そもそもが、「私たち
良識派は」だなんて、まるで、自分たちこそが「良識」ってもんを
独占「できる」とか「している」みたいじゃないですか?しかし、
「良識」が「良識」でありうるかぎり、それは、このおばはんの
ようなひとにぎりの人間に独占されるようなものであるはずは、決して
ありません。だって、そんな安っぽい「良識」なんて、誰も信じや
しないだろうし――。ま、このおばはん、この語り出しからして、
錯乱してるのは明白だってことです。

次に、このおばはんは「国民の品位や良識を破壊するような教員たちと
論議し」だなんて言ってるけれど、実際にどんなことが起きたのかを
考えれば、これは明白なウソでしょ?――このおばはんたちがやった
ことは、よく言っても「糾弾」であり、率直にいって「弾圧」そのもの
であって、そもそもが、自分で「国民の品位や良識を破壊するような」
と決めつけている相手と「論議」などするつもりはないということは
ミエミエなわけだし――。ま、これだけ公然と、そして平然とウソを
つける人間が自分を「良識派」だなんて、まったく「どうかしている」
と言うしかないし、教育上、これほどよろしくないことは滅多にない
のじゃないか?と、ぼくは思います。このおばはん、多分、教育関係の
審議会か何かの委員にでもなっているんでしょうが、これほど「教育に
よろしくない」低劣な人間を委員に選んだりする人間は、それこそ
「万死に値する」とぼくは思います。

「何てふざけたヤツらなんだ!」というのが、ぼくの感想であり
結論です。

http://www.setagaya.st/shimokitazawa/

寮美千子  「私たち良識派」 2004年01月26日(月)23時08分09秒
人事ながら へのコメント

信介さんて、やさしい!
あのおばはん大丈夫か心配だよな
確かに、ヒステリックに「良識」にこだわる人々は、大丈夫じゃないのかもしれない、とわたしも思います。彼ら「右翼」を呼ばれる人々は、一見とっても強そうに見えて行動も強引だけど、実はとっても弱いんじゃないか。自分のなかに自分自身の価値観を育てられなかったから(=自分の中身が空洞だから)、外側に鎧のように「観念」としての「良識」をまといたがるのではないか。そんな気がしました。「こうでなくてはいけない」という硬直した態度。決めつけるばかりで、理解しあおうとする柔軟性が欠けているところにも、その鎧の存在を感じさせられます。
私たち良識派は、教育現場に強く情報公開を求め、国民の品位や良識を破壊するような教員たちと論議し、公教育として順当な内容の教育が行われるように働きかける責務がある。
と、このおばさまは「正論」のなかで語っています。

けれど、信介さんも、吉木さんも、軽々しく「私たち」なんていわないし、ましてや自分を「良識派」ともいわない。わたしとあなたは違うから、簡単に「わたしたち」なんていえないことを知っている。「俺はさあ、こう思うけど、おまえはどう思うの」っていうスタンス。そして、いつだって自分のなかの価値観を大切にしていると思うのです。どこかに確固として存在するはずの「良識」と照らしあわせるのではなくて、それがどれだけ根源的に「ほんとう」のことが、自分にとっての「真実」かをいつも検証していると思う。

おばさまは「論議し」と書いているけれど、その論議の相手を「国民の品位や良識を破壊するような教員たちと」と最初から決めつけている。ほんとうにそうなのかどうかは、現場を見て、子どもたちや親の話を聞いて、判断しなくちゃいけないのに、最初から断定している。そんな断定があっては「論議」は成立するはずもない。

互いに理解しあおうということを受けつけず、自分たちが共有する(共有していると幻想している)鎧を強化することだけに汲々としている人々と、どうやったら「話し合い」が持てるのだろう。むずかしい。むずかしいけれど、考えていかなくちゃならない。

彼ら「良識派」は、深い自己肯定をできなくて、幻想の「権力」や「良識」に依存している人々なのだということを、まず理解しなくちゃいけないのかもしれない。

吉木克実  人事ながら 2004年01月26日(月)16時25分16秒
. へのコメント

そうですねえ、何と言っても、
「天下の『正論』」ですから・・・
どんなもんなんでしょうか。

本多信介  . 2004年01月23日(金)19時57分57秒
吉木殿・大長老に へのコメント

ってゆうか、あのおばはん大丈夫か心配だよな

本多信介  吉木殿・大長老に 2004年01月23日(金)17時17分15秒
何でそんなに感情的に へのコメント

一票。

吉木克実  何でそんなに感情的に 2004年01月20日(火)17時25分41秒
七生養護学校性教育問題/反対派の見解 へのコメント

何でセックスについてわざわざ「いやらしい」なんて修飾するのかなあ・・・
べつにいいじゃない、人それぞれの嗜好の問題でしょ?
セックスについて、ここまではいいとか、これをやっちゃいかんとか、
いちいち人様に見せて判断を仰いで「いたして」いるわけじゃあるまいに・・・
求めるとすればせいぜい(介助者を含む)当事者同士の納得合意だけじゃないのかなあ。
本能の営みであろうと、嗜好の実践であろうと、どちらでもかまわないけれど、
一般的に「障害」者と呼ばれる人々の性欲の処理をいかに自然に消化(昇華じゃないよ)あるいは、
止揚するかが論点とされるべきじゃないのかなあ。
何かことさら揚げ足取りや既成の対立構図に持ち込もうとしているように感じられてならないんだけど。
どうでもいいけど、「障碍者」から性の問題だけ切り離すことだけは腑に落ちないな。

大長老  事件は現場である。 2004年01月20日(火)02時32分33秒
七生養護学校性教育問題/反対派の見解 へのコメント

>しかし私は、秘密の香り漂ういやらしい性を愛する。いやらしくない性など無味乾燥でつまらない。性とは人間にとって、永遠にいやらしい煩悩であり、そしてまた、永遠に神聖なるテーマなのである。


を、読みました。なんというきれいごとだ。
というのがあたしの感想。温室からの発言ですねー。

現場は、生きる、ということのぎりぎりですよ。
ぎりぎりの現場が当たり前の事にようやく到達した、というのが親や教師の現在の
姿じゃないですか。

あたしは、先生方を支持します。

人権を古臭いイデオロギーで批判してもしょうがない。
人権を守る、人権派を批判する・・・どちらもケッです。

誰かの言葉のお勉強にすぎない。つまらんです。

優等生はほんとうに退屈です。人の言葉をなぞるだけだ。

あたしは現場を踏んだことあるけど、ほんとうにさ、先生や親たちがどのぐらい
努力してあそこまでたどりついたか、それが痛いほどわかります。

あれは、生きるってことのぎりぎりでの性なんだから。

寮美千子  七生養護学校性教育問題/反対派の見解 2004年01月20日(火)01時48分33秒
七生養護学校 へのコメント

MOKUMOKUさん、関連サイトのお知らせありがとう。七生養護学校の性教育に反対する自称「私たち良識派」の方の見解がここにあると、お知らせくださった方もいました。反対派の意見にもちゃんと耳を傾けなくてはと思います。
「正論」平成15年12月号
過激性教育の“伝道者”たちよ、そんなに批判が怖いのか!
神奈川県平塚市立大野中学校教諭・野牧雅子


とはいえ、読んでみて、わたしは全然納得がいきませんでした。言葉遣いの下品さを差し引いたとしても、やっぱり少しも共感できないと感じました。ともかくも、みなさん読んで自己判断してみてください。

ちなみに筆者の野牧雅子氏は、神奈川県平塚市立大野中学校教諭だそうです。『正論』という名の雑誌の論文の見出しが “「おちんちんだよー」と街宣カーで歌ってみろ” というのも、なかなか凄いと思いました。タイトルにも品性の欠片もありません。このような口調のどこが「正論」なんだろうかと頭を傾げました。ちなみに「良識派」の方の「性」に対する幻想は、このようなもののようです。野牧雅子氏の論文の最後を引用します。
最後に一言。性教協の資料には「性をいやらしいものと捉えずに」としばしば書いてある。しかし私は、秘密の香り漂ういやらしい性を愛する。いやらしくない性など無味乾燥でつまらない。性とは人間にとって、永遠にいやらしい煩悩であり、そしてまた、永遠に神聖なるテーマなのである。
なるほど、野牧雅子氏の「性」に対する嗜好はそのようなものなのだな、ということは、よくわかりました。しかし「性」ほどそれぞれで意味や価値の違うものはありません。「秘密の香り漂ういやらしい性」だけが性ではないし、過剰に秘密にすることで、弊害も多くあります。まずオープンに話しあわなければ、何も始まらないと思います。

追伸:これって「サウスパーク」のアニメにしたらピッタリって感じ!

MOKUMOKU  七生養護学校 2004年01月19日(月)23時45分59秒
七生養護学校/文脈の中で理解したい「ペニスタイツ」 へのコメント

このサイトについてお知らせをいただいたので、すこし勉強してみました。

http://www.ne.jp/asahi/law/suwanomori/sei.html#youbou

寮美千子  七生養護学校/文脈の中で理解したい「ペニスタイツ」 2004年01月19日(月)16時54分24秒
テレビ放映のリスク へのコメント

「ペニスタイツ」っていうと、名前を聞いただけでも、普通はちょっとびっくりしてしまいます。もしも、テレビのチャンネルを回して、ちょうどその時だけその場面を見た人は、とてもびっくりしてしまったでしょう。確かに、それはテレビ放映の大きなリスクです。

けれども、すべての物事は、文脈の中で理解されなければ、その真実の姿はわからない。番組全体を見れば、ほとんど誤解の余地がないくらい、あの報道番組はよくできていたと思います。ペニスタイツの必要性がとてもよくわかり、ぎょっとするよりも、むしろそこまでして工夫をしている姿がほほえましくもあり、愛に溢れた授業であると感じました。

つまり、わたしたちにはわかりにくい。知的障碍を持った子どもが、どんな存在であるのか、どんな理解度があって、どんな行動をとるのか、身近にいないかぎり、なかなかわかりません。その理解があって、はじめて「ペニスタイツ」の意味が分かってくる。知的障碍のある子になんとか理解させようと「ペニスタイツ」をつくった先生たちの工夫と苦労がしのばれます。障碍児のお母さんたちが、そんな七生の指導に感謝してきたということも、よくわかりました。

わたしは、新作の詩「遠くを見たい」で「知ることは 愛」と書いたけれど、宇宙や星の世界のことばかりではなく、知ることはほんとうに「愛」だと思う。相手の真実の姿を知ったり理解したりしようとせずに、やみくもに愛するのは、ほんとうの愛ではない。単なる押しつけです。

七生養護学校の性教育を行き過ぎであると批判している人々は、子どもたちを過激な性情報から守りたいと願ってのことだと思います。それも、愛のひとつの形。けれども、そこに、障碍児のほんとうの姿や、親の苦労や先生の努力を知ろうとする態度がないから「押しつけ」になってしまう。愛しているつもりが、むしろ「愛の欠如」になってしまうのだと痛感しました。

政治家や教育者には、テレビの映像をちょっと見ただけで批判するような、そんな態度をとってほしくない。実態をよく調べてほしい。そこからしか議論は成立しないはずなのに、と思います。その観察も理解も議論もなしに、いきなり「処分」をした行政は、やっぱり間違っている。きちんと理解してもらうよう、地道な努力が必要だと思います。

しかし、行政からサービスを受けているはずのわたしたちが、理解ない行政のためにがんばらなくてはならないなんて、おかしいなあ。大変な苦労をしている養護学校の先生方が、そのうえにさらに大変な思いをしなければならないなんて、ほんとうにおかしい。この問題、みんなでゆっくり見守っていきましょう。

kiyomi  テレビ放映のリスク 2004年01月18日(日)23時59分47秒
本物を見る目を失いたくないです。 へのコメント

寮さん 新星記念ライヴ・・・いかがだったのでしょうか?夢ある企画ですね。立ち見席でも駆けつけるつもりでいましたが伺えず残念です。この話題で盛り上がるのを楽しみにしています。

その前にまた、皆さんを自分の話題に引きずり込む事になってしまいますが、お許し下さい。目玉おやじさん、Silicaさん、書き込みありがとうございました。好意的に受け取って頂き嬉しいです。しかし、他から聞くとまどいの声にも素直に頷け、ここで気になることを少し説明させて下さい。

排泄指導の授業(ペニスタイツを使った)はどの様に映ったでしょうか?
Silicaさんの「恥も何もかなぐり捨てて・・・」に苦笑しています。あの授業対象はまだ入ってきたばかりの1年生で、「言葉」での指導は難しい自閉児の多い学年でした。はっきりと分かり易く説明する必要があったことは確かです。しかし男性教員等の演技はちょっとやりすぎ・・・。反省の必要な授業だと思っています。
私たち教員も、排泄指導を始めた当時は「こんなこともやらなくてはいけないのか・・・」と本当に恥ずかしかったのですが、年に1回みんなで学習することのメリットは実感していました。子どもの実態や集団にもよるのですが、ペニスタイツが効果的に使われる学年もあるし、なくても理解できる子ども達もいます。
確かになければないで、工夫しながら子ども達に大切なことを伝えていくつもりではいますが「性器」が付いているとどうしていけないか説明もないまま取り上げ、教員を処分して従わせようとするのは「圧力」でしかないのでは・・・と思わざるを得ません。そこを問いたいのです。
こうした通常考えられないテレビ放映の中では、確かにペニスタイツは衝撃的かも知れませんが、それは見る側の当然の感覚でもあるし、場面と対象の違いを考える必要があると思っています。
私たちが使っているのは、「教室」で「排泄指導の必要な障害児」に対して使っているのであって、全国の視聴者に授業しているのではありません。

元来授業とは、保護者の理解を得ながら教員と児童が作っていくものです。中にはプライベートな学習もあり外部の方に見せるものではないものもたくさんあります。
性教育とはそういった性質を強くもつ授業なのです。今回の放映然りです。
高等部になれば、自分の身体の悩みや人への思い等信頼関係の中でこそ成り立つものが多くを占めます。こんな形で、全国に放映されなければならない状況は、やはり異常で悲しむべき事だなぁ・・・と少なからず自己の波紋を広げている私でもあります。

この放映での動揺は大きく、校内では管理職がビデオに出ていた教員への呼び出し調査が始まっています。また、どんな圧力になるのか・・・。来週また、嵐が吹き荒れそうです。

さて、長くなってごめんなさい。私が今まで投稿した文章を読み返す時、福祉園の保護者に関して誤解をうむのではと危惧される点があり、少々補足させていただきます。

●七生養護学校の半分の児童・生徒は施設から通ってきていますが様々な理由で入所しています。保護者はわが子をこよなく愛しながらも入所を選ばざるを得ない場合もありますし、途中で引き取るために退園する場合もあります。また、「虐待」と一言で言っても親自身が辛い人生を引き受けながら、生きている場合も少なくなく、哀しい連鎖を産んでしまうことこそが社会のゆがみ映し出しているように思えます。

皆さんの様々な声が、大きな学びとなっています。心から感謝しています。



silica  本物を見る目を失いたくないです。 2004年01月16日(金)10時36分42秒
七生養護学校報道/さっき見て(お役人に)呆れました へのコメント

番組を拝見いたしました。(きょうの出来事のほうでです。)
指導の様子のビデオから、子供たちと先生方の生き生きとした触れ合いが感じられてすばらしいと思いました。
高校生の男子が「オレ、(先生のこと)好きです。」と繰返し語っていましたね。ここで愛されている自分を彼は感じることができているのだと、ストレートに素直に言葉に出せる姿にうらやましいものすら感じました。
産道を通って、この世に生まれてくることを体験させる学習も一般の幼稚園や小学校でもやってほしいぐらいです。
七生の教育は狭い意味の「性」教育ではなく、「生」教育と受けとめていました、というお母さんの言葉に賛同いたします。トイレ指導をされている先生方は本当に必要なことのために演じる自分の姿がどう見えるとか、恥も何もかなぐり捨てて体当たりで子供たちに大事なことを教えようとなさっていました。私にすぐやれと言われてもできないことをあの先生方はなさっておられます。先生が聖職と語られた頃を垣間見たような気がいたしました。

寮美千子  七生養護学校報道/さっき見て(お役人に)呆れました 2004年01月16日(金)03時21分20秒
さっき見て呆れました へのコメント

って意味なんですね。目玉おやじさん。ひと目見てぎょっとして、読んでほっとしました。

報道がどういう立場だろうかと、わたしも見る前は心配でした。お役人側に立って七生の教育を糾弾するみたいなのも嫌だし、かといって、ヒステリックに正当性を主張するだけっていうのも怖い。けれど、目玉おやじさんのおっしゃるように、あの番組「放送局の立場は基本的には中立なんでしょうが、少しだけ教育を擁護する立場」だったと、わたしも感じました。処分された先生側、障碍者本人、障碍者の親、糾弾した政治家、それを支持した石原都知事、第三者としての障碍者教育専門家、と、さまざまな人の意見を満遍なく聞いて流し、基本的には見る人に判断を任せる、という態度がフェアだと思いました。

知的障害のある子どもたちのことは、ちゃんとつきあってみないとわからない。高校生になってもぺろんとお尻を丸出しにしておしっこをしてしまう少年。その子に、どうやって排便や排尿を教えるか、親も相当苦労している様子がわかりました。

個別教育ではなかなか覚えてくれないことも、教室でみんなと学ぶ場をつくってあげると、とても効果が上がるとkiyomiさんがいっていました。小さな王さまである障碍児。個別に向き合うべき時と、みんなでいっしょにすることが大切な時と、両方あるのでしょう。その見極めは、普段から接している人にしかできない。ある日突然学校に押し掛け、授業も参観せず教材だけを見て押収していった教育委員会や政治家の人に、簡単に判断できることではないと、映像を見て実感しました。

「観念」は、多くの場合弊害を生む。「性は秘すべき」という観念、その観念だけに振り回されて、そこにいる子どもたちを見ていない。子ども不在の教育なんて、矛盾です。

「小学校低学年は性器の名前を受け入れる心の準備ができていない。ということで、境域指導要領に、性器の名前の指導は小学校4年生からということになっている。その基準に反しているから七生の教育はいけない」と、お役人がいっていました。すべてを一律で決めつけようとする観念の産物です。そこにいる一人一人の子どもにふさわしい対処をするためには、どうしたらいいかと知恵を絞ろうという態度がない。

「からだうた」はすてきな歌でした。子どもたちが先生にスキンシップをしてもらって、リラックスし、喜んでいるのが、とてもよく伝わってきました。政治家に七生のこのビデオを見せて「どこがいけないのでしょうか」と質問すると、判で押したような答えが返ってきました。「小学校低学年に性器の名前をおしえるようなのはよくない」と。インタビュアーが「では、性器の名前を教えてはいけないと?」と尋ねると「教えちゃいけないといっているわけじゃない。教室で教えるべきじゃない」という答え。

「じゃあ、どこで教えればいいの?」と思わず突っこみをいれたくなりました。きちんと教えなかったとき、子どもたちはいったい性器のどんな名称を覚えるのでしょう。口にしてはいけない卑猥な言葉、というイメージを育てないために、首や肩や腕と変わらない体の大切な一部として、七生のように歌で教えるのはとてもいいアイデアに思われました。歌では、女性器をワギナ、男性器をペニスと呼んでいます。

その呼び方自体がいけない、という政治家がいます。では、どう呼んだらいいのか、いっしょに話し合うという態度はないのでしょうか。

七生の性教育は、しばらく前まで、都の教育委員会で高く評価されていたのに「行き過ぎた性教育をしている」として、昨年教師が大量処分を受けたとのこと。どうして、そんなに簡単に180度評価が変わってしまうのだろう。

石原都知事は、七生の性教育について「異常な信念を持って、異常な指導をする先生というのは、どっかで大きな勘違いをしているんじゃないかと思います」と都議会で発言。現場を見て、理解しなければ「異常」などと軽々しくいえないのに。さすが、差別発言連発の石原都知事です。

障碍者の親御さんの「性教育は『生きていくための教育』だと思います」という言葉、心に残りました。七生養護学校のこと、kiyomiさんたちのがんばり、微力ながら応援していきたいと思います。

そうそう、リトさんに言われたのでした。リトさんの尊敬するアイヌのおばあさん、中本ムツ子さんは「わたしは微力だけど非力じゃない」といつもいうと。わたしもそう思おう。微力でしかないけれど、わずかでも力になれると。

ほかにも、テレビを見た人、いたら、ぜひ感想を教えてください。

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目玉おやじ  さっき見て呆れました 2004年01月16日(金)01時51分37秒
七生養護学校 性教育問題 きょうテレビに! へのコメント

偶然行きつけの店のTVで、全部を見たわけではありませんが番組の一部をしっかり見ました。あの教育が問題であると指摘した張本人の意見を聞くコーナーと、知的障害者の教育の専門家の意見を聞くコーナーがあり、放送局の立場は基本的には中立なんでしょうが、少しだけ教育を擁護する立場だったと思います。ほっとしました。
あの番組を見て「ああ、やっぱり役人のすることって、いつもアホだなぁ」と思いました。まあ「役人」というヒトククリの捕らえ方をすると語弊がありますね、アホじゃない役人の方々がもしいらしたらごめんなさい。
現場の苦労や工夫や努力とかを全く考えてあげていない。
10代になっても自分のトイレ行為さえ満足に制御することができない生徒たちを相手に、誰が見てもよく解る、微笑ましい自家製の教材を使って、先生達が奮闘している姿には共感を覚えるものがありました。
身体の部位の名称もろくに解らない生徒たちに、歌で覚えさせようと、作詞・作曲して実際に授業で生徒たちの頭や腕や足などを触りながら歌って、名称を覚えさせようという努力に対して、「歌詞に性器の名称が出てくるなんてのはもっての他だ」と言ってました。そんなことは授業じゃなく、みんな一緒でないところでやるべきだと。楽しそうに歌っていて、あれなら生徒たちも知らず知らずのうちに覚えてしまうだろうに。

寮美千子  七生養護学校 性教育問題 きょうテレビに! 2004年01月15日(木)04時04分49秒
「東京に軍靴の音が聞こえてきそうだ・・・」 へのコメント

朝刊の番組覧に載っていました。

1月15日 
日本テレビ 夕方5時〜「ニュースプラス1」
      夜11時24分〜「きょうの出来事」

に出るようです。ニュースのことだから、予定通りいくかどうかわかりませんが、七生養護学校での授業風景なども取材されているとのことなので、映るかもしれません。百聞は一見に如かず。テレビでも片鱗はわかるかも。どんな授業内容なのか、何が問題とされているのか、要チェック!

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管理者:Ryo Michico <mail@ryomichico.net>
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