ハルモニア Review Lunatique/寮美千子の意見

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■傷つけるな・殺すな/長崎の少年による幼児殺害事件と自衛隊のイラク派遣

Sat, 12 Jul 2003 17:04:40


長崎の12歳男子による4歳児殺害事件。ショックだった。神戸の酒鬼薔薇くんの事件と同じようなショックを得ると同時に、さらにそれとは別のショックも受けた。加害者が、生真面目な、プライベートも制服で歩き、誰も履いていないような学校指定のダサイ運動靴を履く、勉強のできる少年であったこと。補導され収容された家庭裁判所で、図書室から読み物のほかに、「学習参考書」を借りて読んでいるということ。彼が「異様な子」「エキセントリックな子」ではなくて、ダサイほどに「生真面目」な子であることが、痛ましくてならない。

「成績優秀」「生真面目」という鎧の後ろに、少年のどんな孤独な心があったのだろう。「成績優秀」でさえあれば、誰も干渉しない、という雰囲気があったのではないか。人と人の温かい心の交流を知っていたら、彼だってきっとこんな暴挙にはでられなかったはずだ。彼自身に責任がないなんていえないが、それ以上に彼を取り巻く環境が問われるだろう。それは、今回の事件だけではなく、いまの日本という社会のあり方そのものが問われることに他ならない。心と心のコミュニケーションの欠如。なによりも、それが今回の事件を招いたと思う。

同様の事件があったのに「犯人検挙のため」と情報を隠していた警察にも憤りを感じる。大切なのはなにか? 犯人を検挙することより、二度とそんな事件を起こさないようにすることではないか。犯罪の予防の方が、犯罪をさせてから捕まえることよりずっと大切だ。

これも、警察の「点取り主義」が災いしているのではないか。犯罪が予防されたことは点数にならないし報道もされないが、犯人が検挙されれば点数になり、派手な報道もされる。馬鹿げている。ほんとうの目的は何かを「点取り主義」が覆い隠している。

少年の心の内側が放置されたことと、警察が情報公開による予防を怠ったことは、「点取り主義」という同根のことでもあると思う。


実は、わたしが住んでいる公団住宅で、10年ほど前、幼稚園児と小学校低学年の女の子が性的な被害を受ける事件があった。わたしがそれを知ったのは、被害にあった子ども自身からその話を聞いたからだ。「知らないお兄さんに連れられて階段の踊り場に行き、裸にされて……」という話だった。子どもは、その恐ろしい体験を、恐らくわたしに向かって吐きださずにはいられなかったのだと思う。

ショックを受けたのは、事件の内容だけではなく、それがどこにも報道されていないことだった。新聞にもなければ、団地の自治会報にも載っていない。団地の広場には、いつもたくさんの子どもが遊んでいる。駅から住宅地への抜け道にもなっているので、見知らぬ人が通ることも多い。注意を呼びかけなければ、また同様の事件が起きる可能性が高い。なにしろ、犯人は犯罪に成功しているのだ。また繰り返そうとすることは、充分に考えられる。

わたしは警察で真偽を確かめ、自治会に談判しにいった。ぜひ、この問題をとりあげて、子どもを持つ親に呼びかけてほしいと。

その反応のなかに、驚くべきものがあった。団地の評判が悪くなるから、載せたくない、という意見だ。この団地は分譲が多く、資産価値がある。悪い評判が立っては、資産価値が落ちるというのだ。幸い、きちんとした理解者がいて、この情報は自治会報に掲載された。「不審者には声をかけましょう」ということも徹底して、その後、事件があったとは聞いていない。(もしかしたら、また隠れたままになっているのかもしれないが) 事件防止になにがしかの役にはたったはずだ。犯人は検挙されていないが、しかし、新たな被害者が生まれないことの方が、ずっと大切ではないか。


「親は市中引き回しの上、打ち首」という政治家の発言にもあきれた。テレビのニュースでそのシーンだけ見たわたしは、はじめ、埼玉県知事の土屋氏のことかと思ったが、そうではなくて、それが少年の親を指していると知って、ほんとうにびっくりした。

勿論、親にも責任はある。しかし、親だけの責任問題ではない。これは、わたしたちみんなの問題なのだ。わたしのように「子どもの本」に関わっている者は、なおさら考えなくてはいけない。成績でもなく、みかけの真面目さでもなく「ほんとうに大切なもの」を大切にできる世界をつくらなくてはならない。


「命の尊厳、という抽象論ではなく、傷つけるな、殺すな、という具体的なことを、子どもたちに伝えなくてはならない」と文部科学大臣がコメントした。

わたしはいいたい。だったら、イラクへ武装した自衛隊を派遣するなと。殺される危険のみならず、殺す側に回る可能性もあるというのに、そんなことを是認していいのか。自衛隊員が、米軍が新たに投下した200トンもの劣化ウラン弾により低線量被曝することも避けられない。

国家や大人が、命を軽んじる世界をつくっている。子どもたちに命の大切さを訴えるなら、まず、大人が命を大切にしなければならないというのに。


12歳の少年にも、少年の親にも、責任がなかったとはいわない。しかし、そんな世界をつくったわたしたちひとりひとりにも責任があるということをしっかりと受けとめたい。

加害者の親を「市中引き回しの上、打ち首」発言した政治家は、自分もまた、そんな世界をつくってきた加害者である責任をまるで意識していない鈍感極まりない人間だ。そんな政治家がつくってきた世界だから、こんな世界なんだろうか。いや、そんな政治家を選んできた市民がいたということに他ならない。ほんとうに、最後はひとりひとりの自覚しかない。アメリカのイラク攻撃や自衛隊派遣を支持する政治家を選ぶことは、すなわち「自分と家族の命を大切にしないこと」であると、より多くの人に気づいてほしいと思う。

■こわれかけた古い椅子 ――アントニ・タピエスの言葉による変奏

Sun, 29 Jun 2003 14:52:39

▼0
ほら、あの納屋のまえ、
あそこに、なにが見える?

▼1
いすがひとつ、
ぽつんと置かれている。

▼2
よくみれば、ずいぶんおんぼろのいすだ。

張られた布はすりきれ、
綿がはみだしている。
まるで、ぼろくず。
背もたれもこわれ、
すわれば、ぐらぐらするだろう。

▼3
どうして、こんなところにあるのだろう?

捨てるのかもしれない。
それで、わざわざ納屋からだして、
おいてあるのかもしれない。

▼4
  「なあんだ、つまらない。
   ただの、おんぼろいすじゃないか」

それだけ?
ほんとうに、それだけかい?

▼5
よくみてごらん。
目をこらし、心をこらして。

見えてこないかい。
あのいすがおいてあった、
光のあたる窓辺……。

▼6
おなかの大きなわかいおかあさんが、
うまれてくる赤んぼうのために、
編み物をしていたいすかもしれない。

茶色いしみがあるのは、
すこしもじっとしてない小さなこどもが、
スープをこぼしたせいだろうか。

▼7
はたらいて、はたらいて、はたらいて、
つかれきって帰ってきたおとうさんを、
だまってむかえたいすかもしれない。

思いがけないかなしい知らせに、
だれかが、へたりこむようにすわったいすかもしれない。

そうやって、人々のつかれやいたみを、
いやしつづけたいすかもしれない。

▼8
すっかり色あせてはいるけれど、
よくみれば、ほら、ゴブラン織りの、りっぱな布だ。

もしかしたら、もとは、
どこか大きな家の大広間にあって、
はなやかな晩餐会でつかわれたのかもしれない。

きらびやかな思い出は、いつまでも色あせない。
きっと、いすのなかで。

▼9
ずいぶんきれいな細工もしてある。
腕のいい職人が、巧みな技でつくったいすだ。

できあがったいすを見た職人の誇らしいきもちも、
新品のこのいすを買った人のよろこびも、
いすは、きっとおぼえているだろう。
きのうのことのように。

▼10
もっともっと遠くをみれば、
ほら、森が見えてくる。

いすをつくった木が、生えていた森だ。

▼11
地面から、力強く水をすいあげる音がする。
風にそよぐ葉ずれの音は、やさしい子守歌のようだ。
まぶしいひざしが降りそそぎ、
木はまた少し、背をのばす。

▼12
あの空に浮かぶ、やわらかな雲からふってきた、
つめたい雨も、この木を育てた。
夜ごとにかわる月のかたちと、めぐる星座を、
木は、ずっと見てきた。
なん年も、なん年も、じっと同じ場所で、
鳥の歌や、虫の音をききながら。

▼13
ある日、木こりがやってきて、
木の精霊にみじかい祈りのことばをささげ、
太い腕で、木を切り倒した。
その、はげしい息と汗の匂い。

▼14
そうやって、ここにやってきたいすだ。

▼15
耳をすませてごらん。

聴こえるだろう。
いろいろな音が、いろいろな声が。

▼16
目をこらしてごらん。

見えてくるだろう。
まぶしい陽射しや、みどりの葉、
空に浮かぶ雲のかけらまで。

▼17
そして、いま、ここにある。

こんなに古くなって、もうだれもふりむかなくなり、
捨てられそうになっても、
まだ、どこかの家の暖炉で焚かれ、
こごえる家族をあたためる夢をみながら。

▼18
ほら、あの納屋のまえ。

きみは、あそこに、なにが見える?


▼19
この作品は、現代美術の作家アントニ・タピエスが、1967年、カタルーニャ語の子ども向け雑誌『カバイ・フォール』82号(Cavall Fort,num.82,gener 1967, Barcelona)に掲載した、絵画の見方に関する文章を元に再構成したものです。タピエスの著作『実践としての芸術』(水声社1996)より、該当部分を抜粋します。

 もっとも単純なものを見てほしい。たとえば、古い椅子だ。つまらないものに見える。しかし、そのなかに含まれている全宇宙を考えてみよう。そこには、材木を切った手と、切った人の汗がある。その材木は、かつては、山の青々と繁った森のなかの、生命力溢れる太い木だったはずだ。椅子を作った巧みな技や、それを買った人の喜びもある。どれほどの疲れを、その椅子は癒したことか。腰掛ける人の喜びや悲しみも見てきた。大広間にあったものかもしれないし、下町の家の貧しい食堂にあったのかもしれない……あらゆるものが、すべてのものが、人生の一部であり、それなりの重要性を持っているのだ! 古い椅子でさえ、その内部に、昔、森のなかで地面から昇ってきた樹液の力強さを秘めている。そして、薪になって、どこかの家の暖炉で焚かれて人々を暖める、という役割をまだはたすことができる。(訳/田澤耕)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4891763442/harmonia-22

■舟越桂展2003 静謐な眼差しの行方

Fri, 20 Jun 2003 01:24:10

東京都現代美術館に舟越桂展を見にいきました。そこには、静かな静かな人々がいました。ほぼ等身大の木彫です。材質は楠。最新作の部屋には、ほのかに楠の匂いが漂っていました。

とてもきれい。ことに、1990年代初頭までの作品がよかった。ということはつまり、最近の作品はちょっとギモンだという意味でもあります。近作は、どれもみな同じ顔に見えてしまった。きっと、数をこなすうちに、舟越氏のなかで、ひとつの「美の典型」が形成され、それをなぞるように制作がなされるようになったのではないかと感じました。

結果として、彫像そのものより、彫像に見入っているさまざまな人々とのコラボレーションの方が面白かった。人間とは、ほんとうに千差万別の顔と体を持っているものだと、その内面よりも先に、まず造型の面白さに目がいきました。その生身の人間と、あくまでも静かな彫像との対照が面白かった。

画家の猪熊弦一郎は、晩年ひたすら「顔」を描いた人でした。描いても描いても描ききれない面白さを感じていたようです。ひたすら見て、見ることの快楽に浸った猪熊弦一郎。

舟越氏は、その対極にいるのではないか。どこかで外界を見ることをやめてしまったのではないか。という気がしました。自己の心の内側に映じる、美しく静かなありうべき顔をひたすら見つめているのではないか。

つまり「見たものの中にそれ特有の美を見いだす」のではなく「自分が美しいと思っている要素を対象の中に見いだしている」のではないかと感じました。

ことに、芸術家の森村泰昌氏の彫像を見たときに、それを強く感じました。そこにいるのは、あのいきいきとした、エネルギッシュな、それでいて妙にきまじめな、それがどこかユーモラスな、そんな森村氏ではありませんでした。森村氏から、あらゆる森村的要素を抜いて純粋の抜け殻にしたような、そんな作品でした。

閉ざされた眼差しが、他では得られない純粋に美しい結晶を析出することもあります。しかし、雑音混じり、不快なものだらけの外界であろうとも、ときに外界に目を向けないと、心の内側はみるみるやせ細っていくのではないでしょうか。

1990年以降の作品の多くが「同じ顔」に見えるようになり、ちょうどその頃から、胴体に過剰な装飾が施されたり、極端なデフォルメがなされたりするようになってきています。

「自己模倣」というマンネリを打破するのは、本来、模倣を打破することでしか解決しません。「顔」でない部分に小手先のデフォルメを加えることでは何も解決しないのではないか、と批判的な見方になってしまいました。

それでもなお、静かで美しいたたずまいの舟越桂作品でした。もし、一点だけ見たら、このような感想は抱かなかったかもしれません。大規模な回顧展のような展覧会であったために、作品の流れが一目瞭然でした。面白く、そして怖い展覧会です。

http://www.mot-art-museum.jp/ex/plan4.htm

■「わざの美」展/伝統工芸と愛国心 朝日新聞天声人語を批判する

Thu, 05 Jun 2003 01:22:58

 「その国に生まれたというだけで、その国が他国より優れていると信じ込むこと」。愛国心のことをそうからかう皮肉屋もいる。だが、もっと控えめの愛国心もあるだろう。「他の国よりそれほど見劣りはしないと信じたい」。そんなささやかな「愛」である。
6月3日の朝日新聞「天声人語」 はこうはじまっていた。話はエビアン・サミットにつながり、日本代表の小泉首相が「少なくとも表向きは無難に振る舞っているようで『控えめな愛国心』を傷つけてはいない」と続く。その評価に同意できるわけではないが、さらに、その後に続く文章を見て、わたしは己が目を疑った。
 伝統工芸展50年を記念する「わざの美」展を見た(東京・日本橋の三越本店で8日まで。以後、全国巡回)。日本工芸の多様さと美しさとを改めて教えてくれる。繊細な技能を駆使した「控えめの美」が「控えめな愛国心」を満足させてくれた。

 愛国心をあおるような政治家発言や、教育基本法をめぐる「愛国心」論議などを聞くにつれ、思う。日本の伝統が育んだ「美」を見る方が「愛国心」にはどんなに効果的か。
「愛国心」と「伝統工芸」が、いったいどんな関係があるというのだろう。朝日新聞は、頭がおかしくなったのだろうか。

この展覧会の正式名称は 「わざの美」日本伝統工芸展50年記念展 だ。この「日本」は、何を意味しているのか。「日本国」という、ひとつの政治の単位を示しているのだろうか。

そんなはずがない。伝統工芸は、遠い昔から伝承され磨かれてきたものだ。漆など、縄文時代からあったという。日本が「日本」と呼ばれるずっと以前から、脈々と受け継がれてきたものだ。

しかも、技術は単にこの土地に生まれ育ってきたものではない。大陸から持ちこまれ、この土地にあったもともとの美学や技術と融合し、常にさまざまなものからの影響を受けながら育まれてきたものだ。工芸技術は、やすやすと越境する。飛鳥時代に造られた法隆寺が、遠く古代ギリシャの影響を受けているということは、小学校の教科書にも書いてある。

国と民族はイコールではない。国と文化もイコールではない。国とは、便宜的に定められたひとつの政治的組織だ。その時々で名前も変われば形態も変わる。変わらずにあるのは、大地。日本列島という土地を舞台に、さまざまな人々が行き交い、さまざまな民族や文化の影響を受け、ここで育んできたのが「伝統工芸」だ。

そのような深さと広がりとをもったものを、安っぽく「愛国心」などと呼ばないでほしい。「愛国心」など必要ない。広く垣根を取りはらい、さまざま人が知恵を寄せあって、ほんとうに美しいものをつくろうとする心。「伝統工芸」に息づいているのは、国境などやすやすと無化する、人類共通の美を愛する心だ。

「日本伝統工芸展」の「日本」は、そうやってこの日本列島に育まれてきた「文化」を指している。同じ「日本」という言葉だからといって、それを安易に「国」という政治単位に結びつけ、「愛国心」などという狭義なものに貶める朝日新聞に、わたしは強く抗議したい。

diary0002.html#diary20030603024517

■「素敵な宇宙船地球号/島が沈む!〜極北の村 シシュマレフ〜」

Tue, 03 Jun 2003 02:56:36

横浜高島屋で「星野道夫の宇宙」展を見て家に戻ると、偶然、テレビでシシュマレフの番組があった。テレビ朝日の「素敵な宇宙船地球号/島が沈む!〜極北の村 シシュマレフ〜」という番組だ。
http://www.tv-asahi.co.jp/earth/midokoro/2003/20030601/index.html

星野道夫がアラスカを訪れるきっかけになったのが、この極北の小さな島シシュマレフだった。神保町の古本屋で手に入れた一冊の写真集に載っていたこの島の写真を見た若き星野道夫が、どうしても訪れたくなり、その村の村長宛に手紙を書いて訪れたという。星野道夫二十歳の時のことだ。

そこで、アラスカの虜になった星野道夫は、なんとかアラスカで生きていけないかと思い、写真家になることを思いついたという。星野道夫にとって、写真は、愛するアラスカで暮らすための手段だったのだ。だからこそ、星野の写真には、溢れるような愛があるのかもしれない。写真家になりたかったわけではなく、いい写真を撮りたかったわけではなく、愛するアラスカを撮りたかったから。

その出発点となったシシュマレフという島が、地球温暖化の影響で、いま、海の下に沈もうとしている。極地の氷が融けだした、ということ以上に、気温上昇による水の膨張のしわ寄せがきているということらしい。年々北極海の水位が上がり、島の沿岸は夏の嵐によって毎年15mずつ削られ、三十年後にはすっかり水没してしまうという。昨年7月、住民投票が行われ、島の人々は本土に集団移住することになった。番組は、そのドキュメントだった。30分という枠の中に、情報を効率よく詰めこんだいい番組だった。

考えさせられる番組でもあった。永久凍土の上にできた砂州であるシシュマレフ。それは、少しの変化で失われてしまうとても敏感な存在だ。その存在は、炭坑のカナリアに似ているかもしれない。一番敏感なカナリアの変調で、人々はその変化の兆しに気づかなければいけないのだ。そして、対処しなければ、わたしたちみんなが滅びてしまう。

シシュマレフの人々は、カナリアのように犠牲を払い、痛みを引き受けながら、そのことをわたしたちに教えてくれている。わたしたちは、それをしっかりと受けとめているだろうか。

番組のスポンサーはトヨタ自動車だった。地球温暖化を嘆く番組の前後に「地球にやさしい」「エコ」といったキーワードをちりばめた自動車のコマーシャルが入る。複雑な気持ちになる。

もともと、この番組自体が、反エコであり、公害問題やエネルギー問題の元凶のひとつである自動車会社が、その企業イメージアップのために「環境」をうたってつくっているものだ。その胡散臭さ。けれど、胡散臭いというより、わたしはそこに、滑稽なものを感じた。

つまり、このような番組で人々が、顧客だけではなく内部の企業人自身が、徐々に目覚め、ほんとうのことに気づくようになれば、それは単なる広告ではすまなくなる。企業は、いまのままの体制ではいられなくなるはずだ。内側からも、外側からも変化を求められ、変わらなくてはならなくなる。その構図は、ある意味、滑稽というしかない。

けれど、わたしはその滑稽を好ましいと思う。企業が内側から変わってくれたら、それにこしたことはない。そして、ほんとうのことに気づくきっかけを与えてくれるなら、誰が作った番組であろうと構いはしないのだ。大切なのは、それを受け取る側も送る側も「エコ」「環境」という耳触りのいい言葉にだまされないで、その本質を見極めようとすることだ。

そのために必要なのは、正しい科学的知識、客観性だ。なかでも、地球生態学の知識は欠かせない。食物連鎖の全体像や自然の仕組みの概要を把握すること、地球がひとつの循環システムであることを知り、自分がその一員であることをはっきりと自覚すること。それが何よりも大切だ。

そうなれば「エコ」も「環境」も、耳触りのいい言葉、になんかなるはずもない。それは、いまある世界を、地球を、わたしたち自身の存在の本質を考えるためのすばらしいキーワードなのだ。それが耳触りのいい胡散臭い言葉になってしまうのは、その本質がきちんと周知されていないからに他ならない。

わたしは、地球生態学が、きちんと学校教育に取り入れられるべきだと思う。徹底的にたたき込まれるべきだと思う。

しかしながら、残念なことに、その科学性を多くの人はいまだ獲得していない。であれば、現時点では、やはり言葉を選ばなければならないのかもしれない、というのが実情だろう。しかし「環境問題」を「公害問題」と言い換えることで、排他的で攻撃的な匂いがしてしまうのも否めない。口当たりのいい言葉を使ってもいい。より多くの人を抱きこみながら、その問題を問題だと感じる人々を気持ちを胡散臭さのなかで雲散霧消させてしまわず、きちんと形にしていくような、そんな工夫が必要だろう。

■山梨岡神社/太々神楽 舞の種類と順序

Mon, 02 Jun 2003 20:36:43

  1. 四方拝
  2. 斉場
  3. 御勧請
  4. 国常立命の舞
  5. 陰陽の舞
  6. 宇気母智命の舞
  7. 四弓の舞
  8. 天細女命の舞
  9. 猿田彦命の舞
  10. 大蛇の舞
  11. 天の岩戸の舞
  12. 供物献催
  13. 祝詞の舞
  14. 二弓の舞
  15. 事代主命の舞
  16. 二剣の舞
  17. 五行の舞
  18. 献玉の舞
  19. 薙刀両剣の舞
  20. 久米舞(四剣の舞)
  21. 奉剣鏡造の舞
  22. 地引の舞
  23. 弓天狗の舞
  24. 大山祇命の舞

(山梨岡神社社務所「山梨岡神社と神楽のしおり」より)

■山梨岡神社/春の例大祭太々神楽 見物記

Mon, 02 Jun 2003 18:59:19


2003年4月4日。山梨岡神社、春の例大祭に行った。岡神社は、わたしの母の実家の氏神さま。しかし、子どもの頃は、ちょうど新学年が始まる頃に重なるので、残念ながら二度ほどしか見たことがない。それでも、桃の花の香りを乗せた風に混じって、お神楽の笛の音が聞こえてきたときめきは、いまでもよく覚えている。

わたしの祖父高野勝は、お神楽の笛の名手だった。芸大に招かれて笛の演奏と講義に出かけたこともあったという。舞いも舞った。「四剣の舞」をはじめとして、さまざまな舞を舞う名手であったとも聞いている。舞子長も務めている。母は、少女の頃、天の岩戸に隠れる天照大神を舞ったそうだ。


すばらしい天気のなか、石和駅から岡神社まで歩く。今年は寒かったので、桃にはまだ少し早いのが残念だ。平等川の土手には、たくさんの土筆が出ていた。めずらしいシロバナタンポポも咲いている。

お神楽が聞こえると思ったら、小さなトラックが御輿を乗せてやってきた。昔はみんなで担いだものだが、いまは人手がないので、こうやってトラックで練り歩くという。神楽の音色はトラックのスピーカーから流されたものだった。

やがて、川の端に、何本もの幟がはためいているのが見えてくる。岡神社だ。胸が躍る。

五色の幟が風にはためく姿を見ていると、ネパールを思いだす。きっと、遠いところでつながっているのだろう。幟と提灯に縁取られた参道をいくと、お祭りの屋台が並ぶ。水風船や綿菓子、りんご飴、「形抜き」というゲームのようなもの。昔ながらの屋台に、子どもたちが群がっている。大昔の従兄弟とわたしの姿が、そこに重なった。

こんどこそほんとうのお神楽の音が聞こえてきた。境内に足を踏み込むと、お神楽の舞台で、舞が舞われていた。美しい、切れのいい舞だ。天照大神の少女は、まだ年端も行かない子。椅子に座ると足が届かないほど幼い。その子が、天の岩戸に隠れてじっと身じろぎもしないでいるのがいじらしい。はじめてみる八岐の大蛇の舞い。いかにもまがまがしい大蛇の表現がすばらしい。ずうっと見ていたい、そう思った。


そこで、母の妹の通子叔母と会った。叔母は、結婚して埼玉に移ってからも、毎年この祭りだけはどうしても見たくてやってくるという。

叔母もまた、ここで舞ったことがあるという。
「その時は、アメリカから撮影隊が来ていて、撮影していったの。かわいがられてね、アメリカへ招かれたのよ。アメリカで、ぜひその舞を見せてほしいって。十二歳頃のことだったかしら。わたしは、すごく行きたかったんだけれど、おばあちゃんが反対してね。嫁入り前の娘をひとりでアメリカなんかに行かせるわけにはいかないって。それであきらめたの。いまでも思う。もしあの時、アメリカにいっていたら、わたしの人生はもう少し違うものになっていたかもしれないって」
叔母は、酒屋に嫁いだ。といっても、代々の酒屋ではなく、丁稚奉公してこれから独立しようという青年と見合い結婚をしたのだ。ゼロからの出発。折からの好景気に乗り、叔母の店はぐんぐん成長した。小売店として、関東一の売上げを誇った時代もあった。いまも不景気とはいいながらも、その店の規模は変わらない。残念なことに叔父は数年前に亡くなったが、二人の息子が店を継ぎ、元気にやっている。一人娘は二人目の孫を生んだ。苦労はしたが、順風だった幸せな人生。そんな叔母でも、送らなかったもうひとつの人生があることをふと夢見ることもあるのだと、感慨深かった。
叔母の少女時代が写っているというそのフィルムは、一体いま、アメリカのどこにあるのだろう。

叔母の紹介で、控え室に入れてもらった。昔から伝わるというすばらしい面の数々が壁に無造作にかけられていた。これから「四剣の舞」を舞う人々が準備をしているところだった。「そう。八重子さんの娘さん」などとなごやかに話しながらも、張りつめた緊張感がみなぎる。「声、かけてくださいね」 互いにそんなふうにいいあっている。やがて「えいっ」と気合いをいれると、四人の舞子が出ていった。

追いかけるようにして外に出て、その舞を見る。すばらしい。長い剣先がきらりと光り、それがいっせいにくるりと翻る。あの狭い舞台で、よくぶつかりもせず踊れるものだと感心する。「四剣の舞」の緊張感溢れる美しさには、心の深いところをきりっと引き締めてくれるような力がある。

後で聞いて驚いた。あの剣は、かつては真剣だったという。お神楽の舞台に飾られた御幣が、剣先に触れてはらりと切れるなどという場面もあったという。舞子たちの緊張も、そんな理由からだったのだ。


岡神社は神社延喜式にも載っている由緒ある神社。「山梨」という言葉も、この神社から生まれた。この付近には、巨石遺跡もある。神社の裏山そのものがそうだし、山に広がる果樹園の中にも、巨大な石がある。母は昔「大昔、ここは海で船つき場だった。その名残の石だ」という伝説を話してくれたが、いま見れば、これは石舞台のような遺跡に違いない。

また、この神社には「きの神」という中国の一本足の神が祀られているという。なぜ祀られることになったのか、その由緒はさだかではないという。

ヤマトタケルが大ムカデと戦ってその履き物を落としたという伝説も伝わっている。「誰も見たことがない」というこの神社のご神体は、その履き物だという説もある。

山の中腹にある奥の院にそのご神体は安置され、祭りになると降ろされる。その儀式もまた、黒い幕を張って誰にも見えないように執り行われ、たいへん厳粛なものだという。

その奥の院近くにあった岩が、麓まで転がり落ちてきたことがあったという。太平洋戦争開戦のその日のことだそうだ。「それが不思議なの。途中の木の枝一本折らず。木の幹ひとつ傷つけずに、まるで空中を飛んできたように麓にあった」と叔母はいう。その話は、母からも聞いたことがあった。

奥の院がありご神体そのものである御室山には、国に大災害があるとき。あらかじめ鳴動するという伝説があるという。岩が落ちてきたのは、その伝説が実現したのかもしれないなどと考えてしまう。

ここは、伝説の宝庫のようだ。一度、詳しく調べてみたくなる。いつか、調べよう。


みんなで「ほったらかし温泉」にいって、ひと休みし、戻ってくると、ちょうど御神輿が戻ってきたところだった。参道の入り口からはトラックから降ろし、昔ながらに担いでいくという。宵闇の中に「ソコダイ。ソコダイ」というかけ声があがり、法螺の音が響きわたる。「ソコダイ」というのは、御輿があまりに重いので、ほらもうすぐそこだと、互いに励ましあう言葉だという。

担ぎ手たちは、法被を着てみな顔にさまざまな色を塗りたくっている。昔は、男たちは年頃の娘から長襦袢を借り、それを着て御輿を担いだのだという。「それはそれはあでやかだったの」と、後で母は話してくれた。「男衆はみんな化粧をして、華やかできれいだった」 顔に色を塗るのは、きっとその名残なのだろう。

男が女装して担ぐ御輿。その暴力的な所作と、美しい女装の姿の矛盾。二つの力が拮抗し、解け合って、さぞかし官能的な風景を作りだしていたことだろう。


やがて、御輿は境内へとなだれこむ。そこで、あちらへこちらへと、かけ声もはげしくもみあうようにして移動する。これが、御輿の見せ場だという。

その背後、光に照らし出された神楽の舞台で「四剣の舞」が演じられている。その典雅な響き。光のなかで、剣先が、金色の着物がきらめく。見れば、舞い手は年齢のいった人ばかりだ。きっと、経験豊かな神楽の大先輩たちなのだろう。昼間の、力漲る若々しい「四剣の舞」とはまたひと味違う、円熟した深みのある美しさだ。暗闇に浮かぶそれは、まるでこの世のものとは思われない完璧な美しさだ。

その神楽の音色をかき消すように、御輿がわっとぶつかりそうになりながらやってくる。人々がわっと散る。その歓声を縫うようにして、みやびな神楽が響いてくる。静と動の、雅さと荒々しさの、見事なまでの対照。

やがて、御輿はお堂に入ろうとする。しかし、そこには提灯を持った人々が一列に並び「まだまだ」というように提灯を横に振る。「まだまだ神が満足なさらない。まだまだ帰るときではない」という所作だ。すると、御輿はまた境内に引き返し、ふたたびあの騒乱が繰り返される。

それがなんどか繰り返され、観客も充分その熱狂を堪能したころ、ようやくお堂に戻る許しがでる。一列に並んだ人々が、提灯で大きく円を描くのだ。へとへとに疲れた担ぎ手は、よるけるようになりながらも力を振り絞って堂に御輿を運びこみ、そこで本祭りは完結する。


思いもかけない、すばらしい祭りだった。このようなものが脈々と伝承され続けていることにも、深い感動を覚えた。また、見たい。ぜひ、来年は朝からいってすべての舞いを見よう。そう心に決めた。

■竹内博/「しあわせな子ども」としての怪獣王

Mon, 02 Jun 2003 14:28:43

2003年3月23日 徳島県北島町創世ホールで開催された「竹内博講演会〜三人の怪獣王〜円谷英二、香山滋、大友昌司」を聞きにいった。相棒が怪獣好きのため、そして祖父寮佐吉の資料収集のためだ。

講演は今回がはじめてという竹内氏は、1955年、墨田区生まれ。わたしと同い年だ。下町生まれの下町育ちの少年は、1964年9歳の頃、「キングコング対ゴジラ」を含む3本立ての怪獣映画を見て、怪獣に目覚めたという。1966年7月、テレビで「ウルトラマン」がはじまる。これが竹内少年の怪獣志向を決定的なものにした。さして裕福ではなかった竹内少年は、怪獣映画見たさに、屑鉄拾いなどをして、自力で小遣いを稼いだそうだ。なんだか、二宮金次郎にも通じる苦学ぶりだ。

長じて、少年は円谷英二などの怪獣映画の大御所のところに出入りするようになる。「長じて」とっていも、円谷プロに出入りするようになったのは中学生の頃。ずいぶん若い。その意味で、竹内氏は怪獣物に関するサラブレッド、英才教育を受けたといってもいい。

竹内氏の話題は、そこからどんどん極私的なところに入っていった。「怪獣オタク」なら、たまらないような微細な話。誰それの家に招かれて、その時どうしたというような思い出話だ。それが延々続いた。怪獣オタクにとっては、涎をたらすほどうらやましい話かもしれないが、正直言って、門外漢のわたしにはさっぱりわからなかった。

そのなかで、わたしの心にひっかかる言葉がひとつあった。「円谷英二、本多猪四郎の未公開写真を並べて見て、ああ、円谷さんも本多さんも、考えていたのは平和なんだなあ。みんな平和主義者なんだなあ、と思った」というくだりだ。

講演後の質問の時間、さっそく質問してみた。

Q.なぜ、その写真を見て「平和」を感じたのですか?
A.口ではいえない。写真を並べているうちに「みんな平和主義者なんだなあ」と感じました。

Q.小学校2年生の時に、怪獣映画に惹かれて以来、ずっと怪獣に魅力を感じ続けていらっしゃるということですが、一体怪獣の何が魅力なのでしょうか。どこに惹かれるのですか?
A.怪獣は、女だと思うんです。ぼくは男だから、どうしても怪獣に惹かれる。男性が女性に惹かれるようなものだと思います。

Q.怪獣映画は社会にどのような影響を与えたとお考えですか? また、どのような意味があったと?
A.まだ怪獣がこの世に現れて49年しか経っていないので、わかりません。影響はこれから現れるでしょう。影響としては、そんなに悪い影響ではないんじゃないかと思います。

どの質問の答えも、肩すかしであった。そこで、重ねて踏み込んだ質問をしてみた。

Q.怪獣映画では、見慣れた風景をがんがん壊します。その破壊風景は、まるで神戸の大震災の後のようです。がっしりと変わらないと思っていたこの社会が、実は根底ではとてもフラジャイルな世界であることを、みんなが心の底で不安に感じている。でも、日常生活の中でそれは隠されている。その不安を、怪獣映画は先取りしている、言い当ててくれる。だから、人はどうしても怪獣映画に心惹かれてしまう。わたしは、そう考えるのですが、竹内さんのお考えは?
A.よくいわれていることですが、怪獣映画は人間の破壊衝動を満足させるといいます。映画館を出てくるとスキッとするというか。そういうことじゃないでしょうか。
(以上、記憶とメモによる再現)

竹内氏は、自分がなぜそこまで怪獣に惹かれるのか、その根源的問題について踏みこんで考えているという様子ではなかった。恐らく直感では感じてるのだろうけれど、では「男の子は怪獣が好き」というその典型的な行動はどこから来るのか、という分析にまでふみこんでいないことが残念だった。

また、怪獣映画が社会に与えた影響についてわたしが聞くと「影響=悪影響」と即思いこんでしまい「怪獣映画は子どもや社会に悪影響を与える」と責められたように感じられたようだ。もちろん、そんなつもりは毛頭なかったので、わたしはびっくりしてしまった。おそらく「怪獣になんか夢中になっていると、ろくな大人になりませんよ」とかなんとか、さんざんいわれて育ったのかもしれない。あるいは、竹内氏がつくる怪獣本に関して、うるさい「教育的」な親たちから芳しくない評判をもらったのかもしれない。竹内氏にとっては、いまだ「怪獣」や「怪獣映画」は、子どもたちだけのわくわくするような、けれど良識ある大人から眉をひそめられるようなものだという固定した認識があるのだろうか。

彼はきっと「しあわせな子ども」なのだ、とわたしは思った。怪獣という大好きな架空の世界で遊び続ける子ども。すっかり大人の知性と力を兼ね備え、しかも子どもの世界で遊び続ける。世界でいちばん怪獣に詳しくなり、世界中の怪獣博士の頂点に立つ。本も多数出版し、いまや一ファンではなく、その世界の魅力を語る強力な案内人になり、怪獣世界そのものに関与して自分の影響を与えられるような地位を獲得した。それは「遊び」を「仕事」にできた「しあわせな大人」の姿かもしれない。

しかしまた、怪獣映画評論の第一人者が、その快楽的世界の内側に安住する「しあわせな子ども」でいいのだろうか、という疑問も湧いた。大衆娯楽映画としてこれだけの興盛を誇ってきた怪獣映画。わけても「ゴジラ」。ゴジラは、日本が誇る日本発の独自の文化だともいえる。これが、社会に与えた影響、人の心の深層に与えたものを本気で解析する必要もあるのではなだろうか。「子どものための娯楽映画」という枠組みや固定概念を超えた、新たな怪獣映画論の出現を待望する。

■門坂流個展/アメリカン・クラブ

Tue, 27 May 2003 18:57:09

アメリカン・クラブで開催中の門坂流氏の個展に行ってきました。会場は、中央ロビー。吹き抜けの、ゆったりとした空間です。正面の硝子張りの窓の外は庭園。両脇の壁のケースの中に、40点の作品が並べられていました。

水彩の淡い色合い。どこか水墨画を思わせる色が心を捕らえます。色絵具で刷ったエングレーヴィングも、独特の強さと雰囲気を醸し出していました。生で見るペン画の美しさ、端正さはすばらしく、これはもう印刷ではなく、絶対に生で見なくては!と思わされました。そして、本領発揮の単色のエングレーヴィング。いつまで見ても見飽きません。

しかし、今回ことに話題になっていたのがドライポイントでした。門坂流氏の新しい挑戦です。これが、すばらしかった。エングレーヴィングの線は、端正でくっきりとして、どこか乾いた感じがします。いわば、硬質な山頂の世界。それにひきかえ、ドライポイントでは、端正ななかにも水の感触に似た湿った手触りがあって、人を拒みません。不思議なゆがみのなかで、背景に溶け込んでいく線は、水晶の結晶を描いても、そこにやさしさとやわらかさを感じさせるのです。水面に映った夢の風景。そんな風に感じました。門坂氏の新境地です。

なぜ、ドライポイントにしたのか? その質問に、門坂氏はこう答えてくれました。
2000年に新聞小説の挿絵の仕事をした。〆切のある仕事に追われ、あるスピードのなかで短期間に集中することを要求された。その体験を経てみると、自分のなかのリズムが変わってきていることに気づいた。エングレーヴィングだと、一枚の制作に2カ月から3カ月がかかる。それが、ある意味まだるっこしくなってきてしまった。

そこで、今回、ドライポイントに挑戦してみた。小池真理子さんの短編小説のために、3カ月で8点を制作。短期間に集中していくつもの作品を仕上げることができた。エングレーヴィングに比べ、やわらかい雰囲気をだせた。また背景の黒も、エングレーヴィングに比べてずっと濃くなり、表現の幅も広がったように感じている。(談・要約)
新境地開拓の門坂氏。百歳まで仕事をしてもらうとして、ちょうど折返し地点でしょうか。これから、どんな作品を生みだしてくれるのか、ますます楽しみです。

■膀胱腫瘍の術後/実践的看護法

Tue, 20 May 2003 02:51:49


ともかくたくさん水を飲ませる。尿の濃度を薄めて刺激を低くし、膀胱内にたまった不純物などをなるべく早く洗い流すため。1日2リットルが目安。「吸い飲み」などを用意して、患者が目覚めた時や、排尿の時など、折りにつけ100ミリリットルぐらいずつ飲んでもらう。冷たい水は体に障るので、ぬるま湯にあたためて、魔法瓶などに用意しておくとよい。

同じ目的で点滴を行うケースが多いが、点滴で補える水分量は1時間80ミリリットルほど。経口摂取すれば、1回で簡単に飲み干せる量だ。それだけ経口摂取は威力がある。そのことを患者にわかってもらうと、協力が得やすい。


頻尿がひどいときは、紙オムツにする。いちいち起きあがらなくてすむので、患者の体力の消耗が防げる。(導尿管をつけてもらったほうが、患者が楽になり、体力を消耗しなくてすむ場合もある)


食事は馬力の元。回復のためには食べなければならない。そのことをわかってもらって、食欲がなくてもある程度がんばって食べてもらう。食べない時は、スプーンで口に運ぶと、いやいやでも少し食べてくれることもある。

■危うく医療ミス/自衛手段と提案

Tue, 20 May 2003 02:24:09

▼危うく投薬ミス
父は現在、膀胱腫瘍の手術で国立千葉病院に入院中ですが、医療ミスで危うく大変なことになるところでした。

父は、毎日たくさんの薬を飲まなくてはいけません。入院している病院から出ている薬もありますが、以前からの持病である糖尿病の治療のために通っている、別の病院から出された薬も併せて飲まなければなりません。1日3回飲む薬もあれば、1日1回だけの薬もあります。

父は、その薬を自己管理していました。朝6錠、昼と夜にそれぞれ4錠の薬です。しかし、手術後、一時的に意識が混乱、また翌日は高熱のために意識がはっきりしなかったため、看護婦さんの申し出により、薬の管理を看護婦さんに任せることにしました。

しかし、その看護婦さんが、父が飲むべき薬を間違えて手渡したのでした。朝、1回だけ飲むはずの薬を、夕刻にも渡されたのです。

余分に渡された薬は、糖尿病の薬アマリール。血糖値を下げるための薬です。1日に2回も飲んだら、必要以上に血糖値が下がり、低血糖症になってしまいます。しかも、父はその夜、食欲がなく、ほとんど食事を摂っていなかったため、もしもアマリールを飲んだら、確実に血糖値が下がりすぎてしまうとことでした。

幸い、父が飲む前に、わたしが確認し、気づいたので大事は避けられました。しかし、これがもし「看護婦さんにお任せしたから」と安心しきって、そのまま飲ませていたら、大変なことになるところでした。

もしも低血糖症になり、その症状がでたとしても、投薬の間違いであることにすぐに気づくことはなかったはずです。手術後なので、何か異変が起きたと思い、低血糖症の治療ではない処置をしたかもしれません。見当はずれな処置のために、さらに事態が悪化した可能性も考えられます。そう思うと、背筋が寒くなりました。

▼間違いはどこで起きたのか?
わたしは、すぐに看護婦さんに抗議。また間違いが起こるといけないので、ナースステーションで管理している父の薬を確認させてもらいました。

ナースステーションには、患者の名前の記されたひきだしがありました。開けると、中が升目に区切られていました。そこに、ピンク色の紙にホチキスでとめた薬が置かれていました。父の名前が書かれた列は、父が飲む予定の薬です。

「手前が朝、真ん中が昼、奥が夜の分です」と看護婦さんが教えてくれました。しかし、そこには「朝・昼・夜」の表示がありません。いったい、どこで間違えたのかは定かではありませんが、表示がなかったため、朝に飲むはずの箱から、夜の薬を取り出してしまった可能性もあります。あるいは、夜飲む薬の箱に、朝飲む薬を投げ込んでしまったのかもしれません。

また、それぞれの投げ込まれた紙には、患者の氏名が書かれていませんでした。もしも、列を間違えれば、他の患者さんの薬をもらってしまう恐れもあります。心配になったわたしは、父の薬に「リョウ・朝」「リョウ・昼」「リョウ・夜」と書き込んできました。

▼間違いを防ぐための提案
そこで、わたしは看護婦さんに提案しました。

ひきだしのなかに、「朝・昼・夜」と書いておけば、薬を入れるときも、また取り出すときも、間違える可能性はぐっと少なくなるはずです。そして、その印をつけることは、たった一回の手間ですむのです。ぜひ、お願いしたい。

薬をホチキスどめした紙に、それぞれ患者の氏名(カタカナでも苗字だけでもいいから)と「朝・昼・夜」のいずれの分であるかを書いてほしい。そうすれば、もしも間違えて渡してしまった時にも、患者自身が確認して、水際でミスを防ぐことができる。

看護婦さんは、これを実行してくださると約束してくださいました。

▼自衛手段
看護婦さんがくれた薬だからと、安心しきらないこと。生理的食塩水のかわりに、消毒液を点滴されて亡くなった人もいます。例え看護婦に嫌がられても、いちいち自分で確認しましょう。

▼医療ミスはなぜ起こるのか?
上記のようなことは、ミスを防ぐためにできる、合理的かつ実に簡単なことです。しかし、それがなされていない。朝・昼・夜の表示のないひきだしに「慣例として手前が朝」というような曖昧な方法で「管理」がなされている。これは「管理」とはいえません。

どうしてそのようなことが起こるのか。見ていて思いました。看護婦さんが忙しすぎる。こんな簡単な工夫さえ思いつかないほどに忙しいのではないか。週末の夜勤の看護婦さんは、わずか2人。ひっきりなしに鳴るナースコールに奔走していました。看護婦の多い昼間でも「管理」してくれているはずの「食後30分」の薬が届くのは、食後一時間余りを過ぎてからです。

看護婦さんのミスを責める前に、このような看護婦さんが異常に忙しい病院の体制を考え直さなければならない。つまりは、医療行政を根本から考えなくてはいけないのだなあと痛感しました。

けれどもまた、その前に、せめて投薬ミスをなくすような簡単な工夫をしてほしいと、心から思ったのでした。あのひきだしに「朝・昼・夜」の表示はついたかなあ。

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