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寮美千子  少数派の意見に耳は傾けますが、礼儀を失した方と対話はしません 2005年09月13日(火)06時23分39秒
◆本当に、「少数派の意見」に耳を傾けられますか? へのコメント

鈴木方山さま
【私は、本当に戦争に反対する知性のある人を見たことがない】を拝読させていただきました。

わたしは、この掲示板で戦争に反対する意見を述べています。それに対して「戦争に反対する知性のある人を見たことがない」というタイトルで書き込んでくるということは「寮美千子は知性がない」といっているのと同義です。もちろん、わたしは自分がとても知性的な人間であると思っているわけではありません。それでも、初対面同然の人にこのようにいわれれば不愉快です。あなたの言葉は、きちんと対話をしようという人の言葉としては、まったくふさわしくありません。一種の挑発です。その上で【本当に、「少数派の意見」に耳を傾けられますか?】とタイトルを掲げるところなど、たいへん悪質です。わたしは、「意見は違うがきちんと対話したい。議論したい」と考える方とは対話しようと思いますが、このような態度の方とは対話をしようとは思いません。人生の時間の無駄だからです。それは、少数意見に耳を傾けない、ということではなく、礼儀を失した人間とは口をききたくない、というだけのことです。今後、この掲示板への出入りはご遠慮ください。

鈴木方山  ●でも、私は日本が好きです。 2005年09月13日(火)01時32分14秒 http://www.mumyouan.com/k/takenoma.html

乱文、誤字が多い、長文となってしまいましたが、
一言、つけ加えますと、私は、現在の日本が好きです。
そして、それは、将来も、そう大きく変わることはないと思います。

その最も大きな理由は、価値観の種類が相当に、その色調が多いことです。
アメリカとかヨーロッパのある社会とか州では、むしろ
日本よりも、はるかに閉鎖的で、画一的で差別的な思考に染まっていることもあるようです。

どうして日本がこうなりえたかというと、これまた自主的ではなくて、
「なっちゃった社会」なのですが、
それでも、結局は、軍事的にも、文化的にも、他国から侵略されまくって、
ある面では、それも、国民が良しとしてきて、その結果生まれた
文化と価値観のごちゃ混ぜ状態ですね。

これは、今後もぜひ、崩れては欲しくありませんし、
モノマネが大好きで、しかし「猿マネ以上のものを作り出す」日本人の気質といいますか、
性質として、これからも生き延びると思います。

そういう意味では、政治の世界では、もう少し、政党が拮抗していないのと、
不健全な社会になりそうだという懸念は確かにあります。

いつでも、どんなことに対しても、全く対立する両方の意見が、
常に拮抗し続けていて、若干のバランスの崩れによって、決定が下される、
という社会が、もっとも健全であると私個人は思っています。

どうしてかといいますと、そのときにこそ、
国民の投じる票というのが意味を持ってきますし、
自分の力で何かの決定に対する賛否を表明することの「重さ」と「責任感」が自然に
発生します。

全く対立するものが、常に拮抗していて、
また多彩なものが、乱立していて、
「長期的に使えるような、安定した意見や価値観というものはない」という状況が、
いつもそこにあるとき、
人間は、自分で考えますし、
また自分が考えたことが多数決に流されるという、
不毛な無力感を味わうこともありませんから。

これは、国家でも、会社でも、学校でも、家族でも、夫婦でも、
どの「縮図」においても、同じことであります。
      長々とした駄文に、ご清聴を、ありがとうございました。

鈴木方山  ◆自主性のための平和が先決か、自主性による平和が先決かの「難問」。 2005年09月13日(火)01時10分22秒 http://www.mumyouan.com/

松永様、コメントをありがとうございました。

やや、まとまりのない、「独り言」のようにもなりますが、よろしければ、
ご清聴ください。

◆確かに、一般的に見れば、人間に思考停止をもたらすもののひとつに、
全体の風潮や状況(特にこれは「慣れ」と「数」によるもの)といった要素は多分にありますが、
(たとえば、不良ヤンキーと見られていた茶髪が一般化したように)

自主的思考が再開される、または起動する機会というものは、
ようするに、「何かが一時的に停止した空白を持つ場合」であることが原則です。

◆たとえばですが、ある人が、悪質な借金の取立て屋の会社にいながらにでも、
ある日、体調を壊して会社を数日休んでいる間に、
ふと、「そもそも、こんな会社になぜいるんだ?、こんな会社はいらないのではないか」
などの思考を起こすことなどです。

または、がむしゃらに、頑張って生きるべきだと言われて、そう生きていた者が
長期的な入院、または、リストラなどで、ひきこもりになり、
そもそも、生きろだとか、というが、「それは何のためであるのか?」などの
本質的な「正当な疑問」を持つ場合などです。

こうしたものは、全体の状況とは、ある程度関係なく、
個人の中に、忽然と起きる事が、多々あります。

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◆そこで、問題となるのが、そもそも「戦争」の定義なのですが、
私は個人的には、戦争というものを、「殺戮の規模の大きさ」または
「政治的強制力」という動きで考えることは、あまりありません(まったくなくはないですが)

つまり政治的な戦争の中に個人が巻き込まれる、といったことを
一般に戦争の定義とする傾向は、ありますが、
私は、「個人間の殺戮」または、「無流血の闘争」などの、その構図の中に、
「戦争に発展するのと全く同じ要素」をよく見ます。

戦争と個人間の抗争の違いを、殺人量の規模の違いとしたり、
また、個人の意志が命令によって無視されるかされないか、
といったことで、そのふたつは区分されることが、確かに、一般的ではありますね。

しかし、私の観察によれば、
その「対象」が「国家」であれ、「個人であれ」「特定の思想であれ」
「自分の恋敵であれ」「親であれ」「子であれ」「または情報であれ」

    「自分にとって、邪魔なものの存在を消し去りたい」という衝動、
     この動機それ自体が「戦争の本質的動機」であると私は感じています。


◆人類がこれまでに、戦争を引き起こしてきた理由といえば、
「戦争を仕掛ける側」は、
自国の人口密度が高くなり、資源や土地を求めて領土を拡大しようとすることで、
これは、動物たちの行為にもあります。

また全く何もしていないのに、不条理にも、戦争を仕掛けられる側の理由としては、
たまたま、侵略者にとって、資源的な価値があったり、または、
軍事的な拠点として利用価値があるなどの場合です。

それらは「実に勝手な理由と、一方からの価値観によって」、引き起こされるわけですが、
事実、このことを大規模であれ、小規模であれ、
繰り返してきて、これからも、繰り返しそうなのが、人類の現実です。


◆たとえば、あくまでも「仮にですが」、
ここで戦争と個人闘争を区分けしない視点で見ますと、
法廷闘争も、親権争いも、男女の三角関係の闘争も、あるいは
企業戦略も、経済戦争も、ある意味で、すべてが戦争です。

と、乱暴にひとくくりにするのはどうか、という意見も多々あるでしょうが、
しかし、実現の手段が「流血」になるか、「慇懃無礼な合法的手段になるか」の違いだけで、
人と人が争うその根底にあるものは、常に「生存欲」です。
それも、自分の命や思想を、他者のものよりも存在するに価値があると
考えることに起因します。現象としてそうなるという意味です。
(その考え自体が、「良いか悪いか」は、また別問題です。)

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◆しかしこの生存欲は、あらゆる局面で、人間には、正当化されます。
ふたつの民族が、互いの生存を正当化し、かつ、
もしも「相手側の生存を無価値だとすること」、「または正当防衛という理由」、
これがたいていは、殺戮または戦争という行為の引き金となります。

私たちは、今では、地上のほとんどの種族の「外見に対しては」、
平等という意識を、ようやく、なんとか持っていますが、
そんな私たちも、もしも数百年前だったら、黒人の人たちを人とは見ず、
その人権を認めなかったかもしれない事でしょう。

もしも、この論理を飛躍させれば、もし将来、私たちの目には見るも醜い
生物が、外宇宙からやってきたら、彼らの本質も見ようともせずに、
ただ醜いというだけで、大量に彼らを虐殺することが何も悪くない、
否、地球の平和に必要なこととして、正当化されるかもしれません。

実際、そうやって、私たちは、今、人間が勝手害虫と読んでいる虫、
同じ地上の生物である、ゴキブリなどを、何も感ぜずに、否、むしろ、
「こいつらは、自分の部屋の中から全滅して殺してやる」、と思いながら、
大量に殺戮しているのですから。

______________________________________

◆いろいろと考える素材をランダムに出してしまいましたので、
ここで、論旨を最初の問題に戻しますが、
戦争のみならず、何かの全体的な動きについての自主的判断や、
行動の自由を持てるか持てないかは、全体の状況の停止、
たとえば、「そのためにこそ戦争回避が前提である」、といった考えは、基本的には
私の中には、ありません。

それは、いずれにしても、物事の判断の理由を、
集団や他者に依存することになるからです。

思考と行動の「自由のための戦争」、というものすら、
正当化されるのが、この世の中です。(アメリカみたいに)
しかし、それもどうかと私は思います。
自由のためと称する戦争は、時には許されたりするわけですから。
(小国の独立戦争など)

私個人は、状況に関わらず、「自主的判断の停止をしない事」は
十分に可能であると思います。


◆戦後、私たちが今日、こうしてこうした掲示板でお互いの異論を語り合えるという
「その基盤は何であるか」と考えたとき、
それは、平和だったから、というよりも、むしろ、
そこで最も大きな役割を持っていたのは、「多彩な情報」であると思います。

情報を手にするとき、人は、自分を取り巻く政治的状況と自分を切り離して、
考えるチャンスを持ちますし、自分が置かれている状況の理由を
知るチャンスもあります。
ですから、戦時中であるか否かということよりも、
私は、情報の流通を重視します。

ほとんどの場合に、個人の意志が無視されて、ごく少数の誰かの
利益のために社会が動きはじめるときというのは、
たいていは、私たちは「騙される」わけですから。

◆かつての戦時中の日本、あるいは鎖国時の日本、または、現在も北朝鮮などでは、
「その肝心の情報が、制限または、統制されている」わけですから、
より自由な個人の判断を導き出すのは、
平和という環境だけではなく、「多彩な角度の視点や情報」であると私は思っています。

ただし、現在のように、スポンサーや警察庁からの情報にこびるマスコミでは
とても、正確な情報など流通しそうにありませんが。

______________________________________


◆しかし、あえて、ここで、ここまでの論のテーブルを蹴り飛ばして、
全く「逆の視点」から言えば、
多彩な情報は、世界に対する自主的判断を促す反面、
時には、「ある地域社会を、静かに壊してしまうこと」があるのも事実です。

たとえば、「ヤノマミ」たちの村に、多すぎ情報が入った場合などです。
そういったことから、極めて賢明な国家といえるものに
情報を自主統制している、ブータンなどがあるかもしれません
(あくまでもひとつのテストサンプルとして)


こうした、「情報」が持つ、文字通りの、矛と盾という「矛盾」をも含めて、
いま一度、「総合的」に考えると、

   実は、最終的に人の判断を促すものは、
   状況でもなければ、情報でもない、
   ある種の直観としか言いようのないものである場合が多くあります。


   しかし、私たちが、追い詰められた状況でも、正しく直感的であるためには、
   私たちは原則として、一度、
   あらゆる種類の、「自他の価値観」から、頭を全部切り離して、
   自分の「意識のグラウンドゼロ」に、呆然と立ち尽くす必要があります。


戦争を本当に「世界的に、全面的に」、回避をできるのか?、
または、例外的に、正当化されるような
「必要悪というものがあるのか?ないのか?」を、
最終的に「判断」を出来るものは、我々個人の中の何であるのか、

それが「私個人」の中では、
「考えるために、平和という状況をまず整備する事」よりも、
より根源的に、大きな問題なのであります。

                ■

高橋喜治  転倒 2005年09月12日(月)08時52分13秒
自民党圧勝 民主主義の成果か? ファシズムの足音か? へのコメント

「ファシズムへの足音」がはっきりと聴こえ始めたのは、小泉さんの「日本はアメリカを支持する」の一声からでした。結局、小泉さんはブッシュの脅威に屈し、多くの国民もそれに屈し、そして、香田証生君を見殺しにした。その時何も出来なかった僕もその一人だ。人一人のいのちより優先して守らなきゃならなかったものとは、いったい何だったのか?! 価値の転倒が起こり始めている。自民党内でも郵政民営化反対派が「国民の総意」だからといって、賛成派に転じている。「国民の総意」っていったい何だ?! 一個の政治家の意思とはいったい何なのだ?!

松永洋介  考えるための前提は「戦争」の反対 2005年09月12日(月)07時26分06秒 http://www.ceres.dti.ne.jp/‾ysk/
◆本当に、「少数派の意見」に耳を傾けられますか? へのコメント

リンク先読みました。

>■ちなみに、私は、戦争に賛成でもないです。
>そもそも、「戦争というものは、一体何であるか」も
>明確な洞察ができないちに、
>それに対しての、反対も、賛成も、出来ないからです。

「そういう判断保留を認めてくれない状況」「個人が自己の洞察に従う自由のない状況」「知性を養い、働かせる場のない状況」が戦争の特徴だと思います。
鈴木方山さんは、いかなる「状況」が訪れようと、自己の判断や判断保留の態度を貫くつもりかもしれませんが、わしはまず「状況」の到来を阻止したい気持ちです。戦争反対の大きな理由です。

鈴木方山  ◆本当に、「少数派の意見」に耳を傾けられますか? 2005年09月12日(月)03時52分55秒 http://www.mumyouan.com/

以前に、軽い話題の掲示板で、手裏剣術の師範の系図に関する
書き込みをさせていただいた、鈴木と申します。

ふと、何か、おかしいと感じたことがありますので、
↓に、書きました。こちらに書いてもよろしいのですが、
 やや長いので、リンクを張らせて戴きました。


投稿番号−{3418}の、
タイトル【私は、本当に戦争に反対する知性のある人を見たことがない】
http://www.mumyouan.com/k/takenoma.html

これは、それこそ「極めて、少数派の意見」だとは思いますが。
(この投稿の一番下にリンクをつけておきました。)

■ちなみに、私は、戦争に賛成でもないです。
そもそも、「戦争というものは、一体何であるか」も
明確な洞察ができないちに、
それに対しての、反対も、賛成も、出来ないからです。


             ■
↓当該文書の参照アドレス

http://www.mumyouan.com/k/takenoma.html

寮美千子  自民党圧勝 民主主義の成果か? ファシズムの足音か? 2005年09月11日(日)22時58分59秒
見上げれば 爆撃機の飛んでこない 青い空 『憲法を変えて戦争に行こう という世の中にしないための18人の発言』 へのコメント


わたしのまわりには、自民党支持者は一人もいないのに、なぜか自民党圧勝。
わたしや、その周辺の人々は、よっぽどの少数派なのでしょうか?

自民党圧勝。「郵政民営化」のワンフレーズ選挙の勝利です。
それは「イラク派兵」にも「靖国参拝」にも「憲法第9条改悪」にも、
心から賛成だという国民の意思表示なのでしょうか。
それとも、郵政民営化のみを焦点としたことが隠れ蓑になり、
その背後にある自民党の政策が
国民にはよく見えなかったということなのでしょうか。

ひとつの党の圧倒的勝利。それは、戦争前の日本や、
ファシズムの足音近づいたヨーロッパの姿に酷似しています。
ファシズムは、ただ政党の圧政があるから実現されるのではない。
それを熱狂的に歓迎する国民がいたからこそ、勢力を伸ばしてきたのです。

ファシズムは、その広告戦略のすぐれたことで、人の心をつかんできました。
今回の自民党のワンフレーズ選挙に、わたしは同じ匂いを感じてしまいます。


最近の報道の偏向にも疑問を感じています。
ワイドショーなどで盛んに喧伝される「北朝鮮」のこと。
あの報道は圧倒的な量です。
北朝鮮は恐ろしい、想像もできない怖い国だ、国民全体が洗脳されている、
何をするかわからない。そういって、人々の恐怖を煽る。

近所の80歳になるおばあさまも
「北朝鮮は、怖い怖い。日本が自衛のための軍隊を持たなければ、
何をされるかわからない」といっています。
戦争で兄を亡くし、戦争は2度としたくないといっているのに、
恐怖の心から、そういうのです。

人々の心に恐怖を植えつけて、思い通りに操る。
軍隊を作り、そこに莫大な利益を生みだす。
もちろん、その利益は、一部の人の利益でしがありません。

それはまさに「テロリズム」ではないか。
ほんの少し前まで、ソ連は仮想敵国でした。
ソ連が攻めてくる、攻めてくる、と恐怖を煽り、
そんなことはなく、結果的にソ連は自壊していきました。

北朝鮮という小国や、目に見えないアルカイダを敵に仕立て上げること。
そうやって、恐怖を煽ること。
それによって、人々は心の底で「軍備賛成」へと傾くのでしょうか。
だから、人々は「イラク派兵」も「憲法第9条改悪」にも、
心のどこかでオーケーを出しているのでしょうか。

人間は弱い。脅しには容易に屈する。
その性質を利用して、何者かが勢力を伸ばそうとしています。

武器があるところに、本当の平和はありません。
武器を捨て丸腰になる勇気と、外交の知恵こそが、平和を生みだすのです。
人は勇気と知恵を持たなければならない。

弱い人間という生き物に、それを求めるのは酷なことなのでしょうか。
大きなため息をつきたくなるような選挙結果。
時代の大きな渦に飲みこまれず、少数派であろうと、
胸を張ってきちんと主張していかなければならない。
正々堂々と自ら信ずるところを生きていかなければならない。
少数派でもはっきりとものがいえる社会。
少数派の意見にも耳を傾け、尊重する社会。
そんな社会でなければ、それはファシズムへと突き進む道なのですから。
選挙結果を見て、そう思いました。

寮美千子  見上げれば 爆撃機の飛んでこない 青い空 『憲法を変えて戦争へ行こう という世の中にしないための18人の発言』 2005年09月11日(日)12時22分50秒
怒りの一票 へのコメント

▼見上げれば 爆撃機の飛んでこない 青い空

という広告が、8月初頭の各新聞に掲載されました。岩波書店の新刊です。
『憲法を変えて戦争へ行こう という世の中にしないための18人の発言』

岩波も、大御所にあぐらをかいているだけじゃなくてやるな、と思いました。
今月の「広告批評」に、この本のことが書かれています。
一部の人だけがしているニッチな平和運動・護憲運動ではなく、
いつもそんなことを考えない人にも考えてもらうための本だと。

実際、この「18人」の中には、吉永小百合、美輪明宏、黒柳徹子、渡辺えり子など
一般によく知られた人気の高い人々がはいっていて、
「憲法の本だから」ではなく「あの人のファンだから」という人までも
巻き込もうとしている姿勢が、強く考えられます。

大切なのは「考えているわたしたち」だけが連帯することだけではなく、
「考えていない人にも、当事者だという自覚を持って考えてもらう」こと。
同じことを、わたしも思いつづけてきました。>「Cafe宣言」

大切なのは個々が「当事者」であると自覚し「主体的」に行動すること。
それに尽きると思うのです。

「見上げれば 爆撃機の飛んでこない 青い空」というキャッチコピー。
その後に続くものが「だから憲法を変え 軍備して自衛しよう」という人も、
いまの日本には、たくさんいるようです。

その人々も、実は「当事者感覚」が希薄なのではないか。
自分が単に「守られる側」にいるという幻想を持っている。
どこかに「軍隊」があって、自分がそれによって守られているという幻想。
しかし、その軍隊ができれば、それはいつしか「徴兵制」につながり、
「お国のため」に命を奪われるのは、わたしたち自身。
軍需産業が国の大きな経済の柱になれば、
「消費拡大」のためにわざわざ戦争を起こすかもしれない。
いま、イラクにいる米兵や自衛隊員のように、何のためかわからないまま、
命を落とすような事態が来るのです。

戦争は「個人」を守らない。「わたくし」の生きる権利も無視する。
戦争が守るのは「お国」というシステムです。
「お国」のために、個人が奉仕させられる。命まで捧げさせられる。
「国」はほんとうは、そこにいる一人一人の命と暮らしを守るためにあるのに。

軍備はその戦争を誘発する。
軍備などという短絡思考ではなく、もっと地道な外交の積み重ねこそが、
平和を継続して実現していく手段なのです。

▼具合の悪い人ほど見通しのない一発逆転を考える

さて、この本の中で、香山リカさんが、興味深いことを書いています。
 患者さんが診察室で「先生、このままではどうにもならないんで、仕事をやめて新しく探そうと思うんです」、「もう離婚して、ひとりでやり直すしかありません」と言えば、精神科医はたいていの場合、「そういう大きな決断は、もう少し元気が戻ってからにしましょう」と助言する。「先延ばし」ということばは日常の中ではあまり良い意味では便われないが、精神医療の場においては、しばしばどうしても必要な切り札になることがある。なぜなら、追い詰められた心理状態で行われた改革や決断は、後々考えるとその人にとってプラスにならなかった、ということが多いからだ。
 「もう少し治療すれば、必ず元気になります。転職はそれからだって遅くないじゃないですか」と言うと、多くの人は「はあ、それまで待たなきやならないんですか」と不満気な顔をするが、実際に病状が回復してからそれを実行する人は少ない。「あのときはいつもの自分じやなかったから、もうやめるしかない、なんて言ってたんですね。あのとき早まらなくてよかったです」と語る人がほとんどだ。by 香山リカ
つまり、人間、苦しい時はたいがい「一発逆転」を考えてしまう。
けれど、そんな時の一発逆転が有効なわけがない。
自分を更なる窮地に追い込むだけ。
「憲法改正」というのも、この「一発逆転」の発想と同じではないか、というのです。

「郵政民営化」も、やはり同じ「一発逆転」の発想です。
それだけで、すべてがうまく行くような幻想を自民党は振りまいている。
ぱっと見は派手でわかりやすいけれど、
それは具合の悪い人の一発逆転の発想に他ならない。
きちんとした検証も見通しもないまま、ただそれだけを行えば、
すべてがうまくいくと考えるなんて、あぶなっかしいにもほどがある。

そして、その口車に乗ってしまう人は、
その背後にある「憲法第9条の改悪」をも後押ししてしまうことになる。

「憲法第9条を守ろう!」と公言しているのは、共産党と社民党だけ。
民主党も9条改悪を掲げているのは、残念な限りです。
でも、9条を守るというのは、共産党と社民党だけの専売特許ではありません。
政党とは関係のないところでも、党派を超えて支持されるべき理念です。

どこに入れるか、迷いに迷ってしまう選挙。
それでも、投票しましょう。それが「当事者」であるわたしたちの、
権利であり、務めであるのですから。

▼楽しかった選挙の思い出

そういえば、子どもの頃、両親と一緒に選挙に行くと、
風船がもらえてうれしかったなあ。
「選挙に行くといいことがある」っていうの、刷り込まれたような気もします。
国を動かす力を自分が持っているなんて、すごいことではありませんか。
わくわくしながら、選挙に行きましょう!

高橋喜治  陪審員制度の導入 2005年09月11日(日)09時59分36秒
「殺さない。殺されない。殺させない」ためにも選挙に行こう! へのコメント

>悪い奴がどこかにいるのではない。わたくしこそが問題だ、という意識を持つこと。わたしは、それが大切ではないかと思うのです。例えば、日本は死刑を認めている。死刑制度に反対しないでいるということは、ある意味、死刑という形で間接的に人を殺している、ということです。

 重要な問題です。間接的な「殺し」がより直接的になる陪審員制度が実施された時、死刑囚を「わたくし」が裁くということが起こりえるわけだし、万が一にでも「わたくし」が冤罪によって裁かれるなんてことも全くありえないとは言い切れないということですよね。これは恐ろしいことです。今、僕自身は、陪審員制度はイラク派兵と同じくらいに絶対反対です。人が人に罰として「死」を施す=つまり「殺す」ということが法制化されて許されていいのかという大問題です。しかも強制なんですよね(陪審員制度)。「嫌です」といって断ることができない。こんな嫌なことはありません。
 イラク派兵も全くそうであったのですが、こうした問題は本当に十二分に「わたくし」たちの間で論議されつくされてからでなければ決めてはいけないことです。そういう意味で小泉さんは危険きわまりない人であると僕は感じているのです。ぼーっとしているといつどんな状況に自分が立たされているか判らない、そういう怖さがあります。背後にブッシュを強く感じるだけに本当に恐ろしい。こういう言い方が「魔女狩り」に繋がってしまうと困るのですが、そういう意味でどこに票をいれたらよいのか、本当に悩む投票ではありました。
  

高橋喜治  怒りの一票 2005年09月11日(日)08時23分59秒
「殺さない。殺されない。殺させない」ためにも選挙に行こう! へのコメント

 インパクトのある解り易いワンフレーズが、その奥にある内容を理解する契機を、逆に奪ってしまう危険性があるということですね、よく解りました。勿論「殺すな」は「殺さない、殺されない、殺させない」という意味を含んで僕自身に向けられています。しかし、それにしても、もう既に人が亡くなっているのにもかかわらず、そのこと(九条に関すること)が欠落している自民党の政策や兵器の購入計画なども進められていることに怒りを感じ、また、不安を感じての投稿でしたが、かなり感情的になっていました。寮さんに「魔女狩り」のことまで言及されるなんて、これから気をつけます。しかし、まだ頭に来ている。僕はもう不在者投票を済ませてしまいましたが、今回のこの選挙は怒りの一票でした。

寮美千子  「殺さない。殺されない。殺させない」ためにも選挙に行こう! 2005年09月11日(日)01時51分53秒
「殺すな」 へのコメント

▼岡本太郎さんと岡本敏子さん

>寮さんが岡本敏子さん好きの岡本太郎嫌いであることは知っているのですが by高橋さん

いえいえ、わたしは岡本太郎さんは大好きです。すてきなアジテーターだし、人間としてとても魅力的です。ただ、絵画や彫刻にはあまり感心しない、というだけです。その文章や写真には、ストレートな魅力があります。

岡本敏子さんは、好き、というよりも、彼女の存在そのものに感動しました。人が人を愛するひとつの究極の形としての感動です。ああ、こんなふうにまっすぐに純粋にかげりなく大好きでいられるんだ、人は人を、という事実に対しての驚きと感動です。

>元々はその「殺すな」の文字は岡本太郎ご自身によるもので、
>1965年にベトナム戦争に反対して発足された「ベトナムに平和を!市民連合」が
>翌66年 ワシントンポストに掲載する平和広告のために書かれたのでした。

そういう経緯があるので「殺すな」と命令形なのですね。アメリカ国民に訴えかける言葉だったんですね。911の後だったと思いますが、その「殺すな」が椹木野衣らの手で再びクローズアップされました。

▼「殺すな」への違和感

わたしは、元になった岡本太郎の文字も、後にデザイン化されアレンジされた文字も、実は好きになれませんでした。生理的に拒否反応のようなものを起こしてしまった。

なぜだろう? と自分でも思います。ひとつには、その文字にある種の禍々しさを感じたからかもしれません。殺された側の怨念のようなもの感じて、つらかったのかもしれない。その意味に於いて、この文字はそれだけの強い表現力を持っていたといえるかもしれません。

もうひとつ「殺すな」と命令形であったところも、どうにも心に引っかかるのでした。一体これは、誰が誰に対して命令を発しているのか? 命令形も、弱者の側から発せられた時は「叫び」です。だからこそ、わたしはそこに禍々しさを感じたのかもしれませんが。

そう思っても、やっぱり納得いかない。それは、その命令形を発する主体が「われわれ日本人」だとすると、「殺すな」と言っている主体は、殺される側でも殺す側でもないような気がしたからです。つまり、主体であるわたくしは、いますぐ誰かに殺されてしまいそうな切迫した状況でもなく、また殺している側でもない。つまり、傍観者のような状況。わたしはそれが納得がいきませんでした。

「人は人を殺してはいけない」というのは、ほんとうに大切なことだと思います。高橋さんのおっしゃるとおりです。これを人類の共通理解とすることができたら、戦争はなくなるはずです。だけど、それを訴える言葉は「殺すな」ではないような気がする。

「殺さない。殺されない。殺させない」ではないか。だれかに「殺すな」と呼びかけるのではなく、まず自分が「殺さない」こと。そして誰かに「殺されない」ような社会をつくること。そして「殺させない」ように努力すること。

結局は「殺すな」と同じことを言っているのかもしれません。けれど、微妙に違うように思う。主体が自分であること、それぞれの個そのものであること。それがはっきりとする。

悪い奴がどこかにいるのではない。わたくしこそが問題だ、という意識を持つこと。わたしは、それが大切ではないかと思うのです。例えば、日本は死刑を認めている。死刑制度に反対しないでいるということは、ある意味、死刑という形で間接的に人を殺している、ということです。

また、状況証拠だけで死刑を宣告する。それを何とも思わないでいる、ということは、そうやっていつの日か自分も裁かれるかもしれない可能性を放置しておく、ということです。「社会感情が許さない」なんていう理由で証拠も揃わないのに、死刑を宣告される。それは大衆というものに殺されるということです。つまり。魔女狩り。人が誰もが、いつなんどき「魔女」にされるかわからないのに。

「死刑と戦争は違う。戦争は罪もない人が死ぬ」という人がいるかもしれません。けれど、そうでしょうか。もちろん、冤罪という問題もあります。冤罪を完全に防ぐことはできない。

けれど、冤罪でなくとも、やっぱり死刑はいけないと思う。「罪があるから殺してもいいのだ。それが正義だ」ということになると、戦争も同じ論理で行われる。そして「正義」は、時や場所や民族や文化によって違ってくる。互いに正義である者同志が戦い、殺しあうことになる。

いかなる理由があっても、人が人を殺してはいけない。どんな罪も死では贖われない。もっと別の罪の償い方があるはず。無期懲役を、ほんとうに無期限懲役にするという方法もある。命を奪ってはいけない。

そのことをすべての人の共通理解にするとき、誰かに向かって「殺すな」と叫ぶのではなく「殺さない。殺されない。殺させない」というべきではないか。なぜなら、主体は、戦争をしているどこかの悪者ではなく、わたくし自身なのだから。

「殺すな」には確かにインパクトがあります。でも、ワンフレーズのインパクトのある言葉が正しいとは限らない。もっと堪えて、辛抱して、じっくりとその中身を吟味しなければならない。「ユーセイミンエイカ」にしろなんにしろ、わかりやすいワンフレーズはとても危険です。

▼憲法第9条を改正の動き

憲法第9条を改正しようという動きがあります。それは、日本人がだれかを国の名の下で殺す可能性がある、ということです。逆にいえば、戦争状態になってわたしたちが殺される可能性も含んでいるということです。

「わたしが殺されない社会にするためにはどうしたらいいか」を、人は考えなくてはいけない。「殺される前に殺せばいい」というのは短絡です。頭が悪い。「武器が守ってくれる」というけれど、これも違う。どちらも、戦争を誘発し、殺される危険に晒されることになる。

日本人は、先の戦争であれだけ痛い目にあったのに、どうしてそれをコロッと忘れてしまったのでしょう。戦争で本当に犠牲になるのは庶民であり、わたしたちの大多数がその庶民なのです。それなのに、なんだかみんな自分が後方にいる司令官のような気分でいるらしい。自分や自分の子どもたちが銃を手に戦場へいくとは思っていないらしい。

今日は選挙。わたしは、すでに期日前投票を済ませました。ほんとうに悩んだ選挙です。それでも投票するしかない。なぜなら、それは「わたし自身」の問題なのだから。国とか政府とかがあちら側にいるのではなく、まさに「主権在民」、ひとりひとりに選ぶ権利と責任があるのです。選挙に行きましょう!

松永洋介  9・11総選挙/最高裁判所裁判官国民審査のための資料 2005年09月10日(土)10時26分13秒 http://www.ceres.dti.ne.jp/‾ysk/

いよいよ投票日も明日になりました。さっきも選挙カーがなにか悲壮な雰囲気を演出して走っていきました。
実際には、投票は今日でもできるので、9月11日は「投票締切日」とか「開票日」と呼んだほうがいいのかもしれませんが。わしも昨日の晩に行ってきたし。

投票に行ったら、選挙区の投票用紙と、比例の投票用紙のほかに、最高裁の投票用紙も渡されます。何人もの名前の書いてある、ちょっと雰囲気の違う紙です。
「列挙されている裁判官のうち、やめさせたい人に×をつける」というものですが、裁判官の人たちは選挙運動をやってないし、マニフェストも配ってないし、テレビでも紹介されないので、誰が誰やらわかりません。

せっかくの制度が機能しにくいのはもったいないというので、有志の方が参考資料を作成して公開しています。すばらしい!

2005年9月11日「最高裁判所裁判官 国民審査」に、キチンと参加したいあなたへ
(フリーライター長嶺超輝さん作成)

詳細に、どの裁判官がどんな判断をしてきたかを列挙してあります。
もっと簡単に裁判官のプロフィールを並べたページもあります(背景色のついているのが今回の審査対象の人)
投票に行く前に、ぜひ参考になさってください。

よい投票を!

高橋喜治  「殺すな」 2005年09月09日(金)20時12分49秒
僧侶よ、立ち上がれ、戦争を支持する政治家を拝み倒せ!! へのコメント

 岡本太郎美術館に『「明日への神話」完成への道 展』を観に行ったら常設展の方の等身大の岡本太郎氏の人形のスーツに「殺すな」の文字が(寮さんが岡本敏子さん好きの岡本太郎嫌いであることは知っているのですが、「明日への神話」に興味があって行ってきました...)。ご存知かもしれませんが、なにかと思ったらイラク戦争への抗議のためのアイデアだったらしいのです。元々はその「殺すな」の文字は岡本太郎ご自身によるもので、1965年にベトナム戦争に反対して発足された「ベトナムに平和を!市民連合」(代表 小田実)が翌66年 ワシントンポストに掲載する平和広告のために書かれたのでした。それは同年8月に和田誠氏のデザインによってバッジ化されて、メンバーのみならず広く市民運動の方々にも付けられたそうです(参照)。
 政治家や有権者にもこういう解り易いバッジがあるとよいかもしれないとふと思いました。
 それはともかく「殺すな」..... 9.11の選挙にはこうした解りやすい形での「呪文」が必要であると思います。有事法制や個人情報保護法の上での人を嘗めきった「ユーセーミンエイカ」という怪しげな呪文には決して騙されません。
 この投稿文を書いている間にも陸上自衛隊がロシア製の兵器を研究目的で購入する計画があるというニュースが飛び込んできた。研究目的とかなんとか言ってそうやってどんどん実質的力を溜め込んできている訳さ。改憲路線=日本が戦争を出来る国にすること ここでいいかげんに止めないと、とんでもない恐ろしい悲しいことになるぞ! 
 殺すな!!

高橋喜治  僧侶よ、立ち上がれ、戦争を支持する政治家を拝み倒せ!! 2005年09月09日(金)16時17分48秒
分岐点 へのコメント

 僕は仏教徒ではないが「不殺生」の意味は知っている。仏教徒ならば、それが仏教の根本原理であることはよーく知っているはずだ。だから....
 日本中の僧侶よ数珠を手にして立ち上がれ!!
 今こそ仏教の本領を発揮する時なのだ。
 戦争を支持する政治家を拝み倒せ!!

高橋喜治  分岐点 2005年09月08日(木)01時50分44秒
足踏み台風14号 へのコメント

>ではどうしたらいいか、というと話はエネルギー問題に。
 この台風の惨事とエネルギー問題は、切っても切れないもののように思われます。

 僕もそのように思いました。
 嘗ては一部の人たちにとって原子力が夢のエネルギーのように思われた。でも今ではどう考えたって(現在過去未来いろんな意味で)危なすぎる。全く、とんでもないものを残してくれたもんだ! 「軍事」というものが在る以上およそエネルギーと言える総てが危ないことにかわりはありませんが。
 手塚治虫も宮澤賢治も若干科学的誤謬はあった(賢治に関しては“グスコーブドリの伝説”)けれどだからと言って、その作品世界の魅力は決して落ちることはないと思ってます。何故なら、それを超える「真実」が作品にあるからです(寮さんもそうなのでしょう)。しかし、政治はどうなのでしょう.........
 大災害時と差別との関連でもいろいろあまりにも無惨で悲しい事例は日本にもあった(と聴いています)。
 テレビのニュースで観たのですが、ジャズトランぺッターのウィントン・マリサリスが「今こそ変わるべき時なのだ」と訴え、哀悼の曲を奏でました。とても悲痛な瞬間でしたが、これは決してよそ事ではないと思いました。今、この瞬間の世界に向けられた言葉として厳粛に受け止めました。
 こうした悲劇を回避するためには「知る」ということがいかに重要であるかと思います。差別の大半は無知蒙昧のなせる業であると思えるからでもありますが。他にもいろいろあります。
 今度の9.11は仕掛人の思惑を超えたあらゆる意味での分岐点となることに間違いないと思います。

寮美千子  足踏み台風14号 2005年09月07日(水)01時02分46秒

ニューオリンズは対岸の火事ではない、というような事態になっています。
みなさま、ご無事ですか。
台風の時にはかならずといっていいほど、屋根から落ちたとか、
用水路を見に行って流されたとか、高波にさらわれたという報道があります。
命より大切な屋根も田んぼもありません。
危険なときは、安全な場所でじっとしていましょう!
なによりも命が大事です。

「海や川に近づかないように」とニュースで繰り返しいっているのに、
なぜニュース番組は、波しぶきのかかる防波堤や、濁流の堤防に
レポーターを立たせて中継するのでしょう? あまりに危険です。
もう、いい加減にそんな報道はやめてほしいと心から思います。
安全な場所から、望遠レンズで撮影すればいいではないですか。
危険な現場で報道、というスタイルを当たり前にしてほしくない。
それは、人命軽視に他なりません。
そんな過激な報道合戦に巻き込まれ、
視聴者がそれを当たり前を感じてしまうのも、恐ろしいことです。

それにしても異常気象。
異常であることが当たり前になって来つつあります。
経験則や常識が当てはまらず、いつも何が起こるかわからない状態に、
地球全体が突入しつつあるように感じられてなりません。

地球温暖化と二酸化炭素増加の因果関係は、はっきりと証明されたわけではありません。
長いサイクルの地球的気候変動の一環であるという説もあります。

しかしながら、植物や動物が何億年もかけ
徐々に地の底に固定してきた二酸化炭素(=石油・石炭などの化石燃料)を、
人類がこの百年で一気に大気中に解放していることは事実。
これほど短い期間で、これだけの劇的な大気組成の変化が起こっているのです。
それが、地球の安定状態を壊して、不安定な気候を生みだす、
ということは、容易に考えうることです。
直接の因果関係の証明よりも、そのことをよく考えるべきではないでしょうか。
自然の長きに渡る安定状態にもっと敬意を払い、
大きな変化を起こす自分たちの行為にたいしてもっと慎重になるべきです。

もし、ニューオリンズのような悲劇が地球各地で頻繁に起こるようになったら、
地球はどんなことになってしまうだろう。そう思うと、身の毛もよだちます。

だからといって、二酸化炭素削減のために原子力発電を、
というわけでは絶対にありません。
猛毒のプルトニウムの半減期2万4千年という時間は、
人類の歴史に比べても桁違いに長いもの。
原子力発電所を管理運営する「国」というものが
2万4千年というような長い単位で持つわけがありません。
つまり、未来に対して責任が持てない。いや、現在でも責任が持てない。
通常兵器や地震で原子力発電所が破壊されたらどうなるのか?
ですから、原子力発電は論外です。

ではどうしたらいいか、というと話はエネルギー問題に。
この台風の惨事とエネルギー問題は、切っても切れないもののように思われます。

さらに、人種問題や経済弱者の差別問題など、
さまざまな問題が絡んでいることが、明らかになってきました。

鉄腕アトムで見た夢の二十一世紀は、来てみれば混沌と暴力と破壊の時代。
しかし、そう気づいたからこそ、進路の変更も本気でできるかもしれません。

台風が駈け抜けた頃は、日本は衆議院選挙。
郵政民営化だけが争点ではありません。ほんとうの未来を見据えた投票を!
と思いつつも、どの政党にも?マークが付いてしまいます。
こうなったら、消去法で入れるしかない。
それでも、投票しないよりまし。みなさん、投票に行きましょう!
命を大事にする世界にするために。

台風は、まだまだ暴れる模様です。
ここ相模原でも、一時間ほど前から突然の豪雨が降り出しました。
みなさま、どうかご注意ください。

高橋喜治  二冊の本〜その二 2005年08月31日(水)07時00分32秒
二冊の本〜その一 へのコメント

 無力な自分が嫌になります。
 今出来ることから始めようと思います。

 お奨め本の二冊目は、僕がアイヌの民謡について教えて頂いた鷲谷サトさんのことに関することが書かれた出版されている数少ない本のひとつです。
 僕が鷲谷さんから受けた教えは歌のことに止まりませんでした。鷲谷さんから聴いたお話は、鷲谷さんが受けた差別のこと 戦争のこと 戦争が人間を気違いにしてしまうこと、鷲谷さんがアイヌ文化の推進活動を始められる契機となった朝鮮民主主義人民共和国の民族歌舞団のこと 従軍慰安婦のこと....。
 何故アイヌの鷲谷さんが沖縄戦のことを... というと

>「私は小さいときから、従兄の浦川玉治を兄のように思って育ちました。その玉治は、あの太平洋戦争に駆りだされ、  この沖縄に連れてこられ、-中略- 戦死したそうです。お骨のかけらもかえってきませんでした。略 私たちアイヌは、幼いときから、言葉でいいあらわせないほど、ひどい差別をうけ、いじめられてきました。やっと大人になったとき、たった一枚の紙切れ(招集令状)で兵隊にとられ、たった一枚の紙切れだけがかえってきたのです。今度、教研が沖縄で開かれるというので、矢も盾もたまらずに参加しました。沖縄戦で一番多くの兵隊さんが殺された場所を教えてください。従兄の血がにじんだ土を、ひとにぎりでも持って帰りたいのです。」(〜本の中の鷲谷さんの言葉)

 こうしてこの本は1978年沖縄の那覇市で開かれたに教研=日教組日高教合同教育研究全国集会の一行に加わった鷲谷さんのことから始まります。

 少しでも多くの方々に読んでほしい。

『母と子でみる「沖縄戦とアイヌ兵士」』橋本進編 草の根出版会

高橋喜治  二冊の本〜その一 2005年08月23日(火)11時11分56秒
日本国憲法 第2章 戦争の放棄 へのコメント

 このコメントは寮さんにというよりこの掲示板の一般読者に(出来ればおかあさんとお子さんと一緒に)読んでほしいと思っての投稿です。

 前の9.11からイラク戦争に至る時。「アメリカを支持する」の一言が発せられた瞬間、日本の民主主義は終わったと思えるほどの衝撃を受けた。そのトラウマが癒えないうちにこの解散ドタバタ劇である。「腐り果てた官僚政治をぶっつぶす」と言うのならまだかっこいいが、改憲路線である以上は、先々どうなるか判らない「郵政民営化」は単なる目くらましに過ぎないとも思えるし、少しも安心して支持など出来るものではないし、あの切れ味がかっこいいなんて間違っても思えない。

 戦争と憲法9条の関係を考える上でのお奨めの本2冊を紹介したい。

 戦後間もない1947(昭和22)年に文部省から一冊の教科書が刊行された。「あたらしい憲法のはなし」と言い、中学生の教科書として今の9条の理念が解りやすく書かれていて、どれだけ戦争が悲しく恐ろしいものであるか、その体験からの戦争を二度と起さないという決意と平和への切実な願いに充ちている。しかし、刊行の3年後に朝鮮戦争が勃発し、教科書から副読本に格下され、翌年には副読本としても廃止されてしまった。世界有数の殺傷能力を誇る(誇る? 全く誇りにはならない。悲しむべきことである)今の自衛隊を築き上げるのに邪魔だったので早くから消されてしまったのだ。でも、当時それを読んだ人たちの心には消えることなく生きていた。丁度僕の母より3,4年くらい後の世代の方々である。
 僕はこれをその世代の美術の森顕爾先生からお聞きした。その後年配の方々に機会がある毎に尋ねてみたら、一様に、あれには「希望を感じましたね」というお言葉を頂いた。「9条の会」 は政治権力には消されたけれど人々の心の中では今なお生きているこの崇高な理念を根底に生まれたと言って間違いない。
 以前(昨年の2月)にもこの掲示板上で触れさせて頂きました が、再録させてください。

 六 戦争の放棄
 前文略
いまやっと戦争は終わりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ。おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。
 略
 そこでこんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは。兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは、「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことをほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
 挿絵[大きな釜で、軍艦、爆撃機、大砲など兵器が処分されている。釜の腹に太ゴシックで"戦争放棄"の文字]
 もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということを決めたのです。おだやかにそうだんして、きまりをつけようというのです。
 略
 また戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国となかよくして、世界中の国が、よい友達になってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。
 みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。(〜森顕爾氏の手記より)

 9条の解釈がこの理念に基づくのなら自衛隊は明らかに憲法違反じゃないか。

「あたらしい憲法のはなし」全文

尚、「あたらしい憲法のはなし」は童話屋から出版されている(下記リンク)。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4887470150/

寮美千子  追悼 山田正弘氏 2005年08月18日(木)01時00分29秒

【脚本家、詩人の山田正弘さん死去】 
2005年08月15日 >asahi.com

 山田 正弘さん(やまだ・まさひろ=脚本家、詩人、本名梅原正弘=うめはら・まさひろ)は10日、肺がんで死去、74歳。葬儀は近親者で済ませた。喪主は長男八束(やつか)さん。連絡先は日本脚本家連盟(電話03・3404・6761)。

 吉田喜重監督と組み、映画「エロス+虐殺」「告白的女優論」などの脚本を担当した。テレビでは「中学生日記」「ウルトラQ」などの脚本を執筆した。詩人としても詩誌「氾」などで活動した。
山田正弘氏は、わたしが草思社時代の同僚のお父上。草思社退職後、新日本文学会で何度かお目にかかったり、講演をお聞きしたことがありました。小田急線で帰り道がいっしょだったので、ゆっくりお話ししたことも。もう四半世紀も前のことです。

今でも覚えているのは「最近の中学生は、リアリティをなくしている」というお話でした。理科の実験の時間、ガスバーナーで十円玉を真っ赤に焼いて、それを、ひょいと友だちの背中にいれて、大変なことになったという事件があったとのこと。「中学生日記」のシナリオを書かれていたので、取材の中でそんな異変を実感なさっていたのかもしれません。

その後、その傾向はますますひどくなっているようにも思われます。長崎で小学生の女の子が友人の首をカッターナイフで切って死なせてしまったり、両親を殺して家を爆破する高校生がいたり、本当にそこで何が起こっているのか、自分が何をしたのかという手触りや実感を失っているとしか思えない事件が相次いでいます。山田氏は、そんなことをあの頃から予見なさっていたように感じます。

最近、衛星放送で1950〜60年代の古い邦画をやっていますが、そこには、ごくわかりやすい単純な世界があります。しかし、その物語の単純さに比べ、そこに流れる情感は複雑な陰影に富み、心の温度を実感させます。あれはまだ、世界の手触りを個人の両手で実感できた頃の世界像なのかもしれません。ああいう世界は、いつ遠くへ行ってしまったのだろう。「物語」や「ファンタジー」、そして「芸術」は、実感の希薄な世界に、実感を取り戻す力となりうるのでしょうか。そうでありたい、そうしたいと、後に続く者として、願っています。

山田正弘氏のご冥福を慎んでお祈りします。

寮美千子  日本国憲法 前文 2005年08月15日(月)23時45分27秒
日本国憲法 第2章 戦争の放棄 へのコメント

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民にあることを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人類相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の構成と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

寮美千子  日本国憲法 第2章 戦争の放棄 2005年08月15日(月)23時43分21秒
9.11 あなたは戦争に投票しますか? 平和に投票しますか? それとも、投票しないことで、戦争への道を黙認しますか? へのコメント

第9条

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

寮美千子  9.11 あなたは戦争に投票しますか? 平和に投票しますか? それとも、投票しないことで、戦争への道を黙認しますか? 2005年08月15日(月)23時36分23秒

▼終戦記念日
きょうは8月15日。終戦記念日です。敗戦記念日、が正しい、という人もいますが、戦争には勝ちも負けもありません。戦争には、本当の意味の勝者などいないのです。

▼父の「あの日」
敗戦から60年。その日、わたしの父は17歳。陸軍経理学校の学生でした。後少しで卒業し、将校として赴任するところでした。敗戦の報があった夜、指揮官が学生を集め、檄を飛ばしたそうです。
「このまま負けてたまるか。われわれは軍人である。武器を取ってあくまで抵抗しよう! 討ち死にするつもりで本土決戦だ。抵抗する気のない奴は、いまここで腹を切れ!」
しーんと水を打ったように静まりかえった教室。その時、武器を手にしないとはっきりと意思表示をしたのは、父一人だったそうです。
「玉音放送を聞きました。終戦は陛下のご意志です。それに逆らうことが、帝国軍人のなすべきことでしょうか」
「きさま、腹を切れ!」
上官は、月明かりの下、父に詰め寄ったそうです。その時、父がその圧力に負けずにハラキリをしなかったお陰で、いまのわたしもいるのです。

▼母の「あの日」
終戦の日、母は16歳。山梨の石和の実家にいました。といっても実家は焼夷弾で全焼。母の曾祖母という人は、その時に背中に大やけどを負い、それがもとで亡くなったといいます。
「ひいおばあちゃんが燃えてる! ひいおばあちゃんが燃えてる!」
そういいながら走った空襲の晩のことを、母から、何度も聞いたことがあります。わたしに向かって語ったのではありませんでした。親類が集まった折りや、近所の同年代の婦人が集まった折り、戦争のことがよく語られました。まるで、語らずにはいられない、というように、みんながその話をしていました。その恐ろしい体験を、何度も何度も繰り返し語ることで、癒されようとしていたのでしょうか。ひとり、心にしまいこむには、余りに重い体験だったのでしょう。

終戦の日には、どこかに集まって玉音放送を聞いた、という話を聞いた覚えもあります。こんど、もっと詳しく聞いてみましょう。

最近、親類が集まっても、めっきり戦争の話をしなくなりました。ようやく心の傷が癒え始めたのかもしれません。

▼すぐそこにあった戦争
すぐそばに、戦争がありました。零戦で、回天で、自爆攻撃をした若者たちもいました。日本は、そういう国でした。

いま、自爆攻撃するイスラムの人々を、まるで理解できない狂信的な人々だと思いこみ、テロリストとして恐れる人々がいます。けれども、日本もつい先日まで、そんな国だったのです。そのことを、わたしたちは忘れてはいけないと思います。

▼戦争への道
「北朝鮮を経済制裁せよ!」という声が高まっています。けれども、考えてほしい。日本が先の戦争に踏み切った大きな理由のひとつは、経済封鎖されたことでした。追いつめてはいけない。じっくりと話し合うことが大切です。

経済封鎖や武力で他者を動かすのは、政治ではありません。単なる暴力です。本当の政治とは、そのような圧力をかけたり、武力侵攻することではなく、話し合いで穏便に事を運ぶことではないでしょうか。それが出来る人を「政治家」と呼ぶのではないでしょうか。9月11日の総選挙には「本当の意味の政治家」を選びましょう。

▼日本丸の船長
「郵政民営化」が、こんどの選挙の争点といわれています。しかし、政治家が握っている日本の未来は、それだけではありません。憲法9条を守るのか、改悪するのか。それもまた、政治家たちが握っているのです。いえ、その政治家を選ぶわたしたちが握っているのです。

9.11の悲劇から丸4年。日本丸という帆船は、どこへ向かっているのでしょうか。その舵を握っているのは、わたしたち一人一人だということ、胸に刻みたいと思います。わたしたち一人一人が、未来の航路を決める船長なのです。

高橋 喜治  まだ危ない! 2005年08月08日(月)08時44分14秒
日本政府が有事の際の手引き書を全戸に配布?! へのコメント

遅ればせながらの投稿です。吉木さん、すみません。
最後の3行は別としておっしゃることに強く共感します。
ただ、「丸腰」もなにも僕はとにかく反対なのです。
恥ずかしいことでもあり、それはたとえ丸腰でなかったとしてもです。
寮さんがhttp://ryomichico.net/bbs/cafe0043.html#cafe20050416013049や別のページで既にまとめられていることにほとんど付け加えることはありませんが、未だ本当に危ない状況であることに違いありませんね。
突然ですが、僕は「九条の会」に賛成です(以下のリンクをご参照ください)。

http://www.9-jo.jp/

http://www5c.biglobe.ne.jp/‾kanazuch/bi9kai_index.htm

寮美千子  他者性の必要 2005年07月09日(土)00時21分10秒
お願いします へのコメント

ひよこさま

「おひさま大賞」へのご応募、ありがとう。
童話を書いて、応募するという意欲のあることは、すばらしいことです。
がんばってください。

しかし、ちょっと困ったことがいくつか。

ご応募になられたのは「お日さま大賞」じゃなくて「おひさま大賞」です。
ご自分で応募した賞の名前を間違えないように。
また、投稿フォームにも明記してあるように、
この掲示板では、まず、自己紹介をしていただくことになっています。
ご投稿前に掲示板のご案内をご一読ください。
さらに、この掲示板 Cafe Lunatique は、政治などの「重い話題」の掲示板です。
雑談などは、もう一つの掲示板 Cafe Lumiere へお願いします。

意欲があるのはいいのだけれど、独りよがりはいけません。
きちんと、どんな場所で、誰に向かって語っているのかを、意識しましょう。
つまり、対話の相手=他者、を意識するということです。
他者という存在を意識することなしに、独り言のようにつぶやいても、
相手には何も伝わりません。

創作も同じことです。
自分のなかに深くはいっていき、その底にあるものを見つめることは、もちろん大切。
けれど、それだけでは独りよがりになってしまいます。
そうやって見つめた自己を、一度、突き放してみる。
自己を客観視して、
どうやったらそれが「他者」に伝わるのか、それを考えなければなりません。
「他者性」の欠如した表現は、自己満足にしかなりません。

以上のことを考えて、ぜひもう一度、ご自分の作品を見直してみてくださいね。
きっと、それだけで、ぐっといい作品に生まれ変わるはずです。

ひよこ  お願いします 2005年07月08日(金)23時18分34秒
▼時の破片:22 Jul. 2003 おひさま大賞予備審査 へのコメント

はじめまして。

今回のお日さま大賞に応募させていただいた者です。
応募作品にアドバイスできる場があれば、作品が向上する
であろうというお気持ちに感謝いたします。

ほんと、アドバイスいただきたいです〜(泣)。



寮美千子  さようなら 長新太先生 2005年07月01日(金)16時25分58秒

【絵本作家の長新太さん死去】
2005年06月26日18時25分>asahi.com

 素朴でユーモアあふれる作風と、奇抜な発想で知られる絵本作家の長新太(ちょう・しんた、本名鈴木●治=すずき・しゅうじ、「●」は「秋」の下に「手」)さんが、25日午後3時17分、中咽頭(いんとう)がんで死去した。77歳だった。通夜は30日午後5時30分、葬儀は7月1日午前9時30分から東京都品川区西五反田5の32の20の桐ケ谷斎場で。喪主は妻フミさん。

 東京都生まれ。高校卒業後、漫画をかき始め、戦後間もなく新聞の漫画コンクールに入選して漫画家に。その後、絵本、エッセーなどに活躍の場を広げた。

 特に絵本の分野では、大胆な絵と意表をついたストーリー展開で、数々の秀作を生んだ。「ごろごろ にゃーん」「キャベツくん」シリーズ、「なんじゃもんじゃ博士」などで多くのファンを持つ。

 59年、「おしゃベりなたまごやき」(文・寺村輝夫氏、福音館書店)で文芸春秋漫画賞を受賞。このほか、「ゴムあたまポンたろう」による日本絵本賞(99年)など受賞多数。94年には紫綬褒章を受章した。

 5年前からがんのため入院、手術を繰り返していた。今年5月に入院する際に出版社に「これが最後になりますね」と渡した「ごろごろ にゃーん」の続編は、来年4月に刊行される予定。病床でもゲラのチェックを続け、最後まで創作意欲は衰えなかった。
1995年にはじまった「おひさま大賞」。わたしが審査員に加わったのは、第2回だったか3回だったか。そこでごいっしょさせていただいたのが、長新太先生でした。

あの伝説の「長新太」氏が目の前に。わたしは思わず、見つめずにいられませんでした。作品と同じひょうひょうとした雰囲気。世間、というものなんか全然関係ないっていう感じなのに、仙人みたいに浮世離れした雰囲気とはまったく違う。もっともっとやわらかで、やさしくて、「長新太的」としかいいようのない、独特の雰囲気を醸しだされていました。

そのご発言が、またすばらしかった。日常を易々と乗り越える大胆な発想。そして、あくまでも「絵描き」の観点からの意見。世界を、徹底的に「絵」として理解し感じていらっしゃることが、ばしばしと伝わってきました。その物言いはとても静かで穏やかなのに、強いオーラを感じました。

時にそれは、物書きとしてのわたしの観点とは違ったため、生意気なわたしは、反対意見を述べたこともありました。けれど、そんななかで、「そうか、そういう見方もあるのか」と、どんなにか学ばせてもらったことでしょう。年に一度、長新太先生のものの見方、感じ方に直にふれられることは、わたしにとって、かけがえのない大きな宝物になりました。

長先生は、病を得られてからも、審査会にご出席になっていらっしゃいました。昨年、はじめて審査会をご欠席になられ、お加減が悪いと知りましたが、あの長先生のこと、必ず復活なさると信じていました。

きょうは、そんな長先生のご葬儀の日。海開き、山開きの日に遠く旅立つなんて、長先生らしいなあと思います。夏休みが始まったばかりの子どものように、どこまでも境界線のない無限の海山へ、虫採り網のかわりにクレヨンを握りしめて、元気に旅立たれたように思われてなりません。

長先生にお目にかかれたことは、わたしにとって大きな宝物です。あちらで、元気にご活躍しているお姿が、目に浮かぶようです。また、お目にかかりましょう!

【長新太の世界】
http://www.geocities.jp/doro2067/cyo-front.htm

寮美千子  七生養護学校 性教育教材返還求め提訴/観念と現実のギャップを埋めよう! 2005年05月16日(月)14時18分47秒
テレビ放映のリスク へのコメント

【養護学校の性教育教材返還求め提訴】(12日 21:45 TBS 7days HEADLINESより)

 東京の養護学校で行われた性教育が不適切だとして、東京都教育委員会などが教材を没収したことに対して、教師や保護者らが不当な介入だとして、教材の返還などを求める訴えを起こしました。

 東京地裁に提訴したのは、日野市の都立・七生養護学校に勤務していた教師や保護者ら27人です。
 
 訴えによりますと、七生養護学校では障害を持つ子供たちへの性教育には具体的な教材が必要だとして、性器の名前が入った人形などを使った教育が行われていました。しかし、おととし7月、この教育が「不適切」だとする都教委や都議らが学校に立ち入り、教材を没収したということです。
 
 原告の教師らは、都教委などの対応は障害を持つ子供への教育のあり方を理解しない不当な介入だとして、教材の返還と2600万円余りの損害賠償などを求めています。
新聞でこのニュースを見た直後、都立七生養護学校に勤務する友人より提訴の報告メールが来ました。がんばっているKさん! ここに、一部再録させていただきます。
ご無沙汰しています。お話ししました七生の性教育に関する提訴を行いました。
TBSのホームページで入廷の様子、記者会見の様子を見ることができます。
http://news.tbs.co.jp/20050512/newseye/tbs_newseye1190308.html

数日後には無くなってしまうと思うので、お早めに見ていただければと思います。
私も話したのですが、映像には映っていませんでした(笑)。
横断幕を持っての入廷はやらせなのですが、
まさか自分がこんなことをする人生を歩むなんて誰一人予想していませんでした(笑)。

提訴・記者会見・提訴集会・交流会・・・とめまぐるしい一日でしたが、
ここまで来たか・・・そしてこれから始まるんだなという思いです。
原告団27名の一人ひとりの思いを登壇し語りました。
会場に集まって下さった方々、また遠くで心配して下さっている(だろう?)
みなさんの支援の声や、15名の弁護団メンバーの存在の大きさに
今更ながら胸がいっぱいになります。

ある原告団メンバーがこんなここと語りました。
「私は、原告にはなるつもりがなかった。少し離れて応援するつもりだった。
 でも、様々な方々や出来事との出会いに次々と感動が押し寄せ、
 私をここに立たせています。」
私も、本当に同感です。

*「七生養護の教育を支える日野市民の会」が立ち上がり、
ブックレットが刊行され、人権救済の申立人が短期間に8000名を越え、
東京弁護士会からの尊い「警告書」が出された。
関係団体と協力して、集会もあちこちで開いた。
呼ばれればどこへでも「語り」に言った。
取材にも精力的に応じた。
出きる人が出きることを、出きるときに必死になってやって来た。
しかし、石原率いる都は何も誠実には応えてこない故、提訴に踏み切った*

・・・こんな経過でした。
たちまち15名の弁護士が名を連ね、
原告団・支援組織が立ち上がり5/12を迎えました。めくるめくここ数年です。

また、みなさんにご協力いただくことがあるかも知れませんが、
よろしくお願いします。取り急ぎにて、提訴の報告をいたしました。
最近つくづく思うのですが、人間「観念」や「主義主張」だけで動いてはいけない。七生養護学校から性教育教材を没収し、指導教員を処分した人々は、障害を持つ子供とのコミュニケーションが実際にどのようなものなのか、それを体感しようとはしませんでした。単に教材だけを見て「これは過激だ」と判断してしまったのです。それは、自分の中にすでにある抽象的な観念に照らし合わせての主観的判断で、「障害児教育」という現実を見ての客観的判断ではなかったのです。

もちろん、人間は誰しも完全に客観的になることはできません。自分からどんな距離にある事象に対してでも常に主観が入ってしまう。だからこそ、客観を心がけなければならない。自分の判断を簡単に絶対化しないで、いつも「ほんとうにそれでいいだろうか」と自問しなければならない。簡単な言葉でいえば「相手の気持ちになる」ことが大切なのです。

その時に不可欠なのが「現実を現実のままに見る」ことだと思うのです。障害児と先生がどんなコミュニケーションを持っているのか。そこでどんなふうに教材が使われているのか。それをきちんと見ないで、教材だけ切り離して判断することなど、できるはずもないことです。

わたしは、七生の教育を参観したいと思いましたが、このような事件のごたごたがあったため、それは叶いませんでした。しかし、授業のビデオを見ただけでも、そこに流れる温かい雰囲気を感じることができました。文字だけで見たら「過激」と思われる言葉も、実際にその場で愛を持って語られれば、まったく違うものになるのです。文字はいわば抽象と観念の産物であり、現実は観念だけではない様々なものの集大成なのです。そして、簡単に文字化できないその部分にこそ、様々な大切な思いが込められているのです。

余談になりますが、わたしの仕事は、その観念でしかないはずの文字に、観念以外の「なにか」をどれだけ載せられるか、ということだと思っています。自作をたびたび朗読するのも、文字を声に戻してやることであり、そこにそのときだけしか生じない「場」や「座」を、人々と共有することだと感じています。

七生の子供たちのなかには、家庭のきびしい事情ゆえ、虐待(注)を受けてきた子もいます。この世に生まれてきたことを否定されるような体験をしてきた子にとって「あなたは愛され祝福されてこの世に生まれてきたのだ」ということを伝えることは、本当にむずかしいことです。そのむずかしいことに日々チャレンジしてこつこつと成果を積み上げてきたのが、七生の教育でした。性教育も、そのなかの極めて大切なことのひとつだったのです。

性被害被害者にならない、加害者にならない、というきわめて現実的な側面以外にも、性教育には深い心の問題にかかわる側面があるのだと、七生の友人は話してくれました。例えば、ふわふわの生地でつくったトンネル。これは産道の模型で、暗くて温かい産道を、トンネルくぐりの遊びのようにして通過した瞬間、その子は「お誕生、おめでとう!」と、大きな祝福と拍手をもって光の中に迎え入れられます。そんなことを何度も何度も繰り返していくうちに、子どもは、少しずつ傷を癒し、祝福されてこの世に生まれてきたことを体感していくのです。

そんなことまで含めての「性教育」です。その実体を見ず、感じもしないで、観念だけで「過激」と切り捨てる人々の心の貧しさを思うと、情けなく、そして悲しくなります。

政治は、抽象や観念の産物です。だからこそ、そこにあるひとつひとつの現実に寄り添う気持ちなくしては、まともな運用はできません。今回の提訴。司法が、観念ではなく、ほんとうにそこにある現実をきっちりと見つめてくれることを願うばかりです。寮美千子は、七生で行われてきた性教育を応援します。

(注)「虐待」と一言で言っても、親自身が社会の歪みに起因する辛い人生を引き受けて生きている場合も少なくありません。それゆえの哀しい連鎖が児童虐待を産んでしまうこともあります。また、子どもを引き取りたくても、経済やさまざまな事情によって引き取れないこともあります。虐待した親だけを責めればいいという問題ではなく、そのように歪んだ社会をどう是正するか、から考えなくてはならないと思います。そして、それもまた大きな政治的課題なのです。

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