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寮美千子  独居者を見守るための具体的な提案/iポットという方法 2005年04月25日(月)16時49分42秒
「ほら、見て。生きているのよ。」 へのコメント

▼敏子さんの、突然の死

鳥海さん。カフェルミへのご投稿、拝読しました。
とても大切なことを語ってくださっているので、こちらカフェルナ掲示板にも転載させていただきました。
あわただしい日常生活の中に訃報が舞い込んできてから、
心のどこかを意図的に麻痺させるようにして、
ひたすらあわただしく暮らしてきました。
最期の姿を想像して、どうにもやりきれない思いでいました。by 鳥海さん
岡本敏子さんの突然の死、わたしもやり切れない思いでいっぱいです。
新聞記事には、敏子さんの最期の姿が、このように報道されていました。
【岡本敏子さんが自宅で急死 岡本太郎記念館館長】共同通信記事4月20日

 20日午前10時ごろ、東京都港区南青山6ノ1ノ21、岡本太郎記念館館長岡本敏子さん(79)方の自宅で敏子さんが死亡しているのを同館職員が発見、110番した。病死とみられる。
 敏子さんは画家岡本太郎氏の養女で千葉市出身。同館によると、敏子さんは同館横のマンションに一人住まいで、風呂場で倒れていた。職員らは18日夕から敏子さんの姿を見ていなかったという。
▼独居者の死という危険性

あれほど活動的で、あれぼど人に囲まれていた岡本敏子さん。
その敏子さんが、マンションのお風呂場で倒れ、
丸一日以上発見されなかったという、典型的な独居老人の死を遂げたことに、
大きなショックを得た人は、多かったと思います。

敏子さんの死を、いくら心のなかで神話化して、
太郎さんとの愛の全うの姿であると、そう自分に言い聞かせたとしても、
どうしても拭えない思いがあります。
最期の時、苦しまなかっただろうか、
助けを求めようとして、求められなかったのではないか、
発見が早ければ、助かったのではないか、
という思いが、後から後から、どうしても湧いてきてしまいます。

しかし、このような死は、老齢であるかないかに関わりなく、
実は、独居者にとっては、常に可能性のあるものです。
敏子さんの死を心のなかで神話化するだけではなく、
いかにすれば、それを防ぐことができたかを、真剣に検討しなければならないと思いました。

▼具体的な提案

わたしは、ご近所に住む80歳の和子さんという方とおつきあいしています。
和子さんは、一人暮らし。
お元気ですが、いつなにがあるかわかりません。
しかし、昔の長屋のように、いつもいつも声をかけあうというわけにもいきません。

そこで、文明の利器を使うことにしました。「みまもりホットライン」のiポットです。
これは、電気湯沸かしポットがインターネットと接続されていて、
お湯を使用するたびに、その使用時間が記録され、
一日に2回、メールで指定されたところへ配信されるというものです。
和子さんのお宅では、iポットを導入。
一時間ほど離れたところに住む娘さんのところと、
同じマンションに住むわたしのところへ、メールが配信されてきます。

これで「ああ、和子さんはきょうは早起きだな」とか、
「ずいぶん遅くまで起きているなあ」とか、わかるわけです。
旅行や遠出の時は、前もって知らせてもらうことになっているので、
長い時間使用されていないときは「何かあったのかしら?」と
電話をしたり、直接訪ねたりすることができます。

メールなので、わたし自身が旅行中でも、旅行先からメールチェックして、
和子さんが元気かどうか、確かめることができます。
実際、旅行先で毎日、ご近所のおばあちゃまのことをチェックするのは、
気苦労といえば気苦労ですが、それで、一人暮らしの和子さんのことを
見守ることができるのだと思えば、大した労力ではありません。

「みまもりホットライン」を実際に使ってみて

使い始めの時は、失敗もありました。
和子さんが、お茶を飲まず、冷たい飲み物ばかり飲んで、
ポットを長時間使用しなかったことがあったのです。

午後3時頃からずっと使用していないということに気づいたのは、深夜3時すぎ。
何かあったのでは?と、胸騒ぎがして、さあどうしようと焦りました。
電話、という手もあるけれど、もしもぐっすり寝ていたら?
しかし、そんなこといっている場合じゃない。
ともかく、わたしはすぐに和子さんの家にかけつけました。
玄関の呼び鈴を押すと、元気な声の和子さん。
「あら、ちょどよかったわ。目が覚めちゃったところだから、お茶でもどうぞ」
って、もう!暢気なんだから。
午前3時です。さすがに辞退して、戻りました。

わたしは、万が一の時のために、和子さんの家の鍵を預かっているので、
もしも返答がなければ、家に入ろうと思っていました。

わたしは、和子さんに
「ポットは使わなくても、寝る前に必ず押してね」と念を押し、
それ以来、あの時のようなことは、起こっていません。
使い方に留意は必要なものの、それさえお互いの合意でクリアできれば、
かなり使える便利なシステムです。

▼文明の利器を使って見守る!

同居していても、朝起きたら、お風呂の中で冷たくなっているのが見つかった、
などということもあり、万全ということはありません。
敏子さんも、恐らく周りの方々がとても気を付けていらっしゃったことでしょう。
不運なエアポケットのような時間に、事故が起こってしまったのかもしれません。

いかに周りに人がいるとはいえ、独居者には、そうでない人よりも、
すぐに見つけてもらえない率がずっと高くなります。
iポットのような方法で、自分の身を守るということも大切ではないでしょうか。

見守る方にとっても、いちいち朝夕電話をするのは億劫でも、
このような形で見守ることができれば、安心です。

というわけで、「みまもりホットライン」のiポットをご紹介します。
現在は、ポットだけではなく、トイレや冷蔵庫の扉の開け閉めなど、
さまざまな方法も考えられているようです。
一人暮らしの親や友だちのいる方、ぜひご検討ください。
って、わたしもそうか。

「みまもりホットライン」のホームページは、以下に。

http://www.mimamori.net/

鳥海  「ほら、見て。生きているのよ。」 2005年04月25日(月)16時35分50秒 http://www.age.ne.jp/x/toriumi/
岡本敏子さん逝く へのコメント

寮さん、お久しぶりです。
奈良滞在中はお会いできずに残念でした。
門坂さんの個展会期中に是非ともお会いできれば嬉しいです。
少し久しぶりにこちらにお邪魔します。

「太陽の讃歌 故岡本敏子氏に捧ぐ」を拝読しました。
あわただしい日常生活の中に訃報が舞い込んできてから、
心のどこかを意図的に麻痺させるようにして、
ひたすらあわただしく暮らしてきました。
最期の姿を想像して、どうにもやりきれない思いでいました。

けれど、今、寮さんによる言葉に触れて、
敏子さんという身体の存在が不在に転じた事実を
一篇の物語を読むようにして理解することができました。
敏子さんが独りで生きることも、独りで死に逝くことも、
タローと敏子さんとの愛の表現方法のひとつであって、
それほどまでに愛に満ちていたのだとも。
太郎と敏子さんの愛のかたちは、
敏子さんによる小説「奇跡」のモチーフとなっていますね。

自身の中で分断されていた哀しみの回路が繋がったようで、
おかげで哀しくてしかたありません。
でも、寮さん、ありがとう。
いつもあなたの言葉が、
哀しいときは哀しんでいいといってくれる。
そして、自身の存在と有形無形の無数の生命の存在とをつなげてくれる。
昨夏に吹田にお招きしたときの敏子さんの言葉から。

「太陽の塔を”世界遺産”なんていうのはよくないわ。
 ”遺産”っていうのは、死んでしまったものに使う言葉でしょ。
 だって、死んでなんかいないもの。 
 ほら、見て。生きているのよ。」

              【カフェルミ掲示板より転載>寮美千子】

寮美千子  言葉を紡がずにはいられない 2005年04月23日(土)04時03分14秒
オマージュ へのコメント

勇崎さん。
おやじギャグを連発せざるをえない勇崎さんの深い哀しみ、
ひしひしと胸に迫ります。実は、わたしもうろたえています。

敏子さんは、ずっとずっと生きていくような気がしていた。
ずっとずっとあの元気さで語り続けると思っていた。
突然、逝かれてしまって、
敏子さんが、わたしのなかでどんなに大きな存在だったか、
愚かにも、いまはじめて知ったのです。驚きました。

敏子さんのことばかり、考えてしまう。
あのとびきりの笑顔が浮かんで仕方ない。
小さな体にふんわり羽織った色鮮やかな服。
その裾の翻るのが、鳥の翼のように思われて、
そのまま、空へ飛び立ったように思えてならない。

「愛」について考えてしまう。
全身が「愛」で弾けていた敏子さんについて。

敏子さんのこと、こんなに好きだったなんて、
わたしは、自分で気づかなかった。

勇崎さんが、心の置き場がなくて、
おやじギャグを連発せずにはいられないように、
わたしも、言葉を紡がずにはいられない。
そうせずには、心の収りようがない。
どうしたらいいかわからない。
わたしはつくづく、自分は言葉の人なんだと思う。

それでも、思っていた何分の一しか言葉にできない。
もやもやと形をなさず、漂っていた何かが、
何だかわからないまま、言葉という網の目からすり抜けていく。

それでも、やっぱり言葉にしたい。
すり抜けるものもたくさんあるけれど、言葉で掬えるものもある。
忘れたくないいまこの時の思いを、化石のようにとどめたい。
わたしが忘れてしまっても、
時の果てで、いつかわたし自身が発掘できるように。

勇崎さん。敏子さんは、ほんとうにすてきな、すばらしい方でした。
人生のほんの一瞬でも、敏子さんという方に触れることが出来てよかった。
出逢ったからこそ、別れの哀しみは余計に身にしみるけれど、
この哀しみも、出会いの喜びがあったからこそ、と思えば、
哀しみさえ、いとおしいのです。
敏子さんとの出逢い。それは、わたしの宝です。
勇崎さんのおかげです。ありがとう。

勇崎  オマージュ 2005年04月23日(土)00時58分58秒
敏子さん、おしあわせに! へのコメント

岡本敏子さんへのオマージュを拝読し、
はずかしながら、眉の下方より汗しました。

このようにすぐに言葉として表出できる詩人がうらやましい。

決して、79歳で逝かれるかたではなかったし、
まだまだ教えてほしかったのですが、
僕は、この歳になったせいなのか、
大切な人の訃報に接したとき、悲しみやつらさと同時に、
発因から永久の眠りにつくまでの時間、
苦しまずに済んだのだろうか、、、
そうであってほしい、
と手をあわせてしまいます。

痛みや苦しみを経ずに、
太郎さんのところにいけて、
よかったね。
と思いたいんですよね。

僕の今日は、MARIKOさんのワークショップ系同報メールに
4回もおやじギャグとばして、
まぎらしていました。

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馬渕公介  歴史の伝承 2005年04月22日(金)03時50分51秒
サマータイム法案/地元国会議員へのアピール へのコメント

最初のサマータイムは日本がまだ被占領国だった昭和23年5月2日にはじまりました。
この年は9月10日まで。翌年は4月3日からはじめたりしてます。
27年には廃止になりましたが、つまりは占領国アメリカに迎合してたんですよ。
迎合だからさ、占領が終わったら元にもどしたわけ。

当時の新聞を読み返したことがあるんですが、大人たちは、疲れた、疲れたっていってます。
外が明るいもんでついつい残業してしまうんですね。一時間余分に活動してしまう。
つまりサマータイムは、巨大なビルや工場の冷房や電灯の稼働時間が1時間延びることなのですねー。

個人が早起きするのは身体に良いのですが、組織が1時間早く動き出すのは体に悪いと
歴史は語っているようにみえます。

それともう一つ。3月4月の北国はまだ雪が残っているし、降ったりするわけです。
ね。そういうところの方々どう考えているんですかねー。

サマータイムはかつてはアメリカ中心主義が根底に横たわってましたけど、
今日、国内に絞ってみても、東京中心主義、あるいはヤマト中心主義の
ゴーマンが横たわっていると言えるかもしれません。敬具


権力は古来より「時」を支配して自己顕示したがるものでございます。
ああそうだ。
プログラムの組み替えをせーの、て、一気にやりますと、当然大慌てで外注しますから
前回2000年がそうであったように、かならずデータが流失いたします。
これも歴史が雄弁にかたっておりますね。
もちろん犯罪者の発生は前回の比ではありません。



ちなみに、へーへーボタン、しますれば、
当時明治生まれの年寄りたちは、「サンマ・タイム」と発音しておりました。



松永洋介  サマータイム法案/地元国会議員へのアピール 2005年04月22日(金)01時18分09秒 http://www.ceres.dti.ne.jp/‾ysk/

サマータイム制の導入の動きが、また活発になっています。推進派にとっては「三度目の正直」だそうですが、わしとしては「二度ある却下は三度ある」といきたいところです。(前回の運動は1995年〜99年頃、その前はいつだったのかな?)

現在、超党派の「サマータイム制度推進議員連盟」は法案の内容を固め、各党での議論を経て連休明けにも上程されるという、切迫した状況です。「サマータイム反対!」とかネットの掲示板に書いてるだけでは事態はほとんど好転しないので、こんな手紙を書いて、地元の国会議員に電子メールで送ってみました。
○○さま
スタッフのみなさま

△△在住の☆☆と申します。
気になる法案が国会に提出されるとの報道を見て、お手紙さしあげます。

 先日の読売新聞で、「サマータイム法案」が来月にも国会に提出されるとの決定を知りました。
 http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20050415it11.htm

 私は、サマータイム導入の動きには以前から興味があり、資料を読み、知人とも議論し、さまざまな観点から考えてきました。

 今回サマータイムを推進している「生活構造改革フォーラム」(財団法人社会経済生産性本部)の説明によると、主な目的は三つです。
1.省エネ
2.経済効果
3.充実したライフスタイルの実現
 しかし、よく検討してみると、その目的のどれも、「サマータイム制度を導入すべし」という結論に至ることができません。

 以下、私が検討した内容です。
 データには主として生活構造改革フォーラムの試算を用いました。効果やコストの点で楽観的すぎるとの疑いもありますが、議論の前提なので、これを採用して話を進めます。(なお、生活構造改革フォーラムは、前回サマータイム導入に失敗して解散した「地球環境と夏時間を考える国民会議」による10年前の試算をそのまま流用しています。代表は今回と同じ茅陽一氏)

【省エネ効果・経済効果】

 サマータイム制の導入には、楽観的な見積もりでも1000億円規模の費用が必要となります。(資料1)

 簡単で確実な省エネ対策としては、夏場の軽装による冷房の緩和が一番です。
 これは導入コスト、運用コストともほぼゼロです。つまり、サマータイムに比べると1000億円の節約です。しかも、家庭を除外してオフィスのみで実施したとしても、その省エネ効果はサマータイムを上回るのです。(資料2)
 省エネには、まず最初に「夏の軽装」を推進すべきです。

 太陽光発電・燃料電池・マイクロ風力・マイクロ水力等の新エネルギー(自然エネルギー)の普及が進めば、温室効果ガスの削減は確実です。事業としても創造的で、投資が将来に生きます。サマータイム制では、費用に比べて削減効果が薄く、将来的な投資にもなりません。
 温室効果ガスの削減には、自然エネルギーの普及に注力するのが効果的です。

 自然エネルギーの推進は、わが国の安全保障も兼ねます。
 現状主流である大規模発電・送電システムは、排出物の問題とは別に、災害やテロに弱いことが知られています。電力の生産地と消費地が離れてしまうため、長大な送電線の維持と防衛も必要です。最近では、組織腐敗や従事者のスキル低下による、これまで想定されてこなかったタイプの事故の可能性も浮上しています。
 自然エネルギーは分散発電に向いています。分散発電なら、災害やテロの際も、破局的なダメージを避けることができます。

 分散発電システムが普及すれば、日常的なメインテナンス需要による、地域密着型の安定した雇用が見込まれます。

 わが国では、石油資源・ウラン資源ともに輸入品です。国内で調達可能なエネルギーを活用して石油依存を脱することは、地域としての自立性を高め、わが国の国際的な地位を強くします。(資料3)

 エネルギーも地産地消の時代です。サマータイム制の導入に使う資金があるなら、自然エネルギーによる分散発電システムの普及に投資すべきです。

【IT技術者にしてもらうべき仕事】

 サマータイム制の導入には、大規模かつ広範なソフトウェア改修が必要になります。改修の必要な領域は、大騒ぎになった「コンピュータ2000年問題」をはるかに超えます。2000年問題では、不具合を起こすシステムのみの改修でしたが、サマータイム制が導入されれば、正常に動いているシステムも含めて、ともかくすべてを作り直さなければならなくなるからです。
 コンピュータ・システムの変更作業で経済効果が、という話がありますが、その「一時的な儲け話」は、大袈裟でなく、わが国の国力低下を招くと思います。数に限りのあるIT技術者たちが、サマータイム対応のための「本来しなくてもいい、創造的でない仕事」をこなす間、先端分野への注力ができません。それはわが国のソフトウェア産業の進歩を停滞させ、わが国が国際的リーダーシップを取る機会を失う要因となります。
 私の懸念は、サマータイムに賛成する人たちが、そういうコストまで考慮に入れて賛成しているようには見えないところです。

【軽視できない時刻変更の負担】

 サマータイム制が導入されると、年に二回、全国民が、身の回りすべての時計について、時刻合わせをしなくてはなりません。いまや家庭は電子機器でいっぱいです。ためしに、時計やタイマー機能のついた製品を数えてみます。  掛時計、目覚し時計、腕時計、炊飯器、電子レンジ、洗濯機、エアコン、お風呂、テレビ、ビデオ、ビデオのリモコン、ラジカセ、携帯ラジオ、留守番電話、電話の子機、携帯電話、パソコン、カメラ、自動車、カーナビ、……。すぐに思いつく一般的なものだけで、これだけあります。もっとあるかもしれません。
 ○○さまは、これらの時刻合わせを自力でできますか。私の母と祖母には、絶対にできません。実家の時計の大半は、サマータイムに突入しても、以前の時刻を指したままになるでしょう。
 「合わせ損ね」の時計による混乱が起きることは確実です。そのとき、誰が損失を補ってくれるのでしょう。時計を合わせられない人が責任をかぶるべきなのでしょうか。

 時刻を合わせるのに、各製品の取扱説明書を探す時間も考えたら、一つ五分でできたら上等でしょう。、十個あれば一時間はかかります。サマータイム制が導入されたら、全国民が毎年二回(始まる日と終わる日)、この作業を強いられます。自給千円の労働と考えれば、作業人口を一億人として、実に二千億円の労働に相当します。それが毎年です。
 サマータイム制の運用には、巨大な国民的損失が伴うのです。

【ライフスタイルについて】

 生活構造改革フォーラムは「充実したライフスタイルの実現」を掲げています。
 しかし「そのためにはサマータイムが必要」という合理的根拠は示していません。

 単純に考えて、時差出勤・フレックスタイム制の方が、社会的なメリットは大きいはずです。時差出勤が普及すれば、通勤ラッシュが緩和されます。通勤時の苦痛は緩和され、鉄道や道路といった社会インフラの必要水準は下がります。大規模なコスト削減が可能になり、しかも導入コストはサマータイムとは比較にならないほど低いのです。
 とりあえず「中央省庁の始業時刻を変更する」だけでも、勤務時刻が分散化され、通勤者の苦痛を緩和し、過剰な投資を回避する効果が見込めるのではないでしょうか。サマータイム制では、ラッシュ・ピークを引き下げる効果はありません。
 サマータイムの前に、時差出勤・フレックスタイム制の普及を推進すべきです。

 また「夕方の明るい時間が活用できる」という説明があります。ご存じのように、わが国で「夏の夕方」といえば、大半の地域、特に都市部では、いちばん外に出たくない時間です。サマータイム制を活用しているという西欧諸国とは、気候がまったく異なるのです。
 朝の涼しい時間に、ジョギングや庭いじりや犬の散歩をしている人たちがいます。そういう人には夕方に変更せよというのでしょうか。熱射病で倒れる心配が先に立ちます。犬の散歩など、夕方にはあまりにも酷です。日が落ちて時間が経って、アスファルトが十分冷えてからでないと、犬が死んでしまいます。
 サマータイム制が導入されると、朝の豊かな時間が一律に奪われてしまいます。代わりの時間はありません。

 農業・漁業に従事していると、時計が進んだからといって仕事の時間を変更することはできません。会社への出勤の時間が一律に早くなってしまうと、農家の大半を占める兼業農家では、朝の時間に行うべき農作業ができなくなり、ライフスタイルが崩壊してしまいます。
 サマータイム制の導入は、わが国の食料生産に悪影響を及ぼしかねません。

 忘れてならないのは、西日本ではすでにサマータイムを実施しているのと同様だということです。
 夏の沖縄では、まだ明るく日差しのきつい時間に、東京からの「こんばんは」という放送が流れます。サマータイム制が導入されれば、さらに一時間太陽は高くなります。問題になっている深夜型のライフスタイルに拍車がかかるだけです。いったい、何のメリットがあるのでしょう。

 サマータイム制の導入は、「それぞれの地域、それぞれの職業、それぞれの家族、それぞれの人」に由来する、多様なライフスタイルへの配慮を欠いています。
 日照の変化に生活を合わせるなら、時計の針を全国一律に進めるサマータイムでなく、「必要な地域で、必要なだけ」登校や出勤の時刻を調整する方が、国民全体の利益になります。

【お願い】

 サマータイム法案が党内で議論されたら、その議論の内容をオープンにしてください。
 いま手に入る資料で検討するかぎり、考えれば考えるほど「導入すべきでない」という結論が出てしまいます。その一方、推進派の言い分が、さっぱり聞こえてこないのです。
 超党派の「サマータイム制度推進議員連盟」にしても、ホームページもなく、どなたが参加しているのかさえよくわかりません。推進団体の「財団法人社会経済生産性本部・生活構造改革フォーラム」のホームページに書かれている内容は、ほぼ完全に論破されています。どういうつもりで法案を提出するのか、ぜひ党内での議論を通じて明らかにしていただきたいのです。

 サマータイム制が導入された場合、予測されるデメリットは、具体的にいくつも指摘できます。メリットは、あるのかないのか不明です。
 つまり、わが国へのサマータイム制度の導入は「すべきでない」と考えざるを得ません。不明瞭な効果に対して、導入コストも運用コストも、考えられるリスクも、あまりにも大きいのです。

 しかも、重大なことに、国民への説明がほとんどなされていません。導入を強行すれば社会は混乱し、高いコストとの相乗効果で、国力の低下を招くことは間違いありません。
 サマータイム制の導入については、ぜひとも、十分な時間を費やし、広く開かれた議論を展開していただきたく存じます。
 どうぞよろしくお願い申し上げます。


 上記の内容につきまして、何かご不明な点などあれば、☆☆までお問い合わせください。可能なかぎりの対応をさせていたださます。

 お忙しいところ、突然このような手紙をさしあげ、失礼いたしました。今後ますますのご活躍を期待しております。

氏名
メール
住所
電話

----------

▼資料1
サマータイム導入による「省エネ効果(原油換算)50万キロリットル」(財団法人社会経済生産性本部・生活構造改革フォーラム)
http://www.seikatukaikaku.jp/summer/d.html

オフィスの「冷房温度を全国で1℃上げれば、1年間で原油換算約84万キロリットル分のエネルギーを節約できる」(環境白書 平成9年)
http://www.env.go.jp/policy/hakusyo/honbun.php3?kid=209&bflg=1&serial=10300

「カジュアルな服装が許されない場合でも、たとえばデスクワークの間だけでもネクタイをはずせば、体感温度は2℃ほど涼しく感じられます」(財団法人省エネルギーセンター)
http://www.eccj.or.jp/ambassador/jpn/26/2/2_1.html

「首相、ノーネクタイ宣言 省エネで閣僚にも要請」(産経新聞3月29日)
http://www.sankei.co.jp/news/050329/sei123.htm

「省エネで皆ができることで、一番簡単なのは、ネクタイをやめることです」(茅陽一・生活構造改革フォーラム代表)
http://www.mhi.co.jp/atom/apower43.htm

▼資料2
「政府が実施する事前施策の費用や、行政・企業などのコンピューターのソフトウェアの改修費など、総額で約850〜1000億円程度と見込まれています。」(財団法人社会経済生産性本部・生活構造改革フォーラム)
http://www.seikatukaikaku.jp/summer/j.html

▼資料3
小泉首相、ラジオで「脱石油戦略」策定を語る(財団法人環境情報普及センター)
http://www.eic.or.jp/news/?act=view&serial=10054

自然エネルギーの活用で「中東に対するエネルギー対策、また日本の外交交渉にも力を与えますね」(小泉総理、ラジオで語る 第26回「脱石油戦略」/首相官邸)
http://www.kantei.go.jp/jp/koizumiradio/2005/0416.html
……そういうわけで、反対です。(反対の理由はまだまだあるけど)

この手紙は自由にコピーしてもらいたくて投稿しました。
みなさんも、地元の国会議員の人に送ってください。
メールがなかったら、プリントして事務所に持っていくか、郵送してください。
事態は切迫しています。

わしはふだん「国益」とかあんまり言いませんが、サマータイムについては言います。
サマータイム制度を導入するのは、わが国のためになりません。賛成している国会議員は、背任行為を働こうとしているのです。無知、あるいは想像力が欠如しているための賛成であっても、それは罪です。
いま賛成の議員さんでも、手紙を読んで意見が変るなら、コロッと変えていただきたい。「君子豹変す」といいます。この言葉は、こういうときに使うのです。

http://www.ceres.dti.ne.jp/‾ysk/fragment/2005anti-st.html

寮美千子  敏子さん、おしあわせに! 2005年04月22日(金)01時10分46秒
へのコメント

岡本敏子さんへの追悼詩を書き、きょう、朗読会で読んできました。
訃報に触れてから、どうしても敏子さんのことを考えてしまうのです。
敏子さんの、あのとびきりの笑顔が浮かびます。
お年を召していらっしゃったけれど、とってもお元気だったので、
まさかこんなに突然旅立たれるとは、微塵も思っていませんでした。
敏子さんが亡くなられたと聞いてはじめて、
わたしのなかでの、敏子さんという人間の、存在の大きさに気づきました。
ああ、愛を純粋の光にして振りまいて、人を幸せにする人だったのだ!と。
わたしのなかでは、岡本太郎というその人よりも、
実は、敏子さんの存在の方が大きいくらいなのです。
でも、そんなことをいったら、敏子さんに申し訳ないですね。
敏子さんは、何より岡本太郎という人とその芸術のすばらしさを伝えたかったのだから。

わたしには、敏子さんが喜びに溢れて、太郎さんの元に飛んで行かれたような、
そんな気がしてなりません。
空へと飛び立ってしまうその前に、
あのいきいきとした敏子さんの笑顔に触れさせていただいたこと、
わたしのなかの宝物のひとつです。ありがとう、勇崎さん。

死者へのはなむけの言葉としてはおかしいですが、なんだかこういいたい気持ちです。
地上の小鳥たちは、きっといつまでも、岡本太郎を讃える歌を歌い続けるでしょう。
あなたが歌い続けてきた、あの陽気で美しい歌を。
敏子さん、太郎さんと永遠の国でおしあわせに!

勇崎  2005年04月21日(木)23時54分19秒
岡本敏子さん逝く へのコメント

寮さん、ありがとう。

朝、新聞で訃報を知り、
今日はなにも手につかず、過ごしてしまいました。

敏子さんは、なんか、そろそろ、と思って、
太郎さんのそばにいったんですね。

太郎さんの思想、敏子さんとの時間と想い出は、
僕の中で永遠に生きつづけます。
僕は、お二人以上に長生きして、
その永遠を、次の世代に伝えていきますね。

敏子さん。
太郎さんとのランデブー、
思いっきり甘えて、
死ぬほど抱きしめていて下さいね。

寮美千子  岡本敏子さん逝く 2005年04月21日(木)01時56分11秒

【岡本太郎記念館館長の岡本敏子さんが死去】2005年04月20日 朝日新聞

 前衛芸術家の故岡本太郎さんの養女で、岡本太郎記念館館長の岡本敏子(おかもと・としこ)さんが20日午前、東京都内の自宅で死去しているのが見つかった。79歳だった。通夜や葬儀の日取りは未定。

 岡本太郎さんの秘書を50年近く務め、後に養女となった。長く行方不明でメキシコ市近郊の町で見つかった岡本太郎さんの壁画「明日の神話」を現地で確認するなど、太郎さんの作品の研究につとめた。著書に「岡本太郎に乾杯」がある。
突然の訃報に接して、驚いています。敏子さんを直接ご紹介していただいたのは、勇崎哲史さんからでした。2003年夏にパルコで開かれた岡本太郎写真展の時のことです。

あんなにもお元気だった敏子さん。最後にお目にかかったのは、昨年12月の齋藤愼爾氏の出版記念パーティ。久しぶりにお顔を拝見したので、うれしくてお声をおかけしたら、あのとびきりの笑顔でにっこりとなさって、わたしの腕をとり、一緒に写真に写ってくださいました。その写真が、最初で最後のいっしょに映った写真になってしまいました。

岡本太郎さんのことが好きで好きで大好きで、太郎さんの芸術が好きで好きで大好きで、その大好きなことを小さな体一杯に表現して生きていらした敏子さん。あんなにも全身全霊で誰かを、何かを、まっ正面から好きになっている人を、そして、その好きであることを世界中に伝えることが喜びそのものであるような人を、わたしはほかに見たことがありません。いっしょにいると、その喜びがきらきらと輝きながらこぼれ落ちてくるようでした。

敏子さんのお話を聞いていると、敏子さんの大好き光線に照らされて、岡本太郎さんやその作品が、どんどんぐんぐん輝いてくるのでした。そうやって、太郎作品に触れたり、魅力を感じた人も、きっとたくさんいたことでしょう。敏子さんの撒いた種は、これからも芽を出し、ぐんぐん育っていくことでしょう。

色鮮やかな小鳥のように、ぱっと翼を翻して、もう一つの世界に飛び立っていった敏子さん。太郎さんが、大きな空になって、そんな敏子さんをにこにこと受け留めているような気がしてなりません。ご冥福をお祈りします。

寮美千子  だまされることの責任/伊丹万作の著作より 2005年04月16日(土)01時30分49秒
独立国家として立脚すべき理念 へのコメント

高橋さん、吉木さん、ご投稿ありがとう。世の中、加速度的に恐ろしい方向に動いています。憲法改正案も、目を疑うようなものを提出しては、すぐ引っ込め、そうやってだんだん国民の感性を麻痺させているとしか思えません。テレビの北朝鮮報道好きは驚くほど。北朝鮮はこんなに恐ろしい国ですよと日夜報道して、まるで「仮想敵国」をつくることで、国民の恐怖を煽っているが如くです。中国、韓国などの近隣諸国にくすぶっていた反日感情は、ここにきて一気に噴出、もう「日本人」だというだけで、石をぶつけられるような世の中になってしまいました。それなのに、日本政府は近隣諸国に「謝れ」というばかり。そのほんとうの原因を、きちんと受けとめようともしていません。そのような感情を招いた原因を、自分自身の中に探さなければならないはずなのに。

濁流に呑まれたがごとく時代にやすやすと流されていく人々。無力感に打ちひしがれそうになりますが、これでいいのか?!

俳優で映画監督だった伊丹十三氏のお父さんは、伊丹万作という映画監督でした。彼は、終戦後丸一年たった昭和二十一年に「戦争責任者の問題」という一文を雑誌にしたためています。戦争へ突っ走ったことに対して、人はみな「だまされた」というけれど、では、だまされた者は単なる被害者なのか? だまされたという責任はないのか? ということを問う、明晰な、ごくまっとうな意見です。

戦争のことを話すと、大概の戦争経験者が「あの時は仕方なかった」「そういう時代だった」「そのように教育された」といいます。幼い子どもには罪はなかったかもしれない。例えそれがどんな軍国少年でも。しかし、やわらかく真っ白な子どもの心に「軍国主義」を植えつけたのは、誰だったのか? そのような政府を支持したのは、誰だったのか? 空襲で悲惨な目にあったその人々は、戦争を推進しなかっただろうか? 被害者であると同時に、自分たちをそんなところに追い込んだ張本人は、実は彼ら自身ではなかったのか? 彼らは、被害者である前に(自らに対する)加害者だったのではないか?

わたしたちはいま、自らをだましてはいないか。遠くないある日に、自分たちに降りかかる大きな厄災―戦争や、放射性物質による環境汚染―へとわたしたちの社会を駆りたてていはしないか。

伊丹万作の一文は、いまの日本にそのまま当てはまるものだと思います。伊丹万作は、この文章を発表した五ヶ月後に、病気で息を引きとりました。ここに、参考のために一部を引用させてもらいます。
【戦争責任者の問題】 by 伊丹万作 (『映画春秋』昭和二十一年八月号)

(前略)
 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。

 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

(中略)

 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。

(中略)

 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。

(中略)

 また、もう一つの別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたらとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。

 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

(中略)

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。

 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱(ぜいじやく)な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。(後略)
以下に全文が掲載されています。

http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/itami_mansaku.html

吉木克実  独立国家として立脚すべき理念 2005年03月30日(水)09時12分06秒
最も大切な問題を解決させないまま事を進ませてしまうことの恐ろしさ へのコメント

>平和思想に立脚した独自な立場を政府はとれないのでしょうか。

高橋さん始めまして。
寮さんお久しぶりです。
高橋さんのご意見に激しく同意します。
確かに、理想でみさいるを撃ち落せる訳ではあリません。
しかし、
平和憲法をもってしてそれを国の守備力に転化できないのは、
米国を含め隣人国家に今まで一度として
平和憲法の理念を強く訴えてこなかったその日和見主義が原因です。
現状は明らかな米国の傀儡国家でしかありません。
その米国にさえ「NOと言えるニッポン」であってこそ、
独立国家としての存続価値が生まれるのではないでしょうか。
戦争において、国民と国家を他国の攻撃から守るには二つの道があります。

ひとつは、考えうる全ての攻撃を事前に無力化できるだけの
(米国を含め)世界で最も進んだ戦争・兵器技術と物量を持つこと。

もうひとつは、私たちが決して外国を攻撃しないという
強い理念の下に一致していることを全世界の人々に訴えること。

前者は実現は難しいでしょう。
もちろん常に戦争技術を磨き続けることならば可能ですが、
国民全員を守りきることは不可能です。
つまり前者も後者も国民の犠牲は出るのです。
国民が殺されてもよいと言っているのではありません。
どうすれば善悪がはっきりするかの問題を言っているのです。

話がまとまらなくなりそうなのでこの辺にしておきますが、
「丸腰であることを知りながら襲って恥ずかしくないの?」
ってことなのかなあ・・・


高橋喜治  最も大切な問題を解決させないまま事を進ませてしまうことの恐ろしさ 2005年01月12日(水)07時47分52秒
日本政府が有事の際の手引き書を全戸に配布?! へのコメント

戦争の回避そして平和こそが最も大切な問題であるのに、それをなおざりにして、政府は戦争への準備を進めていると思えてなりません。そうした「有事手引」が配布されるかもしれない2007年に向けて、それと並行して米のミサイル開発への日本の協力は増々強く求められてくるようです(下のリンク参照)。政府がこれに追従して行ってしまうということは、国民への戦争への加担(=殺戮と破壊への加担)を増々強く強いる政治になっていくということで、許されるべきことではないと思います。「ミサイルが飛んでくるぞ、テロに狙われるぞ」と脅しながら、自分でミサイルを作って脅しの輪を広げていくことばかり、いつまで続けて行くのでしょうか。平和思想に立脚した独自な立場を政府はとれないのでしょうか。

http://www.kahoku.co.jp/news/2005/01/2005011001002048.htm

大長老  津波と大使館 2005年01月11日(火)01時57分28秒
日本政府が有事の際の手引き書を全戸に配布?! へのコメント

大使が親切に登場した日には、テレビ東京のクルーもそこに到着してたわけで・・・そのままの善意にうけとれませんでした。

大使館の対応は30年前の「ユ−ラシア大陸思索行」(色川大吉)で著者が怒りを記していたことと、まったく同じです。30年間大使館は眠る沼の如く澱んだままなんですねえ。

寮美千子  日本政府が有事の際の手引き書を全戸に配布?! 2005年01月10日(月)23時30分32秒


北海道新聞2005年1月9日ニュースより
【有事手引07年度に全戸配布 避難や救急方法を周知】  2005/01/09 16:58

政府は9日までに、日本が弾道ミサイルやテロ攻撃を受ける有事の際の避難・救急方法、連絡先などをイラスト付きで説明した手引書を作成し、2007年度中に全世帯に配布する方針を固めた。大規模で広範囲にわたる避難や救助が予想される武力攻撃を受けた場合に住民保護をスムーズに進めるには、具体的な対応策を事前に分かりやすく周知することが必要と判断した。大地震や水害など自然災害への対処方針も盛り込む。

都道府県は05年度、市町村は06年度にそれぞれ国民保護法に基づき、武力攻撃を受けた際の避難や救助などを定めた「国民保護計画」を策定。手引書配布はこれを踏まえた措置。
ミサイルが飛んでくるぞ、テロに狙われるぞ、という脅しの政治。こういうものを配ることで、戦争が目前にあるかのような恐怖を植えつけ、その恐怖によって人々を支配して軍備を進めようという動きに思われてなりません。

戦争の準備をするより、戦争を回避するためにどうしたらいいか、全力投球してほしい。それが政治のなすべきことではないでしょうか。


スリランカの首都コロンボでは、津波にすべてを流され、海岸の村から丸2日間をかけて命からがらたどりついた日本人被災者に対し「パスポートの再発行にはお金がかかる。金は貸せない」とつっぱったそうです。その後、大使が出てきて待遇は改善されたとのことですが、それまで、食事もしていない、お金もない、着替えすらないその日本人女性に、なんの援助もしなかったというから驚き。

この日本人被災者の手記が以下にあります。
http://now.ohah.net/sameera/tsunami.shtml

「日本国民を守る」ということが徹底されていない。政府が「日本国民を守るために!」と大声を上げるのは、軍備拡張や平和憲法廃止を目論む時ばかり。情けない。

寮美千子  2005年/人権と環境が尊重される年になりますように! 2005年01月01日(土)16時07分43秒
2005年の出発 へのコメント

津波に飲み込まれてしまった人が実際無垢な人だったか
悪い人だったかどうかも判りません。  
問題なのは、せっかくこの星の舟に生を受けたにもかかわらず、
人間はこの舟を沈めてしまいかねない状況を
自分たちの行いによって作っているという事実です。by 高橋喜治氏

ほんとうに、その通りだと痛感します。津波に呑まれた人の中には、極悪人だっていたかもしれない。けれども、それは、ここにいるわたしたちには判断できないことです。辺境に住んでいるから、昔ながらの暮らしをしているからと、一概にそこに現代人の夢を押しつけて、彼らを「無垢な人々」と定義するのは大きな間違いでしょう。

ただ、一ついえるのは、そのような地で暮らしている人々が、決して日本にいるわたしたちのようにエネルギーを湯水のように使っていないということです。

例えば、インド。一人当たりのエネルギー消費量は石油に換算して、年間0.3トン。日本はその13倍以上にもなる4.1トン。世界で一番高い消費量はアメリカとカナダで、8.2トン。インドと比べると、なんと30倍近くのエネルギーを消費しています。つまり、アメリカ人1人で、インド人30人分のエネルギーを使っているということです。
http://www.iae.or.jp/energyinfo/energydata/data1022.html

インドの人口は約10億人。アメリカの人口は約2億8千万。計算してみると、人口がインドの4分の1強しかないアメリカが、インドの約8倍のエネルギーを消費していることになります。エネルギー消費量でみれば、アメリカという国のなかに、インドが8個もあるのと同じということです。そのアメリカが、京都議定書にも参加せず、石油を求めて愚かな戦争までしているというのは、一体どういうことでしょうか。

日本やアメリカなど、いわゆる先進国に棲む人々は、石油などの燃料を大量消費することで、地球に大きな負荷をかけています。その意味でいえば、いわゆる後進国に棲み、昔ながらの暮らしを続けている人々は、地球にかける負荷の少ない「無垢な人々」と定義しても矛盾はないでしょう。


いわゆる先住民と呼ばれる人々がいます。産業革命の恩恵を一気に取り入れずに、昔ながらの暮らしを守ってきた人々、あるいは、昔ながらの暮らしをせざるを得なかった人々と、いいかえることもできるかもしれません。

昔ながらの暮らしとは、つまり、その土地で気の遠くなるような長い時間営まれてきたライフ・スタイルのことです。当然、土地の自然と調和しなければ、破綻してしまいます。ここまで続いてきたということは、破綻しなかったということ。つまり自然と調和してきたということに他なりません。そこに、学ぶべきものがないわけがありません。

そういうと「でも、昔の暮らしには戻れないじゃないか」とくってかかる人が、必ずいます。確かにそうです。けれど、だからといって、先住民に学ぶものはひとつもない、などということにはなりません。自然と調和するために、どんな世界観を、どんな哲学を持って生きてきたのか。物質面ばかりではなく、精神面にも、学ぶべきものは多くあります。

エネルギー問題は、単なる物質の問題ではありません。どう生きるかという精神の問題でもあります。エネルギーの消費量を少しでも減らしていきたいと望むのなら、単に物質面ばかりではなく、精神面からのアプローチもなければ、解決のしようがない問題なのです。


昔ながらの暮らしをしながらも、上手に現代の文明の利器の恩恵を受ける、という暮らし方もあります。クーラーも冷蔵庫も洗濯機も掃除機もないけれど、ほしいとも思わない、と、マダガスカルのマミさんがいったときには、驚きました。それでも、彼はコンピュータを所有し、インターネットで世界中と繋がっているのです。コンピュータに使用される電力消費量は、他の電化製品に比べたら、微々たるものに過ぎません。

インドのガンジス河口、ガンガサガルの島を訪れたときには、藁葺きの屋根に小さな太陽電池のパネルが取りつけられているのを見て、驚きました。それは、ラジオを受信する電力を確保するために、つけられていたのです。ここでも、情報がほかのものに優先するのだと痛感しました。ほかのものは、昔ながらのやり方でなんとかなるけれど、情報だけは、どうにもならないからです。

もしも、今回の地震と津波に関して、情報網が完備していて、各国のラジオ局が事前に情報を流していたら、犠牲者は大幅に減ったでしょう。アジアの一員として、また地震と津波の怖さをよく知っている国として、率先して情報網整備を展開してこなかったことが、悔やまれてなりません。

スマトラ沖地震の一報は、日本にも来ていたはずです。「津波の危険がある。ラジオで放送してほしい」とアジアの政府やラジオ局に情報を流すことは、情報網の整備さえ出来ていれば、むずかしいことではなかったと思います。

昔ながらの知恵に謙虚に学びながら、新たな技術を取り入れて、よりよき世界にしていく。「温故知新」で、新たな、第三の道を模索しなければなりません。


戦争は完全な人災です。けれど、天災に見えるもののなかにも、多くの人災が紛れこんでいます。地球温暖化で海面の上昇が続けば、小さな地震や津波でも、大きな被害が出るようになるでしょう。台風が10個も来たり、洪水がおきたりという異常気象も、環境異変による人災の一種ではないでしょうか。

地球温暖化と二酸化炭素濃度は単純に関連していないという説もあります。簡単な因果関係を実証することは、いますぐには出来ないかも知れません。しかし、地球が何億年という長い時間をかけて石油や石炭という形でためこんできた二酸化炭素を、たった百年の間にどんどん掘りだして燃やし、空気中に放出しているという事実は変わりません。科学的実証を待たずして、この結果何かの異変を起こすのではないか、と推測することは妥当です。大気成分の大幅な変化があって、異変が起こらないほうがおかしいのです。手の施しようがなくなってからではなく、いまここで方向転換しなければなりません。

2005年が、人類が進もうとする方向を大きく変えた年、人権と環境問題に向かって大きな世界的合意がなされた年になることを願ってやみません。

ああ、世の中がこんなに酷いことになっていなければ、わたしも安心してどっぷりと怪しげなゲイジュツに浸ったりできるのになあ。環境問題とか人権とか、力説する必要のない世の中が早く来ればいいのになあ。この一年が、よい年になりますように!

寮美千子  2005年の出発 2005年01月01日(土)02時22分27秒

2005年が明けました。
おめでとうと無邪気に言うことが、はばかられるような新しい年のはじまりです。
戦争で命を失ったすべての人々、犯罪で命を失った人々、
天災で命を失ったすべての人々を、心から悼みます。

この新しい年が、すべての人の命を大切にする年になりますように。

2004年の新年に書いた詩が、そのまま今年も有効になってしまいました。
世界はますます、混乱を増しています。
2006年の新年には、本当の歓びの詩が書けるような、
そんな世界になっていることを願ってやみません。
そんな世界にしていこうと、思いを新たにしています。

       【謹賀新年】

すべての人に、平安の訪れんことを!

  通信に乗らない言葉・見ている目・伝播 2004年12月31日(金)03時02分14秒

こんにちは。
今日空が晴れていて東京にしては青く透き通っていて微笑んでいる自分を感じながら
空の続いていく場所の下で今も大変な思いをしている人たちが大勢いることを反射的に
思っていました。自分が微笑むこととこの日常を大切に思いながら、日常の壊れた日常を
生きる場所へ動く気持ちを逃がさないで、この日本の東京で考えつづけるとはどんなだろう
と思います。

インターネットは世界をつないでいるような気がしていましたが、自分がネットを出来ない、
パソコンを持たない頃にぶーぶーと言っていたように、ネットの外にいる人達だっていて、
光の速さでテレパシーの如く伝わってしまう言葉がある一方で、その矢に言葉を乗せたくても
手段を持たない場所があるということを忘れていたと、地震についての寮さんの書かれた情報
を読んでいて思いました。

見えるものだけで何かを判断するのはいつもこわいことです。
それだけで線を結べば現実とはまったくちがった絵を描くことになってしまいます。
それが怖いと言うのではなく、実際の怖いのはその偽りの絵が現実をミスリードした後のことで
す。助けが必要な場所に手が当てられない無残は、できるだけなくしていきたいです。

伝わってくるものはいつも選ばれて時には捨てられていること、乗り切らないものがあること。
そこをフォローできるのはなんでしょうか?
実際に現地へ向かった人の、生の情報が、扇情的にでなく、必要なことごとがひとつずつきちんと情報として報道されることを望みます。そしてそれを見つけられるさとさを持てることを。


それから、今日奈良の殺人事件の容疑者が逮捕されたことニュースで知りました。
情報が正しいなら13年前に子供の殺人未遂を犯していて再犯とのこと。
刑務所がただ決められた刑期をおさめるだけの長い時間ならば、そこに望めるものはありません。

以前に本を読んでいて“悪というものは「見ている目」の前で膨れ上がることはない”というよ
うに書いてあったことを思います。
その見ている目というのは、犯罪を犯した人が再犯をすることを前提にした目というのでもない
ように思います。いつか罪を犯すという目で見られた人はそれによって追い詰められるものかも
しれません(本人が自分の罪をすべてその所為と言うのならそれはちがうと思いますが)。

そしてその目というのは、犯罪を犯した人が二度と罪を犯さないという前提で相手を見ることと
も違っているように思います。
人間はそういうことをするかもしれないししないかもしれない。

再犯の兆候の有無という二者択一的な判断で犯罪を犯した人を見ているだけでは、拾えないものがあるのではないかと感じています。実際の施設でなされていることを知らないので、まだ漠然
としたものでしかないのですが。

犯罪を犯した人を社会で抱えていかなければ、人の目から抜け落ちてしまったところをいつもま
たいで生きているわたし達だって、その最悪の契機に出会ってしまわないと限りません。

そういう方法を試行錯誤して変えていくことが必要と思います。


最後に。
近頃、一つ事件が起こると似たような事件が別の場所で起こっていきます。
模倣犯、というのをすっ飛ばして、触発というのでしょうか。
じゃあじぶんもやってやれ、じぶんもやれる、と考える人が多いのかと不安に思います。
そうしたある種の伝わりやすさの弊害のようなものを感じています。


いつもながら流れを横断してしまってすみません。

寮美千子  星の航海 2004年12月31日(金)02時55分44秒
方舟は地球 へのコメント

オーロラの帆をかかげ
粒子の風に吹かれながら
もう四十五億年 旅を続けてきた

羅針盤もなく
船長もいない
サファイア色の方舟

ゆらめく闇の波を越え
きらめく星の海を渡り
どこへいこうとしているのか

羅針盤もなく
船長もいない
サファイア色の方舟    Copyright by Ryo Michico
羅針盤もなく、船長もいない。導いてくれる絶対なる神も仏もない。
だからこそ、ひとりひとりがしっかりと行方を見定めなくてはと思うのです。
だれかにあずけたりしないで、自分自身で。
その判断の礎となるものが、自然そのものと自然と調和してきた文化です。
だからこそ、自然と、先住民文化に学ぶべきものがあると感じています。


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高橋喜治  方舟は地球 2004年12月30日(木)08時39分01秒
方舟をつくるのは誰? へのコメント

この地球が方舟なのだと思います。この地球に生まれた誰もが既に選ばれた人たちなのです。だから僕たちにはノアのように誰を救って誰を救わないかとかを選ぶ意味は本当はないのです。命の重さは平等です。津波に飲み込まれてしまった人が実際無垢な人だったか悪い人だったかどうかも判りません。問題なのは、せっかくこの星の舟に生を受けたにもかかわらず、人間はこの舟を沈めてしまいかねない状況を自分たちの行いによって作っているという事実です。(僕はこんな風に考えていました。決して勇崎さんに絡むつもりではありません。)しかも、その最たる張本人である国では、おそらく、地球がいよいよだめになった時に宇宙に脱出するための宇宙船がノアの方舟であると考えているかも知れません。そうでないとしたら、すぐにでも戦争は止めて核も完全に凍結させるべきです。巨大地震が核の暴発を招くなんてこともあるのではないかと怖れます。

勇崎  方舟をつくるのは誰? 2004年12月30日(木)00時17分14秒
ノアの方舟 へのコメント

高橋さん寮さん、全く言葉足らずの僕のいたらぬ投稿の行間を埋めて下さり、ありがとうございます。
被災地にいろいろ思いをめぐらすと、とてもつらくて、なにか書いておきたくなった落書きのようなものでした。

僕はイスラム教徒でも、ユダヤ教徒でも、キリスト教徒でもないのですが(というよりは無宗教)、旧約聖書に書かれていることや古来からの神話や伝承には、なにか根拠があり、人間が犯す過ちへの教訓が秘められているのでは、と考えてしまう傾向にあります。

「ノアの方舟」は、神ゼウスが、争い事を止めぬ堕落しきった人間社会、その地上に大洪水を起こして、この世界をリセットするにあたり、あらゆる種の清らかで無垢なものたちを方舟に乗せ、次の時代へそのいのちを送り出す、という物語です。
この物語で描かれた大洪水は、古代にメソポタミアあたりを襲った大津波や大雨がもとになっているのではないか、といわれています。

ところで、恐竜が急に絶滅した原因として、隕石の衝突説や、火山活動の激化によって地球が大気がガスや火山灰で覆われ、温室化(冷室化)しておこった異常気象による、という説などがあります。
近年の異常気象がもたらす世界各地の大洪水や今年の台風の異常発生を見るにつけ、地中深くに眠る化石燃料を大量に掘り出し、それを人間が燃焼させて発生させるガスの量は、恐竜絶滅につながる当時の火山活動が発生させたガス量に匹敵するのではないか、と考えることがあります。
洪水から思いがいたるのは、僕も高橋さんと同様です。略してしまった何行もの行間を高橋さんが埋めて下さいました。また、いまこそアイヌ民族などの少数民族から学ぶべきだという高橋さんのご意見にも全く共感するもので、僕も以前、この板に少し似たようなことを投稿したことがありました。

現代は、神ゼウスが怒って大洪水を起こして流し去ろうとした“争い事を止めぬ堕落しきった人間社会”そのもののように感じます。そんな時代に、マグネチュード9.0という、とてつもないスマトラ沖大地震がおこり、大津波が発生しました。
“争い事を止めぬ堕落しきった人間”たちが洪水で流されてしまえばいい、なんて思っているわけではありませんが、寮さんも僕の駄文の行間を埋めて下さり、指摘されたように、洪水にまきこまれた人やいのちたちは、 「ノアの方舟」に乗り込む側のはずの“無実の罪を被った人々”“あらゆる種の清らかで無垢なものたち”です。
この大津波に「ノアの方舟」の洪水を連想し、そんなことを考えると、僕はなおのことつらかったのです。

しかし、こんなセンチメンタルなことではいけません。刻々実態が明らかになるにつれ、いのちを奪われた人たちが既に7万人にも至らんとしています。寮さんが訴えておられるように、世界各地で争い事に使われているエネルギーを救助の行動に転換すれば、被災や、これから予想されている伝染病から助けられる命がたくさんあります。この行動の転換こそが、いのちを救うほんとうの“方舟”をつくることのように思います。

寮美千子  スマトラ沖地震/自衛隊よ、武器を捨て救助隊になれ! 2004年12月29日(水)14時57分50秒
内省的補足 へのコメント

▼個人的な痛みが「対岸の火事」を自分の痛みにする

>寮さんはとにかくガンガサガルの方などの安否を気になさっている最中に、
>あまりにも一般論的な冷たい言葉として受けられたかもしれません。

そんなことありません。むしろ、高橋さんの発言に様々な意味で勇気づけられました。

人間の想像力というのは無限大であると同時に、意外と貧困なところもあります。わたし自身、ガンガサガルの知人の安否を気づかうという個人的なことがあってこそ、こんどの災害を、よりリアルなものとして受けとめることもできました。

個人的なことを、一般的なことに結びつけて、より多くの人と共有できる概念にする。それがとても大切なことだと思います。草の根交流が大切だと思うのも、それが人々の他者にタ対する想像力を広げてくれるからです。

「わたしの痛みは他者にはわからない」と一線を画し、自分のなかに閉じこもってしまっては、その想像力を生かすことにはなりません。そうすると、相互理解や相互援助の機会を失います。高橋さんの言葉は、わたしの個人的な思いを一般的なものに結びつけてくれる大切な言葉でした。ありがとう。

▼よりよき開発の方向性

>いかに殺傷能力を上げるかという兵器の開発に力を注いでいる暇があったら、
>そのエネルギーをいかに命を救うかに全部そっくり変換できないものかと思う。

まったく、その通りだと思います。原発に関する予算も、すべて太陽光発電やミニ水力・風力発電、燃料電池などの開発と普及に向けられていれば、いまごろどれだけの成果があがっていたでしょう。いまからでも遅くない。予算を、よりよき方向に使うことを考えてほしいと思います。

▼自衛隊よ、武器を捨て救助隊になれ

>一刻も早く今やっている争いは止めて、
>今助けを求め苦しんでいる人たちの救出に向かってほしいと思う。

自衛隊出動待望論が出ています。けれども、いま、災害非常時だからといって武器を持った自衛隊を海外出動させてはいけないと、わたしは思います。いま、それを「慣例」にしてしまえば、災害出動の名の下に、自衛隊が海外出動することが慣例とされてしまう危険があります。善意を悪用し、この機に乗じてそのような慣例を作ろうとする人々もいるでしょう。

だからといって、いま死に瀕している人々を見殺しにもできない。

こんな時、むずかしいことをいわないで、自衛隊がすぐに救援活動が出来るようにするには、どうしたらいいか。切実な問題です。

自衛隊が、最初から武器を持っていなければいい。「自衛隊」ではなくて「救助隊」だったら、すぐに行ける。国内だけではなく、国際レスキュー部隊として活躍すればいい。そうすれば、近隣諸国からは感謝され、頼りにもされるでしょう。つまり「自衛隊」から「救援隊」になればいい。名前も変えたらいい。

どんなにいいことをしようとしても、武器を持って出かけたら、それは「侵略」と見なされてしまう可能性があります。自衛隊よ、戦車と武器を捨て、ブルドーザーとシャベルに持ち替えよ!

▼武力は命を守ってくれるのか?

自衛隊が武器を持っているからこそ、アメリカ軍が国内に駐留しているからこそ、わたしたちは守られているといいます。ほんとうにそうでしょうか。テロリストから世界を守るために、アメリカはアフガニスタンとイラクに軍隊を派遣したといいます。それによって出た死者はどれほどの数になったか? 少なく見積もっても1万人は下らない。10万人を越えるという説もあります。もしもアメリカが、武力を行使しなかったら、これほどの死者が出たでしょうか? 武力行使したときと、そうでなかったときのリスクは、どちらが大きかったのしょうか?

わたしたちは、ほんとうに武力によって「守られて」いるのでしょうか? 却って、より危険な目に遭ってはいないか?

自衛隊が武器さえ持っていなければ、いますぐにでも、できるだけの人員を災害地に派遣できるのに……。そう思うと、残念でなりません。ここでも、武力があるからこそ、奪われる人命があるのです。

▼地球はひとつの岸辺

きょうは、美しい雪が降っています。けれども、この雪が、新潟の被災地の人々には、恐ろしい雪となっているでしょう。

アメリカ国民にとっても、今回の津波が「対岸の火事」ではないことを願います。わたしたちはみんな、宇宙という広大な海に浮かぶ、地球という小さな岸辺に、身を寄せ合って暮らす者。どこにも「対岸」などないのです。この大きな災害によって、わたしたちみんなが地球市民であることに気づくことができればと、祈るような気持ちでいっぱいです。

高橋喜治  内省的補足 2004年12月29日(水)07時52分14秒
未来 へのコメント

寮さんのこの掲示板ではまだ新参者で、サイト内を隈無く見ている訳でもなく、しかも勇崎さんのことを存じ上げているのでもないのに、書かれた言葉そのままを受けて必要以上に言ってしまっていたとしたら、お許しください。それに、寮さんはとにかくガンガサガルの方などの安否を気になさっている最中に、あまりにも一般論的な冷たい言葉として受けられたかもしれません。それにアイヌ語とアイヌの口承については別枠で投稿するべきでした。それにしても、戦争やっている場合ではないと本当に思います。いかに殺傷能力を上げるかという兵器の開発に力を注いでいる暇があったら、そのエネルギーをいかに命を救うかに全部そっくり変換できないものかと思う。一刻も早く今やっている争いは止めて、今助けを求め苦しんでいる人たちの救出に向かってほしいと思う。

高橋喜治  未来(2) 2004年12月29日(水)03時12分20秒
NHKニュースにおける偏向報道/吹き替えはニュートラルにしてほしい! へのコメント

公平な判断の自由を奪うそのような作られた報道が平気でなされるということはとても危険なことであり、嫌な兆候です。こうした小さな波が何度も何度も重なって行って、慣らされていった先に、軍国主義の津波がどっと押し寄せて来ると行った最悪の未来には絶対になってほしくないです。

寮美千子  NHKニュースにおける偏向報道/吹き替えはニュートラルにしてほしい! 2004年12月29日(水)02時23分10秒

きょう、アルジャジーラで放送されたビンラディン氏の演説が、BSのニュース番組に流れていました。

日本語の吹き替えの声を聞いて、驚きました。まるで、スターウォーズのダースベーダーのような「悪役風」の声。そして、わざとらしい威圧的でテンションの高い読み方。どこか、北朝鮮のニュース番組のアナウンサーのような雰囲気も漂います。翻訳も「奴らどもが」など、いかにも悪者が使いそうな言葉を多用。

裏に小さく流れている声を聞けば、淡々と穏やかに語っていて、威圧的な口調でもなければ、テンションも高くない。

語っている内容を、そのままニュートラルに放送すべきだと思います。吹き替えの口調それ自体が、激しい偏向報道です。

このごろ、NHKのニュース番組やドキュメント番組で、このような偏向した吹き替えを数多く見ます。余計なお世話です。ニュートラルに、普通に翻訳してほしい。それを聞いてどう思うか、どんな意味があるかを判断するのは、受け手の一人一人でなければなりません。予めそこに判断を入れるのは、報道ではなく、大本営発表であり、明らかに先入観の植えつけ、つまり洗脳です。

寮美千子  スマトラ沖地震/無実の罪を被った人々 2004年12月29日(水)02時07分49秒
ノアの方舟 へのコメント

大洪水で流された人々は堕落した人々、箱船をつくったノアは善人ということになっています。

今回、犠牲になった人々の中には、高級リゾートで年末の休暇を楽しむ先進諸国の人々が数多くいました。けれども、それより遙かに多くの、土地の人々がいたはずです。タイやインドの海岸で、小さな小屋を建て、ささやかな暮らしを営んでいる人々の姿を、わたしはたくさん見てきました。

昔ながらの方法で漁をするその人々は、経済的には恵まれません。けれど、なんら自然を破壊しない暮らしをしているのです。

ただ都市に暮らしているというだけで、知らず知らずのうちにエネルギーの浪費、二酸化炭素の排出という大罪を犯しているわたしたちに比べ、その人々の、なんと清らかな、ささやかな暮らしぶりでしょうか。

そのような人々の多くが犠牲になったことを思うと、胸が痛まずにはいられません。

本当の意味での「未曾有」の災害。人と人とが、国と国とが争っている場合ではありません。すべての武器をシャベルに、戦車をブルドーザーに持ち替えて、救援活動を。いまから助けられる命がまだたくさんあるはずです。

もし、これだけの規模の災害がアメリカ国内で起こっていたら、アメリカはそれでも、イラク侵略を続けるのでしょうか。

高橋喜治  未来 2004年12月29日(水)02時07分07秒
ノアの方舟 へのコメント

>世界はノア(の方舟)の時代を迎えたのでしょうか(by 勇崎さん)

そのようには考えたくありません。何故なら、現代の自然災害は文明社会の莫大な消費エネルギーが自然に悪影響を与えて齎されている と言えるからです。今回の地震もそのためだとは断言出来ませんが、もっと自然への畏れがあったら、被害は抑えることは出来たかも知れません。今、冷静に考えなくてはならないのは、おかしくなってしまった自然との関係の修復であって、簡単に神の選別のフィルターに大切な命の選択を委ねてしまってはならないと思うのです。(ワシントンの)「現代の大首長」は神のごとき選別をふりかざしましたが、未だに「大量破壊兵器」の開発と保持と実施を続けています。いいかげんにしてほしいです。そうしたエネルギーを全てこの大いなる自然の理解へ注ぐエネルギーに変換してくれたなら、もう少し地球はよくなるかもしれないのに。
アイヌ語には経済に関する言葉こそありませんが、それこそ「自然」を沢山呼吸していて、自然への畏れや理解や目には見えない思いや心を表す言葉は豊かです。その言葉で語られる詩や物語は自然と人間が共に生きるためのおしえに充ちていると思うのです。
私たちに今必要なのは差別と選別のフィルターを幾重にも組織化することなのではなく、そうした先住民の心に静かに耳を傾け、それを未来へと繋いでゆくことであると思います。

勇崎  ノアの方舟 2004年12月29日(水)00時16分20秒
スマトラ沖地震/情報の過疎領域の被害 へのコメント

ネット社会によるグローバリゼーションが、バベルの塔だとすれば、
今回の津波で、世界はノア(の方舟)の時代を迎えたのでしょうか。
方舟に乗れなかった人たちやいのちたちのことを考えると、
つらいですね。

寮美千子  スマトラ沖地震/情報の過疎領域の被害 2004年12月28日(火)17時04分41秒
地震と津波 へのコメント

▼地震の規模と津波の範囲
>こうした数字は時とともに訂正されることがよくあります by 高橋喜治氏

本当のその通りです。わたしが昨日見たテレビ報道では、阪神淡路大震災の1600倍のエネルギーといっていました。情報の錯綜や混乱は、大きな災害の時には必ずあるものです。

産業技術総合研究所・活断層研究センターでは、早々とシミュレーション映像を制作、発表しています。

情報がてんでんばらばらに聞こえてくるなか、この映像を見て、ともかくも事態の全体像をおぼろでも把握することができました。これを見ると、津波がベンガル湾全域に及んでいることがわかりました。ガンガサガルもバンクラディシュにも赤い波が到達しています。激しくはなかったようですが、ガンジス河口の低く平坦な地形を思うと、いったいどんな影響があったのかと心配になります。

コンピュータ・シミュレーションなどの新しい科学の力は、このような時こそ力を発揮すべきだと、つくづく感じました。この映像によって被害の予測が可能で、救援活動も、幅広く行わなければならないことがわかります。政府は、このようなシミュレーションなども参考にして、救援手段を計画して欲しいと思います。

▼情報の過疎領域への配慮を
ガンガサガルには引き続き電話をしていますが、繋がらないか「回線が混雑しています。後でお掛け直しください」とインド訛りの英語のアナウンスが聞こえるばかり。リシケシュの食堂は、大きなアシュラムの前にあるので、そのアシュラムにも電話してみましたが、こちらはベル音はするものの、だれも出ません。

インドのチェンナイ(旧マドラス)とタイのプーケットは、勿論被害の大きさもあるでしょうが、情報が流通しやすい大都市ないし世界的観光都市だったということも、現在、多く報道されていることのひとつの理由だと思います。インドの東海岸にも、またベンガル湾にも、名も知らないような小さな島や海岸線の小さな漁村があります。とても救援の手が届かないそんなところにいる人々を思うと、胸が痛みます。
・Forgotten islands emptied of life by コルカタThe telegraph紙

年末の観光シーズン。ぶらりと海岸を訪れたバックパッカーたちも数知れずいるはず。わたしも、10年前の今頃は、個人でタイの小島に行き、たくさんの日本人に会いました。そのような旅行者は、行った先で気まぐれで滞在する島を変えたりして、居場所も定まりません。当然、わたしがどこにいるのか、日本の誰も知らなかった。漠然と「タイに行った」という情報があっただけ。そこに津波が来ていたら、単なる行方不明、という扱いになっていたでしょう。報道の数字には、このようなバックパッカーや個人旅行者は含まれていません。彼らの無事を祈るばかりです。

▼草の根交流
それにしても、人間て不思議なもの。行ったことのある場所、言葉を交わした人のことが、どうしても気になって仕方ありません。きっと、これを読んでいるみんなも、遠くにいる友人の安否を気づかっている事と思います。こうやって、互いが互いを思い合うようになれば、戦争なんて、誰もしたくなくなるはず。草の根の交流の大切さを痛感します。

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管理者:Ryo Michico <mail@ryomichico.net>
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