ハルモニア Cafe Lunatique (No.0007)

寮美千子の掲示板

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ドロンコ  やや長い補足。 2002年03月12日(火)19時17分33秒
あのお、、、 へのコメント

清水先生に助け舟を出していただいたので、屋上屋を架することもないか
とは思うのですが、さらに誤解のないよう、若干の補足をしておきたいと
思います。

まず、どんな観点からだろうと、理論的に「所有」を問題にすると、
そこからはいともたやすく「所有は悪だ」という考えが出てきてしまい
がちだということです。そして、「持たざる者」から「持てる者」に
向けて発されるのが常であるといってよい、この「所有は悪だ」という
告発に、理論的に反駁することは非常に困難です。その結果、文化
大革命下の中国では膨大な数の知識人や芸術家が暴行を受けたり、
すべての「財産」を没収されて、知識人あるいは芸術家としての活動を
続けることができなくなりました。また、ポルポト支配下のカンボジア
においては、「持てる者」であることは、即、死を意味したのでは
ないかと思います。
……別にぼくは自分が反共主義者であるなどとは思っていないのですが、
こうした例が「現代史の事実」であることを認めないわけにはいきません
し、こうした出来事が起きてしまった原因には、社会理論としてのマルクス
主義の本質的な欠陥が深くかかわっていると考えないわけにもいきません。

ところで、「所有」という概念がいかにも矛盾にみちている、パラドクシカル
だと思えるのは、「所有」という事実、「持つこと」あるいは「持たない
こと」という事実そのものは極めて単純で、明白そのもののようであるのに、
いったんそれが人間の属性として解釈されるようになると、それは実に
奇怪な様相を見せ始めるということです。「持てる者」は、それだけの
理由で、すでに人間として失格なのだ――といったように……。そこには、
明かに人間の怨恨、ルサンチマンというものがかかわっていると思いますが、
この点については深入りしないでおきたいと思います。

寮さんの疑問は、今われわれが、モノが過剰に氾濫している社会に生きている
ことに関係があるのではないかと思います。しかし、たとえばアフガニスタンが
そうであるように、この世界には、モノの不足に悩む国や地域も決して少なく
ありません。昨日あるTVの番組で、インドの山岳地帯に住む7歳の少女が、自分の
家にもヤギを下さいと祈る姿を紹介していましたが、あの少女の家にとって、
ヤギを所有することが「よいこと」であることは否定しようがないでしょう。
しかし、あの少女やその家族ができるだけ多くのモノを所有するようになることが
「よいこと」であるなどとは、もちろんぼくも思いませんし、当人たちだって、
そんなことは思いもしないことでしょう。ここでも、「所有」というテーマは、
一見そう思われるほど単純なものではないということがわかるかと思います。

勇崎さんは「アイヌ民族の価値観や思想を知れば、先住=“所有”に短絡
するとは思えない」と述べておられますが、現実の日本という国家社会
の中でアイヌ民族に固有の文化を守って行こうとすれば、「先住権=領土
所有権」という考え方は取らないとしても、日本が国家として収奪してきた
山野や川などの自然のかなりの部分を、可能なかぎり原状に戻し、彼らの
先住権がとりわけ優先されるべきような地域においては、彼らの同意なしには
一切の開発行為は行なえないものとする、といった協定は欠かせないでしょう。
そうした協定さえ不要だとするのは、「先住権」という概念そのものを骨抜き
にし、「絵に描いたモチ」にしてしまうおそれが大きいと思います。彼らの
聖地であったあの二風谷に、必要性さえ疑わしいダムを築いて、一帯を水没
させてしまったというような蛮行を、二度と繰り返させてはならないはずです。

おそらく勇崎さんは、民族としての先住権と近代的な土地所有の観念は別物であり、
前者を後者に解体させてしまってはいけない――ということをおっしゃろうと
したのでしょうが、すでに近代的な土地所有の観念が蔓延している中では、
前者が後者に抵触するケースが出てくることは避けられませんし、また、
そうでなければ、アイヌ民族に対する「国家としての犯罪」を、われわれ
日本人が真に反省することなどもできるわけがありません。それは「短絡」では
なく、われわれ自身が前進するためには欠かせない触媒なのではないかというのが
ぼくの考えです。

清水先生には、ぼくの懸念をお汲み取り下さったことに改めて感謝します。
「土地なのか、生産手段なのか、個人の持ち物すべてなのか、限定して議論すべきだ」
というのが、まずぼくが言いたかったことでした。
もちろん、「アイヌ民族や世界の少数民族の文化や思想から学ぶ」ことに
よってこそ、(所有などという汚らわしい観念に毒されずに?)自然と調和した
美しい生き方が可能になるのではないか――といった考えにはとても魅力がある
と思いますが、それは、近代社会にどっぷりとひたってきたぼくたちが、すぐにも
実践できるようなことではないだろうと思います。

だから、つまり、「わざとそっちへ振ってる」というわけではありません。

『毛沢東の私生活』ですが、文春から出ているということは別としても、
たしかにあれは普通の婦女子にお薦めできるような本ではありませんね。
一人の医師の数奇な運命のドキュメントとして興味深く、中国という国の歩み
を知るための貴重な資料であることはたしかだと思いますが、心臓のタフさ
には自信があるという方以外は、女性はあの本には手を出されない方が
よろしいでしょう。


清水雅彦  勇崎氏の所有論について 2002年03月12日(火)10時00分12秒
続“持ち前”探検隊:“所有”をめぐって へのコメント

勇崎さんの所有論について、私も一言。

失礼ながら率直な感想を述べれば、勇崎さんの議論は大雑把な感じがしました。私は、マルクス・エンゲルスの社会主義・共産主義「思想」と、実際の社会主義・共産主義「国家」とを分けて考えるべきだと思います(あの「国家」から社会主義・共産主義「思想」を論じてしまうのは、マルクス・エンゲルスにとってあまりに酷)。私はこの「思想」については肯定的で、ただし、19世紀ではなく21世紀の現代社会の中で、いかにこの「思想」を受け継いでいくかを考える必要があると思います。

所有論については、ドロンコさんの意見に賛成です。マルクスは資本主義における「生産手段の私的所有」を批判したのであって、個人の生活のための所有までを否定したのではないと思います。その点で、「所有」といった場合に、土地なのか、生産手段なのか、個人の持ち物すべてなのか、限定して議論すべきだと思います。

アイヌ民族の思想に学べとのことですが、私は民俗学の専門家ではありませんので、アイヌの思想はよくわかりません。しかし、そこにある発想は、原始共産主義的なものなのかな、と思いました。そうであれば、その後の社会は奴隷制、封建制、資本主義と転換してきたのですから、単なる過去への回帰ではなく、今の資本主義社会を踏まえての議論をすべきだと思います(それこそ、弁証法的否定論です)。

と、書いたところで、私自身今の社会に対する具体的な対抗プランはまだ持ち合わせていません。ただ、例えば以下のような議論・実例は、一つの対抗プランになるかなとは思っています。

一つは、経済学者の宮本憲一氏の議論。彼は環境問題を論じる中で、資本主義国家の「市場の失敗」と社会主義国家の「政府の失敗」に対して、分権・参加と自治のシステムの確立を提案しています(例えば、宮本『環境経済学』岩波書店)。

もう一つは、実際の体制として、北欧の社会民主主義・修正資本主義。資本主義体制は維持しつつ、民間企業においては労働者の経営参加を押し進めていること(生産手段の部分的社会的所有)、個人の私的所有を保障しつつ、手厚い社会保障で社会的公正を実現しようとしていることです。私は、今の資本主義は問題あるとはいえ、一気に生産手段の国有化などをするのではなく、暫時的に北欧モデルを参考にしながら変えていくべきではないかと思っています。

ちなみに、ドロンコさんがあげられている『毛沢東の私生活』、私もざーと読んでいました。彼の女性観など嫌悪感を覚えますが、毛沢東の一面を知るには参考になる本ですね。しかし、ほぼ事実だとは思いますが、訳者の新庄氏がオーウェルの『1984年』の訳者でもあること、出版社が文藝春秋社であることから、その点を念頭に入れながらちょっと距離をおいて読むべき本だと思いました。

寮美千子  あのお、、、 2002年03月12日(火)01時47分51秒 http://ryomichico.net
自然vs人工? へのコメント

>「“所有”という概念からの離脱」という勇崎さんの考えは、
>マルクス主義の影響によるものかと思われますが、

あのお、それ全然違うと思うんですけど、、、
そういう意味じゃあ、、、、ないよ。どーみても。

(わかってて、わざとそっちへ振ってるの?)

ドロンコ  自然vs人工? 2002年03月11日(月)04時27分26秒
続“持ち前”探検隊:“所有”をめぐって へのコメント

今、勇崎さんはレスができない――したがって、いささか欠席裁判風に
なってしまうことは承知しつつ、しかも、その当人と近日中に会うことに
なっているというのに、「“所有”をめぐって」について、ぼくの考えを
述べておくことにします。

結論からいえば、「所有」という概念は、それを廃棄しようという主張も
含めて、大いなる“躓きの石”だと、ぼくは思います。――議論を必要以上に
複雑にしないために、ぼくは、端的に、次のこと、ただ一つだけを求めたいと
思います。すなわち、「所有」に代わるべき概念は何なのか、(一切の)
「所有」を廃棄(そんなことが可能であれば、だが)した状態を、いったい何と
呼べばいいのだろうか、ということです。

たとえば、勇崎さんが挙げている土地を例に考えてみれば、「土地共有制」
というものも、国家があるところでは「国家による土地所有」のことでしか
ないはずであり、その下でも、個人相互の矛盾や対立、不平等等が自動的に
解消されるなどということはありうるはずがありません。機械的に同じ面積を
割り当てようとしたところで、地味の豊かさ、水利、日照、耕作のしやすさ等
の条件の違いが消えてなくなるわけではありません。つまり、「共有」は答に
ならないと、ぼくは思います。
ちなみに、ぼくは最近『毛沢東の私生活』(文春文庫)という本を読んだ
ばかりなのですが、1950年代の末期に、強引な共有化政策(と呼ぶに値い
するものだったかどうかも疑問ですが)を推し進めようとした結果、かの
人民中国では2000万人とも3000万人とも言われる膨大な数の餓死者を出した
という歴史があることをご存知の方も少なくないと思います。もっとも、
それは単に土地共有制を志向したからというだけでなく、無謀極まりない
鉄の増産計画のために、農業生産に不可欠な農具までもクズ鉄の塊に変えて
しまったということも大きく影響したようですが。

そもそもぼくは、個人の持つ道具の類までもが、その「所有」について否定
されねばならないなどという考えには、およそ賛同しかねます。小説家から
ペンを、画家から絵筆を、料理人からオーブンや包丁を、また猟人から弓を、
漁師から網や竿を、さらにはぼくのような雑文書きからパソコンを取り上げる
ことに、いったいどんな意味があるのか、疑わずにはいられません。――
この中で、たとえば網やオーブンなどは、厳密に「彼だけのもの」である必要は
ないかも知れません。しかし、たとえば猟人の弓は、おそらく彼が自ら作った
ものであり、本来、彼が使うためにこそ存在するものではなかったのでしょうか?
また、画家が、制作に取りかかるたびごとに、「共有物」として管理されている
絵筆について使用許可を得る必要がある……などという事態は、悪い冗談以上の
ものであってほしくはありません。

おそらく、「“所有”という概念からの離脱」という勇崎さんの考えは、
マルクス主義の影響によるものかと思われますが、マルクスの所有論は、近代工業
社会における「生産手段の所有」を批判することに始まり、それで終わっている
のではないかと思います。「それ以後」はもちろん、「それ以前」についても、
マルクスが説得力のある議論を展開したことはなかったのではないかとぼくは
思っています。

一方でぼくは、この世界には所有したりできないものが多々あると感じてもいます。
われわれが生き――組み込まれている近代社会においては、国家が領有権を主張し、
互いに争ったりもしているけれども、空や海、そして大地等を人間が「所有」
しうるという考えが、多分に倒錯したものであることはたしかでしょう。もちろん、
現実には、その総体は別として、「部分」に限るならば、水も鉱物も土地も、
資源や私有地として商品化もされ、大規模に流通しているわけですけれども。
この、「所有」という概念の限界についての考えは、多分、勇崎さんとほぼ
同じかも知れませんね。

きっと、「所有」することすべてがいけないのではなく、所有できるものと
できないものがあるという醒めた認識が求められている――ということなの
かも知れません。

ひとまず、こんなところで。




寮美千子  ヤノベケンジ作品による「タイムトラベル・ダブルサイクルプロジェクト」 2002年03月09日(土)03時21分59秒 http://ryomichico.net
発言削除のお知らせ/意見 へのコメント

この掲示板より削除された、勇崎さん引用のヤノベケンジ氏の文章の中に、ヤノベ氏の最新展覧会情報が載っていました。下記の二つの場所で、イッセイミヤケとのコラボレーションによるヤノベケンジ作品展「タイムトラベル・ダブルサイクルプロジェクト」が開催されています。不思議なことに、せっかく二箇所で開催されているこの展覧会情報、なぜかWEBではほとんど広報されていない。わずかに、下記の朝日マリオンの情報が見つかったのみ。もったいないので、ここだけ引用します。

▼1
場所 MDSG 渋谷区大山町36−18 電話 03−3481−6711
期間 4月13日まで 日月祝休み
13時から19時まで
▼2
場所 ISSEY MIYAKE FETE 港区南青山5−3−10 FROM-1st. 一階
11時から20時まで 店舗の為無休

きょうは、サックス奏者の坂田明氏のライブが新宿のピットインであり、4月13日の坂田明氏とわたしのコラボレ・ライブの打ち合わせも兼ねて、聴きに行きました。これはチャンス。滅多に上京(!)しないわたしとしては、ヤノベ作品に触れるいいチャンスとばかり、二つの会場を回ってきました。

まさしく百聞は一見にしかず。いろいろな意味合いに置いて、面白かった。感想などの詳細は、近いうちにレビューで。あれを見て、みんなは、どんな感想を持つのだろう。聞いてみたいな。
 4月13日(土)までの午後1時〜7時、東京都渋谷区大山町のMDSギャラリー(代々木上原駅)。ユーモラスな形態と社会的なメッセージを持つ大型機械彫刻を手がけ、国内外で活動するヤノベケンジ。彼が90年に制作した、母体内回帰をテーマにした「タンキング・マシーン」を展示する。南青山にオープンしたイッセイミヤケの新ショップに試着室として設置されてたヤノベの新作「クイーン・マンマ」は母胎からの誕生がテーマ。この作品の模型やドローイング、今までに制作した作品のミニチュアも展示。問い合わせは三宅デザイン事務所(TEL03・3481・6411)。日月、21日休み。
朝日マリオンのアート・ギャラリー情報より

http://www.asahi-mullion.com/mullion/gallery/tokyo.html

勇崎哲史  続“持ち前”探検隊:“所有”をめぐって 2002年03月08日(金)00時56分40秒
未来のための呪文 [voice] へのコメント

ひとつ前のログがこの板のトップページをいつまでも飾っているのは「晒し首」みたいで恥ずかしいので、カラオケのマイクを独占して放さない人状態の恥ずかしさのほうが、まだましかも。カフェ・ルミもオープン・マイクの話で賑わってることだし、こちらはカラオケでマイク独占。ここは、ずずいいーーっと原点に戻って、再出発いたします。(ぱちぱち、ぱち、ぱち、励ましの寂しい拍手ありがとうございます)

ネイティブという概念を“少数民族”という言葉にだけ閉じこめて語り合うのは、あまり好ましくないとは思いますが、この投稿はその閉じこめた内容です。

まずは、ちょうど5年前、「アイヌ新法」が閣議決定された直後に、こちら(北海道ローカル)の新聞に書いた650字程度の粗末なコラムをお読み下さいませ。

●●●●●
所 有
勇崎哲史

 人間は古代から、“所有”をめぐって、絶え間なく争いごとを繰り返してきた。
 18世紀以降、大きな船と航海技術、強力な武器を持つ国々の欲望は、領土を海の外に拡大し、競い合って植民地や“新天地”を所有した。猟をする以外、殺戮のための武器を知らず、“人間が土地を所有する”などという概念や欲望を持たぬ民族は隅に追いやられ、ついには“少数”民族にされてしまった。
 20世紀になると、世界は自由主義圏と共産主義圏に二分される。国内の土地を、前者は民間や行政区が、後者は国が一括所有するという国家システムである。だが、どちらも“人間が土地を所有する”という点においては同じである。だから、争いごとは終わらない。
 近年、共産圏の国々が次々と崩壊した。権力の集中は人間や社会を腐敗へと導く。崩壊現象は、権力が集中しやすい共産主義体制からはじまったに過ぎない。20世紀型の自由主義体制もやがては破綻するだろう。世界はもうひとつ別のシステムを模索しはじめている。
 先月、アイヌ新法が閣議決定された。政府は“先住性”の明記に躊躇している。先住権=領土所有権という発想を抱くからなのだろう。だが、アイヌ民族の価値観や思想を知れば、先住=“所有”に短絡するとは思えない。歴史の事実を認めることこそ大切だ。
 ロマンチィックな極論かもしれないが、21世紀の世界、そして人間の進化とその発想の転換は“所有”という概念からの離脱にあると思う。そんな未来への発想をアイヌ民族や世界の少数民族の文化や思想から学びたい。
(1997年4月2日 読売新聞北海道版)
●●●●●


 僕のもっている寮さん編訳「父は空 母は大地」は、ある方からプレゼントしていただいたもので、僕だって、そんなこと思ってるよ、がいいたくてその方にメールで上のコラムをお送りしたこともありました。

 かつて「詩人という存在へのラブコール」という僕の投稿をこちらのほうの板に転載下さってから、ちょうど1ヶ月がたちました。
(寮美千子  詩人のアンガージュとは? Cafe Lumiereより再録 2002年02月07日(木)23時18分08秒)
cafe0005.html#cafe20020207231808

「シュルレアリスム、ビートに続く詩人たちが興すムーブメント、今度は日本からはじまらないかなあ。」と書きましたが、その新しいムーブメントのキーとなるのが、“所有”という概念の新しいパターンの発明なのでは、と僕は秘かに予感しています。

前述のコラムから要点をフロー化しますと、

→猟をする以外、殺戮のための武器を知らず、
→“人間が土地を所有する”などという概念や欲望を持たぬ

→世界はもうひとつ別のシステムを模索しはじめている。

→人間の進化とその発想の転換は“所有”という概念からの離脱にあると思う。
→そんな未来への発想をアイヌ民族や世界の少数民族の文化や思想から学びたい。

もっとまとめると、

→もうひとつ別のシステムを模索
→“所有”という概念からの離脱
→そんな未来への発想を少数民族の文化や思想から学びたい。

となります。

学ぶべき少数民族の文化や思想は
→猟をする以外、殺戮のための武器を知らず、
→“人間が土地を所有する”などという概念や欲望を持たぬ

と、ふりだしに戻ります。

こんなことを、詩人と呼ばれる人だけではなく、詩の心を携えた人たち、科学、憲法(ん?誰のこと?)、手づくりチョコ作家、なんでもござれで、ともに、探求したい。

ネイティブ=持ち前、とたどりついた僕らの続“持ち前”探検隊の
次のステップ&モティーフは、こんなことではいかがでしょう。

勇崎哲史  圧力ではなく、原点に帰ること。 2002年03月07日(木)03時43分24秒
発言削除のお知らせ/意見 へのコメント

寮さんへ>
丁寧過ぎるほどのコメントを添えてのご高配、ただただ感謝するばかりです。
今回、このBBSの主宰者たる寮さんへのお願いは、決して圧力なのではなく、
僕の行為が、僕にとってかけがえのない人まで巻き込み、
心痛にまで至らしめたことを知り、
その大切な人を失ってまで僕は、「なんでヤノベ氏を弁明するの?」
という自問からなのです。
この件にレスが派生したのは、幸い、寮さんいうところの密会関係?にある
DORONKO氏だけでした。
そのDORONKO氏と連絡をとったところ、
互い心を知り合う同士、僕がある種の危急を訴えるのだからと、
深く追求することもなく、彼自身のレスの一部の手術をあうんの呼吸で了解してくれました。
しかも、不都合があるならあのレスそっくりそのまま削除したってかまわない、
とまでDORONKO氏は言ってくれました。

考えてみれば、僕はヤノベ氏を弁明しなくったっていいんですよね。
自分のことだけ弁明していればいい。それが基本だったのかも。
僕が余計なおせっかいをする必要なんて、なんにもない。
あくまでも、作家としてのヤノベ氏自身の問題なのだから、
ヤノベ氏ご自身が作家として対応されればいいのです。

その原点に帰ること。
そのことが、今回のお願いだったのです。

ですから、みなさん>
この件について、余計な憶測や、
削除は遺憾であるといった主旨のレスは、
お控えいただけるよう、
切に、切に、お願いいたします。

寮美千子  発言削除のお知らせ/意見 2002年03月07日(木)02時46分04秒 http://ryomichico.net

勇崎哲史氏の依頼により、下記の書き込みを削除いたしました。

▼1
勇崎哲史  ヤノベ氏のレス発見 2002年03月05日(火)00時46分10秒
ゴジラ対太陽の塔掲示板より、全文転載されたヤノベ発言。及び、勇崎氏本人の書き込み、全文削除)
▼2
勇崎哲史  伊福部昭VS岡本太郎[敬称略:五十音順] 2002年03月01日(金)02時25分37秒
(ゴジラ対太陽の塔掲示板に対する勇崎氏の感想と意見の部分、削除)
▼3
ドロンコ  個人的独断。 2002年03月02日(土)14時13分00秒
(勇崎氏の上記の発言の引用部分と、それに対するドロンコ氏の発言を、ドロンコ氏の了解を得て削除)

この削除依頼に対し、Cafe Lunatiqueの主催者である寮美千子は、以下のように考えます。

Cafe Lunatiqueでは、基本的になるべく削除をしない方針です。ただし、悪意や、明らかな差別に基づいて人を傷つけるような発言は削除したいと考えています。また「対話」の成立しない不毛な発言も削除するつもりです。

しかしながら、勇崎氏より削除依頼のあった箇所は、そのどちらでもないとわたしは感じています。また、ドロンコ氏の発言の削除依頼も、いかにドロンコ氏本人が了解をしたとはいえ、本来、他者からの削除依頼で削除すべきものではないと思っています。

また、全文転載のヤノベ発言も、転載以前に本人の了解をとるのが筋というか、礼儀であるという考えもありますが、基本的にヤノベ発言が「公の企画に関する発言」であり、ヤノベ氏が芸術家としてその公の企画を引き受けている以上、市民による引用や再録は、不当であるとはいえないと考えています。むしろ、芸術家が発表した意見が、広く流通していくことは、歓迎されるべきことではないでしょうか。

(ヤノベ氏の作品のコピーを無断で流通させるのだとしたら、それは明らかな著作権の侵害ですが、そのコンセプトを人々に広く知らしめることは、作家にとって不利益になるどころか、むしろ益になることだと、わたしは思います。そこで、人々はヤノベ氏の考えに触れ、そこではじめてヤノベ氏に興味を持った人々が、直接ヤノベ作品に触れる機会を得られるのですから。実際、勇崎氏によるヤノベ発言の引用のなかには、現在開催中のヤノベ作品の展覧会の情報も掲載されていました。)

このような削除依頼があった原因は、勇崎氏への「外部」からの圧力があったからであると(わたしは)理解しています。その圧力がどこのだれによるものであるのか、勇崎氏は明言なさらず「ヤノベ氏本人ではなく、ある人からヤノベ氏に対して失礼だと指摘された」との理由を、わたしに電話で述べられました。Cafe Lunatiqueでの勇崎氏及びドロンコ氏の言葉は、失礼どころか、まともに対話を望む者のまっとうな意見であると、わたしは感じています。勇崎氏によるヤノベ発言の再録は、ヤノベ氏不在のまま過熱しようとしているCafe Lunatiqueの書き手及び読者に対して、本人の言葉を引用することにより、ヤノベ氏に対するより正しい理解を促そうとする好意の表れであると、わたしは感じていました。対話を「削除」の方向へ導いた見えざる力の存在を、たいへん残念に思います。

本来でしたら、このような申し出に応じるつもりはないのですが、勇崎氏ご本人よりのたっての依頼なので、今回は不本意ながら削除しました。

有形無形の圧力をかけて自由な対話を封じこめるのはイカンと思います。また、正当な理由が認められないのに「誤解や感情の行き違いを避けるために」という消極的理由で、本来なら実りある対話をもたらす可能性のある発言を削除するのは、当事者ばかりでなく、掲示板を共有する人々全体の損失だと感じます。

わたしも、今回は削除依頼に応じる結果となりましたが、このようなことにめげず、自由な発言の場としてCafe Lunatiqueを維持したい、と願わずにいられません。

http://www.kagurazaka.co.jp/kachimo/expo/cgi-bin/gvstos/perapera.cgi

勇崎哲史  希望という名の結晶 2002年03月06日(水)04時26分26秒
諦念と希望 へのコメント

DORONKO氏にレスいれたら、寮さんの詩が投稿されていて、すぐにレスが閃いたけれども、明日にしようと思いましたが、さらに新しいレスがあったので、今日のうちにひとつだけ、会話しておこうと思いました。

寮さんの詩のなかの「結晶」という言葉を、僕が記したなかにある「希望」に置き換えると、まったく同じ心情だなあ、とすぐに感じました。

(僕は、希望という言葉は、先ほどのレスのときに使っただけで、つねづねその言葉をイメージしているわけではありませんでしたが。)

確かに「進化」という言葉は、危うさを持っていて、寮さんがご指摘のように人種差別にも悪用(全くでたらめな学問)された歴史があります。そこのところを僕は「300万年前の人骨と比べて知る変化のことでもありません」という言葉のなかに託したつもりです。

そして、気持ちは、寮さんが示して下さった詩、そのもの。
誤解されそうな僕の言葉を、すぐにトランスレーションして下さる寮さんの感受性に心より感謝いたします。

ありがとう。


追伸
自然人類学という比較的新しい学問では、地球の気象変化(気温と紫外線量など)と人種の発生を検証し実証しています。それによれば、最も古くに現れたのが白人、次に黄色人、最も新しく地球に登場した人たちが黒人だそうです。この順は差別系進化論者の説とは全く逆です。
登場順というのは、どうでもいいことです。しかし、黒人の美しさというのは、その新しさとは関係ないでしょうが、旧人たちから託された希望の結晶の美しさかもしれませんね。

寮美千子  「人類=漏斗の水」説 2002年03月06日(水)04時24分52秒 http://ryomichico.net

いま、突然思いついた。「人類」というものを、漏斗に注がれた水だとイメージしたらいいんじゃないか。

生まれる人間がいる一方で、死んでゆく人間がいる。栓の抜けたお風呂に水を入れるようなもの、といってもいいけれど、あえて漏斗という形をイメージしてみる。くるくると壁面を伝って廻って、結局は下に落ちていく。この、落ちていくまでが、人間として生きていられる時間。くるくる廻って廻って、漏斗のなかでの滞在時間の長い分子もいれば、漏斗に入ったとたんに、妙な具合にすとんと落っこちて人生の舞台から去っていってしまう=死んでしまう分子もある。

そのようにして、ある量の水の分子がくるくる漏斗のなかを廻っている。それが、いま生きている「人類」。

だとすると「文化」とは何か? 漏斗の壁面にへばりつくようにしてできたわずかな結晶。そんなものかもしれない。この文化をきちんと育てるにはどうしたらいいか?

後から後から、新しい水の分子が流れこんでくるんだから、うっかりしていれば、せっかくできた結晶も、流れてゆく水といっしょに、漏斗の穴から流れていってしまう。何しろ、水はどんどんどんどん更新され続けているのだから。

廻っている水が、そのことに気づいて、結晶をなんとか大切にしようと守らない限り、結晶は存続しないし、育つこともない。

人間は赤ん坊として生まれ、育っていく。成長する。ことばもぐんぐん覚え、できなかったことがたくさんできるようになる。目の前で育っていく子どもの勢いとは、あきれるほどすごいものだ。まるで、ヒマワリのよう。

だから、人は「人類」もそのように幼年期から成熟期へと育っていくものだと思いたいのかもしれない。そういうイメージを持ちがちなのかもしれない。

けれど、実際はそんなんじゃない。漏斗に注がれた水だ。その水の量は増えたり減ったりすることはあっても、子どもが大人になるように成長するものではない。基本的に、その「質」も「全体像」も変わらないのだと思った方がいい。

その変わらない流れゆく水たちが、なにをつくれるか。どのように「よきもの」をつくっていけるのか。それが人類の挑戦じゃないだろうか。

漏斗のなかの、短い滞在期間。そのなかで、なにをこの漏斗のなかに残していけるか。美しい結晶を析出させることはできるのか。

どう? わかりやすくない? え、ちっとも? あ、そうか、ごめんね。

寮美千子  諦念と希望 2002年03月06日(水)03時42分01秒 http://ryomichico.net
僕は「進化」のことを考えたい へのコメント


「進化」とか「進歩」という言葉は、とても危うい言葉だと、最近つくづく感じるようになりました。「ダーウィンの進化論」が、そのままナチスの選民思想に直結してしまったように、表層的な捉え方をすると、大変なことになる。けれど、勇崎さんがおっしゃるような意味での「進化」ならば、わたしもほんとうに希求するものです。

>僕が常々考えたいと思うのは、「人間の進化」のことです。(中略)
>目には見えないけど、人間は進化しているんだという希望、のようなものかも知れません。

「進化」という言葉は誤解されやすい。それで、わたしは「世界は少しずつ美しくなる」という言葉にそれを託しました。下の「未来への呪文」は、St.Gigaに詩を書いていたころの作品です。


その一方で「人間は、同じ間違いを何度でも繰り返す生き物らしい」「人間の心に画期的な進化などないのだ」「時代が進んでも、人間の心は、科学技術が進歩したほど目に見えて進歩するわけではない」ということを、いい意味でも悪い意味でも、諦念のように抱いた方がいいと、と思うようになりました。そういう現実認識に基づき、それでも「希望」を持ち続ける強靱な心を持ちたいと願うのです。


人間の底知れない愚かさを認識するからこそ、その人間が、それこそ結晶鉱物のように少しずつ育ててきたよきものに敬意を払いたい。あるいはまた、その人間そのものを育んできた「天然自然」そのものに、深い畏敬の念を感じたい。


結局、勇崎さんと同じこと思っているんだと思うんだけどね、表現や使う言葉が、ちょっとブレたみたい。だよね。というわけで、、、

>人間の進化を考えたとき、僕(たち)は、いま、何をどのようにしようか、、。
>そういうふうに考えていたいのです。

そこのところ、いろいろ語り合いませう。

勇崎哲史  DORONKOさま>ゴジラの歴史その傾向と対策 2002年03月06日(水)03時23分52秒
オジン的言い分。 へのコメント

DORONKOさま>
「ゴジラ」「ゴジラの逆襲」で50年代と共に一旦幕を閉じたゴジラシリーズでしたが、60年代後半に「キングコング対ゴジラ」(日米怪獣の対決)で復活。それが大ヒットして以来、怪獣対決のパターンが定着し、ゴジラ映画の半数以上が「○○○対ゴジラ」、最近では関係が逆転し、「ゴジラ対○○○」とタイトル化されてきました。その関係の逆転についての真相の解明は詳しい方々にお任せします。
ですから「ゴジラ対太陽の塔」というのもその程度のことで、深い意味はありません。まあ、強いて意味をつければ、「<科学文明の破壊者:ゴジラ>対<進歩思想への挑発者:太陽の塔>」といった、相撲で言えば同門対決、あるいは貴の花対若の花戦みたいなもので、互いには戦いたくないけど相撲とる、みたいなもんでしょうか。
この対決は昨年すでに劇場用「クレヨンしんちゃん」でアニメ化されているとのことでもあり、検証には「クレヨンしんちゃん」は必見なのですが、僕もまだ見ていません。また、太郎さん的に考えれば、ゴジラと太陽の塔がぶつかったときにパーンと火花がはじけて、そこにおこる爆発への興味とでも言うのでしょうか。「爆発だ!」はあっても、ライオンみたいな頭の人がでてきて「よくがんばった!かんどうした!」と絶叫する世界でないことは確かであり、自分でもなにがいいたいのか、わからなくなったところで、今日はおやすみなさい。

寮美千子  未来のための呪文 [voice] 2002年03月06日(水)03時12分10秒 http://ryomichico.net
僕は「進化」のことを考えたい へのコメント

世界は少しずつ美しくなる
世界は少しずつ美しくなる
世界は少しずつ美しくなる

何ものにも傷つけられることのない結晶が
ゆっくりと育つように

何ものにも傷つけられることのない結晶が
ごくゆっくりとしか育たないように

世界は少しずつ美しくなる
世界は少しずつ美しくなる
世界は少しずつ美しくなる

                         Copyright by Ryo Michico

勇崎哲史  僕は「進化」のことを考えたい 2002年03月05日(火)23時56分55秒
人類に進歩はあるのか? へのコメント

今、「ゴジラ対太陽の塔」を覗いてきたら、ヤノベ氏の松永氏へのレスを僕が無断コピーしてここに投稿したことが、非常に失礼だ、とのお叱りの投稿があったので、心よりお詫びし、自らを懲役10分30秒の刑に処し、謝ってきたところです。

70年大阪万博のテーマ「人類の進歩と調和」へのアンチテーゼとして、岡本太郎が太陽の塔をぶったてた話(太郎が太陽の塔に託したこと)の詳細は、吹田のTさんに是非お願いしたいところです。

文明化することを一般には進歩するというようです(例:進歩思想)。ですから、ある人たちには進歩は確かに存在し、大切なことでもあるようです。
ところが、この進歩というやつは、人間を不幸にするだけで、決して歓喜(註※)に導かなかった。それは歴史を知れば、ゴジラを見るより、否、火をみるよりあきらかです。

僕が常々考えたいと思うのは、「人間の進化」のことです。
進化は、進歩のように数字で表したり、目に示せるものではありません。
進化の様子は、「歴史」といったスパンでも知ることもできません。
僕の知りたい進化というのは、300万年前の人骨と比べて知る変化のことでもありません。
目には見えないけど、人間は進化しているんだという希望、のようなものかも知れません。
人間の進化を考えたとき、僕(たち)は、いま、何をどのようにしようか、、。
そういうふうに考えていたいのです。

註※岡本太郎は「しあわせ」という言葉を嫌い、「歓喜」という言葉を使いました。その趣旨に共感し、倣ったしだいです。

寮美千子  人類に進歩はあるのか? 2002年03月05日(火)21時21分34秒 http://ryomichico.net
“持ち前”番外編:ゴジラとの遭遇初体験記:ゴジラ対バンビ へのコメント

勇崎さんが幼い頃見た映画は「ゴジラ」。
わたしは5歳の頃、ディズニーの「眠れる森の美女」(1960日本公開)を見たらしいんだけれど、
最初の記憶には9歳のころに見た「王さまの剣」(1963制作・1964日本公開)。
両親はそのころ若くて貧しかったので、映画を見る余裕などなく、
おそらくその間はすっぽり抜けているのだと思います。
その後も中学生になって「ロミオとジュリエット」を見るまで、映画の記憶はほとんどない。
夏の夜に学校の校庭で見せられた、
おかあさんのいない女の子のかわいそうな話ぐらいかな。
映画という文化の洗礼を全然受けないで育ってしまいました。残念。

「ゴジラ」を見たら、急に古い日本映画が気になって、昨晩は黒沢明監督の「生きる」を見ました。これにも、がつんとやられた。いまも、少しも古くない。それどころか、これを見て、己の生き方に???を感じて心騒ぐ人、いまも多数だと思います。

「ゴジラ」や「生きる」の時代から、人間って進歩がないなあ、などと嘆息してしまいましたが、もしかしたら人類には「進歩」などないというのがほんとうかと、はっと思いつきました。

どの時代も、赤ん坊がうまれて、わけもわからず、育って、大人になって、少しは利口になって、けれど年老いて、せっかくためこんだ知識や経験ともろともに死んでしまう。人間の社会は、いつだってその繰り返し。つまり「更新」されている。寿命が、上限たかだか百歳ちょっとの人間にできることなんて、実際のところ、そんなに変わらないのかも知れない。つまり「進歩」や「進化」は、幻想。

だからこそ「文化」を大切に育てなくちゃいけない。少しずつ、少しずつでも、積み重ね、降り積もらせなければならない。それを少しでも怠れば、あっという間にいままで積み重ねたものは崩れ去る。それを抱えた人々ともに「死」にさらわれていってしまう。

「文化」は「平和」と同じ。「平和」というものが、「戦争」がなければ自動的にそこにある、というものじゃなくて、弛まぬ努力と日常のひとつひとつの積み重ねのうえでしか成立しないように、「文化」も漠然とそこにあるものではない。同じことの繰り返しであろうと、常に語りかける努力、学ぼうとする営みのうえにしか成立しない=維持できないものなのかもしれない。

映画を見てこなかったわたし。いわゆる「名作」といわれるものを、少し系統的に見てみようかな、などと思いました。

みなさん昭和二十九年の「ゴジラ」は名作です。まだの方は、ぜひ! ビデオ屋さんで借りて見る、という手間をかけても、「損した」とは思わない作品です!

ドロンコ  オジン的言い分。 2002年03月05日(火)05時18分37秒
ヤノベ氏のレス発見 へのコメント

うーん!かなり明確になってきましたね。……ぼくもオソマキながらみなさんの
これまでの発言を追ってみましたが、松永氏の指摘、ナルホドとは思わされる
ものの、どうも、「一石を投じ」れば済むところを、三石ぐらい投じてしまった
のかな?という印象を受けました。――かりにぼくがヤノベ氏だったなら、
前置き的な部分はさっぱりと無視し、「対策提案」の部分だけに答えればいー
かな?と考えたでしょう。

ここで、自己紹介しておきますと、ぼくは昭和28年生まれで、勇崎さんと
似たような状況で、初代の「ゴジラ」を見過ごし、その後も怪獣映画等に
さほど熱中するという経験はなく生きてきたオジンです。ですから、もとより
細部にわたる議論に参加する資格はありそうもないわけです。今ここで、
急に学習する気持にもなれませんし。
ただし、初代ゴジラから太陽の塔までというのは、ちょうどぼくが生まれて
から思春期を終える頃までに当たるわけで、「じゃあ、あの時代って、何
だったのか?」ということには、ごく素直に関心が湧きますし、「ゴジラの
時代」展では、寮さん絶賛の初代「ゴジラ」の上映ぐらいはしてくれるの
でしょうな?と思ってしまいます(よい作品だと言われるほど、ビデオ
ではなく、せめて100インチ以上のスクリーンで見たいと思うのです)。

その上で、ヤノベさんが関わりをお持ちなのは、展覧会の全体ではなく、
そのワークショップであるということに戻して考えなければならない
わけですが、おそらく、ぼくのようなオジン以上に、多くの子どもたちが
訪れるであろうということを考えると、知的・理論的にあれこれ論じる
ことよりも(それも大事だとは思いますが)、遊んだり、身体で感じる
ような企画の方がいいのじゃないかなあと思います。――これ以上
細部にわたって論じることは、ぼくの任ではないでしょう。

でも、ぼくも遮光式土偶、大好きです。
それに、会場全体にとは言いませんが、場内のあちこちで、あの時代に
通底するもののように、伊福部昭によるゴジラの音楽が響いていて
くれたら、かなりワクワクできるような気がします。――ただ静かに
見てもらうだけの展覧会では、つまりませんよね。

#こまかなことでは「ゴジラ対太陽の塔」の、「対太陽の塔」という
ところがわかりにくいわけですよね。ぼくがかつて生きていた――その
どこかにいた時代ということでは、ゴジラと太陽の塔は始点と終点に
あたるわけで、あれは「対」という語で対比されるべきものなのかな?
という疑問は残りますね。そもそもこれは仮のタイトルにすぎなかったの
かも知れず、もうテーマではなくなっているのかも知れませんが。

ひとまず、こんなところで――。


勇崎哲史  立派ひとからげ 2002年03月05日(火)01時16分04秒
ゆうべはじめて「ゴジラ」に遭った! へのコメント

「一日早く知れば、、、、」とシャレで投稿しながらも、
余計なシャレだったのです。

立派になってはイケないルージュ・マジック、
という、お○○ギャグ(○はひとつ足りなくて正解)をまた振る、
自己嫌悪。

正解がでたついでに、政界で立派になろうとしたら、
S氏のごとくであります。
そんなことは、立派ひとからげの世界ですね。

寮さんのように、
いつまでも立派にならぬことが、
人生、
盛会に過ごせるのかも知れませんね。

また、
また、
またの投稿3連発になってしまったかな?

勇崎哲史  ヤノベ氏のレス発見 2002年03月05日(火)00時46分10秒
「ゴジラ対太陽の塔」再生計画 へのコメント

(勇崎哲史氏の依頼により全文削除)


勇崎哲史  “持ち前”番外編:ゴジラとの遭遇初体験記:ゴジラ対バンビ 2002年03月04日(月)22時28分44秒
ゆうべはじめて「ゴジラ」に遭った! へのコメント

母から聞いた話です。
ゴジラの封切上映の時、僕は映画館に連れて行かれたようです。
当時4歳か5歳。
ゴジラが登場すると泣きわめいて、
そこから先を、この子は見ていなかったそうです。

どおりで、ゴジラを子供の時に見たという憶えはなく、
どこかの暗い映画館の客席に身を潜め、
恐くて泣いていた記憶だけはあるのです。
この子のような子は僕に限らないでしょうから、
昭和29年の映画館には、スクリーンの音だけではない、
もうひとつのリアリティをそばで耳にしながら、
手に汗を握っていた観客の姿があったんでしょうね。

大人になってから見た昭和29年型ゴジラは、
ビキニ島での核実験〜第五福竜丸事件に端を発した、
まぎれもなく“反核・反戦”映画であり、
ゴジラという野性が科学文明を打ち砕いてゆく、
痛快!科学文明批判映画でもありました。

ちなみに母によれば
アニメ「バンビ」には好感度だったらしく、
その日以来、しばらく「バンビ、バンビ」といって
はしゃいでいたそうですが、これも全く記憶にありません。

ゴジラ対バンビ
東宝特撮VSディズニーアニメ
客席に身を潜めたことを記憶させえたゴジラの勝ちでしょうか。

ゴジラ話をするときりがないので今日はこの辺でおしまい。
ゴジラ体験も“持ち前”、でしょうか?

寮美千子  ゆうべはじめて「ゴジラ」に遭った! 2002年03月03日(日)14時44分29秒 http://ryomichico.net

>「一日早く知れば、一日早く立派になれる」

このまま、何も知らないうちに、死んでしまいそうな予感のある寮美千子です。
嗚呼! 立派への道は遠く険しい!

昭和29年に公開された「ゴジラ」の第一作も、話には聞いていたものの、
恐竜は好きでも怪獣には強い偏見を持っていた科学少女だったわたしは、
一度も見ないまま過ごしてきてしまいました。
これではいけないと反省して、昨日、ビデオ屋に入会して、ゲット。
「ゴジラ」シリーズは「キッズアニメ」のコーナーにあり、貸出料も一般映画より100円安く250円。
まあ、キッズアニメだもんなとタカをくくり、深夜見たところ、度肝を抜かれた。

まったく、こんなものだとは思いませんでした。
わたしもまた、世間に流布していた、もやもやっとした「ゴジラなるイメージ」に毒されていた者のひとりです。

伊福部昭氏の音楽の、心の深層への浸みとおり方も、尋常ではない。
あの変調のリズムを刻みながら、昇降する旋律。
不安感が心の深いところに刻みつけられ、さらにあおられます。

作中、アナウンサーがゴジラが暴れ回る様子の実況中継で吐いた言葉。
「これは劇でも映画でもありません」
それはまさに、昨年の911のテロ事件の時、NHKのアナウンサーが吐いた言葉とぴったり重なるものではありませんか。

その後の、近代兵器の使用によるゴジラへの攻撃シーン。
「この海域にいるはずだ」と見当をつけて、爆弾をまき散らすところや、
飛行機から攻撃する映像は、そのままアフガニスタンの米軍に重なります。
それが、何の効力もなくむなしいものに過ぎないところまで。

さらに、エスカレートする近代兵器の開発競争。
科学者の良心とは?
目の前の悲惨を回避するために、
人類をさらに大きな危険にさらすことになる矛盾。
その時、人はなにを選ぶか?
「幸福になってくれ」と言い残し、
自分が開発した恐ろしい兵器とともに海中に沈んでいく科学者。
人々が「勝利!」と叫ぶそのときに、
ひとりぽつんと「あれが、最後の一匹だとは思えない」とつぶやく老科学者。

なにもかもが、色褪せるどころが、現在もそのまま通用するものです。

というより、昭和29年に危惧されていたことが、少しも解決しないまま、
それどころか、二十一世紀となった今日、規模を拡大した形で、
世界を危機に陥れているということ。
人類の進歩のなさに、愕然とする思いでした。

また、あの作品が、東京大空襲から十年も経ないでつくられたということにも、
強い衝撃を覚えました。
どう考えても、ゴジラの荒れ狂う東京は、大空襲の再現です。
父が遭遇したという、話にしか聞いたことのない大空襲を、
まざまざと見せられているような気がしました。

ネオンが輝き、繁栄の夢へと突入しようとしていたあの時代、
人々が未来だけを見ようとしていたあの時期に、
復興した街をあえて灰に帰したあの映像の意図は?
制作者が、ゴジラに託して語ろうとしたことは?
それを思うと、涙さえこぼれてくるのでした。

あの一面の焼野原の光景は、まだ人々の心に深い深い傷として、
触れれば血が流れるほど鮮やかに残っていたに違いありません。
残っているのに、まるでなかったことのようにして前進しようとしていた時代、
人々は繁栄の夢を見ながらも、心の中の納まりきれない焼野原の光景を、
口に出せないまま抱え込んでいた。
「ゴジラ」は、それを形にして見せてくれた。
誰もが持っているよと、いってくれた。
それが、あの映画が大ヒットしたひとつの要因だったかも知れない。
戦争の惨禍のグリーフ・ワークとしての映像。

そして、繁栄へ突っ走ろうとしている影で、実際なにが行われているのか。
映画公開の前に起きた第五福竜丸の被爆事件。
度重なる水爆実験。
世界が、とんでもない方向へと走ろうとしていることへの苛立ちと警告。

「ゴジラ」がそんなシリアスなドラマだったと、わたしははじめて知りました。

「オキシジェン・デストロイヤー」が暴走する科学兵器の象徴として語られている。「ゴジラ」よりも、むしろそこにこそ、
作品のヘソがあったといってもいいほどの存在です。
それも、見なければわからなかった。
その後、あまた出てきた架空兵器の名前の一つ、ぐらいの認識しかありませんでした。

ともかくも、わたしの「ゴジラ観」は昨晩にして一変しました。
あのドシラドシラが頭について、興奮と不安とがないまぜになった不思議な気持ちで、なかなか寝つくことができなかった。
圧倒されました。

わたしは、きのうほんとうの「ゴジラ」に出会ったばかり。いままで漠然と感じていたあのふわふわとした「ゴジラ像」が、どこからきたのか? その後の連作のゴジラと、いわゆる怪獣映画によってつくられたものだと思います。けれど、その出発点がここだったということを改めて知って、ほんとうによかった。立派にはなれないけれど、知るには一歩近づいた。そう感じました。

勇崎哲史  極私信的投稿 2002年03月02日(土)23時25分07秒
個人的独断。 へのコメント

DORONKO中大兄皇子
ことDORONKOさま>

松永氏のゴジラ用巨大浮き輪に引き続き、鼻腔用アクアラング付水中メガネ(商品名:オキシジェン・ライヴ花粉症対応型)を投げ込んでいただき、ありがとうございます。

互いに敬称をエスカレートさせると、しまいにはジュゲムジュゲムになって、みっともなかっとみのかまったり状態(註:中学校歴史教科書系おやじギャク:ただし意味不明)にも陥り、退化の改心にもなりかねません。ですから、以後、だいそれた敬称は互いに慎み、略といたしませふ。

僕の方はだんだんと伊福部教布教伝道師の観を呈してまいりましたが、伊福部音楽は一度マジに聞くと、身体に入り込んで、一生抜けなくなるので気をつけましょう。

昨日、カフェ・ルナのほうに、里の虎氏(虎といっても実物は借りてきたネコのような人柄)が華麗にデビューされましたが、彼こそが生粋伊福部命の北海道人です。4〜5月あたりに、絶版になっていた評伝系・伊福部本(木部与巴仁著「伊福部昭?音楽家の誕生」)などがオンデマンド出版されるらしいとか等々の情報、里の虎氏はいろいろと詳しいので、彼のライフワーク型アイヌ文化体験とあわせ、タメになって面白い投稿が期待できるところであります。

「タメになって面白い」、というのは戦前の少年雑誌「少年倶楽部」の名コピーだったと思います(ちなみに、発行元の講談社のキャッチは、「講談より面白い、講談社」だったかな)。いつのことだったか忘れましたが、復刻版の「少年倶楽部」を買いそびれて後日古本屋で買ったことがありました。入手できた号には<立身出世号>とかかれてあり、どうすれば立派になれるか?という少年のための立身出世特集が組まれていました。目次に鮮烈に記された、人生の真相と哲理に迫るキャッチ・コピーに僕は思わずウ〜ム、と膝をたたいて、頷いてしまいました。
そこには、こう書かれています。

「一日早く知れば、一日早く立派になれる」。

ドロンコ  個人的独断。 2002年03月02日(土)14時13分00秒
伊福部昭VS岡本太郎[敬称略:五十音順] へのコメント

勇崎大兄。

みなさんの発言に目を通すだけの余裕もないので、あるいは見当違いになるかも
知れないことをお断わりしておきます。

>美術家は基本的には言葉の人ではないので、言葉は不適切であっても、
>評価は美術家としての本筋である、その作品をもって行いたい、という
>基本姿勢を僕は持っています。

賛成です。そもそも、寮作品に共感するような人間で、「情に流される」
ことを喜ぶような人間は少ないだろうと思います。

> コンセプトとしては、言葉と表出のされかたは異にしながらも、伊福部昭と
>岡本太郎の思想?には極めて共通性があり、異質性も含めて、また、二人を
>クロスさせながらも、北方少数民族と沖縄を対極として持ち込むことで
>フォーラムとしての奥行きをもたらしたい。そういったことを語り合うことで、
>本来の日本人、というものを探求していきたいと考えていました。

「ディープ過ぎる」ということはないと思いますよ。さすがに大兄!魅力十分の
コンセプトだと思います。

>ここでの僕の過ちは、モティーフは全く違うなあ、と思いながら「多少違う」
>程度と、ごまかしたことです。

これが、ひとまずの核心かな?「婉曲表現のワナ」というものじゃないでしょうか。
われわれ、極東の島国の人間は、どうしてもこれをやってしまいがちなんです
よね。でも、これにハマッてしまうと……やがて気がついてみると、満足している
人間は一人もおらず、誰もが不満だらけというような悲惨な状況に立ち至ります。
大兄は、さすがにその危険をご存知でいらっしゃるようで、安心いたしました。
だからといって、いつでも目を三角にしてるのがいい――などというのじゃ
ありませんけどね。われわれは、たおやかな心根というものを忘れてしまって
久しいのかも知れないということには、岡本太郎とともに、深く思いをはせる
べきでしょう。でも、やはり時には毅然としなければ――。

>岡本太郎、伊福部昭という二人に、僕は本来の日本人モデルとは、こういうこと
>ではないか、を強烈に感じる〜

ぼくは、伊福部昭については、まだ白紙の状態です。しかし、先日読み終えた
岡本太郎の『沖縄文化論』(中公文庫)には瞠目しました。それに、「岡本
太郎と戦後写真」?展で見た彼の写真には、本当に驚きました。ぼくは、
岡本太郎こそ、近代日本が生んだ最高の写真家だったのではないか?とさえ
思っています。

(勇崎哲史氏の依頼とドロンコ氏の了承により部分削除)


大長老  それはそれとして別の角度から。 2002年03月01日(金)04時11分49秒 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8863/rojin/rojin_index.html
「ゴジラ対太陽の塔」再生計画 へのコメント

企画書って経験的に言って怪しいもんですよ。
世の中にはさー企画書上手って人たちいましてねー。
物つくらすと、とても下手って人もけっこういます。いやとても多いです。

ゴジラだって企画書どうですかねー、きっと怪しかったと思いますねー、おれは。
だってあの頃は、原子怪獣はやりでねー、柳のしたの何匹目かがゴジラですが、
それだけが生き残った。

結局、企画書よりブツです。才能ってことでしょうねえ。ちょっと論理的にあまいすけど。核心はついてるぜぃ。

☆ゴジラが品川沖から上陸してすぐぶっ壊すあの鉄橋を水曜日に見てきちゃったよん♪
セットみたいにちゃっちい鉄橋でした。

清水雅彦  ユニヴァーサル論について 2002年03月01日(金)02時44分03秒
ユニヴァーサリズムはいかが へのコメント

勇崎様、一色様

伊福部昭氏の発言に関連して。『カンダハール』はいい映画(イラン人監督製作という点で視点に限界はありますが)ですから是非見てください、と知り合いの経済学の先生に勧めたところ、その先生の鑑賞後の感想は「……優れた芸術作品としての普遍性を見事に表現しているんですね。どんなにローカルに描いても、優れた芸術は、普遍的なんですね」というものでした。

また、『千と千尋の神隠し』がベルリン国際映画祭金熊賞を受賞した際の朝日新聞記事では、映画祭期間中のスタジオジブリ・プロデューサーの「地域性に富んだものこそ、世界に通用すると思っている」という発言を紹介しています。

私も先に「普遍的価値」という言葉を用いましたが、「ユニバーサル」という概念を用いて論ずる視点も必要だと思います。

最近の映画に関連して言えば、昨今のグローバリズム、南北問題、資本主義の矛盾を考えるには、皆さんもご存じのこの『カンダハール』やフィリピンの巨大ゴミ捨て場で生活する人々を描いた『神の子たち』が、最近の書籍で言えば、『カンダハール』の監督モフセン・アフマルバフ氏の『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』や『世界がもし100人の村だったら』がいい題材になりますね。

勇崎哲史  伊福部昭VS岡本太郎[敬称略:五十音順] 2002年03月01日(金)02時25分37秒
「ゴジラ対太陽の塔」再生計画 へのコメント

先ほどの投稿よりも、伊福部昭の言葉を少しだけ正確に思い出しましたので8たいした違いはないけど)、まず、下に訂正します。

「音楽に国境はない、などといって、音楽には人類共通の美観があるように思われていますが、私はそれは間違いだと思っています。民族、民族それぞれに固有の価値観や美観があり、その民族の特殊性を通過して、人類の普遍性に到達しなければならない。そのように(通過し)到達しえたものだけを私は芸術だと思っております」。(伊福部昭・談)

松永洋介さま>
「ゴジラ対太陽の塔」再生計画の大論文、大長老どの同様、僕も未来に希望を抱きながら拝読いたしました。大長老どのと並んで座って、パチパチパチと大拍手していたいのですが、僕の場合は批判をいただいた当事者でもありますので、そうばかりはしていれません。なるべく手短にとも思いますが、成り行きにまかせ、以下反論めいたことも含めてレスしたく思います。

まず、今回の件について、僕のことは後述させていただくとして、「ヤノベケンジ氏はこのように考えていたのでは」という想像ではなく、僕はこう感じている、というかたちで彼への弁明ともいえる反論を試みたく思います。

僕は昨夏、吹田のシンポジウムでヤノベ氏とはじめてお会いし(それ限りですが)、たいへん真面目な人だなあ、と好感をいだきました。その好感を、現在も後退させてはいません。

彼の文章は確かに正確ではありませんが、美術家は基本的には言葉の人ではないので、言葉は不適切であっても、評価は美術家としての本筋である、その作品をもって行いたい、という基本姿勢を僕は持っています。

ご指摘の企画趣旨についてですが、あのBBSは、内輪のシークレットということではじめたようなので、その前提が略されているだけだと僕は認識しています。
つまり企画趣旨の一行目に「太陽の塔乗っ取り計画」と書いていますが、既にどこかで提示されているその計画が前提としてある(僕はその計画の趣旨を吹田で聞いています。が、一字一句正確には記憶していませんので、不正確な記述をここに書くことは控えます。僕のそのとき感じたことを、僕の認識を誤解するだろうことを前提に大雑把にいえば、“乗っ取り”とは、太陽の塔で“遊ぶ”ということです)、と僕は思っています。

次に、アトムはさて置き、縄文、ゴジラ、太陽の塔を結びつけるもの(ことがら)は、松永氏が求めているような論理ではなく、極めて主観的な軸によるものと僕は感じています。
縄文、ゴジラ、太陽の塔を結びつけるとすれば、これらは岡本太郎のいう「べらぼー」なものであり(縄文とゴジラを岡本太郎は「べらぼー」と言ったかどうかは、全く定かではありませんが)、そのような結びつきだろうと僕は感じていました。

また、岡本太郎のいう「べらぼー」なもの、とは、伊福部昭がいうところの日本人固有の美観としての「拉鬼体(らっきてい:鬼拉体ともいう)」にも通じると僕は感じています。拉鬼とは「鬼をも拉(ひし)ぐ」の意ですが、これは藤原定家の「和歌十体(わかじゅってい)」(定家は、和歌を10のタイプに分類して、優れた和歌の成立法を研究。日本人による日本最古の国文学書といわれていますが、ネイティブ日本を探求する芸術論なのではと、僕はかねてから考えております)のなかの一体(いってい)です。
「和歌十体」についての詳しい解説は、国文学のかたに投稿していただくとして(あるいは興味があればご自身で調べていただくとして)、伊福部昭が20数年前に札幌市民会館大ホールで行った講演(伊福部昭の札幌での講演は戦後ではこの一回だけ:1000人近く入るホールなのに聴衆は100人程度という、思い出すと札幌の恥、札幌の大バカヤロー!なのであります)で語ったことを当時最前列で聞いて、心の奥深く刷り込まれた僕の記憶を紐解きながら、「拉鬼体」について述べてみたいと思います。

ファンには幻のともいえる、この伊福部昭自身によるの講演によれば、日本文化の特質は「幽玄」(定家の「和歌十体」のなかのひとつに「幽玄体」がある)だと思われているが、それは大きな間違い。「渋い」とか「わび・さび」などという心境なんて誰でも簡単に到達できるシロモノだし、「幽玄」に似た文化や心境は日本以外の国にもある。「拉鬼」の世界とは、例えば「鯉のぼり」の世界だ。大きな魚が大空を大海にみたてて泳がせる、という美観は日本人しかもっていなかった。また、一茶の「古池や蛙飛び込む水の音」を「幽玄体」で解釈すれば「静中動あり」という程度のことしか意味されないが、この句を「拉鬼体」として解釈すれば、「あの小さな蛙さえ、勇気を持って混沌とした大海(池は蛙にとっては海ほど広い)に飛び込む(のに、それにひきかえ私は、、、)」という小さな命にも大きな意思があるを詠ったことになる。云々。

この話に当時僕はすっかり感動してしまい、定家の「和歌十体」を調べてみましたが、定家も「拉鬼体こそ最も到達し難い境地である」と述べていました。
ここで伊福部が語った「拉鬼体」は、岡本太郎にいわせれば、「べらぼー」なもの、と極めて近い意味だといえますしし、岡本太郎も伊福部と同じように「幽玄」についての懐疑を語ってもいます(どの著作だったかな??僕が鳥海さんみたいに優秀だったら、すぐに出典名と正確な記述を、頭の抽出から引用できるのですが、、、)。

さて、ここから僕自身についての弁明に入りたいと思います。弁明といっても僕は言い訳をしようとしているつもりではないことだけは、どうか理解してやってください。
まず、松永くん、否、松永氏の指摘-----

>>>>たとえば勇崎さんは、ヤノベさんのいう「私達の世代の持つ独特な」の部分をとばして読んでいるようだ。勇崎さんは、自分が考えていたのと同じ名前の企画と出会って、そこに自分の見たかったものをうっかり発見しているだけではないだろうか。(自分の嗅覚はもっと大事にしたほうがいいと思う。)<<<

ごもっともでございます。
僕のような年齢になると、こんなふうに(厳しくかつ心温かく見守りように)叱ってくれる人がだんだんいなくなります。松永氏は、まもなく溺れる人であろう僕に、救助の浮き輪を投げてくれた。あるいはJR中央線のとある駅のホームで線路方向に転びそうになっている初老の僕を抱きかかえてくれようとした勇気ある青年・松永氏には感謝、感謝、感謝であります。これからもこの厳しくも優しいスタンスでよろしくネ。

さて、それが「自分の見たかったもの」だったのか? といえば、そこは昭和の気骨(え?)、そんなことでもなかったとは内心思ってもいます。

手抜きをして、まず鳥海さんちに僕が以前投稿したものをコピーしてみます。(鳥海さんちに過去ログコピーしにいったら、ちょっと道草くっちゃて、1件新規投稿してきちゃいました)

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「太陽の塔VSゴジラ」のラインに繋げるとしたら 投稿者:勇崎哲史  投稿日: 2月 6日(水)01時32分30秒

(前略)
4月頃を目処に、「サイバーフォーラム・ゴジラ対太陽の塔」という、僕主宰のBBSを立ち上げる計画でいたのですが、鳥海さんから、同じネームのBBSを既にヤノベケンジさんが立ち上げている、と教えていただきました。
僕の考えていたのは、ゴジラのテーマを作曲した「伊福部昭」と太陽の塔をつくった「岡本太郎」。日本の両端にある「北方少数民族(伊福部的テーマ)」と「沖縄(太郎的テーマ)」。この4つの言葉をキーとしたBBSでした。
コンセプトとしては、言葉と表出のされかたは異にしながらも、伊福部昭と岡本太郎の思想?には極めて共通性があり、異質性も含めて、また、二人をクロスさせながらも、北方少数民族と沖縄を対極として持ち込むことでフォーラムとしての奥行きをもたらしたい。そういったことを語り合うことで、本来の日本人、というものを探求していきたいと考えていました。ちょっとディープ過ぎて、投稿は少ないだろうことは予測しての開設ですが、昨年5月にネーミングしてたのですが、仕事やらなにやらに追われて、多少暇になる冬から初春にかけて具体化することにしていました。
ヤノベさんちを訪問してみましたが、モティーフの立て方は多少違いながらも、究極の目的は全くと言っていいほど同じで、とてもうれしくなりました。
(後略)
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ここでの僕の過ちは、モティーフは全く違うなあ、と思いながら「多少違う」程度と、ごまかしたことです。僕は「ゴジラ対太陽の塔」とネーミングしながらも、モティーフはあくまでも「伊福部昭」と「岡本太郎」という人間であって、「ゴジラ」や「太陽の塔」ではない。

僕が自分をごまかした、その自分はどこからくるのか。
それは、入口が違っても出口が共通であれば、入口には拘らない、という前提の人生を僕が過ごしているからでしょう。前提とは、僕自身の「運動論」〜「運動は不純なほど活性化する」という原理観?を僕が持っているということです。60年代〜70年代を経て得た感慨は、「運動家は自らの運動を純化したがり、純化すればするほど運動は先細りになる」という達観?でありました。だから、運動は不純なほど活性化する。

問題は出口(到達点)であり、入口(動機:モティーフ)は多様なほどよい。(みなさん既にお気づきのように、別に寮系&鳥海系のBBSのことを言っているわけではありませんが)

太陽の塔は岡本太郎によるものですが、伊福部昭がゴジラ自体を創ったわけではありません。しかし、その音響的な設計〜例えば:テーマ曲等ばかりではなく、ゴジラの鳴き声をコントラバスよりも低音域のコントラファゴットの弦を縦に振動させてつくった(弦楽器の一般的な奏法では弦を横に振動させて音を出す)など〜を行い、鑑賞者にとってはゴジラを音響的にアイデンティファイさせる重要な役割を担っています。
映画館をでて、シーンを思い出すと、ドシラ、ドシラ、と4拍子と5拍子が交互に交わされる、あの独特の(というよりは日本人固有の)リズムが身体に記憶されていて、無意識にドシラ、ドシラ、という歩調で歩いている自分に気づくのは、僕だけではないでしょう。

それでは、なぜヤノベ氏と出口は共通していると思ったのか。
それは、僕が伊福部昭と岡本太郎に感動しまくっている理由?その決定的動機こそ、まずお話ししなければなりません。

100年以上前の「文明開化」とは、「日本人が日本人であることを一旦止め、西洋人になる道を歩むことを選択したこと」と僕は勝手に定義づけています。(注:子供の頃、学校で文明開化は100年前、とならったので、この歳になっても文明開化といえば100年前、と思っている愚かな僕)
そして「日本人は、そのまま行きっ放しで、日本人に帰ることを忘れてしまった」。
本来の日本人(つまり日本人としてのネイティブ)とは、なんだったのか。
その探求の対象として、2年前までの僕には伊福部昭しかいなかった。
2年前、たまたま写真集「岡本太郎の沖縄」を手にし、大きな衝撃を受け、岡本太郎の本を読みまくり、伊福部昭と岡本太郎の共通性をあまりにも強く感じすぎて、感動しまくりました。(もちろんたくさん違うところもあります。)
岡本太郎、伊福部昭という二人に、僕は本来の日本人モデルとは、こういうことではないか、を強烈に感じるのです。
この二人のことを探求すると、僕が知りたいと思っている(というよりは、僕自身がそうなりたいと思っている)本来の(ネイティブな)日本人の姿の理解に到達することができるのではないか。

岡本太郎と伊福部昭は、美術家と音楽家という美にかかわる生き方を選んでおられます。したがって、それは当然、日本人固有の美観を探求することにもなる思う。(美意識というよりは美観、とした方が正確なように感じます。ヤノベ氏は言葉の人ではないので、彼の言う美意識とは美観のことだと僕は受け止めています。)
そのようなことから、「本来の(ネイティブな)日本人の姿の理解に到達すること」という僕の求める目的と「時代を超えた日本人の中に流れる美意識の遺伝子を発見する壮大な計画」というヤノベ氏の出口には大筋において共通点を認めたわけです。

(勇崎哲史氏の依頼により部分削除)

松永氏へのこれ以上のレスは、
この投稿でさらに言葉を連ねることではなく、
ここから先は、
実行あるのみ!
でしょう!

(やはり、長いレスになってしまい、これ以上推敲しようとすると、寮さんちに泊まりがけ、にもなりかねないので、この辺で投降(投稿)します。いたらぬ点、ミスタイプなどありましたら、よろしく。
おやすみなさい)

勇崎哲史  メディアにはバイアスがある 2002年02月28日(木)21時49分34秒
グローバル対ネイティブ論について へのコメント

松永洋介氏にレスしようと思い、もういちど投稿内容に目を通そう(のために彼のログをワープロにコピーしよう)と思って開いたら、グローバリズムVSネイティブの対話が活発になっていました。この件は早くすみそうに思い、先にこのレスを投稿させていただきます。その後、松永氏へのレスを書き始めて、書き終えたら投稿をしたく思います。(松永氏の大論文へのレスは時間がかかりそう、、、夜明け前に書けたらいいのですが、、、)
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清水雅彦さま>
グローバリズム、あるいはその潮流(波)化としてのグローバリゼーションを悪玉扱いするつもりは、寮さん同様、僕も毛頭ありません。メディアというのは無色透明なように思われますが、実は必ず偏り(バイアス)があります。グローバリゼーションの探求はマスメディアで充分過ぎるほど語られており、このメディア(寮さんち)は、むしろその対極にあることがらの探求にバイアスがかかっていていいのでは、と勝手に思いこんでいるしだいです。

つまり、グローバリゼーションを讃えるのはマスメディアに担当していただいて(マスメディアのバイアスから、そういった情報は充分享受しているとおもうのですが)、寮さんちはその対極についての対話や潮流化への疑問(つぶやき)。一色さんいうところの「みんなが前を向いているとき後ろを見ている」というバイアスをご担当いただく、という感じかなあ。

この先どこかの時点で、“ネイティブ”=“持ち前”についての対話が一段落したところで、あってしかるべき対話は“ネイティブ”への疑問だと感じています。例えば、“ネイティブ”(なかでも先住民を意味する“ネイティブ”)をトレンディに捉える人たちが存在することも、確かにあると僕は思っています。

これまでの対話のなかで、ここがとても貴重なポイントだと思うのですが(寮さんちに遊びに来ていて、よかった!と僕が歓喜することは)、一般にはグローバリズムの対語がローカリズムと認識されているなかで、一色さん(と寮さん)はローカリズムではなく、“ネイティブ”ではないかと提起され、しかも一色さんは「“ネイティブ”とは“持ち前”のことだ」という、目から鱗が幾重にも落ちるような極めて創造的な定義をなさったことかと思います。そこで、僕などは歓喜して、爆発していった。

ですから、一色真理さま>
ユニバーサルではなく、グローバリズムのままで対話を重ねていってはいかがでしょう。
ひとこと余計ですが、ネイティブとユニバーサリズムとの関係と思われることがらを作曲家・伊福部昭は次のように語っています。(僕の記憶で書くので、本人の言葉を正確に再現してはいません。いつか正確に再録し投稿します。今日はあしからず。また、寮さん>僕は権威に寄りかかろうとしているのではなく、そのオリジナリティに敬意を表して、引用は引用として表記したく思っていますので、よろしく、お手柔らかに。)


「音楽に国境はない、などといって、音楽には人類共通の美観があるように思われていますが、私はそれは間違いだと思っています。民族、民族それぞれに固有の価値観や美観があり、その民族の特殊性を通過して、人類の普遍性に到達する。そのように(通過し)到達しえたものだけを私は芸術だと思っております」。(伊福部昭・談)

一色真理  ユニヴァーサリズムはいかが 2002年02月28日(木)19時53分26秒 http://member.nifty.ne.jp/suiheisen/
グローバル対ネイティブ論について へのコメント

一色真理です。

こないだのパネルディスカッションでも、グローバリズムを頭から悪者扱いする
司会者に、ぼく自身はちょっと抵抗を感じていました。
ぼく自身、インターネットでグローバリズムの恩恵を受けているわけですからね。

バリアフリーと似た意味合いで、ユニヴァーサルという言葉がありますが、
これで代用してみたらおかしいでしょうか。
違いを超えて、普遍的なるものを追求する。それも宇宙の規模で。
なんか言葉遊びっぽいかなあ・・・。

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管理者:Ryo Michico <chico@air.linkclub.or.jp>
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