ハルモニア Cafe Lunatique (No.0006)

寮美千子の掲示板

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寮美千子  グローバリズム対ネイティブ論から芸術論へ 2002年02月28日(木)14時58分35秒
グローバル対ネイティブ論について へのコメント

▼清水雅彦さま
>グローバリズムが悪くてネイティブがいいという議論にならないようにすべきということです。

おっしゃる通りだと思いました。わたしも前に「アメリカにも、たくさんのいいところがあるから、アメリカのいいとこ取りをして、なおかつネイティブのよいところを失わずにはいられないものかなあ」とカフェルミかカフェルナで嘆いたことがありました。清水さんのおっしゃるように、世間の大概の議論は、そのような、予め立場を決めてかかってのディベートになりがちです。なにかを予め「よし」として、それを擁護するための材料を探し回るのではなく、もっと裸眼で見られるようにならなくてはと、改めて感じました。


とはいえ、いわゆるグローバリズムの悪影響は目に余るモノが。わたしは「アメリカ=荒らし説」ということを考えているんだけれど、こんどまたゆっくり書きます。

▼ 「ゴジラ対太陽の塔」再生計画
松永氏。大論文をありがとう。大長老にほめられちゃったね! よかったね!

▼権威の借用
わたしも、この問題、というよりは「権威の借用による芸術」について、いろいろと思うところがあります。たとえば、芸術で「チェルノブイリ」を題材とすることも(911もそうだけれど)、扱い方や心構えによっては、単なる「権威の借用」になりかねない。みんなの耳目を集めショッキングな事件だから、それを扱いさえすれば、それだけでセンセーショナル、ということになる危険を孕んでいると思います。その意味で言えば「太陽の塔」「アトム」「ゴジラ」も、すでにみんなの耳目に親しい、誰でも知ってるイメージとして「権威の借用」には好都合なアイテムです。それを、単なる「権威の借用」ではなく、実のあるものにするものは何か? 

あえて、さきほどの話題に強引に結びつければ、ヤノベ氏の方法論は、「アトム」「ゴジラ」「太陽の塔」「縄文」と、一見ネイティブに連なる方法論に見えて、その実「誰もが知っている」ものを利用してそこに新たな権威を確立しようとする、悪しきグローバリズム的思考方法の反映ではないか? とも思えてきます。

どの作品が単なる「権威の借用」で、どの作品がもっと高い志に基づいた作品なのか。志だけではなく「表現」としてきちんと自立しているか。それを見定める目というのものを、受け取る側はしっかり養わなくてはいけないと思うのです。

でなければ、人々の耳目を引く派手なものにばかり権威やお金が集中し、地道にゼロから、オリジナルなものを積みあげようとする芸術家のよい仕事が、ますます埋もれる結果になる。それでは、芸術はやせ細っていくばかりです。

いいものを誉めることもたいせつだけれど、世間にもてはやされているけれど、納得のいかないものに対して「納得がいかない」と声をあげることも、時には必要かもしれないと感じる今日この頃です。

わたしは、たとえば門坂流の仕事は、真にオリジナルな仕事だと感じています。それゆえ、根源に迫っていく迫力がある。そう感じています。

このテーマについても、いずれレビューに。

大長老  いいねえ 2002年02月28日(木)00時34分46秒 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8863/rojin/rojin_index.html
「ゴジラ対太陽の塔」再生計画 へのコメント

もし小生が20代のときにこの文章に出会っていたら、
読解力、思考力、論理力などを鍛えるための教科書として、
プリントアウトして、1年間持ち歩いて、ことあるごとに眺めていたことでしょう。
和光の学生さんがちとうらやましい。

清水雅彦  グローバル対ネイティブ論について 2002年02月27日(水)11時30分52秒
持ち前探検隊 へのコメント

勇崎様、寮様

「グローバリズム対ネイティブ・持ち前」論、興味深く読ませていただきました。言葉の用い方としても大変わかりやすいと思います。

しかし、思ったことを若干述べます。このような議論をする場合、グローバリズムが悪くてネイティブがいいという議論にならないようにすべきということです(はっきりと、お二方がそのように書いているとは思いませんが)。グローバリズムに種々の問題があるのはご存じの通りですが、一方で人・モノ・情報などが国境を越えて動き始めたこと自体は悪い現象ではありません。それに対して、ネイティブにいい部分がある一方、人により賛否両論あるとしても例えば、未来永劫君主制(そう、日本の天皇制を含めて)が続くべきだとは思いませんし、一部の国で残る女性への割礼が続くべきだとも思いません。最終的にはその地に住む国民・人民が決めるべき問題ですが、民主主義なり人権なりの近代以降の普遍的価値は世界レベルで受容していくべきだと思います。

したがって、この議論をする場合も、単純なブッシュレベルの二項対立で論じるのではなく、それこそ以前に触れた弁証法的思考が必要なのではないかと思います。すなわち、悪しきグローバリズムを排除しながらグローバリズムを受容し、その中で必要なネイティブなものを残していく努力です。例えば、言語については、パックス・ブリタニカ、パックス・アメリカーナによる英語帝国主義は問題であるとの視点は維持しつつ、エスペラント語のような人工語が現状では公用語になりえない以上、日本でも英語教育に力を入れることはやむを得ませんが、一方で今世紀中に世界の半数の言語(約3000語)がなくなるという予測に抗して、日本でも公教育で北海道ならアイヌ語、在日居住地域なら朝鮮語教育に力を入れていくべきです。

具体例を挙げればキリがありませんが、まずはこのあたりで。

勇崎哲史  写真家的作法 2002年02月27日(水)03時06分39秒
先住民、という他者への憧れ/都市生活者の「持ち前」とは何か? へのコメント

寮さま>
僕の「雪」への投稿に、美しいレスをいただき、ありがとう。「雪」の投稿は書いているうちに、身体のリズムが改行したくなっただけの、詩まがいの投稿でした。(詩人でもないの、まがいなことしてしまもた)

一色さま>
「イヌイットからのビデオメッセージ」では、彼らからの伝言のなかに「アイデンティティ」という言葉があったことから、その意味と“持ち前”についてのつながりを考えてみたのですが、投稿後に一日考え、僕の提起に間違いを感じました。
「アイデンティティ」というのは、どうしても「社会(のなかでの存在)」という意味が前提になるのではと思いました。それに対し“持ち前”は、“生来の”ものであり、決して「社会」を前提にはしていない。だから「アイデンティティ」ではなく、やはり「ネイティブ」なのだ、と。
自分に思い込みがあるといけないと思って、実はNativeの意味を辞書で再確認してみました。思い込みではなく、(辞書的には)正しく認識していたようですが、改めて、「ネイティブ」を“持ち前”と提示(翻訳)された“詩人の力”に驚きました。

ふたたび寮さま>
「先住民、という他者への憧れ/都市生活者の「持ち前」とは何か?」と文中ご紹介のあった「さうすウエーブ・インタビュー」(http://swave.atlas.co.jp/swave/6_env/ryo/ryo02.htm)拝読しました。
インタビューは、これまで寮さんが語られてきたひとつひとつの断片が、ひと連なりの海溝や山脈のようになって響いてくる、という感じで、興味深く通読しました(松永氏撮影の写真も寮さんらしく写っていて、いいですね。)
このインタビューでも語られ、今回の投稿でも記されている“先住民族”への共感(寮さんは「憧れ」と書かれていましたが)、なにか、レヴィ=ストロース的なことをお考えなんだと感じました。

「環太平洋のモンゴロイドの民話を絵本にしたいと思う」「アイヌの民話を題材とした、新しい絵本の企画が進みつつある。今回のテーマは「イヨマンテ」(熊送り)である」。実現されていくなかで、寮さんのことですから、「憧れ」が背景をもつようになり、“持ち前”の輪郭が浮かび上がってくるように思います。
写真家は現場からしかものを考えない、ということもありますが、やはり是非現地を訪れて下さい(許す限り長い期間)。そして、現地で(民族的)知識を得るのではなく、温度、湿度、光、風、空気の味、音の臭い、土の香り、植物の声、空の高さ、雲の色、そこに営まれる人間の漂う時間、etc. etc.を感じること。現地の文化人だからといって接してはいけません。彼らを頼ったりしてはいけません。こちらが求める都合のいいことを答えようとするだけです(阿寒湖畔ではいい古老と出会われたようですが)。聞くのではなく、アノミマスな人々から、自分で何かを感じること。そこから寮さんの“持ち前”の言葉が紡ぎ出されると思います。
今回の投稿も、釈迦に説法。ちょっと、生意気に写真家的作法を押しつけてしまった。

野生の思考VS栽培された思考。(レヴィ=ストロース)
さらばじゃ。

おやすみなさい。

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ここまで書いて、投稿しようと、その動作に入ったのが1時間半前。
よくみると松永氏の大論文が書かれているではないか。
投稿の手はそのままに、くりかえし3回も読んでしまいました。
全体についてはともかく、僕へのご指摘はもっともな点があり、すぐにレスしようと思いましたが、今日は寝ることにして、明晩(あ、道内出張だ)、ではなく明後日の夜、レスしたく思います。

ほんとに、おやすみなさい。

松永洋介  「ゴジラ対太陽の塔」再生計画 2002年02月27日(水)00時27分44秒 http://www.ceres.dti.ne.jp/‾ysk/

はじめに

勇崎さんが鳥海さんの掲示板で紹介(2月6日(水)01時32分30秒の投稿)されていた、ヤノベケンジさんの掲示板を見てみた。
シークレット「ゴジラ対太陽の塔」

四月に川崎の岡本太郎美術館で「ゴジラの時代」展をやる予定で、そのワークショップを担当するのがヤノベケンジさん。展示されるゴジラ映画の素材を使って「ゴジラ対太陽の塔」という特撮映画を撮ろうという企画。

ぼくはかなりの怪獣映画好きなので、「ゴジラの時代」展で特撮映画のワークショップというと、どうしても気になってしまう。それで掲示板と企画趣旨をひととおり見たところ、強い違和感をおぼえた。
ぜひ一言いいたくなって、書いたらだいぶ長くなった。そこで、掲載にはここCafe Lunatiqueを借りて、ヤノベさんの掲示板には、この発言へのポインタを置いてくることにした。

……という書き出しのこの文章は、二週間前にはだいたい書いてあったのだが、その間に映画はとりやめになったそうだ。
さっさと投稿すればよかったと思っても後の祭り。そのまま発表することにした。(以下、「▼」の行にはアンカーを打ってあるので適宜ご利用ください。)

文章からたちのぼる雰囲気

たとえばこんな説明がなされている。
ヤノベさん「この映画企画」(シークレット「ゴジラ対太陽の塔」 2002年02月02日(土) 11時32分)
を通してやりたかった事は、私達の世代の持つ独特な美意識の根源を探り新しい物を創ろうとしたのです。

映画のメインキャラクターはゴジラ、太陽の塔、遮光器土偶、アトムスーツ、そしてそれらが融合してしまう「21世紀美の新怪獣。」

自分に美意識を植え付けたものは西洋の泰西名画で無く確実に日本のポップカルチャーです。そこに美の根源があるという問いかけを作品を通してずっとしてきました。
その美の究極の融合体が現れる。それは太陽の塔からも時代をさかのぼり縄文土偶にまでたどられる。時代を超えた日本人の中に流れる美意識の遺伝子を発見する壮大な計画です。(ちょっと大袈裟?。)

つまりピカソ見てもかっこいいと思わないけどゴジラ見てしびれる気持ち、その源を探るって事です。
ヤノベさんは昭和40年生れ。長らくのテーマであるポップカルチャー世代の美意識の根源をさぐって新しいものをつくる――らしいが、どうもわからない。

「泰西」は西洋のこと。「西洋の泰西名画」って何? というのはご愛敬としても(美術を商う人の言葉とは思えないが)、この短い文章だけでも、どうしてもなにか臭う。
ひっかかる部分をとりあえず三つ挙げると、
  1. 美意識の主体
    「私達の世代」という一般化は、あまりに安易すぎないか。「私」で十分ではないか。
  2. 美意識の独特さ
    ほんとうに“私達の世代の独特な”美意識なら、その独自性ゆえに“縄文から日本人のなかに連綿とある”美意識とは関係ないのではないか。
  3. 美意識の空白
    作品の成立年代で考えると、ゴジラ(昭和29年〜)が太陽の塔(昭和45年)の前後にわたっている。縄文土偶は二千五百年以上前。
    縄文から昭和までの数千年間、「日本人の中に流れる美意識の遺伝子」は、どこに潜んでいたのか。
……とかになるのだが、どうだろう。

この企画でのヤノベさんの一連の言葉について、なぜ、どのへんがあやしいと思ったのか、どうしたらその感じが解消されるのかを考えてみることにした。
まず、今回の企画の主役である「ゴジラ」の扱われ方から検討する。

昔の特撮・いまの特撮

のちにポップカルチャーと呼ばれるようになったイベント性・大衆性の高い作品群のうち、とくに怪獣映画に興味を抱くぼくは、
ヤノベさん「企画趣旨
(特撮映画「ゴジラ対太陽の塔」は)出来るだけチープな昔の特撮の味を出したものにしようと考えてます。実際予算がないのでそうするしか仕方がないのですが、最近のCGに頼った特撮は辟易というのもあります。
……という「昔の特撮」が具体的にどのへんの作品を指すのか、わからない。
昔の特撮というと、ぼくはまずメーサー車マーカライト・ファープ西海橋の描写を見たときの衝撃が思い出されて、それらはチープとは正反対のところにある美しさだ。チープな特撮の印象はあまり残ってない(残りにくい)。ヤノベさんはどの作品のどんな特撮シーンが印象に残っているのだろうか。
そして、それがどんな作品であれ「最近のCGに頼った特撮は辟易」で「出来るだけチープな昔の特撮の味を」という対比は無意味。この物言いは、よくテレビの“なつかしアニメ大集合”とか銘打った番組で、ともかく古そうな作品が映ったらゲストやエキストラの人たちに即座に「なつかしー」と合唱させる演出に似た“エセ懐古趣味”としか理解できない。
(だいたいヤノベさんはCGとそうでない画面の見分けがついているのだろうか。)

超次元の決戦ゴジラ対ピカソ

ヤノベさんは「ピカソ見てもかっこいいと思わないけどゴジラ見てしびれる」(前掲「この映画企画」)というけれど、企画趣旨に「オキシデントデストロイヤー」といった誤記があるのを見ると、これは「ゴジラ」というキャラクター・イメージの安易な借用にちがいない、と思う。
ちゃんと作品と向き合ってゴジラ映画に敬意払ってる人だったら、オキシジェン・デストロイヤーは間違えないだろう。

そして“ポップカルチャー⇔泰西名画”の図式でゴジラと対置されている「ピカソ」についても、具体的な絵画や彫刻が想起されているようすがない。
一般に“ピカソみたいな絵”といえば、やはり“へんな形に造形された人や物の絵”だろう。そして「泰西名画」というのは、いわゆるピカソの絵じゃないだろう。なんでここでピカソなの。

こんなぼんやりした「ピカソ」と「ゴジラ」との対比で、どんな美意識が説明できるというのか。
ピカソもゴジラも、絵画でも彫刻でも怪獣の造形でも、好みは人それぞれだ。でも、美という観点からは、わりと普遍的な答えしか出ないようにぼくは思う。
そして、どのジャンルにも“かっこいい・しびれる”作品と、“かっこよくない・しびれない”作品があるが、その答えは、個々の作品の検討からしか出てこない。

ぼくは平成ガメラの飛行シーンを見てしびれるけど、門坂さんの版画の水面を見てもしびれる。レンブラントの影と光を見てもしびれる。これはぼく(昭和46年生れ)の美意識。はたして“ヤノベさんたちの世代が独特に持つ、時代を超えた日本人の美意識”と関係はあるのか、ないのか。
いままでのところ、ヤノベさんたちの世代特有の美意識というのがどんなものかさっぱりわからないので、ぼくには判断のしようがない。

漠然としたイメージと知名度をあわせもつ名前

「ゴジラ」と「太陽の塔」には共通点がある。“20世紀後半に日本で有名になった、ヤノベさんの世代ならみんな知ってる作品の名前”だ。
ただし、みんなが知っているのはその名前と、間接的で漠然としたイメージのみ。個別具体的な作品として向き合う人は、知名度にくらべると極端に少ない。両者とも“作品”というより“イベント”としてそのブランドが流通したものだから。
これらの共通点は「ピカソ」にも「アトム」にもあてはまる。

ヤノベさんが「ゴジラ」というとき、具体的な作品からは離れた、世間や自分の記憶に漂う、「ゴジラ」という名前とともに思い出される、時代周辺のぼんやりしたイメージを想起しているのかもしれない。
だとすると「ゴジラ」や「ピカソ」の粗雑な扱いの理由はわからないでもない。時代を象徴する名前、雰囲気を思い出させる呪文としての意味はあっても、実際の個々の作品には興味がないのだろう。

そういう美意識の持ち主

かつて、ゴジラとか、太陽の塔とか、アトムとかいった、みんな知ってる名前と祝祭的なイメージを持ったパワフルなキャラクターがいて、それぞれに時代を画した。それを浴びて育ったヤノベさんは、自分が獲得するに至った美意識のすがたに興味があって、それを追求している。
ヤノベさんが美意識の持ち主を「私」と書かず「私達の世代」としたのは“その時代特有の空気”の実在と支配力の強さを信じているからだろうか。

でも、その美意識の説明はきわめていいかげんなので、ほんとうにそんな独特の美意識を持った世代的集団がいるのかどうかはぼくにはわからない。
あるいはもしかしたら、その美意識は当該集団の人たちには自明で、ヤノベさんはその集団の外に語る(普遍性のある)言葉を持っていないだけなのかもしれない。

しかし、もしそうだとしても、たとえば岡本太郎が個人として縄文の美にたちむかっていたように、問題の「独特な美意識」を追求しているのはヤノベさん個人であってほかの誰でもないんだから、ここは素直に「私」と書くべきだ。なんでわざわざ「私達の世代」なのか。
個人として語らず、主体をマジョリティ寄りにすりかえていくのは、あやしい論法の典型のひとつだ。

独特で普遍的な魅力

かつてつくられた作品に宿る美意識が、ある普遍性を持っていれば、その美を別な作品のなかに甦らせることはできるだろう。
その美の魅力は、個々の作品と向き合うなかでサルベージされるものだ。看板を借りてきただけでは、その魅力は出てこない。

岡本太郎の縄文をモチーフとした作品に美的な魅力があるのだとすると、それは「縄文」というブランドのせいではない。縄文の美と格闘した本人が、オリジナルな作品として定着させた美意識の達成によるものだ。
怪獣映画を浴びて育った作家たちの手で生まれた平成ガメラ・シリーズの功績は、「ガメラ」ブランドの復活よりも、いわゆる東宝特撮の最良の成果に勝るとも劣らない「しびれる」魅力を見せてくれた部分に大きい。そこにあるのは、知名度や既視感に頼らない、普遍的な魅力を持ったオリジナル作品だ。

ある作品の魅力が“独特で普遍的”という話はある。名作とはそういうものだ。
でも、特定の世代の美意識が“独特かつ普遍的”だなんてことがあるだろうか。

縄文の美こそは人類の夢

……という疑問を立てて、よく考えてみましたら、世代による文化というものを措定すれば、特定の世代の美意識がそれぞれに独特なのは当り前の話だ。独特でない美意識を持った世代はいない。それが前の世代の美意識から完全に切り離されていることもありえない。(ゴジラや太陽の塔といった作品をつくっていたのは、それらを大衆文化として享受した世代よりずっと上の人たちだ。)
ある時代に大衆文化(ポップカルチャー)があれば、そこで育った人にはもちろん文化的な影響があるだろう。そのときどきで大衆文化のようすが変れば、植え付けられる美意識も変っていくだろう。
だから、「私達の世代の持つ独特の美意識」というのは、わざわざいうまでもないことだ。語るとすれば、それがどのようなものであるかだ。

ここでヤノベさんの主張(前掲「この映画企画」)をもう一度読むと、ようするに“自分が影響を受けた当時の大衆文化には美の根源があり、それは縄文以来の美意識と通底する”ということだ。

ヤノベさんが、当時の大衆文化(のイメージ)がいまも気になっているのだということは理解できる。
だけどしかし、「ゴジラしびれる! 太陽の塔かっこいい!」といえばそこで個人的に完結する話が、なんで“ゴジラや太陽の塔には私達の世代独特かつ日本人に普遍の美意識が宿っている”なんて大げさな話へ展開しないといけないのか。
もしかしてヤノベさんは、自分の“気になる”気持ちを自分だけでは支えられなくて、“自分がそれを気にしてしまうのは、そこに美の根源があるからだ、日本人ならみんなこの美しさがわかるはずだ!”という誇大妄想トンデモ説を口走っているのではないか。
(この線でいくと、「私」でなく「私達の世代」と語るのも、自分の記憶/美意識を自分ひとりで支えられなくて、世代共通のものと思いこみたい願望のあらわれか。)

太陽の塔とゴジラと縄文をむすぶもの

ここまで考えてきて、ぜんぜんわからないのは、縄文土偶とゴジラとの関係だ。あるいは太陽の塔とゴジラとの美的関連だ。
  • 太陽の塔は縄文の遺物を意識してつくられた。→ゴジラは太陽の塔と同時代の産物だ。→ゴジラは縄文以来の美意識とつながっている。……無理。
  • ゴジラは中生代の恐竜をモチーフにつくられた。→遮光器土偶は超古代日本に飛来した宇宙人をモチーフにつくられた。→じつは恐竜も以前その宇宙人がつくったものなので同じ美意識が宿っている。……無理。
ヤノベさんは本気で、縄文土偶にみられる古代人の美意識が、縄文弥生を生きぬいて、ずーっと下って飛鳥奈良、江戸も明治ものりこえて、ゴジラの美に結実している、と考えているのだろうか。なんか変じゃないか。
というか、岡本太郎が結びつけた以外に、縄文の美が現代の大衆文化の作品へと美的伝統として受け継がれてきたという美術史的根拠はあるのだろうか。

ぼくの解釈では、縄文美術の歴史は昭和26年にはじまったことにする(この年、岡本太郎が縄文美術を発見した)。
鉄腕アトムも同年にはじまっているし、ゴジラも太陽の塔もみんな同世代の大衆文化だから、ヤノベさんはそれらがみんな気になる。ヤノベさんの気になるものにはヤノベさんの美意識に照らした美が宿っているので、その共通項を抽出すれば、とってもヤノベさん的に美的なものができあがる。ヤノベさんはそれをつくろうとしている……。
どうだ。これなら、あやしげな「時代を超えた日本人の中に流れる美意識の遺伝子」とかをうっかり発見しないですむし、とてもスッキリする。

普遍の美を宿すもの

ヤノベさんの主張のとおりだとすると、「ゴジラ対太陽の塔」で誕生する「21世紀美の新怪獣」は、その美意識の遺伝子が時代を超えているので、三千年前の縄文人が見ても、ヤノベさんの世代の日本人たちが見ても、三千年後の旧日本人が見ても「美しい」と思うものになるのだろう。大いに期待する。

この企画は何のためか

ところで、この映画は実際問題、どういう意図のもとにつくられるのだろうか。
企画趣旨」という紙には、なぜか企画の趣旨が書かれていない。あるのは何々をしますという予定だけ。
ところがその予定――「ゴジラの時代」展で借りてくるゴジラの着ぐるみとジオラマが使えるというので進めていた話――も、東宝が、
ヤノベさん「ちょっと状況説明」(シークレット「ゴジラ対太陽の塔」 2002年01月24日(木) 14時23分)
映像作品としてゴジラを使っちゃいけないという事なのです。アーティストがゴジラをモチーフに彫刻作品や絵画を作るのは構わないが、東宝以外がゴジラを使って映像を制作する事を許す事は出来ない
……というのでできなくなっている。(この東宝の言い分はわかりやすくて、親切だと思う。)
その後、ヤノベさんの企画意図(前掲「この映画企画」)が出てきたけど、上記検証のように、ぜんぜん説明になってない。
この企画は、何なのか。

掲示板に集まっている人だと、たとえば勇崎さんは、ヤノベさんのいう「私達の世代の持つ独特な」の部分をとばして読んでいるようだ。勇崎さんは、自分が考えていたのと同じ名前の企画と出会って、そこに自分の見たかったものをうっかり発見しているだけではないだろうか。(自分の嗅覚はもっと大事にしたほうがいいと思う。)
勇崎さん以外の人も、それぞれ勝手な思いを勝手に抱いているだけではないのか。キーワードとして自分の知ってる名前が出てるからといって、それが具体的にどう扱われているかの内実を見ないのは怠慢だ。
目の前の話題として、ゴジラの権利をクリアするためにいろいろ手を考えるのもいいけど、それはこの企画にとって合目的的な検討なのか、雑談なのか、せめてもうちょっとはっきり把握されないと、話はとっちらかっておしまいになるだろう。

対策提案

なにか共同で企画を進めるときはコンセプトの共有がとっても大切だけど、「ゴジラ対太陽の塔」においては、すくなくともこの掲示板では、参加者がお互いの考えのすりあわせをする基盤が提供されていない。コンセプトの共有がないまま具体的な話に入ろうとしたから、なんか散漫なことになっているのではないか。

だからつまり逆に、はっきりした目的意識が共有できれば、ゴジラそのものが使えなくても、「ゴジラの時代」とからめて“ヤノベさんの世代特有かつ時代を超えた美意識”を追求した映像をつくることはできる(という希望的観測はできる)。
「ゴジラ対太陽の塔」というタイトルで、ゴジラやその他の怪獣が画面に出てこなくても、たとえば作中にきちんと“怪獣映画”の匂いが満ちていれば、それは「ゴジラの時代」というテーマからたどった美の追求として、ひとつの正しい表現といえる。
むしろ、ゴジラを出したら「ああゴジラだ」でおしまいだったかも。みんなゴジラは知ってるつもりだから。(ろくに見てないくせに。)

特撮映画「ゴジラ対太陽の塔」の現在の行き詰まりを打開するには、まわり道にみえても、わかりやすいコンセプトの起草からはじめるのがよいと思う。
ヤノベさんがみんなとやりたいことを、的確な(ぼくが抵抗なく読める)言葉で書くと、ほんとうはどうなるのか。あらためて示してほしい。
使える機材や素材、おおまかな日程なんかも示されていると、アイディアを出したり参加しやすくなるのではないか。

以上

みんな新しいものを求めているように言うけれど、それは嘘だ。みんなは、いまのままの世界で安住していたい。だから、求めているのは創造神じゃない。世界を映す鏡なんだよ。思ってもみなかった角度で現実が切り取られていれば、やつらは喜ぶ。使い古した世界が新鮮に見えてくるからだ。それで充分なんだ。
ノスタルギガンテス』p.165

寮美千子  先住民、という他者への憧れ/都市生活者の「持ち前」とは何か? 2002年02月25日(月)02時25分24秒
▼Review Lunatique:先住民、という他者への憧れ/都市生活者の「持ち前」とは何か? へのコメント

勇崎さん提案の「持ち前探検隊」を受けて、レヴューを書きました。題して「先住民、という他者への憧れ/都市生活者の「持ち前」とは何か?」漂泊する都市生活者の遠吠えです。

寮美千子  雪 [voice]  2002年02月25日(月)00時43分35秒
へのコメント

■クリスタル・ソング

いちばん微かな音に
耳を澄ます

降り積もる 雪の音

いちばん小さなものに
目を凝らす

ひとひらの雪の結晶

いちばん近くにあるから
いちばん遠いものに
じっと 心を凝らす

すると 宇宙が聴こえる
きっと 永遠が見える

                    Copyright by Ryo Michico

■白い沈黙

どんな微かな音を たてるのだろう
空を漂う水が 
結晶するとき

どんな音楽を 奏でるのだろう
無数の白いかけらが
地上を目指すとき

粉雪の降りしきる空に
そっと耳を澄ませてみても

灰色の雲の海に
じっと心を澄ませてみても

ただ白い沈黙が
聴こえてくるばかり

                    Copyright by Ryo Michico

■雪

あきれるほど饒舌な 沈黙
地上を 天上にしようとする 白い企み

                    Copyright by Ryo Michico

勇崎哲史  22年前に受け取った、イヌイットたちからビデオメッセージ。 2002年02月23日(土)23時46分49秒
持ち前探検隊 へのコメント

“持ち前”を英訳すると“アイデンティティ”ということになるのだろうか。
しかし、「アイデンティティについて、つぶやき合おう」などと呼びかけても、言葉に染みこんだ手垢を洗う作業がまずともなってしまい、白けてしまうかも知れない。

ところで、僕が“アイデンティティ”という言葉をはじめて知ったのは、忘れもしない1980年の冬。まさに2月の今頃のことだった。
恩師・中島興氏の紹介でカナダのビデオアーティスト、マイケル・ゴールドバーグ氏が雪の札幌に訪ねてきた。彼は、カナダのイヌイットと日本のアイヌとが、テレビ通信衛星を使って同時双方向のコミュニケーションの機会を創るというプロジェクト「サテライト・イクスチェンジ」を携え、日本とアイヌ側の了解を求めるために、遙か彼方のバンクーバーからやってきた。マイケルは「イヌイット」と「アイヌ」という音の表記と響きに共通性を感じ、その結びつきをこのプロジェクトを通じて解明していきたいという意欲も持っていた。
だが、カナダ側のコンセンサスは既に得られていたが、日本とアイヌ側のコンセンサスを創り上げることはできなかった。僕らの力不足で、結局このプロジェクトは実現しなかった。
マイケルは計画書といっしょに「NUNATSIAK(ヌヤツヤク:英語でTHE GOOD LAND)」と題されたビデオテープも携えていた。そこには、イヌイットたちからビデオメッセージとサテライト・イクスチェンジ・プロジェクトの概要を伝えるそれぞれ10数分程度の2つの短編が収録されていた。
メッセージは、寮さんが訳された『父は空 母は大地』に通じるものがあり、それを約200年後の1970年代の現実を踏まえ伝えている内容といえるだろう。
そのメッセージのなかに、僕が初めて聞く“アイデンティティ”という英語と「わたしたちイヌイットの文化の“誇りと尊厳”」という日本語の“尊厳”という言葉が耳に焼き付いた。マイケルに“アイデンティティ”の意味を尋ねた。彼はしばらく考えて「英語で換言すれば“セルフ・イメージ(自分自身のイメージ)”に近いかなあ」と答えた。マイケルは別れ際に、このビデオテープを僕にプレゼントしてくれた。

僕は数日前、このビデオテープを書棚の奥から取り出し、約20年ぶりに再生してみた。経時変化による画像や音声の劣化は考えていたほど進んではいなかった。ここに写し出された映像は、ちょうど写真家・星野道夫氏がはじめて訪れた頃のアラスカかも知れないな、などと別の想いも描きながら、誰もいない深夜の事務所で一人鑑賞した。
僕がこのテープのことを思い出し、もういちど見ようと思った動機は、いうまでもなく、この掲示板での対話だ。22年前に計画されたプロジェクト「サテライト・イクスチェンジ」は、まさに“グローバリゼーションvsネイティブ”の概念を具現化してるといえるのではないか。そんなことをマイケルたちは20年以上も前に先覚していた。
そして、彼が“アイデンティティ”の意味として換言してくれた「セルフ・イメージ」を日本語にすれば、これもまさに一色さんいうところの“持ち前”ではないか。

「サテライト・イクスチェンジ」の直訳は「衛星交換」であるが、マイケルは当時「イクスチェンジ」を貨幣の介在しない「物々交換」のイメージとして僕に話してくれた。彼をリーダーとするカナダのビデオアーティスト・グループ「ビデオ・イン(VIDEO INN)」は「ビデオ・イクスチェンジ」という、ビデオアーティスト同士が国際的にビデオ物々交換と行う、もうひとつのプロジェクトも進めていた。ちなみに、僕たちは恩師・中島興氏をリーダーとした「ビデオ・アース(VIDEO EARTH)」というグループだった。

マイケルはその数年後、僕の友人でもある淡路島出身のみはとちゃんと結婚し、以来日本に永住している。そういえば、しばらく会ってないなあ。思い出すと無性にマイケルとみはとちゃんに会いたくなった。

勇崎哲史  2002年02月23日(土)03時01分14秒
持ち前探検隊 へのコメント

僕の“持ち前”って、
なんだろう?と考えると、
まず最初に思い浮かぶのが、
雪。

雪は、
都市が得意げに
そのの機能を物語ろうとする
コンクリートもアスファルトも
一夜にして、自身の素顔色に覆ってしまう。

朝起きた僕は、
その素顔を見つめながら、
自然の中に生きていることを実感する。

自然の計り知れぬ大きさ、
人間の小ささを、
思い知らされる。

あの若かかりし時、
沖縄に深く触れ、
そこに魂を奪われつつも、
奪われれば、
奪われるほど、
そこに居するのではなく、
自分が生まれた地に帰るべきを
悟った“持ち前”は、
雪、
だったのかも知れない。

本州以南に生まれたとすれば、
一年の四季の中で、
遭遇する雪に対応する自然は、
台風なのか。
台風は、
どんな“持ち前”をもたらすのだろう。

岡本太郎が沖縄文化論でも言及しているが、
台風がもたらす、
沖縄の“持ち前”。
日本人の遺伝子に刷り込まれた
“持ち前”。

日本の北に暮らせば、
大方の台風は、熱帯性低気圧。
なまぬるい空気の強風。
雪の日の烈風とは、ほど遠い。

暗くどんよりとした真っ昼間に、
雨戸を閉めてた薄暗がりに身を縮めていた
宮古島での、
あの日の記憶。

いっそ、雪
だったら、いいのに、
と思った。

寮美千子  持ち前探検隊 2002年02月20日(水)01時11分51秒
なんだか誉められ過ぎ〜へのコメントへのコメント へのコメント

▼勇崎さま
この会話に参加して下さるみなさんや僕らの“持ち前”について、感じていることや思いついたことの“つぶやき”を繋ぎ、寮さんが、それを紡いでいく。。。というのはいかがでしょう? 
仮称:グローバリゼーションVSネイティブ〜“持ち前”探検隊

それ、いいですね。何をもってわたしの「持ち前」とするか。これは世界情勢にもつながる大テーマだと思います。「太陽の塔」と「ゴジラ」と「アトム」に影響されて育ったのも「持ち前」か? と、いきなり話は現代美術へ。続きはいつかね。明日「ケアする人のケア」のワークショップだから、早寝します。ごめん。

▼清水さま 勇崎さま

バレンタイン・チョコ問題? 問題でもないか。続きはカフェルミでしましょう。わたし、思うに事実上「毎日がバレンタイン」だけど、「毎日がお正月」とか、「毎日がお誕生日」だと、めりはりなくてつまらないから、やっぱりバレンタインがあるのはいいなあと思います。あれ、論点ずれてた? じゃあ、あっちで。(なんか、待ち合わせして悪さする悪ガキみたいで、楽しいなあ)

lumi.html

勇崎哲史  なんだか誉められ過ぎ〜へのコメントへのコメント 2002年02月20日(水)00時52分42秒
グローバリズムvsネイティブ へのコメント

好きなんですよ。こういうのって。
一色さんは「寮さんが、既に述べられていた」と言い、寮さんは「一色さんのこの書き込みを見た時、わたしも舌を巻きました。凄い! これだ!と思った」と言う。
互いに素直に感化されながらも、実は贈り合っていた、という感受の関係力。
今回の対話の入口は、「シュルレアリスムとビートにつづく、次のムーブメント」を詩人という存在へのラブコールとして期待し、(僕たちは)ムーブメントの何を、どのように創っていくのか、とうことだったと思うのですが、この「グローバリゼーションVSネイティブ」。その糸口としての“持ち前”という鍵言葉。ここにきて、なんとなく正面?玄関に辿り着いたような気がするのですが。いかがでしょう?
この鍵言葉の糸をほぐしながら話し合っていくと、なんとなく求めることの輪郭が浮かんでくるような気がするのですが、、、。
それと、こんな言い方は一色さんに叱られるかも知れないけど、自己の発見のために夢を重視し、自動筆記(オートマティズム)などをきっかけとして、無意識や偶然のなかにこそ本当の自分(一色さんのいう“持ち前”かなぁ?)を見いだそうとしたシュルレアリストの血筋というか、毛並みというか、その地下水脈の本流(奔流)を一色さんに感じてしまうんですよね。
一色さんにはシュルレアリストしてもらって、僕はさしづめビートニクの役割を担って、この会話に参加して下さるみなさんや僕らの“持ち前”について、感じていることや思いついたことの“つぶやき”を繋ぎ、直感に長けた寮さんが、それを紡いでいく。。。というのはいかがでしょう?
仮称:グローバリゼーションVSネイティブ〜“持ち前”探検隊。。。

話が変わって清水雅彦さま>
「学生連中からバレンタインチョコをもらったので、浮かれて帰ってきました(昔はこの商業主義を批判していたのに今やすっかり堕落してしまいました)」との告白へのレスしたく思っていました。
僕はバレンタインチョコについて、商業主義批判とは違うところでの、否定的な感慨を抱きつづけているのですよ(あっ、清水さん。僕がチョコをもらえないから、ひがんでいるのかなって、早とちりしないで下さい。本当にもらえないんですから。えっ?)。
清水さんのお歳を僕は知らないんですが、僕の年齢(世代?)では、恋の告白というのは男の子がするものであって、女の子からすることじゃない(などというと女性学の方々から僕は非難囂々でしょうねぇ)、ましてや、男の子が女の子からの告白(チョコが届くの)を待っているなんて、男の子の風上にも置けない!という、僕の男の子時代でした。
ここからが、お話ししたかったことですが、近年の日本では、社会や天職への関心とその行動や参加、男の子よりも女の子の方があらゆることにわたってアンガージュするし、信頼できると思いませんか? 僕は、いつから男の子ってダメになったんだろう?と考えたことがあるのですが、バレンタインチョコという仕組みがはじまってからのような気がしているんですよ。うん、確かにあそこからだ!
僕らが男の子だった頃は、海に向かって「バカヤロ〜〜」と叫んで青春してたのは定番的に男の子だったけど、なんと今や、海に向かって叫んでるのは、女の子たちですよ。
女の子にとってはよかったかも知れないけど、バレンタインチョコは男の子をダメにしちゃった元凶だ!と思いませんか?
ところで清水さん、、、チョコ、美味しかった?

寮美千子  グローバリズムvsネイティブ 2002年02月18日(月)03時09分43秒
なんだか誉められ過ぎ へのコメント

▼一色さま
>グローバリゼーションの反対概念がネイティブ

一色さんのこの書き込みを見た時、わたしも舌を巻きました。凄い! これだ! と思ったのです。それは、わたしがぼんやりと考えていたことでもありました。でも、こんなふうにすっぱりと表現できるなんて、すごい。やっぱり詩人だと、ほんとに感心しました。

わたしがモヤモヤと考えていたことは「さうすウェーブ」のインタビューのなかで語っています。911のニューヨークのテロ、あれは、文明の衝突とか、宗教の違いとかいわれているけれど、そんなんじゃない。アメリカのグローバリズムに対するネイティブからの異議申し立てであるという主旨のことをいいたかったのですが、頭がモヤモヤしてて、こんな言い方になってしまっています。
(アラブ諸国に)アメリカというのがドンドン入ってきて、別の物質経済優先論理というものを押し付けてきた。
 それに対して、それは違うのではないか、人間というのは物質だけでは幸せになれない、心の世界というものがあって、土地と一体になって生きる暮しというのがあって、それで初めて人間が人間たる所以だという、ネイティブ側からの、もう一つの世界論がぶつかったんだと思うんです。
一色さんは、これを一言でいいあててくれました。わたしも、胸がすきました。

その「ネイティブ」という言葉を「持ち前」と訳したところも、脱帽です。「持ち前の回復」。みんなが借り物ではない「自分自身」に目覚めること。ほんとうに、それが大切だと思います。

勿論、自分の感受性を形成してきた環境、というものがある。その環境が、たとえばわたしの育った野原を宅地造成してつくった新興住宅地、なんていう、根のないものであったということもあります。となると「ネイティブ」とどうつながれるのか? でも、そのことも含めて、どう「持ち前」でいられるか。ほんとうの芸術家は、そこが勝負だと、わたしは思う。

というところで、勇崎さんかかわるヤノベケンジ論(アトム・スーツで有名な現代芸術の作家)などともつながってくるのですが、それはまた、こんどに。

http://www.kagurazaka.co.jp/kachimo/expo/cgi-bin/gvstos/perapera.cgi

一色真理  なんだか誉められ過ぎ 2002年02月16日(土)21時32分35秒 http://member.nifty.ne.jp/suiheisen/
バベルの塔の蛙 へのコメント

勇崎様

 グローバリゼーションの反対概念がネイティブだという示唆を
 かつて、この掲示板で寮さんがされていなかったでしょうか?

 そこの部分は、別にぼくの独創ではない気がします。
 「持ち前」の自分自身を回復するために、無意識のメッセージ
 つまり夢に耳を傾けよう、というところが
 本来のぼくの発想ですね。

勇崎哲史  バベルの塔の蛙 2002年02月15日(金)00時09分54秒
寮さんが退出されてからの発言要約 へのコメント

一色真理さま>
“グローバリゼーション”の反対概念を“ネイティブ”を考えておられる、ということに、思わず膝を叩いて、唸ってしまいました。ものすごく透徹された提起と思います。まさに“新しい言葉の発明(発見)”。一色さんの提起で“グローバリゼーション”の輪郭が、とてもくっきりと見えてきますし、逆に、今なぜ“ネイティブ”なのかという確信も得られます。
ローカリズムでもなくフォークロアでもなく、“ネイティブ”。
“グローバリゼーション”の反対概念というだけでなく、僕自身の“ネイティブ”を探求する、という大切なテーマをいただいたようにも思います。

ところで、“グローバリゼーション”という概念が登場する以前に、“ボーダーレス時代”という認識がありました。そのなかで、小学校の科目に英語を加えるという話があって、僕は当時こちら(北海道)の新聞で600字程度のコラムを隔週で担当していたのですが、そこに「バベルの塔の蛙」と題して書いたことがありました。
今、このパソコンから開いてみたのですが、ちょうど5年前の今頃に書いたようですね。田舎の新聞ですので、ほとんどの人は見ていないと思いますので、以下にコピーして投稿します。今読み返すと、我ながら、911にも関連する発言をしていたようにも感じてしまいます。

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「バベルの塔の蛙」   勇崎哲史
 小学校の科目に英語を加えようという案が浮上している。英語を話すことが国際人であるという幻想と脅迫観念。英語を主流とするインターネットの普及がそれに拍車をかける。
 語学の基本は母国語にある。それを自己の中に確立していなければ、外国語の理解は難しい。母国語もおぼつかない小学生に別の言語を課してもよいのだろうか。思考も分裂し、自己形成は今以上に困難になり、学校はさらに荒廃してゆくのではないか。
 旧約聖書の中に記述されている“バベルの塔”の物語を思い出す。人間たちが神に近づくために天まで届く塔を建て、その塔に登り、神そのものになろうとした。それをみた神は激しく怒り、塔を破壊する。「人間は同じ言葉を使うようになると、神をも畏れぬ」と嘆き、人間たちから言葉を奪い取った。そして、隣人同士も理解できぬ、それぞれに異なる言語を与えた。
 この物語は、世界にたくさんの言語が存在する理由をお伽話として伝えただけなのだろうか。それとも、別の何かを警告する寓話なのだろうか。物語はまやかしで、世界のみんながひとつの言語を使えば、人間はコミュニケーションに困らず、平和に暮らせるのだろうか。僕は、慎重に、寓話として考察してみたいと思う。
 国境線のない(ボーダーレス)時代を迎えた昨今、母国語だけで暮らすのは“井の中の蛙”といわれかねない。だが、母国語を軽んじ、他国語至上主義に陥るなら、僕は、とりあえず、それを“バベルの塔の蛙”と称しておこう。
(読売新聞北海道版 1997年2月19日掲載)
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一色さんから教えていただいた“グローバリゼーション”vs“ネイティブ”という概念。5年前書いた僕の動機の正体のように感じさせていただきました。これからも、よろしく!

(あれ、もしかして、今回も3連発になっちゃたかな)

勇崎哲史  人間サイズ・ともだちサイズ・地球サイズ 2002年02月14日(木)23時25分35秒
お三方の投稿を読んで へのコメント

清水雅彦さま>
抵抗確率50%の僕にお優しい解釈をいただきありがとうございます。
相当以前にこのBBSに投稿した記憶があるのですが、、、(過去ログ探してみると)、、、あった、あった。このBBSは過去ログが消えないから、すごいですね。No.0000のところ(あれー、この時、調子に乗って3連発投稿してますね)。
「 エコノミーからエコロジーへ 2001年10月06日(土)00時45分01秒」に、「人間サイズ」「ともだちサイズ」「地球サイズ」ということを語っています。3連発目だったので、少し遠慮してたのか、この意味の使い方についての説明をあまりしていなかったようです。
「死にたくない」とか「人を殺めたくない」といったごく自然な感情を“人間サイズ”なものとするなら、その感情を“地球サイズ”に進化させると「反戦・平和」といった思想に行き着くと思います。この感情と思想との隔たりが大き過ぎて、多くの人々はその進化へのステップが踏めずにいる。その中間に“ともだちサイズ”というメディアを置くと、「ともだちが言うなら、ともだちがいっしょなら、上ってみようかな」と勇気が湧いて、階段は上りやすくなります。
一方、原発などの巨大技術や進行しつつあるアラスカの油田開発など“地球サイズ”な現場にいる人たちは、持ち得るべき“人間サイズ”な感情・感性に立ち帰れなくなっている。そのあいだにも“ともだちサイズ”なメディアを置くと、「ともだちがいっしょなら、人間に還ってみようかな」と感じてくれるかもしれない。つまり、人間への進化。(“地球サイズ”から“人間サイズ”への進化を期待するのは、ロマンティック過ぎる幻想かも知れませんが、、、。)
僕はBBSという事象に、この“ともだちサイズ”を感じています。
この対話を通じ、一色さん、寮さん、そして清水さんから、さらなるステップ・アップへの勇気をいただきました。感謝。
ところで、巨泉氏について、僕は「どこかの新聞でどなたかが述べられていた」と書きましたが、鳥海系BBS「地球の自転軸を星野道夫に傾ける」(URLは下記参照)で鳥海さんも取り上げておられ、<●赤坂真里/「外相更迭と巨泉辞職」2月8日付 朝日新聞夕刊に、作家の赤坂真里による、一連の政治劇を巡るコメントが掲載>と紹介されていました。
寮さんと鳥海さんを見ていると姉妹のような感じです(いわばBBSの姉妹編:願いが叶う姉妹。なんちゃって、おじさんギャグ一発だけ)。

追伸:過去ログ「 エコノミーからエコロジーへ」の下には、憲法を巡って、さらにその下には、ポスト資本主義を求めるメッセージを書き込んでいました。今回の対話に少しは関連すると思うので、お時間が許すようで有れば、お目通しいただき、不備などをご指摘いただければ幸いです。

http://6004.teacup.com/michio/bbs

勇崎哲史  おじいさま寮佐吉氏への感動 2002年02月14日(木)22時20分33秒
▼Review Lunatique:日本詩人クラブ2月例会「二十一世紀に現代詩の未来はあるか/詩と文明の危機をめぐって」報告 へのコメント

寮美千子さま>
“日本詩人クラブ2月例会「二十一世紀に現代詩の未来はあるか/詩と文明の危機をめぐって」報告”、たいへん興味深く拝読しました。
なかでも、おじいさま寮佐吉氏の書かれた文章を探すため、国立国会図書館で昭和初期から終戦の年までのマイクロフィルムを閲覧された体験について、貴重なお話しを伺えました。また、じいさまの反骨の行動を知り、抵抗確率50%とした僕の確率上昇への大きな勇気をいただいたような気がします。
それにしても、おじいさまはアインシュタインの相対性理論の啓蒙書やマックス・プランクの量子力学の本を翻訳されていたというのには、驚きます。
相対性理論は日本に紹介されたとき、相い対するのではなく、相い待つ、つまり“相待性理論”と翻訳されたそうです。ニュアンスとしては“相い待つ”ほうが適訳であり、理論を理解しやすい、ということを昔、本で読んだことがあります(そのことを指摘していたのは湯川秀樹だったと思います)。その話の虎の衣を借りて、僕はよく「対極にあることというのは、相対ではなく、相待なんですよ」とか、偉そうに口走ることがあります。
そんなことから、もしかして、おじいさまが“相待性理論”と翻訳されたのかなあ〜と想像して、ワクワクしてしまいました。

清水雅彦  お三方の投稿を読んで 2002年02月12日(火)19時23分57秒
「二十一世紀に現代詩の未来はあるか/詩と文明の危機をめぐって」傍聴報告 へのコメント

一色真理様

私のような門外漢でもわかるように、非常にわかりやすく説明していただきありがとうございました。人名をあげていただき、また「詩人が自分の言葉で物を言わなくなる」ことの危うさに対する批判を教えていただき、大変勉強になりました。しかし、かつてそのような強烈な批判をした吉本隆明氏の朝日のコラムなんかを読むとかなりがっかりしますね。それはさておき、集団としてのアピール自体が悪いとは思いませんが、その関わり方でもどの程度主体的に関わっているのかが問題でしょうし、基本は個人としての日常活動だと思いました。

勇崎哲史様

私も当時の人間であれば、戦争に抵抗したか、迎合したかはわかりません(江戸時代なら一揆を、戦前戦中なら反戦活動を行う側にいて、投獄・虐殺されていたとは思いますが)。私はそれでも当時の戦争協力者に対する批判は必要だとは思いますが、「今何をするのか、そして何をしないのか」とのお考えには同感です。だから私は自分の出来る範囲で、授業、集会、裁判、論文、声明などを通じて意見表明をこれからも続けていくつもりです。大橋巨泉氏の捉え方は面白いと思いました。ただ、今後の彼の活動を見なければなんとも言えません。表現活動の世界の中の少数派の状況については、一色さん、勇崎さん、寮さんたちはかなり先鋭的なところでご活躍なのですね。

寮美千子様

ご報告興味深く読ませていただきました。詩人の集まりでそのような議論をされているとは全く知りませんでしたので。それにしてもこのHPは勉強になりますね。昨日の集会のことは、寮さんは飲んべえですから気にしてませんよ(笑)。今日、朝日に報道された中央集会と同じ場所であったことや、私のような無名研究者の報告であったために、参加者は少なく残念でしたが、来てくれた学生連中からバレンタインチョコをもらったので浮かれて帰ってきました(昔はこの商業主義を批判していたのに、今やすっかり堕落してしまいました)。
 

一色真理  寮さんが退出されてからの発言要約 2002年02月11日(月)20時51分04秒 http://member.nifty.ne.jp/suiheisen/
▼Review Lunatique:日本詩人クラブ2月例会「二十一世紀に現代詩の未来はあるか/詩と文明の危機をめぐって」報告 へのコメント

>寮さん

 2.9のエミールでのディスカッションの記録、よくあんなに完璧に要約できま
すねー。しゃべっていた本人の方が負けそうです。
 あの後、「文明の危機」「現代詩の危機」というテーマに即して、どんなふう
にぼくの話が展開したかを、ひとことで要約すると次のようになります。

 (要約)司会の石原さんはグローバルの反対概念はローカルだと言われたが、
ぼくはむしろ「ネイティブ」ではないかと思う。それをもう一度、ぼくの言葉で
言い直せば「持ち前」ということになる。現代詩が活力を失っているとすれば、
詩人たちが自分本来の「持ち前」を失っている、……いや、自ら抑圧してしまっ
ているためではないか。では、どうやって「持ち前」を取り戻せばよいか。ぼく
はそれは、自分の無意識のメッセージに耳を傾けることで可能になると思う。
「夢の解放区」は、ぼくにとって、そうした自分の「持ち前」を回復するための
装置である。また、夢は全く役に立たない、混沌としたもの。つまり、すべてが
前向きを強いられているストレス社会の中で、後ろを向いた癒しの装置でもある。
夢を見つめ直し、そこから自分の「持ち前」を取り戻していくことが、すなわち
文明の危機の中で、現代詩に元気をもたらす一つの方法ではないかと、今ぼくは
考えている。

寮美千子  「二十一世紀に現代詩の未来はあるか/詩と文明の危機をめぐって」傍聴報告 2002年02月11日(月)17時58分01秒
▼Review Lunatique:日本詩人クラブ2月例会「二十一世紀に現代詩の未来はあるか/詩と文明の危機をめぐって」報告 へのコメント

Review Lunatiqueに、2月9日に開催された日本詩人クラブの例会の傍聴報告を載せました。清水さんも言及なさっている「表現者の社会的責任」について語られた、興味深い会でした。パネラーの一色真理さんの発言概要も掲載してあります。ご一読ください。

きょうは、清水さんにお誘いいただいた「憲法記念日を考える集い」があったのに、行けなかった。ごめんなさい。一昨日は上記の催しの後、田中槐さん主催の短歌のリーディングを聞きに行き、昨日は川辺川ダム問題やホスピス問題に取り組んでいるジャーナリスト高橋ユリカ邸における「さうすウエーブ出演三熟女が記者の広瀬一好氏を囲む会」に出席。三熟女とは高橋ユリカ氏、漂流物から海のゴミ問題を考える活動を展開している小島あずさ氏、そしてわたし! 広瀬さんにチクリと「(直接行動として)なんにもしてないのは、寮さんだけだね」などといわれながらも、川辺川の鮎、有明海の舌平目をいただき、おいしくも楽しい会でした。その会終了後、ジャーナリストの故須藤真理子氏の仲間の集まる田中アキン氏主催の会があり、そこへ駆けつけ、新宿で飲んでとうとう午前様。きょうは、さすがに体力が持ちませんでした。清水さん、ごめん。またの機会に!

■一つ前のログ(No.0005)


管理者:Ryo Michico <mail@ryomichico.net>
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