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清水雅彦  表現者の社会的責任(Cafe Lumiereより再録) 2002年02月11日(月)04時57分46秒
詩とアンガージュ再説 へのコメント

一色さんがお応えになってる、Cafe Lumiereでの清水さんの発言を再録します。>寮美千子

表現者の社会的責任 投稿者:清水雅彦  投稿日: 2月10日(日)14時18分03秒

勇崎さん、一色さんの詩人論を興味深く読ませていただきました。「お前の言っていることは安易なアンガージュ論だ」と言われるかもしれませんが、ちょっと思ったことを書きます。

この掲示板に登場される方は、詩人や作家など表現活動に関わる方が多いように見受けられました。そこで考えるのは、戦前、詩人含め芸術家までもが国家総動員体制の下、戦争に協力していったということです。私は表現する人々が戦争協力させられたこの経験を忘れて欲しくないと思っています。

その点で、私の体験で勇気づけられたことは、80年代の国家秘密法制定の動きがあった時に、表現活動従事者が声を上げたことです。当時、大学で雄弁部に所属していた私は、弁論活動という私たちの表現活動を抑圧するこの法案に危機感を覚え、雄弁部有志で秘密法反対のために意見広告を出したり、都内主要各駅前で反対遊説を行いました。このときは表現活動に従事するテレビ・新聞はもちろんのこと、日本ペンクラブなども反対の声を上げ、結局秘密法は廃案に追い込まれました(そういう意味で、昨年、対テロ特別措置法と同時に、かつての国家秘密法案と同じ効果をもたらす自衛隊法改定が国会通過してしまったことは、表現活動従事者の力量不足だったと思います)。人間は社会的存在ゆえ、社会との関係を切り離すことは出来ないし、さらに社会に積極的に発言していく必要があると考えます。特に、何か特定の社会問題で、それに関係する当事者の発言は重みがあると思います。

と、他分野への注文を書きつつ、実は研究者の状況はひどいのです。私は憲法学専攻の研究者ですが、白状すれば、もともと法学部はすべり止めで入りました。学生時代は雄弁部の活動など社会・政治運動に関わっており、それが評価されたのか、憲法のゼミの指導教授に誘われて院に進み、憲法研究が面白くなり、今や大学で憲法を教えているわけです。そういう経験をした者から学界を見れば、全てがそうではありませんが、学部・大学院で勉強がよくできたから研究者になったと思える人が多いのです(こう書くと批判されそうですが)。だから、法学者の主流は解釈法学で、条文解釈、判例研究、外国法研究が中心で、社会・政治問題との関わりを避けたがります。新聞にコメントを求められれば社会的発言をしても、積極的に自ら社会・政治問題に関わる研究者は少数派です。それどころか、多数派はそういう研究者を馬鹿にしているわけです。しかし、このような状況だからこそ、研究者も社会的責任が求められるし、学界内で非力ながら私も発言していかなくてはなりません。

話は戻しますが、題名で「表現者の社会的責任」と書きましたが、社会的責任は何も詩人や研究者だけに求められるものではないでしょう。学生であろうと、会社員であろうと、主婦であろうと、人間が社会的存在である以上、地位・職業は関係ありません。誰もが社会的責任を問われます。成人なら選挙権を行使しなくてはなりません。ただ、詩人なり、研究者なり、学生なり、その地位・職業についているからこそ求められる役割もあるでしょう。

お二方の議論とはずれたかもしれませんが、ちょっと思ったことを書きました。

勇崎哲史  もうひとつの新しい言葉を発明しはじめる 2002年02月11日(月)04時47分41秒

清水雅彦さま>
僕もカフェ・ルナで書かせていただいたように、清水さんへのレスをこのBBSに投稿させていただきます。

ご謙遜されて記されている、清水さんご自身のご投稿が、安易なアンガージュ論とか、議論とはズレたかもしれない、とは僕には全く感じられないことを、まずお伝えいたします。
安易でもありませんし、ずれてもおられない。誠実に論じられようとしているとしか感じられません。

カフェ・ルミで清水さんが記された最初の論点「戦前、詩人含め芸術家までもが国家総動員体制の下、戦争に協力していったということ」について、ちょっと感想に近いようなことを昨夜このBBSに「だだ だだ と叫んでゐる」という題で投稿したばかりです。そちらにまず目を通していただきたいのですが、、、。
僕は表現の世界の端くれにいるものとして、戦前・戦中のような事態になったとき、戦争に協力しない側になれる自信は全くありません。
だからこそ、自信がないからこそ、そういう事態を絶対に迎えたくない。僕(僕たち)がそういう事態(罪)に追い込まれないよう(戦争などおこらないよう)、最大限いま自分にできることをしたいと考え、(僕たちは)行動する必要があると思います。

もうひとつの論点「自衛隊法改定が国会通過してしまったことは、表現活動従事者の力量不足だった」ことを最も痛感されたのは、最近読んだ新聞にどなたかが論究されていたように、先日議員を辞任された大橋巨泉氏だったのではないかと思います。
論客たちがマスコミなどで書いたりしているように、日本の現在の首相は、かつてのヒトラーにも似た力量で表現技術を駆使できる才能を持たれた人だと思います。その才能をテレビタレントのように発揮されて、翼賛ともいえるたいへんな支持率を得ました(そろそろボロも出し始めましたが)。その構造に気づいた巨泉氏は、余生を海外の別荘地で過ごしている自らの態度を改め、国会という場にでていくことが、表現活動従事者(彼はもともとは歌人)として、その構造を暴けると考え、立起されたのだと思います。
しかし、それは間違いだった。国会という場で、巨泉氏が表現者として発揮できる場を首相のように与えられるわけではない。その時間量には雲泥の差がある。しかも、日本の政治の現場は、もっともっと倒錯していて、野党にも大いに問題がある。
元の表現活動従事者に戻ることの方が、自分の志した声は届く。

現在の首相の表現技術を、ある表現活動従事者たちは賛美したり、多くは唖然として口をポクワーンとあけているうちに、自衛隊法改定が国会通過してしまったように感じます。
巨泉氏には40万人以上の人が投票され、辞任はその人たちへの裏切りである、という批判もあります。しかし、巨泉氏が元の表現活動従事者に戻って、志した声が届くことをなさるか、を見定めてから、巨泉氏の今回の行動の是非を吟味すべきと思います。
あえていえば、40万人以上の人たちを裏切らないために辞任し、自分の声の届く場に還った、と信じたい。巨泉氏への評価は、その後ですべきだと思います。

3つ目の(最後の)論点「積極的に自ら社会・政治問題に関わる研究者は少数派です。それどころか、多数派はそういう研究者を馬鹿にしているわけです」についてですが、表現活動の世界の実態も全く同じです。但し、表現性がモノをいう世界でもありますから、コウモリのような有象無象がけっこういて、一色さんが書かれたように「自分の言葉でなく、どこかの政党のビラから取ってきたような定型的アピールに、署名しさえすればいい。あるいは、少しも詩的アクティヴィティのない日常的な言葉で、ただ反戦や社会的主題を書けば、それでアンガージュマンをしたと錯覚」していると感じられる面々など多士済々です。

少数派だからといって寂しがることは不要です。創造性研究の世界で、「創造的少数者(クリエイティヴ・マイノリティ)」という言葉があります。これは実は「天才」のことを意味しています。「創造的少数者」といわれる人たちの半数以上に人に共通する特質(バイアス)があります。それは、晩年、平和活動に尽くす、という性質です。僕は不純ですから、逆も又真なり、平和活動に尽くせば、僕も創造的少数者になれるかも、とか。その特質を発見した時分、冗談と本気半分でそんなことをいっていた若かりし自分もいました。

さて、一色さん>。
一色さんが伝えられたいことを、こんな風にトランスレーションするのは、違反でしょうか?

差別という言葉がこの世にあるかぎり、
差別がなくならないのと同様に、
戦争という言葉がこの世にあるかぎり、
戦争はなくならない。
だから、詩人が、もっともらしく、
戦争反対という言葉を声高に叫んでも、
この世から戦争の根は消えない。
その構造に気づいたとき、
真の詩人は、これまでにない、
もうひとつの新しい言葉を発明しはじめる。

勇崎哲史  だだ だだ と叫んでゐる 2002年02月11日(月)01時43分41秒
詩とアンガージュ再説 へのコメント

金子光晴氏らと、ちがった態度で、反戦してないように思わせながら、秘かに反戦を内含していたと思われる「紙の上」と題する詩を書いた、詩人もいます。

紙の上     山之口貘

戰爭が起きあがると
飛び立つ鳥のやうに
日の丸の翅をおしひろげそこからみんな飛び立った

一匹の詩人が紙の上にゐて
群れ飛ぶ日の丸を見あげては
だだ
だだ と叫んでゐる
発育不全の短い足 へこんだ腹 持ち上がらないでつかい頭
さえづる兵器の群をながめては
だだ
だだ と叫んでゐる

だだ
だだ と叫んでゐるが
いつになつたら「戰爭」が言へるのか
不便な肉體
どもる思想
まるで沙漠にゐるやうだ
インクに渇いたのどをかきむしり熱砂の上にすねかへる
その一匹の大きな舌足らず
だだ
だだ と叫んでは
飛び立つ兵器の群をながめ
群れ飛ぶ日の丸を見あげては
だだ
だだ と叫んでゐる

この詩は、軍部の検閲を通ったそうです。この詩について一般には論究されていないので、(貘氏自身でも語っていないと思うので)僕の想像で解釈してみます。眉に唾をつけて、以下お読み下さい。

軍部の教養のレベルでは(これも僕の想像ですが)「この詩人はなんとも軟弱な男であるが、沖縄人だから思想も“どもる”んだろうし、軟弱なんだろう。それでも飛び立つ飛行機を見て、だだ、だだ、と銃でも撃つように叫びながら応援しているではないか」と好戦詩と解釈し、検閲を通したに違いありません。僕には、この「だだ、だだ」はダダイズムのことだと思うのです。そう解釈するとこの詩は、ものすごい反戦詩になります。

さて、もし僕が30年以上早くに生まれていたとして(ちなみに僕は1949年生まれ)、あの戦中の波に抗し得たか、ということを考えると、50%位しか自信がありません。
表現に関わる人たちの多くが協力せざるを得なかった。抗して拷問による肉体や精神の損傷、あるいは死、家族や周辺にも及ぶ犠牲、そういった方向を選ぶか、その逆向きを選ぶかという不可避な選択に立たされた時、後者の選択をしたとしても、そう簡単には非難できません。
もし、僕自身が25年早く生まれていたとしたら(その場合、吉本隆明氏と同じ歳になります)、吉本氏のように先達たちを批判したかもしれないことにも、50%位の可能性があると感じます。
それは、他から表現者としてまだ認知されず、先達たちのような協力を求められなかったから。学徒動員された美しくも哀しい被害者の立場にいれたから。
自身が拓いた運命ならともかく、時代の波に浚われて曲げられた運命を批判したり、されたり、というのは、弱い者同士がいがみあい虐め合っている姿を見るようで、悲しい。
自身の可能性が過半数を割ったときの自らの姿をイメージするなら、そのような状況に、社会や時代を絶対に絶対に絶対に導かない。そのために、いま何をするのか、そして何をしないのか。
戦争という20世紀型の悪夢だけではありません。戦争よりも屍を積み上げる結果にもなりかねない?今世紀型の環境破壊、都市や交通という殺人装置、人災による病原の野放図、そして貧困、飢餓etc. etc.。アンガージュすべきことがらは、両方の手足の指をつかってもこと足りません。

もし、僕が40年以上早くに生まれていたとしたら、山之口貘氏のような態度を選んだ確率は、80%位あるような気がする。、、、と言えるのは、僕自身は40年以上後に生まれたからかも知れません。

※昨日の投稿に表現のあやまりがありました。お詫びして訂正します。
誤)フランクは、人生そのものを作品にするというファイン・アーティストへと変容しました。
正)フランクは、人生そのものを作品にするという、誰もが成し得なかったことへ向かって、歩き始めました。

一色真理  詩とアンガージュ再説 2002年02月10日(日)22時35分23秒

>清水雅彦様

 カフェ・ルミでのコメント、有り難うございます。
 内容的にこちらで論じるのが適当と思いますので、カフェ・ルナの方であえて
コメントさせてくださいね。

 戦後の詩人たちにとって、戦中、詩人たちが戦争協力詩を書いてしまった。
それも、金子光晴、岡本潤、壺井繁治といった、いわゆる抵抗詩人までが書いて
しまったという事実は、とても重たい十字架のように感じられていたのです。
 こうした戦争協力詩に対して、戦後最も激しく 批判を浴びせたのが、鮎川信夫
と吉本隆明です。彼らの批判は極めてラジカルでした。「戦争に協力する詩を書い
た」から駄目なのではない。「詩人が自分の思想、自分の言葉を失った」ことが駄
目なのだと、強く批判したのです。そのため、彼らは返す刀で、戦後の「死の灰詩
集」などの反戦アンソロジーや、詩人たちが集団として反戦アピールする活動など
についても、「単に主題を反対にしただけで、やっていることは戦中と同じだ」と
批判を浴びせました。だからといって、彼らが現実や社会に対して意識の希薄な詩
人ではなく、むしろその反対だったことは言うまでもありません。
 そして、「詩人が自分の言葉で物を言わなくなる」ことの危うさに対する、彼ら
の批判はそれから半世紀たった今も、全く有効であると、ぼくは思います。他人の
言説に乗っかって物を言うのは嫌いなのですが、今のところ鮎川・吉本の批判以上
のことをぼくには言えそうにないので、二人の言説を思いきりぼくなりに噛み砕い
て、ぼく自身の言葉で言い直すと、以上のようなことになるかと思います。

 何度も言いますが、詩人や作家が社会的アピールをすることに対して、ぼくは全
く反対ではありませんし、現実にぼく自身そうしたことをしてきています。しかし、
自分の言葉でなく、どこかの政党のビラから取ってきたような定型的アピールに、
署名しさえすればいい。あるいは、少しも詩的アクティヴィティのない日常的な言
葉で、ただ反戦や社会的主題を書けば、それでアンガージュマンをしたと錯覚して
しまったとしたら、どうでしょう。それは詩人の自殺行為以外の何物でもないので
はないでしょうか。

 ちなみに、寮さんが以前、9.11に関連して、ビンラディンやブッシュの言葉を
コラージュして、見事なアンガージュマンの詩を発表しておられましたよね。あれ
は、寮さんが現実にさまざまな人々から発せられた言葉をすべて一旦内部で咀嚼さ
れ、それらと格闘された後に、改めて寮さん自身の言葉として発せられたもの。
 これこそ、詩人のまっとうなアンガージュのありかたであろうし、また、そこま
でやる覚悟がなければ、自分は詩人だなんてはずかしくって、とっても言えません。

勇崎哲史  人生そのものを作品にするロバート・フランク 2002年02月10日(日)01時54分56秒
詩人という生き方・写真家という生き方 へのコメント

自分の投稿に、自分でコメントしてたんじゃ、しょうがありませんが、ロバート・フランクについてちょっと触れてしまったら、なんかエキサイトしてしまって、フランクについて、もう少しだけ話したくなりました。
フランクは1950年代に写真集「アメリカ人」を出版したあと、ビートニクの記念碑的映画「わたしの雛菊を摘め」を制作し、写真からは離れ映画づくりに没頭します。親友の詩人・ケルアックが他界し、両親も召され、愛娘・アンドレアを飛行機事故で亡くし、失意のフランクは、亡きひとたちへのオマージュをつくりはじめます。「僕がいま生きているって、こんな感じなんだ」ということを亡くなった大切な人たちにつたえるオマージュ。そして、この「僕がいま生きているって、こんな感じなんだ」を伝えるのに写真が最も適したメディアであることを発見し、20年近い空白を経て、再び写真の世界に戻ってきます。
その時からフランクは、人生そのものを作品にするというファイン・アーティストへと変容しました。

話は変わって、このBBSのカウンター、まもなく10000ですね。10000回目にこのページを訪れる人は誰でしょう?

勇崎哲史  詩人という生き方・写真家という生き方 2002年02月10日(日)01時15分17秒
問いは答えであり、答えはまた問いである へのコメント

一色真理さま>
そうですか、、僕と同じ異議がでましたか。
「詩人にとって生き方は書き方そのものだ」という感慨、共感します。
ちょっと前置きが長くなりそうですが、実は札幌で企画写真展のキューレイションをしていまして、今年8回目を迎えるシリーズがあります。そのシリーズのコンセプトが一色さんの感慨と極めて共通しているのです。
このシリーズは、いわゆる巨匠写真家の回顧展です。この種の展覧はとかく権威的におしつけがちです。そこで、小学校3〜4年生くらいの理解力を前提とし、権威的な言葉を一切使わず、その作家を評価するような言説も持ち込まず、押しつけず、全体を13〜15章立てにして、1章700字程度のその写真家の伝記テキストを書き掲出しています。世にも珍しい“子供向け写真展”なのですが、展示自体は本格的な精度で(展示点数150〜200点規模)、決して子供だましの展示ではありません。タイトルは「みんなの写真家・○○○○物語」として、○○○○のところに写真家の名前が入ります。
やはり前置きが長くなってしまいましたが、この展覧のコンセプトは「写真家という生き方を伝える」ことなのです。一色さんの言葉に置き換えれば、「写真家にとって生き方は写真そのものだ」ということになるでしょうか。
「写真家になるということは、決して職業を選んだのではなく、“写真家という生き方”を選んでいるのだ」、ということを(これは写真家に限ったことではないことは認識しています)鑑賞される方々に感じ取ってもらうことを旨に、いつもテキストづくりに苦心しています。
今回、一色さんとの対話のきっかけとなった例の投稿の一文は、4年前に行った「みんなの写真家 カルティエ=ブレッソン物語」を制作した時に、いろいろ調べていて気づいたことでした。
もう一人の方のロバート・フランク物語は一昨年行いましたが、彼の言葉に、「僕の写真を見るときには、詩の一行一行を読むように、(組写真の一枚一枚を)見て欲しいんだ」というのがあります。これはシャッターチャンスだけに懸けるような傑作主義やヒューマニズムなどといった絶対に否定できないことに自らの立場を置いて正義ぶる写真などに対するアンチテーゼです。
また1970年に出版された写真集「Lines of My Hand」は、人の手相が違うように、僕の手の皺も違う、という意味ですが、Linesは詩の行の意味であることを、ロバート・フランクはダブル・ミーニングして写真集の題名にしています。
詩と写真を考えるとき、僕は、まず真っ先にロバート・フランクから探ろうとする癖があるようです。
これからも、よろしく。

一色真理  問いは答えであり、答えはまた問いである 2002年02月09日(土)21時37分16秒 http://member.nifty.ne.jp/suiheisen/
「答えを生きる」か「問題を生きる」か へのコメント

>勇崎さん

 勇崎さんのコメントを読んで、「夜と霧」の著者フランクルが、確か
「苦悩の存在論」という本で書いていた、「私たちは答えることを常に
求められている」という言葉を思い出しました。
 人間はすぐ問いたがるけれど、問われているのは人間の方だ、という
のです。

 詩人クラブについて、趣味の集まりというのははっきり言って悪口な
ので、反省してます。しかし、現代詩の書き手たちの少なからぬ層が、
あのようなテーマの立て方に疑いを持たないというのが現実なのです。
 ただ、今日のシンポジウムではちゃんとこのテーマに対する勇崎さん
と全く同じ異議が、聴衆の側から質問として提出されたという事実を詩
人クラブの方々(ぼくは会員じゃないので)の名誉のために書いておき
ます。


>寮さん

 個人の幸福と全員の幸福。これらは常に円環をなしている、とおっし
ゃるのはまさにその通りだと思います。
 全員の幸福だけがお題目とされてしまうと、ソ連みたいな全体主義に
なってしまいます。戦前の日本もそうした世界でした。個人と全体。こ
の二つは、問いであって答えであり、答えがまた問いであるような関係
にあるのだと思います。

 それから、今日の詩人クラブでの寮さんのご質問とぼくの答え。もう
一度、ここに書いておくべき価値があるという気がしました。
 寮さんの問いは、詩人は作品を通してしか語れない。なのに、どうや
って生き方を読者に伝えるのか? というものでした。
 それに対するぼくの答えは、詩人にとって生き方は書き方そのものだ。
生き方が書き方に現れないなら、その人は詩人とはいえないので、問い
自体が意味を持たないだろう、というものでした。

目玉おやじ  うわ〜っ、そうなんですよね。 2002年02月08日(金)02時24分20秒
原発問題〜別の視点から へのコメント

>哲学(弁証法)的視点から言えば、「否定の否定」。原発による環境破壊という否定に対しては、
>単なる科学技術批判や「自然に帰れ」という形式論理的否定ではなく、弁証法的否定による止揚が
>必要だと思います。すなわち、原子力開発の可能性までは否定しないで、現段階では研究しつつ
>実用化は見送るという姿勢です。感情的な原発批判も問題だと思います。

昨年の暮れ頃に、僕が投稿した意見は、作文が下手なために言いたいことが上手く書けませんでした。
でも、この清水さんのご意見、僕の言いたかったことにピッタリとは当てはまりませんが、ほとんど
おんなじような気持ちです。
このように上手に主張できるようにならないと、まともな議論ができないので悲しいです。羨ましい。

勇崎哲史  「答えを生きる」か「問題を生きる」か 2002年02月08日(金)02時07分36秒
詩人のアンガージュとは? Cafe Lumiereより再録 へのコメント

一色さんへ(そして寮さんへ)>
レスをいただきありがとうございます。
僕ごときの投稿にリアクションいただけて、感激です。
一色さんがお考えになっていることと、とても近いと思われる投稿が鳥海系BBSに、森本さんという方が書き込まれていましたので、是非一度覗いてみて下さい。
(「Not So Fast(もっとゆっくり)」 投稿者:森本  投稿日: 2月 3日(日)02時53分53秒)
http://6004.teacup.com/michio/bbs

森本さんが引用されたことからの一部引用ですが、「本来私たち人間は答えを生きるものだと思います。しかしそれがいつの間にか、問いをたてて、答えを生きるかわりに、その問いを生きるようになっていないでしょうか‥‥問題をたててその解決に取り組むことが、いつの間にか、生きるということのかわりをするようになっていないか。問題を追いかけることに忙しく、肝心の生きることがおろそかになっていないか」(「スロー・イズ・ビューティフル」辻信一著、平凡社)
ここで森本さんはお読みになった著書から、「答えを生きる人」「問題を生きる人」ということの提起をされました。一色さんがシンポジウムで語られたいことは、この「答えを生きる」か「問題を生きる」か、という提起なのでは、と感じました。人間は社会的な動物ですので、詩人といえども社会から避けて生きることはできないと思います。一色さんもそれを大前提とされ、アンガージュにかかわる「答えを生きる」か「問題を生きる」かを、問おうとされている。
「答えを生きる」「問題を生きる」とは何か?を、僕なりに考えてみました。
「答えを生きる人」というのは、「誰もが気づかない、ほんとうの答えを知っていて、他言に惑わされることなく、故に孤高を怖れず、そこに向かってゆっくりと歩んでいる人」のことではないか。
「問題を生きる人」というのは、ほんとうの答えが見えていないから、目先の問題にとらわれて、あせったり、大声を出したりしてしまいがちになる。それをもっともらしくしてみせるのが、スローガンというやつ。
昨日記載した二人の写真家の一人、アンリ・カルティエ=ブレッソンは、第1次世界大戦後にシュルレアリスムの洗礼を受け、その後、第2次世界大戦にさしかかるフランスで、サルトルの実存主義が提唱した「自発的な社会への参画(アンガージュマン)」にも感化されます。シュルレアリスムを生きるカルティエ=ブレッソンは、そこからフォト・ジャーナリストとしての人生を送り、やがて、またシュルレアリスム(カルティエ=ブレッソンにとっての「答えを生きる」)に回帰します。
アンガージュマンは英語でいえば、エンゲージメント。アンガージュは、エンゲージ(「婚約」などを意味)ですから、サルトルのもとめたのは、世俗的に言えば「社会との婚約」です。「問題を生き」れば、アンガージュはイデオロギーのようになるし、「答えを生き」れば、一色さんが求めておられるようなことになるのかと思います。
ところで、余談ですが、昨日最初に書き込んでみようかな、と思った動機は、一色さんが僕へのレスに「勇崎のコメントとは関係ないけど」と前置きされたその最後の部分(内実をお教えいただき、呑みこめました)に実はありました。「二十一世紀に現代詩の未来はあるか」という、どこかのスローガンのようで、決してポエティックではないタイトルの詩人たちのシンポジウム、というのが気になったからでした。ほんとうに詩人たちが考えたタイトルなのだろうか?という疑問。そこにつっかかって揚げ足をとるような投稿と受け止められて、BBSを荒らしてしまったら困るので、そこにはふれず、「未来詩」というワードを考案して、提起を隠喩化してみました(こちらのBBSであれば、荒らすことにはならないと思い、本音を書いてみました)。
スローガン的で肩に力が入っていることを僕は問題にしているのではなく、このフレーズでは、現代詩をひとつのスタイル(既存のカタチ)として捉えていて、そのスタイルが生き残れるか、あるいはスタイルをどうすべきかみたいな印象を受けました。僕の受けた印象をより解りやすくいえば、例えば、「二十一世紀に土建業の未来はあるか」と言葉を置き換えてみれば、このフレーズの意味する・意味される構造を感じ取っていただけると思います。
そんなことを感じながらも、詩人たちへの尊敬と期待、「詩人という存在へのラブコール」という僕の言葉に僕自身への嘘はありません。
シュルレアリスム、ビートにつづく新しい潮流を、是非とも僕らから興しましょう!

寮美千子  われらのなかで芸術家とはどういふことを意味するか 2002年02月07日(木)23時49分04秒 http://ryomichico.net

1月14日のTBSの「ニュース23」に、アイスランドの歌手ビョークが出演した時、こんな発言をしていました。Cafe Lumiereで、鳥海直美さんが再録してくださったものを引用させていただきます。
●政治
政治には2種類ある。
1つは、国際紛争にも進展するような諸外国との関係、所謂、国の政治。
もう1つは、愛する人たちとの関係、つまり、個人の政治。
9月11日のことで後者の政治の大切さが強調されたと思う。

●音楽
だから、9月11日のことを歌おうとは思わない。
だって、世界はビンラディンやブッシュだけじゃないのだから。
幸福を感じるとき?
愛する人とコミュニケートできているとき。

そしてまた、わたしの心には、宮澤賢治の「農民芸術概論綱要」のこんな言葉が、喉に刺さった小骨のように、どうしても引っかかってきてしまうのです。
世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

このふたつの、一見正反対に見える矢印は、けれども正反対なのではなくて、実はぐるぐると環流しているように思えてなりません。そして、環流することにこそ、意味や価値があるのでは、とわたしは考えています。

寮美千子  詩人のアンガージュとは? Cafe Lumiereより再録 2002年02月07日(木)23時18分08秒 http://ryomichico.net

「寮美千子/軽い掲示板」Cafe Lumiereにおいて、写真家と詩人の、こんな対話がありました。お二人の対話の中には、「詩人とは?」「芸術とは?」という問題に関する深い問いかけがあると感じました。物書きとして暮らしているわたし自身にとっても、避けて通れない問いかけです。Cafe Lunatiqueに再録し、この問題について議論を深めていくきかっけにしたいと思います。

詩人という存在へのラブコール 
投稿者:勇崎哲史  投稿日: 2月 6日(水)23時51分45秒


戦争〜詩人〜写真家、という関係における、ひとつの法則めいたことを数年前に発見しました。以来、詩人たちへの尊敬の念を更に強めた僕なのです。
第1次世界大戦後の虚脱感を払拭しようと、アンドレ・ブルトンらが興した詩人たちによるムーブメント、つまりシュルレアリスムですが、それに共感して、アンリ・カルティエ=ブレッソンという写真家が誕生しました。
第2次世界大戦後、ジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグらは地球上の多くの人々を死に至らしめた物質文明に背を向け、ビートというムーブメントを興し、そこからロバート・フランクという写真家が誕生しました。
シュルレアリスムやビートの波及は写真の分野に限ったことではないことはいうまでもありませんが、、、この二人の写真家は、後世の写真家たちに最も影響を与えた双璧であるともいえます(ちなみに僕はロバート・フランクから最も強い影響を受けています)。
冷戦後、湾岸後、アフガン後など戦後を意味させようとする言葉が飛び交う時、詩人たちの動向が気になります。札幌にいるとリーディングのフォーラムに伺うことがなかなか叶いせんが、詩人という存在を常々気にしています。
第3次世界大戦にならずとも(なっちゃ困る)、シュルレアリスム、ビートに続く詩人たちが興すムーブメント、今度は日本からはじまらないかなあ。
「二十一世紀に現代詩の未来はあるか」。未来詩に現代があるか、とかいっちゃったりして。

詩人のアンガージュとは 
投稿者:一色真理  投稿日: 2月 7日(木)18時58分18秒

勇崎哲史さま

一色真理です。
「詩人という存在へのラブコール」の発言、すごくインスパイアされました。
プリントアウトしました。ディベートの会場に持っていきます。

シュールレアリストたちもビートニクの詩人たちも
詩の中に「戦争」や「現実」を書いてアンガージュしたのではなく、
「詩人として生きる」ことがアンガージュそのものだった。

いま安易にアンガージュを唱える詩人は
「アフガン」を書けば何か社会参加したような錯覚におちいっていると思います。
大切なのは「詩人として生きる」ことを、どれだけ社会の中で誠実に果たせるか
だとぼくは主張してくるつもりです。

なお、これは勇崎さんのコメントと関係ないんだけれど
「日本詩人クラブ」という団体は名前から一見想像するような会ではなく、
趣味で詩を書いている人たちの大衆団体というのが正しいみたいです。
でも、だからこそきっちり詩人の生き方を論じてこなければとも
意気込む一色であります。

清水雅彦  原発問題〜別の視点から 2002年02月05日(火)19時34分07秒
廃炉にしてからも有害 へのコメント

一色さん、コメントありがとうございました。原発廃棄後の危険性の指摘も重要ですね。同感です。また、松永さんが紹介されているように、「敵を知る」ことも必要でしょう。先にも書いたように、色々な事実を知らなくてはいけません。

今回は別の視点から、一つ。諸科学の論理的視点も必要だと思います。

哲学(弁証法)的視点から言えば、「否定の否定」。原発による環境破壊という否定に対しては、単なる科学技術批判や「自然に帰れ」という形式論理的否定ではなく、弁証法的否定による止揚が必要だと思います。すなわち、原子力開発の可能性までは否定しないで、現段階では研究しつつ実用化は見送るという姿勢です。感情的な原発批判も問題だと思います。

経済学的視点から言えば、資本は剰余価値を獲得するための一手段として不変資本を節約してしまうという「不変資本充用上の節約」。資本の蓄積法則からすれば、直接生産過程に関わりのない環境保護対策がなおざりにされ、あるいは絶対に原発事故は防げないのにそれを無視して実用化し、全体的に、本来企業が負担すべき負担を国家(実際は国民の税金)に肩代わりさせるということです。したがって、まずはこのような節約を許してはならないし、本来電力会社が負担すべき費用を国が負担しないことで、逆にコスト高の原発を企業に断念させる必要もあるでしょう。

これに対して、法(憲法)的視点からすれば、憲法は国民に「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」(13条の幸福追求権)と25条の生存権を保障し、これらは現在のみならず「将来の国民」(11条及び97条)にも保障されているわけですから、現段階では原発事故などにより現在及び将来の国民の安全を完全に保障できない以上、原発はやめるべきだとの主張を国民もすべきでしょう。

そういう意味で、国民が政府・電力会社の「原発は安い」「電力が足りない」「二酸化炭素を排出しない」などの作られた議論に乗っかって議論することは、もうやめるべきです。必要なのは、事実を知ることと、こちらも理論的に議論をしていくことです。

目玉おやじ  勝手に削除されないページにするのは? 2002年02月05日(火)19時15分28秒
土岐帆氏のホームページが、AOLにより政治的理由で閉鎖? へのコメント

> もしどなたかホームページに対するこのような可能性的「攻撃」(日本語変ですね)を避ける
> 良い方法をアドバイスある方がいらっしゃいましたら歓迎します。

参考になれば幸いです。

(1) http://www.geocities.com/のようなフリーのサーバーに実際のHTMLを置いておき、
AOLにはリンクを置く。
フリーなサイトは、ユーザの数が膨大なので、検閲が追いつかないから。
(2) いっそ、フリーサイトに引っ越す。
(3) 最近は常時接続が安くなって来たので、自宅にHTTPサーバーを常設しちゃう。
Windows上でも動くようなフリーのHTTPサーバーソフトもあると思います。
あ、でもこの案では、ドメイン名を取得しないと、URLがIPアドレスになっちゃいます。
例えば、http://247.195.23.256/index.htm のようなやつです。
ドメイン名を取ったとしても、契約してるプロバイダのネームサーバーに登録して
もらわないと駄目ですけど。

まだ他にもあるかも知れませんが、とりあえず思いついたのだけ書いておきました。

寮美千子  ヒマラヤの山中に煌々と輝く電灯の話 2002年02月04日(月)06時39分11秒 http://ryomichico.net
▼Review Lunatique:ヒマラヤの山中に煌々と輝く電灯の話 へのコメント

原発の話が出たので、以前から思っていた、ヒマラヤ山中で小規模な自家発電をしている村のことを書きました。この件は、現在、公明新聞に連載中の小説「楽園の鳥」にも近々登場する予定です。

review0000.html#review20020204063512

寮美千子  土岐帆氏のホームページが、AOLにより政治的理由で閉鎖? 2002年02月04日(月)05時07分23秒 http://ryomichico.net

アラスカの大自然地帯「アークティック・レフュージ」の開発を含むブッシュ大統領のエネルギー法案に反対を表明している写真家・土岐帆さんのHPが、最近アクセスできない状態になっていましたが、ご本人から、こんなメールが届きました。実際、政治的な理由でHPがブロックされるのだとしたら、大変由々しき問題だと思います。弱者や少数派のメディアであるインターネットは、上部から政治的に統制されては絶対にいけないメディアではないでしょうか。土岐さんのメールをここに転載させていただきます。
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皆様、こんにちは。

ぼくのホームページについてお問い合わせ、ご心配いただきありがとうございます。一月以上もアクセスできない状態ですが、AOLが、「好ましくない内容が含まれてる可能性があり、AOLが推奨できない」 'It may contain objectionable material not endorsed by AOL'(原文英語)として、ぼくのページをブロックしていることがわかりました。

ぼくのページは政治的な行動の取り方などを一切含まないものなので信じがたいですが、もしかすると一部の方もご指摘の通り、数百通単位でワシントンに送られた、ぼくのSave the Arctic Refuge'のポストカード(URLが明記してある)と関係があるかもしれません。 しかし、なおぼくは皆さんがポストカードを送り、e-mailやFax、電話でメッセージを届けることを勧めます。 アークティック・レフュージは守られなければなりません。 この保護区の運命は必ずや未来の人間と自然の関係にとっての分かれ道になると思います。今この自然を守れなければ、人類は他のどんな自然も守ることはできないでしょう。 どちらにころんでも、50年後、100年後の未来の世代はおそらくアークテック・レフュージの問題を、その後の地球の姿を決めた決定的な事件として認識しているとつよく思うのです。ぼくのポストカードがさらに必要な方は送り先とともにお知らせください。(8種類1セット・無料です)

上院議員全体のリストはNorthern Alaska Environmental CenterのHPをご参考ください。
http://www.northern.org

現在中立的、流動的な立場にいて、メッセージを送る効果がより期待できる上院議員のリストはDreamcatcherさんのHPをご参考ください。
http://kyoto.cool.ne.jp/dreamcatcher21/tips.html

ポストカードの内容については鳥海なおみさんのページをご参考ください。
http://www.age.ne.jp/x/toriumi/hoshino/fate.htm

最近のアークティック・レフュージの動向については、「週刊金曜日」1/25号 No.396 ’テロ後さらに揺れるアラスカ野生生物保護区--開発姿勢強めるブッシュ政権’をご参考ください。
http://www1.jca.ax.apc.org/kinyobi/

もしどなたかホームページに対するこのような可能性的「攻撃」(日本語変ですね)を避ける良い方法をアドバイスある方がいらっしゃいましたら歓迎します。

土岐帆(とき いずる)

ホームページ 
http://members.aol.com/izurutoki
E-mail: izurutoki@aol.com

松永洋介  原発コストの議論とか 2002年02月04日(月)00時02分38秒 http://www.ceres.dti.ne.jp/~ysk/
原子力問題補足 へのコメント

1月11日の朝日の記事については、野尻ボードで話題になっているのを見ました。
「電力業界は超ひも理論の実践者か」(松浦さんの投稿)

asahi.comの当該記事「炭素税など国に原発コスト支援策要請へ 電力業界」はすでに削除されていて読めません。どっかに残ってないかなと思ってGoogleで「炭素税 原発コスト 支援」で検索をかけたら、旧通産省の審議会の議事録がひっかかってきました。

総合エネルギー調査会 総合部会 第2回議事録(平成12年6月2日)

ずーっと読んでみたら、けっこうすごい議論が展開されていました。委員とか招かれてる有識者にはあちこちで見た名前があったりして。わが国のエネルギー政策はこのようなところで検討されているらしい。ふーん。
ほかに配付資料(PDF)もあります。議事要旨はつまんなかった。

そして、当時の総合エネルギー調査会資料一覧現在の総合資源エネルギー調査会資料一覧。ぜんぶ読めばきっと面白いことが書いてあるに違いない。「原子力部会」なんか特に。
こういう資料がうちにいながらにして読めるなんて、いい時代になったもんだ。

ちなみに、経済産業省の審議会一覧。ぜんぶ把握してる人はいないに違いない。

一色真理  廃炉にしてからも有害 2002年02月03日(日)21時05分33秒
原子力問題補足 へのコメント

清水雅彦様

 日本の原発もドイツのように全廃へと転換させていかなければいけませんね。

 原発は稼働中が危険なだけでなく、廃炉にしてからがもっと危険。
 建物や炉はすべて放射能を帯びているため、少しずつ密封して運び出すわけですが、
 それは結局、運んだ先に有害物質を移動させるだけだし、
 原発の跡地も更地にするまでに約30年かかります。

 既に東海村の日本原電の1号機が停止して、廃炉処置中ですが、
 その工程の危険性はほとんどマスコミも伝えていません。
 稼働中はしっかり監視されているから、事故が起こればすぐ報道されるんだけど
 廃炉処置中の原子炉の解体状況は問題ないんでしょうかねー。

 ドイツは危険な廃炉をいっぱい抱えることになるんだけれど、
 ここ何十年もの間、本当に大変な状況になると思う。
 だから、原発は最初から造らないにこしたことがないとぼくも思います。

 もう遅いんだけれど。

清水雅彦  原子力問題補足 2002年02月03日(日)17時02分49秒
原子力問題について一言 へのコメント

12月13日に書いた原子力問題の補足を。新聞記事からなので、皆さんもご存じだと思いますが。

1月11日の朝日によれば、電力小売りの自由化拡大で原発を持たない新規参入者に比べ価格競争で不利になるから、電力業界が国に原発コストの公的支援を求めるために協議を開始したとのこと。要するに、いままでデータを操作して原発は安いと宣伝していたが、本当はコストがかかっている実態をごまかしきれなくなってきたということ。消費者・国民は真実をしらなきゃ。

それに対して、ドイツでは国内19基の原発を段階的に廃棄する改正原子力法が近く施行されるとのこと(2月2日、朝日)。これで2021年頃に全廃されるらしい。この報道以外の事実ですが、既に80年代に原発全廃を国民投票で決定したスウェーデン他、オランダ、ベルギーも脱原発の道を歩んでいます。国民は他国の動向も知らないといけないと思います。


勇崎哲史  映画「カンダハール」の観ました 2002年02月01日(金)23時46分13秒

たいへんごぶさたしていました。
僕は元気でやっています。
先日(1月29日の午前から)、DORONKO氏(とは4度目)とグレン横田氏(とは初めて)の3人で都内にてデートしました。僕が長男とすれば、グレン氏が歳の離れた末っ子、DORONKO氏は間にはさまった次男、という役割風の感じで会話がはずみ、楽しくて充実した半日を過ごしました。
デートの冒頭は映画「カンダハール」の鑑賞。デートの主題は別の件にあったので、観賞後、特に感想を語り合うということはしませんでしたが、僕としてはアフガンについてのこれまでの知識?を映像として確認する追体験のような感じがしました(温度や湿度、光、臭いや薫り、音の遠近、それらを生身の身体で受け止めなければ、本当の意味の体験にはなりえないので、わかったような口をたたいてはいけないのですが)。
映像や言葉のある記号的なことの、意味すること、意味されることを読み解きながらスクリーンを見つめていましたが、今もわからずにいるのが、少年が遺体から盗んだ指輪を主人公に売りつけようとするが、なぜ最後にはお金はいらないから受け取って欲しいと言ったのか、ということです。なにか制度的な背景があるのか、単に心情的なことなのか。この映画は完璧と思えるほど、象徴性に対してものすごくムダなく創られているように感じてしまい、少年と指輪のプロットについての意味への問いが、いまだに僕の脳裏を駈けめぐっています。
映画をご覧になったかたで、もし、僕の疑問に応えて下さるかたがおられたら、どうか教えて下さい。
もうひとつここ1ヶ月以上脳裏に貼り付いている疑問は、ブッシュ氏はビンラディン氏らの所在をつきとめていながら捕らえずいるのではないか、という憶測。捕らえてしまえば、テロ集団とブッシュ氏が断定する組織の人々を掃討する強い口実が失せてしまう。逃亡し隠れている首謀者のビンラディン氏らを捜索しているのだという口実で世界をローラーしながら掃討し、ブッシュ氏的価値観にとって都合の悪い人々を根絶やしにしようとしているのではないだろうか、という想像です。

館野公一  町田でコンサート 2002年02月01日(金)10時06分37秒

こんにちわ 旧カフェルナで時々書かせていただきました館野です
寮さんとは高校の時に1年違いでしたが(*^_^*)時々想い出したように
邂逅しております
去年はイーサン食堂の豊田勇造ライブの時にサイドでマンドリンを
弾いておりましたら、寮さんが客席にいました

さて、明日と急ですが私のパートナーの石原みき子が
町田の男女平等フェスティバルで歌いますので、そのお知らせをさせてください
町田市民フォーラムで夕方6時からで入場無料です
私も一緒にサイドを務め、一曲歌います^^;)
詳細は「遊星」にあげさせて頂きました

女性はリラックスしておいでください、男性は心して来て下さい^^;)
では

planets0000.html#planets20020201095538

松永洋介  サンタはどこへやってくる 2001年12月25日(火)02時34分00秒 http://ryomichico.net

今年も恒例のNORADによるサンタ追跡が行われています。
でも今年はあんまり、というかぜんぜん楽しくありません。

アフガンの子供たちにも、押しつけでない幸せを配ってくれますように。

http://www.noradsanta.org/

福田 望  ETV2001(NHK教育テレビ)「〜UNHCRカブール事務所長の3週間〜」 2001年12月20日(木)00時25分50秒 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/6175/top.htm

こちらでは初めて書き込みをさせていただきます。
福田望と申します。
小説家志望のプー太郎(になることになってしまいました!クリスマスに!)です。
Cafe Lumiere のほうで「望」で書き込みをしているのが私です。


以前こちらで紹介したメールマガジン「カブール・ノート」の著者である
UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)カブール事務所長、山本芳幸さんの活動の様子を、
ビデオジャーナリストの後藤健二さんが密着取材した番組が、
12月20日、NHK教育テレビ(3ch)「ETV2001」22:00〜22:45
にて、放映されます。

山本芳幸氏の最新のメールマガジンより、抜粋。

> 今は歴史的な瞬間といえるかもしれない。こんなに頻繁に大虐殺や略奪のよう
> な犯罪的行為がアフガニスタンに起きているのに、国際社会は”復興レ
> ポート“で一喜一憂し、都合のいい所にだけ目を向ける。文明?まったくば
> かばかしい。僕は国際社会よりもむしろアフガニスタンにこそ”希望“があ
> ると思う。もっともこの考えもばかばかしいと言われるかもしれないけれど。

> とにかく僕は元気にやっています。日本に居る時よりもずっとまし。
> カブールでヘンテコな人生を続けます。アフガン人に何かできるという希
> 望をもって!

> 山本芳幸 11月29日 カブールにて

 彼の活動をこの目で知る機会だと思います。
(番組という切り取られ方があるにせよ)


以下、NHKの番組紹介のアドレスです。

http://www.nhk.or.jp/etv21c/

パルステラ  ヴィジュアル★気分はクリスマス・ツリー/共振応用篇 2001年12月18日(火)09時09分56秒
▼Review Lunatique:そこに流れる宇宙があった----門坂流との邂逅 へのコメント

>人は流れ星。一瞬の光芒を放ちながら地上での短い一生を終える。その一瞬のなかで、こうやって巡りあい、語りあい、絵を描き、詩を創り、笑いあう。これから、どれだけの時を共に過ごし、どれだけの物をこの地上に思い出として残していけるだろう。流れ星が流れた後に、微かに残る光の粉のような、そんな軌跡を残して。
-------------------------------★

寮美千子に、創作者達に、星迎者達に、乾杯!
地球に生まれた思い出に、私達だからこそ出来るものを創ろう。

暗黒星雲もやがては姿を変えて、輝く「天空の果実」を産んでいくもの。

時々はちょっと見上げて、星を眺める自由に
この掌(たなごころ)から始まる宇宙に
遥か彼方で確かに息をしている宇宙に、まずは乾杯!

★The Colorful Orion Nebula
 http://apod.gsfc.nasa.gov/apod/image/9909/orion_btc_big.jpg

★Ant Nebula (or Crystal Wings?)
 http://www2.jpl.nasa.gov/files/images/browse/hubble010201.gif

★NGC 2440: Cocoon of a New White Dwarf
 http://apod.gsfc.nasa.gov/apod/image/9612/ngc2440_hst2_big.jpg

松永洋介  未来は現在の結果で、そのまた未来の前提 2001年12月15日(土)04時13分18秒 http://www.ceres.dti.ne.jp/~ysk/

あす(というかきょう)トロンショウというコンピュータ関係のイベントへ行きます。
トロンというのは、ひとことでは説明が難しいのですが、
  1. コンピュータは今後ますますあらゆるところで使われるようになるだろう
  2. そのとき、過去の発想の延長でしかないダサいコンピュータでは、十分に機能しないだろう
  3. だから、真の意味でイカす、未来を前提したコンピュータを開発して、普及させてしまおう
……という考えのもとに進められているコンピュータの総合的な開発計画です。中心人物は、発案者である東大の坂村先生。
そして現状は以下のようになっています。
TRONプロェクトは発足以来、「どこでもコンピュータ」を目指し、着々とパーツを開発してきました。既にITRONは世界で最も使われている組み込み用OSとなりました。携帯電話、自動車のエンジン制御、デジタルビデオ、FAXなどのOSとして全世界で使われています。
Javaもインターネット全盛の現在、重要な言語となってきていますが、その「リアルタイム性が無い」欠点をITRONでおぎなうというコンセプトにもとづき開発されたJTRONが、携帯電話など実用面でも使われるようになってきました。
そして、BTRON「超漢字」――10万字以上の文字が使えるOSとして登場して以来、大きな反響を呼んでいます。
また、CTRONはわが国の局用の交換機OSの標準として多く使われています。さらに、わが国の省電力オリジナルマイクロプロセッサの多くはTRON仕様チップを原形としています。
このように20世紀の内に、TRONアーキテクチャは全世界の組み込みアーキテクチャNo.1の地位を獲得することができました。
そして21世紀。PCの時代が終わり、TRONが早くから提唱してきたユビキタスコンピュータ(どこでもコンピュータ)の時代に入ろうとしています。
……というわけで、同時開催の「TEPS」(TRONイネーブルウェアシンポジウム:コンピュータによる障碍者サポートの研究会。“障碍者には使えないコンピュータ”などというものは、社会インフラとしての価値がない)のテーマも「どこでもコンピュータ時代のイネーブルウェア」となっています。
このシンポジウムについて、東大の坂村研究室のページでライブ中継があるそうです。興味あるかたは接続してみてください。

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