▲2004年07月の時の破片へ


■30 Jun 2004 意欲的な「物語の作法」受講生


しばらくほったらかしにしてあった自己サイトにいろいろ書き込みをする。さぼっていた日記もまとめて書く。

「物語の作法」の受講生が「あさよむ携帯小説」に応募、最終選考に残っている。今日締め切りの短歌の「歌葉賞」に応募した学生も、少なくとも3人以上はいたはずだ。みんな攻めの姿勢でがんばっている。頼もしい。

■29 Jun 2004 ラシエットでポエトリー・リーディングの打ち合わせ


相模大野のカフェレストラン「ラシエット」に行く。オーナーの娘さんで今年の8月で2歳になるひなのちゃんに「ほしのメリーゴーランド」を届けるためだ。久しぶりに合ったひなちゃんは、髪型も体型もかわいいお顔も、絵本の女の子にそっくり。おばあちゃんが「ほしのメリーゴーランド」を読んであげると「もういっぺん」とせがんでいた。うれしい。

「ラシエット」では、いつも音楽ライブを行っているのだが、ポエトリー・リーディングにも挑戦したいとのこと。できれば、毎月1回やりたいということで、協力を求められた。もちろん、二つ返事でOKした。

記念すべきラシエット第1回ポエトリー・リーディングは7月14日午後7時からに決定。ラシエットからのリクエストもあり、わたしはゲストという形で作曲家の高橋喜治氏といっしょに出演させてもらうことになった。オープンマイクでだれでも参加できる形式なので、木蓮の会の方々も応援に駈けつけてくれるという。読む人も聞く人も、ワンドリンクつき千円。気軽に参加できるので、ぜひみんなに来てほしい。

■28 Jun 2004 全粒粉入りスコーン


実家から戻る。東逸子さんから福田直樹さんのCDをいただいたお礼に、何かお菓子を差し入れしたいとずうっと思っていたのだが、時間がなくてできなかった。やっと時間がとれたので、スコーンを焼く。全粒粉を混ぜた素朴なスコーンだ。上手に焼けたので、焼きたてを自転車で届けた。ご近所のおばあちゃま和子さんにもお裾分けした。

お菓子を焼くと、どんな時でもしあわせな気分になれる。そういえば、亡くなった松崎がいっていたなあ。「りょうさんちに行くと、いつもお菓子を焼くいい匂いがしたなあ」って。ふとした拍子に、あんなこと、こんなことを思い出す。オケさんのことも、山内のことも、大橋さんや渋谷さんのことも、そんなふうに折に触れて思い出す。去っていった人々は、約束もなしにふいに訪れる友人のように、時折わたしを訪ねてくれる。

■27 Jun 2004 千葉市の美術館めぐり


▼モノレールで美術館へ
昨晩は都賀の実家泊。「わたしたちが死んだら、こうしてああして」と申し渡し事項があり、しかしその内容が整理整頓されていなくて、両親二人してあちこちばたばたとひっくり返すことになり、つきあっていると面倒なので、美術館を見に行くことにした。

はじめて、モノレールで千葉みなと駅まで行った。途中、なつかしい風景が見えて面白い。記憶の中を空中散歩している気分だった。

▼廃墟@埋め立て地
海岸の埋め立て地にある「千葉県立美術館」は、わたしが『ノスタルギガンテス』の中で描いた美術館のモデルだ。モデルにしたのに、写真を見ただけで訪れたことはなかった。今回、はじめて来てみて、外観と周りの雰囲気が、小説のなかで描いたのと寸分違わないことに驚いた。埋め立て地の殺伐とした雰囲気は、年月が経ったいまもそのままだ。

美術館の向かいで、セメント・サイロの撤去工事が行われていた。日曜なのでだれもいない。その「廃墟」ぶりに心を奪われ、なかに足を踏みこんで写真を撮影した。一眼レフを持ってこなかったことが悔やまれた。

▼浜口省三展@千葉県立美術館
千葉県立美術館は、入館料300円という安さではあるが、展示はいまひとつ焦点がはっきりしない。

「浜口省三展」を開催中。メゾチントの技法を使ったサクランボの連作など多数見たが、ぴんとこない。メゾチントのような手の掛かる技法を使い、時間と精力をとことんつぎこむに足るモチーフだろうかと感じた。同じサクランボにメゾチントでも、長谷川潔の作品なら、そんなことは少しも感じないのに。これならば、メゾチントでなければならない理由はないし、メゾチントにするなら、それだけの甲斐のある作品をつくればいいのに、などと思ってしまった。

▼夭折の画家・板倉鼎
アート・コレクション展「房総の近代美術1」は、かなり散漫な展示だったが、一点だけ、目が離せなくなった作品があった。板倉鼎という夭折の画家の「金魚」という作品。1928年の制作だ。
【板倉鼎プロフィール】
1901-1928 松戸生まれ。旧姓千葉中で堀江正章に学ぶ。東京美術学校で岡田三郎助、田辺至に師事。在学中から帝展などに入選を重ねる。帝展、平和展、春陽会に出品。渡仏。ビッシュルに師事。サロン・ドートンヌに入選。28歳にてパリに客死。
バルコニーに置かれたテーブルの上に、四角い金魚の水槽がある。テーブルは斜め上から見た遠近法に従っているのに、水槽は真横から見た平面図のようだ。なかで、赤い金魚が泳いでいる。水草もある。そこに、水の中の世界がある。水槽の下に敷かれてテーブルから垂れている布のエキゾチックな柄。水槽の背後には、緑の野の遠景が広がっている。そのうえに、空が広がる。空に浮かぶ雲は、油彩ながら、まるで絵巻物の雲のような形だ。それでいて、違和感がない。よく見れば、空に、水槽で泳ぐ金魚と同じ形の雲が浮かんでいる。

遠近法をつかったりつかわなかったり。絵巻物の形をとりいれたり、布の柄があったり、遠景があったりと、異質なものが一つの画面に押し込まれているのに、コラージュという感じがしない。一つに解け合って、幻想的な世界を作り出している。その色彩も豊かだ。縁を細く黒い繊細な線で描いているのは、藤田嗣治の技法にも似ている。

これだけの力のある人がわずか28歳で客死とは、いかにも惜しい。生きていたら、きっと名をなした画家だろう。やっぱり、生きていないと損だ。
【参考資料】母の初恋

▼勅使河原蒼風の書@千葉市立美術館
モノレールで町に戻り、千葉市立美術館へ。途中、フリーマーケットに遭遇。売り手が黒人ばかりなのに驚いた。洋服や安手の鞄などを商っている。どこからやってくるのだろう。

美術館は、旧川崎銀行の石造りの建造物を、そっくりそのまま覆うようにして建てられたもの。古い建築様式に、ポストモダンの現代建築が重なった変わった建物だ。

「ピカソ、マティスと20世紀の画家たち」と、「勅使河原蒼風とその周辺」が行われていたが、展示内容は大変よかった。県立美術館に比べると、格段の差でいい。これで入館料800円は安いと感じた。

勅使河原蒼風の書がよかった。金屏風に描いた「半神半獣」(六曲一隻屏風 1955)のキレのよさは惚れ惚れするほど。入口にあった、これも屏風に描かれた「無」(六曲一隻屏風 1968)の一文字の、なんと豊穣なこと。見てよかったと思う。

▼「新選組!」&「冬のソナタ」
遅くなったので都賀の実家泊。父がNHKの大河ドラマ「新選組!」のファンなのは予想がついたが、母が「冬のソナタ」が大好きとは知らなかった。昔の日本のような純情にぐっとくるのだそうだ。父と母につきあって、いつもは見ないテレビ番組を見たのも、面白い体験だった。

インターネットに接続されていないのも心安まる。短編「電話の向こうに」ではないけれど、ネットから完全に切り離されたところでしばらくゆっくりしたいと思ってしまう。

■26 Jun 2004 中西夏之展@川村記念美術館


中西夏之展@川村記念美術館
佐倉の川村記念美術館で開催中の中西夏之「カルテット 着陸と着水 X」展。きょうは、中西氏ご本人による「ワークショップ」がある。中西氏のことをずっと撮っている写真家の後藤充氏が誘ってくださったので、相棒と二人、出かけた。

晴天。佐倉の駅から半時間近くバスに乗って川村記念美術館に到着。手入れの行き届いた庭の風景が美しい。池には、白鳥や鵞鳥たちも戯れている。中西夏之氏は、すでに前庭でパフォーマンスの準備中だった。

中西夏之氏とは、こんな因縁がある。『ノスタルギガンテス』の出版のときに、琥珀に閉じこめられた世界のイメージを表現するために、わたしは装丁に中西夏之氏の「コンパクト・オブジェ」を使いたいと考えていた。その時、編集担当になったのが、パロル舎に入社して間もない中西洋太郎青年。彼にその話をすると、なんと、中西夏之氏は彼のお父上だというではないか。驚いた。結局「琥珀を生成する森そのもののイメージで」というデザイナーの意向があり、わたしも賛成、上田義彦氏の森の写真を使用させていただくことになり、中西夏之氏装丁は実現しなかった。

中西夏之氏とはきょうが初対面。後藤充さんにご紹介いただいた。『ノスタルギガンテス』の話をすると「そうでしたか」と驚いたご様子。「息子からは聞いてなかったなあ。あいつ、ちゃんとやってますか」と、父親らしい心遣い。現代美術作家もやっぱり人の子の親なのだと、なんだか微笑ましかった。

「ワークショップっていう名前、気に入らないんですが、ほかにいい呼び方、ありませんかね」と中西氏。「何をなさるんですか」「そうですね。見てもらわなければわかりませんよね」ということで、4時からのワークショップが待ち遠しい。その前に、展示を見させていただいた。

▼結界としてのインスタレーション
なんというせいせいとした清らかな空間だろう。それが最初の印象だった。床に敷かれた布に規則正しく、碁盤の石のように並べられた白い砂。ひとつひとつが、魔除けの塩盛りの形をしている。ところどころ、その規則性が破られている。布が切り取られ、空中へと立ちあげられているそのすぐ向こう側が、不規則な形をしている。まるで、水の流れがその立ちあがった布で乱され、小さな渦を巻いているようだ。

結界が張られている。そう感じた。作家は、ここに作品で結界を張り、この空間のすべてを聖なる空間にしているのだ。そこには、見えない気の流れがあり、その一端が、盛られた砂の乱れになって見えている。

わたしはそこに、門坂流氏が描く版画の空間に満ち満ちたうねりを感じた。門坂流氏は、そのうねりそれ自体を描いている。中西夏之氏は、古代の祭祀者のごとく、作品によって結界を張ることで、そこに見えない気の流れを出現させている。

▼混沌によって形成された整然
インスタレーションの回りに配された絵画もまた、結界を形作る祭具として機能していた。その絵のなんと不思議なこと。近くに寄れば、画家が「絵の具の感触」と、戯れていることがわかる。まるで、子どもが泥遊びをするように絵の具の感触を楽しんでいる。色を混ぜる喜びが溢れている。それが、いきいきと伝わってくる。けれども、それを遠くから見ると、実にきちっと計算され、美しい繰り返しのパターンが現れて、細胞の顕微鏡写真を見ているようだ。

完全に計算されながらも、原初的な喜びの感触を忘れない絵画、とでもいおうか。流行の言葉で言えば、右脳と左脳の両方が全開になって一致しているような絵だ。「個」の怨念のようなものを軽々と乗り越えて、それはすっきりとすがすがしい「聖なる」ものになっている。

「おれがおれが」ではない、神官のような仕事がそこにある。いや、呪術師といったほうが適切だろうか。中西夏之氏は、都市の呪術師なのかもしれない。「個」を消すのではなく、「個」を屹立させることで、「個」を乗り越えるような呪術師。

同じ繰り返しのパターンでも、草間弥生の仕事と、なんという違いだろう。草間の作品は、見た後に神経にきて、いらいらとさせられる。実に強迫的な作品だ。しかし、中西夏之の作品は違う。見た後、気持ちがすっきりしてすがすがしくなる。

▼祭祀としてのパフォーマンス
やがてワークショップの時間がやってきた。直径3メートル半ほどの巨大な鉄の輪がふたつ。それをゆっくりと転がしながら、庭にある池を巡る道を、右回りと左回りに動かしていくというものだ。輪は、池の向こうですれ違い、出発点にもどって、また巡り会う。

池は大きく、輪はすぐに見えなくなる。時折、池の向こうの木の合間に、輪を転がす人々が見える。時には、輪は道をはずれて池に続く芝生の斜面に転がりだし、池の縁を滑るように転がって、また道へと戻っていく。

中西夏之氏は、携帯電話で転がす人々に指示を出しながら、出発点に留まって、輪が戻ってくるのを待っていた。
マラソン競技みたいなものですよ。みんなスタジアムで待っている。選手だけが、遠い道を走って戻ってくる。その途中は見えない。見えなくてもいいんです。

これは、人間が勝手に輪を回しているというようにも見えるけれど、輪の体験でもあるんですよ。地面に接した場所は、地面から離れ、天に近づき、そしてまた地面に触れる。

ほんとうは、池の縁を転がしたかったんです。でも、危険だということで許可が下りなかった。残念です。 by 中西夏之氏(談)
「茅の輪のようですね」と評論家の馬場駿吉氏はつぶやいた。わたしもそう感じていた。まさに、大きさも茅の輪そのものだ。祭祀である茅の輪くぐりによく似た雰囲気を醸し出している。中西夏之氏は、茅の輪の存在をご存知なかった。中西夏之氏のなかでは、茅の輪との関連はなかったのに、結果的にそこに生まれたアトモスフィアは、茅の輪くぐりだった。

ふたつの輪が、ゆっくりと池の縁を転がっていく。ただそれだけのことだ。それだけのことなのに、なぜか面白い。呪術的な何事かがなされているような、不思議な興奮を感じる。祭りのようだ。祭りの儀式。

やがて戻ってきた輪が、最後にすれ違い、戻り、重なる。それでワークショップという名の祭りの儀式は終了した。

輪がすれ違った後、池の噴水が描く二つの水の輪が、特別な意味を帯びて見えてきた。車椅子の人がやってきて、その輪のなかにすっぽりとはまるような形で見えたのも、象徴的だった。

中西夏之、という作家は、個を越えて、根源的なものへ向かおうとしている。古代の呪術師や巫女のような存在。芸術のもっとも原初的な形にたどりつこうとしている。都市を越えた突き抜けたところにそれが存在する。そのことが、とても面白く思えた。

で、ワークショップは、なんと言い換えたらいいだろう?

▼一年数カ月ぶりに両親に会う
都賀の実家に泊まる。考えてみたら、両親の顔を見るのは、昨年5月の父の入院以来だ。お正月も戻らなかった。「七夕の織り姫より疎遠」と両親が嘆くのも無理もない。申し訳ないと思う。ふたりとも病身であるが、心のエネルギーだけは高そうなのでほっとした。しかし、彼らは病気でこのエネルギーの高さだ。この両親に、わたしのような脆弱な心の持ち主が18年間も育てられたのだから、お互いに困難を感じたのは仕方なかったなあと、とつくづく思った。

■25 Jun 2004 新作ヴォイス「木蓮」執筆


木蓮の会の方々が、あまりに熱心にわたしの作品を読んでくださったので、感動のあまり、木蓮の会のために、詩を書いて献呈したくなった。さっそく「木蓮」という詩を書いた。

■24 Jun 2004 木蓮の会朗読@鎌倉


▼「物語の作法」
和光大学の授業「物語の作法」。学生たちはきょうも熱心に参加してきた。やる気満々だ。圧倒される。

▼木蓮の会朗読@鎌倉
授業を終えて、いざ鎌倉。市民朗読サークル「木蓮の会」が、わたしの作品ばかり、朗読発表してくれるという。会場のきらら鎌倉は、本格的なホール。公民館みたいなところで地味にやると思っていた予想はまるではずれ、実に本格のものだった。朗読を引き立てる音楽の選曲もよく、バックの効果も並ではない。森が映り、きらきらと揺れる水まで映った。

聞けば、この日のために、民芸の演出家・渾大坊一枝氏をコーチに迎え、数カ月もトレーニングを積んだとのこと。深く理解をし、一言一句を大切にして読んでくれているのが、じんじん伝わってきた。

最後に83歳の菊池経子さんが「水の名前」を読んでくださった時には、もう涙が止まらなかった。いままで、何人もの優れた本職のナレーターに読んでもらってきたが、それを上回る感動だった。こんな「水の名前」があるのだと、わたし自身が改めて発見させてもらった気分だ。「木蓮の会」にご縁を結んでくださった鎌倉の歌人の山本睦子さんに感謝。
【木蓮の会 朗読プログラム】
『父は空 母は大地』   安東真理子 石田道子 大石久子
              中村千皓 福田寿枝 増山鏡子
・インディアン・フォレスト 大石久子
・朝露           志村悦子
・New Moon Dance     生井忠昭
・哀しき闇          生井忠昭
・遠くを見たい       相川幸子 山口恵美子 山田雅子
・水の名前         菊池経子
もともと「声」にするために書いた原稿。木蓮の会の方々に読んでもらって、それを改めて確認した。言葉がやさしく、耳で聞いてもよく伝わる。朗読原稿に最適だ。やっぱり、早く本にまとめなくては、と反省。

silicaさんも来てくれて、すてきなレポートをかいてくださった。必見。

■23 Jun 2004 セント・ギガ音源テープ入札


▼入札
午後1時〜6時まで、破産管財人の弁護士事務所で入札。詳細は、レビューに。

▼「なつのうみのしりとり」
世界文化社のワンダーブック7月号に言葉遊び「なつのうみのしりとり」を書いたのだが、出来上がりを見ると、予想とまったく違っていた。「昼の海」と「夜の海」でそれぞれ見開きにして、一枚の絵の中にしりとりのできるアイテムをちりばめ、それをつないで、と思っていたのだが、そうではなくて、ばらばらの絵になってしまっている。楽しい一枚絵にするために苦労をしたのに、なぜ?

弁護士事務所が市ヶ谷だったので、その帰りに世界文化社により、担当者に面会をしようとしたが、残念ながら留守。他の方に事情を伝え、伝言をお願いした。

家に戻ってから、担当者より電話がある。会議で「アイテムが小さくなって、子どもにわかりづらい」という理由で、ばらばらの絵になったとのこと。

うーん。納得できるような、できないような……。まあ、そういう考え方もあるか。しかし「こどものため」といって、作家が意図した狙いをはずし、面白さを削いでしまっては、本末転倒ではないか。保育絵本の仕事は、そういう傾向が強い。大人自身が「本当に面白い」と感じていれば、多少のむずかしさは乗り越えて、子どもたちは食いついてくるのではないか。そのようなものを提示することこそが、大切なのではないか、とわたしは思う。やっぱり、納得いかないなあ。

■22 Jun 2004 著作権の件でワイヤービー破産管財人と交渉


昨日、ワイヤービーの破産管財人から、明日の入札詳細のファクスが届いたが、そこに入れてほしいと頼んだ文言が入っていなかった。その文言とは「旧セント・ギガの番組テープに関しては、著作権があり、著作権保持者の了解無しには放送などに使用できない」ということだ。

現状、WINJがこのテープを保管、現在も放送に使用し、一ヶ月に40〜50編の寮美千子作品が流れている。ワイヤービー時代から著作権を主張してきたが、事実上無視されたままだ。金銭的な問題以前に、まず、著作権があるということをきちんと認識してほしいと思う。

明日はいよいよ入札。いったいどういうことになるのか。著作権保持者である他のライターや、元番組制作者であるサウンド・デザイナーに連絡を取る。ひさしぶりに声を聞く人も多い。みんなが、それぞれセント・ギガに思い入れがあったのだということを改めて確認。セント・ギガの存在の大きさを、改めて感じた。

著作権の件は、日本文藝家協会に相談。協会の担当者は、弁護士事務所と直接交渉をするなどして、実に親切に対応してくれた。その結果、要望の文言は一部変更してではあるが、本日中に入札者全員にファクスされ、ほっとした。

■21 Jun 2004 「楽園の鳥」のレイアウト変更?!


講談社より「楽園の鳥」のレイアウト、デザイナーの要望で、少々の変更があったと連絡があり、慌てる。というのも、23字詰め20行の2段組みと先行して決定していたので、それに合わせて改稿をしてしまっていたからだ。一字か二字余ってしまうところは、無理にでも前の行にはいるように調整。行も、次の頁に1行2行はみだしてしまうときは、調整して前のページに送った。そんなところに血道を上げてしまうのも、元編集者の性か。そのために、改稿に余計に時間がかかってしまった。字詰めが変更になれば、その苦労は水の泡。慌てないわけにはいかない。

さっそく編集者とデザイナーに連絡を取る。

昔であれば、原稿用紙で入稿、ゲラが上がってくるまで、そのみてくれなどわからなかった。コンピュータが導入され、家でも簡単に字詰めが確認できるようになった。そうなると、どうしても欲が出てしまう。

結局「作家の意思を尊重」とのことで、最初の字詰めでいってくれることになってほっとした。はじめて講談社から本を出させてもらうというのに、わがままな作家である。

テルアビヴの四方田犬彦氏が、帯文を書いてくださった。光栄の至り。

■20 Jun 2004 同級生と宴会


「楽園の鳥」の推敲が終わったら、お祝いしようねと前々からいってくれていた高校の同級生・塩手和彦氏と野川忍氏がワインとシャンパンを持って来訪。門坂流氏もまじえて宴会をする。

きょうこそは事前に宴会の準備をすませるつもりが、やっぱり間に合わない。それでも、前回よりは料理ができた。みんなだいぶ酔っぱらった。旧友と忌憚なく話しながら酒を飲めるのは、楽しい。

 ・茄子とトマトとカラーピーマンのマリネ バジル風味
 ・水菜と大根のサラダ 揚げちりめんじゃこ添え
 ・スモークチキン
 ・鯵の南蛮漬け
 ・じゃがいもとニンニクとシシトウのオーブン焼き
 ・チーズ
 ・自家製パン

■19 Jun 2004 自然原理主義者・三島次郎氏


▼自然原理主義者としての三島次郎氏
三島次郎先生による桜美林大学オープンカレッジ「生態学から見た自然」の講座の5回目。最終回である。

「田圃も自然破壊である」という三島次郎氏は、いわば「自然原理主義者」。無理をして棚田や里山を保全するくらいなら、いっそ自然に任せたほうが、とおっしゃる。かなり過激である。その真意は?
寮  里山は棚田は、文化が育んだものです。いまここでその保全方法が途絶えてしまったら、わたしたちは簡単にはそれを取り戻せない。自然とともに、文化もまた掛け替えのないものだと思います。里山や棚田の保全活動まで消えてしまうと、ただでさえ遠くなってしまった人間と自然の距離が、さらに遠くなってしまうように思うのですが。
三島 おっしゃる通りです。わたしはただ、里山や棚田を保全し愛することが本当の意味での「自然保護」ではないということに気づいてほしいのです。自然のメカニズムをきちんと理解した上で、そのような活動を繰り広げてほしい。自然保護ではなく、文化継承の意味で行っているという意識を、しっかり持ってほしいと思うのです。
なるほど。自然保護と文化継承をごっちゃにしてはいけないということだ。きちんと峻別し、その本当の目的をはっきり自覚することで、より意義のある活動が繰り広げられるという。

▼自然のメカニズムを理解した上で都市を設計する
例えばいま流行の屋上緑化。「サボテンなど、乾いた環境に適した植物が向いている」という見解があるが、これは自然のメカニズムを理解していない間違った考えだという。

屋上緑化の目的は何か? ヒートアイランド化している都市環境の保全の意味が大きい。そのためには、きちんと水を吸い上げて、蒸散する植物を植えなくてはならない。水を貯めこみ蒸散を最小限に留めている植物では、役に立たない。

樹冠(木の枝の広がり)の直径が5メートルの木が一本あれば、家庭用クーラー一台分の冷却能力を発揮するという。樹木が消え、クーラーの廃熱が満ちている都市が熱くなるのは自然の道理だ。逆に、木が増えれば、都市は天然のクーラーを備えたように涼しくなる。

道路脇の雑草も「緑」と見れば、どれだけ緑化が進むか。

自然のメカニズムを理解したうえでの都市計画、国家政策。そういうものがほんとうに必要とされている時代だと思う。

人間一人を養うために、どれだけの耕地が必要か、人間一人の酸素を賄うためにどれだけの森が必要か。そんなことをきちんと数字で出し、目で見てわかるような絵本を作ってみたい。こんど、三島先生に相談してみよう。

後の予定が詰まっていたので、最後のお茶会に参加できなかったのが心残り。

▼「ボールスボー」でヘアカット
仕事が忙しくてずっと髪を切りに行けなかった。お気に入りのヘアデザイナー平石氏はいまや売れっ子。彼も忙しくて日本と世界を飛び回っている。なかなか予約が取れない。やっと予約が取れたので、髪を切る。

平石氏がいるのは「ボールスボー」という東林間の店。彼がこの店が開く前から、ずっと髪を切ってもらっている。もう15年を越えただろうか。安心して髪を切ってもらえるヘアデザイナーがいるというのは、人生の中でとても大きな価値がある。めぐりあえてよかった。

▼久保卓治氏アトリエへ
ヘアカットの後は、超特急で電車に飛び乗り、横浜山手の久保卓治氏のアトリエへ。3ヶ月のアメリカ滞在を終えた久保氏が、パーティ開くというので、呼んでいただいていたのだ。都市の建築物などのモチーフの多い銅版画家だが、わたしは久保氏の死んだ小鳥などの作品が好きだ。

アトリエは遠く海を見下ろす高台にあった。お気に入りの真空管アンプで古いレコードのヴォーカルをたっぷりと聞かせてくださった。家具もアンティークで、スイッチまで真鍮のふるいものに付け替えてあり、久保氏の美学が感じられるインテリアだった。

■18 Jun 2004 『父は空 母は大地』生物学の本に引用


▼『父は空 母は大地』引用
東海大学出版会から出版予定の本「自然学―自然の共生循環」に、『父は空 母は大地』からの一部引用を扉裏に掲載したいと連絡がある。宇宙から地球観測をした結果を生態学に生かす研究をなさっている奈良女子大の藤原昇氏のチームの共著とのこと。

引用文が、センテンスのなかでの省略や改変などあったので、そのままではちょっと、ということで、こちらで書き直しさせていただいた。藤原氏のご意志を生かし、訳者の裁量で、訳文を再編成し、細部も直した。

「すべてがつながっている」ということは、地球生態学を勉強すると、とてもよくわかる。ひとつを切り離して考えることは、無意味なのだ。全体から見なければならない。そのことを、シアトル首長は語っている。自然と共に生きてきた人々は、しっかりをそれを観察し、深く心に焼きつけてきたのだ。

シアトル首長の言葉が、生態学の本に引用されることは、とてもうれしい。こういうところから、もっと学際的な広がりが生まれたら、すばらしいと思う。

▼買い出し
自転車で3キロ先の安売り八百屋まで買い出しに行く。日曜日に高校時代の友人が二人、遊びに来るので、その準備だ。エリンギ、カラーピーマン、水菜、じゃがいも、タマネギ、ししとう、なす、きゅうり、トマトなど買いまくる。

夜はパンを焼いた。全粒粉20%のパン・ド・カンパーニュ。よく膨らんで、会心の出来。

疲れが溜まっている。明日もいろいろ予定があるが、キャンセルしなければならないかもしれない。

■17 Jun 2004 物語の作法/本多信介氏「song resort」


▼佐世保とイラクと投票
大学まで自転車で行こうかと思ったが、思いの外疲れていたので、電車で行くことにした。

授業の最初に、少し話をした。佐世保小6同級生殺害事件の件。白百合では、加害児童の気持ちが「わかる」という学生が3分の1ほどいたが、和光ではどうだろうかと思い、聞いてみたところ、全員が「わからない」だった。頭に来る、恨みに思う、殺してやりたいと思う、というところまではわかるけれど、その「殺してやりたい」というのは、あくまでも言葉の上のことだというのだ。実際に殺す、というイメージを持つということとは、やはり大きな隔たりがあるというのである。いわゆるお嬢さま学校の白百合の学生のほうが「わかる」という発言が多いのは、ヴァーチャル度が高いということを示しているのだろうか。

和光の学生たちからは「まず殴ればよかったのに」「カッターで切るにしても、手かなんか切ればよかったのに」という発言があった。リアリティのある発言だと思う。

「話せばわかる」というけれど、話してもわからない奴もいることもある。それでも人と人は、話さなければならないし、どうしても頭に来たら、とりあえず殴ればいい。殴ることと、いきなり刃物で切りつけることとは、まったく違う。

アメリカのイラク攻撃は、いってみれば、話し合いもせず、殴りもせずに、いきなり爆弾を落としたようなものだ。そのアメリカを支援している日本も、同罪だ。

いきなり刃物で切りつけたりせずに、話し合いをすること。それこそが「政治」ではないだろうか。アメリカのしていることは、政治ではなく暴力だ。

大人たちがそんなことをしていて「命を大切に」といって、どれだけの説得力があるだろう。高橋邦典/写真・文の「ぼくの見た戦争 2003年イラク」2003 ポプラ社 という本のキャッチコピーは「子どもに見せられないことを、大人たちがやっている。」だった。まさにその通りだ。

このままでいくと、本多立太郎氏が話してくれたような時代が再びやってくる。それを阻止するには意思表示をしなければならない。学生の半分ほどは、選挙権がある。小泉政権に賛成でも反対でも、きちんと意思表示をすることが大切だ、必ず投票するようにと勧めた。聞いてくれるといいのだが。

▼本多信介新CD企画「song resort」
大学から戻ったら、すっかり疲れてしまい、昼寝。疲れが溜まっているらしい。スポーツクラブのお風呂に入りに行こうと思ったら、電話が鳴った。「オレ、オレ。オレだよ。いま、江ノ島だからさ。これから行くから。メシ、あるよな」 本多信介氏である。

昨日に引き続き、なぜが「本多」さんに縁がある。イワシの唐揚げトマトとキュウリの角切りのせ、オニオンのリングフライ、ポテトフライ、水菜と大根のちりめんじゃこサラダ、などをつまみに、一杯飲む。

信介氏は「song resort」を企画中。「意味のない詩がいい」と、ある人に頼んで、わざと意味の希薄な詩をつけてもらったというCDを聞かせてくれた。確かに音の感触はいいのだが、聞いていてもどかしい。意味が前面に出てくる必要はないが、雰囲気だけの内容のない言葉だけが並んでいるのは、いらいらさせられる。ほんとうに意味のない言葉にしたかったら、むしろ、なまじな意味をつけるより、まったく意味のないものにしたほうがましだ。

忌憚なくそう進言した。すると「おまえには、こういう音に詩をつけるの、できないだろう。できるはずがない」とのお言葉。「そんなことない。甘く見ないでほしい」というと「じゃあ、やってみろよ」。そんなふうに頼まれるのはまったく心外であるが、せっかくの信介の音楽が、なまじな出来になるのはもっと心外である。なんとかするか。

▼メトロぱい再び!
先日、渋谷の本多信介ライブで、詩を読ませてもらった時、ライオン・メリィ氏のキーボードがとてもよかったというと、信介さんも「うん、よかった。おれも聞きほれちゃったよ」とのこと。確かにあの時、信介さんはギターを弾くのをやめて、聞いていた。また、みんなでやりたいね、という話になった。相模大野の「ラシエット」からも、朗読会しないかと声をかけられている。

「song resort」に詩を書いたら、ライオン・メリィ氏も呼んで、新作CD発表会という形でラシエットでやるか。

■16 Jun 2004 本多立太郎90歳「戦争出前噺」


▼戦争出前噺をはじめたきかっけ
今年90歳になる本多立太郎氏が、淵野辺の空手道場で「戦争出前噺」をするというので、出かけた。72歳ではじめたというこの語り、きょうで957回目だという。

父や母から、戦争の話はきいたことがある。しかし、終戦の時、父は17歳、母は16歳。まだ思春期だ。本多さんは終戦時31歳。従軍もした経験があり、また違った生々しい体験談をお伺いすることができた。

戦争の悲惨、軍隊の非人間的なことは、いままで何度も映画やドキュメントで見てきたが、やはりご本人から聞く話のリアリティは違った。多くの人が、忘れた振りをして、なかったことにして生きているが、ほんとうは目を背けているだけ。戦争の記憶は、生涯消えるものではないはずだと痛感した。

どうして戦争の語り部になろうと思われたんですか、と聞くと、本多さんはこんなふうに答えてくださった。
孫が生まれたんですよ。その孫が2歳半ぐらいになってね、かわいくてかわいくてたまらない。そんなかわいい孫に、自分と同じ目に遭わせたくない。その一心で、はじめました。なにも、世のため人のためなんかじゃない、自分のためです。

いまの日本は、たいへんなことになっている。自衛隊は軍隊じゃない、イラクに行ったのは人道支援だというけれど、あれは、どこから見ても軍隊です。このままいくと、またあんな時代がやってくるように思えてなりません。
戦争を体験したすべての人々が、自分の体験を見つめ、語り始めたら、いまの日本が、こんな方向に動いていくことはないだろう。みんな、もっと語ってほしい。切にそう思う。

本多さんのお話は、いつか時間があったら要約したいが、本が出ているので、ぜひ読んでほしい。
本多立太郎著「ボレロが聴きたい―戦争出前噺」1997 耕文社

▼走行距離18キロ
講演があった空手道場は、境川のほとり。開け放たれた窓から、森の香りが流れてきて心地よかった。講演の後、境川沿いのサイクリング・ロードを通って、南町田のカルフールまで行って買い物をする。本日の走行距離、18キロ。いい運動になった。っていうか、ちょっと疲れた。

■15 Jun 2004 キンダーブック来年4月号の打ち合わせ


▼なにかと制約の多い4月号
フレーベル館の編集者・平岡小百合さんと打ち合わせ。ホテル・センチュリーのデザート・バイキングを狙っていく。ケーキやサラダ、プチクロワッサンなどのバイキングで、食べるのとおしゃべりするの、両方忙しい。

依頼はキンダーブックの来年の4月号のお話、5見開き。キンダーブック2004年3月号の「さくらえん」が好評だったため、頼みたいという。「さくらえん」は「ことばがきれい」という声が多かったそうだ。

4月号は、いろいろと制約の多い号。新しい生活が始まった緊張感や期待、成長などが描かれていることが要求される。へたをすると、いかにも「おりこう」な感じの、やらせっぽいものになってしまう。わたしは、いかにもな「よいこ」がキライだ。要求を満たしながら、いかに「よいこ臭」のないものにするか、腕のふるいどころである。

▼グズだった子ども時代
平岡さんとは、ケーキをほおばりながら、子ども時代の記憶を語り合った。そんなところからも、ヒントが出てくる。グズな子で「いそいで! いそいで!」といわれっぱなしだったということ、体が小さかったこと、その上運動が苦手だったところ、など、わたしと彼女の共通点もたくさん出てきて面白かった。

そういう子どもにとって、幼稚園や小学校は、そんなに楽しいところではなかった。なんだか義務感で通っていたような気がする。「周りの人に聞くと、幼稚園が楽しくって仕方なかった、っていう人、いるんですよね。びっくりしちゃった」と平岡さん。そうか。そういう人にとっては、人生というものは、最初からずいぶん色合いが違っていたかもしれないなあ。

いまは、みんなといっしょにお弁当を食べ終わらなくてもいいし、幼稚園に通わなくてもいいし、よかった、大人になって。

■14 Jun 2004 おひさま大賞予備選考/福田直樹氏CD


おひさま大賞予備選考 絵画部門
今年も小学館の読み聞かせ雑誌「おひさま」が主催する「おひさま大賞」の選考の季節がやってきた。今年から、絵本部門と童話部門の二つに分けて、それぞれ最優秀賞を出すことになっている。きょうは、自宅で最終選考に残った絵本部門の候補作19作の予備審査をした。

絵本部門は、物語の内容にかかわらず「使える絵」を選ぼうという主旨。せっかく絵がうまくても、物語づくりな苦手な人は、いままで賞を逃していたが、今年からは純粋なイラストレーターとしての力量が問われることになる。といっても、そこは絵本。ただ絵がうまければいいというものでもない。ストーリーの上手い下手はともかくとしても、ページ毎の展開や動きが必要だ。同じ構図同じ場面で延々と続くような作品には、やはり点は入れられない。

イラスト主体、という選考基準だったためか、最終選考に残った19作品のうち、なんと11作までが「イラストレーター」「絵描き」「絵本作家の卵」を名乗る人々だった。

しかし、では魅力ある絵が描けるかというと、どうも違うようだ。例年に比べて「楽しさ」の度合いが低いのが気になった。仕事としてある程度描き慣れているせいか、あるパターンにはまってしまい、のびやかな楽しさがない。なぜだか、どれも窮屈だ。

そんななかで、飛び抜けてのびやかな作品があった。忘れられない印象の強さもある。しかし、物語の展開があまりにもあんまりなのだ。ちょっと引いてしまうけれど、この元気はすごい。

ほかにもいくつか、これなら評価できる、という作品もあったが、文句なし、というわけではなかった。もっと、心のこもった、そして楽しい作品に巡り会えるといいのだが。童話部門に期待しよう。

▼福田直樹氏CD「ドビュッシー・ピアノコンサート〈夢〉」
ピアニストの福田直樹氏が制作したCD「ドビュッシー・ピアノコンサート〈夢〉」が届いた。ドビュッシーのピアノ曲と、今回福田直樹氏が自らピアノ譜に編曲した「牧神の午後前奏曲」は収録されている。録音にもこだわって、音のクリアさを追及した作品だ。パンフレットに、素人にもわかりやすい解説が載っているところもうれしい。

このCDのもうひとつの魅力は、その装丁の美しさ。表紙の牧神とニンフの絵を、東逸子さんが描いている。水と森の匂いが漂ってきそうな絵だ。木陰の牧神の屈折した思いも伝わってくる。
【収録曲目】
アラベスク第一番
牧神の午後への前奏曲(福田直樹編曲)
ベルガマスク組曲
前奏曲集 第1集より
 沈める寺、アナカプリの丘、雪の中の足跡、亜麻色の髪の乙女
子どもの領分


『福田さん倶楽部』制作 CD番号NF-0010 価格2500円(税込み)
申し込み「音の彫刻舎」電話03-3320-2586(平日9:00〜17:00) メール問い合せorder@pianist.gr.jp

■13 Jun 2004 ダンテ『神曲』の旅@町田国際版画美術館


▼ダンテとともに地獄巡り
町田市立国際版画美術館「ダンテ『神曲』の旅 版画展」。本日最終日なので、出かける。すばらしい展示だった。ドレの版画が全点展示され、そのひとつひとつに「神曲」の一節が引用され、しかも、それが何を意味するかの適切で簡単な解説がついている。これをひとつひとつ追っていくと、まさにダンテとともに地獄・煉獄・天国巡りをしているようだ。

その表現力、その技術力に驚く。まず、イメージがすごい。ダンテの文章が元にあったにせよ、そこから想起するヴィジュアルは、ある意味言葉以上かもしれない。ドレのイメージ力の強さに驚く。地獄・煉獄・天国という世界構造を共有した文化を基礎として、さらにその上に、ドレ個人が卓抜な想像力でそのイメージを高みに押しあげた、という感じがした。

ドレの仕事は工房形式で行われたという。ドレの卓抜なイメージを形にしたのは、名もない彫り師たちだ。その技術力の高さもまた壮絶としかいいようがない。時に凡庸な構図の作品もあるが、彫りの技術があまりに見事で、独特のオーラを放つ作品に仕上げられているものもあった。

彫り師は複数いた模様で、なかには程度の低い作品も紛れていたが、これは、と思うようないくつかの作品は、恐らく同一人物の手で彫られたであろうと推測される技の切れがあった。わたしは、ダンテの肖像を描いた彫り師の作品がいたく気に入った。とてもグラフィックな処理をされたものだ。数学的、或いは幾何学的といってもいいかもしれない。清冽な線。微細な線ではなく、むしろ大雑把な描き方がされているのだが、それが実に精密。白と黒との配分を、実に正確に使い分けている。漫画のスクリーントーンを精密の極地にした、といったらいいだろうか。

同じ彫り師ではないか、と思わせられるものを、あと二点、見つけた。ひとつは王冠を被ったミノスの像、もうひとつは巨人の像だ。図録が売り切れだったので、正確な名前を書けないのが残念。

また、その彫り師とは別人だが、空一杯に人物や天使を描いた作品が好きだ。あのめくるめくイリュージョン!

描かれているアイテム(意味)だけではなく、やはり、この表現力(手触り・質感)をともに味わうからこそ、とてつもなく面白い。そこが現物の魅力だ。現代の優れた印刷をしても、その質感をそのまま再現はできないだろう。版画の力だ。

こんなイメージを提示してくれる画家と組んだら、画家のイメージに触発されて、また新たな作品が生まれ、より豊饒な世界になるだろう。いま、ここで、そんな仕事をしていきたい。

現物の版画と組んだ絵物語を作ることができたら、どんなにいいだろう。版画工房が存在しないいま、それは事実上無理かも知れない。とてもこれだけの枚数は望めないだろうが、せめて10枚の版画と組めたら。ほんとうの版画をいれたヴァージョンの他に、印刷の普及版をつくったらいいかもしれない。などと、夢想が広がった。

未完の『夢見る水の王国』は、わたしにとっての「神曲」なのだということが、この展覧会を見てよくわかった。いままで意識してこなかったが、世界の構造もそっくりだ。「神曲」を書くつもりで向かいたいと、心に誓った。

ドレのほかにも、ウィリアム・ブレーク、サルヴァドール・ダリの「神曲」が展示されていて、これもすばらしかった。ダリの、光に満ちた明るい地獄風景がまたよかった。伸びやかだ。それは、ダリがへそ曲がりでけれんな奴で、ドレの真っ暗な地獄絵図をあえて否定し、正反対のものを描きたかったということもあるだろうけれど、それだけではないようにも感じられた。

地獄的なるものへの素直なシンパシー。地獄大好き。それが、素直な明るさとなってのびやかに表出してしまったという感じだ。原画は水彩で、それをパリの出版社が版画化した作品だという。展示されていたのは、その版画の方で、原画の水彩は見られなかった。想像するしかないが、おそらく、実に伸びやかなものだったのではないか。水彩という、一気描きのような素材が、ダリの肩の力を抜かせたのではないか。

地獄と逆に、天国の絵に、ダリがよく使う粉々に割れたモチーフがいくつか出てきて、緊張感を醸し出していたのが面白かった。ダリには、やはり天国のお行儀の良さよりも、地獄が居心地がよかったのかもしれない。

▼門坂邸へ
会場で、偶然ドロンコ氏と遭遇。やはり会場にいた、翻訳家の田中彰氏とも合流したので、門坂流氏に電話。ちょうど版画の刷りを終わらせたところだというので、ビール持参でお邪魔させていただいた。娘さんの朋さんも交えて、楽しい時間を過ごさせてもらった。門坂さんに感謝。

■12 Jun 2004 三島次郎氏講義「外来種の移入」/出生率の低下考


▼闇を見据えて微笑む
三島次郎先生による桜美林大学オープンカレッジ「生態学から見た自然」の講座の4回目。さいわい晴れたので、境川沿いのサイクリング・ロードを通って自転車で行く。

一昨日、白百合女子大の講義にわざわざ来てくれた桜美林大学の学生さんが、教室に来てくれたので、一緒に受講する。悦子さんは『星兎』の感想を、カフェルミ掲示板にも書いてくれた人。そのピュアな言葉に、胸が熱くなった。以下、感動の余り、一部抜粋引用。
そのころの私の怖さに終止符を打ったのは
「きっと死後の世界がある」という考えでした。
そう思い込んで、すぐ隣にある真っ暗な闇から目をそむけてきました。
星兎はその真っ暗な闇をまっこうから見据えて、
暖かく微笑んだような作品だと思いました。
死という別れを恐れ続けてきた私も、
星兎を手に、真っ暗闇を見据えて暖かく微笑むことが出来たような気がします。

別れる怖さよりも、出会わないほうが怖いということも思い出しました。

闇の存在を消してしまうような作品が世に増えている中、
闇の存在を受け入れ、暖かく、わかりやすく私たちに手渡してくれる星兎は、
今のわたしたちにとって必要なんだと思います。 by 悦子さん
Eliちゃんも、悦子さんのこの書き込みに、レスをくれた。

入稿したばかりの『楽園の鳥』も、ある意味「真っ暗闇を見据える」物語なのかもしれない。こんどの闇は「死」ではなく、自分自身のなかにある「闇」。どうしようもない、困った自分自身という闇。乞うご期待。

▼「生態学から見た自然」第4回 外来種に関する考察
で、肝心の講座の方は「外来種に関する考察」。以下の外来種が日本に入ってきたきっかけとその後の拡散を考察。
【招かれざる客編】
・セイヨウタンポポ
・南京虫
・三宅島のイタチ
・江ノ島・鎌倉周辺のタイワンリス
・伊豆大島のタイワンリス
・アメリカシロヒトリ
・セイタカアワダチソウ
【お招きしたお客編】
・ウシガエル(輸出用食材として導入)
・アメリカザリガニ(養殖ウシガエルの餌として導入)
・ニジマス(食用に導入)
【日本から海外に進出した種】
・クズ(kuduという名で、地面を覆うためにアメリカに導入されたものの、増えすぎて森を枯らすことになり問題に)
・マメコガネ(Japanese beetleと呼ばれ、アメリカの穀物に大災害)
面白いのは、移入し、爆発的に増殖した種も、50年ほど経ると、自然とその勢いを削がれるということだ。アメリカシロヒトリも、わたしが子どもの頃は、日本中の街路樹が丸裸になるのでは、という勢いだったが、いまはそれほど見ない。あれほど日本中を黄色に染めたセイタカアワダチソウも、このころめっきり数が少なくなった。

つまりそれは、自然の調整能力が働いていることだという。アメリカシロヒトリも、移入された直後は、それが「食料」だということに、鳥たちが気づかない。見たことも聞いたこともないものを、食べようとは思わないからだ。それが徐々に「あいつは食える」とわかると、鳥が食べはじめ、調整が利いてくる。

しかし、その力が発露するには、少なくとも50年くらいはかかるということだ。その時間のスパンが、人間の時間と違う。人間はせっかちに、どんどん新作物を移入し、ブラックバスなどを放つ。その影響が落ち着くのを待たずして、さらに新しい種を導入する。生態系は攪乱され、調和を失った状態=不健康な状態で、走り続けなければならない。

外来種のすべてを否定するとすれば、いま日本にはジャガイモもサツマイモもないことになる。ニジマスもだ。外来種を一概に否定することはできないが、その導入には慎重すぎるということはない。人間の時間のスパンと自然の時間のスパンの違いを考慮して、抑制をかけないと、自然に大変な負担を強いることになる。

▼人間と自然の時間のスパンの違い
時間のスパンの違いから見れば、すぐにわかることもある。化石燃料。これができるためには、とんでもない長い時間が必要だった。そうやって、空気中の二酸化炭素を固体や液体として定着してきたわけだ。たかだかこの百年で、それをばんばん燃やして二酸化炭素を空中に放出している。

二酸化炭素が地球温暖化に関与しているかいないか、ということを云々する以前に、このメカニズムを見れば、それが自然の時間のスパンとまるで違うものであることが一目瞭然だ。自然に負担をかけていることは、明らかだ。

そのしっぺ返しが、どれくらいのスパンで戻ってくるのか。自然のスパンが長いことを考えれば、しっぺ返しが来た時点で、ものごとはもう大変なところまで進行しているといっていいだろう。

ということはつまり、その時点で気づいて対策をしたとしても、その効果が現われるまで、少なくとも50年は待たなくてはならない、ということだ。半世紀を待たなくてはならない、ということを、いまの政治家は、どれだけ真剣に受けとめているだろうか。

▼出生率1.29考
出生率がまた下がったと、巷では大騒ぎだ。年金の見通しが立たなくなったという。もっと出生率を上げよ! という意見が多数派だ。

地球生態学的見地からすれば、日本の人口は多すぎる。日本の国土では、日本の人口を養えない。現状、日本の人口を養う耕地の3分の2は海外に依存している。ということは、もし国際紛争などあって、海外からの食料輸入が途絶えるようなことがあれば、3分の2の人々は飢え死にしてしまうということだ。国家の「安全保障」のうえで、こんな恐ろしいことがあるだろうか。

人間というのは「大型哺乳類」だ。身近に、これだけの大型哺乳類はそうそういない。人間一人一人が、牛か山羊だと思って都市を見ると、すごい群れがこの都市を覆い尽くしているとわかる。

その群れを養うために、どれだけの牧草地が必要かをイメージしてほしい。しかも、人間は半肉食だ。同じ体重の草食動物を養うのの、数倍の耕地面積が必要だ。

都市の背後には、それだけの見えない農地がある。そのことをイメージしながら政治をしなければ、間違った方向にいってしまう。

講義の後、三島先生を囲んでお茶をしながら、みんなでそのことを話し合った。これからの政治は、地球生態学者と経済学者と政治家が力を合わせて方針を考えて行かなければ、と三島先生もおっしゃっていた。

▼カルフール南町田へ
講義の後、境川沿いに南町田まで行って、カルフールで買い物。フランス・フェアは明日で最終日。先日買っておいしかった「千の花の蜂蜜」をまとめ買いした。いつも、おやつに楽しみにしていたカフェの「クロックムッシュ」は、チーズがラクレットではなく、普通のチーズになっていてがっかり。楽しみがひとつ減ってしまった。遠くフランスから運ばれた食べ物を食べるなんて、非エコで、ずいぶんな贅沢だけど。

結局、本日の走行距離26キロ。かなり疲れた。

■11 Jun 2004 「ねむりのくに とっきゅう」執筆


一昨日、小学館のおひさま編集部より、久しぶりに依頼があった。どれくらい久しぶりかというと、たぶん1997年以来に「おおおとこエルンスト」を、突如打ち切りにされてしまって以来ではないか? 

あれ以来、こちらから「マダガスカル民話」や「あいうえおうた」などをプレゼンしてみたものの、すべてボツ。お声がかからないまま、なぜか「おひさま大賞」の審査員だけはクビにならず「(審査員として)君臨すれども、(作家としては)執筆せず」状態が続いてきた。今回、ようやく執筆のチャンスをもらえたわけだ。

依頼は「寝る前に読むためのおやすみ童話」。そう限定されると、かえってイメージが湧く。はりきって、すぐに仕上げた。一回読み切りの依頼だが、春夏秋冬書きたいくらいだ。タイトルは「ねむりのくに とっきゅう」。今回は「こりすのゆめ編」である。

■10 Jun 2004 和光大学「物語の作法」/白百合女子大 ゲスト出演


▼物語の作法/圧倒的な文章力で何を描くか?
和光大学「物語の作法」授業。講義のはじめに、どうしても気になっている、佐世保の小6同級生殺害事件のことを話した。

「ヴァーチャルとリアル」「神話と現実」についての話だ。物語は、単に物語だけではとても危険だ。物語を真に豊かなものとして享受するためには、リアルが必須である。そんな話を枕に振った。

きょうは、城所洋くんの作品「私はあなたを○○しています」の合評だった。この作品は200枚もある大作。大学生に通いながら、それだけ書いた城所くんももエライが、ちゃんと読んで批評を書いてくる受講生たちもエライ。15名もがきちんと批評を書いてきた。受講生の熱意に圧倒される。

作品は、レズビアンの高校生カップルを軸に、そこに横恋慕する同級生の男の子を絡ませ、背後にレイプ事件のトラウマを見え隠れさせるという青春もの。軽いタッチで学園物のようにすらすらと読める文体なのに、重いテーマを扱っている。

批評も、そこに話題が集中した。そのギャップに、どうしても違和感を感じてしまうという意見も多かった。

彼に限らず、最近の学生の文章力には驚かされる。しかしながら、ではその力量を持ってして何を書くか、ということになると、考えるべき事が多いように思える。物語のなかで語られるセックスや愛や死は、物語をでっちあげるためのアイテムでしかないのか。それとも、そこに何かの思いが込められているのか。

来週は、そのことに踏み込んだ合評をしたいと思う。

▼白百合女子大の講義にゲスト出演
白百合女子大で講座を持っている児童文学評論家の甲木善久氏から、講座へのゲスト出演を乞われ、午後は白百合にでかけた。

この大学に足を踏み入れるのははじめて。美しく手入れの行き届いた庭といい、随所にある真っ白なマリア像といい、上品な乙女の雰囲気を醸しだしている。学生諸君も、バンカラな和光大学とは、さぞ違うだろうと思ったけれど、お年頃の乙女たちの雰囲気は、意外や意外、和光とさして変わらなかった。みんな、すなおでよい子たちだ。

甲木氏のクラスでは、全員が『星兎』を読んでくれたとのこと。「電車の中でボロ泣きしてしまった」「うまくいえないけれど、読み終わったらすごくさっぱりした」などの感想が聞けてうれしかった。

わたしが来るというので、わざわざ桜美林大学からかけつけてくれた学生さんもいた。彼女は、子どもの頃、死ぬのが怖くて仕方なかったという。何年も、それを親にも打ち明けることができず、ひとり悩んでいたそうだ。

死の恐怖を克服しようと『死の壁』や、死後の世界の魂について語る本も多数読んだという。「でも、どうしても納得できなかった。死後にも魂は生きるんだ、と思ってみても、ぴんと来なかったんです」

その彼女が『星兎』を読んで、ふうっと胸に落ちる気持ちがしたというのだ。「ああ、そうなんだ、と思ったんです。そういうことなんだって。それでいいんだって」

そんなふうに受け止めてくれたことが、わたしにはとてもうれしかった。うれしくて、うれしくて、道ばたで思わず彼女を抱きしめてしまった。

甲木氏は、物語には、2種類あるという。ひとつは、現実の深い裂け目や、人生の不条理を、隠蔽しようとする物語。もうひとつは、それを裂け目を覗きこんで不条理を明らかにし、それを受けとめようとする物語。『星兎』は後者だといってくれた。うれしい。

▼ヴァーチャルとリアル
その白百合の講義でも、佐世保の小6同級生殺害事件のことを話題にした。学生たちに尋ねてみると、加害者少女の気持ちを「わかるような気がする」といった学生が大半なのに驚いた。「実際に殺しはしないけれど、HP上で悪口をいわれたり、実際にデブなどといわれたら、殺してやりたいと思うかもしれない」という。酒鬼薔薇くんと比べたら、ずっとシンパシーを感じるという。

カッターナイフで切りつけたあと、血がどっと噴きだしたはずなのに、少女は動揺しなかったらしい。そのことを話すと、20名ほどいた学生の三分の一が「不思議ではない。理解できる」という。「カッターナイフで切るというようなことをやってのけてしまったら、その時点でもう普通の状態ではない。どんなに血が流れても、非現実のなかにいるような気がしたのではないか」という。

加害者の心情を「わかるような気がする」「理解できる」という学生が多いことに驚いた。わたしにとっては、ものすごく「わからない」出来事で、だからこそ、どうしてそうなってしまったのか、考えずにはいられない出来事だからだ。うーむ。

この件については、和光の学生とも話し合ってみたいと思う。

▼あんみつや
講義の後は、みんなで甘いもの屋さんにいって、あんみつを食べ、おしゃべり。実に楽しかった。甲木さん、ありがとう。

■ 9 Jun 2004 新たなる挑戦!?


▼開放感
朝、目が覚めて「原稿を読まなくちゃ!」と思ったが、よく考えたら、昨日入稿したのだった。寝ても覚めても原稿読みと推敲、という日々を過ごしていたので、すっかり習慣になっていた。やっと解放された。

がんばったが、がんばりすぎの代償も大きく、腰と背中と肩が痛い。健康管理も仕事のうち。もう少しきちんとしなければと反省。会員になっているスポーツクラブに行こうかと思ったが、あまりにも疲れていたこともあって、結局行かないでぐずぐずしてしまった。

▼パン用の粉を買う
パンを作るための粉が欠乏していたので、伊勢丹デパートのなかの富澤商店に買いに行った。強力粉は膨らみのいいゴールデンヨット。切れていたパン用の全粒粉も買った。

パン作りはイベントではなく、もはや日常と化している。仕事をしながらでも焼けるのがいい。というか、パン作りをはじめると3時間ぐらい動けないので、仕事をしているときに作るのがちょうどいい。一週間に2度くらいのペースで焼いている。先日はトウモロコシ粉と紅花入りのパンを焼いてみた。素朴で風味があっておいしいかった。次は何に挑戦しようか。

▼新たなる挑戦
挑戦といえば、次に何をするか、だ。依頼されている仕事もいくつかあるが、そればかりでなく、目標を持って進みたい。懸案のものはいくつもある。「楽園の鳥」の作中作である「天鵞絨の闇」「夢見る水の王国」も完成させたい。幸い、編集のU氏も気に入ってくださっている。

Voiceの「詩集」もなんとかしたい。これは、作曲家の高橋喜治氏が、いま、次々と合唱曲にしてくださっている。今月24日には、鎌倉の朗読サークル「木蓮の会」が、わたしの作品ばかり集めて朗読会を開いてくださることにもなっている。活字になる以前にこれだけ使ってもらえるのだから、やはりがんばって本にしなくては。

短編集もまとめたいし、中途半端になっているマダガスカルの民話もやりたい。ガンジス神話を絵本にしたいし、やりたい翻訳のシリーズもある。うーん。

よく考えたら、新たなる挑戦というより、これはいままでの総決算、サボっていたことのまとめという感じだなあ。反省。がんばって進めよう。

■ 8 Jun 2004 「楽園の鳥」入稿/連載と単行本化の経緯


▼「楽園の鳥」入稿
「楽園の鳥」いよいよ入稿。ぎりぎりまで作業をしていた。だいぶブレはなくなったというものの、読めばまた直したい箇所が出てくる。大概は「直しを入れた箇所」を、また直したくなるのだ。元に戻す、というのではない(時々それもあるが)。直しを入れると、地の文章とのつながりが、どうしてもギクシャクする。それを滑らかにするためのヤスリがけがしたくなるのだ。

というわけで、最後の最後まで直しを入れ、入力して刷り直し、最後に入れた数カ所の赤が間違いなく直っているかどうかを電車の中で確認しながら、新宿に向かった。締め切りを設定されなかったら、恐らく、永遠に推敲し続けてしまったかもしれない。

編集者と待ち合わせたのは、新宿中村屋のラコンテ。本日は完成祝いということで、門坂流氏もかけつけてくれた。うちの相棒も一緒だ。相棒には、ずっと原稿の文字校正をしてもらっていた。書いている途中、相談相手にもなってもらったし、ご飯も作ってもらったし、疲れたら肩もみもしてもらった。事実上、専属のトレーナーみたいなものだ。感謝。

ラコンテに到着して、まず、原稿を渡すセレモニー。予定レイアウトと同じ文字数・行数(23字詰め20行2段組)でプリント・アウトした原稿と、フロッピーとを渡す。ずっしりと重い。単行本のページ数にして、約530ページ。かなり分厚い本になる。ああ、やっとここまで漕ぎつけることができたとほっとした。

▼「楽園の鳥」新聞連載の経緯
「楽園の鳥」は、2001年3月1日から2002年4月13日まで、公明新聞に連載された新聞小説。全336回の1000枚を超える作品だ。

当時、事実上鳴かず飛ばすの寮美千子に、なぜそんな大きな仕事の依頼が来たのか? それは、公明新聞の学芸部の記者の方が、雑誌「SPA!」に掲載された四方田犬彦氏の文章を読んだことに端を発する。四方田氏が、ご自身の連載エッセイのなかで、わたしの小説『ノスタルギガンテス』に言及し、評論してくださったのだ。

『ノスタルギガンテス』は1993年の出版で、四方田氏の評論が雑誌掲載された時点で、すでに7年前の著作だった。ネット上では評判を呼び、専門サイトまでつくられたこともあったが、出版界からはまったく注目されていなかった。その存在を知る人さえ、ほとんどいない状態だった。

四方田氏が評論してくださったことにより、本屋にないのにわざわざ取り寄せて再読してくれた人も多かった。公明新聞の方も、そうやって読んでくれたひとりだ。そして、年間契約の新聞小説の原稿依頼。大抜擢だ。

もちろん、うれしくないわけがない。発表のあてもなく書きかけのまま放置してあった「インド放浪物」を書かせてもらうことにした。それが「楽園の鳥」だ。

▼連載中はただただしあわせ!
連載中の楽しいことといったらなかった。書いて活字で発表させてもらえる、というだけでうれしい。原稿料も間違いなく入るし、お金の心配を一切しないで、書きたい物を書けるという夢のような13ヶ月半だった。公明新聞とその読者の方々に、感謝。

「楽園の鳥掲示板」を設置したところ、読者の方々から励ましの書き込みもいただいた。当時、タイ在住だったキックボクサーの方や、息子さんがお住まいのカナダと日本とを往復なさっていらっしゃる七十歳を超えるご婦人、リーディングにも来てくださる初老の紳士、などなど、さまざまな方からご声援をいただき、ああ、いろんな人に何かが伝わっているのだと、ほんとうに励まされた。感謝。

連載最終日には、自由ヶ丘の「ラ・リュー」というバーで、連載終了記念リーディングを開催することもできた。コラボレーションしてくださったのは、フリージャズの坂田明氏。企画は、やはりフリージャズの名プロデューサー青木マラカイ氏だ。感謝。

▼連載終了後からの苦闘
というわけで、多方面に感謝感謝で無事連載終了。しかし、ここからが大変だった。単行本化をもくろみ、持ちこんだS潮社では、一読してくれたものの、そのまま突き返されたも同然。次に持ちこんだのはK川書店。2002年7月のことだった。

一ヶ月後に返事が。担当の女性編集者は、作品をとても気に入ってくださったが、長すぎるのがネックとのこと。文学方面で新人同然の作家の作品で、いきなり1000枚を超えるものを出版するのは、いまの日本では事実上無理だといわれた。恋愛小説としての部分のみに絞って、400枚程度に縮めて欲しいとのことだった。

400枚は無理だが、削れるところは削ってリライトをかけます、ということで合意。ラストシーン、連載の回数が足りなくて書き足りなかった部分も書き足して、単行本向けの原稿をつくることにした。

連載終了から1年2ヶ月を経た2003年6月17日、ようやく単行本向け原稿を脱稿。再びK川書店編集者に渡し、待つこと3ヶ月と少し。丁寧に読んでくださったけれど、結果はやはり「もっと短く!」だった。

▼偶然の再会から希望が!
もうだめだ、とヘタレていたところ、2003年8月23日、建石修志展@東急文化村のオープニング・パーティで、K談社の編集のU氏に偶然再会。U氏とは、2002年10月に銀座のスパンアートギャラリーで開催された「門坂流新作展」で一度お目にかかり、門坂氏に紹介していただいて以来、10ヶ月目の再会だった。

運命とはこのことか。申し合わせたわけではなかったのに、建石修志展オープニング・パーティ会場で門坂氏に遭遇。たまたまそこにK談社のU氏がやってきた。「頼んでみたら?」の門坂氏の一言に背中を押されて事情を説明。まだK川書店の編集者の手にあるけれど、もしまた400枚に縮めて欲しいといわれたら、読んではもらえませんかとお願いしたところ、心よく引き受けてくださった。

2003年9月末、K川書店との話し合いで、やはり400枚に縮めてほしいといわれ、交渉決裂。10月はじめ、K談社のU氏に原稿をお送りして、見ていただいた。

U氏は新シリーズ「ミステリーランド」の編集でお忙しいなか、原稿を読んでくださり、「楽園の鳥」を出版する方針で頑張るとの旨、ご連絡いただいた。それも、削る方針ではなく、全文採用、とのこと。うれしかった。決定の通知を受けたのは12月に入ってからだった。

それにしても、運命はわからない。あそこで建石さんの個展のオープニングに行かなかったら、そこに門坂氏とU氏が来あわせなかったら、今回の出版は実現しなかっただろう。「楽園の鳥」は永久にお蔵入りだったかもしれない。運命に、そしてU氏を引きあわせてくださった門坂氏に感謝! もちろん、出版を決定してくださったU氏には大感謝だ。

▼インド再取材を経て加筆
その後、原稿を読んでくださった門坂さんから「ラストシーンに救いがなさすぎる」という助言をいただき、インド再取材を決意。(時の破片「楽園の鳥/再考」)2004年2月25日から3月25日の一ヶ月間、カルカッタ周辺を再訪。ラストシーンに描くつもりのガンジス河口の村ガンガサガルも訪れることができた。

帰国後の4月6日、装丁の件でK談社へ。装丁の画家とデザイナーと打ち合わせをして、その後、四谷のインド料理店でインド話をはじめもろもろに花を咲かせた。この装丁が実は画期的で、それについても語りたいのは山々だけれど、いまのところ企業秘密。

再取材を元に、原稿の細部に手を入れ直し、ラストシーンにあたる終章を書き足す。完成後、4回読み直し、そのたびに推敲の手を入れ、ようやく本日、編集者に渡すことができた。4月中には仕上げて渡すつもりが、大幅に遅れてしまった。すいません。

▼新しい時代のスタート地点
思えば、長い道のりだった。連載終了から2年2ヶ月。しかし、心ゆくまで推敲できたし、インド再取材をしてラストシーンを加筆することもできた。この加筆が、大きな意味を持っていたと思う。そして、そこに至るには、やはりこれだけの歳月が必要だったのかもしれない。

この大きな作品を、これだけの時間をかけてまとめあげ、やっと手放すことができた。自分のなかで、人生のひとつの季節が過ぎていったように感じている。ここにきてようやく、あの小説や、小説に書かれた時代のことを、ある程度客観視できたように感じている。書くということは、なんという大きな救いだろう。その手段なくしては、わたしは終生あの混沌を引きずっていったかもしれない。それが何かを、自分でアイデンティファイできないままに。

ああ、さっぱりした。大きく深呼吸をして、新しい時代をはじめたいと思う。

■ 7 Jun 2004 「楽園の鳥」推敲


本日も引き続き「楽園の鳥」の推敲。朝から晩まで、机にへばりついている。明日はいよいよ手放さなければならない。がんばるしかない。

■ 6 Jun 2004 「楽園の鳥」推敲


「楽園の鳥」を8日(火)に入稿することになっている。それまでに、もう一度読み返したい。必死で読む。読めば、また手を入れることになる。それでも、だいぶブレがなくなってきた。あと一歩である。美しい工芸品の完成度を目指したい。

■ 5 Jun 2004 桜美林大学オープンカレッジ「生態学から見た自然」三島次郎氏


日記、3日坊主にならないようにしよう!

▼「生態学から見た自然」三島次郎氏
桜美林大学オープンカレッジ「生態学から見た自然」の講座を受講している。きょうで3回目だが、先々週の土曜日は北海道から中本ムツ子氏が講演にいらしていたので、2回目はお休みしてしまった。中本氏のお話はすばらしく、またアイヌ民族のなかでの世代間のギャップなど、考えさせられることもいっぱいあったけれど、いまのところ書く暇がないので、また後日にしよう。

「生態学から見た自然」の講師は、三島次郎氏。わたしの小説『ラジオスターレストラン』に登場する古生物学者「マジロ博士」のモデルでもある。この小説を書くために、わたしは二つの講座を受講した。ひとつは岩波市民講座の「電波天文学」で、講師は森本雅樹氏。もうひとつが目黒の自然教育園で開催された「生態学講座」で、そのなかの講師のお一人が三島次郎氏だった。久しぶりにまとまったお話をお伺いしたいと思って、この講座に参加することにした。町田のレストラン「たべものや」の角張光子氏もさそって、一緒に通っている。

三島次郎氏は、地球生態学の草分け的存在。三島次郎氏の詳しい情報は以下に。
・さうすウェーブ/インタビュー三島次郎

▼地球生態学と都市生活者
地球生態学は、エコロジストやナチュラリスト必須の学問であるばかりでなく、全人類にとって必要な基礎知識だと、わたしは思っている。生き物として、自分がどのような位置にいるのか、どのようなメカニズムによって生かされているのか、それを知ることは、とても大切なことだ。

かつて、それは暮らしのなかでごく当然のこととして体感されて、文化に組み込まれていた。例えば、狩猟を主としていたアイヌ民族は、動物生態学や森の生態学なくしては、獲物を獲ることができない。農耕民族にしても、基礎的な自然観察なくしては収穫をあげられない。わたしたちは、日々の暮らしのなかで、それを実感し、経験して、知恵と知識として集積していったのだ。

都市に住んでいると、それがわからなくなる。わたし一人を養うために、いったいどれくらいの田んぼと畑があったらいいのか、見当もつかない。人間一人呼吸するだけの酸素の供給のために、どれだけの森があったらいいのかも、わからない。都市とは、それを実感できなくなる場所のことだ。

そういったことを、きちんと論理で把握できるのが地球生態学だ。都市生活者にとって、地球生態学は必須の学問だと思う。

▼地球生態学が教えてくれるエネルギー循環の構造
例えば、こんな図式を頭に入れておくとおかないとでは、世界の見え方が違ってくる。
・太陽光線のうち、植物が利用できるのは百分の一。
・その植物を食べる一次消費者(草食動物など)は、植物の持っているエネルギーの十分の一しか利用できない。つまり、10食べても、エネルギーや血肉になるのは1しかない。
・その一次消費者(草食動物など)を食べる二次消費者(肉食動物など)は、一次消費者の持っているエネルギーの十分の一しか利用できない。つまり、10食べても、エネルギーや血肉になるのは1しかない。
鷹やライオンなど、肉食の動物が生きていくために、広大な自然が必要なのは、この数字を見れば一目瞭然だ。ごく単純化すると、一匹の山羊が生きていくのに必要な百倍の広さの野山がなければ、一匹の狼は生きられない。そして、それら動物を養うためには、莫大な量の植物が必要だというわけだ。

人間は、雑食。植物も食べれば、動物も食べる。肉や魚を食べる人間がこれだけ多く存在しているということは、背後にそれだけ莫大な農地や牧場があるということ。都市にいるとそれが見えない。どこかから自然と湧いてくるように思っている。

そうではない、ということをしっかりと認識できるようになると、物事の優先順位もかわってくるはずだ。政治も変わるだろう。わたしは、地球生態学は小学校からびっちり叩きこむべき学問だと思う。お祖父さんやお祖母さんの知恵が機能しなくなった都市で、それをもう一度取り戻すには、この学問がとても大切だと思うのだ。

▼学問の壁を超え「命」について考える
地球生態学は科学だ。科学的に調査し、研究し、わかったことは「人間はすごい」ではなくて、「自然はすごい」ということだ。自然とは、畏敬の念を抱くべき存在であるということが、当然の結論として導かれる。そして、それは「命」とは何かを考えることにも通じてくる。

わたしたち人間は、だれもが命を食べて生きている。命によって生かされている。それを実感することで、命に対する見方、感じ方も変わってくるだろう。

その思想は、アイヌ民族の「イオマンテ」の儀式にも深く通底している。彼らの文化は、自然と向き合い、自然を観察し、その大きな循環を体感して、そこから導き出されたひとつの「科学的思想」でもあるのだ。それを「深い心の納得」のいくように、物語にした。それが神話であったのではないか。もちろんそれだけではないが、そのような面が強かったと、わたしは感じている。

科学を、数字の羅列ではなく、心の通ったものにする。地球生態学と神話とをリンクさせ、望ましき世界像をイメージする。いま、そのような態度が必要とされているのではないだろうか。

帯広百年記念館の学芸員・内田祐一氏は、同館の生物担当学芸員の方と協力体制を築いて、アイヌ神話の解明を行っている。すばらしいことだと思う。それぞれが、それぞれの学問という壁に閉じこもることなく、その壁を乗り越えて、新たな智慧を創造していかなければならない。などと、くそ真面目な話だけれど、ほんとうにそう思う。

▼長崎小六殺人事件と「命の教育」
長崎の小学校六年生女児による同級生殺人事件。痛ましい限りだ。教育の現場では「命の教育」などと叫ばれているけれど、付け焼き刃ではなく、根底からやらなければどうしようもないと思う。「命を大切に」ということをお題目のように唱えても、命の大切さはわからない。都市空間で、しかもヴァーチャルな情報にされされっぱなしの子どもたちにとって、命を実感するということは、大人が想像する以上にむずかしいことだろう。

これ一発で大丈夫、なんていう対処法があるわけもない。ひとつひとつ、真剣に取り組んでいくしかないだろう。「イオマンテ――めぐる命の贈りもの」は、わたしにとってそういった取り組みのひとつだ。がんばりたい。

▼カルフールで買い物
桜美林大学の講座の後、境川サイクリング・ロードを自転車で走って、南町田のカルフールへ買い物に行った。切れかかっていたオリーブ油など仕入れてくる。久しぶりに行ったのだが、ワインコーナーが充実していた。

総計26キロ走った。先日の事故の後遺症があってまだ怖いが、きょうはだいぶ頑張った。排気ガスゼロ、環境汚染ゼロを誇る安全走行だ。自転車が、もっと安全に走れる社会にすることも大事なことだと思う。

■ 4 Jun 2004 和光大学非常勤講師懇談会/イオマンテ絵本をめぐる反応


忙しくて日記をさぼっていたが、きょうから再開することにした。

▼「楽園の鳥」の推敲一段落
某出版社から出版予定の「楽園の鳥」の推敲が一段落。インドの取材旅行から戻り、取材を元に1300枚の原稿を改稿。さらにラストシーンを50枚書き足し、結局1200枚の作品になった。これを都合3回推敲し、ほぼブレがなくなってきた。やっと手放す気持ちになった。来週火曜日に渡す予定。それまでにもう一度読み直すつもりだ。

▼和光大学非常勤講師懇談会
きょうは、2004年度和光大学非常勤講師懇談会が新宿のホテルで開催された。ここのところ、毎年欠席していたが、今年はオウム真理教の松本被告の娘入学拒否問題などもあり、どんな様子なのか、参加することにした。

学長挨拶で三橋修学長はこのことに触れ「批判があることは承知している。今後も、学内でも自由にこの問題について話し合ってもらいたい」と発言。さらに「その他にも、大学入り口の石の問題など批判されていますが」と付け加えた。すると、会場から笑い声が起った。

これは、大学入り口の坂下に、歩道を三分の二も塞ぐような形で「和光大学」と彫られた石が置かれているという問題。目の見えない人ばかりでなく、目の見える人にとっても通行の邪魔になり、車椅子は歩道が狭くなって通行できない状態になっている。大問題だと思う。この問題を「笑う」人々の気が知れない。笑い話ではない。それを、笑ってしまうような風潮がこの大学にはあるのだなと、改めて認識した。

学長は、この件についてはそれ以上触れなかった。

▼さまざまなジャンルの講師陣
非常勤講師には、さまざまなジャンルから、さまざまな人材が集ってきている。普段は交流できない人々と交流できるのが、この懇談会の魅力だ。

表現学部の切通理作氏(メディア論)、師玉真理氏(文学評論)、内田俊郎氏(天文学)、清水雅彦氏(憲法論)、関根秀樹氏(原始技術の理論と実践)、水谷利津子氏(日本語)、松本美千代氏(英語)など、多彩な方々とお話しさせていただくことができた。

▼イオマンテ絵本をめぐって
アイヌ文化研究家の方がいらしていたので、こちらからご挨拶に伺い、制作中のイオマンテ絵本のことをお話しさせていただいた。その方から忌憚なきご意見をいただくことができた。以下、その方とのやりとりを、わたしの記憶に基づいて記す。

 イオマンテを題材にした絵本を制作中なのですが(と概要を説明)。少しでも誤解や間違いのないものにしたいと思って、いろいろな方々にお目通しいただいて、ご意見をいただいています。よろしかったら、ご専門の先生にも見ていただきたいのですが。
研究家 申し訳ありませんが、お断りしたいと存じます。というのは、わたしは、アイヌの神話や伝承を絵本にするということ自体、反対だからです。アイヌ文化というものは、その歴史を学び、理解して、その上でなければ理解できないものです。物語にしてもそうです。物語の部分のみ切り取って、子どもにもわかりやすい絵本にすると、こぼれ落ちでしまうものも膨大だし、誤解も招きやすい。これは、困った問題だと思っています。
 しかし、それでは入り口が狭くなってしまうのではないでしょうか。子どもの頃にアイヌ神話に触れた記憶があれば、後に成長してからも、アイヌ文化と出会ったとき、すんなりと興味を持つこともでくるのではないでしょうか。アイヌ文化に興味を持ってもらう入り口として、絵本をつくりたいと思うのですが。
研究家 それは、すでに多くの人が試みてきたことではありますが……。(成功しているとは言い難い、というニュアンスだとわたしは受け取りました)
 桃太郎も赤ずきんも、日本で知らない子はいません。けれど、アイヌの英雄物語の主人公であるポイヤウンペの名前を知っている子どもはほとんどいない。遠いドイツの物語の主人公は有名でも、です。わたしは、子どもたちがあたりまえのように、ポイヤウンペの名を知っているようになれば、アイヌ文化への理解ももっと高まると思うのですが。
研究家 しかし、赤ずきんなどは、遠い国の物語でしょう。そのようなものと、アイヌの物語のような、日本の国のなかにあるものをいっしょにしてはいけないと思います。きちんとした歴史理解なしにしてはいけない。わたしは、アイヌの物語が、なにか憧れをもって語られたりして、誤解されているこの状況に問題があると思います。
 そのようなご批判のあることは充分承知しております。ですから、なおさら、ご専門の方々のご意見を伺って、誤解や間違いのないものにしたいのですが。原稿をお送りさせていただいてもよろしいでしょうか。
相手 原稿をいただいても、何も申しあげることはできませんが。
 イオマンテ、というむずかしい問題を取りあげた、ということ自体が問題だとお考えでしょうか。(ここで、絵本の内容を詳しく説明)
研究家 しかし、アイヌの子どものなかにも、イオマンテの儀式を見て、ああいうのは嫌だという感情を抱いた者がいることを、ご存じですか。それを、どう思われますか。
 アイヌのライフスタイルが消滅した後にあのような儀式をすれば、当然の反応だと思います。ライフスタイル消滅以前でも、そのように感じる人はいたと思います。インタビューしたアイヌのおばあさんたちも、悲しくて見ていられなかったといっていました。そして、それが大切だと、わたしは思ったのです。熊は神話世界では、お土産を持って人間世界に訪れてくれるとされていますが、現実にかわいがって育てた子熊を殺すのはつらい。悲しい。それも含めてのアイヌの世界観だと思うのです。神さまだから、送っても(実際には殺害)オーケーというわけじゃない。心が痛まないというわけじゃない。神話の側面と、現実の側面、その両側から描きたくて、熊のカムイと少年とが、交互に語る形式にしたのですが。
▼プラスとマイナス
研究家の方は、話している間、終始、首を傾げられていた。「イオマンテを題材にした絵本を作るなんて気が知れない」というお気持ちだったのではないかと推測している。真摯な、ほんとうのことをほんとうに大切にする誠実な学者さんなのだと感じた。

この研究家の方に比べれば、わたしはいい加減で不遜で怖いもの知らずである。

しかし、だからこそ、誠実な専門家のお力をお借りしたいと思うのだが……。

ドシロートがイオマンテを描くなんて論外、とお感じになっていらっしゃることも、痛いほどわかった。そういう意見があることも承知している。それは、モンゴル民話を再話したときにもいわれたことだ。その上でもなお、イオマンテの絵本を制作しようとわたしは思っている。もちろん、アイヌ文化を完全に理解しているわけでもないし、誤解がひとかけらもないというわけでもない。それでも、わたしにできる何かがあるのではないか、という心持ちで向かいたい。マイナス面よりも、プラス面を見てがんばりたい。わずかでもプラス面があれば、後に続く人が、その面をもっと拡張し、マイナス面を補ってくれることもあるだろう。そうやって、より洗練された、アイヌ文化の心髄に近いものが育っていけばと、わたしは思っている。

▼ドシロートがアイヌ文化に関わる理由
もうひとつ、言いたいことがある。それは「専門家」たちは、それでは子どもにも親しめるような形で、アイヌ文化を伝える努力をしてきただろうか、ということだ。わたしがしなくても、すでにそのようなすぐれたものが大量にあるのであれば、なにもわたしのようなドシロートがしようとは思わない。そうではないから、しようと思う。そして、至らない部分を、専門家の方々のお力を借りて、できるだけ修正し、よりいいものにしたいと願っている。

専門家も、アイヌ文化のパブリシティが、よりよい形で行われることに力を貸すことは、決して損ではないと思うのだが、どうだろうか?

そのような主旨をご理解いただき、協力をいただいている方々も多くいる。帯広百年記念館の内田祐一氏、中本ムツ子氏、姉崎等氏、大野徹人氏、山田雄司氏、をはじめとして、様々な方々に感謝したい。

▼脅迫より誘惑を優先
「おじさんは、脅迫には強いけれど、誘惑には弱いの」と、わが師、森本雅樹氏はいう。「こうするとまずい。困ったことになる可能性がある」より「こうすれば面白い。すてきだ」が優先するということだ。森本おじさまの薫陶をうけ、寮美千子もまたそのような方針でやっていきたいと思っている。

もちろん、これには「自己責任」問題がつきまとう。誘惑に負けて、好き放題やって、他人に迷惑、というのでは困るわけだ。

「その絵本のせいでアイヌ文化を誤解されたら、責任がとれないだろうが」という意見も、ある人からいただいた。もちろんそうだ。だからこそ、なるべく多くの専門家やアイヌ民族の方々に見てもらい、出版前にチェックを入れたいと願っている。しかし、自己責任問題を追及なさる方々に限って「原稿は見ない」とおっしゃる。論外なので見るに値しないとお考えの方もいるし、見れば自分の自己責任が問われることになり、それを回避したいということもあるだろう。その気持ちもわかる。わかるが、残念だと思う。

わたしのつくるものが、世の中に出たら困るようなひどいものであれば、事前にチェックして、出版させないようモグラ叩きをすることも、専門家の責務だと思うのだが。

注)「アイヌ研究者」の実名を掲載していましたが削除しました。削除理由は以下。22 Jul.2004
・わたしが鬱になる理由

▼2004年01月の時の破片へ


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