▲2004年06月の時の破片へ


■11 Jan 2004 「遠くを見たい」草稿執筆


西はりま天文台で建設中の2メートル望遠鏡は、国内最大の光学望遠鏡。撮像装置を使えば、ほぼ宇宙の果てまでが見える性能がある。しかも、それが研究者だけのものではなく、一般人も見られるところがすごい。泊まりがけで観測できるように、すばらしいロッジも完備されている。

撮像装置もいいけれど、やっぱり自分の眼で直接見る星の光はすばらしい。なぜだかわからないけれど、胸を打たれる。土星がおしゃれな輪をかぶってぽっかり浮かんでいるとことなど、何度見ても心を動かされる。

2メートル天文台の完成予定はこの秋。11月には完成披露イベントが開催されるという。それに間に合うように、記念出版になるような絵本をつくれたらいいね、と以前から天文台長の黒田武彦氏と話していた。今年の黒田さんの年賀状には、こう書き添えられていた。
宇宙は私たち生命の故郷です。
宇宙を理解することは人間を理解すること。
この気持ちをずっと大切にしたいと思っています。
黒田さんのこの気持ちを、まっすぐに伝えられるような絵本を作りたい。「人はなぜ星を見るのか」をテーマにした本を作りたいと思っていた。

けれど、これがむずかしい。テーマが大きすぎる。「宇宙にどんな変わった天体があるのか」だとか「星空はタイムマシン」だとか、テーマを絞れば話はずっと簡単だ。けれど、大きな望遠鏡を作って星を見ることの意義の根本を伝えるには、どうしたらいいのか。いや、それ以前に、大きな望遠鏡を作る必然性がどこにあるのか? なぜそこまでして、宇宙の果てを覗きこまなければならないのか?

そのことを、わたしはずっと黒田氏に問うてきたし、自分でも考えてきた。巨大望遠鏡など必要ないという人々もいるだろう。ただ裸眼で、じっと星を見つめればいい。虚心にその美しさに浸ればいい、という考え方もある。それももっともだと思う。望遠鏡を覗くこともせず、ただひたすらに月や星を見て、敬虔な気持ちになり、深く心を澄ませることのできる人々はすばらしい。

けれどもまた、望遠鏡を月に向け、その表面にくっきりとしたあばたを見たときの驚きも、大きな喜びだ。人間は「知りたがり屋」。知ることは歓びだ。心の底から湧きあがる驚きと歓び。そして、知れば知るほど、この世界の美しさ、精妙さに心を打たれ、謙虚になる。

一方で、そうならない人々もいる。知ることで、支配したと思いこみ、すべてをコントロールできるのだと勘違いする。それは、泣けば口にミルクを突っ込んでもらえるからと、世界は自分の思いどおりになると勘違いしている赤ん坊と変わらない。実際は、無力で守られている存在なのに、自分が世界を統べる王になった気分でいる。

確かに、そんな幼い心の持ち主に、莫大な力を持つ技術を与えることは怖い。原子爆弾を使った人類は、つまりはそんな子どもだったということだ。分別のない赤ん坊が、莫大な力を所有し、行使した。

だから、テクノロジーはいけない、という意見がある。テクノロジーの開発もいけないという。しかし、そうだろうか、とわたしは思う。いけないのはテクノロジーそのものではない。それを使う人間の心だ。人間の心が正しければ、テクノロジーは人を傷つけず、むしろ恩恵になるはずなのに。

テクノロジーでなくとも、例えば音楽だって、人の心を鼓舞するから危険だ。戦争賛美に使われた。絵画だって危険だ。戦争絵画がどれほど描かれたことか。言葉だってそうだ。戦争賛美の詩を書いた作家がどれほどいたことか。人の心を戦争へと導いたのはこれらの言葉や芸術だったかもしれない。

テクノロジーが危険ならば、人の心を動かすすべての芸術もまた危険極まりない存在になる。どんな意味においても、パワーのある存在は、常に危険と背中合わせだ。

けれども、芸術と原子爆弾のようなテクノロジーをいっしょにできない、という意見もあるだろう。それも一理ある。芸術では直接大量殺戮はできないけれど(間接ならありうるが)、原子爆弾は一発だ。

人類はまだ子どもだ。原子爆弾があれば、それを使ってしまおうとする子ども。愚劣な戦争をやめられない子ども。だから、そんな子どもに危険なテクノロジーを持たせるわけにはいかない。宇宙の果てなんか覗きこんだり、人工衛星で望遠鏡を打ちあげるためにロケットを作ったりさせてはいけない、という意見もあるだろう。

けれども、わたしは思う。宇宙を知る。その不可思議さを、その精妙さを、その美しさを知れば知るほど、人は謙虚になる。民族の違い、宗教の違い、肌の色の違いがあったとしても、もっと大きなレベルで、わたしたちは「星から生まれた兄弟」なのだと知る。いまここに命あることのすばらしさを知る。自分がいとおしくなる。そこから、他者への愛が生まれる。

だから、宇宙を知ることは、やっぱりいいことだとわたしは思う。知れば知るほど謙虚になるという、その心を失わずにいられるなら。

黒田氏が、小惑星にわたしの名前をつけるよう推薦してくださった。それは「早く絵本を作ってくださいね」と背中を押されたことだと思う。なにをどう語ろうか、いままで迷いに迷っていたけれど、えいっとばかりに一歩踏みだした。ぐいっと背中を押してもらえたので、踏みだせた。

「遠くを見たい」という詩の草稿を執筆。これを起点に、絵本へと一歩、踏みだせたように思う。

■10 Jan 2004 ガンジス河口の聖地 Sagar


▼神代神楽@和光大学を欠席
和光大学で神代神楽の会があったのだが、欠席。昨日の外出で疲れてもいるし、17日の朗読ライブを控え、風邪をひかないためにも、なるべく人混みはさけなければならない。かなり残念だが仕方ない。

▼河口の聖地 Sagar
岐阜県立図書館より、旧ソ連制作のガンジス河口付近の地図が届く。当たり前であるが、ロシア語で表記されていた。読めない。およそ検討をつけて読むしかない。1955年の地図なので、町なども、いまよりよほど少ないだろう。やはり、イギリス製の地図も手に入れなければなるまい。

地図で見ると Bakkhali とおぼしき辺りは、ガンジス河口の中州の島の西海岸。ということは、東の水平線から昇る朝日は見えない。しかも、朝日が昇る海岸までは相当の距離をいかなければならない。これでは、候補地からはずさざるを得ない。

変わりに候補地に上がってきたのは、その隣の中州の島の先端部分にある Sagar という町。調べてみると、ガンジスが海になるこの場所はヒンドゥーの聖地で、1月半ばの大潮の時期には、西ベンガル最大のお祭りが開かれるという。何千人という信者が集ってきて、海岸で沐浴をするのだそうだ。その写真もネットに載っていた。

8日が満月だったから、おそらく今頃が祭りの時期なのだろう。祭りの時期以外は、ひっそりとした町らしい。

カルカッタから船でいけるという不確かな情報も見つけた。であれば、ぜひ船で行きたい。と、もう行く気になっている。どうも、調べれば調べるほど、見なければならないような気がしてくる。主人公ミチカの旅は、やはりもう一度カルカッタに行くことでしか、終わらないのだろうか。そうかもしれない、という気がしてくる。ネットで格安航空券を調べた。いま手に入る往復オープン航空券は、12万円以上。2月に入ればまた2万円は上がる。うーん、きびしい。お金がうなっていたら、悩まずに行けるのに。

■ 9 Jan 2004 若宮館長取材@川崎/科学記者のための天文学レクチャー@三鷹


▼若宮館長取材@川崎市青少年科学館
野川和夫氏といっしょに、3月のメガスター公演の番組制作のための取材に川崎市青少年科学館へ行く。若宮館長にインタビュー。プラネタリウムのなかでさせてもらった。インタビューをそのまま録音。また、大平少年がはじめて訪れたときにした会話を再現してもらった。両方とも番組で使う予定だ。

メガスターの番組はふたつ。ひとつは「メガスター誕生物語」。そして、もうひとつはメガスターの星の美しさに浸りきり、心の癒しが得られるような番組。若宮館長の提案で「メガスター星の詩」というタイトルに決定した。前者は、川崎市青少年科学館をきっかけに生まれたメガスターと大平氏に焦点を当てることで、公共教育施設の意味を再確認したい。後者は、メガスターという新しいメディアの特性を存分に生かした番組にしたい。

▼「科学記者のための天文学レクチャー」@国立天文台
川崎の後は、三鷹に移動。国立天文台の「科学記者のための天文学レクチャー」に参加する。各新聞社、雑誌社の記者約50名が集っていた。
レクチャー1:「太陽系の果てを探る」木下 大輔(台湾中央大学)
レクチャー2:「宇宙の果ての銀河たちを探す」柏川 伸成(国立天文台)
レクチャー3:「宇宙の果て・宇宙年齢」杉山 直(国立天文台)
川崎から向かったので、レクチャー2からしか聞けなくて残念。それでも、充分に実りある楽しい講演だった。最先端の専門的な話、というより、どちらかといえは現代宇宙論の基礎をたたきこむといった風情。親切なことに「赤方偏移」についての説明までしてくれた。およそわかっていると思っていることでも、研究者の口から直接、まとめて解説されると、現在の宇宙像の「手触り」みたいなものまで感じる。どこまでがほぼ確定であり、どこからが怪しい推論の世界なのかの境界線も実感した。

宇宙の果ての話の後、質問の時間が取られた。さんざん「赤方偏移」について語られた後である。ある記者から質問がされた。
「しかし、そうしている間にも、宇宙場膨張しているわけですよね。その影響はどうなるんですか」
目が点。つまり、その記者はあれほど丁寧に語られた「赤方偏移」について、全然理解していなかったということらしい。研究者は、あっけにとられ、それからにこやかに返答した。さすがである。質問したのは、朝日新聞の科学部の記者だった。

新聞社も雑誌社も放送局も、人材はほとんど文系。きのうまで社会部の記者が、突然科学部へ配置転換、ということも日常茶飯らしい。それらの記者に理解してもらい、正確かつ面白い記事を書いてもらうのは、並大抵のことではないだろう。その記事が世論を作って、予算も付く。天文台がもっともっとこのような勉強会を開いてくれたらいいと痛感した。

▼星を見つめる人々
講演の後は、土星観望会。土星は、相変わらずおしゃれだ。いまが、輪がいちばん厚く見える時期だという。大気も安定していて、きれいに見えた。土星のこんな姿を見るたびに、なぜかどきどきわくわく興奮してしまう。星はすてきだ。

懇親会で「ほしのメリーゴーランド」の解説を書いてくださった渡辺潤一氏にはじめてお目にかかった。朝日新聞のエッセイは秀逸。その視点が、わたしは好きだ。最近、渡辺氏は家庭菜園に凝っているという。「子どもに無農薬野菜を食べさせたいんですよ。結局は、土との大きな循環のなかにいるってこと、人は忘れちゃいけないと思う」

ALMA計画準備室の坂本成一さんにお目にかかったのも、はじめて。いつも冷静沈着な対応ぶりなので、もっとご年輩の方を想像していたのに、長身のジャニーズ系美男子だったのでびっくりした。お話しているうちに、実際にチリの標高5000メートルのALMAに行ってみたくなってしまった。

広報室長の縣秀彦氏は、接待におおわらわ。あの愛嬌のよさは、世の中の天文学者というイメージから大きく離れている。それが、親しみがあっていい。教育テレビに出演なさったときのフレンドリーでわかりやすい解説は秀逸だった。聞くと、国立天文台に入る前は、学校で教師をなさっていたとのこと。転職組だ。なるほど、教え方がじょうずなんだと納得。貴重な人材だ。

以前、森本雅樹氏の70歳のお祝いの会でお目にかかった井上允氏もいらしていた。ちょっとアニメ作家の宮崎駿のような風貌。わたしは、なんでも忌憚なくまっすぐおっしゃる井上氏の話が大好きだ。もっともっとお話したい。

八ヶ岳でトラクターを乗り回していた天才天文学者・近田義広氏にも、ほんとうに久しぶりにお目にかかることができてうれしかった。相変わらずすてきな方だ。

「星ナビ」の編集部の大川拓也氏とも久しぶり。息子さんが1歳とちょっとだそうだ。見本に持っていった「ほしのメリーゴーランド」を見せると「ああ、こんな絵本で育ちたかった!」と感激してくれた。ぜひ子どもに見せたいといってくださったので、思わずプレゼント。同じく「星ナビ」のWEB海外ニュース担当の高鹿香代子さんにも気に入ってもらえて、うれしかった。

▼「ほしのメリーゴーランド」
それにしても「ほしのメリーゴーランド」は好評だった。天文学者の方々にも喜んでもらえた。このジャンルの仕事をする人は少ない。3歳児向け、ということであれば、わたし以外いないかもしれない。今回集った「科学記者」のなかで、一番若い読者を獲得しているのは、間違いなくわたしだ。渡辺潤一氏には「わたしたち研究者は解説は書けるけれど、詩的な言葉で心に伝えることはむずかしい。寮さんならできる」と励まされた。がんばって、もっともっとこのジャンルの仕事をしていきたい。

■ 8 Jan 2004 ピアノ調律/ヘアカット


▼ピアノご臨終
12日に高橋喜治氏と齋藤佐智江氏に来ていただいて、朗読ライブの打ち合わせをすることになった。そのため、ここ数年、調律をさぼっていたピアノの調律をすることにして、調律師に来てもらった。高橋さんご推薦の岸さんだ。いろいろな音楽家の方のピアノの調律をなさっていらっしゃるとのこと。

前の板もすっかりはずして待っていたのだが、岸さん、ピアノを一目見て「うーん」とうなってしまった。予想していたことだった。20年ほど前に中古で買ったピアノ。だましだまし使っていたが、きっともうだめだろうと思っていた。

いままでの調律師はピアノを買ったお店から紹介された人。正直いって、ともかく音が出ればいい、というような調律だったと思う。タッチも何もない。わたしも、それはわかっていた。今回のように、プロの音楽家のピアノを見ている調律師から見たら、呆れて声も出ないような代物だっただろう。ご臨終を宣言されてしまった。

45万円ほどで、中古のヤマハU3をお世話してくれるという。U3はアップライトとしてはかなりの完成品と名高いし、新品なら70万円を超える。いいお話なので、いずれ、もうかったら買い換えることにして(いつのことか?)、きょうは打ち合わせに間に合うだけの応急処置をしてもらった。甚だしく音がはずれている箇所を調律、音のでないキーを調整してもらった。情けないことに、半音下げなければ何ともならない状態であった。これで、ほんとうに打ち合わせができるのだろうか?

▼ヘアカット
東林間の美容院「ボールスボー」でヘアカット。相模大野に引っ越してからずっとここだ。もう15年にもなるだろうか。一度だけ、浮気をしたのは、海外に長期滞在してバンコクで切った時だけだった。

■ 7 Jan 2004 グリム書房へ


東林間のグリム書房へ、朗読ライブのチラシを届けにいく。頼まれていた『しあわせなキノコ』を一冊持っていく。それを渡してきたかわりに、店の前の棚に出されていた均一価格の古本を5冊、もらって帰った。つまり、物々交換である。物々交換は、なぜかお金を使うよりずっと楽しい。

■ 6 Jan 2004 ガンジス河口の地図


ガンジスの河口のことが、どうしても気になって仕方ない。インターネットを駆使して地図を探す。検索で見つけた地図専門店のいくつかに電話をかけるも、インドの地図はないという。最後に電話したアルプス出版の尾崎氏から、ようやく詳しいインド地図事情を教えてもらうことができた。尾崎氏は、大変詳しくて頼りになった。

インドは国防上、詳しい地図を公表していない。というか、それ以前にきちんとした地図が作られていないのではないか、という説もある。ガンジス河口ともなれば、雨季と乾季で大幅に海岸線も違ってくるし、地図の作りようがない、ということもあるらしい。

そういえば、昨年のボンベイ周辺石窟寺院ツアーの時も、地図がなくて往生した。一度行ったことのあるバウチェ氏も運転手も、正確な道を知らず、地図もないのでずいぶんと迷った。

現在あるのは、1955年に旧ソビエトが作成した20万分の1の地図。そして、イギリス海軍による海図。旧ソビエトの地図は、岐阜県立図書館の世界分布図センターに収納されているという。海図のほうは、大まかな地名などわかるが、陸地は事実上、白地図だそうだ。

早速、世界分布図センターに問い合せてみた。緯度と経度を指定して必要な地図を15区域に限りコピーして郵送してくれるシステムがある。通常業務以外の特別なサービスだそうだ。緯度と経度でおおまかなあたりをつけて、地図を注文した。ガンジスがフーグリーに分岐するあたりから河口に至るまで、その流域周辺の地図9区域を頼む。カラーコピーで1区域当たり300円だ。

アルプス出版からは、ガンジス河口付近の海図にどんなものがあるかのおおまかなデータを送付してもらった。こちらは1枚3500円と高価だ。さらに送料もかかる。岐阜から送られてくる地図を検討したうえで、注文を決めることにする。

■ 5 Jan 2004 「たべものや」と「ラシエット」へ


▼「たべものや」へチラシ
自転車で、町田の自然食レストラン「たべものや」へ朗読ライブのチラシを届けに行く。お店は明日から。店主の角張光子氏は、店のなかで木片と格闘していた。棚を作っているという。光子氏は、開店の時、山から巨大な丸太を丸ごと一本買ってきて、材木にひいてもらい、自らチェーンソウを振り回して?椅子からテーブルまで、店の内装のすべてを一人で作ったという御仁だ。棚を作るくらい何でもない。とはいっても力仕事。棚の滑り止めの枠に木彫を施していたけれど、なかなか大変そうだった。棚板の一枚に、町田天満宮の骨董市で手に入れたという古いお盆を使っていて、それがまたよかった。

▼「ラシエット」で下調べ
「ラシエット」へいって、照明や音響設備などの状態を点検する。客席の電気を消せていい感じだ。最後の曲ではテーブルに蝋燭を点灯してもらおうかと思う。

■ 4 Jan 2004 告知作業に追われる


▼ライブ告知作業
なんと、きのう出したライブの告知メールに、日付が抜けていたことが発覚。マヌケである。さっそくもう一度出し直す。昨日出しそびれた人々にも出す。チラシもつくったし、メールがないところには、ファクスもした。そんなこんなで一日潰れてしまった。わたしはやっぱりダメ人間である。

▼海へ
門坂氏より電話。「楽園の鳥」の件、「映画でクレーンのカメラでぐっと引いていく」というラストシーンのこと、わたしに電話で聞いてから読みかえしたところ、確かにそのように見えたとのこと。やっぱりこのままでいいかもしれない、という。

しかし、最初にそう見えなかったのだから、このままではだめなのだ。主人公の一人称で語らせているから、ラストシーンで、視点をぐっと移動することができない。視点を移動させるためには、限りなく遠くを見渡せる場所に連れて行かなければならない。視線を遠くへ誘いたい。そして、ミチカを点景にしたい。やはり海岸がいい。

書けば絶対によくなる。ラスト、最後のひと駒次第で、オセロのようにそれまでのすべての駒に価値が生じたり、失くなったりする。書き足せば、必ずよくなる。最後のひと駒で、それまで描いてきた1300枚の風景がすべて生きてくるはずだ。このことに心底気づくまでに、こんなに時間がかかってしまった。でも、気づけてよかった。ここまで出版されず、ここで気づけたことは天の恵みのように思える。早く書きたい。心がはやる。けれど、その前にやるべきことが山積している。つらい。

■ 3 Jan 2004 幻のガンジス河口


▼ガンジス河口ヴァーチャル・ツアー
ガンジス河の河口のことが気になって仕方ない。地図を拡げてみる。ヒマラヤから下ってきたガンジスは、途中で様々な小さな河を合流させてひとつの巨大な流れになる。それが、西ベンガルにはいると、またいくつもの河に分かれていく。平らなデルタ地帯。河は無数の小さな流れに姿を変えていくのだ。そのなかの大きなひとつがフーグリー川。そのほとりにカルカッタがある。そして、その先、河が海に変わるところでは、川はほんとうにいくつもの筋に分かれて複雑な地形になっている。どこまでが地上で、どこからが海がわからないような風景。

それは、ほんとうはどんな姿をしているのだろう。どんな風景が見えるのだろう。旅行ガイド lonely planet のインド編で調べてみても、世界地図に比べたらだいぶ詳細な地図は載っているものの、やはりわからない。

カルカッタの南にDiamond Harbour という港がある。東インド会社のころからの、大きな港だったらしい。その先に bakkahli という保養地がある。長い砂浜のある美しいところだという以外、わからない。lonly planet にも、わずか9行しか記述がない。海岸の記述なら、そこよりずっと南にある海辺の保養地 Puri のほうがずっと詳しい。Puri のことなら、わたしもカルカッタで聞いたことがある。街の喧噪に疲れた旅人が、よくそこへいくと聞いた。資料も集りやすいだろう。けれども、ミチカをそこに行かせたくはない。やはり、ガンジスの河口に赴かせたい。

bakkahli の東には、世界一大きいといわれるデルタ地帯が広がっている。湿地帯は、マングローブの密林になっているようだ。そこにはベンガル虎が棲息しているという。虎は深い山にいるのだと思っていたから驚いた。Sunderbans と呼ばれる自然保護区で、世界遺産に指定されている。

資料を基にして、ネットで検索をかけてみる。やはり、PuriとSunderbans に関する記事が圧倒的に多い。ミチカに海を見せたい。それには、なるべくシンプルな砂浜がいい。マングローブの森も面白いけれど、ちょっと趣旨が違ってしまう。虎など徘徊していたら、そちらへフォーカスしてしまいそうだ。わたしは欲しいのは水の風景。限りなく遠くへ視線を誘わせたい。

ということは bakkahli がふさわしそうだ。カルカッタの南130キロほどのところになるこの海岸は、一番近い保養地として市民に人気だという。と同時に「何もない」「海と砂だけ」「することがない」などとも書かれている。写真を見てもPuri の賑わいに比べ、だいぶさびれた感じだ。bakkahli に言及しているのは、インド人ばかり。写真にもインド人の姿しが見えない。観光写真ではなく「bakkahli に行ってきました」という個人のスナップがほとんどだ。

bakkahli にしたい。けれど、いまひとつわからない。bakkahli の写真をたくさん載せてあったサイトの人に、英文のメールを送った。返事は来るだろうか。それにしても、こんな小さな海岸の町のことがわかるなんて、便利な時代になったものだ。
http://www.pcuf.fi/~tmo/bakkhali.htm

▼カフェルミ問題・ライブ告知
カフェルミが荒れている。長文の英文書き込みが怒濤のごとく入ってくるからだ。しかも、内容がくだらない。わたしは英文解読には時間も手間もかかる。これ以上、彼に時間を奪われるわけにはいかない。きちんと話して、とりあえずお引きとり願うことにした。ともかく、日本語ソフトを導入するまで、書き込みはやめてくれと頼んだ。しかし、反省の色もなく、また英文書き込み。あきれる。こういうことにあきれて、心を奪われて、きちんと対応するために時間を割かれて、まったくわたしはなっていない。これでは、自分の仕事をする時間がなくなってしまう。反省。今年は、自分のこの傾向をなんとかしたい。そして、きちんと仕事に時間を割こう。

ライブ告知にも手間取ってしまった。ライブをするとなると、やっぱりお客さんが集らないとお店に悪いと思って、思い切り頑張ってしまう。そして疲れてしまう。わたしのこういうところもよくない。もう少し、人にお願いできるようになりたい。でも、それができない。申し訳なくなって、結局自分でやっちゃうんだよなあ。これも反省。

■ 2 Jan 2004 七里ヶ浜/鶴ヶ岡八幡宮/「楽園の鳥」再考



しなければならない仕事があるので、やろうかと思ったけれど、あまりにもお天気がいい。お正月は一年で一番空気がきれいな時。こんな時、出かけない手はないと思って、相棒と二人、海へ行った。

江ノ電に乗って七里ヶ浜へ。腰越で下りて鎌倉高校前まで一駅、砂浜を歩く。ほんとうに風がきれい、空がきれい、雲がきれい。出かけたのが遅かったので、みるみる光量が落ちていき、空は赤く染まった。新しい灯台のシルエットが、江ノ島の上に影絵のように見えた。

お正月のために清掃したのか、ほとんど何も落ちていなくて残念。貝や石や硝子の欠片でできた荒い砂粒をフィルムケースに一つ分、入れた。そのとき、ほんの数ミリ角の印判の破片を見つけた。細工が細かくて、とてもきれい。うれしい。宝物だ。

沈み行く夕陽を見ながら、相棒と持参の自家製スモークチキンサンドを食べた。拾い物して、お弁当を食べて、相変わらず安あがりなレジャーである。


長谷観音へいくも、もう閉まっていた。初動が遅いので、こういうことになる。反省のないわたしだ。以前、大長老こと馬渕公介氏に教えてもらったおいしい鴨南蛮を出す蕎麦屋があるので、そこへ行こうとするも、見つからない。おかしい、このへんだったはずだけれど、と思ったところは、硝子張りの瀟洒なカフェになっていて、外国人たちが群れてコーヒーを飲んでいた。近所のお肉屋さんで聞いてみると、やはりそこで、もう5〜6年前に閉店したとのこと。鴨もだが、こんがりと焦げ目をつけたネギが絶品だった。あれで、わたしは焼いたネギのおいしさに目覚めたのだ。なくなってしまって残念。


「のりおりくん」という江ノ電一日乗車券(580円)を買っていたので、そのまま鎌倉へ。鶴ヶ岡八幡宮にお参りする。途中の小町通りは、もう夜だというのに大変な混雑。境内にもたくさん人がいた。巨大なスクリーンが参道に臨時に設置されて「迷子はこちら」という文字や、お賽銭のあたりの風景を映しだしていた。きっと昨夜からきょうの昼にかけては、身動きもとれない混雑で、みんなこのスクリーンを見ながら、じっとお参りの順番が来るのを待ったのだろう。日本人は信心深い、というか、信心というほどの信心でもないのに、なんでそんなに辛抱強いのが不思議だ。きっと、心の底にしみついた何かがあるんだろう。わたしは、そのなにかを愛する。それはきっと、見えないものへの畏怖の気持ちだろう。新しい年を迎えるために祈る清らかな気持ち。わたしには、行列に並ぶだけの辛抱はないけれど、その気持ちだけはたくさんあるつもりだ。


家に戻ったとたん、電話のベル。門坂流氏だった。『楽園の鳥』の原稿を、大晦日の夜から元旦にかけて、一気に読んでくださったという。感謝。千三百枚もあるものをそんなに集中して読んでもらえたのはうれしい。長さは感じなかったとのこと。風景の描写、ダメ人間の描写はよいとおほめの言葉をいただいた。「でもね、ラストがあんまりキツイ。どうにかならないかなあ」と門坂氏。

同じことを、角川書店の編集者にも、講談社の編集者にもいわれた。あまりにも救いがないというのだ。救いがない人生、というものを積極的に受け入れる、という救いがあるのだ、と自分では思っているものの、読んだ人みんなにいわれると、うーむと考える。

そして、思った。実は、わたしはあのラストシーンが書きたくて1300枚書いたようなものなのだ。カルカッタの雑踏に消えてゆく日本領事館の白い車。くすんだ街のなかで、そこだけピカピカに輝く車が、黒と黄色に塗り分けられたタクシーやリキシャや山羊の群れをかき分けながら、静かに静かに遠ざかる。街では、いつもの朝の風景。井戸から汲まれた水のしぶきが光にきらめく。「そこにある」という、ただそれだけの輝き。カメラはゆっくりとクレーンで俯瞰の位置にのぼっていく。点景になる車。そして雑踏のミチカ。

そう、わたしはその「映画的シーン」が描きたかったのだ。そして、それはやっぱり「映画」なのだ。映像としてのラストシーンなのだ。門坂さんと話していて、はたとそのことに気づいた。映画なら、そのままタイトルバックが流れてきてもいい。そこに重なるのは、スラヴァのアヴェマリアだ。わたしの頭のなかでは、もう決まっている。

しかし、小説は違う。映画のように、ただ座っているだけで、映像が二時間半で勝手に物語を終末へと運んでくれるわけではない。自力で千三百枚読み、それを自分の脳のなかで映像化して再構成しなければ、最後までたどりつけないのだ。そうやって、たいへんな労力を使ってラストにたどりついた読者には、あのラストはあまりに過酷だ。思いっきり突き放された感じがするだろう。それも、中途半端な場所で、ふい打ちのように投げだされた感が。

それではいけない。はじめて心底、そう思った。自分でも、薄々気づいていたけれど、やっとはっきりと意識にのぼってきた。ほんとうのことをいえば、わたしも考えていたのだ。ラストシーンで、主人公にカルカッタの雑踏で海のことを考えさせようと。けれど、考えるだけではなくて、これはどうしても実際に海を見に行かせなければならないと、その時、思った。

ミチカに海を見せなければ。はるかヒマラヤから流れてきたガンジスが、海となる場所をその目で見せなければ。海の水に足を浸らせなければ。それで、ミチカの旅はひとつの区切りを得られるのだ。源流から海までの旅。そのすべてをミチカは見たことになる。その海には、灰になったアッシムがいる。日が昇る東の彼方には、日本がある。それは、戻るべきなつかしい故郷ではない。「もうひとつの世界の果て」。異国としての日本。ミチカの、世界の果てへの新たな旅がはじまる。

そうだ。それだ。それしかないという気がしてきた。しかし、わたしはガンジスの河口を見ていない。困った。どうしよう。調べて済むことだろうか。それとも、再びインドへ……。ああ、新年早々、大変なことになってしまった。

「いや、おれは知らないよ。そうしろとはいってないよ」と責任回避的発言の門坂氏。寮美千子の一途なところを知っているだけに、しまったと思ったらしい。さあ、どうなるか。まあ、とりあえずは資料集めしてみよう。門坂さん、気づかせてくれてありがとう。

■ 1 Jan 2004 自家製お屠蘇/17日ライブ突然決定/大沼神社初詣



初日の出を待っているうちに眠くなり、初日の出15分前に眠ってしまった。相変わらず調子っぱずれなわたしだ。でも、夜明け前の朝焼けの空はきれいだった。


大晦日の深夜、お屠蘇がないことに気づいた。しかし、その時間では、もう屠蘇散を売っているところもないし、あきらめた。しかし、目覚めてみると、どうにもすわりが悪い。お屠蘇のない元旦は、元旦という気になれない。

そうだ! とひらめき、自家製の屠蘇散を調合してみることにした。材料は以下の通り。
肉桂(シナモン)
山椒の実
丁字(クローブ)
月桂樹の葉(ローリエ)
柚の皮
フェンネル
アニスシード
キャラウェイシード
カルダモン
これを、お酒に入れて電子レンジでチン。香りが移ったところで、お酒と同量弱の本みりんを足して、即席お屠蘇のできあがり。屠蘇器に入れて一杯やると、なかなかいける。父はいつも屠蘇器にきちんと水引をつけていた。それはないけれど、結構気分が出る。

ネットで「屠蘇散」を調べてみると、わたしの調合は結構いい線いっていたことが判明。スタンダードな調合は、次の通り。
桂皮(ケイヒ)=シナモン
山椒(サンショ)
丁字(チョウジ)
白朮(ビャクジュツ)
防風(ボウフウ)
桔梗(キキョウ)
陳皮(ちんぴ)みかんの皮の干したもの
つまり、これは薬効のあるハーブ酒というわけ。これからは、みんな自家製の屠蘇散を調合して「我が家の味」をつくったらいいよね。


下関からおいしい蒲鉾が届いたので、お年賀のご挨拶を兼ねて友人のもとへ届けにいった。最初に行ったのが、相模大野でカフェレストラン「ラシエット」を経営しているハルコさんのところ。もう1歳4カ月にもなったヒナちゃんがお出迎えしてくれた。かわいい!しかし、赤ちゃんはなんて大きくなるのが早いのだろう。こないだみたときはほんとうに乳児だったのに、もう立って歩いている。

小惑星Ryomichicoの命名記念でこじんまりとしたパーティをしたい。今月17日にその件でお世話になった天文学者の黒田武彦氏が上京なさるので、空いていればと打診したところ、運よく空いているとのこと。逆に「だったらその日にポエトリー・リーディングをしてみない?」と話を持ちかけられた。わたし以外にも、詩を書く人がいて、ちょうど一週間ほど前に「ポエトリー・リーディングを企画してください」と頼まれていたところだという。「グッド・タイミングね」とハルコさん。では、その方と合同でしたらどうだろうということになり、話はとんとん拍子に進む。

音楽とコラボレしたい。さっそく作曲家の高橋喜治氏に連絡をとってみたところ、二つ返事でOKをいただいた。高橋氏は、昨年のクリスマスに新日鐵君津合唱団のクリスマス会で、団員の方が読んでくださった『星の魚』に即興で音楽をつけてくださり「こんどいっしょにやりたいですね」と話していたばかり。こんなに早く実現するとは驚きだ。元旦から、なんと調子がいいのだろう。わたしはしあわせ者だ。


せっかくだから、まだ行ったことのない神社にお参りしようということになり、自転車で大沼神社へ。むかし大沼と呼ばれる沼のほとりにたっていたという神社で、いまも地図を見ると、沼を埋め立てたあとがくっきりと丸く残っている。たくさんいる狛犬がかわいかった。ついでといっては失礼だけど、方向が同じだったので、東逸子さんちに蒲鉾と去年の忘れ物?!を届ける。

さらに自宅に戻って、真理子先輩ご夫妻のところにお年賀の蒲鉾を届ける。そのまま誘われて、わたしと相棒松永とで、お酒をごちそうになる。元旦から、親類以外の人の家でお酒を飲んだのは生まれて初めてかもしれない。ご近所づきあいができてうれしい。真理子先輩の母上とも電話で話させていただいた。小学校時代のわたしを覚えていらっしゃるという。テレビに出演したことも知っていらして、ああ、ずっと覚えていてくださったんだなあと感激してしまった。


写真家の後藤充さんが中西夏之氏を撮った写真が毎日新聞の元旦号に掲載されているというので、キオスクに買いに行ったけれどなかった。実家に電話してとっておいてもらおう。


なんだか人に恵まれた元旦。新年一日目から飛ばしすぎの感ありだけれど、いい年になりそうだ。がんばろう。

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