▲2004年01月の時の破片へ


■31 Dec 2003 大晦日のアイスクリーム


きょうも「31アイスクリーム」に行ってロッキーロードを食べる。チョコアイスにナッツとマシュマロがはいったこのアイスは、わたしの大好物。ほかの種類も食べたいけれど、アイスはひとつしかお腹に入らないし、そのひとつといえば、必ずこれになってしまう。このお店が開店してからというもの、大晦日になるまで、とうとう一日欠かさず通い、毎日ロッキーロードを食べてしまった。

なんていって、開店は昨日。12月30日。どうしてこの年の瀬にアイスクリーム屋さんを開店しなければならないのか、理解不能。どんな利点があるのだか、よくわからない。

開店前、店の前にスヌーピーのこんな看板が置かれていたが、さすがに開店してからははずされた。本部からマニュアル通りに送られてきたのだろう。それをマニュアル通りに掲げたりしないだけの機転はあるのだなあとほっとした。

なんてどうでもいいことを考えているうちに、とうとう2003年は終わってしまうのであった。ろくすっぽ仕事しなかったなあ今年は、と年越し蕎麦を食べながら反省。来年はちゃんとしよう。でも、来年は申年だしなあ。お猿の反省にならないといいけれど。こら、いまからそんな弱気でどうする!

■30 Dec 2003 野川忍教授@東京学芸大学より電話


千葉高校の同級生である野川忍氏より電話があった。彼はいま、東京学芸大学の法学の教授。東京学芸大のHPで名前を見つけてなつかしくなって研究室にメールをしたところ、電話をくれたのだ。声を聞くのも20年ぶりぐらい。「変わらないねえ、その声、高校生の時のまんま」という野川氏。そういう彼自身も、声はまったく高校生のときのままだ。けれども、娘さんはもう小学校4年生になるそうだ。

同級生でなかよしだった菅野也寸志くんは、東京大学助教授となり出家して改名、菅野覚明氏なり、その著作『神道の逆襲』でサントリー学芸賞を受賞、サバチカル休暇で永平寺へ修行に行ったとか、一流企業に就職したSくんは、思うところあって転職、40歳を過ぎてから理学療法士の勉強をして老人福祉施設で働いているとか、いろいろな友だちの近況も聞けて楽しかった。

年が明けたら、会うことを約束。来年にひとつ、楽しい約束ができた。

■29 Dec 2003 万里子先輩とご近所忘年会


ご近所に住んでいる万里子先輩から昨日電話があり、ご近所組で持ち寄りでミニ忘年会を開こうよと提案あり。会場は、なぜかわが家に決定。宴会の連チャンである。万里子ご夫妻と美術商の中西さんとわたしと松永での忘年会だ。

万里子先輩は、千葉大学付属中学校のときの一年先輩。いつものように愛犬メイちゃんといっしょにやってきた。ダックスフンドのメイちゃんがとことこと床を歩き回ると、爪があたって音がする。その音がなんとも懐かしい。ノイも、よくあんな音を立てて歩いていた。猫なのに爪もひっこめず、おかしな子だった。犬のメイちゃんは、あちこち匂いを嗅ぎながらなんども部屋をめぐる。人間以外の生き物が自律的に動いているのって、ほんとうにいい。

最初の乾杯の時に万里子先輩がいった言葉は「来年は平和な年になりますように!」。昨今のイラク情勢にほんとうに心を痛めているのが伝わってきた。話は自然とイラク問題に。万里子先輩とわたしと松永は、イラク派兵反対。夫君と中西さんは賛成説。そのどちらもが戦争はいけないと思っている。ほんとうに戦いのない平和な世界をつくるには、どうしたらいいのだろうか。

■28 Dec 2003 門坂朋氏・大野徹人氏来訪


▼門坂朋氏と絵本打ち合わせ
門坂朋氏、原動機付き自転車で来訪。絵本の打ち合わせをする。出版社も何も決まっていないけれど、勝手に作ってプレゼンしようという主旨だ。実際に紙を折って、本の模型をつくり、ページ立てなど説明する。絵本の場合、平面で書くだけではなく、実際に立体のミニラフをつくってみることがとても有効。ページをめくってみて、はじめてわかることもある。わたしが、どのページに、どんな絵をを思い描いているのか、おおよその説明をさせてもらった。もちろん、今回は「挿画」ではなく、むしろ「挿文」のつもりだから、最終的には朋さんの独自のイメージが全開になればいい。文章も、彼女の作品のキャラを生かすように書いた。どんなラフがあがってくるか、楽しみ。

▼大野徹人氏とヤイサマネナ
そうこうしているうちに、アイヌ文化研究者の大野徹人氏がやってくる。そのままみんなで宴会へ突入。『父は空 母は大地』のCDを聞いてもらう。作曲者は高橋喜治氏で、「ヤイサマネナ」という曲を作った人だというと、さすが大野くん「ぼく、そのCD持っています!」とのこと。アイヌ関連のイベントで手に入れたとのこと。

「ヤイサマネナ」のCDは、北海道の上ノ国町の町興しイベントのためにトヨタカレリア事業室によって制作されたものだと、先日、高橋氏から聞いたばかりのところだった。上ノ国町には、天の川という名前の川があり、天の川伝説をテーマに町興しイベントを仕掛けたという。その時、高橋喜治氏が主催の『北海道と本牧を天の川で結ぶ会』の会の趣旨に賛同してのボランティアとして作曲したのが「ヤイサマネナ」。同名のアイヌの民謡があるが、これは飯島星氏のオリジナルの歌詞による高橋氏のオリジナル作曲だったという。

それから、高橋氏はアイヌ文化にのめりこみ、アイヌ語もかなり学んだとのこと。アイヌの人々を多く撮影した故松実政勝氏の娘さんに巡り会い、その2年後には松実政勝氏撮影のアイヌ写真展も開催。そのときには杉村満さんご夫妻の監修を得たという。また、萱野茂氏からもアドヴァイスを受けたそうだ。さらには、萱野氏からイサマネナの一種と言える"iyohay-ocis"の訳について個人的にアドバイスを受けたこともあるそうだ。

「ヤイサマネナ」のCDは500枚制作されたとのこと。日本中に500枚しかないCDを、大野くんが持っていたとは驚き。というか、アイヌ文化に関わる人々の少なさを考えると、当然の流れではあるのだけれど、それでもやはり驚きだ。

大野くんは家が王子と遠く、ゆっくりできなくて残念だった。こんどもっとゆっくりアイヌ文化の話など聞きたい。朋さんとはご近所なので、ゆっくり話せて楽しかった。

■27 Dec 2003 小林敏也邸の宴会を欠席


きょうは、青梅の小林敏也邸で「宮沢賢治賞受賞記念パーティーに来られなかった人のための宴会」。イオマンテ絵本の打ち合わせも兼ねてご招待いただいたが、欠席させてもらった。連日の遠出や来客ですっかり疲れが溜まってしまったののだ。もちろん、遠出も来客もとてもうれしい。うれしすぎて、わたしがはしゃぎすぎたのがいけなかった。小林さん、ごめん。

体がこわばってしまったので、スポーツクラブへお風呂にだけ入りにいく。バブルバスとサウナのついた大きなお風呂にゆっくりと1時間以上いると、血の巡りがよくなってだいぶ元気を回復できた。

■26 Dec 2003 オーロラ観光モニター落選



オーロラ観光モニターに落選。「ペアで応募すべし」という規定で書いた応募動機作文と応募写真を転載する。
【応募動機】
物理学者の佐治晴夫氏にいわれたことがある。「人生で、見るべきものは3つ。皆既日蝕、ロケットの打ち上げ、そしてオーロラだ」と。皆既日蝕はマダガスカルの海岸で見た。打ち上げはフロリダの宇宙センターで見た。そのどちらも、言葉に尽くせないほどの美しさと感動だった。あとひとつ、見ていないのがオーロラだ。いったい、どんなにかすばらしいものだろう。皆既日蝕も、オーロラも、この地球という惑星だからある自然現象。オーロラは、地球の磁場が地球上の生命を激しい宇宙線から守っていることの証の炎だともいう。この地球に生をうけたからには、死ぬまでにぜひ一度は見ておきたい。大好きな人とオーロラを見る瞬間を共有できたら、どんなにすばらしいだろう。そう思っても、なかなか腰があげられないのは、実は寒さが恐いからだ。赤道に近いマダガスカルやフロリダに行く勇気はあっても、冬のカナダやアラスカに行く勇気が、いまひとつ持てなかった。今回「オーロラ体験モニター募集」を見て、この際、思い切って賭けに出ようと思った。万が一採用されれば、オーロラ観光振興という使命もあるし、なにがなんでも行くしかない。そういうところに、自分を追い込んでみよう!?と思った。果たして運命はわたしに「行け!」というだろうか。
今回、運命は「行け」とはいってくれなかった。けれど、一生に一度は必ず、と思っている。

■25 Dec 2003 七生養護学校「性教育」処分問題/ノイの命日


▼七生養護学校とは
夕方、東京都立七生養護学校で先生をしているタマちゃん(仮名)がやってくる。七生でやってきた子どもたちへの「性教育」が、都議会で「過激」と批判の対称となり、職員約90名中60名近くが処分を受けたという。きょうは、都庁に呼び出され「訓告」をされたとのこと。その帰りにわが家によってくれた。

七生養護学校は、知的障碍児のための学校。元々は、七生福祉園の子どもたちのためにつくられた学校だったという。七生福祉園は、知的障碍があり、しかも親といっしょに暮らせない理由のある子どもたちのための施設。やがて、施設の教育が評判となり、近隣の知的障碍を持つ子どもたちの親が「うちの子も学校にいれてほしい」と要望、いまでは、外部からの通園生が半分をしめるようになったという。

▼自己肯定をできない被虐待児たち
福祉園の子どもたちの生育歴は複雑だ。それぞれむずかしい問題を背負ってきている。その多くが被虐待児で、それゆえの問題行動も多く、教育の現場はほんとうにたいへんだという。

「入ってきたばかりの時には、人間を恐がる子もいるの。そばに行くだけで後ずさる。手を伸ばせば、防御姿勢をとる。どんな暮らしをしてきたんだろうかと、胸が痛みます」とタマちゃん。父兄が学園生活を撮ったという持参のビデオを見せてもらいながら、学校の日常について、いろいろ聞かせてもらった。

顔が歪んで、色が変わっている子がいる。
「この子は、自傷がひどいんです。ほんとうに、自分の顔の形が変わるまで床や壁にぶつけてしまう。他害行動に出られるくらいなら、まだましじゃないかと思えるほどひどいんです。徹底的に自分を傷つけてしまう」

親に虐待されて、自己肯定ができない子がほとんどだという。だから、自分を大切にできない。問題行動を起こして、注目を集めようとする。どこまで許してもらえるのか、大人を試そうとする。乱暴をふるって回りの人を傷つける。或いは、自分で自分を傷つける。すぐにパニックになる。感情をコントロールできない。

他人事とは思えない。自分自身を見ているようだ。

▼自分を大切に、他者にやさしくできるようになるためには
そんな子どもたちを落ち着かせるためには、学校は安全なところだ、みんな愛されているのだ、あなたはあなたでオッケーなのよと、根気強くメッセージを送り続けることだという。

もうひとつ「快」の感覚を体験させることも大切だとのこと。お湯に足を入れてみたり、温かいクッションを抱いてみたり、マッサージをしたり。

というのも、「快」の感覚を知らない子が多いからだ。いつも怯え、緊張して生きてきたので、ゆったりとリラックスして心と体を解きほぐすことを知らない子もいるという。ひどい場合は、四六時中緊張し、筋肉ばかりが妙な発達をしてしまう。
「そんな子に懸垂なんかさせると、すごいの。すいすい。なんの訓練もしていないのにね。でも、寝転がって足をつかんでゆらゆらさせようとしても、できない。体がこわばったまま、体ごと揺れてしまうんです」

▼抽象概念では理解できない知的障碍児たち
こんな子どもたちも、思春期になれば「性」を直面する。急速な心と体の発達は、ただでさえ不安定な子どもたちを、いっそう不安定にさせるという。「だから、性教育が大切なんです。というか、性の問題を、いつでも友だちや先生に相談できる雰囲気作りが大切。その心の交流をつくるためにも、秘密めいた個別指導ではなく、みんなでいっしょに語り合う場を持つことが大切なんです」とタマちゃん。

思春期ばかりでなく、低学年でも大切。というのも、知的障碍児は、トイレの使い方もよくわからない場合があるという。基本的なトイレット・トレーニングができていないのだ。そのまま成長すると、おしっこをするにもお尻を丸だしにしてしまったりと、問題行動に発展してしまう。トイレット・トレーニングは、集団でするのがとても効果的だそうだ。そのために、おちんちんのついたタイツをつくって指導。それがまた、都の教育委員会の気に入らず、タイツは没収されてしまったという。

「人形や模型はわいせつだから使ってはいけないというんです。彼らは、授業の見学もせず、それがどう使われるかも確認せず、教材だけを見て『わいせつ』『まるでアダルト・ショップ』と決めつけている。わたしたちが工夫して手作りしてきたものも含めて、すべてを没収されてしまったんです」
「立体の教材は、わいせつだからいけない。二次元で表現できる絵で教えろ。知的障碍の程度がひどくない子には、それも使うな。言葉だけで説明しろとの通達です」
「でも、彼らには障碍がある。絵や言葉ではわからない。模型を使うことで、理解が進む。それも、アダルト・グッズのように使われているわけではない。心の通う授業をしているんです。それを見てほしいのに」

▼教材の強制没収
七生には、メキシコ製の親子人形があったという。父親にはペニスが、母親にはヴァギナがついていて、子どもたちもそれぞれ性器がついている。もちろん、人形は服を着ていて、普通の人形として使用する。「家族」の温かさを知らずに育った子どもたちに「家族」をイメージしてもらうために、大切な教材だという。その教材さえ、性器がついているからと処分が命じられ、没収されてしまったそうだ。

「調査に入ってきた都議と教育委員、そして産経新聞の記者は、人形のパンツを引きずり降ろして性器をむきだしにし、その格好で11体ずらっとならべて、性器の部分が目立つように写真を撮っていきました。その写真が、新聞にも載ったんです。そして『性器教育』などという見出しをつけた。だれも、そんなふうにして人形を使う人などいないのに」

都議たちは、七生の先生方を異常だと決めつけ「性器のことで頭がいっぱい」などと暴言を吐いたそうだけれど「性器のことで頭がいっぱい」なのはどっちだ!とわたしは、その話を聞いていて思ってしまった。

▼お互いの理解を深めるために
片方から話を聞いただけだから、事実はわからない。都議や教育委員会にも、向こうの論理があるのだろう。それも聞かねばと思いながらも、その横暴ぶりには目を覆いたくなるものがあると思わざるを得ない。納得のいかない教材を使っているのだとしたら、まず、どうしてそれを使う必然性があるのか、どうやって使っているのか、それを調査し、話し合うことが必要ではないだろうか。その手続きもせず、教材だけを見ていきなり没収処分とは、あまりに一方的ではないか。知的障碍児への教育、ということも、健常者しかしらない人々には、はかりしれないものがある。それを理解するところから、問題解決に向かうべきではないだろうか。

七生養護学校では、来年度から、高学年担当の教師の半分以上が転勤を命じられたという。知的障碍や自閉症の子どもたちにとって、慣れ親しんだ信頼のおける先生がいることは、とても重大な要素だ。半分以上も知らない新しい先生の学校生活になじめるだろうか、高学年になってやっと落ちつきをみせてきた子どもたちが、また荒れるのではないか。タマちゃんは、しきりとそんな心配をしていた。「子ども不在」の行政だ。彼らは、そうまでして、一体何を護りたいのだろう。この問題は、ゆっくり考え、見守っていかなくてはと思った。

▼思春期のパッション
タマちゃんとの会話のなかで、心に残ったいくつかの言葉を再録する。

「思春期って、とってもたいへんな時期なんです。わたしが教えた子どもも、半数以上が、その時期を乗り越えられなくて亡くなってしまいました。障碍を持った子どもたちは、急激な心と体の変化に着いていけなくて、二十歳になるまえに、命を落としてしまうことが多いんです。それを見ていると、きっと同じことが健常者の子にも起こっているのだと思う。内側からわきあがるパッションを、どうしていいかわからなくて、性にぶつけてしまう。障碍児は、そのことがストレートに出てきて、人間の生身の姿を見せてくれる。障碍児のことを考えることは、むずかしい思春期を迎えたすべての子どもたちのことを考えることでもあるんです」

「そのパッションをなかったことにして、押さえこみ、抑圧するだけでは解決にならない。パッションの存在を認め、それを開放してやることで、自分でそれをコントロールする力をつけさせること、それが大切なんです。信頼感のなかで、安心して話し合える環境づくりが一番大切。『性は秘するもの』という考え方が、子どもたちを孤独にしている」

「知的障碍児は、性の被害者にも、加害者にもなりがち。だからこそ、しっかりと受けとめる体制が必要なんです」

「知的障碍のある女の子で、誘われればだれとでもセックスしてしまう子がいたんです。いけないこと、とわかっていても、声を掛けられるとついていってしまう。どうしてなの?ときいたら『その時だけは、やさしくしてもらえるから』というので、胸が痛みました。彼女は、被虐待児だったんです。でも、いまの若い子も同じだと思う。心のさみしさを埋めるため、肌の温もりを求めてしまう。愛と性欲の区別がつかない。自分を大切にするということがわからない。このことは、障碍児だけではなく、みんなの問題として考えていかなければならないと思うのです」

▼七生養護学校 性教育に関する処分問題の新聞記事
「知的障害児の性教育は?」(東京新聞2003年11月27日)
「養護学校の性教育、保護者が「人形授業」の復活求める」(読売新聞2003年12月13日)

■24 Dec 2003 「海ほたる」のイヴ



世界文化社の編集者の野見山朋子さんと初顔合わせ。来年の保育絵本での「ことばあそび」を2本、生活物語「すき・きらい」を依頼される。相模大野のホテル・センチュリーのランチ・バイキングをほおばりながらの楽しいおしゃべりだった。

「園で配る絵本は、コミュニケーション・ツールだと思うんです」と野見山さん。「一冊ものの絵本は、そのなかで世界が完結しているものがすばらしいといわれる。けれど、保育絵本はちょっと違う。園で、紙芝居みたいにページを開いて、子どもたちといろんなやりとりしながら読んでいくんです。ベテランの先生になると、ほんとうにすばらしい読み方をしてくださる。表紙だけでも、最初にちらっと子どもに見せて『さあ、何が見えたかなあ』と問いかけ、子どもたちの期待をどんどん盛りあげていく。ほんとうにいろんなものを読みとって、そこから世界を広げてくださるんです。だから、作品として完結したもの、というより、ツールとしてイメージを広げられるようなもの、そこから子どもたちが遊びへと発展させられるようなものが欲しいんです」

なるほど、と思った。あまりにも完璧に完結しすぎた世界は、かえって他者のはいる余地をなくしてしまうのかもしれない。

「しりとり」を一本頼まれたのだが、ただのしりとりではつまらないから「ゆきは しろい。しろいは おさとう。おさとうは あまい」式にしようかと思ったけれど、子どもたちにしりとり遊びをさせたいので、いわゆる純粋なしりとりにしてほしいとのこと。
そうか。それでもやっぱり、何かちょっとだけ仕掛けを考えたくなるわたしである。


新日鐵君津合唱団のクリスマス会に乱入するために、新横浜北口で、作曲家の高橋喜治氏とドロンコ氏と待ち合わせ。3時半、わが相棒松永とともにドロンコ号に乗せてもらって目的地めざし出発する。

ドロンコ氏はアクアラインははじめてとのこと。わたしも、先日、成田空港に行くバスではじめて通ったばかりだ。時間もたっぷりあるし、せっかくだから「海ほたる」で一息入れようということになった。

時まさに夕暮れ。空は深く青く沈み、水平線のまぎわに夕焼けが燃える。青から赤へとグラデーションに染まる天幕を、羽田へと向かう飛行機の明かりが飛び交う。目玉のように輝く前照灯から、サーチライトのように光の棒が伸びている。ぐるっととりまく陸地には、町やコンビナートの灯が美しく輝きはじめる。そして、空にはカシオペアとオリオン。海のまっただなかの人工島もイルミネーションで飾られ、海へとなだれこむ人工の浜辺で、青い光が点滅しながら踊っていた。

シールドマシンの超硬合金の刃が、デッキにそびえたっていた。無数の刃がついた巨大な円盤だ。この刃をぐるんぐるんと回しながら、海中を掘り進めたという。シールドマシンは合計8機を使い、海ほたる=風の塔=川崎のそれぞれの地点から同時に掘り進め、丸2年の工期がかかったそうだ。ということは、もし1機で掘り進めたとしたら、16年の工期を要するということになる。大変な工事だ。刃先は滑らかに丸く磨滅している。海底の岩に磨かれた刃。真下から見上げると、驚くほど大きい。こんなものをつくって、海底を掘ってしまうなんて、人間はなんという変わった生き物だろう。きらめく巨大な刃の向こうに、遠く星が輝いていた。

海のまっただなかで、暮れていく空を眺めながら、持参の自家製パンとチーズ、新横浜で買ったシュウマイで一息。なんとぜいたくなクリスマス・イヴ。ここへ連れてきてくれたドロンコ号とドロンコ氏に感謝。星のまたたく空を見ながら、街路灯に照らされた光の橋を、房総半島へと渡った。


「鉄友会館」は静かな団地の裏の丘に、ひっそりと建っていた。質素であっさりとしていて、町の公民館、という風情だ。三々五々、合唱団の人々が車でやってくる。

会場では、バザーの準備におおわらわ。きょうは、クリスマスの歌を歌い、バザーをし、プレゼント交換会をするという。

やがて開会。みなさんが「歓迎の歌」を歌ってくださる。歌の林の中に迷いこんだよう。すばらしい和声の響きに包まれて陶然となる。ステージから響く合唱を聞くのと、なんという大きな差だろう。声に包まれる感触。もしかしたら、合唱は、歌の林に包まれて歌っているその人自身が、いちばん心地よいのかもしれないと気づいた。

楽譜が配られ、クリスマスの賛美歌をいくつか歌う。わたしも飛び入りで歌わせてもらう。知っている曲もあるし、譜面を見ればおおよそわかるから、知らない曲でも参加できるのだ。こんなに気持ちよく賛美歌を歌ったのは、生まれて初めて! みんなきちんとパートに分かれて、狂いのない美しい和声を響かせている。その心地よいこと!

さらにバザー、そしてプレゼント交換会。ぐるぐる回して、自分にあたった贈り物についているカードのメッセージを読みあげる。贈り物は持ってきたけれど、カードのことまで気づかずに、わたしが入れたカードは白紙。『星の魚』があたった若き男性団員の太田氏に「すいません。よかったら、本の冒頭だけ朗読してください」と耳打ちした。

太田氏はちょうど最後のひとり。立ちあがり「おぼえているよ」と読み始めたその時、高橋喜治氏が舞台に躍りだし、ピアノに座って引きはじめた。即興の音楽で、朗読をコラボレしようというのだ。冒頭だけのつもりが、そのまま本格的な朗読に突入。太田氏は、初見だというのに、感情をこめてすばらしい朗読をしてくださったし、ぶっつけ本番なのに、ピアノとの息も絶妙。そして、高橋氏のピアノの音色のすばらしいこと! その透明感は、まるで天の河の水そのもの。みんな、じっと聞き入っている。感動のうちに朗読が終わると、割れるような拍手! わたしも感激のあまり駈けよって、太田氏と高橋氏に、感謝の握手を求めた。

言葉が、ただそこに記されただけの言葉ではなく、こうやって声になって立ちあがり、音楽を得て語られるすばらしさ。それはまさに、言葉に命が吹きこまれる瞬間だ。なんてすばらしいクリスマスの贈り物!


楽しい2時間半はあっというまに過ぎて、散会。お腹が空いてしまったので、最初に目に付いた道路脇の「餃子の王将」で夕食。クリスマス晩餐としてはあまりにしょぼくてちょっと後悔。

アクアラインで海を渡ると、あっという間に横浜だった。こんなことなら、ちょっと我慢して横浜で晩餐にすればよかった。「帰る前に、ちょっとお茶でも」とファミレスに。
『星の魚』の朗読の興奮さめやらず、話が弾む。話題は、企画中のオペラに。

銀河伝説とオペラにしたい、という高橋氏の意向。二つの文明の衝突に引き裂かれる男女の恋物語にしたいという、わたしのイメージ。オペラは、なるべく単純なものがいい、とわたしは思っている。ある種の定型なものの方が、むしろ音楽や歌とあいまって、ストレートに伝わり、楽しめるものになるのではないだろうか。とはいえ、旧式のジェンダー観にあまりに捕らわれたパターンにはなりたくない。悩むところだ。定型が、ステレオタイプではなく、アーキタイプになる深さを持つようになればと思う。

などと語っているうちに日付が変わって25日の午前4時。心やさしきドロンコ氏にわざわざ相模大野まで送ってもらった。感謝。おかげですばらしいクリスマス・イヴになった。


車を降りる時、ああ、ちょうど一年前の今頃、ノイちゃんが息を引き取ったなあと思った。あれは25日の夜だった。わたしの腕のなかで。あの夜は、ノイは一晩中痙攣の発作に苦しんでいた。あまりの苦しみに見るに見かね、夜が明けたらお医者に来てもらって安楽死をと決意したその矢先、ノイは自ら旅立っていった。まるで、わたしに安楽死という心の呵責を残させないように。最後の最後までがんばり通し、そして自ら逝ったノイ。なんというやさしい魂だっただろう。外の世界も知らず、ひたすらわたしを見て生き、そして逝ったノイ。すべてをわたしに捧げてくれたといってもいい。ノイは、いまどこにいるのだろう。いつかわたしのいく場所に、ノイがいて、メイもいてくれるのかと思うと、心安らぐ。メイとノイがいる場所にいくまでのひととき、わたしはこの地上にとどまって、もう少しやりたいことをやらせてさせてもらおう。そして、いつか、彼らのもとにいって、永遠の遊びの時間のなかを自由に泳ぐのだ。

■23 Dec 2003 日記一気書き


相棒の母上より、毎年恒例の手作りクリスマス食品、届く。手作りのシュトーレン、クッキー、レモンケーキ、オレンジピール、チョコレートケーキ、そして庭で採れた文旦と柚の実とレモン。手作り品はどれもおいしくて、果物は新鮮。なんというゴージャス。感謝感謝。またダイエットが遠ざかる。

書かずに溜まっていた9月・10月分の日記をまとめて書くという暴挙に出る。まるで、夏休みが終わりかけたころの小学生。

■22 Dec 2003 カルフールまで自転車で


このごろ食べ過ぎだし、運動不足で体が重いので、思い切ってカルフールまで自転車ででかけた。空がとても澄んでいてきれい。川の風はかなり冷たい。南町田のグランベリーモールは、クリスマスのイルミネーションでとてもきれいだった。

「GAP」でセールをしていた。裏地に編み込みのセーター地がついたGジャン、わたしのお誕生日の頃、欲しいなと思ったのだけれど、定価14000円もして見送っていたものが、なんと6000円ちょっとに値下がりしていた。もちろん、買った。うれしい。久しぶりにユニクロ以外の店で服を買った。夏に、アン・フォンテーヌで白いブラウスを買って以来だ。それが「GAP」というのは、世の中的に見れば五十歩百歩だろうが、本人的にはやっぱりうれしい。うれしいけれど、ちょっと腑に落ちない。どうして14000円が6000円になるんだ?! 半値以下じゃないか。だったら、最初から適正価格で売ってよ!

インド式の辛いピクルスや、食料品を買って帰る。骨付きラムが値引きになっていたので、思わず買う。これをオリーブ油とニンニクと岩塩とでマリネして炙ると、すごくおいしい。うーん。痩せるためにきたのに、ますます太りそう。

■21 Dec 2003 高井富子&白石かず子@岡本太郎美術館


▼高井富子&白石かず子
版画家の久保卓治氏に招待していただき、岡本太郎美術館の「高井富子&白石かず子」の暗黒舞踏と詩の朗読のパフォーマンスに出かける。岡本太郎美術館では、現在「肉体のシュルレアリスム 舞踏家土方巽抄」展を開催中、その一環のイベントだ。

100席ほどある会場は立ち見も出てぎっしり。若い人、外国人も姿も多い。高井氏は花嫁の角隠しをつけて登場。いかにも暗黒舞踏らしいゆっくりとした所作で踊る。「高砂や」が流れ、それが婚礼の場面であることがとても説明的に説明され、さらに、初夜がやってきたことがその動きでわかる。そして、赤子の誕生。

これが、もしも説明されなかったらどうだろうかと思いながら見ていた。「高砂や」と「角隠し」がなかったら、それでも婚礼に見えたか。その後の踊りに、意味を読みとれたか。

いや、衣裳と音楽とすべてを含めて「舞踏」なのであり、肉体そのものの動きだけを抽出するものではない、という意見もあるだろう。とはいえ、わたしにはこの舞台はあまりに「説明」に依存しているように思えた。

やがて、そこに白石かず子氏の朗読が重なってきた。「ひいらひらひら、と雪が降る」と歌うように語る白石かず子氏の声の迫力はすさまじく、もうそれだけで「ごめんなさい。参りました」という感じ。青森の、雪吹きすさぶ寒村の風景へと、一気に引っぱりこまれた。ここでは、確かに言葉は説明を超え、音そのものになって、わたしたちを荒れ果てた怨念の風景へと誘うように感じられた。

しかし、カナダ生まれの白石かず子が、なぜ青森か。そこのところが、よくわからない。貧しく、貧しく、貧しい怨念の風景。それは、わたしの頭脳に刷りこまれた最果ての地の貧しく寒い風景にぴったりと重なる。実際に、そのような貧しさなど、目にしたこともないのに。もしかしたら、それは一種の「オリエンタリズム」の変形ではないか。そんな疑念が、頭をかすめる。

暗黒舞踏の動きはゆるやかで、時計の針のようにしか動かない。少し目を離していても、目を戻せばさきほどと大差ない。こらえ性のないわたしは、飽きて辺りを見回した。すると、やはり同じようにきょろきょろしている白人と目が合ってしまった。この外国人以外は、みんな舞台を食い入るように見つめていて、異様な緊張感が会場を支配していた。

やがて舞台が終わると、高井富子氏が、舞台の袖に降りてきて、日傘を差しかけ、右脇の通路を歩いていく。そのまま退場かと思いきや、そこに大野慶人氏の姿が見えた。はっとすると、大野一雄氏の車椅子を押している。そのまま、車椅子は舞台へと押されていった。高井氏は、舞踏の大きな所作で、涙を流す踊りを踊りながら、車椅子につきそって舞台中央へと上がった。

思いがけない大野一雄氏の登場に、場内はさざめいた。そして、固唾を呑んで舞台を見守った。

白石かず子氏が大野一雄氏の足許にかけよる。大野一雄氏は、白石氏の手をしっかり握りしめ、さらにその腕を両手でひっぱるようにして彼女を引き寄せる。そして、そのままなかなか離そうとしない。上を向き、感極まった表情をしている。その生きているという迫力。ああ、この人は枯れていないのだと感じた。白石氏、といより、美しい女性の手を握りしめる生命の強さがある。それがいまも衰えることなく燃えている。そんなふうに感じさせられた。

高井氏が、大野一雄氏に踊りの小道具である日傘を持たせようとするが、手に力がはいらないのか、他の理由か、大野一雄氏は、なかなか日傘を持とうとしない。持っても、いまひとつ力が入らない。

やがて、手から日傘を離した大野氏は、音楽がひときわ大きく流されるのに応えるように、掌をひらひらと宙に舞わせた。一瞬のことではあったけれど、まるでそこから光が放射されたように感じた。自由な、まばゆい踊り。華がある。確かにそこには、常人には及ばない光がある。

それは、大野一雄氏が、かつて一世を風靡した名舞踏家で、いま、車椅子の老人となりはてているという物語があっての感動とは、また違うものだった。彼が大野一雄であろうとなかろうと、あの手の動きは、人を魅了する。一瞬の眩い輝きを感じさせずにはいられない。

ああ、そういう人なのだ、とわたしは思った。現役時代の大野一雄をわたしは見ていない。だれもが、すごかった、尋常の迫力ではなかったという。きっとそうなのだろう。車椅子の上の一瞬の手のひらひらでさえ、あれだけの光と華がある。そういうものを、心と体の芯から発する天性の踊り手なのだろう。

きょうの舞台は、大野一雄氏の思いがけない登場で、大いに湧いた。みんなが来てよかったと思っただろう。そして、ある種の興奮を抱いて戻っていったことだろう。けれど、その感動の半分は「一世を風靡した舞踏家が、いま車椅子の老人となり、それでもまた踊ろうと手をひらひらさせる」という、暗黒舞踏の歴史を踏まえたうえのものであったかもしれない。

それでいいのか、という思いがある。ある共通の歴史を共有することではじめて感動が可能であるならば、それは「オタクの文化」だということだ。開かれていない、閉じた文化でしかないということだ。しかし、その閉鎖性をぶち破る威力が、大野一雄の掌にはあった。それがだれであろうと、驚きに目を見張るような新鮮さがあった。あの年齢になり、あの体で、そこまでの光を放てる大野一雄という舞踏家は、やはり並の存在ではない。改めて、そう思う。そして、それにふっとばされて影が薄くなってしまう現役の踊り手というのは、どうだろうかとも思わずにはいられなかった。

▼メガスター打ち合わせ
帰りに川崎市青少年科学館によって、来年のメガスターの番組制作の打ち合わせをする。科学館広報には、すでに「メガスター物語」がばっちり印刷済み。早く制作に入らなければ。

▼小宴2003
インド直送スパイスによるカレー・パーティ。久保卓治氏も急遽参加となる。久保卓治氏と門坂流氏は、実は美大浪人時代の研究所からの知り合いだという。しかも、久保氏は東林間のグリム書房のお得意さんでもある。村山氏も、実はグリム書房に出入りしていたとわかり、びっくり。どうも世間が狭すぎる。

用意した鳥肉カレー、ほうれん草カレー、レンズ豆のカレー、なすと挽き肉のカレーの4種類のカレーの他に、タンドーリチキン、タマネギとパプリカのカチュンバル(レモン汁あえ)、じゃがいもとグリンピースのスパイス炒め、プリ、サフランご飯、きゅうりとタマネギのライタ(塩味ヨーグルトあえ)、チャイなどをつくる。インド料理のフルコースだ。村山氏はパキスタン留学経験がるから当然だとしても、久保氏まで料理に詳しくて、わたしが台所に立っていると、作り方の指令が飛んでくる。エスニック料理にこんなに詳しい人がふたりも揃うなんて、驚き。おかげで勉強になり、おいしい料理が感性。

村山氏が、サフランご飯の上にカレーを数種類のせ、ライタもまぜて、なぜかしきりに首を傾げていた。「変な味、しますか?」ときくと「いや、どうしてこんなにおいしいのかと思って。これ、皿の上で全部混ぜると、信じられないくらいおいしいですよ」

自慢じゃないが、ほんとうにおいしかった。久保氏と門坂氏の舌戦も好調で、実に楽しい会だった。

■20 Dec 2003 オーロラ観光モニター応募



カナダ政府が、オーロラ観光を振興するために、モニターを募集中。作文して応募した。
当たるといいなあと思いながらも、寒いだろうなあと、いまから心配。


明日、田所氏が門坂流氏を連れてわが家に遊びに来るというので、ささやかな宴を持つことにした。インド直送のスパイスを使ってのカレー・パーティだ。インドつながりで、和光大学の中央アジア文化研究者の村山和之氏もお呼びした。鳥肉カレー、ほうれん草カレー、レンズ豆のカレー、なすと挽き肉のカレーの4種類を仕込んだ。

■19 Dec 2003 キロロアン 高木喜久恵氏講演


夕方5時から、八重洲のアイヌ文化交流センター下のスターバックスで、フレーベル館の編集者と、イラストレーターの鯰江光二氏と打ち合わせ。来年一冊もので出る保育絵本「ほしのメリーゴーランド」(完全版)について話し合う。天体写真を入手できるかどうかが鍵。わたしが手配することになる。

7時からは、アイヌ文化交流センターの文化講座「キロロアン」。キロロアンとは、アイヌ語で「楽しい、うれしい」という言葉。きょうの講師は、白糠でアイヌ文化復興運動をしている高木喜久恵さん。高木さんは、リトさんや恵さんがいる「シノッチャの会」のリーダーでもある。

アイヌの血を引く両親も元に育ちながらも、ムックリの存在を知ったのは、なんと20歳を過ぎてから阿寒湖のアイヌコタンで、とのこと。アイヌであることが差別の対象であった時代、アイヌ自身が、アイヌであることを遠ざかろうとしていたなかで、高木さんは育っている。ほんとうはお父さんはアイヌ語を理解し、古い話もたくさん知っていたのに、残念だとお話ししていらした。

白糠のアイヌ文化復興運動は、だから、失われた踊りや歌や物語の発掘からはじまったという。黙っていれば、老人たちは知っていても口を開かない。それを聞き出すところからのはじまりだったそうだ。そして、時には生きた人間よりも、役場に残された和人による古い記録から、アイヌ文化の姿を知ったという。彼女のアイヌ語も、両親から伝わったものではなく、萱野茂氏の本を見て勉強したものだそうだ。

たった一代、途絶えるだけで消えてしまう言葉と文化。だからこそ、大切にしなければならない。

講演の後、顔見知りの人々とビールを一杯。わたしがイオマンテを題材にした絵本を制作中との話をした。できれば、たくさんの人に見てもらって、意見を聞いてから形にしたい。そう思って投げかけたのだが、きょうは「和人がイオマンテのことを書くのは不謹慎。まちがっている」「熊の命を奪うシーンを書くのはまずい。それでアイヌが残酷だと差別されたらどうするつもりだ。責任がとれないではないか」という意見が2人の人から出た。まず、原稿を読んでから批評を願ってけれど、原稿を読むまでもなくそれは書いてはいけないことだと却下されてしまった。

そういう意見もある。そういうデリケートな問題であるということを肌身で感じた。そのことを念頭において、さらに多くの人の意見を聞いていきたいと思った。

■18 Dec 2003 デコーダー復活


WOWOWのデコーダーが届き、旧セント・ギガもWOWOWも復活。めでたしめでたし。

■17 Dec 2003 みんぱくエッセイ執筆


大阪の国立民族学博物館で来年はじめから「アイヌからのメッセージ―ものづくりと心」という展覧会がある。博物館が出している冊子「みんぱく」の2月号巻頭エッセイを頼まれていたので、その原稿を書く。みんぱくの担当者は、どこから聞いたのか、わたしがアイヌ民話の新しい絵本を制作中であることを知っていた。つまり、狭い世界なのである。言い換えれば、層が薄い。わたしのように、ただ一冊、アイヌ民話の絵本をつくっただけの人物に、巻頭エッセイの依頼が来るなんて、その層の薄さを如実に物語っている。そんななかで文化復興をしていかなければならないアイヌの人々は、たいへんだ。しかも、文化の背景となる「森」という自然もすべて奪われたなかので文化復興運動だ。都市のなかで、どうやって「アイヌプリ=アイヌらしさ」の心を取り戻していくか。それが可能なら、それは民族を超え、わたしたちの宝になっていくだろう。迷える都市文明に、新しい道を示唆してくれるものになるに違いない。

執筆の合間、ご近所の和子さんが、おじさまの35日法要のための買い物があるというので、おつきあいした。あれやこれやと、結構時間がかかる。80歳の女性ひとりで、すべての買い物をして、家に持ち帰るのは不可能に等しい。「遠くの親類より近くの他人」というけれど、独居老人を支えるのは、やっぱりご近所のコミュニティだ。隣りに関心のない冷たさが心地よい都市だけれど、それだけではやっていけない。互いに適度な距離を保ちながら、しかもコミュニティとして機能していく豊かな都市生活をつくっていくには、どうしたらいいのだろうか。

■16 Dec 2003 旧セント・ギガ事情


旧セント・ギガのデコーダーがついに寿命で昇天。いまだに流されている桶谷さんといっしょにつくった番組が聴けなくなってしまった。セント・ギガの会社はなくなってしまったし、開局当初の専用デコーダーを修理してくれるところもない。あの手この手で考えた末に、WOWOWのデコーダーにすでに組み込まれているセント・ギガのデコーダーを使用、承認番号を変えてもらうことにした。幸い、WOWOWではいま、デコーダーを無料配布しているので、WOWOW視聴用には、それを送ってもらうことにした。

しかし、旧セント・ギガでは、今年10月はじめに新しい会社になってから、契約者の新規募集もしていないし、その契約書すらいまだにできていないという。だから、新しいデコーダーを手に入れることも、修理することもできないというわけだ。一体、どうするつもりだろう。新会社は設立時に、ベンチャー・ビジネスとして莫大なお金を集めたという。そのお金を関連会社に流しながら、放送局はこのまま放置して倒産、というつもりだろうか。だとしたら、ひどい。実際、いまの会社になってからも、相変わらずセント・ギガ時代に制作した番組が流れている。わたしの詩は、なんとこの12月には50本も放送されるという有り様だ。ノーギャラどころか、再使用の連絡さえない。これで、放送免許がおりるのだから、お役所もどうかしている。

■15 Dec 2003 桶谷さん命日


ずっとほったらかしになっていた新しい保険証を市役所の出張所に取りに行った。カード式になっていて驚いた。

きょうは、桶谷さんの命日。いろんなところで、いろんな人が、桶谷さんのことを偲んでいるだろう。わたしは今年もセント・ギガの詩集をまとめられなかった。ごめん、桶谷さん。来年はきっと。

■14 Dec 2003 双子座流星群


双子座流星群。深夜になって「流星、見ました!」の掲示板の書き込みを見て、がまんならずに隣のS女子大のグラウンドに侵入、まんなかに寝転がって流れ星を見る。1時間あまりで16個の流れ星を見た。

アリゾナのインディアン居留地で、降るような星を見たとき、毎晩、こんなすごい星空の下で暮らしていたら、人生の意味はさぞかし変わってくるだろうと思った。ゆっくり星を見る時間、というのは、それだけで贅沢な時間だ。自己を超えた、遥かな時間や空間に思いを馳せることができる。

この時期になると、いつも桶谷さんのことを思いだす。桶さんが息を引き取ったという知らせを受けたあの朝、空は雲ひとつなく晴れ、12月だというのに穏やかでうららかな日だった。窓際で光を浴びながら泣くわたしのそばに、寄り添うようにしてノイがいてくれた。ノイは、いつだってわたしが泣くと、そばにきて慰めてくれた。

そのノイも去年のクリスマスに息を引き取ってしまった。例えそれが天寿だとしても、永久の別れはつらい。それなのに、人はどうして「大義」の名のもとに、人を殺し続けるのだろう。

■13 Dec 2003 和光大学「アジアン茶屋」


▼アジアン茶屋
和光大学は、アジア文化研究の分野で名高いばかりでなく、実際にアジア各国から多くの先生方を招いている。モンゴル民話を題材にした『青いナムジル』の監修をお願いしたバー・ボルドー氏も、そのひとりだ。アジア文化に関わるさまざまな人々が集まってのイベント「アジアン茶屋」の催しがあるというというので、でかけた。

ネパール、チベット、上海のぎょうざ。モンゴルや中央アジアのチャイ。インドネシアのお菓子。日本からは抹茶など、さまざまなエスニック料理がただで食べ放題! しかも各地の地酒もふるまわれ、各国からの留学生たちも一堂に会して、とても楽しい催しになった。こうやって、個人レベルで草の根交流をすること。それがなによりもの国際親善であり、国際理解だ。遠い国に、ひとりでも知り合いがいたとしたら、だれがその国が戦火に見舞われることを平気でいられるだろう。こうやって、少しずつ人と人の網の目をつなげ、強くしていくことも、平和への大きな力になると確信した。

▼和光大学石碑問題
三橋学長がいらしていたので、前からいいたいと思っていたことをぶつけてみた。この春、和光大学の入り口の坂下に、巨大な庭石がふたつ、置かれた。そのうちの左側のひとつは、歩道の3分の2を塞ぎ、交通の邪魔になっている。なんと、歩道のアスファルトを削って設置しているという乱暴さだ。左の道は、駐車場からの上り口だというのに、車椅子の通る幅もなくなってしまった。目の悪い人の歩行の妨げになるばかりでなく、目のいい人にとっても邪魔だ。

この石は、いったいなんのため?と思っていたら、先日「和光大学」という文字が彫られたので、驚いてしまった。裏を見れば、三橋学長の揮毫であると記されている。これでは、和光大学が弱者無視の大学、と看板を立てているようなものではないか。

寮「……ということなんですが」
三橋「ああ、そのことは聞いてます」
寮「でしたら、あの石が舗道にかからないように、後ろにさげていただけないでしょうか」
三橋「さげたら、後ろにひっくりかえっちゃうでしょう」
寮「だったら、補強工事をするなりなんなりして、さげていただけませんか」
三橋「お話は確かにお伺いしました」

というわけで、検討してくださるともなんとも、おっしゃってはいただけなかった。あの石は困ったもので、なんとかしなくてはという問題意識が三橋学長にあるようにはお見受けできなかった。「名前」という権威のために、入り口に巨大な石を置いて、歩行者や障害者の通行を妨げる。それが「当然」だと思われるなら、大学はずいぶんファッショ化しているとしか思えない。世の中、どんどんファッショに傾いているように思えてならない。

▼星兎流星群
暗くなった帰り道、目の端を流れ星が駈け抜けたような気がして、そうだ、双子座流星群だ、と思いだした。街灯の明かりが目に入らないように、鶴見川へ下りていく坂道までいって寝ころんで、ひとりで20分ほど空を眺めた。流れ星は見えず、空を行き交ういくつもの飛行機の明かりが見えるばかり。

それでも、空を見ている時間はよかった。宇宙を巡る長い長い旅を終えて、たったいま大気圏に突入し、燃えて光を放つ小さな星の欠片。大気圏上空までの遠い遠い距離を、何とか想像しようとすると、なぜか孫悟空とお釈迦さまの掌の話を思い出しておかしかった。「COME ON! 流れ星。大気圏突入!」って何度も呼びかけたが、流れ星は応えてくれなかっ。話し相手もいなかったので、ひとりで即興の歌をつくって歌った。余りにも単純なセンチメンタルな歌。

流れる星の 降る夜は
遠くへいった 人を思う
ここには いない
どこにも いない
どこへ行ってしまったんだろう
もしも はるかな空にいて
わたしを 見ていてくれるなら
どうか いま 流れ星になって
ここにいるよと 応えてよ

12月15日は、星兎の日。地球をけっとばして跳んでいった星兎は、いまごろどこにいるんだろう。寒さに震えて立ちあがり、道に戻ると、クリスマスの飾り電球が、赤や青にせわしなく点滅していた。こんな偽物の星でもいいから、いっしょに見たかったなあ、桶さんと。

■11 Dec 2003 和光大学「身体表現とパフォーマンス」公演


▼「物語の作法」ネットリテラシーについて考える
和光大学「物語の作法」冬休み前の最終講義。古内旭くんの「森乙女と呪い」の合評をするつもりが、古内くん、急遽仕事で来られなくなると連絡あり。彼は、実は勤労学生。きちんと就職しながら、大学にも通っているというすごいがんばり屋なのだ。

内容を急遽変更。和光大学の表現文化学科のHPがリニューアルされたのに伴い、「物語の作法」HPと、寮美千子個人HPへのリンクが削除されて消えてしまった。リンクを頼んだところ、担当の野々村文宏氏からリンク拒否現在はあえてリンクをしない旨のメールが届いた。「リンクするにはコストがかかり、いま、その手間をかけられない」「リンクすると、いった先から表現文化のHPに戻ってくれなくなるのが心配」「リンク先が大学内のサーバーにない」「『物語の作法』HPは受講者向けであり外部にむけたページではない」というのがその理由だ。わたし自身は納得できないものばかりだが、その件について、学生諸君はどう思うかをまずわたしの意見を伏せた状態で聞いてみいと思い、これを題材に、ネットリテラシーについて考えるという授業にした。
※赤字は和光大学表現文化学科ウェブ担当教員・野々村文宏氏からの抗議により訂正(17Feb.2004)

表現文化学科HPの制作を、学生にやらせようという意見もあったそうだが「能力がない」を理由に、そうならなかったという話を聞いたことがある。しかし、きょうの学生たち話を聞いていると、学生はネットリテラシーがわかっている、というか、使っているうちに体で覚えているように感じられた。実際に自分のHPを持っている学生も何人もいる。やってやれないわけがないと思う。「表現文化」と名のつく学科のHPなのに、授業のページへのリンクもないのは、やはり情けない。
※野々村文宏氏より「学生にやらせなかったことは事実だが、理由は別にある。事実誤認であるので、日記を訂正してほしい。裏を取らないで、伝聞で書くことはネットの礼儀として許されない」と口頭で強く抗議があったので、これを訂正する。(6 Jul.2004)

▼「身体表現とパフォーマンス」公演
午後は、関根秀樹氏に誘われて池袋の国際ミネラル・ショーに行く予定だったが、学内で表現文化学科「身体表現とパフォーマンス」の公演があるというので、急遽変更、そちらに行くことにした。

これは、昨年から授業をしている大橋さつき氏の授業の成果の発表会。平たくいえば、創作ダンスの発表会だ。面白かった。発表したのは42名。グループに分かれ、書くチームの発表をするとともに、最後には全員で群舞、迫力であった。

しかし、いちばん感動したのは、最初のプログラム。太鼓を叩く所作を取りいれた、和風エスニックなダンスで、リズム感が重要。ばちを振り回しながら、相手のばちにあてて音を出すなどという高等技術を必要とする部分もあり、呼吸が合わなければ到底出来るものではない。相当の練習が必要だったと思う。そのむずかしいダンスに、実は全盲の学生がひとり、混じっていた。最初は、全然気がつかなかった。ちょっと動きが鈍い子がひとりいるな、と思ったくらいだ。ところが、半分を過ぎたくらいからようやく、その子の目が見えないのではないかと気づいた。そう思って見ると、動くときに隣の人が軽く肩を叩いて合図をしたり、動く方向を示したりしている。それが、あまりにさりげないので、気づかなかったのだ。

目の見えない彼の役どころも、実によく計算されていた。といっても、いわゆる特別扱いではない。みんなのなかのひとり。しかし、必要以上の負担がかからないようにさりげなく工夫されている。だから、目が見えなくとも、それが目立たない。ほかの子と同じようにダンスを踊っているようにしか見えない。

そういうダンスを、彼らは頭を寄せあって、みんなでつくっていったのだ。そして、ここまで自然に出来るまで、練習を繰り返したのだ。そう思うと、胸がいっぱいになって、涙が止まらなかった。

全盲の学生は、最後の42名の群舞にも加わった。この振り付けは、指導教員がしたという。ここでは、最初のプログラムと正反対で、彼が「見えない」こと自体をひとつの個性としてダンスに取り入れていた。彼を中心に人が集まる。彼は、ただ天を指さして中央に立つ。あるいは、彼はすっと後ろに棒のように倒れる。すると、学生たちがそれを支える。信頼なしには、彼は倒れられない。それを表現していた。

けれども、わたしはその群舞よりも、やはり最初のプログラムがよかった。彼を特別扱いしないで、どうやってうまくやっていくか。極限まで考えられたそのダンスが心にしみた。障碍を持つ人とのつきあいは、こうありたいとわたしが思うひとつの理想の姿だ。差別意識のない、平明で澄んだ心のなせる技だ。そんなことを、まるで当たり前のように実践している学生たちがいることに、大きな驚きと希望を感じた。「いまどきの若者はだめだ」とか「能力がない」と平然という教員たちがいるけれど、彼らは、学生たちのこんな姿を見たことがあるのだろうか。いや、見てもわからないのだろうか。すくなくとも、そのように言う教員たちが、この発表会に顔を見せていなかったことは事実だ。

■10 Dec 2003 語り合うスキルの向上


共同通信の谷さんから久しぶりに電話がある。ロサンジェルス赴任から戻っていらしたとのこと。自衛隊のイラク派遣の件、何か発信せねばと思っているけれど、「家庭・生活」からどのような切り口で発信できるか考え中、とのことだった。イラクの子どもたちに直接接してきた、映画監督の鎌仲ひとみさんを紹介した。

掲示板に、どのように返答すべきか悩んでしまうような投稿があり、その返答のためにかなりの時間を割く。返答をせずに放置すれば、わたしの良識が疑われるし、単に削除するのでは、なぜ削除したのか、それを投稿者にもみんなにも理解してもらうことができない。掲示板で「語り合うためのスキル」を高めるためには、やはりひとつひとつ丁寧に返答していかなければならないと思う。新しい読者が次々やってくるので「語り合いの流儀」を理解しない読者も次から次に出てきて、叩いても叩いても出てくるモグラ叩きのような面もあるけれど、やっぱりそういうところから少しずつ「考えるスキル」「語り合うスキル」を互いに磨いていくほかない。そうやって人々が自分の頭で考えるようになり、語り合う言葉を持つようになることでしか、世界は変わらない。こんな時必ずチベット人のペマ・ギャルポ氏の言葉が思い出される。

「わたしのしていることは、流れを変えようとして、激流に小石を投げ入れるようなことでしかない。けれども、たゆまずそれをし続ける以外に道はない。どこまでも小石を投げ続ければ、いつの日か流れは変わるだろう。それは、わたしが死んだ後かもしれないが。その日のために、わたしは小石を投げ入れ続ける」

■ 9 Dec 2003 小学館&パロル舎へ


小学館の編集者のS氏、画家の門坂朋氏と学士会館で昼食。さすが学士会館、おじいさまが多い。ちょっと前まで、ランチはやわらかくて薄塩のものばかりだったという。最近、地下から一階に場所を移したため一般客が増え、味付けも普通になったそうだ。天井の高いレストランが気持ちいい。いまどき、これだけ贅沢で落ち着いた空間は少ない。貴重な場所だ。

先日却下された「あいうえおうた」が「小学一年生」の編集部に回っているというので、その編集者W氏に会う。久しぶりに会うと、髪の毛が炎のように逆立っていた。文字どおりの燃える編集者なのかもしれない。原稿はまだよく読んでいないとのことで、雑談して帰る。

朋さんといっしょに、ぶらりとパロル舎を訪れる。珍しく社長の石渡氏がきていた。顔を見るなり「やあ、こんどは払おうと思っていたんだけれど、また金がなくなっちゃったよ」という。同じビルの同じ階の喫茶店が閉店したので、その空間を借りてパロル舎を拡張するとのこと。拡張はすばらしいが、印税を払ってくれればもっとすばらしい。

以前、パロル舎に紹介した画家の松本潮里氏の作品を、編集者のK氏が気に入り、何か形にしたいと相談を持ちかけられた。彼女の絵に少女をテーマにした短編の幻想小説をつけたら似合うと思うのだが、どうだろう? いつもとがらっと変わって、そういうものを書いてみたいという欲望も、実はわたしのなかにあるのだ。

遊びに来た写真家の上條さんに誘われて、朋さんといっしょにゴールデン街の「ガルシアの首」という店に行く。上條さんは若かりしころ、写真家の北島敬三と仲間だったという。パロル舎はごく初期の1980年に、北島敬三氏の「写真特急便(東京)」という写真集を出している。北島氏はそのころ毎週(!)個展を開き、パロル舎はその写真を毎週(!)印刷して雑誌のように出していたそうだ。それも制作費をとらずに! それをまとめたのが「写真特急便(東京)」という写真集らしい。なぜ、そんなことが出来たのかといえば、石渡氏は企業のリーフレットなどを請け負い、ページ数がを印刷台一台にわずかに足りないように製作、印刷台の一部が空くようにして、そこに写真の版をいれ、便乗してタダで刷っていたという。若くて情熱に満ちた時代があったんだなあ。

「ガルシアの首」というのは、サム・ペキンパーの映画のタイトルらしいが、わたしはまだ見ていない。わたしたち以外にはお客はひとりだけ。身なりのきれいな上品な中年女性が、ひとりで悠然と飲んでいた。どんな素性の人なのか、さっぱり見当もつかない謎めいた風景だった。

■ 8 Dec 2003 「詩と思想」座談会原稿直し


先日の「詩と思想」三月号のための座談会原稿、一色真理氏が驚くほどの速さでしあげて先週メールしてきてくださった。会社の仕事もあるのに、驚きだ。週明けに戻すと約束したのに、がっくりしていて結局できなかったので、きょう、がんばって直しを入れる。

「ファンタジー」というテーマで、『ハリー・ポッター』『指輪物語』をはじめとする昨今のブームについての話が欲しかっただろうに、わたしがもっと根源的な話にふってしまったので、かなり硬い座談会になってしまった。ごめんなさい、一色さん。

しかし、読み返してみれば、ファンタジー・ブームだからこそ、そこのところはきちんと押さえておく必要があったとも感じた。もっと軽くて楽しい話を予想していた読者を裏切ることになるかもしれないけれど「詩と思想」なんていう雑誌だし、許して。

■ 7 Dec 2003 ガス給湯暖房装置交換


ガス給湯暖房装置が十五年目にして壊れてしまい、交換工事。先日も部品交換して二万円も払ったばかりなのに、丸ごと交換しなければならないとのことで三十二万もかかる。夏なら水風呂でなんとかするところだけれど、冬だからどうしようもない。年末に思わぬ出費でキツイ。

相変わらずがっくりきている。馬渕公介氏に電話して愚痴をきいてもらおうとしたら、馬渕氏は「おひさま」より来年の24頁ものの創作を依頼されていると判明。すでに夏に依頼があったという。リニューアルの話も、その時、きいているそうだ。わたしは完全に蚊帳の外。まったく評価されていないということか? ますますがっくりきてしまう。馬渕氏、やさしく励ましてくれる。

■ 6 Dec 2003 牧ちゃんよりチョコ届く


きのうの「おひさま」の件でがっくり。何もできないので、ごぶさたしていたメーリングリストにいくつか投稿する。「漂流物」にはインドで石を拾った話。「プラネタリウム」にはメガスターのプレゼン番組を作る話。「科学ジャーナリズム」には、朝日新聞が「宇宙の半径は百四十光年なので、直径は二百八十億光年」と書いた、という話。科学欄の担当記者がこういう間違いをするのだから、すごい。やっぱり「あいうえおうた」が気になり、直しをいれてみる。

友だちの絵描きの牧美恵子さんから、おいしいチョコレートが届く。牧ちゃん、どうしているかなあと思っていたところだったので、気持ちが通じたような気がしてうれしかった。さっそく電話。「あいうえおうた」の一部を聞いてもらうと、面白がってくれた。彼女が美術を教えている小学校で、子どもたちに聞かせたいといってくれる。子どもたちの反応も知りたいので、さっそく送ることにした。やはり小学校で教師をしているもうひとりの友人、生方ヒロノさんにも送ろう。

■ 5 Dec 2003 鯰江光二氏個展@東京駅大丸


小学館へ。「おひさま」に「あいうえおうた」のプレゼンの結果をききにきた。編集のM氏に会うが、あっけなく却下されてしまった。琴線に1ミリもふれなかったらしい。「おひさま」は来春からリニューアルで、24頁ものの物語を毎月ひとついれるそうだ。わたしにはまったく話がなかった。ラインアップに入れてもらえなかったということだ。ショック。「おひさま」では「おひさま大賞」の審査員をしている。評価されない作家が審査員をしていていいのだろうか?

寮美千子と鯰江光二氏ベテラン編集者のS氏と学士会館でお茶を飲む。新しい雑誌の企画の話をきかせてもらい、とても面白かった。いま、必要とされている企画に思える。しかし、実現にはさまざまな壁があるとのこと。かのS氏ですらそうだ。壁は高い。このごろぐんぐん高くなっている気がする。こんな時代だからこそ「ほんとうに大切なこと」「質の高いもの」を目指さなければならないはずなのに、現実はその逆だ。

帰りがけ、東京駅大丸に鯰江光二氏の個展を見に行く。実にきれいな色。インクジェットのプリントアウトなのに、まるで透過光を見ているようだ。絵のなかに物語があるのもいい。創作心をくすぐられた。いつか、彼のために物語を書いてみたい。

■ 4 Dec 2003 津野海太郎氏と四半世紀ぶり?に再会


和光大学「物語の作法」授業。東條慎生くんの作品を合評。

出席簿に判子を押しに行くと、津野海太郎氏からの手紙がはさんであった。小説を書いた学生がいて、わたしに読んで欲しいといっているので、取りにきてほしいとのこと。津野氏とはほぼ四半世紀前に出会っているが、その後、言葉も交わす機会もなかったので、大学で出会っても、わたしのことはお忘れだろうと声をかけるのも遠慮していた。覚えていてくれてうれしかった。

授業の後、津野氏の研究室へ行き、久しぶりにお目にかかる。津野氏「わたしは、この人の娘時代から知っているんですよ」と学生にいって笑う。まったく驚きだが、その通りだ。研究室には製本機があった。授業で製本を教えているという。気に入った文庫本を自分で装丁し直させるところからはじめたそうだ。楽しそうだ。今後は、外側だけではなく、中身も自分たちでつくっていきたいと研究室にいた学生たちが語っていた。津野氏のクラスとコラボレできるといいのだが。「物語の作法」の学生の詩や短歌をにヴィジュアルをつけて、きちんと装丁して一冊の本にしたら、どんなにいいだろう。

晴れていたし、健康を考えて自転車でいったのだが、帰り道、乳母車を避けようとしたら、小さな段差で滑って、てひどく転んでしまった。インドで転んですりむいた右膝がやっと直ってきたところなのに、こんどは左膝をすりむく。お風呂でしみるのが悲しい。

■ 3 Dec 2003 図書館リサイクル/「あいうえおうた」執筆


午後1時から、淵野辺の図書館で、本のリサイクルがあるというので、自転車で行く。なんと、一万二千冊も放出するという。まともな本が放出されると困るので、本の救出にいった。十五分前に行くと、すでに整理番号は175番。その後ろにもどんどん人が並んで長蛇の列だ。

だいぶ待って、やっと入れる。全体にろくな本がないのでほっとした。きっと保存の必要のない本を放出したに違いない。と思ったが、よく見ればやはりかなりいい本もある。図書館で保存してもらわなくては困るようなものもある。一冊はきちんととってあるのだろうかと心配になる。文化人類学関係の本を何冊か入手した。ペマ・ギャルポ氏が翻訳したチベット関連の本もあった。

家に戻り、引き続き「あいうえおうた」を書く。「ま行」から最後までを目指したが、さすがに疲れてしまい「わ」と「を」は明日にすることにした。

■ 2 Dec 2003 「あいうえおうた」執筆


頭のエンジンがぶるんぶるん回ったままなので、そのまま「あいうえおうた」を考えはじめる。一気に「あ行」から「は行」まで書く。

■ 1 Dec 2003 「くれよんかぞえうた」執筆


勢いがついて、門坂朋さんのために、そのまま「くれよんかぞえうた」もつくる。1から12までの数字を織りこんで、言葉遊び歌にしたもの。絵も想定しながら書く。これも楽しい。頭のなかのエンジンが、そちら方向にぶんぶん回りだしたみたいだ。

門坂朋さんに原稿メールする。夜になって「うれしい!」という返事があってほっとする。掲示板カフェルナに、わたしが「ユリイカ」に書いた星野道夫論への批判があったので、それに応える文章を書いて投稿する。「まだよく読んでいないんですが」といって批判してくる人に応える必要はないけれど、黙っていると、他の読者にわたし自身のことも誤解されるので、書かざるを得ない。疲れる。

▼2003年11月の時の破片へ


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