寮美千子ホームページ ハルモニア Cafe Lunatique (No.0034)

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DORONKO  今こそ、俗説は疑わなければならない。 2004年04月11日(日)15時49分58秒
イライラのほんとうの原因は?/根源にさかのぼる想像力を持とう! へのコメント

寮さんがお書きのように、そして、すでにみなさんもニュース等でご存じの
ように、高橋さんたち3人をめぐる情勢は大きく動きました。こうしている
間にも、彼ら3人が解放され、「人質」状態から脱する可能性が、とても
強まってきました。まだ、彼らの無事な姿を見るまでは気を抜くことは
できませんが、この知らせは本当に喜ぶべきことです。

しかし、このひとまずの結果だけを見て、今回の日本政府の対応がすべて
正しかったとか、やはり政府を信じるべきだし、政府(=「お上」)の
いうことには無条件で従うべきだ――などと結論するのだとしたら、愚かしい
にもほどがあると、ぼくは思います。

まだ、最終的に決着したわけでもないこの時点で、今回の出来事を十分に
分析ができるわけもないのですが、しかし、今回の出来事が、この国が
かかえている様々な問題を、あらためて明らかにしたことは否定のしようも
ありません。以下、それを列挙してみます。

1)まず第一に問われるべきなのは、近年の、ほとんど無条件とさえ言わねば
 ならないほどの日本政府の対米追随の姿勢には、いったいどれだけ根拠が
 あるのか、ということです。これは極めて大きな問題なので、ここで細かく
 論じることはできませんが、これまでTVの討論番組等で聞いた政府与党、
 とりわけ自民党の国会議員で、その点を疑いの余地もなく明快に説明できた
 人間は、おそらく一人もいないと、ぼくは見ています。彼らは、肝心の
 ところになると、「あなたたちにはわからないんだ」等のセリフで逃げを
 打つのが常で、論理も粗雑ですし、ぼくの目には、ただ「アメリカの影」に
 おびえているだけの強迫観念(=強い思い込み)の持ち主としか見えません
 でした。

 もちろんぼくは、経済面でのあまりにも大きなつながりをはじめ、政治の上
 でも文化などの面でも決して絶縁などはしようもないアメリカと「協調」
 することまで否定しようとは思いません。しかし、極めて常識的に考えて
 みただけでわかるはずのことですが、地理的な条件も、歴史や民族的な
 個性という点でも極めて違いの大きい日本とアメリカという二つの国の利害が
 あらゆる面で一致するなどと考えるとしたら、それは、まさに幻想だといわねば
 ならないでしょう。しかし、ここ数年の日本の外交についてみれば、それは
 ひたすらアメリカの「顔色うかがい」に終始していると言わざるをえず、もし
 今後もこんな醜態を演じ続けるようであれば、いずれ世界には、日本を独立国
 として見てくれる国は一つもなくなり、日本というのは、要するにアメリカの
 従属国が、一見独立国のような仮面をかぶっているだけなのだ――という見方が
 定着してしまってもやむをえない、そういわざるをえないほどのひどい状態に
 なっている、というのがぼくの考えです。

2)第二に、今大流行の「自己責任」論についてです。ぼくは、何とまあ便利で、
 しかし、これほど中身のない言葉が、これほどウケてしまうことに驚くしか
 ないのですが、この言葉が好きで、使わずにはいられない連中は、集団
 ヒステリーにでもかかっているのだと考えた方がよいと、ぼくは思います。
 ぼくは、この言葉を安易に(としか、ぼくには思えません)口にする人間が、
 それが具体的に何を意味するのかを明確に語った例にお目にかかったことは、
 まずありません。もちろんぼくは、TVウォッチャーが職業でなどありませんので、
 例外は一切ないなどと断定するつもりはありませんが、この言葉が出てきたら、
 ちょっと用心した方がよいというのは、少しでもインテリジェンスのある人間に
 とっては、もう常識じゃないでしょうか?寮さんによれば、2チャンネルでは
 この言葉が大流行しているようですが、もうそれだけで、ぼくはこれまでにも
 増して、2チャンネルなど見る気にもなれません。

 ――改めて説明するのも馬鹿馬鹿しいとさえぼくは思うのですが、強いて
「自己責任」などという言葉を使わなくても、人は皆、(乳児や幼児は別でしょう
 が)それぞれの責任において生きているのです。時に、それを感違いして、
 自分には何の責任もないかのようにただ好き勝手にふるまったりすれば、当然、
 まず周囲の人間が、「それは違うだろう?」というサインを、彼または彼女に
 送るに違いありません。たとえば、バイトを無断欠勤したりしたら、店長や
 オーナーは、「今後、連絡だけは絶対によこすように」と言うでしょうし、
 きびしいところでは、無断欠勤は即クビかも知れません。そのように、責任
 ということは、ぼくたちの日常の暮らしの中に「すでにあるもの」なのです。

 では、今回のような事件が起きると、なぜことさらに「自己責任」などという
 ことが言われるのでしょうか?これは、簡単に統計でも取ってみればはっきりと
 することは確実だと思いますが、近年、この国で「自己責任」という言葉が
 用いられる場合、そのほとんどは「自己」ではないところの「他方」の責任を
 免罪したり覆い隠すために使われている――少なくとも、そのような効用を
 発揮していることは疑いようがありません。今回の事件の場合、その「他方」
 とは、もちろん、政府の政策の誤りと、そうした誤った判断しかできずに
 今日に至った小泉首相以下の閣僚や官僚や政府与党の国会議員の責任です。
 今朝のニュース番組に出てきた自民党の安倍晋三幹事長は、イラクに
 ついては何度もくり返し「退避勧告を出してきた」などと言っていましたが、
 たかが事務手続レベルの問題でしかない退避勧告を出したか出さなかったか
 ということだけで、これまでの一連の政治的な判断に誤りはなかったのか
 という問題がすべて帳消しにできるはずはありません。

 ここで、先に書いたことのくり返しになりますが、高橋さんたち3人と小泉
 首相の「責任」の、いったいどちらが重いのか、冷静に考えてみてほしいと
 思います。まずはっきりしていることは、高橋さんたちの現在のイラクの状況と
 そこでの危険性の認識には、たしかにかなりの甘さがあったということは
 否定はできません。しかし、この国から遠く離れた場所で起きた出来事だとは
 いえ、彼らの程度の甘さやら判断のミスは、ぼくたちも、日々の暮らしや
 仕事の中で、たびたびおかしているのではないのでしょうか?単に置かれた
 状況が違うために、あるいは運がよかったために深刻な事態に至らなかった
 だけのことで、「自分は正しい」ということを隠れミノのように用いて、彼ら
 3人を一方的に責めたりすることができるような「権利」を持った人間など、
 いったいいるのだろうか?と、ぼくは思います。
 それよりは、もし、今回の事件について「責任」などということを云々したい
 のであれば、高橋さんたち3人よりも、小泉首相の責任の方が何百倍も大きい
 という、これほどの自明の理も理解できない人間が多いのだとしたら、
 ぼくは驚き呆れるしかありません。

3)第三には、これは2)の論点にも関係することですが、犯罪者でも何でもなく、
 献身的にボランティア活動に従事するなど、懸命に自分の生き方を追い求め、
 社会のためになろうと奮闘している「前途有為な若者」に他ならない彼ら
 3人について、マスコミにも、一般の世論にも、驚くほどの冷淡さが見られたこと
 について、ぼくは大きな危惧を感じています。上述のように、彼らの行動には
 「甘さ」があったことはたしかでしょう。しかし、今回のような事件が起きている
 最中に、すでに彼らを非難するような言説が横行し、彼らをまるで「非国民」
 でもあるかのように見なす風潮は、現代的な価値基準の中では、極めて特異な
 ものです。アメリカのように、暴力が常識でさえあるかのような国ではどうか
 知りませんが、ヨーロッパの国々でならば、今回のような事件が起きた場合、
 まず、「同胞が危機に瀕している」という反応が大勢を占めるであろうことは
 確実です。その点を、どうも、最近のこの国の人間の多くは錯覚しているよう
 ですが、諸外国の人たちは「罪もない人間を簡単に見殺しにしてもよい」などと
 思うような「ドライ」な人間では決してありません。彼らの目には、そんな
 ことを安易に認めてしまうような人間は、ヒューマンさに欠ける「ただのバカ」と
 しか思われないのが普通ですから、その点は、断じて俗説に惑わされて誤解
 したりしないようにと念を押しておきたいと思います。

……そろそろ、うれしいニュースが流れているかも知れませんので、ひとまず、
このへんまでにします。

寮美千子  イラク武装勢力より人質解放声明出される! 2004年04月11日(日)12時00分52秒

イラクの日本人拉致グループから、イラクの宗教的指導者の呼びかけに応え、人質を解放する旨の声明が出されました。彼らが「目には目を」の復讐を思いとどまり、愛で訴えようとしたのであれば、わたしたちはその気持ちを深く受けとらなくてはならないと思います。そして、イラクの自衛隊撤退について、さらに真剣に議論しなければと思います。人質解放が実現することを心から祈ります。以下、asahi.comより引用。
▼犯行グループが衛星TV局に送った声明文(要旨)
カタールの衛星テレビ局アルジャジーラにファクスで届いた声明文

 慈悲深く慈愛あまねく神の名において

 日本政府が3人や日本の国民を気にかけない、悲しい状況の中、我々がイラク国民のためにどうするかを考えるときがきた。高慢な日本政府の指導者はブッシュ(米大統領)やブレア(英首相)の犯罪的な振る舞いに従ったまま考えを改めず、自衛隊を撤退させようとしない。

 米国は広島や長崎に原子爆弾を落とし、多くの人を殺害したように、ファルージャでも多くのイラク国民を殺し、破壊の限りを尽くした。ファルージャでは、米国は禁止された兵器を用いている。

 我々は外国の友好的な市民を殺すつもりはないと全世界に知らせたい。なぜなら、我々はイスラム宗教者委員会が我々に殺害をとどまるよう求めたことを今晩の報道や特別な情報源から知ったからだ。

 我々は、次のことを決めた。

(1)我々は、イラクのイスラム宗教者委員会の求めに応えて、3人の日本人を24時間以内に解放する。

(2)我々は、親愛なる日本の民衆に対して、日本政府に圧力をかけ、米国の占領に協力して違法な駐留を続ける自衛隊をイラクから撤退させるよう求める。

 神は偉大なり。勝利するまで戦いは続く。
 ヒジュラ暦 1425年サファル月19日
 西暦 2004年4月10日

 サラヤ・ムジャヒディン     (04/11 06:03付け記事)


http://www.asahi.com/international/update/0411/004.html

おむすびの祈り  思った事 2004年04月11日(日)07時07分19秒
わたしたち一人一人の「自己責任」 へのコメント

人は何の為に生きているのでしょう?
命を守る為?
だからリスクのある行為はいけない行為なのでしょうか?

3人のボランティアの行為は正しい行為?間違った行為?
それとも自分の為の行為?
誰が判断できるのでしょう?
きっと誰も判断できないし。してはいけないと感じています。

社会人として日本人として生きている限り必ず責任は付きまとうと思います。
でも、僕たちは責任の為に生きているのではない。
また、安全の為に生きているのではない。
もっと大きな何かを目指している。
そんな気がしてなりません。

それはもっと霊的なもののような気がします。
よく「心の命ずるままに・・・」とかいう言葉を目にしますが
魂が個人の思考を乗り越えてもっと大きな何かを得る為に
時には個人の命を掛けてでもその行動を起こさせようとする。

彼ら3人も勇気を出してその魂の叫びに従おうとしたのではないかと思います。
彼らは勇気を出して当然の事をした。
僕はそう評価したい。

そして彼らの行動から皆何かを学ばないといけない。
誰の責任ではなく、自分は今何をしているのか
自分は魂の欲求に答えているのか?
勇気を出して生きているか?
自分に挑戦しているか?

無謀な生き方を進めているのではない。
危険な生き方を進めているのではない。
でも人は命を掛けてでも何かに向かって進んでいく時に
素晴らしい宝物を得ているような気がします。

今この問題で多くの人が苦しんでいる。
日本人だけでなくイラクの人達もそれは同じ。
苦しいけどこの出来事には大きな意味がある。

自衛隊の在り方、日本の在り方、政治家の在り方
ボランティアの在り方、個人の在り方、肉親の在り方
世界の在り方、イラクと日本の在り方、
同じ人類としての在り方、人類が本当に目指している事、
そしてそれぞれが何をすべきか?

寮さん。正直うまく言葉に出来ません。
思った事が寮さんに伝われば幸いです。




寮美千子  イライラのほんとうの原因は?/根源にさかのぼる想像力を持とう! 2004年04月11日(日)01時59分17秒
大切なのは「言語化能力」じゃなくて「伝えようとする努力」 へのコメント


イラク・中東・イスラム情勢ニュース速報+@2ch掲示板で、イラクの3邦人拘束事件が話題になっています。その主流は「自己責任」の追及。「危険とわかっていて自分で勝手にいったのに、どうして日本政府が責任とらなくちゃいけないんだ」とか「彼らの救出のために、税金使うなんてとんでもない。日本政府が彼らのために何かしなくちゃいけないと思う人は、自分の全財産をそのために寄付せよ」などという意見も見られます。「拉致された邦人の家族は、どうしてそんなに偉そうなんだ!」というのもあります。

3日の期限が切られて脅迫され、みんな、イライラしている。気になってしょうがない。そのイライラを「おまえらがノコノコ行って捕まるからいけないんだよ!」とぶつけている。わたしには、そんな風に感じられました。逆に言えば、それだけ拘束されている3人が気になっている証拠。


実は、わたしもイライラしている。気になって仕方ない。不思議です。アメリカ軍のイラク攻撃で、小さな子どもまで殺されても、怒りはするし、憤りも感じるけれど、本心を言えばここまでイライラしない。ここまで不安にならない。自分のこととして、心からの痛みを感じるわけじゃない。

911のときも思った。あのビルの崩壊を見て、茫然とする自分がいた。人々の驚きと痛みが、自分のもののように思えた。わたしは、自分がメンタリティとして、いかにアメリカ人なのかを知ったのです。アメリカのことなら、我がことのようにリアリティを持って感じられる。ほかのどこの国で虐殺が起っても、内乱で多くの人が死んでも、そこまでリアリティは持てないのに。

今回もそう。他人事と思えない。わたしは高遠さんも他の人も直接知らない。赤の他人。なのに、気になって仕方ない。同じ日本人だということが、こんなにも心に作用するなんて。我ながら、驚いています。

そして、そうなってみてはじめてわかるのは、こんな痛みを、イラクの人々は毎日毎日抱えてきたということ。いつ攻撃されるかわからず、不安な日々を過ごしている。その同じ痛みを食らえ!とばかりに、テロリストたちは「罪もない日本人を殺す」といってきた。目には目を、歯には歯をの論理です。テロに屈するのではなく、わたしたちはやっぱり、ここで彼らイラクの人々の痛みについて思いを巡らさなければいけないと思う。


2ちゃんねるを見て思います。税金の使い道を云々するなら、どうしてイラクへ自衛隊を配備するために使っている税金のことは考えないんだろう? 

つまりそれは、想像力の欠如です。日本人が拉致され、殺されると脅迫されてイライラする。悪いのは、拉致されるようなところへ行ったおまえたちだと、まず、事件の発端となった目先の相手を攻撃したくなる。短絡です。

みんな、既成事実になると、それを批判することも論評することも忘れがちになる。イラクへ自衛隊が行った。そのために、たいへんな税金を使った。いまも、使っている。そのことは不問にして、この事件の直接のきっかけだけを糾弾しようとする。

そんなに忘れっぽくなってはいけないと、わたしは思うのです。イライラするなら、そのイライラの原因を、深く深く追求しなければいけない。税金の使い道を怒るなら、もっと大きな無駄遣いがそこにあることを思い出さなければならない。そして、そんな税金の使い方を許したのは、わたしたち国民だということを思い出さなければならない。結局「選挙」に話が行きつくのも、元をたどれば、どうしてもそこへ行くからなのです。


既成事実だからと、それについて考えることをやめるのは、恐ろしいことです。時代の流れ、というものに巻き込まれ、気がつくととんでもないところにきている。そうやって国は戦争への道を歩む。その時、犠牲になるのはわたしたちなのです。

心がざわつく。このざわつきを、ただ捕らえられた彼らだけの責任に押しつけては、ほんとうの問題が見えなくなる。このざわつきは不快だけれど、この不快さをじっとこらえ、踏ん張って、ほんとうに正しい道を模索しなければと思います。問題の根源にさかのぼることをやめてはいけない。

彼らが無事解放されることを心から願います。

http://www.geocities.co.jp/SiliconValley/9731

寮美千子  大切なのは「言語化能力」じゃなくて「伝えようとする努力」 2004年04月10日(土)22時42分13秒
正直な釈明 へのコメント

言語化することはむずかしい。
言語化することが得意な人も、そうでない人もいます。
それは、走るのが速い人もいれば、そうでない人もいたり、
音楽ができる人もいれば、音痴もいたりするのと同じです。
みんな、それぞれです。
わたしは、走るのも遅いし、音楽もそんなに上手じゃない。

でも、得意じゃないってことと、努力をしないってことは違う。

わたしは、みんなに「すべてを言語化してください」というつもりはありません。
わたしだって、そんなことできない。
ただ、掲示板というメディアで、活字という形でコミュニケーションをとろうとするなら、
せめて、相手にわかるように伝える「努力」はしてほしいということです。
その努力なしに、自分の気持ちや気分だけをごろんと投げだすのは、
コミュニケーションとは呼べない。
むしろ、コミュニケーションを拒否しているのと同じことになってしまいます。
本人にそんなつもりはなかったとしても、結果的にそうなってしまう。
「これだけで、俺の気持ちを理解しろ」というのは、やっぱりわがままです。

書くのが苦手で、言語化が苦手でも、
相手に伝わるようになんとか説明しようという努力は、伝わります。
それは、絶対に伝わる。
その気持ちに、胸打たれたことが、わたしは何度もありました。
一所懸命伝えようとする気持ちは、美しい。
それなら、話し合うこともできる。
そこから、語り合うことをはじめられる。

わたしが求めているのは、そんなコミュニケーションです。
言語化能力により参加者を選別しようとしているのではなくて、
伝える努力があるかないかを問いたいということ、わかってもらいたい。
ご理解ください。

寮美千子  正直な釈明 2004年04月10日(土)22時22分30秒
ごめん へのコメント

>最期に

って死ぬなよ、信介。最期じゃなくて、最後だよね。そうじゃなきゃ、困るよ。

ほんとうは言語化できないことまで、ちゃんと話し合えればいいと思っているけれど、
いまのわたしには、残念ながら、そこまでの力量がありません。
ぎりぎりいっぱいです。ごめん。

信介さんのいうことは、きっとゆっくり話したらわかること。
十遍くらいやりとりして、何を言いたいのか、形が見えてくることだと思います。
そして、見えてきてわかるのは、信介さんの気分はとてもよくわかるということ。
いつも、的を射ているということ。
信介さんの直感は、とても正しく大切なことを直撃している。

けれど、信介さんは言葉の人じゃないから、それを説明できない。
自分がほんとうに言いたいことの百分の一くらいの言葉数で、すべてを語ろうとする。
説明しようとしないまま、いきなり気分を語り出してしまう信介さんの言葉の欠片は、
ステンレスの破片のように鋭く、わたしの胸をグサリと刺さる。
それは、説明抜きに人を非難したり批判したりする言葉だからです。
よくよく語り合えば、そこに真実があることをわかってはいても、
わたしはとりあえずのその痛みに耐えられない。
懸命に語りかけているのに、それをただ一言で否定されてしまうことがつらくてならない。
信介さんの真意をゆっくり汲み取り、
わかるまで言葉を交わしあう余裕や力量が、わたしにはない。
それが、自分でももどかしい。
もっと、余裕のある、人の気持ちや言葉に耳を傾けられる人間になりたい。

でも、できないことをしようと頑張りすぎると、わたし自身がパンクしちゃうので、
「退場勧告」となりました。
やっぱり、非難や批判、反論を述べるときは、他人にもわかるように、
その考えの道筋を、きちんと説明してほしい。
批判の言葉だけを投げつけるのは、相手の心を傷つけます。
そこのところを、わかってもらいたい。

ここカフェルナでのコミュニケーションは、どうしても言葉に頼らざるをえません。
言葉や論理だけじゃくて、もっと気分を大切にしたいという気持ちを満たすために、
もう一つの掲示板カフェルミがあります。
あっちでは、わたしはそこまで論理ですべてを片付けようとは思っていません。
もっと情緒の言葉で語り合える場所にしたいと思っています。

信介さんから、さよならのメールが来ました。
見放されるのは悲しいし、さみしい。
わたしが伝えたいことが、信介さんに伝わることを祈ります。
軽んじているわけでも、否定しているわけでもない。
大切な友人であると思っています。
信介さんの直感に敬意を払いつつ、
ここカフェルナではやっぱりきちんと説明してほしいと願っているのです。

本多信介  ごめん 2004年04月10日(土)19時35分29秒
退場勧告 へのコメント

最期に、言語化できないんだよ

すまん、さようなら、みんな

寮美千子  サンキュー 2004年04月10日(土)19時25分49秒
ありがたく へのコメント

感謝します。

本多信介  ありがたく 2004年04月10日(土)19時21分14秒
退場勧告 へのコメント

ちょうだいいたします

寮美千子  退場勧告 2004年04月10日(土)19時19分56秒
責任 へのコメント

「ボランティアだから正しい」とでもいわんばかりの世間の風潮に
信介さんは、違和感を感じているのだろうと思います。
わたしも、そういう風潮には、違和感を覚えます。
だからこそ、繰り返し「ボランティアは究極自分のためである」と書いています。
それを踏まえた上で、しかし、彼らの自己責任を追求する前に、
考えるべきことがわたしたちにはあるのでは、という議論を展開しているつもりです。

気分だけで語り、批判だけして、
自分の意見をきちんと言語化しようという努力をしない人は、
ここには登場しないでください。言葉がすれ違うだけです。

本多信介  責任 2004年04月10日(土)19時06分38秒
選挙という自己責任の取り方 へのコメント

「責任」という意味がわかってないんいいだったら、

そういう言葉は使わないで欲しいね、

寮美千子  選挙という自己責任の取り方 2004年04月10日(土)18時35分36秒
失礼 へのコメント

選挙は、ひとりひとりの国政への自己責任の取り方です。
わたしは、選挙を通じて意思表示をしてきました。
けれど、結局、日本国民はアメリカを支持する政党・政治家を支持した。

この機会に、もう一度それが正しい選択だったのかを考えてほしい。
そして、選挙で棄権した人々にも訴えたい。
棄権は、無責任。
もし、いまの日本の政治をおかしいと思うなら、
棄権をした自分の無責任について、まず考えてほしいと思い、声をあげました。

このように、声を上げつづけることも、
わたしのひとつの責任の取り方だと自覚しています。

イラクに入った3人には、確かに自己責任がある。ないとはいわない。
けれど、一方的にそればかり追求することも、わたしは正しいとは思わない。
彼らの自己責任だから自分たちには関係ない、ということはいえない。
いまの状況をつくったわたしたちの選択を、もう一度見直そうという提案です。

本多信介  おれは、こっち 2004年04月10日(土)18時22分26秒
失礼 へのコメント

・しかし、その前に考えなくてはいけないもっと大きな責任問題があると思う。
彼らをそのようにかりたてた状況をつくったのは誰か?

これだよ問題は、、危険な山登りをするか?ま、誰かではなくって、

おれが、おれが、っていう家族たち、ボランティア、正義、

それもブッシュたちと同じような雰囲気がするけどね、

本多信介  失礼 2004年04月10日(土)17時55分08秒
では へのコメント

ちょいと名前、ぬけ字?なんてあったから、

きみはどういうふうに責任をとるのか、

まさかここで議論をする事でなんていわないだろうな

教えてください。

小長老  では 2004年04月10日(土)17時50分48秒
「命を大切にする」のに武器はいらない! へのコメント

きみはどういうふに責任をとるのか

まさかここで議論をするなんていわないだろうな

寮美千子  わたしたち一人一人の「自己責任」 2004年04月10日(土)15時51分32秒
「命を大切にする」のに武器はいらない! へのコメント

危険なイラクへ入国した3人の「自己責任」を問う声があります。

ボランティアはつきつめれば「自分のため」。
「自分のため」に危険地域に自ら入っていった人には、確かに自己責任はある。
わたしはそう考えます。

しかし、その前に考えなくてはいけないもっと大きな責任問題があると思う。
彼らをそのようにかりたてた状況をつくったのは誰か?

イラクの人々の命を軽視して攻撃をしたアメリカの政府の責任。
それを支持した日本政府の責任。
その日本政府を支持した日本国民の責任。

先の選挙で、アメリカのイラク攻撃を支持した政党、政治家に一票を入れた人々に、
いまの状況をつくった責任があります。
さらに、先の選挙で、投票しなかった人々にも、大きな責任があります。
「無責任」というのは、人間として許されないことです。
つまり、わたしたちには、
いまこんなことになっている「自己責任」があるということです。
わたしたちは、そのことを忘れてはいけない。

だからこそ、いま、もう一度よく考えるべきだと思います。
みんな、自分の胸に手を当てて考えよう!

寮美千子  「命を大切にする」のに武器はいらない! 2004年04月10日(土)15時38分23秒
明白なこと。 へのコメント

ドロンコ氏の意見に、全面的に賛成です!
日本国民の命を最優先しなくて、だれのための政府? なんのための政府?

たとえ、日本政府に「大義」「正義」があってイラク派兵をしたと仮定しても、
今回のような場合、日本政府は自衛隊を撤退すべきだと思います。
日本国民の命を守るために。

なぜなら、撤退したからといって、
いますぐイラク人の命が危うくなるわけではない。
誰の命が危うくなるわけでもない。
逆に、撤退しなければ、拉致監禁されている3人の日本人の命が危ない。
そればかりでなく、自衛隊員の命も危ない。
そして、日本にいるわたしたちも、テロの対象になりかねない。

だから撤退する、というのだったら、
確かに「テロに屈した」ということになるでしょう。
だとしても、日本政府は日本国民の命を優先すべきです。
日本国民の命を優先するのと引き替えに、
誰かを見殺しにするというわけではないのだから。

いわんや「大義」も「正義」もなくてをや、です。
イラクへの自衛隊派兵そのものが、そもそも間違っていた。
「大義」も「正義」もないことは、日を追って明らかになってきました。
イラクからの自衛隊撤退は、テロに屈するのではなく、
自ら間違いを正すことに他なりません。
自衛隊のイラク駐留を死守しようとするのは、単にアメリカ追従です。
日本は、アメリカという大国を、テロリストより恐れている。

確かに、アメリカはテロリストよりひどい。
だからって日本は、ジャイアンにおべんちゃらなスネオみたいにならなくてもいい。
アメリカは、ほんとうはアメリカだけで立ってはいられない。
世界の国々が、きちんと対応すれば、アメリカもわがままばかりいっていられない。
そして、日本のような国こそが、まず、
きちんと自分の意見をいえるようにならなくてはいけない。
日本が毅然と主張すれば、世界の動向はきっと変わる。

「命を大切にする」ということは、武器や武力でできることではありません。
命を守るために、武器や武力を行使しようということ自体が間違いなのです。
イラクの人々の、そしてわたしたちの命を大切にするために、
ほんとうに何をしたらいいか、それを考えなくてはならないと思います。
拘束された3人は、きっとそれを一生懸命考えていた。

だいたい、いま撤退しなくて、いつ撤退する機会があるというのでしょう。
いまなら、世界の世論からも責められはしないでしょう。

自衛隊は、即時イラクから撤退を!

寮美千子  自衛隊撤退は、テロに屈することではない 2004年04月10日(土)14時36分42秒
テロリズムに屈してはいけない! へのコメント

「テロに屈しない」と日本政府は繰り返し語っている。
確かに、いま自衛隊を撤退させたら、あたかもテロに屈したように見えるだろう。
日本政府の面子もある、信念もあるだろう。
だから、自衛隊を撤退することはできない。そういうのはわかる。

けれども、なにかおかしい。
自衛隊を撤退することは、ほんとうにテロに屈することだろうか?
自衛隊を撤退することは、正しいことではないか?
それが、なぜ、テロに屈したように見えてしまうのか。

それはつまり、テロリストたちのいっていることが、理に叶っているからだ。
もちろん「きみたちが罪のない市民を殺したから、我々も罪もない日本人を殺す」
という理屈は、人間として、とても認めるわけには行かない。
しかし「目には目を」という文化を彼らが持っているとしたら、そこに矛盾はない。
とても理解し得ないことではなく、それは理解の範囲にある。

一方、アメリカ政府と日本政府の言葉は、矛盾だらけ。
大量破壊兵器があるはずだということを「大義」にして
多くの市民を犠牲にして攻撃をしたが、大量破壊兵器などなかった。
その後、どうみても軍隊による「侵略」にしか見えない行動を、
「人道的復興支援」と呼ぶのもまた、釈然としない。
武器を持った自衛隊が海外に出かけていくというとんでもない事態を、
「人道復興支援」であるから仕方ないといいくるめるのも、おかしい。

テロリストのいうことのほうが「ある意味」まっとう。
だから、あたかもテロに屈したがごとくに見えてしまう。

しかし、ほんとうは違う。
単に日本のやってきたことは矛盾に満ちていて、
いよいよそれを訂正せざるを得ない時がきたということなのだ。
イラク攻撃そのものが、最初から矛盾と欺瞞に満ちたもので、
そこに大義も正義もなかった。それこそが、いま、問題なのだ。
その大義も正義もないイラク攻撃に加担してきた日本は、
いまここで、その意味を見直すべきだ。

時の流れのなかでしか、見えてこないものがある。
それが見えてきたなら、その時点で間違いは訂正すべきだ。方向転換すべきだ。

「易経」に「君子は豹変す」という言葉がある。
俗にこの言葉は、いままでの言葉を平然と覆すというような
悪い意味で使われるけれど、本来は違う。
ほんとうの君子たるものは、過ちがあればそれをすぐに認め、速やかに改める、
という意味の言葉だ。

君子豹変せよ! 真の君子たれ!
日本政府よ、自衛隊を撤退しよう!
それでこそ、むしろ「日本」という国の面子が保たれる。

アメリカが築いてきた理屈は、砂上の楼閣だ。
いつまでもそこにしがみついていたら、足許からすくわれてしまう。
わたしたちは、ちゃんと自分の脚で立たなくてはいけない。

テロリストが何をいっているか、ここに再録する。
▼イラク邦人拘束武装グループ「サラヤ・アルムジャヒディーン」の声明全文

 われわれは、あなたたちに友情と尊敬、愛情を抱いてきた。
 だが不幸なことに、あなたたちはそれに対して恩知らずにも敵意を返してきた。米国の不信心で堕落した軍隊に武器と兵士を提供した。それにより、われわれのプライバシーに干渉し、神聖な場所と土地を汚し、われわれの血を流し、われわれの名誉を損ね、われわれの子供たちを殺した。
 そこで、われわれはあなたたちに同じ方法で応えなければならない。あなたたちに告げる。殺りくにかかわったあなたたちを歓迎しない。われわれに戦争を宣言したあなたたちを歓迎しない。われわれはあなたたちの子供3人を人質として捕まえたことを告げる。
 あなたたちに2つの選択肢を提供する。われわれの国からあなたたちの軍隊を撤退させ帰国するか、あるいは、3人を生きたまま焼き、血に飢えた戦士たちの食物とするかだ。(焼かれて死亡した米民間人の遺体が宙づりにされる事件が起きた)ファルージャでユダヤ人に対してやった以上のことを3人にもやるだろう。このビデオテープが放映された後、あなたたちに3日間の猶予を与える。(カイロ=共同)

DORONKO  明白なこと。 2004年04月10日(土)14時12分14秒
非戦闘地帯で へのコメント

今回、高遠菜穂子さんたち3人が武装集団に拘束され、人質にされた
ことに、最もダイレクトに責任がある=責任を負うべきなのは、
イラクを現在のような混乱状態に陥れ、その治安について全面的に
責任があるアメリカ政府と米軍です。その治安が守れもしないのは、
する必要もない「大義のない戦争」をしかけたことの当然の結果で、
これも、アメリカ政府と米軍に非を認めさせることから始める以外に、
根本的な解決など、決してありえません。

次に、そんなアメリカにひたすら追随し、憲法やその他の法律の規定を
無視してまでも自衛隊のイラク派兵を強行した小泉首相と与党の国会
議員たちにも、アメリカの愚者たちと同等の責任があるということも
いうまでもありません。――これまでの一連の小泉首相の発言や決定に
見られるような、あまりにもあからさまな対米追随の姿勢がなかった
なら、高橋さんのような人たちが「人質にされる」というようなことは
「起こらなかった可能性が極めて高い」とぼくは思います。

以上のことをふまえて、結論だけを述べます。

小泉首相には、彼ら3人の命を守るという責務がありこそすれ、彼らを
このまま見殺しにするような権利など、絶対にありません。
――昨日のニュース番組などが伝える「街の声」などによれば、今の
日本人の多くは、まだ彼ら3人のことを他人事のようにしか見ていない
ようですが、もし、このまま彼らを見殺しにするようなことを政府に
許したりしたら、「次」はあなたの番であり、自分の番になるということを、
冷静に考えてほしいものです。つまり、政府は、「重要な国策」に邪魔に
なると思われるような場合には、国民を見殺しにしてもよい……という
前例ができてしまうからです。そのことの恐ろしさを、みんなどうして
気付かないのか(そうした意見があっても、報じられないだけかも
知れませんが)、ぼくには不思議で仕方がありません。

昨晩のNews23に出てきた高橋さんの弟さんが言っていましたが、もし、
政府がこのまま3人を見殺しにするようなことをしたら、その時は、
自分は「絶対に許せません…」と――。
言うまでもないことですが、彼ら3人を見殺しにすることに、いかなる
道義もあるはずがありません。そんな「道義」があると想像することすら、
狂気の沙汰でしょう。

もちろんぼくは、すべて、3人を拘束した武装集団の言いなりになれ
などと言おうとしているのではありません。彼らに対して「強い姿勢」を
見せる必要があることも否定しません。――しかし、そうした交渉の
かけひきと、彼ら3人の命を守るということは、同じレベルで論じるべき
ことではありません。それが理解できないという人間は、すでに、かなり
錯乱しているのだろうと、ぼくは思います。

具体的には、アメリカもイギリスなども、「全面的に協力する」などと
言ってはいますが、現在、およそイラクの治安を守れもしない彼らに、
いったいどんなことができるというのか、ぼくには非常に疑問です。
それは、ほとんど、「やりました」「努力はしました」というだけの
ポーズの域を出ないのではないのか?というのが、(まだ断定はでき
ませんが)現在、ぼくが感じていることです。――そして、アメリカや
イギリスには、そうした言い訳も許されるかも知れませんが、小泉首相
には、それは決して許されないし、許してはなりません。
これは、極めて明白なことです。
彼が何を決断すべきなのかは、あまりにも明らかでしょうから、強いて
述べません。しかし、彼がその決断を回避し、みすみす3人を見殺しに
したならば、その時、彼は殺人者以外の何者でもなくなります。それは、
時の首相だからといって許されるようなことであるはずはなく、むしろ、
首相だからこそ、そんなことをしてはならないのです。

ぼくは、全国民に聞きたいと思います。
「あなたは、殺人者が首相をしているような国に住みたいですか?」と。
今は、まさにそのことが問われているのです。
「自己責任」などという言葉をもてあそぶヤカラもすくなくないようですが、
これはまったくの笑止の沙汰です。小泉首相の責任ということに論及も
せずに、いったいどうして彼らの「責任」などということを云々したり
できるのでしょうか?
ぼくは、この国が、このまま狂気に向けて落ち込んでゆくことにならない
ようにと、深く憂慮しています。

山田  とにかく 2004年04月10日(土)00時17分30秒
テロリズムに屈してはいけない! へのコメント

無条件でイラクから自衛隊撤兵を

なぜって?イラク戦争そのものが人類史上最悪のテロルだから

自衛隊はそのお手伝いをしているから(米軍も輸送してるね)

高遠さんの仕事を 1年前からきづき上げてきた国際的信頼を 「負けない」「屈しない」しかいえない臆病者ソーリダイジンに破壊する権利はねぇ

日本政府に怒りをこめて書き記す

寮美千子  テロリズムに屈してはいけない! 2004年04月09日(金)23時54分26秒
どっちが思うつぼ? 堂々と撤退を! へのコメント

テロリズムの語源は terror (=恐怖)。つまり、相手を怖がらせ、恐怖に陥れてコントロール(=自分の思うつぼ)する手口のことです。

いま、日本は怖がっている。何を恐れているのか? 一昔前はソ連が怖かった。北朝鮮も怖い。先日まではイラクのフセイン大統領もとても怖かった。大量破壊兵器を隠し持ち、核開発まで手がけていると思っていたから。ほかにも、世界にはよからぬことを企む悪い奴らがいる。そういう奴らに侵略されるのが怖い。

怖いから、万が一の場合に備えたいけれど、日本は憲法九条で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と決めた。だから、軍隊を持つことができない。せめて自衛しようと「自衛隊」をつくった。けれど、これはそもそも軍隊ではないから弱体である。それでは危険にすぎるから、やっぱり親愛なるアメリカに守ってもらおう、ということになっている。

けれど、よく考えるとおかしい。あれほど恐れていたソ連は、自分で勝手に崩壊してしまった。イラクにも大量破壊兵器はなかった。クレージーな指導者に率いられた北朝鮮にも困ったものだけれど、では日本に攻め入るほどの国力があるのか? ほんとうに、わたしたちが恐れているものは、そんなに怖いものなのだろうか。

怖いぞ、怖いぞ、と脅かされて、そう思いこんでいるのではないか。だれに思いこまされているのか? 日本に「怖いぞ」といっているのは、アメリカです。アメリカは、世界に対立の構造を描きだすことで、戦争の危機感を煽り、軍需産業で儲けている。戦争があれば、軍需産業も石油産業も儲かる。対立構造のない地球なんて、儲からない地球だ。だから、日本だけではなく世界のみんなに「怖いぞ、怖いぞ」といって、対立の構造を描いてみせる。そして、自分の思うつぼに、世界の国々を動かそうとする。

脅かして、思うつぼ。あれ、それってテロリズムじゃないのか。

それだけじゃない。普通に暮らしている人々の頭上に、突如として爆弾が落とされる。銃撃もされる。アフガニスタンとイラクとで亡くなった民間人は、いったいどれくらいになるのだろう? 拉致された高遠さんがバグダッドのことを詩に書いていました。なつかしい雷の音だと思ったら、それは爆弾の音だったと。人を殺す音だったと。そんな恐怖の中で暮らさなければいけないなんて、なんて恐ろしいことだろう。兵士たちが、世界中から集ってくる。君たちを守ってやるといいながら、その手に銃が握られていたら、人々はどう思うか。それもまた、テロリズムではないか。

そのアメリカの思うつぼになっている日本は、アメリカという名の巨大テロにしてやられていると、わたしは感じています。

イラクの人々に手を差し伸べようとしてイラク入りした3人の日本人が拉致され、人質になっています。どうにもやるせない気持ちになる。彼らは、イラクの人々の味方になろうとしてイラクに入ったのに。なぜ、彼らが標的に。

民間人を拉致監禁して、人質にして、殺すぞと脅すなんて卑怯だ、卑劣だという意見があります。確かにそうです。けれども、では、アフガニスタンで、イラクで、民間人を殺してきたアメリカは卑怯でも卑劣でもなかったのか。劣化ウラン弾を撒き散らし、子どもたちの未来まで傷つけているアメリカは卑怯ではないのか。そのアメリカを支持する日本は、卑怯ではないのか。

というと、それはまったく今回の拉致グループの宣言文に似てきます。彼らはひどい。でも、彼らのいっていることには、矛盾がない。矛盾があるのは、アメリカの言い分であり、日本政府の言い分です。そして、その矛盾をごり押しして通しているのは、アメリカ。アメリカは、その強大な武力や経済力を背景に、人々を脅して、思うがままに動かしている。

テロリズムに屈してはいけない。アメリカの思うつぼになってはいけない。自衛隊は、即刻イラクから撤退すべきだと、わたしは思います。「合法的権力」という名の、もっとも恐ろしいテロに屈しないために。

http://www.impala.jp/pandora/index.html

グレン横田  どっちが思うつぼ? 堂々と撤退を! 2004年04月09日(金)20時50分04秒
君子豹変せよ! へのコメント

私にも千歳在住の友人から「友達がイラクで人質になってしまって気が変になりそう」というメールが来ました。

日本政府は今回の誘拐事件を前に、「自衛隊をいまイラクから撤退させればテロリストの思うつぼだ。彼らの脅しに屈することになる。だから撤退させるわけにはいかない」と言い張っていますが、果たしてそれは本当でしょうか?

政府が意固地になって自衛隊を撤収させない結果、想像したくありませんが、人質の皆さんに万一のことが起こり、それに衝撃を受けた日本の国内世論が政府を激しく突き上げ、小泉政権の存立が危うくなる――このようなシナリオこそ、犯人側、テロリスト側の狙いなのではないのでしょうか。つまり、今回の誘拐は、小泉政権が自衛隊の撤退をあくまで拒むのを見越して、最終的に小泉政権に取り返しのつかないダメージを与えることを狙った犯行なのではないか。もしそうだとすると、ここで「自衛隊を撤退させない」という選択をすると、それこそテロリストの思うつぼにまんまとはまってしまうことになるのでは?

「日本政府は自国民の生命を第一に考える政府なので、ここはやむなく自衛隊を撤退させます」と宣言して堂々と撤退させたとして、国際社会に非難されるでしょうか? そんなことはないと私は考えます。ある国の政府が自国民を守るために行動するのは至極当然で、他国から非難される筋合いなどないでしょう。甘い書生論でしょうか?

あるいは、そんなにまでしてアメリカに義理立てしたいのなら、いったん撤収しておいて人質のみなさんが解放されるのを待ち、しかるのちにそしらぬ顔でもう一度イラクに自衛隊を入れる……なんてわけにはいかないのでしょうか?

寮美千子  君子豹変せよ! 2004年04月09日(金)14時10分04秒
高遠菜穂子さんのHP へのコメント

公約違反を問われたとき、小泉首相はいった。「大したことじゃない」
オーケー、わかった、大したことじゃない。
臨機応変に対応することが大切だ。あなたの言うとおりだ。

自衛隊のことだってそうだ。
いまから言葉を翻してもいい。
自衛隊のイラク派遣は、大いなる勘違いで、間違いだったって、
いまから認めても構わないよ。
「大したことじゃない」ってみんなでいってあげよう。

テロに屈するんじゃない。
間違いに気づいたから、臨機応変に対応するだけ。
過去の言葉に縛られることはない。
最初は小さな間違いでも、その道を死守して歩いていくと、
先に行けば行くほど、まっとうな道から遠ざかってしまう。

いまなら修正できる。
テロに屈するんじゃない。脅迫に負けるんじゃない。
邦人誘拐事件は、間違いに気付くきっかけをつくってくれただけだ。
ほんとうに大切なのは何なのかと、人々はやっと気付いた。

遠くを見て、いま歩いている道を見定める。それが大切。
いままで、森の中で目先のことしか見えなかったから、
間違った道を選んでいたかもしれない。
それに気がついたいま、正しい道を選び直すことは、恥ずかしいことじゃない。

公約違反は「大したことじゃない」。
自衛隊撤退だって、すぐにできるはずだ。
イラク駐留自衛隊の即刻撤退を!
小泉首相よ、真の君子たれ!

http://www.shikoku-np.co.jp/news/column/200404/20040409000132.htm

寮美千子  高遠菜穂子さんのHP 2004年04月09日(金)02時22分28秒
非戦闘地帯で へのコメント

北海道の友人から「頭真っ白」というタイトルのメールが届きました。開いてみると、千歳出身の知人がイラクで拘束されたとのこと。高遠菜穂子さんのことでした。わたしも、人ごととは思えず、いまも胸がざわめいています。

しばらくして高遠さんが主催するHPがあると、その知人がメールをくれました。
http://www.clubwee.com/

行ってみると、そこには、バグダッドのストリート・チルドレンたちのためにボランティアとして働く彼女の掲示板形式の日記がありました。最終の日付は3月16日。なつかしい雷の音と思った音が、爆撃の音だと知った彼女の心が、詩として記されています。

2月11日の記事には、こんなことが書かれていました。
昨日の夕方、一人のイラク人の男が刃物を持って子供に襲い掛かり、私がポリスを呼びました。男は逮捕されましたが、なぜかまた矛先が子供たちに向かい、道路から出て行けとイラク警察と銃を持った米兵が追い払いにかかりました。”CPAに許可まで取って寝ていたシェルターを追い出され、道路で寝ていたらけり出され、彼らはどこへ行けばいいの?”と聞くと、”知らない。俺の仕事じゃない”と言われました。”じゃ、どうすればいいの”と聞くと、知らないねと言われ、一人の米兵が銃を構え、私の方に向けてはいなかったけど、撃つ真似をしました。
サイトには、彼女の本も紹介されていました。
高遠菜穂子著『愛してるって、どう言うの? 生きる意味を探す旅の途中で』(2002文芸社)
グレて大暴れした若き日々。大学でヒョンなことからボランティアに目覚め、30歳にして東南アジア・インドを放浪。生きる意味、自分のやりたいことを見つける自己発見の旅日記。
高遠さんという人は、何をしにイラクへ行ったのだろう? ニュースを見たとき、そう思いましたが、HPを見て、その姿がおぼろに見えてきたように感じました。

彼女は、ボランティアとしてイラクに渡った。ボランティアは、究極自分のためにすることであり、すべては自己責任に帰されると、わたしは思っています。彼女はなぜいまこの時期に、という思いは拭えない。

けれど、いまこの時期だからこそ、いてもたってもいられずに出かけていった彼女がいたのだろうということも、容易に想像がつきます。そして、そのように思わせる悲惨な事情が、イラクにはあった。そんな事情をつくったのは、だれか? それは、アメリカであり、それに追随する日本政府であり、その日本政府を支持したわたしたち国民です。

先日、インドを訪れたとき、必死に生きる路上生活者や、街の人々を見て思いました。きっと、イラクにもこの風景と変わらない風景があるのだろうと。いまここで、誰が為政者になろうと、一人一人が、一日一日を必死で生き抜いていかなければならない、ということは変わらない。彼らにとって何よりも大切なのは戦いがないこと。いきなり家を爆撃されたり、そのために幼い子が孤児になったりするような政治は、誰がどんな理由で音頭を取ろうと「平和」ではない。それは絶対に正しくない。

その正しくないことが、いまもイラクで続いています。危険なところだから、武器無しでは行けないと、日本の政府は言います。しかし、武器を持って侵入していったから、余計に危険になったのではないか。もしも建築労働者たちが、丸腰でビル建設に行っても、イラク人はやはり襲撃しようとするだろうか。

そもそも、非戦闘地帯という名の戦闘地帯に、武器を持った軍隊を送ることそれ自体が、おかしい。それをおかしいということ自体が、いまはもう時代遅れになってしまった感があります。そんな日本がおかしい。

自衛隊が、イラクから撤退することを強く願います。そして、ほんとうに必要な平和的支援とは何かを、みんなで考えなくてはと思うのです。

寮美千子  非戦闘地帯で 2004年04月08日(木)23時48分29秒

非戦闘地帯で 日本人外交官二人が殺され
非戦闘地帯に 機関銃を持った自衛隊が装甲車に乗って出かける
非戦闘地帯で 自衛隊はオランダ軍に護衛されなければならず
非戦闘地帯に なぜか迫撃砲が飛んでくる
非戦闘地帯で アメリカ軍はモスクに爆弾を投下し
非戦闘地帯で たくさんの市民が殺される
非戦闘地帯で 子どもに文房具を届けに行った日本人たちが拘束され
非戦闘地帯で 自衛隊が三日以内に撤退しなければ人質を殺すと宣言される

そもそも人道的復興支援に行ったのだから
自衛隊が撤退する理由はない
と官房長官はテープレコーダーのように繰り返すけれど

そもそもおかしい
どうしてそれが非戦闘地帯なのか
どう見てもおかしい
人道的復興支援なら どうしてそんなに恨まれるのか
おかしい
おかしいというと おかしいと思われる
こんな世界に わたしはいつから住んでいるのだろう
わたしたちはいつから こんなことを当たり前にしてしまったのだろう

わたしは思う
自衛隊は イラクから撤退するべきだ
テロに屈して そうせよというのではない
おかしい
自衛隊がそこにいるのは おかしい
だから 撤退すべきだ
ほんとうのことを見よう
ほんとうのことを言おう
いいかげん嘘も詭弁もやめて 
もっと真剣にほんとうの「人道的復興支援」を考えよう
新たな迫撃砲が飛んでくる前に
だれかに殺されてしまう前に
だれかを殺してしまう前に
自衛隊員よ
戻ってきて みんなといっしょにゆっくり考えよう

寮美千子  「ガンガー物語」発表 2004年04月04日(日)19時35分44秒
ラーマーヤナとマハーバーラタ、そして聖なるガンガーの物語 へのコメント

インドのおみやげ「ガンガー物語」、レヴューに発表しました。ご覧ください。
ご感想など、聞かせていただけるとうれしいです。よろしく。

・前書き わたしの「ガンガー物語」
・本文  大地に流れおちた天の河 聖なる河ガンガーの物語

寮美千子  ラーマーヤナとマハーバーラタ、そして聖なるガンガーの物語 2004年04月02日(金)00時50分35秒

カルカッタで9キロほど書籍を購入してきました。日本ではなかなか手に入らないだろうなと思うベンガル語の辞書や、カルカッタご当地もののタゴール本などです。インドではタゴールの「子どものための作品選集」なんていうのが編集されていて、ベンガル語から英訳されており、これはぜひ読んでやろうと意欲を燃やしました。

インドで入手できる英語の本のいいところは、英語ネイティブではないインド人が英訳するので、とてもわかりやすいシンプルな英語になっていること。わたしのように英語力のない人にはうってつけです。

ヒンドゥーの神話にもとても興味を持ちましたが、こちらは古典の「ラーマーヤナ」と「マハーバーラタ」を見れば概略がわかります。どちらも大長編で、英語完訳版は何冊にもなり、さすがにもうこれ以上重量を増やすのもなんだし、そんな古典なら日本で日本語訳がいくらでも手にはいるだろうとタカをくくって戻ってきました。

ところが! 調べてみて驚いた。「マハーバーラタ」の完訳にはじめて挑んだのは山際素男氏。1991年に三一書房から第一巻「マハーバーラタ」が出て、それから1998年にかけて9巻まで出て完訳されました。ところが、実はこれは英語からの重訳なのです。なぜ?

その真意を知ってさらに驚きました。訳者はインドに行き、「ラーマーヤナ」と「マハーバーラタ」がいまもインドの民衆に強く支持されていることを知ります。インドのテレビドラマにもなり、ドラマの時間には町に人影が少なくなるほどの人気。街角にあふれる神さまは、みなこの物語の中に存在します。今も愛され、生活の基盤になっている物語が、日本にまともに紹介されていないことを惜しんだ訳者が「サンスクリットからの訳はできないけれど、それでも完訳がひとつもないよりはましだろう」と蛮勇をふるって訳したのがこの本でした。その蛮勇に拍手です。しかし、残念なことに、ほとんど在庫切れです。

その後、上村勝彦氏が、サンスクリットからの翻訳に挑戦。ちくま学芸文庫で「マハーバーラタ原典訳」として2001年1月から刊行が始まりましたが、なんと6巻目まで出したところで訳者が逝去。作者の死後、2003年の3月に出版された7巻目で止まってしまいました。全11巻の予定だったというので、ほんとうに残念なことです。

「ラーマーヤナ」ですが、こちらの状況はさらに悲惨。1980年、平凡社の東洋文庫からサンスクリットからの完訳「ラーマーヤナ」の刊行が始まりましたが、訳者の岩本裕氏が第2巻を訳し終えたところで逝去。以後、その後を継ぐ人はまだ出ていません。抄訳なら、いくつかあるのですが……。

というわけで、驚きのこの事実。インドと日本の関係は深く、仏教伝来の昔から文化のやりとりがあるのに、なんと「ラーマーヤナ」は1980年まで「マハーバーラタ」は2001年まで、サンスクリットからの翻訳がなかったというのです。何をしている、日本のサンスクリット学者! しかも、いまのところ、どちらも完結していない。

ああ、こんなことなら、カルカッタの本屋でいろんなヴァージョンを読み比べて、気に入った英語完訳本をまとめて買ってくればよかったと歯ぎしり。

というわけで、図書館から借りまくり、いまさらながらにインドの神話を読んでいるわたしです。どうしても読みたい部分がある。

というのは、ガンジスの河口の島で、現地の人やお坊さんから、いまも生きているその神話を、口伝で聞いてきたからです。ベンガル語の小さな絵入りパンフレットも手に入れてきました。それは、天なるガンジスを、いかにして地上に招いたかの奇想天外気宇壮大な物語。この物語は、「ラーマーヤナ」と「マハーバーラタ」のなかにも描かれていますが、現地では微妙に変化していました。その変化が面白い。第一、2世紀末に成立した「ラーマーヤナ」と、4世紀にまとめられた「マハーバーラタ」でも、物語にはブレがあるのです。

これは、もともとはバラモン礼賛の支配者階級のための物語でしたが、一般庶民にも圧倒的な人気を博し、吟遊詩人の歌語りであちこちに伝わり、文盲の民もその物語を共有したのです。そして、神話民話の定石通り、あちこちの土地に伝わる民話や物語と習合し、さまざまなヴァージョンが生み出されてきたのでした。

しかし、物語の力は驚くほど強く、源流であるネパールのヒマラヤの村で聞いた神話も、河口の島で聞いた神話も、根底は共通しています。そして、その神話には、源流と河口の風景が両方とも描かれているのです。あの長大なガンジスの流れをひとつの河と認識し、同じ神話を共有しているとは! 物語の力、恐るべし!

ああ、そしてわたしは、どうしてもそのガンジスの物語を、わたし自身の言葉で語り直してみたくなってしまったのでした。この目でガンジスの源流と河口とを確かめた、2004年に生きる吟遊詩人として。

欲は尽きず! このガンガー(現地の人はガンジスをこう呼ぶ)の物語を、わたしからみんなへのインドみやげにしたいと思います。だって、どうしてもどーしても(声、裏返る)書きたいんだもん。近日中にネット発表するので、乞うご期待! 

「おい、早く小説のラストシーン、書けよ!」「はい」(神妙)

勇崎  素晴らしい 2004年03月22日(月)01時47分06秒
アイヌ民族と沖縄が問いかけること〜第38回吉川英治文化賞 へのコメント

レスいれたいと思いながら、ごたごた日々を送っていました。
リト山田くんが沖縄のことを気にかけつづけていること、うれしく感じました。
中本ムツ子さんの志が、ひろく伝わる受賞で、素晴らしい。
沖縄の1フィート運動も地道に継続されてきたことなので、あらためてスポット・ライトがあたって、ほんとに、よかった。よかった。

山田  アイヌ民族と沖縄が問いかけること〜第38回吉川英治文化賞 2004年03月14日(日)22時45分28秒

・すでにマスコミなどでお知りになった皆様も多いと思います。今年度の吉川英治文化賞が発表されました。全受賞者の方まで知識がないのが誠に遺憾なのですが、とりあえず私が最も衝撃と感動を受けたのが千歳アイヌ文化伝承保存会会長・中本ムツ子さんと沖縄戦記録フィルム一フィート運動の会の皆さんへの受賞でありました。

・なにぶん「賞」というものに縁のない人間なのでその重みがよくわかっていないのが情けないですが大文豪・吉川英治氏の名前を冠にした大きな賞であることは理解しています。

・中本さんはCD『アイヌ神謡集をうたう』(昨年発表・草風館)の成果が認められての受賞ということです。個人的には体調がお悪い中でも懸命に録音作業に向かわれてきたことを、近くから知っているだけに万感極まるものがあります。実際に教育現場でこのCDがかなり活用されていると聞きます。知里幸惠の遺したカムイユカラが(いやカムイユカラそのものが)小学校生徒の中で大勢で謡われること。アイヌ史的にも歴史的なことだと思っています。

・一フィート運動の会については高校時代から知ってました。自分にとって沖縄を自覚したのは沖縄戦の写真であり87年高校国体での「日の丸」「君が代」押し付けでした。その時をリアルに高校生として生きてきたので今回の受賞も胸がつまる思いです。

・中本さん、一フィート運動の中村文子事務局長、お2人ともつねづねイラクへの自衛隊出兵や有事法制を危惧され発言されておられます。もちろん今回の受賞者の方は他にもいらっしゃるわけで物事を単純化してはいけませんが、授賞式で中本さんと中村さんがお話できたらいいな、と勝手に思っております。とにかくおめでとうございました。

http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/2004/2004_03/040305n.html

kiyomi  「自分をもちだす」ことの困難   岩波書店月刊誌「世界」4月号をちらちらと読んでみて下さい 2004年03月13日(土)12時07分21秒
留守の間に言っちゃいましょう。その二。 へのコメント

寮さんが、インドでどんな風に吹かれて帰国するのか楽しみです。
この板を読んで私はいつも、複雑な「深い」思いに抱かれます。寮さんの他者とのコミュニケーションを諦めない姿・・・にだと思います。「自分をもちだし」傷だらけになりなりながらも、「借り物でない」自分の言葉で語ろうとするその姿。理想論や一般論なら誰にでも語れます。特にインターネットという場では、その人の生き様・バックグラウンドや実践など何一つもちださなくてもいいのですから・・・。
それに加えて、「怒り」を持ち続ける姿にいつもエネルギーをもらってもいます。

そして、寮さんの批判・批評の先に自分自身や自分の大切にしているものがある時でさえ、やりとりの結果に、ある種の観点が与えられるのではないかと思います。それは寮さんが自身が育み得た「バランス感覚」であり、「偏りの危機感」なのだと私は受け止めています。慕う若き人達に語られる寮さんの言葉に、その人がどれだけ支えられているか(寮さんの支えにもなっていることは明らかですが)遠くで傍観している私ですら、向き合う二人の生身の「自分史」に心揺らされ、胸が熱くなることがあるのです。
私は、あからさまな称讃や迎合とも受け取れる誉め言葉には、疑問をもってしまう方なのですが、これは日頃からの率直な感想です。

さて、もう一つお伝えしたいことがあります。過日話題にさせていただいた都立七生養護学校が、都教委や国家主義・宗教団体の標的にされ、マスコミにさらされていることはお話ししたとおりです。その七生の出来事を、フリージャーナリストの斎藤貴男さんと宮淑子さんが「日の丸・君が代」特集の中に書いて下さっています。
一学校の出来事にとどまらず、今、日本がどこに向かっているのか・・・ひたひたと浸透する「国家主義の白地図」がいかに描かれ、どう私たちを呑み込もうとしているのか鋭いジャーナリストの視点で語られています。「このままでは公教育は息絶える」ということばが忘れられません。

また、日野市民の会では弁護士さんが中心となって七生のパンフを作っています。
岩波のブックレット形式のものになり、つなん出版から3月中に発売になる予定です。

年輩の弁護士さんの言葉に胸打たれ、若き弁護士さんの熱意に希望を感じています。
法は、人を裁くためにだけにあるのではないのだな、人を豊かに生かすためにあるの
だ・・・そして、そのために彼らがいるのだということも学びました。



小西昌幸(徳島/北島町立図書館・創世ホール)  木部さんの講演会は1回きりでは本当にもったいないです 2004年03月08日(月)07時07分05秒
洗濯はとうに終えて〜木部与巴仁氏の伊福部昭への純愛 へのコメント

■徳島の小西です。47歳です。北島町立図書館・創世ホールという複合文化施設で催しの企画や広報の仕事をしています。《伊福部昭先生卒寿記念祭》の企画は私が立案しました。
■木部さんには、北島町での講演は百人しか聞いていないのだから、割り切ってパッケージにして全国ツアーをやってもよいのではないかと、電話するたびに少しずつ説得しています。
■たぶん4月には、北島CATVで講演会の全貌が放送されるはずなので、それを録画して伊福部昭先生や勇崎さんや玲さんや達さんや山田さんや音更町役場などに進呈する予定です。もしそれを見て音更町あたりが、うちでもこういう企画をやりたいということになったなら、それはありがたいお申し出なのだから、伊福部昭先生とその音楽の偉大さを伝える伝道師として引き受けたらよいと思いますよ、と私はそんな風に木部さんを説得しています。
■彼はまあ、頑固なところがあるのですが、でも私は本当に木部さんの講演をもっともっと多くの全国の人に聞いて欲しいと願っていますから、説得を続けます。催しの日とは少し違った反応になってきているようですから、北海道でならやれるのではないかなあ、となんとなく思います。勝手なことを書いてすみません。

勇崎  僕もミス変換 2004年03月08日(月)01時31分31秒
名前の誤変換に気がつかず御免ね。 へのコメント

酔いどれ三連発。
やはり、僕には安手の蒸留系が似合う。
不似合いな、高価な醸造酒は、僕から理性を奪う。
だが僕は、理性とはなんなのかを知らない。
単にアホなだけである。
ふたつまえの投稿を読み返すと、
「講演」を「公演」とミス変換してる。
そんなことは、賢明な読者は、とうの昔に気づいて、笑っている。

勇崎  僕もミス変換 2004年03月08日(月)01時26分04秒
名前の誤変換に気がつかず御免ね。 へのコメント

酔いどれ三連発。
やはり、僕には安手の蒸留系が似合う。
不似合いな、高価な醸造酒は、僕から理性を奪う。
だが僕は、理性とはなんなのかを知らない。
単にアホなだけである。
ふたつまえの投稿を読み返すと、
「講演」を「公演」とミス変換してる。
そんなことは、賢明な読者は、とうの昔に気づいている。

勇崎  こんなことバラしちゃ、まずいかな… 2004年03月08日(月)01時14分54秒
洗濯はとうに終えて〜木部与巴仁氏の伊福部昭への純愛 へのコメント

? ??、日本酒を呑んでいる僕である。
もったいない、いただきものだ。
日本酒やワインなどという醸造系は、
直ぐにゴーチン(豪沈:沖縄方面で、呑んでバタンQしちゃうことの意)
を僕に誘発するので、嫌いだ。
僕の得意なのは、泡盛、焼酎、といった蒸留系。
でも、節操という規範は、すでに死滅し、絶滅している。
呑むのがスキな本性は誰の目にも許し難い。
そんな状態なので、あえて云うまでもなく、口が軽い。
木部与巴仁氏のつれあいは、文筆家の大竹昭子氏である。
大竹昭子氏は開所の広い作家である。
大竹昭子氏と寮美千子氏は、過去でつながっているので、
実は深いところで、寮氏と木部氏はリンケージしている。

木部氏の登場に言い訳をする自分である。

勇崎  洗濯はとうに終えて〜木部与巴仁氏の伊福部昭への純愛 2004年03月08日(月)00時31分26秒
留守の間に言っちまおう。(ドキッとしてね/笑) へのコメント

主が長く居ぬ間に、とうに洗濯を終え、カフェルミは、伊福部一派が占拠している模様。
性懲りもなく投稿タイフーン。
今日の嵐は室戸岬を越え、四国徳島・北島町での、小西昌幸氏が仕掛けた木部与巴仁氏の公演について、場をカフェルに移して再び投稿しようと思う。

木部は演劇家だった時代もあり、公演はレクチャーというよりは、パフォーミングの緊張感を聴く者に感じさせた。それは、“芝居めいた”ものとは全く対極にある、この時間と空間に放つべきメッセージと間(ま)をどう置くかという、木部の自身に対する厳しい処し方に表れた。その厳しさに聞く側が縛られても、少しも疲れさせなかったのは木部の“術”ではない。底知れぬほど伝わってくる伊福部昭への“純愛”だ。彼の純で、純で、純な愛の物語に巻き込まれ、共感し、陶酔した。そこに彼の身振りや手振りは全くない。椅子に座るという安楽を蹴飛ばし、2時間という時間、ただ、目の前にしっかりと立ち、語るだけである。その愛の実証をCDの再生ではなく、生の音で聞かせたいという木部の執念と誠実。講演料を演奏家に渡し、木部は自身の報酬をプアなものにしてしまった分、それ以上の値千金の贅沢な時間を聴衆は享受した。

木部の論旨は結論において、「音楽には国境がない」という揺るぎないボーダレス時代を先取りしていたような一般認識を覆す、「音楽には国境がある」という伊福部の信念に集約されていった。一般認識を覆すのは極めて容易ではない。木部の純愛は、恋人の真意を執拗なまでに分解し、いくつもの角度から解明する。
「一般には、音楽には国境がないと云われていますが、国境はあるんです。民族の特殊性を通過して、人間の普遍性に到達する。その民族の特殊性を通過して、人間の普遍性に到達したものだけが、芸術なんだ。これは僕の信念です」と語る伊福部昭。その信念に心中するほどに純愛する木部。

木部の公演をパッケージにして全国ツアーにすべきと感じた、伊福部達氏、小西氏、山田氏、そして僕である。ところが、木部は、この一回性にだけ、身体を燃やし尽くしたのであり、二度としたくないという。(だが、いつか、なんとか実現したい)

木部の一回性に触れられなかった諸氏に伝えたい。木部の“伊福部愛”に触れて欲しい。それは、木部が伊福部を語る著作を手にする、ということだ。それらは大手出版では絶版扱いだが、オンデマンドと自費出版というかたちで存在する。この場を借りて本のPRをするのは本意ではないが、本の意を伝えるのは僕の使命のように感じる。その使命に免じて、乞うお赦しを。

●木部与巴仁著「伊福部昭・音楽家の誕生」1997年初版(主に戦前編)
http://www.voyager.co.jp/dotbook/books/syousai/06ongakuka_kibe/index.html
●木部与巴仁著「伊福部昭・タプカーラの彼方に」2002年初版(主に戦後編)
http://www.voyager.co.jp/dotbook/books/syousai/07tap_kibe/index.html
●木部与巴仁著「伊福部昭・時代を超えた音楽」2004年2月最新刊(ある種の総括)
http://www.mybookjapan.com/pod/mb3257.htm

上記の著作は、どれから読んでもかまわない。
ということで、気になる順に、鬼の居ぬ間に選択して下さい。
(やっぱ、出たね。おやじギャグ。)

下記は木部氏のHP

http://www.kibegraphy.com/

silica  留守の間に言っちゃいましょう。その二。 2004年03月06日(土)09時01分41秒

>最近の彼女は凄いと思います。若さや子供の本質的な良い部分を喪わずに、ほんとうに「新しいおとな」の一人として本格的に成熟し始めたと思います。そして何よりも、私たちのこの時代と深く結びつきつつあるインターネットの可能性を信じ、人間と人間の良い心の可能性を追究しようとしている姿に・・・カンドーします。
・・・現在のインターネットの可能性は人間の可能性でもあるのでしょう。それは無限を孕めるんじゃないかと、彼女は本気で想っているように僕には見えます。 by 征木様

私は、このサイトから発信される寮さんの言葉、お友達の皆さんの言葉に日々の生活のヒントや励ましをたくさんいただいています。
正直に言っちゃいますと、子育てのヒントを子供のいない寮さんから一番いただいているのかもしれない、とも思います。寮さんが人と向き合う姿勢(かっこいい)、寮さん自身の姿(悩んだり、怒ったり、泣いたり、人としてほっとします。)毎日、ここを眺めるたびに元気が出ます。
もちろん、社会的な大事な事柄も鋭く指摘くださり、私に一番足りない目を気づかせてもくださいます。
「私は、このサイトから大きな恩恵を受けています。」と大きな声で、寮さんがいない間に言っちゃいます。



征木某(匿名希望/詫)  名前の誤変換に気がつかず御免ね。 2004年03月04日(木)12時00分16秒
留守の間に言っちまおう。(ドキッとしてね/笑) へのコメント

・・・・・御免。

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