ハルモニア Review Lunatique/意見

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■絵本原稿/イオマンテ めぐるいのちの贈りもの

Wed, 19 May 2004 11:26:52

▼1
わたしは、生まれたばかりの熊のカムイだ。

そこは、くらくてあたたかかった。
かあさんのにおいにつつまれて、
わたしはむちゅうで、ちちをのんでいた。
うとうとしかけたとき、とおくから、なにかきこえた。
だんだんちかくなる。
「なあに、かあさん?」
「あれは、シタの声よ」
「シタ? こわいもの?」
かあさんはだまったまま、小首をかしげ、耳をかたむけた。
そのとき、がさっと雪がくずれ、ちいさな穴がひとつ、あいた。
そこから、ひとすじの光が、棒のようにまっすぐのびてきた。
そのときわたしは、はじめてかあさんの顔をみた。
きんいろにかがやくかあさんの顔。
「だいじょうぶ。ぼうやは、ここにいなさい」
かあさんはたちあがって、光へとまっすぐにあるいていった。
おおきなからだのふちが、きらきらひかった。

▼2
かあさんが、せのびをするようにして穴をのぞいたとたん、
びゅん、と音がした。
「あっ」
かあさんは、ゆっくりと両腕をひろげた。
そして、いきなり背中から、どう、とたおれた。
「しとめたぞ!」
雪のかべがいっきにくずれ、
わあっと光があふれかえった。
まばゆい、まばゆい、白、白、白。
あふれる、あふれる、赤、赤、赤。
かあさんの目からふきだす赤が、
まっ白な雪に、みるみるひろがっていった。
シタがはげしくほえていた。
「めすの熊だ。子熊がいる」
おおきな手がのびてきた。
はじめて人のにおいをかいだ。

▼3
ぼくは、アイヌの男の子だ。

ろばたで木を彫っていたとうさんは、ふと手をとめ、耳をすました。
「雨だ」
ひげのおくに、ほほえみがひろがった。
「熊の子を洗う雨だ」
きょうは、さむさが一気にゆるんだ。雪が、やわらかい雨にかわったんだ。
「こんな雨がふるころには、熊の穴で、きっと子熊が生まれている」
「熊の穴って、あの山の?」
「ああ。おまえといっしょに、秋の終わりにみつけたあのほら穴だ」
もえあがる炎のように赤や黄にそまった森の、
おおきなおおきな木のねもとに、そのほら穴はあった。
きっといまは、なにもかも白い雪のしただ。
とうさんは弓矢をとりだし、
とりかぶとの毒をていねいにぬった。
「この毒はつよい。
どんなおおきな熊でも、
息をするまもなくたおれるぞ」

▼4
あさになると、そこらがみんな星の粉をまいたようにひかり、
おそろしいほどの寒さがもどってきた。
なにもかもが、かちんかちんにこおりついている。
いつもは腰までもぐってしまう森の雪も、
骨のようにかたくしまり、もうどこまでも歩いていける。
「きょうは山へ、キムンカムイをおむかえにいくぞ」
と、とうさんがいった。狩りにいくんだ!
「ぼくも、つれてって!」
「だめだ、だめだ。きょうは、山で泊まりだ。
兎もとれないようなこどもなんぞ、足手まといにしかならん」
とうさんは、かんじきをはき、山の杖をつき、弓と矢を背に、
顔をかがやかせて、山へとはいっていった。
シタが、うれしそうに、とびはねながらついていく。
まっ白な息をはきながら、
のしのし森へはいっていくとうさんたちを、
ぼくは足ぶみをしながら、みえなくなるまでみおくった。

▼5
その日、とうさんはかえってこなかった。
そのまたつぎも、つぎの日も。
そとに出ると、こおりついた夜空に、三つ星がたかくひかっていた。
あれは天のいろりのおき。とうさんもあの星をみているだろうか。

きょうも、とっぷり日がくれた。
それなのに、とうさんは、まだかえらない。
「だいじょうぶかな」
かあさんは、ろばたでシンタをゆらしながら、うたうようにこたえた。
「だいじょうぶ。火のカムイがまもってくださるから」
まきがぱちっとはねて、めらめら炎がたちあがった。
そのとたん、とおくからシタの声がきこえてきた。
そとにとびだすと、月あかりにてらされてきらきらとひかる道を、
とうさんたちが、えものをしょってもどってくるところだった。
せなかが小山のようにもりあがり、
まるで天からおりてくる、りっぱな熊の行列のようだった。

▼6
「ほうら、キムンカムイからのいただきものだ」
いろりばたに、うやうやしくおいたのは、
たっぷりの肉と、みたこともないほどりっぱな毛皮。
それから、とうさんは、ふところをひらいて、
ちいさなけものをとりだした。
「子熊だ!」
ぼくよりもさきに、かあさんがすっと手をのばした。
「おお、よしよし。さむかったでしょう。こわかったでしょう」
かあさんは、子熊をしっかりだいて、おっぱいをふくませた。
子熊は、しがみつくようにしておちちをすった。
「赤ちゃんなんだね」
「ああ、まだ目があいたばかりだ。
けれども、りっぱなキムンカムイだ。
カムイの国からやっていらした、たいせつなお客さまだ」
ぼくは、こわごわ、子熊をのぞいた。
はじめて熊のにおいをかいだ。

その夜は、コタンのどの家もどの家も、
おなかいっぱいオハウをたべた。
あぶらみいっぱいの、とろりとおいしい熊肉のオハウだ。
たべきれなかった肉は、ほそく切って火棚でいぶした。
からだが芯からあったまり、あさまでずっとほかほかしていた。

▼7
子熊はぐんぐんおおきくなって、じきにおちちをのまなくなった。
毛はふわふわで、目はくりくりだ。
かあさんは、ごちそうをつくって、
家のなかのだれよりさきに、いちばんおいしいところをあげる。
子熊はうれしそうに、はぐはぐいいながらたべる。
みているぼくまで、うれしくなる。

おなかがいっぱいになると、子熊はあそびたがる。
ぼくのあとばかりついてきて、まるで小さな妹のようだ。
いろりでちろちろ火がもえていると、
ふしぎそうなかおをして、つっとその手を出そうとする。
「あぶないよ」ととめるのは、にいさんのぼくのやくめだ。

ねむるときも、いつもいっしょだ。うでのなかで、ねいきをたてる。
ときどき、ちゅくちゅく音をたて、夢でおちちをすっている。
やっぱり、かあさんがこいしいんだろうか。

▼8
雪がとけ、草がみどりにもえるころ、
子熊はよほどおおきくなって、
そとであそぶようになった。

ぼくらは野原でかけっこをした。
ぼくがはしると、
子熊もどこまでもどこまでも、
ころがるようについてきた。

きのぼりだって、ずいぶんうまい。
けれども、おりるのはとってもへたで、
いつもあまえた声をだすから、
ぼくがおぶっておりてやった。
いちどはシタにおいかけられて、
あわてて、こずえまでかけのぼったから、
さあ、たいへん。
子熊はこわくてわあわあなくし、
とてもたすけにいけないし、
とうとう、とうさんをよんできて、
おろしてもらったこともある。

▼9
それから、ぼくらはすもうもとった。
子熊はちいさくて、かんたんにころげる。
一度ころがし、二度ころがし、
三度めにころがすと、
子熊はいつもほんきになって、
牙をむいてかかってきた。
それでもあんまりちいさいから、
ころん、とかんたんにころばせるけど、
かわいそうだから、まけてやる。
すると子熊は、さもじまんそうに、
ふん、とはなをならすのだ。

▼10
夏に草木がのびるように、子熊もぐんぐんおおきくなった。
すもうをしても、もう、はんぶんはぼくのまけだ。
それでも子熊は爪もたてない。かんでも、必ずあまがみだ。

ある日、むちゅうで魚とりをしていたら、
いつのまにか、子熊がいなくなっていた。
青くなって、大声でよびながら川原をはしった。
ひとりで森へかえってしまったのだろうか。
太陽はもりあがった山のむこう、
雲のふちが金色にかがやいていた。
そこからあふれた光が、
空いっぱいにひろがっている。
川は金の小舟をうかべたように、
まぶしくきらきらひかっていた。
息をきらせ、目をほそめてよくみると、
むこう岸の石ころだらけの川原に
ぽつんと、ずぶぬれの子熊がいた。
すわりこんで、
ぼんやり空をみあげている。
ばしゃばしゃ水のなかをはしっていくと、
子熊はやっと気づいてふりむき、
ひと声おおきくないた。
なんだかせつない声だった。
ぼくにむかってまっしぐらにはしってきて、
ざぶんと水にとびこんだ。
けれど、流れがあんまりきゅうで、子熊は流されそうになる。
やっとの思いで子熊をだいて、ようやく岸にもどったときには、
空はもう、こわいほどまっ赤にもえていた。
子熊はふるえながらぼくにしがみつき、空をみあげた。

空にむくむくのびる雲は、まるでおおきな熊のかたち。
夕焼けで、血のように赤くそまっていた。

▼11
「だから、つなをつけろといっただろう」
しかられるかとおもったけれど、
ひとこと、そういわれただけだった。
とうさんは、子熊のあたまをぐりぐりなでて、
「そうか、そうか。もうひとりで川をわたれるのか」
と、目をほそめた。
「どうだ。すもうはまだ、子熊がまけてばかりか」
「はんぶんは、ぼくのまけだよ」
そういうと、とうさんはおおきくうなずいた。
「そうか。子熊もずいぶんおおきくなった。力もよほど強くなった。
そろそろ、家をつくってさしあげなければいけないな」

とうさんがつくったのは、丸太で組んだおりだった。
子熊は、昼も夜も、そこでくらすことになった。
夜になると、チセにいれてくれと、かなしげな声でないた。
その声がせつなくて、ぼくは耳をふさいだ。

▼12
秋になった。
森は赤や黄にそまり、どんぐりやくるみでぎっしりとうなるほど。
やまぶどうやこくわのあまい香りが、もうどこにでもただよっていた。
川は、さけでいっぱいになって、うるうる銀色にもりあがる。
人も熊もきつねもとりも、みんな、かがやく光のなかだ。
ああ、ここに子熊がいればと、ぼくはなんべんおもっただろう。
子熊のために、ぼくはいちばんあまいこくわをつみ、
高くはねるさけをとった。

子熊はますます大きくなり、
毛は金色にかがやいて、
爪も牙もよほどりっぱになった。
それでも、しぐさはまるでこどもで、
ぼくがそばにいくだけで、さもうれしそうにのどをならす。
丸太のあいだから手をいれると、ぐいぐいはなをおしつけてきて、
いつまでも、森と川のにおいをかいでいる。

▼13
風に雪のにおいがするとおもったら、白いものがふってきて、
それから三日ふりつづき、あたりはすっかりまっ白になった。
冬のはじまりだった。

ある日、けだものがほえるような声がして、
おどろいてみにいくと、
子熊がおりのなかであばれていた。
ふりしきる雪に、しきりにほえかかっている。
「どうしたの。おおかみでもきたの?」
いくらなだめても、子熊はいっこうおさまらない。
そばへよるのもこわいくらいだ。
すると、とうさんがやってきていった。
「心配するな。
そろそろ、カムイの国にかえりたくなったんだ」
「カムイの国って?」
「この子のかあさんがいるところさ」
ああ、かあさんにあいたいんだ。
だから、こんなにほえるんだ。
「おぼえているかい。この子が来た日のことを」
どっしりとした肉のかたまり、りっぱな毛皮。
そしてとうさんは、ふところから子熊をだした。
やっと目があいたばかりの、ちいさな子熊を。
「この子のかあさんはね、
たくさんの肉をせおい、毛皮の服をきて、
カムイの国から、わたしたちのところに
あそびにきてくださった。
そして、この子をわたしたちにあずけ、
カムイの国へかえっていかれた。
いまごろはカムイの国で、この子がくるのを、
いまかいまかと、まってるだろう」
とうさんは、ぼくの肩にそっと手をおいた。
「だから、この子を送ってやろう。カムイの国へ」

▼14
ぼくは知っている。
送るということを。
川でさけをとるときに
やなぎの木でつくった
きれいな棒でたたくんだ。
すると、さけは死ぬ。
送られて、カムイの国へもどる。

子熊を送るのも、おなじことだ。

▼15
熊送りがきまると、
家のなかがきゅうにいそがしくなった。

とうさんたちは、
山へ木を切りにいった。
かえってくると、
みんなでイナウづくりだ。
木にマキリをすべらせると、
するすると、はなびらのような
けずりかけができて、
みるみるきれいなイナウになる。
「カムイたちは、
イナウがとてもすきなんだ。
イナウはカムイへの
大切なおみやげなんだよ」

かあさんたちは、
ひえでお酒をかもした。
いく日かすると、シントコから
いいにおいがしてきた。
フチたちがやってきて、
うたいながらお酒をこした。

とうさんたちは、
イナウや花矢をつくるのにいそがしく、
かあさんたちは、
ごちそうのしたくで、てんてこまいだった。
みんなみんな、熊送りのしたくでおおわらわだ。

いつも人があつまって、にぎやかだった。
心がうきうき、うきたつようだ。
けれども、ぼくはくるしかった。その日がくるのが、こわかった。

▼16
その日、空はきいんと青くはれ、
雪はいたいほど白かった。

チセの壁には、花ござがかざられ、
子熊へささげるおだんごや
木の実や宝物でいっぱいだ。
とうさんは、あたらしい冠をかぶり、
刺繍の着物に陣羽織。
なんだか、ずいぶんりっぱにみえる。
やがて、エカシがやってきて、
火のカムイにお酒をささげ、カムイノミがはじまった。
火はめらめらともえあがり、
お酒の滴が、炎のなかでじゅっという。
エカシの声がひくくひびき、
たくさんのカムイノミが、つぎからつぎにささげられた。
そして、とうとう子熊が、おりからだされるときがきた。

▼17
子熊の首につながつけられ、おりの丸太がはずされた。
やっとおりからでられた子熊は、ぼくをみて、うれしそうにかけてきた。
けれども、ぴんとつながはり、ぼくのところへこられない。
子熊はおこってたちあがる。
その子熊のはなさきで、笹の葉のたばを、ばさばさゆらす人がいる。
子熊を遊ばせるんだというけれど、
まるで、わざとおこらせているみたいだ。
子熊はつなでひかれていって、ひろばの杭につながれた。
さんざん笹であそばされ、子熊はいよいよたけりくるう。
体がぶるぶるふるえてる。
「なんておどりのうまい子熊だ」
「もうすぐカムイの国にかえれるので、
あんなによろこんでいらっしゃるよ」
「さあ、カムイにうたとおどりを楽しんでいただきましょう」
まるで旅立つ子熊をはげますように、
みんなぐるぐる輪になって、うたっておどって、手拍子をとる。

▼18
やがて、子熊に花矢が射られる。
きれいなもようのついた飾り矢だ。
みんな、さきをあらそって矢をひろう。
ぼくは一歩もうごけない。
心の臓がどきどきして、
ただただ目をみひらいていた。
うたと手拍子がごうごうひびく。
子熊がその手で、射かけられた花矢をはらった。
それが、まっしぐらに足もとにとんできた。
「さあ、とってくれ。おまえのものだ」
どこからか、ふいにそんな声がして、
ぼくははっと気づき、
いそいで花矢をひろいあげた。
子熊をみると、ぼくをまっすぐみつめている。
そのままがくっと足をおり、
子熊はじっとうずくまってしまった。
すると、エカシがしとめ矢を、
鋭くとがった矢をつがえ、きりりと弓をひきしぼる。
ひょう、と矢がいられた。
子熊は短くさけび、はねるように雪にたおれた。
ぐさりと胸にささった矢の、
矢羽根がふるふるふるえている。
「いまこそ、カムイが旅立ちます。
さあ、がんばって、がんばって」
かあさんたちがなきながら、
さけぶようにうたっている。
とうさんたちはかけよって、
子熊の首を丸太にはさみ、馬のりになってしめつける。
ぼくは、花矢をにぎりしめた。
もうすぐだよ。すぐに帰れるからね。
ぼくは、ぜったいに目をとじない。
おまえが旅立つのをみおくるんだ。

▼19
わたしは、ちいさな熊のカムイだ。

気がつくと、わたしは
自分の耳と耳のあいだにすわっていた。
美しい花矢が、空のはてへとかけてゆく。
あれは、天へのしらせの矢。
かあさんは、
もうすぐわたしが帰るというしらせを、
うけとっただろうか。

▼20
まっ青な空から、ばらばらと
くるみやだんごがふってきた。
人々はみな声をあげ、
たのしげにそれをひろっている。
こんな雪のまっただなかで、
アイヌの国は、
なんとゆたかなところだろう。

おや、つなひきがはじまった。
あちらは男、こちらは女。
がんばれ、がんばれ。
どちらも、がんばれ。
わたしもおもわず、つなをひく。
おやおや、こんどはすもうだぞ。
弓くらべも、はじまった。
わたしは、ゆかいでたまらない。

首になわをつけた男が、
あばれるわたしの
まねをしている。
女やこどもはにげまどい、
大の男もかるがると
雪のなかへと、なげとばされる。
みんなはどっとわらいだす。
わたしも腹のそこからわらう。

やあやあ、うたがはじまった。
たのしいおどりもはじまった。
わたしもうたい、
わたしもおどる。

ああ、アイヌの国は、
なんとたのしいところだろう。

▼21
ぼくは、アイヌの男の子だ。

子熊の毛皮ははがされて、肉は枝につるされた。
つなひきをしたり、うたったり、みんなはそれはおおさわぎ。
なにもかもが夢のようで、うれしいんだか、かなしいんだか、
ぼくは、あたまがぼうっとなった。

▼22
きれいにかざった子熊のあたまを、
チセにまねいてごちそうだ。
だんごにお餅にいなきびごはん、魚や煮物、
お酒もたっぷりふるまわれる。
のんで、うたって、おどって、たべて。
チセは、わらいごえでいっぱいだ。

それから、肉のオハウがでてきた。
あぶらみばかりの、
とろりとおいしい、あつあつのオハウだ。
おいしい、おいしいとぼくはたべ、
それからふいに思いだした。

これは、あの子熊の肉。
ついさっきまで、子熊だった肉。
ぼくは、子熊をたべている。

ああ、あのときもそうだった。
子熊がここにきた夜に、
おなかいっぱいオハウをたべた。
あれは子熊のかあさんの肉。
ぼくは、子熊のかあさんをたべたんだ。

それだけじゃない、みんなみんな、
魚も、鹿も、きびやくるみも、
ぼくは、いのちをたべている。
みんなのいのちをたべている。
ぼろぼろ、なみだがこぼれてきた。

「なくんじゃない。
子熊のカムイがかなしまれるぞ」
エカシが、ぼくをはげました。
「さあ、たのしく送ってさしあげよう」

▼23
わたしは、ちいさな熊のカムイだ。

夜ふけになると、ユカがはじまった。
ろばたをたたいて拍子をとって、
かたるはカムイのだいぼうけん、
手に汗にぎる、うたものがたり。
さあ、どうなるか、どうなるか、
さあ、いまこそとおもったとたん、
エカシはぷつりと、やめてしまった。
「このつづきは、またこんど。
ふたたびコタンに、いらしたおりに
ゆっくりおきかせいたしましょう」
ああ、きっともどってこよう。
かならずここに、もどってこよう。
わたしは、かたく心にきめた。

いよいよ別れのときがきた。
わたしは、耳にたかだかとイナウをかざられ、
闇のなかへとあゆみだす。

▼24
星々がおそろしいほどきらめいていた。
美しい花矢が、山のいただきめがけてかけてゆく。
ながれ星のように光の粉をまきながら、深い闇を切りさいてゆく。
空にひしめく魔物はしりぞき、銀色の道があらわれる。
カムイの国へとつづく道だ。

アイヌのくれた酒のひと滴は、カムイの国では六樽の酒だ。
山のようなみやげをせおい、わたしは銀の道をゆく。
カムイの国がちかづくと、そこらはとてもまぶしくひかり、
そのむこうから、かあさんのやさしい声がした。

▼25
ぼくは、アイヌの男の子だ。

夜が明けると、野にも、
たかくかかげられた子熊の頭にも、
うっすらと雪がふりつもっていた。
「ゆうべ、あんなに晴れてたのにね」
そういうと、エカシはとおい山をみつめ、
大きくひとつ息をした。
「キムンカムイが、ご自分の足跡を消すために
雪をおふらしになったんだ。
ふしぎなもんだ。
それがどんなに晴れた夜だろうと、
キムンカムイをお送りしたあとは、
かならず夜明けに雪がふる。
さらさらと流れるようなこな雪が」
しんとつめたい風のなかに、光の粉が舞っていた。

「熊の子を洗う雨」がふったのは、
それからまもなくのことだった。

▼26
いちめんの白が緑にかわり、はげしい夏の光がみちて、
実りの秋には赤や黄になり、またいちめんの白になる。
いくつもの季節がとぶようにすぎていった。

こどもはすっかりいい若者になり、狩りの腕はコタンでいちばん。
ユカもコタンのだれよりうまく、みんながそれをききたがる。

▼27
ある年のこと、太陽は雲のむこうで白くかすんでいるばかり、
秋になっても、木の実は実らず、畑のひえも実がはいらない。
鹿は森から消えてしまい、さけもすこしものぼってこない。
赤毛のあばれ熊が山からおりてきて、夜な夜なコタンをおそった。
あのウェンカムイをやっつけてくれと、若者はみんなにたのまれた。

その夜、若者は夢をみた。
こどものころにいっしょにくらした、あの子熊の夢だ。
子熊はひとり、夕ぐれの川原で、ぼんやり空をながめていた。
雲のふちを金色に輝かせた光が、空いっぱいにひろがっていた。
子熊は、こちらをふりむくと、泣くようなわらうような顔をしたのだ。
めざめると、若者はおもった。
ああ、あの子熊がウェンカムイになったのだ。
子熊よ、あんなにやさしくしたのに、なぜそんなものになったのだ。
若者は、首からかけたひもをちぎってなげた。
ひものさきには、あの日の花矢がついていた。

▼28
若者が川原にいくと、そこには小山のようにおおきな熊がいた。
とおいあの日のように、すわりこんで、ぼんやり空をながめていた。
若者がそっとちかづくと、熊は気づいてこちらをふりむき、
にわかに両腕をおおきくひろげ、ぐわっとたちあがった。
太陽を背にして、顔もなにもかもまっくろだ。
毛皮のふちだけがきらきらと金色に輝いている。
若者はあわてず矢をつがえ、熊にむかってひょうとはなった。
熊は両手でその矢をおしいただくようにして、
それから、ばったり前にたおれた。

▼29
近づいて顔をつかみあげると、
血のりでまっ赤にそまっていた。
手も足も胸も血まみれだ。
たった一本の矢で
こんなに血まみれなはずはないと、
若者がふしぎにおもってみれば、
川原に点々と、血のあとがある。
おどろいて、そのあとを追うと、
川のなかで赤毛の熊が死んでいた。

熊は、若者をたすけるために、
カムイの国からやってきたのだ。
いのちがけでウェンカムイをたおし、
ここで若者をまっていたのだ。
カムイの国からかついできた、
肉と毛皮を手わたすために。

「わるかった、わたしがわるかった。
おまえが、ウェンカムイに
なるはずがないのに」
若者は、声をころしてないた。
そして、小枝で石をたたき、
低い声でユカをうたいはじめた。
あの日、途中で終わったユカのつづきを。

▼30
若者は、酒とイナウをささげ、ていねいにキムンカムイを送った。

その夜のことだ。
夢にキムンカムイがあらわれ、若者にかたりかけた。
「若者よ。どうか、あの赤毛の熊も送ってやってくれ。
このごろ、山にはたべものがなく、
強い熊なら生きていけるが、弱い者はどうしようもない。
あれは、愚かな峰じりの熊。しかたなしに山をおりたのだ。
強いからではない。弱いからウェンカムイになったのだ。
どうか、ゆるしてやってくれ。
ただ一本のイナウでいい。まつってやってほしい。
そうすれば、あれもカムイのすそに名をつらねられる。
心をいれかえ、おまえの守り神になるだろう。
わたしも、おまえが死ぬまで、おまえを守りつづけよう」

若者は、美しいイナウをつくり、赤毛の熊をまつった。

すると、森には鹿がもどってきて、川にはさけがのぼってきた。
それからというもの、コタンは二度と飢えることがなかった。

やがて若者は、心の美しい女を妻にし、こどもにもめぐまれた。
山にいけば、いつも必要なだけのえものがとれ、
これといってほしいものもなく、たべたいものもないというほど、
なにもかもがみちたり、しあわせにくらしたということだ。

▼31
その若者が、わたしなのだ。
だから、こどもたちよ、よくおぼえておくんだ。
わたしたちは、いのちをたべている。
いのちと魂との、おおきなめぐりのなかにいる。
すべては、めぐるいのちのめぐみ。
すべては、めぐるいのちのめぐみ。

と、ひとりの老人がいいながら、静かに息をひきとりました。

▼注
この絵本は、アイヌ民族の熊送りの儀礼「イオマンテ」を題材に、新たに創作したものです。文中のカタカナ表記はアイヌ語、そのルビは日本語訳。十勝地方で使われてきた言葉を中心に使用しました。

注1
カムイ 神。人間以外のすべてのものに対して精神的な働きを見、それを擬人化したもの。
注2
キムンカムイ 直訳すると「山の神さま」。熊を指す。
注3
オハウ 肉や魚、野菜などをいれて煮込んだ汁物。
注4
イナウ 木を削り、その削りかけを残してつくった御幣。カムイノミの大切な道具のひとつで、人間の言葉や思いを神に伝える仲立ちをする。
注5
シントコ 行器(ほかい)。食物を運んだり貯蔵するのに使う脚つきの器。漆塗りのものが本州の和人からもたらされた。
注6
カムイノミ 神への祈りの儀式。またそのための祝詞。
注7
ユカ アイヌ民族に口承されてきた英雄叙事詩。節をつけ、棒で拍子を取りながら、歌うように語られる。十勝では「サコペ」と呼ばれるが、本書ではあえて、より広く親しまれている「ユカ」という言葉を採用した。

 Copyright by Ryo Michico

■インドみやげ/わたしの「ガンガー物語」

Sun, 04 Apr 2004 18:24:31

小説「楽園の鳥」のラストシーンに、ガンガー(=ガンジス河)の河口の風景を書き足したくなり、2004年2月25日から3月25日の丸一ヶ月の間、取材のためインドを訪れました。

ガンガーはヒマラヤにその源流を発し、インド亜大陸を西から東へと横断して、その下流で世界最大のデルタ地帯を形成し、無数の流れとなってベンガル湾に注ぎます。わたしは、カルカッタからガンガーの支流のひとつであるフーグリー川を南下、その名も「ガンガサガル(ガンガーが海となる場所)」という聖地を訪れました。それは、ガンガーのデルタ地帯に無数にある島のひとつであり、その最南端のベンガル湾を望む静かな、そして不思議な力に満ちた場所でした。

その海岸には、ひとつの寺院が建っていました。「カピル牟尼マンディール(聖仙カピルの寺)」と名づけられたその寺からは、海に向かってまっすぐに参道があり、その参道が終わり、土が砂に変わる場所には、粗末な布や椰子の葉で小屋がけをして暮らすサドゥ(ヒンドゥー教の行者)たちが砂の上で暮らしているのでした。その小屋の前には、ガンガーの泥でつくった極彩色の神さまたちの像が置かれ、巡礼者たちはその像にわずかなお布施をしては海に向かいます。

その砂浜というものがまた想像を絶する広さで、満潮時でも幅三百メートルはあり、満月の日、潮が引くと、そこからさらに三百メートルは波が遠のいて、さらに遠くの海の中に砂州の島が浮きあがるのです。

人々は海岸で祈りを捧げ、海へと供物を投げて、神聖なる沐浴をします。最大の祭りは一月中旬の大潮の日と決まっていて、その一週間前から続々と人が集り、小さな島は五十万人を超える人で溢れかえるといいますが、時機を逸したこの時、訪れる人もまばらでした。それでも、ぱらぱらと人がやってきては、沐浴を果たして帰っていくのです。

そのような島に、ガンガーの伝説が残っていました。いかにして天を流れる神聖なるガンガーを地上に導いたかという物語です。わたしは、その物語を村の安食堂の店主リシケシュから聞き、またアシュラム(修行道場&巡礼宿)のお坊さんから聞きました。そして、その物語が遠くヒマラヤの源流の物語にも及び、わたしがかつて訪れたヒマラヤ山中で見聞きした物語と重なり合うことに、改めて驚きを感じたのでした。

その物語は、インドの二大叙事詩といわれる「ラーマーヤナ」と「マハーバーラタ」にも記されています。しかし、ガンガサガルではその二大古典とはわずかにブレもありました。そもそも、二世紀末に成立した「ラーマーヤナ」と四世紀に成立といわれる「マハーバーラタ」でも、物語にブレがあるのです。

それは、文字を持った支配者階級だけではなく、物語が吟遊詩人を通じて民衆にももたらされ、熱狂的支持を得て広がり、その土地土地の物語を習合して複雑に発達したことの証でもあるのでしょう。

ヒマラヤの源流から支流に至るまで、一筋の大河のようにとうとうと流れる物語。河のように水を集め、また分かれながら流れ続ける物語。河の水が涸れることがないように、遠い年月を経ても失われることのないその力。

どうみても濁っている汚れていると思われるガンガーに身を浸し、沐浴して祈る人々の姿を、わたしは無数に見てきました。源流でも、中流でも、下流でも、それは変わりません。焼かれた遺体の灰が流れる脇で沐浴する人々。そればかりか、泥や糞尿、塵芥が流されるそのすぐ脇で、人々は平然と沐浴します。ガンガーの泥を体中に塗りつけている人もいれば、塵芥と糞尿が混ざった川岸の泥に何杯も何杯もわざとのようにバケツで水をかけ、泥を溶かして沐浴場に流す人もいます。沐浴しているすぐ隣で塵を河にぶちまけていく人がいます。そして、それをだれもとがめないのです。わたしには、それが不思議に思えてなりませんでした。いくらガンガーの水が神聖とはいえ、なぜこのようなことができるのかと、謎だったのです。

その背後にヒンドゥーの神話があることはわかっていました。しかし、いまひとつそれを深く心で感じることができないでいたのです。あまりにも荒唐無稽な、そしてあまりにもこみいった不可解な物語でしかありませんでした。

しかし、ヒマラヤ山中で源流を見、ヴァラナシの沐浴場で沐浴する人々を見、河口で聖地ガンガサガルを見て、わたしの中を流れるガンガーが海へとたどりついた時、わたしにはそれが少し理解できるような気がしてきたのでした。とうとうと流れる物語の力。インドの山中に無数の神像を彫らせたのも、泥だらけの河の水を神聖と受けとめて沐浴するのも、町の辻々に神さまが祀られているのも、人々が当然のようにそこに手を合わせ、頭を下げて行きすぎるのも、すべて背後に強力な物語があるからです。物語なくしては、それはありえないことだったでしょう。

わたしは、人々の心のなかを貫き流れ続ける「物語」というものに深く打たれました。人々の日々の生活を律し、夢を与え、心の安らぎを与え、過酷な現世に絶望しかけた人にも来世の希望を与える物語。だからこそ、きょうこの日を精一杯生きようと深いところから力を与えてくれる物語。わたしは、伝え聞いたその物語を、ひとりの吟遊詩人となり、わたしの口から語り直してみたくなったのです。

帰国して、わたしなりの「ガンガー物語」を語ってみました。「ラーマーヤナ」と「マハーバーラタ」、そしてガンガサガルで口伝で聞いた物語をひとつにして生まれた「わたしの」古くて新しい物語です。学術的価値などまったくありません。けれども、物語を素手で受けとめた心の驚きを、なんとかしてみなさんにも伝えたいと思いました。物語の運びと神名・人名は、ガンガサガルでの伝承に基づきました。

これが、わたしからみなさんへのインドのおみやげです。まだ手を入れるべきところもあるかとは思いますが、一刻も早くお伝えしたいと思い、ここに第一稿を掲載します。ガンガーの生命の力強さ、人々のガンガーへの思いの欠片でも伝えることができれば幸いです。

                              2004年4月 寮美千子

[口承]
Hrisi Kesh Mondal @ Ganga Sagar/Hrisi Kesh Restrant 店主
Siebhas Maharaj @ Ganga Sagar/The Bharat Sevashram Sangha 修行僧
ほか、ガンガサガルの人々

[参考文献]
「ラーマーヤナ1」ヴァールミキ 岩本裕訳(平凡社東洋文庫1980)より
 サガラ王の物語
 サガラ王の王子たちによる供犠の馬の探索
 カピラの出現
 サガラ王の祭典の完了
 ガンガーの降下のためにバギーラタ王の努力すること
 ガンガーの降下
 サガラ王の王子たち天国に達すること

「マハーバーラタ第二巻」山際素男編訳(三一書房1992)より
 アガスティアの偉業
 天から落ちたガンジス

「マハーバーラタ第八巻」山際素男編訳(三一書房1997)より
 ガンガーの無限の功徳

「原典訳マハーバーラタ3」上村勝彦訳(ちくま学芸文庫2002)より
 海水を飲み干したアガスティア
 サガラ王の息子たち

「マハーバーラタ インド千夜一夜物語」山際素男(光文社新書2002)
「インド神話―マハーバーラタの神々」上村勝彦(ちくま学芸文庫2003)
「インドの夢・インドの愛―サンスクリット・アンソロジー」上村勝彦・宮本啓一編(春秋社1994)
「古代インドの宗教 ギーターの救済」上村勝彦(NHK出版1995)
「バガヴァッド・ギーターの世界―ヒンドゥー教の救済」上村勝彦(NHKライブラリー1998)
「インド神話」ヴェロニカ・イオンズ著 酒井傳六訳(青土社1990)
 ※この翻訳は最低で論外だったが資料としては役立つ面もあった
「ラーマーヤナの宇宙 伝承と民族造形」金子量重・坂田貞二・鈴木正崇(春秋社1998)
「インド神話伝説辞典」菅沼晃編(東京堂出版1985)
「ヒンドゥー教」ニロッド・C・チョウドリー著 森本達雄訳(みすず書房1996)
「ヒンドゥーの神々」立川武蔵・石黒淳・菱田邦男・島岩(せりか書房1986)
「ヒンドゥー教とインド社会」山下博司(山川出版社1997)
「ヒンドゥー教―インドの聖と俗」森本達夫(中公新書2003)
「インド・アート[神話と象徴 ] 」ハインリッヒ・ツィンマー著 宮本啓一訳(せりか書房1988)
「インド神話入門」長谷川明(新潮社とんぼの本1987)
 ※インドの大衆向け神さま絵画が多数収録されている
「シヴァと女神たち」立川武蔵(山川出版2002)

ガンガサガル小冊子(ベンガル語版)

注1)現地のおみやげ物として、本土からサガル島への渡し船のなか、またガンガサガルのバス停付近の書店(単なる小屋)で10ルピー(約25円)で売られていました。表紙には、ヒマラヤ山脈のシヴァ神の髪から流れでる源流、ジャンヌ牟尼に飲みこまれその膝から再び流れでる中流の風景、そして河口のカピル牟尼とバギラット王の物語が一枚の絵の中に描かれています。武器を持ち、魚に乗っているのは、ガンガーの女神ガンガマータです。

注2)表紙絵のなかで、ジャンヌ牟尼は自らの膝に刃物を立ててガンガーを解放しています。「ラーマーヤナ」にも「マハーバーラタ」にも、この記述はなく、「両耳から水を流してガンガーを解放した」という記述になっています。寮美千子版では、ガンガサガルの言い伝えに従いました。


注3)寮美千子版本文中にはカピル牟尼が、軍勢に向かって水を撒くシーンが描かれています。「ラーマーヤナ」にも「マハーバーラタ」にも、「水を撒き、発火する」というシーンはありません。「ただのひと睨みにより燃やして灰にした」という記述になっています。寮美千子版では、ガンガサガルの言い伝えに従いました。



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■大地に流れおちた天の河 聖なる河ガンガーの物語 

Sun, 04 Apr 2004 16:52:48

むかしむかし おおむかしのこと。
天の世界に ひとすじの美しい河が流れていました。
流れる水は清らかな乙女の髪のようにゆたかに波打ち
銀や金の鱗をひるがえして跳ねる魚たちは
その髪を彩る無数の宝石のよう
水は 終わることのない天の楽の音のごとく
とうとうと永久の流れをめぐっていました。

河の名はガンガー。
天にそびえるヒマラヤ山脈の娘。
その神聖なる水にふれれば
いかなる罪も深き業も
水の泡 はかなく消えるがごとくに
たちまちのうちに消え去り
天上界は それゆえに
どのひとときも
生まれたばかりの赤ん坊のように
ただひとかけらの陰りもなく
まばゆいばかりに光り輝いているのでした。

そのころはまだ ガンガーは天なる河。
地上には ただのひと滴も流れてはきませんでした。
それゆえ 地上には悪と罪とがあふれ
果てなき闇に包まれていたのです。

その地上に ショゴルという名の王がいました。
王にはたいへんな徳があり 民はみな王を慕い
王もまた 民を深くいつくしんでおりました。
王には ケーシニーとスマティという二人の美しい妃がおり
きらびやかな王宮で なに不自由ない暮らしを楽しんでおりましたが
ただひとつ 嘆きがありました。
二人の妃には 子どもが生まれなかったのです。

王は 天空の神々に 子どもを授けてくれるよう祈ろうと
二人の妃をともなって ヒマラヤの山高く登りました。
身を清め 苦しい行をおこなって 神々に祈りつづけました。
二人の妃も 豪奢な着物を脱ぎ捨て
粗末な衣に身を包んで 深く祈りました。
そして 百年の月日が経た時
祈りはようやく神に通じ 天から声が響きました。
「ショゴル王よ。そなたの妻の一人は 玉のような男の子を生み
もう一人の妻は 六万の勇敢な息子を生むであろう」

神に深く感謝して 城にもどると
はたして ケーシニー妃は 玉のような男の子を授かり
スマティ妃は ひとつの瓢箪を生み落としたのでありました。
ショゴル王は驚き 思わずその瓢箪を投げすてようとしましたが
その時 再び天から ろうろうと声が響きました。
「王よ 早まるではない。
瓢箪から種を取り その種をひとつづつ
乳から作った聖なる油を満たした壺に入れよ」
王がその通りにいたしますと 種はきっかり六万粒あり
その種を入れた六万個の壺から 六万人の息子が生まれました。

ところが 六万人の王子たちの心のねじまがったこと 
獰猛なことといったらありません。
子どもたちを川に投げいれては 溺れるのを見て笑いころげ
罪もない村人たちに 喧嘩を売っては打ちのめすのでした。
ショゴル王は それを見ても うれしそうに目を細めて微笑むばかり。
これが後に あのような悲劇を招こうとは 王は知る由もないのでした。

やがて時が経ち 息子たちは 神の予言どおりの勇敢な青年に成長しました。
ショゴル王は 穢れを払い 神々から祝福を得るために
天空の神々に馬を捧げる 盛大な馬祭りを執り行うことにしました。
地上を駈ける馬のなかから 選びに選び抜いて
もっとも美しくたくましく足の速い馬を一頭 用意し
その馬を 丸一年の間 馬の思うがままに歩かせ
その後に 生贄として神々に捧げ それを祝うのです。
一年の間 大地を自由に動きまわる馬の護衛は 
ショゴル王の六万人の王子たちに任されました。

いよいよ 馬が放たれる日です。
馬は待ちかねたように ひと声大きくいななき 
柵が開かれたとたん 疾風のように駈けだしました。
草原をひとまたぎにし 見上げるような山にやすやすと駈けのぼり 
目もくらむ崖を一気に駈けくだり 千尋の谷を軽々と飛びこえ
疲れも知らず 縦横無尽に大地を駈けめぐるのでした。
しかし さすがはショゴル王の六万人の王子です。
馬を見失うことなく どこまでも着いていくのでした。

馬が大地の果てまで駈けてきたときのことです。
六万人の王子たちは息をのみました。
はげしい日照りのため 海がすっかり干上がり
からからに乾いた底が果てしなく見えているのです。
馬は 大きくいななくと 乾いた海の底に駈けこみました。
そのとたん まるでかき消したかのように 
馬の姿は見えなくなってしまいました。

驚いた六万人の王子たちは 一気に海の底になだれこみ
その果てから果てまで 隈なく探しまわりました。
ところが いくら探しても 馬は見つかりません。
馬のあまりの美しさをねたんだインドラ神が
海の底の底 地の底の底へと 馬を隠してしまったのです。
六万人の王子たちは 打ちひしがれ
父王ショゴルのもとへと 頭を垂れてもどっていきました。

馬を見失ったと聞くと ショゴル王は顔色を変えていいました。
馬祭りには 王の威信がかかっています。
「なにをしておる。すぐに戻って探すのだ。
地の底の底まで掘りかえしても 必ず探しだしてこい!」

六万人の王子たちは 干上がった海へととってかえし
乾いて固くなった海の底を 素手で掘りはじめました。
息子たちの腕は驚くばかりに頑丈で
その爪は金剛杵のように固く 鋤のように鋭かったので
穴はみるみる深くなりました。
そのため 海の底に潜み 
ようようのことで命をつないでいた 無数の魚や鰐や蛇は
無惨に切り刻まれ 息絶えてしまいました。
また 地の底に住む 龍 阿修羅 羅刹たちも 
微塵に切り刻まれ 殺されてしまいました。
その死骸が 山と積まれても 王子たちは目もくれません。
王子の一人一人が脇目もふらず一ヨージャナを掘り進め
とうとう六万ヨージャナの深さまで掘りましたが
なんということでしょう それでも 馬は見つからなかったのです。

王子たちがそのことをショゴル王に伝えると
いつもは温厚な王も この時ばかりは怒りをあらわにいいました。
「馬なくしては 儀式も祭りもできないではないか。馬を探せ!
もっと掘れ。なにも恐れることはない。掘って掘って掘りまくれ。
馬を見つけるまで 二度と戻ってくるなっ!」

王子たちは すごすごと海の底にもどり 再び掘りはじめました。
懸命に掘り進み とうとう地獄にまでたどりつきました。
それでも馬は 見つかりません。
六万人の息子たちは さらに掘り進めました。
すると
その東の果てで 大地の東を支える大象を
その西の果てで 大地の西を支える大象を
その南の果てで 大地の南を支える大象を
その北の果てで 大地の北を支える大象を掘りだしたのです。
この大象が疲れて首を揺すると
地上では 大地震が起きるのでした。
六万人の王子たちは それぞれの大象を深く敬って右回りで礼拝した後
さらに深く掘り進めました。

すると とうとう大地の底の底で あの美しくたくましい馬が
ゆうゆうと草を食んでいるのを見つけたのです。
馬のそばの木陰では ひとりの老人が瞑想にふけっていました。
それは 大地の女神の夫であり
いつも大地を支えているクリシュナ神の化身 カピル牟尼でした。
そんなこととは知らない 六万人の王子たちは
カピル牟尼を馬盗人だと思いこみ 
馬を取り戻そうと たいへんな勢いで突進してきました。

馬盗人の汚名を着せられ 深い瞑想を妨げられたカピル牟尼は
閉じていた目をかっとあけ 王子たちをにらみつけました。
しかし 心はやる王子たちは 少しもひるみません。
怒ったカピル牟尼は 傍らの水壺に指を浸し
指先の滴を ぱっとまき散らしました。
滴は四方八方に飛び散り 
六万人の王子たちに突然の雨のごとく隈なく降り注ぎました。
そのとたん あたりは激しく光り 
王子たちの体が いきなり火を噴いて燃えあがりました。
紅蓮の炎は 空を焦がすほど高く舞いあがり
六万の王子たちは 一瞬のうちに灰となって
大地に崩れ落ちてしまったのです。

悲劇の顛末は 鳥から人へ 人から鳥へ そしてまた人へと伝えられ
とうとう 城で王子たちの帰りを待ちわびるショゴル王の耳に届きました。
ショゴル王は驚き そして深く嘆き悲しみました。
王は孫のオンシューマンをかたわらに呼びよせました。
オンシューマンは もう一人の妃ケーシニーの息子アサマンジャの息子で
勇者のほまれ高く 学問もよく修め 光り輝くばかりの青年でありました。
「オンシューマンよ 自らの威光で光り輝く者よ。
生贄の馬を探し ここへ連れ戻してほしい。
おまえなら きっとできるはずだ」
ショゴル王はさらにこうつづけました。
「おまえの六万人の叔父たちは わたくしの命で馬を探して地の底まで訪ね歩き 
挙げ句の果てに カピル牟尼の怒りに触れて 灰になってしまった。
罪にまみれた王子たちの魂は いまだ冥界をさまよっている。
わたくしは あの息子たちが不憫でならない。
どうか わたくしの息子たちの灰に出会ったら 
その魂が救われて天国に赴けるよう 水の供養をしてやってくれ」
オンシューマンは必ずそうしますと約束し 
弓と矢とを持って 意気揚々と出発しました。

オンシューマンが 深い穴をどこまでも降り
地獄を越えてさらに歩いていくと
その東の果てで 大地の東を支える大象に
その西の果てで 大地の西を支える大象に
その南の果てで 大地の南を支える大象に
その北の果てで 大地の北を支える大象に出会いました。
オンシューマンは それぞれの大象を深く敬って右回りで礼拝しました。
すると 大象はみな オンシューマンにこういいました。
「アサマンジャの子にして ショゴル王の孫 オンシューマンよ。
そなたは 無事 馬を連れて戻るであろう」
オンシューマンはその言葉に勇気を得て さらに深く降りていきました。

オンシューマンはやがて 一面が灰で埋め尽くされた野にたどりつきました。
そこが叔父たちの殺された地であることを悟ったオンシューマンは
悲しみに胸がつぶれ 叔父たちの無念を思い 熱い涙を流しました。
叔父たちのために水の供養をと思いましたが
干上がった海の底の底 地の底の底の荒れ野には 
小さなせせらぎどころか 水たまりのひとつも見つけることはできません。
しかし その見渡す限りの灰の野の果てに 
オンシューマンは あの美しい馬を見つけたのでした。

馬へ歩みよろうとした時 オンシューマンは
木陰で カピル牟尼が瞑想をしていることに気づきました。
オンシューマンは カピル牟尼の瞑想を破らぬよう
足音を立てずにそっと静かに近づくと 
だまって膝をついて うやうやしく頭をさげました。
すると カピル牟尼はうっすらと目を開いていいました。
「アサマンジャの子にして ショゴル王の孫 オンシューマンよ。
馬は連れて帰るがよい。
だが おまえの叔父たちの魂は いまここでは供養できないのだ」
「それはどうしてでしょうか、聖なるお方」
「たとえ水があったとしても ただの水では彼らの魂は救われない」
「聖なるお方。では どのような水ならば?」
「オンシューマンよ。アサマンジャの子にして ショゴル王の孫よ。
ヒマラヤ山脈の娘 天なる河ガンガーの聖なる流れを 
この地に呼びよせ その清らかな天の水で供養をせよ。
さすれば 六万の王子の罪は 一点の曇りもなく洗い流され
その魂は たちまちのうちに天国へと昇るであろう」
「おお! 聖なるお方よ。ありがとうございます。
しかしながら 天なる河ガンガーを招くには どうしたらよいのでしょうか」
しかし カピル牟尼はそれには答えず 
静かに目を閉じて 再び深い瞑想に入りました。
オンシューマンは 深く礼をして 静かに立ち去りました。
縄をつけて引くと 馬は素直にオンシューマンに従ったばかりか
一面の灰の野を 足音も立てずに静かに歩んでいったということです。

さて ようやくのことで生贄の馬を取り戻したショゴル王は
厳粛な生贄の儀式を執り行い 盛大な祭りでそれを祝いました。
そのため ショゴル王は天界の神々から多くの祝福を受け
三万年の間 王国を平安に治め 偉大なる王の名を得ました。
しかし 天なる河ガンガーを 地上に呼びよせる手だてはとうとう見つからず 
天国へと召されました。

ショゴル王の跡を継いだのは 孫のオンシューマンでした。
オンシューマン王は その息子ディリップに王位を継がせ
自らはヒマラヤ山の頂上に登り 三万二千年の間 激しい修行を積みました。
しかし 天なる河ガンガーを 地上に呼びよせる手だてはやはり見つからず 
天国へと召されました。

ディリップ王は その生涯 どうすれば大叔父たちの魂を救えるか
天の河を地上に招くことができるかに 心を砕きつづけました。
それでもなお 天なる河ガンガーを 地上に呼びよせる手だては見つからず 
王は三万年の間 王国をよく治め 天国へと召されました。

ディリップ王はバギラットという すばらしい子どもに恵まれました。
バギラット王は 国を信頼のおける家臣たちに任せ
自らはヒマラヤ山中に深くわけいりました。
そこには色とりどりの鉱物がきらめき
虎や獅子が悠然と森を徘徊し
孔雀の群れが競うようにその尾を広げ
巨象の群れが大木の幹で牙を研ぎ
あたかも万華鏡のように 次々と驚きの光景が繰り広げられましたが
バギラットは目もくれず ひたすら激しい修行に打ちこみました。
腕を天に向けて高く掲げつづけ 食事は月に一度きり
天の火と四方の火に裸の肌を灼かせる修行に励んで一千年。
とうとうこの世を創られた偉大なる神 ブラフマー神が
バギラットにいたく感心して 地上に下りていらっしゃいました。
「バギラット大王よ。そなたの望みを叶えてやろう」
バギラットはうやうやしく両手を合わせて答えました。
「尊者よ。カピル牟尼の怒りに触れて灰となった
ショゴル王の六万人の王子たちの水の供養を わたくしに成就させてください。
天なる河ガンガーの聖なる流れを どうか地上にお招きください」
「そなたの願いは聞き届けた。
ただ ひとつだけ難題がある。
大地は 天から落ちるガンガーの激しい流れを受けとめることはできない。
その流れを受けとめ やわらげて大地へと流すことができるのは
ただ一人 青き喉を持つ破壊と再生の神 シヴァ神のみである。
行って シヴァの神に祈るがよい」
ブラフマー神はそういって 天へと戻ってきました。

バギラットはさっそく ヒマラヤ山中の聖地カイラーサ山へ赴き
足の親指一本で大地に立ち シヴァ神に敬意を示しました。
そのまま一年の月日が過ぎると
バギラットの苦行に感心したシヴァ神が 天からくだってまいりました。
「バギラット大王よ。
いまこそおまえの願い ショゴル王よりつづく祖先の願いが叶えられる時がきた。
わたくしが 天からなだれ落ちるガンガーの流れを この髪でしかと受けとめよう。
さあ バギラット。ガンガーに強く祈るがよい」

シヴァ神は すっくと立ちあがり 
その三つの目で 天の一角をぐっとにらみつけました。
空は しんと静まりかえっています。
ガンガーが いよいよ天から降りてくることになったと聞きつけ
天界の神々や楽人 龍の一族 夜叉たちが 大挙して集まってまいりました。
また 異国の神々や さらなる遠方の神々も
翼ある馬にまたがり あるいは 光の車や天翔る船を走らせて
この世の最大にして最高の壮麗な奇蹟を一目見ようと無辺の四方より集まり
身を飾る金銀宝石を燦然と輝かせ
さらには 好奇の心まで烈しく輝かせながら 空にひしめきあいましたので
空はもう 太陽が百個も昇ったようなまぶしさです。
はるか天界から それを眺めおろしていた女神ガンガーは
苦しみと悲しみに胸はりさけそうになりながら叫びました。
「ああ! 罪の闇うごめく地上に降りろとは なんということ。
わたくしは 未来永劫 清浄無垢なる天上世界だけをめぐっていたかったのに。
けれども 偉大なるブラフマー神の命とあれば いたしかたない。
地にくだるほかない。
さりとて いったいだれが このわたくしを受けとめられるというのだ。
わたしを受けとめられる者など いるはずがない!」
ガンガーの女神は天界から身を投げるように どうっとなだれ落ちてきました。
それはさながら天から一気になだれ落ちる大瀑布。
激しく流れ落ちる水のなかには
あらゆる魚 鰐 海豚の群れが溢れかえり
空にひしめきあう神々の光を反射してきらめきましたので
まるで億の星と稲妻とが ともにきらめく天球の宴
無数の宝石に彩られ
蒼穹から垂らされてひるがえる金糸銀糸の帯のようでありました。
その流れは シヴァの頭上に渦巻く髪へとただまっすぐに落ちてまいりました。
「高慢なるガンガーよ 思い知るがよい。わたくしを甘く見るな!」
シヴァは大地に足を踏ん張り 微動だせずに がっきとその水を受けとめました。
そして その髪の渦の奥底に ガンガーをしっかりと閉じこめてしまったのです。
ガンガーは 抜けだそうともがきましたが
さながら深い森に迷いこんだかよわき乙女のごとく
どのようにもがこうとも シヴァの髪の渦のなかから抜けだすことはできません。
ただその髪の渦のなかをぐるぐると果てしなくめぐるばかりです。
バギラットは祈りました。
「偉大なるシヴァの神よ。どうかガンガーの女神をお許しください。
ガンガーの恵みを地上に!」
そして さらなる苦行を重ねたのです。

途方もなき年月が 瞬く間に過ぎ去りました。
一瞬も怠らず苦行をするバギラットを目の当たりにしたシヴァは
ようやくその怒りを解き 髪の渦の奥底から ガンガーを解き放とうと
髪の渦をゆるやかにほどきました。
すると 水は歓喜の声をあげ 光り輝く飛沫をあげながら
シヴァの額から首 首から肩へと 流れおちました。
それは さながらシヴァの青き喉を飾る幾重もの真珠の首飾りのよう。
流れはうねり 渦巻き 逆巻き 跳ね また深く落ち 
波と波とがぶつかって 高く盛りあがったかと思うと砕け散り
きらきらときらめきながら 地上へと流れおちたのでした。
「さあ わたくしはどこへ流れよう?」
ガンガーの女神を先導したのは 天界の光の車に乗るバギラット。
烈しく逆巻く水を従え 大地を潤しながら
六万の大叔父たちの遺灰の散らばる海の底へと疾駆したのでした。

しかし 歓びに溢れたガンガーの流れはあまりに激しく
川筋にあった 偉大なる聖仙ジャンヌ牟尼が心静かに瞑想する祭場を
跡形もなく 流しさってしまったのでした。
怒ったジャンヌ牟尼は 流れくるガンガーの水を一滴残らず飲み干してしまいました。
それを見た天界の神々は 口々にジャンヌ牟尼にいいました。
どうか ガンガーを許し 道を譲ってやってほしいと。
ジャンヌ牟尼は それを聞きいれ 自らの膝に深く刀を突き刺しました。
すると ジャンヌ牟尼の膝から 激しく水が噴きだし
ガンガーは再び バギラットに先導されて 海への道を流れはじめたのでした。
神々は ガンガーが偉大なるジャンヌ牟尼の体を通過してその娘になったといい 
ガンガーとジャンヌ牟尼とを祝福しました。

やがて水は海に至り 百億の流れとなって 
ショゴル王六万の王子たちの遺灰に埋め尽くされた
果てしなき荒野の隅々にまで行きわたりました。
その水が触れるやいなや
王子たちの魂は その深き罪を一瞬にして洗い流され
限りなく透明な光となって たちまちのうちに天国へと昇っていきました。
神々は ガンガーを先導したバギラットを祝福し
また ガンガーを バギラットの娘と呼んで 祝福しました。
干上がっていた海は 絶え間なく流れこむガンガーの水でみるみる満たされ
豊かに溢れでた水は さらに地下世界までゆうゆうと流れこみ
ガンガーは天界・地上界・地下界の
三界を貫いて流れ清める 聖なる河となったのでした。

さればこそ ガンガーははるかなる天界より流れくる聖なる水。
天にその源を発し 大地を潤し 地下界へと流れ 三界を貫いて流れる強き水。
ガンガーの水を浴びる者は 一瞬にしてその罪を洗い流され
ガンガーの砂を体にまぶす者の魂は 天界の香油を塗ったごとく芳しく香り
ガンガーの泥を頭に掲げる者の心は 太陽を掲げたごとく悪の闇を追い払う。
死してその骨をガンガーに流す者は 速やかに無上の天国へと運ばれ
二度と下界へ堕ちることなく 無限の歓びを生きつづける。
ガンガーは はかりしれない無量の水で大地を隈なく潤し 
すべての生き物の命と魂とを支える。
すべての命は ガンガーの水によってきらめき
すべての魂は ガンガーの水によって輝く。
おお ガンガーよ。無限の功徳よ。母なる河よ。
ガンガーの水は 徳そのもの。
ガンガーの水は 光そのもの。
ガンガーの水は 力そのもの。
ガンガーは すべての源。
ガンガーを祝福せよ。さればガンガーもまた なんじを限りなく祝福せん。

そんなわけで ガンガーの流れる大地に住む人々は
いまも朝な夕なにガンガーの岸辺でその聖なる水を浴び
現世と来世のしあわせと 愛する人々のしあわせを
祈りつづけているのです。

                     Copyright by Ryo Michico/Apr.2004

注)この物語は、2004年春、ガンジス河口の聖地ガンガサガル Ganga Sagar で現地の人より口伝えに聞いたヒンドゥー神話をもとに、その原典であるインドの二大古典「ラーマーヤナ」「マハーバーラタ」の日本語訳の記述を参考にして、寮美千子が独自に編集、語り直したものです。神名・人名の発音は、2004年春現在、ガンガサガルの人々が使用しているものに従いました。サンスクリット原典からの日本語訳では、従来、以下のように表記されています。

サガル方言         サンスクリット原典訳

ショゴル王 Shogole     サガラ王
オンシューマン Anshuman  アンシュマット
ディリップ王 Dilip      ディリーパ王
バギラッタ王 Bhagirath   バギーラタ王
ジャンヌ牟尼 Jahnnu muni  ジャフヌ仙

また、ガンガサガルでは、ガンジス河は「ガンガー」、ガンジス河を人格化した女神ガンガーは「ガンガーマGannga Ma/ガンガマータGanga mata」と呼ばれていました。

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■再びファンタジーの復権/ヒリヤード・アンサンブルのCDをめぐって

Sun, 22 Feb 2004 13:01:39

カフェルミ掲示板でご紹介した、ヒリヤード・アンサンブルのCD『モリムール』がやっと届きました。やっぱり、いい! 

このCDを買おうと思ったきっかけは、2月12日付けの朝日新聞の記事。
「シャコンヌ」は、組曲「無伴奏バイオリンのためのパルティータ第2番二短調」の最後を締める曲。1720年、バッハが最初の妻マリア・バルバラを亡くした年に誕生した。
 ドイツの音楽学者ヘルガ・テーネ氏は、この「シャコンヌ」に、死や復活をテーマにした協会コラール旋律が隠されていることを、独自の方法で読み解こうと試みた。妻の死に目に会えなかったバッハが、哀悼の思いを透明な響きにこめようとした、との論拠だ。
新聞では、この新解釈に共鳴したクリストフ・ポッペン氏(ドイツの指揮者にしてバイオリニスト)が、バッハのパルティータとコラール旋律を組み合わせて新たに編曲・構成し、なんとわたしの大好きなヒリヤード・アンサンブルと組んでCDを制作したとありました。

で、届いたCDをあけてさっそく音楽に浸りながら、解説を読んでみると、なんとヘルガ・テーネ氏の説は、いわゆる「トンデモ」だとあります。以下、引用。
この仮説――仮説自体も、またそれに対する論証も、とうてい学問的には論評に値しないものであるが――に関心を抱いたのが、当CDの制作者と演奏者たちである。

あたかも思いこみをたどるかのような彼女の主張は翻訳をお読みいただくとして(コラールのような単純な旋律など、その気になればどんな曲からでもとりだせるのだ)
ご丁寧に、ヘルガ・テーネ氏の論文の翻訳が巻末に掲載されています。

わたしは、礒山雅氏のこの解説を読みながら思わず笑みがこぼれてしまいました。

クリストフ・ポッペン氏とヒリヤード・アンサンブルが、ヘルガ・テーネ氏の論文に深く共感したことは事実だけれど、だからといって、その説を信用したのかどうかはわからない。もしかしたら、全然信用していなかったのかもしれない、と思ったからです。彼らほど音楽に精通している人々が「トンデモ」を見分けられないわけがないのではないか。

信用してもしなくても、しかし、彼らはそのアイデアに共感した。バッハは妻の死のレクイエムとしてシャコンヌを作曲し、そのなかにコラールの旋律がかくされている、というイメージはすばらしいと思った。シャコンヌに隠された哀しみの宝石……。

クリストフ・ポッペン氏は、そのイメージを核にして、シャコンヌと教会コラールを重ね合わせた独特のアレンジのシャコンヌを制作。ヒリヤードがその類い希な透明感ある声を、クリストフ・ポッペン氏のヴァイオリンに重ねる。そして生まれた、一枚のCD。哀しみの宝石が燦然と輝くシャコンヌの誕生。

つまり、ヘルガ・テーネ氏の説に説得力があろうがなかろうが、そんなことは関係ない。ヘルガ・テーネ氏の説が事実であろうがなかろうが、どうでもいい。もしかしたら、そうかもしれない、という微かなイメージの欠片だけで充分。そのイメージの欠片を核に、彼らは美しい音楽を結晶させることができた。その恩恵をわたしが受ける。それは、すばらしいことに思えるのです。

以前『一万年の旅路』という本について、モンゴロイドがベーリンジアを渡ってきた「一族の一万年の記憶」を保持するという人の書いた本を批判したことがあります。なぜそれを「事実」「ほんとうのこと」といわなければならないのか。モンゴロイドがベーリンジアを渡ってきたことが、科学的に実証されたとしても、その記憶を伝承として保ち続けたという論には、あまりに無理がありました。

作者は、一族の記憶が蓄積されている記憶の巣のようなところがあって、そこにアクセスすることで、太古の祖先が見たのと同じ風景を追体験できるのだと語り、太古の祖先が見たままの大移動の物語を語っているといっていました。しかし、その風景というのは、あまりに矛盾に満ちたもので、実際にベーリンジアを渡るという行為は、浅い海を綱をわたしてみんなで伝ってくるようなことじゃないだろうと、思わず苦笑してしまうようなもの。でも、創作として読めば、それなりに面白い。

作者のいう「太古の記憶へのアクセス」という方法。わたしは、それこそが「創作の秘技」のひとつであると思います。それが実際に太古の記憶かどうかなんてわからないけれど、集合無意識に触れるような、なんらかの深いイメージに到達し、そこからなにものかを持ち帰ること。それこそが創作の醍醐味です。それが事実かどうかなんて関係なく、他者にもそのイメージの深さ、豊かさを投げかけ、投げかけることで人々の人生をより豊かにできるもの。それが、ファンタジーのすばらしさです。

それを、無理矢理「事実である」といいくるめたとたん、それは輝きを失う。それは「嘘」になってしまうからです。事実でなければ、そのイメージをすばらしいと思えないのだとしたら、その人々は貧しい想像力しか持っていないということの証拠です。事実であろうがなかろうが、そのイメージによってインスパイアされることのほうが、ずっと大切で、それが人生を豊かにしてくれます。

ファンタジーをファンタジーとして尊重し、充分に楽しむこと。事実をそうでないことから峻別し、ほんとうにそこにある事実だけをきちんと積み重ねていくこと。このふたつは、両立します。いや、両立させなければならないと、わたしは思います。

ファンタジーを事実といいくるめるとき、そこに誤謬が生じます。それは、もはや豊かさをもたらす力強い創造ではなく、人々をまどわす妄想になってきます。「事実」という仮面をつけなければ、説得力も持てない脆弱な妄想。その妄想も、他愛ないうちはかわいいものだけれど、一歩間違えばとても危険なことになる。妄想を事実として受け入れるということは、それがどんな他愛ないことであっても、そして、その時点では罪のないことであっても、オウム真理教のような妄想を育む温床を、知らず知らずのうちにつくっていくことになるのです。

ファンタジーをファンタジーとして楽しめる心の力。事実からはきっちりと峻別しながらも、そこから豊かなイメージを引き出し、人生を豊かにしていく力。その力こそが、混迷した世界をまっとうな方向に導いていくものだと思います。

ファンタジーの復権、とわたしが声を大にしていっていることは、そのことなのです。ヒリヤードの「モリムール」を聞いて、これはきっと、そのような健全な想像力が育んだ美しい結晶なのだと感じました。少なくとも、解説者の礒山雅氏は、ファンタジーと事実とを峻別し、ヘルガ・テーネ氏の説をトンデモであると一蹴しながらも、そこに触発されて生まれたこの類い希な美しい曲を賞賛している。

クリストフ・ポッペン氏とヒリヤード・アンサンブルは、ヘルガ・テーネ氏の説が事実であろうがなかろうが、そのイメージを貪欲に自分のものにして、美しい作品を作ってしまうような、そんな芸術家たちであるのではないか、とわたしは感じています。そしてわたしも、そのように貪欲な芸術家でいたい。そして、事実は事実としてきっちりと峻別したい。そう思うのです。

追伸:朝日新聞の記事は、ちょっと誤解を招く。「ドイツの音楽学者ヘルガ・テーネ氏は、この『シャコンヌ』に、死や復活をテーマにした協会コラール旋律が隠されていることを、独自の方法で読み解こうと試みた」の「独自に」「試みた」というところに「トンデモ」の意味がこめられていたのだと、事実を知った後には思うけれど、そうでなければ、そうなのかと思ってしまいます。わたしも、うっかり事実なのかと思ってしまった口。「この説は学問的にはまったく認められていないものだが」の一行を入れてほしかった。でも、やっぱり世間には「事実信仰」があるから、そう書くと読者の興味がそがれちゃうと思ったのかなあ。ファンタジーの復権を!

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■だれが岡本太郎を「裸の王さま」にしたのか/私的岡本太郎論

Sat, 09 Aug 2003 03:09:36

岡本太郎の作品。強烈なだけにみんな好き嫌いがあるだろう。はっきりいって、わたしは嫌いだ。「太陽の塔」が、我が家から見えるところになくてよかったと心底思う。嫌いというだけではない。美術作品としての到達度も低いのではないか、というのがわたしの考えだ。正直いって、岡本太郎自身が「発見」した「縄文の美」と比較してみても、レベルがずいぶん低いと感じざるをえない。縄文の最盛期のもののほうが、圧倒的に力がある。

それなのに、岡本太郎がどうしてこんなにも話題になるのか。その作品がなぜそんなにも高く評価されるのか。

ひとつの理由は、岡本太郎が自分を総合プロデュースして世間にアピールする能力に秀でていたからだろう。岡本太郎の言葉は、彼の作品を「大したものだ」と思わせるための援護射撃として、充分に優秀だった。人々は、岡本太郎が声高に語る言葉に心酔し、その勢いで作品にも高い評価を与えた。

しかし、わたしは、彼がそれを意識してやっていたわけではないという気がする。おそらく、それは戦略ではなかった。岡本太郎は「美の発見者」としての非常に優れた目を持っていた。優れた評論家であり、その生き方まで含めて卓抜した思想家であった。そして、そんな自身の才能を他者に伝える力にも長けていた。つまり「美のアジテーター」としても恐ろしく優秀だったのだ。

岡本太郎は、優れた写真を数多く残している。彼の描いた絵画や造形作品に比べると、写真の方がずっといい。なぜ、絵画ではなく写真なのか? それは、写真が、「美の発見者」としての資質がいかんなく発揮できるメディアだったからだとわたしは感じる。沖縄で、岡本太郎は他の人が見過ごしていた日常のなかに、力強い美を発見した。発見のたびに、心は震え、その心のままにシャッターを切った。岡本太郎の写真は、その驚きが伝わってくるような写真だ。

ところが「創作」はそうはいかなかった。すでにあるものの中から美を発見する力と、無から有を生み出す創作の力とは、必ずしも一致しない。創作は、まったく別の能力だ。それは「芸術の秘技」なしには成立しない分野だからだ。

美の発見者であり、美の思想家であり、美のアジテーターであった岡本太郎に唯一欠けていたもの。それは創作者としての資質だったのではないかと、わたしは思う。

彼の作品は確かに強烈だ。忘れられない。強い印象を残す。一目で「岡本太郎だ」とわかる個性も持ち合わせている。けれども、では、強い印象を残す個性的作品が「優れた芸術作品」とイコールであるかといえば、そうではない。芸術作品でなくとも、強い印象を残すものはたくさんある。醜さ、不快さ、残酷さゆえに強く印象されるものも多い。岡本太郎の作品を醜く不快で残酷だといっているわけではない。むしろユーモアさえ感じるけれど、わたしは、岡本太郎の作品はやっぱり「ケレン」の作品だと思う。強い印象は残すけれど、単にそれだけというような作品に思えてならない。

岡本太郎自身は、自分の才能について、実際のところどう感じていたのだろう。才能のあるなしに関わらず、彼の全身から表現したい衝動が溢れかえっていたことは事実だろう。そうやって表現したものを、己のなかの批評者の眼で客観的に見たとき、もしそれが己の納得のいかないようなものであったら、普通、人は悩む。それで筆を折る人もいれば、それをバネに更なる探求を続けることもある。しかし、そこで悩まないのが岡本太郎たるゆえんだったのかもしれない、という気がする。才能なんてどうでもいいし、他者からの評価もどうでもいい。単に己の創作衝動を全開しようとしたのではないか。限りない自己肯定。それはそれで、一つの才能だ。

人々が岡本太郎に惹かれる理由の一つは、実はそこではないか。圧倒的な自己肯定。そのまぶしさ、快さ。作品そのものの質ではなくて、あんなものを堂々と発表して自信に満ちているその姿に共感したのではないか。

岡本太郎が「芸術家」として高く評価されるもうひとつの理由。それは「評論家・思想家・アジテーターとしての岡本太郎」を「芸術家としての岡本太郎」を混同してしまうことだと思う。岡本太郎の人並みはずれて優れた部分を、彼の創作につい重ねて見てしまうのだ。

美術展に行くと、作品を見る前に、脇にあるタイトルと解説を熱心に読む人が多い。「自分の眼」がないか、あるいはそれを放棄しているので、安易に「他者の言葉」に頼ろうとする。「言葉」を手がかりに絵を見ると、とりつく島もなかった作品なのに「なるほど、ここがいいのか」「こんな意味か」と納得できる。そんな見方をする人が、まだまだ多い。

わたしは思う。人々は、ほんとうに「自分の眼」で岡本太郎の作品を見ているのだろうか。岡本太郎の言葉、岡本太郎の行動、岡本太郎のイメージと重ね合わせ「だからすごい」と思っているのではないか。

そのような、作品の周囲にまとわりついてくるものも含めて、自己を総合演出する力も一つの才能であることは確かだ。あえていえば、彼は「自己の人生」を一個の芸術作品たらしめた芸術家ではあるかもしれない。広義の芸術家だ。

しかし、わたしは「本当の芸術作品」とは、作者の名前を知らず、その付随情報も知らず、美術史の文脈とも関わりなく、ただそこにある造型のみを見て、心を打たれるようなものをいうのだと思っている。そして、狭義の芸術家(真の芸術家といいかえてもいいが)は、そのようなものを作りだす能力のある人をいうのだと思う。

その意味において、わたしは岡本太郎は「真の芸術家」ではなかったと思う。己の人生を生きる芸術家ではあったけれど。

「芸術家としての岡本太郎」と「評論家・思想家としての岡本太郎」を峻別して考えるべきだ。それは、いまある岡本太郎像から、「すぐれた芸術家」という称号を剥奪することになるだろう。けれど、それは岡本太郎を貶めることにはならない。むしろ、なにもかもごっちゃにして「すごい」と評価することのほうが、よっぽど彼を貶めていることになると思う。それでは「裸の王様」同然だからだ。

岡本太郎の有名な逸話に、こんなものがある。「縄文土器を発見したのはわたしだ」と岡本太郎が豪語したという。「どこで?」という質問に、彼は涼しい顔で「国立博物館のガラスケースのなかで」と答えたという。

もちろん、縄文土器を発見したのは岡本太郎ではない。けれども、それが類い希な美しさと力強さを持った芸術作品であることを発見したのは、岡本太郎だったかもしれない。というのは、それまで、縄文土器は、たんに遠い歴史の遺物であり、考古学的資料だという観点でしか見られなかったからだ。そこに貼りついた来歴、由来、そのようなラベルに惑わされて、ひとはそれを一個の造形作品として見ようとしなかった。あらゆるラベルをはがし、意味を剥奪し、そこにあるものをただ一個の造形作品として見たからこそ、岡本太郎はそこに「美」を「芸術」を発見することができたのだ。

そのように、あらゆるラベルや権威をはがし、自分自身の眼で世界を見、自分自身の体で宇宙を感じること。それこそが、岡本太郎が真に伝えたかったことではないのか。

それなのに、人々は「岡本太郎作品」を、一個の純粋な造形物としてではなく「岡本太郎という神話」とともに受け取ろうとしている。それは、岡本太郎自身がもっとも忌み嫌ったことではなかったのか。

「岡本太郎が好き」という人に問いたい。ほんとうにその作品までも好きなのか。高く評価するのか。岡本太郎の作品を、岡本太郎という神話抜きで、裸眼で眺めたことがあるのか。素の心で受け取ったことがあるのか。「岡本太郎ブランド」に目が眩んではいないか。

そのように検証してみてなお「わたしは岡本太郎の作品が好き」「芸術作品として非常に優れている」というのであれば、それはその人の感性だから、もうなんともいえない。いえるとすれば、ただひとつ「縄文土器など、世界には並はずれて美しいものがあるけれど、あなたはそれを見た上でもやはり岡本太郎作品をそんなに高く評価するのですか」ということだけだ。

わたしは「美の発見者」「美の思想家」「美のアジテーター」としての岡本太郎をとても高く評価する。そこから派生した「写真家岡本太郎」も高く評価する。けれど、絵画も、その造形作品も、一度として感心したことはない。子どもの頃、父に連れられて近代美術館で岡本太郎作品の実物を見て以来、ずっとそうだ。「美の発見者」「美の批評家」である岡本太郎が、自作に目を向けたとき、一体どんな気持ちがしただろうか。いや、それを吹き飛ばす無限大の自己肯定こそが、彼の魅力なのかもしれない。

■アイヌ文化セミナー2003要約2/アイヌの口承文芸――語りの形式 志賀雪湖

Sat, 09 Aug 2003 02:53:43

アイヌ文化普及啓発セミナー 2
6 Aug. 2003 @アイヌ文化交流センター(東京)

以下のセミナー要約は寮美千子が自己のメモを元に制作したものです。正確な詳細につきましては、(財)アイヌ文化振興・研究推進機構がセミナー終了後に発行する「平成15年度 普及啓発セミナー報告集」をご参照ください。

【アイヌの口承文芸――語りの形式(要約)】
講師:志賀 雪湖(千葉大学非常勤講師)

自己紹介&イントロ
わたしは1981年に北海道でアイヌのおばあさんたちに出会い、その語りを聞かせてもらってすっかり魅せられ、この世界に足を踏み込みました。アイヌの人々は、次世代に伝えていきたいことを、語りというスタイルで伝えていきました。

みなさんは、アイヌの物語でどんなものを知っていますか? お気に入りはありますか?
日本昔話でいえば「桃太郎」のように、誰もが知っているアイヌの物語がないのはさみしいことです。みなさんが「わたしはアイヌの物語のなかで、これが好き」と語り合えるような時がきたらいいと思いながら、仕事をしています。

アイヌの文芸には、さまざまな形式があります。文字がなかったため、すべては口承文芸として伝えられました。即興歌、子守歌、物語、言い伝え、昔話、なぞなぞ、おまじないの言葉、早口言葉、遊び歌、神への祈りの言葉、などです。そのなかで、きょうは「アイヌの物語」の形式について学びたいと思います。

1 内容による分類
散文説話 =人々の物語:普通の人間である主人公が自らの体験を語る
神謡   =神々の物語:神である主人公が自分の体験を語る
英雄叙事詩=英雄の物語:孤児である少年(超能力者)が自らの体験を語る

アイヌ語によるジャンルの呼称は、地方によって違う。
散文説話 =ウウェペケuwepeker、トゥイタクtuytak、など
神謡   =カムイユカkamuyyukar、オイナoyna、メノコユカmenokoyukar、など
英雄叙事詩=ユカyukar、メノコユカmenokoyukar、サコペsakorpe、ハウキhawki、など

【実習】
参考の文字資料を読んで、それがどのジャンルになるのかを推測する。

資料1 知里幸恵「子狼の神が自ら歌った謡」>『アイヌ神謡集』(岩波書店1923)
資料2 二谷一太郎 口演「カッコウ鳥の絵のある小袖」>『萱野茂のアイヌ神話集成・第8巻』(ビクター・平凡社1998)
資料3 平村つる 口演「スズメの神」>『アイヌ語音声資料選集-韻文篇』(早稲田大学語学教育研究所1996)
資料4 平賀サダ 口演「父と母がその息子を和人にやって置いてきた」>『アイヌ語音声資料選集-散文篇』(早稲田大学語学教育研究所1995)

タイトルを知らされず、その冒頭の文字資料のみを見る。主人公はみな「わたし」であり、その一人称で語っている。そのため、それが誰なのか、どのジャンルのものなのか、わかりにくい。(アイヌの物語では、主人公が誰であるか、最後に明かされることが多い)

2 語りの形式による分類
散文説話 =節(メロディー)なしで語る
神謡   =節(メロディー)にのせて語る・サケヘ(サケ)と呼ばれる繰り返しの言葉が出てくる
英雄伝説 =節(メロディー)にのせて語る・レニrepniという棒を叩いて拍子をとりながら語る

【実習】
音声資料を聞いて判断する。

英雄伝説は、物語を語り始めるまえからレニの音が響くので、すぐにそれとわかる。レニの音が聴こえず、何度も同じ言葉が繰り返されるものは、神謡だとわかる。メロディーのないものは散文説話や昔話。アイヌ語が少しもわからなくても、音を聞いただけでそのジャンルを判断することができる。

3 ジャンルにおける人称の違い
同じ「わたしが」でも、アイヌ語にはいろいろな言い方がある。語りのジャンルによって、使われる人称が違う。

散文説話・英雄伝説=a, an
神謡=ash, chi, ci
日常会話=ku
参考資料/中川裕『アイヌの物語世界』(平凡社ライブラリー1997)

4 音韻と虚辞
神謡のサケヘ(繰り返し言葉)には、神によって、地方によって、様々なものがある。例えば、スズメの神のサケヘは「ハン・チ・キ・キ」で4音節。

このサケヘ(繰り返し言葉)をはさみながら、物語を語るとき、リズムを取るために、文頭などに意味のない音を差し挟むことがある。資料中の u などの音がそれにあたる。
これを虚辞と呼ぶ。

5 結論
単に文字資料を読むだけではなく、音を聞いた方が絶対に楽しいのがアイヌの物語。ぜひ音も聞いて楽しんでほしい。

Q&A

Q.わたしは劇作家をしています。音で楽しむといっても、アイヌ語がわからない者にはなかなか楽しめません。同じ旋律、リズムに乗せて、アイヌ語の物語を現代日本語に置き換えることができたら、もっと楽しむチャンスも増えると思うのですが。
A.あってもいいと思うが、そのような試みは少ない。アイヌの文化に親しみ、深い共感を寄せて、レベルの高い日本語訳が生まれるのであれば、やる価値はあると思う。

Q.英雄叙事詩ユカはとても長い物語で、夕刻からはじめて夜中までやってもまだ終わらず、2〜3日をかけて語り終えるとのお話。いったいどんな場面で語るのでしょうか。
A.うまい語り手が村にやってきたというような時には、日常であっても人が集まって聞いたといいます。また、イオマンテなどの行事の際にも語られました。その時は、ユカを途中でやめる。先を聞きたくて、熊の神がまた戻ってくるようにとの配慮のためだそうです。その反対に、絶対に最後まで語り終えなくてはいけないのは、お葬式の時のユカ。死人が戻ってきては不吉なので、必ず最後まで語るそうです。

Q.女性がユカを語ってはいけない、と聞いたことがありますが、ユカを語る作法はありますか?
A.女性が語るメノコユカは、節をつけない、といった決まりのあるところもあったようです。女性が語ってはいけないという地方、時代もあったようですが、男性の方が女性に比べて短命であるということもあり、ユカを語れる男性が少なくなりました。そのために、長生きのおばあさんたちが語るようになった、という経緯もあるようです。

また、ユカはきちんと起きて語らなければならない、といった記述も見られますが(砂沢クラ『私の一代の思い出 クスクップオルシベ』(みやま書房1983)、一方、古いアイヌの風習を描いた昔の絵画(市立函館図書館所蔵)に、ねっころがって語っているアイヌの姿も描かれています。長丁場であり、数日に渡るようなものであったので、時にはそのようなことも許されたのかもしれません。

Q.みんなが当たり前のように知ってるアイヌの物語がなくて残念だ、とのことですが、例えばアイヌの定番物語として人々に知ってもらうのに適切な「これ」という物語はあるでしょうか。また、先生ご自身の「お気に入りの物語」はありますか。
A.むずかしい質問です。以前、イオマンテを題材にした作品をある講演で紹介したことがありました。すると、質疑応答の時に「アイヌにはもっとすばらしいお話があります。なぜ、そんな残酷な物語をわざわざ紹介するのですか」という声があがりました。

農耕民族であるわたしたち和人の文化のなかにいる人にとっては、動物の命を奪う狩猟民族の物語がたいへんにショッキングで、なかなかすなおに受け入れられないようです。

アイヌの物語を語るには、その世界の背景や狩猟民族の哲学まで語らなければなりません。でないと、なかなか理解してもらえない点がある。そのために、普及しにくいということもあるように思われます。

件の「残酷である」と批判なさった方は「小さなヒエの穂の物語」のほうがずっといいとおっしゃいました。お金持ちが大きな穂だけを刈ったあと、残された小さな穂が、人間の役に立てなくてとても残念だと思っていると、貧乏人の子がやってきて、刈り残した小さな穂を残らず摘んでいく。喜んだヒエの穂の神は、貧乏人が植えたヒエをたくさん実らせ、ヒエを粗末にしたお金持ちのヒエを不作にしてしまう。というお話です。

やはり農耕民族には、このような植物の話が親しみやすいのだろうなと感じました。しかし、植物とて命あるもの。その命をいただくということには変わりないのになあ、などと複雑な心境です。

「アイヌの代表的な物語とっして紹介するにふさわしい作品」ですが、そうですねえ、なにがいいでしょうか。知里幸恵の『アイヌ神謡集』に収録されている沼貝の物語なんか、いいんじゃないでしょうか。

Q.アイヌ語の源流はどこから?
A.日本語の系統がわかっていないのと同じくらい、アイヌ語についてもその系統はわかっていません。近々、言語学で新しい研究発表がなされると聞いています。そこで明らかにされるかもしれません。

http://www.frpac.or.jp/jigyo/seminar/seminar15t.html

アイヌ文化セミナー2003要約1/わたしとアイヌ語 菅原勝吉

Thu, 07 Aug 2003 21:14:40

アイヌ文化普及啓発セミナー 1
5 Aug. 2003 @アイヌ文化交流センター(東京)

以下のセミナー要約は寮美千子が自己のメモを元に制作したものです。正確な詳細につきましては、(財)アイヌ文化振興・研究推進機構がセミナー終了後に発行する「平成15年度 普及啓発セミナー報告集」をご参照ください。

【わたしとアイヌ語(要約)】 
講師:菅原 勝吉
1969年、北海道静内町生まれ。高校卒業後、いくつかの職業を転々とした末、故郷の静内に戻り、母の勧めで静内町生活相談員となる。現在、静内町生活相談員。北海道ウタリ協会静内支部事務局長。

(はじめに、アイヌ語で簡単な自己紹介。「わたしは、北海道の静内町から、空を飛ぶ乗り物や地を走る乗り物にのってやってきました。みなさん、わたしの拙い話をききにこんなにたくさん集まってくださってありがとう」というような意味だと解説あり)

▼アイヌだと知らなかった自分
わたしは実は、アイヌ語歴は2年ほどしかありません。先日、アイヌ文化祭ではじめて創作アイヌ語劇に挑戦してみました。そんな状態で、みなさんの前でお話しするのは何ですが、わたしの体験をお話しさせていただきたいと思います。

わたしは昭和44年生まれ。北海道の静内で生まれました。静内は、シャクシャインというアイヌの首長が和人と戦った地です。

父は宮城県出身の和人。母はアイヌの血が二分の一混ざった混血でした。母の父、つまりわたしの祖父がアイヌだったのです。

しかし、わたしはそのことを少しも知らずに育ちました。母は、そのことを一切教えてくれませんでしたし、家の中にもアイヌらしきものは何一つありませんでした。アイヌ語もなければ、その文化の名残もない。小さい頃はよく祖父と会いましたが、その祖父さえ、微塵もアイヌであるということを感じさせる人ではありませんでした。恐らくは、差別の問題などもあり、あえてアイヌの痕跡を消そうとしたのかもしれません。

わたし自身も、いまでこそ眉も長くなり、ヒゲも濃くなりましたが、高校生の頃までは顔もつるつるで、外見上もまったくアイヌには見えませんでした。ですから、自分自身がアイヌであるということには少しも気づかずに育ちました。

高校を卒業して、会社に就職しましたが、どうも合わず、辞めてはまた勤め、また辞める、といったことを繰り返していました。札幌で勤めていた会社を辞めて、故郷に戻ったとき、母に「おまえ、アイヌの仕事をしてみるか?」と勧められました。ウタリのための生活相談員という仕事があるというのです。

静内では、なかなか仕事も見つかりません。ほかにあてもなかったので、勧められるままに面接を受けてみると、通りました。それで、生活相談員の仕事をはじめるようになりました。

しかし、その時点でも、まだ自分がアイヌであるということを知らなかったのです。

仕事をしてしばらくしてからのことです。母がクモ膜下出血で倒れる一年前のことですから、いまから8年ほど前になりますでしょうか。ある日、突然母が「実はおまえにはアイヌの血が入っているんだよ」と教えてくれたのでした。

そう聞かされて、別にびっくりもしませんでした。「へえ、そうなんだ」と思っただけだったのです。

大きくなってから自分がアイヌだと知ったという人の話をきくと「すごい衝撃を受けた」とか「天地がひっくり返りそうな気がした」と聞きますが、わたしの場合はそんなことはありませんでした。わたしは、子どもの頃から、アイヌをいじめる側でも、またいじめられる側でもないニュートラルな立場でした。アイヌをアイヌだといじめる子を見ると「なんでだろう?」と思うような子どもだったので、自分がアイヌだと知っても「へえ」と思うくらいで、別段驚きはしなかったのです。

▼アイヌ語を学びはじめる
そんなこともあってアイヌ語の勉強を始めました。とはいっても、本音はあまり興味が持てなかったのです。身の回りにもアイヌ語をしゃべる人はいないし、なんだか遠い外国語のように思われました。

いまから4年ほど前、地元で「アイヌによるアイヌ語教室をやるべきではないか」という動きが生まれました。そのためにアイヌ語をしゃべれる方を見つけたところ、葛野次雄さん父子にめぐりあうことができました。

そこで、葛野さんにお願いして授業をはじめたところ、これはやはり、自分がきちんと理解していないといけないんじゃないか、と思うようになり、本格的に勉強をはじめるようになりました。

そこで、ちょっとだけ自信をつけることができました。これで、ぼくでもある程度しゃべれるようになるんじゃないか、と思ったわけです。

そこで、さらに本格的に取り組もうという気持ちになり、2000年に「アイヌ語指導者育成講座」で勉強をしました。

その少し前から、アイヌ民族文化祭で「静内でアイヌ語劇をやってみないか」という話がありました。わたしは、まだまだ力不足だったので「いずれ」といっていたのですが。とうとう引導を渡されるような形で「来年は静内だからな」と言い渡されました。2002年11月、静内でアイヌ民族文化祭が開催されることになりました。

わたしもいろいろ積み重ねてきて「やれるかなあ」と自分自身でも思えるようになってきたので、腹をくくってやってみることにしたのです。

題材は、最初ユカにしたいと思っていました。それならば、ユカのアイヌ語をそのまま使えるからです。しかし、土地の長老たちに話をしてみると「昔撮った映像があるから、それを見て考えようや」ということになりました。

▼アイヌ語劇「マナイタサンケ」
そこで、みんなで見てみると「マナイタサンケ」というとても面白い踊りがあったのです。これは、隣の家の人が大きなまな板を借りにやってきて、父と母がまな板を背負って隣りの人の家に持っていく。父母がいない間、子どもたちはつまらないのでみんなで歌ったり踊ったりして遊ぶ。おばあさんは子守歌をうたって赤ん坊を寝かしつける。すると、父母が鹿肉を持って戻ってくる。それを料理してみんなで食べる。お腹がいっぱいになって、みんなでリセを踊る。という一連のことを踊りにしたもので、昔の長老たちがアイヌの暮らしと古式舞踊を織りまぜながらつくった舞踊のようでした。

これなら、そのまま「劇」になるとハタと膝を打ちました。台詞さえつければ完成だと、最初はそう考えていたわけです。

ところが、実際にはじめてみると、すぐに壁にぶちあたりました。言葉だけではダメだ。アイヌの生活風習がわからなければ、劇にはできないとわかったからです。

例えば、男性は、誰かの家を訪れるときには、いきなり「ごめんください」とはいわずに、戸口で咳払いをする、とか、煮物を煮るときはもちろん火にかけるけれど、よそるときは必ず火からはずしてよそるとか、そういう礼儀作法などもわからなければ、劇としてつくれないわけです。

そこで、まわりの老人たちに古い風習などを尋ねながら、劇をつくることができました。わたしが書いた台詞は、間違いがあるといけないので専門家の方にチェックしていただきましたが、やはりたくさん間違いがあって赤がいっぱい入り「まだまだだな」と反省しました。

練習に入ってみて、またつまずきました。発音がうまくないのです。だいたい、しゃべれる人がいないので、正しい発音がわからない。静内には織田ステノさんというおばあさんが残してくれたテープがあったので、それを聞きながら参考にして練習を重ねました。

小さな子どもの方がなんなく発音できるのには驚きました。やはり、大人にはむずかしい。言葉は子どもの方がよく覚えるなあと実感しました。そして、こんな子どもたちが大人になれば、アイヌ語をわかる人がもっともっと増えていくのではないかと期待も感じました。

では、実際に上演された劇「マナイタサンケ」のビデオを見ていただきます。

1 タからはじまる。劇がはじめるまえに、みんなの安全と健康を願ってカムイノミを唱える。
2 アイヌのチセ(家)のなか。囲炉裏を囲む家族。隣の人がまな板を借りに来る。父はまな板を背負い、母も背中にかごをしょって、隣の人とともにでかける。
3 残された子どもたち。退屈紛れに歌い踊り、遊ぶ。
4 おばあさん、イフンケ(子守歌)をうたって、シンタ(揺りかご)を揺らして赤ん坊を眠らせる。
5 父母、鹿肉を持って戻ってくる。
6 母、鹿肉を料理する。(実物を舞台で切る)
7 鹿肉のオハウ(汁)をみんなによそって食べる。
8 食べ終わって、みんなでリセを踊る。

 こんな劇でした。後で見ると、いろいろと穴もあって、反省点も多くあります。やはり、言葉だけではダメで、風習あってこその言葉であると実感しました。もっと勉強して、より完成したものを作りたいという意欲を持っています。

マナイタサンケを残してくださった静内文化保存会のみなんさんには、とても感謝しています。

▼アイヌと差別問題
静内ではアイヌ語教室をやっていますが、なかなか人が集まらないのが悩みです。だいたい十人前後で、ときには数人ということもあります。なかには和人の方もいらしています。和人の方は、ほんとうに好きでやっていらっしゃるので、熱心に勉強していらっしゃいます。

どうして集まらないのかなあと思うのですが、ひとつには差別のこともあると思います。生活相談員をやっていて、差別の悩みを相談されることもよくあります。和人の子がアイヌの子をアイヌだといっていじめる、ということもありますが、なかにはアイヌの子がアイヌの子をアイヌだといっていじめるケースもあります。

調べてみると、やはり親の意識が自然と子どもに反映しているようです。アイヌがほんとうになんであるのかを知らず、たださげすみの代名詞として使用しているようなところもあるかと思います。

ぼくにとって、アイヌ語を学ぶということは、ぼく自身がアイヌであるという自覚を促すことになりました。アイヌとしての目覚めであり、誇らしいことだと思っています。

アイヌ文化をきちんと知っていただくことで、そのような無意味な差別がなくなるのではないかと思っています。

▼アイヌ語の未来
いま、アイヌ語をしゃべる人がどんどん減っています。残念だなあと思います。しかし、活動次第ではもっと広げることもできるだろうとも感じています。

問題点は、日常のなかでアイヌ語をしゃべる機会がないということです。いまでは、アイヌの家庭のなかでも、アイヌ語をしゃべる機会はほとんどありません。わずかにしゃべったお年寄りも、だんだん少なくなっていきます。

ぼくは、友だちの家に遊びに行ったときや、飲み屋などで、意識的にアイヌ語を使ってみるようにしています。たとえば「ワッカ(水)とって」とか、「ピリカ(いいね)」とか。アイヌ語に対しての拒否反応といったようなことはまったくありません。むしろ、みんな面白がって真似してくれたりします。

そうやって、日常のなかにすこしずつでもいいからアイヌ語を取り戻していけたらいいなあと思っています。

▼アイヌ語を学ぶことは人生のプラス
ともかく、ぼくにとってはアイヌ語を学ぶということは、プラスの側面しかありませんでした。まず、世界観が広がる。言葉だけではなく風習、つまり、背後に広がるものの考え方、感じ方、そんなことまで学べるということで、自分のなかの世界がぐっと広がってように感じられました。

また、人との出会いやつながりがぐっと広がったことも大きなプラスでした。

昔のアイヌに戻れるわけではありません。しかし、ぼくにとっては、いまがとても楽しい、いい状況です。こんな言い方はちょっとおかしいですが「アイヌとしてグレードアップしていく自分」を実感することができます。アイヌ語を学ぶことは、ほんとうに楽しいことで、プラスの側面ばかりのことです。みなさんも、ぜひアイヌ語に興味を持っていただきたいと思います。

Q&A

Q.生活相談員をなさっていて、どんな相談が多いのでしょうか?
A.二つあります。いちばん多いのが生活苦の相談です。もうどうしようもないというぎりぎりの相談を受けることも多いです。北海道全体で見ると、生活保護を受けているウタリの比率は和人に比べて、圧倒的に多い。それだけ、厳しい状況に置かれているということでしょう。

Q.生活苦の原因は、差別にもあるのでしょうか。
A.いろいろな原因はあると思いますが、もとを糺せばそこに行き着くと思います。明治以来の政府の政策が絡んでくると思います。

Q.相談の二つ目は?
A.やはり差別の問題です。子どもがいじめられることが多い。

Q.そのときの対処は?
A.わたしたちは、叱ったりしません。むしろ、なんでいじめるのか、話を聞き、アイヌだからといって差別の対称にはならないということを説得するような形にしています。アイヌのことをよく知ってもらうことを根本にしています。

結局は教育の問題ではないかと感じています。一般に、小・中・高で学ぶカリキュラムに、アイヌ文化はまったく入っていません。アイヌの歴史と文化をきちんと伝えることで、故なき差別はなくなっていくのではと思っています。

Q.アイヌの子どもたちは、どんな職業に就きたいと願っているのでしょうか。
A.静内には事務職のポストがほとんどないということもありますが、一般に肉体労働系の職業につきたいという子が多いのには驚きます。「勉強はしたくない。高校も行かなくてもいい。体を使って働いて食べていければいい」という子もいます。最近では、スーパーやファーストフードの店が多いので、そこでのパート職をする子も多いです。不況ということもあり、働きたくても仕事につけない子もたくさんいます。

Q.和人が、アイヌ文化を学んだり、アイヌ民話を絵本にしたりすることをどう思われますか。反発などはないでしょうか。
A.アイヌの言葉と文化を、少しでも多く後世に残したいと願っています。和人であろうと誰であろうと、アイヌの文化に共感し、ともに学んでいきたいという人々は、わたしは大歓迎です。

Q.アイヌだとまったく知らずに大きくなられたとのことですが、お母さまからアイヌだと聞かされて後、お母さまとアイヌのことなどお話になる機会はありますか?
A.聞かされて一年後、母はクモ膜下出血で倒れてしまい、言葉も不自由になってしまったので、残念ながら話し合うチャンスはありませんでした。

アイヌだと聞かされたその時、母は、突然ひとつの木箱を持ってきてわたしに見せてくれたんです。開けると、トゥキとパスイが入っていました。「これはおまえのおじいさんものだ。おまえのおじいさんはアイヌなんだよ」と聞かされたのです。祖父の家を壊す時、祖父が捨ててしまうというのでもらってきたものだったそうです。その祖父にも、アイヌの面影はまったくなかったので、わたしは知らずに育ったのでした。

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