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征木某(同じく匿名希望/爆)
留守の間に言っちまおう。(ドキッとしてね/笑)
2004年03月04日(木)11時54分25秒
▽お帰りなさい! へのコメント
この掲示板を読んだり書いたりする人たちの中で僕は寮美知子さんとどちらかというと古い知り合いの方だと思います。おそらく三〇年には届かなくても、四半世紀ほどにはなるかもしれません。
そんな僕から見ても、最近の彼女は凄いと思います。若さや子供の本質的な良い部分を喪わずに、ほんとうに「新しいおとな」の一人として本格的に成熟し始めたと思います。そして何よりも、私たちのこの時代と深く結びつきつつあるインターネットの可能性を信じ、人間と人間の良い心の可能性を追究しようとしている姿に「怠惰で虚無で冷笑的」な僕はカンドーします。これは皮肉でも冗談でもありません。
寮美知子にとって現在のインターネットの可能性は人間の可能性でもあるのでしょう。それは無限を孕めるんじゃないかと、彼女は本気で想っているように僕には見えます。
もちろん人間ですから瑕瑾のような部分はたくさんあるでしょう。
でも、でもでも です。「怠りなまけて、気力もなく百年生きるよりは、堅固につとめ励んで一日生きる方がすぐれている」と日々愛唱する(嘘)『法句経/ダンマパダ』にもあります。
最後に同じ中村元先生の訳で『ダンマパダ』から、皆さんにもこんな言葉を贈りたいと思います。
「ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。」(岩波文庫『真理のことば』第一七章 怒り より 二二八節〕
今は違う道を歩んでいるのかもしれない、僕のささやかな志を自家製の言葉で言うとこうなります。
「経験を積み、思索を深め、淨らかさを喪わなければ、それでいい。」
お元気で!
勇崎(匿名希望)
お帰りなさい!
2004年03月02日(火)21時42分31秒
▽いざ、インド! へのコメント
と、先にいっといちゃおー。
吉木克実
そうか・・もう行っちゃったのね
2004年02月25日(水)09時59分24秒
とりあえず、無事のお帰りをお待ちしとります(T_T)
寮美千子
いざ、インド!
2004年02月25日(水)04時36分50秒
行ってきます。
ベンガル湾の波の音を聴いてきます。
寮美千子
みんな ありがとう!
2004年02月25日(水)02時43分29秒
▽闇多ければ・・・・ へのコメント
結局、同じことをいっているのに、どうしてこうまで違う言い方があるんだろうと思う今日この頃です。励まそうとしてちゃんと相手を励ます人と、励まそうとして、へこんだ人を、なお、へこましてしまう人がいる。その差って、なんなんだろうなあ。ギモン。愛のベクトルの問題かなあ。愛はきっと同じようにいっぱいあるんだけれど、相手に向いているのか、別のところに向いているのかの差かなあ。
▼パルステラさま
パルステラさんは絵描きさんなのに、その言葉はまるで詩人のよう。裸足で逃げだしたくなるくらいです。美しく的確な言葉ではげましてくれて、ありがとう。
>闇を知る者が生み出すものは、
>知らない者のそれよりも深い底力を持って輝くはずだと私は信じています。
この言葉にとても勇気づけられました。元気、出ました。闇の中に、光が灯ったように感じた。ほんとうにありがとう。そうだね。へこんでいちゃいけないね。
▼勇崎さま
勇崎さんは、稀にみるやさしい人だなあと、つくづく思います。そんなやさしい人に心配かけちゃいけないなあと、このごろようやく思うようになりました。でも、へこむとやっぱり勇崎さんにぐちったりしちゃうわたしです。忙しいのに、いつもいつもつきあってくれて、ありがとうございます。大切にしてもらえていると思うと、それは勇気になります。
▼ZIPPさま
いらっしゃい! どこかで見たお名前と思ったら「漂着物学会」のMLの方ですね。あたたかい言葉をかけてくださってありがとう。心にしみました。すばらしい浜辺の写真、HPで見させていただきました。こんな風景、大事にしたい。ほんとにそう思います。
・芦浜 海からの伝言
ガンジス河口でベンガル湾をのぞみながら、ビーチコーミングしてきます。戻ったら、報告しますね。
▼高橋喜治さま
高橋さんのおかげで「あたらしい憲法の話」を読むことができました。ありがとう。いまこそ必要なすばらしい言葉だと思います。帰ったら、また、お目にかかりましょう!
・「あたらしい憲法の話」ネット版
DORONKO
焦燥は禁物+悲観主義はやめよう。
2004年02月24日(火)13時49分37秒
▽ふんばれるだけふんばったけれどなにもつたえることはできなかったかもしれない へのコメント
……寮さん、今はもうジェットの機内ですかね?
貴女がヘコム気持もわからなくはないけれど、こんな調子でヘコマレたら、
ぼくもたまりませんね。貴女の主張がうまく通じなかった、受け入れられ
なかったとすれば、やはり、それには理由があったはずだと、ぼくは思い
ます。すべて「わからないあなたが悪いのだ!」では、通じるはずの話も
通じなくなってしまうのは当然です。その点を、どうか冷静に考え直して
みて下さい。
ただ、今はともかく、貴女が、インドで見届けるべきものをしっかりと
見届け、それによって作品に最後のひと息を吹き込むことができるように
と祈るばかりです。
それにしても、
>イラクへの自衛隊派遣を支持するその政党の方たちは「むずかしい問題
>なんですよ」と語る。それは、ちょっと見にはわからない複雑な事情が
>あるから、あれは行かなくてはならないのだという意味です。
――というのには参ってしまいますね。彼らは、政権与党の人たちなの
ですね?彼らの考えは「でき上がってしまっている」のでしょうから、
そこで議論をしても仕方がなかったかも知れませんが、「むずかしい問題
なんですよ」では、何の説明にもなりません。彼らの責任は重大だと、
ぼくは思います。
ぼくは、ジョージ・ブッシュ2世が大統領になってからのアメリカに、
心底失望しています(その前からも、それほど好きな国ではありません
でしたが、なおのことに)。でも、世界の国々が地球環境問題に取り組む
上での柱になっている京都議定書からの一方的な離脱を宣告し、包括的
核実験禁止条約(CTBT)の批准を拒否し……ついにアフガンを爆撃し、
イラクを武力で制圧するという、さながら、愚行、蛮行のオンパレード
ともいえるようなこんな状態が、永遠に続いたりするものでしょうか?
ぼくは、そんなことはありえないと思います。そして、民主党のケリー氏
という有力な対立候補が出現したことによって、まだこの先、いろいろな
曲折はあるでしょうが、ブッシュ政権の落日は、いよいよ秒読み段階に
入ったのではないかと、ぼくは見ています。
もちろん、ケリー氏の政権が誕生しても、アメリカはアメリカで、100%
別の国になってしまうなんてありえないでしょう。が、少なくとも、中東
問題をはじめ、重要な政策のいくつかが大きく変わる可能性もありますし、
何より、ケリー氏率いるアメリカとであれば、かなり「まともに話ができる」
だろうという気がします。
そうなれば、次は、この国、日本はどうなるのか、です。世界中から
ブッシュ氏の飼い犬も同然と見なされているような小泉首相が、いつまで
今の座にいられるでしょうか?いや、小泉氏がというよりも、そもそも、
自民・公明の2党が野合することによってかろうじて存続しているような
現在の与党体制が、いつまで続くというのでしょう?ぼくは、彼らの
命運は、ほとんど尽きかけている――というのが事実だと思っています。
それにしては、自分たちが生きている現実について、あまりにも勉強不足で
無気力な人間も、随分多いのだろうな、とは思いますが――。
ぼくは、今ベストセラーになっている「さらば外務省!」(講談社刊)を
読んだばかりなのですが、この本のあとがきで、著者の天木直人氏(元
レバノン大使)は、こう述べています。
政権交代を実現させ、政治家に緊張感を持たせるための努力を、
われわれは惜しんではいけない。(中略)変わるべき野党がない
のではない。野党がだらしないのでもない。われわれが政治に
対してだらしないのである。責任を放棄しているのである。
――ここでも、「われわれ」って誰のこと?ということが問題になるかも
知れません。まあ、ぼくは、イタイケナイ少年少女にまで政治に責任を
負えなんて思いもしないのはもちろんのことで、常識的に考えれば、
この本の読者になるようなオトナたち、とりわけ、40代や50代のオッサン
ならば、ということでよいんじゃないでしょうか。で、たとえば、この
本を読んで、天木氏が言うことはもっともだと思ったなら、それを、
より若い青年たちに話して聞かせたり……ぐらいのことは、やるのが
当然だろうとぼくは思います。
そんな風に、世の中ってもんも、少しづつ動いてゆくものだということを、
ぼくは信じています。
zipp
ごめんなさい。
2004年02月23日(月)23時29分25秒
http://ashihama.org/
▽スラッシュスラッシュ へのコメント
勇崎さん,ありがとうございます!
このウェッブに一週間ほど前に「漂着」しちゃって、ちょっと覗いて惹きこまれちゃったのです。夕べはちとヨッパラてたかも(^^; 今見たらメールアドレスも間違ってました(汗)
更新してないので、あまりweb紹介してないんです。ただ、自己紹介にはなるかな?と思って初めてのところにはurlを書いてます。
芥川賞作家のオヤジさんもネイチブアメリカンの物語を翻訳されてますよね。
「亀の島」は、某詩人(って名前忘れただけですが(^^; )
ガンジスの畔でのめっけもの期待してますからね!
高橋喜治
寮さん、ありがとう!
2004年02月23日(月)14時13分34秒
▽「あたらしい憲法の話」資料集 へのコメント
こんなに出てたんですね。これに関してはまた力お貸し下さい(インドの後かな?)。
森先生! 例の中学生の合唱の件で後でご相談が。
勇崎(匿名希望)
スラッシュスラッシュ
2004年02月23日(月)01時46分45秒
▽元気にインドへ♪ へのコメント
ZIPPさんのHP。
開かなかったので
http:のあとに//スラッシュスラッシュ
入れると開きました。
芦浜の浦島太郎の玉手箱から、
煙がスラッシュスラッシュといって出た感じかな。
http://ashihama.org/
zipp
元気にインドへ♪
2004年02月23日(月)00時55分51秒
http://ashihama.org/
はじめまして!こんにちわ!
りょうさん、素敵ですよ!
アイヌやネイチブアメリカンの作品を手がけていらっしゃるんですね♪
私は、電脳網セカイを10年来いるものですが、素敵だと思います。
インドに行った報告を楽しみにしてます。
勇崎
輝きの屈折率
2004年02月23日(月)00時38分55秒
▽ふんばれるだけふんばったけれどなにもつたえることはできなかったかもしれない へのコメント
一途に輝く人をかわいいと思う。
かわいい、なんて言い方は、失礼!?
僕もイイ齢なので、人の輝きをかわいいなあ、と感じたりする。
光は、対象に反射して輝き、吸収されて沈黙する。
光は、水やプリズムのような透度をもった物体を通過して、輝く虹になる。
かわいい子には旅させよ。
光あふれるインドへの旅の幸運とその歓喜を祈っています。
パルステラ
闇多ければ・・・・
2004年02月22日(日)23時24分00秒
▽ふんばれるだけふんばったけれどなにもつたえることはできなかったかもしれない へのコメント
夜空の星達を見て、いつも思います。
星は圧倒的な闇の中にあるからこそ、あのようにきりりと輝いているんだと。
昼間の星はあれほど輝いては見えない。
もしかしたら、この世は闇のように思われる物事のほうが多いのかもしれません。
「魚が水の中にあってこそ魚であるが如く、光は闇があってこそ存在する。」
ゲーテが著書『色彩論』の中だったか、そんな意味の事を書いていましたっけ。
この世の現象の中、すべて光であるはずがないとすれば、だからこそ、その闇の中から光の種を探して
自分の持ちうる力で精一杯輝かせるのが私達「もの創り」の仕事なのだろうと思います。
闇を知る者が生み出すものは、知らない者のそれよりも深い底力を持って輝くはずだと私は信じています。
ベクトルが正しければ、光の仕事はさらに引力を持ち、繋がっていきます。
一つ一つの小さな星も大きな銀河を成すではありませんか。
このような抽象的な例えでしかものが言えませんが、
寮さん、光の種を沢山見つけて帰って来て、また創作で輝いて下さい。
多くの人がそれを待ってますから。
御無事での御帰還をお待ちしていますよ。
寮美千子
ふんばれるだけふんばったけれどなにもつたえることはできなかったかもしれない
2004年02月22日(日)21時43分30秒
▽…… へのコメント
カチャッ、カチャッっと音を立てて、歯車が悪い方へと回る。いったんひと歯送られると、戻ることは不可逆な装置のなかで。まるでそんなふうに見える今日この頃です。
自衛隊のイラク派遣のことも、一目見れば「出征」であり「軍隊の侵攻」であることは火を見るよりも明らか。もしも、東京になにかあった時、装甲車が隊列を連ね、大砲や機関銃を持った迷彩服の男たちが遠い国からどやどやとやってきたら、それは果たして「援助」に見えるでしょうか、それとも侵略に見えるのでしょうか。明白です。
その明白なことに、たくさんの理屈をつけ、詭弁を弄し、問題を細分化し、隠蔽し、本質を語らせない雰囲気を醸しだし、無理な正当化をしています。
その正当化を後押しするように、正当化する人々がいる。「むずかしい問題なんですよ」といって、その「むずかしさ」を理解することがあたかも知的であるがごとくに信じこんでいる人々がいます。
きょう、我が家にある政治家が訪れました。ご近所の主婦の方がふたりいっしょに。とてもとてもいい人たちです。わたしは大好きです。けれど、イラクへの自衛隊派遣を支持するその政党の方たちは「むずかしい問題なんですよ」と語る。それは、ちょっと見にはわからない複雑な事情があるから、あれは行かなくてはならないのだという意味です。
それは違うよ、とわたしはいいたい。むずかしい理屈の方が、知的で正しいように思う人は多い。けれども、あらゆる虚飾を取り去って、物事の本質を見極めることの方が、ずっと正しい、勇気ある行為です。「戦争はいけない」「人殺しはいけない」という単純な事実。「アメリカによる報復攻撃」という名の戦争を、人殺しを、容認したからこそ、いまイラクへの「援助」が必要になっているのです。当たり前のことを「ノー」といえなかったツケが、いまきている。
でも、そのツケを支払う必要はない。それは「泥棒に追銭」みたいなもんです。つまり、アメリカのめちゃくちゃをさらに加速するだけです。ほんとうの「援助」はそこにはない。武器を持って軍隊を派遣することがほんとうの援助ではない。中村哲医師は、いまでもアフガニスタンで黙々と井戸を掘っています。アメリカのアフガニスタン侵攻の前からずっと。
わたしの日常の中でも、おなじことが起きています。だれが見ても当たり前のこと。その当たり前が通らない。通らないことに声を上げると、ぼこぼこに叩かれる。叩かれることをものともせず、当たり前のことを伝えようと必死になると、ついには「電波系」とまでいわれる。そこにあるのは、詭弁。一番大事なことを無視して、その先の話ばかりする。一番大事なことなど、いまはもう語るべき時ではない、というように。
世の中の、そのようなあり方を、ひしひしと感じ、無力感に苛まれます。一方で、光に満ちた仕事もあり、仲間もいて、ほんとうに気持ちの良い仕事もできるというのに。この大きなギャップはなんだろう?
光に満ちた仕事をして、世の中に美しいものを生みだしていくこと。その方が、ずっとすばらしいことのように思われます。実際に価値や意味のあることに思われます。ワカランチンな人々に必死に誠実に語り続けて、わかってもらえなくて疲労困憊するより、ずっとましなことに思える。
でも、それだけでいいのかしらと思ってしまうわたしがいる。いくら美しいものを生みだしても、世界はどんどん悪い方へ走っていく。転がり落ちていく。だったら、少しでもそれをとどめるために、ふんばらなくてはいけないのではないか。結局は負けても、やっぱりふんばれるだけふんばらなくてはいけないのではないか。ふんばらずに逃げ出して、美しいものだけを語っていても、転がり落ちていこうとする世界を支える力にはならないんじゃないか。
そう思いながらも、自分の非力さに打ちひしがれる今日この頃です。さあ、仕事しなくちゃ。インド出発目前。まだやることがあるぞ! がんばれ!
寮美千子
「あたらしい憲法の話」資料集
2004年02月22日(日)21時20分31秒
▽「一冊の教科書」 へのコメント
高橋喜治氏よりご紹介いただいた「あたらしい憲法の話」。これは、すばらしい。復刻してみんなが読める形の本にしなくっちゃ! と思ったら、もう出ていました。それも何社からも。今の時期、もっと評判にならなくっちゃいけないなあ、こういう本は。「日本国憲法」を美しい富士山写真と組み合わせて大ヒットさせた小学館の島本脩二氏のように、何か特別の仕掛けを作ることで、浸透させることができるのかもしれませんね。ともかくは、ご覧あれ。
・「あたらしい憲法の話」復刊(童話屋)
ネット上で、その全文を読むこともできます。こちら。
・「あたらしい憲法の話」インターネット版
当時の表紙も見られます。
・「あたらしい憲法の話」
「あたらしい憲法の話」は、昭和23年(1948)に文部省から発行されましたが、残念ながら、朝鮮戦争のはじまった昭和25年(1950)に副読本に格下げされ、翌年には教材としても廃止されてしまいました。当時すすめられた再軍備化の邪魔になったためであるといわれています。昭和21年(1946)の新憲法公布から、わずか5年後のことでした。
「あたらしい憲法の話」と改憲論について、札幌弁護士会の佐藤義雄氏がオンラインでエッセイを発表しています。
http://www.satsuben.or.jp/html/02column/co00117.htm
望
はれはれ?
2004年02月21日(土)01時20分12秒
http://www.h4.dion.ne.jp/~eulalie/top.htm
▽望さんへ へのコメント
>大長老さま
う〜ん(笑)わたし記憶力には自信が……ありません(笑)。
それからこれ、たしかわたしに向かって言われた言葉ではなかったのです。
ちょっとわかりにくい書き方でした^^;
この言葉のあとに、場に愉快な笑いが起こったように記憶しております。
ユーモアなのです。
わたしははたで聞いていて、ふむふむと思った次第なのです。
オーライですね〜。うふふ
高橋喜治
「一冊の教科書」
2004年02月21日(土)00時40分55秒
作曲家の高橋喜治です。昨年 合唱団カベルと新日鐵君津合唱団の合同委嘱で寮美千子さんの「父は空 母は大地」の作曲をさせて頂きました。今も女声合唱団Asukaの委嘱により寮さんの詩「インディアン・フォレスト」に作曲しています(あともうちょっとで出来るところ)。
私の仕事の半分は、時代への危機感から突き動かされて生まれて来るようです。最近、飯島星の詩による作曲の"8月の雨"キャンペーンを開始しました。オリジナルの女声合唱と混声合唱ヴァージョンがあります。合唱団の方々、ぜひ、平和への歌声を響かせて下さい(お問い合わせE-Mail:haruan@tbg.t-com.ne.jp)。
そんな今、ぜひ、紹介したい私がお世話になっている美術家の森先生の手記があります。きしくも「父は空…」の校訂済の原稿を君津合唱団に送るべくコピー機を借りに姉の会社に立ち寄っている時でした。『これは「No War」というHP上で掲載されるはずであったのだが、ある嘆かわしい理由から没になってしまったとのだ』と、森先生ご本人から渡された原稿なのですが、この場をお借りしてぜひ紹介させて頂きたいと思います。以下本人ご了承の上での原文のままの掲載です。
「一冊の教科書」
森 顕爾
2004年1月19日、日本の自衛隊が初めて戦時下の外国の地に入った。そして、前面に機関銃を備えた装甲車を先頭に、隊員は小銃や短機関銃の引き金に指を当てた構えで活動を始めた。22日には航空自衛隊の本体が出発する。アフガン以来インド洋では、海自のイージス艦がいまだに米軍と軍事的連携を続けている。まさに陸・海・空、国を挙げての軍事的状況であり、非常事態である。
次から次へと歯止めなく事実だけが拡大、増幅され、われわれに迫ってくる。疑問や、批判、思考、抗議の力を無力化させている。さらに情報の氾濫が、現象に翻弄されることになり感受性をにぶらせ、怒り、不安、いらだち。あきらめなど感覚の無秩序化が進み判断力を低下させ、本質を見えなくさせている。戦後、経験したことの無いきわめて異常な事態なのである。
このような時だからこそ、今日の問題に強く結びつき、自分の体験にもとずいたものを、あらためて振り返ってみたいと考えた。
ここに一冊の教科書がある。1947年(昭和22年)文部省発行、「あたらしい憲法のはなし」。私が新制中学1年生のとき社会科の副読本として使ったものである。60年も前のこの小冊誌が鮮明な記憶として頭にあり、表紙の色、挿絵までも覚えていた。
横浜市中央図書館に現物があった。1月21日のことである。文章はそのまま、一部を引用してみたい。
六 戦争の放棄
前文略
いまやっと戦争は終わりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして、日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただ。おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。
略
そこでこんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは。兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは、「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことをほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
挿絵[大きな釜で、軍艦、爆撃機、大砲など兵器が処分されている。釜の腹に太ゴシックで"戦争放棄"の文字]
もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということを決めたのです。おだやかにそうだんして、きまりをつけようというのです。
略
また戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国となかよくして、世界中の国が、よい友達になってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。
みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう。
戦後新しい憲法が発布され、中学生にも理解させようとしてできた解説書である。それこそ戦後復興の緒についたばかりの時期である。なんとみずみずしい言葉が並んでいるのだろう。戦争に対する深い反省、平和に対する心からの願い。不戦への誓い。国家としての正義のありかた。気負わず、率直に、明確に語られている。
この教科書で学んだことを、心より誇りに思う。 1-26-04
silica
見えないまま感じていること
2004年02月20日(金)16時29分35秒
▽…… へのコメント
寮さんは、人間そのものを見つめないで「表現文化」について何か伝えることができるだろうかとそのことを大事にされていたと思います。
問題になったのは、正門の石の件かしら? このサイトでの学生さんたちの自由な自己表現のことかしら? 本音でないオブラートに包んだきれいごとの理由を突きつけられることを寮さんは一番納得し難いとお思いなられたのではないでしょうか。
寮さんは、言葉を繕わずにせいいっぱい伝えておられるのだと思います。
寮さんの「遠くを見たい」の言葉を読み返すと私はその寮さんがいるだけで嬉しいと思います。
寮さんの授業に若いうちに出会えた学生さんは本当に幸せだと思います。
吉木克実
ダイアモンドの光は失われた
2004年02月20日(金)15時41分40秒
和光大学の建学の精神はすでに失せた・・・
ということですかな・・
寂しい限りです。
梅根先生もはるか天空のきわみから、
さぞかし嘆いていらっしゃることでしょう。
http://www.wako.ac.jp/summary/rinen.html
寮美千子
……
2004年02月20日(金)13時10分48秒
寮美千子
カフェルナ&カフェルミ ふたつの掲示板
2004年02月18日(水)13時06分24秒
▼二つの掲示板
「掲示板は議論を深めるには向かない不完全なメディアである」という意見はもっともだと思います。けれども、それをわかったうえでも、この未知のメディアで何ができるか、試行錯誤を重ねていきたいというのが、わたしの気持ちです。その主旨に賛同できない人が世の中に存在することは一向構わないけれど、その主旨に賛同できないのであれば、わざわざここに関わってもらう必要はないという姿勢は、かわりません。
寮美千子の掲示板はもうひとつ
「軽い掲示板カフェルミ」があります。「かつてはきれいな言葉が流れ、気持ち安らげた掲示板」だったといった人もいますが、それはそのまま、カフェルミに残してあります。政治的な話とか、ちょっと重たい話題が増えてきたので、それをこちらへ切り分けて
「新生カフェルナ」にしました。
この掲示板の趣旨は
「新生カフェルナ宣言」を読んでください。
たのしいおしゃべりを望む方は、ぜひ
カフェルミへ。長文を読みたくない方も、
カフェルミへいらしてください。
▼少数派を、少数派だからという理由で排除しない掲示板にしたい
「冷たい機械の向こうには常に温かい人がいる」と思うからこそ、困ったことがあってここに語りかけてくる人を排除するようなことは、なにがなんでもしたくなかったのです。そのためにいっしょうけんめい語りつづけてきたつもりです。「対話」のなかで、ドロンコ氏がそれをわかってくれたのは、うれしかった。
それは、困ってここへ語りかけてきたその人ひとりの問題じゃないと思います。「拒否されず、ふつうに話しあえる場所があるんだ」と知ることは、たとえ掲示板に参加しなくて読むだけでも、きっと心のどこかの安心感になっていく。ずいぶん気が楽になると思う。少なくとも、わたしだったらそう感じる。
うえやまさんのこと、熱心に語り続けてきたのは、うえやまさんに対してだけじゃなくて、その向こうにいる無数のうえやまさんに対してです。「顔が見えない掲示板」というのは、だからこそ「個」を超えてひとりひとりに語りかけることもできると思うのです。
困っている人を救おう、なんていうんじゃない。わたしが引き受けて問題解決します、というのでもない。ただ、同じ一人の人間として、言葉をかわしていこうよ、むずかしいけど、いっしょにぼちぼち考えていこうや、という呼びかけなのです。
そんなふうに考えるのは、きっとわたし自身が自分を、世界の中で「多数派」とか「平均」じゃないと感じているから。わたしは「こんな掲示板があったらいいな」と自分が思うような掲示板運営を心がけていきたいと思っています。
「問題」そのものを語ろうっていうんじゃなくて、ただふつうに世間話したいなあ、って思ったら、うえやまさん、
カフェルミに遊びに来てくださいね。ハートや星空や、いろんなきれいなものも(リンクだけど)ちりばめられてます。
寮美千子
白黒赤青しどろもどろ
2004年02月18日(水)12時44分54秒
▽望さんへ へのコメント
▼大長老さま
目を白黒して、顔を赤くしたり青くしたり、あたふたして、しどろもどろ、あげくの果てに支離滅裂の大長老のお顔が浮かんで笑いました。春です。
>「ぼくらは底辺から、じわじわと」
って、いったかもしれないよなあ、大長老。酔っぱらうと、結構調子でちゃって「おれらはさあ、うんと底の方からこうさあ、じわじわっとねえ」なんて。それが典型的「スケコマシ(大長老用語)」的な気障な台詞って思ったりしないで、人生の大先輩の教えだって素直に受け取った望ちゃん。びっくりしたみたいなまあるいお目々で、赤ん坊みたいに大長老をじっと見つめている望ちゃんの姿も、目に浮かぶようです。望ちゃんがそれを胸にあっため続けてきたきて、へこんでいる寮美千子をはげまそうとして、するっと口にしたところ「ええーっ?! おれって、そんな気障なこといったの?」と、あわてちゃってる大長老も、とってもチャーミングです。
春になったら、みんなでお花見でもしたいですね。小長老こと信介さんが、自衛隊のイラク派遣反対のミニデモしようっていってるから、お花見デモしようか。もちろん、まじめまじめ。まじめに楽しく闘わなくちゃね。
▼望ちゃん
ありがとう。うーんと年下の望ちゃんに、いつも励まされているわたしです。「寮さん、へこんでるかも」って思ったら、ともかくボールを投げてくれようとする望ちゃんの、その気持ちだけでもわたしはうれしくて元気になります。年下の望ちゃんに、諭されることもあります。
> それから
> 掲示板よりも
> きみがいっとう大事だ。
> ということ。
それは、わたしの過剰とも思える反応を見て、望ちゃんが心配していってくれた言葉。「掲示板の議論でさよならいっても、現実世界ではお友だちとしてちゃんと大切にしてほしい」っていう心が、痛いくらい伝わりました。望ちゃんを、ちょっと悲しませてしまったかもしれないと、反省しました。望ちゃんにいわれたとおりにしますね。
大長老
望さんへ
2004年02月18日(水)04時24分46秒
▽底辺で光る へのコメント
>「ぼくらは底辺から、じわじわと」
初対面の女性にあたしはこういうこといいませんです。
「ぼくら」なんていいません。
えーっと、どうしょうか。
やっぱりいっとこう。
すれっからしの親父から、余計なお世話の一言です。
「ぼくらは底辺から、じわじわと」
ていうのはですねー、品を欠いた言い方ですが、
ここ数十年つづいているスケコマシの常套句なんですよ。
あたし、恋人でもない女性にこういうことをいう男、信用しないですねー。
もてない親父のルサンチマンとかジェラシーを差し引いたとしても、
やっぱねー、これほんとです。
もし年頃の娘があたしにいたら、同じことをいいます。
姪にもいいます。
でも言ってることは、決して間違ってないし、わるくはない。
だから、うーんと、なんか水をさしちゃったかなー、とかも思わないでもないけど、
えーっと、望さんは悪くないし、
この言葉をときどき思い出して、心のかたちを整えたりするのはいいこだと思います。
結果オーライなのだ。
言葉って、不思議で、妙で、危なくて、
ときには笑いを含んで、人の横隔膜を痙攣させたりして、
いやー、だから惹かれるのかなー♪
雪解けて、芽ふくらむ。
雨水もまもなくですねー。敬具
望
底辺で光る
2004年02月18日(水)00時56分15秒
いつだったか、
初めてお会いしたときだったか
大長老が、言われていたと記憶しています。
「ぼくらは底辺から、じわじわと」
わたし喋り言葉うまくないですし、
いっつもへらへらわらってて
言いたいことの1%も伝えられんのが情けないけど、
じっくり、やっていくの、誇ろうなって時、
思い出すですよ。
だから負けないで、
自分の場所で、
あせらないで、
光ろうって。
世界を魔法にかけるのは私です。
魔法を獲得するのじゃないのです。
いつもここから、
(ってお笑いコンビ?)
(アルゴリズム体操?)
小長老
そうそう
2004年02月17日(火)20時56分43秒
だれかさんが言ってたよ
「インターネットもメールも慣れてくるにしたがって、ついつい忘れそうになりません?
冷たい機械の向こうには常に温かい人がいるということを……」
DORONKO
ウーム……難しいなと思います。
2004年02月17日(火)18時51分23秒
▽わかってるからなごんだんだよ/愛と、愛のふりをしたもののちがい へのコメント
ぼくは、明石さんがおっしゃることも、全否定しようとは思いません。
言いたいことはわかるような気もするんだけど……でも、それにしては
ズレが大きすぎるかな、というところです。
乱暴に言ってしまえば、明石さんの立場は
「ネット=無意味」
ということになってしまう(かのように読める)と思うのですが、
ぼくは、ちっともそうは考えていませんから。
で、寮さんのことを心配する気持もあったのはもちろんですが、
先にぼくが言いたかったのは、「読者の立場」とでもいうのか、
もっと見やすく、シンプルに書かないと、伝えたいことも伝わり
にくくなってしまうのでは?ということが第一でした。
これは別にネット上のことに限らず、あまりに苛立ちが強まったり
すると、文章(を書くこと)によいはずはないとぼくは思います。
ぼくは、たとえ「読者」であっても、それぐらいのエゴは持って
よいと思っています(ネット上の文章であっても、それを
見る者に「読む気にさせる」ということがどれほど大事か
ということは、言うまでもないと思います。むしろ、ネット上で
あれば「なおさら」かも知れません)。
で、(「生身の人間相手」だってことは、もうわかりましたが)、
ぼくは、ネット上で発言するにも「資格」を問題にすべきだ
――などとはまったく思いもしませんが、かといって、ネットの
外で(ネットと完全に無縁な活動というのがどれぐらいあるのか
というのは簡単には言えそうもないので、「相対的に自立して」
とでも言うべきかも知れませんが)動いている世界を「切り捨てて
しまう」危険については、よく考え、注意すべきであると思います。
で、寮さんが引用している
Webの最終目標は、世界中に散らばっている私たちが織りなしている
網の目のような存在を支援し、改善することである。
という言葉ですが、ぼくは、このメッセージを受けとめる上で
とても大事なことは、ぼくたちが「つながりあう」には、
まずぼくたちが「存在」してなければならない――という
ことではないかと思います。「網の目のような」という形容詞が
あるので、この目的語はWebのことであるかのようにも読めて
しまいそうですが、この文ではWebが主語なので、それは誤読だと
思います。つまり、この筆者は、「現実の世界の実在」を疑ったり
してはいないことはたしかです。
この点には、十分に注意すべきではないかとぼくは思っています。
寮美千子
わたしたちが織りなしている網の目こそが世界だ
2004年02月17日(火)15時47分39秒
▽こちらこそ失礼 へのコメント
寮さんが社会に本当に影響力を与えたいなら、
もっと作家として売れるか、政治家になるか
あるいはイラクの、養護学校の、ロリコン救済センターの現場に行って、
いう以上のことを命かけてやらないと、世界はそうそう変わらないと思います。
「世界をよくしたいと思って」「正義を語るなら」
「影響力のある人間にならなければならない」
「現場にとびこんで命かける覚悟がないなら正義を語る資格がない」
いつの世も いつの世も いわれ続けてきたこと
世の中がもっといいところになればいいと願っている
心からそう思っている
ヒトラーもそう思った
ポルポトもそう思った
彼らが思い描く「いい世の中」にするために
彼らは 権力を握り 人々を操った
きみはいう
世界を変えたかったら
売れる作家になるか 政治家になれと
世界に影響力を持てと
そうだろうか
それはヒトラーになれというのと同じこと
権力が世界を操ることを是認すること
きみはいう
世界は変えるものではない 変わっていくものだと
それを受けいれるところからしか
ほんとうの「表現」がはじまらないのだと
そうだろうか
ひとりひとりが
いまいる自分の場所で
精一杯誠実に生きること
それが「表現」
世界にいるすべての人が「表現者」
ひとりひとりが生きている
そのままの姿が「表現」
それを発信することが表現ならば
発信しないこともまた表現
わたしは思う
世界がよくなるということは
そのひとりひとりが
精一杯生きようとするところからしか はじまらない
そのひとりひとりが
語り合い つながりあい 理解しあい 分かちあい
わたしとちがうあなたを
認めあい 尊重しあえること
それが わたしが夢見る 美しい世界
絵本も 小説も
それは「表現」の結果のひとつにすぎない
いまここに生きるわたしの 精一杯の生き方のひとつの形
世界を変えるために「表現」をしているんじゃない
「表現者」であるために 生きているんじゃない
影響力を高めて 人を動かそうとしているんじゃない
わたしはここで 精一杯やっているだけ
そして 誠実に生きようとする人々と
ゆるやかに つながりあいたいだけ
そうやって ひとりひとりが その人のいる場所で
誠実に生きることが
人々が 愛を持ってゆるやかにつながりあうことが
世界をよくすること
つながりあおうとする心をつなぐもの
一人一人の経験を共有するための道具
それが「Web」
インターネット
たくさんの人が訪れる人気サイトになることが 価値なのではない
一個人が 大放送局や大新聞のまねをしようというのではない
ひそやかに発信する
ただひとりでもいい
受けとめてくれる人がいれば
そうやって小さなさざなみを
ひとりひとりが起こしていく
そのさざなみが結びあい
世界を覆う光の織物になる
織物になって そっと世界をくるむ
きみはいう
それは幻想 現実ではない
ヴァーチャルな夢
現実に飛びこむ覚悟もないくせに
口先だけで正義を語るなと
そんなのは無意味だ
口先だけの者に 正義を語る資格はないと
いつの世も そんな恫喝をして
人々の口封じをしてきた者がいた
語ろうとする意志をくじく者がいた
でも 恐れることはない
あなたが あなたでいることを
あなたの場所で 精一杯生きていることを
だれも 恥じることはない
「たったひとりで立ち向かっても
世界は変えられない
世界は自ら変わっていくもの」
けれども その世界という網の目のひとつが
わたしという存在
世界はわたしの外側にあるのではない
わたし自身が 世界なのだ
世界の網の目のひとつなのだ
わたしが変われば 世界は自ら変わっていく
誠実に生きることが
あきらめずに 辛抱強く語りつづけることが
少しずつ世界を美しいものにする
そう
世界は変えられる
夢見ることを忘れなければ
つながりあうことを大切にできれば
Webの最終目標は、世界中に散らばっている私たちが織りなしている
網の目のような存在を支援し、改善することである。
Tim Berners-Lee著『Webの創成 World Wide Webはいかにして生まれどこに向かうのか』より
追伸:わたしはだれかの掲示板に乗りこんで「もっと政治や人生について真剣に語るべきだ」なんていったりしない。だれかはわたしの掲示板に来て「ここでやってることは無意味だ」というけれど。
寮美千子
わかってるからなごんだんだよ/愛と、愛のふりをしたもののちがい
2004年02月17日(火)12時40分37秒
▽彼は彼、ぼくはぼく、です。 へのコメント
「誤解」っていうのは、わたしがケンカしているのはメールや掲示板上って誤解されてるかもって思い、生身の人間相手なのさって説明したかっただけ。彼とドロンコ氏がおなじこといってるなんて、さらんさら思っていません。だって、全然ちがうもん。
心配と失礼は全然違う。相手を案じるのと、相手に押しつけるのは全然違う。それは似て非なるもの。ちょっと見、似ているから、心配のふりして押しつけてくる人が、世の中にはよくいる。「ほら、みんな心配してるよ。ぼくもさ」って。
でもそれは、心配じゃない。ここぞとばかり「それみたことか。ぼくが正しい。みんなもそう思ってるじゃないか」と自分の意見を押しつけてくることだ。人がへこんでいるところに追い打ちをかけるように「ざまあみろ、ぼくが合ってるじゃないか」と嘲笑するのと同じだ。それは卑怯以外の何ものでもない。
彼がそうしたかどうかは別として、わたしは彼からそうされていると感じた。
そう、そこが巧妙。「彼がそうしたかどうか別として、わたしはそう感じた」といわなければならないのは「だって、ぼくはほんとにきみのこと心配していってるんだから」といえる避難場所が用意されているから。「ぼくだけじゃない、きみの友だちも『ぼくと同じように』心配してるんだよ」といいくるめられる安全地帯を用意してあるから。ときには丸く収めようと思って「彼は何もそんなつもりでいったんじゃないよ。心配していったのさ。そうカリカリするなよ」なんて親切のつもりでいう人もでてくる。
「親切」に反論するのはむずかしい。何もいえなくなる。いえば、愛を受けとろうとしない狭量な人間だということになる。心配してくれてるんだから、耳を傾けようと思う。ところがなぜか、心が痛い。傷ついてしまう。爪の間に針を刺されたような、不気味な痛みに眠れなくなる。心配していってくれている人に、なんでこんなに腹が立つのだろうと、自分を責めたりすることになる。
「愛」のふりをして、人を叩いたり否定したりすることは、とても卑怯で残酷なことだと思う。そのような「愛のふりをしたいじめ」に、苦しめられている人がどれだけいるだろう。
まちがえちゃいけない。心配と失礼は違う。愛と押しつけは違う。
他人の生き方に異を唱えたいなら、ただ異を唱えればいい。親切のふりをするのは卑怯だ。
ドロンコ氏には愛を感じました。大長老にも、望ちゃんにも愛を感じました。「ほどほどにね」って心配してくれているの、とてもよくわかりました。なごみました。心がほっこりあったかくなりました。
そういえば、昔、桶谷さんに「寮美千子の辞書に『ほどほど』って言葉はない」って、笑われたなあ。わたしって、相変わらずだなあ。みんな、心配してくれて、ありがとう。
DORONKO
彼は彼、ぼくはぼく、です。
2004年02月17日(火)10時54分25秒
▽激しく同意! へのコメント
……これはねえ? 明石さん、大長老がおっしゃろうとしたことを、
相当にねじまげてるんじゃありませんか?
ぼくは、とてもではないけれど、賛成しかねます。
ですので、
>明石くんにもドロンコ氏にも、ちょっと誤解させてしまったみたいです。 by寮さん
というように、明石さんとぼくを、あまり一緒くたにしないで
ほしいのですが?だって、彼が言っていることとぼくのカキコ、
ほとんど何の関係もないと思うけれど?
それに、寮さんは、ぼくが用いた「ケンカ」ということの意味を
取り違えているのでは?これは、言葉を変えていえば、(ぼくの
文脈では)「正々堂々と議論する」ということとほぼ同義です。
もちろんぼくは、「絶対的な二者択一」のようなことをよしとする
ような人間ではありません。ただ、たとえ正しい考えだとしても、
どうしても理解されないということはある――ということを
言っただけ、のつもりです。
どうかよろしく――。
松永洋介
むちゃくちゃ腹が立ったがな
2004年02月17日(火)05時35分18秒
http://www.ceres.dti.ne.jp/~ysk/
▽松永訳「逆ファイト!」 へのコメント
わしはいっつも、あんまり怒ったり頭に来たりいうことはないんやけど、きょうはもうむちゃむちゃ腹が立ったんで。ほんまに。
一見わかりにくい書き方やけど、あれは、心配するふりして寮美千子を叩っきょるんや。あんなホッコげなもんどないしたって許せんわな。どうな。
※「わし」はわしのもともとの一人称やで。丸亀の言葉で。知っとんな。
松永洋介
松永訳「逆ファイト!」
2004年02月17日(火)05時16分33秒
http://www.ceres.dti.ne.jp/~ysk/
▽こちらこそ失礼 へのコメント
きみのやっていることは無意味だよ
正義感で世界と向き合って 戦おうとしても
何の効果もないというのが真理だよ
その戦いをあきらめなければ ろくな「表現者」になれないよ
きみは「表現」の基本がわかってないよ
正義なんかふりかざしてるから きみは二流の作家なんだよ
きみがやってるのは 口先だけの正義だよ
命がけで現場へ行く気もないくせに 口先で正義を語ってるね
正しいことを「いったり」「書いたり」しても無駄だよ
「表現者」は「表現」で勝負だよ
僕は心配して親切で言ってるんだよ
きみは世界を変えたいんだろう 影響力を与えたいんだろう
世界はそうそう変えられないよ 世界は勝手に変わっていくんだよ
あきらめることから「表現」は始まるんだよ
出来ることと出来ないことを見極めることが基本だよ
あきらめという名の鎖で 余計な希望を海に沈めるんだよ
トイファ! 「表現者」になるためには 自分で何かを捨てなきゃね
トイファ! 「表現者」になるためには 何かを捨てて大人にならなきゃね
きみは世界を大きく変えたいんだろうけど
正しいことを「いったり」「書いたり」しても無駄だよ
それでも世界と交わる 方法はあるんだよ
とにかく名前が必要なんだ 僕はもう何者になるか決めたんだ
これで社会の一員だよ きみも早くそうしなよ
名前を決めないと大人になれないんだよ
大人になるには 自分で何かを捨てるんだよ
無限の可能性を捨てて 限られた何者かになるんだよ
僕は自分で見限ったんだよ 見限って「表現者」になったんだよ
トイファ! 世界を変えたいなら 正しいことをいっても無駄だよ
トイファ! 僕はもうあきらめたよ だから君も早くそうしなよ
正しいことをいっても書いても無駄だよ いつだか僕に闘いの
出場通知が来たけど 僕は自分で破って燃やしたよ
トイファ! 闘う君の唄を 闘わない僕等が笑ってやるよ
トイファ! 僕はもうあきらめたよ お先に「表現」に専念するよ
トイファ! 不完全なネット議論の革命を 心ゆくまでやってなよ
トイファ! 「表現者」の「表現」だけが 世界を大きく変えられるんだよ
寮美千子
心配と失礼は違う
2004年02月17日(火)03時37分29秒
▽たとえば今年の年賀状 へのコメント
望ちゃん ありがとう。
大長老 ドロンコ なごみました。
寮美千子
再び怒
2004年02月17日(火)03時28分20秒
▽こちらこそ失礼 へのコメント
さっき謝罪したのは間違いでした。撤回します。明石隼汰氏の投稿は失礼です。わたしの神経を逆なでします。ひどいストレスを感じます。二度とここに来ないでください。さようなら。
望
手紙を投げる
2004年02月17日(火)02時24分09秒
http://www.h4.dion.ne.jp/~eulalie/top.htm
私は、どこか遠くから投げられる言葉だけをよすがに、
生きていた時間が何年かあったので、
そういうものの気持ちを痛いくらい感じて、
応えずに居れない寮さんの反応とそこから「人の見ている景色」を知ろうとする、
行動の惜しみなさには素直に、感じ入るのです。
けれどいろいろ自己反省も含め。
私がうえやまさんの書き込みに返答できたのは、
被害者として心が深かったというより
わけもわからんもんに悩まされているという点での共通点と
自分が加害に回るかもしれないという、
人様から見ればほぼあり得ない妄想
への怯えを持っていたからだと思います。
あとまあ腹が太くなったと言うことか。
私は八方美人というか、
幅が広いだけで、底は浅いです。
被害感情はびろびろと自分を伸ばして後ろのほうにおいておくのです。
そういう意味では正直ではないし、
自分の全部ではないです。
だからきれいごとって言えばきれいごと。
けれどそれを心底から言います。
私もイカヨウにか歪んではいますし、
自分のつまらない事情をここへ書くことによって
寮さんを足止めしている一人なのかもしれません。
とは常々思うところです。
(被害、加害とか嫌な言葉ですしね)
寮さんにとって、物語と、この掲示板上での言葉の流れとは
どちらかだけという物ではないのだろうと想像します。
程度、ということでしょうか。
ひとつの言葉に、万もの答えを求める飢え渇きが、
寮さんを押し流して食べてしまうことが、
心配。
人を、支えるということは、言葉は、
時々、
存在にかないません。
それでも手紙をどこか遠くへ向かって投げようとすること。
それから
掲示板よりも
きみがいっとう大事だ。
ということ。
寮さんが掲示板に見出す可能性、
私にはまだ、良しも悪しも言えないのです。
私もたぶん手紙を、みえなくなった誰かや
みえない誰かに、
投げたい人間だからだと思います。
そして投げられた手紙に、
生かされた小さな日々があったからだろうと思います。
それによって自分が、時々侵食されすぎることは
自己責任として、また実際的な人様への迷惑として
反省するものの
まだ、
手紙を投げることを、
物語に限る腹はくくれないのです。
インターネットは私としては、
割に空恐ろしいくらいに
時差、タイムラグの激しい、
真空のように、感じます。
それはどう、育って行くのか。
より木目細かくなって行くのか。
誰がそうしていくのか、
自分はどこに立っているのか。
ちっぽけなちっぽけな。
2時です。繰言。申し訳ないす。
勇崎
たいへんよく解りました
2004年02月16日(月)23時53分27秒
▽こちらこそ失礼 へのコメント
明石さま>
語彙の違いが、とてもよく理解できました。
ありがとう。
これからも、よろしく!
明石隼汰
こちらこそ失礼
2004年02月16日(月)23時21分15秒
http://www.holopla.com/akashic/
▽ごめん、明石くん。王様の耳はロバの耳。 へのコメント
ずーっと言いたかったことを書いたまでなので。
大長老の意見に激しく同意して、表現についての見解を述べただけで
寮さんの生き方も否定しなければ、たたくつもりもないっす。
不完全なネット議論の革命をどうぞお好きに心ゆくまでやっておくんなさい。
かつてはきれいな言葉が流れ、気持ち安らげた掲示板だったのに
寮さんは気がついたら、正義の戦士になってたわけだ。
「夢見る水の王国」を完成させるほうが、ずっと大きく
世界を変えられると思うのだけどね〜
ついでに勇崎さん。僕も議論する気は全くないですがせっかくなので
一言補足するなら、「何でメシを食うか」ということを抜きに
自己表現や、自分て何?、ということは語れない、ということを
いいたかったのです。
「ノスタルギガンテス」は、僕の中ではファンタジーの傑作です。
それは、「名前」を無理矢理与えようとする世界(=社会、他者)と
それから自由になろうともがく自己との葛藤・戦いを見事に描いているから。
しかしそこに決定的に欠けている、と僕には思えることがあるのです。
それは、やはり世界と交わるためには「名前」が必要であること、
そしてそれは、他ならぬ「自分で」決めるべきこと。
それが「大人になる」こと。「社会でメシを食う」こと。
そのためには何かを捨てなければならないこと。
これはいずれ、マイHPにきちんとエッセイを書くつもり。
その視点で僕は、今回ばかりはドロンコさんのお節介をすごく評価してました。
寮さんを知る友人の多くが心配して、ひやひやしながらここを見てるのよ。
寮さんが社会に本当に影響力を与えたいなら、
もっと作家として売れるか、政治家になるか
あるいはイラクの、養護学校の、ロリコン救済センターの現場に行って、
いう以上のことを命かけてやらないと、世界はそうそう変わらないと思います。
また忘れた頃に。アデュ〜
勇崎
静かに異感
2004年02月16日(月)22時36分57秒
▽激しく同意! へのコメント
寮さんの「怒」「ごめん、明石くん。王様の耳はロバの耳。」も拝読しましたが、明石さんの投稿に、僕のことも書いて下さっていたので、あえてレスをしておきたいと思います。
僕は、「世界はそうそう変わらない」から、「いったり」「書いたり」し続けることを大切と考えています。
「自分に出来ることと出来ないことを見極めること」は「表現」ではなく、「技術」のことかと思います。見極めれるなら、人間として表現することの意味を感じません。「技術」力があれば「表現」力も深まるでしょうが、それは表現の豊かさを約束するものではありません。市井の人達や子供たちなど、いわゆる「表現手段」や「技術」を持たぬ人たちの「表現」の豊かさに心打たれることは、日常的に体験します。
「勇崎氏は写真」とのことですが、僕にとって写真は手段に過ぎず、決して目的ではありません。ですから、目的から遡及して、それを達成する手段としての行為を選ぶ場合、決してその行為は写真に限るものではありません。これらの点は、もしかして寮さんと僕は共通しているように思いますし、以前投稿したように、そのような寮さんのありかたに「希望」を抱いてしまうわけです。
一方、寮さんは、たしかにここのところエキセントリックに落ちこんでおられるようにも感じます。その背景に「400字詰100枚のレス」などもあったのか、と知ったわけですが、明石さんの投稿は、そのようなことを心配され、思いやってのこと、というのは明かに感じます。さらには「ごめん、明石くん。王様の耳はロバの耳。」と直ぐに素直になられる寮さんにも、安心いたします。
表現論や世界観を廻って、明石さんと議論をするつもりはありません。ただ、僕のように明石さんとは違った考え方や語彙を違えて生きる立場もある、とうことを表明しておきたかっただけですので、どうかお手柔らかに。
寮美千子
ごめん、明石くん。王様の耳はロバの耳。
2004年02月16日(月)19時54分31秒
▽怒 へのコメント
ちょっとカッとなっていました。ごめん。明石くんにもドロンコ氏にも、ちょっと誤解させてしまったみたいです。わたしが泣き言の内容を隠していたから、そんな誤解を生んでしまったんですね。カッとなっていたので、そのような誤解のうえに書かれたものだと読みとれず、ますますカッとなってしまいました。明石くん、ごめん。悪かった。許してくれ。
わたしが戦っている場は、ネット掲示板やネットの中のヴァーチャルな集団ではありません。現実の場所です。相手の顔も見えれば、具体的な組織もある。建物だってある。そのなかで、わたしは孤立無援ではありません。わたしと同じ考えの人もいる。しかし、圧倒的に少数派です。
これはケンカじゃない。思想の違いによる見解の相違だと、わたしは思っています。思想の違いによる見解の相違によって齟齬が起きたとき、互いの思想をきちんとぶつけあい、理解し合うことが大切だと思う。理解した上で、譲りあうところは譲り、よきところは受け入れ、違いは違いのまま互いに尊重しあい、共存すべきだと思う。二者択一なんかじゃない。共存共栄を目指さなくちゃいけない。このことを、言葉を尽くしても理解されないのであれば、いたしかたありません。しかし、それをしないままに物別れになるのは、とても残念なのです。
相手がいくら「寮美千子は日本語がわからない」「程度が低すぎて話にならない」などと威嚇してきても、わたしはできうる限り誠実に対話を試みたい思います。それでだめなら、あきらめるさ。
その内容について、何もいえないのが「王様の耳はロバの耳」な気分です。本来、討論というのは、まっとうにすればどこに出しても恥ずかしくないもののはずなのになあ。おかしいなあ。どうしてこうなっちゃうのかなあ。世界中の誰とでも、きちんと対話できるということが「教養がある」ってことだと思うんだけどなあ。そんな、教養ある人間を育てるっていうのが……う「王様の耳はロバの耳」!
寮美千子
怒
2004年02月16日(月)14時17分29秒
▽激しく同意! へのコメント
わたしの意見に異を唱えるのはいいですけれど、わたしの生き方を否定するのはやめてください。
わたしは自分を「文章」とか「写真」とかひとつの枠にはめようとは思わない。わたしが出会い、かかわったものに、できるかぎり誠実に生きたいと願い、奮闘しています。それがドンキホーテの戦いに見えたとしても、それがわたしの選んだ生き方であり、この掲示板は、その姿勢を表現したひとつの形です。その生き方に賛同できない人は、この掲示板に関わる必要はありません。
だったら泣き言をいうなといわれそうです。戦う者でも、たまには泣き言くらいいいたくなります。それをはげますのではなく、ここぞとばかりたたくのは低劣です。
もう出入りしないでください。
明石隼汰
激しく同意!
2004年02月16日(月)12時11分38秒
http://www.holopla.com/akashic/
▽たとえば今年の年賀状 へのコメント
>「残された時間、専念すべきものに、専念せよ。君は万能ではない」
どんなに正しいことを「いったり」「書いたり」したところで世界はそうそう変わらないし、
世界を変えようっていうことが高慢なことだと、世界は「変わっていく」ものなのだ、
ということを知ることから表現は始まるし、
自分に出来ることと出来ないことを見極めることが、表現の基本でしょ?
僕は音楽、大長老はエッセイ、勇崎氏は写真。
寮さんは、インターネットの神希望?
DORONKO
「ケンカ」の仕方。
2004年02月16日(月)08時59分08秒
▽たまには泣き言をいわせてくれー! へのコメント
400字100枚ですか……。
ちょっと、目まいがしそうですな。
今は、その経緯を追いかけてもいられないので、推測+一般論の
ようなことしか言えないけれど、かりに、寮さんが巻き込まれて
いたのが「ケンカ」のような状況だとすると、そこで勝つための
要諦はというと、やはり相手の「急所をつく」ことなんじゃ
ないかと思います。――でも、寮美千子という人間は、あまりに
正直にできていて、かつ、品の悪いことも多分好きじゃないので、
そんな「卑怯なマネ」はできない…というか、したくなかったの
ではないか――などという気がします。
でも、さらに言うなら、そもそもが多勢に無勢でありすぎて、
とてもマトモな「ケンカ」どころではなく、限りなく「リンチ」に
近いような事態だったのかも、という気もしますね。であれば、
「急所」も何もなくなってしまいます。
またまた言えば、その相手の連中というのがどんな連中なのか、
ぼくにはわからないけれど、ある特定のテーマについて議論する
場合、基本的には「前向きに」というのが最低のルールだろうと
思うのだけれど、どうやら、実に安易に中傷に走ってしまう人間が
多数いて、その他の人間も、ただそれを傍観していた――という
ことだったんじゃないかという気もしますね。――たとえどんな
立場であれ、掲示板の主宰者は、そういうことを許す…というか、
放置しちゃいけないと、ぼくは思うけれど。
で、上述のような「最低のルール」についての意識が希薄で、
主宰者が何も手を打とうとしないような掲示板なら、ぼくたちに
できることは何かといえば、やっぱり「相手にしない」ことじゃ
ないのかな、と……。
そうはいっても、「無視できない問題」というのは、たしかに
あるとは思うのだけれど、それにしたって、やっぱり、ある程度は
「相手を選ぶ」ということをしないと、どうにもならないんじゃ
ないかな?ここはひとまず、「涙を飲む」のもやむをえないのかも。
大長老
たとえば今年の年賀状
2004年02月16日(月)04時45分18秒
▽たまには泣き言をいわせてくれー! へのコメント
数年前ある大学の教授になった古い友人がこう書いてきました。
「大学ってつくづく人材不足です」
で。あたしの返事。
「それは古色蒼然たる大学におけるリクルートシステムの欠陥に起因します」
それから又別の友人が末期がんになりまして、彼へのあたしのアドバイスはこうでした。
「ばかから身をかわせ。免疫のために。人生のために」
「残された時間、専念すべきものに、専念せよ。君は万能ではない」
管理者:Ryo Michico <mail@ryomichico.net>
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