▲2003年06月の時の破片へ


■31 May 2003 「わざの美 日本伝統工芸展」


▼「わざの美 日本伝統工芸展」
日本橋三越で開催中の「わざの美 日本伝統工芸展」を見に行く。松田権六と北村昭斎の作品がぜひとも見たかったからだ。

松田権六の「赤とんぼ蒔絵箱」はすごかった。羊歯の葉の金蒔絵の、茎の方がグラデーションで消えていく表現、葉の先がもったりと金泥のしずくのように見える表現、螺鈿のとんぼの羽根は、その輝きのなかに、実際の羽根に透けて見えるように、四角い模様が描かれている。箱の側面には、青い貝の微細な欠片が撒かれ、その上に黒く透明な漆がかけられ、その漆の皮膜を透かし、見る角度によって様々な色に見える。あざといまでのデザイン性、ケレンの塊のような作品だが、それが鼻につく、というより、やはり感服させられてしまう力がある。やはり、松田権六はただ者ではない。

その隣りにあった音丸耕堂九十二歳のときの彫漆の文箱もすごかった。きっぱりとしたその美は、伝統を感じさせながらもすばらしく現代的だ。

奈良漆器の大御所・北村昭斎の作品もまたすばらしかった。華美でありながらも、端正。淡々としているために、こちらに何かを押しつけてくる過剰なところがない。名人芸とはこのことか、という感じだ。松田権六や音丸耕堂の作品と比べて、ケレンがない。非常に装飾的なのに、そう感じさせないところがすごい。身近に置くとしたら、もしかしたらこの作品がいちばん飽きないのかもしれない。

▼「漆芸」が図抜けて見えた
わたしが漆器が好きなせいもあるだろうけれど、さまざまな伝統工芸のなかで、漆器は図抜けて見えた。陶器は全般に「大物制作」に走ってしまい、そこでの技を競いあうような奇形的なことになっているように見受けられた。なんだか、恐竜をみているような気分だ。染色と着物の展示がいちばん多かったように思えたが、これもわたしにすると「ふうん」という感想しか持てなかった。芭蕉布だけは絶妙に美しかったけれど。

切り金の細工は、微細で精緻を極め、精緻であることが自己目的化している節が感じられた。人形にいたっては、これなら海洋堂の作品を並べた方がいいんじゃないか、とさえ思ったくらいだ。いや、海洋堂に、このような伝統的なテーマと作らせたらどうなるだろうか。人形の業界は、もしかしたら「競争相手」がいないのかしら、と思うほどだった。

そのなかで、漆器は現役の作品として輝いて見えた。古典的技法を使いながら、またそのパターンを踏襲しながらも、新しさを感じさせてくれる。日常雑器をはじめとして、漆器を扱う人口が多く、層が厚いことが、この技術に洗練をもたらしているのかもしれない。

▼美術界の境界線を取り払えないだろうか
翻って現代美術は、と思う。これだけの「技」をもってして、現代美術に向かう作家がどれだけいるだろう。ギョーカイからは現代美術扱いされていないが、門坂流は、確かに技術のある現代の作家だと思う。

それくらいの技の上に「現代美術」を見せてくれたら、とわたしは願う。いっそ、工芸の世界の住人が、現代美術に挑戦した方が早いだろうか。そういえば、樽井禧酔氏の工房には、天井まで届く不思議なオブジェがあった。何かと聞くと「なんでもないが、面白いからつくってみた。だれも買わなかったからここにある」といっていた。現代美術の世界となんのつながりもないと、そのような作品は発表のしようもないのかもしれない。

現代美術、工芸、商業美術の枠を取り払ったところで、現代美術としての作品が発表されるようになったらいいのに、と願う。

▼本多信介ライブ live resort 2003 e-summer 稲毛
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■29 May 2003 育てることと育てられること/コドモノクニ展


▼学生の爆弾発言
和光大学の授業の後、ひとりの学生が「この授業をやめたい」と爆弾発言。どういう理由なのか、みんなも交えてゆっくりと聞く。「なかなか自分の創作ができないのに、ここでみんなの作品批評を偉そうにしている自分がはずかしい。自分には批評をする資格などない」という。書けないでいることのフラストレーションが溜まっていくことも苦しいのだという。

みんなが「わたしだって何が書きたいかわからないから、ここにいるのよ」と説得。そのフラストレーションを抱えることが大切だとわたしも諭す。結局、残ってくれることになった。批評でも鋭いことをいう学生なので、抜けると正直いって痛い。残ってくれてよかった。

「言葉」は不思議だ。ほんとうのことを、わざといわないこともある。あるいは、本人はいっているつもりで、実はいえていないこともある。彼女がやめたいといった理由は、もしかしたら別の所にあったのかもしれない。黙って消えるのではなく、あえてわたしにいってきたこと、それ自体がひとつの「表現」だったのかもしれない。

言葉以上の言葉、というものがある。きょう、昼食の時間から3時限まで食いこんで、みんなが熱心に彼女と話をしてくれたこと。その態度そのものも「言葉にならない言葉」だ。それが、確実に彼女に伝わったのだと思う。

大学生とはいえ、まだやわらかな心を持った少年少女のような彼ら。「創作者としてあなたとわたしは同等」といいながらも、彼らに向けて年上の者のやわらかな眼差しを持たねばならないと痛感した。ここにいて、わたしも彼らに育てられている。

▼コドモノクニ
多摩美術大学美術館で開催中の「子供の王国絵本黄金時代展 コドモノクニに集った画家たち」を見にいった。その志の高さに改めて驚かされる。童話雑誌は、いま、これだけの試みをしているだろうか。否。商業的な枠組みにすっぽりとはまって、その芸術性をすっかり失っている。「専業の童画イラストレーター」という存在が確立したことも、その一因かもしれない。かつては、ばりばりの画家が、生活費稼ぎに童話雑誌の挿画を手がけたりしたのだ。

かつてできたことが、どうしてできなくなるのだろう。経済優先の社会のありようが、いまの童話雑誌をこんな有り様にしているのだろうか。しかし、文句ばっかりいっているわけにもいかない。まず隗よりはじめよ、だ。がんばらなくては。

印刷で見るとそんなに惹かれなかった初井滋という画家の作品が、心に残った。透明感のある色彩。斬新で大胆かつ繊細な図案。原画のよさが、印刷ではまったくといっていいほど消えてしまう。印刷用の絵を描く者として、これは落第だ。けれど、この原画のよさは、やはり画家としてすばらしい。子どもの頃出会ったこの人の絵に、こんな形で再会でき、新しい発見をできたこともうれしかった。

■28 May 2003 境川カワセミ同盟


このところ、ずっと体がだるい。運動をしたらよくなるかもしれないと思っていたら、久しぶりに晴れた。もう五月も終わりだけれど、やっと五月晴れがやってきた、という感じだ。自転車に乗りたくなった。往復十五キロある南町田のカルフールまで行くことにする。

境川沿いの遊歩道を走っていると、急に空気が澄んで森の匂いがするところがある。そのあたりの橋のたもとに、人が集まってカメラを構えていた。「何を撮ってるんですか」と聞くと、カワセミがいるのだという。見ると、嘴の尖った小さな鳥がいた。逆光だったのでシルエットしか見えない。「あっちの方がいいよ」と教えられて、対岸に行った。

カメラを構えた初老の男性が数人、そこにたむろして、のんびりと会話をしている。カワセミは、子育て中。三本離れた橋のそばの土手に巣を作り、ここに餌を漁りにくるのだという。そのカワセミのために、この老人たちは川に石を積んで小さな生け簀をつくった。そして、毎日そこに生きた魚を買って入れに来るのだという。「カワセミのためではなく、自分たちが写真撮りたさにやっているんだ」というところが、いっそすがすがしい。

レンズを覗かせてもらった。きれいな青い羽根が、ほんとうに宝石のように美しい。生け簀のなかの魚は逃げないのに、カワセミはじっと狙いすまして身を低くし、狩りの姿勢をとっている。慎重に狙っているのか、なかなか動こうとしない。やがて、さっと飛んだかと思うと、その嘴には、もう銀色に光る魚がくわえられていた。

「魚を入れるのが昼頃だから、それまではこの川をあっちこっち行ったり来たりして餌をとっているんだよ」
「自分が飲み込むときは、頭からくわえるんだ。子どもに持っていってやるときは、尻尾をくわえる。頭から飲み込ませないと、鰓が支えるからね」
「カワセミは普通、清流にしかいないっていう鳥だけど、このごろ都市の川にも出てきているんだ。住む場所がなくなってしまたのかもしれないね」

川縁の老人たちは、いろいろなことを教えてくれる。最新のデジカメやビデオで撮った映像も次々見せてくれる。

そのなかの一人は、わざわざ車で一時間かけて津久井からやってくるという。津久井の方がずっと野鳥が多いのにと不思議に思ったけれど、一年前までこの近くに住んでいて、ここのほうが仲間がいて楽しいからやってくるのだという。

遠目にはわからなかったが、川岸の畑の一角には、地主さんがつくった東屋があり、そのなかにはベンチもあって休めるようになっている。そこは、自然のなかのサロンになっているのだ。

こんな場所とこんな友人たちがいて、この老人たちはしああせだな、と思った。そして、そんな場がたったカワセミ一羽で生まれることに驚きを感じる。カワセミ一羽がわたしたち人間に与えてくれるものは、とても大きい。鳥や動物たちと身近に暮らせた昔の暮らしは、きっとおどろくほど心豊かな暮らしだったのだろうと思った。

■26 May 2003 門坂流個展/アメリカン・クラブ


歯科医の処置のおかげで、ようやく痛み止めなしでも大丈夫になる。きょうは、アメリカン・クラブで開かれる門坂流個展のオープニング。ぎりぎりで歯痛が収まってほんとうによかった。西はりま天文台から、黒田武彦氏もわざわざかけつけてくれた。ひさしぶりにあったみんなで、オープニング・レセプションの後、小さな宴を開いた。

オープニング・レセプションには、小池真理子氏も来ていた。今回、小池氏の短編集『一角獣』のために制作されたドライポイント8点も展示されている。小池氏は、門坂流氏が2000年に高樹のぶ子氏の新聞小説の挿画を担当したのを見て、ぜひにと申し込んできたとのこと。挿画、というより、完全に言葉と絵のセッションのようなぜいたくな本になっている。

小池真理子氏に、門坂流作品のどんなところが気に入ったのか、聞いてみればよかったと悔やまれる。

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■23 May 2003 歯科で切開


ずきんずきんと脈動性の痛みに悩まされて、ろくに眠れなかった。痛み止めの薬も、3時間と持たない。朝を待ちかねるようにして歯科に。歯茎を切開して内圧を抜いてもらう。恐かった。

■22 May 2003 歯痛二日目


薬で抑えて大学の授業をする。午後はかかりつけの歯科が休診。がまんするしかない。

■21 May 2003 歯痛


歯が痛みだす。虫歯ではないのに、歯の根が痛む。薬で抑えて、気になっていた五月五日の結婚式の写真を選びをする。新郎の父上が病気で倒れ、結婚式に出席できなかったとのこと。早く見せてあげなければと心がせく。

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■19 May 2003 家に戻る


午前中、母と相棒とともに病院へ。まだ熱があるが、そんなにひどくない。父の容態がある程度安定したので、母にバトンタッチして家に戻る。

■18 May 2003 父介護二日目


あまりの頻尿で、父はろくに眠ることもできなかった。相変わらず熱も高い。医師がきて、再び導尿管をいれ、点滴も再開する。疲れはてた父は、泥のように眠った。通子叔母がお見舞いにきてくれたが、あまりに深い眠りなので、起こさずに帰った。

投薬ミスがあった。父に、血糖値を下げる薬が過剰に投薬され、危ないところだった。病院の投薬管理について思うところがあったのでレビューに書いた。

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■17 May 2003 父介護


始発で出かけ、午前七時には国立千葉病院に到着。夕べ、ほとんど寝ていない母に代わって付き添いをする。医師が導尿管を抜いたため、父は五分置きの頻尿になり、少しも休まらない。高熱も出ている。かわいそうだ。導尿管を入れてほしいと頼んだが、却下された。

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■16 May 2003 父の手術


実家の父が膀胱腫瘍の内視鏡手術をする。深夜、母より緊急連絡入り、あわてる。

■15 May 2003 マミさんマダガスカルに帰国


おみやげいっぱいの鞄をかかえて、マミさん帰国。成田行きのリムジンバスに乗るマミさんを、わたしと相棒、そして勝村さんで見送った。二ヶ月半の長いホームステイが終わって、勝村さんもわたしもほっとした。マミさん、この体験をどんなふうにお国で生かしてくれるだろうか。楽しみだ。

■14 May 2003 親切な日本人たち


マミさんに「マダガスカル政府公認ガイド」と日本語の入った名刺をつくる。名刺屋のおじさんは「おれの名刺が海を越えるんだなあ」と感激して、ひと箱サービスしてくれた。なんて親切!

マミさんにデジカメを買ってあげる。勝村さんとの共同出資だ。これで、マミさん、マダガスカルの通信員となって、いろんな映像を送ってくれることだろう。わたしもデジカメがほしい!

その後、町田の石を売る店を訪ねて営業し、東林間のグリム書房を訪ねるも、ご主人はおでかけ。奥さまが、マミさんにおみやげにと絵本をプレゼントしてくれた。

マミさん、おみやげがはいりきらなくなったといったら、近所で親しくしている和子さんが、古いスーツケースをくれた。やっぱり日本人はみんな親切だ。

夜には目玉おやじ氏が、マミさんに会いにやってきた。「日本にいる間にお目にかかりましょう」と以前電話で約束したからと、駈けつけてくれたのだ。日本人は親切なうえに信義に厚い。

■13 May 2003 レシピ/マダガスカル風チキン


15日に帰国するマミさんの送別会をわが家で行った。勝村夫妻と田中彰氏が出席。マミさんが、本式の「マダガスカル風チキン」をつくってくれた。

骨付きチキン 5本
生姜     ひとかけ すりおろす
にんにく   5かけ みじん切り
トマト水煮  半缶
塩      適宜
水      カップ1杯強
シナモン   ひとかけ(今回は入れなかった)

以上を厚手の鍋にいれる。ほとんど水気がないように見えるが、そのまま火をつけ、蓋をして弱火でじっくり蒸し煮にする。水気が飛んだら出来上がり。時間がかかる辛抱のいる料理だが、とてもおいしかった。確かに、マダガスカルで食べた味がした。ホテルででたものは、これにシナモンが加わっていた。

■10 May 2003 古井由吉朗読会/非常時の日常という視点



新宿の文壇バー「風花」での古井由吉氏の朗読会に行く。古井氏は、朗読の枕にヨルダンでの毎日新聞記者による爆弾爆発事件を取りあげた。「使用済みの爆弾、なんてものがあると思いますか。爆発して爆弾。使用済みなら、跡形もなくなるはずです。そういうものには、ちゃんとした名前がある。不発弾、というのです。それを『振ってみた』というでしょう。振ったけど、どうもならなかったので持ち帰ったと。恐ろしい。振って、爆発したらどうするつもりだったんでしょう」

古井氏は、このところのアメリカのイラク攻撃を批判。戦争のばかばかしさを語った。今回の朗読は、「群像」六月号に掲載された「青い眼薬」。以前より連載中の作品だ。今回は、戦争を題材にしたことを書いたという。どうしても書かないではいられなかった、という気持ちが、お話のなかからひしひしと伝わってきた。

東京大空襲前後を描いたその作品は、なんの情報も与えられず、風評の中で生きるしかなかった市民の日常生活を余すところなく描いていた。空襲のシーンは、壮絶であると同時に気が遠くなるほど美しかった。巨大な渦に巻きこまれているのに、そこに流れるのは日常でしかありえない。非常時の日常、という矛盾した世界での人間のふるまいというのが、外側からではなく、そこに巻き込まれた人間の視点で鮮やかに描きだされていた。古井さんは、やっぱりすごい。


ゲストは室井佑月氏。押しよせたなかよし軍団のなかには、派手なお化粧をしたオカマさんもいて、朗読が終わるとなぜかカウンターにはいり、大変なにぎやかさ。「風花」はすっかりのっとられた風情だった。早々に退散した。

■ 8 May 2003 京都・奈良旅行より帰宅


奈良から夜行バスで戻って、すぐに和光大学で授業。さすがに疲れた。勝村さん宅、八王子の鈴木さん宅を訪れていたマミさんも同時に帰宅。また三人での生活だ。

■ 7 May 2003 法隆寺/奈良国立博物館「女性と仏教」



法隆寺を訪れる。高校の修学旅行で訪れて以来だから、三十年ぶりということになるだろうか。ボランティア・ガイドの方が、丁寧に案内してくださったお陰で、いままで知らなかった多くのことを知ることができた。なによりも、五重の塔の一階が、釈迦の生涯を表現したジオラマになっていることに驚いた。

そのジオラマの迫真の表現。ことに、釈迦が入滅して嘆き悲しむお弟子たちの表情に胸打たれた。耳の中で嵐が吹きすさぶような深い悲しみ。戦争で肉親を、恋人を失った人も、きっとこのような悲しみに襲われるだろう。胸がえぐられるような強い表現だ。

薬師寺でも思ったが、古い寺というと、ひなびた風情と思いがちだが、実際にはちがったのではないか。他に表現らしき表現がなかった時代、それはめくるめくテーマパークだったのではないか。それは、単なる娯楽ではなく、心と結びついていた。それだけに、より鮮やかに古代人の心に刻印されたのではないだろうか。


奈良国立博物館で「女性と仏教」展を見る。その後、奈良工芸館で、奈良の伝統工芸のビデオを何本か見た。そのうちの一本「奈良漆」には、樽井禧酔氏の若き日の姿が収録されている。「奈良墨」も圧巻だった。しかし、なかにはこれが「伝統工芸」かと目を疑うものもあった。伎楽面のレプリカがそうだ。単なる合成樹脂の加工を「新乾漆」などともったいぶった名前をつけ、古色を出すための手法まで解説している。つまりそれは、イカサマのやり方、ではないか。

そんなものと、奈良漆や奈良墨をいっしょにする工芸館の気が知れない。単なるレプリカをつくることではなく、手法を再現、そこから新たな表現を生み出してこそ、伝統工芸ではないだろうか。

■ 6 May 2003 薬師寺/樽井禧酔氏工房



昨晩、宿泊したホテルフジタ奈良の風呂の排水口から排水が溢れだし、深夜12時を回ったところで、部屋を変更する羽目になった。お風呂上がりでくつろいだところ、また荷物を詰め直して移動するのは苦痛だった。その際のホテル側の対応が悪く、ようやく部屋を移れたのが2時近くになってしまった。

昨夜の疲れから寝過ごして、さあ、目当ての観光にでかけようとすると、ホテルの支配人に呼び止められた。昨夜のことを詳しく聞かせてほしいという。これから観光に行くので後で手紙に書きますといったが、ぜひにと引き留められ、話さざるをえなくなった。支配人がナイトマネージャーから聞いている話がまったく事実と食い違うので、それを訂正しながら話すだけで、また一時間もたってしまい、結局、ホテルを出られたのは午後2時近くなってしまった。ひどいものだ。

観光できている者の時間はとても貴重なものなのだということを、ホテル側にわかってほしいとつくづく思う。自分の都合ばかり優先して「サービス業」という仕事の基本を少しも理解していないホテル側に腹が立つ。


貸し自転車で30分ほど走って薬師寺に行く。漆塗師の樽井禧酔氏が手がけた大講堂の須弥壇や論議台を見るのが目的だ。

薬師寺には、ちょうど中学生たちが修学旅行に来ていた。後から後から、ひっきりなしにくるという状態だ。その中学生に説法をしている若いお坊さんがいた。この人の話がめっぽう面白い。有働智奘さんというお坊さんだ。このお坊さんのことは、いずれレビューで書きたい。


古き斑鳩の里の面影を残していた薬師寺は、再建ですっかり様変わりしている。西塔あとの礎石に水が溜まり、そこに東塔が映っている姿が風情とされていたが、いまはそこに朱塗りも鮮やかな派手派手の西塔が建っている。金堂と大講堂もできて、金ぴかで眩いばかりの大空間になっている。

その変貌を「風情が失われた」と惜しむ声も聞こえてくる。わたしも、最初はそう感じた。しかし、知るほどに、やはり再建は意義有ることだったと感じるようになった。塔ひとつ建てるにも、そこには技術がいる。西塔の再建を指揮したのは、法隆寺の五重の塔の昭和の大修理の指揮をとった西岡常一棟梁だ。彼が図面を残し、残された宮大工たちがそれを仕上げた。そうやって、掘り起こされ再現された技術が継承されたのだ。再建無しには、そのような技術は継承されていかない。再建で得たものは、目に見える建築物ばかりでなく、形ない技術でもあったのだ。そのことが、とても大きいと思う。

白い大理石でできた大講堂の須弥壇の、あれは欄干というのか手すりというのか、それは樽井禧酔氏の仕事だった。そして、論議台と中央のお経を読む台も。その滑らかなこと、美しいこと、上等の車の塗装を上回るもので、とても人間の手の技とは思えないようなものだった。黒塗りの論議台に反射する光には、すこしの歪みもない。感嘆した。ここにも、古き伝統の継承がある。


拝観時間いっぱいまで薬師寺にいた。特別公開中の玄奘三蔵院も見たかったが時間が許さなかった。残念だ。薬師寺を出て、平城宮跡の朱雀門を見て、樽井氏に電話をした。電話だと、いつものようにぶっきらぼうだ。「いつお伺いしたらよろしいでしょうか」と聞くと「いつでもいいよ」という。それならと、すぐにお伺いすることにした。

樽井氏の工房を訪れると、すでに電気が消え、一仕事終えて奥でくつろいでいた様子だった。お休みのところ、申し訳ないと思いながら、先日撮った写真をお渡しする。娘さん(あとで奥さんと判明)が出てきてお茶を出してくださった。

工房は、先日来たときと一変。大きな台でいっぱいだった。薬師寺の仏具の補修だという。「ひとつ直すと、全部直さなならんからな」と樽井氏。また、鼎のようなものも作っていて、そのための手製の小さなカンナをいくつも見せてもらった。奈良漆器の職人は、他の産地と違い、最初から最後まで、すべてをひとりで制作できる技術を身につけるという。そのために、カンナまで手作りなのだ。

「飯は?」ときかれ「軽く食べましたが」と曖昧なことをいうと「じゃあ、行くか」と馴染みの割烹に連れていってくださった。そこでお酒が入ると、とたんに舌が滑らかになる。薬師寺講堂再建の裏話など、さまざまなことを話してくださった。飲むほどに「この人は、奈良漆器を題材に小説を書くんできてるんだ」と店主に吹聴。「そ、それはちょっと、違うんだけど」といっても、いつのまにか既成事実になってしまっている。小説はともかく、奈良漆器を紹介する絵本を作りたいと心から思った。

「ボンドは二十年、膠は百年、漆なら三百年は持つ」という接着剤としての側面も持った漆。調べれば調べるほど、面白そうだ。

すっかり調子が出てきた樽井氏は、梯子をしてきれいなママのいるバーへ。深夜一時を過ぎ、さらに「お好み焼きのたまちゃんへ行こう!」というのを押し止めて工房のあるお家まで送った。

樽井さんから伺った話も、もっときちんとまとめたいと思う。ともかく、漆は面白い。けれど、樽井禧酔という人間もまた、けた外れにすばらしいのだ。樽井さんに巡りあえて、ほんとうにしあわせだ。三月のあの日、思い切って電話をしてほんとうによかったと思う。

■ 5 May 2003 横田&森口結婚式で京都へ


朝9時、京都着。きょうは横田哲也氏と森口弘美氏の結婚式だ。式は12時からだが、準備の段階から写真を撮る予定で早く着いた。さっそく会場へ。すでに花嫁のお化粧がはじまっていたので、そのまま撮影に入る。めまぐるしいいそがしさで写真を撮りつづけ、途中、お祝いにふたりのための書き下ろしの詩「出会い」も読んだ。

二次会は奈良で。へとへとのわたしに代わって、相棒が写真係になってくれた。

目も回るほど忙しい一日だったけれど、目も眩むほどおめでたい一日でもあった。ふたりの未来に祝福あれ!

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▼2003年04月の時の破片へ


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