▲2003年02月の時の破片へ


■30 Jan 2003 鯰江光二/矢川澄子



以前一度お目にかかったことのあるイラストレーターの江村信一氏から先日、メールをいただいた。新進のイラストレーターがコラボレする言葉の相手を探しているので、話を聞いてやってほしいという打診だった。その新進の人は鯰江光二氏というちょっと珍しい苗字の人で、わたしの記憶にないということは、知らないということだ。見本が届くのを待っているところだった。

きのう、羽良多平吉氏の「点国ドライヴ」のトーク・ショーを見た後、ギャラリーの出口に積んであった次回の催しのハガキが目にとまった。稚拙なかんじの、けれど奇妙な魅力のある絵で、天上世界から燃えながら墜ちてくるような不思議な浮遊感がある。気に入って、そのハガキを二枚ももらってきてしまった。

きょう、ふと思いついて、鯰江光二氏のことをネットで検索して見ると「大気圏突入」と題されたイラストがあった。わたしは、そういうタイトルにめっぽう弱い。気になって開いてみると、驚いたことに、昨日もらってきたハガキの絵の人ではないか。

偶然の一致に驚いてしまった。それはほんとうに単なる偶然の一致にしかすぎないけれど、こういうことがあると、やはり何かご縁があるのかもしれないと感じてしまう。

世の中には、偶然の一致に頻繁にみまわれる人と、そうでもない人がいるらしい。わたしの人生は、蜘蛛の巣のように張り巡らされた偶然の一致の糸のなかを歩かされているようなものだ。子どもの時から、ずっとそうだった。そういう星の下に生まれついているのだろうか。予め与えられた星などないと思いながらも、やっぱりそんな気がしてしまう。


気分を創作にチューニングできないまま、いらいらとした日々が続いている。昨年からずっとそうだ。家が散らかり、資料が分散しているから、頭の中もさらに混乱してしまう。なんとか整理しようと思ってずいぶんになるのに、それができない。一緒に暮らしている相棒は、もう二年以上も前に引っ越してきた荷物をそのまま天井まで積み上げていて、一部屋使えない状態にしたままだ。自分のことでもいらつくのに、それで余計にいらいらする。それでも、少しずつ終わらせるべき雑事をこなして、やっと先が見えはじめた。相棒に頼んでもとうとう手のつかなかった写真整理も、ついに自分ではじめることにした。

ネガをひとつひとつ取り出して、並べ直していると、2001年11月19日の、建石修志氏の個展「月よ! カサ・ルナ或いはウサギホテル」の写真が出てきた。小さなインデックス・プリントに目を凝らすと、わたしの隣りに、大きな帽子をかぶった女性が写っている。矢川澄子氏だ。同じネガに、ノイも写っている。あの時は、みんなみんな生きていたのに、もういない。

いまも生きている人の写真を見るときと、もう亡くなってしまった人の写真を見ることは、同じ写真でも、なんと心持ちの違うことだろう。ここに写るわたしの笑顔も、在りし日の姿となる日も、そう遠いことではない。ぐずぐずしてはいられない。きちんとやりたい仕事をしなければ。


鯰江光二氏も出品する展覧会「イラストレーション2003ザ・チョイス大賞展」(於:G8)はこちら。


http://www.recruit.co.jp/GG/exhibition/2003/g8_0302.html

■29 Jan 2003 羽良多平吉「点国ドライヴ」


羽良多平吉氏から速達で届いたので、見るときょうの催しの案内状ではないか。あわてて出かける。

「点国ドライヴ」と名づけられた個展の一環としてのイベントで、一種のトーク・ショー。出演はArico(サウンド・デザイナー)、立花文穂(アーティスト)、羽良多平吉の各氏に、司会の小関学氏(エディター)。(注:かっこ内は自称)

会場は満員。わたしの整理番号は160番でかなりうしろの方で、ただひとつ残った座席に座れた。わたしより後の人はみな立ち見だった。

午後七時から一時間半にわたるトークは、実に水が速やかに砂にしみこむような会話で、非常に退屈だった。司会者は、「アイデア」という雑誌の元編集長だったそうだが、人から話を引き出す術もしらずに、どうして編集長が務まっていたのか、謎だ。会話が「直流」なのである。少しも「交流」的ではない。はじめに振ったYMOのことからして、自分がファンだったという思い入れからオタク的話題に没入してしまう。これではいけないと「羽良多さんは、漢字やかなの使い方など、言葉の表記にとてもこだわっていらっしゃるようですが……」などと質問を繰り出してみるが、羽良多氏が「はい」と応えたら、もうそれまで。話はおしまい。そこから先が続かない。

そんななかで、羽良多氏が(業を煮やして?)「ちょっと話させてください」といって、自ら勝手に話した話だけは、とても興味深かった。それは、デザイン、ということに関する基本的な考え方の話だ。

「地層に褶曲があったり、起伏があったりする。例えば、ここからニューヨークまで、ぎゅっと詰まって山脈になったところもあれば、深い海溝もあれば、平原もある。言葉や文章も、それと同じだと思っているんです。その褶曲や起伏を形にしていきたい。それを表現できる書容設計をしたい」

会場には、羽良多氏の言葉がいくつか、天国的な色彩溢れるパネルの間に展示されていた。

fontasy , fontology , printerest , eternergy for communication,
materealization, colourboration, lucid chrythemum, pixelment

など、羽良多氏独特の造語は、その文字列を見ただけでイメージを広げてくれる。例えば、pixelmentにつけられた言葉は、こんなものだった。
ポエジーは一人によって作られるべきでなく、すべての人々によって作られるべきである。中心は一点ではない。それは点在するものだ。点は線・面へのピクセルである。「tengocu」はこのピクセルとヒト・モノ・コトの自然学を楽しく見極めようとするメディアである。
そしてまた、こんな一文にも心惹かれた。
情報はやはり美しくなければならないのだ
羽良多氏の仕事は、幻の自販機マガジン「Heaven 」のころから気になっていた。あれは、文句なしにかっこよかった。野辺山の電波天文台でグレープというコンピュータ・プロジェクトのパンフをもらい、その斬新さに驚くと、羽良多氏のデザインだったこともある。いつも、一目で羽良多平吉とわかるデザインだ。時に、デザインが勝ちすぎるところがわたしにはひっかかるところではあるが、いつも気になるデザイナーであることは確かだ。

ところで、わたしは羽良多さんの声はとても魅力的だと思う。知的ですがすがしい声なのに、色っぽい。

羽良多平吉「点国ドライヴ」展は、明日31日まで。新橋「クリエーションギャラリーG8」にて。新しい領域にどんどんと踏み込んでいく、真の意味の「ドライヴ」感溢れる色彩と形の饗宴のさなかに身を置くのは、まさに天国的体験である。午後七時終了。

■28 Jan 2003 宮澤賢治と祖父・寮佐吉の接点


中京大学の大学院で宮澤賢治研究をなさっていらっしゃる方からメールをいただいた。賢治の蔵書の中に、祖父が翻訳した科学の本があるので、祖父のことを知りたいというのだ。以下、メールの一節を引用させていただく。
専門は宮沢賢治です。「賢治と科学の関わり」をテーマとして、勉強しています。 寮佐吉さんのことを調べる必要を感じたきっかけは、賢治蔵書リストに、寮さんの訳した『通俗科学講話叢書第三篇 通俗電子及び量子論講話』 を見つけたためです。大正期は通俗科学書がよく読まれた時代だったのではないかと考え、「科学ライター」としての佐吉さんの活動は、大正期の科学ジャーナリズムや、SF文学の黎明期のあり方を考える上で、大変興味深いと考えています。
わたしが祖父のことを父から詳しく聞いたのは、初めての小説『小惑星美術館』を書いた後だった。巨大コンピュータが登場するその物語を読んだ父が「そういえば、おまえのおじいさんもコンピュータが出てくる話を書いていたなあ」というのだ。府立四中の英語の先生で、英語の参考書のような著作があり、理論物理にも興味を持っていた人だったとは聞いてはいたが、そんな創作をしていたとは初耳だった。

ずっと後になるが、それは祖父の創作ではなく、1931年にアメリカのパルプ・マガジン「AMAZING STORIES」に載ったDAVID H. KELLERの小説 The Cerebral Library の翻案であったことがわかる(SF研究家 島本光昭氏にお教えいただいた)。祖父は、それを翌1932年(昭和7年)の「科學画報」に「人脳図書館」というタイトルで、三回に分けて掲載していたのだ。大学生をたくさん集め、それぞれに専門書を大量に読ませ、その脳を取り出してリンクさせ、生体データベースをつくろうという話で、一種のSF怪奇ミステリーだった。まだコンピュータという言葉すらない時代のことだ。

父からその話を聞いた後、わたしは国会図書館で祖父の資料を探した。市谷加賀町の家は戦災で焼けてしまい、資料がひとつも残されていなかったからだ。

そこでわかったことは、大正末期から昭和のはじめにかけて、「科学」はもっと大衆のものだったということだ。人々は、科学テクノロジーがもたらすであろう未来に夢を描くばかりではなく、もっと根源的な、科学が世界の本質を明かしてくれるであろうということに対しても、強いロマンを抱いていた。

祖父は師範学校を出ただけの「学会無宿」の人だったが、科学に強い憧憬を持って独学し、科学情報や科学的思考法を一般の人々にわかりやすく普及させることに情熱を燃やしていた。当時、祖父以外で科学記事を書いている人には、必ず「工学博士」などの肩書きがついていて、科学者という立場でモノを書いていたから、おそらく祖父は、日本ではじめての純粋な「科学ライター」だったのではないかと思う。取材にいった先の大学の研究室で、若い研究者にバカにされ、冷たくあしらわれて話も聞かせてもらえないようなことがあったという話も、父から聞いた。

そんな祖父の仕事が、賢治にわずかでも影響を与えていたかもしれない。それを知ることは、わたしにとって大きな喜びだった。わたしは血としては佐吉のクォーターだが、わたしが生まれる十年も前に祖父は亡くなっているから、祖父のことは何も知らない。その祖父が「宮澤賢治」という肉体と精神を通じて、ミームとなってわたしに何かを語りかけてくれたのかもしれない。そう思うと、胸にこみあげてくるものがある。

祖父のことは、しばらく胸の奥にしまいこみ、埃まみれにしてしまっていたが、賢治との接点が見つかって、もう一度祖父の仕事を見直してみたくなった。きょうは、祖母が遺してくれた、祖父の履歴書を電子化してみた。近いうちに、寮佐吉に関する情報を、わたしのサイトに載せようと思う。

■27 Jan 2003 相模原市議 加藤明徳氏、突然の来訪


ゆうべうっかり徹夜してしまって、午後目を覚まし、朝食をとったらすぐに来訪者。ご近所の公明党の支持者の方と市議会議員の加藤明徳氏だった。

実は、先日、その支持者の方が署名を集めにいらした。わたしは、公明新聞に連載をさせてもらってはいたものの、地元の公明党の方とはまったくコンタクトがなかったので、なぜ?と思ったら、ご近所を絨毯爆撃ならぬ、絨毯署名集めしているとのこと。玄関先で説明を聞いても、その真意がすぐにわかるわけもない。じっくりと読める資料も手渡されない。それでは、うかつに署名などできない。せめて、どこかのサイトにきっちりと情報が載っていれば、そこを頼りに情報の信憑性を確かめて判断できるのに。そう申しあげたが、この件についてのサイトはまだできていないとのことだった。

きょう、お見えになったのは、その内容を詳しく説明したいと言うこと、議員さん自らいらっしゃったのだが、ノーアポでいきなりだったので、慌てた。こういうのは困る。

ともかくも、情報の公開と、しっかりした資料をネット上で示していただくよう、お願いした。個人のサイトをお持ちでないとのことだったので、日記サイトだけでもいいからすぐに開設するようにと、無料日記サイトをお教えして、強く勧めておいた。

こうやって、わたし一人に説明するために、時間とエネルギーを使うなんて、余りにも効率が悪いし、だいたいみんなの利益にならない。効率がいいと言うことは、議員本人の利益だけではなく、市民の利益でもあるのだ。

しかし、加藤明徳氏の話は面白かった。署名は女性医療の充実に関する問題だったが、その背後にあるジェンダーの問題などもきっちり考えていらしたし、障碍者に補助が出ていた「ワープロ購入」を、実状に合わせて「パソコン購入」に直したのも、加藤明徳氏の仕事のひとつだったという。そのときは、草稿を作り、公明党の国会議員に、国会で発言してもらったという。行政区域の境目をとっぱらって、市民が図書館などを相互に活用できるようにしたというお仕事もなさっていて、いまも町田市の公明党の議員と協力連絡会議を持っているという。

そういったひとつひとつの行動の背後に、きっちりとした人生哲学や思想があるのだなあと感じられた。そういうことは、やはり顔を見てきちんと話してみないと、すぐにはわからない。

わたしは、政党政治というのはどうも納得がいかないのだけれど、公明党の国会議員や町田市議との連携プレイなどの話をきくと、党というつながりで、市と国といったレベルの違いや、行政区域の違いを越えて活動が可能なのだと知り、いい面もあるのだと感じた。

しかし、せっかく障碍者へのコンピュータ普及を政策に掲げているのだから、早くご自身のHPを持ってほしい、せめて日記という活動報告の記録だけでもアップしてほしい。

いや、それ以前に、いま署名を集めているという「女性専用外来」の件を参照できるページがないのがおかしい。党本部には、関連ページがあると聞いたが、調べてみても、その内容についてすぐに理解できるようなわかりやすい解説ページはなかった。党本部などに任せていないで、加藤氏自ら、まずその説明を行ってほしい。相模原市議会議員、加藤明徳氏のHP開設を期待する。


http://www.sagamihara-komei.com/

■25 Jan 2003 明治学院大学ポエトリー・リーディング/ノイ あれからひと月



1月25日、明治学院大学言語文化研究所主催のポエトリー・リーディングを聞きにいった。この催しは今年で2回目。昨年の1月の第一回の時は、わたしも出演させてもらった。今年の感想、詳しくはレビューで。
review0005.html#review20030127180421


ノイが亡くなって、もうひと月になる。外出から戻ると、団地の門のあたりで「ノイちゃん、どうしてるかな」と思う自分がいる。押し入れでぐっすり眠っていて、いかにも眠そうな顔で起きてくることもあったし、さみしくてさみしくて、というように、玄関で待ちかまえていることもあった。戻ると「ノイちゃーん、ただいま」といってみる。どこからか、眠い顔のノイが現われそうな気がしてならない。

■24 Jan 2003 生まれてはじめて講演依頼を断る


1月15日「国際青年環境NGOセージ」というところから「「H2O]…水の絵本朗読イベント講演の依頼」というメールが届いた。見知らぬ相手からの、はじめてのメールだった。

基本的に、こういうメールはうれしい。わたしの知らないところで、知らない人が本を読んで心を動かしてくれた。そして「会いたい」といってくれている。うれしくないはずがない。

しかし、心が弾まなかった。メールの差出人が何者なのか、さっぱりわからなかったからだ。自己紹介らしい自己紹介がなく、ただこう書いてあるだけだった。
京都の若者を中心に、環境やグローバリゼーションに関する問題に対して取り組んでいる 「国際青年環境NGOセージ」の・・・・と申します。
イベントの企画書が添付され、そこにはイベントの内容が書かれていたが、驚くべきことに、わたしが『父は空 母は大地』と合わせて下田昌克著「そらのいろみずいろ」(小峰書店2001) という絵本を朗読することになっている。わたしはその本を知らない。第一、わたしは朗読芸人ではない。

とまあ、驚くことづくめだった。差出人を検索してみると、どうも京都大学の学生らしいとわかった。後で尋ねてみてはじめてわかったことだが、件の団体の今年度の代表でもあるそうだ。「国際青年環境NGOセージ」のHPも不備で、代表者の名前すらない。責任主体がどこにあるのかさっぱりわからない、リンク切れだらけのサイトだった。

経験不足の学生のやることだし、大目に見ようと思っていたが、交渉を進めるうちに、余りにデタラメなので、とうとう短気をおこして降りてしまった。「第3回世界水フォーラム」の関連イベントだということだし、志ある青年たちがやっていることだから、こらえようと思ったけれど、こらえられなかった。ちょっとだけ良心の呵責を感じている。

依頼者に、どうして断わったかを知らせ、今後の活動に生かして欲しいと思ってメールを書いた。レビューに載せておけば、そのうち誰かの役に立つこともあるかもしれない。レビューに掲載しておく。やれやれ。

review0005.html#review20030125014552

■23 Jan 2003 大谷幸三著「性なき巡礼――インドの半陰陽社会を探る」



きょうから、伊勢丹相模原店で古書店だ。グリム書房も出品しているというので、夕方、見に行った。古い週刊誌や新聞などが面白い。

大谷幸三著「性なき巡礼――インドの半陰陽社会を探る」(1984集英社)という本を買った。インドにはヒジュラと呼ばれる女装集団がいる。その人々のドキュメントだ。わたしも、カルカッタで見かけ、度肝を抜かれた。公明新聞に連載した「楽園の鳥」でも、その様子を書いたことがある。映画の中でも見たことがある。一体、どういう人々なのか、どういう歴史があるのか、詳しく知りたいと思っていたから、格好の書だ。

アメリカに住む50歳を超えた日系の友人が、性同一性障害で、昨年、男性から女性への性転換手術をした。彼の、いや彼女の体験談から、わたしは性同一性障害というものを意識するようになった。性は、男か女、簡単な二分法で語れるものではないのではないか。肉体的にも精神的にも、男から女まで、グラデージョンとして様々な位置に存在しているものではないか。本来はそれが個性であるべきなのに、既成の二分法に当てはめようという強迫観念があって、人は時として苦しむのではないか。「まるで少年のよう」といわれ続け、自分でもそう感じてきたわたしは、もしかしたら、かなり男よりのところに位置する女なのかもしれない。

インドでは、半陰陽で生まれた子どもは、ヒジュラになるべく、ヒジュラの集団に遺棄されるという。そこで歌や踊りを覚え、一種の芸能の民として生きていくらしい。謎めいたヒジュラの実態はどんなものなのだろう。読むのが楽しみだ。

http://www.d6.dion.ne.jp/~grimm/

■21 Jan 2003 ボルドー赤ワイン Grand Moment 2000



クリスマス前に南町田のカルフールで買ったワインが、安くておいしかった。ボルドーのGrand Moment 2000という銘柄。800円ほどだが、確実にその3倍の値段の味がする。わたし好みの、ちょっと重いタイプの赤ワインだ。といっても、安ワインには違いないが。買いだめしようと、自転車でカルフールにいった。片道6キロ半の、境川沿いの道だ。

いつもすぐに商品が入れ替わって、欲しかった銘柄が買えなくなってしまうのだが、奇跡的に残っていて、一ダース購入。相棒が、自転車の荷台に振り分けで積んで持ち帰ってくれた。えらい。

カルフールは、開店当初はボンカレーを天井まで積んだりして、とてもダメな店だった。勘違いしているとしか思えなかったけれど、最近とてもいい。「フランスから来た店なんだから、フランスの物をいれてほしい」というお客の声を反映して、フランスのお菓子や食材、ワイン、食器など、いろいろある。安物の器といっしょにバカラのガラス器やライヨールのナイフなど、かなりの高級品が並んでいるところも面白い。しかも、そんな高級品は、たいがい他より値段が安い。


わたしがことに気に入っているのは、モンテリマール・ヌガー。やわらかくて香ばしくて、たまらなくおいしい。キャンディーのように小分けに包んだものもあるが、一枚の大きな板状で売っているのが安い。難点は、すごいカロリーだということ。

でも、自転車で往復13キロ走れば帳消しになるな、などと勝手に思うことにしている。

■20 Jan 2003 エル・ボルトン著・寮佐吉訳「通俗相対性原理講話」1922



『星の魚』の制作資金回収のためにネットで通販することにしたら、名古屋の白石くんが「友だちにあげるから」と何冊も注文をくれた。うれしい。いつか、もらった人の感想を白石くんに聞いてみたい。


夕方、東林間の「グリム書房」にわたしの本を届けに行った。昨年、本を届けにいったら、そこにいたお客さんが買ってくださって、グリムさんの分がなくなってしまったので、それを届けに行ったのだ。

行くと、既にお客さんがひとり。交通博物館の学芸員の方だという。ご主人はわたしを認めて、すぐにカウンターの脇から一冊の古びた本を取り、渡してくれた。見ると、エル・ボルトン著の「通俗相対性原理講話」ではないか。祖父の寮佐吉が翻訳、大正11年5月に東京の黎明閣という出版社から出版されたものだ。

わたしはびっくりしてしまった。ご主人が、わたしがいつか話した祖父のことを覚えていてくださって、わざわざ探し出してくれたのだ。感謝。

「九州の旧家がごっそり古本を処分して、そのなかに入っていたんだそうです。その本を引き取ったのが、知人の古本屋さんでね。文学書は古本として価値があるから残すんですが、科学解説書は、内容が時代遅れになってしまって本としての価値がない。だから、たいがい右から左へ処分してしまう。この本も、処分するほうの山に入っていたところ、ちょうどわたしが声をかけて、それで見つけてくれたんです。すんでの所で捨てられるところだった。運がよかったですよ」

グリム書房のご主人に感謝である。この本は、すでに一冊持っているけれど、その一冊しかないのでぜひ欲しい。値段を聞くと1500円だという。安い。

「いや、遺族の方に古本をお渡しするとき、むずかしいのが値段なんです。あんまり安いと、却ってがっかりなさるでしょう。でも、科学書の古本は需要がほとんどないから、大して値段も付かないのが相場なんです。これでも、損はしていませんから」とのこと。前の一冊を神保町で手に入れたときも、似たような値段だったから、ご主人のいうことは本当だろう。わたしとしたら、高くて手が出ないよりも、安い方がずっとうれしい。お手間をかけて、こんなに安くて申し訳ないと思いながら支払った。


この本は「通俗科学講話叢書第一編」とタイトルの上にあり、科学を一般人にわかりやすく紹介しようという叢書の一冊。アインシュタインの相対性理論をわかりやすく解説したものだ。しかし、ページを開いてみると数式だらけ。見ればその第一章にこのように書かれていた。
一 數學がなくては却つて分り難い
相對性原理を一切數學を用ひないで説明してゐる世間並の書物のやうに、此の書物を期待して見る讀者は、或は失望するかも知れない。
孫のわたしも失望したひとり。持っていても全然読んでいない。ごめんなさい、おじいさん。


そうこうしているうちに、もうひとり、若い演出家の女性が店を訪れた。日疋士郎さんという方で、1月30日から2月4日まで、池袋のシアターグリーンでかかる「死神によろしく」という作品の演出をなさっているという。博物館の学芸員の方とみんなで、思わぬサロン状態。楽しいおしゃべりをさせてもらったうえに、お二人にわたしの新刊まで買っていただいて恐縮の極み。グリムさんに感謝だ。また、グリムさんに本を届ける口実もできた。

■19 Jan 2003 EXPOSE2002 ヤノベケンジ×磯崎新


▼赤レンガ倉庫
爆睡15時間。目覚めるともう午後三時を回っていた。まだ疲れが残っている。相棒が、きょうは横浜でのヤノベケンジの展覧会の最終日だと教えてくれる。このまま倒れてしまいたい気分だったが、やはりどうしても気になって体に鞭打って出かけることにした。

桜木町の駅を降りるとどしゃぶり。目指すは赤レンガ倉庫だ。「みなとみらい」の入り江を突っ切る汽車道を歩いて、雨に煙る赤レンガ倉庫に向かう。夜、ここを歩くと『星兎』のなかの祭りの景色のようだと、いつだって思ってしまう。

雨のなか、遠くに滲むように浮かびあがる赤レンガ倉庫がだんだん近づいてくる。みなとみらいの街並みを抜けると、そこはいかにも港らしく広々と広く開けた空間だった。星兎と少年とがはじめてであったとき、確かにここで肩を寄せて海風に吹かれていたのだと、そう感じるわたしがいる。

▼ヤノベケンジ/スタンダ&ニューデメ
「EXPOSE2002 ヤノベケンジ×磯崎新」の会場の入り口で、T氏とばったり出会う。以前、わたしの著作の装丁をしてくださった少し年輩の有名デザイナーだ。目深に毛糸の帽子をかぶってとても若々しく見えたので、本当にTさんかどうか確信が持てず、声を掛けようかどうしようかと迷ったが、思い切って声をかけると、やはりTさんだった。

第一会場の「スタンダ」という大きな金属の人形が、ゆっくりと動きだした。倒れてうつぶせていたものが、立ちあがる。それと連動するように、向かいに置かれた「ニューデメ」がお辞儀をするように前に屈む。天井のスマイル・マークによく似たやけにノーテンキな黄色い太陽の口から、シャボン玉がさかんに噴きだされる。

頭の位置に取りつけられたふたつの眼球に当たる部分は巨大で、まるで昆虫の目玉のようだ。胴体が傾いても水平を保つよう、錘がつけられ可動式になっている。体が極限まで傾くと、ニューデメの体の前にあるマンホールの穴のような水たまりに顔をつっこみ、ジューッという音がして湯気が上がった。ガラス球が、すぐ目の前に来る。向かって右には緑色がかった鉱物が、左にはよく似た色の苔と土が入っているのがよく見える。とても「わかりやすい比喩」だなあと、説明を読む以前に思った。

ニューデメに気を取られているうちに、スタンダは立ちあがり、そしてまた倒れてしまった。そして、静寂。

スタンダにつながれた、机ほどもある金属の箱に金鋸で荒く挽いたような小さな窓が切ってあり、そこに電光の赤い数字が「20」と覗いている。「何ですか?」と係りの人に尋ねると、大気中の放射能をカウントする装置で、ひとつ感知するごとに20からカウントダウンしていって、それが0になると、スタンダが動き出すのだという。「およそ、10分に一度ほどの割合で0になり、動きます」

ニューデメに気を取られてスタンダの動きをよく見なかったので、壁に展示されたヤノベケンジの作品スケッチを見て待つことにした。スケッチには、実に「わかりやすく」コンセプトが文字で書き込まれていた。良くも悪くも「小学生が空想をめぐらせ、独りでぶつぶついいながら、すっかりその気になってデザインした未来メカ」のようであるという印象を持った。そのような楽しさと幼稚さを併せ持ったスケッチだ。

スケッチを元にして造られた実物も、それがそのまま拡大されたものといった印象で、仕上げに小学生の工作のような甘さや雑さを感じる。それを「作品のマチエール」と受け取るか、単に「稚拙である」と受け取るのかは、人それぞれなのだろう。わたしは後者だった。

しかし、小学生にしてはずいぶんとデカイ工作で、実際の小学生にそんなものを作れるはずもない。あり得ない物が目の前に実物として存在するというそのミスマッチ感が「現代美術」としてのみずみずしい驚きを醸しだしているのかもしれない、とは推察できるものの、それは理屈で、わたしがそう感じたかどうかは別問題だ。

▼自らの作品を説明するヤノベの言葉という作品
「スタンダ」のスケッチには、こんな言葉が散りばめられていた。
ゆっくり立ちあがる 巨大な幼児人形
人類が2本の足で立つ瞬間
未来的希望
チェルノブイリのイメージ
汚染された人形蘇る(ミュータント?)
1997年 チェルノブイリ保育園にて拾い上げた人形
巨大化 再生
水蒸気 太陽を隠す
そして「ニューデメ」のスケッチに散りばめられていたのはこんな言葉だ。
あらかじめ破壊された未来
廃墟ロボ再生計画
未来からもちかえった苔
月の石風ウラン鉱石 危険
縄文の刺青をもつ腕
パビリオン破壊のために鉄球 浅間山荘でも活躍
護衛官廃材利用
打ち捨てられた巨人
巨大な無機能のかたまり
ここにあるのは過剰なまでの意味の乱舞だ。そして、その意味は驚くほどわたし自身が描く小説世界に漂うイメージと似ている。と一見思われる。大阪の万博跡地そばに住む鳥海さんが、わたしの小説を評価し、同時にヤノベケンジに作品を高く評価するのはそのためだろうか。わたしが、ヤノベケンジの作品に対してどうしてもある種の違和感を感じてしまうのは、もしかしたら一種の同族嫌悪だろうか。そんな疑いが、頭をもたげた。

しかし「美術作品」が、ここまで己を「言葉」で語ってしまっていいものだろうか、という気持ちも拭えない。いや「色と形で語れ」と思うことこそが一種の「縛り=固定観念」で、造形物だけが自立して美術作品なのではなく、ここに存在するわかりやすすぎるほどわかりやすい「種明かし」のスケッチも含めて、総合的な表現であると受け取るべきであろうか。

いや、いくら「べき」だなんていっても、現物を見て「茶番」であると感じてしまうわたしがいるのなら、それはそれで仕方ないではないか。ではなぜ、わたしはそれを「茶番」と感じるのか。わたしは、自分の心の中を注意深くのぞかなくてはいけない。直感で捕らえたものが何であるのかを知るために。そして、その直感がほんとうに直感だったのか、それとも鈍いだけなのか、そこにある真実が見えていないだけなのか、或いは「同族嫌悪」の仕業だったのかを知るために。

▼有名デザイナーT氏の感想
わたしは、他者がどう感じるのかに猛然と興味を持った。あの有名デザイナーのTさんに足を運ばせるヤノベケンジ作品の魅力とは何なのだろう。熱心にヤノベケンジのスケッチに見入るTさんに、尋ねてみることにした。

――Tさんは、きょうどうしてここへ。
T 面白い作品を造るなあって、以前から興味を持っていたからね。
――どのへんが「面白い」って感じられるんですか?
T ぼくがね、いつも感じていてもなかなか表現できないことを、この人はまっすぐ表現しているって思ってね。
――チェルノブイリの問題とか、環境破壊とか、そういうことですか? 
T だいたいそういうことだよね。それは、普段の仕事のなかではなかなか表現できないから。
――ということは、造形そのものに興味を持たれたんじゃなくて、その「意味性」に興味を持たれたっていうことでしょうか?
T いや、面白い形をつくる人だなって興味があったね。それが、一体どこから来たんだろうって。
――鉄腕アトムなどのアニメや万博などで、造形に関する感性が養われたと、ご本人はおしゃっているけれど。
T あ、それは見ればわかるよね。それに、チェルノブイリの保育園に落ちていた人形からイメージを得て造形したっていうよね。
――「スタンダ」ですよね。でも、わたしにはそう見えない。チェルノブイリに落ちていた人形には全然似てない。むしろ、あの「かわいさ」はワーナーのアニメ「トゥイーティ」にそっくりだって思うんです。

▼磯崎新/エレクトリック・ラビリンス
次に磯崎新の作品「エレクトリック・ラビリンス」を見た。湾曲した銀色のパネルに焼きつけられた浮世絵や地獄絵、そして実際の戦争の死体写真。そのパネルが回転扉のようにぐるぐる回り、わずかな隙間を残していくつも設置されている。回るパネルに挟まれないようにしながら歩くと、自然と焼きつけられた絵が動きながら目に入り、まるで脳裏に浮かぶイメージの断片のように、つぎつぎと目前に繰り広げられるという趣向だ。

その正面には、壁いっぱいの爆心地の一枚写真が展示され、そこに新しい都市計画やビルの設計図、ポスターなどが次々と投影される。

そこに、一柳慧の現代音楽が痙攣的に鳴り響いている。

体験としては面白かった。ただ、音楽はあのような痙攣的なものではなく、むしろ美しく穏やかな交響曲でも流した方が、一層効果があったと思う。

面白いとは思ったが、なぜか驚くほど心に残らない作品だった。透明になって心をすうっと通過していってしまうのだ。しばらくしたら、見たことさえ記憶からこぼれてしまうかもしれない。

それに比べると、ヤノベケンジの作品は、確かに印象が強い。見たことを忘れるといった危惧は微塵も感じさせない強さがある。

▼ヤノベケンジ氏現わる
会場を一巡してヤノベケンジの展示に戻ってくると、ヤノベ氏ご本人がそこにいた。そこで、わたしはいままで感じていた疑問をすなおにぶつけてみることにした。ヤノベ氏は、快く答えてくれた。

――なぜ、チェルノブイリなんですか?
ヤノベ ぼくは、万博は知らないけど、万博の跡地で遊んで育ちました。だから、あの廃墟の風景がぼくの原風景になんです。つくっている途中なのか、壊している途中なのか、その一瞬だけ見たんではわからないような風景が、ぼくの原風景。そんな風景のなかに、もう一度身を置きたいと思ったけれど、万博の跡地はきれいに整地されて、もうない。それで、どこかないだろうかと思った時、チェルノブイリに行きたいと思ったんです。
――廃墟的風景は、ほかにもいっぱいあると思うんですが、どうして「チェルノブイリ」だったんですか。そこにある廃墟の風景を予め映像で見て、その荒廃ぶりが万博跡地に似ているので、それで行きたいと?
ヤノベ いいや、ぼくがちょうどベルリンにいたころ、チャルノブイリの原発事故があったんです。放射能は流れてくるし、他人事とは思えなかった。自分にとってとてもリアルだったから、そこへ行きたいと思ったんです。
――「アトムスーツ」を着て、チェルノブイリを歩く映像を撮られてますよね。どうして「東海村」ではあのパフォーマンスをなさらないんですか? いっそ日本の原発のすぐ前に「スタンダ」を設置したらいいと思うんだけど。
ヤノベ それは違う。
――なにが?
ヤノベ それは、ぼくのやりたいことじゃない。水戸芸術館で展覧会をしたときも、東海村の住人の方々が来て、アトムスーツで東海村を歩いてくれといわれたんです。でも、ぼくはやらなかった。
――どうして?
ヤノベ それは、ぼくの心の必然じゃないから。
――それをやったら、アンチ原発のプロパガンダになってしまうから? イデオロギーになってしまうから、やらなかったということですか?
ヤノベ そうです。そのへんことは「現代美術」の昨年の7月号に詳しい。ぼくは、自分の心のなかから発想して作品をつくっていきたい。ほんとうに心の中にあるものだけを出していきたい。チェルノブイリの時も、どうやって渡航手続きをとったらいいのか、最初はわからなかった。友人たちは、環境団体である「グリーンピース」の人々と組めば簡単に行けるし、話題にもなるといってくれた。でも、ぼくはあえてそれはしなかった。それをしたら、単なる政治的アピールになってしまうから。ぼくはぼく自身の作品をつくりたい、ぼくだけの心から発するものだけを形にしたいんで、イデオロギーのためにやっているわけじゃない。だから、ものすごく苦労して、自分だけで渡航手続きや取材許可をとりました。それを、いいっていう人も、そうじゃない人もいるけれど。
――なるほど。ヤノベさんにとってはあくまでも「作品」なんですね。じゃあ、もしも東海村の人々が「アトムスーツ」を貸してくれ、それを着て東海村を歩きたいから、といったら、どうしますか?
ヤノベ うーん。きっと貸さないだろうな。だって、それでは、ぼくの作品ではなくなってしまうから。もしそういうことをしたいなら、あなた方でどうぞご自分の「アトムスーツ」をつくってパフォーマンスしてください、というかもしれない。
――あくまでも、イデオロギーやプロパガンダとしては利用されたくない、ということですね。
ヤノベ そうなんです。いろんな環境団体から、イベントで作品を展示したいという申し出を受けるけれど、断っている。そのように誤解されたくないので。これは、あくまでのぼくの個人的な部分から生まれた作品なんです。
――なるほど。ところで、次の作品のイメージはありますか。或いは、いま、とても興味のあることとか。
ヤノベ それはあるけど、いまは話せない。時間と共に変わるしね。あくまでも、自分自身を発想を基本にしたいから。できあがった作品を見てください。

注)以上、寮美千子の記憶による。一言一句この通りだったわけではない。

▼残された疑問と違和感
ヤノベ氏に思い切って話を聞いて、長年の(といっても、ヤノベ作品の存在を知ってから数年のことではあるが)疑問が氷解した。作品の位置づけをヤノベ氏本人の口から直接聞くと「なるほど」と腑に落ちるところがあった。

しかし、だからといってわたしの中の違和感が消失したわけではない。むしろ、新たな問題が見えてきたともいえる。第一に、ヤノベ氏の作品制作意図と、受け手の受け取り方の温度差が浮上してくる。受け手はやはり、そこに「核への漠然とした恐怖」と、その延長線上にある「反核思想」を読みとり、そこに感応しているのではないか。そして、そのような理解を生む第一の原因は、ヤノベ氏が自らが、そのコンセプトを過剰なまでに「言葉」で語っているということが起因しているのではないか。さらには、それ以上に、評論家たちが語る「こうあらまほしい幻想のヤノベ像」のせいなのかもしれない。

実は作品は、その制作意図を離れて、どのように解釈されても構わないわけだし、制作者自身が正しくその作品の意味を把握しているとも限らない。作品自体が自ずと評価を呼ぶというのが本筋だとわたしは思う。だから、評論家が「ヤノベ作品」を借りて、そこにいかに自己を重ね、自己の欲望を作品を通じて語ろうとも構いはしないのだが、となるとやはり、ヤノベ氏自身の制作意図との落差が気にならざるを得ない。

もうひとつ、作品コンセプトをあえて「言葉」で語る行為と、ヤノベ氏の意図する「イデオロギーやプロパガンダではなく、純粋な美術作品」というイメージとが矛盾しはしないか、という根本的問題を感じた。

なによりも、わたし自身が感じている違和感が解消しない。

それらのことに関しては、よく考えて、またいずれ詳述したい。

http://www.kirin.co.jp/active/art/kpo/event/200210/expose.html

■18 Jan 2003 パントマイム 清水きよし



都立七生養護学校の宝方喜代美さんたち「マイムファンタジア実行委員会」が主催のパントマイムの公演を見に高幡不動にいった。当日のチラシから引用する。
わたしたちは、子どもたちが主人公となる教育を目指しています。そのためにも、教育の場が一方的に管理されることには疑問をもっています。管理の一つのあらわれである「主任制度」に反対し、主任手当を個人で受け取らず、集めるようにしています。今回はその集めた資金で、子どもたちや地域の方々のためにこの催しを企画しました。

出演は清水きよしさん。日本のパントマイム界の第一人者で「空間の詩人」と呼ばれているという。わたしは、パントマイムを生で見るのは初めて。かつて、マルセル・マルソーの演技をテレビで見て、いたく感激したことがあった。清水さんは、どんなパントマイムを見せてくれるのだろうかと、胸を躍らせて幕が上がるのを待った。

子どもたちも、わくわくしながら待っていたらしい。黒いカーテンの間から、こっそりこっちを覗くような仕草で顔をだした清水さんを見つけて指さし、うれしそうな声をあげた。ちらっと顔を出しては引っ込める清水さんの仕草に、子どもたちはもう夢中。足だけ見えたり、お尻だけ見えたり、その度にわあわあと大声で喜ぶ。ああ、子どもはこんなに喜ぶものなのだと、おどろくほどだった。

そんなふうに期待に満ちてはじまった舞台だったが、演技が進むうちに、だんだん子どもたちの様子が変わってきた。それでも、はじめは「楽しむぞお!」との意気込みがあったから、一挙手一投足に歓声をあげていたのだが、次第にそれが少なくなり、やがて場内はざわざわとしだした。みんな飽きてしまったのだ。

知的障害を持った子どもたちというのは、驚くほど素直だ。我慢、というものもあんまりできないし、装うということもヘタだ。飽きれば、顔に出る。観念で見るということもしない。つまり「この演技は、日本の第一人者のものだから、すばらしいに違いない」というような予断に左右されず、自分の感じるままにその感情を表現する。

ということは、清水さんの演技は、掴みはよかったけれど、引っ張り続ける力に欠けていたということではないだろうか。いや、子どもたちの反応を借りるまでもなく、わたし自身も、その演技を見て、そう思わずにはいられなかった。


第一、そのおおげさなゼスチャーが、どうしてもわたしの気分になじまなかった。どう見ても西洋人の身振りに見えてしまう。日本人が、あえて西洋人の仕草を真似ると、なんだか滑稽に見えたり、気障に見えて鼻につく。そんな感じだ。

パントマイム発祥の地では、きっと普段の仕草を誇張して、様式をつくっていったのだろう。誇張されたものは、時としてそのもの自身よりもそのものに見える。そこに、面白さがあったのかもしれない。

けれども、それはあくまでも西洋人の仕草だ。文化のなかで了解可能なものだ。文化を超え、それが人間の普遍の情緒まで表現できるようになれば、もちろんすばらしい。マルセル・マルソーは、確かにそこまでパントマイムを高めた人だったと思う。その仕草は、確かにいかにも西洋人そのものだったけれど、そんなことを忘れさせてくれた。彼の演技を見ていると、動かなくなってしまった蝶にともに涙し、死んだと思ったその蝶が粋を吹き返して飛び立ったときには、心の底からほっとしてうれしくなったものだ。

マルソーのレベルに達せればいいが、そうでなかった場合「借り物」の西洋人の仕草を真似ることは、はっきりいって見ていてはずかしいだけだ。どうしても違和感を感じてしまう。なぜあんなふうに驚かなくてはいけないのか。なぜあんなふうに肩をすくめなくてはならないのか。そんな仕草は、日本の文化のなかにはない。


休憩の後「交流タイム」というのがあり、そこで子どもたちが舞台に上がって、清水氏の指導を受けた。みんながやりたがる流行の「壁」の仕草だ。どうやったらそこに「壁」があるように見えるか。そのための基本を清水氏は子どもたちに教えようとした。

なかのひとりの子どもが、並んで順番を待っているときから、やる気満々で、実に自在に体を動かして、体中でさまざまなことを表現していた。人々の目は、自然とそこに引きつけられてしまった。そののびやかな動きは、自然と笑いを誘う。その子の仕草は「壁」を表現するセオリーに反してはいたけれど、体でなにかを語ると言うことに関しては、実に豊かな表現をしていたと思う。

みんながその子に注目してしまったので、困った清水氏は「あっちの方は無視して、こっちを見てください」と観客に呼びかけた。

清水氏の負けではないか。自由に体を動かす子どもに注目が行って、だれも清水氏を見ようとしなかったら、それはプロとしての清水氏の負けだ。

しかも、それは「交流タイム」である。パントマイム教室ではない。観客と舞台とが、いきいきと交感するはずの場である。もしそれを真の「交流タイム」にしようとするならば、その子どもの体の言葉に応じて、清水氏が即興でかけあいのパントマイムをしてみせればよかったではないか。

せっかく、いきいきとした心の表現があり、楽しさがあったのに「教科書にはそんなことは書いていません」といって、先生が生徒を黙殺する教室のような雰囲気が、そこには漂った。清水氏は、ひとりひとりに、教科書通りの「壁があるように見せる方法」を伝授していった。そして、それは退屈だった。残念である。わたしは、その子の自由な動きを、もっともっと見ていたかった。


パントマイムがなんであるか、わたしは知らない。知らないけれど、もしそれがパントマイムの教科書通りに「それらしく見えることを大切にする」だけの芸だとしたら、そんなものはつまらないとわたしは思う。「体」が語る言葉。言葉以上の言葉を表現すること。そのために技が必要なので、ほんとうに大切なのは、そこに表現されたいきいきとした体の言葉、魂そのものではないのか。楽しげに表現する子どもが現われたとき、それをすぐに拾えないなんて、それを黙殺するなんて、それは芸人がすでにその「体の言葉」に鈍感になっているからではないか。


清水氏は後半、日本のなつかしき思い出の風景をパントマイムにしていた。秋の日の柿もぎとトンボつり、そして冬の日の凧あげ。ノスタルジックな「詩情」を表現しようとした意図はよくわかる。

しかし、西洋的な仕草と、ステロタイプの「日本的詩情」のちぐはぐさに居心地の悪さを感じなでいはいられなかった。そして、いかにも類型的な「子どもらしさ」の表現に、正直言ってわたしは辟易してしまった。この人は、そこにほんとうに存在する人間の仕草を、子どもという生き物を、つぶさに観察したことがあるのだろうか。そこから、自分の力でパントマイムを創作しようとしたことはあったのだろうか。能や狂言なども取り入れているとの紹介だが、一体どこにそれがあるのか。西洋のパントマイムを一生懸命学び、形だけとても上手に真似ただけではないか。

イッセー尾形は、パントマイムではないけれど、その一人芝居のなかで、実にいきいきと人間を演じる。現実にいる以上に現実じみた人間の姿は、それだけで自ずと深い笑いを誘う。イッセー尾形の演技を見ていると、彼が実によく人を観察していることがわかる。そうやって観察されたものをわずかの誇張によって再現しただけで、充分におかしいのだ。「詩情」など必要ない。あるとすれば、それは作品表現のなかから自ずと滲みだしてきてしまうもので、最初から「詩情を表現しよう」などというものではないはずだ。


ずいぶん辛口の批評になってしまったけれど、そう感じたんだから仕方ない。アマチュアのボランティア活動としての芸ならともかく、このような「芸人」が純粋にプロの「芸人」として生きてこられたのだとしたら、一体「芸」の世界はどうなっているんだろう? なぜ淘汰されなかったのか。このような芸を芸として成立させる経済の仕組みがあったということだろうか。それは、なんだったのだろうか?

子どもたちは、清水氏がカーテンの陰から顔を出しただけで、あんなに喜んだ。七生養護学校の先生方は、自分たちの主任手当を差し出してこの企画を実現した。子どもたちの、そして先生方の期待に、もっと真摯に応えるような演技をしてほしい。わたしは、心からそう思う。

■16 Jan 2003 家族を亡くしたときに読む英国の葬儀社の本



和光大学「物語の作法」の今年度授業の最終日。この一年で、みんなずいぶん成長した。ここに週一回来るだけで、みんなこんなによくなるのに、いったい高校までの作文教育は何をしていたんだろう? いや、これは作文以前の問題。要はコミュニケーション能力の問題だ。伝えるためにはどうしたらいいのか。伝えたいものはなんなのか? それを意識するだけで、書く物が見違えるようになる。みんなそれぞれに能力があるのだということが、みるみる明らかになっていく。驚くばかりだ。


長らく「介護休暇」をとっていた学部事務室のTさんと、久しぶりに顔を合わせた。疲れた悲しげな顔をしている。11月の終わりにお母様を亡くされたという。「お母様と猫とじゃ違うけれど」と思わずノイの話をした。心の痛みをどのように引き受けて生きていくか。究極は一人一人の問題だけど、語り合うことは大きな救いになる。Tさんと話すことで、わたしも心がほどけていくように感じた。

ほんとうに大切な者を亡くしたとき、それを乗り越えるための手助けになるような、そんな本を作れないだろうか。イギリスの葬儀社が、残された家族に渡すための本を作ったと聞いたが、どんな本だろう?


パロル舎に今年初めての打ち合わせに行く。品切れになっている「ラジオスターレストラン」の増補改訂版の原稿締め切りが4月末。その時、短編集の原稿もいっしょに仕上げる約束をした。「イオマンテ」の絵本の出版は10月が目標。原稿の締め切りは2月半ば、ということになった。「楽園の鳥」の加筆もあるし、遊んでいられない。本気で取り組まなくては間にあわない。

■13 Jan 2003 「ラジオスターレストランへようこそ」最終上映


▼列車の中で待ち合わせ
きょうは「ラジオスターレストランへようこそ」の最終投影。名残惜しく、相棒といっしょに山梨県立科学館に見に行った。

途中、高尾で作曲家の高橋喜治氏とフルート奏者の斎藤佐智江さんと待ち合わせ。車中で初対面となった。高橋喜治氏は、わたしが編訳した『父は空 母は大地』を作曲したいとメールをくださり、わたしのサイトを見て最終投影を知って来てくださったのだ。

鈍行でのんびり行きながら、自己紹介も兼ねて互いの仕事について話す。高橋さんは、先住民の文化に興味を持ち、アイヌ語の合唱曲を作曲されているという。今回、合唱団より作曲を委嘱され、ふざわしい題材を探していたところ、フルートの斎藤さんから「新聞にこんなものが載っていた」と紹介されたのが『父は空 母は大地』。さっそく見てみると、感銘を受けたのでぜひ作曲をというはこびになったとのことだ。

作曲を委嘱したのは、新日鐵君津合唱団と日立市の合唱団カベル。今年の11月11日に日立市で合唱団カベルが、次いで来年2月に紀尾井ホールで新日鐵君津合唱団が演奏するとのこと。指揮者は共に飛永悠佑輝氏。朗読には女優の山口由里子さんを、室内アンサンブルには高橋さんご自身が指名した選り抜きのプロを予定しているとのことだ。

いわゆる合唱曲だと思っていたのだが、よくよくお話をお伺いしてみると、大分違うらしい。「朗読と混声合唱と室内アンサンブルの為の作曲」とのこと。この3つの要素が絡み合った新しいスタイルの音楽を模索していらっしゃるようだ。初演が、いまから楽しみでならない。

高橋さんは、いつも作曲のためのテキストを探しているという。わたしの他の作品、ことにセント・ギガに書いた作品を読んでもらいたいと思う。そのためにも、詩集をまとめなくては。
高橋喜治氏略歴
東京芸大作曲科中退、間宮芳生氏に師事。作品に混声合唱その他の為の〈ヤイサマネナ〉や吹奏楽の為の〈オイナ〉や アイヌ語歌詞によるソプラノと男声合唱の為の〈ユカラ フラグメンツ〉 などがある。現代の先鋭な問題の民族音楽と現代的手法とをひとつにした作風での音楽表現を探求している。

▼落ち葉を踏んで
甲府駅につくと、宝方喜代美さんとばったり。福祉施設で働く宝方さんは、初演にも来てくださったのに、今回が最終回だからとわざわざ見に来てくださったとのこと。うれしい。

駅を出てみたところが、迎えに来ているはずの真理子さんが来ていない。よく考えてみたら、到着時間を真理子さんに伝えたつもりで、すっかり忘れていたのだった。時間もあるし、歩いていこうということになった。

科学館は、甲府駅の裏の愛宕山の上にある。途中、国産ワインの老舗として有名なサドヤの醸造所を発見。やっぱり歩くといい。

外務省の儀典官室にいた頃、大使就任式などの儀式のために、外務省の地下にある酒蔵にワインやシャンパンを取りに行ったが、酒蔵のおじさんも外交官も、ワインはサドヤがいいといっていた。30年ほど前のことで、輸送手段があまりよくなかったため、澱がかき回されないですむ国産ワインのほうがおいしいという時代だったのだ。

路は、途中から舗装のない山道になる。車で行くことを前提にされているらしい。秋に積もったままの枯れ葉とドングリを踏みながら歩くと、駅から20分ほどで科学館に到着した。

▼体感的メディア「プラネタリウム」
「ラジオスターレストランへようこそ」を見るのは、これで3回目。自画自賛だが、3回見てもやっぱりよかった。プラネタリウムという空間では、観客が傍観者として見るのではなく、その世界へのただなかへと没入できるので、宇宙を遙か彼方のものではなく、いま自分がいる空間として認識できる。「ラジオスターレストランへようこそ」は、そのようなプラネタリウムの特性を存分に生かせる企画だった。これで最終上映というのは残念だ。

▼番組制作のからくり
「ラジオスターレストランへようこそ」も、他の館でかければいいようなものだが、そうはいかないという。各館で仕様が違い、組みかえないと番組をかけることができないそうだ。そのため、プラネタリウムでは各季節毎にその館でオリジナルの作品を作成するという。一体、どのような事情でそういうことになっているのか、詳しいことはわからないが、素人考えではもったいないと感じないではいられない。番組制作には、かなりのお金がかかり、結局それが1シーズン限りの上映で消えてしまうのだから。それでも、収支があっていればまだましだが、プラネタリウムの入場料で制作費がまかなえるわけではない。地方自治体では文化教育関係の予算や助成金などで賄っているのが現状だし、民間のプラネタリウムでは事実上企業のお荷物になっている。そのために閉鎖される館もある。

プラネタリウム番組の制作は、ほとんどがプラネタリウム機器を納入している機器製作会社の関連会社が行っているという。プラネタリウムの仕様がわからなければ、番組は作れないわけで、それをいちばんよく知っている機器製作会社の関連会社に頼むしかないというわけだ。早い話が、プラネタリウム機器製作会社は、機器を納入するだけではなく、そこから発生するソフト制作によって利潤を得ているというのが現状だ。

そんなシステムががちがちにできあがってしまったなかで、「ラジオスターレストランへようこそ」のように、シナリオ書きからイラスト、音楽、演出まで、科学館の自前のスタッフで制作するということは、異例のことだった。当然、風当たりも強くならざるを得ない。最終的には、作品は科学館サイドの人材で制作し、実際の組み込みをプラネタリウム機器製作会社と共同で行うという変則的スタイルをとった。その結果、いままでの作品とはひと味違う作品が誕生した。

やればできるのだが、やらなくてはできない。風当たりを恐れて尻込みする人の多いなか、こんなチャンスをつくってくれた真理子さんに感謝である。がんじがらめになったシステムのなかで、新しい風を起こそうと戦う真理子さんにエールを送りたい。

▼プラネタリウムへの提案
いったい、一年でどれだけのプラネタリウム作品が全国で制作されているのだろう。そして、その館だけの上映で消えていっているのだろう。

たとえば、せめて同じ仕様の4館で合同で制作したらどうだろう。各館が、一年に一作を制作担当する。その作品を、春夏秋冬各館で持ち回りでかければ、どの館も一年に4作をかけられるわけだ。そうすれば、ひとつの作品に4館分の制作費をつぎこむことができる。一作あたりの制作費は4倍になり、制作にかけられる時間も4倍になる。もっときめ細かな、グレードの高い作品制作が可能になるはずだ。自分の館で制作した作品が見劣りするようでは問題だから、よりよい作品を作ろうとする競争も生まれるだろう。そうやって、プラネタリウムでかかる作品の質をあげることはできないだろうか。そうすれば、映画のようにもっと一般の人々が興味を持ってきてくれるような作品も、可能になるのではないか。

今回、わたしたちスタッフははじめての制作だった。それで、あれだけの成果をあげられたのだ。経験を積めば、時間をかけられば、きっとよりよい作品が生まれるに違いない。

競争がなく、ローテーションでつくりさえすればいいような状況では、どうしてもマンネリ化はまぬがれない。プラネタリウムという、他では味わえない体感的メディアをより活用するためにも、そのような複数館での合同制作や、映像の持ち回りができるようにしてほしいと思う。


帰りは恒例の「ほったらかし温泉」へ。帰りの鈍行列車の中では、わたしが持参した手作りパンとスモークチキン、ワインとチーズで酒盛りをした。初対面でいきなり「ハダカのつきあい」をさせられ、挙げ句に列車の中で酒盛りまでさせられて、高橋さんと斎藤さんは、さぞ驚かれたことだろう。温泉までつきあわせてしまった真理子さんに、感謝!----- --------

■ 7 Jan 2003 松田権六 図案と作品展


▼カラスの行水
昨年から行きたかった「松田権六 図案と作品展」を北の丸公園にある近代美術館工芸館に見に行った。わたしは、箱フェチで、なかでも漆塗りの螺鈿細工の箱と、象眼細工の箱が好きでたまらない。この展覧会にを見たかったのも、そんな箱を存分に見られるのではという期待があったからだ。

九段下から人気のない北の丸公園を歩いて突っ切っていくと、カラスの群れがせせらぎで水浴びをしているのに出会った。水しぶきがきらきらと光りながら散って美しい。カメラを構えようとすると、もう水からあがってしまう。ああ、これが噂に名高い「カラスの行水」なのだと納得。つややかな「カラスの濡れ羽色」も堪能して、思わぬ収穫だった。

▼松田権六 図案と作品展
松田権六は1896(明治29年)金沢市に生まれ、8歳の頃より漆芸の手ほどきを兄より受けてこの道に入ったという。東京美術学校のそれぞれ漆工科を経て活躍し、日本漆芸界の巨匠と呼ばれるまでになった。1986年に90歳で没するまで、旺盛な創作活動をしたした人だ。今回の展覧会は「図案と作品」と題されているように、松田権六の図案帳や、下絵とその完成品などが連続的に展示されていた。

「一日一枚、必ず図案を描け」といい、晩年に至るまで、自らもそれを実行していたという松田権六。その手帳には、びっしりと図案が描かれていた。その図案も、単に頭で捏造するものではなく、同じ物を描くときにも、何度でも繰り返し植物や動物の現物にあたったという。なにかを作り出す前に、しっかりと「見る」こと。その大切さを思い知らされる。一見、抽象化された鳥や植物も、そうやってみれば、実はしっかりとした観察に基づいており、だからこそ抽象化された時にも絵空事にならない迫力を持っているのだと、その作品を見てつくづく思った。

その図案の確かさだけではなく、漆芸の技巧の精妙さにも舌を巻く。精緻なのだ。その精緻さを極めたところで、作品は「工芸品」を超えて、「芸術作品」の領域に足を踏み込んでいる。

よき技を持った工芸品がすべてよき芸術作品であるというわけではない。むしろ、工芸の技を極めることに淫してしまい、へたをすると過剰になりがちだ。

しかし、その確かな技を確かに使いながら「表現」に奉仕させたとき、そこに驚くべきものが生まれる。松田権六の作品は、そんな作品だ。

▼「技」と「芸」
松田権六の作品を見て、至福の喜びを感じながら思った。わたしは、どうしても「工芸」に傾いた作品が好きなのだと。確かな驚くべき技術に裏打ちされた作品。それでいて、技術にだけ淫してしまわないで、そこを突き抜けて表現に至っている作品を愛するのだと。

「技術」があって「芸術」がある。その両方がわたしは欲しい。「技術」だけがあって「芸術」に欠ける作品は品がないし、「技術」がないのに「芸術」ぶっている作品は愚劣だ。現代美術の作品には、後者が多い。

昨年の夏の代18回東川国際写真フェスティバルでの受賞作品のなかで、わたしがことに森村泰昌の仕事を高く評価する一因も、彼のあの過剰なまでにひたむきな技術への情熱が心地よいからだ。いや、情熱だけではない、それをきちんと形に結晶させているところが。そして、技が突き抜けて芸術に粋に突入しているところが。

▼伊福部昭のアトリエ
そういえば、作曲家伊福部昭の私邸は、美しい技でつくられたもので溢れていた。いつか、その由来をひとつひとつ聞いてみたい。美しい物たちの背後に、どんな物語が浮かびあがってくるだろうか。

■ 6 Jan 2003 ノイの夢


▼怠惰な正月
昨年し残した仕事をぼちぼちとしているうちに、お正月が過ぎていく。安東ウメ子ライブの決算報告書やウメ子さんに送る写真選びなどだ。運営上ちょっとしたつまずきがあって、ライブの後始末をすることが気が重いことになり、どうしても手が着かなかったのだ。やってしまえば、気持もすっきりする。

▼ノイの夢
去年は漆の屠蘇器の隣りに、ノイが置物のようにちょこんと座っていたのに……。

今年になって、ノイの夢はもう3度見た。最初の夢は、ノイが死にそうになっている夢。ぐったりとして体温が下がっていくので、わたしの母が流しでノイをお湯に浸けて温めようとしている。しかし、湯沸かし器の調子が悪く、いくら待ってもお湯が温かくならない。これでは却ってノイが冷たくなってしまうとあわて、途方に暮れてずぶ濡れのノイを抱きしめるという夢だった。

次の夢では、ノイは生きていた。生き返ったのだ。元気な頃のように丸々と太っている。けれども、よく見ればお腹の膨らみ方がおかしい。腫れているような膨らみ方だ。万全というわけではないらしいが、ともかく生き返ってくれたのがうれしかった。確かに死んだのに、死後硬直までしたのに、それでも生き返るときは生き返るのだと、わたしは驚きながらノイのお腹を撫でていた。

その次の夢で、ノイはまた死にかけていた。「オーオー」とお腹の底から苦しがるような声で鳴いていて、わたしは必死でノイの脇腹や背中をこすりつづけた。それでも苦しさは去らず、あまりにつらそうなのがかわいそうで、泣きながら目が覚めた。

ノイ、ノイ。どこにいるんだろう。どこにもいない。だからもう、苦しくないよね、ノイ。


「ノイちゃんは、最後は苦しかったけれど、それより元気で楽しい時間の方がずっと長かった。苦しがったのは、亡くなる前だけだったでしょう。苦しかったことより、たくさんの、元気な時間を過ごしたことを思い出してあげたらいい。そうでしょう?」
確かにそう。そうだけれど、あの苦しそうなノイの姿が目に焼きついて離れない。

■ 2 Jan 2003 星の谷の水琴窟



昨日に引き続き、天気がいい。きょうは、少し遠出をして、座間の鈴鹿明神まで自転車で走った。座間までいくと、丹沢山系がぐっと近づく。陸橋の上から、しばし夕暮れの丹沢を望む。雪をいただいて、きれいだ。


鈴鹿明神もまた賑わっていた。帰り路、星の谷にある星谷寺に寄る。だれもいない。真昼でも星を映すという井戸の底には水が光り、そのそばにしつらえられた水琴窟が、美しくも玄妙な音色をたてていた。

■ 1 Jan 2003 手打ちの年越しうどん


▼手作り石鹸
大晦日。ノイの看病をして過ごすつもりだったので、大晦日からお正月にあっけて、なんのイメージも持っていなかった。家にいると、ノイの不在が堪える。ほんとうに、あんな小さな生き物なのに、いないと大きな空隙が生まれたように感じる。ノイの占めていた空間は、驚くほど大きかった。

いまさらながらし残した仕事をしようかと思ったが、結局その気になれず、家にいると気が塞ぐので、気になっていた「石鹸づくり」の材料を買いに自転車で町田へいった。

わたしは子どもの頃から肌が弱く、香料の強い石鹸で体を洗うと、湯上がりには肌が赤白のまだら模様になってしまう。かさついたり痒くなったりもする。ところが、ヴィレッッジ・ヴァンガードという雑貨店兼書店で、オリーブオイル100パーセントの石鹸を見つけて以来、それを使ってとても具合が良くなった。しかし、町田のその店は撤退してしまったのだ。以来、石鹸の調達には不自由している。オリーブオイル石鹸は質はいいのだけれど、高いという難点もある。一個五百円から八百円もするのだ。

石鹸に限らない。製造業と流通に依存した消費生活を送っていると、ある日お気に入りのものが忽然と消えてしまうという恐怖を抱えなければならない。わたしは妙に神経質なところがあって、お気に入りのものが見つかると、それを必ず確保したいと思う。あれこれ試したい、という質ではなく、それだけをずっと使っていたい人間なのだ。石鹸に関してもそうで、いつもあきれるほど買い置きをして、それでも不安は拭えなかった。

そんなわけだから、書店で手作り石鹸の本を発見してから、いつか自分の手で作りたいと思っていた。自分で作れるとなれば、もう調達の心配もしなくていい。お気に入りのレシピを見つけることだってできる。安いオリーブオイルを見つけた時には、まとめ買いをしたりと、ぼちぼちと材料を集めていたのだが、なかなか手に入らない素材もある。ココナツオイルは南町田の食材店カルディで手に入ったのだが、パーム油が、赤いものしか手に入らなかった。厳密な秤も必要だ。そんなわけで、町田の成城石井と東急ハンズに足りないものを調達にいった。いくつかの薬局を歩いても手に入らなかった苛性ソーダは、灯台もと暗しで、なんと一番近い量販店の薬局で入手でき、材料はこれでひと揃いした。お正月、ゆったりした時間が持てたら、石鹸づくりを試みよう。

▼年越しの手打ちうどん
買い物に行く前に、讃岐うどんのタネを捏ね機に仕込んで寝かせておいた。買い物から帰りがけに、なじみの写真店ポエムの前を通ると、オーナーの浦野さんがまだひとりで掃除をしていたので「年越しうどんを食べに来ない?」と誘ってから家に戻った。ノイ不在のがらんとした家が嫌で、やっぱり誰かを呼びたいのだ。浦野さんには、ずいぶんたくさんのノイの写真を現像してもらったという経緯もある。できあがった写真を渡してくれるときに、浦野さんはいつも一言、なにか素敵なことを――わたしがうれしくなるようなことを――いってくれる。ノイのことも、ずいぶんほめてもらったように思う。

相棒といっしょにうどん粉と悪戦苦闘しているうちに、浦野さん登場。、浦野さんは苦笑しながら、本を見て格闘しているわれらの有様を泰然自若と見守ってくれた。とりあえず、蒲鉾や生春巻きを前菜にして待ってもらい、できあがったのはそろそろ午前0時に近づいた頃だった。

パスタマシンを使ってはじめてのうどん。どきどきだったが、茹でて水にさらすと、みるみる半透明に透き通ってきて、心持ち黄色いきれいな色になり、期待が高まる。「ぶっかけ」で食べることにして、水で締めたうどんにだしをかけ、大根おろし、すった生姜、柚の果汁と刻んだ皮をあしらって食べる。おいしい。コシがあって、まるで讃岐の町のうどん屋で食べているようだ! これでもう、わざわざ讃岐まで行かなくてもおいしいうどんが食べられるようになった! 浦野さんも大満足。

▼縄文の夢
子どもの頃、いつの時代に生まれたいかと聞かれると「原始時代がいい」と答えていた。イメージしていたのは、縄文時代。すべてを自分たちの手で作って暮らすことに、わたしは強い憧れがある。このまま突き進むと、わたしはどこへ向かうのだろうか?

▼紅白歌合戦
うどんを作っているときに、紅白歌合戦なるものをラジオで聴いてみた。中森明菜の歌があんまりうまいのに感激。以前より確実に上手になっている。彼女、人生いろいろあったみたいだけど、こうやって歌えてほんとうによかったと思う。あの不器用さ、ダメさを見ていると、他人事に思えない。そして、その復活ぶりをみると、勇気が湧く。

中島みゆきの歌声が聴こえてきたときには、思わずテレビのある部屋に走っていった。黒部ダムの地下トンネルでの演奏。トンネルの向こうから、じりじりと歩いてくる。途中、まっかな天鵞絨の上着を脱ぎ捨てると、白い肩をむきだしにしてそのうでをしなやかに宙に舞わせた。文句なしにかっこいい。思わず高揚してしまった。歌は、プロジェクトXの「地上の星」。美しい歌だ。

美しいもの、いいものを見ると高揚する。そして、わたしももっと美しいものを生みだしたいと心から思う。紅白のはしゃぎぶりは見苦しくてわたしにはたえられないけれど、中森明菜と中島みゆきを聴けたのは収穫だった。来年は、わたしももっと作品を書こう。生きているうちしか、作品は書けないのだから。

■ 1 Jan 2003 初詣のはしごで知る信心深い日本人の姿


▼一年の計
大晦日から元旦にかけて、ずるずると夜明けまで起きてしまい、目が覚めたら午後3時だった。一年の計は元旦にあり、というから、こんなことではいけないと思うのだが、だからなんとかしようという気力が湧かない。ノイの不在ということが霧のように頭を覆い、お腹に力が入らない。

▼初詣のはしご
とはいえ、茫然と部屋にへたりこんでいても仕方ないと思い、自転車で初詣に出かけることにした。正月の東京は、空気が美しい。自転車に乗って走っても、物の見え方が違う。すべてはくっきりとして輪郭がはっきりしている。

はじめに行ったのは町田の天満宮。毎月1日に開かれる骨董市にしか行ったことがなかったのだが、行ってみて驚いた。天満宮に続く跨線橋までぎっしりと人が並び、橋の向こうまでまだ人がいる。日本人は、なんと信心深いのだろう。いや、信心というのとは違うのだろうが、やはり心の底に深く根付いた何かがあるのだと、改めて驚いた。

信心深くないわたしと相棒は、並ぶのが大嫌いなので、遠くから手を合わせて近くの鹿島神社へ初詣のはしご。しかし、ここにも行列ができていたので、さらに小田急相模原まで走り、二宮神社へ。ここも天満宮ほどでないにしてもいっぱいだった。普段は西欧化して見える町のなかに、これだけ根強く「日本」が残っていることに驚く。

羊のように黙って並ぶ人の群れを見ながら考えた。昭和天皇崩御のとき、日本全体が一糸乱れぬといった風情で喪に服したことは記憶に新しい。完全に交通規制された高速道路。そこをしずしずと進む宮中の車とそれを護衛する車を見たとき、わたしは自分が生きてきた国の真実の姿を見て驚かずにはいられなかった。どんなに民主化されたといっても、ひと皮向けば信仰のように皇室を慕う心がある。もし、戦争が起こったら、この国はどうなるのだろう。みんな、お国のため、家族のために、喜んで戦いに行くのだろうか。

▼大吉と綿菓子
最後に、家から一番近い報徳二宮神社へいってみた。もう日も暮れていたせいか人も少なく、やっとお参りできた。おみくじを求めると、大吉。午後3時まで寝ていたのに、神さまはずいぶんやさしい。戻ろうと自転車に乗ろうとしたところ、暗がりから人に呼びとめられる。発電機を車に積むのを手伝ってくれという露店の綿菓子屋のおじさんだった。
「降ろすのはひとりでできるんだけどね、乗せるのが重くて」
相棒が手伝うと、お礼にと綿菓子をふたつもらった。年の初めから、なんだか縁起がいい。世界は、こんなささやかなことで、わたしを慰めてくれようとしているのかもしれない。

▼2002年12月の時の破片へ


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