■30 Dec 2002 犬のメイはノイの匂いを嗅いで歩いた
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クリスマスの夜にノイが逝ってからというもの、家のなかが妙にがらんとしている。こんなときは、そのがらんどうの空間に身を置いてノイの不在を噛みしめるべきなのに、わたしにはそれができない。ご近所の万里子さんご夫妻に「ジョリマムで忘年会なんだけど……」と誘われたとき、思わず「わたしの家に来ない?」と誘ってしまった。
万里子さんは、千葉大附属中学の一年上の先輩。家も近かった。学校を卒業してから、互いに何の交流もなかったのだが、今年の夏に偶然再会することになった。ほんとうに偶然、共通の飲み友だちがいることが発覚、その人を通じて、互いがすぐそばに住んでいることを知ったのだ。ほんとに、我が家からほんの50歩のところだった。
再会する以前から、犬を散歩させて歩く少女のような万里子さんの姿はよく見かけて、なぜか気になっていた。すれ違うたびに、どうしても心のどこかにひっかかって、振り向いて見てしまうのだ。きっと、どこかに記憶があったからだろう。
万里子さんも、わたしのことは認知していた。キックボードで疾走するおかしな女がいる、とご主人と話題にしていたという。
夏に再会した万里子さんの腕には、ダックスフンドのメイちゃんがおとなしく抱かれていた。6年前に亡くなったわが家の猫の名もメイだった。犬と猫という違いこそあれ、わたしはそこに、どうしても亡くなった猫のメイの面影を見てしまうのだった。
そしてきょう、犬のメイちゃんは万里子さんの腕から降りて、部屋のあちこちを鼻をくんくんいわせながら歩き回った。ノイがいたあたりは、念入りに嗅いでまわる。その姿がとても好ましい。家のなかに、なにか生き物の気配がするということ。こちらが気にしていてもいなくても、そこにいて自律的に動いたり眠ったりしているということ。その喜びの大きさを、改めて知った夜になった。
急に思い立って万里子さんたちを招いたので、お料理に手間取って、なかなか椅子にすわってじっくり話す時間がなかった。やっと席に着けたかと思ったら、もう十二時。みんなが「そろそろ」と席を立ってしまってがっくり。こんど宴会をするときは、もっと席に座っていられるよう算段しよう。
▼孤独力がない
それにしても、孤独に耐えられない軟弱なわたしである。こういうのを「孤独力がない」というらしい。
■28 Dec 2002 東林間 グリム書房へ
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ノイ不在の家にじっとしていられない。遅れ遅れになっていた約束の本を届けることを思い出し、東林間の「グリム書房」に出かけた。ご主人は古書展に出かけられていなかったけれど、奥さまが話し相手になってくれた。ノイの闘病中、掲示板で励ましてくださったことも記憶に新しい。奥さまもやはり猫好きで、猫の話が尽きない。
本が大好きという少女がそのお母さんといっしょに来店していた。特に動物の出てくる物語が好きだという。家では、アヒルや犬や兎や、たくさんの動物を飼っているそうだ。本だけのヴァーチャルな世界ではなく、実物が好きだというところが好ましい。わたしがこの子の年には、犬も猫も怖くて触れなかった。親類の家の階段にでっぷりとした猫が座っていると、それだけで通れなくなって二階から降りられないような子だった。それがすっかり変わったのは、メイとノイと暮らすようになってからだ。メイとノイに出会えてよかった。それで、世界がずいぶん変わった。世界はよそよそしいところではなく、ずっとやさしい場所になった。
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閉店間際までいて、グリムを出てからもしばらく街をほっつき歩いてしまった。ノイのいない家に帰るのが怖いのだ。友人夫婦は、2年間泣き暮らしたというから、まだまだずっと悲しみが続くのだろう。
■27 Dec 2002 ノイの出棺
▼ノイの出棺
きょう、ノイの出棺をした。クリスマスの日の夜明け、ノイは声をあげてわたしを起こし、すでによろめいていた足で歩いて、枕の脇に寄り添うように寝た。背中を撫でてやっているうちに激しい痙攣の発作を起こし、それから丸一日、何度も発作を繰り返した果てに、見るも無惨なほど激しく吐いて他界した。最期に苦しい思いをさせて、ほんとうにかわいそうなことをした。あまりの苦痛を目の当たりにすると、息を引き取ることがむしろ救いに思える。苦しむノイを見て、わたしは夜が明けたら安楽死のために獣医を呼ぼうと思っていた。結局、ノイはその前に自分で逝ってしまったのだ。
ノイが息を引き取って嵐のように哀しかったけれど、同時に苦痛から解放されてよかったね、と声をかけてやりたくなった。わたしにそう感じさせてくれるほど、ノイは十二分に戦いきったということだ。それでいて、わたしに安楽死をさせたという重荷を背負わせることもなかった。最期まで、なんと健気な子だっただろう。ノイはついに、その生涯で一度もわたしを傷つけたり苦しめたりすることはなかった。わたしを怒らせることさえなかった。
ノイが息を引き取ってから眠り、目覚め、共に夜を過ごして、目覚めてからノイを連れていくことにした。いつも寝ていたお気に入りの籠に寝かせてやり、雉トラの毛並みによく似合うお気に入りの毛布をかけ、腕に抱いて家を出た。ノイが大好きだった透明ボールもいっしょに籠にいれてやった。
出るときは、悲しかった。遺体はノイじゃない。元ノイでしかないのに、それでもやっぱり他にノイはいないから、それがノイとしか思えない。そのノイが、もう二度とここに戻って来ないのかと思うと、泣けて泣けてならなかった。どんなお葬式でも、出棺はほんとうにつらい。
▼「ハセ川はく製」
行く先は経堂。車がないので電車でいった。向かいの席のおじいさんとおばあさんが、不思議そうにこっちを見て話しているのが聞こえた。「赤ちゃんかしら?」「いや、それなら毛布でふさがないだろう」 わたしは手袋をはずし、毛布の間からそっと手を入れ、ノイを撫でていた。
ノイを連れていったのは「ハセ川はく製」という小さな剥製店だ。剥製にするわけではない。そこで、きれいな白いお骨にしてもらう。メイの時もそうしてもらった。
ここのおじさんは不思議な人だ。この世とあの世の境目にいる、やさしい守人のような雰囲気を持っている。この人にならノイを任せられる、と感じさせてくれる。メイの遺骸を預けたときも、そう感じた。
メイの時は、別れがたくて夏だというのに7日間も保冷剤を敷いていっしょに添い寝をして、挙げ句に元伴侶に電話で叱りとばされて、いくつか電話をかけた末に「ハセ川はく製」へと連れていった。電話の声だけで、この人になら預けられると感じたのだ。会ってみて、ますます安心して預けられると思った。わたしはほんとうは博物館の標本みたいな骨格標本にしてほしかったのだが(狂ってる!)さすがにそれは無理だといわれ、ただお骨にしてもらうことにした。
剥製なんて嫌いだと思っていた。ちっともステキじゃない。不自然だし、かわいくない。ニューヨークの自然史博物館で大量の剥製を見たときも、そう思った。
しかし「ハセ川はく製」の小さな応接室に並んだ剥製たちを見ておどろいた。小さな小鳥でさえ、表情がある。タヌキやイノシシたちは、ぬいぐるみのようにかわいい。確かに生きてはいない。けれど、そこには別の新しい命が宿っているように感じられた。こんなにかわいいなら、剥製を考えてもよかったと思われるほどだった。しかし、亡くなって7日も経ってしまってはもう無理だとのこと。そうか、とあきらめ、またあきらめがついたことで却ってほっとしたりもした。
ノイの遺体を撫でていると、この感触が失われるのはたまらないと思う。小さな頭を掌に包んでいると、この小ささを、ほのかな重さを忘れたくないと思う。たった一晩しか家に置かず、ここへ連れてきたのは「もしかしたら剥製に」という気持ちがどこかにあり、それが可能なうちに運び込みたい、という思いもあったからだ。そうは思っても、いざとなるとやっぱり、踏ん切りが着かない。さんざん迷った挙げ句、ノイはやはり、お骨にしてもらうことにした。
ノイのお骨は、メイと同じように家に置いて、わたしが死んだとき、いっしょに葬ってもらおう。
▼哀しみという喜び
ノイの遺骸がなくなってしまったので、家の中はからっぽだ。戻ってきても、もうノイはいない。いなくても呼んでしまう。「ノイちゃーん、ただいま」と。そして、いないとわかっているノイを探してしまう。ノイのいない家に帰るのが怖い。
こんなに悲しいのは、愛していたからで、もし、野良猫が死んでいるのを見ても、かわいそうだとは思っても、こんなにつらくはないと思う。しかも、ノイもわたしを求めてくれた。求められていたから、ノイの不在が堪えるのだ。一方通行ではなかった。つまり、そこに互いに交流する何かがあったから、悲しみが生じる。そう思いたい。
お釈迦さまは、愛別離苦からの解脱だといって、涅槃の境地を求めた。かつて、ほんとうに苦しかったとき、わたしも涅槃の境地が得られたら、どんなにいいだろうかと思ったこともある。でも、いまは違う。涅槃なんかいらない。自分の奥底からマグマのように湧きあがってくる感情。時々耳の奥で嵐がびゅうびゅうと吹きすさぶような痛み。そんなふうに「痛み」を感じられることが、むしろいまはうれしい。それは、それだけノイを好きだったということだから。それだけ大切なものがわたしにはあったということだから。そこまで愛せたということだから。つらかった時「悲しみや痛みさえ、この地上では輝く」とか「痛みを味わおう。それが生きているという証だから」という言葉にすがろうとした。けれど、いくらお題目のように唱えてみても、どうしても実感をして感じられなかった。いまは心からそう思う。ノイ、ありがとう。ノイ、こんなに愛させてくれて。だから、こんなに純粋に悲しいんだよね。ね、ノイ。