▲2003年03月の時の破片へ


■17 Feb 2003 「楽園の鳥」加筆 ようやくエンジン始動


昨年4月13日に無事最終回を迎えた新聞連載小説「楽園の鳥」。加筆するするといって、手もつけていなかった。いや、どうしても手がつかなかったのだ。出版社の人も待っていてくれたというのに。

その加筆に、昨日からようやく手をつけることができた。実際にあの作品を書き上げたのは、去年の2月だから、結局のところ、丸一年の空白ができてしまったわけだ。

門坂流画伯が、高樹のぶ子が書いた朝日新聞の「百年の預言」の挿画を手がけたとき、終了後一年間は、仕事ができなかったという。挿画の巡回展などに追われていたということもあったけれど、精根尽きてへとへとだった、ということも聞いている。

わたしは、そんなことないと思っていた。連載中はすごく元気で余裕もあり、月に2回以上はみんなを呼んでホームパーティを開いていたし、マダガスカルに日蝕を見にいくことさえできた。へとへとになんか、なるはずないと思っていた。確かに、へとへとというのとは違ったかもしれない。でも、書き直しに手をつけられなかった。

連載の13カ月半は短いと感じられた。もっと書きたいと思ったくらいだ。原稿に詰まるなんていうこともなく、だから穴を開けるなんていう心配もなかったけれど、やっぱり、一回でも原稿を落とせないという重圧は、どこかにあったかもしれない。

そして、何よりあの作品は自分と向き合わなければ書けない作品だった。わたしは、自分の心の深いところに降りてゆき、その弱さ、情けなさと、とことんつきあった。自分自身の心の深いところと丸一年以上も休みなく向き合い続ける。それは、心の仕事としてかなり大きく重いものだったらしい。

加筆するというのは、それともう一度向き合うことだ。この一年、わたしにはその勇気がなかった。正面切って自分自身と向き合うことができなかったのだ。

他の仕事はした。ある意味、精力的といっていいほどに。生まれてはじめて、自分で絵を描いた『星の魚』もつくったし、『父は空 母は大地 対訳版』のインディアンの岩絵も、わたしが自分でアリゾナの資料から起こしたものだ。懸案だった『青いナムジル』も完成させることができた。北海道から安東ウメ子さんを招いて、はじめてコンサート企画もした。

それはそれで、確かにわたしの仕事の本道だ。意義ある仕事だという自負はあるけれど、けれどもどこかで負い目を感じ続けてきた。「楽園の鳥」(=自分自身)に向き合っていないという負い目を。

ダメで情けない「わたし」(=「楽園の鳥」)という存在を置き去りにして、「先住民文化」だとか「環境問題」だとか、偉そうなことをいう資格があるだろうか。そんな気がしていたのだ。

そうやって逃げていた「楽園の鳥」に、やっと向き合うことができた。うれしい。

あんなに怖がっていたのに、向き合ってみれば楽しい。新聞連載では字数制限があって、どうしても書ききれないことがあった。一回一回である程度のまとまりをつける必要もあるから、うまく強弱がつけにくいところもあった。それが、加筆では自由なのだ。作品に対するまったくの自由が、わたしの手中にあるのだ。

物語の内容だけではない。言葉のリズムだってそうだ。繰り返したい、そう思っても、繰り返せないことがあった。連載延長を頼みこむほど書きたいことがあったから、リズムや調べを優先して字数を増やしてしまうことができなかったのだ。

今回はそれが存分にできる。言葉は、意味だけでできていない。言葉は、音楽だ。リズムと旋律だ。そうやって、調べにのって流れてくる意味にこそ、宿る生命がある。

書き直すことで、言葉が、まるで水を吸った草のようにいきいきと立ちあがるのがわかる。

ほんとうは「短くしてほしい」という某編集部の依頼だった。しかし、いまのところ加筆の内容は、文字が増える方向にしか働いていない。まだ2日目だから、千里の道の一歩目なわけで、全編この調子というわけじゃあないだろうけれど、先行きちょっと不安になってきた。メリハリがついて、言葉が生きてくれば、却ってばっさりと削れるところも出てくるかもしれない。

でも、やってみなければわからない。ぜいたくでわがままだけれど、ともかくこの作品にとっていちばんしあわせな形に書き直したい。枚数制限や、売れる売れないじゃなくて。

それじゃ、編集者に受けいれてもらえないだろうか。

まあいいや。挫折したら、その時また考えればいい。いまは、いちばんいい形に書き直すことだけを考えよう。

■11 Feb 2003 小さな星の爆弾


フレーベル館から頼まれていた「キンダーブックの年少版7月号」のための「3歳児向けの宇宙を舞台にしたお話」の原稿を書く。

編集者は最初、国際宇宙ステーションのように「宇宙へ行ってなにかする」というお話をイメージしていたらしいけれど、スペース・シャトル「コロンビア号」の事故があったばかりなので、生々しくて「宇宙船モノ」にはしたくなかった。いや、もともと宇宙船モノっていう気分じゃなかったのだ。よく絵本に出てくるような子ども向けのチープなSFじゃなくて、夢と現が自然に溶け合うような、そんな世界にしたかった。

「天文写真を使いましょう!」と提案したのは、わたし。おどろくべききれいな世界が、そこにはある。3歳児に、そのほんとうの意味がわからなくても、星空の彼方に、なんだかとってもきれいですてきなものがあるとイメージしてもらえたらいい。

全部で5画面しかないし、7月号だから夏の星座に限定される。いろいろ考えて、次の写真を使うアイデアを出した。

▼星の日周運動の写真
星がぐるぐる回って、回転木馬のイメージになる
▼遠方の銀河団の写真
きらきらとイルミネーション輝く夜の遊園地のイメージ
▼土星の輪
氷の永久滑り台のイメージ
▼白鳥座 網状星雲の写真
虹色の綿菓子のイメージ
▼ペルセウス座流星群の写真
流れ星にのって帰還

星の木馬にさそわれて、星の遊園地に遊ぶという他愛ないお話だけど、イラストときれいな写真を組み合わせて面白い効果がでれば、きっといいものになると思う。

美しい写真は、子どもの心に強い印象を刻むだろう。その時はわからなくてもいい。ずっとずっと後になって、同じような写真を見たとき、妙になつかしい気持になったり、宇宙に興味を持ったりしてくれたらうれしい。いつか、花火のように炸裂する小さな星の爆弾を、子どもたちの心に仕掛けたい。

■ 9 Feb 2003 薔薇色に輝くKくんのほっぺた



Kくんのことがずっと気がかりだった。クリスマスの頃、生体肝移植を受けた京大病院から退院して町田の家に戻ってきてからというもの、まだ顔を見ていない。自家製の大きなパン・ド・カンパーニュをおみやげに、相棒といっしょに自転車で会いに行った。

最後に会ったのは、去年の10月の終わり。Kくんが京大病院に入院する前日のことだった。それからまだ3カ月しか経っていないのに、Kくんは見違えるように元気だ。あの時は黒かった顔色も、いまではほんのりピンクに輝き、落ちそうなくらいたっぷりと太ったほっぺたがやわらかな弾力をたたえている。言われなければ、生体肝移植などという大手術を受けた赤ちゃんには、とても見えない。赤ちゃんの生命力はすごい。

Kくんのお腹のなかで、お父さんにもらった肝臓がいっしょうけんめい働いているのだと思うと、不思議な感慨に打たれる。

Kくんは、決まった時間に免疫抑制剤や強肝剤のお薬を飲まなければならない。注射器で口に入れられた薬を、Kくんは嫌がりもせずに飲む。「おいしくしてあるの?」ときくと、サチコさんは「ううん。ひどい味。エグいの。Kくん、慣れてくれたの。えらいわ」という。ノイの看病の日々、同じように注射器でご飯を食べさせたり、薬をのませた日々が心に甦った。


一週間ほど前、Kくんの肝機能が低下したと聞いて、心配していたが、もう回復したという。風邪薬がいけなかったとのこと。それを発見したのは、サチコさん自身だった。

「風邪薬じゃありませんかって、かかりつけのお医者さんに聞いたんだけど、あれは副作用のない薬だから、関係ないでしょうって。それでも、心配で心配で、このままじゃ劇症肝炎になっちゃうんじゃないか、免疫反応が出たんじゃないかって、たまらない気持になって京都大学に電話したら、すぐにいらっしゃいっていうのよ。それで、日帰りで検査を受けにいったんだけど、そのばたばたで、うっかり風邪薬を飲ますのを忘れた日があったのね。Kくんの血液検査表をよく見たら、その日だけ肝機能の数字がよくなってるじゃない。やっぱり風邪薬かなあって」

京大で相談すると「確かにその風邪薬は副作用の少ないもので、うちでも処方していますけれど『絶対』ってことはない。試しに、3日間風邪薬を完全に抜いて、検査してごらんなさい」といわれたそうだ。そうしてみたところが、Kくんの肝機能は見事に回復した。

体には個人差がある。いくらそれが定説でも「絶対」はありえない。ノイの時も、近所のお医者が「絶対副作用はない」というので強く勧められるままに抗生物質を打ち続けたが、結局、それがノイの調子をひどく悪くした。医者が休みの日に一日注射を抜いただけで、ノイの吐き気も毛の逆立ちも、すっかり収ったのだ。それからはもう、抗生物質を打たなかった。そのせいか、ノイは機嫌良くごろごろと喉さえ鳴らしていた。

言葉がしゃべれない赤ちゃんや動物の看病をするとき、大切なのはやはりそばにいる人の注意深い観察だ。医師を信用することも大切だろうが、だからといってすべてを任せて医者のいいなりになっていたのではいけない。納得がいかなければ、サチコさんのようにセカンド・オピニオンを求めることも必要なのだ。

ノイには、もっとよくしてやればよかった。一人の医者のいうことを鵜呑みにしないで、セカンド・オピニオンを求めるべきだったと後悔する。いくら後悔しても仕方ない。この体験を、これからの人生に生かすことで、ノイに報いたい。

諦めずに、誰かに預けてしまわずに、とことん食い下がるサチコさんはえらい。注意深くKくんを見守る眼差しは菩薩だ。Kくんは、サチコさん夫妻のところに生まれてしあわせ者だ。


それにしても、赤ん坊の笑顔の威力はすごい。Kくんの顔を見て、心の重荷がひとつ、はずれたような気がした。励ましに行くつもりで、いつも励まされてしまうわたしだ。Kくん、サチコさん、ありがとう。

■ 4 Feb 2003 郵便で送れない大切なもの


午後8時過ぎ、小林克夫さんが来る。「真理子さんに逢う会」でほろ酔いになったせいか、小林さんは、真理子さんの写真アルバムをわたしの家に忘れてしまったのだ。「郵便か宅急便で送りますよ」と電話でいったけれど「どうしても」というので、そこまでいうならと、取りに来ていただいた。真理子さんが亡くなる3日前に描いたという水仙の絵手紙もいっしょに入っていたから、気が気ではなかったのだろう。郵便なんかじゃなくて、ちゃんと自分の手で取りに来たいという小林さんの気持ちが痛いほどわかった。せっかくだからと引き留め、自家製のピザを焼き、ワインを開けた。

真理子さんは、とても愛されていたのだと思う。真理子さんの人生の最期にこんなやさしい人にそばにいてくれて、ほんとうによかった。

■ 2 Feb 2003 真理子さんに逢う会



ジャーナリストだった須藤真理子さんが癌で亡くなったのは、2000年12月27日。1958年生まれだから、42歳という若さだった。あれから、丸2年と少しになる。

きょうは、わがやで「真理子さんに逢う会」を開いた。NHKのドキュメント番組制作のため、鎌仲ひとみさんが撮りためていた生前の真理子さんのビデオが夫の小林活夫さんの手に届いたので、活夫さんと、田中彰さんをはじめ、内藤さん、渡辺喜久雄さんと、真理子さんが生前親しかった人々で集まって、真理子さんのビデオを見ることにしたのだ。


真理子さんとわたしは、ちょうど同じ頃に子宮筋腫の手術を受けた。わたしは1999年の11月、真理子さん12月だった。幸いわたしは、単なる筋腫だったが、真理子さんはくわしい検査の結果、癌だと判明した。

同じ頃同じ手術をした、ということもあったけれど、それ以前から真理子さんにはずいぶんと励まされていた。彼女自らが「アダルト・チルドンレン」として苦しみ、自助グループに通ったり、専門医にかかったりした体験から「こんな本を読んだらいいよ」「こんな自助グループがあるよ」とアドバイスをもらったりしていたのだ。

当時、わたしはほんとうに苦しんでいた。出口が見つからずにもがいていた。真理子さんに教えてもらった斎藤学氏主催のクリニックに行ったり、片っ端から本を読んだりして、必死だった。結果的に、斎藤学のクリニックはわたしには向いてなかったし、勧められた本も書店で手には取ってみたものの、どうしても違和感を感じて買えなかったこともあった。けれども、同じ苦しみを抱えた真理子さんと話すことは、どれだけ大きな救いになったことだろうか。どんな専門医よりも、本よりも、真理子さんと話すことのほうが、わたしには救いになった。彼女は、わたしの苦しみを理解してくれたし、ひとりでも理解してくれる人がいるということを知るのは、わたしが 孤独ではないと知ることだった。

あの頃、真理子さんに教えてもらった言葉がある。
O God, give us
serenity to accept what cannot be changed,
courage to change what should be changed,
and wisdom to distinguish the one from the other.
       by Reinhold Niebuhr

神よ、わたしに
変えられることを変えてゆく勇気と
変えられないものを受け容れる静かな心をください。
そして、それらを見分ける知恵をください.
by ラインホールド・ニーバー

http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/poetry/p_niebuhr.htm
この言葉は、自分自身にうんざりしていたわたしに、小さな勇気をくれた。変えられることは変えよう、そして変えられない自分自身を受け容れようと思ったのだ。


真理子さんのビデオを見ながら、この話をすると、田中彰氏が思いがけないことをいった。田中氏はいま、このニーバーの言葉を引用した本を翻訳しているというのだ。「真理ちゃん、知っていたんだ、この言葉」と田中氏は感慨深げにモニターの真理子さんを見つめた。 真理子さんが、どこかでふっと微笑んでいるような気がした。わたしたちはみんな、生と死の不思議な輪の中で踊る子どもたちなのかもしれない。


ビデオのなかの真理子さんは、闘病中とはいえ、とても元気そうだった。生きる意欲が画面からも溢れだしていた。一年もしないうちに亡くなってしまう人には、とても見えなかった。

写真整理をしていると、ノイの写真が出てくる。それを見ても、やはりそう思う。死が間近だなんて、とても思えない。そういえば、ノイは最後の最後まで、自力でトイレにいっていた。亡くなるその日も、よろめく足で、自分でトイレに入った。あの前向きな意欲はほんとうにすごい。「投げる」「あきらめる」ということをしなかった。

真理子さんが死の3日前に描いた水仙の花の絵を、活夫さんから見せてもらった。みずみずしい、心にすうっとしみこんでくるような絵だった。

どんなに病み衰えても、死は「突然」やってくるものなのかもしれない。生きてあたたかかった体が、呼吸をやめ、心臓を止め、みるみる冷たくなっていく。それは、ほんとうに一瞬のことだ。

それでも世界は一刻もその歩みを止めず、死者たちをその時点に置き去りにしたまま、巨大な鉄の車輪のように巡り続ける。

ビデオのなかで元気に語る真理子さんを見ていると、どうして彼女がここにいないのか、それが不思議に思えた。5本あったビデオを順繰りに流しっぱなしにしながら、結局7時間、ゆるゆると宴会は続いた。それは、真理子さんとともに過ごす時間のように感じられた。


生と死の輪舞のなかで、いま、わたしは生きている。死者から励まされ、生きている人から励まされ、毎日を送っている。真理子さん、きょうは勇気をありがとう。

■ 1 Feb 2003 Kくんとノイちゃん


サチコさんから電話をもらった。「ここのところ、電話もないし、いやに静かだなあ。ノイちゃん、亡くなってから、元気ないのかなあと思って」と励ましの電話だった。

サチコさんの赤ちゃんKくんが、京大病院で、お父さんから生体肝移植を受けたのは、昨年の11月のはじめのこと。ノイが具合が急速に悪くなりはじめた頃だった。Kくんは免疫反応などは出たものの、その後順調に快復、クリスマスには町田の家に戻ることができた。ちょうど、ノイが亡くなるのと入れ替わりのようにして、元気になって戻ってきたKくんだった。

「こんなふうにいったら美千子さんに悪いけれど、ノイちゃんがね、Kくんの悪いところ、全部背負って、身代わりになって旅立ってくれたような気がするの。どうしても、そんな気がしてならないの。腎臓や肝臓が悪くなって、まるでKくんと同じような症状だったでしょう。よけい、そう思えちゃう。Kくん、みんなに守られているんだなあって、ありがたい」

サチコさんにそういってもらえて、わたしはじんときてしまう。ノイの死を、そんなふうに受けとめてもらえて、わたしはうれしい。ノイの死が、だれかに希望や勇気を与えてくれたのだと思うと、悲しいけれどうれしいのだ。

Kくんは、ここのところ肝機能の数値があまりよくないという。ほんとうに落ち着くまで、感染症になりはしないか、激しい免疫反応がではしないか、毎日がはらはらしどうしだという。「毎朝、体温を測るとき、ほんとうに祈るような気持なの」

ノイが病気だったとき、わたしもそうだった。毎日、祈るような気持で検温をしていた。

サチコさんは、いまもそれが続いている。大変な気苦労だろう。わたしの方が励ましてあげなくちゃならないのに、却ってサチコさんに励まされてしまっただらしないわたしだ。

「5月になったら、みんなで葉山に行こうね。いい貸別荘をしっているの」サチコさんは、電話のたびにそういう。元気なKくんといっしょに葉山に行けることを、わたしも心待ちにしている。

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