▲2003年04月の時の破片へ


■31 Mar 2003 マミさん大阪より戻る


午後4時頃、マミさん、自力で大阪より戻る。わたしたちもマミさんも、旅行帰りでさすがに疲労している。それでも、一刻も早く写真を見たいマミさん、さくらやに写真出しにいって、夜には写真を見せてくれた。広島で泊まった山田さんのお家は、山の中の旧家。五右衛門風呂があり、庭では椎茸を栽培している。わたしも泊まりたいような素敵な場所だった。大阪の森さんのお宅は、留学生を受け入れているボランティアのお家。すでに300人ほどの人を家に泊めているという。

森さんから電話をいただき、ホームステイをさせる側の極意を伺う。なによりも無理をしないこと。サービスしすぎないこと。居候が帰った後、よかったと思えれば大成功だという。なるほど。帰った後、居候もよかったと思ってくれれば、さらに成功。さあ、どうなる?

■30 Mar 2003 巨大二段蒸し器をもらう


風邪のため休息しつつも「ブタになったイノシシ」リライトする。

ご近所のおばあちゃま横山和子さんが巨大二段蒸し器をくれた。従姉妹が亡くなって使う人がなくなった蒸し器を譲り受けたので、蒸し器がふたつになったといって、ひとつくださったのだ。さっそく、和子さんといっしょにお芋蒸しパン・餡入り蒸しパンをつくって食べる。二段蒸し器はいっぺんに12個の蒸しパンを蒸せて、とても便利。ただし、大きすぎて収納場所がたいへん。これからつくらなくては。

夜、マミさんの保証人になった勝村さんが、お米を10キロほど差し入れてくれた。田舎でつくっているお米で、毎年送ってきてくれるのだという。田舎からお米をもらったということのないわたしにとっては、なんだか夢のような話だ。去年は、東川で仮装大会の審査員をしてお米をもらったし、お米に困らないでうれしい。ありがたい。

■29 Mar 2003 風邪


風邪のため休息

■28 Mar 2003 青春18きっぶで相模大野へ


相模大野に移動
途中近鉄奈良駅からJR奈良駅まで商店街を歩く
墨屋で墨を購入
観光センターで資料収集
JR奈良13時08分 出発
相模大野22時頃 到着

■27 Mar 2003 樽井禧酔氏の漆工房


樽井禧酔氏の漆工房 訪ねる
荒井漆器店
奈良工藝館
昼食
奈良県文化会館 禧酔氏と再会
ビール・フレンチ・バーと3軒はしごでおごってもらう

■26 Mar 2003 堆朱鳳凰文様文庫・料紙箱


相棒の母上に昨日の文庫を見せると「おばあちゃんがもっと大きなのを使いよるよ」とのこと。文庫であれだけの造形だけでもすごいのに、これ以上に大きなものなどあるのだろうか、と思いながら見に行くと、ほんとうにあった。目も疑うような、すばらしい出来だ。文庫と対の堆朱鳳凰模様。大きさがあり、さらにダイナミックなデザインで、そのバランスもすばらしい。普段、おばちゃんのお習字の半紙や筆などをいれているといい、無造作に置かれている。「象谷さんや、いう人もおるけど、どうせ贋物やろ」とおばあちゃんは婉然と微笑む。もともと、骨董などにまったく興味がなく、古いものは汚いもの、という概念を持った潔癖な人だそうだ。そのおばあちゃんが、捨てずに身近に使っていたくなるほど、その堆朱の料紙箱は美しいものだった。漆は強い。ほんとうに上等なものは、長年その美しさを保ちつづける。「万が一贋物でも、これだけの細工は滅多にありません。すばらしいものですから、ぜひ大切に使ってください」とお願いしてきた。

午後、奈良に移動。生駒の横田&森口家に寄せてもらう。たんぽぽの家の山田万希生&篤子夫妻と、大阪から鳥海さんがかけつけてくれて、歓迎会を開いてくれた。感謝。

■25 Mar 2003 「象谷」発見?!


風邪のため、すべての日程を一日遅らせて、きょうは休息日にした。つもりが、離れのお茶室で寝ているうちに、むらむらしてきて、押入を探索してしまった。

木箱それ自体が虫食いにあって、ぼろぼろになっているものも多い。掛け軸などは全滅状態。茶碗などの陶器や、青銅器などは、本体は無事だ。堆朱で鳳凰を二羽刻した美しい文庫を発見。網代に漆を塗ったもので、裏に象の絵文字の銘がある。玉楮象谷の作か? 贋物やお弟子の作だとしても、これだけの出来のものはそうない。すばらしい。

■24 Mar 2003 讃岐うどんと麩まんじゅう


相棒の実家、松永家のお墓参りにいく。畑のなか、古くて巨大な墓や、お地蔵さんなどがまとまって置かれた一角がある。そこにあるすべてが、松永家の墓だ。当然、全員が親類だという。墓には古い楠があり、まん中には高柳前庵というお堂もあって、協力して管理しているという。お堂の背後には、いちばん美しい角度の讃岐富士を望むことができる。ここは、新たに町の史跡に指定されたという。古い墓というと、何かどろどろしたものを感じがちだが、瀬戸内の穏やかな気候と光の明るさ、讃岐富士の端正だけどどこか愛嬌のある山容とあいまって、ここはやけに明るくなごんだ場所だ。気持ちがいい。

町に出てうどんを食べようとすると「浦志満」というお店に「閉店サービス」という張り紙がしてあった。新しい店だし「開店サービス」の書き間違いかと思ったけれど、違った。やはり、きょうを限りで閉店だという。うどん250円がさらに半額。おいしい。こんなにおいしいのに、どうして?と思ったら、スカウトされて大阪の梅田に店を出すからだという。なるほど、讃岐うどんは、やっぱりブームなのだ。うどん打ちのおじさんが「弟子だ」と紹介してくれた人は、ふだんは競艇の選手だという。趣味で弟子入りさせてもらったそうだ。いろんな人生があるものだ。
 
寶月堂で和子さんにおみやげの「栗饅頭」を買う。旅行中、いつもノイの面倒を見てくれていた和子さんは、ここの「栗饅頭」が大好きで、ときどき取り寄せるほど。さらに「みどりや」という和菓子屋さんにはしごして「ふくふく餅」という麩まんじゅうを買った。小金井のふわっとした麩まんじゅうとは違い、もっちりとした感触だけれど、とてもおいしかった。

丸亀駅構内の画廊を偵察したが、運悪く閉店日。高松漆器を見たくて、漆器屋を探したが、これも見つからず、あきらめて戻る。

■23 Mar 2003 創世ホール「三人の怪獣王」



「竹内博講演会〜三人の怪獣王〜円谷英二、香山滋、大伴昌司」を聞きに徳島県北島町の創世ホールへ行く。創世ホールで企画運営をしている小西さんと「伊福部昭つながり」で知り合い、今回の訪徳島となった。小西さんとわたしは、もともとは北海道早来のリトさんがきっかけで知り合った。ネットは、地理的条件を無化する。

本日のゲスト池田憲章氏は、祖父寮佐吉に関する情報をもっているとのことで、会場で小西さんからご紹介していただくことになっていた。早めにつくと、図書館の入り口にはもう人がたむろしている。講演会と連動して、故大伴昌司氏の遺品を寄贈してもらったという怪獣関係の貴重な雑誌が展示され、そこが人だかりになっているのだ。単に講演だけではなく、このような企画を組み合わせる肌理の細かさがうれしい。こういう努力で、その影響はぐっと変わってくる。

展示の前で、小西さんから池田憲章氏にご紹介いただく。といっても、当の小西さんとも、きょうが初対面なのだ。池田氏から、佐吉に関する新しい情報をいただく。佐吉は、戦前、研究社の科学読本シリーズを翻訳していたという。当時の最新科学を「ポピュラー・サイエンス」などの向こうの雑誌から抜粋して翻訳・紹介するという仕事だったという。単行本で何冊もでているそうだ。鉱物特集、原子力特集、四次元特集、といったものもあったらしい。国会図書館のネット検索には未入力であがってこないが、国会図書館に行けば、カード検索で現物を見られるという。そのうち、時間を作って見に行こう。

池田氏は、また、雑誌「新青年」の森下雨村が「少年小説を書かせるなら、海野十三か寮佐吉だ」と語ったという記事をもっていらっしゃるという。すぐには出てこないので、見つけ次第ご連絡くださるとのこと。ありがたい。

その「新青年」研究会の八本正幸氏にもご紹介いただいた。祖父が「通俗科学講話」のなかで、ミンコフスキーの四次元のことを翻訳していることにふれると「もしかしたら、足穂も読んでいたかもしれない」とおっしゃっていただいた。感激。わたしに多大なる影響を与えた作家宮澤賢治と稲垣足穂のふたりが、ふたりとも祖父が手がけた本を読んでいたとしたら、うれしい。というか、めぐりめぐってわたし自身にその影響が降りかかっていることを思うと、深い感慨を覚えずにはいられない。

顔を見たこともないおじいさん。あなたの遺伝子だけではなく、純粋粒子であるミームも、わたしは確かに受け取っています。原子爆弾をいち早く予告し、戦時中、不遇のうちに亡くなったおじいさん。いま、世界は戦争中です。こんな野蛮な世界でなくなるようにはどうしたらいいのか。わたしは自分にできることを、精一杯やっていきたい。わたしは生物としては敗者で、遺伝子は残せなかったけれど、おじいさんのミームは、きっと残します。
見守っていてください。


竹内氏の講演については、レビューを参照のこと。


帰り道「小縣家」でうどんを食べた。ぎりぎりで入れてもらえてラッキー。おいしかった。

■22 Mar 2003 青春18きっぶで四国へ


結局、一睡もできなかった。寝ずに焼いた?パン・ド・カンパーニュを持参して、朝5時半に出発。ノイちゃんに「いってきます」といわないですむのが、安心でもあるが、さみしくもある。「青春18きっぷ」をつかって、普通列車で四国の丸亀へと向かう。ノイがいたら、こんなにゆっくりした旅はできなかった。心配で、行程をなるべく縮めようとしたからだ。

疲れてさえいなければ、各駅停車の旅もいい。インド大陸横断の鉄道旅行を思い出した。乗り継ぎ乗り継ぎしながら、ゴトゴトと走っているうちに、ほんとうに四国に着いてしまった。ちょうど半日の旅だった。普通列車なのに、わずか半日で四国までいけるとは驚きだ。日本は案外狭いのだと実感。こういうことを体で感じられるのも、いい。

■21 Mar 2003 出発前日 またもや徹夜


わたしたちも明日、出発だ。それまでにしておかなければならない雑事がいろいろとある。出さなければならない郵便物が間に合わず、相棒が深夜に自転車で座間郵便局まで持っていってくれた。マミさんのために借りていた自転車の鍵も、深夜に持ち主の郵便受けに入れに行ってくれた。感謝である。

■20 Mar 2003 マダガスカル民話「ブタになったイノシシ」


ステーションビルで「カメラのさくらや」がオープンした。記念セールで先着50名が電子辞書を安く買える。相棒が早起きして列に並んで買ってくれた。マミさんへの贈り物だ。これは、わたしへの贈り物でもある。マミさんが専用の電子辞書を持つことで、会話がずっとスムーズになる。サンキュー、ダーリン。

マミさんは、きょうの夜から勝村邸に泊まりにいき、明日の朝、広島へ向けて発つ予定だ。それまでに、ぜひもうひとつ物語を聞きたい。昨夜から難航していた「ネズミの兄弟」のリライトを終わらせ、またひとつ、新しい物語を聞いた。「ブタになったイノシシ」という、ブタの起源伝説だ。聞き終えたところで時間切れとなり、マミさんは勝村邸へと向かった。

■19 Mar 2003 マダガスカル民話「ネズミの兄弟」


昨晩のうちにふたつともリライトした。我ながらすごい勢いだ。物語の骨格を壊さないようにして、どうしても足りない部分を補ったりふくらましたりする書き方だから、純粋に学問的なものではない。再話と創作の中間ぐらいのものだろうか。

きょうも、新しい話を聞いた。マミさんが、マダガスカルの実家の弟さんにメールをして、マダガスカル語で送ってもらった物語だ。「でも、こんどのは面白くないです」とマミさんはいう。いいから聞かせてと頼んで、聞かせてもらうと、おかしくて思わず笑いだしてしまった。「ネズミの兄弟」という物語だ。

ケンカばかりしているネズミの兄弟が、散歩に出かけてまたケンカをし、とうとう鳥にさらわれてしまうという、ちょっと教訓じみた物語だ。しかし、そのケンカの原因がおかしい。ケンカをしないように、兄さんが先、弟が後を行くと約束をして出かけたのだが、鳥に襲われそうになったので、慌てて家に駈けもどろうと回れ右をして走り出したら、弟が先になってしまい、兄さんがかっとなったというのだ。そのままアニメが目に浮かびそうな物語だ。書きようによっては、とても楽しい物語になる。

襲ってくる鳥がなんなのか、ということを突きとめるのに、大変な時間がかかった。マミさんはさいしょ「トンビ」と訳したけれど、トンビは腐肉をあさるから、生きたネズミは襲わないのではないか、と思ったのがきっかけだった。

いろいろと話を総合し、インターネットと辞典を駆使して調べた結果「マダガスカル長元坊」と呼ばれるハヤブサの一種だということがわかった。マダガスカル語で「Hitsikitsika ヒチキチキャ」学名「Madagasucar Kestrel Falco Newtone」。マダガスカルにしか棲息しない独特の種らしい。

そういえば、きのう聞いたネズミも、木登りネズミだった。よく聞けば、手足に吸盤がついているという。これも、ちゃんと調べなければならない。

マダガスカルには、独特の動物の他にも、いろいろと変わった植物もある。バオバブもそのひとつだ。バオバブの物語が聞きたいと、マミさんにリクエストをした。短いのをひとつ、話してくれたが、ほかにもあるかもしれない。ネットで弟さんに訪ねてくれるという。

マミさんから話を聞きだすには、かなり時間がかかる。マミさんは日常会話には苦労しない程度の日本語力はあるが、物語を説明しようとすると圧倒的に語彙が足りない。マミさんの英語力は日本語力と同じくらいだから、これもむずかしい。結局、いったんフランス語にして、それを辞書をひきひき日本語に移すことになる。小泉八雲ことラフカディオ・ハーンとその妻節子も、はじめはこんなふうにコミュニケーションしたのだろうか。辞書もいまほど整ってはいなかっただろうから、さぞかし大変だっただろう。

物語は、動物の観察に基づいている。マダガスカルでは、生き物がとても身近な存在なのだろう。子どもの頃に読んだ「オクスフォード世界の民話と伝説」というシリーズでも、アフリカ編には頭抜けて動物の物語が多かった。動物を隣人や友のように語る昔話を聞いているうちに、どんどんマダガスカルが好きになってきた。

■18 Mar 2003 マダガスカル民話「イノシシとカメレオン」「イノシシとネズミ」


編集者から連絡があり、昨日リライトした「どんぐりと山猫」、そのまま使いたいとのこと。たたき台のつもりだったが、そっくりそのままOKが出てびっくりした。

気をよくしたわたしは、勢いづいて、マミさんからマダガスカルの昔話をふたつも聞きだした。「イノシシとカメレオンのかけっこ」と「犬はどうしてネズミを食べなくなったか」という話だ。

前者の登場人物はのんびりやのカメレオンとせっかちのイノシシ。「ウサギとカメ」の変形版のような物語で、のんびりやが勝つところは同じだが、勝つ手法が違う。双子のようにそっくりのカメレオンが、先回りして待っているというもの。確かアジアにも同じような話があって、カメレオンがヤドカリだったように思う。マダガスカルはアジアの民話の流れを汲んでいるのだろうか。あとでよく調べてみよう。

後者は、犬が捕ったネズミを食べない理由の起源伝説。マダガスカルでは、猫はネズミを捕って食べるけれど、犬は捕るだけで食べないというが、日本でもそうらしい。

マミさんの話では、マダガスカルでは夜寝る前に、おじいさんやおばあさんが、子どもたちに昔話をすることが多いという。マミさんもそのようにして育ったそうだ。話をたくさん知っているお年寄りもいるそうだ。いつかフィールドワークできたらいいのだが。

■17 Mar 2003 「どんぐりと山猫」をリライトする?!


フレーベル館から、宮澤賢治の「どんぐりと山猫」を月刊の保育絵本にしたいという相談を受ける。保育絵本とは、幼稚園などで毎月配るソフトカヴァーの絵本のこと。見開きで15画面プラス1頁の5〜6歳児向け絵本用に、短くしてリライトをかけてくれないか、という話だった。

他でもない宮澤賢治の作品だ。それを「短く」したり「手を入れたり」するなんて、とんでもない! わたしにはとてもできません、とお断りしようとしたけれど、待てよ、と思った。わたしがしなければ、他の人がする。それでいいのか。いいわけがない。

自信がないし、意義を感じられるかどうかもわからない。とりあえず、猶予期間をもらって、検討してみることにした。しかし、気になって仕方ない。字数もページ数もわかっているし、それならさわりだけでも試してみようという気になった。

まず、居候のマダガスカルからきたマミさんに、原文を解説しながら読み聞かせしてみた。日本語の勉強も兼ねてで、言葉の解説もいれたから、結局半日がかりになってしまった。そうでなくても、やっぱりこの作品は、朗読するには結構長い。以前も、他人の朗読を聴いたけれど、すばらしい朗読であったにかかわらず、聴いていて途中でへたってしまいそうになった。集中力が続かないのだ。依頼の絵本は5歳児向け。全文を読み聴かせするのは至難の業だ。であれば、短くすることにも意義があるかもしれない。ここで「面白い」と強く印象づけられれば、後に再びこの作品に巡り会ったときに、特別の感慨を抱いてもらえるだろう。それが、賢治作品を読むきっかけとして働くかもしれない。

やり始めてみると、これが面白い。ぜひ、と思う場面を、自分がいちばん印象に残っている部分を中心に構成してみる。ばっさばっさ削るけれど、ストーリーに関係なくても入れたい表現はなんとしてでもいれる。たとえば明日の裁判を思って「山猫のにゃあとした顔」を思うと眠れなかったなどというところなど、やはり入れたい。賢治独特の手触りをなるべくそのままで幼い人に伝えたい。

途中、細かい表現で悩む必要がなかったのもうれしい。賢治の言葉を、なるべくそのまま使ったからだ。苺の形がそのまま残っているジャムのように、原文の風味を損なわないように仕上げたい。

ばっさばっさとやっていくと、面白いほどに場面がクリアになっていく。すっきりと立ち上がってくるのだ。結局、ページ割りなど全然しないで、勘だけではじめたのに、書きあがりができあがりだった。さっそくプリントアウトして、マミさんとわが相棒相手に読んでみる。

その気持ちよかったこと! 話がぐいぐい展開して、ぐっとわかりやすくなり、マミさんもとても楽しんでくれているのが、手に取るようにわかった。はじめはしぶっていたけれど、これは結構いい仕事かもしれない。そんな気がした。

さっそく編集者に「たたき台です」とメールした。頼んだ即日、原稿があがってきて、きっと目を白黒させるだろう。どうなるかな。

■14 Mar 2003 日本語教室探訪


きょうは一日「マミさんデー」にすることにした。滞日の2ヶ月半は短い。それを有効に過ごすためには、はじめにしっかり情報収集をして、ターゲットを決めて行動した方がいい。そのための手助けに丸一日を使うことにしたのだ。夕べ、検索に手間取って寝たのは深夜三時を回っていたが、がんばって起きて、みんなで朝食をとり、歩いて南文化センターへ。

恐る恐る入った教室では、もう日本語教室が始まっていた。グループが4つほどあり、見れば進度別らしい。絵を描いた大きなカードを掲げ「この山は高いです」「この山は低いです」とやっているごく初歩の人々から、細かい文字の並ぶコピーを前に読んでいる人もいる。あちこちから声があがって、すごい活気だ。

マミさんは、最上級のクラスに参加。韓国人の生徒ふたりといっしょに、かなり高度な表現も含まれたエッセイを読む勉強をした。生徒はフィリピン、韓国、中国、アメリカ、インドネシアとさまざま。職業も年齢もばらばらだ。こんな教室が近所にあるなんて、はじめて知った。マミさんが来なかったら開けなかった世界だ。

2時間の授業が終わり、家に戻って昼食をとった後、徒歩で町田へ。まず、明日、日本語教室のある市民フォーラムの場所を確かめ、国際交流のカウンターでいろいろと情報収集をした。在日外国人とのさまざまな交流があることを知ってびっくり。役に立ちそうな情報もゲットできた。

次は巨大古本屋「ブックオフ」探訪。本は大量にあるも、日本語学習のためのまともな本が見つからず、新刊書店「リブロブックス」へ。ここには、まっとうな日本語教材が一式揃っていた。どれも高いのが玉に瑕。ほしい本をメモして、後でネット古書店で探してみることにする。

最後は「ヨドバシカメラ」。マミさんは目を輝かせ、パソコンなどの最新機器を見ていた。マダガスカルではなかなか手に入らなくて困っていたパソコン用のケーブルも発見して、成果が上がる。

歩きながら、フランス語やマダガスカル語を教えてもらった。マダガスカル語でマンガは青、メナは赤。マンガマンガ、メナメナと看板の色を指さしながら歩く。日本語で通じないことがあると、互いに英語で説明するから、わが家はいま、四ヶ国語クレオール状態だ。

マミさんが来たことで、家の中に小さなマダガスカルが生まれた。マミさんと歩くと、わたしたちも見知らぬ街を旅する人の目を持たざるをえない。異邦人の目で見ると、街はまったく別な顔を見せてくれる。一日中歩き回って死ぬほど疲れたけれど、実に面白い一日だった。メルシー、マミさん。

■13 Mar 2003 日本語教室検索


マダガスカルから来て、わが家にホームステイしているマミさん。日本テレビの突然の招待で来日したため、来日前に何の準備もできていなかった。何しろ、日本に行きませんかと日本テレビから話を持ちかけられ、出発までわずか10日しかなかったのだ。実際、テレビのロケ終了後の宿泊先も決まらないままの出発だった。まるで人を使い捨てにするような無責任な日本テレビの態度にはいろいろといいたいことがあるが、文句をいっていてもなんともならない。マミさんは、とりあえずわが家で受け入れることにした。

そんなわけで、マミさん自身、狐につままれたような出来事で、日本で何をしたいのか、自分でもはっきりわからないような状況だった。ロケも終わり、ひとまずはわが家に落ち着いてゆっくり考えてみたマミさんはようやく気づいた。残りは後2ヶ月半、ぼんやりしているうちに過ごしてしまってはもったいない。何とかしなければ!

そこで浮上してきたのが「日本語の勉強をしたい」ということ。マダガスカルでは、一年以上も日本語をしゃべるチャンスがなかったという。せっかく勉強した日本語を忘れたくない。そして、もっとうまくなりたい。そう希望したマミさんは、自らインターネットで日本語学校を検索。わたしたちも手助けして調べたところ、学校はあるにはあるがバカに高いと判明。日本テレビからもらった8万円しか所持していないマミさんにはとても無理。

そこで、何か他の方法はと探してみると、あった! 驚いたことに、この近辺に、ボランティアが運営するいくつもの日本語教室があるではないか。ほぼ毎日のようにどこかで開かれている。料金は、一回50円とか、一ヶ月300円といったものばかり。明日も、午前10時からご近所で一件ある。さっそく偵察にいくことにした。

■12 Mar 2003 マミさん歓迎会&黒田武彦氏を囲む会



昨日、日本テレビのロケを終えてたマミさんが、わが家にやってきた。きょうは、西はりま天文台の黒田武彦天文台長が出張で上京。わざわざ相模大野に足を伸ばしてくれたので、わが家でマミさんの歓迎飲み会を開いた。東逸子姫は自転車で、門坂流画伯は徒歩でかけつけてくれ、若き天文学者いとてつも来てくれた。プラネタリウムからイラク攻撃、北朝鮮拉致問題にいたるまで、大激論。深夜二時半まで大盛況の飲み会。


東さんからは、ちょっぴり苦言?をいただいた。掲示板にばっかり書いていて、寮美千子は果たして作品を書いているのだろうか、という心配の声があがっているという。東さんは、わたしが「楽園の鳥」の改稿をはじめたと知ってほっとしたとのこと。門坂さんもやっぱりほっとしたそうだ。きっとそう思っている人も多いだろう。わたし自身も、そう思っているのだから。

そのまま、作品に向かう姿勢についての話になった。東さんの友人の絵描きがこんなことをいったという。「ぼくは、ご飯食べたり、眠ったり、その延長線上に絵を描くってことがあるな」 東さんは、それを聞いてびっくりしてしまったという。「わたしは、絵を描いて、描いて、描いて、その合間に、あっそうだご飯たべなくちゃ、とか、気づいたら一日半食べていなかったとか、そんな感じ。ご飯を食べていても、軸足は作品制作にかかっていて、どこか上の空」。東さんを見て以前から思っていたけれど、やっぱりそれくらいじゃないと、芸術家は大成できないのかもしれない。

門坂流画伯は、またちょっとスタンスが違う。「ぼくは、毎日早起きして、コーヒーを飲んで、仕事をして、お昼にはお腹がすかなくてもちゃんと食べる。そして仕事。夕方には切り上げて飲み始める。そのリズムを崩したくない」とのこと。「でも、ご飯を食べていても、作品のこと、頭を離れないでしょう」と東さんがいうと「いいや。すっかり関係ないんだ」と門坂さん。人それぞれだ。

寮美千子はひどい。「恋と料理の合間に仕事をしている」と公言してはばからない馬鹿者である。最近はつらい恋をしていないので仕事ははかどる。しかし、さまざまな発言をしたり、コンサートを企画したり、創作以外のことにまで手を広げ、しかもそれが一銭にもならない。

このことを東さんも門坂さんも、いたく心配してくれていた。社会的発言以前に、芸術家はその仕事で勝負するべきであると東さん。他人の本の書評なんかしている間に、自分の作品を書いてほしいという。いろいろ思うところもあるけれど、もっともだ。ほんとうに、もっときちんと作品に向かうべきだと自分でも思う。

実は、わたしは自分を「芸術家」だとアイディンティファイしていない。わたしという人間の総合的活動の現れのひとつとして創作活動があると思っている。すべては連動している。恋も、料理も、社会的発言も。けれど、だから拡散してしまう。

「芸術家としてもっと傲慢であれ」と東さんはいう。ほんとうに、そのようになれたらどんなに作品制作が進むだろう。エンジン全開で、突っ走ることができたら。創作者としてのわたしに、もっとウェイトを置くべきかもしれない。まずは「楽園の鳥」の完成と出版を目指そう。


マミさんは、飲み会でマダガスカルの田舎の子どもの歌う遊び歌をうたってくれた。
鳶よ、鳶。空で羽根を震わせて踊りなさい。
わたしたちもそれを見て踊るから。
そんな素朴な歌だ。男女が一対になって踊る。といっても、向き合って踊るわけではない。両手を広げて立った男性の前に、女性が背を向けて座る。男が歌いながら両手の先をふるふると震わせ、腰を屈めて女の顔を覗きこむ。すると、女が振り返って男の顔を見る。

マミさんに教わって歌いながら踊った。振り返るたびに目が合う。すると、うれしいような照れくさいような、こそばゆい気持ちになる。マダガスカルでは、少年少女がこの遊びをするという。まだ恋にならない恋心が、そんなところで自然に芽生えるのかもしれない。

向き合わず、背を向けて、振り返りざまに視線を合わせる。なんだか、奥ゆかしい。マダガスカルの赤ん坊は、お尻が青いという。同じモンゴロイドの血が流れているのだろうか。門坂流画伯は「ぼくも踊ったよ。雛祭りには、同じようなふりつけで」といって、自ら踊って見せ、みんなの喝采を浴びた。

実に楽しい夜だった。東さんに励まされたことも心にしみている。こんなふうに、率直にいってくれる友を持って、わたしはしあわせ者だ。なんていいながら、またこの日記をしたためてしまったけれど、心配しないでね。ちゃんと仕事もするから。

■11 Mar 2003 『ほしがうたっている』再版なるか?


新思索社の社長より電話。『ほしがうたっている』の在庫はゼロ。『しあわせなキノコ』は40冊ほどだという。どちらも旧「思索社」が倒産して印税をもらっていない。現社長は、在庫込みで1500万でこの出版社を買い取ったので、印税相殺で現物を支給することはできないとのこと。やれやれだ。

しかし、いい話もあった。『ほしがうたっている』は、少しずつだが売れつづけ、在庫切れになったとの由。国立天文台の広報部長の渡辺潤一氏が、昨年朝日新聞で「わたしの三冊」に推薦してくれて、一気に捌けたという。再版したいのだが、これ一冊だけでは弱いので、何か新しい絵本を発売できたら、という話。これはうれしい。西はりま天文台で黒田さんが2メートル望遠鏡を建設中。来年の夏に完成の予定だ。これに間に合うように「望遠鏡=遠くを見たい」ことに関する絵本が作れないだろうか。

この話を持ちかけると、かなり乗り気で、こんど会って話を、ということになった。星の絵本、ぜひ実現させたい。

■ 8 Mar 2003 古井由吉朗読会「青い眼薬」


新宿の文壇バー「風花」での古井由吉朗読会の第八回。案内状をいただいた。よく見れば、案内状のバックに薄く敷かれた前回の朗読会の写真に相棒とわたしが映っている。出かけないわけには行かない。

古井氏の朗読は、群像に連載中の「青い眼薬」から。朗読はいつにもまして冴え、不可思議な女の動きのひとつひとつが、くっきりと目の前に見えて鬼気迫るものがあった。風邪を召され、いつもよりわずかだがゆっくり読まれたとのこと。そのわずかなゆっくりが、情景を思い浮かべるための時間を稼いでくれたのかもしれない。

舞台は昭和三十年代。三十六歳の寡婦が、二十二歳の下宿人と関係を持ってしまうというこの物語。古井さんの描く女性像は、生身の人間というより、男性が思い描く「女性」という概念を、そのまま男の皮膚感覚に移したようなものだ。主人公は、女を一個の人間として見ていない。ただ皮膚にまつわる感触のようなものとして捕らえている。もしわたしがその女だったら、たまらないだろうと思う。心底さみしくなるだろう。

女性に対して徹底的に概念的捉え方をしているのに、そこに浮かびあがってくるものは、なぜか概念ではなく皮膚感覚。コンセプトではなくてイメージであるところが、古井氏の作品の不思議な魅力だ。

朗読会の後の飲み会で、古井氏がこう語っていたことが印象に残った。
言葉は何かを呼びだすきっかけなんですよ。お能の鼓が、ポーンという音で死者を呼びだすように、何かを呼びだす。まじないみたいなところ、呪文じみたところがあるんです。ひとつの言葉が、何かを呼びだして、はじめてその次の言葉が呼びだされる。呼び出されたその言葉がまた何かを呼びだす。そんなふうに、連鎖式に呼びだされて、物語ができていく。だから、先はわからない。書いてみなければ、わからない。
矛盾があってもいい。論文は矛盾なく書かなければならないけれど、小説は論文じゃない。その矛盾こそが、小説であるわけです。すべてがきれいに割り切れなくていい。
古井氏の女性観にしても、上記の話にしても、先日最終講義のあった前田耕作氏と照らしあうような気がして面白かった。

ゲストは水村美苗氏。「嵐が丘」をモチーフにした新作『本格小説』の一部を朗読。主人公が軽井沢の別荘に泊めてもらうことになるシーンだった。

朗読会はいい。ほんの一部を読むわずか30分で、その作品の、そして作家のおおよその感触がつかめる。弾力のある鞠のようなものだと思ってぎゅっとつかむと、紙風船のようにくしゃっと潰れることもある。すると、もうその作家のことが気にならなくなって、精神的にも経済だ。

逆に、その不可思議な手応えゆえに、何度でも確かめたくなる朗読もある。古井氏の朗読は、そんな朗読だ。次の朗読会にもぜひ行ってみたい。

■ 4 Mar 2003 「城北偕行会」に父の代理で出席


「城北偕行会」に父の代理として出席した。この会は、府立四中から軍人の道へ進んだ人々の同窓会。府立四中で英語教師をしていた祖父、寮佐吉について取材するためだ。

出席者の最高年齢は昭和三年生まれの父より一回り年長。寮佐吉が名古屋から府立四中に赴任した昭和六年当時に在学していたという。様々な年代の方から、いろいろな話を聞かせてもらうことができた。

当時の校長深井鑑一郎は、漢学の大家。各地から、教師としての優秀な人を抜擢して四中に呼び寄せていたという。遠く朝鮮や北海道から呼ばれた人もいたそうだ。佐吉もその一環として、名古屋から呼ばれたらしい。

佐吉が、大変な苦学をして学んだ独学の人だということも、年長の方々は聞き及んでいたという。正式な大学教育を受けていないのに、理論物理と英語を習得した稀なる人だという話だったそうだ。

実際、佐吉は、師範学校を卒業しただけの学歴しかない。それなのに、なぜ大正十一年のアインシュタイン来日当時に、相対性理論の解説本を二冊も翻訳できたのか。まったくの謎だ。そのうちの一冊には、桑木或雄という九州大学教授の序言が書かれていた。この人は、留学先のヨーロッパでアインシュタインを訪ねたこともある人で、日本にいち早く相対性理論を紹介した一人だ。のちに、アインシュタインの伝記も記している。そのような人物と、佐吉がどこで接点を持ったのかも謎だ。

孫のわたしに悪口はいえないという事情もあるだろうけれど、佐吉の評判はすこぶるよかった。四中には「ひかちい」先生が多かったけれど、寮先生は違った、と語ってくれたのは、四九期の奥村房夫氏。「ひかちい」とは、ぎすぎすした、融通の利かない、生徒を絞るあげる、やせぎすの、というような意味だそうだ。佐吉はみかけもふっくらとして、人間的なあたたかみのある教師だったといってくれた。

佐吉の英語は、読み書きだけではなく会話もかなりのものだっという。当時には珍しく、四中にはミス・コリーという外国人教師がいたが、教師の中で彼女といちばんスムーズに会話できたのは、佐吉だったという。佐吉の前任校は、名古屋の金城女学校。ミッション系だったので、外国人牧師などもいたはず。そこで鍛えたのかもしれない。

父と同期の六一期の後藤富士雄氏はわざわざわたしのところにやってきて、話をしてくれた。太平洋戦争開戦直後の昭和十六年十二月、イギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズが撃沈された。時の司令官は、兵士を無事逃した後、自分は戦艦と運命をともにして沈んだという。佐吉は、授業でその話をして、こういったそうだ。
「どこの国の人であろうとも、偉い人は偉い」
後藤氏によると、この頃はいかなる理由があろうとも、公衆の面前で敵国を誉めるようなことは、できる雰囲気ではなかったとのこと。そこで、佐吉がそのような話をしたので、とても驚き、印象に残っているとのことだ。

後藤氏は、陸軍士官学校に入学。区隊長に「どこの学校の出身だ」と聞かれ「四中です」と答えると、区隊長は「寮佐吉という先生がいるだろう」といったという。戦時下、軍隊の学校で、なぜ英語教師の名が出るのだろうと、これも不思議に思い、記憶に残っているそうだ。

佐吉はなかなか反骨の人だった。軍隊にまで隠れたファンがいたのだろうか。

五十期の石川正路氏は、都城の島津男爵ゆかりの人々の集い「加賀町会」に、わたしを誘ってくださった。島津男爵は、鹿児島の島津氏の分家。府立四中はもともと島津氏の土地で、その半分が四中に、残りの半分が島津氏のお屋敷と貸家になっていたという。佐吉一家は、その貸家の店子に入っていたそうだ。そんな縁で、父も加賀町会の一員だ。数年前までは、加賀町会に欠かさず出席していたが、ここ数年は病気のため出席していない。「今年はぜひお父さんを連れれてきてください。隣組で、寮佐吉先生のことをよく知っている方々もいます」とのこと。ありがたい申し出だった。

「寮先生に、目が似ている」などといわれ、おおいに沸いた同窓会だった。最年少が父の世代、というおじさまばかりのなかに入るのは少し勇気もいったが、みなさんに親切にしていただいて、楽しい時間を過ごすことができた。

祖父の話ばかりでなく、太平洋戦争の話もあれば、いまのイラク攻撃の問題について、熱く語り合う場面も見られた。太平洋戦争当時、士官として活躍した人々が、今回のイラク攻撃にはみな反対だということも、とても興味深かった。北朝鮮問題にしても「石油があれば、日本も開戦に踏み切らずにすんだだろう。北朝鮮への石油供給をやめて追いつめるのはよくない」との意見も聞かれた。

戦争は、過去のものではない。実際に戦争に参加した人がまだたくさんいる。その人々の声もきちんと聞き、戦争について考えなくては、と思った。

■ 1 Mar 2003 前田耕作最終講義


前田耕作氏の和光大学での最終講義。えいっとばかりに仕事を切りあげて出かけた。昨日の晴天とは打ってかわってどしゃぶり。駅から大学までの遠い道のりでずぶぬれになるも、机にかじりついて運動不足だった身には、かえって心地よかった。雨にも関わらず、大学には多くの人が聴講しに集まってきていた。かつての教え子をはじめ、前田氏とつきあいの深い人々が一同に会して、会場はほぼ満員。年輩の人が多いことにも、驚かされる。前田氏が、それだけ長い時間慕われ続けてきた証拠だろう。

講義の前半は、「わたしは、いま、なぜ、ここにいるのか」。丸山静氏の四畳半の私塾に通った早熟な中高時代から今日に至るまでの前田耕作氏の思想的遍歴をはじめて知り、とても興味深かった。
社会全体が社会思想に染めあげられた時代、わたしたちも当然血が湧きました。しかし、わたしたちは、丸山静先生のお陰で、文学についても深く考える機会を持ちました。みんながマルクス、エンゲルスを読んでいた時代、わたしたちはバルザック全集の講読会を開いていた。バルザックの文学の中に、資本主義に関する様々な問題はすでに描かれているのではないか、という念を抱きました。
やがてヘーゲル、サルトルと読み進んだ前田氏は、サルトルの『弁証法的理性の批判』と、アンリ・ルフェーブルの『総和と余剰』が、互いに照らし合う側面を持っていることに気づき、感銘を受けたという。
算数的に自分のなかのものを足すと自分のなかのすべてになるかというと、そうではない。足し算だけでは数えあげることのできない「余剰」がある。それを、われわれは除外してきてしまったのではないか。実は、そこにこそ、大切な何かがあるのではないか。概念的なものではなく、イメージ的なもののなかに真実は隠れていないか。コンセプトではなくイメージを! 知覚から感覚へ! 事象そのもののいきいきとした現実へ!
現象学への興味が湧き、メルロ・ポンティやレヴィ・ストロースを精読した前田氏は、その後、バシュラール『火の精神分析』やミルチャ・エリアーデ『イメージとシンボル』などの名著を翻訳。神話学の専門家として、1969年に第二次名古屋大学アフガニスタン調査団に参加。ここでバーミヤン研究の基礎を形作り、これが後の方向を決定づけることになる。これが和光大学に「イメージ文化学科」という独自の学科をつくることにもつながってきた。

小さな四畳半の私塾からはじまった前田耕作氏の思想遍歴の、なんというダイナミックなことだろう。時代とともに激しく変転しながらも、大切なものをより深く掘りさげようとする意志を灯火として、前田耕作その人にしか歩めない独自の、そして真実の道を歩まれてきたのだと強く感じた。世の中には、心の自由を謳い、時代に沿って自在な変貌を遂げるふりをして、実は単に定見がないだけの浅薄な学者も多い。けれど、前田耕作氏は、それとはまったく異なる存在だ。イデオロギーやコンセプトに縛られず、より深い意味を探ろうとしてきた前田耕作氏の姿勢に心打たれた。

「文学」とはつまり、そういうことをするための器だとわたしは思う。和光大学の非常勤講師をはじめて二年間という短い期間ではあったけれど、前田耕作氏という存在に触れられたわたしはしあわせ者だ。

講義の後半は、ガンダーラ出土のレリーフを追う謎解きだった。一見してトロイの木馬と思われる台車付きの木馬が描かれたこのレリーフは1920年のカルカッタ・アニュアルにはじめて記載のあるもので、その後、様々な国の学者により、様々な解釈がなされてきたという。木馬に槍を突きつけるラオコーンとおぼしき人物が、実は巨大な木馬を槍のひと突きで小さくして無力化した菩薩の象徴ではないか、という仏教解釈説もそのひとつだ。前田耕作氏は、これを釈迦の出城伝説と解釈。門のところで、馬を留めようと両手を広げるインド衣裳の女性像は、従来カッサンドラといわれてきたが、出城を止めようとする釈迦の妻ではないか、という大胆な説を提示した。

強引といえばあまりに強引なその説は、その大胆な飛躍故に興味深くはあったけれど、わたしにとっては簡単に首肯できるものではかなかった。しかし、前田耕作氏が「最終講義」でなぜこのような飛躍に満ちた説を提示したか。そこにこそ、表面で語られたものとは別の次元の深い意味があり、それこそが前田耕作氏の伝えたかったことではないだろうかと感じた。

前田耕作氏は、今後ご研究に専念。バーミヤン遺跡のことなど、後進につたえるべきことが山のようにあるとのことで、これからも忙しい日々を送られるとのこと。今後も、前田耕作氏の仕事から目が離せない。まずは、前田氏の著作と翻訳をゆっくり読み返すところから、改めてその足跡をたどりたいと思った。

▼2003年02月の時の破片へ


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