寮美千子の意見発表の場です。ご意見ご感想はCafe LunatiqueまたはCafe Lumiereへ。
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Fri, 31 Jan 2003 00:04:18
Mon, 27 Jan 2003 18:04:21
予定されていた守中高明氏は、お葬式があって欠席。といっても単に参列するのではなく、本職?が僧侶のため、読経しなくてははじまらず、欠席だそうだ。読経をするお坊さんは、たいがいいい声をしている。守中氏の詩の朗読も読経も、両方聞いてみたかった。
- 第一部
- 須永紀子
小池昌代
福間健二- 第二部
- 天沢退二郎
石井辰彦
Lloyd Robson- 第三部
- 高貝弘也
岡井隆
四方田犬彦
人間という生き物を愛づるかな。羽も尾もない、けど、美しい。▼ロイド・ロブソン
羽も尾もない、のに、鳥の座を奪ふ(その)生き物を(やっぱり)愛す――
羽も尾もない、のに、耐えて、美しく、着飾る(然うよ! わたしは)女――
Mon, 27 Jan 2003 02:33:03
Sat, 25 Jan 2003 01:45:52
京都の若者を中心に、環境やグローバリゼーションに関する問題に対して取り組んでいる 「国際青年環境NGOセージ」の・・・・と申します。イベントの企画書が添付され、そこにはイベントの内容が書かれていたが、驚くべきことに、わたしが『父は空 母は大地』と合わせて下田昌克著「そらのいろみずいろ」(小峰書店2001) という絵本を朗読することになっている。わたしはその本を知らない。第一、わたしは朗読芸人ではない。
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差出人 : "Ryo Michico"
件名 : 寮薬は耳に痛し?
送信日時 : 2003年 1月 25日 土 0:43
ご了解ありがとう。今後に生かしていただくために、ちょっと耳に痛いことをいわせてください。
講演を頼まれてお断りしたのは、今回が生まれて初めてでした。関西で、旅費なし謝礼1万円、という時も、相手の誠意と情熱に動かされ、自腹を切って行ったこともあります。要はお金じゃない。まず、そこのところをご理解ください。
では、なぜお断りしたのか? 以前メールに書いたことの繰り返しになる部分もありますが、今回のことをぜひ後に生かしてほしいので書かせていただきます。
▼はじめに、きちんと自己紹介すべし
見ず知らずの相手に何かものを頼むときは、まず、自分がだれであるかを明らかにすべきです。それが、人にモノを頼むときの最低限の礼儀であるということを、まず心得てくてださい。それは、こちらが作家であろうと誰であろうと同じです。人と人がつきあうときの、基本のルールです。
あなたが学生なのか、社会人なのか、それさえも情報を与えられないというのは、あまりにもアンフェアだと感じました。
さらには、こういう事情もあります。作家という仕事をしていると、かなりの部分のプライバシーが公になります。調べようと思えば、生年月日から出身校、それ以外のことまでわかる。いわば、こちらは丸腰で立っているわけです。
しかし、依頼者であるあなたのことは、こちらが調べようとしても簡単にはわからない。フェアな関係を結ぶためには、まずあなた自身がきちんとした自己紹介をしなければいけない。いつ、どこどこへ来て欲しいといわれても、相手が誰だかもわからずに行くのは危険です。こちらにしてみたら、目隠しで連れていかれるようなものです。
実は、あなたが京都大学の学生であることは、お知らせいただく以前にこちらで調べました。そのような手間をこちらにかけさせるということ自体が失礼だと感じました。
▼誠実に自己紹介すべし
どこの大学にいっているかとか、どこの会社に勤めているかとか、そういうことばかりが自己紹介ではありません。組織に属していなくてもいい。主婦でもフリーターでもいい。要は、自分が何をしてきた人間なのか、何をしていきたいのか、しっかりと伝えることです。
▼依頼の動機をきちんと伝えるべし
そして、なぜ依頼したいのかをきちんと説明すべきです。最初にいただいたメールで、依頼の理由はわかりました。少なくとも、その点については、しっかり書かれていたのでよかったと思います。
▼相手を事前調査すべし
しかし、「そらのいろ みずいろ」下田昌克/作 という作品を「朗読してほしい」とは、いったいどういうことでしょうか。HPをよく見れば、わたしが「自作朗読」しかしていないことは明らかです。朗読をする芸人ではありません。芸を磨き、どんなリクエストにでもこたえられるようにするのは、すばらしいことです。しかし、わたしはそういう活動をしてこなかったし、それを目指しているわけでもない。一人の作家として、自作を読むということをやっているだけです。そのようなことを把握せず、演目まで勝手に決めて「これを読んでください」とは、あまりに失礼です。
実は、その時点で怒りを感じていたのですが、調べてみれば相手はまだ学生、しかも千葉高校の卒業生ということで、経験不足なのだと思って寛容につきあうつもりでいました。会って話をすればわかるだろうし、いずれ学んでほしいと思っていたのです。
▼レスポンスは迅速に
ところが、レスポンスが遅い。日程のことなど、決めていただかないと、こちらも動きがとれません。わからない日程のために、ご要望の日のすべてを明けておくことはできないのです。せめて、それがいつ決まるかだけでもすぐに返答すべきです。
どうかこれから、気をつけてください。返事が来たら、すぐに「お返事受け取りました」のメールを一本いれること。礼儀というより、実務に欠かせない行為です。そして、だれかと協議しなければ決められないことならば、それを書き「いついつまでに決定事項をお知らせします」と書かなければなりません。
▼あやふやなことは書かない
お知らせいただいた日程が二転三転したことも、不安要素でした。実際、メールをいただくたびに、可能性のある日が変わるような状況でした。あやふやであれば、書かない方がましです。もっときちんと予定を組んで、確実な日を(できれば複数)用意してから依頼状を書くべきです。いくら依頼を引き受けたからと、あなたの都合でわたしの人生の時間を振り回されるのは理不尽です。
▼学生らしくきちんと頭を使おう
学生はお金がないというのが相場。けれど、使える時間も空間も、社会人以上にあるはず。イベントも、お金がないなら大学の教室を借りてやってもいいはずです。それならば、自分たちでスケジュール管理もできるはず。なぜ、市内のカフェでやらなければならないのか、わたしには理解できません。
わたしを呼ぼうというのも、思いつきのようにしか思われませんでした。本当に作品に心を打たれ、NGOでもなんでも利用して、なにがなんでも作者に会ってやろう、ということなら、理解できます。それだけの情熱としたたかさを持っているのなら、こちらも心意気で駆けつけたいと思う。
しかし、わたしの仕事もよくご存じないようだし、わたしの知らない他人の作品を朗読せよ、などといってくるし、わたしでなくてもいいのではないか?と思わされるようなことばかりでした。
であれば、なぜわざわざ高い旅費を支払ってまでわたしを呼ばなければならないのか。無意味です。わたしでなくともいいなら、ほかのだれだって構わないはずです。京都にはいいお仕事をしている人がたくさんいます。そういう人を探してお願いすれば、それをきっかけに今後の地元での活動も一層広がっていくでしょう。
ほとんど思いつきでわたしに声をおかけくださったのだと感じています。京都大学に入れるような頭脳の持ち主であれば、どうか、受験だけでなく、そういうことにもっと頭を使ってください。学生らしく、みんなで知恵を出し合って、最小のお金で最大の効果をあげる方法を模索してください。
▼交流的であることの大切さ
さて、わたしを呼んで、朗読させ、トークをして、それからどうしようと思われたのでしょうか。いただいた最終スケジュールを見ると、終わるのが午後7時。東京に戻るつもりなら、とんぼ返りしなければなりません。宿泊すれば、足が出ます。ご提示いただいた交通費ですら、新幹線代に満たないのに、自分の時間を使い、ボランティアで講演して、さらに宿泊費も自腹というのは……。
もちろん、そのような状況でも、ぜひその場に行きたいという「何か」があれば構わないのですが、何しろ相手は、いきなり「他人の作品を朗読してくれ」と頼んでくるような人です。「わたし」でなければならない必然も感じない場所に、そこまでして行くか?といえば、行きたくない。
では、帰るか。となると、一体何をしに丸一日を潰して京都まで行くのか。大切なのは「交流」です。もちろん、イベントも大事。けれども、そのイベントを通じてできる人間関係、人と人の心の交流こそが、後々へと響いていく大きな財産なのです。午後7時に終了で、宿泊費はでませんからお帰りください、なんていうイベントには意味がない。そんなスケジュールをなぜ組むのか、理解に苦しみます。
▼「ボランティアはいいこと」の罠に落ちないように
「ボランティアはいいこと」と世間から認められています。「だから、あなたはわたしたちに協力するのが当然でしょ」という罠に陥っていませんか? ボランティア活動だから信頼してくれるはずだと、タカをくくってはいないでしょうか。わたしは、そういう傲慢さをなにより嫌悪します。
>京都の若者を中心に、環境やグローバリゼーションに関する問題に対して
>取り組んでいる 「国際青年環境NGOセージ」の・・・・と申します。
最初にいただいたメールの正式の自己紹介は、それだけでした。それで信用してもらえると思っているとしか思えません。それは「ボランティア」という名前に依存したおごりです。わたしは、そのことも最初から不愉快でした。なぜ、京都大学の学生ですとか、何を勉強しています、という基本的自己紹介がないのだろう。「ボランティア」「NGO」という言葉が、まるで水戸黄門の印籠のような効力を持っていると勘違いしているようにしか思えない。
組織も、ボランティアであるかないかも、関係ありません。結局は、個人と個人の関係なのです。依頼するときは、依頼者である自分のことを、きちんと伝える。自分の社会的立場はもとより、求めるものをきちんと提示する。そして、一方的に決定するのではなく、きちんと「交流」する。そのなかでしか、ほんとうの「ボランティア精神」は育っていきません。
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以上、キツイことを書きましたが、よい志を持っているようにお見受けできるだけに、今回のようなことが続いては、今後の活動に障りがあるだろうとの老婆心から、忠告させていただきました。短気を起こさずに、そちらまで出向いて、顔を見てきちんと話した方がよかったかなと、少し後悔もしているところです。しかし、そちらがお立てになったスケジュールでは、そんなお話をする「交流タイム」もなさそうだったので、後ろ髪引かれる思いながら、お断りさせていただきました。
近い将来「どうしても寮美千子を呼びたい」という必然が生じるようなことがあれば、ぜひ作戦を立て直してリベンジしてください。受けてたちます。
活動、そして勉強、がんばってください。
寮 美千子
Mon, 13 Jan 2003 03:07:03
世間の声には法律のような強制力はない。しかし、それ以上の影響力がある。「町から出ていけ」という言葉が私や家族をどんなに苦しめたか。松本サリン事件での教訓が生かされていないことを寂しく思う。▼松本サリン事件の加害者はだれだったのか?
松本サリン事件の発生当時、わたしは社会の敵にされた。私だけでなく松本市内に住む私の友人さえ、住民から「この地区から出て行ってほしい」と言われた。私にかかわるすべてが全否定されたのだ。確かにオウム真理教は加害者だったが、松本サリン事件の加害者はオウム真理教だけではなく、マスコミや見込み捜査をした警察、そしてなによりも隣近所にすむ「普通の人々」だっとことを、河野さんの実例から思い知るのだ。
一度「悪いやつ」というレッテルがはられ、その集団を地域社会から排除しようとする流れができた時、その力は法さえも超えてしまう。その結果、多くの権利侵害が発生する。違法行為や公正さに疑問のある行為が行われても、それが社会において是認されてしまうのだ。そうした力がアレフにも向けられている。
私から見ると、私自身の松本サリン事件の被害者体験とアレフ信者らへの人権侵害の背景には、同じ構造が見える。サリンを撒いて妻を意識不明にしたオウム真理教への恩讐を乗り越え、このような冷静な判断をし発言をする河野さんの心の強さにわたしは深い感銘を覚えた。「社会の敵」視されているアレフを擁護する言葉を公の場で語ることは、勇気の要ることでもある。そのような勇気も讃えたい。
Sun, 29 Dec 2002 02:15:48
Sat, 21 Dec 2002 16:03:29
Sat, 21 Dec 2002 03:24:46
Wed, 18 Dec 2002 13:31:48
延命よりは、できるだけ苦痛のない形で・・・とわたしは思っている(自分自身もそういうふうに最期を迎えたい)ので……。電話、出れるときは出ますので、のいちゃんも、みちこ様もがんばってくださいね。そのような性格の猫ならば、なるべく自宅で看護してやってほしいとまきこさんはいう。そうしたいと思う。心あたたかいそのような励ましの、どんなに心強いことか。
Sat, 09 Nov 2002 03:56:44
Fri, 20 Sep 2002 13:45:42
ここからは書評の範囲を越える。著者からこの本がとどけられた日の朝、私は矢川澄子自死の報に接した。まさか。年をとったからこそ森茉莉や今の若い人のようにぐうたらで生活無能力、甘やかされ続けてきた「スポイルド・チャイルド」みたいな生き方をしましょうよ、と老人ホーム(!)の講演でアジった、童女の顔をしたこの人は、それなのに永遠の美少女の絵で表現の時間を止めてしまった。▼
おしゃれだな。いいよ。でもね、もっとあっけらかんとスポイルド・チャイルドで通してほしかったぜ、おスミさん。
いくら「親友」のつもりの「日記さん」でも、これだけは悟られたくない秘密、というのが、この少女にはたしかにあったのだ。矢川澄子さんの書き方も、まるでそのようだと感じないではいられない。深い、奈落のように深い秘密の周りを廻る言葉たち。花芯を包みまだ開ききらない薔薇の花のような。