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DORONKO
尾仲浩二氏のシリーズ展in新宿pgg
2002年09月10日(火)10時15分15秒
▽2002年 第18回東川賞受賞者のサイト一覧 へのコメント
われらがスーパープロデューサー勇崎さんの代表作ともいうべき
「東川町国際写真フェスティバル」で、今年の「東川賞新人作家賞」
を受賞した写真家・尾仲浩二氏のシリーズ展が新宿のフォトグラファー
ズギャラリーで開かれています。
会期は2つに別れており、前半の「MATATABI-9」は今日10日まで、
後半の「reaview mirror」は12日から22日までとなっています。
ぼくは、「MATATABI-9」の初日に見てくることができましたが、
これは「北海道から沖縄まで」の、どこか「置き忘れられた」
ような印象を受ける風景を写したカラーの作品のシリーズです。
一点一点が対象に即した奥行を与えられた作品は、ほとんど
即物的といえるほどに抒情が消去されているように感じられる
のですが、それでいて、そこから豊かなストーリーが浮かび
出てくるかのようでもあって、なるほど、尾仲氏は、そう簡単に
要約できるような写真家ではないのだなということを再確認
できたように思います。ご本人は、物腰もおだやかな、
ふんわりとした方ですけれども。
――というわけで、告知が遅れてしまいましたが、12日からの
「reaview mirror」の方を見に行くのを楽しみにしています。
こちらは、かなり以前のものも含むモノクロの作品のダイジェスト
的な展示になるようですが。
“photographer’s gallery”
新宿区新宿2-16-11-401
TEL03-5368-2631
12:00-20:00
勇崎
どうして暑いのですね〜
2002年09月10日(火)01時58分10秒
▽どうにも暑いですねー へのコメント
ハハホホホッカイドは、8月に大雪山黒岳と知床に初雪が降る、という異常気象。
そちらは、どうして暑いのですね〜。
やっぱ、異常なのですね。
それより、年々、台風の状況、脅威ですね。
北海道は台風被害というのは少ない地域ですが、今年の台風、沖縄と韓国、とてもたいへんで、不安になってしまいます。
昨年は宮古群島多良間島沖で台風が発生したそうで、こんな北側で発生したことは観測史上なかったことのようです。
あ〜〜、どうしよう。
カフェ・ルナにも停滞前線。
911は明日。そんな時間になってしまいました。
以上。(誰も気づかぬ遠くからギャグをひきだそうとする、おやじさ加減にも、あ〜〜、どうしよう。)
辻井 豊
やっぱり、私は右よりなんだ。
2002年08月28日(水)22時31分05秒
前の自分の書き込みを読み返してみて、思うこと。
“やっぱり、私は右よりなんだ”
2chでの祭りは他にもあったのに、書き込みであげたものは、右よりのものばかり。
私は、被爆直後の被爆者者の写真を正視できない。正直に言ってしまうと“気持ち悪い”。自分は、あんな目に会いたくないと思うし、自分の身近な人にも、なって欲しくはない。大きな事件、事故のたびに、同じように思う。だから、“戦争に反対か賛成か?”と聞かれると、“反対です”と迷わず言える。戦争に正義も悪もない。私は傷つきたくないし、死にたくもない。だからそう答える。
でも、“自衛隊”や“有事法制”について聞かれると、“必要だ”と答える。装備も法律も整備する。税金も払うから、戦争になったら、“私達を守って、敵を傷つけ、殺して、必要ならば自分も死んで下さい”と思う。でも、今は口に出して言えない。
人間の人口は、いずれは100億を超える。全ての問題が、話し合いで解決できるなんて信じられない。意見の食い違いから、あるいは利益の奪い合いから、殴り合い、殺し合う。それをゼロにできるなんて信じられない。ゼロを目指す努力は必要。でも、その目標を達成できるまで何年かかるのか?
政治家や、官僚や、私達の無作為で、満足な装備もなく、法律の裏づけもなく危険な地域に送られる、自衛官、海上保安官、警察官。危険な地域での活動を余儀なくされる、NGO、サラリーマン。そんなことをする位なら、お金を払って済ませた方がいい。たとえどんな非難を浴びようとも。それによって日本がどうなろうとも。お金を払えるうちは、そうした方がいい。誇りなんて関係ない。
無し崩しが、一番怖い。日本人がたくさん死んで、世論が一気に傾いて。満足な議論もできないうちに戦いが始まる。アメリカだけではないと思う。前の大戦は、政府のせいでも、軍部のせいでも、マスコミのせいでもないと思う。幕末の不平等条約、富国強兵政策、大陸の利権。みんなが、訳もわからないうちに、熱くなっていたんじゃないのか?
今は、とりあえず平和。いろいろあるけど、とりあえず日本は平和。だから、今のうちに、有事法制は整備すべきだと思う。
“軍隊が国民を守ってくれる”のは幻想。“シビリアンコントロール”も幻想。だけど、今のままだと“死んでくれ”とは言えない。だから“金を払う”しかない。“死んでくれ”と言えないから、代わりに税金を使ってくれと言えるだけ。
自衛隊だけでなく、不審船対策に関わる海上保安庁にも、しかりとした法律の裏づけを与えたいと思う。国際法の縛りで、不審船をいきなり撃沈などできない。もちろん人道上も。停船させ、臨検を行う必要がどうしてもある。だけど、そのために“死んでくれ”とは、今は言えない。亡くなった方の遺族や、怪我を負った人に対して、今の法律は十分な補償を与えていない。それは、警察官にも言えるし。他の方面でも、そうかもしれない。
社会正義を振りかざすマスコミは嫌い。でも、一次情報源としては、頼らざるをえない。ネットはそれほど普及していない。個人的にはそう実感する。接続数は増えた。でも“ネットに参加している”と言える人は少ないのではないか?
ネット上で、完全に個人を特定することは原理的に不可能。現実世界でも難しい。だから、ネットでの実名、数は参考程度。いずれは、ネット版“公証人役場”ができるかもしれない。でも匿名性を維持したまま、ネット社会の成熟を目指すべき。既存メディアと同化して、ネットになんの意義があるのか?
忙しい方で、2chを手早くチェックしたい方は、“電波2ちゃんねる”を利用すると便利です。アドレスは検索して下さい。使い方は慣れて下さい。ごめんなさい。
ああ、何書いてんだか。
掲示板を汚して、すいません。削除してもらってもいいです。問題発言だし。
松永洋介
油まみれの水鳥の亡霊
2002年08月26日(月)02時30分52秒
http://www.ceres.dti.ne.jp/‾ysk/
▽CNNは大本営発表か?/アルカイダのビデオ64本発見 へのコメント
CNNのスクープの「アルカイダのビデオ」のニュース、朝日系(CNNと提携している)のほかはどこも報道しなかったように思っていますが、どこか話題にしたところはあるんでしょうか。
今回の数十秒の映像を見てすぐに思ったのは、湾岸戦争のときの「油まみれの水鳥」でした。あれもCNNのスクープでしたが、実際のところ水鳥はアメリカ軍の攻撃で流出した原油にまみれていたのでした。
⇒Google 検索: 油まみれの水鳥
CNNの報道では、もちろんイラク軍がやったことになっていて、CNNのサイトには現在
“あれはフセインの仕業だよ”という前提で書かれた記事が掲載されています。(英語。水鳥写真あり)
ふだんの仕事がどうであれ、いざ戦争というときにプロパガンダを流すのは、報道機関と呼べるのか。呼べないような気がします。
今回の朝日系をはじめとするわが国の報道機関は、このまえの戦争のとき、神国最高!戦争超オッケー!なプロパガンダを流しまくっていました。「ニュースを見たら疑ってかかる」つもりでないと、いつ騙されるかわかったもんじゃない。
昭和初期から第二次世界大戦までの「週刊朝日」「サンデー毎日」の記事を、ほとんどすべて、国会図書館のマイクロフィルムで閲覧したことがあった。そのときのマスコミ報道の偏り、でたらめさに、わたしはほんとうに驚いてしまった。けれども、もし、自分がその波のなかにいたら、それが「当然」のことなのだと思いこんでいたかもしれない。
(略)
マスコミと違う次元での情報が自由に流通するインターネットは、危うさを抱える反面、調べる気なら、かなりのところまで、個人で情報を得られる新しいメディアだ。戦前のような一色に塗りつぶされた情報に溺れてしまわないためにも、インターネットをどう使っていくか「普通の人々」が試行錯誤を重ねるべきときだと思う。
寮美千子「Show the flag! の旗は何の旗?」2001年10月05日(金)22時25分36秒
征木高司
消えるテレビ朝日の『ザ・スクープ』が民放の良心だなんて
2002年08月25日(日)04時51分29秒
あんな物
単なる鹿爪らしい娯楽番組を良心と呼ぶほど、
民放は(半官の放送も)腐っているんでしょう。
鳥越俊太郎にしても筑紫哲也にしても
新聞系キャスターはありもしない社会正義を振りかざし
戦後民主主義幻想を振りまくことだけに専念してきました。
自ら無冠の帝王だの、社会の木鐸だのと自画自賛を恥じずに
10年も20年も世を愁いてきました。
オオカミ少年ならぬ、オオカミ親爺、オオカミ爺さんとして……
政治家も悪いがメディアに携わる人間も立派に恥知らずで悪質だったと今思います。
そして誰も何も信じられない「社会という名の地獄」の成立。
その結果が20歳の母親が4歳の息子を蹴り殺し、孫が祖父母を殺す計画を立て、妻が夫を夫が妻をそれぞれ保険金や怨恨であっさりと殺す今の社会です。
毎日あらゆるタイプの殺人や犯罪があり、キャスターに真っ当な神経があったならとっくにノイローゼになっているか自殺するか、職を辞しているでしょう。
にもかかわらず彼らは今の職に恋々としています。
社会正義をぶつのは余程快感があるんでしょうね。
それは
代議士ポストにしがみつく鈴木宗男と何処が違うのか。
老醜の目立つ筑紫はかつて政治家の老害を何度も声高に叫んでいなかったか。
明治の昔から新聞はインチキな物でしたしTV放送も単なる商業的な見せ物に過ぎません。
ボクの意見はただ一言『くたばれTV!潰れろ新聞! 』です。
本当に腐っているのは社会と現代日本人そのものなんでしょうが……
流石に『くたばれ人間!滅びろ人類!』とまでは(今のところ)云えないので(笑)
この正気を保って生きるのが困難な時代、
ボクはささやかに生きる目標というか
生存する基準を設定せざるを得ません。
『ヒトを殺さない。自分を殺さない。ヒトに殺されない。』
この線までギリギリに後退して人間を考えたいと思っています。
辻井 豊
メディアの2ch化?
2002年08月20日(火)23時06分38秒
▽CNNは大本営発表か?/アルカイダのビデオ64本発見 へのコメント
論題の放送について、2ch内では、子猫の虐待をネットで中継したことと同じ、と言う意見も見受けられました。動物虐待自体は、医薬品や化粧品の開発における動物実験云々、いろいろ言われています。しかし、虐待映像そのものは、公共性の高いメディアで垂れ流していいものとは思えません。
ニュースステーションについては、8月15日の南京大虐殺に関する特集でも、取り上げた書籍の、取材時に撮影されたビデオを編集して流しただけでした(2ch系サイトより、テレビ朝日に電話したそうです、録音ありとのこと)。放送では、証言者の年齢について、書籍にある誤植をそのまま流してしまいました。その訂正も、翌日の放送ではなく、週明けの月曜日の放送で行われました。それも、番組終了直前の、よく分からない雑談の最後でした。南京大虐殺について云々する以前に、“変です”。垂れ流し。
朝日新聞のサイトでは、2chの名前を出して、ネットの掲示板を極右と指摘するコラムがあり、一方、読売新聞のサイトでは、名指しこそしていませんが、明らかに朝日新聞を非難していると見受けられる社説が掲載されました。ののしりあいをする前に、大手メディアは、自身を振り返るべきでだと思います。まるで、メディア全体が、2ch化してゆくようで、喜ぶべきか、悲しむべきか……。
ここしばらく、2chでは、ゴミ拾いoff以来、大きな祭りが続きました。毎日新聞、竹島、日本海、靖国、通信料金のおかげで財布が大変です。やっと入った仕事の給料日は、9月末、とほほほ……。早くAirH"にしよう(モバイラーなもんで)。
寮美千子
CNNは大本営発表か?/アルカイダのビデオ64本発見
2002年08月20日(火)13時31分59秒
http://ryomichico.net
▼
CNNがアフガニスタンで入手した64本のビデオテープがニュースになった。アルカイダのものといわれ、ビンラディンの映像や、犬を毒ガスで殺す様子が映っているという。
Previously unseen tape shows bin Laden's declaration of war>cnn.com
米政府、CNN入手のアルカイダビデオ調査へ>asahi.com
アルカイダ、犬で化学兵器の開発実験か>asahi.com
TERROR ON TAPE(動画あり)>CNNアジア版
▼
無邪気な犬が、毒ガスのようなもので苦しんで死んでいく姿を、昨日のテレビ「ニュースステーション」で見た。目を背けたくなるような、残酷な映像だった。胸が痛い。これを見て、胸の痛まない人は少ないだろう。
直前に、兵士たちに囲まれてゆうゆうと歩くビン・ラディンの映像が映る。犬の死を目撃した心の痛みは、ビンラディンの上に投影され、残忍極まりない人物だとの印象を受ける。そして、それがテロの首謀者だと刷り込まれているので、こんな毒ガスでテロをされたら大変なことになると、強い恐れと怒りを感じる仕組みになっている。
強力な宣伝効果がある。9月11日を前に、いくらか鎮静しかかったテロへの憎悪が、いやが上にもかきたてられる。
▼
一体、このビデオの出処はどこなのだろう。カーブルまで車で17時間かけて運んだという記者の冒険談なども掲載されているが、その信憑性はどれだけあるのだろう。
Nerve-racking trip brings terror tapes to light
このテープが本物だとしたら恐ろしいが、本物でなかったとしたら、なお恐ろしい。
▼
犬一匹が殺される映像を見ても、わたしたちは胸がえぐられるような痛みを感じる。アメリカは、アフガニスタンで、他の国で、いったいどれだけの人を「正義」の名の下に、この犬のように殺してきたのだろうか。犬が殺されることに強い怒りを感じるなら、目に見えないところで声もなく殺されていった無数の無名の人々の痛みも感じなくてはいけない。
CNNは、犬が殺されるビデオを流すなら、同時にアフガニスタン空爆で殺されていく人、傷ついていく人を、その現場で撮影し、放送するべきだ。
▼
テロはいけない。けれど「正しい戦争」などどこにもない。今回のニュースが、アメリカのさらなる殺戮を呼ばないことを強く願う。
DORONKO
感謝+返答猶予のお願い。
2002年08月16日(金)00時17分37秒
▽シャイな謝意 へのコメント
勇崎さん>
丁寧なご返事に感謝します。
実際に展示に至るまでのプロセスがよくわかりました。
ぼくの推測が乱暴なものであることはもとより承知でしたが、
これだけ懇切な解説をいただけたのは、ケガの巧妙モンでは
なかろうか?と、自分で自分をホメてやりたいような気さえ
します。
ただし、知れば知ったで、ぼくの疑問もいっそうクリアーに
なったように思うのですが、ぼくも多忙ゆえ、その提示は
追ってのことにさせていただきます。
なお、全体としての東川町国際写真フェスについてのぼくの
印象は、以前にも書きましたが、もちろん◎です。誤解の
ないよう、これは再度強調しておきたいと思います。
寮さん>
なすべきこと多く、すぐにはご返答しかねます。一週間ほど
お待ちいただきたいと思います。
寮美千子
2002年 第18回東川賞受賞者のサイト一覧
2002年08月13日(火)13時43分51秒
http://ryomichico.net
▽旅の収穫/小さくて大きな東川国際写真フェスティバル へのコメント
▼国内作家賞 森村泰昌
http://www.morimura.gr.jp/
キッチュな森村色満載の豪華絢爛百貨店です。
▼海外作家賞 エドウィン・ズワックマン
http://www.akinci.nl/Edwin_Zwakman/Zwakman.htm
画廊のサイト。
小さいながらもズワックマン氏の水の中を思わせる不思議写真が楽しめます。
▼新人作家賞 尾仲浩二
http://www1.ttcn.ne.jp/‾fotos03/onaka/o_mokuji.html
尾仲氏の活動歴や今に至る道筋のわかるサイト。少し低めの体温を感じさせる。
尾仲さんて、千葉の君津出身、新日鉄の団地育ちだったんだ。
▼特別賞 風間健介
http://www2.ocn.ne.jp/‾kazama/
苦労を忍ばせる手作りサイト。
わたしがレビューでほめちぎったのは、以下のページの7の煙突写真。
http://www2.ocn.ne.jp/‾kazama/kazenomati4.html
寮美千子
旅の収穫/小さくて大きな東川国際写真フェスティバル
2002年08月13日(火)03時33分55秒
http://ryomichico.net
▽シャイな謝意 へのコメント
▼旅の後に残る石
旅をした後というのは、不思議なものです。波が引くように、さあっとすべてが遠くなっていって、あっという間にいつもの日常に戻ってしまう。旅の地で見聞きしたあれやこれやが、急に望遠鏡を逆さにして覗いたみたいに、遠いものに思えてくる。
そんななかで、波にさらわれずに浜辺に残る石のように少しずつ姿をあらわす記憶があります。旅の途中で、大切だと心に刻んだものばかりが残るわけではない。思わぬものが、いつまでも心に残り、くっきりと見えることがある。
盛りだくさんの今回の北海道の旅のなかで、東川国際写真フェスティバルは、くっきりと残る岩のような存在です。時間が経つほどに、自分の心の中で、それが明らかになるのが面白い。記憶のなかの写真を何度も反芻しては、いろいろとモノを考えてしまう。つい東川のことを考えている自分がいる。極めて刺激的な知的な催しであったことを、今更ながらに思い知らされます。
▼自己増殖する森村泰昌
なかでも、強く印象に残っているのが森村泰昌氏の写真です。わたしは、森村氏に関する批評は依頼されていなかったので、何のプレッシャーもなしに、ゆったりした気持ちで楽しみました。そして、その印象を分類して名づけ、自分の心のなかにある棚に収納したつもりでした。
ところが、そうはいかなかった。「森村泰昌」は、その写真のように、勝手に増殖し、棚から溢れ、こぼれだしてしまうのです。そして、未知の宇宙生物のようにわたしの心の部屋のなかを、むにゃむにゃと這いずりまわる。「一体、あれは何なんだろう?」と、わたしは問わずにはいられない。分類し名づけうる「既知のもの」だったはずのものが、そうではなかったからです。
そんなわけで、戻ってからのわたしは、一種の森村中毒状態。片っ端から彼の本を読み、写真集を眺め、自分の印象を整理すべく、ぶつぶつと口の中でつぶやいています。すっかり、森村マジックにしてやられたの感があります。好き、っていうんじゃないんだけど、どうしても気になっちゃう。こういうのって、ちょっと質の悪い男に恋したみたいだね。
森村さんご自身が性悪男、っていうのではありません。真実は知りませんが、わたしが読んだ本や作品やご本人の印象では、限りなく誠実な、生真面目、といっていいほどの方だと思います。ふざけたところなんか、少しもない。その、ふざけてないってところがまた奇妙で、気になっちゃうんだなあ。
そんなわけで、近いうちに森村作品に関する感想を述べたいと思っています。しかし、まとまるのだろうか。
▼水のなかのズワックマン
ズワックマンの写真は、いま思うと、水のなかの映像のよう。ゆらゆらと揺れて、輪郭がはっきりしないんだけれど、ある種の清涼感があり、不思議な感じがする。森村写真は、非常に「濃い」写真で、嫌でも印象に残っちゃうんだけど、ズワックマンのは「希薄」。そして、その希薄さがおしゃれでもあり、気持ちいい。確かに、あの微妙なゆらぎのなかから広がりゆく世界があるのかもしれない。
とはいえ、レビューに書いた釈然としなさも残る。「模型を撮影した写真」という点において、芸術とそうでないものを区別なく並列すれば、ズワックマンの写真は突出しないだろう。けれど、「現代美術」とか「芸術としての写真」という狭い範疇で見れば、やはり先鋭的な存在なのかもしれない。そこに目をつけたことは確かに鋭いと思います。けれど、その鋭さは「芸術としての写真」という範疇においてであり、わたしは無謀にも「現代美術」そのものに、モノ申そうとしているのでした。恐いもの知らずのシロートの恐ろしさであります。
▼小さくて大きな東川のイベント
終わってみれば「こじんまりとした」といえるのかもしれないけれど、その渦中にいると、膨大な情報の満ち溢れた東川のイベントでした。よく、あれだけのイベントを18年間も運営してきたと、感心してしまいました。やはり、18年の蓄積あってこその、あのフェスティバルなのでしょう。一朝一夕に真似できるものじゃない。手作りで、じっくり育ててきたんだなあと思う肌理の細かさも大きな魅力でした。
授賞式当日のレセプションに並んだ料理が、すべて地元の人々による手作りの料理だったこともすばらしかった。正直言って、どんな立派なホテルのパーティでも、立食であれだけのものを食べたことがありません。子どもたちの太鼓のパフォーマンスや餅つきと、外国人参加者も楽しめる暖かい雰囲気もすてき。間近で見る打ち上げ花火も、フェスティバルの名にふさわしい華やかなものでした。ともかく、すべてに「心尽くし」が感じられる催し。見てくればっかり派手で、いかにも無駄なところにお金をかけてるなあとうんざりするような凡百のイベントとは大違いでした。
そして、イベントの核心である写真展示そのものや、レクチャーやフォーラムも、とても刺激的ですばらしかった。展示に関して、わたしは不足は感じませんでした。会場となった「写真の町東川町文化ギャラリー」は、そんなに広くはありませんが、狭いとは少しも感じなかった。写真展示も、詰め込みすぎず、ゆっくりと鑑賞できました。点数も、あれ以上あると、見るだけで疲れてしまって印象が散漫になってしまいそう。欲張りすぎず、じっくりと見られるように配慮された点数だったと思います。わたしは、展示の方法がダサイと、それだけで神経が逆撫でされてしまってよく見られないほうなのですが、そんなことは少しも感じなかった。やはり、18年のノウハウの蓄積が、あのような展示を可能にしたのだと感じました。
こういうことは、もっと早く書けばよかったんだけど、脳みそから溢れちゃいそうなさまざまなイメージに翻弄され、そのなかで仕掛かりの仕事もこなさなくちゃいけなかったので、報告が遅れてしまいました。ごめんね、勇崎さん。ご丁寧な解説、お忙しいのにほんとうにありがとう。勇崎さんの誠意には頭が下がります。
▼韓国と沖縄
韓国の写真の町の催し、きっと大興奮だと思います。向こうは「本気」だろうから。なんか腰の入ってなかった「フォトシティ相模原」とは、わけが違うだろうなあ。
沖縄での岡本太郎の写真展、見たいなあ。わたしは、岡本太郎の仕事のなかでは、写真がいちばん好きです。あれは、すごいよね。ウチナンチュウの目で選んだっていうのも魅力。
ところで「写真甲子園」と同時開催で「おやじギャク甲子園」を!という構想があります。もちろん、国内作家賞は毎年勇崎さんに決まり? 本多信介氏と競るかもね。いずれ丙丁つけがたい強烈なおやじギャクを繰りだすから。では、行ってらっしゃい!
寮美千子
わたしの批評の姿勢について
2002年08月13日(火)03時28分57秒
http://ryomichico.net
▽風間氏の人および作品について。 へのコメント
▼寮美千子のシロート批評について
寮美千子は、写真評論家でもないのに、勝手に東川の写真に関するシロート批評を書いています。これは、東川のイベントやその選考のありかたを批判するものではありません。批判する必要もないしね。純粋に写真に対する感想です。(読めばわかるけど)
わたしは、せっかく勇崎さんが呼んでくれたし、いろいろとモノを考えるきっかけを与えてくれたので、それを「ああ、楽しかった」ですませないで、少しでもみんなに還元したいと思って書いたのでした。そうやって、少しでも何かを伝えていくのが、招待してもらうという特権を得た者の務めだと思うからです。
で、わたしの批評の仕方は、まず、わたし自身の直感的な印象を述べる。これは、わたしがそう感じてしまったのだから、仕方ない。いいも悪くもなく、そう感じたということです。そして、自分がなぜそう感じたかを分析してみて、その結果を述べる。そういうプリミティブな手法です。作品を現代美術のなかのどこに位置づけるかとか、そういうことには、わたしはあまり興味がありません。
その意味では「批評」というより「感想」といったほうがいいのかもしれない。とはいえ、どんな素人でも批評する権利はあり、また裸眼の言葉が「王様は裸だ」という批評にもなりうる可能性もあるわけで、だからあえて「批評」と名乗らせてもらいました。
▼DORONKO氏へ
ぼくは、風間氏の一連の作品は、彼なりに誠実に対象に向き合うことの中から生まれてきた、「愛情のこもった」作品だと思いました。
愛情のこもってない作品というのも世の中にはあるのかもしれないけれど、商業写真じゃなくて自分の作品ならば、いくばくかの愛情なしには、撮れないと思います。だれだって。だから「愛情があればOK」じゃあ、批評は成立しないと思う。
DORONKO氏のいう「愛情」とは、何に向けられた愛情なのか、わからなかった。被写体に対する愛情? 写真に対する愛情? 写真を撮っている自分に対する愛情? 被写体に対するものなら、それをどう捕らえての愛情? 産業遺跡として? それとも、純粋造形物として? 風間氏の写真からも、それが読みとれなかった。そこが、わたしにはもどかしかったのです。もちろん、わかりやすい一方向の愛情である必要なんかない。でも、それが複合した愛情なのであれば「豊饒」を内包した混沌ではなく、単なる「曖昧」となっているところが、残念でした。
そしてぼくは、他人の愛し方について、「それは違うんじゃないか?」とは、少なくとも大声では言いたくない人間なのです。彼には彼の流儀というものがあるのだし、ぼくが彼の流儀ゆえに多大な迷惑をこうむる――というような関係にはないことも明白だと思いますし。
そういったら、批評なんて存在し得ないと思う。もし、その体でいえば、わたしが風間氏の写真に関してどう感じたかについても、わたしの感じ方なんだから「それは違うんじゃないか?」とは大声でいえないのでは?
だったら、彼には「好きにしてもらえばいいんじゃない?」というのがぼくの考えです。これは、今後の彼の活躍に期待していないというようなことでは、まるでないのですけど。
それはつまり「関心ない」ってことに聞こえてしまうんだけど。憎まれ口たたかれるより、無関心の方が、ずっとキツイと思うんだけどなあ。憎まれ口は、少なくとも関心を持った証拠だし。「愛情」の反対は「憎しみ」ではない、「無関心」だっていうじゃない。
わたしは、DORONKO氏の生の感想が聞きたかったのだけれど、聞こえてきませんでした。それは、とりもなおさず関心がない、ということなのかもしれないけれど、ほんとにそうなのかなあ。ほんとうは、何か感想を持ったんじゃないかと思うのだけれど。
DORONKO氏は、尾仲浩二氏の写真について「門坂流と同じモチーフでは」と関心を持たれていたようでした。尾仲浩二氏の写真についてなら、生の感想を聞けるのかな。期待します。
追伸:
寮さんが「廃墟という巨大な玩具を前にして、写真家は光で遊んでいたのだ。」と述べているのは、とても的確な指摘だと思います。ところで、寮さんのこの指摘は、正確には、とりわけ「ストロボの効果」のことを指しているのだと思いますが
それも指していますが、それだけを指しているわけではありません。矮小化しないでください。
勇崎哲史
シャイな謝意
2002年08月12日(月)21時33分35秒
▽脇道の話。 へのコメント
▽海外作家賞 エドウィン・ズワックマンに関する批評をアップ! へのコメント
▽ 韓国でも「写真甲子園」めざせ!/「岡本太郎の沖縄」那覇展 へのコメント
DORONKOさま>
遠路、東川町にお越しいただき、ありがとうございました。
充分なおもてなしもできませんでしたが、それなりに楽しんでいただけたご様子だったので、内心、胸をなでおろしています。
さて、コメントを求められ、多少逡巡しました。といいますのは、この件について私人として答えることは、ある方面に誤解を生じさせかねなく、この板に返答すべきかどうか迷ったからです。とはいうものの、貴兄が誤認されている件について表明しておかなければ、現地にお越しでない多くのみなさまには、それを実態として受けとめられる危惧もあり、その点について、当事者としてコメントさせていただきます。
▼wrote1
>全体の予算や、4つある「東川賞」の中での「特別賞」の位置付け等の
>理由により、現実には、まず実現不可能なこととしてしりぞけられ
>ねばならなかったに違いありません。
▼wrote2
>作品のチョイスから展示のスタイルに至るまで、氏自身にどの程度の
>自由と権限があったのかについても、ぼくには大きな疑問があります。
>おそらく、実際には、そのプロセスは「<写真の町>実行委員会」に、
>ほとんど「おまかせ」だったのではないかと、ぼくは思っています。
東川賞受賞作家作品展の展示作品は、作家より作品を借り受けて展示する方法をとっており、また、▼wrote1で推測されておられるような、賞に軽重のランクをつけるようなことは一切行っていません。展示形式や仕様が作家毎に異なるのは、当然ながら作家とその作品毎に展示形式や仕様が異なるとともに、作家の意思や意図をまず第一に尊重しているからです。
また、この展覧はキューレイターが企画計画する選抜グループ展(sellected exhibition)やキューレイターによるアンソロジー展等ではありませんので、▼wrote2のようなことは基本的に一切ありません。「基本的に」としたのは、作家によってはキューレイターに一部や全てを託される場合もあるからです。その場合においても、試案を作家に提示し、合意を得てから執行します。そこに作家自身が関与しなかったとしたら、それは作家とはいえません。ちなみに、話題となっている作家氏の場合は、「基本」に準じております。ただ、気の毒だったのは、氏は腰を傷められここのところずっと体調を崩されておられたことです。
参考までに、本展についての制作プロセスを明記します。
1)4人の受賞作家と面談(海外の場合はメールやファックス)にて展覧についての打ち合わせを行います。このとき、作家の希望を引き出すようにつとめ、おおまかな展覧イメージと展示規模について語り合います。
2)ギャラリー展示室を4つの個展会場に仕切りますが、まず、どの作家順で展示していくのが、相互に活かしあえるかを考慮し、全体の流れを考えます。
3)受賞事由と作家の希望とを勘案した展示壁面延長距離を考え、全体並びに作家ブース毎の縮尺1/50の平面図と展開図を作成し、それを各作家にお送りし、実際の展示計画のラフ案を練ってもらい、返信いただきます。
4)各受賞者は他の受賞者をからめた展覧全体の流れを知った上で、自身の希望を平面図や展開図に図示ししたものが返信され、当方は、それを正確な縮尺で図面に落とし込み、再度返信します。受賞者の希望を読み込んで、平面プランを改訂して再提案する場合もあります。今回では、新人作家賞のブースのプランは当方で2度再提案しています。
5)双方の確認がとれた時点で、展覧内容が確定しますが、受賞者が現場にて手直しの指示を行い、それにより対応する場合もあります。
▼wrote3
>ここで、東川町国際写真フェスティバルについての、ぼくの全般的な
>印象を述べておくと、内容が実に盛り沢山である反面、その当然の
>帰結として、予算が「薄く広く」使われているのは、まず間違いない
>だろうと思いました。
東川町国際写真フェスティバルは、フェスティバルとしてはとても小規模のものです。海外からいらした方々からは「小さいけれど、とてもチャーミングなフェスティバル」等と評されています。写真の神様ロバート・フランク氏はこの評に惹かれて、13年前に来て下さいました。今年の海外作家賞受賞者のズワックマン氏は設営中の会場に入るや、「ここはアット・ホームな感じで、日本に来てから、やっとホッできる場所にきました」と感想を述べて下さいました。
フェスティバルとしては決して内容は盛りだくさんではありません。予算が「薄く」感じられたのは、確かに低予算で開催しているからです。海外のフェスティバルに比べると費用規模は1/15〜1/30といったところです。人口7,500人の小さな自治体ですので、お金をだいじに使っているつもりでいます。
余談ですが、このようなことからも、韓国の人たちは東川町をモデルにしやすい、と感じられたのかも知れません。
寮さま>
東川ではありがとうございました。
ご登場いただいた「受賞作家フォーラム2002 写真の楽園」では、パネラーとしてたいへん痛快で独創的な鋭い切り口でのご発言をいただきありがとうございました。4時間にも亘るフォーラムでしたが、これまでのフォーラムのなかでも、とても興味深くスリリングな素晴らしい内容となりました。心より感謝申し上げます。
レヴユーでのズワックマン氏評について、なるほど、と思いますが、沖縄から帰って落ち着いた頃、反論的なレスをさせて下さい。氏のフォーラムでの話はまとまりがありましたが、スライド・レクチャーは短時間、ということで、趣意を端折りすぎて“なか抜け”が多く、本人としても不本意な内容となったようです。
僕自身、彼はオランダ人としての“持ち前”を発揮されたストイックな作家として注目しましたし、とても素晴らしい作家に受賞いただけたと喜んでおります。
鳥海さま>
韓国の記事のご紹介ありがとうございます。
15日から沖縄に行って来ます。
僕は今回の展覧ではプリント制作から額装までを担当しました。いわば業者的な役割であって、プロデュースはしていません。作品のセレクションと構成などは当地の友人たち・沖縄ネイティヴの眼によって行われていて、そこには僕らとは違った価値観が示されていますので、会場での展観がとても楽しみです。
吉木克実
どうとるか、またそれはそれで創造。
2002年08月12日(月)18時17分48秒
▽宮本隆司の廃墟写真/複製芸術としての写真 へのコメント
写真に限らず、表現されたものは、「何を表したか」と同時に「何を感じたか」という次元で、
またそこから違う何かが始まったとしても、むしろ当たり前の話。
僕としては、自分なりに「何か」を感じたから、対象の創造主に興味を持つ。
自分を触発してくれたことに、大いに感謝したい。
だから、まず作品。
その次に作者。
あ〜仕事の山、山、山・・・
な〜に書いてるんだか自分でもよ〜わからん。
ごめんなさい。
鳥海
韓国でも「写真甲子園」めざせ!/「岡本太郎の沖縄」那覇展
2002年08月12日(月)03時14分47秒
http://6004.teacup.com/michio/bbs
貴掲示板でいつも多くの情報を提供いただく勇崎哲史さんの活動が、
朝日新聞で紹介されていました。
会場内の光景もカラー写真で掲載されています。
以下に全文を転載させていただきます。
また、同じく、勇崎哲史さんがプロデュースされる
「岡本太郎の沖縄」那覇展の情報について、再掲させていただきます。
●韓国でも「写真甲子園」めざせ!
高校生による写真コンテスト「写真甲子園」などを主催し、
写真で町おこしをしている北海道東川町にならい、
「写真マウル(郡)」を宣言した韓国の江原町寧越郡で
写真フェスティバルが開かれている。
韓国の代表的な写真家の作品展などが17日まで行われ、
連日多くの人が会場を訪れている=写真、撮影・柏木和彦。
95年に韓国人の写真家・金秀男氏が東川賞海外作家賞を受賞した。
これをきっかに、同郡が昨年9月、「写真マウル」宣言を行った。
4日にはプランナーで写真家の勇崎哲史さんが同郡を訪れた。
勇崎さんは「韓国の熱意に驚いた。活動が隣国にまで広がってうれしい。」と話す。
2002年8月9日(金)付朝日新聞夕刊【関西版】
●「岡本太郎の沖縄」那覇展
会場:那覇市民ギャラリー
那覇市久茂地・パレットくもじ内
会期:2002年8月13日(火)〜18日(日)
写真展示点数:約150点。他に、絵画、彫刻作品の展示。
8月13日 岡本敏子さんの講演
8月17日 シンポジウム
(以上は当方掲示板の掲載文を一部改編して転載させていただきました)
DORONKO
風間氏の人および作品について。
2002年08月09日(金)12時48分14秒
▽宮本隆司の廃墟写真/複製芸術としての写真 へのコメント
寮さんのレビューにも「口べたでシャイな写真家」とあるように、
風間健介氏は、一見、「捉えどころのない」ような雰囲気の持ち主
です。しかし、風間氏の来歴についても、作品についても、多くを
語りうるほどのことをぼくは知っているわけではありませんが、
手元にある簡単な資料を見ただけでも、彼の活動はなかなか多彩な
ものですし、その作品も、単に地味で寡黙なものというわけでは
ありません。作品そのものは、むしろ、彼の風貌に反するかのように、
華麗さを秘めたものと言うべきかも知れません。寮さんが「廃墟という
巨大な玩具を前にして、写真家は光で遊んでいたのだ。」と述べて
いるのは、とても的確な指摘だと思います。
ところで、寮さんのこの指摘は、正確には、とりわけ「ストロボの効果」
のことを指しているのだと思いますが、ぼくは、「写真家は光で遊んで
いた」ということは、彼の作品全般に共通する特徴であると見てよいの
ではないかと思います。もちろん風間氏にも、自然光で撮影した作品が
あるに違いありません。しかし、ぼくはそれらを見てはいませんし、今回、
東川町のフェスティバルで展示されていた作品は、そのどれもが周到な
ライティングの技法を駆使したものだったように思います(会場でも、
ぼくは一点一点を仔細に見たわけではありませんし、今は、おぼろげな
記憶だけを頼りに書くしかないという事情を勘案してほしいと思います)。
そして、おそらく、氏の作品の長所も短所も(それは同時に、見る者に
とっての好き嫌いの分かれ目にもなるわけですが)、このライティングの
用い方ということにかかわってくるのではないかと思います。
考えてみれば当然のことだとも思うのですが、世に「スポットを当てる」
という言葉もあるように、ライティングには、主題を明確にし、強調する
という作用があります。その反面、「主題ではない部分」を、まったく
視えなくする=不可視の領域に追いやるとは限らないにせよ、やはり、
ある程度は「影の領域に追いやる」という側面が出てくることは
避けがたいことでもあると思います(ライティングに堪能な写真家
ならば、よいか悪いかは別として、このマイナスの側面をほとんど
感じさせないような撮り方も可能だろうとは思いますが)。
ここで、風間氏の作品に話を戻しましょう。抽象論ばかりでも仕方がない
ので、ここでは、寮さんも言及していた今回のフォトフェスタのチラシに
使われている作品に絞っての話にします。まず、これをご覧になっていない
方のために簡単に説明してみると、この作品は、解体途中の工場のような
建物の夜景が、画面の中央に、大きく、そびえるように捉えられています。
夜景ですので、(ましてこのチラシでは)はっきりとは判別しがたい部分も
含めて、全体の構図にも力感があり、寮さんも描写している「闇の中から
浮かびあがる、ねじまがり、破壊され、錆びついた剥きだしのパイプ」の
たたずまいにも、どこか妖しいような魅力があります。これがかなりの
力作であることは、まず疑いないでしょう。
ところで、この作品において、上述のようなライティングの技法がどの
ように使われ(生かされ)ているかという点に注意して見てみると、まず、
光と闇の対比(コントラスト)が鮮明で、なおかつ、光を受けて顕わに
なった部分が、一種の“濃密な闇”をたっぷりと抱え込んでいることが、
この作品の魅力の重要な源泉の一つになっていることがわかります。
(この光と闇の関係は、まったく逆転させて、一瞬、光の中に浮かび
あがった部分が、大きな闇に包囲されているという危うさに魅力があると
読み変えることも可能ですが。)すなわち、この作品においては、闇も
「主題を構成する重要な要素」になっていると言ってよいだろうと思い
ます。
ぼくには、風間氏が実際にこの作品を撮った時に、上述のような効果を
どの程度意識し、あるいは「計算に入れて」いたのかはわかりません。
ごく常識的には、かなりのキャリアの持ち主である氏に、その効果が
読めていなかったはずはないと考えてよいでしょうが、問題は、その
効果云々ということではなくて、まさにこの作品に結実しているような
「見え方」にこそ風間氏は「美」を見い出しているのであって、その
「見え方」や「撮り方」自体は、氏の資質に由来するものに他ならない
のではないか、ということです。寮さんの言葉で言うなら、そこに
彼の「意志」が現れていることは明白だと、ぼくは考えます(だから
といって、彼が「言葉で」その意志についてうまく語ることができる
とは限りませんが)。
つまり、ぼくが先の書き込みで言いたかったことは、それは資質なり
好みの問題であって、よいか悪いかということとは区別して考えるべきだ
ということに他なりません。
一方でぼくは、もっと違った=「風間氏のようではない」“廃墟の撮り方”
というものがあってよいと思いますし、おそらく、ぼくの好みは、
そちらの方にあるのではないかと思っていますが、ぼくは元来が極めて
散文的な人間で、寮さんほどに廃墟というもの一般に強く魅かれる
ということはありません。ですからなおさらに、廃墟の撮り方は「かく
あるべし」と言わんばかりの寮さんのレビューのトーンには、やや
異和感を抱いたのでした。しかも、寮さんは「題材が廃墟ときいて」と
書いているけれど、今回のフェスティバルの公式ガイドブックである
「写真の町/通信」18号にも、「夕張炭坑遺跡にかかわる一連の作品」、
「使命を終えた採炭のプラント群が、満天の星を仰ぐ夜空の下で朽ち果てる
のを待つかのようにたたずむ映像」等とは書いてあるけれど、風間氏が
廃墟専門の写真家であるなんてどこにも書いてはないし、風間氏自身も
そんな肩書きを自称したことがあるとも思えないので、「それって、
ないものねだりなのでは?」と、ぼくには思えたのでした。
最後に、せっかくですから、ぼくが夢想する理想的な廃墟の写真という
ものについてのイメージを述べておくことにしましょう。それは、
「かつてあったもの」のどんなかすかな気配や痕跡をも見落とすことが
ないような鋭敏な感受性によって写し撮られた、見る者を圧倒するような
細部の輝き=生命感に満ちたような写真です。それは、不在や欠落が
あまりに明白であると同時に、それ自体で限りなく充実しているという
奇妙な空間の記憶のようなもので、その充実ゆえに、かえって実在と幻の
境界があいまいになり、「意味」を問うことが無意味になるような空間の
イメージです。これは、寮さんが「意味のないもの」であるべきだと
述べていることと、やっぱりどこかで通じてるんじゃないかと思いますけど。
ぼくは、風間氏の一連の作品は、彼なりに誠実に対象に向き合う
ことの中から生まれてきた、「愛情のこもった」作品だと思いました。
そしてぼくは、他人の愛し方について、「それは違うんじゃないか?」
とは、少なくとも大声では言いたくない人間なのです。彼には彼の
流儀というものがあるのだし、ぼくが彼の流儀ゆえに多大な迷惑を
こうむる――というような関係にはないことも明白だと思いますし。
だったら、彼には「好きにしてもらえばいいんじゃない?」というのが
ぼくの考えです。これは、今後の彼の活躍に期待していないというような
ことでは、まるでないのですけど。
*寮さんのレビューを読み返してみると、これでは全面的な返答には
なっていないと思いますが、こんなところで容赦してもらいたいと
思います。
寮美千子
海外作家賞 エドウィン・ズワックマンに関する批評をアップ!
2002年08月08日(木)18時20分01秒
http://ryomichico.net
▼Review Lunatique:写真批評/エドウィン・ズワックマン へのコメント
東川国際写真フェスティバルで海外作家賞受賞のエドウィン・ズワックマン氏に関する批評をレビューにアップしました。読んでみてください。同時に、ズワックマン氏本人による作品解説の概要もアップしてあります。
追って、国内作家賞を受賞した森村泰昌氏についても書きたいと思っています。森村氏は「自分で作りこんだものを被写体にする」という意味においてズワックマン氏と同様の手法をとっていますが、わたしが受けた印象はズワックマン氏の作品から受けるものとは大きく離れていました。強いインパクトを受け「面白い」と感じ、しかもいろいろと考えさせられてしまったのです。一言でいえば「人を殺してやりたいと思うことと、実際に殺すことの間には、大きな隔絶がある」ということ。森村氏はその隔絶を飛び越えてしまっている人だ、ということです。その隔絶の謎に迫りたいと思うわたしでした。乞うご期待。
寮美千子
宮本隆司の廃墟写真/複製芸術としての写真
2002年08月08日(木)18時07分53秒
http://ryomichico.net
▽廃墟の写真(廃墟に想う) へのコメント
▼辻井豊さま
コメントありがとう。
廃墟の写真でわたしが好きなのは、宮本隆司氏のもの。
『建築の黙示録』(平凡社1988)は、廃墟を正面からじっくり見据えて撮っていることが感じられる写真。余分な情報、過剰な情報がなく、その分廃墟が廃墟としてそのままに立ちあがってきます。カメラを構える位置も、じっくりと吟味され、一ミリのブレもなく「ここでなくては」と決定されていると思わせられる写真です。
同じ宮本隆司氏の写真集に
『九龍城砦』(平凡社1997)があります。これは廃墟ではなくて実際に人が住んでいる迷宮状態のスラム。映画「ブレードランナー」の街のイメージはここから来ているのでは、と思わせられるような作品です。必見。
実は、わたしの小説
『ノスタルギガンテス』(パロル舎1993)に登場する写真家「宮木」は、宮本隆司氏の名前をもじったもの。といっても、卑俗な写真家として描かれていて、決して宮本隆司氏に喜ばれるようなものじゃないんだけれど、わたしとしては宮本氏に敬意を表しての名づけのつもりでした。
香港の九龍城は区画整理され、すっかり解体されて、いまではきれいな公園に生まれ変わっています。解体前の九龍城を見られなかったことは、一生の悔いです。
▼DORONKOさま
で、きみはあの写真を見てどう思ったのか、何を感じたのか、それを聞かせてください。
それとも「作者の意図を充分に反映していない展示なので、感想を述べることはできない」ということでしょうか。
ズワックマンは「5メートル×6メートルくらいに引き延ばして展示して欲しかった」といっていました。模型のパワーショベルが実物大になるような、そんな大きさを求めていて、その大きさにこそ意味があるといった発言をしていました。それが作家の本意であり、その大きさまで含めて作品なのだとは思います。しかし、会場に展示されたものでも、充分に評価できるようなものであったはずです。
ズワックマン本人が語っているように、複製芸術としての写真作品を最初から標榜しているのであれば、それはあらゆる形で複製される可能性があり、インターネットでの小さな写真ならともかく、あのような形で展示されれば、それはもう充分に評価に値するものであると思います。
「本物」を見なければわからない、という意見はあります。それも真実ですが、しかし、本物を見なければ語ることは許されない、のだとしたら、批評のフィールドは痩せてつまらないものになってしまう。本物を見る機会を得られるた少数の特権的な人々のものになってしまう。ましてや、これは門坂流の版画ではなく、写真です。しかも、展示されていたのはオリジナル・プリントの写真です。批評する意義は充分にあると思います。
で、再度聞きますが、あの写真を見たきみの感想は?
DORONKO
脇道の話。
2002年08月08日(木)10時41分19秒
▼Review Lunatique:写真批評/風間健介「星啼の街」他 へのコメント
いずれ勇崎さんから弁明があるものと思っていましたが、その勇崎さんが
「ごもっとも」だというのであれば、すべては「ま、いっか?」という
ことになるんだろうか?
ともあれ、ぼくも今回、初めて東川町国際写真フェスティバルにフリの
見物人として行ってきた身なので、「周辺の事情」というものについての
ぼくの考え(ほとんどは推測による)を述べておきたいと思います。
まず、風間氏の仕事に関しての今回の批評で、寮さんの気持はよく分かり
ました。彼の仕事が、寮さんが望むようなものには見えなかったことを
惜しむ気持は、ぼくにも理解できないものではありません。
しかし、あの会場での展覧の様子を実際に見たぼくとしては、同時に、
以下のようなことも考慮してほしい、考慮しなくてよいのだろうか?
という気もするのです。
すなわち、今回の東川町国際写真フェスティバルの会場における風間氏
の作品の展示は、あくまでも同フェスティバルの特別賞受賞を祝しての
ものであって、あれは決して、彼個人の作品展ではなかったということ
です。もし、あれが風間氏の個人展であって、そのタイトルも「風間
健介展“廃墟を撮る”」とでもいうものだったなら、今回の寮さんの
レビューは、全面的に支持すべきものだろうとぼくも思います。
しかし実際には、今回のフェスティバル会場における展示について、
作品のチョイスから展示のスタイルに至るまで、風間氏自身にどの程度の
自由と権限があったのかについても、ぼくには大きな疑問があります。
おそらく、実際には、そのプロセスは「<写真の町>実行委員会」に、
ほとんど「おまかせ」だったのではないかと、ぼくは思っています。
ここで、東川町国際写真フェスティバルについての、ぼくの全般的な
印象を述べておくと、内容が実に盛り沢山である反面、その当然の
帰結として、予算が「薄く広く」使われているのは、まず間違いない
だろうと思いました。
ここで、風間氏の作品の展示の話に戻ります。寮さんは彼の作品に
ついて「実際には、圧倒されるほど巨大であるはずの発電所の発電機も、
その重量も大きさも感じられない。」と評していますが、ぼくは、
その印象は、作品のチョイスと展示の仕方によっては、相当の程度まで
変わりえたのではないかと思っています。たとえば、複数の壁面を
巨大なプリントによって覆いつくし、廃墟の内部に誘い込むような
展示も「あらまほしき」ものだったとは思います。しかしそれは、
全体の予算や、4つある「東川賞」の中での「特別賞」の位置付け等の
理由により、現実には、まず実現不可能なこととしてしりぞけられ
ねばならなかったに違いありません。実際の風間作品の展示は、すべて
四つ切り(?)で統一されていたような、ごくつつましいものでした。
ぼくは、あれはあれでよしとすべきものではなかったかと思って
いますが。
それにしても、廃墟にかける寮さんの想いは、何ともゴージャスなもの
なのだな、という思いを新たにしました。次の世代に伝えるべきものと
しての「文化」は、それぐらいの想いがなければ生み出しようもない
ものなのだろうなと、これは自戒の念を込めて感じたことです。
勇崎さんのコメントをお待ちします。
勇崎哲史
必見
2002年08月07日(水)22時27分19秒
▽写真批評/風間健介「星啼の街」 へのコメント
さて、ごもっともでございます。
さてはて、本日もどりました。
いやはや、ソウルはエネルギッシュでございました。
つまりは、ソウルの夜は必見ともうしませう。
辻井 豊
廃墟の写真(廃墟に想う)
2002年08月06日(火)00時53分05秒
▽写真批評/風間健介「星啼の街」 へのコメント
ご無沙汰しております。それから、初めての方へ、初めまして。
さて、論題の写真展ですが、見てないのでなんとも言えません、ごめんなさい。
風景写真って、見た時、自然と音楽や物語が浮かんできませんか?はっきりとしたものの時もあれば、なんとなく、ぼやーっとした時もありますが。同じ物を見ても、人それぞれ重ねるものの違いによって、違った感想になるのが面白いですよね。レビュー中にあった、写真家さんの発言は、分からないではないですが、なんか、種明かしを聞いてしまったようで、がっかりです。
それから、“廃墟”、私も好きです。でもあまり生々しい廃墟はちょっとだめ。たとえば、最近まで戦闘が行われていたり、疫病の為に遺体が残されたままの。“廃墟=かつて、ここに人がいた”ぐらいの状況がいいです。やっぱり、“廃墟=文明の終わり”のイメージでしょうか?
“文明の終わり”といえばSF作家“光瀬龍”です。定番中の定番は、“失われた都市の記録”。個人的には、“オーロラの消えぬまに”が一等好きなのですが……。はっ!何書いてんだか??
大石雅寿様、PLCの話、参考になりました。リンク先のサイトもちょこっと拝見させていただきました。デジタル機器って、電磁シールドについて無頓着ですよね。動作周波数はどんどん上がってきているのに。それに、矩形波は高調波成分が無視できない。ああ、日本橋(大阪の)が、オーディー一色だった時代が懐かしい……。
大石雅寿
寮さんのリクエストにお応えした,重ーーーーい話題
2002年08月05日(月)16時24分53秒
▽写真批評/風間健介「星啼の街」 へのコメント
寮さん,こんにちは。短波帯の話を書き込みます。重い話題でっせぇ。
この文章は,ある委員会への報告のために書いたものなので,「である」
調になっていますが,「ですます」に直すのも面倒なので,ゴメンしてね。
それにしても,「おいしい話」には気をつけないと痛い目に会うと
つくづく思いましたね。このPLCだって,宣伝文句は「特別な投資を
しなくてもお手軽にブロードバンド通信が手に入ります」ですからね。
もし,阻止できていなかったら,気づかないうちに病院の医療機器が
誤動作して人が亡くなったり,飛行機を管制するための無線に障害が
生じて空中衝突が連続していたかもしれません。げに恐ろしきは,
電波公害。
================================
電力線搬送通信(以下,PLCと呼ぶ)は,100Vの低圧商用電力を供給する電力線を用いてデータ通信を行うものである。
現行の電波法では,PLCに使用できる周波数帯は,無線通信への影響を考慮して10kHzから450kHzと定められているため,低速のデータ通信(9.6kbps程度)に利用されている。しかし,近年のインターネットの高速化等に伴い,数10Mbps程度の高速データ通信への利用を図るため,電気通信事業者から利用周波数帯の拡大が要望されている。政府のe-Japan重点計画においては,「電力線搬送通信設備に使用する周波数帯域の拡大(2MHz〜30MHzを追加)について,放送その他の無線業務への影響について調査を行い,その帯域の利用の可能性について検討し,2002年度までに結論を得る。」こととされている。
そこで総務省は,PLCの高度化のための使用周波数の拡大について,既存無線通信との共用の可能性及びその条件を検討するため,2002年4月に研究会を立ち上げ同年7月までに結論を得ることとした。研究会(電力線搬送通信設備に関する研究会)の第1回会合は4月23日に開催され,東北大学電気通信研究所の杉浦行(あきら)氏を座長に選任,ヒアリングWGと実環境実測WGを設置し,武蔵工業大学の徳田正満氏を両WGの主査に選任した。
日本では,大学等において13−30MHz帯(HF帯)を用いて,微弱な銀河電波,太陽電波や木星電波の観測が盛んに行われ,多くの天文学成果を生み出している。例えば,木星電波の観測から,木星磁気圏で発生する擾乱現象(オーロラ活動)を探る手掛かりが得られる。惑星のオーロラ活動に伴って強力な非熱的電波が放射される例は,唯一木星電波のみが電波の窓を通して地上から観測可能である。例えば,木星電波の定常的な観測データに基づいて,磁化した惑星と太陽風との相互作用や惑星における粒子加速の研究が行われている。また,太陽で発生する爆発現象に伴って広い周波数にわたり電波が放射されるが,その中でもHF帯の成分(低周波成分)はコロナ外縁部から惑星間空間につながる領域のプラズマ擾乱を反映している。よって,低周波の太陽電波の観測は,太陽で発生した擾乱が如何にして遠方へ伝搬してゆくかを解明する上で重要なデータとなっている。また,ここ数年太陽系外惑星の発見が相次いでいるが,HF帯の電波天文観測は,太陽系外の惑星(木星型)の探査に使用できる可能性をもつ周波数帯として,天文学的に極めて重要である。さらに,太陽活動による惑星間空間の磁場の乱れを観測して,飛行物体の安全性を確保するというような応用の観点からも,低周波成分を含めた太陽電波の定常観測が実施されており,そのデータは太陽擾乱が宇宙環境へ及ぼす影響を監視・判定する一助になっている。
さて,現在米国などで用いられているPLCモデムの出力などのパラメータを用いて干渉計算を行なったところ,短波帯(13.36-13.41 MHz,25.55-25.70 MHzに電波天文への一次割当がある)で観測を行う電波天文台に極めて強い干渉が起き,干渉を避けるためにはおよそ100kmの離隔距離が必要であることが分った。私達はこの計算に基づき,天文研連からの「懸念表明決議」をいただいた上でヒアリングWGに臨んだ。また,日本天文学会からも総務大臣宛ての要望書を出していただくことができた。さらに,同様の懸念を持っていた,短波放送(NHKなど),航空管制,漁業無線(国土交通省),日本医師会,アマチュア無線連盟などと連携しながら,研究会や実環境実測WGにおいて意見を述べた。
実測WGでは,東北大学,電気通信大学の研究者と共同して短波帯におけるデータ取得のみならず,VHF/UHF帯(327MHz帯)での測定も行い,強大なスプリアス放射が存在することを明らかにした。同時に測定を行なっていたアマチュア無線連盟は,たった1対のPLCモデムから約150m離れていても短波ラジオの聴取が不能になることを示した。
最終的には,多くの無線業務に対して有害な干渉を与え得ることが明確になり,PLCのための規制緩和は見送りとなった。但し,有害干渉を与えければPLCは魅力的であることは否めず,実験のための枠組みを総務省が検討することとなった。
なお,PLCについては,反対派が結束して行動したことが大きいと言えるが,マスコミ(朝日新聞,毎日新聞,読売新聞など)が我々の要請に応えて報道してくれたことが大きかった。
http://www.inv.co.jp/‾jg1rvn/
寮美千子
写真批評/風間健介「星啼の街」
2002年08月04日(日)01時47分08秒
http://ryomichico.net
▼Review Lunatique:写真批評/風間健介「星啼の街」他 へのコメント
東川町国際写真フェスティバルにゲストとして招かれ、受賞作家を囲むフォーラムに参加させてもらいました。そのときに述べた感想に、言い切れなかったことをちょっと追加して書きました。まずは、風間健介氏の「星啼の街」批評から。これって、辛口過ぎる? レビューをご覧ください。
吉木克実
いやいや、ほんと刺激的緊張あふれる一週間でした。
2002年07月26日(金)04時22分06秒
▽2ちゃんねる用語に関する(休むに似たりな)考察 へのコメント
>活字が、結果的に中央集権を強化したのに対し、インターネットは権力や情報の一極
>集中を破壊し、別の力を発揮させる可能性のあるツールです。しかし、だからこそ、
>権力はこれを統制しようとしたがる。
>2ちゃんねるは、いま現在進行形で壮大な実験をしているのだと思います。損害賠償
>で訴えられても、安易に閉鎖したりしないでがんばりつづけるひろゆき氏(2ちゃん
>ねる主催者)はエライ。ほんとにエライ奴だと思う。
>ただ、すべては未知だから、いい結果だけがでるとも限らないし、弊害も噴出してくる。
>上からの権力によらずに、いかに「世論」として自律的にこれをコントロールしていけるか。
>そのへんが問われているのだと思います。結局ダメだよね、権力で縛らなくちゃ、
>ということになると、わたしたちは自らの首を絞めることになる。
自らの良心が認める権力ならば迎合も(楽だから)ありかなと思うこともあるけど、
やっぱり、縛られるのは嫌だし、判断は自分でしたいしね。
2ちゃんねるの特質って、「匿名」の無責任性を器用に「武器」や「緩衝材」に変えてるところかなって気がする。
きれい事より本音が優先するところも長所かな?
なんか、絶賛2ちゃんねるみたいになってきたけど、「両羽の刃であればこその存在価値」ってことで、僕はしめくくらせていただきます。
(でも・・・ あんなとこ表にしちゃいかんのよ。 けなし倒しといて密かに楽しむのが一番!!・・・結構本音だったりする・・・)
寮美千子
2ちゃんねる用語に関する(休むに似たりな)考察
2002年07月26日(金)02時16分50秒
http://ryomichico.net
▽ななしさんの「訛り」はネット方言だろうか/ふと素朴な疑問 へのコメント
▼
ななしさんの投稿、2ちゃんねる用語満載で、大サービスだなあって思いました。ななしさんて、親切。そして「ほんとは馬締な」じゃなくて「ほんとに真面目」なんだなあって思っちゃいました。さて、寮美千子は、野暮を承知の上で2ちゃんねる用語解説です。鼻で笑ってね、ななしさん。
●訛り系
いいことでつ。(マジ
たのしかたーよ。
まず、掟破りですんまそん。
じゃ、ROMにもどりまーつ。
●略語系
禿胴=激しく同意する
厨房=中学生坊主 ガキのこと
乙=お疲れさま
●当て字・わざとの誤変換系
基地外=キチガイ
会館=快感
馬締=真面目
乙彼・乙華麗=お疲れさま
▼
http://www.2ch.net/2ch.html
「2ちゃんねるの使い方」のなかの「特殊な用語などを知りたい」には、こんなことが書いてあります。
これらは、一般の感覚で見ると危ないものもありますが、
知っている人間にしか通じない専門の言葉にしてストレートな意味を隠すという点では、
昔から使われている隠語と同じようなものと考えていいでしょう。
▼
狩人は、山にはいると独特の隠語を使用して語ったといいます。日本に限らず、世界各地にこのような事例が見られるとのこと。隠語を使うにあたっては、さまざまな意味づけがあったらしい。山の動物に知られないように、わざと隠語を使う。山の神にある種の敬意を払う、などなど。
中沢新一の新刊『熊から王へ』(講談社選書メチエ2002)のなかでも、そのことに言及している部分がありました。上記のような表面的な意味づけに加え、そこにはさらに深い意味があるのではないか、ということが述べられています。言葉によって分節化された文化のなかで生きている人間が、分節化されていない「流動的」な自然へと参入するために、「物」と「言葉」を故意に切り離したのではないか、というのが、中沢新一の推論、だとわたしは勝手に解釈ました。(なんかこう、はっきりしなくて、よくわからなかったの)
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狩人に限らず、職人仲間にも独特の言葉遣いがあるし、ミュージシャンにもある。学生仲間にもあって、それは仲間に限らずに伝播していって、津々浦々、ある種の「若者ことば」になっていく。その伝播速度は驚くほどで、耳慣れない言い方が東京で聞こえてきたなと思ったら、旅先の帯広でも同じように話す人がいてびっくり、なんていうことも。
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2ちゃんねるは、解放掲示板でだれでも参入できる。けれど、2ちゃんねるには2ちゃんねるの作法があって、しばらく眺めてそれをある程度理解できないと、入れないような感じもある。「2ちゃんねる用語」の多用も、その印象を強くしています。ちょうど、縄跳びに飛び込むみたいに、よーく見て、そのリズムや流れを見定めて入らないと入れない。入っても、躓いてしまう。
2ちゃんねるは、不思議な、新しいコミュニティだなあと思います。いままで、人類が持ったことのない道具です。誰でも入れるはずなのに、独特の符丁が使われて、どんどん特異集団化していく。仲間意識も生まれる。けれど、その仲間意識は、従来の、外から枠をはめられて生じる閉じられた仲間意識ではなく、開かれた仲間意識。開かれたものなのに、開かれながらも微妙に他者を拒絶し、選別しようとする力も働く。でも、やっぱり開かれている。
その辺のちょっとアンビバレンツな微妙な感覚が面白い。2ちゃんねるに、新しい言葉遣いが生まれる原動力は何なんだろう? 人類行動学?や、文化人類学の観点から解釈しても、面白いかもしれません。
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同じ発音で違う字を当てる、違う意味の言葉を当てる、ということから生じる感覚にもまた、わたしは興味がある。ダジャレっていうのは、みんなそこから発生するし、人はそのズレを笑いとして受けとめるけれど、それがどうして「笑い」になるのか。笑いにならないとなぜ「寒く」なるのか? よくよく考えると不思議です。「笑いとは何か?」という哲学的な、人間の心の根源的な問題にもつながってくる。
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もうひとつ、面白いのは「禿胴」「厨房」といった言葉の使い方。短く一言で、ある「気分」を言い当てる言葉。高度に抽象化された言葉だと思います。あの言葉を使うことで、どれだけ「節約」になり、短い文章のなかで、多くを伝えられるか。その抽象化が、2ちゃんねるというメディアを舞台に、あっという間に洗練されていくことの面白さ。そのメカニズムにも、わたしはとても興味がある。
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ここは寮美千子の個人掲示板だけれど、わたしはなるべく「ここだけにしか通じない言葉」で話すことはしないように心がけています。シンプルな基本的語彙で語りたいと願っている。2ちゃんねる用語を使ってみたい誘惑もあるのだけれど、ぐっとがまん。がまんできないときには「マンセー(万歳)」なんて解説付きで書いている。
その店主の気分をみんなが汲んでくれているのか、結果として、この掲示板は全般に「一般にわかる言葉」で書かれる率が高い。あらゆる人々に開かれているはずの2ちゃんねるが、符丁を使って特異化していくのに対し、個人掲示板であるはずのものが、かえって符丁を使わず、ある意味他者に開かれているという逆説の面白さ。これは、何を意味しているんだろうなあ。
2ちゃんねるは、誰にでも開かれているから、人々は符丁を使うことで、何かを共有している感覚を得ようとするのだろうか? 寮美千子掲示板は、寮美千子という共通項があるから、符丁を必要としないのだろうか?
などなど、あぶくのような思いがふつふつとわきあがるのでした。
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「新しい未知のメディア」は面白い。そこから何が生まれるのか。その生成の現場が目の前にある。それが、いまのところ、わたしにとっての2ちゃんねる。いつもウォッチしているわけでもないし、すべてを満遍なく見ているわけじゃないけど、なかなか目の離せない存在です。
しかし、ななしさんはわたしの投稿のどこに「禿胴」してくれたんだろう。でも「禿胴」とか「乙!」っていわれると、なんか素直にうれしいんだよね。
DORONKO
いや、まったく!
2002年07月25日(木)22時35分20秒
▽2ちゃんねる訛り? へのコメント
>現代版「かぶき者」ってとこですかね。
思わず、ソ、ソレダッ!と、うなってしまいました。
まさに、言い得て妙。このホメ言葉からは、ななしさんも
容易に逃走はできないのでは?
――別に、ななしさんを縛りつけようなんて魂胆がある
わけじゃないんですが、ななしさん、「まあ、認めても
いいや」と思えるようだったら、ここは一つ、カッコよく
黙殺するというテもあると思いますよ?
2ちゃんねる的言語は、どうも好きにはなれないという人の
気持も、わからなくはないのですが、もうすっかりオッサン化
したぼくがあのモノマネをしたりするのは滑稽以外の何物でも
ないにせよ、ななしさんのような言葉遣いも、ぼくは、
「それほど目クジラを立てるほどのことじゃないだろ?」と
思います。
だって、このぼく自身、生まれ育ちは北関東なのですが、
高校時代の一時期、友人たち共々、ミョーに言葉遊びに凝った
ことがあって、学校からの帰り、5、6人で、ずっと関西弁の
マネゴトをし続けて、周囲の大人たちから不審の目を向けられ
たりしたこともありましたから。
いやあ、あれは面白かったなあ!
――というわけで、われらの熱きハートの賢人、吉木さんに
大賛成のぼくであります。
吉木克実
2ちゃんねる訛り?
2002年07月25日(木)19時11分13秒
▽ななしさんの「訛り」はネット方言だろうか/ふと素朴な疑問 へのコメント
ははは!
そうですね。
2ちゃねらあといっても、無責任に他人を誹謗中傷したりしている人がすべてではないわけで、
むしろ、反権威的な人が多いと思います。
幼児語みたいな響きで、でも内容はメスみたいに鋭利だったりしますし、
こいつ字を知らないのかいと思わせるような、誤変換わざとしたりして、
かわいいってのはまあちょっと失礼かなって気はしますがね(笑
でも、意識してか、無意識かは人によって違うとは思いますが、
文化を形作っているというのは大げさではないと思いますね。
現代版「かぶき者」ってとこですかね。
でも、あの地方の特質からして、辞書に載るほど一般にはやりだしたら、
もう使わんでしょう。きっと。
あの地方に出張するのは、身も心もタフでないともちそうもないけど、
見学だけなら、啓発されることもあるし、とんでもない掘り出し物見つけたりもしますし、ほんとおもしろいです。
ななしさんがいうみたいに気持ちよいかどうかは人にもよると思いますけど。
僕は存在価値は大いにあると思います。
パルステラ
ななしさんの「訛り」はネット方言だろうか/ふと素朴な疑問
2002年07月25日(木)17時59分08秒
▽吉木克実さま へのコメント
ななしさんのコメントの内容とは全く関係ないのですが、
その語尾の「す」が「つ」になってるあたりの訛った言い回しって、
「2ちゃんねる地方」独特の「方言」なのかしら。「>すんまそん」は、時々見かけますが。
意外に可愛い表現になっていて、なかなか興味深いのね。
「>できないでつ。」とか「>たのしかたーよ。」って、発音で聞いてみたい。
お隣の国の言葉みたいな響きかも。(発音を想定していない新文語体?)
こんなローカル言葉が、いつしか後世の国語辞書に登録される事もあるんですよね。(あるかしら?)
管理者:Ryo Michico <mail@ryomichico.net>
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