■28 Aug 2009 一人一人と国全体
ひとりひとりにとって、ふしあわせになることが、どうして国ぜんたいには。ためになるのか―
大井三重子著『水曜日のクルト』所収「血の色の雲」より
作者は1928年生まれ。17才で終戦を迎える。胸椎カリエスという重い病気で、4才から寝たきり、大人になってからも車椅子の暮らしの中で作家活動を続けてきた。ミステリー作家「仁木悦子」の唯一の童話集が、本名で出された『水曜日のクルト』。
病気で学校にも通えない作者の子ども時代を豊かにしてくれたのは、二人の兄の存在だったという。長兄は戦死。次兄も招集された。
その切実な思いを込めて書かれたのか「血の色の雲」。童話という誰にでもわかるやさしい言葉のなかで、戦争というものの根源的な矛盾に踏みこんでいる。
もうすぐ選挙。候補者の「憲法9条」へのアンケートを読んで、え、民主党候補のこの人も改憲派?と驚いた。4人の候補者のなか、憲法9条の改正に反対しているのは、共産党の候補者のみだった。うむむ。
きちんと政策を確かめて投票したい。
--------------------以下、毎日新聞より
馬淵 澄夫(民主党候補)回答
問1: 憲法9条の改正に賛成ですか、反対ですか。
回答: 賛成
問2: 集団的自衛権の行使を禁じた政府の憲法解釈を見直すべきだと考えますか。
回答: 見直すべきだ
問3: 日本の核武装について、あなたの考えに近いものを一つ選んでください。
回答: 無回答
■15 Aug 2009 寮甦太郎中尉の最期
敗戦の日である。
奈良では、戦没者慰霊のための大文字送り火が行われている。
山肌に描かれた大文字の文字が、9階のわが家のベランダからよく見える。
父と一緒に、眺めた。
8月のはじめ、1週間ほど、千葉の都賀の実家の片づけに行った。
片づけても、片づけても、モノがある。
昭和の悪しき物質文明の負の遺産に、音をあげて、
もう全部捨ててしまおうか、と思ったが、
そんなモノと大量の紙の間から、相棒が一冊の本を見つけだした。
粕谷俊夫『山本重爆撃隊の栄光』、戦争のドキュメントである。
付箋が入っているので開いてみると、父の長兄である寮甦太郎の
最期の場面が描かれていたのだという。
わたしの叔父である寮甦太郎がどんな死に方をしたのか、
わたしは父から聞いたことがなかった。
初めて知る、叔父の最期の姿だった。
戦隊はスマトラ駐留の目的をはたして、スマトラ引きあげの内示をうけ、移動準備に多忙をきわめていた。ビルマもいよいよ乾季にはいる十月(引用者註:昭和十八年)のはじめのことである。ところが、そのころ南方洋上の敵海空よりするパレンバンへの攻撃をまもるため、同地区の防空演習がおこなわれた。唖然とした。いわゆる「戦死」ではなかったのだ。
パダン方面では、八月にわが戦隊の哨戒機が敵潜水艦を発見してひとさわぎしたし、夜陰に乗じて敵の第五列を上陸させていたことも、ほぼ明らかとなった。また、少しはなれてはいるがサバン沖にも敵空海からの動きがあり、パレンバンは決して安心できる状態ではなかった。
このパレンバン防空演習で、戦隊は仮設敵のさしだしを命ぜられ、パダンにいた第二中隊がこれを担当した。大橋第二中隊長は寮甦太郎中尉機にこの任務をあたえ、十月八日所定の任務をおわってパダン飛行場に着陸しようと第四旋回をおわろうとしたとき、突然失速状態となり、ヤシ林のなかに墜落した。
急拠、救援隊がかけつけたが、正操縦者の木藤金雄軍曹と、通信手の杉下季実太郎軍曹はすでに戦死しており、機長の寮中尉は重傷、他の搭乗員は軽傷を負っていた。ただちに負傷者を病院に、戦死者を飛行場の宿舎にうつして最善をつくしたが、寮中尉はまもなく絶命した。戦隊はこの原因を究明したかったが、作戦移動を厳命されていたさいだったので、果たせなかったのは心にのこった。
(粕谷俊夫『山本重爆撃隊の栄光』二見書房1970 124〜125頁)
叔父は訓練のため「仮想敵」の役割を演じ、その帰路に墜落して亡くなった。
なんという気の毒な……。叔父はその時、23才だった。
陸軍幼年学校に行った秀才だったという。
「名誉の戦死」を遂げられなかったから、父はわたしに黙っていたのか。
だからといって、叔父の死が、
戦闘での死であればよかった、などとは思っていない。
戦争では人が死ぬ。
どんな死に方でも「名誉」なんてもんじゃない。
死は死だ。無惨だ。
命令によって戦い、人を殺し、自分も死に、そして不慮の事故で死ぬ。
馬鹿げている。戦争なんて、いいことはひとつもない。
叔父は戦争に行って、人を傷つけただろうか。殺しただろうか。
戦時中、父は夢枕に兄の甦太郎が立ったという。
障子がふうっと明るくなって、そこに甦太郎がいて、一言
「おかあさんを頼む」と言って、消えていったそうだ。
あとで、それがちょうど、甦太郎の戦死した頃のことだとわかったという。
死んでいった人はみな、無念だっただろう。思い残すことがあっただろう。
戦争はいけない。
まやかしの戦争放棄ではなく、ほんとうの戦争放棄を。
武器の永久放棄と平和を願う8月15日である。