▲2009年08月の時の破片へ


■23 Jun 2009 日食絵本最終入稿/猫の絵本


昨年10月に「猫の絵本を作りたい」と昔なじみの編集者から打診があった。ある画家さんが、猫の絵を描きためてみるのだけれど、さて、だれに文を依頼するか、ということになり、寮美千子を推薦してくださったとのこと。絵本といっても、いわゆる子ども向きではなくて、大人向き。12の猫の絵に、12の物語がついた、短編集絵本、とでもいうべきもの。

わたしにできるか?と心配だったが、魅力的な画家の方だったので、お引き受けした。というより安請け合いだな、これは。仕事が一段落したら書きます、と言っておいて、全然一段落しない。『夢見る水の王国』の入稿が終わったと思ったら、成り行きから自分で企画してしまった「まんとくんお誕生週間イベント」が。本とイベントの広報活動もめいっぱいしなければならず、イベントが終わる頃には、疲労困憊。その直後、詩誌の懇親会も主催者に頼まれてわが家で開催したので、終わったら、ほとんど燃え尽き症候群。そこに、来月8日に発売予定の『黒い太陽のおはなし 日食の科学と神話』の最終チェック。

文章の表現の問題で、最後の最後まで、監修の天文の先生と討議を重ね、昨夜遅く、やっと八方丸く収まる決着を見た。ともかく、一度印刷してしまうと百年は平気で残るものだし、きちんとしなければと、最後までバタバタする。

「本日、無事最終入稿!」と、編集者からのメールがあった。

  この手の本は、何回読んでも
  「どこか間違いはないか?」「もっと適切な表現はないか?」と
  考えてしまい、健康に良くないですね。
  (図鑑のときは、もっとストレス溜まってました。)

責任感の強い編集者ほど、このストレスは大きいだろう。泣いても笑っても、もう直しがきかない。佐竹美保さんの挿画もすばらしいし、科学解説は、編集者と天文学者の先生が、最後の最後まで細かく詰めてくださった。みんながみんな、百パーセント以上働いてくださってできた本だ。いい本になったと思う。

バラバラの見本で見ているのと、一冊の本としてまとまった形で見るのとは、まるで印象が違う。やっぱり、本になるのはいい。仕上がりが楽しみだ。

というわけで、やっと心に余裕ができて「猫の絵本」にかかった。というか、このところずっと、心の中ではずっと猫の物語を反芻していて、朝も目覚めてからしばらくは夢うつつの中で猫物語の言葉を選んでいる状態。いわば、作品作りのイメージトレーニングをしてきたので、サンプル用の短編を1編、書き始めたら、1日で完成した。

といっても、まだ11も残っているのだから、心許ない。そして、イメージトレーニングできていたのは、最初の一編だけで、ほかはまだ真っ白。ほんとうにできるのだろうか? いっそ作者複数にして、書き下ろしアンソロジーにしてもらったほうが……なんて弱気になる。

書かなければならない作品というのは、いわば漬け物石のようなもので、ずっしりと頭の上から重くのしかかってくる。これをはずすことで、やっと、次なるアイデアがぷわぷわ湧いて出るので、ともかくも、漬け物石をひとつずつはずすしかない。11月に新聞連載予定の童話の原稿も書きかけだし、インド絵本もあるし、グリム童話の絵本用リライトと、雑誌のための9条関連の原稿、そのための勉強、「蛍万華鏡」単行本化も……それから……確定申告、相棒がしてくれると言ったのに、この3年間できてないから結局、自分でやるしかないし、亡くなった母の遺産相続の件も同様だし、といっても母の名義になっている実家の土地の一部を父の名義に書き直すだけだけど進行していないし、実家の片づけとか……。ああ、漬け物石山積み。

確定申告と相続の問題は、かなりのストレス。でも、それを優先すると、創作の仕事ができなくなるし……。わたしが二人ほしい。

というわけで、まんとくんイベント終了以来、かなりダウナーでダメダメだったが、少し復活した。週末からの巡業に向けて、心も体も調整したい。

ちなみに、猫の物語第1話は、ちょっとホラー系。新路線だ。


■22 Jun 2009 漆黒に金/樽井師匠と門坂画伯のコラボレーション


2008年10月、門坂流展@奈良をプロデュースした。まんとくん活動で知りあった餅飯殿商店街の松森さんに「ギャラリーまつもり」での企画展開催をお願いしたのだ。

ここで、大きな出会いがあった。というか、出会いを仕組ませてもらった。漆の樽井禧酔師をオープニング・パーティにお呼びしたのだ。

樽井氏は、早めに来てくださって、じっくりと絵を見て、なんと、門坂画伯の版画を2点もお買いあげくださった。感謝。一点は「桜」、そして「猫」。それだけ、気に入ってくださったのだ。

ギャラリーでのパーティの後、そのままわが家に10名以上がなだれ込んで、深夜に及ぶ飲み会。そこで、樽井師と門坂画伯は意気投合。なんと、沈金という技法を使って、合作することとなった。

それこそ、わたしの目論んだことだった。門坂画伯のエングレーヴィングの銅販を彫る技法。この技法を使って、漆に彫れないか、と考えたのだ。それが可能なら、そこに金を埋める「沈金」という技法を使える。

はじめは樽井師が「手板」と呼ばれる小さな板を用意してくださって、門坂画伯に試し彫りをしてもらった。画伯は、小さなバラの花を彫ってくれた。これい沈金を施すと、すばらしい線が現われたのだ。門坂画伯の驚くべき技量は、相手が銅版から漆へと変わっても、十分に発揮されることがわかった。

沈金では、彫ったそのままが線になる。エングレーヴィングも、彫ったそのままの線が版画となる硬質の表現がすばらしいのだが、やはり紙へインクを転写するという段階を踏むので、どんなに精密に刷っても、ほんのわずかの滲みが出る。目には見えないほどのものだが、どうしても、彫った線そのままとはいかない。紙とインクという材質による表現の宿命だ。

しかし、沈金は違う。彫ったそのままが確実に線になる。しかも、漆黒に金。エッジが鋭い驚くほど精密な線だ。門坂画伯の細密な線をこれ以上生かす技法は、ほかにはないかもしれない。

問題点が一つあった。刃先がちょっと触れただけの細かい傷にまで、きれいに金が入ってしまうということ。逆に言えば、それだけ精密な表現が可能だということだが、制作には細心の注意を必要とする。

試し彫りを経て、樽井師が門坂画伯に渡したのは、驚くほど大きな文箱だった。ぴかぴかに磨かれた文箱の蓋の縁には、銀がまかれ、蓋の裏は梨地仕上げ。粗めの金粉をまき、そのうえに透明な漆を塗ってある。それはもう、その文箱だけでもたいへんな価値になるすばらしい作品だった。

「久しぶりに、震えるような緊張を覚えた」と門坂画伯が語るのも無理もない。そのような完璧な工芸品に、刃を入れるのだ。緊張しないはずがない。

香合とか棗などの小品ではなくて、いきなり巨大な文箱を渡す師匠も師匠で太っ腹だが、受けてたつ画伯も画伯で肝が据わっている。こうして、二人の合作が開始された。

先日、その文箱が彫りあがってきた。題材は桜だという。門坂画伯が、この春にわざわざ奈良まで取材に来た榛原・仏隆寺の「千年桜」だ。

わたしは、わが家に送られてきた段ボール箱を開封せずに、そのまま師匠宅へと運んだ。そして、師匠の工房で開封。

同席していた友人たちも、一斉に声をあげた。その出来が、あまりにすばらしかったからだ。しかし、また、別の驚きの声もあった。画伯は、文箱を横位置で使っていたのだ。文箱は縦に使うもので、絵も縦位置に入れるのが常識。それを伝えなかったわたしもプロデューサー失格だが、後の祭りである。

「文箱やなくて、だだの箱でええんやないの?」と師匠の奥様が助け船を出してくださった。師匠も、作品の出来のよさに満足し、「縦でも横でも、かまへん。これはすごいわ」と感心してくださった。

そして昨日、とうとう、沈金を施すことになった。相棒松永とわたしは、その工程の一部始終を見せていただく、という光栄に浴することができた。幸せ者である。

きれいに磨いた箱に、ていねいに漆を塗る。それを、特別な綿で拭う。すると、彫った溝に漆が入る。そこに、金粉をまく。最初は粉筒で撒いていたが、次第に筆に直接、つけていった。

金粉は、薬包紙に入っていると、黄土色に見えるのだが、文箱の蓋全体に筆でつけられると、金色に輝く。その色の美しいこと。金ピカ、というのではない。まったりとした深い輝きなのだ。蓋の全面が、まるで浄土を思わせるような輝きに包まれた。

その金を、また綿で拭きとるのである。すると、彫った溝に埋まった金だけが見えてくる。

ああ、その時の驚き! 感動! 沈金の技法になれている師匠でさえも「ああ!」と感嘆の声を上げるほどだった。あの細密な、うねるような線が、深い深い漆黒に鮮明に浮かびあがってきたのだ。

「これはええわ」と師匠がつぶやいた。大成功だった。「あとで鹿の角粉で磨くと、もっと光ってくるわ」と師匠。

彫っていない漆黒の部分と、満開の桜の黄金の部分とのバランスも絶妙で、すばらしい作品となった。沈金の技法で作られた作品はいくらでもあるが、このような作品が生まれたのは、はじめてだろう。師匠は、その文箱を仕上げの乾燥のために風呂にしまうと、すぐに完成した重箱を出し「これ、送ってやれや」と手渡してくれた。

その日、春日大社の権宮司さんが師匠の元を訪れ、その作品を見たという。「こんなものは、見たことがない」とびっくりしていたということだ。あまたの優れた伝統工芸品に接してきた権宮司さんがそうおっしゃるのだから、間違いない。日本の漆工芸に、新たな1ページを記した瞬間を、わたしはこの目で、見ることができたのかもしれない。

作品の公開は、まだ決まっていない。決まり次第、お伝えしたい。


■19 Jun 2009 反骨のジャーナリスト桐生悠々と寮佐吉


googleのブック検索がはじまった。相棒が「寮佐吉」で検索してみたところ、なんと、アメリカの図書館に収蔵されている日本語の本の中身検索ができて、「桐生悠々」という反骨のジャーナリストと寮佐吉の関連を示す情報が、複数あがってきた。さっそく、もっとも入手しやすい、井出孫六の『抵抗の新聞人桐生悠々』(岩波新書)を入手。

桐生悠々という人は、「新愛知新聞」「信濃毎日新聞」で活躍した新聞人。明治天皇の大葬時に自殺した乃木希典陸軍大将をすぐさま批判した社説「陋習打破論――乃木将軍の殉死」を著したり、昭和8年に『関東防空大演習を嗤ふ』という社説を掲載して、軍部からにらまれ、失脚したという強者だ。その後、昭和16年に亡くなるまで、名古屋を本拠地にして反骨の個人誌「他山の石」を発行し続けた。

この雑誌は、海外の雑誌や本をいち早く翻訳、抄訳で紹介する雑誌だった。いわば、最先端の情報アンテナ雑誌だ。そして、正確な情報を伝えることが、それだけで「反戦」を意味する時代でもあったのだ。つまり、時代の精神は歪められ、軍部により、事実を無視した精神論が語られるような時代だったのだ。

祖父・寮佐吉は、この「他山の石」に、最後まで科学記事を寄稿していたということがわかった。井出孫六の本の中で、佐吉は「在野の科学者」と呼ばれている。佐吉の寄せた海外の科学技術の最新情報は、桐生悠々の強気の反戦言論の裏付けのひとつになったらしい。

桐生悠々の周囲に集まってきた反権力の人々は、そのほとんどが終戦を待たずして亡くなってしまった。そのため、戦後、彼らの存在は急速に忘れられていった。

寮佐吉もまた、反戦を唱え、干され、戦中に病死している。しかし、それが孤独な戦いではなかったとはじめて知った。感無量だ。

わたしの相棒が、桐生悠々と寮佐吉の交流発見のことを記している

そんなわけで、さっそく古書店で「他山の石」の復刻版を入手。きょう、届いた。雑誌の記事に、個人的なことは、ほとんど記していない祖父。同郷の名古屋を拠点とした「他山の石」になら、なにか個人的なことを書いているのでは、と期待したが、ストイックなまでの科学紹介記事だった。大切な紙面を、いゆわるMCのようなおしゃべりで埋めることを潔しとしなかったのだろう。一言一句でも、世界の真実を伝えたかったのだろう、と感じた。

桐生悠々が名古屋で「他山の石」を発行した昭和9年から16年には、祖父はもう、東京の人だった。府立4中の英語教師の傍ら、旺盛な文筆活動をしていた時期だ。桐生悠々とは、どこで接点があったのか。

大正末期、祖父が名古屋でアインシュタインの相対性理論に関する本を次々と訳出し、東京の出版社から出版していた頃、桐生悠々は「新愛知新聞」の記者として名古屋にいた。おそらくは、そこが接点かもしれない。

祖父の最初の訳本『アインスタイン要約』は、大正11年の出版。祖父は31才という若さだった。この本には、九州帝大教授の桑木ケ雄の推薦文がついている。日本人として、はじめてアインシュタインと会った人だ。正式の科学教育を受けていない、どこの馬の骨かしれない「在野の科学者」の本に、なぜ天下の大学者の推薦文があるのか? どういう人脈があったのか?

もしかしたら、桐生悠々が、桑木ケ雄との接点だったのかもしれない。桐生悠々は祖父より18才年上の明治6年(1873)生まれ。「新愛知新聞」の「緩急車」という欄で、歯に衣着せぬ痛烈なコラムを書いていた。若き祖父は、そのコラムに胸躍らせて、桐生悠々との交流を持ち、薫陶を受けたのだろうか。

時代が進み、情報化が進めば進むほど、あらたな過去が明らかになってくる。アクセス不能だった過去に、アクセスできるようになる。そして、うちのじいさんは、思った以上にとんでもない奴だったのだということも、わかってきた。これはもう、筋金入りの反骨野郎だ。桑木ケ雄、桐生悠々との接点があり、著作を通じて、宮沢賢治にもなにがしかの影響を及ぼしている事実がある。

それに比べて、わたしなんて小さい小さい。それでも、やっぱり反骨なのは、遺伝なのかなあ。不思議だ。


■18 Jun 2009 「紫陽」という反骨の詩誌


「紫陽」という詩の雑誌がある。
いままで、いわゆる同人誌に自ら参加したことはなかったが、
はじめてこの雑誌に参加した。
17号に「象のいる渚」を、18号に「あおによし」を寄稿した。

なんとかして物書きとして生きていきたい、と思っていた若い頃のわたしは、
「お金を払って物を書く」というのが納得できなかった。
物を書いて、お金をもらえるようにならなくては、と頑なに思っていたのだ。
だから、誘われても、同人誌には参加してこなかった。

しかし、最近になって、自腹を切ってCDを作ったり、
絵はがきを刷ったりするようになった。
実際に、物書きの収入で生きているわけだし、そこで意地を張らなくても、
インディペンデントで作ってもいいな、と思えるようになってきたからだ。

そこに詩誌「紫陽」が出現した。
きっかけは『素人の乱』の著者の松本哉氏が奈良で行ったデモ。
相棒が松本哉氏を面識があるというので、デモが終わった頃呑気に行ったら、
近鉄奈良の駅前で車座になって酒盛りをしている人々がいた。
そのなかのひとりが「紫陽」の主催者の京谷裕彰氏だった。

詩を書いているとのこと。詩で世界を働きかけたいとのこと。
詩には、その力があるはずだ、と熱く語る。

「紫陽」のシステムを聞いて驚いた。
原稿掲載料は1編500円。審査なし。誰でも応募できる。
詩誌の値段は、1冊200円。
手作り詩誌とはいえ、驚くべき価格設定だ。

現在18号。300部近く発行している。
リソグラフで印刷し、製本は仲間が集まって手作業、
発送も手作業で行っているとのこと。
ホチキスを押し続けると、一週間は筋肉痛だと京谷氏は笑った。

そのようにして、18号まで続けてきたことに驚きを感じずにはいられない。

同人会費ウン万円、みたいな詩誌とは違うことをしたかったという。
なんという反骨精神! 資本主義社会への果敢なる挑戦だ。

それだけではない。内容がいい。
普通、そのようにハードルを低くすると、
いわゆる「ポエム」みたいなものが集まってしまいがちなのに、
この雑誌は違う。
ある著名な詩人が「敷居は低いが、レベルは高い」と評したそうだが、
まさにその通りだ。
どうやってこのレベルを維持しているのか、不思議だ。
おそらく、主催者の京谷裕彰氏と藤井わらび氏の作品と人柄が、
雑誌を牽引しているのだろう。

「『紫陽』って、玉石混淆だけど、どう思われますか?」と
この雑誌に詩を掲載している人に聞かれたことがあったが、
「玉と石」というのとは、ちょっと違うなあ、と思った。
レベルが高いとか低いとかではなくて、
異ジャンルのものが混淆している、という感じ。
そのそれぞれが、異彩を放っている。

詩誌も、出しっぱなしではなくて、毎回合評会が開かれ、
その後には、懇親会も開催される。
それもまた、雑誌の雰囲気作りのために大きな意味があるのだろう。

前回の懇親会は、居酒屋だったが、高くついてしまったので、
請われて、今回はわが家を提供した。
結局、見通しも要領も悪いわたしは、家の片づけと料理に追われて、
合評会に出られないと言う本末転倒ぶりだったが、
それなりに料理も出せて、それなりに満足もしてもらえたようでよかった。

17号では、鈴川夕伽莉氏の「針の風 凪の檻」が、
病で力を失ってゆく我が子を描いて、胸に迫った。
ノンフィクションだと思うが、フィクションだとしたら、それもまた凄い。

18号では、やはり鈴川夕伽莉氏の評論
「さようなら村上春樹さん ―エルサレム賞を巡り、もろもろ批判する」が
痛切であり痛烈であった。
藤井わらび氏の詩「名前を呼ぶ〜ガザへ〜」も、
言葉によって世界を快復していく手触りのありありと感じられる詩だった。

『紫陽』は、いわゆる「同人」によって縛られている詩誌ではない。
出入り自由、というのも破格だ。
これからもゆるゆると関わっていきたい。

それにしても、奈良というのは不思議な土地だ。
すべてが終わってしまったようにしらけた21世紀初頭に、
こんな詩誌を出す人がいるなんて!
大正リベラリズムのように、
後から振り返れば、何かを生成している熱い現場であった「時代」がある。
タイムスリップして、その時代に来てしまったような気さえする。


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