▲2006年11月の時の破片へ


■28 Oct 2006 婚姻届けに署名捺印


10/28 その4

京都で美術館と博物館を梯子。その後、大阪で演劇鑑賞。そして、ついに本日の重大イベントの時がやってきた。黒田武彦さんに、婚姻届の証人欄に、署名捺印していただくのだ。

真昼でも星が見える「星の井戸」を見に行ったのが、我が相棒・松永洋介との出会いだった。2000年4月5日のことだ。それから6年半。松永は逃げもせず、寮美千子につきあってくれている。ひたすら感謝である。奈良に転居し、いよいよわたしたちの第二幕の開始、婚姻届を出すことにした。

婚姻届の証人欄はふたつある。もう一つの欄には、ぜひ女性にお願いしたいと思っていた。できれば、わたしより年上の、憧れの女性に。わたしが、一番最初に思い浮かんだのが、山岸享子さんだった。山岸さんとは2002年、勇崎哲史さんのご紹介で、東川フォトフェスティバルで初めてお目にかかった。写真のキュレーターとして、世界を飛び回っている方だ。その凛とした姿勢、包みこむやさしさ、上品な物腰や話し方。女性が美しく歳を重ねるとはこういうことかと思わせられるお人柄だ。ご実家が泉鏡花ゆかりの逗子のお寺さんとのことで、わたしの泉鏡花文学賞受賞をとても喜んでくださった。

しかし、山岸さんは東京にお住まい。婚姻届の証人欄に署名をお願いに行くには遠く、また山岸さんはお忙しいので、なかなかお目にかかれない。できれば山岸さんに、と思いながらも、まだお声をかけていなかった。

というわけで、まずはに姫路にお住まいの黒田さんに署名をいただこうということになり、お願いしたところ、ちょうど娘さんの舞台公演があって大阪にいらっしゃるというので、舞台の後でお願いすることになった。

舞台が引け、黒田さん、勇崎さん、松永とわたしで歩いていると、勇崎さんが突如として「山岸さんがきょう、大阪に来ているんだよね」とおっしゃって、びっくり。「舞台が終わったら、会おうって約束してあるんだ。電話してみるよ」。勇崎さんは、入籍のことはまだなにも知らないのだ。

なんという偶然! まるでなにかに祝福されているよう! 山岸さんと梅田のホテルのロビーでお目にかかり「突然で申し訳ないけれど」と恐る恐る話を切りだしてみると、大変喜んでくださり、さっそくその場で署名してくださることになった。「黒田さんからお先に」ということで、黒田さん、山岸さんとお二人が相次いで証人として署名捺印してくださり、婚姻届が一瞬にして整ってしまった。「わたしが関わるとね、みんな運気がよくなるの」と山岸さん。

黒田さん、山岸さん、勇崎さん、ありがとうございます! そして我が相棒・松永洋介、ありがとう。なお、わたしたちは入籍後も、夫婦別姓としますので、よろしくお願いします。


■28 Oct 2006 劇団銀河「空と大地とボクとキミ」


10/28 その3

そして、ついに本日のメーンイベント、演劇である。劇団銀河の「空と大地とボクとキミ」@豊中市立ローズ文化ホール。出演者の一人、黒田沙織さんは、西はりま天文台の黒田武彦氏のお嬢さんである。大学で、寮美千子作品論を卒論にしてくださったという奇特な方でもある。

ぎりぎりで駈け込むと、手際よく案内され、すぐにお芝居が始まった。パンフレットに掲載されていたあらすじは以下の通り。

2156年10月、よしきは26歳の誕生日に彼女ルナを宇宙旅行に誘った。火星に広がる巨大歴史ジオラマを見学しながら、プロポーズをして宇宙一幸せな男になるために・・・。その旅行先で二人を待ち構えていたことは!環境問題も視野に入れた劇団銀河初SF的ラブファンタジー!!
幕が上がる。たくさんの人が舞台に出てくる。「あ、あれが沙織ちゃんだ」と思うと、もうそこから目が離せない。まるで、我が子にだけビデオカメラを向けている親バカ同然のわたしである。わたしは、彼女とは赤の他人のオバサンであるから、親バカではなくオババカである。まん中で主役が演技をしていても、やっぱり沙織ちゃんばかり見てしまう。

しかし、わたしはここで断じて言おう。それは、単なるオババカではない。ひとつには、主役の言葉に引き込まれない。オババカを忘れて見入るほどの力がない。役者に、というより、その台詞に力がないのだ。もうひとつ、やはり沙織ちゃんには華がある。脇役なのに、そこから目が離せなくなるような輝きがあるのだ。生命感、といいかえてもいいかもしれない。はち切れそうな若さがまぶしい。

沙織ちゃんは、いい役者だと思う。もっともっと力を発揮できる舞台があるはずだ。他の役者さんも、この台本では力を出し切れていないように感じられた。「この役者に演じさせたい」という何かがある台本ではない。誰が演じてもいいような台本なのだ。せっかく劇団をやっているのにもったいない。

先日、大阪で「月蝕歌劇団」の「静かなるドン」を見たときは、いろいろな意味でありゃりゃと度肝を抜かれたが、あの作品は、見終わったときに達成感があった。ひとつの世界をくぐり抜けた、いや、ひとつの戦いをともに戦い抜いたという気持ちにさせられるような迫力ある舞台だった。役者の一人一人が、かけがえのない「その人」であった。この劇団をもう二十年もやっている主催者の高取英氏は、エライ、すごい、すばらしい、と改めて感じた。

舞台が引けて、実はこれからが、本日の真実のメーンイベントなのであった。つづく。


■28 Oct 2006 「京焼」展@京都国立博物館


10/28 その2

プライスコレクションを見終わったのが午後4時。まだ時間がある。それならば、と京都国立博物館へダッシュ。タクシーを拾ったが、渋滞で時間が読めないというので、地下鉄で行く。4時半には到着した。特別展示「京焼―みやこの意匠と技」を見る。

実は、この展覧会には余り期待していなかった。十代の頃から陶磁器に興味があるが、京焼だけは好きになれなかった。派手で、ぺらぺらしている、という印象しかなかったからだ。今回も、野々村仁清の作品を前面に押し出した派手なポスターを見て、ああ、またこれか、と思っていた。しかし、展示を見てがらりと印象が変わってしまった。実物を、それもある量まとめてみるというのは、やはり違う。ひとつひとつの表面の派手さの底に流れる、共通した京焼の美の根、といったものを体感できた。

やはり、仁清はすごい。写真では、その美の本質は伝わらないとつくづく思った。精緻である。過剰と思われる装飾も、三次元の実物を見ると、これでいいのだと思うどころか、その迫力に気圧されてしまった。

また、今回は展示の流れにも気合いが入っていた。新たに発掘された資料から見えてきた京焼の流れが、わかりやすく展示されている。発掘された破片も多数展示してあり、その胎土の色や風合いも見えるところがすばらしい。考古学の展示ではないのに、これだけ破片を展示した展覧会も珍しいだろう。初期の京焼が、古九谷の色合いによく似ているというのも発見だった。展示の流れは次の通り。

 1 京焼誕生―黎明期―
 2 仁清登場―御室焼―
 3 伝統と革新―乾山焼―
 4 京焼の展開―出土品―
 5 京焼の諸相―伝世品―
 6 名工輩出
 7 広がる京焼―技術伝播―
 8 大輸出時代―明治―
 9 京焼の新世紀―二十世紀―
美しいものは美しい。食わず嫌いはいけない。新たな魅力に気づかされたこの展覧会に感謝。


■28 Oct 2006 プライスコレクション「若沖と江戸絵画展」


10/28 その1

夕方から演劇を見に行く約束がある。夕方に約束があると、それまでの時間、器用に仕事をこなす、ということの出来ない性分だ。どうせ一日潰れてしまうのだから、この際、京都で展覧会を見てから大阪入りしようと決意。奈良・京都・大阪のトライアングルを一日で巡れるなんて、夢のようだ。関西は楽しい!

まずは、京都近代美術館のプライスコレクション「若沖と江戸絵画展」へ。
http://www.jakuchu.jp/
http://d.hatena.ne.jp/jakuchu/
これは、アメリカの大富豪であるジョー・プライス氏が半世紀前に集め始めたコレクション。それには、こんな逸話がある。

1953年、大学の卒業祝いに車を買おうとニューヨークに来ていたプライス氏は、同行していた建築家のフランク・ロイド氏(すごい人といっしょだ!)に連れられ、古美術商へと脚を踏みこむ。そのとたん、江戸絵画に一目惚れ。車を買うのをやめ、そのお金で5点の絵画を購入したそうだ。ちなみに、その時買おうと思っていたのはベンツのSL300という、ドアが跳ねあがるタイプの車。ここで、プライス氏が車を買っていたら、江戸絵画の評価も変わっていたかもしれない。というのも、当時、江戸絵画といえば、江戸狩野派や琳派が高く評価され、若沖などは、ほとんどその価値が認められていなかったそうだ。

プライス氏は、作家名ではなく、純粋にその絵に惚れこんでコレクションをしてきたという。それが、江戸絵画の新しい価値の発見につながっていった。つまり、彼は「裸眼」で作品を鑑賞していたのだ。逆にいえば、日本の美術業界は、目が曇っていたということだろう。

外国人に日本文化の価値を知らされる、というのも、情けない話ではあるが、やはり人は己が見えないもの。プライス氏の慧眼に感謝しなけれればならない。といっても、そうか、ここにあるすべてがアメリカに渡ってしまったか、と思うと、胸が疼く。われわれも、固定観念や既成概念にまどわされずに見る「裸眼の力」を鍛えなければ、と思う。

プライス氏が最初に買った5点のなかの1点が、伊藤若沖だったという。以来半世紀、若沖を中心とした江戸絵画の600点のコレクションのなかから、選りすぐりの109点で、今回の展覧会は構成されている。

全体を見て「博物画」的な作品が多いことに気づいた。西洋の博物画の伝統が、プライス氏の感性の中に流れていたのかもしれない。「Godは大文字ではじめるけれど、わたしはNatureも大文字ではじめる」とは、フランク・ロイド氏の言葉だそうだが、プライス氏も、よくこの言葉を引用するそうだ。

もうひとつ、その発想ののびやかなことにも驚かされた。タイルのような四角で埋めた作品、牛と象を一頭ずつ、はみださんばかりに描いた屏風。幽霊の絵は、その脚とともに、表装の枠線までうっすらと消えている。江戸後期というのは、文化が円熟し、さまざまな試みが成された時代だったのかもしれない。気になった作品は、次の通り。

・白象黒牛図屏風/長沢芦雪
・雪中松に兎・梅に鴉図/葛蛇玉(かつじゃぎょく)
・松に鶴図屏風/森徹山
・鶴図屏風/伊藤若冲
・梅花猿猴図/森狙仙


【白象黒牛図屏風/長沢芦雪】
屏風からはみださんばかりの牛と象。牛の足許には子犬が憩い、象の背ではカラスが遊んでいる。それが小さくかわいらしく、牛と象との大きさの対比だけからしても、滑稽でさえあり、思わず笑みが洩れてしまう。芦雪は、様々な技法を駆使して様々なタイプの絵を描いた人だが、この試みはすばらしい。

【雪中松に兎・梅に鴉図/葛蛇玉(かつじゃぎょく)】
兎や積もった雪の白は、紙の地の色そのまま。縫っていない部分だ。降る雪だけが、胡粉で塗られている。その迫力。見ていると、まるで、降りしきる雪のなかに立っているような気がしてくる。

【松に鶴図屏風/森徹山】
鶴の群舞。これだけの数の鶴を描くセンスは、日本の風土にはあまりないように思う。ギュスターブ・ドレによるミルトンの「失楽園」の挿画を想起した。この絵は、画家の死により未完だという。その未完の部分がまた、ふしぎといい。

【鶴図屏風/伊藤若冲】
以前、国立京都博物館で若沖の鶏の絵を見たときは、がっかりした。墨一色でさらりと描かれ、すっかりパターン化されていて、アニメの原画にしかみえなかったのだ。逆にいえば、彼は、それだけ今日的な「目」や「感覚」を持っていたということか。しかし、この絵は印象が違った。パターン化が極端まで進み、鶴が卵の形になっている。その卵がころころとリズム感よく並び、実に楽しい。しかも、卵に鶴の顔がついているだけで、ふっくらとした羽毛に首を埋めている鶴の風情まで感じさせる。若沖、やはりタダモノではない。

金比羅さんの特別公開で、これとはまったく別のスタイルの、若沖の博物画的な植物画を見たことがあるが、これもすばらしかった。いままで見た若沖のなかでは、わたしは、あの植物画がいちばん好きだ。

【梅花猿猴図/森狙仙】
写実で描かれた猿の毛のやわらかさ。ふわりと、その感触やあたたかさまで感じる。その一方で、梅は省略され、デザイン化された「お約束の梅」の描き方。全く違う技法が、一枚の絵の中で無理なく共存し、ハーモニーを奏でることの妙。日本画は面白い。


■26 Oct 2006 天理教・秋季大祭


▼天理教の秋季大祭

奈良市から南へ10キロ、天理市は天理教の一大宗教都市だ。きょうは天理教の秋季大祭で、全国から信者が参拝に来るという。中学・高校の同級生のNくんも千葉からやってくるというので、久しぶりに顔を見ようと、自転車で天理まで行った。

Nくんは、天理教の教会の家に生まれたという。在学中は、まったく知らなかった。一時は反発したこともあるというが、自然と父君の跡を継いで、天理教の教会を運営しているそうだ。

出遅れて、11時近くに到着。巨大な神殿のまわりは人で溢れている。教団の公式発表で13万人だそうだ。スピーカーから、現在の教主のスピーチが流れている。頭を垂れて神妙に聞いている人もいれば、談笑している人もいる。歩き回っている人も。自由な、ゆるやかで和やかな雰囲気。大祭だというのに、新宗教にありがちな思い詰めた風情がない。

何かに似ていると思ったら、インドで出会った祭りの風景によく似ていた。家族連れで来ては、楽しげにお参りしている。お参りすることが、家族のレジャーでもあるような雰囲気。あたたかなものが流れていた。それでいて、祈る姿には、純粋さを感じる。

天理教は、庶民の宗教だと改めて感じる。以前、はじめて神殿に入った時も、そう感じた。まん中に祈りの対象があるのだが、それを四方から囲むように、祈りの場がある。中心に向かって手を合わせれば、結局、その向こうにいる人を拝むことになる。何か崇高なものを見あげて、あがめたてまつるような雰囲気ではなく、互いが互いを拝み合うような形。

ある時、Nくんにそのことを話すと「そうなんだよ」とうれしそうに語ってくれた。
「例え夫婦喧嘩をしていても、ここにくれば互いが互いを拝みあう。感謝の気持ちをもって”陽気ぐらし”をする。それが天理教の教えなんだ」

天理教の神殿には、風通しのよさを感じる。それも、こんな思想があるからかもしれない。

スピーチが終わって、Nくんと落ちあう。町田在住の書家・川上美也子さんもいっしょだ。ふたりが、神殿を案内してくれた。

教祖である中山みきは、明治20年に亡くなった。しかし、肉体は滅びても魂となって存命し、いまも「おやさま」として神殿で暮らしているという。いくつかある祭壇のひとつが、「おやさま」の暮らしの場だという。祭壇というより、それは貴族の寝所のような造りだった。いかにも、そこに魂が暮らしていて、見守ってくれているという雰囲気だ。

▼偶然「櫟本分署跡」に立ち寄る

Nくんたちとともに昼食。その後、みんなと別れ、天理参考館で「正倉院宝物のルーツと展開」の展示を見学、商店街の天理教書籍専門店で「本稿天理教教祖傳」を購入し、「上つ道」と呼ばれる旧街道を帰る。格子戸の街並みの美しい街道だ。その途中、ふと気になる場所があって、止まってみた。

そこは、明治政府警察の「櫟本分署」跡だった。1886年、教祖・中山みきが89歳の時、天皇制軍国主義に反対をして時の政府に弾圧され、2月18日からの12日間、ここに拘留されたという。極寒の季節、火鉢もない板の間に座らされ、人々のさらし者となったとのこと。それでも、その信念を曲げなかったという。壮絶な話だ。中山みきは、この翌年、亡くなっている。

いくら縁の地とはいえ、天理教の大祭の後、ふと立ち寄った場所が、そのようなところであったとは。不思議だ。これも縁だろうか。

そういえば、10月26日は、教祖・中山みきが「月日のやしろ」として神にその身を捧げる決意をした日であるという。はじめて天理教の祭りをのぞいた日が、その日であるというのも、やはり縁を感じる。

▼信じるということ

とはいえ、だからといって帰依するわたしではない。わたしには宗教的な心はあっても、わたくしを越える巨きな存在をひとつの名で呼ぶことはできない。おそらく、これからもできないだろう。信仰を持つ友人と語ると、最後の最後で必ずこの問題に突き当たる。わたしは、自己を放擲することができない。「信じてみなければわからない」といわれるが、どうしても信じることができない。それはわたしの傲慢であり、弱さであり、強さでもあるのではないだろうか。ひとつの名を信じることのできる人間と、そうでない人間。どこに違いがあるのだろう。

それでも、宇宙を統べる大いなる力、精妙なる仕組み、その美しさに、限りない驚きと畏敬の念を感じるわたしではある。

奈良には、様々な宗教があり、いまも生きている。東大寺の華厳経も、春日大社の神道も、天理教もみな興味深い。ゆるゆる勉強していきたいと思う。


■25 Oct 2006 正倉院展


国立奈良博物館で、毎秋恒例の正倉院展がはじまった。

奈良博は、この企画展だけで1年分稼いでいるのではないか、と思うほどに混雑する。朝早く起きて行こうと思ったけれど、六泊七日の東京行から昨日戻ってきたばかりとあって、さすがに体が動かず、博物館に到着したのはちょうどお昼時。しかし、これが功を奏した。早朝6時半からぎっしり並んでいたという人の列はなく、昼食時なので混雑が少ない。人も流れているというので、さっそく入場。昨年に引き続き、わたしにとっては二度目の正倉院展だ。

ちなみに、早朝から並んでいるのは、深夜バスで全国から到着した人々とのこと。正倉院展は、後半になるほど混雑するという。

混んでいない、といっても、普段に比べれば格段の混雑。けれど、人波で展示物が見えない、というほどでもない。ちょっと待てば、正面からゆっくりと見られる。昨年は螺鈿の琵琶の名品などが出たが、今回は全般に地味な雰囲気。しかし、さすが正倉院、見入るほどの名品が並ぶ。特に心惹かれたのは次の品々。

緑瑠璃十二曲長坏(みどりるりのじゅうにきょくちょうはい)
紅牙撥鏤尺(こうげばるちのしゃく)
・馬鞍(うまのくら) 第五号 黒柿製
・黒瑠璃把白銅鞘金銀珠玉荘刀子(くろるりのつかはくどうのさやきんぎんしゅぎょくかざりのとうす) 第十六号

緑瑠璃十二曲長坏
緑色の硝子の皿。鉛と銅を混ぜたクリスタルだという。その緑の色の深さ、鮮やかさがすばらしい。細工はどこか不器用な感じがするが、その手のぬくもりがまたいい。現代の硝子器では、きれいに出来過ぎてしまって、このような味を出すことは困難だろう。現代の匠による古代ガラスのレプリカを見ることがあるが、古代の雰囲気を忠実に再現したものに出会った試しがない。恐らく、これも作ろうとしてもなかなか作れないに違いない。

紅牙撥鏤尺
昔「イーハトーボ童話学院」というところに通っていたころ、同じクラスに通う人が「ひと目盛りが星の百光年を刻む」という不思議な物差しが出てくる物語を書いてきた。物語は忘れてしまったが、そのイメージは今も消えない。心に刻まれたその物差しは、まさしく「紅牙撥鏤尺」。不思議な力を宿しているように感じられる。

【馬鞍】
千年を経ているというのに、目立った痛みもない。つい先日作られたといわれても、そうかと思わせられるような新鮮な木の風合いを、いまも失ってない。黒柿は銘木とは聞いてはいたが、ここまでとは! 木目の美しさ、細工の大胆かつ端正であることに心を奪われた。

【黒瑠璃把白銅鞘金銀珠玉荘刀子】
装飾ないし儀礼用の小刀。全長21.3センチ。黒瑠璃と名づけられているが、把は硝子ではなく石。何の石か明記されていなかったが、その漆黒の色合いや質感は、オニキスのようだった。だとすれば、材は異国から運ばれたものに違いない。どこからもたらされたのだろう。

もうひとつ、心にとまったのが、当時の戸籍。実に詳しく書かれていて、だれそれが加賀の国に逃走、などといったことまで記されていた。国家というものは、そんな昔から人々を管理し、税を納めさせていた。その富の集積が、正倉院の御物なのだ。華麗な宝物の背後には、強大な権力と、権力に支配され搾取され続けた庶民の暮らしがある。そのことを、改めて思い知らされた。「世が世なら、わたしたち、こんな物を見ることもできなかったわね」とささやく見学者の声が聞こえる。富とは、美とは、なんなのだろう?

千年も前の人の手によって作られたものが、かくも美しいという不思議。千年も前の人の手によって作られたものを、いまも美しいと感じる人の心の不思議。奈良博まで自転車で5分という地の利がありがたい。これからも、毎年必ず見たい。


▼2006年09月の時の破片へ


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