▲2006年10月の時の破片へ


■24 Sep 2006 路地裏のタイムスリップ・タウン/芝能


▼タイムスリップ・タウンに迷い込む

昨日、家の近所の特別養護老人ホームと有料ホームを見学。いまは千葉の有料ホームに入っている両親を、なんとかして呼び寄せたいと、いろいろ方策を練っている。昨日は自転車だったので、やけに近くに感じたので、きょうは歩いてみようと相棒と二人で歩いてみる。と、なんと、ゆっくり歩いても7分とかからない。本当に近い。しかも、三笠山を望む風光明媚な場所。こんなところに来てもらえればいいのだけれど。しかし、98人がウェイティング・リストにいるという。99番と100番のリストに載せてもらった。

帰り道、知らない道を歩いてみようと、路地に入ってみると、まったく知らない風景が広がっていた。そこは、がらんと広い、光がいっぱいの場所だった。古い木造の庭付きの市営住宅が並んでいる。もう誰も住んでいなくて、どの入り口にも、西部劇のように板が打ち付けてある。その端にある小さな公園には、昔なつかしいジャングルジムがぽつねんとたたずんでいて、隅には、無数ともいえる小さな道祖神や梵字を刻んだ石が並んでいた。

広く明るい無人の街区からはずれると、小さな昔風の長屋があった。黒い瓦屋根の、玄関が妙に凝った造りの、やたらと長い長屋だ。奈良には、よくこんな長屋がある。あけ放った玄関の扉から中が丸見えで、ウナギの寝床のようにいくつもつながった畳の部屋に、おばあさんがひとりぽつんと絵のように座っていたり、光だけが差していたりする。少し年増のポニーテールの美女が、家の前や窓一杯にぶら下げている花の鉢に水やりをしていた。狭い通りには、どの家も所狭しと植木鉢を並べている。どれも丹精して、美しい。この界隈に住む人々が、みな、小さな生活を大事に大事に生きていることが感じられる通りだった。

高い煙突があって、それは銭湯だった。まだ日は高いが、洗面器をもったおじいさんが、さっぱりした顔で出てくる。この小さな長屋や、それに続く古いアパートに住む人々は、いまでも銭湯に通っているのだろう。ここに限らず、奈良には銭湯が多い。東京の銭湯は多くが閉まってしまったけれど、ここでは、まだ銭湯通いの暮らしが息づいている。夕暮れ時、いつも同じ道を、同じおばあさんが、ゆったりと歩いているのを見るのはいいものだ。そこには、確かに「人間らしい暮らし」がある。

狭い路地を抜けると、ふいに知ってる場所にでた。なんだ、ここか、と思った。壁を赤く塗った精肉店。以前、揚げたてのコロッケが食べたくなって、その店に飛びこんだことがあった。ショーケースを見て驚いた。「ハチノス」「センマイ」「アブラカス」など、普段見たことのない内蔵の類が並んでいたからだ。

『被差別の食卓』という本を読んでいなかったら、わたしはそこに表現されていることを読みとれなかっただろう。単に「関西のお肉屋さんは、変わった肉を置くな」と思っただけに違いない。けれど、ここには別の意味があるのだ。これは、アメリカの黒人たちが食べてきた「ソウル・フード」と同じ意味を持っている。

わたしの住むマンションの最寄り駅は「京終」。桜井線といって、滅多に列車の来ないローカル線だ。はじめて見たとき、この駅の名が読めなかった。「きょうつい?」「きょうしゅう?」「みやこおわり?」……。「きょうばて」と読むのだと知ってなるほど、と思った。

平城京の時代も、そして奈良町に商業の中心が移った江戸の時代も、ここ京終は、都の果て、境界線の町だったのだ。ここから先はもう、都ではない。いわば「異界」。そして、そのような場所の常として、そこには「周縁」の人々が住み、特別な仕事を担ってきた。都を支えるためになくてはならない仕事、それなのに、人々が目を背け「なかったこと」にしようとする仕事だ。例えばそれは、屠殺、皮なめしなど、動物に関わることが多かったとも聞く。

そのような場所では、新鮮な内臓が手に入る。当然、内臓料理が発達する。黒人のソウル・フードも、そのようにして発達してきたという。そして、それがいまや、一般社会に浸透し、都市の名物料理にもなっている。

京終の精肉店に、内臓が並んでいたというのは、きっとそういうことなのだろう。そういえば、道すがら「人権センター」があった。人権センターがあるということは、取りも直さず、そこに差別が存在した、或いは存在する、ということに違いない。

関西は、差別意識が強いという。わたしは、まだそのような空気を感じたことがない。もしかしたら、いまでも差別があるのかもしれない。人が人を差別するなど、本当は何の根拠もないことなのに。人は、なぜ人を差別したがるのだろう。

昔、青島で日本猿の群れを見て、ショックを受けたことがある。ボスは、自分をさしおいてエサに手を出すものは、たとえ幼い小猿でも容赦しなかった。いたいけない小猿を、堂々とした体躯のボス猿が、激しく痛めつける。小猿を傷つけられた母猿は、いつまでもヒステリックに泣きわめいていた。なんというきびしい階級社会だろうかと、暗澹たる思いがした。人間がここから進化したのだとしたら、心根にこのような性質を持っているのだろうかと、うんざりするような気持ちになった。

もしかしたら、人の心の底には、いまも太古の「群れ」の本能がうずき、自ら階級社会を求め、常に自分より「下」にだれかを置きたがるのかもしれない。

ああ、でもいまここで見てきた、時の流れに置き忘れられたようなのどかな風景はなんだろうか。あの丹誠こめた鉢が並ぶ路地、そこに表現された、日常を大切にいきいきと生きる心。少しも荒んでいない。ここには、きめ細やかな心と小さなものを愛する精一杯の心が溢れている。なんという気持ちのよい場所だろう。

不思議だった。路地の奥に広がるその明るい、けれどどこか時の止まったような美しい場所から一歩表通りへと出ると、まるで雰囲気が違うのだ。立派な格子の家の並ぶ街道だ。その奥に、あんな不可思議な風景を隠しているとは、とても思えない。

そして、もっと奇妙なことに、あの場所から我が家までは、ほんのわずかの距離しかなかったのだ。あ、知っている通りに出た、と思ったら、もう我が家のベランダに着いていた。こんな近くに、あんな場所があったのに、少しも気づかなかったとは……。表通りからは、全く想像できない風景が、路地の奥に広がっていた。

不思議な異世界に迷い込んでしまったような、そんな散歩だった。

▼幽玄の芝能

6時頃、家に戻ってネットのメールチェックをすると、ご近所のグレン氏から「きょう、興福寺そばの登大路園地で芝能があるの、ご存知ですか?」というメールが来ていた。知らなかった。まだ新聞も取っていないので、地元情報に疎い。慌てて出かける。

場所は、県庁の向かいの園地。奈良公園の一角だ。暗い草地を行くと、闇のなか、そこだけ煌々と明るい一画があった。きらびやかな能装束の人が舞い、扇を翻し、鼓の音が響いてきた。夢のような光景だ。

すでに1時間半ほどが経過して、人波も引いた後なのか、それほど多くの人がいるわけでもない。舞台前は区切られて、50席ほど有料席になっていたが、そのほかは無料で、柵の外に3列から5列ほどの人垣があるだけ。それも芝に座っている人が多いので、ゆっくり見られる。わたしも、芝に腰を下ろして観た。

実を言うと、能を観るのははじめてだった。美しかった。そして、その音の間の精妙なこと。テレビの舞台中継では退屈してしまって一度だって見通したことはないのに、芝能では、一瞬も目が離せない。ミニマムな動きの中、翻る扇が眩いほどに絢爛だ。絶妙の間の鼓の響きもさることながら、風に乗る笛の音、独特の古典的な発声の力強さ、すべてが美しい。大宮通りを車が行き交い、その音が響いてくる。それさえ、雑音ではなく、まるで波の音のように、一つの音風景として包含してしまう力が、芝能にはあった。

この行事は奈良新聞社の主催で、今年で29回を迎えるという。「能発祥の姿を再現し、芝生の上で直接演じられるこの演能会」であり「自然と一体になったスケール」だという。本日の演目は次の通り。

▽大蔵流狂言「舟船」柳本勝海師ほか
▽仕舞「春日龍神」櫻間右陣師ほか
▽仕舞「船弁慶」金春康之師ほか
▽金春流能「井筒」金春欣三師ほか
わたしが見たのは「井筒」。きょうの最終演目だった。在原業平の妻だった女が、霊となり、業平をしのび、男装して業平になりきって舞う、その最後の舞のはじまるところだった。舞台には、ススキの穂が銀色に揺れ、月のない空は暗い。さっき引き抜いてきたばかりといった風情のススキにの間で舞われる華麗な舞に、目を奪われた。
薄をかき分け井戸を覗き込めば、月影に映る姿は女とは見えず亡き夫業平の面影そのものである。生前の夫婦愛を回想しつつ、やがて寺の鐘の音を聞き、ほのぼのと夜があけるにつれ、『明くれば古寺の、松風や芭蕉葉の、夢も破れて覚めにけり、夢は破れ、明けにけり』。(シテのトメ拍子)
シテは、五色の幕の向こう、真っ暗な闇へと消えていった。

▼奈良は、極上のワンダーランド

それにしても、路地の奥のタイムスリップ・タウンに紛れ込んだかと思えば、星明かりの下で芝能を観る。奈良とは、なんとぜいたくなワンダーランドか。


■13 Sep 2006 段ボール迷宮でも至福/謎の赤煉瓦倉庫


▼段ボール迷宮
古都奈良で優雅に執筆生活、と思っていたのだが、ままならない。7月13日に相模原からすべての家財を搬入してから丸2カ月、奈良に仮住まいしていた相棒のアパートの荷物の搬入から数えても1ヶ月半経つというのに、部屋はいまだに段ボールの迷宮だ。寝室にする予定だった部屋は、畳を上げて荷物を積んでそれっきり、依然土間のままである。仕方ないから、仕事部屋の机の下で寝ている。機能しているのは、キッチンと仕事部屋のみ。これではワンルーム暮らしの学生と変わらない。広いから、なおさらに片づかないというような、こまった事態になっている。

まあ、二人して片付け能力ゼロというのも問題なのだが、それ以前に何しろ忙しかった。奈良暮らしをドタキャンして勝手に老人ホームに入ってしまった両親のことが心配で、千葉を訪れること2回。大切な大切な編集者の宇山日出臣氏の急逝で、東京に駈けつけること1回。この時は、ショックで連載を初回から落とすかと危ぶまれたけれど、門坂さんから「そんなことをしたら、宇山さんが喜ばない」と諭されて、気を取り直して書いた。その門坂流氏の個展の応援で四国は丸亀を訪れること1回。これは、ご無沙汰している相棒の実家訪問も兼ねてのこと。引っ越してからこちら、2カ月で5回も旅をしているのだから、お尻が温まる暇がないに決まっている。そのうえ、新連載がはじまって、その予告と、連載の1回目、2回目を執筆。2回目の推敲はこれからだけど、書いた原稿は合計100枚を越えている。段ボール迷宮での仕事としては、よくやったものだと思う。

月末にはまた千葉の両親を見舞いたいし、29日の奈良県ストップ温暖化県民会議のために、自分から提案した「エネルギーをどれだけ消費したかを、木をどれだけ燃やしたかに例える」の計算モデルも作らなくてはならない。10月に入れば、金沢での講演と朗読が立て続けに3回、その後、千葉高校での同窓会での朗読と、これまた忙しくい。ということはつまり、いますぐに次の連載の原稿にかからなければ間に合わない、ということだ。ということはつまり、やっぱり部屋は片づかない!!!ということか????? ああ、カミさま、ホトケさま、大仏さま!

全然売れてなくて、やっと連載を一本だけ持っているマイナーな作家でも、こんなに忙しいのだから、売れてる作家はどれほど忙しいか。うーむ。

▼それでも至福の執筆生活
忙しいとはいえ、連載「夢見る水の王国」を書かせてもらえるのは至福である。わたしのいる現実は段ボール迷宮だが、居ながらにしてすでに「あちらの世界」に脚を半分突っこんでいる。半ばトランス状態で、うとうとすればその世界が見えてくるくらいだ。今度の作品の引力は、相当強い。その世界に遊べることが、うれしくてならない。

執筆できる喜びは、以前の連載でも同様だったが、『楽園の鳥』は苦しい内容だったので、書きながら主人公の心を体験する苦しさがあった。今度の作品にももちろん、苦しみや深い悲しみがある。しかし、基本的に癒し系なので、もう気持ちよくて仕方ない。至福! 北國新聞に、そして宇山さんをはじめ、ここに導いてくださったすべてに感謝!

▼謎の煉瓦倉庫
奈良はきょうは雨。秋の雨だ。近くの「京終郵便局」まで、古本の代金の払い込みに行く。いつもは自転車ですいっといってしまうところ、傘を差して歩いていたら、小さな路地の向こうに、煉瓦造りの大きな倉庫のようなものが見えた。噂に聞く地元の醤油醸造所らしい。古めかしい、美しい建物だ。よく見たかったが、塀に遮られて見えなかった。どこか、違うところに入り口があるらしい。道路から奥まったところにあるので、いままで気づかなかったのだ。こんど、晴れた日に探してみよう。

株式会社井上本店
0742-22-2501
所在地:630-8322
奈良県奈良市北京終町57
見学日:土日・祝日を除く全日
その他:記念品あり
JR桜井線京終駅より徒歩約3分。JR奈良駅、近鉄奈良駅より奈良交通バス市内循環線にて北京終町下車徒歩約5分。西名阪道天理ICまたは郡山ICより奈良市内へ車で約20分。
奈良には、町の辻々にこんな発見がある。町そのものが、時の地層の断面を見せてくれているからだ。この町に住めて、ほんとうによかった。雨音に混じって、天理教の教会の太鼓の音が響いてきた……。夫もうこんな時間だ。さあ、夕飯の支度にかかろう。


■ 9 Sep 2006 奈良少年刑務所 見聞録


9月9日と10日の両日、奈良少年刑務所で「矯正展」という催しがありました。刑務所で生産した製品の即売会です。申し込めば、刑務所の見学もできるとのこと。刑務所は、明治41年に建てられた、煉瓦造りの壮麗なお城のような建物です。建築としても興味があり、訪れました。

少年刑務所とは、未成年の犯罪者が入るわけではなく、一般に16歳から上は26歳の人を収容。長い刑期のため、30歳になる人も収容しているとのこと。収容人員は約700名。職員は200名で、うち教育関係に携わっている人は13名とのことでした。

受刑者たちがクラブ活動で制作した絵画や俳句を見て、胸が詰まりました。煉瓦をひとつひとつ丁寧に描いた風景画。その律儀なこと、生真面目なこと。もしかしたら、この生真面目さが彼を追いつめたのかもしれない、と思わせられるほどでした。そして、その絵の美しいこと! 俳句には、こんな作品が。

  振り返りまた振り返る遠花火 祐
  夏祭り胸の高まり懐かしむ 旬
  晩秋や寂しさ募る寺の鐘 彦

なんとさみしげな、けれどもきれいな俳句でしょう。

刑務所内には、様々な作業所がありました。そこで職業訓練をして社会復帰を目指すのです。訓練官は「安全第一と、口が酸っぱくなるほど言っています。彼らは、ただでさえ、社会に出たとき、差別を受ける。もしも、旋盤作業で指の一本でも切り落としていたり、どこか体を悪くしていたら、その差別はますますきつくなります。だから、元気な体で返してやりたい。製品の質より、おまえの体が大事だと、いつも言って聞かせています」

そんなふうに「おまえが大事だ」といってくれる人が、彼らがシャバにいたとき、いただろうかと思いました。規範となり模範となるような大人が、彼らの周りにいただろうか。「尊敬したくなる大人」が存在しただろうか。

そのとき、アイヌのフチやエカシのことを思いだしました。心から「尊敬できる」と思えるおじいさんやおばあさんが視野の中にいたら、世界の見え方は変わります。人格が涵養され、犯罪も減るでしょう。でも、いまの社会、なかなかそのような人には出会えない。老人は、幼児扱いされ、世間の厄介者のように思われていることが多い。「目上の人を尊敬すべし」というスローガンを振りかざす前に、尊敬される大人になろうと、大人自身が努力しなければならないと思うのです。

職業訓練所の立派なことにも、驚きました。世間に、このような職業訓練を受けられる場所があったか。もしも、望む人みんながこんな職業訓練を受けられるような社会であれば、犯罪はもっと減るのではないか。

いまの社会、みな同じように「勉強」をして、その物差しでしか評価されません。もっともっと、いろんな物差しがあっていいはずなのに。東大に進んで官僚になるような人が、優秀な大工や旋盤工になれるとは限りません。手先は不器用かも知れない。飽きずに、ひたすらアイロンをかけ続ける能力、というのもあるでしょう。だからこそ熟練していく才能もある。人は、いろんな形で社会を関わることができ、いろいろな形で自分に誇りを持つことができるはずなのに。

刑務所内は、どこからどこまで、きれいに整頓され、清掃され、心地よく明るい場所でした。受刑者たちが、みな掃除をするのだそうです。「自分のいる場所をきれいにしよう」ということを学ぶために。わたしも、学ばなければと反省。

「本当を言えば、いいところばかりお見せしているような部分もあります。大変なこともたくさんあるんですよ。でも、彼らの環境が悪かったことは事実。模範となる大人がそばにいなかったために、同じ年頃の子どもたちと群れ、善悪の基準も揺らいだ、そんな子がほとんどなのです」と、刑務官は語っていました。

世間にいたら、だれも熱心に進路について考えてくれないし、職業訓練の場もほとんどない。世間とは、むごい場所だと感じました。なんだか、刑務所に来た方が、救われるのではないか、と思った一日でした。多くのボランティアの人々が、この催しに関わっていることも、心強く思いました。わたしも、機会があったら、ポエトリー・リーディングのワークショップをしてみたい、と思い、その旨、係の方に伝えてきました。ここにいる少年や青年が、服役を通して何かに気づき、新たな道を歩むことを願ってやみません。そしてそれは「矯正」することなどではなく、彼らが「愛」に気づくこと、「愛されている」ことを信じられるようになること、ではないかと思ったのです。

いろいろ考えさせられた一日でした。ここで購入した市原刑務所産のお味噌は、とてもおいしかった。来年はもっとたくさん買おう。


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