寮美千子ホームページ ハルモニア Cafe Lunatique (No.0028)

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勇崎  ほら吹きくん、さようなら。 2003年12月15日(月)21時58分31秒
お騒がせいたしました へのコメント

MOKUMOKUという名の鈍感男へ>

がっかりしました。
唖然とします。
ほら吹きくん、さようなら。
この板に、あなたのような鈍感な男は似合いません。
さっさと退散しよう。

それにしても、信介どんの勘の良さには、脱帽。

寮美千子  理解に苦しみます 2003年12月15日(月)21時36分22秒
お騒がせいたしました へのコメント

講談社での「19世紀フランス文学・・・」もゆうべの投稿も冗談です。ごめん、ごめん。大反省。>MOKUMOKU氏
理解に苦しみます。以下の解釈が可能。

1 もしも、講談社から原稿依頼を受けたこと自体が「冗談=嘘」ならば、これは冗談ではなくて単なる嘘つき。最低です。講談社も迷惑します。

2 もしも、講談社から原稿依頼を受けたことは本当で、断ったのだが「啓蒙書を書くのは研究者の責務である」と寮美千子に指摘され、面倒になって、いまさら冗談だと言い逃れしてしているのなら、なおさら最低。

3 そうではなくて『19世紀フランス文学におけるオリエンタリズム』の件だけが冗談なら「わたしの19世紀フランス文学をみくびっておられるようです」という投稿は、あまりに悪質な冗談。全然笑えません。こういうのは、ユーモアとは呼ばない。最低です。

というわけで、どの解釈でも最低。ほんとうに大反省しているならともかく、そうでないなら、迅速にご退場ください。わたしには、つまらない冗談をいう人と遊んでいる時間はありません。なお、ご退場いただける場合は、ご挨拶していただく必要はありません。

寮美千子  過激な血筋? 2003年12月15日(月)03時40分15秒
寮隆吉教授からのメッセージ へのコメント

寮隆吉おじのエッセイは、神戸大学のサーバー内の血液学研究室のHPに、実名で書かれています。梅原猛、河合隼雄、それに養老孟司にいたるまで、いまの日本で人気の「文化人」をばっさばっさと過激に批判。かなり当たり障りのある文章だけれど、実名で大学のサイトに書いているところが、堂々としていていいなと思いました。その論は、気分はわかるけれど、ちょっと不親切というか説明が丁寧じゃないから、わかる人にはわかるという書き方。わたしのような読者にもわかるように、もう少しわかりやすく書いてよ! というところはありますが。

それにしても、あのおじさんの過激さ。わたしはまだ、寮隆吉教授には会ったことがないのですが、やっぱり血は争えないのかなあ、なんて、我が身を振り返って、思わず笑ってしまいました。妙に生真面目なところも、似ているかも。学問でちゃんと身を立てるまともさ、っていうのは、残念ながら似なかったようです。

MOKUMOKU  お騒がせいたしました 2003年12月15日(月)03時14分32秒
情報なしでタイトルだけでは内実がわかりませんでした へのコメント

講談社での「19世紀フランス文学・・・」もゆうべの投稿も冗談です。ごめん、ごめん。大反省。

ニューヨークは朝から、またまた雪です。(こりゃ関係ないな)
これも関係ない話ですが、金曜日ニュージャージーで熊狩りが終わりました。253頭を射殺したそうです。連日、動物愛護のひとたちが熊を殺すなというプラカードをたてて鉄砲を持ったひとたちのいるあたりでデモをやっていました。今年5月、ニューヨーク郊外の山際で、黒熊がわたしに向かって近づいてきましたが、熊くんの前足はずいぶん内股で、可愛いですね。

勇崎  寮隆吉教授からのメッセージ 2003年12月14日(日)20時08分51秒
情報なしでタイトルだけでは内実がわかりませんでした へのコメント

寮隆吉教授からのメッセージ(下記URL)
(Message from Prof.Ryukichi Ryo)「日本人論抜粋」
興味深く拝読しました。感謝。
おじさまのご発言は、これまで、この板で脈々と語り合いつづけてきたことと
共通するように感じました。

http://www.ams.kobe-u.ac.jp/hematology/index.html

寮美千子  情報なしでタイトルだけでは内実がわかりませんでした 2003年12月14日(日)18時48分31秒
『19世紀フランス文学におけるオリエンタリズム』なんていう本じゃなくて、 へのコメント

『19世紀フランス文学におけるオリエンタリズム』というタイトル、お親しかったサイードとの関連があるだろうな、とは思いましたが、前後の脈絡なく唐突に、そのタイトルをおっしゃったので、単なるギャグかと思ってしまいました。見くびったわけではありません。
『19世紀フランス文学におけるオリエンタリズム』も興味深い題材ではあるけれど、それに先立ちぜひご専門のご研究のことを本にしていただきたいと思います。
というべきでしたね。すいません。

しかしながら、出版社から「免疫」というテーマで執筆依頼があったならば、それに乗らないという手はないと思います。『19世紀フランス文学におけるオリエンタリズム』もMOKUMOKUさんのなかでは重要なテーマでしょうが、出版社はMOKUMOKUさんのその研究を評価して執筆依頼をしてきたわけではないことは明白。ニューヨークで活躍する血液学専門の専門家として、なにか大衆に還元できることを書いてもらいたい、という期待だったと思います。専門の研究をしているからには、まずそれを世間に還元するのが研究者の責務だと思います。出版社からのオファーがあるような学者は、そうはいないのだから、なおさらです。

その機会を生かさないで、まず『19世紀フランス文学におけるオリエンタリズム』を、という姿勢に、わたしは正直いって微かな反感を覚えました。専門ジャンルの研究を世間に還元する機会を与えられたというのに、その責任と義務を果たそうともせず、まず自分の趣味の話を持ちだしていい気なもの、という印象を受けてしまいました。

とはいえ、確かに、そのテーマはとても大切なことだと思います。昨今の「縄文ブーム」「先住民ブーム」も、サイードのいうところのオリエンタリズムの変形でしかないようにも感じられます。神戸大学で血液学をやっている寮隆吉おじが、HP上で梅原猛や河合隼夫を批判していますが、これも、安易な縄文賛美、汎神論的を軸とした東洋賛美への警告であり、オリエンタリズム批判であるとわたしは理解しました。

わたし自身も、アイヌ文化をはじめ、先住民文化に興味を持って仕事をしています。わたしのなかにある種の「憧れ」があることは否めませんが、それがそのまま安易なオリエンタリズムに陥らないようにと、いつも自戒しながら異文化に接するよう、心がけています。
わたしの19世紀フランス文学をみくびっておられるようです。
といわれましても、MOKUMOKUさんのその方面に関する考察を、一言もお伺いする機会がなかったので、ギャグかと勘違いしてしまったという事情、お察しください。『19世紀フランス文学におけるオリエンタリズム』についての考察を広く世間に知らしめたいなら、まず、ぜひご自分でHPを立ちあげて、ご解説していただきたいと思いました。そこへのリンクつきで『19世紀フランス文学におけるオリエンタリズム』を書きたい、というのであれば、脈絡もある話で、なるほど、とわたしのような飲みこみの悪い者でも、理解できます。あのような唐突な書き方では、単にギャグか、でなければ「偉い学者さんの高尚なご趣味」と皮肉混じりで受け取られる可能性は否めないと思います。

というわけで、免疫学の啓蒙本と、19世紀フランス文学におけるオリエンタリズムに関するHPの立ち上げ、期待しています。HPには、オリエンタリズムに限らず、先日ここに書き込んでくださったような、血液学の興味深いお話しもお書きいただけたらと思います。よろしく!

MOKUMOKU  『19世紀フランス文学におけるオリエンタリズム』なんていう本じゃなくて、 2003年12月14日(日)16時46分45秒
啓蒙書を書くことは研究者の義務 へのコメント

寮さんは、ほんとに頭のいいひとなんですね。
だけど、わたしの19世紀フランス文学をみくびっておられるようです。19世紀フランス文学におけるオリエンタリズムというのは、わたしが精神的に近かったエドワード・サイードがわたしに寄せていた共感でもあるのです。たとえば、ポール・ゴーギャンがタヒチに行ったのも、「なんだ、オリエンタリズムじゃねーか」ということです。

寮美千子  啓蒙書を書くことは研究者の義務 2003年12月14日(日)16時09分13秒
一葉日記 へのコメント

人様の知的好奇心を刺激するような本なら書いてもいいが、役に立つ医学の啓蒙書なんか書きたくないという気分になってきたのですね。それだけではなく、大衆受けするような本を書いたら、昔の同僚たちが、どんなこと言うかと考えると不安になってきました。> by MOKKUMOKUさん
さて、わたしは啓蒙書を書くことは、研究者の義務ではないかと思っています。研究者が研究している専門のことを、素人はわからない。研究者だけが知っている。けれど、研究者が研究できるのは、結局は大衆の支持あってこそです。そうやって支持を得た研究者が、研究によって得た新たな知識は、人類全体の宝物であるはずです。それがどんな専門的なことで、日常生活とは一見かけ離れたものであっても、やはりそれは、世界理解を深めるための大切な道標となるものです。その宝を一般大衆と分かち合う努力をすつことは、研究者の義務の一つではないかと思います。

「免疫」という言葉が大手をふっていて、いまや魔法の呪文扱い。「免疫」というキャッチフレーズさえあれば、どんなインチキな健康食品でも、売れ行き倍増、という感じです。「免疫」はまるで、死なないおまじないみたい。

でも「免疫」ってほんとうはどういうことなのか、一般大衆にはよくわかっていない。いま、最先端でどんな研究がなされているのかも、わからない。わからないまま「免疫」という魔法の呪文だけが暴走している。

こういう時こそ「免疫」の本質について、きちんと人々に啓蒙するチャンスだと思うのです。というか、しなきゃいけない。「免疫」とタイトルについていれば、人は思わず手に取る。それを読めば、免疫の秘密がわかって、癌が治ったりすると思うから。それでもいい。そんな人の興味を引きつけるように一見みせかけながら、ゆっくりじっくり話を誘導していって、ちゃんと免疫の本質について語る。人々に、正しい理解を促す。そんな書き方はできないものでしょうか。ぜひしてほしい。

啓蒙書をバカにして笑う研究者に、わたしは傲慢を感じます。人々の支援があってこそ成立している研究なのに、支援をしている見えない一般大衆をそのようにバカにする研究者は、品性下劣です。そんな研究者たちの反応を一々気にする必要なんかないと、わたしは思います。

啓蒙書をバカにする研究者や学者さんたちは、やさしい言葉で、研究の本質をきちんと大衆に手渡す能力がないのでしょう。そして、大衆向けの本といえば、世間の誤解を助長するようなハッタリで虚仮威しの本でしかないと、タカをくくっているのでしょう。そういう研究者こそ、自分の能力のなさを棚に上げて、自分だけが世界の秘密を握っていると思っている愚かな井の中の蛙です。

そんなわけで、わたしはMOKUMOKUさんには『19世紀フランス文学におけるオリエンタリズム』なんていう本じゃなくて、ぜひご専門のご研究のことを本にしていただきたいと思います。「役に立つ医学の啓蒙書」の顔をしながら、その実、免疫研究の本質について人々の理解を促し「人様の知的好奇心を刺激するような本」。しかも「大衆受けするような本」をぜひ書いていただきたい。いや、そういう本を書くのは、人類の知の最先端を握っているMOKUMOKUさんの義務であるとさえ、わたしは思うのです。

MOKUMOKUさんが、ほんとうにろくな文章も書けないガチガチの理数系ならともかく、これだけの文章力とエンターティナー性、そしてなにより、これだけの分量の文章を書くだけのエネルギーがあるなら、なおさらにそうしてほしいと願います。よろしく!

(「そういうお前モナー、しっかり作品書けよ!」という声が……。はい、ごめんなさい、そうします)

本多信介  PS 2003年12月13日(土)19時10分38秒
説明と理由 へのコメント

松尾さんは芭蕉さんです

本多信介  説明と理由 2003年12月13日(土)18時42分00秒
説明が必要であることの説明 へのコメント

世の中には説明と理由があふれてるぜ、

そんでなにも分からないことばかりさ

140億光年は説明できんさ、

愛はわかるさ、

でもな、ここではみんなが良い子すぎてさ、危険@

ほんとに自分の言葉でしゃべるってことは、自分の世界を持つってことだよね、
それは、文章をちゃんと書く事ではないんじゃないかな?
ま、松尾さんとか、文章を書くっておれなんかには大変なことなんだよ、

mokumoku殿、そーいえば30年くらい前にバンドやってる時にさ、
勇崎さんの親友でもある、札幌のおっちゃんもそのバンドにいたっけ、
ま、生意気で、ま、大きなプロダクションのコネもあって、
マネージャが酔っぱらって「アイドル系やる?」なんて、おれは「いいーや」って
ことも、でもいいじゃない「仕事」はやれば、おれたちのあのバンドもあの音羽町の
講談社のレコード会社だったんだぜ、、、

MOKUMOKU  一葉日記 2003年12月13日(土)15時45分43秒
絶交状はナシよ へのコメント

寮さんからも勇崎さんからも、本を出すことをお勧めいただきましたが、最近講談社からわたしのエッセイを出したいという申し出をいただきました。先日、東京に行った用件のひとつが講談社の企画部のかたとお会いすることだったのです。講談社企画部のかたとは電話で2度ほど話をしたが、内容については具体的なことは話していなかった。だから、何でも書かせてくれるんなら、本気じゃないけど「19世紀フランス文学におけるオリエンタリズム」なんて文化の薫り高いのはどうかななんて勝手なこと考えていたんですね。護国寺の講談社に行ってみて驚いたのは建物の立派なことでした。間違えて国会議事堂に来ちゃったんじゃないかと思いましたね。その上、警備がたいへん厳重である。わしがイラク戦争反対デモなんかに参加してるのを知ってるんじゃねーかなんて疑いましたよ。
とにかく、ロビーに企画部の次長さんが迎えにこられて、上の階に連れて行かれのですが、次長さんは座るなり、最新のご専門の知識をやさしく面白く書いていただきたいのですがと切り出された。ふむ、もう路線は決まってるんだな。フランス文学はムリだなと直感いたしました。わたしは、次長さんの求めに応じて、先日掲示板に書いたような赤血球が形を変える話とか、ケニアでのエイズ・クリニックの話なんかをぺらぺらぺらぺらしゃべりました。そしたら、次長さんも乗ってきて、面白いですねー、8ミクロン、4ミクロンといってもシロートには見当がつきませんから、トラックの幅が8メートルだが道路の幅が4メートルしかないとでも例えるかなーなんて言ってる。それに、わたしがしゃべくることをいちいちメモ帳に書きとめてるのである。次長さんは、先生、なんとか内容をガンと結びつけるように書いていただけませんか、それと、どうすれば治療に結びつくかということも加えていただけると有り難いんですが、と言われる。そんな、無理ですよ、いくらなんでも玄米を食えとか有機野菜を食えとか、そんなこと書けませんよ。次長さんは、いやー、きっと売れますよ、タイトルは「血液免疫学」というのはどうでしょうとわたしを励ますのである。うむ、「血液免疫学」か、「19世紀フランス文学・・・」にくらべるとだいぶ格調が低いな。まあ、しかたないか。すると、次長さんは、席を立って、一冊の本を持ってこられた。これ、うちから出した本です。参考までにご覧になっておいてください。見ると、新潟大学教授安保徹先生の「免疫革命」だった。この本は夏に出たんですが、もう10万部売れています、いまは免疫というタイトルがついてると売れるんですよ。うえー、10万部。するとなんだな、安保せんせの本でくそ儲けしたから、わしにも似たようなもんを書かせて、柳の下でまたドジョウをという腹なんだな。しかし、売れると言われると、やれば金が儲かるというわけだ。わたしだって、ゼニとオンナは嫌いじゃない。やってみるか。わたしはちょっと失礼して、トイレに行き、オシッコをしながら、話半分5万部売れたとして、なんぼくらい儲かりそうか、急いで皮算用をしてみました。すると、家を改築するほどは儲からないが、痛んでる台所を修理するくらいの金にはなりそうだと判明いたしました。別れ際に、もう一人の編集員のかたが、「血液免疫学の不思議」というタイトルのほうがよくありませんかと言いました。すると、次長さんも、うん、それがええと同意するのです。「不思議」?? なんだかなぶりものにされてるような気分だが、安保せんせもこんな調子で引き受けたのかな。うひゃひゃ。
ま、そういう次第で、ニューヨークへ戻ったら検討して、連絡させていただきますということで講談社を辞したのです。ところが、夜になると、人様の知的好奇心を刺激するような本なら書いてもいいが、役に立つ医学の啓蒙書なんか書きたくないという気分になってきたのですね。それだけではなく、大衆受けするような本を書いたら、昔の同僚たちが、どんなこと言うかと考えると不安になってきました。湯本くんなら「あんな本出すとこみると、あいつ、よっぽど生活に窮してるんだな」、木下くんなら「貧すればドンするというからしょうがないよ」、江川くんなら「あいつ、学生のころから、あんな本を書きそうな顔してたな」。酒飲んだらだれがどういう悪口を言うか、手にとるように予測できるのです。

あくる日、わたしは文京区の「文京ふるさと歴史館」に出かけ、「樋口一葉 その生涯」特別展を見ました。そこで、昔読んだ一葉の日記に再会いたしました。

明治26年6月
「人つねの産なければ常のこころなし。手をふところにして月花にあくがれぬども、塩噌なくして天寿を終らるべきものならず。かつや文学は糊口の為に為すべきものならず。・・・・・・いでや是より糊口文学の道をかえて、うきよを十露盤の玉に商ひという事はじめばや」

それ見ろ。一葉は金のために書くことを拒否しているではないか。生活のためには荒物屋・駄菓子屋を営み、収入の足しにしようとしたんだね。一葉の言葉は、あれから120年たったいまも、われわれを勇気づける。えい、講談社のエッセイなんか反古にしてしまえ。

明治27年4月
「いよいよ転居の事定まる。家は本郷の丸山福山町とて安部邸の山にそひてささやかなる池の上にたてたるが有りけり。守喜といひしうなぎやのはなれ座敷成しとてさのみふるくもあらず。家賃は月三円也。たかけれどもこことさだむ」

「たかけれどもこことさだむ」のところにきて、わたしは胸がいっぱいになり、涙が出そうになりました。みっともないからガマンしていると、鼻水が出てきた。同行した友人がわたしにそっとちり紙を渡してくれました。

ニューヨークに戻って、一葉日記を再読いたしました。11月23日が一葉の117回忌なので、その日(アメリカでは22日土曜)は断酒断食を決行し、明治の先人を偲ぶことに決め、カレンダーに書き込みました。ところが、その日になるとケロリと忘れてしまい、成田空港で買った免税のウイスキーをがぶがぶ飲んですっかり酔っ払ってしまいました。一葉姉さん、ごめん。来年はちゃんとやるかんね。


寮美千子  匿名というテロリズム 2003年12月13日(土)14時58分40秒
実名 へのコメント

▼実名非公開の件
MOKUMOKUさま。なぜ実名を載せないかの理由説明、ありがとうごさいました。
この件については掲示板に書きたくなかったのですが、
寮さんに勧められて、あらましを書くことになりました。
わたしがメールで受け取ったあらましは、もっと簡単でした。「過激なことをいったら、ネット上で住所氏名をはじめ勤務先の電話番号まで明かされ、無言電話がかかるようになって困った。この件について係争中(寮美千子による要約)」という内容。で、詳しいことはわからないけれど、ともかくわたしの口からじゃなくて、MOKUMOKUさんご本人の言葉でみなさまにお知らせくださいとお願いしました。そしたら、思った以上に詳しい事情が書いてあって、びっくり。うーむ、そこまで詳しくなくてもよかったんだけどな。

MOKUMOKUさんからの一方的なお話なので、事実についてはわたしは何もわかりません。だから、この問題に個別具体的に触れるつもりはありません。しかし、ひとつだけいえば、本人の意思を無視しての実名連絡先公表があったことが事実とすれば、それはいけない。絶対に糾弾されるべきことだと思います。
行儀が悪いので、バカなひとをバカとかアホとか呼ぶことにあんまり躊躇しない
これは、わたしもほぼ同じです。けれども、なるべく行儀はよくしようと心がけています。というか、相手が間違っていても、こちらは相手に対して最低限の敬意は払いたい。それは、わたし自身の尊厳の問題に関わるからです。相手が卑劣なことをしたからと、自分も卑劣な攻撃をすれば、自分が相手と同じレベルに落ちる。住所氏名を明かすなど論外の卑劣さですが、それ以前に、単なる言葉の問題としても卑劣にはなりたくない。信介さんにもいったけれど「最低」「バカ」「アホ」というのなら、なぜそうなのか、きちんと説明しなければならない。それも「愛」を持って。そうしなければ通じない。相手に通じないだけではなく、読者にも通じない。

よく、罵詈雑言の飛び交う掲示板があります。以前、MOKUMOKUさんの事件に関連した掲示板を覗いたことがありますが、そこはそんな掲示板でした。そして、一体何が起こっているのか、部外者にはぜんぜんわからない言葉で語られていた。つまり、そこにはきちんと外部に開かれた「批評」の言葉がなかった。事情に通じている「通」の人たちだけが語りあえる「なかよし掲示板」だったのです。ああ、この人たちは罵詈雑言をぶつけ合いながら、結局は閉じたお仲間で楽しくやりたいんだなあという感想を持ちました。ずいぶん荒涼とした「なかよし」さんたちだなあ。

わたしは、この掲示板をそんなふうにしたくはありません。いつ、はじめて来た人がいても、すんなりと話にはいっていけるような、そんな開かれた掲示板にしたい。顔見知りのなじみのお客だけを相手にするような、そんな場所にはしたくないと思っています。もちろん、なじみのお客さんがくつろげる場所にもしたいけれど、だからといって、はじめての人が居心地が悪くなるようでは困ります。なかよしはなかよしでも、仲間内だけで閉じているんじゃなくて、開かれたなかよしにしたい。いや、仲なんかよくなくても、ちゃんと話せる場所なら、居心地がいい。

というわけで、いまのところ、このカフェは、かなり感じのいいカフェだと自負しています。店の主は度々キツイことをいうけれど、お客さんたちが、いい雰囲気をつくってくれている。感謝しています。MOKUMOKUさんの血液の話もおもしろかった。しかし、専門ジャンルの話となると、やっぱり実名問題が浮上してきます。

▼実名問題について
わたしは、基本的に「専門の話をするときは、発信元をはっきりさせる。いやがらせを誘発するような記事は書かない。相手の思想を攻撃しても、相手の人格そのものを傷つけるような発言はしない」ということが、大切だと思っています。つまり、正しい批評の言葉を使うということです。そうであれば、実名を公表しても、大きな問題が起こる可能性は低い。

逆に、実名だから心して書く、ということを前提としていれば、節度をもった言葉を使わざるをえません。臆病というのではなく、言うべきことをきちんといいながらも、尊厳を保つということです。匿名の仮面に隠れて好き放題言う無責任な言葉は、卑怯です。おかあさんのスカートの陰から、友だちの悪口をいう子どものようなものです。おかあさんがいないときに殴られても、仕方ない。それを誘発したのは、自分だから。

尊厳を保った行動をしていても、時にいやがらせを受けることはあります。まさに、理由なきテロ。その場合は仕方ないから、そんな奴とはすっぱりと縁を切って知らないふりをするのが一番。深追いしない。わたしは、実はこのやり方は苦手なのですが、ときどきやります。相手が、きちんと問題について考えようとしているのではなく、単に論争したくてしているだけの時は、特にそうです。論争をし、注目を集めることが目的化している。そういう人とはさすがに「語り合う」ことすらできない。無視するしかない。

というわけで、この掲示板ではみなさんに実名か、実名に準じるハンドルネームで登場してもらいたいと願っています。そして、たとえ実名を明かされたとしても、恥じることのない書き込みをお願いします。

▼いまの日本とテロ問題
いまの日本の態度は、まさに「匿名」であきれたことをする人と同じ精神構造。アメリカのスカートの陰から、好きなことをいって、実はママ・アメリカのいうなり。ママの思い通りのキャラメル・ボーイです。

きちんと自立して、尊厳ある態度を持てば、テロがくる可能性はむしろ低くなると、わたしは思っています。わたしは作家だから、だれでも調べようと思えば、わたしの住所も電話番号もすぐにわかります。わたしはかなり過激なことをいうけれど、それでも、攻撃を受けることは極端に少ない。世の中は、思った以上にまともなところがあるなあと感じています。それは、互いに尊厳を持とうとしているからだと思う。

ガソリン持って満員電車に乗りこめば、銃も爆弾もなしに、自爆テロが可能です。この世界は「善意」を前提として成立している。でなければ、毎日のように日本のどこかでそんな事件が起こっているはずです。

テロが起きるのは、相手にそれだけひどい圧迫をしているからです。わたしたちは、それがなんなのか、考えなくてはいけない。平穏無事な暮らしをしている陰で、実は何を、誰を圧迫しているのかに、自覚的にならなければいけない。

ぼこぼこに爆撃された後、迷彩服の男たちが装甲車で「支援」しに来たら、どんな気持ちになるか。わたしなら、憎みます。来るなといいたくなる。それは「支配者」でしかない。ほんとうに「支援」したければ、もっと別の方法をとるべきです。

▼語り合うスキル
こんな日本の問題を解決していくひとつ力として「掲示板で語り合うスキルを高める」ということがあるのだと思っています。微々たる力でしかないけれど、それでも大事だと思う。よろしくね。

▼追伸
MOKUMOKUさんて、いじわるっていうか、お茶目。「絶好状」なんていうタイトルでみんなをドキッとさせたりして! ブラック・ユーモアってやつ? こんどはホワイトもお願いします。

寮美千子  非戦闘地帯に戦争にいく自衛隊/人々は、なぜ賛成したのだろう? 2003年12月13日(土)13時38分22秒
恥ずかしいこと へのコメント

きのう、東千歳の自衛隊の、イラク派遣のための訓練公開がありました。改めて怒りがふつふつとわきあがってきた。自衛隊員は、みんな迷彩服。車は、戦車と見まごう装輪装甲車と軽装甲機動車。水を浄化するという訓練を公開しましたが、同時に、携帯する武器の一部も公開されました。

個人携帯対戦車弾と84ミリ無反動砲。肩に担いで、まるで映画でよく見るバズーカ砲です。これが「非戦闘地帯」へ行く者の装備か?

政府がいっていることはめちゃくちゃ。理屈も通らないし、大義もへったくれもなく、憲法を平気で無視して暴走しています。

91年、湾岸戦争後のペルシャ湾に海上自衛隊が派遣されて以来、「国際貢献」の名のもとに、日本は自衛隊を海外派遣してきました。わたしは、その派遣自体反対だったけれど、少なくともいままでは戦闘や攻撃による死者はいなかった。(事故や病気で死亡した隊員はいた)相手を傷つける可能性のある武器使用もありませんでした。

それが、いまや武器の携帯は当たり前。自衛隊を海外派遣することの是非など、とうの昔に議論の対象ではなくなり、議論すべき「基準ライン」が、みるみる過激なところにいっています。ノーブレーキのまま突っ走っている。つい先日、総選挙という、ブレーキをかけるための絶好の機会があった。それなのに、多くの国民は、そんな政府を支持したのです。

日本がここまでノーブレーキになったことは、絶えてなかった。あったのは、半世紀以上も前。第二次世界大戦前のときのことです。

考えてほしい。あなたの一票が、あるいは、あなたが投票しなかった一票が、自衛隊員の命を奪い、遠い国の人の命を奪うのだと。それを命じたのは、あなただと。ほかでもない、あなた自身の手が血に汚れるのだと。そして、もし、このことで日本がテロの対象とされることがあれば、そのきっかけをつくったのはあなた自身であることを、思いおこしてほしい。

自民党を始め、自衛隊のイラク派遣を指示する党に票を入れた人々は、そのことをどう思っているんだろう。政府はひどい。けれど、問題は、そんな政府を選んでしまった国民です。

第二次世界大戦の時、庶民がどんな大変な目にあったのか、よく語られます。まるで、庶民は罪なき被害者のように語られる。けれど、庶民はまた、そんな状況を自ら招いた加害者でもあるのです。「非国民」という恐ろしい言葉があったことを、忘れてはいけない。戦争反対を声高に唱える人を迫害したのもまた、庶民だったのです。

そのことをわかったうえで、それでもなおイラク派遣に賛成して投票したなら、確信犯です。そこまでの確信犯ならある程度は仕方ない。けれど、そこまで覚悟していた人が、どれだけいるだろう。

そして、更なる問題は、棄権した人々の存在。こんどの総選挙の小選挙区の投票率は59.86%だったといいます。四割の人が棄権している。その人々が、きちんと声をあげたら、様子は違っていたかもしれない。どうしたら、その人々がきちんと声をあげてくれるようになるだろう。

「与えられた情報を丸呑みせず、自分の頭で考えて、自分の意志で決める」 みんなが、それができるようになったら、きっと世界は変わる。けれど、それには一歩ずつ前進するしかない。一瞬ですべてがひっくり返る革命など、ないのだから。

インターネットの普及により、庶民が自分で情報や意見を発信できるようになりました。イラク派兵に(派遣などではなく、これは明らかに派兵です)反対なら、それを個人で表明することも可能になった。わたしは「連帯」なんて嫌いだけれど、個が意思を表明することで、連帯ではなく、個が個としてゆるやかに互いに力を及ぼしながら、何かを変えていくことはできないだろうかと思っています。

イラク派兵関連の書き込み、歓迎します。派兵賛成の人もどうぞ。わたしには、どうしてみんなが賛成するのか、そのメンタリティが理解できないから、ちゃんと聞いて、考えてみたいのです。

勇崎  恥ずかしいこと 2003年12月13日(土)00時25分51秒
師団走る師走 へのコメント

テレビを見ていると、イラクのことと年金のことが前後して放送されます。
一方が、日本人としての誇りが踏みにじられ、現地では生きるが死ぬかというせっぱ詰まった問題。もう一方は、口角泡をとばし、将来お金がもらえるとかもらえないとかいう議論。
このふたつが同じようなボルテージでブラウン管の時空を染めている僕(たち)の国が、恥ずかしい。

勇崎  師団走る師走 2003年12月11日(木)23時08分42秒
わたしたちは「戦争」を選択している へのコメント

不謹慎なだじゃれですが、仕事や雑事に追われ足だけではなく両手も塞がる師走。その12月中旬突入直前に、あのようなことを決定する、いまの政府の狡さに、腹が立ちます。
日本人としての秘かな誇り(第9条)が、こんなふうに、なし崩し的に毀されていく。
ジョン・レノンに癒されて、それで昇華されて、おしまいのリメンバー12月8日。

勇崎  絶交状はナシよ 2003年12月11日(木)22時35分17秒
実名 へのコメント

ハンドルネームの件、たいへんよく理解できました。
そのような事情も知らず、失礼の数々お赦し下さい。
かくゆう僕も、以前はフルネームで投稿していましたが、
投稿がすべて検索エンジンにかかることがわかり、名字だけで投稿することにしました。
勇崎(ゆうざき)という名の由来は岡山県(だったと思うけど)にある地名ですので、地名、同姓、たくさん検索されるので、ハンドルネームのようなものかも知れませんね。

それにしても、その次の投稿「絶交状」のタイトルにどきっとしてしまいました。
僕やこの板に突きつけたご意志かと、一瞬脳の後部がくらっとしました。
違ってたので、ほっとしました。
ほっとしてさらに読み進めると、とても興味深い内容でした。
アメリカ合衆国という国のありさまをとてもリアルに感じさせていただきました。
これからも、日本に暮らしているとわからないことなど、いろいろお教え下さい。
そしていつか、ご体験を著書にされますよう、希望します。

MOKUMOKU  絶交状 2003年12月11日(木)10時50分08秒
わたしたちは「戦争」を選択している へのコメント

先週フロリダ在住の弁護士から絶交状を受け取った。この弁護士(Jという名にしておく)は、もともとニューヨーク出身のユダヤ系アメリカ人でゲイである。わたしはエイズ関連の仕事を長年やっていて、ゲイの友人が多い。Jはもう20年も日本人男性のパートナー(Sとしておく)と暮らしている。ずっとニューヨークで弁護士活動をやっていたが、4年前Sとともににフロリダへ引退してしまった。この男性同士のカップルの仲のよさはたいへんなもので、Jが母親から形見にもらった指輪のダイヤモンドを二つに割って、同型の指輪を作ってふたりで指にはめているくらいなのである。さて、なぜこのJがまだその年でもないのに引退したか。Jは弁護士のほかに、児童心理学のドクターの資格をもち、わたしの家の近くの小学校の顧問をしていた。4年前、Jが学校の前で母親がなにかの都合で迎えにこれなくなった男子生徒を車で家まで送ってやったことがある。そこまではなんでもない話なんだが、Jがゲイであることはよく知られていたのである。現場にいた数人の親が、ゲイの男が男子生徒を車で連れて行ったと、早速校長に報告し、さらに回覧電話でクラス父母全員に知らせてしまった。Jはそれで解雇されるようなことはなかったが、もういやになっちゃったのである。わたしのところへその話しをしにやってきて、こういうことは今回がはじめてでなく、今までに何度かあった、すっかりイヤになった、もう人の大勢いるところには住みたくない、Sとフロリダへ行くとわたしに告げた。わたしは、人の世に住むことの悲しさのようなものがこみ上げてきて、Jと抱き合って泣きました。おととし、フロリダで学会があったとき、JとSの家に二晩泊めてもらって、ゲイ仲間のパーティーにも出席したりした。ほとんどがニューヨーク出身者で、フロリダのボカ・レトンというところにはけっこう大きなゲイのコミュニティーがあってみんな幸福そうだった。

さて、ニューヨーク市では、毎年5月の日曜にエイズ・ウォークという行事があって、わたしはもうたしか8年前から毎年参加してる。セントラルパークを出発して、十数キロ歩くのである。参加者は、参加できない人にスポンサーになってもらい金を集める。集めた寄付金を出発前に、組織に届ける。その寄付金はエイズ研究に使われる。組織している人たちはすべてボランティアで、数週間前から前年度の参加者に電話で参加を呼びかける。ことしは5月18日である。フロリダ在住のJとSのカップルも、毎年寄付金をわたしに送ってきていた。ことしも、50ドルづつ送ると電話で言ってきていた。そういう状況で受け取った封筒が、Jからの絶交状だった。突然またなぜか。わたしは、アメリカのイラク攻撃の前後、時間の作れるときは病院の医師たちと何度か反戦デモに参加していた。JもSもブッシュの戦争政策には大反対だから、わたしのやってることを支持してくれていた。ところが、何度か続いた反戦デモの中に、一度、「反戦およびパレスチナ人民支持」というのがあったのだ。それに行ったら、参加者の数はふだんの10分の1だった。ニューヨーク市はユダヤ系の人口が4分の1以上を占める。(New YorkはJew Yorkと呼ばれることがある)。そのデモについての話を、電話でSとやったことがJに漏れたのである。Jは逆上して、絶交状をわたしに書いた。今朝も、自爆テロでイスラエル人が死んだ、パレスチナを支援するような人間とは付き合いたくない、エイズ・ウォークへの寄付金もお断りする、エイズ研究への寄付は別の機関を通じてやる、あなたには今後一切送金しない、気分を悪くさせて申し訳ないが言うべきことは言っておかなければならないので悪しからず了承してくれという書面だった。長いアメリカ生活で、イスラエル・パレスチナ問題がらみでユダヤ系アメリカ人からミクダリ半を頂戴したのはこれが2度目である。ずっと昔、はじめてアメリカへ渡ったころ、ユダヤ系のアメリカ人女性と暮らしていたことがあったが、その女ともアメリカのパレスチナ政策うんぬんでケンカ別れしてしまった。しかたのないことである。Jから絶交状が届いて数日たったある日、フロリダのSからわたしに電話があった。JはJじぶんはじぶんだから、これからも今まで通り付き合っていこうというものだった。わたしはSに、きみがJとわたしの間に立っておろおろするのを見たくないから付き合いはもう止めようと言った。

MOKUMOKU  実名 2003年12月11日(木)10時44分51秒
掲示板の中心で愛を叫ぶ へのコメント

わたしは口が悪いので、他人の反感を買うことがよくあります。行儀が悪いので、バカなひとをバカとかアホとか呼ぶことにあんまり躊躇しないほうなのです。

さて、3年くらい前わたしは掲示板上で、何人かの反感を買ってしまった。ある投稿者兼管理人の女性に、ある男がとても読むに耐えない嫌がらせ投稿をするようになりました。たとえば、その女性が日本軍による南京大虐殺は存在したというようなことを書くと、男は、南京虐殺なんて朝日新聞のでっち上げたものだ、おまえは中国兵に一物を突っ込まれたから中国贔屓になったのだろうというようなことを書くわけです。わたしが咎めると、男はわたしに反感をいだき、わたしのHNを騙って酷い投稿をするようになりました。わたしへ非難が集まるように画策したのです。

わたしはバカ左翼とかアカとか呼ばれるのは一向に平気なのだけど、男はわたしをひどく嫌い、あちこちの掲示板で、ことあるごとにわたしを中傷するようになりました。わたしにかんする秘密情報を、勤務先に送るぞ、とか、わたしが帰国した際は**子ちゃんという名の女とどこのホテルで浮気しているとか、そのときはバイアグラを使ったかどうか掲示板上で答えろ、というような書き込みが今年になって急増しました。仕事をしている病院の掲示板にも嫌がらせが入るようになりました。さらに、直接わたしにメールを送って、もう待てないから早く返事をしろという嫌がらせまであったのです。夏になって、その人物はいくつかの掲示板に、わたしの実名、住所、大学のアドレス、自宅の電話番号まで貼り付けました。ほとんどの掲示板では、管理人がすぐに削除してくれたのですが、そのうちのひとつは、右翼街宣掲示板に貼られ、「半日****氏(私の実名)を攻撃しよう」というタイトルであり、10日間削除されなかったため、自宅に無言電話がかかるようになりました。そういうわけで、今回わたしは日本でこの件にかんして、法的手段に訴えることにしました。来年早々には解決してくれたらいいと願っています。解決したら、医学は自然科学の話題は実名で書き込みたいと考えています。

じつは、この件については掲示板に書きたくなかったのですが、寮さんに勧められて、あらましを書くことになりました。ただ、決着がつくまで、これについては、掲示板上で議論したくないという気持ちがあるので、ご了承いただければ幸いです。

寮美千子  わたしたちは「戦争」を選択している 2003年12月11日(木)02時36分28秒

ところで、なぜわたくしがかくも熱心にこの掲示板に関わっているのかは、実は「自衛隊のイラク派遣」と関係があります。憲法を曲解したきょうの小泉首相の発言には、心底がっくりきた。しかし、総選挙があったにかかわらず、そんな政府を選んだ日本国民にももっとがっかりしている。

結局、国民の意思表示は選挙しかない。選挙でいまの政府を選んだ人がいっぱいいたということ、棄権した多くの人がいたということ(棄権もまた現状肯定という発言に他ならない)。このふたつで、いまの政府が選ばれてしまった。

人が、みんなちゃんと自分の頭で考え、責任を持って発言し、語り合えるようにならないと、この世界はよくならない。掲示板は、そんな力を、みんなで磨いていく場になる可能性があると思う。だから、ちゃんとここで話していこうと思っています。

政治の話題でも、そうでないことでも、きちんと向き合って語れることが大事。それができれば、きっと世界は少しずつよくなる。そう信じたい。

わたしは、自衛隊のイラク派遣は絶対に反対です。ほんとうに、いまわたしに何ができるのかと思うと、リト氏のいうように胃がきりきり痛くなります。(あ、これはカフェルミの発言だ) 自衛隊のイラク派遣は、あまりにも荒唐無稽で、何をどう非難したらいいのか、わからなくなる。

ひとつだけ、いうとすれば、自衛隊がイラクに行き、もしも死ぬことがあっても、それは「わたしたちの選択」だということ。自衛隊がイラクに行き、いかに正当防衛とはいえ人を殺すようなことがあれば、それも「わたしたちの選択」だということ。それは、とりもなおざす「戦争」をわたしたちが選択したのだということです。戦争はどんな戦争でも「悪い戦争」です。「いい戦争=大義ある戦争」なんて、ありえない。

わたしが不思議だと思うのは、例えば太平洋戦争の悲惨さを語るとき、まるで「庶民はみんな被害者」みたいな顔をして語るけれど、いかに戦前の体制に問題があったとしても、そんな戦争を食い止められなかった責任の一端は、やはり「庶民」にもあると思うのです。単なる被害者じゃない。そうなることを招いた「加害者」でもある。

わたしたちはいま、そうやって「加害者」になる道を選ぼうとしている。イラク派遣によってアメリカ追随の姿勢がより明確になることで、テロの標的になる確率も高くなる。もし、国内でテロが起きて多くの「罪もない市民」が死んだとしたら、そんな事態を招いたのは、われわれに他ならない。「罪もない市民」が、自分たちが殺される道を選んだということなのです。

戦後58年間、日本の軍隊が外国に出ていって人を殺したことはなかった。それだけの長い時間、日本は、戦争で直接人を殺さずにやってきたということです。それは、すばらしいことだと思う。平和憲法を守ってきた。それを、わたしたちはいま、一瞬にして反故にしようとしている。そんなことが、許されていいわけがない。それなのに、それを許した国民がいる。他者に対しても、自己に対しても加害者になる道を選んだわたしたち。情けない。

わたしは、日本にすんでいるけれど、日本人であることを放棄したくなります。しかし、そんな泣き言いっていても仕方ないので、なんとか少しずつ、自分でできることをやっていきたいと思っています。

寮美千子  掲示板の中心で愛を叫ぶ 2003年12月11日(木)01時54分11秒
語り合うことの意味 へのコメント

なんか、きょうは愛が溢れているなあ。
実像(或いは普及化された偶像)がアイデンティファイされての“自慢話”“権威的”は、その人の愛すべき“個性”として素直に歓迎し、抱きしめることはできます。
MOKUMOKUさんが匿名でも、うっかり愛を感じはじめてしまった勇崎さんに対して、一拍遅れた反応になってしまいましたが、わたしも、よくよく考えているうちに、やっぱり実像は大事だよなあと思えてきました。匿名の自慢話は権威話は、やっぱりうさんくさい。前にも書いたように、信頼できないガセネタの可能性もある。自慢するなら顔を出せ、と思う。やっぱりそうしないといかんよなあ。信介さんは、そのうさんくささを直感で嗅ぎつけて、一発ぶんなぐったんだと思います。わたしは、信介さんの嗅覚を尊敬し、愛しています。でも、やっぱり説明してほしい。少なくとも、相手が何で殴られたのかわかるようにしてあげてほしい。できれば、殴らないできちんと話してほしい。愛だよ、愛。といいつつ、わたし自身が、ついカッとなって、相手をボコボコにするようなキツイ言葉、連ねちゃうんだから、反省です。愛です。愛が大切。

でもさ、信介さんみたいに、正直に気持ちぶつけるのも、愛だよね。問題はあるにしても。

MOKUMOKU氏より、個人メールもらいました。掲示板の話題で個人メールをもらうのは困るし、違反です。しかし、メールには実名のカミングアウトがあり、今回は個人宛にするしか、仕方なかったかもしれません。少なくとも、わたしに対しては逃げ隠れせず、誠実さをみせてくださいました。それで、少なくともわたしは少し安心しました。また、メールには実名を出せない理由も述べられていました。実名はともかく、なぜ実名を出せないかについては、MOKUMOKU氏ご自身の言葉で、この掲示板で述べていただくよう、お願いしました。その理由に関してもいろいろと思うところはありますが、それは、またいずれ黙々氏、じゃなくてMOKUMOKU氏、再登場の後に語りましょう。再登場していただけるかどうかは、まだわかりませんが。愛を感じはじめた勇崎さんのためにも、再登場を祈りましょう。では。「愛〜!」(叫んでいる)

寮美千子  重い掲示板と軽い掲示板の使い分け 2003年12月11日(木)01時20分13秒
管理人様へ へのコメント

▼シダさま
残業続きでお疲れだったんですね。それでも参加しようとしてくださったお気持ち、ありがたく思います。そんな事情も推し量れず、いきなりきつい言葉でたしなめて、びっくりさせてしまいましたね。ごめんなさい。「語り合うスキル」の足りないのは、わたしの方ですね。もう少し、やさしい言葉で語りかければよかったと反省しました。

この掲示板は、みんなで深く物事を考えていこうという主旨の「重い掲示板 Cafe Lunatique」ですが、もうひとつの「軽い掲示板 Cafe Lumiere」は、軽い話題で楽しく語り合いましょうという主旨です。よかったら、そちらにご参加ください。軽い掲示板には、日常、ふっと気がついたこと、きょうは満月だねなんてこと、ちょっと気に掛かったことなど、みんなと分かち合いたいことを、気軽に書きこんください。お待ちしています。

疲れて帰ってきて、わたしの投稿を読んで、ほんとうにびっくりしたと思います。これを読んで、少し元気になってもらえるといいな。では。

追伸:ところで「管理人さま」となっているけれど、寮美千子は何者か、ご存じ? 自己紹介には、寮美千子作品に関する簡単な感想なども述べていただけると幸いです。

軽い掲示板(通称カフェルミ)はこちら

http://ryomichico.net/bbs/lumi.html

勇崎  語り合うことの意味 2003年12月11日(木)01時10分04秒
この掲示板は「語り合う」ための場です へのコメント

ケチをつけてみたものの、表明することで、ケチをつけたのですが、
語り合うことで、不思議なのですが、MOKUMOKUさんが愛すべき人に思えて、好きになっていく自分をみるのです。
不思議ですね。
人は、いつもいつも、レッスン・トゥーなのかも。

シダ  管理人様へ 2003年12月11日(木)00時33分25秒
この掲示板は「語り合う」ための場です へのコメント

昨夜はぶしつけなメール本当に申し訳ありませんでした。8時から23時の残業続きで判断力にかけ軽率な事をしてしまいました。「削除してください」と書いたのははっきりとここの掲示板の趣旨を理解しておらず、こういう内容でもいいのか?と思ったからです。INのしくみもよく分かっていませんでした。私は現在、議論するような状況にありませんし、また議論が得意ではありません。この掲示板をごらんになっている皆さんに不愉快な思いをさせた事もお詫びいたします。今、帰ってきて開いてみたら寮さんからのコメントがあり正直ビックリしました。本多様の漢字も間違っていたとのことその時、全く気が付きませんでした。失礼な事致しました。

寮美千子  この掲示板は「語り合う」ための場です 2003年12月10日(水)23時03分13秒
本田信介様 へのコメント

さて、いままで折に触れ何度も語ってきたとは思いますが、ここでもう一度表明したいことがあります。わたしは、この掲示板は「語り合う場」としていきたいと考えているということです。日本人は一般に「話し合い」「討論」「論争」などがヘタです。きちんと自分の意見を表明して、相手と論を戦わせることがヘタで、たいがいは意見表明せずにへらへらしているか、違う意見の人間は無視して言葉を交わさないかです。時に言葉を交わそうと、説明不足で意見表明ではなくて、単なる誹謗中傷罵詈雑言になってしまいがち。すると喧嘩になってしまいます。

というわけで、わたしはここで「語り合うスキル」をみんなで磨きたいと思う。そのために、バカていねいに「説明は必要です」なんてことを書いているわけです。

シダさま。信介さんへのシンパシー表明はわかりましたが、あなたご自身の意見は一体なんでしょうか。ここでは「掲示板評論家」は必要ありません。あいつが面白いとか、流れがどうだとか、そんなことを高みから評論していただく必要はまったくありません。あなたの意見をいってください。信介に賛成なら、なぜそう思うのか、MOKUMOKUさんの投稿のいったいどこが「最低」だと思ったのか、あなた自身の言葉で書いてください。きちんと議論に参加してください。みんなは、あなたのためにエンターティメントを演じているわけではないのです。意見がないなら、書き込む必要はありません。

>管理人様;お手数ですが、もし、この投稿内容がふさわしくなかったら削除してください。

こういう及び腰の気持ちで書く投稿を、わたしはもっとも嫌います。掲示板に書き込むということは、未知なる読者に、それを読むための人生の時間を使わせることでもあります。ふさわしくないかどうか、自分で判断もできずに人に委ねるような無責任な投稿はしないでください。ついでにいっておきますが、わたしは顔文字も嫌いです。これは趣味の問題ですが。

第一、信介にエールを送りたいなら、名前を間違えるなとわたしはいいたい。本「田」信介じゃなくて、本「多」信介です。以上。

シダ  本田信介様 2003年12月10日(水)01時57分46秒
昔、卒業って へのコメント

今晩は(^^)初めての投稿させて頂きます。私は不規則勤務で働くサービス業のはしくれです。
「くだらいマッシュ」って70年代の野戦病院が舞台の映画「マッシュ」のことですか?(な)が抜けてる?「卒業」だと最中・・は可笑しかったですが、その理由は良く分からないんですけど(笑)
感情を発散した後でないと真に冷静に考えられない私としては本田さんの今回の切り込みにはスカッするものを感じました。それまでの議論の流れがちょっと変わるのでここには非常に貴重な方だと思います。「ええーっ!」と思う意見を言われる時もあるけど痛快でワイルド!楽しい。
御登場を楽しみにしています。
管理人様;お手数ですが、もし、この投稿内容がふさわしくなかったら削除してください。
     
しかし、本田様にはこの旨お伝え願えれば幸いです。

勇崎  実像(或いは普及化された偶像) 2003年12月10日(水)00時25分54秒
けなげな赤血球/専門ジャンルを話題をする場合のハンドルネームの是非 へのコメント

寮さま>
僕はやっぱり“自慢話”“権威的”は好きにはなれません。
実像(或いは普及化された偶像)がアイデンティファイされての“自慢話”“権威的”は、その人の愛すべき“個性”として素直に歓迎し、抱きしめることはできます。
自身に振り返れば、僕がこれまで書いてきたことも、ある人にとっては正体不明の“自慢話”“権威的”と思われているかもしれないと自戒しつつ。

勇崎  朝、めざめてから 2003年12月09日(火)22時45分49秒
これまでを拝読して〜つまらない へのコメント

「たいへん参考になります。ありがとうございました」などと言われると、弱ってしまいます。僕に至っては、昨夜の投稿は言葉足らずで、失礼があったのではと、朝、めざめてから、生意気すぎ、と反省しています。
言葉足らずだった分、以下に加筆します。
「つまらない」と書いたのは、MOKUMOKUさんの「赤血球」の末尾に「つまらんですか」という問いかけがあったので、勢いで九官鳥返ししたしだいです。
MOKUMOKUさんのお話はとても面白いと思います。
「このような板に書かずに、ハンドルネームではなく、本名で著作としてまとめられたらいかがでしょう。そうすると、きっと読者もいるとは思うのですが」というのは、「お話は面白い」から、マーケットとして一定の愛読者は掴めるという意味であり、読者はお話しと筆者の実像(或いは普遍化された偶像)がアイデンティファイされて、はじめて心から共感し、面白がれると思うのです。
アイデンティファイされずに正体不明であれば、眉に唾をつけて、読んでしまいますし、お話しが面白ければ面白いほど、僕のような疑い深い小心者は、共感よりは反感へと心が動いてしまうようです。
というわけで、MOKUMOKUさんの実名を知ったら、僕などは、葵の御紋の印籠を突きつけられた悪代官のように、ハハア〜、といって、土下座したりしてね。水戸黄門も、本人にアイデンティファイされない8時45分頃までは、ただのハイソ風のご隠居。悪代官も眉に唾をつけてるね。

寮美千子  けなげな赤血球/専門ジャンルを話題をする場合のハンドルネームの是非 2003年12月09日(火)03時08分10秒
赤血球 へのコメント

▼MOKUMOKUさま
白玉団子をつくるたびに、ヘモグロビンのことを思い浮かべる寮美千子です。いろんな色のを作ろうと思って、パプリカの粉で着色して赤いの作ったときには、一層そう思いました。因みに、そのとき緑は抹茶、黄色はターメリックで着色。味もバラエティーに富んでいてよかったけれど、ちょっぴり不気味でした。

赤血球の話は、面白かった。へえーっ、って思いました。血管の末端で、赤血球たちがいちいちむぎゅっと形を変えて通っているのかと思うと、なんだかそんな細かい苦労までしてわたしを生かしてくれているのかと、自分の体がいじらしくなります。

免疫も、白血球だけではなく、赤血球も関係しているんですね。きっと、簡単には割り切れない複雑精妙なことが総合して機能しているんだろうなあ。人間一人の体の働きって、宇宙の謎以上の謎に満ちているのかもしれませんね。解明なんかしなくても、人間は勝手に生きたり死んだ増えたりしていくけれど、それでも知りたいと思うのは、宇宙の果てを知りたい気持ちと似ているのかもしれない。そんなことを知りたいと思う人間という生き物は、不思議な生き物だと思います。

父の従兄弟が、寮隆吉といって、神戸大学の血液学研究室のボスをしているようです。わたしは会ったことないけれど、ホームページを見ると「麻原彰晃と河合隼雄は双子の兄弟のように似ている」など、かなり過激な発言をしている。やっぱり血は争えない? なあんて。読んでみると、なるほどと思うところ、多々あります。もしかしたら、MOKUMOKUさんと学会などでお目にかかっているかもしれませんね。

勇崎さんは、自慢話はキライみたいだけれど、わたしは、基本的に自慢話は好きです。専門家が、専門のことを門外漢にわかるように、一種のエンターティメントとしてわかりやすく書いてくれることは、歓迎です。そうやって、異ジャンルが交流することは大切なことだと思う。

ただ、わたしも心情としてはハンドルネームは好みません。特に、専門ジャンルのことを語るとき、その信憑性を保証するためにも、本名が必須だと考えます。専門家の顔をして、だれがどんなガセネタを流すとも限らないから。そして、その人が専門家を名乗れば、専門外の人は、よくわからないからたいがい信じちゃう。そういうのって、危険だと思う。

というわけで、門外漢がその真偽を確かめるのが難しいような話は、わたしはできれば実名でお願いしたい。けれども、MOKUMKUさんは固定ハンドルネームをお使いのようだし、どうしてもそうしてほしいとは申しません。

このホームページには、本名を明かしているけれど、あえてハンドルネームで登場する人もいます。その場合、ハンドルネームは単にニックネームのようなもので、覆面ではありません。だから、より安心して対話できる。そういう方法もあります。ご検討ください。

寮美千子  説明が必要であることの説明 2003年12月09日(火)02時25分45秒
昔、卒業って へのコメント

たとえば「きみは最低だ」というとき、相手は自分のどこが最低なのか、たいがいわからない。だって、普通、人は、わざと最低のことしようとしたりないから。みんな、それなりにそれがいいと思ってやっているわけだもの。だから、説明してあげなくちゃ、わからない。

相手を批判するときは、たいがいそのパターンです。相手は、自分のどこが批判されるべきことなのか、ちっともわからない。「なってない」とか「最低」とか「つまらない」というときは、説明しなくちゃいけない。でないと、ただの喧嘩になってしまう。いきなり相手の頭をぽかりと殴ったことになっちゃう。わたしは、この掲示板で論争するのは歓迎だけど、喧嘩はダメヨ。

まあ、懇切丁寧に説明したとき、相手を一発殴るだけじゃなくて、ボコボコにしたうえに、ローラーで轢きつぶすようなことにもなりかねませんが、それは愛がないからです。どんなときも、愛を持って語りましょう! 愛だよ、愛。マジ。だったら、論争にはなっても喧嘩にならないはず。

そして、ほめるときは説明なしでもいいけれど、やっぱりどこがどういいのか説明してくれる方がいい。「あれはすてき」といっても、どこがどうすてきなのか、読者にはさっぱりわからないし、それじゃ独り言と同じだからね。それに、ほめられた本人もうれしいし「そうか、それがいいなら、それを伸ばそう!」なんて励みにしてがんばれる。根拠無しにほめられても、うれしくなかったりするものです。

というわけで、説明は愛です。最低でも最中でも最高でもいいから、愛しあいましょう。因みに、わたしは最中より道明寺のほうが好き。麩まんじゅうも好きです。不満充満じゃなくて、ふわふわの麩まんじゅうだよ。こんどくるとき、おみやげに買ってきてね。

MOKUMOKU  これまでを拝読して〜つまらない 2003年12月09日(火)01時48分34秒
これまでを拝読して〜つまらない へのコメント

勇崎さんのご意見はたいへん参考になります。ありがとうございました。

勇崎  これまでを拝読して〜つまらない 2003年12月09日(火)01時23分30秒
赤血球 へのコメント

MOKUMOKUさんのこれまでの投稿を拝読して、感じたことは、自慢話ばかりで、つまらないですね。
きっと学問的に権威をお持ちなのかと思いますが、お話しも権威的に感じて、つまらないですね。
このような板に書かずに、ハンドルネームではなく、本名で著作としてまとめられたらいかがでしょう。
そうすると、きっと読者もいるとは思うのですが。

本多信介  昔、卒業って 2003年12月08日(月)21時55分43秒
赤血球 へのコメント

映画があったけど、きみは最中だ、

寮、説明や理由ってそんなに必要か?

MOKUMOKU  赤血球 2003年12月07日(日)06時40分28秒
昔、くだらいマッシュってー へのコメント

ええー、ひまわりズボンの話が不評でしたので、今回はわしの商売のお話でごきげんをお伺いいたします。

人間の赤血球の直径は7−8ミクロン。ところが、末端の血管の内径は4ミクロンくらいです。だから、赤血球は丸いままでは血管を通れない。したがって、ミミズのように長く形を変えなければナラン。赤血球がそのかたちを変える能力をdeformability(変形能)といいます。ふつう、赤血球は難なくかたちを変えることができるから問題なく末端血管に入れる。ところが、人間がある状態になると、たとえばトラウマ(外傷で血がどくどくでてる)とか敗血症になると、どういうわけか赤血球が形をかえにくくなる(専門的にいうとdeformabilityが落ちる)。そいでもって、血管を通過することができんようになる。そうすると、細い血管のそのさきのほうに酸素が配達されなくなる。えらいことです。ところで、この、「赤血球が形を変えられなくなる」ちゅうのは昔からわかってる(どのくらい昔からわかってるかというと、最初の論文は1671年にオランダ人によって書かれてる。オランダは血液研究の王国です)。そういう現象はとっくにわかってるが、「なぜ」赤血球が形を変えにくくなるかちゅう問いにははっきりした回答がない。ほとんどの医学者は、患者がある状態になると、血中に酸化作用のある物質が分泌され、それが赤血球膜を酸化するため、赤血球が固くなると信じてる。書物にそう書いてあるからだ。ほんまかいね。そんなもん、わしにとってはコジツケのマユツバ理論やね。
ええと、どなたもご存知のように、赤血球の中には酸素と結合するヘモグロビンがあって、赤血球は酸素をはこぶ運送屋みたいな球と理解されてるが、人間と類人猿(おサルさん)の赤血球の膜面にはCR1とよばれるレセプターが存在してる。免疫反応がおきて、抗原と抗体が結合するとそれは免疫複合体と呼ばれ、それが補体というタンパクを活性化し、免疫複合体は補体を介してCR1に結合する。つまり、赤血球の膜面に免疫複合体がくっついて運ばれる。免疫複合体が血中にあると悪いことをするので、赤血球がそれを膜面にくっつけて肝臓に運び、そこで複合体を放出してまた戻ってくる。赤血球は免疫複合体を運ぶシャトルバス・サービスみないな役割をはたしている。つまり、人間(おサルも)の赤血球は、酸素の運搬だけでなく、免疫細胞としても機能しているちゅうことなのです。
赤血球の免疫機能を主張するのは、どちらかというと少数派ですが、わしらが80年代から論文をいくつも発表して、いまではヒト赤血球の免疫機能を疑うひとはなくなりました。どんな教科書にも書いてある。だけど一般には、「赤血球の免疫機能?そんなバカな。赤血球は酸素を運ぶもんや。白血球とまちがえてるんやないか」といわれる。
さて、わしは、3年前に、ヒトの赤血球に免疫複合体が結合したとき、赤血球は形を変えにくくなるのだという仮説を立てた。それで、人工的に免疫複合体をいろいろ作ってみて、それを赤血球にくっつけて形の変化をみたり、赤血球膜状の複合体がくっつく部位(CR1)をある種の化学物質で覆う(マスクする)ようなことをしたりして、複合体の結合とdeformabilityの関係を調べている。「複合体の結合で赤血球は形をかえられなくなる」と主張してるのは、世界でわし一人(というか、わしのグループだけ)、学会なんかでしゃべっても、まだよく理解してもらえない。CR1なんて言ったって、ほとんどのお医者さんは知らんもんね。
ところで、赤血球の形の変化を測る機械はオランダで開発され、わし、この3年、アムステルダムのアカデミー・オブ・メディシンちゅう機関と共同研究してるので、よくアムステルダムに行きますが、そこでは、人間の赤血球だけでなく、アムステルダムの動物園のアフリカの動物の赤血球の研究もしてる。アフリカの動物、たとえばラクダやキリンなんかは、ふだん水を飲まない(水がないからだ)。動物はオアシスで水を見つけると、こんどいつ水にあえるかわからんので、キチガイのように水を飲む。そうすると、血液は薄まって、浸透圧で赤血球が膨張し、血管に入れなくなる。それでは、困るので、赤血球膜が固く出来てる。固くできていると、形が変えられないから、末端の血管を通れなくなる。それを対処して、アフリカ、砂漠の動物の赤血球はラグビー・ボールのように長方形にできているのだそうです。うまく出来てるもんやねー。こんな話、つまらないですか。


寮美千子  朝日新聞12月6日科学記事「半径140億光年の宇宙の直径は280億光年」という誤謬 2003年12月07日(日)04時35分06秒

12月6日付朝日新聞夕刊に「現代物理学がたどりついた新しい答え 宇宙はひとつではない」というインフレーション宇宙の考え方を解説する記事が、7段抜き、写真とイラスト入りで載っていました。宇宙は一つではない、たくさん同時発生していたはず、ユニバース(一つの宇宙)ではなくマルチバース(たくさんの宇宙)だ、という話です。

これを読んで目を疑ってしまいました。というのは「光を使って観測可能な宇宙は、半径140億光年」と書かれ、しかも解説のイラストの「観測可能な宇宙」と題のついた円の直径に「280億光年」と書かれていたからです。

宇宙の果てを眺めると、どっちを見ても140億光年ぐらいまでしか見えない。そこが宇宙の果てらしい。だったら、直径で280億光年の広さ、と思いたいところだけれど、実はそうじゃない。宇宙の大きさは140億光年。どうしてそうなるのか? 私たちの日常の感覚とはまったく違うこの理屈を理解し、イメージを持つことから、宇宙の構造への理解の一歩があるはずです。そして、その理解なしに、その先にあるインフレーション宇宙の理解もありえない。イメージを抱くことさえできない。

ということは、この記者は、全然わからないで書いているというわけ。わかったうえで、一般の人に少しでもわかりやすくかみ砕いた説明をするならともかく、自分もわからないのに、わかってるみたいな顔をしてマルチバースの解説なんかして、いいんだろうか? それも、朝日新聞の科学記者が。「どこかにこの宇宙とそっくり同じ宇宙が存在していて、わたしのコピーがいる可能性がある」という意味のことも生かじりのまま書いてあります。こういう、センセーショナルで安易な記事が、世にはびこるトンデモ科学の温床になっているのです。

「(宇宙が)人間が生まれるべくして生まれるように精密にデザインされているように見えるのはなぜか」などという人間中心理論を堂々と述べているのも問題だと感じました。人間のために宇宙がデザインされたんじゃない。この宇宙があるから、結果的にこんなデザインの人間が生まれただけのことです。しかし、そのような哲学的問題を語る以前に、「280億光年説」は、あまりにもあまりな誤謬。

マルチバースの解説をする前に、なんでどっちを見ても140億光年のむこうに宇宙の果てが見えるのに、宇宙の直径はなぜ280億光年じゃないのか、そこのところをこの記事を書いた記者にちゃんと説明してほしいと思います。勝田敏彦記者、よろしくお願いします。

寮美千子  トルコ帽の天文学者 2003年12月07日(日)00時28分35秒
四半世紀前の悪ふざけ へのコメント

▼MOKUMOKUさま
面白いお話、ありがとう。笑えました。びっくりして対応に困っている東大の先生の顔が目に浮かぶようでした。でも、MOKUMOKUさん、どうして赤いひまわりズボンのまんま、発表しなかったのかなあ。そうすればよかったのに。どうしてそうしなかったんだろう? そう、できなかった?

『星の王子さま』に、トルコの天文学者の物語がのっています。
 その天文学者は、万国天文会議で、じぶんが発見した星について、堂々と証明しました。
 ところが、着ている服が服だというので、だれも、その天文学者のいうことをほんとにしませんでした。おとなというものは、そんなものです。
 さいわい、B-612番の星の評判を傷つけまいというので、トルコのある王さまが、ヨーロッパ風の服を着ないと死刑にするというおふれをくだしました。そこで、その天文学者は、一九二〇年に、たいそうりっぱな服を着て、証明のしなおしをしました。すると、こんどは、みんなが天文学者のいうことをうけいれました。
トルコ帽を被ってだぶだぶの民族衣装を着た天文学者が、望遠鏡を覗いてびっくりしている絵と、それを証明しているトルコ帽の天文学者、証明し直している燕尾服の天文学者の絵がついています。そして、トルコ帽姿の方が、ずっとチャーミング。一九七〇年代のアメリカでも、この物語と事情はかわらなかったのかなあ。

でもね、死刑のおふれをだす王様がいたわけじゃないし、一体だれが「発表はちゃんとした服で」って決めたんだろう。日本から来て緊張しまくってきているお堅い田舎学者さんたちをおどかして楽しむことはしても、学会にはやっぱり学会向けのお顔をしたMOKUMOKUさんのこと、かちんときた信介さんの気持ちもよくわかります。

とはいえ「きみは最低だ」だけで、非難の理由を言わない信介はまったくもって礼儀知らず。ごめんなさい。礼儀なしの友人ですいません。あいつには正す襟がないので、かわりにわたしが謝ります。どうか、ご寛恕を!

▼信介さま
おい、信介。「きみは最低だ」って非難するときは、ちゃんとその理由を述べよ。理由なしに非難だけするのは掟破りです。って、ほんとは、気分と直感(だけ)で話す信介が、わたしはすごおく好きなんだけどさあ、でもさあ、ここは「りょうんち」にして「演説の壇上」でもある半分公共の場なんだからさあ、燕尾服を着ろとまではいわないけれど、ちょっとは襟を正して、みんなにわかるように話してくれよお。え? Tシャツで演説してるから、ない襟は正せないってかあ? もう!

本多信介  昔、くだらいマッシュってー 2003年12月06日(土)04時22分30秒
四半世紀前の悪ふざけ へのコメント

映画があったけど、きみは最低だ、

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管理者:Ryo Michico <mail@ryomichico.net>
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