ハルモニア Review Lunatique/意見

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■『父は空 母は大地』がメッセージ広告に!

Sat, 22 Jun 2002 02:42:57


はちみつで有名な山田養蜂場が、6月17日より、全国の新聞にメッセージ広告を打っています。この広告に、拙著『父は空 母は大地』(パロル舎1995)が採用されました。新聞の全面広告でなんと全文掲載です! わたし自身、びっくりしました。

メッセージ広告ということで、編著の寮美千子、画家の篠崎正喜、ともども、素材を無償で提供させてもらいました。掲載予定紙の発行部数は合計約4千万部だとか。すべての読者が読んでくれるわけではないけれど、いままでとは桁違いに多くの人々が読んでくれたことと思います。うれしい。

『父は空 母は大地』は、1854年、アメリカ先住民の首長シアトルが、アメリカ14代大統領フランクリン・ピアスに向けて行ったスピーチを元にしてつくった絵本。いまに伝わるいくつかの異なるバージョンを収集し、それを切り貼りして1995年寮美千子編集バージョンとして出版したものです。そんなわけで、この絵本そのままの「原典」は存在しません。その元となったいくつかの原文があるのみです。

土地を二束三文で買いたたき、先住民を追いやった「白い人」たち。彼らへの恨みの言葉もありましたが、わたしが採用したのは、むしろ、彼らがどのようにその土地を愛し、豊かな恵みに感謝して暮らしてきたかという、その部分です。そもそも大地とは、売ったり買ったりできるものなのか? 人間と大地との、願わしいつきあいかたが、生きるということがどういうことなのか、その根本が、そこには描かれています。
わたしの体に 血がめぐるように
木々のなかを 樹液が流れている。
わたしは この大地の一部で
大地は わたし自身なのだ。

大地は わたしたちに属しているのではない。
わたしたちが 大地に属しているのだ。

あらゆるものが つながっている。
わたしたちが この命の織り物を織ったのではない。
わたしたちは そのなかの 一本の糸にすぎないのだ。>『父は空 母は大地』より

1992年、わたしはアリゾナの大地に立っていました。奨学金を得て、ナヴァホ族とホピ族の居留地を訪れていたのです。そこで得た、さまざまな感動。奨学金を出してくれたのは、アジアン・カルチュラル・カウンシル。ロックフェラー財団がスポンサーです。アメリカがわたしにしてくれたことで、わたしが何かアメリカに恩返しをできないか。そう思っていた矢先に出会ったのが、シアトル首長のスピーチでした。これを訳し、より多くの人々に知ってもらうこと。大地と人間の望ましい関係を心に抱いてもらうこと。それは、アメリカへの恩返しになるばかりでなく、これからの地球にとっても、ぜひとも必要なことに思えたのでした。

今回、このような形で、より多くの人に、この美しい言葉を届けることができたことを、ほんとうにうれしく思っています。スポンサーの山田養蜂場は、豊かな自然なしでは絶対に成立しない企業。「自然に感謝し、そして自然を支えること。みつばちが教えてくれました」ということを、経営哲学の基本に置いているそうです。だからこそ『父は空 母は大地』の言葉に、強く共感してくださったのでしょう。このような形で、より多くの人にシアトル首長の言葉を届けてくださったことに、心から感謝しています。


『父は空 母は大地』は、朗読にも最適のテキストです。パート分けして、群読することもできます。群読用テキストを掲載してありますので、ぜひご活用ください。

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■ポエトリー・リーディングから広がってきた世界/語る側から聴く側へ

Thu, 20 Jun 2002 01:11:21

▼はじめてのポエトリー・リーディング体験
「フリージャズのコンサートがあるんだけれど、そこできみの詩を読んでみない?」
 1999年のある日、突然そんな電話がかかってきた。突然、というのは実は正確ではない。というのも、それに半年ほど先だって、わたしはニューヨークからやってきた黒人女性詩人トレーシー・モリスを紹介され、彼女のポエトリー・リーディングのコンサートを聴きに言ったのだ。
 楽器はドラムとサックス。フリージャズと名づけられている徹底的に自由な即興演奏に、彼女が「言葉=声」で応酬し、対話し、ぶつかっていくような構成の舞台だった。
 トレーシーが舞台で最初に発した最初の言葉は「シンカンセン」。
「シンカンセン・シンカンセン・シシシシシンカンセン」
 わたしがトレーシーを友人の家に連れていったとき、その家の子どもが新幹線のおもちゃを手にしきりと「シンカンセン」といっていたのが、印象的だったらしい。その言葉の響きが、面白くてならないというように、彼女は言葉を発し、その響きやリズムを自分自身で楽しんでいる。そんなふうに音の響きから日本の欠片を捕らえるトレーシーの感性に、わたしは舌を巻いた。ドラムの豊住芳三郎は、席を立ってスティックで椅子を叩き、床を叩き、トレーシーの声と無邪気に戯れる。戯れていると見えて、そこには、極めて緊迫した音空間が現出していた。それがまた、面白くてならない。
 コンサートがはねると、わたしは大きな声で何度も繰り返した。
「ああ! わたしもこんなふうな朗読をやってみたい!」
 その声を聴いている人がいた。その日、たまたまその会場でPAを担当していた青木隆氏だ。彼は音楽プロデユーサーでもあり、後日わたしに声をかけてきてくれた。わたしは知らなかったのだが、なんと彼は、わたしの小説の読者だったのだ。
 そんな偶然があって、わたしは思いもかけず、舞台に立つことになった。1999年のことだった。それ以来、舞台を見てくれた人から次々と出演を依頼され、北は帯広から南は鹿児島まで、十数回も朗読ライブのパフォーマンスをしてきた。相手はプロの音楽家だが、わたしの朗読は素人。しかし、作家本人が読む、というところに価値を見いだしてもらえたのか、ライブが途絶えることはなかった。
 同じ作品でも、共演する相手が違えば、わたし自身の読み方もまた違ってくる。すると、作品そのものの匂いさえ変わってくる。ライブは、他者との出逢いの場であり、自分自身の作品との出逢いの場でもあった。

▼思いがけない朗読ワークショップ講師の依頼
 そんふうにライブを重ねていたある日「ポエトリー・リーディングのワークショップの講師をしてもらえませんか?」という打診があった。2001年も終わろうとしていた時のことだ。鳥海直美さんを通じて知り合った奈良のたんぽぽの家の森口弘美さんだった。
 青天の霹靂だった。いくら回を重ねてきたからといって、わたしの朗読は、とてもプロとは呼べない。自作を読む作家、というのが珍しがられているだけだ。他人の朗読の指導なんてできるはずがない。謙遜でなくそう申しあげると、森口さんはにっこりと「心配ありません」とおっしゃるではないか。
 朗読そのものを指導するのではなくて、参加者に詩や小説の一節を読んでもらうことで、それを会話の糸口として、様々なことを語りあおうというのが会の目的だという。それなら、わたしでもお手伝いできるかもしれない。というか、わたしでなくても誰でもできそうだと思ったが、同時に、ある光景が思い出されもした。
 もう二十年近く前のことだったと思うが、宮沢賢治の「農民芸術概論」の群読に加わったことがある。文学講座に参加したところ、思いがけずそんなことをさせられたのだ。だいたいが、みんなと歩調を合わせてひとつことをするのが嫌いなわたしである。即興でセッションするのは楽しいけれど、一斉に声を出すなんてまっぴら!と思っていたのに、やってみると、これが意外に快感だった。声の厚みのなかに溶けこむ快感もあれば、他者の声に耳を傾ける快感もあった。
 ワークショップであれば、そんな試みもできるのではないか。そう思いはじめると、その思いつきが頭のなかで小鬼のように飛び跳ねだした。これは、面白いかもしれない。そんなわけで、わたしはうかつにも、ワークショップの講師を引き受けてしまった。
 これが、その後に続く、思いもよらぬ驚愕の「はじめての体験」に結びつくことになるとは、その時は夢にも思わなかった。

▼ワークショップ初日 群読の試み
 2月20日・27日・3月1日の三回連続で、「ケアする人のケア」ワークショップの東京会場「ポエトリー・リーディングのサロン 内なる宇宙を紡ぐ」が開催されることになった。受講者は二十名弱。ほとんどの方が三回続きで来てくださるという。三回もの連続講座なんて、みんなに飽きずに過ごしてもらえるだろうか。
 初日はまず『父は空 母は大地』(パロル舎1995)をわたし自身が朗読させてもらうことにした。これは、百五十年前のアメリカ先住民の首長の演説を編集してつくった絵本で、首長の言葉には、白人に土地を取りあげられた先住民の哀しみと、大地への愛の深さが脈々と流れている。耳で聞いてわかるシンプルな言葉で表現されているのが朗読向きだと思って選んだ。
 朗読に際して、なにか音が欲しいとお願いしたところ、カリンバという素朴なアフリカの楽器を、参加者のひとりであるグレン横田氏が弾いてくださることになった。音と言葉。はじめて出会った者同士でも、その場で言葉以上のコミュニケーションできるのが、音楽と言葉のコラボレの醍醐味だ。ぶっつけ本番の演奏だったが、シンプルで力強い首長の言葉に、カリンバの素朴な音色がぴったりとマッチしていた。
 その後「文字を言葉を声にだして読む意味」についての短いレクチャーをさせてもらい、ひとりひとりに、たったいま朗読したばかりの作品のテキストを渡して、三つのグループに分かれてもらった。一グループ、五名か六名という規模だ。グループごとに、独自の朗読方法をみんなで話し合って決めてもらい、発表してもらうのだ。
 群読には、さまざまな手法がある。例えば、こんなものだ。
・全員で声を合わせて読む
・一人一行ずつ順番に読む
・二手に分かれて代る代る読む
・はじめは一人で読み、だんだん読む人数を増やして声を重ねていく
・はじめはみんなで読み、だんだん抜けていって、最後はひとりになる
・主役を決めソロで語り、大事なところをみんなで繰り返し読む
 これらを組み合わせれば、無限ともいえるヴァリエーションが可能だ。さらに、全部読めば二十分ほどかかるテキストの、どこを切り取って読んでもいいという条件もつけた。そうやって、自分たちなりのヴァージョンをつくって読んでもらうという企画だった。
 すぐに各グループの討論に入ってもらった。制限時間は十五分。静かだったのは、最初の五分だけ。議論は、あっという間に白熱し、会場は喧噪に包まれた。まず読み合わせという実践的なグループもあれば、簡単な自己紹介からはじめましょうとはじめたところが、身の上話が始まってしまって、それがまたあんまり面白いので聞き入ってしまっているグループもある。この作品のどこが肝なのか、侃々諤々の熱い議論をしているところもある。限られた時間のなかでまとめようと、みんな必死だ。
 例えは悪いが、その必死さは、緊急事態に遭遇し、肩書きも年齢も越えて力を合わせて助けあおうとする災害現場の人々のようだった。十五分で方針を決めて発表するというのは、確かにかなりの緊急事態なのかもしれない。
 元俳優のおじいさん、オペラ歌手、学生、有機農法の八百屋さん、電波天文学者の卵、幼稚園の先生、障害者の介護人、読み聞かせをしているという主婦、などなど。共通の経験を持たない初対面の人々が「テキストをみんなで声に出して読む」という単一の目標を持って、その場で力を合わせる。短時間で仕上げなくては、という必死さが、初対面だという遠慮をかなぐり捨てさせ、人と人の間にある壁を急速に溶かしていく。それが、心の形を一気に露わにしていくさまを、わたしは驚きをもって見ていた。
 一般社会で、はじめて出会った同士がすぐこんなふうに言葉を交わせることはまずない。こんな機会を持つというだけでも、これは興味深い体験かもしれない。
 予定時間の十五分を過ぎて「はい、ここまで」と声をかけても、だれもこちらを振り向きもしないほど白熱している。仕方なく、五分延長して、ようやく群読の発表となった。
 発表を聞いて、重なる声の力に、わたしは再び大きな驚きを感じた。三グループあったのだが、同じ作品を元にして構成したというのに、まるで印象が違う。どこを選んだか、という編集方針の違いもさることながら、一人一人の声の訴えてくるものが違う。順繰りに読めば、声の違いが際だち、声を持っているその人の心の姿までが伝わってくるようだ。そして、その声が重なったときの力強さ、やさしさ。
 群読する。こんな簡単なことで、こんなにも豊かなものを得られるのかと、仕掛けたわたし自身が驚いてしまった。終わったときの、すがすがしい達成感も忘れられない。

▼二〜三日目 好きな作品を朗読する
 ワークショップの二日目と三日目は、各自好きな文章を持ち寄り、それを朗読してもらいながら、その文章の魅力や、なぜ自分がそれに惹かれたのかを話してもらった。
 「ポエトリー・リーディング」と名づけてはあるけれど、読むものは詩でなくてもいい。絵本でも、論文でも、新聞記事でも、広告でも、薬の能書きでもいい。そういったところ、みんな、驚くほどいろいろなものを持ち寄ってくれた。
 禅宗の料理番の心得を書いた難しい文章を読みながら、ずっと家族のためにと専業主婦でがんばってきたけれど、実はわたしは料理を嫌いなのだとカミングアウトした主婦の方。日本国憲法前文を、香具師の口上の口調に書き換えたものを面白おかしく熱演してくれたキャリア・ウーマン。ご自身が雑誌に投稿した環境問題に関する告発文章を読んで、実体験を切々と語ってくださった幼稚園の保母さん。大学院で天文を学ぶ天文学者の卵は、星に興味を持つきっかけになった文章を読んでくれた。
 わたしがもっとも心に残ったのは、帰国子女の女子高校生の言葉だった。彼女はとある詩人の詩を読み、それから自分自身に正直に生きていきたいと、まるで決意表明のように語ったのだ。戻ってきた故国日本への違和感、回りくどいコミュニケーション。そんなことにほとほと参って、カウンセリングが必要なほど傷ついている彼女が語る言葉は、けれども力強く、そして清冽な水のようで、心洗われる思いがした。この朗読体験が、少しでも彼女の自信に繋がり、彼女の力になってほしいと願わずにはいられなかった。

▼朗読をきっかけに溢れだしてくる心の言葉
 自分の心を自分で語るのはむずかしい。何重にもプロテクトがかけられ、なかなか本心を語ることができない。心の深部を人にさらけだすことは、だれにとっても恐ろしいことだ。いや、それ以前に、自分で自分を見つめることさえ、恐いことなのかもしれない。
 ところが、自分の好きな作品を声に出して読み、その魅力を語り、それを人に伝えようとすると、あきれるほどまっすぐに、人は自分の心をさらけだしてしまう。作品を語るつもりでいて、その実、その作品に心惹かれてしまう自分自身を語ってしまうからだ。
 「朗読」という、小学校一年生でもできる簡単なことをするだけで、人はここまで無防備に自分自身を語ることができるのかと、わたしはただただ、驚きをもって見守っていた。いったん言葉が流れだすと、心の底に押しこめられていた思いが喜び勇んで躍りだしてくる。溢れる言葉。もっともっと話したい、もっともっと聞いていたい。そんな思いを断ちきるようにして「このへんで」と止めないと、次の人の順番が永遠に回ってこないのでは、というような状態だった。
 それだけ、人は日常、自分の深い思いを押しこめているのだろう。確かに、日常には、心の底の思いをストレートにぶつけられる場所はない。けれども、朗読をきっかけにすれば、実にたやすく、心の深部を語り合うことができる。指導者も専門家もいらない。いつもお茶会や飲み会で、試しにちょっとやってみればいいのだ。それだけで、日常とは違う、濃密な時間を持つことができる。「何を読むか」それを選ぶところから、すでに心の仕事がはじまり、人は自分に向き合う豊かな時間を持つことができるのだ。
 語り終えた人々は、心のうちを吐きだして一様にさっぱりとした顔をしていたし、みんなの人生に触れられて、聞き手もまた豊かな時間を過ごすことができた。

▼朗読の応用 自己紹介と百人の群読
 はじめてのワークショップを体験した後、わたしはこの手法を別の場所で応用してみた。 ひとつは大学。わたしが教えている「物語の作法」という講座には、今年も二十名ほどの学生が集まってきた。いつもなら自己紹介をさせても、誰が誰だか覚えられない。それが「朗読&自己紹介」という方法をとったところ、どんな作品のどのような所に惹かれる、どんな資質を持った学生なのか、すぐに認識できるようになった。絶大な効果アリだ。
 四月には、帯広で講演会があったのだが、わたしは『父は空 母は大地』の群読用にアレンジしたテキストを持っていった。百人を超える聴衆を四つにわけ、みんなに渡したテキストを楽譜がわりに指揮者のように指揮しながら、群読を試みた。百人の声の厚みには、独特の響きがある。まるで、オーケストラの壮大な響きに身を委ねるような快感だ。その声のひとつとなった会場のみなさんも、きっと同じようなことを感じてくれたと思う。

▼たんぽぽの家でのワークショップ
 中野でのワークショップが好評を得て、奈良のたんぽぽの家で、ワークショップをすることになった。二つ返事で承諾したのだが「二日目のワークショップに参加予定の人々です」といって送られてきたビデオを見て、わたしは頭を抱えてしまった。そこには、さまざまなハンディキャップを持ったたんぽぽの家のメンバーが映っていたのだ。
 自分の名前を発音するのにも長い時間を要するような麻痺を持った方がいる。知能障碍の人もいる。しかも、その程度が一様ではない。重い人もいれば、軽い人もいる。どこまで意志が通じるのだろう? 一対一ならともかく、一対十というような状況で、朗読のワークショップが成立するだろうか?
 愕然として森口さんに相談すると「だいじょうぶです。健常者にするのと同じようにやってください。ただ、いつもより少しゆっくり話したり、進行したりしてもらえればいいです」とのこと。あのおっとりとした森口スマイルが目に浮かぶようだ。しょうがない、出たとこ勝負だと腹をくくって奈良へといった。

▼役がその人になりきってしまう朗読
 心身にハンディキャップのある人の介護の経験は全然ないわけではなかった。取材のために訪れたカルカッタのマザー・テレサの家で、二週間、ボランティアをしたことがある。その時のことは『マザー・テレサへの道 ボランティアってだれのため?』(学研1997)に詳しいが、その印象からすると「朗読ワークショップ」を成立させることはむずかしいという感じがした。
 しかし、たんぽぽの家で実際にワークショップを試みて、わたしの考えはひっくり返ってしまった。人生のなかでも、あのように自分の価値観や先入観が簡単にひっくり返る体験をすることは、滅多にないだろう。
 確かに、心身に障碍を持った人とは、話が通じにくい部分もある。甚だしくとんちんかんな受け答えもある。けれど、だいたい通じるのである。いや、通じているのは「話」ではなくて、むしろ「気持ち」だったのかもしれない。わたしは、ふだん健常者とやりとりする以上に、彼らとじかに心をやりとりしている実感を持った。
 ワークショップは、このように行われた。午前中、まずメンバーに簡単な自己紹介をしてもらう。そこで、わたしがまずみんなとのコミュニケーションに慣れ、午後になってから、実際に朗読のワークショップに入る。音楽に合わせて、まずわたしが、メンバーの一人である上野和子さんが若い頃に書かれた詩を読んだ。照れながらも、顔いっぱいに歓びを浮かべる和子さんの表情が、怖じ気づいていたわたしを力づけてくれた。
 つぎに絵本の朗読に入った。『おおきくなったらなんになる?』(鈴木出版2001)『おおかみのこがはしってきて』(パロル舎1999)というわたしの作品だ。わたしが通しで読んだあとに、みんなに「男の子」「女の子」「たんぽぽ」「めだか」などの登場人物を割り振って、その部分を朗読してもらった。ちょっとした「朗読劇」のような体裁だ。
 わたしは、彼らの朗読を聞いて、またも驚愕してしまった。絵本のなかの人物を「演じている」のではない。そのものなのだ。彼らが「たんぽぽ」や「めだか」そのものになりきっている、というのとは違う。逆に「たんぽぽ」や「めだか」が、彼らそのものになってしまったかのような朗読だった。なんというインパクトだろう。そこに、その人以外のだれでもない形が、くっきりと立ちあがってくる。
 なぜだろう。なぜ彼らにはこんなことができるのだろう? 「過剰な装い=カッコつけ」というようなものから、彼らがはじめから自由な地平に立っているせいだろうか。だから、心の形そのままを、素直に表現できるのだろうか。
 次に朗読した『おおかみのこがはしってきて』で、わたしはほとんど打ちのめされるような感動を覚えた。わたしが父親役をし、伊藤愛子さんが子どもの役をしたのだが、愛子さんが「ねえ、どうして?」と問いかけてくる言葉は、比類ないきらめきを持っていた。それは、世界そのものに対して純粋に「ねえ、どうして?」と問いかける子どもの心の輝きだった。上手に演じる人や、役になりきる人を知ってはいても、愛子さんのように、自分自身の心の声として「どうして?」と深く問いかけられる人を、わたしは他に知らない。
 ああ、障害を持つ人々といっしょに朗読をするということは、こういうことなんだ。わたしは、知らなかった新しい世界に目を開かれたような驚きを覚えていた。

▼重い障害を持った人の朗読
 発語さえむずかしいような重い障碍を抱えた人も、このワークショップには参加していた。そのような人に、わたしは意識して短い、やさしいパートを振るようにしていたのだが、スタッフから「ねえ、このふたりに『おおかみのこがはしってきて』をやってもらいましょう」と声があがった。
 ふたりとは小松和子さんと下津圭太郎さん。ふたりとも四肢に強い麻痺があり車椅子だ。その麻痺を押して話そうとすると、言葉はごくゆっくりとしか出てこない。絵本といっても、通しで読めば結構ボリュームがある。読みおえるのに、かなりの時間がかかってしまうことは目に見えている。他の参加者が飽きたりしないだろうか。内心そんな心配をしながらも、ふたりにやってもらうことにした。
 テキストは、介護ボランティアの方が、見やすいようにふたりの目の前にかかげてくれた。読みはじめる。ひどくゆっくりだ。耳で聞いているだけでは、何と発音しているのかよくわからない。しかし、テキストを見ているうちに、声と文字とが対応するようになってきた。そして、驚くべきことに、あれよあれよという間に、彼らの言葉がわかるようになったのだ。そして、そこに込められた感情さえも、鮮やかに伝わってくるようになった。耳を澄ますということ、心を澄ますということ。一心に相手を見つめるということ。健常者のスピード、つまりで猛スピードで日常を走りながら、置きざりにしてきたことを、このふたりが朗読を通じて、ゆっくりゆっくりと、心にしみるようにわからせてくれた。
 その長い長い時間、参加者である「障碍者」は、息を詰めるようにして、飽きずにずっとふたりを見つめていた。真剣に耳を傾けていた。朗読している彼らといっしょになって、一字一字、小さく発音している人もいた。むしろ、介護している「健常者」のなかに、思わず居眠りをしてしまう人がいたりもしたのだ。
 いつ終わるのだろうと心配になってしまうほど長い長い時間が経過した後、最後の一行を読み終えると、車椅子のうえのふたりは、弾けるような笑顔を浮かべた。全身から、歓びが溢れている。聴いていたみんなも、わがことのように喜んで大きな拍手をした。「とうとうやり遂げたね!」という達成感を、みんなで共有することができたのだ。
 つまらなければ、すぐ席を立ってしまうような、飾ることをしらない彼らが、こんなにも強く深くシンパシーを持って、車椅子のふたりの言葉に耳を傾けていたことに、わたしは言葉もないほど感動してしまった。そして、車椅子のふたりに読みやすい短いパートを割り振ろうとした自分の考えが、浅はかな間違いであったことを思い知ったのだ。

▼耳を澄まし 心を澄ます
 ワークショップという思いもかけないチャンスをいただくことで、わたしの朗読体験は、自らが読むというところから、他者の声に耳を澄まし、新しい世界を見つけるというところまで、広がってきた。このような機会を与えてくれた森口さん、鳥海さん、そして参加者のみなさんに、心からのお礼をいいたい。
 朗読とは、読むことと同時に聴くことだ。他者の声に深く耳を傾けること。耳を澄まし、心を澄ますこと。そうやって受けとめてくれる人がいると実感できるからこそ、読む方も緊張し襟を正して、人に向き合うことができる。そして、本人は気づかなくとも、それは同時に自分自身に向き合い、自分のなかの深い心の声に耳を澄ますことなのかもしれない。
 指導者も専門家も必要ない。上手く読む必要もない。へたならへたでそれも楽しい。日常のなかで、みんなが小さな「朗読」という時間を持つことで、思いもよらぬ深く豊かなひとときを過ごすことができる。お金だってかからない。物質の豊かさから、心の豊かさへの移行は、こんなところから自然と広がっていくかもしれない。
 ステージに立つのは楽しい。けれど、人の朗読に耳を傾け、話を聞くのもまた楽しい。そこにあるのは、その人の物語。「朗読」は、その物語を他者と交叉させる場だ。例え百年生きたとしても、この地上にいる時間は一瞬に等しい。「朗読」を介して、自らの物語を語り、他者の物語に耳を傾け、互いの物語を共有する深く豊かな時間をたくさん過ごせたらと思う。

■ネットロアという怪物/ETV2002 池田香代子×池澤夏樹「100人の地球村からのメッセージ」

Wed, 19 Jun 2002 06:08:57

▼NHK番組「100人の地球村からのメッセージ」
NHK教育テレビのETV2002という番組で 池田香代子×池澤夏樹「100人の地球村からのメッセージ」が放映された。内容は以下の通りだ。
NHKのサイトより転載
「世界には63億人の人がいますが、もしもそれを100人の村に縮めるとどうなるでしょう」。
世界の民族・宗教問題や圧倒的な富の偏在を「100人の村」に例えて説き、未来の希望をつづったメルヘン「世界がもし100人の村だったら」。英語圏のどこかで始まったこのチェーン・メールは、去年の3月に日本に上陸、共感した人々が次々に転送してネットの海をかけめぐった。とりわけ、去年の同時多発テロ事件以降、新聞のコラムでもとりあげられてブームはさらに加速、12月には絵本として出版されてベストセラーとなった。

この「物語」の原典は、「成長の限界」の著書で昨年2月に他界したアメリカの環境学者ドネラ=メドウズと言われる。彼女が90年に書いた新聞コラムを誰かが「改作」してネットの海に放り込んだ。それにさまざまな手が加わって「成長」したのである。

絵本をまとめた口承文学研究所の池田香代子さんは、史上もっとも成功したこのチェーン・メールの生成過程を今も調べ続けている。「100人の村」は、なぜ人々の心をこれほどまでにつかんだのか。

番組ではメールの内容やその生成過程を描くとともに、テロ事件以降、メールマガジン「21世紀へようこそ」で社会的発言をつづける作家の池澤夏樹さんが、池田さんと語り合う。
▼『世界がもし100人の村だったら』の功罪
『世界がもし100人の村だったら』は、多数派であり物質に恵まれた現在の生活が当然のものだと思っている人々(つまり池澤夏樹いうところの「国際社会」という名で呼ばれる、事実上の「お金持ちクラブ」の人々)に、世界の真のプロポーションについて気づかせるためのよいきっかけとなる文書だ。世界六十億という途方もない人口を、百人という自分たちが想像しうる数値に換算して考えると、大きな数も実感的に理解しやすい。世界の格差がテロや混乱や戦争を招いている今日、これは確かに重要な視点だと思う。

しかし『世界がもし100人の村だったら』には、大きな問題が隠されていることも見逃せない。第一にその統計の信憑性。そして、統計以前に、分類の視点そのものに大きな偏りがあることがいけない。たとえば、世界はこの本の中で「白人」と「有色人種」という分け方がされている。この分類そのものが、白人中心主義を一歩も出ていないどころか、このような分類をおかしいとも思わず受け入れる素地を助長しているともいえる。これでは、この文書の主旨そのものに矛盾してしまうわけだ。

第二の問題は、これがチェーンメールという方法で流布された情報であるということだ。流れてきた情報を、裏もとらずにまた流す。もし、そこに誤謬があったとすれば、その誤謬も同時に流れていく。或いは、誤謬でなくなにかの目的を持った作為的な情報であれば、さらに悪質だ。また、情報は途中で改竄される可能性もある。一見善意の情報であれ、その元情報を照合することが出来ない限り、その信憑性は疑われるべきだ。デマや情報操作を避けるための、あまりにも当然といえば当然のことだ。

『世界がもし100人の村だったら』には、確かに考えるヒントがある。よき部分がある。しかし、情報としての根本的な問題をクリアしないで、不確かで視点の偏りをもった情報のまま流布するのは、いけない。そのよき部分を台無しにしてしまうほどの悪弊が生じる。もし、この文書に心を打たれ、それを世界のために有意義なものにしたいのなら、情報の信憑性や伝達方法といった根本問題をクリアし、その後で流さなければ、意味がない。それをしないで右から左へ流通させるのは、罪でさえあるとわたしは思っている。

▼チェーンメールから単行本出版へ
この『世界がもし100人の村だったら』の情報がマガジンハウスから出版されると聞いたとき、わたしは浅はかにも一縷の希望を抱いてしまった。それは、出版にあたって、きちんと情報の信憑性が確保され、また視点の偏りも是正されるのではないか、という希望だ。しかし、出版されたものを見ると、そのような痕跡はひとつもない。統計数字の出典すら記載されていなかった。これで完全にトリプルパンチをくらってしまった。

そのあと事実上二番煎じの便乗本として出版された『日本村100人の仲間たち』(吉田浩/著 日本文芸社2002)の方が、どれだけ良心的か知れない。わたしはこの本を書店で見つけ、なんというあざといことをする奴だろうとあきれかえり、著者名を見て、愕然とした。それは、修業時代に小沢正氏についていっしょに勉強した吉田浩だったのだ。彼の最近のヒット作は『インシュリン・ダイエット』だったから、いかにもあいつのやりそうなことだと笑みさえこぼれたが、内容をみれば「よくやった、吉田!」と誉めたくなるようなものだった。そこに書かれた数字の出典がはっきりと記載されている。数字を投げだすだけではなく、補足説明も加えられている。それが、この本を煩雑にしているうらみはあるが、だからこそ資料として「使える」本になっていることも事実だ。とてもよく調べた学生のレポートのような出来になっている。ここまで調べたとは、嫌みでなく大したものだと、わたしは感心してしまった。なにより、匿名ではなく、吉田浩という個人の恣意的編集であることがはっきりとわかる形になっているところが良心的だ。

さて、話題がそれてしまったが『世界がもし100人の村だったら』が本として出版される以前、チェーンメールとして受け取った時点から、わたしはこの情報の信憑性の問題と、情報発信者の心得について、警告を発してきた。2001年10月20日のレビュー「疑り深い人になろう」は、このチェーンメールに関して、正しい対処を促す記事だ。

▼単行本出版へからテレビ番組化へ
しかし、事態はさらに進む。NHKが『世界がもし100人の村だったら』を題材に番組をつくったというのである。ともかく、見るまではわからない、番組中で情報伝達の問題に触れてくれるかもしれない、とまたしても微かな希望を抱いたのだが、これもあっけなく砕かれた。さもありなん。番組予告のなかに記された「史上もっとも成功したこのチェーン・メール」という言い回しを見ても、NHKがチェーンメールの何たるかを理解していないことは一目瞭然だ。日本最強の情報発信源として、なんという情けない認識だろう。

編者の池田香代子も専門は口承文学。彼女は都市伝説なども扱っているが、これも情報伝達をキーワードとした学問分野。デマや情報操作も視野に入らなければおかしいはずだが、彼女もまたそのことには無頓着だ。「口承文学研究所」を名乗る専門家としての責任は重い。そして、あの池澤夏樹まで、この文書の問題の核心に触れることなく、ただそこから先に広がる平和や物語論を語っていることに大きな失望を感じないではいられなかった。

▼池澤夏樹『新世紀へようこそ』の発信方法を検証する
池澤夏樹は、昨年の911テロ事件のあと『新世紀へようこそ』というメールマガジンを始めた。これは、3号まではメールマガジンですらなく、BCCの同報メールであり、「転送可」と記されていた。わたしもある友人(NHK勤務だ!)が転送してきて9月24日に発行された1号を、翌25日に受けとったのだ。すぐ後に、他の何人かの友人も同じものを送ってきた。この時『新世紀へようこそ』は完全にチェーンメール化していた。これについて、わたしはさっそく発信元のインパラに注意を促すメールを送信した。2002年9月25日のことだ。
【インパラへのメール】
「転送可」情報の危険性について、このごろ考えることがあります。
もし、悪意の人が書き換えをして転送することがあるとしたら、
どこでそれを確かめられるのか?
原文の発信元に問い合わせなければなりません。
発信元に確かめて「書き換えも間違いもありません」
ということを確認しない限り、
いくら転送したいよい情報でも、
その情報が正しい情報である根拠がないため、
転送者として責任を持って転送することができません。

これに関して、とても簡単に解決できる方法があります。
発信者のHP上に載せることです。
そして、そのURLを明記して発信することで、
受信者はその情報が間違いないものか、
改変されていないか、確かめることができるわけです。

インターネット時代。
正しい情報も、そうでないものも、簡単に流通できるようになりました。
それだけデマも簡単に広がるし、
悪意ある人が改ざんした「転送情報」を流すことで、
発信者を傷つけたり、情報操作をすることができます。
そのような可能性を少しでもなくし、
正しい情報をただしく伝えるために、
ぜひHPに原文をご掲載いただけるよう、お願い申し上げます。
チェーンメールの危険性については、これだけで十分説明ができているはずだ。そして、その危険を避ける方法も明示してある。しかし、翌26日にインパラから戻ってきた返事は、このようなものだった。
【インパラからの返答】
貴重なご意見をありがとうございました。
善意のネットワークの広がりを期待していますが、確かにおっしゃる
リスクも否定できないと思います。

できるだけ早くに正式なメール・マガジンとして発行する体制を整える予定です。
その後にHPでも掲載することを考えています。
でも、ともかく急がなくてはと、パーソナル・メールの形で配信を始めました。
リスクの問題ではなく、正しい情報流通のための基本理念について注意を促したつもりだったのだが、まったく理解してない様子だった。メールマガジンにするという告知があったのは10月1日の8号。BCCの同報メールからメールマガジンにした理由は、このように記されていた。
これまでパーソナルに発信をしてきましたが、そろそろ個人のメール・ソフトでの登録・発信作業に限界が見えてきました。そのため、メール・マガジン発行サイトに窓口を開設し、本日より、新規のお申し込みはこちらで手続きしていただけます。
情報発信の責任の持ち方、という本質には、ここでもまったく触れられていない。そして、すぐにあたれる元情報がないままの「転送可」の問題点をはっきりと指摘したにかかわらず、「転送は自由です」という言葉も消えていなかった。

『新世紀へようこそ』が、やっと立ち上げられた池澤夏樹の公式ホームページに掲載されるようになったのは、2002年12月3日のこと。連載は既に56回を迎えていた。それまで、元資料にあたれる可能性も閉ざされたまま「転送は自由です」の言葉のもとに、情報が垂れ流されていたのだ。朝日新聞のサイトにコラムとして掲載されるようになったのは、その少し前だったと記憶している。

▼いいものだからこそ、方法論が問われるべき
このように、情報の適正な流通形式について無頓着な池澤夏樹のことだから、NHKの番組でネットロアの危険性について、正しく指摘しなかったのも無理のないことだったかもしれない。しかし、普段から資料にあたり、正確な数字を求めることに腐心し、番組の中でも「『新世紀へようこそ』は書くのは大変ではなかったけれど、その土台となる資料集めに苦労した」と語る池澤夏樹が、『世界がもし100人の村だったら』の数字の信憑性や、分類の視点の偏りについて少しも触れなかったのは、どうしたことだろう? 

さらに、池澤夏樹は『世界がもし100人の村だったら』のチェーンメールをはじめて見たときのことを「うまく出来てるなあ。アメリカ側の視点ではなく、アフガニスタンのような弱者の視点を獲得するのにとても有効」という意味のことを暢気に語っているのだった。「白人:有色人種」というような分類をする白人中心の物の見方が潜んでいることを、どう考えているのだろう?

わたしは、池澤夏樹の『新世紀へようこそ』や、池田香代子の『世界がもし100人の村だったら』をバッシングしようとしているのではない。池澤夏樹がいまも地道に書き続けているこのコラムは、世界に多大なよき影響を与えていると思う。地道に、少しずつ世界を美しくしようという努力であるということに、敬意を表してやまない。見習うべき、すばらしい仕事だと思う。池澤夏樹に比べたら、日本の多くの物書きはクズである。また『世界がもし100人の村だったら』にも、よきところはある。それが、世界の見方をかえることになるよききっかけを与えてくれることも事実だろう。

しかし、いや、だからこそ、その情報伝達の方法は正しいものでなければならず、情報の信憑性の確認も怠ってはいけないものだ。わたしは、情報の内容そのもの以前に、むしろその伝達方法の正当性や、情報の信憑性が確認されることが、大切だと考える。どんなによい情報でも、また、池田香代子がその印税をすべてアフガニスタン難民の基金にあてようが、その情報が生まれ伝わる手段が間違っていたら、それはやっぱり大変ひどいことなのだ。よいことはよいと認めても、だからといって、間違っている手法を容認することはできない。それを容認し、情報を確認せずに受け取ることを蔓延させていると、いつか、情報操作やデマに惑わされて、社会が大変なことになる危険を孕んでいる。そのことを、指摘したい。「せっかくいいことしているから、足を引っ張るような真似はいけない」というのは、間違いである。せっかくいいことをしているからこそ、肝の部分ををきちんとして欲しいと願うのだ。

▼世界を美しくする鍵
なぜ、情報の正当な伝達方法と、内容の信憑性の確認が大切なのか、そのことについては、また改めて書きたいと思う。それは『ガイアシンフォニー』や、障碍児の詩人・日木流奈くんの問題や、科学者松井孝典の発言などの批判にも関連してくる。また、掲示板カフェルミに投稿された「有事法案ではなく無事法案を!」も、その内容ではなく方法を、わたしが否定する理由にもつながってくる。ひとつひとつの問題、というよりは、わたしたちが否応なく泳いでいる「情報社会」と、個人としてどうつきあうのか。そういった根本的な問題だ。そして、その問題がきちんと理解され、ひとりひとりに徹底されれば、世界はもっとずっとましになると思っている。長い長い道のりではあるが。

ゆっくりと語らないと伝わらないことかもしれないので、機会を改めて語りたいと思っているが、ネット上を検索しても、だれもこの番組についての問題点を指摘していないようなので、わたしから取り急ぎ発信することにした。

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■青いナムジル/等々力政彦氏(トゥバ民族音楽奏者)からの聞き書き

Tue, 18 Jun 2002 16:22:54

2002年5月、大阪にて「草の海 星の海 幻燈会」というライブに出演させていただきました。その折に共演させていただいた等々力政彦氏は、トゥバの民族音楽の演奏を中心とした演奏活動を行っていらっしゃる音楽家。等々力氏は、まさに数日前に、西モンゴルへの2週間の取材を終えて戻っていらしたばかり。現地の香り漂うお話をお聞きすることができたのも、大きな収穫でした。

ライブ当日は「青いナムジル」を、等々力氏と共演させていただきました。イギルという、馬頭琴の原型ともいえる力強い楽器の太い音色、そして、等々力氏の伸びやかで、太い、大地の匂いのする声。それは、わたしにとって、新たな出逢いでした。等々力さんの演奏に出会い、わたしの持っていたモンゴルのイメージに変化が訪れました。わたしが思っていた繊細で透明感溢れるものとは、少し違うのではないか? もっと大地に密着した、泥臭い、しかし力強いものではないか? という変化です。これをきっかけとして、初稿を大幅に訂正し、もう少し違うイメージで描くことにしました。

演奏会がはねて後、「ナムジル」について、等々力氏とさまざま話し合う機会が持てたことも、大きな喜びでした。等々力氏に、そしてタイムリーにそのような機会をつくってくださった鳥海直美氏、モンゴルの大草原のスライドで共演してくださった赤坂友昭氏をはじめとして、この企画に協力してくださった多くの方々と、聴きにきてくださったみなさまに、深い感謝を捧げます。その折に、等々力氏と話し合ったことの片鱗ですが、たいへん興味深いので、わたしの記憶をたよりに、ここに再録させていただきます。
▼「フフー.ナムジル」には妻がいた
ぼくの知っている「フフー.ナムジル」は、故郷に妻がいて、任地で別の女性と「浮気」をする物語だ。妻は、夜な夜な浮気相手に会いに行くナムジルに嫉妬し、馬を殺しています。いまのところそれ以外のヴァージョンをぼくは知らない。モンゴル語だけでなく英語でも(たぶんロシア語でも)同じ話が再話されており、おそらくこれがオリジナルの話だと考えてよいと思う。

▼モンゴルにおける性の概念
モンゴルでは、性に関してかなりオープン。全般におおらかな雰囲気がある。女性も積極的。そんなわけで、浮気とか不倫といっても日本で思うような隠微な雰囲気とはかけ離れたニュアンスである。「フフー・ナムジル」の物語にしても、ナムジルは浮気をしているわけだが、それでも、モンゴルの人々は深く共感して悲しみ、純真に涙を流すのである。大地から湧きあがるような大らかな性のエネルギー。彼らには、それをまっすぐに認める心情がある。

▼基底となる価値観の相違
しかしながら、これは基底となる文化の相違もある。この物語をそのまま「妻ある男の不倫の物語」としてダイレクトに日本に移植しても、違和感を持たれてしまうだろう。前提としての文化の相違、物の考え方・感じ方の相違を理解してもらった上でないと「妻ある男の不倫の物語」が、そのまま純粋に哀しみをそそる純情物語にはならない。結局、広く深い文化理解なしには、物語も正しくは理解できないわけだ。

▼他者の文化を歪みなく伝えるには?
だからといって、すべての人にその理解を求めてからでないと、物語も音楽も持ちこんではいけない、と極論してしまっても意味がない。正しく伝えたいが、絶対に正しく伝える、ということは事実上不可能な以上、自分にとれる最善の策をとるしかない。他者の文化をなるべく歪みなく伝えるには、一体どうしたらいいか。

▼個性と民族性のせめぎあい
しかしまた、ぼくは一人の演奏家でもある。歪みなく伝えることは大切だが、しかしそこにはぼく自身の音楽もあるはずだ。そこに、ぼくの心の中の葛藤があり、ぎりぎりのせめぎあいがある。ぼく自身でありながら、しかも本物を損なわないためにはどうしたらいいのか? 

ぼくが、繰り返し現地に足を運ぶのは、そのためでもある。少しでも多く触れて、本物を実感したいからだ。今回の西モンゴルへの旅では、エスニック集団(民族よりも部族といったニュアンスに近い集団)の音楽をちょっとづつ聞くことが出来た。二週間という短期間だったので、聴いた曲は全部でせいぜい20曲くらいだった。

▼必ず「オリジナル」をたどろうとする努力
歌を採集する時、必ず「いつ、どこで、だれから教えてもらったのか?」を詳しく聞きだして、記録している。「古い歌だ」といわれても、実は割合新しく作られた歌だったり、また作曲者もわかっているような流行歌だということもある。

ともかくも、ぼくは「オリジナル」がどこにあるのか。それをできうる限り探っていきたいと思っている。それが、ぼくにとっての異文化への「誠実」であると思っている。

▼重訳の問題点と第一話者の重要性について
『スーホの白い馬』として日本語に訳されているものはいくつもあるが、ほとんどの作品は中国語からの再話のようだ。モンゴル語でスフ(あるいはスヘ)という主人公の名前が、「スーホ」、「スホー」、「スーホー」などのバリエーションで訳されている。それは、「スフ」が中国語読みで「スーフー」になってしまうからだ。

トゥバの話でもロシア語から日本語に再話されると変な読み方になっているときがある。ひどいときにはトゥバ語をロシア語に直したものが英語訳されたものを、和訳してある場合があり、伝言ゲームのようになってしまうことがままある。

いままでは仕方なかったのだろうが、できるだけ第一話者の言語から再話しないと、おかしなことがいっぱいおこって来る。

たとえば、日本語をドイツ語に訳したものから英語訳するような場合を考えてください。ワタシはヴァタシに変化する可能性が考えられますよね。


■青いナムジル/バー・ボルドー氏よりの聞き書き

Sat, 15 Jun 2002 20:24:52

絵本「青いナムジル」制作にあたり、和光大学でモンゴル語の非常勤講師をしていらっしゃるバー・ボルドー氏にお話をお伺いしました。ボルドー氏は、内モンゴルのご出身で、子ども時代を遊牧民として過ごされました。現在、日本におけるモンゴル相撲クラブ「モンゴル・ブフ・クラブ」の会長でもあり、2001年の秋の試合では、チャンピオンにもなられました。

「青いナムジル」の元になった「フフー・ナムジル」は、もともとモンゴル国の民話であり、それが内モンゴルにも伝わり、ボルドーさんもこの物語をよくご存知でした。ボルドーさんにお伺いしたお話のうち、創作に直接取り込ませていただいものもあれば、とても印象が深かったけれど、物語が煩雑になるのをさけて取り込めなかったこともありました。このままお蔵いりにしてしまうには、あまりに惜しいモンゴルの風景。いくつかを、ここにご紹介させていただきたいと思います。
▼強い夏の陽射し
モンゴルの草原の夏の直射日光は強烈。日陰らしい日陰のない草原で、羊たちは寄り集まり、頭を低くして、お互いの体の隙間にぎゅっと頭を突っ込み、ひと塊になってじっとしている。

▼雲を追いかける
大きな雲がゆっくりと流れてくることがある。子供の時はその雲の影を追いかけて、気がつくと遠くへ行ってしまったことがある。すると、ゲルに戻るのがたいへん。

▼口笛
天気がいい日、草原を馬で駈けるとほんとうに気持ちがいい。そんな時、男たちは馬を走らせながら、思わず口笛をヒューと吹く。口笛といっても、日本で普通にいう口笛とはちょっと違ったもの。唇は尖らせず、舌と歯の間から勢いよく空気を吹きだす。上手な人は楽器のような音が出せます。でも、夜口笛をすると不吉と言われます。

▼駱駝
若い羊や山羊などが子嫌いになって乳を飲ませないことがよくあります。その時は、女性が「トェッグ・トェッグ」という言葉をリズムをつけて繰り返し歌いますと、親羊や山羊は感動してか?子供に乳を飲ませるようになります。モンゴル語ではトェッグラホと言います。
 同じように、 若い駱駝の母親が、子どもを嫌って、乳をやらないことがある。そんなときはトェッグラホではなく、馬頭琴を弾いて聞かせます。馬頭琴がない場合は民謡を歌う場合もあります。すると、駱駝は涙を流し、子どもに乳をやるようになる。馬頭琴を弾ける人がいないとき、人はそれを風にかざす。すると、馬頭琴は歌うような音を立て、やっぱり駱駝は子どもに乳をやるようになる。これは、お話ではなく、実話である。

▼駱駝の妊娠と出産
駱駝の妊娠期間は12ヶ月と長く、駱駝は2年に一度しか子を産まない。出産は冬、1月過ぎ。妊娠している駱駝に重い荷を担がせることはない。

▼すぐれた羊飼い
草を求めて、遊牧民は移動しながら暮らす。すぐれた羊飼いは、羊を効率よくよい草の生えたところに連れていき、まるまると太らせる。男も女も羊の放牧をしますが、男は一喝するだけで、羊の動きを変えることができます。でも、乳搾りや子羊の世話をするのはやはり女性です。馬飼いに比べて羊飼いは地味な存在ですが、腕のいい羊飼いと して一目置かれる。

▼野宿
遠い草場に連れていくとき、羊飼いは野宿することがある。その時、一晩中火を焚く。ことに、狼の遠吠えが聴こえる場所では、羊たちを守るために、何カ所もで火を焚く。木の枝を立てて、そこに服を着せて、即席の案山子をつくることもある。空には満天の星、暗い草原に燃えるいくつもの炎はとても美しい。

▼子どもの仕事
夏は 朝夕、乳搾りをする前に子牛に母牛のおっぱいを吸わせる。乳が出るようになったところで、子牛を母牛から引き離し、ゼルという地面に引いた縄につないでおく。その時、子牛は、乳を吸いたがって離されまいとがんばるが、子どもが子牛の首紐から一生懸命をひっぱって、母牛のところに行かないようにする。それは時間の無駄なく手際よく乳を搾るためですが、子供たちのそうしたお手伝いも自然に力を身につけられますね。それが、子どもの朝夕のお手伝い。子牛の飲む分は、ちゃんと残してあげる。

▼朝の音
おとうさんは寝坊。小さい子どもたちも寝坊。おかあさんが早起きをしてまず、かまどに火を起こす。火打ち石のカチカチという音、そしてお茶をいれるために、お茶の葉を小さな臼で突く音が、モンゴルの朝の音。外からは、子羊たちの声も聴こえてくる。今では、マッチやライターで火をつけるので、昔の懐かしい音が聞こえなくなりましたね。

▼お茶の葉
日本では「だん茶」と呼んだりするが、ぎゅっと固め、圧縮させたもの。使うだけ欠削って、小さな臼と杵で突いて粉々にし、お茶をいれる。削ったお茶はティーバックのような小さな袋にいれることが多い。

▼朝の風景
それぞれのゲルから、朝の炊事の煙がたちのぼる。牛糞を焚く煙。よく晴れた風のない美しい日には、その煙はまっすぐにたちのぼり、上空でひとつになって、小さな雲になる。それは美しくなつかしい故郷の朝の風景。

▼煙草入れ
遊牧民の男は、たいがい、短剣といっしょに、腰の後ろにさげている。きれいな刺繍などがついている。女が、心を込めて刺繍した煙草入れを男に渡すのは、西洋で いえば、バレンタインの日に好きな男性にチョコレートを贈るようなものである。でも、贈るのは一人の男性だけだよ。逆に男性は頭巾やハンカチをプレゼントすることが多い。

▼遊牧集団
定住生活ではないので、こちらの感覚で言う「村」はない。あるのは、遊牧の集団。夏と冬、組立式のテント「ゲル」を移動して生活する。この集団を「ホト・アイル」という。アイルは家を意味し、ホトは集団を意味する。2世帯以上いっしょに暮らしていれば「ホト・アイル」。その「ホト」という言葉が後に人のたくさん集まった都市も表すようになったと思います。

▼死
「木の家を出て、岩場に棲む」とか、「フェルトのゲルを離れて、日当たりのいい所に行く」という言葉がある。これは、死ぬという意味。モンゴルでは土葬をするので、そのような言葉ができた。死者を日当たりの良い、斜面のあるところ、モンゴル語では「エンゲル・ガザル」に葬るのが普通です。

▼埋葬
遺体は焼かずに草原に埋める。つまり、土葬。埋葬のために、決められた特定の場所はない。埋めたあと、昔はたくさん馬を走らせて草を踏み散らし、あえて、どこに埋めたのかわからなくする習慣があったと言う。墓というものはない。もちろん墓参りもありません。体は土に還るが、シャーマニズム 的概念では、魂は天に還り、また天から降臨する。

▼流れ星
流れ星は不吉。流れ星が流れると、どこかで人が死んだといわれる。もともと中国的な考えかもしれません。

▼天の河
モンゴルでは天の河のことを「天の縫い目」と呼ぶ。

▼デール
モンゴルの民族服に「デール」というものがある。襟がついているのが普通。こんなことわざもある。 「デールには襟がある。人には兄がいる」 なにごとにも「上」がある、目上の者は尊敬しなければならない、という意味。「日本の諺でいうと、「蜂にも上下の礼あり」「鳩にも三枝の礼あり」に近いと思います。

■「遠TONE音」と伊福部昭/ふたつの北海道音楽

Fri, 14 Jun 2002 22:58:46

▼遠TONE音コンサート
2002年6月13日、新大久保の東京グローブ座で、北海道出身のグループ「遠TONE音(とおね)」のコンサートを聴いた。「遠音」は琴と尺八とギターの3人の演奏家グループ。3人の出身地である北海道をテーマに、作曲・演奏活動を繰り広げているという。当日のプログラムには、このような言葉が書かれていた。
遠TONE音の故郷は、雄大な北海道。誰もが心の中に仕舞い込んでいる音の記憶を音楽にしました。遥かな地平線、軽やかに薫る風、ゆっくりと過ぎていく時間を、お聴かせします。
流れるような美しい旋律。軽やかな演奏。北海道の夏の日の風のように爽やかな心地よい演奏だった。わたしは、緑の香りする微風に吹かれるように、その音楽に身を浸していた。しかし、そうしながらも、わたしのなかで、微かな違和感が軋むのを感じないではいられなかった。わたしのなかに、強く印象づけられたもうひとつの「北海道音楽」伊福部昭を思わずにはいられなかったからだ。

▼伊福部昭コンサート
これを遡ることひと月ほど前の5月19日、わたしは伊福部昭の米寿記念コンサートを聴きにいった伊福部昭は、北海道生まれ。鳥取から移住してきた父は、警察署長や村長を務めたという地元有力者だった。幼い頃から、家に出入りする労働者の歌う民謡や、アイヌ民族の音楽に親しんで育ったという。一方、西洋音楽に目覚めた伊福部は、兄や友人らと室内楽団を組んで演奏会を開いたり、自力でオーケストラ作曲法を学んだ。そして、森林官として厚岸の森の中に赴任中、オーケストラのための作品「日本狂詩曲」を作曲、これをパリのコンクールに送ったところ、受賞。審査員であり賞の主催者であるチェレプニンが、伊福部の才能に驚嘆して来日、横浜のホテル・ニューグランドに滞在して北海道の伊福部を呼び寄せ、伊福部の滞在費を出して、一ヶ月にわたって伊福部にオーケストラ作曲法の個人レッスンしたという。昭和10年(1935)のことだ。

「日本狂詩曲」の日本初演は1980年、地元北海道での初演はなんと先日の6月6日のこと。世紀を超え、作曲から実に67年目のことだった。

伊福部昭の音楽は、なぜもかくも長きにわたって演奏されてこなかったのか? それは、伊福部の曲が「土俗的」であり東洋の「民謡」「民族音楽」の香りを濃厚に漂わせたものだったからだといわれている。日本のクラシック音楽界は、ひたすら西洋に憧れ、どれだけ自分たちの体臭を消して「まるで西洋のような」音楽をつくるかに長いこと血道をあげてきた。そこに、自らの音楽的「根っこ」を臆面もなくひっさげて、堂々と登場した伊福部昭という存在は、主流派にとっては「野蛮」でしかなく「とても音楽とはいえない」とまで酷評されたのだ。それが、純粋音楽家としての伊福部を、かくも長きにわたり、日本のクラシック音楽界が無視し続けたいちばんの理由だっただろう。

▼「エスニック趣味」と「土俗的であること」の違い
エスニックを売りにする、という手法がある。西洋人の東洋への憧れ「オリエンタリズム」を逆手にとって、あえて「民俗的」なるものをテーマにする手法だ。近年では、坂本龍一率いる「イエロー・マジック・オーケストラ」が、それで世界制覇ともいえる大成功を収めている。「イエロー・マジック・オーケストラ」は、エスニシズムにさらに現代の日本社会の新しい象徴である「テクノ=コンピュータ」を取り入れ、実に巧妙な戦略をたてたといえるだろう。商業的にいえば、彼らのコンセプトの完全勝利だった。

しかし、伊福部昭の「土俗的な匂い」というものは、それとはまったく違うものだと、わたしは思う。それは民俗を「装った」ものではない。戦略のために「利用」したものでもない。それは、伊福部の血となり肉となり骨となって、体と心に流れていたもの。自分自身そのものだったのだ。つまり、彼の「アイデンティティ」だったといえるだろう。

伊福部は、それを自ら深く掘りさげていったのではないだろうか? そうやって自己の核心にあるものに触れようとしたのではないだろうか? 個人の心の中を、極めて深く掘りさげていくと、やがて我々は、個人を突き抜けて「普遍」なる「原型=アーキタイプ」にまで井戸を掘りさげることができる。そこから湧いてきた水は、民族や時間を超えて、あらゆる人の心を潤すことになる。

伊福部の音楽は、そのような音楽だったのではないか、とわたしは先日の演奏会を聴いてつくづく思った。チェレプニンが感動したというのも、シベリウスが伊福部の音楽を聴いて涙したということも、そのような意味においてだったと確信する。「東洋への甘い憧れ=オリエンタリズム」ゆえだったのではないと思うのだ。

それゆえ、西洋での伊福部の評価の高さは「イエロー・マジック・オーケストラ」への評価の高さと、質的に一線を画すだろう。わたしは、坂本龍一の音楽を愛し、ことに「戦場のメリークリスマス」は、時代を超えて残る名曲であると感じている。しかし、国際社会の坂本龍一評価のなかに、かなりのパーセンテージでの「オリエンタリズム」が混じっているだろうことは、否めないだろうとも感じる。

▼アーキタイプに遡る恐さ
深く深く掘りさげていくということは、ある意味、恐ろしいことだ。自己の原初の場所に踏みこむことができるのは、強い心を持った人のみだろう。原初の時空から流出してくるものは、心地よい美しいものだけではない。何かもっと恐ろしい、生命の根源に渦巻くものが噴出し、日常という穏やかなものを荒々しく飲みこもうとする。

伊福部昭の音楽には、そんな根源のエネルギーが満ち満ちている。どんなに大衆的に、わかりやすくつくられていても、その匂いを感じないではいられない。大地がうねり、もりあがって、我々を飲みこもうとするエネルギー。その大地から再び新たな生が生まれようとするエネルギー。それは、確かに「恐い」ものだ。そして、その「恐さ」がまた、伊福部が地母神信仰的な世界へじかに触れていることの証左に他ならない。

しかし、そのような深淵を、多くの人は覗きたがらない。それを何百万倍にも希釈し、口当たりのいい微かな苦みやスパイスになる程度のものが好まれる。「オリエンタリズム」は、そのように希釈された幻の世界像だ。

▼東洋趣味と西洋崇拝 その成功者たち
「オリエンタリズム」の逆も勿論ある。「ウエスタリズム」とでも名づけるべきこの感受性は、名づける必要もないほど広く深くわたしたちの暮らしのなかに浸透し、当たり前のこととして受容されている。「西洋への憧れ」といえばわかりやすいだろう。西洋的なるものがカッコイイ、すてき。そういう感受性だ。黒人のようなスタイルでラップをする、などというのもその現れのひとつ。宇多田ヒカルの大流行も一つの表われだ。彼女が幼少よりニューヨークで暮らしたこと、バイリンガルとして育ったこと、ニューヨークの音楽を浴びるように育ったこと、そこで生まれた「日本人離れ」した感性。顔も姿もわれわれと同じ日本人なのに、そのような感性を持っていることが、よけい「憧れ感」を強めた。聴衆は、容姿が自分たちに似ている彼女に自分を重ね合わせ、あたかも自分自身がすっかりアメリカナイズされたような幻想を抱くことができる。

話が少し逸れてしまったように見えるけれど、宇多田ヒカルについて、もう少し言及することにする。「日本人離れした」といわれる歌唱力とリズム感を持つ彼女の歌をまとめて聴いたとき、わたしはその曲想が「演歌」であることに驚いてしまった。確かに、アメリカナイズされた衣を隙なくまとっている。けれど、その衣をまとう本質が実は「演歌」なのだ。その旋律や節回しに、なつかしいものを感じる。それが宇多田ヒカルを大ヒットに導いた大きな要因であると、わたしは感じた。限りなく日本人的なのに、表面に現れる意匠はアメリカ的。人々は、そこにシンパシーを抱くのだろう。容姿は限りなく日本人なのに、ふるまいがアメリカナイズされている彼女の外見と同じように。つまり「宇多田ヒカル」とは、安心してアメリカなるものへの憧れを満たしてくれる存在「ウエスタリズム=逆オリエンタリズム」の表象なのだ。

「イエローマジック」も「宇多田ヒカル」も、ある意味で安全圏にいる音楽だ。人に心の深層を見つめさせるわけではない。東洋への憧れも、西洋への憧れも、適度なスパイスのように配合され、人を心底は脅かさない。しかし、伊福部昭の音楽は違う。人を脅かすほどの根源的なものだ。

▼遠音の無国籍的音色と伊福部音楽の土俗的音色
そこで、ようやく「遠音」の音楽に話が戻る。琴と尺八。日本の伝統的なふたつの楽器に、ギターを加えたという編成の音楽。彼らの奏でる音は、不思議な音だった。「音だけ聴いていたら、何の楽器かわからないといわれるんです」と彼ら自身もいうような音なのだ。尺八は、わたしたちがよく知っているかすれた渋い音ではなく、いってみれば太いリコーダーのような、或いはバロック・フルートのような音色だった。フルートまで完成された透明な音色ではないが、どこか西洋的な音だ。でも、すっかり西洋的というわけではないので「何の楽器かわからない」という音になる。琴は、琴としての音色を強固に持っていた。あのテンションの高いつんと鼻が詰まったような音は、隠しようもない。それが琴という楽器の特性なのかもしれない。しかし、その奏法は西洋楽器のアルペジオを思わせた。ところどころに挿入された琴らしい奏法は、実にうまく「オリエンタリズム」として機能していた。そのような意味において、彼らは「琴・尺八」という日本の楽器を、見事に「無国籍化」していたといえるだろう。楽器だけではなく、彼らが奏でると「五木の子守歌」という民謡でさえ、無国籍の匂いがしてくる。それだけに、人を脅かすこともなく、微風に漂うように、心地よくその音楽に漂うことができるのだ。

一方、伊福部昭において、西洋の楽器はどのような音色を奏でていただろうか。5月19日のコンサートの最初に演奏された室内管弦楽曲「土俗的三連画」を聴いて、わたしはぶっとんでしまった。ヴァイオリンはもうヴァイオリンでなく、フルートもフルートではない。いや、ヴァイオリンでありながら、フルートでありながら、同時にその名前を忘れ果て、単なる「音の鳴る道具」と化していた。それは、机の上のコップと同じ。叩けば音が出るという、楽器としての根源的な存在になっていたのだ。ヴァイオリンの背は時に叩かれて「太鼓」になり、フルートはフルートという固有名詞を失って「笛」になる。そのようにして奏でられる音の力強いこと。それは、大地から湧きあがる鼓動。大きなうねりそのものだった。

そのようにして奏でられたヴァイオリンやフルートが「無国籍」な音色だったかというと、そうではない。「国籍」や「洋の東西」などというものを易々と越え、まだそれらの概念の存在しない「土俗的世界」の音、「大地の音」になっていたのだ。

遠音の音は、東洋にも西洋にも、そしてどんな国にも属さない音だった。そのように、地上のどこにも属さない位置を獲得することで、彼らは地上に呪縛されることなく、軽々とイメージを飛翔させる境地を獲得することができた。微風に吹かれながら午睡をまどろむような、夢の世界に遊ぶような、彼らの音楽の心地よさ。それは、記憶の中の薄明かりに浮かぶ、なつかしい故郷の風景に通底する。

▼近代化された北海道としての「ふるさと」
同じ「北海道」から生まれ、北海道という土地を音楽の基底としている遠音と伊福部昭。しかしながら、両者は、ほとんど対極に存在しているといっていいだろう。どうしてそのようなことになったのだろう? それには、両者の「故郷感」「故郷体験」の相違が、大きく影響しているのではないかと、わたしは推測する。

遠音は、コンサートのなかで、繰り返し「ふるさと北海道」のすばらしさについて述べていた。自然の雄大さ、青い空、満天の星、爽やかな空気……。「ふるさと」の景色をなつかしげに語る遠音。そうやって語られる「ふるさと」の風景は、わたしに幼い頃の自分を思いおこさせた。彼らの「ふるさと」は、北海道に限らず、人々の心に眠る「なつかしいふるさと」の風景を呼び起こすものだろう。そう感じながらも、わたしはいつしか、小さな違和感を抱きはじめていた。

彼らがしきりになつかしがる「ふるさと北海道」は、開拓をはじめてからまだ120年しか経ていない。数代前まで、そこはわれわれの「ふるさと」ではなく、異人と獣の跋扈する深い深い森だった。そこに棲む「異人=蝦夷=アイヌ」にとってこそ、そこは「ふるさと」だったのだ。そのふるさとの風景を、倭人であるわたしたちが根こそぎ奪い取って、改変した。森は開拓され、整地され、広大な農地になった。定規で引いたようなまっすぐな道路が地平線まで続き、四角く区切られた農地がどこまでも続いている。そこには、かつてどこまでも続く原生林があったばずだ。飛行機から見る十勝平野の風景は「大自然」というより、完全に人工化された大地の風景だった。

入植して代を重ねれば、そこが新しく生まれた子どものふるさとになる。祖先がアイヌの土地を奪ったことなど、新しく生まれてきた子どもの責任ではないし、それは遠い昔の出来事だ。開拓当初の苦労に満ちた暮らしも、開拓が完了して高い生産性が確保されるに従って、快適で豊かな暮らしになっていっただろう。「文明化」された農業地帯にめぐる四季。荒々しいけれど、守られている人々にとっては、それは恐るべき自然の脅威でもなく、また崇拝し懼れる神々としての大地でもない。

そこに溢れる光の明るさ。吹く風の爽やかさ。わたしは、遠音の音楽に、そんな近代化された北海道の姿を感じた。

▼アイヌの大地としての北海道
しかし、伊福部昭の北海道は違う。土の匂いがふんぷんとし、荒ぶる大地の神々が力強く足を踏みしめて踊る。どこか恐いような風景。それは、穏やかでやさしいふるさとではない。中堪助の『銀の匙』(岩波文庫1999改版)にあるような、大きなものに守られてある幼子の眼から見たやわらかな追憶の風景ではない。

伊福部昭の育った環境のなかに、労働者階級の民謡を聴く機会や、アイヌの音楽に触れる機会があったということは大きいだろう。しかし、わたしはそれだけにとどまらない何かを感じる。伊福部は、やわらかでなつかしい子ども時代の風景を突き抜けて、生まれ育った土地の根源にあるものを見据えようとしたのではないだろうか。それは同時に、自分の心の根源にあるものを見据えることだ。

こういい替えることもできる。伊福部は、子ども時代を過ごしたなつかしい土地、という時間枠を突き抜けて、アイヌ民族が生きた大地としての北海道まで遡った。しかし、そこで民俗音楽あるいはエスニシズムにとどまることなく、さらにそこを突き抜けて、人間の根源としての土俗的風景、にまで到達した。そういうことだったのではないだろうか。

チェレプニンが賞賛したのは、伊福部がオーケストラという西洋の楽器で、東洋的な音楽を生みだしたからではない。伊福部の音楽には、西洋楽器の「西洋」の部分をねじふせてしまうような力があった。楽器は単なる「音の出る道具」として奏でられ、歓喜とともに音楽が立ちあがる。チェレプニンは、そこに音楽が音楽として立ちあがる最初の風景を見たのではないか。原初の力と歓びを発見したのではないか。

▼ひるがえって我が身を思う
そんな伊福部の音楽は、強い。恐くさえある。正直いって、わたしは伊福部の音楽を聴きながら食事をしたくないし、眠りにつきたくない。強すぎるのだ。食事中なら「遠音」がいいし、眠るときもそうだ。心地よく眠りに誘ってくれるだろう。

しかし、わたしが創作者としてどちらの立場をとりたいかと願っているかといえば、確実に伊福部昭である。そのような底力がわたしにはないかもしれない。しかし、それを目指したい気持ちはある。

とはいえ、わたしは新興住宅地という、自然も伝統もない人工環境のなかで育った子どもだ。伊福部が体験した豊かな故郷の記憶は、わたしにはない。そのようなわたしが、伊福部的な「故郷」のイメージを追い求めるのは、とどのつまり「オリエンタリズム」の変形、安易な憧れなのかもしれない。

先住民の文化に強い興味をもって絵本などの制作をすすめているが、時にきびしい批判をいただくのは、そのせいだろう。モンゴルの民話「フフー・ナムジル」を題材にした作品「青いナムジル」に関しても、文化人類学者でありフィールドワーカーの西村幹也氏から、たびたびきびしいご意見をいただいている。「モンゴルの大地に立たずして、モンゴルを語るなかれ」という西村氏の言葉は、わたしのなかの「安易な憧れ」を戒める。しかしまた「モンゴルの大地に立ちさえすれば、モンゴルについてあなたが感じたように書いて構わない」という氏の発想も、ある種「オリエンタリズム」の裏返しではないだろうか、とも思う。しかし、あらゆる伝統と自然から隔離された宇宙植民地のような場所で育ち、いまだモンゴルの大地を踏みしめたことのないわたしには、そのようなことをいう資格すらない。わたしは「ふるさと」の記憶のないレプリカントのようなものだ。空白の「ふるさと」を埋めるべく、先住民の大地へと近づこうとしている。強く焦がれるような憧れを抱いて。

その憧れが、表面的で安易な「オリエンタリズム」に陥らないように、自らを強く戒めたい。

■「海を渡ったアイヌの工芸 英国人医師マンローのコレクションから」展

Wed, 12 Jun 2002 02:48:01

6月9日に会期を終えた北海道開拓記念館での「海を渡ったアイヌの工芸 英国人医師マンローのコレクションから」の図録を電話注文したものが、きょう届いた。ページをめくり、思わず涙がこみあげてきた。このような美しい物をつくった人々の文化を、わたしたちが、ほとんど根こそぎ壊してきてしまったのだ。

収録されている工芸品は、精緻ではあるが、ある意味素朴でもある。工芸品として、徹底的に洗練されつくしたものではなく、強い土の香りがする。ああ、これがアイヌの姿だと感じた。工芸品は、生活の中から生まれたのだ。特定の、特化した職人がいたわけではない。すべての女が刺繍をし、すべての男がイナウを削った。だれもが工芸家であった。そんな世界からやってきた工芸品たちは、素朴であたたかい、やさしい顔をしていた。

そして、そのだれもができたはずのことを、だれもできないことにしてしまうほど、わたしたちはアイヌの人々から、その本来の暮らしを奪ってきてしまったのだ。広大な原生林。それなくしては、アイヌの暮らしはありえない。その原生林を奪い、狩猟を禁止し、入墨の風習や耳飾り、言葉さえも「同化政策」といって、奪ってきた。

生活から生まれた文化は、生活から切り離されて生き延びてはいけない。そうやって、伝統は途絶え、残された物の使い道さえ定かではなくなってきてしまった。

この4月に訪れた釧路のそばの塘路に住むアイヌの工芸家・諏訪良光氏も、そんな状況から独力で道を切りひらいてきた方だった。トンコリという楽器をつくりはじめて10年とのことだが、そのはじまりは「博物館の学芸員に作り方を教わって」というのだ。それを聞いて、わたしは愕然としてしまった。

先日、NHKが、この展覧会のドキュメントを放映した。そこには、エディンバラの博物館に収蔵されているアイヌの工芸品の複製をつくるために派遣された七名のアイヌ工芸家が写されていた。アイヌの工芸家のなかから選ばれた、選り抜きの七名。彼らとて、諏訪さんと何ら変わるところがない。伝統は一度途絶え、彼らは古老から教わるのではなく、そこに残された現物を手がかりに、手探りでつくっていかなければならない。工芸家のなかには、アイヌ刺繍をはじめてまだ数年という主婦の方までいた。アイヌの工芸家の層は、そこまで薄くなっている。わたしたちはそこまで徹底的に森を搾取し、森に依存したアイヌの文化を破壊してきてしまったのだ。

そうやって失われた文化を復元したとしても、その文化を育んだ生活そのものまで取り戻すことはできない。時間の流れは不可逆だ。その残酷さ、無念さ。そんななかで、必死にその精神を復活しようとしている人々の姿を見て、深く感動するとともに、わたしはそれを奪った側の強者の立場の人間だということに、なんともいわれぬ複雑な心持ちになった。

さて、この展覧会は、ある意味で画期的な展覧会だったという。博物館の学芸員だけが企画するのではなく、企画段階からアイヌの現役の工芸家たちとともに話し合い、つくられたからだ。図録には、このように書かれている。
世界の動きに目をやれば、もう10年も前から展示を通した博物館と先住民のありかたが議論されてきました。展示する側と展示される側の関係です。(中略)展示する側と展示される側とが、徹底的な対話により展示を作り上げていく。こうした方法によるアイヌ文化に関する展示会は、残念ながら、これまでにはありませんでした。
アイヌの工芸家たちが訪れた、エディンバラの国立博物館に所蔵されているアイヌの工芸品を蒐集したのが、スコットランドの医師であり、文化人類学者でもあったマンロー博士だった。マンローは、自ら二風谷に住み、アイヌの精神に触れようとした。そして、二風谷でこの世を去っていった。キリスト教でアイヌを導こうとしたバチェラーと対極の思想を持っていたマンロー。そのマンローや二風谷と深い関わりがあった作曲家伊福部昭とその係累の学者たち。見えない糸がつながっている。その糸を少しずつたぐりながら、アイヌの文化に少しずつ踏みいっていきたい。

「海を渡ったアイヌの工芸 英国人医師マンローのコレクションから」は、7月27日〜9月1日まで、横浜にある神奈川県立歴史博物館に巡回される。間近にアイヌのすばらしい工芸品の数々を見られることを楽しみにしている。

http://www.hmh.pref.hokkaido.jp/Tokuten/53tokuten.htm

■もうひとつの馬頭琴伝説『フフー・ナムジル』

Mon, 10 Jun 2002 02:08:39

2001年4月 町田の嵯峨治彦コンサート会場にていただいたビラを転載します。これは、西村幹也さんが制作されたものです。わたしは、この一枚のビラをきっかけに「青いナムジル」の絵本化を思い立ちました。西村幹也さんに深く感謝します。
〈以下引用〉
モンゴルの楽器と聞けば最初に思い浮かべるのが馬頭琴(モリン・ホール)だろう。あの優しい音色に魅了されてしまった人は少なくないはずである。モンゴル人達の間には馬頭琴に関する物語が沢山存在する。地方によって皆それぞれ違うのだ。たとえば日本人にとってもっとも有名な話は「スーホの白い馬」だろう。小学校の教科書で読んだ人も多いはずである。ところがこの話はモンゴル国ではあまりポピュラーではない。実は、中国内モンゴルの話なのだ。モンゴル国では「フフー・ナムジル」という話をよく聞く。今回はこの「フフー・ナムジル」の話を紹介しよう。

※文中の「馬軍」は「馬群」かも?

 昔、モンゴルの東の方にフフー・ナムジルという男の中の男がいました。彼はとても歌が上手だということで非常に有名でした。
 ある日、フフー・ナムジルは兵役でモンゴルの西の端に行くことになりました。ところが彼が歌が上手いことを軍の上官は知り、軍役をさせる代わりに3年近くの間、歌を歌わせるだけでした。
 兵役が終わろうというときにその土地のある美しい娘と知り合いました。フフー・ナムジルが兵役を終えるときに、その娘は「ジョノン・ハル」という馬を記念に贈りました。
 この馬は
 草むら根をまき散らし
 石や小石を粉々にし
 すそ野の小石も粉々にし
 デールの縫い目を引き裂いて
 切り立った岩場に
 足を滑らすこともなく
 茂みにつまずくことなく
 疾駆する。
 羽を持つ鳥に
 後れをとることなく
 普通の馬では比較にならず
 馬軍の中では一際目立ち
 良い馬としての特徴を
 完璧に備え
 主人のために心を尽くし
 良き男の友となる。
 このように素晴らしい馬でした。

 フフー・ナムジルがその馬に乗って故郷に戻ると人々は感心し、また彼がこの馬以外には乗らないのでびっくりしていました。
 いつもフフー・ナムジルはジョノン・ハルに乗ってモンゴルの西の端まで馬軍を追っては戻ってきていました。こうして3年経ちましたが、彼がどうやってそんなに遠くへ行ってこれるのか、人々は判りませんでした。
 さて、フフー・ナムジルの家の近くに金持ちの家族が住んでいました。その金持ちの家にはいつも周りの人々を困らせたり、仲の良い二人がいると水を差したりする意地悪な娘がいました。なんとこの娘はジョノン・ハルが普通の馬ではないことを前々から知っていたので、フフー・ナムジルを困らせてやろうと企てたのでした。フフー・ナムジルは愛する娘に会うためにいつも夕方から出かけ、その日の夜に馬軍を追いながら戻り、ジョノン・ハルの汗をとってやり、夜明けに放牧に出すために自分はそれまで家で休むのでした。
 ところがそんなある日、例の意地悪な娘は馬の蹄の音を聞き、馬つなぎ(オヤー)にこっそり近づきました。ジョノン・ハルは邪な心を持つものがいるとも知らずに、主人が来たこと喜び、胸を張って、汗をかいた体を張り、足踏みをして、両の脇から魔法の力強い翼を広げました。
 それを見た意地悪な娘は、すぐさま駆け戻って、裁ちばさみを袖に隠し持ってきて、ジョノン・ハルの翼を切り捨ててしまいました。素晴らしいジョノン・ハルは魔法の翼を切り取られてしまい、間もなく死んでしまいました。
 夜が明けて、馬を放牧に出そうとフフー・ナムジルが家を出ると、最高の友であった馬が馬つなぎ場で死んでいました。彼は胸が張り裂けんばかりに深く嘆き悲しみました。
 そしてフフー・ナムジルはジョノン・ハルの頭に似せて木を彫り、作った頭に長い柄を付けて先に音の出る部分を作り、駿馬の尻尾を縦に張って、樹脂を塗り込んで、ジョノン・ハルのいななく声や歩み、疾駆する様をその楽器で表せるようにしました。
 これより馬の頭のついた琴がモンゴルに広がり始めたのです。〈引用終わり〉

■青いナムジル/なぜこの物語を絵本化しようと思ったのか?

Mon, 10 Jun 2002 01:57:53

わたしが「フフー・ナムジル」という物語に出会ったのは、昨年の2001年4月、町田で開催された嵯峨治彦氏のコンサート会場だった。そこでもらったビラに、この物語が記されていたのだ。コンサートの主催者は、モンゴル情報誌「しゃがあ」の西村幹也氏。ビラも、西村氏が制作したものだった。

コンサートでは『スーホの白い馬』の朗読が行われた。しかし、そのビラには『スーホの白い馬』は、現地モンゴル国では、馬頭琴伝説としてはむしろマイナーなものであり、「フフー・ナムジル」の方がよく知られているのだと記されていたのだ。わたしは驚いてしまった。なぜなら、「ナムジル」の話は、一度も耳にしたことがなかったからだ。

馬頭琴伝説といえば『スーホの白い馬』しか、頭に浮かばなかった。なぜそうなったのか。それは『スーホの白い馬』が絵本化され、広く人々に知られることになったからに他ならない。これでは、片手落ちではないか、とわたしはその場で思った。いってみれば、日本で誰もが知っている「桃太郎」を外国の人が知らず、わたしたちがあまり知らないマイナーな物語が日本の民話として流布しているようなものだ。ぜひ「ナムジル」も絵本化されなければ、と思った。

しかし、わたしがそれを手がけようと思ったいちばんの理由は、それではなかった。そこに書かれたナムジルの物語に、強く心惹かれたからだ。恋人に逢いにいくために翼をはやした馬が、夜通し草原を駈けていく。なんという壮大な、美しい場面だろう。わたしの言葉で、この物語を語り直したい。わたしはその時、強くそう思ったのだ。それだけの魅力を、その物語は持っていた。

つまり、2001年ヴァージョンの、寮美千子による「語り直し」がしたくなったのだ。この物語は元々口承文芸として語り伝えられたものだった。それが海を渡って日本に来て、新たに語り直される。わたしが最初にイメージしたのは、そのようなことだ。

例えば、みんながよく知っている「因幡の白兎」という民話。あれは日本では「因幡」と限定されて知られているけれど、実はインドネシアにも、海のない中国の奥地にも、同じ話が伝わっているという。もちろん、そこでは地名は「因幡」ではなく、助けてくれた神さまの名前も「大国主命」ではない。そのように、物語は物語として語られ、伝わっていくうちに、それぞれそこの土地でそこの物語として再生してきた。日本民話という範疇でみても、同じ民話が、それこそ千万のヴァリエーションで各地で語られている。

その時、大切なのは物語の「肝」だ。それをもう一度自分の口から語り直したいと思わせるような物語の肝。強い魅力。その魅力は、伝えられていっても損なわれることはない。むしろ、その肝があるからこそ、たとえ千万の変化を遂げても、その物語が同じ物語であると同定できるわけだ。

いま、あの時の自分の心をよく見つめてみると、そのような物語の肝に触れて電撃が走り、それを語り直したいという欲望が、わたしを動かした原動力だったと思う。そして、わたしが望んでいたのは、わたしが感じたその肝を伝えること。原作をねじまげ、わたしだけの「ナムジル」を作ることが、わたしの目的ではなかった。だからといって「モンゴルの文化を正確に伝えたい」というのとも少し違う。むしろ、同じモンゴロイドの物語に共感した自分の感動を伝えたい、というスタンスといえるかもしれない。最初に述べたように『スーホの白い馬』だけが知られているという不公平を、少しでも緩和できないか、という気持ちもあった。第一、わたしは『スーホの白い馬』が好きではない。お金持ちが一方的に酷すぎて、話が悲しすぎ、わたしにとってはつらすぎる物語だったからだ。

しかしながら、これはモンゴルの物語だ。モンゴルに失礼になるようなことだけはしたくない。例えば「日本ではゲイシャが朝食にスシを食べている」というような描写はしたくなかった。また、わたしは「原作」が与えてくれる力についても敬意を払っていた。その周辺にまつわる話をよく聞くことが出来るなら、より多くのイマジネーションを得られるだろう。

そういった理由で、前述の「フフー・ナムジル」のビラを書いた西村幹也氏に取材を申しこんだ。ともかくも「ナムジル」に関するお話を聞かせて欲しいというお願いだった。絵本化の構想も伝えた。偶然にも、西村氏の本拠地は相模原市。わたしの自宅から徒歩十分ほどのところだ。天の恵み、とわたしは思った。これなら、地の利を生かして、いろいろとお伺いできるし、交流もできる。そのなかで「ナムジル」の絵本化を具体化していきたいと思っていたのだ。

しかし、当時西村氏は、博士論文でお忙しいとのこと。何度か連絡をとらせていただいたが、結局お目にかかることはできなかった。そして、夏は所属していらっしゃる大阪の民族学博物館の大学院へと、長期に出向かれるとのことだった。わたしは、大阪の住所をお伺いして拙著の『父は空 母は大地』をお送りした。そして秋に相模原に戻られて落ち着かれた後に、お目にかかりたいと再度お願いしたのだった。

しかし、秋になって再度取材を申し込んでも、やはり会っていただくことはできなかった。お忙しいとのこと。せっかく出会った物語だ。このまま埋もれさせてしまうのは惜しい。そう思っている折に、わたしが非常勤講師を勤める和光大学に、バー・ボルドー氏という、内モンゴルからいらした講師の方がいることを知った。さっそくボルドー氏に連絡をとったところ、氏は快く了承してくださり、大学でお話を聞かせていただいた。

遊牧民の子どもとして育ったというボルドーさんのお話は、わたしにはとても魅力的なものだった。話していて、目の前にモンゴルの青空が、大草原が広がるような気持ちがした。馬頭琴を聞かせるとラクダが涙を流すということ。乳をやらないラクダに馬頭琴を聞かせると、心安らいで乳をやるようになるということを聞いたのも、ボルドーさんからだ。天気がいいと、気持ちよくて、馬のうえで思わず口笛を吹く、ということを、目の前に見えるようにいきいきと語ってくださった。羊飼いにもうまいヘタがあり、羊をよく太らせることができる羊飼いは、よい羊飼いとして人々から一目置かれる、などという話も聞かせてもらった。

そのひとつひとつが、骨子しかなかった物語の肉づけになっていった。そのようにして、わたしは初稿の「青いナムジル」を書いたのだ。

以上が「青いナムジル」を書いた経緯である。そこから、さらに「モンゴル民族との距離」「民話を正確に伝えているか」「馬を実感できているか」など、新たな課題が生まれてきた。真摯に受けとめたいと思っている。

■「ゴジラの時代展」ワークショップ参加レポート/公共美術館の公共性を問う

Sun, 09 Jun 2002 17:10:50

昨日6月8日は、岡本太郎美術館で開催中の「ゴジラの時代展」のワークショップに参加した。真夏を思わせる日差しのなか、キックボードを蹴って向ヶ丘遊園の駅から生田緑地へ。メタセコイアの森を抜けて会場につくと、そこにはドロンコ氏が。さらには、美術評論家の椹木野衣氏もいて、同行した松永青年も含めて、参加者二十名ほどのうち四名は怪しげな大人。小学生も四名、残りの十名弱が割合に若い人々だった。

最初はヤノベケンジ氏自身によるヤノベ作品の紹介。ビデオが流れ、それにヤノベ氏が解説をつけていく。これは小学生にはちょっとむずかしく、退屈そうでみんなもぞもぞとしていて、かわいそうだった。

次は、特撮映画の造形作家であり、最新作のゴジラの着ぐるみ制作を担当した品田冬樹氏による「怪獣映画レクチャー」。アメリカの「キングコング」をはじめとする、世界の特撮SF映画の断片を次から次へと映写。小学生たちが思わず身を乗り出して見ているのがほほえましかった。

そして、全員が「ゴジラの時代展」の展示室へ。品田氏の解説を聞きながら、会場をひとめぐり。一番のハイライトは、品田氏自身が制作したゴジラの解説。思わず、目の高さほどもある展示台の上によじのぼり「目は上瞼、下瞼、両方動くんですよ」「胸も動くようにつくったんだけど、映画ではそれを見せる機会がなかったのが残念」といって、ゴジラの胸をわさわさと揺すって見せてくれた。制作者本人でなくてはできないこと。そのようにして説明したくなってしまう品田氏の情熱もじかに伝わってきて、来てよかったと感じられる一瞬だった。

しかしながら、その後は、各時代のゴジラ映画のポスターのパネル展示の前に立ち、それぞれの映画の説明に終始。ゴジラを愛する品田氏自らの解説は迫力があり、熱も伝わってきて、ゴジラをより知りたいと思う人には、とても有意義な解説だったと思う。しかし、小学生たちは飽きちゃう。わたしもまた飽きちゃう。わたしはまあ、いつどんなところでどんな興味深い解説を聞いても、どうしてもじっとしていられなくなってしまう多動児みたいな人だからしょうがないけれど、小学生にはちょっと気の毒だった。

ここでは、展示の方法についても少なからず疑問を感じてしまった。後で、ヤノベ氏とも語ることになったのだが「デパートのゴジラ展と、どこが違うだろう?」という疑問だ。いくつかの模型の展示。台本の展示。そして残りは、年代分けしたゴジラ映画のポスター展示。各年代のところには、その時代に起きた主な出来事や、流行語が整理されたパネルが展示されている。そして、それだけ。各時代の出来事とゴジラ映画のポスターを並列してみました、ということ以外、なんの工夫も見られない。これは、どうしたことか? ここは、岡本太郎美術館だ。せめて、岡本太郎の「太陽の塔」と「ゴジラ」を関連づけることはできなかったのか? そこで時代を読み解き、ポップ・カルチャーと時代の美の意識などを掘り下げる方法論はなかったのか?

ヤノベケンジ氏のワークショップの最初の企画は「ゴジラ対太陽の塔」という模擬映画を撮影しようというものだった。その企画提示の方法に「公共性」という観点が欠けていたのでは?といううらみはあるものの、そのように連動させようとした意識自体は高く評価されるべきものであったと、このおざなりな展示を見て、はじめてそう感じた。

また、十二時半から四時間という長丁場のワークショップの内容についても、岡本太郎美術館側の対応の甘さを感じないではいられなかった。実は、当初このワークショップは初日は「十五歳以上」二日目は「二十歳以上」と限定されていた。つまり、お子さま向けのワークショップではなく、歴然と大人相手のワークショップとして企画されたわけだ。ヤノベ氏も、品田氏も、それを前提として内容を企画されたものだと思う。

ところが、人が集まらないことに危機を感じたせいか、六月四日の時点では、なぜか両方とも「十歳以上」という規定に変更されていた。つまり、ターゲットを大人に絞ったワークショップではなくなり、もともと大人向けに企画されたものに、子どもが混じることになったわけだ。そのため、子どもたちは、大人向けの解説を二時間も聞かなければならなくなった。せめて「内容は十五歳以上向けで、怪獣映画の歴史の解説など、むずかしいところも前半二時間ほどありますが、ご了承の上ご参加ください」との但し書きがあればともかく、それもなし。ほんとうなら、子どもの参加は、「実際に怪獣の絵を描いてみる」の後半二時間でもよかったはず。たとえ、子ども相手であろうと、市民が「自分の貴重な時間を割いてやってくる」ということに対する配慮の欠如した対応だったと思う。

わたしは、黒沢明監督の「生きる」に描かれて以来綿々と変わらずにある、このような「お役所仕事」の公共意識の欠如に対して、大層イカッテいるのだが、そのことはいずれここレビューで詳しく説明したいと思う。とはいえ、ここで一言だけ言えば、問題は確かにお役所側にあるが、それだけではないということだ。そのサービスを受ける市民の方に、きちんとした権利意識があって、そのことに不平の声をあげていけば、そのような公共性の欠如は、徐々に消えていくはず。ところが、そう感じる人が少ない。または、感じても声をあげない。それもまた、われわれの権利を疎外する要因のひとつではないだろうか。権利を疎外されたと感じない人々は、市民の側から公共の側、つまりある種の権力を行使できる側に回ったとき、やはり同じように「公共の利益」や「市民の権利」を考えない人になるに違いない。それでは、世界は一向に住みよくならない。

わたしたちは博物館や美術館の展示やワークショップについて「まあ、ささいなことだから、大目に見て」といわずに、きちんと考え、考えたことを声にだしてフィードバックしていかなければならないと思う。そのような小さなことの積み重ねが、より気持ちのいい世界をつくっていく方法だと思う。

さて、そんなわけで、対象がはっきりしなくなった今回のワークショップ。小学生諸君が退屈したからといって、その責任はヤノベ氏や品田氏に帰せられるべきではない。彼らは、ワークショップ開催直前にそれを告げられたはずだ。(告げられなかった可能性も)。突然の変更に、対応できなくても仕方ない。そのような突然の変更をした岡本太郎美術館側の泥縄式の対応が責められるべきだ。それは、講師として招聘したアーティストに対しても失礼なことだ。「そんなことないよ。結構楽しかったよ」と講師がいうのなら、それは講師が、聞きにくる人々の人権について、あまりに無頓着だということになる。まあ、そんなふうにはいわないかもしれないけれど。

ということで、いよいよ実践のワークショップ。光溢れるガラス張りの創作室に、色鉛筆とクレヨン、きれいに削られた鉛筆とスケッチブックが用意され、ゴジラと戦うべき怪獣を描くことになった。この怪獣は広く公募されているもので、それに応募してきた二百点あまりの怪獣も閲覧でき、またゴジラや怪獣に関する画集、動物図鑑なども自由に閲覧できた。賞も出る公募であり、応募作品を閲覧できる、ということに関しては、厳密にいえば反則である。このワークショップで描かれた作品も、公募作品と同列に扱われることが前提のワークショップだからだ。すでに応募された作品を見て、そこれを真似、さらに進化させた作品をここで制作することもできるわけで、そうなると、既応募者の権利が侵害されたことになる。岡本太郎美術館は「賞」などというものを出しておきながら、このような人々の権利問題について、かなり「ユルイ」と思わざるを得ない。

ヤノベ氏、品田氏との対話も交えながらの和気藹々の二時間。提出された作品は驚くほど多様で、新しい映画の怪獣キャラクターを模索する品田氏も「思わぬ収穫」とうなるほど。どんな作品が提出されたかについては、まだ審査前なのでここでは詳しく触れることができないが、差し支えのない範囲でいえば、公害や複雑な人間関係などの問題が、怪獣の形をとった作品が思いの外多かった。人々が、それだけ不安を強く感じていることの現れだろう。また、椹木野衣氏の作品は「墓場から現われたスーパーカーの怪獣」という強烈なもので、意味性を超越し、深い無意識の底から直結して出てきたような形状をしていて、息を飲んだ。やはり、ただ者ではない。

以上が「ゴジラの時代展」ワークショップに関する概要のレポートである。「ゴジラの時代展」は「ゴジラ」の名の許にお客を集め、開館記念展以来の来場者数だという。そうやってせっかく人を集めた展示が、このように創意工夫のないものであり、純粋に「お子さま向き」のエンターティメント性もなければ、逆に「岡本太郎」や「現代芸術との接点」を探るものでもない、中途半端なモノであったことを、大変残念なことに思う。

ヤノベ氏との会話から考えたもろもろのことなどは、また別の機会に書きたい。

最後にひとつ、付け加えたいことがある。「ゴジラの時代展」では、壁に文字や模様を映写する装置を使っていた。この映写機が、最新作のゴジラの足許に置いてあったのだが、これはちょうど、わたし(身長155センチ)の目の高さにきっちりと合っていた。そのため、壁に映写されるべき光が、わたしの目にまともに入り、目の前でフラッシュをたかれたような状態になって、一瞬目の奥が痛く焼きつくように感じ、その後しばらく残像が消えず、目が痛かった。その痛みと残像は、品田氏の解説が終了するまで、一時間近く続いた。このような映写装置は、お客の目に直接入らない位置から映写されるべきである。すぐに、そばにいた美術館関係者にそのことを伝えたが「あの光は温度が高いわけじゃないから、目が焼きつくなんてことはありえませんよ」といわれた。ひどい対応である。厳重に抗議したい。

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