寮美千子の意見発表の場です。ご意見ご感想はCafe LunatiqueまたはCafe Lumiereへ。
⇒日記インデックスへ ⇒簡易検索 ⇒最新の記事へ
Sat, 22 Jun 2002 02:42:57
わたしの体に 血がめぐるように▼
木々のなかを 樹液が流れている。
わたしは この大地の一部で
大地は わたし自身なのだ。
大地は わたしたちに属しているのではない。
わたしたちが 大地に属しているのだ。
あらゆるものが つながっている。
わたしたちが この命の織り物を織ったのではない。
わたしたちは そのなかの 一本の糸にすぎないのだ。>『父は空 母は大地』より
Thu, 20 Jun 2002 01:11:21
Wed, 19 Jun 2002 06:08:57
【NHKのサイトより転載】▼『世界がもし100人の村だったら』の功罪
「世界には63億人の人がいますが、もしもそれを100人の村に縮めるとどうなるでしょう」。
世界の民族・宗教問題や圧倒的な富の偏在を「100人の村」に例えて説き、未来の希望をつづったメルヘン「世界がもし100人の村だったら」。英語圏のどこかで始まったこのチェーン・メールは、去年の3月に日本に上陸、共感した人々が次々に転送してネットの海をかけめぐった。とりわけ、去年の同時多発テロ事件以降、新聞のコラムでもとりあげられてブームはさらに加速、12月には絵本として出版されてベストセラーとなった。
この「物語」の原典は、「成長の限界」の著書で昨年2月に他界したアメリカの環境学者ドネラ=メドウズと言われる。彼女が90年に書いた新聞コラムを誰かが「改作」してネットの海に放り込んだ。それにさまざまな手が加わって「成長」したのである。
絵本をまとめた口承文学研究所の池田香代子さんは、史上もっとも成功したこのチェーン・メールの生成過程を今も調べ続けている。「100人の村」は、なぜ人々の心をこれほどまでにつかんだのか。
番組ではメールの内容やその生成過程を描くとともに、テロ事件以降、メールマガジン「21世紀へようこそ」で社会的発言をつづける作家の池澤夏樹さんが、池田さんと語り合う。
【インパラへのメール】チェーンメールの危険性については、これだけで十分説明ができているはずだ。そして、その危険を避ける方法も明示してある。しかし、翌26日にインパラから戻ってきた返事は、このようなものだった。
「転送可」情報の危険性について、このごろ考えることがあります。
もし、悪意の人が書き換えをして転送することがあるとしたら、
どこでそれを確かめられるのか?
原文の発信元に問い合わせなければなりません。
発信元に確かめて「書き換えも間違いもありません」
ということを確認しない限り、
いくら転送したいよい情報でも、
その情報が正しい情報である根拠がないため、
転送者として責任を持って転送することができません。
これに関して、とても簡単に解決できる方法があります。
発信者のHP上に載せることです。
そして、そのURLを明記して発信することで、
受信者はその情報が間違いないものか、
改変されていないか、確かめることができるわけです。
インターネット時代。
正しい情報も、そうでないものも、簡単に流通できるようになりました。
それだけデマも簡単に広がるし、
悪意ある人が改ざんした「転送情報」を流すことで、
発信者を傷つけたり、情報操作をすることができます。
そのような可能性を少しでもなくし、
正しい情報をただしく伝えるために、
ぜひHPに原文をご掲載いただけるよう、お願い申し上げます。
【インパラからの返答】リスクの問題ではなく、正しい情報流通のための基本理念について注意を促したつもりだったのだが、まったく理解してない様子だった。メールマガジンにするという告知があったのは10月1日の8号。BCCの同報メールからメールマガジンにした理由は、このように記されていた。
貴重なご意見をありがとうございました。
善意のネットワークの広がりを期待していますが、確かにおっしゃる
リスクも否定できないと思います。
できるだけ早くに正式なメール・マガジンとして発行する体制を整える予定です。
その後にHPでも掲載することを考えています。
でも、ともかく急がなくてはと、パーソナル・メールの形で配信を始めました。
これまでパーソナルに発信をしてきましたが、そろそろ個人のメール・ソフトでの登録・発信作業に限界が見えてきました。そのため、メール・マガジン発行サイトに窓口を開設し、本日より、新規のお申し込みはこちらで手続きしていただけます。情報発信の責任の持ち方、という本質には、ここでもまったく触れられていない。そして、すぐにあたれる元情報がないままの「転送可」の問題点をはっきりと指摘したにかかわらず、「転送は自由です」という言葉も消えていなかった。
Tue, 18 Jun 2002 16:22:54
▼「フフー.ナムジル」には妻がいた
ぼくの知っている「フフー.ナムジル」は、故郷に妻がいて、任地で別の女性と「浮気」をする物語だ。妻は、夜な夜な浮気相手に会いに行くナムジルに嫉妬し、馬を殺しています。いまのところそれ以外のヴァージョンをぼくは知らない。モンゴル語だけでなく英語でも(たぶんロシア語でも)同じ話が再話されており、おそらくこれがオリジナルの話だと考えてよいと思う。
▼モンゴルにおける性の概念
モンゴルでは、性に関してかなりオープン。全般におおらかな雰囲気がある。女性も積極的。そんなわけで、浮気とか不倫といっても日本で思うような隠微な雰囲気とはかけ離れたニュアンスである。「フフー・ナムジル」の物語にしても、ナムジルは浮気をしているわけだが、それでも、モンゴルの人々は深く共感して悲しみ、純真に涙を流すのである。大地から湧きあがるような大らかな性のエネルギー。彼らには、それをまっすぐに認める心情がある。
▼基底となる価値観の相違
しかしながら、これは基底となる文化の相違もある。この物語をそのまま「妻ある男の不倫の物語」としてダイレクトに日本に移植しても、違和感を持たれてしまうだろう。前提としての文化の相違、物の考え方・感じ方の相違を理解してもらった上でないと「妻ある男の不倫の物語」が、そのまま純粋に哀しみをそそる純情物語にはならない。結局、広く深い文化理解なしには、物語も正しくは理解できないわけだ。
▼他者の文化を歪みなく伝えるには?
だからといって、すべての人にその理解を求めてからでないと、物語も音楽も持ちこんではいけない、と極論してしまっても意味がない。正しく伝えたいが、絶対に正しく伝える、ということは事実上不可能な以上、自分にとれる最善の策をとるしかない。他者の文化をなるべく歪みなく伝えるには、一体どうしたらいいか。
▼個性と民族性のせめぎあい
しかしまた、ぼくは一人の演奏家でもある。歪みなく伝えることは大切だが、しかしそこにはぼく自身の音楽もあるはずだ。そこに、ぼくの心の中の葛藤があり、ぎりぎりのせめぎあいがある。ぼく自身でありながら、しかも本物を損なわないためにはどうしたらいいのか?
ぼくが、繰り返し現地に足を運ぶのは、そのためでもある。少しでも多く触れて、本物を実感したいからだ。今回の西モンゴルへの旅では、エスニック集団(民族よりも部族といったニュアンスに近い集団)の音楽をちょっとづつ聞くことが出来た。二週間という短期間だったので、聴いた曲は全部でせいぜい20曲くらいだった。
▼必ず「オリジナル」をたどろうとする努力
歌を採集する時、必ず「いつ、どこで、だれから教えてもらったのか?」を詳しく聞きだして、記録している。「古い歌だ」といわれても、実は割合新しく作られた歌だったり、また作曲者もわかっているような流行歌だということもある。
ともかくも、ぼくは「オリジナル」がどこにあるのか。それをできうる限り探っていきたいと思っている。それが、ぼくにとっての異文化への「誠実」であると思っている。
▼重訳の問題点と第一話者の重要性について
『スーホの白い馬』として日本語に訳されているものはいくつもあるが、ほとんどの作品は中国語からの再話のようだ。モンゴル語でスフ(あるいはスヘ)という主人公の名前が、「スーホ」、「スホー」、「スーホー」などのバリエーションで訳されている。それは、「スフ」が中国語読みで「スーフー」になってしまうからだ。
トゥバの話でもロシア語から日本語に再話されると変な読み方になっているときがある。ひどいときにはトゥバ語をロシア語に直したものが英語訳されたものを、和訳してある場合があり、伝言ゲームのようになってしまうことがままある。
いままでは仕方なかったのだろうが、できるだけ第一話者の言語から再話しないと、おかしなことがいっぱいおこって来る。
たとえば、日本語をドイツ語に訳したものから英語訳するような場合を考えてください。ワタシはヴァタシに変化する可能性が考えられますよね。
Sat, 15 Jun 2002 20:24:52
▼強い夏の陽射し
モンゴルの草原の夏の直射日光は強烈。日陰らしい日陰のない草原で、羊たちは寄り集まり、頭を低くして、お互いの体の隙間にぎゅっと頭を突っ込み、ひと塊になってじっとしている。
▼雲を追いかける
大きな雲がゆっくりと流れてくることがある。子供の時はその雲の影を追いかけて、気がつくと遠くへ行ってしまったことがある。すると、ゲルに戻るのがたいへん。
▼口笛
天気がいい日、草原を馬で駈けるとほんとうに気持ちがいい。そんな時、男たちは馬を走らせながら、思わず口笛をヒューと吹く。口笛といっても、日本で普通にいう口笛とはちょっと違ったもの。唇は尖らせず、舌と歯の間から勢いよく空気を吹きだす。上手な人は楽器のような音が出せます。でも、夜口笛をすると不吉と言われます。
▼駱駝
若い羊や山羊などが子嫌いになって乳を飲ませないことがよくあります。その時は、女性が「トェッグ・トェッグ」という言葉をリズムをつけて繰り返し歌いますと、親羊や山羊は感動してか?子供に乳を飲ませるようになります。モンゴル語ではトェッグラホと言います。
同じように、 若い駱駝の母親が、子どもを嫌って、乳をやらないことがある。そんなときはトェッグラホではなく、馬頭琴を弾いて聞かせます。馬頭琴がない場合は民謡を歌う場合もあります。すると、駱駝は涙を流し、子どもに乳をやるようになる。馬頭琴を弾ける人がいないとき、人はそれを風にかざす。すると、馬頭琴は歌うような音を立て、やっぱり駱駝は子どもに乳をやるようになる。これは、お話ではなく、実話である。
▼駱駝の妊娠と出産
駱駝の妊娠期間は12ヶ月と長く、駱駝は2年に一度しか子を産まない。出産は冬、1月過ぎ。妊娠している駱駝に重い荷を担がせることはない。
▼すぐれた羊飼い
草を求めて、遊牧民は移動しながら暮らす。すぐれた羊飼いは、羊を効率よくよい草の生えたところに連れていき、まるまると太らせる。男も女も羊の放牧をしますが、男は一喝するだけで、羊の動きを変えることができます。でも、乳搾りや子羊の世話をするのはやはり女性です。馬飼いに比べて羊飼いは地味な存在ですが、腕のいい羊飼いと して一目置かれる。
▼野宿
遠い草場に連れていくとき、羊飼いは野宿することがある。その時、一晩中火を焚く。ことに、狼の遠吠えが聴こえる場所では、羊たちを守るために、何カ所もで火を焚く。木の枝を立てて、そこに服を着せて、即席の案山子をつくることもある。空には満天の星、暗い草原に燃えるいくつもの炎はとても美しい。
▼子どもの仕事
夏は 朝夕、乳搾りをする前に子牛に母牛のおっぱいを吸わせる。乳が出るようになったところで、子牛を母牛から引き離し、ゼルという地面に引いた縄につないでおく。その時、子牛は、乳を吸いたがって離されまいとがんばるが、子どもが子牛の首紐から一生懸命をひっぱって、母牛のところに行かないようにする。それは時間の無駄なく手際よく乳を搾るためですが、子供たちのそうしたお手伝いも自然に力を身につけられますね。それが、子どもの朝夕のお手伝い。子牛の飲む分は、ちゃんと残してあげる。
▼朝の音
おとうさんは寝坊。小さい子どもたちも寝坊。おかあさんが早起きをしてまず、かまどに火を起こす。火打ち石のカチカチという音、そしてお茶をいれるために、お茶の葉を小さな臼で突く音が、モンゴルの朝の音。外からは、子羊たちの声も聴こえてくる。今では、マッチやライターで火をつけるので、昔の懐かしい音が聞こえなくなりましたね。
▼お茶の葉
日本では「だん茶」と呼んだりするが、ぎゅっと固め、圧縮させたもの。使うだけ欠削って、小さな臼と杵で突いて粉々にし、お茶をいれる。削ったお茶はティーバックのような小さな袋にいれることが多い。
▼朝の風景
それぞれのゲルから、朝の炊事の煙がたちのぼる。牛糞を焚く煙。よく晴れた風のない美しい日には、その煙はまっすぐにたちのぼり、上空でひとつになって、小さな雲になる。それは美しくなつかしい故郷の朝の風景。
▼煙草入れ
遊牧民の男は、たいがい、短剣といっしょに、腰の後ろにさげている。きれいな刺繍などがついている。女が、心を込めて刺繍した煙草入れを男に渡すのは、西洋で いえば、バレンタインの日に好きな男性にチョコレートを贈るようなものである。でも、贈るのは一人の男性だけだよ。逆に男性は頭巾やハンカチをプレゼントすることが多い。
▼遊牧集団
定住生活ではないので、こちらの感覚で言う「村」はない。あるのは、遊牧の集団。夏と冬、組立式のテント「ゲル」を移動して生活する。この集団を「ホト・アイル」という。アイルは家を意味し、ホトは集団を意味する。2世帯以上いっしょに暮らしていれば「ホト・アイル」。その「ホト」という言葉が後に人のたくさん集まった都市も表すようになったと思います。
▼死
「木の家を出て、岩場に棲む」とか、「フェルトのゲルを離れて、日当たりのいい所に行く」という言葉がある。これは、死ぬという意味。モンゴルでは土葬をするので、そのような言葉ができた。死者を日当たりの良い、斜面のあるところ、モンゴル語では「エンゲル・ガザル」に葬るのが普通です。
▼埋葬
遺体は焼かずに草原に埋める。つまり、土葬。埋葬のために、決められた特定の場所はない。埋めたあと、昔はたくさん馬を走らせて草を踏み散らし、あえて、どこに埋めたのかわからなくする習慣があったと言う。墓というものはない。もちろん墓参りもありません。体は土に還るが、シャーマニズム 的概念では、魂は天に還り、また天から降臨する。
▼流れ星
流れ星は不吉。流れ星が流れると、どこかで人が死んだといわれる。もともと中国的な考えかもしれません。
▼天の河
モンゴルでは天の河のことを「天の縫い目」と呼ぶ。
▼デール
モンゴルの民族服に「デール」というものがある。襟がついているのが普通。こんなことわざもある。 「デールには襟がある。人には兄がいる」 なにごとにも「上」がある、目上の者は尊敬しなければならない、という意味。「日本の諺でいうと、「蜂にも上下の礼あり」「鳩にも三枝の礼あり」に近いと思います。
Fri, 14 Jun 2002 22:58:46
遠TONE音の故郷は、雄大な北海道。誰もが心の中に仕舞い込んでいる音の記憶を音楽にしました。遥かな地平線、軽やかに薫る風、ゆっくりと過ぎていく時間を、お聴かせします。流れるような美しい旋律。軽やかな演奏。北海道の夏の日の風のように爽やかな心地よい演奏だった。わたしは、緑の香りする微風に吹かれるように、その音楽に身を浸していた。しかし、そうしながらも、わたしのなかで、微かな違和感が軋むのを感じないではいられなかった。わたしのなかに、強く印象づけられたもうひとつの「北海道音楽」伊福部昭を思わずにはいられなかったからだ。
Wed, 12 Jun 2002 02:48:01
世界の動きに目をやれば、もう10年も前から展示を通した博物館と先住民のありかたが議論されてきました。展示する側と展示される側の関係です。(中略)展示する側と展示される側とが、徹底的な対話により展示を作り上げていく。こうした方法によるアイヌ文化に関する展示会は、残念ながら、これまでにはありませんでした。アイヌの工芸家たちが訪れた、エディンバラの国立博物館に所蔵されているアイヌの工芸品を蒐集したのが、スコットランドの医師であり、文化人類学者でもあったマンロー博士だった。マンローは、自ら二風谷に住み、アイヌの精神に触れようとした。そして、二風谷でこの世を去っていった。キリスト教でアイヌを導こうとしたバチェラーと対極の思想を持っていたマンロー。そのマンローや二風谷と深い関わりがあった作曲家伊福部昭とその係累の学者たち。見えない糸がつながっている。その糸を少しずつたぐりながら、アイヌの文化に少しずつ踏みいっていきたい。
Mon, 10 Jun 2002 02:08:39
〈以下引用〉
モンゴルの楽器と聞けば最初に思い浮かべるのが馬頭琴(モリン・ホール)だろう。あの優しい音色に魅了されてしまった人は少なくないはずである。モンゴル人達の間には馬頭琴に関する物語が沢山存在する。地方によって皆それぞれ違うのだ。たとえば日本人にとってもっとも有名な話は「スーホの白い馬」だろう。小学校の教科書で読んだ人も多いはずである。ところがこの話はモンゴル国ではあまりポピュラーではない。実は、中国内モンゴルの話なのだ。モンゴル国では「フフー・ナムジル」という話をよく聞く。今回はこの「フフー・ナムジル」の話を紹介しよう。
※文中の「馬軍」は「馬群」かも?
昔、モンゴルの東の方にフフー・ナムジルという男の中の男がいました。彼はとても歌が上手だということで非常に有名でした。
ある日、フフー・ナムジルは兵役でモンゴルの西の端に行くことになりました。ところが彼が歌が上手いことを軍の上官は知り、軍役をさせる代わりに3年近くの間、歌を歌わせるだけでした。
兵役が終わろうというときにその土地のある美しい娘と知り合いました。フフー・ナムジルが兵役を終えるときに、その娘は「ジョノン・ハル」という馬を記念に贈りました。
この馬は
草むら根をまき散らし
石や小石を粉々にし
すそ野の小石も粉々にし
デールの縫い目を引き裂いて
切り立った岩場に
足を滑らすこともなく
茂みにつまずくことなく
疾駆する。
羽を持つ鳥に
後れをとることなく
普通の馬では比較にならず
馬軍の中では一際目立ち
良い馬としての特徴を
完璧に備え
主人のために心を尽くし
良き男の友となる。
このように素晴らしい馬でした。
フフー・ナムジルがその馬に乗って故郷に戻ると人々は感心し、また彼がこの馬以外には乗らないのでびっくりしていました。
いつもフフー・ナムジルはジョノン・ハルに乗ってモンゴルの西の端まで馬軍を追っては戻ってきていました。こうして3年経ちましたが、彼がどうやってそんなに遠くへ行ってこれるのか、人々は判りませんでした。
さて、フフー・ナムジルの家の近くに金持ちの家族が住んでいました。その金持ちの家にはいつも周りの人々を困らせたり、仲の良い二人がいると水を差したりする意地悪な娘がいました。なんとこの娘はジョノン・ハルが普通の馬ではないことを前々から知っていたので、フフー・ナムジルを困らせてやろうと企てたのでした。フフー・ナムジルは愛する娘に会うためにいつも夕方から出かけ、その日の夜に馬軍を追いながら戻り、ジョノン・ハルの汗をとってやり、夜明けに放牧に出すために自分はそれまで家で休むのでした。
ところがそんなある日、例の意地悪な娘は馬の蹄の音を聞き、馬つなぎ(オヤー)にこっそり近づきました。ジョノン・ハルは邪な心を持つものがいるとも知らずに、主人が来たこと喜び、胸を張って、汗をかいた体を張り、足踏みをして、両の脇から魔法の力強い翼を広げました。
それを見た意地悪な娘は、すぐさま駆け戻って、裁ちばさみを袖に隠し持ってきて、ジョノン・ハルの翼を切り捨ててしまいました。素晴らしいジョノン・ハルは魔法の翼を切り取られてしまい、間もなく死んでしまいました。
夜が明けて、馬を放牧に出そうとフフー・ナムジルが家を出ると、最高の友であった馬が馬つなぎ場で死んでいました。彼は胸が張り裂けんばかりに深く嘆き悲しみました。
そしてフフー・ナムジルはジョノン・ハルの頭に似せて木を彫り、作った頭に長い柄を付けて先に音の出る部分を作り、駿馬の尻尾を縦に張って、樹脂を塗り込んで、ジョノン・ハルのいななく声や歩み、疾駆する様をその楽器で表せるようにしました。
これより馬の頭のついた琴がモンゴルに広がり始めたのです。〈引用終わり〉
Mon, 10 Jun 2002 01:57:53
Sun, 09 Jun 2002 17:10:50