ハルモニア 隕石標本/寮美千子の発表原稿

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■童話講座:「ハリー・ポッター」と「賢治の意志」!?/『The Writing Magazine』2000年12月 バベルプレス

寮 美千子

「商品」を目指すのか、「作品」を書きたいのか

 イギリスで書かれた『ハリー・ポッターと賢者の石』が、世界中で売れに売れている。読んでいて、文句なしに楽しい。読み終わった後にはほとんど何も残らず、ただ楽しさの記憶だけが漂う。これぞまさにエンターティメント童話だ。一方で宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』のような、難解で謎に満ちた哲学的作品も童話と呼ばれる。読み終えると、否応なしに胸に何かを刻みこまれてしまう作品だ。いまこの瞬間、まばゆく燃えあがる「商品」と、星のように静かに輝き続ける「作品」。あなたなら、どちらの童話を選ぶだろう。
 というわけで、最初に、はっきりさせておきたい。童話には二種類ある。「作品」と「商品」だ。その違いは何か。言葉の定義なんてややこしいことを厳密にしても仕方ないから、ごくおおざっぱに言ってみよう。
 自分が書きたくて書くもの、自分の内側から否応なしににじみ出てくるものを、仮に「作品」と呼ぶことにしよう。「芸術作品」と言い換えてもいいかもしれない。
 一方、売るために書かれたものを「商品」と呼ぶことにする。これは「こんなものが欲しい」という外部からの要請によって書かれたもので「業務用商品」と呼んでもいい。
 「作品」と「商品」、どちらがより優れているかなどということは、一概にはいえない。業務用商品としても立派に通用する作品もあるし、消費され続ける業務用商品のなかにも、時として芸術的価値の高いものもある。つまり「商品」と「作品」は、重なるところのない集合ではなく、「芸術的商品」もあれば「業務用作品」も存在するということだ。ひとりの人間が、時と場合によって「作品」と「商品」を使い分けることもあるだろう。
 要は、そのどちらに軸足を置いて書くかだ。書く側の意識によって、作り方は、まったく変わってくる。

自分の童話を「商品」として流通させるには

 「ともかく出版したい」「本にしたい」「童話で収入を得たい」というのであれば、はじめから「商品」を目指すのが得策だ。この場合の童話作家とは、腕のいい「童話職人」であると割り切った方がいい。これならば、かなり話は早い。
 童話職人になる道はいろいろあるが、どこかの賞に入選してデビューというのが手っ取り早い。また、カルチャーセンターなどの童話講座に通って、そこで講師にコネをつくり、出版社などに紹介してもらって、積極的に売り込むという方法もある。いきなり編集部に持ちこむという手もあるが、編集者はみんなひどくいそがしいので、この手は見込み薄である。入選するためには、こんな点に留意したい。

1.入選を目指すなら、その賞の過去の受賞作をチェックしておく。主催者が、賞に何を求めているのかがわかるだろう。それに「合わせてあげること」も大切。「真に新しいものを求める」なんて審査基準でいっていても、大抵は口先だけ。真に新しかったら、大抵入賞できないことを肝に銘じよう。彼らが欲しいのは「新しい才能」などではない。即戦力となる商品なのだ。
2.ただし、歴史の新しい賞の場合は、その限りではない。残念ながら主催者が求めるような作品の応募がなかったために、仕方なくB級作品に賞を与えた、ということもなきしにしもあらずだからだ。新しい作品で勝負したい人は、新設の賞が狙い目である。
3.原稿は、応募方法に基づいて、きちんと読みやすくまとめること。「童話だから」と、ヘタにリボンなどかけてファンシーにしたり、目立とうとしてやたら題字に凝ったりすると、大抵はうんざりされて、損をする。
4.「わかりやすい、やさしい言葉」で書くことを心がけよう。特に幼年童話であれば、全部ひらがなで書いても、きちんと意味の通じるものでなくてはならない。
5.必ず、声に出して読んでみること。子どものための作品は、リズムが大切。読んでみて、どうにもつっかかるところは、リズムが悪いからだ。なんども試して、気持ちよく声にできるように書き直そう。
6.ヘタの考え休むに似たり、である。パクれるものは、なんでもパクろう。というと人聞きが悪いが、魅力的なものはなんでも取り入れて、よく消化して自分のものにしよう。ことに、人々に長く語り継がれてきた民話には、人を引きつけて飽きさせない力強い骨格がある。シンプルな筋であることも、童話にもってこいだ。アイテムを現代風なものに入れ替えるだけでも、新しく魅力的な作品になる可能性も充分ある。
7.腕のいい職人を目指すなら、すでに流通している業務用商品を浴びるように大量に読むことも一手だ。童話に限らず、アニメ、ゲームなど、なんでも取りこもう。一体いま、何が世間に受け入れられているのか、それをかぎわける臭覚を発達させよう。
8.いくら腕のいい職人でも、技だけではだめ。魂がこもっていなければ、商品は「よくできた屍」同然になってしまう。つまり、なんの魅力もないものになる。商品に命を与えるためには、どうしたらいいのか。魂を与えればいい。では、魂とは何か。これがいちばん大切なことなのだが、子どもという読者を面白がらせるために書くのであっても、その前に、まず自分自身が面白がらなければならない。大人の目線から見おろして、子どもが喜びそうなものを与えてやる、という態度では、だめ。だれもが、かつては子どもだった。そして、いまでも自分のなかに子どもの心が息づいているはずだ。「内なる子ども」それが童話の魂に他ならない。内なる子どもに回帰しよう。そして、その子どもを思いっきり遊ばせてやろう。いたずらも禁止しない。子どもが泣きたがっているのだったら、好きなだけ泣かせてやろう。それができれば、商品はいきいきと魅力的に輝いてくるはずだ。

「オリジナリティ」など目指す必要はない

 そのようなウェルメイドな商品を量産することができれば、あなたの活躍する場所はいくらでもあるといっても差し支えない。
 出版は、自転車操業の業界である。雑誌でも単行本でも、常に「消費される商品」を求めている。「保育絵本」と呼ばれる幼稚園や保育園で配られる絵本にしても、十社余りの出版社が、対象年齢別に複数の雑誌を毎月出しているのだから、ざっと数えても毎月五十話ほどの、新しい童話が求められているわけだ。すごい数である。
 しかし、実際にその書き手を見てみると、決まりきった何人かが、あちこちぐるぐる廻って書いているような状態だ。それだけ、人材がないのだと思ってもいいだろう。「商品」と割り切ることのできない、中途半端な童話を書く人ならいくらでもいるが、きちんと「商品」を作れる職人が少ないのだ。
 そんな市場に求められているのは、口当たりがよくて、なるべく多くの人に受け入れられるような商品。過度のオリジナリティは、むしろ邪魔である。どこかで見たことのあるような、安心できるものがほしい。子ども向けだから、毒のない、ほんわかとあったかいものがいい。できれば、そこにほんのスパイス程度に「新しさ」が加わっていれば最高だ。
 というわけで、オリジナリティもスパイス程度の当たり障りのないものが、毎月生産され、消費されている。もちろん、すべての編集者と出版社がそうだとは限らないが、まあ大方はそんなところだと思った方がいい。
 読んでいるときは心底楽しくて、読み終わるとなにも残らない。ただ面白かった、楽しかったなあと言う気分だけが残る。もちろん、そんな童話があってもいい。人生に、意味のない楽しいだけの時間があっても、構いはしないのだ。意味ばかり求めていたら、だれだって息が詰まってしまうだろう。楽しいだけの本を読んで、気持ちよく人生の時間を過ごしていくことができたら、それはそれですてきなことではないか。
 そんな商品を量産できる童話職人がいるとしたら、それは大きな才能だ。そして、それを「業務」としてだけでなく、自らの楽しみとして書くことができたら、なんとしあわせなことだろうか。その人の「内なる子ども」の魂は、そこで跳ね、走り、歌い、歓喜するだろう。そんな人にとって、きっと人生はむずかしくない。この社会は、ひとつの大きな遊園地だ。真昼の輝きの中をどこまでも駈けていけばいい。しあわせな人は、その周りをもしあわせにするのだから。

世間の波乗りが苦手な「生きにくい」人

 ところが世の中そのようなしあわせな人ばかりとは限らない。生まれ落ちたこの世界が、いま自分が呼吸するこの社会が、なぜか自分にフィットしないと感じ、生きることに困難を感じてしまう人がいる。
 実は、そのような人に限って、物を書きたがるのだ。書くことによって、自分のなかの違和感の源泉を確認したいという欲求もあるだろう。苦しい現実を生き抜くために、心やすらぐ風景や状態を思い浮かべて癒されたいという気持ちもあるかもしれない。さらには、生きるとはどういうことか、命とはなんなのか、根源的なところに遡って突き詰めずにはいられない人もいるだろう。宮澤賢治も、そのような人の一人だったに違いない。
 そのような内的欲求に基づいて書かれたものは、どうしても「作品」よりになってしまう。エンターテイメントというよりは、より純文学的な方向に偏りがちだ。
 そして、当然のことながら、最初から最大公約数が楽しめるために書かれた「商品」と肩を並べ、商業的に勝負をしようとすると、かなりむずかしいことになる。勢い、出版の機会も少なくなり、苦戦を強いられることになる。
 しかし、仕方ないのだ。そのような資質を持って生まれてしまったからには、どっちみち「エンターテイメントだけで充分しあわせ」というわけにはいかない。どうせそうなら、それを引き受けるしかないのだ。といっても「作品」だからと自己満足しているだけでは、あんまり面白くない。せっかくだから、「作品」でありながらも、それが「商品」としても充分通用するだけの、パワーあるものを書こうという志を持とうではないか。

わたしにとっての童話

 というわけで、ここから「作品」について語りたいのだけれど、これがまた厄介だ。というのも、それぞれの内的必然性に基づいて書かれるものを、ハウツーで一括して語るわけにはいかないし、語っても意味がないからだ。結局のところ、語れるのは己のことでしかない。たいへん申し訳ないが「わたしにとっての童話」について書かせてもらおう。
 わたしがほんとうの意味で童話と出会ったのは、高校生になってからだった。宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』をはじめとする一連の童話、稲垣足穂の『一千一秒物語』、サン=テグジュペリの『星の王子さま』に出会い、深く傾倒した。どれも、かなり純文学よりの作品である。それらに心打たれたのは、わたしのなかに呼応するなにかがあったからだろう。
 その時、童話に抱いたイメージはこんなものだった。
 世界はややこしい。いろんなものがこんがらがっている。でも、それを解きほぐして、どんどん要素に分解していけば、とてもシンプルな形になるのではないか。ややこしい数式を因数分解すると、すっきりとした式になって、その構造がよく見えるように、世界はすっきりとその本質的な姿を現わすのではないか。小説とはややこしい世界を、ややこしいまま精密に描写してみせるものかもしれない。いわば、世界を微分する装置だ。けれども童話は、きっと世界を因数分解してみせるのだ。
 そして、世界の本質に迫れば迫るほど、根源に遡れば遡るほど、世界はシンプルな元素に還元され、そこから大きな広がりを感じさせるのではないか。想像力の自由なはばたきを可能にしてくれるのではないか。
 「居心地の悪い世界に閉じこめられている」という強い閉塞感を感じていたわたしにとって、それは、大きな救いであった。有限だと思っていた自分の居場所が、実は無限の空間に向かって大きく開かれていると感じるような歓びがあった。
 というわけで、大人になって童話を書こうと思い立ってからも「子どものための作品を書く」という意識はまったくなかった。あくまでも「わたしのために書く」というスタンスだったのだ。
 このようなものが、発表のチャンスを得ることはむずかしいのは当然だ。はじめから「商品」を意識していないからだ。けれどもわたしは、作品を発表したかった。きっと、世界というものとなにがしかの方法でつながりたかったのだと思う。このままでは永久に作品を発表することができないと危ぶんだわたしは、まず賞に応募して入選することを第一に目指すことにした。一旦発表することができれば、その後「ほんとうに書きたいもの」を書いても、編集者に注目してもらえると思ったのだ。
 入選を第一義に考え、合理的に「傾向と対策」を考えて応募すると、まんまと思い通り最優秀賞を受賞することができた。「なんだ、現実は結構チョロイじゃないか。これで一点突破した」と、その時のわたしは不遜にも思った。
 ところが、現実がそんなに簡単なはずがない。ほんとうに書きたかったものを書いて編集者に見せると「これは、あなたの本質ではない。もっと明るく、あなたらしい元気のいいものを」と言われてしまうのだ。結局、彼らが求めていたのは「商品」であり「作品」ではないのだと思いしらされるまで、そう時間はかからなかった。
 仕事は舞いこんだが「傾向と対策」に合わせて書いたウェルメイドの「商品」としての作風を求められることは、当時のわたしにとって苦痛になっていった。当時の雑誌インタビューにも「自業自得です」などと自嘲気味に答えている。
 当時のわたしに、エンターテイメント商品をつくることを歓びと思える資質があれば、そんなふうに感じないでもすんだだろう。もっと自由に、水を得た魚のように、楽しげに業界を泳ぎ廻ることもできたかもしれない。そうであったら、どんなに楽しかっただろうか。けれども、残念ながらわたしにはその資質がなかったのだ。
 というわけで、根源まで遡って考えずにはいられない根暗な自分を引き受け、腹をくくってほんとうに書きたい「作品」を書こうと決意せざるをえないところに、わたしは追いこまれていった。そして、そうやって書いた「作品」が「商品」としての価値も認められ、出版にこぎつけるパワーを持つまでに、さらに四年の月日を費やすことになったのだ。
 しかし、そのようにしてほんとうに書きたかったもので勝負をかけてからというもの、状況は一気に変化した。わたしが「何を書きたい人か」ということが理解され、それをよしとする編集者が作品を依頼してくるようになったからだ。
 依頼してきた編集者の担当する雑誌が、どうみてもわたしの作風と合わないものだったとき、不安にかられながら「ほんとうに、書きたいものを書いて、いいんですね」と何度、念を押しただろう。もう二度と依頼がこなくなるのではないかと恐れたのだ。ところが、意外なことに、その雑誌に載っているほかの作品と全く毛色が違っても、なぜか次の依頼がやってくるのだ。編集者が、わたしの資質を認めてくれたからに他ならない。
 結局は「外側に合わせる」のではなく「自分がほんとうにやりたいことをやる」ことが、フィットしないと思っていた世界を、自分にとって居心地の悪くないところにするための早道なのだと気づいたのだった。
 「書きたいものを書ける」という安心感があると、気持ちに余裕が生まれ、ただ楽しいだけの、幼児向けエンターティメントの作品も、楽しみながら書けるようになった。もともと、わたしのなかにはそのような要素もあったらしい。ただ、自分にとってもっと切実な問題をクリアできなかったので、それを楽しむ余裕もなかったのだ。かつて、わたしの本質を「明るく元気」と言った編集者も、ほんとうはわたしの一部を見抜いていたのかもしれない。

まず「書け」、そして「書き終わること」

 そんなわけで「書きたい」と思う人は、自分が一体なにを書きたいのかを知ることが大切だ。しかし、そんなものは、実際に書いてみなければわからないのだ。
 第一にアドヴァイスしたいのは「書け」である。「わたし、いつか童話を書きたいんです」というばかりで書かなければ、一歩も前へ進めない。まずは、書いてみる。そして、書きあげることだ。どんな形でもいい、物語をおしまいまで書いてみよう。
 物語のアイデアばかりいくつも抱えていても、結局は力にならない。書き終わらない作品を溜めこんでいても、同じことだ。不本意であろうとどうであろうと、ともかく最後まで書いてみること。そうしなければ、人に読んでもらうことさえできない。
 最後まで書いてみる経験を積むと、徐々に力がついてくる。これはもう、絶対に確かなことだ。毎日腕立て伏せをしていると、いつのまにか筋力がついているようなものである。
 さて、そうやって書いているうちに、少しずつ自分の資質が明らかになってくるだろう。
 エンターテイメントを書くことが楽しくてたまらない自分がいるかもしれない。それは、とてもしあわせなことだということは前述した。自分が面白いと思うことと、最大公約数が面白いと思うことが一致しているということは、とてもラッキーなことだ。世界は、すでにあなたに微笑んでいる。『ハリー・ポッター』の作者に微笑んだように。
 しかし、そうでない場合もある。ふつうの童話を書こうと思ったのに、できあがってみると、どうも違う。ほかのものとちっとも似ていない。それは、ヘタなのではなくて、きっと資質が違うのだ。自分で自分の資質を読み違えているのかもしれない。
 それがなんであるのか、できあがった童話のなかから、自分で発見するしかない。そして、それこそがあなたの「オリジナリティ」なのだ。あなたが、あなたであるゆえに出てくる、この宇宙にひとつしかない、かけがえのないものなのだ。
 だからといって、孤独とは限らない。そのオリジナリティを本質まで遡ってみよう。自分のなかに、どんどん深く降りていってみよう。根源までいけば、人は必ずどこかで通じている。日常の表面に見えるような場所ではないところで、もっともっと深いところで、あなたに深く共感する人々がいるはずだ。
 しかし、そのようなことも「書いてみる」という行為なしに、わかるものではない。稀に、自分の資質をはじめからわかっている人もいるが、たいがい、そんなふうにはうまくはいかない。書くという行為を積み重ねるなかで、自分がほんとうに求めるもの、欲しかったものが見えてくるものなのだ。エッチラオッチラ山にのぼると、ようやく歩いてきた風景を俯瞰できるように、そして、これから歩いていく道が見えてくるように「書きあげる」という行為のなかで、自分を知り、自分の行く先を見通していけるものなのだと思う。

「陽気な職人」か「気むずかしい芸術家」か

 童話を「商品」として流通させるための戦略、のところで書いたことは「作品」としての童話を書こうとするときには、ほとんど有効ではない。むしろ、害になることさえある。しかし、ひとつだけ共通する部分がある。それは「内なる子ども」を存分に遊ばせ、歓ばせてやるということだ。
 あなたが子どもだった頃、世界はどんなふうに見えただろう。暗闇には怪物がひそんではいなかったか。道の終わるところまで、どこまでも歩いていきたいと思わなかったか。きれいに螺旋を描く貝殻を、だれがつくったと思っていただろう。日毎に新しいものに出会い、世界は驚きの連続ではなかったか。
 当たり前のことを、当たり前だと思って感動を失ってしまう前の、無垢な心を取り戻そう。それは単に「子どもに引き返す」ことではない。世界というものを等身大で捉え、社会の荒波のなかで健気に生きてきた自分。世間を生き抜いていくために、武器として身につけざるをえなかった常識や固定概念。それを、一度勇気を持って振り払い、一歩前に歩みだして、まっさらな自分になるのだ。その眼で、世界を発見し直すのだ。
 それは、とりもなおさず、自分を発見し直すことに他ならない。最小限のシンプルな言葉で書かれた童話は、子どもにとっても大人にとっても、魅力あるものになるはずだ。子どもは子どもなりの、大人は大人なりの心の深度で受けとめるだろう。
 満ち足りている人は、満月のように満ち足りた童話を書けばいい。時流に乗って、存分に楽しむのもすばらしいことだ。けれども、欠けた月には、豊かな深い影がある。その影をも見つめ、だからこそ書ける童話を書くことだってできる。「陽気な職人」になるか「気むずかしい芸術家」になるかは、あなた次第だ。そして、その両方を統合した、懐深い「童話作家」になることも、あなたなら、もしかしたらできるのかもしれない。

■ペムペルとネリはどうしてそんなにかわいそうなのか――「悲しみの起源の神話」としての『黄いろのトマト』/『季刊ぱろる4 宮澤賢治といふ現象』 1996年9月

寮 美千子

 十五歳の夏、文庫本で 『黄いろのトマト』を読んだ。
読みながら、涙が溢れてきた。読み終えて本を閉じたとたん、がまんがならなくなって、わたしは机につっぷして泣いた。声をあげ、手放しで泣いた。そんなにまで、この物語は十五歳のわたしに悲しかった。どうしてそんなに悲しかったのか、その話からしようと思う。

■『黄いろのトマト』という物語

 ペムペルとネリという兄妹がいる。両親はいない。いないというより、その世界では両親などというものが存在しないかのように描かれている。ふたりは、ふたりっきりで青いガラスの家に住み、赤いガラスの水車場で小麦をひいたり、黄色いガラスの納屋に穫れたキャベツを運んだりして、実にたのしく暮らしていた。
 まるで海の底のように見える厚いガラスの家のなかで、ふたりは歌をうたう。声は外に洩れない。ふたりだけで歌う、ふたりだけに聞こえる歌。なんという甘美な幻想。まるで、永遠の羊水に漂いながら抱擁をつづける双子の胎児のようだ。
 そんなペムペルとネリに、悲しい竜件が起きてしまう。
「ペムペルはほんとうにいゝ子なんだけれどもかあいさうなことをした。
 ネリも全くかあいらしい女の子だったのにかあいそうなことをした。」語り手の蜂雀は、何度も何度もそう繰り返す。そして、その悲しさに耐えられないというように、口をつぐんでしまう。やっと話しだした 「かあいさうなこと」とは、こんなことだった。
 ふたりはトマトを植えていた。そのなかの一本が、なぜか黄色い実をつけた。
「『にいさま、あのトマトどうしてあんなに光るんでせうね』
 ペムペルは唇に指をあててしばらく考えてから答へていた。
『黄金だよ。黄金だからあんなに光るんだ』」
ふたりはそのトマトをとても大切にして、手も触れずに過ごす。
 そんなある日、街にサーカスがやってきて、楽隊の音色が聞こえてくる。
「まるでまるでいゝ音なんだ。切れ切れになって飛んではくるけれど、まるですゞらんやヘリオトロープのいゝかをりさへするんだらう、その昔がだよ。」
ふたりはいてもたってもいられなくなって、音をたどっていく。するとサーカスの行列に出会う。象や黒人など、ふたりがいままで見たこともない異形の者たちの行列だ。行列はやがて町はずれの天幕にたどりつく。
「看板のうしろからは、さっきの音が盛んに起った。
 けれどもあんまり近くで聞くと、そんなにすてきな音ぢゃない。
 たゞの楽隊だったんだい。
 たゞその昔が、野原を通っていく途中、だんだん音がかすれるほど、花のにおひがついて行ったんだ。」
それはひとつの警告だったのかもしれない。ふたりはそれでもサーカスに魅了されたまま、離れられない。サーカスを見るには黄金が必要だ。しかし、ペムペルには持ちあわせがない。そこで、ネリにそこで待つようにいって、家まで走って帰る。戻ってきたペムペルの手には黄金のトマトがあった。ネリは悦んで飛びあがり、ふたりは黄金のトマトを番人に渡してサーカスに入ろうとする。
 もちろん、それが通用するわけがない。
「『なんだ。この餓鬼め。人をばかにしやがるな。』」
 番人はトマトを投げつけ、それはネリの耳にひどくあたり、人々はどっと笑う。
 ふたりは泣きながら、昼に象を追いかけてきた道を戻っていく。語り手の蜂雀は言う。
「ああいふかなしいことを、お前はきっと知らないよ」 蜂雀の話を聞いていた子どもは、泣きながら戻っていく。そういうお話だ。

■『黄いろのトマト』のどこがそんなに悲しいのか?

 この物語のどこが、そんなにも悲しかったのか。黄色いトマトを黄金だと無邪気に信じられる子どもの純粋さ。黄色いトマトとサーカスひとつとを交換できると素朴に思える子どもの無垢な心。それを理解しない心ない大人、あるいはたとえ理解したとしてもそれを受容することのできない大人の世界の悲しさ。無邪気な子どもの夢は常に冷たい現実にぶちあたって砕け散らざるを得ないことの悲しさ。
 というようなものではさらさらない。そんなものでは、絶対になかった。わたしが悲しかったのは、ペムペルのことだ。彼が黄色いトマトをサーカス見物と交換しようと思いついた、そのことなのだ。そのとき、ペムペルは自らで自らを楽園から追放した。だから、悲しいのだ。際限なく悲しいのだ。
 それがなぜ悲しいことなのか、説明するのはひどい蛇足のようにも思われるけれど、あえて語らせてもらおう。
 畑に黄色いトマトが実ったとき、ふたりはそれを「黄金」だと思った。ここでいう「黄金」とは、すばらしいもの、立派なもの、美しいものの象徴だ。それは、その美しさだけで世界から屹立している。美しさはまっすぐにペムペルの心に届き、彼にはそれを感受する能力がある。ネリも兄とともに黄色のトマトの美しさ立派さを共有する。だからこそ、大切にして手も触れなかった。
 そう、世界はほんとうは美しいもので満ちているのだ。子どもたちは、それを知っている。風に舞う花びらを掌いっぱいに拾いあつめる。蜘昧の巣に結んだ銀色の雫に見とれる。海岸で波に洗われていたガラスのかけらを宝物にする。ただ美しいというだけで、そこに絶対的価値を見いだす能力が子どもにはある。「黄色のトマト」は、それら美しいものたちの脊属のひとつだったのだ。
 それが価値があるのは、その瞬間、それが輝いているからだ。他に理由はない。珍しい貴重な物だからでも、所有できるものだからでも、他の何かと交換できるからでもない。どんなにありふれていても、どんなにはかなくても、たとえ自分のものにならなくても、なんの役にもたたなくても、きれいなものはきれい、すてきなものはすてき。つまりそれは、存在そのものが輝いているということだ。子どもは、世界の輝きを直に感じとる。存在そのものと、直に交感する。
 存在の輝きは、それぞれの固有さから発する。決して何かと「交換」したりできるような類のものではない。何ものとも交換できないということが輝きの本質なのだ。世界のすべては、本来交換不可能なものからできている。すべては、かえがえのない存在だということだ。
 それなのにペムペルは、そこに交換の原理を持ちこもうとした。「黄金のトマト」を「サーカス見物」などというものと交換しようとしたのだ。確かにそれは魅惑的だった。そう見えるようにつくられているのだから。けれど、遠くからは美しいと思った音楽が、近づいてみれば興ざめな代物だということにペムペルはすでに気づいていた。それなのに、彼はサーカスに魅了された。そのうすっぺらな魅力に捕われて、かけがえのない輝きと交換しようとしたのだ。「黄色のトマト=黄金=お金」という等式を成立させて。
 これは決定的な誤謬だった。なぜなら「美しく立派なもの」を意味する「黄金」は、「あらゆるものと交換可能なもの」を意味する「お金=黄金」とは絶対に重ならないものだからだ。
 そして、こんな等式が世間に通用するはずがない。黄金のトマトは、ただのうらなりの黄色いトマトとしてさげすまれ、価値のないものに貶められる。番人は怒り、人々は嘲笑する。
 取り返しがつかない。
 トマトは投げつけられネリの耳にひどくあたり、ネリの心は深く傷つく。人々に笑われてふたりは逃げだす。ペムペルもたまらなくなって、丘まで走ってきてにわかに高く泣きだす。泣きながら、駈けてゆく。ふたりの心のなかで燦然と輝いていた黄金のトマトは、情けないうらなりのトマトになってしまった。それはもう二度と、かつてのように輝くことはないだろう。この出来事を、ふたりは決して忘れることはないだろう。いつまでも傷になって残るだろう。それを拭い去ることは永久にできない。楽園は、一点の傷もなく汚れもないからこそ、楽園だった。それが傷ついてしまったいま、もう楽園はない。ふたりは二度と、あの結晶質の透明なエロスの世界に戻れない。
 そうなったのは、だれのせいか? 他者を責めることもできる。番人がいけない、笑った人々がいけない、世界の方がいけないんだとわめき散らして、自分をごまかすこともできるだろう。自分を護るにはいい方法だ。実際そう言って生きてゆく人はたくさんいる。けれど、そうするにはペムペルは、あまりにも混じりつけのない魂の持ち主だった。自分が何をしでかしたか、きっと彼にははっきりと見えてしまっていたのだ。すでに見えているものをごまかすことはできない。見えすぎるということもまた、ある種の不幸かもしれない。
 それに、番人にどれだけの罪があるだろう? それが彼の職務で、そうしなければ、彼はこの世で生きてゆけないのだから。すべては交換可能であるという約束のうえに世間は成立している。世間は、はじめから失楽園であることを前提に成立しているのだ。
 悪いのは、他ならぬ自分自身、心のなかの輝きを、たかがサーカス見物と交換しようなんて、あさましいことを思いついたペムペルにあるのだ。その瞬間、彼は「ほんとうの子ども」である資格を失った。その座から、自分で自分を蹴落とした。
 自分のしたことで自分だけが苦しむなら、まだあきらめもつく。大切な妹の心まで傷つけ、楽園追放の道連れにしてしまった。取り返しがつかない。そう思うほどに、自分への悔しさがつのる。どんなに自分を責めても、もうふたりの楽園は戻ってこない。帰るべき楽園は、この世から永久に失われてしまった。
 そして、それがきっと「大人になる」ということなのだ。
 十五歳のわたしは、そう思って、限りなく悲しくなった。きっといま、自分が立っている場所がペムペルのいた場所。そう思うほどに涙がとめどなく溢れてきた。

■『黄いろのトマト』はなぜかくも複雑な構造をしているのか?

 ところで、この物語は実に複雑な構造をしている。事件の起こった場所から、それが記録される場所までが、恐ろしく遠い。この物語を記したのは博物館十六等官のキュステ。物語は、まずそれが彼が子どもの頃の回想であるということで「時間」で隔たれ、しかも本人の体験ではなく、蜂雀からの伝聞であるということで「空間」で隔たれている。その蜂雀にしてもすでに剥製になっていて過去の思い出を語るのだから、さらにまた途方もなく深い「時間」によってキュステから隔てられているのだ。版によっては、キュステが書いたものをさらに宮澤賢治が訳述したという形式をとっている。まるでプルトニウムでも扱うかのように、注意深く何重にもかけられたプロテクト。その向こうに、ようやく物語はある。物語はなぜ、こんなにも複雑な手続きを経なければ語られなかったのか。
 結論を急げば、それはこの物語があまりにも悲しすぎるからではないか、とわたしは思う。悲しみのあまり危険なほどに。
 「世界」は本来、交換不可能な独自の存在から成り立っている。人はみな、その世界のかけらとして生まれてくる。だから、子どもたちには存在の輝きを直に感じとる力があるのだ。けれど「人間社会=世間」は、すべてが交換可能であるという約束のうえに成り立っている。「世界」と「世間」は、はじめから相反しているのだ。しかも、人間は世間を離れては生きてはいけない。世界のかけらの一片として生まれた子どもは、いつしか交換原理を認めて大人になり、世間と交わっていかなければならない。そうしなければ、この地上で生きのびていくことはできないのだ。
 楽園を失ったのはペムペルひとりではない。すべての子どもはいつしか、楽園を失わなければならない運命にある。すべての大人たちは、かつて楽園を失った記憶を持つ。
 もっと悲しいことに、人は何者かに強制されるのではなく、多くの場合自ら楽園を放棄してしまうのだ。ペムペルのように。
 それはペムペルだけの事件ではなく、すべての大人が大人になるために、どこか遠い過去において通過してきた事件だったに違いない。つまりこれは「心の深い部分の記憶=神話世界」に属する出来事なのだ。しかも、とても悲しい「ほんとうのこと」なのだ。真実を知るのは、時に非常な危険を伴う。見据える力がなければ、自己が崩壊してしまうからだ。
 それゆえに、事件はとても遠くで語られなければならなかった。神話領域の物語であるということと、それが悲しすぎる真実であるという、二重の、だからこそひとつの意味において。
 語り手の蜂雀がすでに剥製という「死者」であることも、これで納得がいく。単なる過去の時間ではなく「死」という断絶の彼方でこそ、この物語は語られなければならなかった。この物語の複雑な構造は、だから、物語の本質が要請した必然の影だったのではないだろうか。

■ペムペルとネリはどのような「楽園」に棲んでいたのか?

 物語にこの複雑な構造を要請したもうひとつの要因に「楽園」の問題がある。
 この物語のなかで、ペムペルとネリのいる場所は、ふたつの意味において楽園だ。ひとつは、存在が存在のまま輝いている場所だということ。もうひとつは、ペムペルとネリの完全に閉じた世界がそこにはあったということだ。その意味において、楽園は無傷だった。無傷でなければ、楽園は楽園と呼べないともいえるだろう。
 楽園が無傷であるためには、夾雑物や不純物、また永遠性を損なうものは一切排除されなければならない。けれど、賢治は最初からそのことに気づいていたわけではなかった。蜂雀はペムペルとネリの話をこうはじめる。
「ペムペルとネリは毎日お父さんやお母さんの働くそばで遊んでいたよ」
その先、物語は突然途切れる。原稿が失われているのだ。再び物語が語られはじめたとき、そこからは両親の姿が消されている。失われた原稿のなかで、両親は抹殺されたのだ。ふたりだけの世界に混入した爽雑物として、またふたりが永遠に子どもでいることを損なう存在として。そして、抹殺したということを確認せずにはいられないといった調子でこう書かれている。
「『おとなはそこらにいなかったの。』わたしはふと思い付いてさうたづねました。
『おとなはすこしもそこらあたりに居なかった。なぜならペムペルとネリの兄妹の二人はたった二人だけでずいぶん愉快にくらしてたから』」
大人が消え去った後、まるで何かから解放されたように突如としてのびやかにたち現われるおとぎ話のような世界。ガラスの納屋、ガラスの水車小屋、ガラスの家。
「二人が青ガラスのうちの中に居て窓をすっかりしめていると二人は海の底に居るように見えた。そして二人の声は僕には聞こえやしないね。」
まるで深い海の底のような青いガラスの家。それは水晶のように透明で硬質でありながら、羊水のようにやわらかくふたりを包む。賢治はふたりをここに閉じ込め、外界から遮断する。いや、ふたりの世界から外界を遮断したのだ。外にいる者には、その声さえ聞こえない。けれども、それだけではまだ足りないとでもいうように、賢治はさらにこう書き加える。
「それは非常に厚いガラスなんだから」
賢治は、ふたりをただふたりつきりにすることにアグレッシヴでさえある。そして、そう言いきったとたん彼が感じたであろう限りない安堵を、わたしもまた深く感じるのだ。分厚いガラスに護られた夾雑物のないふたりだけの空間。それは、恋人たちにとってふたりのいる空間が世界のすべてであるような、そんな空間だ。そこに流れるのは、見つめあう一瞬が永遠であるような、そんな時間。永遠のなかで純粋に閉じた「ふたり」。
 そこで、ペムペルとネリはうたう。声をそろえてうたう。ふたりの声は混ざり、溶けあい、絡みあい、和音を奏でただろう。けれど外にいる蜂雀には少しも聞こえない。音楽というものの本質を思うとき、わたしはここに、濃厚なエロティシズムを感じないではいられない。完壁に閉じた空間でふたりによって奏でられる、ふたりだけに聞こえる音楽……。
 けれど、これは危険すぎはしないか? ふたりは兄妹なのだから。
 そう、あまりにも危険で、あまりにも過剰だ。ここに賢治の妹トシとの関係が投影されていることは改めて言うに及ばないだろう。その意味でもこの物語はプルトニウムのように注意深く遠ざけられ、神話領域で語られなければならなかった。過剰なまでのエロティシズムを、限りなく甘美でありながら、限りなく透明なものに浄化するために。
 その目論見は成功して、読んでいるわたしたちはそこに、神話世界でのみ可能な純正の楽園を見る。それは、生身の肉体に拘束された限定つきのエロスを遥かに凌駕した、無限のエロスの世界だ。濃密でありながら、どこまでも透明な、混じりっけのない甘美さ。
 それほどまでの楽園を失ったからこそ、物語は無性に悲しい。そしてその悲しさもまた、まるで夢のなかの悲しみのように、どこまでも透きとおっている。まるで無限の彼方からとめどなく湧きあがる透明な風のように。
 十五歳の夏、物語を読んでぼろぼろと涙を流したあの感覚は、悲しい夢を見て泣きながら目覚めた、あの感触だった。理由もなくただただ悲しい、そんな種類の悲しみだった。
 夢のなかではときに、あらゆる夾雑物や不純物が排除されて、悲しみも、甘美さも、それ自身でしかありえないものに徹底的に純化される。すべての感情が、限りなく澄んでゆく。この物語が持っている感触は、それにとてもよく似ていた。

■「夢の装置」としての物語

 つまり、この物語は実は 「夢の装置」なのだ。楽園のとめどない甘美さと、喪失のやるせない悲しみを、もっとも純化した形で伝えるための濾過装置。
 であると同時に、危険にすぎる物語を、神話領域に遠ざけるための安全装置でもある。物語は、ふたつの危険な真実を白日のもとに晒けだしている。楽園が、あまりにも甘美な近親相姦的世界であるということ。その楽園を失ったのは、他でもない自分自身のせいで、もう二度と取り返しがつかないということ。
 真実を知る者はいつも、語りたい欲求にかられるものだ。それが、隠されていればいるほど、語りたい気持ちはつのる。蜂雀もその欲求にかられ、自ら語りだしてしまった。それが語るのに苦しいほど悲しい物語だと知っていたのに、話さずにはいられなかったのだ。
 そして物語は「夢の装置」のなかで語りはじめられる。
何度も何度も逡巡されながらも、ついに全貌が明らかになってゆく。
 事件から記録までの距離が恐ろしく遠い、というだけではなく、この「夢の装置」には、読む者をさらに深く幻惑するための仕掛がいくつか仕組まれている。
 生と死の著しい混淆。すでに死んでいる剥製の蜂雀が話をするというだけで、生と死はすでに混乱をみせているが、蜂雀が話を中断して黙りこくったときの子どもの言葉は、読む者をさらに深い混乱に陥れる。
「なぜって第一あの美しい蜂雀がたったいままで銀の糸のやうな声で私と話をしていたのに俄かに硬く死んだやうになってその眼もすっかり硝子玉か何かになってしまひ……」
死者のうえに再び訪れる死。道端に落ちていた小鳥の死骸をうっかり「踏み殺し」そうになった、そんな瞬間に感じる強い目眩。
 子どもが蜂雀からこの物語を聞いたのは、開館前の博物館だった。その子どもが成長して博物館十六等官となり、物語を記録している。博物館から博物館へ、物語はゆるい螺旋を描いて重なる。過去と現在は博物館においてメビウスの輪のように捻れながらつながる。
 そのなかに、ひとりの人物が登場する。蜂雀が黙りこくったとき、泣いている子どもをなぐさめ、蜂雀に話すようにうながす博物館の番人の老人だ。もしかしたら、その老人は、年老いたときのキュステその人ではないか? だからこそ、蜂雀は物語の最後に
「『ぢいさんを呼んで来ちゃあいけないよ』」
と、謎のような言葉を遺したのではないか? ふと、そんな思いがよぎる。
 よく読めば、老人の言葉遣いは十六等官のキュステにはふさわしくなく、別人だろうと推察されるが、それでもなお、博物館を軸に、キュステの過去と現在を未来の姿が捻れながら重なっている感覚が拭えない。
 物語のなかで、生と死は混淆し、過去と現在と未来は捻れながら重なり、読むものに深い目眩を起こさせる。死者という深い断絶の彼方で語られる物語は、それらの仕掛によってさらに強い磁場を持った「夢の装置」となる。そのような周到な「夢の装置」を通じて賢治は一体何をしようとしたのか?

■「正しく絶望する」ということ

 物語から溢れてくるのは、どこまでも透明な悲しみ。生きてゆくうえで、すべての人が通過しなければならなかった自らによる楽園追放の記憶だ。この物語はだから「悲しみの起源についての神話」ともいえる。
 つらいことに、それは「ほんとうのこと」なのだ。生きてゆく、とはつまりそういうことなのだという厳然たる事実。自らによる楽園追放という事実は決して消えることがなく、楽園を取り戻すことも不可能であるという点において、物語は絶望的だ。
 そのような事実を前にしたとき、人はどう対処することができるのだろうか。
 目をそらせて見ないふりをするという方法がある。楽園なんてはじめからなかったことにして、現し世で得られる楽しみを享受してゆくほうが、どれほど楽だろうか。取り返しのつかないことを嘆いているなんて、時間の無駄だ。それよりも、いまこの瞬間を楽しんだほうがいい。いまこの場所に城を建てたほうがいい。
 いくらそういっても「ほんとうのこと」が消えるわけではない。それがすでに見えてしまっている者にとって、現し世の享楽には、常に虚しさの影がつきまとう。地上の城は決して安住することのできない砂上の楼閣だ。
 いっそ開き直るという手もある。完壁な楽園なんてありはしない。理想なんか持つから人は苦しむのだ。現実はきびしいけれど、まあそこそこの満足もあるし、そこそこやっていけばいじゃないか。それが大人というものだよ。それが楽に生きてゆく秘訣さ。
 もちろん賢治はそんなふうに対処しなかった。享楽主義にも走らず、妥協もしなかった。彼は絶望をはっきりと見据えた。深い記憶の底に降りていって、ペムペルとネリに起きた悲しい事件をしっかりと見つめ、語ろうとした。それがあまりに悲しくて、語るためには物語という「夢の装置」が必要なほどだったけれど、そうまでしても、彼はあえて語ろうとした。語らずにはいられなかった。
 なぜなら、それが「真実」だからだ。ごまかしや気休めをいってもはじまらない。それが世界のほんとうの姿なら、そこを見つめることからしか何もはじまらない。その真実は、つらく悲しく絶望的だ。
 いや、絶望そのものだ。賢治はそれを真正面から受けとめる。斜に構えたり、かわしたりしない。まっすぐに見つめ、受けとめ、そして語る。彼は実に「正しく絶望している」のだと、わたしは思う。
 だからこそ、その絶望がいかに深くとも、そこにどんよりとしたやりきれない暗さはないのだ。透明に輝いている。夢のなかの悲しみのように、とめどなく溢れる涙で洗われることで、自分自身がどこまでも透きとおっていく。生きてゆくということのやるせない悲しさを、このような形で表現してくれた賢治に、わたしは深く感謝したい。

■絶望の果てで、なおも夢見ようとする者

 その絶望の果てになお、賢治は夢を見ようとした。かけがえのないすべての存在の輝きを、再び取り戻そうとした。
 絶望に打ちひしがれ、現実に妥協することだってできたはずだ。確かに賢治はそうするには「見えすぎる」人だったかもしれない。けれども、ただそれだけの理由ではなく、賢治は自らの意志で夢を見つづけようとしたのではないだろうか。
 『黄いろのトマト』の一部が花巻農学校の教え子の手で清書されたのと同じ年の大正十三年、賢治の生前唯一の童話集となった『注文の多い料理店』が出版されている。その序で、彼はこう述べている。
「わたしたちは氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとほった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしい羅紗や、宝石いりのきものに、かはっているのをたびたび見ました。
 わたしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。
 これらわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです」
 ここにあるのは、現実逃避のためのやわなファンタジーではない。詩人の青白い想像力が捏造したあやふやな幻想でもない。存在そのものの輝きをまっすぐに受け取ろうとする強い意志の力だ。
 だからこそ、彼ははっきりとこういう。
「わたくしは、これらのちひさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほったほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。」
そこには詩人の透明な意志と希いがある。
 しかし、たとえどんなに希っても、無傷の楽園が決して戻ってこないことはわかっているのだ。それでもなお夢を見つづけようとするのは『農民芸術概論』のなかで彼が述べているように「求道すでに道である」と賢治が確信していたからに違いない。失われた楽園を取り戻すことが不可能なら、この地上に新たな楽園を建設しようとさえ、彼は思った。
「個性の異る幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる」
『農民芸術概論』のなかにあるこの楽園のイメージは、まさしく「すべてが交換不可能な存在であり、それ自身の固有の輝きを放っている」ペムペルとネリのいたあの楽園とびったりと重なるものだった。
 賢治の書いた物語がみんな、強く心に届くのも、このような彼の強く美しい意志の力ゆえではないか。
 すべての物語の底に『黄いろのトマト』がある。『黄いろのトマト』の深い絶望を正しく通過して後、ファンタジーは甘ったるい幻想ではなく、幼い夢でもなく、現実からの逃避でもなくなり、はじめてひとつの意志となりえたのだ。
 賢治は、ここを通過しなければならなかった。正しく絶望するために、物語にほんとうの力を与えるために、こんなにも悲しく透明な物語を、どうしても書かなければならなかったのだ。『黄いろのトマト』は、注目されることの少ない小品だが、あらゆる作品の根源に位置しているという意味において、実に重要な作品だと、わたしは確信する。

■存在そのものとしてそこにある賢治の言葉

 十五歳のあの夏から、すでにずいぶん長い年月が流れてしまった。わたしはもう、賢治が亡くなった年齢を越えてしまっている。それでなおこの作品を読むたびに、十五歳のときに感じたあの透明な悲しみが湧きあがってやまない。それは、わたしが少しも成長していないということだろうか? いや、心のほんとうに深いところ、神話の領域から語られる言葉は永遠だということではないだろうか。
 賢治の言葉は、渚で波に洗われる石ころのように、道端に咲いている花のように、存在そのものとしてそこにある。それがきっと、真の意味の「創造」ということなのだ。
 ひとつの石には、地球の歴史が刻まれているかもしれない。宇宙の秘密さえ隠されているかもしれない。読みとる能力さえあれば、それらが読めるのだろう。残念ながらわたしには、そんな能力はない。けれど、子どもが石ころをきれいと思うような、そんな感受性は少しはあるかもしれない。
 いずれにしても、長々と書き連ねてきた言葉は、賢治の「存在そのものとしての言葉」のかけらにも及ばない。この駄文を読んで少しでも興味を抱いていただけたのなら、ぜひ『黄いろのトマト』を読んで、その存在の輝きに直に触れてほしいと願ってやまない。

▼「黄いろのトマト」青空文庫

http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1919_18095.html


■青空の広場 ならまち暮らし(25)/毎日新聞奈良版 2011年10月19日

寮 美千子

 近鉄奈良駅前の広場、噴水のあるあの行基広場を、すっぽりと覆う大屋根が建設されることをご存じだろうか。奈良県が、高さ10メートルのガラスの大屋根を作ると決定した。
 わたしは、残念でならない。駅を出ていきなり広がる青空、じかに感じる風と光。それこそが奈良の魅力だと感じているからだ。
 旅人として奈良に来ていた頃は「ようこそ」と、奈良に住むようになってからは「おかえりなさい」と、この広場の空に出迎えてもらったような気がしている。この青空広場を、心のよりどころにしている人も多いだろう。
 先日『鍵田忠三郎翁伝』を繙き、広場が作られた経緯を知って、驚いた。鍵忠(尊敬の念を込めてあえてこう呼ばせていただく)が市長に就任した昭和42年、近鉄線地下移設に伴う駅前整備計画はすでに決定済み。噴水広場設置の計画はなく、駅ビルが直接、東向商店街アーケードに接して作られることになっていた。鍵忠はこの計画に強く反対、「奈良に来るお客さんが暗い地下駅に着き、すぐアーケードの下の商店街に入るのでは大阪などの大都市と何ら変わらない。観光都市奈良である以上、まず地下駅から降り、青空の見える広場に出て古都の空気と風情を味わってもらいたい。余裕のある観光都市の玄関にせねばならぬ」と力説した。
 国も県も近鉄も「都市計画決定済みだ」と取り合わなかったが、鍵忠はひるむことなく説得、運輸省にも直談判して、近鉄奈良駅ビルを西へ50メートル移動させることに成功。それによって生まれた敷地127坪が、行基さんのいる青空広場となった。
 県は、こうした経緯をまったく考慮せずに大屋根建設を決定した。先日行われたパブリックコメント募集でも、県は「建設の是非を問うものではなくデザインを選ぶために実施した」として、寄せられた建設反対の声には、まったくとりあってくれなかった。
 青空は奈良の宝。大切にしたい。県は、大屋根建設を既定事項とせず、県民とじっくり話し合う機会をもってほしいと思う。
(作家・詩人)


青空のために作られた行基広場。奈良県はここに屋根をかけようとしている

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■奈良のクラシックホテル ならまち暮らし(24)/毎日新聞奈良版 2011年10月5日

寮 美千子

 クラシックホテルが人気だが、奈良にも世界に誇る「奈良ホテル」がある。17日に創立102周年を迎えるこのホテルは、当時の鉄道院により「西の迎賓館」として贅を尽くして作られた。明治42年竣工。赤い鳥居で縁取られた暖炉が、和洋折衰の建築ポリシーを示している。完全な洋風にしなかったことに、明治末期の日本人の衿持を感じる。
 大正時代には、アインシュタインやバートランド・ラッセルも宿泊。大正11年、アインシュタイン来日時に、彼がこのホテルで弾いたピアノが、ロビーに展示されている。脚に機関車の動輪を彫刻した鉄道省の特注品だ。
 長い歴史の中、いろいろな事が起こった。第二次世界大戦時には、めぼしい金属を供出させられたそうだ。そのため、階段の手すりの擬宝珠は赤膚焼の陶器に、和風の釘隠の金具は木で作った模造品に置き換えられた。それが、いまも歴史の証人として残っている。
 百年の時に磨かれたホテルには、実にゆったりとした時間が流れている。高い天井、広い廊下。柱や手すりは節が一つもない極上のヒノキ。ホテルマンたちの立居振る舞いも美しく、「本物」だけが持つ魅力に溢れている。
 南出健治さん(59)はもう44年間も奈良ホテルのお仕事をなさっている営繕係。
古い上げ下げ窓のワイヤの交換から、椅子の塗り替えまで、一人で一手に引き受けている。
 「立地と作りがよかったので、百年経ってもしっかりしているんですわ。高台で、塀もなく風通しがいい。地面から床まで1メートルもあり、湿気がこもらない。材を惜しみなく使って、実に丁寧な仕事をしてはる。日々、百年前の大工さんと対話している気分です」
 敷居が高いと思いがちだが、ロビーでくつろぐだけなら無料だし、絵葉書も買える。本館の2階には、歴史展示コーナーもできた。
 「お泊りでなくても、ぜひいらしてください。春は桜、これからは紅葉が見事です」
 格式が高いのに気さくなところが奈良だ。
 「こんなすばらしい所で仕事ができて幸せ」と南出さん。心底うれしそうな笑顔だった。
(作家・詩人)


南出さんと赤膚焼の擬宝珠。戦時中に供出した真鍮の擬宝珠の代用に、赤膚焼七代目窯元の大塩正人氏が制作。いまやホテルの象徴に

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■二つの采女物語 ならまち暮らし(23)/毎日新聞奈良版 2011年9月22日

寮 美千子

 中秋の名月、9月12日は采女祭だった。ハイライトは日が落ちてから猿沢池に浮かべられる2艘の船。楽人たちが船上で雅楽を奏で、天平衣装の人々がゆっくりと池を巡る。篝火が焚かれ、水面に月が映り、遠い時代に紛れこんでしまったような幽玄な時が流れた。
 この祭りは、采女伝説に由来している。とある美しい采女が帝に見初められ、一夜の寵愛を受けた。しかし、その後、帝からまったく音沙汰がない。お召しは帝の気まぐれでしかなかったのだ。嘆き悲しんだ采女は、とうとう猿沢池のほとりの柳に衣を掛け、入水自殺をする。帝はずっと後にそのことを知り、哀れに思って歌を詠んだ、という物語だ。
 采女とは職名で、天皇の日常の身の回りのお世話を行う者のこと。奈良時代、地方豪族の娘たちが朝廷に献上され、采女となった。
 伝説の采女は、現在の福島県郡山市の出身だった。ところが、郡山には、別の采女伝説があるのだ。乙女が慕っていたのは、故郷の若者。若者との仲を裂かれ、乙女は朝廷へと召しあげられ采女となる。しかし、若者のことがどうしても忘れられない。采女は宮廷を抜けだし、猿沢池のほとりの柳に衣をかけて入水したと見せかけ、故郷に逃げ帰る。ところが、故郷にたどりついたとき、若者は悲観して、すでに自殺していた。絶望した采女も後を追い自殺する、という悲恋の物語だ。
 平城京の時代、奈良は日本の中心だった。奈良の采女伝説では、采女の愛した人は天皇。時の権力の象徴だ。しかし、采女を差しだした福島の采女伝説では違う。采女の愛した人は地元の若者。しかも笛の名手で、権力とは無関係だ。その恋人との仲を、中央の権力が引き裂く。権力に圧殺された者の物語だ。
 ああ、いまも同じだ、と思った。福島は、中央の都合で原発を押しつけられ、悲劇の地となった。いつの時代も、中央と地方の論理は違う。同じ出来事でも、どちらから見るかで、まるで違う物語になってしまう。
 采女の痛みと哀しみが、いまのフクシマに重なって見えた。
(作家・詩人)


采女祭りで猿沢池に投げこまれた花扇。池から引きあげられ、巫女さんの手で秋の花々が人々に手渡された

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■南円堂の地蔵盆 ならまち暮らし(22)/毎日新聞奈良版 2011年9月7日

寮 美千子

 関東から奈良に越してきて、はじめて「地蔵盆」に出会った。ふだんは地味な町角に、色とりどりの提灯が下げられ、供物が並べられ、突然、異空間になる。人がひっきりなしに訪れてお参りをする。そんな場所が、いきなりあちこちに出現するのが面白くて、越してきたころは「地蔵盆のはしご」をした。
 行く先々で「ようお参り」と声をかけてもらった。ヨソモノが、地元のお祭りに混ぜてもらっているだけで申し訳なく、うれしいのに、そのうえ「ようお参り」なんて言ってもらえるなんて、感激だった。
 しかも、どこへいっても、小さなお菓子をくださる。子どもたちのためのものだが、酔狂なヨソモノにも分けてくれるのがありがたい。なぜか、ソラマメを揚げて塩をふった「いかり豆」が多くて、一巡りするとバッグのなかは、いかり豆でぎっしりになった。
 今年は高御門町の西光院さんの地蔵盆に呼んでいただき、数珠繰りをさせていただくことになっていたが、仕事で奈良を離れていて行けなかった。残念に思っていたら、ひと月遅れの8月23日「興福寺さんの南円堂の下で地蔵盆をしてるから」と、野村由利子さん(58)から電話が。いつもこの欄に登場する田舎料理店「うと・うと」の奥さまだ。
 国宝の三重塔の入口の斜面は、小さなお地蔵様や石碑のかけらでぎっしり。その中央に延命地蔵尊。野村さんご夫妻は、駄菓子屋さんのようなくじ引きをして、お菓子を配っていらした。もちろん無料だ。聞けば、万博の年に急病で亡くなられた弟さんの供養のため、ご両親が延命地蔵尊の石仏を寄贈し、以来、旧暦に地蔵盆を奉納するようになったという。弟さんは当時、小学校6年だったそうだ。
 地蔵盆と言えばご町内でするものだとばかり思っていたので、こんなふうにして始まった地蔵盆もあるのだと知って驚いた。奈良では日々新たな伝統が作られている。
「きょうは、お参りしてくれてありがとね」
 夜にかかってきた電話の由利子さんの声が、とてもやさしかった。
(作家・詩人)


写生にやってきた石切中学の生徒さんたちもお参りをして、くじ引きを。手前が野村由利子さん

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■詩の力・座の力/詩が開く心の扉〜「孤独な背中と気怠さと」に寄せて/『紫陽』23号 2011年1月

寮 美千子

孤独な背中と気怠さと


気怠く笑う耳が千切れそうなほど笑い声が鳴り響いて
強く胸を締めつけるからだれにもわかんないように耳をふさいで
独りあるく夕暮れの空 目の前には笑いつかれた少女が独り
ボクは今、孤独な背中と夢の中 気怠さと笑い声のオンパレード
ボクは今、孤独な背中と夢の中 真っ白な空の下 時が止むのを待っている
ボクは今、孤独な背中と気怠さの中 無音無色の世界が見えた
ボクは今、孤独な背中と気怠さの中 無感情な少女が独りいた
目が覚めたボクは真っ白な部屋の中 小さな窓とベッドといすが一つずつ
自分以外だれ一人いない小さくて白い部屋
窓から見えるキズだらけの空
地面に叩きつけられた雨音に胸を締めつけられ
だれにもわからないように窮屈そうに声を出した その声に少しぞっとする

冷めた表情 伏し目のまま 笑いつかれた少女が キズだらけの空を見た
泣き顔 小さな目 丸まった背中の少女が 仏頂面な空を見た
ボクは今、孤独な背中と夢の中 気怠さと泣き声のオンパレード
ボクは今、孤独な背中と夢の中 仏頂面な空の下 雨が止むのを待っている
ボクは今、孤独な少女と夢の中 無音無色の世界を見た
ボクは今、孤独な少女と夢の中 窮屈そうな声を見た
冷めた声 伏し目の少女は両手を広げてとび立った
ボクはそれを見送ったあと 目を閉じた

 わたしたちは自己を表現するための「言葉」を持っている。いわゆる言葉以外にも言葉がある。目の表情、口元、体の姿勢、すべてがわたしたちの「言葉」であり「表現」だ。
 しかし、その表現が極端に苦手な人間もいる。しゃべるのが苦手、笑顔も出ない。そんな人間は、周囲に理解されず「何を考えているのかわからない」と不気味に思われる。時に怖れられ、あるいはバカにされ、いじめられ、彼らはますます自己の殻に閉じこもってしまう。話してもどうせわかってもらえない、という思いが、彼をますます孤独にし、絶望の淵へと追いこむ。
 奈良少年刑務所の社会性涵養プログラムの受講生たちのほとんどが、そのように極端に自己表現が苦手な青年たちだ。ある者は発達障害を抱え、ある者は激しい虐待を受け、ある者は育児放棄された経験を持っていた。自分の意志や努力とは無関係に、運命のごとく社会的に弱者の立場に置かれてきた者が多い。そのせいで、ある意味「言葉」を奪われてきた人々なのだ。
 自分を表現できない、相手と意思の疎通ができない。その悪循環が加速し、その結果追いつめられ、とうとう爆発して事件に至る、というケースも多い。彼らは、加害者である前に、被害者であったのだ。小さくキレて発散できていればすむものが、溜まりに溜まって大爆発になり、不幸な事件となってしまうこともある。
 奈良少年刑務所で、受刑者の情緒を耕すための「社会性涵養プログラム」の講師を務めて、すでに3年が経った。このプログラムは、絵本を読み、詩を読み、さらには彼らに詩を書いてもらい、それを合評していくことで、そんな彼らに、徐々に「自己表現の言葉」を身につけていってもらうための授業である。
 教育の専門家でもなんでもないわたしが、ひょんなことからこのプログラムの講師になった。というのも、明治以来の旧監獄法が改正され、刑務所が単なる懲罰のための施設から、更生のための教育を受けることのできる施設へと、その位置づけが変わったからだ。
 2007年から新たに始まったプログラムであったため、メソッドもなにもなくて、手探りで授業を始めた。受講者は10名前後。刑務所の中でも、ほかのものと歩調を合わせることができなかったり、極端に自己主張が苦手な子たちだ。授業は月に3回、1時間半ずつ。一回はSST(ソーシャル・スキル・トレーニング)といって挨拶などの基本を学ぶ授業、一回は絵を描く授業、そしてわたしの受け持つ「詩と物語の教室」だ。これを6ヶ月行う。合計18回。たったそれだけの授業で、彼らは見違えるほど変わる。変わらなかった者などいない。表情が豊かになり、言いたいことが前よりも言えるようになり、時には曲がっていた背中がまっすぐに伸びて、胸を張って堂々としてくる。堅さがとれて、自然体に近づいてくる。そうなると、他者とのコミュニケーションもスムーズになり、ますます表情が明るくなって“良循環”が始まるのだ。
 一回の授業のはじまりと終わりでは、その差がわかるほど変わるのだが、ぐっと変わるのは、詩の授業をしたときだ。それも、有名な詩人の詩を読んで鑑賞したときでなく、彼ら自身が書いた詩を合評したとき。自作の詩をみんなの前で朗読し、拍手を受け、その感想を仲間の口から聞いた時、確かに深いところで閉ざされていた鍵が、かちゃりと音を立てて開かれる。
 時には、これが「詩」だろうか、と思うほど素朴な作品があった。「何も書くことがなかったら、好きな色について書いて」という課題に提出された作品だ。
好きな色

ぼくの好きな色は 青色です。
つぎに好きな色は 赤色です。
 この、ストレートすぎる言葉に、一体どう対応していいのかと戸惑っていると、受講生の一人が「はい」と手を挙げたのだ。そして言った。「ぼくは、○○くんの好きな色を、一つだけじゃなくて二つも聞けて、よかったです」「ぼくもです。○○くんの好きな色を、一つだけじゃなくて二つも教えてもらって、うれしかったです」「○○くんは、ほんまに青と赤が好きなんやなあって思いました」
 驚いた。そして感動した。彼らはなんてやさしいのだろう。なんて友だち思いなんだ。こんな人々が、なぜ刑務所に来なければならなかったのだろうか。きっと、彼らをそこまで追い詰めた何かがあったに違いない。
 そして、わたしは自分を恥じた。わたしは、この作品を、彼らのようには受けとめることができなかった。「詩とはこんなもの」という観念に縛られていたからだ。
 極端に表情のとぼしかった○○くんは、仲間のその言葉を聞いて、笑った。教室にやってきてはじめて、まるで花がほころぶように、ふわっといい笑顔を見せたのだった。
 その瞬間、わたしの中の「詩」の概念がひっくり返った。「いい詩」「すばらしい詩」というものがあるというわたしの固定観念が、微塵に砕かれたのだ。言葉は、詩になるのだ。言葉を発した人が詩だと思い、受け取った人が詩だと感じれば、どんな言葉も、神聖な詩の言葉になるのだ。彼らは、彼らの力で、友の言葉を「詩」たらしめたのだ。指導者の力ではなく、彼ら自身の力で「詩」を発見したのだ。
 もちろん、いい詩はある。いつどこで誰が読んでもすばらしい、完成された作品はある。けれどそれだけではなく、「座」が神聖な「詩」を生み出していく、そのような「場」としての「詩」があるのだと思い知った。
 彼らは、表現や言葉を扱うことが極端に苦手だ。だからこそ、虚飾や嘘が入る余地がなく、ギリギリの言葉を紡ぐが故に、まっすぐに届いてくる。「表現」という時、わたしたちはなにか一見華麗に見える「表現らしきもの」におぼれてはいないだろうか。
 彼らが自分たちの詩を発表し、誰かに受けとめられた瞬間、彼らがあからさまに変わるのを目の当たりにして、わたしは「詩の力」に大きな驚きを感じた。詩には、確かに力がある。わたしが思っていた以上に、それは力を持った神聖な言葉だ。わたしは、いままで、そこまで詩を信じていなかったかもしれない。けれど、この体験を通じて、詩の力を実感することができた。
 彼らの詩をまとめ、授業の様子を書き添えて編集したのが『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』(長崎出版2010)である。ぜひ読んでいただきたい。ことに詩を書く人、読む人に、これを読んでもらえたらと思う。
 この詩集には社会性涵養プログラムの五期生までの作品が収録されている。現在、プログラムは7期目に入り、これから詩を書いてもらうところだ。六期でも、驚くべき作品が生まれている。これをなんとか紹介したいと思い、刑務所の許可をいただいて、ここに一つの作品を紹介させてもらった。
 これを書いたのは、緘黙といっていいほど無口で、引っ込み思案な青年だ。それでも、教室では何とか小声で発言してはくれたが、彼はついに殻から出てこようとはしなかった。
 ところが、詩の課題を出して提出された作品を見て、驚いた。そこには饒舌なまでにその心の内側が表現されていたからだ。その痛み、孤独、泣きたくなるほどのさみしさが、見事に言葉として結晶していた。
 「すごいね。すごいよ、この詩」とわたしは興奮して彼に話しかけた。「ねえ、この詩、刑務所の外で発表してもいい? わたしが朗読してもいい?」
 そう言うと、あの緘黙な彼が、すこしうれしそうにうなずいたのだ。
 「ねえ、詩の雑誌に発表してもいい?」
 また、うなずく。
 「きみの名前、書いてもいいかな?」
 彼は、はっきりとうなずいた。しかし、それは叶わなかった。教官から、こんな注意を受けたからだ。
 「それはいけません。詩を発表するには、許可がいりますので、申請をして手順を踏んでください。それから、残念ながら、本名では発表できません」
 というわけで、申請をして許可を得て掲載させてもらうことになったが、彼の名を明かすことはできない。
 授業で、彼が書いてくれた詩は2編。どちらもすばらしい。今号で1編、次号でもう1編を紹介させてもらいたいと思っている。受刑者の詩だからではない、すばらしい詩だから、紹介するのだ。彼の詩には授業の仲間、という枠を超え、見えない大きな座を作っていく力があるとわたしは思う。多くの人が、彼の言葉に心を震わせ、共感するだろう。その孤独の深さの痛みを感じるだろう。彼がそのことを、誇りに思ってくれたら、うれしい。

■和風のキリスト教会 ならまち暮らし(21)/毎日新聞奈良版 2011年8月24日

寮 美千子

 近鉄奈良駅を出てすぐに「東向商店街」という変わった名前の通りがある。その昔、この道の東側はすべて興福寺の境内。当時は西側にだけ家があり、すべて東向きに構えていたので「東向」と名づけられたそうだ。
 この通りの東側に、石造りの立派な門柱と石段があり、その上にお寺がある……と思ったが、実はこれ、お寺ではなくてキリスト教の教会。なぜ興福寺の元境内に教会? なぜ和風? 東向の「奈良基督教会」を訪ねると、信者の小野周一さん(69)と山下恭さん(63)が、親切に教えてくださった。
 明治時代、興福寺は廃仏毀釈で大打撃を受けて貧窮。いまは国宝となっている五重塔や三重塔も売りに出され、境内の一角である1700坪の土地も、大阪の銀行家の手に渡ってしまった。その土地が、大正末期に奈良基督教会に転売された。
 「慌てたのは興福寺。お寺の敷地のなかに耶蘇教の教会ができるというので、それならば購入価格の3倍の値段で買い戻すと言ったそうです。結局、教会の土地になりましたが」
 「当時は敷地の中に二つの井戸があって、その井戸をさらうと、廃仏毀釈で投げこまれた仏像がぎっしり詰まっていたそうです。それを美術品として持ち帰った信者の方もいて、いまも代々そのお家に伝わっているそうです。その方の名前は、明かせませんが」
 ひょっとして国宝級の仏像が……と思わずうなってしまった。
 教会は、ゴシック建築の予定だったが、奈良県の許可が下りず「奈良ホテルに準ずる設計なら」という県の意向を汲んで和風に設計しなおし、昭和5年に完成。昭和63年にはパイプオルガンも導入され、いまでは礼拝のほかにコンサートなどにも使われている。
 「古都奈良にふさわしいこの礼拝堂は、わたしたちの誇りであり宝です」と信者のお二人。
 8月29日午後7時からは、ここでクラシック・アンサンブルの「音の花束コンサート」が開催される。歴史ある和風の礼拝堂で聞くクラシック音楽は格別。ぜひ!
(作家・詩人)


礼拝堂にて、信者の山下さん(左)と小野さん。背後に見える格天井は、寺社などで使われる格式の高い様式。ここでは「ノアの箱船の船底のイメージ」と言われている

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■猿沢池の六道の辻 ならまち暮らし(20)/毎日新聞奈良版 2011年8月3日

寮 美千子

 もうすぐお盆。ご先祖様の祀り方にも、各地でいろいろな風習がある。母の実家の山梨では、川に行って岸に生えるマコモという草を刈り、それをスダレのように編んで敷物を作った。その上に、お盆のお供え物をする。左右には、ナスとキュウリで作った牛と馬を飾る。割り箸を4本刺して足を作り、背中には甲州名物の「おほうとう」の麺を鞍にして載せていた。おほうとうは、きしめんに似た平たい麺で、当時は家で打つものだった。体の小さな祖母が、身に余るほどの大きな板を出しては、粉をまぶして器用におほうとうの麺を打っていたのを、なつかしく思いだす。
 盆の入りの8月13日には、家の門で迎え火を焚いて、ご先祖様の霊をお迎えした。
 「わたしら子どものころはね、猿沢池の六道の辻にご先祖様を迎えにいったんやで」と教えてくれたのは、十輪院のお向かいで田舎料理「うと・うと」を営む野村由利子さん(58)。当時は、南市に住んでいたという。
 猿沢池の五十二段と呼ばれる階段の下は、階段も入れると6本の道が集まっている。それで、ここを「六道の辻」と呼ぶそうだ。六道とは仏教の概念。迷いのある人間は、死んでも涅槃に入れずに、六つの世界を輪廻して生まれ変わる。天上道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六道だ。
 「お線香を持って、六道の辻に行って、火をつけるん。そうすると、ご先祖様があの世から帰ってきはるから、お線香の煙に乗せて家まで連れて帰ってきてさしあげるんや」と由利子さん。
 「いや、うちは魚佐旅館の前の橋のところに迎えに行ったわ」と奈良町落語館の田中宏一さん(59)。ほんの少し家の場所が違うだけで聖地が違うのも、いかにも古都奈良らしい。
 六道の辻のうち、五十二段は「天上道」に対応するという。階段を上りきれば、そこは興福寺。仏の境地に達するとの意。
 しかし、残りはどの道がどこに対応するのか、定かではない。言えば差し障りがあるからか。さて、わが家へ向かう道は何道?
(作家・詩人)


明治17年発行の「大和名勝豪商案内記」より「興福寺之図」。五十二段下はこの頃から六道の集まる辻だった。当時の五十二段は踊り場つき。人力車の姿も見える

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■えんまもうでと紙芝居 ならまち暮らし(19)/毎日新聞奈良版 2011年7月20日

寮 美千子

 「嘘をつくと、閻魔さまに舌を抜かれますよ」と母に言われて育った。学校では先生が地獄の話をしてくれた。鬼に追われて針の山を裸足でのぼり、やっと山を下ると、血の池が待っている。ようやく抜けだせば、こんどは炎の地獄……。という話がよほど強烈だったのか、実家から見つけた小学生時代のノートには、自作の地獄絵図が描かれていた。
 6の付く日は閻魔さまの縁日。高円山の中腹にある白毫寺では、年に2回、1月16日と7月16日に、閻魔さまを祀りする法要がある。ギラギラと痛いほどの日差しのなか、古い家が立ち並ぶ山辺の道を自転車で走り、夏の「えんまもうで」に参詣した。
 宝蔵には立派な閻魔王坐像があり、怖いお顔をなさって、こちらをキッと睨んでおられる。紫の法衣をまとわれたご住職は、おおらかな大きな字を書かれる方で、お地蔵さまのように柔和な表情をなさっていらっしゃる。閻魔さまは、日本では地蔵菩薩の化身ともされているから、あの怖い閻魔さまとやさしいお顔のご住職は、表裏一体の存在なのかもしれない。「法楽」という儀式の後、お堂に集った人みんなで、般若心経を3回唱えた。
 ここ数年、法要が終わると「地獄極楽めぐり」という紙芝居が行われている。演じているのは村松隆敏さん(64)。還暦でサラリーマンを定年退職後、独学で紙芝居を始められたそうだ。額縁を改造した手作りの小劇場に、ご自分で描かれたという絵がいきいきと躍る。「人を騙して儲けたり、弱いと見るとイジメにかかる、そんな世の中、まっくら闇じゃあござんせんか」と調子のいい口上で、身の毛もよだつ地獄の様子が語られていく。恐いもの見たさの子どもたちにも、大人気だ。
 悪いことをすると地獄に墜ちる。子どものころにそういう話を聞くのはいいことだ。地獄なんかない、と思っても、きっと心の底に強く刷りこまれ、悪いことができない大人になるだろう。この頃、地獄が少しも怖くない大人が多すぎる。村松さんの紙芝居、ぜひ、あちこちで演じてほしい。
(作家・詩人)


故郷の新潟で見た「のぞキカラクリ」の楽しさが忘れられず、紙芝居に挑戦したという村松さん。奈良で暮らしてもう41年になる

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■老春手帳よもう一度 ならまち暮らし(18)/毎日新聞奈良版 2011年7月6日

寮 美千子

 奈良に来て驚いたことの一つは、老人が元気なことだった。そこらじゅうで老人の姿を見かける。歩行車を押す背中の曲がったおばあさんや、杖をついたおじいさんも、町のなかにいっぱいいる。
 東京では、そんな老人の姿を見かけることはまれだった。バリアフリー化が進んでいるとはいえ、町は階段だらけだし、人々はいつも足早だ。老人がゆっくり歩けるような状況ではない。
 移住してきた5年前は、奈良市の「老春手帳」も今の制度とは違った。年間2000円払えばバスが乗り放題。映画は3カ月に5本、銭湯は月に15回無料だった。近所の立ち飲みの酒屋さんには、遠くからバスで来ている人がいて、聞けばお気に入りの銭湯があるので、老春手帳を使ってわざわざ入りに来るという。一風呂浴びて、立ち飲みで冷たいビールをぐっと飲み、顔見知りと話をして帰っていく。それが、そのおじいさんの元気の源だった。
 3年前に老春手帳の制度が変わって、バスに乗るには、1回100円かかるようになった。映画の無料券もなくなった。近所のおばあさんは「バスを乗り換えるともう100円かかるし、映画を見る楽しみもなくなって、出かけることが減った」と嘆いていた。
 そういえば、以前より、町をうろうろしている老人の姿も少ないように思える。バスで立ち飲み酒屋に来ていたおじいさんの姿も、見かけなくなった。
 老人が元気でいてくれること。これは何よりも大事なことだ。わが家でも、要介護4のわたしの父を自宅介護しているが、時間も労力も怖ろしくかかる。もし父が元気でいてくれたら、どれだけ助かっただろう。
 介護施設やサービスの充実も大切だが、それよりも前に、老人が元気でいてくれること、人生を楽しんでもらえるような状況を作ることが大切だと思う。老人が元気なら、家族の負担も市の財政負担も軽くなるし、地域コミュニティも活性化する。何よりも、お年寄りの笑顔のある町は、いい町だ。老春手帳のサービス拡大を、ぜひお願いしたい。
(作家・詩人)


デイサービスへ徒歩で通う父。奈良に来たときは歩けなかったのに、いまでは虫の居所が悪いと、杖を振りあげるほど元気になった

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■響きあう言葉と心 ならまち暮らし(17)/毎日新聞奈良版 2011年6月22日

寮 美千子

 奈良に来てからいろいろな出会いがあったが、東京にいるときに想像もつかなかったのが奈良少年刑務所の受刑者たちとの出会いだ。
 はじまりは、近代建築への興味。奈良坂の丘の上に美しい明治の煉瓦建築があると聞いて見にいったのがきっかけだ。この建築物が刑務所。たまたまそこの教官と言葉を交わしたのがご緑で、2007年から受刑者たちに詩と童話の教室を持つことになった。
 まさか、殺人や強盗の罪を犯した人々と、じかに接することになるとは夢にも思わず、はじめは、正直いって怖かった。しかし、触れあってみると、彼らはみな、おどろくほど素朴でやさしい子ばかり。育児放棄や虐待や貧困など、過酷な環境に苦しんできた子も多い。そんな彼らが書く詩の言葉は、とことん直球で、まっすぐに心にしみてくる。
 彼らの詩を『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』にまとめたのが、昨年6月のこと。うれしいことに丸一年を経て、この6月に文庫本として発売された。
 「その本、春日夜間中学でテキストに使ってはりますわ」という話を耳にして、そんなお役にたっているのかとうれしく思い、さっそく夜間中学におじゃました。そこには、また、わたしの知らない世界が広がっていた。
 生徒さんは、在日二世、帰国した中国残留孤児、生活が苦しくて小学校も出られなかった方など、それぞれに重い歴史を抱えている人々。ご年配の方も多い。ともかくがむしゃらに働き、生きてきて、その年齢になって、ようやく読み書きを学ぶ機会を得たという。
 授業の様子は、よそで見たこともないほど活気に満ちていた。学ぶことの喜びが、光のようにこぼれる教室。みなどしどし発言する。発言には、年輪が感じられる含蓄のある言葉が、たくさんちりばめられていた。
 そんな人々が、受刑者の詩に深く共感してくれていた。苦しい環境にいたからこそ、強く響きあうものがあるのだろうか。「この子ら、出所したら温かく迎えてあげたいね」という言葉が、心底ありがたかった。
(作家・詩人)


春日夜間中学のクラスメートたち。右端にかわいく写っているのが、吉村和晃先生

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■厄年の捨て子 ならまち暮らし(16)/毎日新聞奈良版 2011年6月8日

寮 美千子

 ならまちでは、ただいま「にゃらまちねこ祭り」を開催中。ならまちにある21店舗で、猫をテーマにしたグッズやお菓子の販売、朗読会のイベントなどが開かれている。ならまちを「にゃらまち」と呼びはじめたのは、ねこ祭りの会場の一つである奈良町落語館の田中宏一さん(59)、という説がある。
 この田中さん、実は「捨て子」だったという告白を、ご本人から聞いてびっくり。
 「ぼくは、親父が厄年の歳に生まれた子。そういう子は、一度捨て子にして、人に拾ってもらって、また家に戻してもらうと丈夫に育つ、という言い伝えがあって」
 つまり、捨て子には「厄落とし」の意味があったのだ。民俗学の本で、そのような風習があることを知ってはいたが、実際に捨て子された人に会ったのは、はじめて。古い風習が残るならまちにドキドキする。
 「すぐそこの角に、おくるみにくるまれて捨てられたんです。胸に『厄年だからこの子を捨てます 田中』って事情を書いた手紙をはさんで。その頃は、まだ野良犬もたくさんいたから、母は心配で心配で、ぼくが拾われるまで、物陰からそっと見ていたそうです」
 若いおかあさんの表情が目に浮かぶようだ。そこまでして、丈夫に育ってほしいと願う親心に、胸が熱くなる。
 「はす向かいの家の人が拾ってくれました。その家は女の子ばかりだったんで、息子ができたって、ずいぶん喜んでくれたそうです」
 その家の子になったのかと驚くと「いいえ。すぐに田中の家に返してもらいました。でも、そうやって拾ってもらうと、親子同然の仲になるんです。よく遊びに行って、ご飯も食べさせてもらいました」 町のなかの人と人のつながりが、そうやって一層濃くなっていく。なんという温かな、やさしい世界だろう。
 古い風習。迷信だからといって何もかも切り捨ててはつまらない。これからも、すてきなことを受け継いでいく「ならまち」であってほしい。
(作家・詩人)


59年前に捨て子された場所に立つ田中宏一さん。奈良町落語館のすぐそば

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■にゃらまちねこ祭り ならまち暮らし(15)/毎日新聞奈良版 2011年5月25日

寮 美千子

 ならまちには猫がよく似合う。路地裏の猫、窓の猫、屋根で恋鳴きをする猫、空き地の草むらで耳を伏せる猫、真夜中の駐車場に集う猫猫猫。道の先に小さな猫の影がよぎるだけで、なんだかとてもうれしくなる。
 格別、猫が多いというわけでもない。猫の数なら海辺の漁師町の方がずっと多い。けれど、ならまちの猫には存在感がある。十把一からげの「猫類」ではなくて、一匹一匹、人格というか猫格がある。ここは猫が猫らしく生きられる町。裏返せば、それだけ隙間が多く、だからこそ、人もほっと息がつける町だ。
 「にゃらまち」とも呼ばれるこの町で、6年前から毎年この季節に「にゃらまち猫展」という催しが行われている。猫がテーマのアート作品や雑貨を展示する即売会。昨年は全国から50名近くの作家が参加、会場は猫好きのお客さんで押すな押すなの大盛況だった。
 主催者は、ならまちの田舎出張料理「うと・うと」の野村修司さん(57)・由利子さん(57)ご夫妻。猫とアートが大好きで自らもコレクター。じゃあ、猫好きの作家さんの作品展をしよう、売れれば作家さんの応援になるし、ということで気軽に始めたという。作家は参加費2000円を支払うのみ。会計は野村夫妻が責任を持ってしてくれて、マージンは一切なし。無私の精神の産物だ。「だって、ぼくらが楽しければいいんだから」と大らかな修司さん。温かな「ならまち魂」全開だ。
 この催しが発展して、今回は6月丸々1カ月間、町中で「にゃらまちねこ祭り」が開催される。会場は、ならまちにある21軒のお店。恒例の奈良町落語館での猫作品展示即売会をはじめ、照美美容室では猫メークをしてくれるし、和菓子のとらやでは特製の猫和菓子を販売。ギャラリーカフェ寄鶴軒では、毎週土曜日の夕方6時から猫作品の朗読会も。ともかく町中で「猫」を楽しめる。
 町には、12人の作家が描いた12の猫看板を置いてあるお店もあるから、散策しながら見つけるのも楽しい。13番目の親玉猫は修司さんの作品。さて、どこにあるでしょうか?
(作家・詩人)


西寺林商店街にいる猫の親玉。松原米穀店の松原さんが一念発起、店先を「ならまちの駅」に改装して、ならまちをPRしている

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