ハルモニア 隕石標本/寮美千子の発表原稿

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■奈良の安全神話 ならまち暮らし(14)/毎日新聞奈良版 2011年5月11日

寮 美千子

 東日本大震災から丸2カ月。災害について考えてみたい。阪神淡路大震災の前は「神戸には大地震がない」と多くの人が信じていたという。その「安全神話」ゆえに、地震対策を甘く見ていた面があり、それが被害を大きくしたとも言われている。奈良でも「奈良はいいところ。大災害はない」という人が多い。
 確かに奈良には、木造の塔としては世界最古で1300年も立ち続けている法隆寺の五重塔があるし、東大寺にも天平時代から残っている転害門がある。どちらも国宝だ。他にも多くの古社寺がある。そのような歴史的建造物がごろごろあるから「大地震も大きな台風もない」と言われると、うっかり信じてしまいそうになるが、実際はそうではない。
 「奈良市災害編年史」という、奈良市が1978年に出した本がある。これを見ると仰天する。古くは855年に大地震で東大寺の大仏の頭が落下したり、962年に大風雨で東大寺の南大門や、新薬師寺の金堂が倒壊という記録がある。その後も、地震や大風、大雨による被害は枚挙にいとまがない。
 近年では、昭和5年に佐保川・菩提川・能登川・岩井川が決壊して大水害となり死者が出ている。昭和21年の南海地震では奈良市内だけでも家屋数十戸が全半壊、春日大社の燈龍300基が倒れている。そのたった6年後の昭和27年にも吉野地震があり、春日大社の燈龍300基が倒れているのだから怖い。
 というわけで安全神話を鵜呑みにしないで、災害に備える心が大切だ。建物の耐震化はもちろんのこと、文化の面では、社寺の古い文献などの電子化も進めてほしい。もしものことがあっても、電子化してあれば後世に資料として残っていく。ぜひお願いしたい。
 奈良には多くの断層がある。奈良盆地東縁断層帯は奈良市の旧市街の東を南北に貫き、地震の危険も大きい。「奈良市地震ハザードマップ」では、旧市街の多くは震度7と予測されている。この地図を見れば、危険度の高い地域もわかる。市役所のサイトでも見られるので、一度目を通してほしい。
(作家・詩人)

(写真)河内大和地震で倒壌した東大寺の燈籠=1936年

⇒掲載紙面

■宮沢賢治と奈良 ならまち暮らし(13)/毎日新聞奈良版 2011年4月20日

寮 美千子

 5年前、奈良に越してきて、近鉄奈良駅前に宮沢賢治の「雨にもまけず」の詩碑を見つけた時は、驚いたし、うれしかった。わたしは大の賢治ファンなのだ。しかし、なぜ岩手出身の賢治の碑が奈良に、とふしぎに思った。聞けば、奈良で成功なさった岩手出身の方が建立されたとのこと。
 実は、宮沢賢治は、生涯で2度、奈良へ足を運んでいる。最初は大正5年、20歳の時に、盛岡高等農林の修学旅行で「対山楼」という宿に泊まった。いまはレストラン「天平倶楽部」のある場所だ。この時、宮沢賢治たち農学校の学生が訪れたのは「大字油坂小字宮ノ前」の「奈良県農事試験場」。いまの市立大宮幼稚園の辺りだが、区画整理され、昔の面影がないのが、ファンにとってはさみしい。
 大正10年4月にも、賢治は父親とともに奈良を訪れている。その時の宿泊先は「興福寺門前」「春日神社入口」と聞き書きにある。だとすると「菊水楼」の可能性が高い。宿帳はないか、菊水楼に問い合わせてみたが、戦後米軍に接収されたときに、古い宿帳はすべて失われてしまったとのこと。残念だ。
 先日、関西の賢治ファンと、賢治の奈良での足取りをたどる小さな旅をした。賢治は、奈良公園でこんな短歌を詠んでいる。
「月あかりまひるの中に入り来るは馬酔木の花のさけるなりけり。」
 奈良公園は桜の盛りだったが、賢治はこの旅では桜は詠んでいない。東京に戻ってから桜を詠んでいる。奈良は東京より桜の開花が遅いから、この年、賢治が奈良に来たときは、まだ桜は咲いていなかったのかもしれない。
 真昼のまばゆい光に紛れこんだ月明かりのような馬酔木の花。「銀河鉄道の夜」は、この旅で胚胎したという説もある。だとしたら、奈良は賢治ファンにとっても聖地となる。
 賢治の歌碑がいくつもできたら、全国から賢治詣での人々が奈良に押し寄せ…と、賢治ファンの妄想は果てしなく広がるのであった。
(作家・詩人)



賢治が泊まったかもしれない菊水楼。本館と旧本館は、明治時代のもので、登録有形文化財

⇒掲載紙面

■奈良から復興の戦士 ならまち暮らし(12)/毎日新聞奈良版 2011年4月6日

寮 美千子

 奈良県下からも、職員、消防をはじめ、多くの人が職務として被災地にかけつけている。奈良市水道局の岡本豊さん(36)は、日本水道協会の要請で給水活動に赴いた。
 1班の給水車2台は16日に出発。原発事故の福島を避け新潟経由で盛岡に。21時間かかったという。岡本さんたちは2班として23日に飛行機で花巻に入り、1班と交代した。
 給水の目的地は陸前高田。被害の少なかった住田町で給水車に水を詰め、2人組で17キロの道のりを走って、1日3往復、水を運ぶ。
 「住田町は一見普通なんです。ところが、陸前高田に入ったとたん、風景が一変しました。ぶっちゃけ、わけがわからなかった」
 原形を留めるものがない。いきなり見渡す限りの荒れ地が広がっていたという。その荒れ地に、車が走れる分だけガレキをよけた道がある。そこを走って目的の避難所へ。
 「海辺はすっかりきれいに片づけられている。と思ったら、違う。すべて波にさらわれ、まっ平ら。基礎しか残っていない。むしろ山際がガレキの山。家も車も押し流されて、積み重なっていました」
「水が引かない土地を重機で片づけていると、新たなご遺体が。胸が痛みます。まだまだたくさんの方が……」
 心も体もくたくたになる。被災者のお年寄りは、夕方になると「遠くに泊まってるんでしょ。きょうはもうお帰りなさい」とやさしい言葉をかけ、飲み物までくれたという。
 被災地では水汲みが子どもの仕事だ。小さな子が何度も水汲みにやって来る。お子さんのいる岡本さんは見ていて涙が出た。子どもたちにと、自費で持参した飴を配ったときの、みんなの無邪気な笑顔が忘れられない。
 いまは4班が活動中という。復興が進み電気が通じると、家に戻って暮らしはじめる人がいるが、浄水場が破壊されたので、当分水道は来ない。飲み水だけでなく、洗濯や風呂の需要が増えている。
「また行きたいと患います。道がずたずたでGPSは頼りにならない。現場を知っている者が行かなければ」
 岡本さんたちは復興の戦士。奈良の誇りだ。


震災後の陸前高田。(上)まっ平らになった海岸沿い(下)海岸から5キロ離れた山際のがれきの山=岡本豊さん撮影

⇒掲載紙面

■いま奈良にできること ならまち暮らし(11)/毎日新聞奈良版 2011年3月23日

寮 美千子

 地震が起きたとき、奈良少年刑務所にいた。ゆらーりゆらりと船のように大きく横揺れし、窓から見えるポプラ並木がいっせいに右に左にと揺れた。まさか三陸沖が震源地とは……。
 繰り返し流れる津波の映像、原発の危機。地震は、日本中を不安に突き落とした。
 奈良町では「ともかくわたしたちに何ができるか、集まって考えてみよう」という催しが開かれた。支援物資を送ろう、という動きもあるが、阪神淡路大震災の時、支援物資の仕分けで大変だったという話も聞く。むしろ、フリーマーケットなどを開いて現金化して送った方がいい。
 イベント自粛の動きもあるが、過剰な自粛は、経済だけでなく、人の心も冷え込ませる。予定通り開催して、寄付を募るのはどうか。
 奈良県も市も、被災者のために公共住宅を提供する用意ができている。しかし、膨大な数の被災者を収容するだけの戸数には遠く及ばない。民間でも、たとえば空き家を2年間無償で提供してもいい、という人もいるだろう。その間、固定資産税免除とすれば、申し出も多くなるはずだ。住宅提供者と被災者とをつなげる行政システムの構築があれば、と願う。
 もしも、被災者がお隣に疎開してくれば、みんな親切にするだろう。薄れていたコミュニティも復活する。仕事が見つかれば、普通の暮らしもできるはずだ。過疎地の農村に入ってもらって、耕作放棄地や荒れた森の手入れをする仕事を積極的に作れないものか。
 一つ提案がある。近鉄奈良駅前の行基広場に大屋根を作る計画の県の予算は1億7000万円。けれど、いま、どうしても大屋根が必要なわけではない。緊急ではない公共工事を中止し、その予算を震災復興に振り替えたらどうか。奈良県下の建設業者を派遣し、1億7000万円分の仕事をしてもらうのだ。被災地も助かるし、奈良県の業者も潤う。税金を払っているわたしたち全員が貢献できるし、何より、行基さんの精神に叶っている。
 被災しなかったわたしたちに、できることはきっとある。みんなで、がんばろう!
(作家・詩人)


近鉄奈良駅前広場の大屋根の完成イメージ図。大屋根よりも、震災復興を!

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■1260回目のお水取り ならまち暮らし(10)/毎日新聞奈良版 2011年3月9日

寮 美千子

 東大寺二月堂・修二会、通称「お水取り」のまっ最中だ。14日間で合計141本の大松明が焚かれる。松明に使われる竹は、古来から奉納されている。奈良の仁伸会も、いつかわからぬ昔から、竹の奉納を続けてきた。
 高齢化してきたため後継者がほしい、とのことで、「根付きの竹」を掘るボランティアをこの欄で募ったのが1月のことだった。根付きだと、ヤジロベエのように松明とのバランスが取れるのだ。竹を伐るだけなら簡単だが、根付きのまま掘り出すのは一苦労。これに、大勢の方が応募してくださった。
 みなさんに来ていただきたかったが、足場も悪く危険も伴う。地元奈良の方を優先して6名の方を選ばせていただいた。
 いよいよ、竹掘り当日の2月11日。奈良はまさかの大雪。翌日に延期して決行した。
 蓋を開けてみると欠席2名。どちらも学生さん。若い力に期待していたのに残念。
 来てくださったのは、長い海外赴任を終え定年で奈良に戻られた方、同じく定年退職して奈良で第二の人生を始めようとゲストハウスを開かれた方、現役バリバリの銀行員と司法書士のうら若き女性だった。わたしと夫も含めて、肉体労働系の人は一人もいないという、ちょっと頼りない応援軍団となった。
 普段から土木工事をなさっている仁伸会の方々は、さすがに動きが違う。ロープの結び方、竹の倒し方、みな鮮やかだ。わたしたちはじゃまにならないよう気をつけ、雪の竹林で、できることをがんばるしかなかった。
 それでも根付き11本を掘り、根無し5本も添えて、翌13日に奉納することができた。
みなまっすぐで8メートルもある立派な竹だ。
 奉納の日は、東大寺の大鐘・奈良太郎の前から手押し車に乗せ、見物の方にも参加していただいて、にぎやかに二月堂まで引いた。
 竹奉納のほかにも、多くの人が様々な形で関わり、1260回ものお水取りが続いてきた。もしかしたら、あれはわたしが掘った竹かもしれない、と思いながら見るお松明。
赤々と燃えあがる炎が、今年は涙でにじむかもしれない。
(作家・詩人)


竹掘り。根を切るのにさんざん手こずってようやく一本確保

⇒掲載紙面

■和人とアイヌ ならまち暮らし(9)/毎日新聞奈良版 2011年2月24日

寮 美千子

 2月はじめに奈良のギャラリーまつもりで「アイヌ工芸作品展」が開かれた。階段を上ると、わっと別世界が開けた。針と糸によって作られたアイヌ文様の着物の数々。植物のようにうねり、螺旋を描くその文様には、和の文化とは明らかに別種の、おおらかな大地の生命が息づいている。一針一針手縫いされた作品。アイヌの女たちは、大切な人の健康と安全の祈りを込めて、着物を縫ってきた。
 制作したのは北海道白老町の山崎シマ子さん(70)とそのお弟子の河岸麗子さん(61)。そして、奈良市の紙谷百合子さん(64)だ。
 交流のきっかけは、キルト作家の紙谷さんがアイヌ文様の源泉を求めて、白老のアイヌ民族博物館を訪れたこと。5年前とその翌年の2度訪れたが、そこで糸紡ぎをしていた山崎さんたちに出会い、たちまち意気投合した。
 アイヌ民族の血を引いているのは山崎さんだけ。その山崎さんも、40歳になるまでアイヌ文化とは無関係に生きてきた。
 「アイヌだと差別される。だから、親からも、アイヌ語をしゃべってはだめ、と言われて育ちました。母は内職でアイヌ刺繍をしていましたが、言葉も刺繍も教えてはくれなかった」
 アイヌ語は、日本語とは文法も異なるまったく別の言語だ。日本政府の同化政策によって弾圧され、いまでは日常会話でアイヌ語を話す人は、一人もいなくなってしまった。
 山崎さんがアイヌ文化に目覚めたのは、40歳の頃、アイヌ民族博物館に「和裁」の腕を買われて就職してからだった。自分たちの文化はこんなにすばらしかったのだと驚き、むさぼるようにアイヌ刺繍に取り組んだ。
 「アイヌは縄文の末裔という読もあります。古い文化の奈良とは、相通じるものを感じる。ぜひ奈良で作品展をしたかった」という山崎さんの夢を、紙谷さんが手伝って実現させた。糸と針が、女たちの心を結んだ。
 アイヌとはアイヌ語で「人間」、和人は「シサム」という。隣人という意味だ。よき隣人でありたい。また奈良に来てくださいね。
(作家・詩人)


アイヌ文様の作品の前で。左から白老の河岸さん、山崎さん。奈良の紙谷さん

⇒掲載紙面

■万葉ひすい ならまち暮らし(8)/毎日新聞奈良版 2011年2月9日

寮 美千子

 東大寺の三月堂の本尊である不空羂索観音の頭上には、2万個を超える宝玉で飾られた宝冠が載っている。この宝冠に勾玉がぶらさがっているのに気づいたとき、仏教なのになぜ勾玉、と不思議に思った。この宝冠は、古代のヒスイ勾玉の最後の使用例だという。平城京造営の折に破壊された古墳から出土した勾玉が使用されている、という説もある。
 先日、新潟の糸魚川を舞台にした音楽劇を書かないか、との誘いがあった。糸魚川といえばヒスイだ。日本の遺跡から発掘されるヒスイの大珠や勾玉はすべて、糸魚川産のヒスイでできている。東大寺の不空羂索観音の宝冠のヒスイ勾玉も、遠い昔、人々の手を経て、糸魚川から奈良へとやってきたものだ。
 豪雪の中、何者かに呼ばれるように糸魚川へ行ってきた。道の駅に展示された、わたしの背丈を大きく超える巨大なヒスイの原石。川の上流に、こんな巨大な原石が転がっていたというのに、昭和13年に再発見されるまで千年以上、日本人は糸魚川にヒスイがあることを忘れていた。現地では漬物石に使っていたというのだから、驚いてしまう。作家・松本清張は、このヒスイ再発見と万葉集の歌を題材に「万葉翡翠」という短編を書いている。
 ヒスイ加工場遺跡の近くの玉石の海岸を、ヒスイを探しながら歩いた。古代の人も、こんなふうに探したのだろうか、と思いながら。
 ヒスイ衰退の時期は、奈良時代の始まりと一致する。大和王権が中央集権を実現する過程で、縄文以来五千年続いた「ヒスイ文化」を否定し封印したのではないだろうか。
 糸魚川から戻った2月2日、天理の石上神宮の「玉の緒祭」に参列した。ここの境内からも、ヒスイの勾玉が11個も発掘されている。ここにも、古い古い文化が息づいていた。
 日本の始まりは、より古い文化の破壊と封印の上に成り立っている。まっ暗闇のなか「ふるふぇ・ゆらぁ・ゆらとぅ・ふるふぇ」という神官のタマフリの言葉に魂を震わせながら、大和王権以前の日本列島に心を馳せた。
(作家・詩人)


糸魚川の「道の駅」の100トン超のヒスイ原石。まず石を運び、石を覆うように後から建物を造った

⇒掲載紙面

■草の根外交 ならまち暮らし(7)/毎日新聞奈良版 2011年1月26日

寮 美千子

 奈良町には「ゲストハウス」と呼ばれる安宿が相次いで誕生している。北京終町の「町屋ゲストハウスならまち」もその一つ。築80年超の大正浪漫な町家を改装。中庭やお蔵もあり、外国人にも人気だ。1階のロビーは旅行者や地元民の交流の場となっている。
 オーナーは「シャープ」を定年退職した技術者の安西俊樹さん。退職金をつぎ込んで、2009年暮れに開業した。以来、世界50カ国(!)からお客さんが訪れている。
 先日は、南米のコロンビアから日本語学校の学生4人と引率の先生が泊りに来た。1カ月半の日本縦断の旅を、自分たちで計画して安宿を泊まり歩いているという。先生のニンフェルさんは、日本語もペラペラの美女だ。
 そのご一行様を、ひょんな事から、奈良漆の樽井禧酔師の工房にご案内することになった。奈良では、正倉院の御物の漆の技術を明治期に復活。美しい螺鈿漆器を、当時の技法のままに、いまも作っているのだ。
 樽井師の説明に、学生たちは真剣に聞き入り、最後には感激の涙さえ浮かべていた。日本の古い伝統、その深部に直接触れたことが、彼らの心に大きな印象を残した。
 その後、未成年の諸君にはお留守番をしてもらって、みんなで近所の立ち飲み屋へ。ブルーカラーのおじさんたちが珍しがって、どんどんおごってくれ、話しかけてくる。店はすっかりラテンのノリの大にぎわいに。
 コロンビアがどこにあるか、いままで気にもしていなかったのに、急に身近に感じられるようになった。内戦の続く国だが、平和になってほしいと心底思うし、コロンビア相手には、絶対に戦争などしたくないと思う。
 人々が交流をして心を交わすこと。それこそが平和の礎、草の根外交だ。あちらも、奈良を忘れないだろう。ただ通り過ぎて見物するだけの観光ではなく、町の人々と観光客が交流できる「場」こそが、いま、必要なのではないか。この町に、真の豊かさをもたらすのは「高級ホテル」などではないと確信した。
(作家・詩人)


奈良漆の樽井禧酔師の工房を訪れたコロンビアの人々

⇒掲載紙面

■奈良から竹送り ならまち暮らし(6)/毎日新聞奈良版 2011年1月13日

寮 美千子

 年が明けて、早くも気になり出すのが東大寺二月堂のお水取りだ。この行事には、膨大な数の市井の人が関わっている。その一つが「お松明」にする竹の奉納だ。3月1日からの14日間分、141本が必要となる。
 昔は「二月堂様」と書いた札をつけて街道筋に出しておくと、村人や旅人がリレーのようにして運んだという。そんなのどかな風習はいつの間にか途絶えてしまった。
 それなら復活させようと立ち上がったのが、京田辺の人々。市民の力で「山城松明講」を作り、昭和53年から毎年7本前後の竹を奉納している。転害門の前では「お迎え式」も行われ、奈良の一大行事となっている。
 と飲み屋で話していたら、「うちだってずっと昔から竹の奉納をしているんだよ」と般若寺町の岡本三好さん(68)。知らなかった。
 聞けば、親の代まで竹屋を営み、岡本さんが赤ん坊の頃から、岡本家では当たり前のようにして竹を奉納してきたという。あまりにも当然のことだったので、いつから始めたのか聞いたこともなかったそうだ。
 岡本さんは現在、土建業だが、いまも毎年、竹の奉納を欠かさない。仲間で「仁伸会」という会を作り、根付きの竹を掘りだして奉納している。昨年は14本も奉納した。
一度手伝ったことがあるが、これがきつい。竹の根がみっしりと絡まって、根を切るのも掘るのも、竹林から出すのもー苦労だ。
 会員が高齢化し、後継者がいないのが悩みの種だという。では、ボランティアを募ろう、ということになった。竹掘りは2月11日(雨天なら翌日)。お弁当と保険つきで1500円。なるべく屈強な、できれば仲間となって毎年いっしょになってやってくれる人が望ましい。申し込みはメールで。詳細はHP(http://narapress.jp)へ。
 なお、13日には、奈良太郎前から竹を台車に載せ、二月堂まで引いて奉納する竹送りの行事を行う。午前10時から参加自由。多くの人に参加してほしい。お子さんもどうぞ!
(作家・詩人)


まんとくんも応援!奈良からの伝統の竹送り

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■闇の中の神聖なる儀式 ならまち暮らし(5)/毎日新聞奈良版 2010年12月15日

寮 美千子

 師走も半ば、春日大社・若宮さまの「おん祭」の季節だ。東京にいるときは「おん祭」の名は、とんと聞こえてこなかった。京都の葵祭でもなく、江戸の三社祭でもない。頭に固有名詞のない「おん祭」すなわち、ザ・祭り。時代衣装をまとった壮麗な行列がある、歌舞音曲が奏され、能が舞われ、流鏑馬も行われる。こんなに盛大なお祭りなのに、なぜ少しも聞こえて来なかったのだろう、と最初はふしぎに思った。もっともっと宣伝して、観光資源にすればいいのに、と。
 しかし「遷幸の儀」に参詣して、あ、これは違う、そんなうわついたものじゃない、厳粛な神事なんだ、と思い知らされた。
 17日の午前0時、春日若宮さまを、お旅所にお遷しする行事が「遷幸の儀」だ。若宮神は、これより24時間、お旅所にて奉納行事をお楽しみになる。
 冷えこんだ夜、森の息吹を感じながら、若宮さまの鳥居まで進んだ。明かりは一切禁止、写真も禁止。月明かりと星明かりだけの清らかな闇のなか、若宮さまのお出ましを待つ。
 やがて「ヲーヲーヲー」という怖ろしげな声が、闇の彼方からにじみ出してくる。声が近づいてくると、姿が見えるより先に、芳しい香りがする。闇を浄める沈香の香りだ。
 2本の大松明が神官に地面を引きずられてやってくる。こぼれた火の粉が、2本の線路のごとく闇に光る。日露戦争の亡霊のごとき軍人姿の人が、提灯を捧げ持ち、火の粉の線路をしずしずと歩いてくる。楽人が続く。そして若宮神の神輿がやってくる。
 神輿は何重にも白衣の神官に囲まれている。神官たちは手に手に榊の葉を持ち、ゆさゆさと揺らし、口々に「ヲーヲー」とみさきばらいの声を上げる。大地から湧いた地霊のようなその声。神代を思わせる荘厳さだ。
 神は怖ろしい存在だ、と身を以て感じた。ああ、これを観光化できるわけがない、してはいけない、だから奈良なのだ、と痛感した。もうすぐ、今年の「遷幸の儀」だ。
(作家・詩人)

(写真)昨年の「おん祭」の「お渡り式」の様子。「遷幸の儀」から24時間、若宮神をお慰めするため、さまざまな行事が奉納される

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■まんとくんは不滅です! ならまち暮らし(4)/毎日新聞奈良版 2010年12月1日

寮 美千子

 いよいよ師走。「平城遷都1300年祭」もフィナーレだ。しかし、メイン会場の平城宮跡会場は、11月7日にすでに閉幕。「紅葉の季節になったら行こうと思っていたのに」と東京の友人たちは残念がる。
 「まんとくん、どうなるの?」という声もあちこちから聞こえてくる。というのも「せんとくん続投・なーむくん転職…まんとくんは現在〈就活中〉で、新たなスポンサー探しに躍起」と一部で報道されたからだ。しかし、これは大きな誤解である。
 ご存じのように、1300年祭を機に生まれたマスコットキャラクターは三つあるが、それぞれの出自も母体も、まったく違う。
 「せんとくん」は、平城遷都1300年祭の公式キャラクター。ところが、このキャラが様々な物議を醸し、反発した奈良のデザイナーを中心に市民ボランティアが結集。自力で公募・公選して決めたキャラが、「まんとくん」だ。「なーむくん」は、南都二六会という寺院団体が独自に決めたキャラクター。
 つまり「まんとくん」は市民が市民のためにつくった市民のためのキャラ。1300年祭のためだけのキャラではなく「奈良」のみんなを応援するキャラだ。みんなのために働くことが、まんとくんの夢であり、使命なのだ。
 市民キャラだから、特定のスポンサーはない。だから、新たなスポンサーを探して就活する必要もない。運営は、今後も市民ボランティア組織「まんとくんネット」が引き続き行う。
 企業が商品にするときだけ、まんとくんネットに使用料1件2万円を納めてもらっている。せんとくんのライセンス契約は約40億円あったという。まんとくんのグッズもたくさん出ているが、あえてロイヤリティにせず、一律2万円の使用料で、使う側の利益に貢献している。県内の企業やお店なら、まんとくんの看板や広告への使用は無料。フリマなどで売る個人の作品への使用も無料だ。
 だから、どしどし使ってほしい。みんなに愛され役に立つことが、まんとくんの望み。
愛があれば、まんとくんは永久に不滅です!
(作家・詩人)


県内のお店のオリジナルまんとくんを制作する「ならコラボまんとくん」も進行中!

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■宇宙一美しい楽器 ならまち暮らし(3)/毎日新聞奈良版 2010年11月10日

寮 美千子

 ならまちに越してきてうれしかったのは、憧れの奈良国立博物館が目と鼻の先にあったことだ。散歩圏内に博物館や美術館があるなんて、なんて贅沢なことだろう。
 広大すぎる東京では、こうはいかない。上野の博物館など、駅から博物館に着くまでに人当たりしてぐったりしてしまう。それが、奈良では鹿と戯れながら歩いているうちに、心地よく博物館に到着してしまう。
 博物館や美術館の入場料だって、映画1本分より安いのだから、人生、これを楽しまないという手はない。
 2007年に開催された県立美術館のシャガール展は夢のようだった。夕暮れの美術館、人もまばらで、シャガールの作品を浴びるように見た。彼の幻想的な心象世界に浸りきって美術館を出ると、霧が出ていて、森の香りがした。シルエットの鹿が行き交い、まるでシャガールの絵の中に迷いこんだよう。これぞ人生の贅沢と心の底から感じた。
 今回の「正倉院展」も、まさにそうだった。「息を飲む」とはこのことか。目玉展示の「螺鈿紫檀五弦琵琶」。角度によって刻々と輝きを変える貝、緻密でダイナミックなデザイン。華麗な装飾が、表ではなく裏にあるのも心憎い。技巧の粋を凝らし、最高の材料を集めて作ったそれは、音を奏でなくとも、存在自体が「音楽」そのものだった。
 写真では絶対にわからない、立体だからこそ感じる究極の美。それを間近に見られる喜び。こんな美しい楽器がほかにあるだろうか。きっと世界一、いや宇宙一美しい楽器に違いない。
 この楽器、実は明治に修理が行われたそうだが、それでも、ここまで美しく再生できる楽器を、1000年以上も前の工人が作り、大切に保存されてきたことは、驚きに値する。
 わたしたちはいま、1000年後に、未来の人に愛でられる品を作っているだろうか。建造物を造っているだろうか。それを、世界とわたし自身に、自問したくなった。
(作家・詩人)


遷都1300年祭でにぎわう平成の大極殿。1000年後の人々に愛でられているだろうか

⇒掲載紙面

■名前も看板もない店 ならまち暮らし(2)/毎日新聞奈良版 2010年10月27日

寮 美千子

 先日、自転車で走っていて、ひらひらと白いのれんが翻る家を見つけた。看板はないが、お店らしい。のぞいてみると、大きな鉄板。お好み焼き屋さんだったので、入ってみた。
 そこへ、白髪のおばあさんが1人、やってきた。手には、ビニール袋に入れたひき肉と刻んだタマネギ。それをお店の人に渡し「これオムレツにして。2人分」という。
 お店のおばさんは「はいよ」と快く引き受け、鉄板で肉とタマネギを炒め、冷蔵庫から卵を6個出して薄焼き卵を2枚つくり、具をきれいに包みこんだ。おばあさんは持参の容器にオムレツを入れ「いつもありがとうね」と、にこにこして帰っていった。
 ふしぎに思い「お代は?」と聞いてみた。
「そんなもん、もらわへんわ」
「でも、卵6個も。お店のでしょう?」
「そや。でも、かまへんねん。柿やら粟やらもらうこともあるし、お互いさまや」
 そう言って、店の人は機嫌よく笑った。
 おばあさんは、店の裏の長屋で独り暮らしをしているという。ここに来れば、いつでも熱い鉄板で料理してもらえるので、毎日のように顔を出すそうだ。
「2人分いうんはね、そのお隣にやっぱり独り暮らしのおじいさんが住んではって、持ってってあげるんや」
 わたしは、胸がいっぱいになってしまった。ここでは、コミュニティが生きている。おばあさんが顔を出さなければ、店の人は、心配して見に行くだろう。孤独死や非実在老人なんて、ここでは、ありえない。
 「おばさん、このお店のこと、新聞に書いてもいい?」と聞くと「お客さんがぎょうさん来たらかなわんから、やめといて」と笑う。
 だから、どことは言えない。名前もないその店は、通称「アイちゃんの店」。アイちゃんのブタ玉とイカ玉、絶品だった。1枚300円也。儲け主義でないその価格も、お財布だけでなく、心にまでジーンとやさしい。
(作家・詩人)


厚い鉄板だから家で作るよりおいしい

⇒掲載紙面

■街中がアートに ならまち暮らし(1)/毎日新聞奈良版 2010年10月13日

寮 美千子

 東京で生まれ、首都圏で育ったわたしにとって、地方都市に住むのは一つの夢だった。5年前に泉鏡花文学賞をいただいて、これならもう日本のどこに住んでも仕事ができるぞ、と長年の夢を実現。4年前の夏に、思い切って、夫とともに奈良町に越してきた。
 なぜ奈良に? と必ず聞かれる。親類縁者がいたわけではない。修学旅行で来て以来、奈良はいいところだと思っていた。静かなお寺がいい。こじんまりとした町の大きさがいい。自転車で走ればすぐに田んぼが広がるのがいい。町家の風情がいい。神社やお寺も山ほどあって、さまざまな講座も開かれている。物書きをしながら、お寺や神社を巡って、ゆっくり暮らそう、と思っていた。
 ところが、そうはいかなかった。怖ろしく忙しいのだ。
というのも、奈良がおもしろすぎるからだ。年がら年中、どこかで伝統行事がある。お寺や博物館の講演もある。
 興味のままに走り回るわたしを見て、東京の編集者は「ああ、寮美千子を奈良にやったのは間違いだった!」と嘆息した。
 10月のはじめにも「奈良アートプロム」という現代美術の催しがあった。県下90カ所の会場で、200人ものアーティストが作品を発表。その多くが奈良町に集中していた。これを見逃すわけにはいかない。
 散歩がてら上質な現代美術に巡りあえる喜び。それだけではない。ビルの屋上にある会場からは、そこからしか見えない風景が広がっていた。
町家の奥にしつらえられたかわいらしい坪庭、古いお蔵の瓦の美しさ。表通りからは見えないものばかりだ。
 長屋の空き部屋をギャラリーにした会場では、普段入れない小さな路地の奥で、幻想の生き物の群れを措いたふしぎな絵に出会った。長屋は画家のお祖母さんのものだそうだ。
 古いものだけが魅力なのではない。いま生まれつつある新しい文化の息吹。それもまた楽しくて、ますます忙しくてならない。


“ギャラリー”となった小さな路地

⇒掲載紙面

■「愛」を因数分解して残った美しい詩/CDジャーナル・ムック『ジョン・レノン・フォーエヴァー』

寮 美千子

死後一〇年を経て、はじめてレノンに出会った


 一九六六年のビートルズ来日の時、わたしは十歳。ビートルズ世代に参入するには、少し幼すぎた。その後、ビートルズやジョン・レノンと関わるきっかけもなく時は過ぎ、一九八〇年にジョン・レノンが銃撃された時も、わたしは世界と、その衝撃を共有することはできなかった。
 わたしがジョン・レノンに出会ったのは、それから一〇年も後のことだった。レノンが亡くなった年にはじめた結婚生活が一〇年を経て破綻、離婚をした年のことだ。
 わたしは、レノン・マニアでもビートルズ・ファンでもない。音楽評論家でもない。だから、そんな極私的な出来事を出発点にしてしか、ジョン・レノンを語れない。そのことを、どうかしばしの間、ご寛恕いただきたい。
 わたしは打ちのめされていた。憎みあったわけでもないし、互いに他に恋人ができたわけでもない。愛情を失ったわけでもなかった。それなのに、別れざるをえないところに自らを追いこんでしまった。そのことに深い敗北を感じていた。
 別れた夫は、きっといつか新しいパートナーと巡り会うだろう。巡り会って幸せな人生を送ってほしい。そう思う反面、もしそうなったらと想像するだけで、どうしようもない喪失感を覚え、まだ出現もしていない相手に嫉妬さえ感じる自分がいた。共に過ごした一〇年という歳月が、すべて無に帰すような虚しさを感じないではいられなかった。
 そんな時だった、ジョン・レノンに出会ったのは。いや、正確には「レノンの言葉」に出会ったのだ。それは、タック&パティが歌う「In My Life」だった。こんな意味の歌だ。
 過ぎ去った時のなかで出会い、共に過ごしてきた昔の恋人や友人たち。思い出とともにあるなつかしい故郷の風景。そのすべてを愛してきたし、これからも、そこから得た影響を失うことは決してない。過去に出会ったすべてを慈しむ気持ちは消えないけれど、いま出会った新しい愛を思えば、そのすべてが色褪せてゆく。
 木訥に語られたシンプルな言葉。それなのに、その言葉は限りなく強く、そしてやさしかった。新しい恋人への強い思いを語りながらも、人生をそこへ導いてくれた過去のすべてを深く慈しむ心が語られている。人はみな、さまざまな喜びや痛みを重ねながら「その人」になっていく。そのことの豊かさを「In My Life」はごく当たり前の日常の言葉で、驚くほど的確に表現していた。
 「In My Life」に、わたしは救われ、癒された。過ぎ去った十年間を、ようやく肯定できるような気がした。そして、何が待っているかわからない未来を受け容れる勇気を得た。わたしは自分の過去を肯定し、見知らぬ未来を受容するためのイメージ・トレーニングをするように、何度も何度も、繰り返しこの曲を聴いた。
 これをきかっけに、わたしはジョン・レノンの曲を意識して聴くようになった。

シンプルな美しさと驚くべき豊穣さ


 「In My Life」は、一九六五年のビートルズのアルバム『Rubber Soul』に収められた曲で、レノンがリヴァプール時代を追懐して書いたというラヴ・バラードだ。曲の中で語られる過去を通過して巡り会う「新しい愛」のイメージも、レノンは別の曲で見事に表現していた。一九七一年のアルバム『imagine』に収められた「Oh My Love」がそれだ。
Oh my love for the first time in my life
My eyes are wide open
Oh my love for the first time in my life
My eyes can see

I see the wind, oh I see the trees
Everythihg is clear in my heart
I see the clouds, oh I see the sky
Everythihg is clear in our world

Oh my love for the first time in my life
My mind is wide open
Oh my love for the first time in my life
My mind can feel

I feel sorrow, oh I feel dreams
Everythihg is clear in my heart
I feel life, oh I feel love
Everythihg is clear in our world

(筆者訳)
愛しい人よ あなたに会って 
生まれてはじめて 目が見開かれた
愛しい人よ あなたに会って
はじめて 世界が見えてきた

風が見える、木々が見える
心に映る すべてが美しい
雲が見える、空が見える
世界のすべてが 輝いている

愛しい人よ あなたに会って
生まれてはじめて 心を開くことを知った
愛しい人よ あなたに会って
世界を 感じられるようになった

悲しみを感じる 夢を感じる
心に感じる あらゆるものが色鮮やかだ
いのちを感じる 愛を感じる
すべてが くっきりと立ちあがってくる
 新しい愛に出会い、心が開かれて、世界を新鮮なものとして、よりいきいきと感じられるようになった初々しい姿が描かれた作品だ。
 試みに思いきって意訳してみたけれど、原文のシンプルな美しさにはとても及ばない。中学生英語のような簡単な語彙と文法なのに、原文は、驚くべき豊穣さを湛えている。深く、そして多重的な意味が、背後に広がっている。
 少し詳しく見てみよう。一番で「目が開かれる」とあるのが、二番で「心が開かれる」に転じる。それに続く言葉も、目に見える風や木といった事象から、心に映じる悲しみや夢に転じていく。
 「Everythihg is clear」に続くフレーズも、繰り返しによって「in my heart」から「in our world」へと広がっていく。その広がりを、無理のない日本語に置き換えようと試みたが、わたしにはとうとうできなかった。
 一番二番に一貫して使われている「clear」という言葉にしても、実にさまざまな意味が込められている。原文のように、たった一つの単語で表現することも、わたしには無理だった。降参するしかない。
 もちろん、こんなことはあえて解説するまでのこともなく、一見すれば、誰にでもすぐにわかることだ。
 無駄のないシンプルな言葉による、数学的ともいえる美しい構成。複雑な「愛」を因数分解して、最後に残った美しい式。これを「詩」と呼ばずして、一体何を詩と呼んだらいいのだろう。

弱さをさらけだすという強さ


 驚くべきことに、この作品の原形といわれる作品「love」は、これよりさらにシンプルなものだった。
Love is real, real is love
Love is feeling, feeling love
Love is wanting to be loved

Love is touch, touch is love
Love is reachling, reaching love
Love is asking to be loved

Love is you
You and me
Love is knowing
We can be

Love is free, free is love
Love is living, living love
Love is needing to be loved
 be動詞「is」をはさむ前後の単語を入れ替える。それだけで魔法のように、意味がくるっと翻り、爽やかな風を巻き起こしながら豊かな愛の世界が広がっていく。
 このシンプルさは、因数分解を超え、もはや宇宙の法則を表現する数式のようだ。俳句のような清明な奥深さ。実際に、オノ・ヨーコを通じて知った俳句の影響もあるという。
 ヨーコへの愛を歌ったといわれるこの歌は、臆面もなく「愛とは、愛されることを求めること」「愛とは、愛されることを必要とすること」といいきっている。
 「愛とは乞うものではなく、与えるもの。見返りを求めてはいけないもの」という強迫観念にがんじがらめになっていたわたしは、「love」のシンプルな断定の言葉によって、解放される思いがした。人間は誰かに愛され、必要とされたいと願わずにいられない生き物。愛されたいと願うことそれ自体が既に愛。むしろ、それを認め、弱さをさらけだすことで、本当の強さを得られるのかもしれない。そんなイメージを抱くことができた。
 ジョン・レノンの詩には、自分の弱さを認めたり、感情を臆面もなく吐露することで、ある透徹した境地に至った強さがある。
 前掲の「Oh My Love」も、まるで死を意識した人が見るという世界の鮮やかさに似ている。死期を悟り、きょうという日が、二度と戻らない掛け替えのない一日だと知ることで、人はなんでもない日常のすべてに、限りない美しさを感じるようになるという。草も木も、すべてが輝いて見える。人を深く愛するとは、人が死すべき存在であることをはっきりと感じることなのかもしれない。
 自らの弱さをさらけだしたレノンの作品には「Jealous guy 」「Woman」「Mother」など、他にもすばらしい作品がいくつもある。自分の息子に対して臆面もなく、美しい子よ、と呼びかけている「Beautiful Boy」もまた、その系列に数えあげていい作品だろう。センチメンタルに過ぎる、という声もあるが、わたしは、あきれるほど正直に心を吐露した言葉に、心を打たれる。
 ここには、我が子を愛する喜びがこれ以上ないというほど素直に表現されている。と共に、実の父や母にそのように愛されたかったレノン自身の像が重なっているのかもしれない。この歌を発表してほどなく、あの事件が起きて、レノンが世を去ることになったことを思えば、胸が痛まずにはいられない。

時代を超えて普遍に触れる力強い言葉


 誰もが知っているジョン・レノンの代表作「Imagine」は、自己の弱さを透徹して見つめることの果てに存在した。だからこそ、それはまっすぐに人々の心に届いたのかもしれない。9・11の後、世界中の人々が「Imagine」を歌った。それは、この歌の強い訴求力を示すと同時に、その思想のナイーブさを露呈することにもなった。確かに、無垢な魂を夢見て歌うだけでは、この世界は動かない。けれどまた、何度もそこに立ち返るところからしか、何もはじまらないということも厳然たる事実だ。
 人々が何ひとつ所有しない夢の世界を歌いながら、自らはその莫大な財産を手放すことができなかったジョン・レノン。その矛盾を抱えながらも「Imagine」は、いまも輝きを失わない。恐らくは、ひとつの究極の思想を語る美しい言葉として、この歌は、いつまでも残っていくだろう。アメリカ先住民のシアトル首長が語った言葉が、伝説のようにいつまでも語り継がれたように。
 レノンは、時代の中に生まれ、時代の中で育ち、自らが時代を作りだしていった人だった。けれども、彼の詩には、明らかに時代を超えて普遍に触れる力を持ったものがある。ジョン・レノンは永遠に触れた。現実のジョン・レノンがどのような生き方をしたとしても、その事実は変わらない。それを、彼の詩は示している。
 その死後一〇年を経てわたしがレノンに出会い、時代とはまったく無関係なところで深く心を動かされたということも、それゆえであると確信する。
 オノ・ヨーコといっしょになった後、レノンは二人の裸体写真をアルバムの表紙にしたり、「ベッド・イン」をしたりと、一見エキセントリックとも思える数々の行動に出た。それは、時代を強く意識した行動であると同時に、時代を超える超然とした場所に、ほんとうの自分の居場所を求めようとした結果の、必然としての突出であるように思われて仕方ない。

http://www.cdjournal.com/Company/products/mook.php?mno=20050223


■科学する心が世界を結ぶ/『PHP』2010年8月号 特別企画「みんなで科学実験」特別寄稿〈子どもたちへ〉

寮 美千子

 みなさん、夏には海や山に行くことが多いと思います。夜、空を見あげたら、たくさんの星を見ることができるでしょう。きれいだな、とだれもが思うでしょう。古代の人々も、きっとそう思ったに違いありません。そして、考えたことでしょう。あれは、なんだろうか、どうして光っているのだろうか、と。
 そして生みだしたのが神話でした。死んだ人の魂が星になったとか、夜の闇天井に開いた穴から天の国の光がもれてくるとか想像したのです。だから、世界中に、いろいろな神話があります。同じ北斗七星でも、それを空に住む熊だと思ったり、天のひしゃくだと思ったり、それぞれに違います。
 いまから四百年ほど前のこと、望遠鏡を作って、星を観測した人がいました。月や星の動きを調べるほど、その人は、太陽や月が平らな大地の上を回っているのではなくて、太陽の回りを地球が回っているのではないか、と思うようになりました。その人の名はガリレオ・ガリレイ。地動説を唱えた人です。
 みんな、びっくりしました。だって、大地は動かないと思っているのに、ガリレオは、その大地が動いていると言ったからです。
 もちろん、ガリレオは、あてずっぽうな空想で、そう言ったのではありません。星空をしっかりと観測して、どういう仕組みになっているのだろうと考え、その考えと観測の結果が一致したので、そう結論したのです。
 けれど、ガリレオのいたその頃のヨーロッパでは、キリスト教がたいへんな権威だったので、神さまを否定するようなことを言うガリレオに腹を立てました。そして、有罪にしてしまったのです。
 それから年月が過ぎ、やっぱりガリレオの言ったことは正しかったのだと、世界中の人が知るようになりました。地球は太陽を巡る惑星。太陽系で唯一生命を繁らせる青い惑星であることを、たいがいの人が知っています。それは「科学的事実」だと言われます。
 科学的とは、どういうことでしょうか。
 それは、世界はどんなふうにできているのだろうと疑問を持つこと。それを確かめるために観測したり実験をして、その結果からこうではないか、と考えること。その考えが正しいかどうか、それを確かめるためにまた観測や実験を重ね、だれもが「確かにそうですね」と言える事実を見つけていくことです。
 大昔の人が世界を理解しようとして作ったのは神話でした。神話はすばらしい文化です。しかし、想像して作った物語ですから、事実とは違いますし、それぞれの民族や宗教で、考え方もみんな違います。
 しかし、科学の目で見れば、どんな国の人から見ても、地球は一つの惑星、豊かな生命を繁らせた青い惑星なのです。ひとつひとつの命が、生物の種が、長い長い進化の末に生まれた、かけがえのない大切なものであることを、科学は教えてくれます。それは、あらゆる宗教や国境を越えて、わたしたちを結んでくれるでしょう。
 むずかしいことではありません。どうしてだろう、なぜだろう、という気持ち。それこそこそが、科学のはじまりです。さあ、あなたも科学の目で、世界を見つめてみませんか。

■メガスター誕生物語 ある科学少年の軌跡

寮 美千子

【川崎市青少年科学館プラネタリウム メガスター上映会】シナリオ 2004年03月 

はじめて星に興味をもったのが、いつのことだったかは覚えていない。
けれど、ぼくはいつしか、夢見るようになっていた。
本物の星空のようなプラネタリウムを、いつかこの手で作りたいと。

(しし座投影。しし座の解説。子どもの泣き声重なる)

幼稚園の時のことだ。遠足でプラネタリウムに行ったとき、
ドームに映しだされたしし座の絵がこわくて、ぼくは思わず泣きだしてしまった。
プラネタリウムは、幼いぼくにとって、ただ暗くて恐い場所でしかなかった。

学校では、典型的ないじめられっ子で、ずいぶんひどい目にもあった。
そんなぼくの気持ちをやわらげてくれたのは、植物だった。
ヒマワリの種が、土から芽を出したときの驚きは、いまも忘れられない。

もうひとつ、大好きだったのが、工作。動物から飛行機まで、紙でなんでも作ってみた。
レールを敷き、モーターをつけた紙の電車を走らせようとしたこともある。
自分の手でなにかを作りだし、それを動かすことの楽しさ。
ぼくはそのころ、物を作ることの面白さを覚えたのかもしれない。

小学校3年生の頃、川崎に引っ越してきた。小学校の向かいに、小さな文房具屋があった。
工作に使うボール紙や画用紙が山ほどあって、そこはまるで宝島。
その文房具屋が、ぼくの人生の方向を決める重大な場所になるなんて、
その時は思ってもみなかった。

ある日、ぼくは棚の隅に置かれた小さな瓶を見つけた。夜光塗料だった。暗闇で光る液体。
まるで魔法のようだ。胸が高鳴った。すごい掘り出し物を発見した気分になった。
百円ほどのその瓶を買うと、さっそく家にかえっていろいろなものに塗った。
夜になるのが待ち遠しかった。

(夜光塗料で塗ったいろいろなが光る。おもちゃの骸骨など)

そんなある日、突然、思いついたんだ。これで、星を作ったらどうだろうかと。
夜光塗料で星を作って、部屋の壁にオリオン座の形に貼ってみた。

明かりを消したときの感激は、とても口ではあらわせない。
まさにほんものの星のように、オリオン座が堂々と輝いていた。

自分の手で星空を作りだせるなんて! あの遠いきらめきを、ぼくがこの手で作れるなんて!

ぼくは夢中になった。北斗七星、カシオペア、アンドロメダ。次々と星座を作っていった。
星の地図を買ってきて、五等星までちりばめた。
無数の夜光塗料の星が、ぼくの部屋にきらめいた。

うれしくてうれしくて、誰かに見せたくてたまらなくなった。
家族や友だち、親戚のおばさんまで呼んできて見てもらった。
夜光塗料の矢印のついた棒を作って、自己流の星座解説もした。
おどろいてもらえば、自慢だ。よろこんでもらえば、うれしい。

それなのに、ぼくの心には、だんだんと不満がつのっていった。
もしかしたらぼくは、とても欲ばりな人間なのかもしれない。
ほめられただけじゃ、満足できない。
だって、ぼくのプラネタリウムは、動かない。
動かしてみたい。いつか科学館で見た本物のプラネタリウムみたいに。

そんな時だった、ここにやってきたのは。
校長先生が紹介してくださったんだ。川崎市青少年科学館の若宮さんに。
(若宮氏 語り)
こっちちょっとおいでよ。ここ、これ、コンソールっていってね、
プラネタリウムの機械を操作するところなんだけど、おいでおいで。
でね、このスイッチがね、星を出すスイッチ。これを回すと星が出るんだよ。
それから、このスイッチを、こっちへ倒して回すとね、機械がこうやって動くの。
やってみる? やってごらん。うん。どう? いいでしょう。面白い?
夢みたいだった。ダイヤルを回すと、機械が動き、星空がめぐった。
天の川がでたり、太陽がついたり消えたり。何でも自由自在だった。
天を自由にあやつる、すごい魔法を手にしたみたいだった。

あっというまに二時間がたっていた。
帰りぎわ、ぼくがプラネタリウムを作っているというと、若宮さんは、こういってくれた。
(若宮氏 語り)
ああ、いいねえ。プラネタリウムを作るっていうのは、ほんとうにすばらしいことだものね。
もし、困ったことがあったり、またできないことがあったりしたら、いつでも相談においで。
できたら、また、ぜひおじさんにも見せにきてほしいね。
それからというもの、ぼくはプラネタリウム作りに夢中になった。
わからないことがあると、若宮さんに聞きにいった。
隣のおじさんにもよく質問しにいった。
すごい偶然だけど、隣りのおじさんは、カメラメーカーのエンジニアだったんだ。
(若宮氏 語り)
大平君は来たのは、確か小学校5年生ぐらいだったと思うんですけど、
来たときはもうほんとにしつっこい子どもでね、
普通の子は、だいたいプラネタリウムの投影が終わると
星のことを質問に来たりするんですけれども、
彼はともかく、解説台のわたしとのところへきて、あの機械はどうなっているんだ、
これはどうなっているんだって、メカのことばっかり聞くんです。
それもしつっこく聞くんですよ。そういう子どもで、
まあ、変わった子どもではありましたよね。
あれが、ぼくのほんとうのはじまりだったかもしれない。
コンソールで自由自在に動かした天空の星々。
その驚きをプラネタリウム作りに注いだぼくを、やさしく見守ってくれたおとなたち。

小学校6年生。
レンズ式のプラネタリウムをつくりたくて、
さんざん探しまわって訪ねあてた町田のレンズ工場のおじさんは、
検査落ちのレンズを紙袋いっぱい、ぼくにただでわけてくれた。
レンズ式のプラネタリウムを作ることは、あの時はできなかったけれど、
ぼくは、レンズを好きなだけいじって、その原理を体で覚えることができたんだ。

中学3年。
受験を終えたぼくは、太陽や惑星の投影機を備えた本格的なプラネタリウムに初挑戦。
完成想像図を何枚も描いては、休み時間もひたすら原図に星をプロットしていた。

高校1年。
物理部の仲間たちもまみこみ、
いっしょにつくったピンホール式のプラネタリウムの第1号機がついに完成。
文化祭で発表して、大評判になった。

高校2年。
ハレー彗星がやってきた。
72年に一度、地球に近づくその彗星を見るために、ぼくはオーストラリアに渡った。
ぼくを驚かせたのは、美しい尾をひくハレー彗星だけじゃなかった。
その星空の、きれいだったこと! 

空を二つに分けるように、光の帯が長々と横たわっていた。
頭上でひときわ明るく輝いているのは、銀河系の中心だ。
その光には、きめ細かい濃淡や模様がある。
単なる光のかたまりではない。どこか、細かい粒子が感じられる。
天の川は、とてつもない数の星の大集団だ。

ああ、こんな星空を作りたい。見るだけで吸いこまれてしまいそうな、
永遠にじかにさわれるような、そんな星空を作りたい。

プラネタリウムが作りたい一心で、ぼくは、大学も機械工学科へ進学した。
恒星原板に、髪の毛より細い穴を空けるため、
自宅の7畳間に、手作りの工作機械をおき、精密作業のためのクリーンルームも作った。
ぼくの7畳間は小さな実験室で、星をつくる工場になった。
プラネタリウムのために、大学を休学もした。
町工場で電気修理の仕事をして、資金稼ぎと技術習得の一石二鳥だ。
そうやってぼくは、大学生活のすべてをプラネタリウムに捧げた。

構想から4年。
とうとう、はじめてのレンズ式プラネタリウム、アストロライナー1号機が完成した。
本体の重さ80キロ。大学祭を皮切りに、
ぼくは仲間たちと、その重たいプラネタリウムとを持って、全国で公演して歩いた。

だれもが、小さな七畳間から生まれた本格的なプラネタリウムを見て、賞賛の声をあげた。
それなのに、ぼくは不満だった。あの時と同じだ。
夜光塗料で作りだした星空を、だれもがほめてくれたのに、
どんどん不満がつのらせた幼い日のぼくとかわらないぼくが、そこにいた。

オーストラリアの、あの吸いこまれるような星空を作りたい。
無限の広がりを感じられる星空を、ぼくの手で。
それを、どこにでも運べるようにしたい。
乗用車で運べるような小さなものを作って、世界中のみんなに見せてあげたい。

大学院を出て、就職しても、ぼくの日々はプラネタリウムを中心にまわっていた。
自宅の七畳間には、とうとうレーザー光線の機械をいれることにした。
まだだれも作ったことのない、
170万個の星を投影する夢のプラネタリウム「メガスター」を作るために。

実験に次ぐ、実験。失敗に次ぐ、失敗。
改良に次ぐ、改良。果てしない試行錯誤の末に、ようやく一枚の原板が完成した。
はやる気持ちをおさえ、原板をセットする。スイッチを入れ、部屋の明かりを消す。

そのとたん、天井が抜けたかと思った。オリオンの透明な輝き。
その背景のかすかな、しかし膨大な数の星がうみだす奥行き感。
わずか1メートル先の天井に、無限の奥行きが現われたのだ。
すごいものを作りだそうとしているという実感に、身が震えた。
(若宮氏語り)
ぼく、彼のアストロライナーっていう機械もみてるんですよ。
日大の体育館でエアドームでやった時、その時は、それほど感動はなくて、
おお、こんな機械作ったのか、ちょっとあそこがずれてるみたいだ、
ちょっとおかしいんじゃない、とかって彼にはいったりなんかした、
そういう記憶はあるんですけどね。
でも、メガスター見たときは、ほんとにびっくりしましたね。
すーごくリアルな星空だったんです。本物の星空、以上に本物っていうのかな。
ほんとに、メガスター見たときは、ぼくはびっくりしました。
1998年6月
完成したメガスターをロンドンで初公開。
いままで、一万個前後だったプラネタリウムの星の数を、一気に170万個まで性能を上げ、
各国のプラネタリウム関係者から賞賛を浴びる。

2000年12月
青山スパイラルホールで、メガスター国内初公開。
その美しさは、天文ファン以外の人々をも、深く魅了する。

2003年6月
410万個の星を投影する新型機種メガスターIIを渋谷・旧五島プラネタリウムで公開。
天の川のひとつひとつの星が光る空前絶後の星空に、大行列ができる。

2003年10月
大平貴之氏、川崎市アゼリア輝賞受賞。
「次代を担う子どもたちに夢と勇気をもたらした」ことが受賞理由のひとつとなる。

2003年11月
大平少年がはじめてコンソールに入ってプラネタリウムを操作した川崎市青少年科学館で、
メガスターII 特別公開が行われる。
(大平氏語り)
小学校高学年のときに、ここにはじめておじゃましたんですけども、
その時にまず若宮さんがいろんなことをとっても親切に教えてくれて、
とにかく機械の操作を自由にさせてくれたっていうのは、
ぼくにとってはありえないことでしたし、それは感動っていうか、びっくりしたし、
感激したし、こういうものをいつかつくってみたいって気持ちにもなったし、
それがいまでも、すごく記憶に残ってますよね。
あの時がなかったら、いまこんな、ここまでやってなかったかもしれませんし。

(若宮氏語り)
一途ですよね。彼はほんとに一途な少年でした。
とにかく、プラネタリウムを自分で作るんだ、
自分で納得できるプラネタリウムを作るんだっていうので、一途、一筋でやってきた、
ほんとにめずらしい人間ですよね。
ぼくは、見ていて、ほんとすばらしいな、あれだけ、子どもの頃、いだいた夢を、
ずうっと抱き続けて、それをまっしぐらに進める、
こういう人間っていうのは、ほんとうにしあわせだなって思いました。

(大平氏語り)
ぼくはここのプラネタリウムを通じて持ったプラネタリウム像というのは、
やっぱりひとつは人の手のあったかさであり、
ひとつは自分がとても真似できない超越した技術であって、そういう意味じゃ未来であり、
なおかつ大自然そのものみたいな、自然界と人のぬくもりとテクノロジーっていうのかなあ

(若宮氏語り)
大平君はいままで、とにかく自分の理想としているプラネタリウムを作ろうというので、
いっしょうけんめい、こう、いろんなことをやってこられたわけですが、
ついにそれを実現して、そして、そのすばらしいプラネタリウムを作った、
そのプラネタリウムが、こんどは人々に感動を与えるっていうことに、
こんどは自分自身のよろこびを感じるようになった。
そういう一歩成長した人間、そういう姿を、ぼくは大平君に見るんですね。
ですから、これからも大平君が、どんどんこのメガスターを使って活躍をしていくのを、
ぼくもいっしょうけんめい力一杯応援していこう、そういうふうに思っているんです。

(大平氏語り)
うれしかったことは、やっぱりね、カップルが手をつないでね、それでね、
「すてきすぎて、隣にいる恋人と結婚したくなりました」って感想書いてあったんですよね。
これは、泣けましたね。マジいっ?って、うわ、マジいっ?感じでしたね。

(若宮氏語り)
例えば、このリアルな星空を見ることで、ほんとうに心が癒されるっということがありますし、
このリアルな星空を見ることで、ほんとうに自然ってすばらしいんだなあ、
っていうふうに思う気持ちが湧いてきたりしますし、
ほんとに自然って美しいんだなあって感じる人もいるでしょうし、そういうようなことで、
このメガスターを使ったプラネタリウム・プラス・アルファのこれからの使い方っていうのは、
必ずできると思うんで、
ですからわたくしは、いまこのメガスターの星空のもとで、
人間が、人間の感性が揺さぶられるような、そういう投影、
人間の心がきれいになるような、そういうプラネタリウムの投影、
メガスターの投影っていうかな、それを期待しているんですけどね。

(大平氏語り)
ひとつは、プラネタリウムで持ってる要素っていうのは、まあ、感覚的な感動ですかね、
もう理屈抜きで、星とか星座ってさっぱりわからないけど、
ともかくうわーっていう感動ですよね、
もうひとつは、メガスターというものが、本来持っている、
より遠くのより暗い星を忠実に映してるという天文学のシュミレータやってるベースに立って、
宇宙のうわーってきれいだったその天の川っていうのは、実は星の集団で、
ぼくらは銀河系の中にいてそういう感覚を出せるような、
そういう意味では、知性と感性の、両面の魂を揺さぶるようなものを
やっていきたいなと思いますよね。 

(若宮氏語り)
きざないいかたですけど、人間も星くずから生まれたわけですよね。
ですから、宇宙っていうのは、人間の本源的なふるさとだと思うんです。

メガスターのようなすばらしい星空を見て、人間の心が揺さぶられるっていうのは、
やっぱり宇宙の塵から生まれた、
人間のふるさとを知りたいという人間の本源的なものに触れるところがあるからだって、
そういうふうにぼくは思いますけどね。
夢は実現する。強く夢見つづければ。永遠はそこにある。限りなく美しい星空のなかに。

http://ryomichico.net/bbs/lumi0043.html#lumi20040327131912


■地上でいちばん美しい夢/西はりま天文台20周年記念誌

寮 美千子

地上でいちばん美しい夢

 それはひとつの夢だった。人が見ることのできる夢のなかで、もっとも純粋で透明な、そしてもっとも巨きな夢。どこまでも遠い空の果てを見たいという希みを叶えること。叶えるための望遠鏡をつくること。その望遠鏡で宇宙の深淵をのぞくこと。すべてのはじまりに触れること。それをだれかの特権ではなく、だれもが平等に見ることのできるものにするということ。そして、その驚きと喜びを語り明かせる場をつくること。
 その夢が、まだ夢だったとき、熱く語っていらした黒田武彦先生のことを覚えています。
 そして、生まれた西はりま天文台。それが、人々にどれだけの喜びと安らぎを与え、未来への希望を育んできたことか!
 この惑星最大の公開望遠鏡「なゆた」が誕生したとき、誕生を祝って絵本『遠くをみたい―星の贈りもの』を作りました。その一節を、お祝いの言葉に代えさせていただきます。

 人は空を見あげ 遠い星をおもう
 月の彼方 星の彼方 宇宙の果てをおもい
 遠く さらに遠くを見たいとおもう

 なぜか しらないけれど
 人は そんな生き物
 たかだか百年の命しかない
 小さな体のなかに 太陽系の広がりを宿す

 なぜか わからないけれど
 人の心には 翼がある
 心は 光よりも速く
 宇宙の果てへと かけていく
 
 地上に結晶した美しき夢「西はりま天文台」が時を超えて成長し続けますように!


            2010/5/9 西はりま天文台20周年記念式典にて配布した記念誌より

http://www.nhao.jp/nhao/researches/symposium/docs/nhao20yr/4-7_p52.pdf


■作品が後世に読まれるためにすべきこと/著作権保護期間延長に反対する/『詩と思想』2008年5月号

寮 美千子

芥川龍之介の憂い

 大正八年、芥川龍之介は、新聞にこのような文章を寄せています。
 時々私は廿年の後、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、堆い埃に埋もれて、神田あたりの古本屋の棚の隅に、空しく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの図書館に、たつた一冊残つた儘、無残な紙魚の餌となつて、文字さへ読めないやうに破れ果てゝゐるかも知れない。
(「後世」より一部引用 初出:「東京日日新聞」大正8年7月27日)
 当時、すでに高く評価され、いまも広く人々に読み継がれる文豪・芥川龍之介でさえ、時代の波のなかで作品が埋もれ、読まれなくなることを案じているのです。
 後世に読み継がれること、それはすべての創作者の切なる願いではないでしょうか。わたしのようなマイナーな作家はもとより、ベストセラー作家であったとして、五十年先、百年先はどうだろう、と考えはじめると、誰しも不安を覚えるでしょう。
 時代の流れはあまりにも急です。五十年後の世界がどんなものであるのかを予測するのは不可能と言ってもいいでしょう。五十年前、つまり昭和三十年代はじめ、今日のようにインターネットが普及し、誰もが携帯電話を持つ世界が到来することを、だれが想像したでしょう。SF作家でさえ予想できなかったことです。いまから五十年後の世界を正確に予言できる人はいないでしょう。 
 そのように激しく移り変わる時代のなか、どうしたら作品を埋もれさせずにすむか。コンスタントに売れ続け、再版に再版が重ねられること。それに越したことはありません。
 しかし、そのような作品はごく稀です。多くが時の波に埋もれてゆきます。その時、その作品を発掘して再評価し、新たに出版する人がいれば、作品は生き返ることができます。そして、さらに未来へと読み継がれていく可能性が、ぐっと大きくなるのです。
 そのためには、未来において、作品がたやすく出版できる状況が整っていることが何よりも大切です。出版のために非常な困難が伴うとしたら、誰がわざわざ過去の作品を発掘して出版するでしょう。
 実は、その未来の再出版を困難にする恐ろしい法律改正の動きがあります。著作権保護期間を、現行の著者の死後五十年から、七十年に伸ばそうというのです。

保護期間延長の弊害とは?

 著作権保護期間が著者の死後七十年になると、未来においてどうして作品を出版しにくくなるのか、作品にアクセスしにくくなるのか。それについてご説明しましょう。
 著者が亡くなると、著作権は相続権のある遺族などに移譲されます。著作権継承者は、著作者本人と同じ権利を持ちます。著作物が出版されれば、著作権料を受け取り、出版の可否も著作権継承者に委ねられています。
 もし、著作権が著作者の三人の子どもに継承されたとして、そのうちの一人でも出版を承諾しなければ、出版はできません。つまり、著作権継承者全員のオーケーを取らなければ出版はできない、ということです。
 これは大変なことです。一体誰が著作権継承者なのか、調べるだけでも困難なことです。個人情報保護が徹底されてきた今日、気の遠くなるような作業になることは必至です。
 さらに著作権継承者が複数であったなら、全員の了解を得なければ、出版もできません。もちろん、著作権料も発生します。出版のハードルが非常に高くなります。
 著作権切れとなれば、このハードルがすべて消失します。著作権継承者を探しだす必要もなく、承諾を取る必要もありません。著作権料を支払わなくてもいいので、採算ベースに乗りやすく、出版が容易になります。つまり、著作権切れと判明している作品であれば、自由に出版できる、ということです。
 現行の著作権保護期間は、著作者の死後五十年ですが、文化庁では、これを七十年に延長しようと検討しています。そうなったら、どうなるか。著者の死後七十年後、著作権継承者は、孫を通り越して、ひ孫ひひ孫の代になっています。そのひ孫がどこに何人いるのか、把握することは困難を極めるでしょう。著作権継承者探しは、古代遺跡の発掘に等しい途方もない作業になることでしょう。
 そんな苦労をしてまで過去の作品を発掘・出版する人が、どれだけいるでしょうか。となれば、時の波に埋もれていく作品が多くなることは目に見えています。

ミッキーマウス延命法?!

 なぜ、このような悪法が推進されようとしてるのでしょうか。アメリカでは一九九八年に著作権延長法が成立し、著作物の保護期間が死後七十年、公表後九十五年となりました。巷では「ディズニー法」「ミッキーマウス保護法」とも呼ばれ、ディズニーがキャラクターの権利を延長させるために政府に働きかけて改正させた、と言われています。
 アメリカの法律がそのまま日本に適用されるわけではないので、ディズニーも日本では日本の法律に従わなければなりません。アメリカではまだ保護期間中でも、日本では著作権切れになる、というケースが出現します。
 それを嫌い、アメリカが日本に圧力をかけてきました。二〇〇二年、アメリカ政府は日本政府に「著作権保護期間を、死後五十年から七十年へ延長」の要望を出しました。
 キャラクター・ビジネスは、確かに大きな利益をもたらします。一社で独占できなくなれば、当然その会社のうまみは減るでしょう。
 しかし、大会社一社を潤すために、法律があるわけではありません。著作権保護期間が切れれば、多くの会社がキャラクターを利用して新たな商売をはじめるでしょう。全体としてキャラクター・ビジネスがさらに活況になるに違いありません。

著作権切れでブレークした宮澤賢治

 著作権切れになって、出版点数が飛躍的に伸びたケースがあります。
 宮澤賢治は一九三三年にわずか三十七歳という若さで亡くなり、生前の単行本は、自費出版の詩集と童話の二冊だけでした。死後、高村光太郎や草野心平などが高く評価し、全集もいくつも出版されました。
 「雨ニモ負ケズ」の詩が戦争に利用されたり、教科書に掲載されたため、賢治の名は広く知られていましたが、その仕事の全貌はあまりよく知られていませんでした。
 爆発的なブームが起こり、多くの人が賢治の全体像を知るようになったのは、著作権切れとなった一九八三年以降のことです。各社がこぞって絵本、漫画、アニメ、廉価版の単行本などを出版したからです。
 国会図書館の電子データによると、宮沢賢治の著作として同館に収蔵されている件数は九百四件。そのうち、著作権が存続していた一九八二年以前に刊行されたものは七十三件。残りの八百三十一件は、著作権切れとなった一九八三年以降に刊行されています。いかに多くの賢治本が、著作権切れの「後に」出版されたかがわかります。
 著作権切れ以降目立つのは、児童向きの絵本です。漫画やアニメ映画も作られました。それにより、宮沢賢治を知る層がぐっと広がり、底辺も一気に拡大。そこから本格的に賢治研究を志す人も増えてきました。
 著作権の存続が、作品発表を阻害していた、という事例もありました。別役実氏作の「銀河鉄道の夜」を題材とした戯曲は、著作権継承者の承諾が得られなかったため、発表を著作権切れまで待たなければなりませんでした。
 作品を原作にして漫画化、アニメ化、映画化、演劇化する時、何がふさわしく、何が不適切なのか。それは、著作者本人しか判断できないことです。作品の真の理解者とは限らない著作権継承者に、その判断が全面的に委ねられているのは、納得のいかないことです。
 著作権保護期間が切れるということは、誰もが自分の判断でその作品を出版できるようになる、ということです。それが、作品が広く巷に流布するきっかけになるのは、火を見るよりも明らかです。そしてそれは、作品が真に、人々の文化的な「共有財産」となったということを意味しているのです。

「青空文庫」の偉大なる試み

 インターネット上に「青空文庫」というサイトがあります。著作権切れとなった古今の名作を、ボランティアが入力した電子図書館。だれもが無料で閲覧できます。
 夏目漱石、太宰治、芥川龍之介、泉鏡花、宮沢賢治などの作品を読むことができるばかりでなく、著者の死後五十年を経て入手が困難となった作家の作品にも、触れることができます。実際に図書館に出向かなくても、調べたい時にアクセスできる「青空文庫」は、いまや文学研究にも欠かせない資料です。
 電子テキストから音声出力することも可能なため、視覚障害者にとっても、大切な情報源となっています。
 現在六千を超えるファイルが収録されていますが、保護期間が七十年に延長されると、今後二十年間、日の目を見ない作品が多数あります。これは大きな文化的損失です。

延長派の言い分

 日本文藝家協会は、一九九七年から二度にわたり、保護期間を七〇年に延長する要望書を文化庁に提出しています。「諸外国ではすでに死後七十年間に延長されている」ことが、延長要望の大きな理由の一つとなっています。
 同協会の副理事長であり、著作権問題を担当する知的所有権委員会委員長の三田誠広氏は、二〇〇五年、朝日新聞のインタビューで「サンテグジュペリ(一九四四年没)は欧米では権利が続いているが、日本では勝手に翻訳が出せる。野蛮な国と見られているだろう」と語りました。しかし、その翌年、三田氏自身が『星の王子さま』の新訳を講談社から出版しました。理解に苦しみます。この三田氏がいまも、保護期間延長を強く主張していることに、どのような論理の一貫性があるのでしょうか。
 一部の利益のために著作権保護期間を延長し、作品を万人から遠ざけることの方が、よっぽど野蛮であるとわたしは考えます。日本は、保護期間を五十年としていることを誇り、世界の範として、自信を持って示すべきです。
 協会内には「著作権継承者を特定するために、データベースをつくればいい」という意見もありますが、誰が作るのか。お金はどこから出るのか。莫大な自費出版物まで含めて、どうやって情報を把握するのか、など問題は山積。事実上、実現不可能です。不可能なことを前提とした延長議論はナンセンスです。
 協会内でも、平田オリザ氏、車谷長吉氏、わたしのように、延長反対をはっきり述べている人もいますが、大方は無関心です。延長の要望書こそ出していますが、日本文藝家協会もこの件に関しては一枚岩ではありません。
 死後の遺族への配慮という点から延長を望む声も聞かれます。「太宰治さんの作品は、妻子の存命中に著作権が切れた。娘さんは残りの人生、父親の著作権が切れたまま生きなくてはならない」(三田誠広氏)/「若くして亡くなった作家の妻に『あと数年で主人の著作権が切れるんです』と涙ながらに訴えられた時にどう思うか」(松本零士氏)
 なぜここで例にあげられるのが妻と子なのか、というフェミニズム的視点はさておき、その妻や子にとっては、亡くなった夫や父親の著作権料は、不労所得です。死後五十年間も不労所得を受け取っていたのなら、充分ではないでしょうか。著作権切れで生活困難になるなら、保護期間延長を主張するのではなく、生活保護を申請すべきです。
 著作権保護期間の延長は、作品を後世に伝えるための大きな障害となります。「保護」という名の幽閉に他なりません。一人でも多くの人に読まれてこそ、作品は真の理解者を得ることができるのです。芥川龍之介は、前述のエッセイをこう結んでいます。
 しかし誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行かを読むと云ふ事がないであらうか。更に虫の好い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に、多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。
 私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。(中略)
 けれども私は猶想像する。落莫たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃気楼のある事を。(出典:同上)

■すてきなすてきなアップルパイ

寮 美千子

▼1
すてきな すてきな アップルパイ。
あまくて すっぱい アップルパイ。

どうして そんなに おいしいの?

▼2
まっかな りんごで つくるから。
おいしい りんごで つくるから。

りんごは どうして おいしいの?

▼3
あつい あつい なつのひに
おひさま たっぷり たべたから。

▼4
おそらの くもから ふってくる
あめも たっぷり のんだから。

▼5
きれいな かぜに ゆらゆられ
おひるね たっぷり してたから。

▼6
ことりや むしの うたうこえ
まいあさ まいあさ きいたから。

▼7
かぞえきれない おほしさま
まいばん まいばん みてたから。

▼8
だから りんごは おいしいの。
あかくて ぴかぴか いいにおい
しろくて しゃきしゃき すっぱくて
あまい りんごに なりました。

▼9
そんな りんごで つくったら
おいしくなるのは あたりまえ。
ねえねえ どんな あじがする?

▼10
おひさまの あじ
くもの あじ
きれいな かぜの あじもする。
ことりや むしの うたごえや
きらきら ほしの あじもする。

▼11
つくってくれた かあさんの
やさしい きもちの あじもする。

▼12
すてきなすてきな アップルパイ。
ねえねえ
もひとつ たべていい?

データ:
寮美千子・作 篠崎三朗・絵
こどものくにたんぽぽ版12月号 すずき出版2004
単行本 すずき出版2006

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4790251497/harmonia-22


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