■19 Nov 2011 母の夢を見た
都賀の実家にいる。妹たちがいる。たち、とは妹とわたしのことだ。もう一人のわたしが、それを見ている。それがわたしの主体。母は父と別れて家を出てしまっている。その母が働いているという工場の絵がパソコンの画面に映っている。常広叔父が借金の形に手に入れた工場だ。廃屋のようだ。病気なのに、こんなところで働いているなんて、とわたしは母がかわいそうになる。それならわたしのところにくればいいのに。うちで面倒を見てあげるのに。うちにくれば、パパもいるのに。瞼に母の顔が浮かぶ。まだやつれきっていなくて、頬もバラ色で、意外と元気そうだ。電話が鳴る。取ると、母の声が聞こえて、わたしはパッとうれしくなる。「美千子。おかあさんね、話したいことがあって」と言ったきり、母は黙ってしまう。ためらっているのかと思い、母の声を待つが、なんの音もきこえない。音声が途切れてしまったように。わたしは電話口で母を呼ぶ。「ママ? ママ?」返事がない「ママー、ママー」叫ぶように呼んでいるところで、目が覚めた。哀しかった。涙が出ていた。母がすでに亡くなっていることに気づくまで、少し間があった。
現実には、母は家出などしていないし、工場で働いていたこともない。常広叔父の事務所の手伝いをしていたことはあった。煙草の煙の充満する事務所で、その頃、咳が止まらなくなり、調べたら肺繊維症と診断された。因果関係は分からない。父もヘビースモーカーだったので、母はいつも副流煙にさらされていた。そのイメージが「大気汚染=工場」となったのかもしれない。夢の中の母は、元気そうだった。まだ間に合う、とわたしは思った。呼び寄せれば、病気も悪化させずに、元気に暮らしてもらえそうな気がしていた。母がわたしに「話したいこと」といった続きは「いっしょに住みたい」ということであったはずだ、と夢の中で思っていた。実際には、母はわたしと住むことを拒否して老人介護施設に入り、そこで衰弱。2年後、やっとわたしと住むことに合意してくれた矢先に病状が悪化して亡くなった。痛恨である。なぜあの時に、わたしの誘いを拒否して施設に入ったのか、わたしはそんなにも信用されない娘だったのか。いや、娘の幸せを願ったのだ、厄介になっては悪いと思ったのだ、と慰めてくれる人もいるが、そうではないということも、母の死後発見された手紙の下書きでわかった。そこにはわたしにも妹にも遺産を少しも遺したくないと書かれていた。「姉妹の争いの元になるから」と。母は財産はすべて、自分の兄弟姉妹に渡したのかったのだろう。家も土地も黙って売ってお金にしようとしていたらしい。わたしの世話になれば、そんなことができなくなるので、奈良に来ることを拒否したようだ。「美千子は親の年金を狙って、同居しようとしている」と母自身が親類に話していたと後から知ってショックだった。18歳以降、生活費を親にせびったことなど一度もないわたしなのに。母は、加齢により少しボケていたのかもしれない、と思いたい。とはいえ、母にとって、結婚は「永久就職」であり、家族は「勤務先」だった。母の本当の家族は実家の兄弟姉妹だった。戦争で家が丸焼けになった中、兄弟姉妹と力を合わせて生活を立て直した。その絆は何よりも強かったようだ。そんな母もかわいそうだが、父も気の毒だった。わたしたちもどこか歪んで育った。母はどこか冷たかった。それでもいい母だった。元気な頃は、わたしが里帰りをして近況報告をすると、楽しげに深夜まで聞いてくれる母だった。母の死後、家の片づけをすると、何枚もの洋服の型紙が出てきた。少女だった頃のわたしたち姉妹に、母が縫ってくれた洋服の型紙。いかにもささやかに、デパートの包装紙を使って作ったそんな型紙が後から後から出てきて、涙が止まらなかった。