▲2009年01月の時の破片へ


■30 Aug 2008 追悼/大仏奉賛会 奥田清六郎氏


東大寺二月堂のお水取りというと、みな盛大な松明を思い浮かべる。火の粉を散らしながら、欄干を駈けていく松明は、すばらしく派手でなおかつ荘厳だ。けれど、お水取りの本領は、その後に二月堂で行われる練行衆たちの行にある。松明は、練行衆となった僧侶の足許を照らす光が、巨大化したものに過ぎない。行が行われる3月1日からの14日間、松明は毎晩焚かれ、練行衆は極寒の二月堂で、毎晩未明まで行を続けるのだ。

あれは一昨年のお水取りの時のこと、わたしは、横浜在住の作曲家・高橋喜治氏を奈良にお招きしていた。二月堂で修行僧たちが高らかに唱える声明を、ぜひとも聞いてもらいたかったからだ。高橋喜治氏の音楽に、それはきっと何かを残すはずだと確信していた。

東大寺にかかわりのある人には「内陣」に入ることのできる特別の許可証が出る。内陣に入れば、より近くで僧侶たちの声を聞くことができるし、その姿も間近に拝見させていただくことができる。ただし、女性は、その外側にある「局」までしか許されていない。

わたしは、高橋氏にぜひとも内陣に入ってもらいたかった。漆の師匠のツテをたどれば、許可証であるリボンをもらえることはわかっていたが、そうではなく、直接東大寺に掛けあおうと思った。いつか、お水取りも絵本を作りたい、という野望があったからだ。絵本『イオマンテ』のように、行事のあらましがわかり、その精神が少しでも伝わるような絵本を作りたい、と考えていた。ツテをたどってじわじわと近づくのも手だが、正面突破したいと思った。

東大寺には「大仏奉賛会」という会がある。年会費を払えば、大仏殿と三月堂、そして戒壇院への入場が1年間無料となる。それも、同行者2名までも無料となるので、友人を案内するときにも都合がいい。各種催しの案内もくるし、まずはその大仏奉賛会に入会しようと思った。

東大寺の公式サイトを見ても入会の詳細がわからない。仕方ないので電話を掛け、かくかくしかじかのこのような者だけれど、と自己紹介して、大仏奉賛会に入りたいのだが、と尋ねると、ずいぶん親切に教えてくれた。本来なら郵便振り込みだが、急ぐのなら東大寺の本坊に直接来てくれればいい、という。高橋氏の来訪が目前だったので、本坊まで直接お伺いさせていただくことにした。

まったく、奈良は不思議なところだ。東大寺も不思議な場所だ。わたしのようなどこの馬の骨ともわからないよそ者を、電話一本かけただけで、親切に迎え入れてくれるのだ。

あの時の細かい経緯はよく覚えていないのだが、機会があれば絵本の話もしたい、そう思って『イオマンテ』を持って出かけた。本坊では、なんと応接室に通され、大仏奉賛会の事務局長である奥田静六郎氏が自ら迎えてくださった。差し出された名刺を見て、わたしは仰天した。あの格式高い東大寺の大仏奉賛会が、こんな馬の骨に、ここまでていねいに対応してくださるなんて!

わたしは、今回、東京から音楽家を招く由をお話しし、できたら入場許可証をいただけないかと、初対面なのにずうずうしくお願いした。すると、なんと快諾してくださったのだ。ありがたかった。

いつか作りたいと思っているお水取りの絵本の構想をお話しすると、これも驚くほど素直に喜んでくださって、こちらがびっくりするくらいだった。『イオマンテ』をお見せして「この画家さんに描いていただこうと思っているのです」と説明すると、ますます「それはぜひ作っていただきたい」と目を輝かせておっしゃってくださったのだ。なんとありがたかったことか。『イオマンテ』をさしあげると、奥田さんは「ちょっと待ってください」とおっしゃって、東大寺の売店で販売している奈良の昔話の本をわたしにくださった。そして「期待していますよ」と、熱いエールを送ってくださったのだ。

わたしはもう、天にも昇る心地だった。まったくのよそ者なのに、このように快く受け容れてくださって、絵本の件も、あんなに喜んでくださり、励ましてまでくださった。なんとありがたいことだろう。

わたしは「今年は無理でしたが、来年は必ず東京からこの画家さんをお招きしたいと思っています」とお話しして、東大寺本坊を後にした。

それから1年。念願叶い、お水取りに画家の小林敏也氏をお招きすることができた。わたしは喜び勇んで奥田さんに電話をして、とうとう画家さんをお呼びすることができましたと報告し、またあの入場許可証を出していただけないかとお願いした。今年の2月末のことだった。奥田さんは、もちろん快諾してくださった。ちょうど、わたしも忙しかったし、奥田さんもお水取りの直前でお忙しそうだったので、それではリボンの受け渡しだけ、という話になり、相棒に東大寺の本坊まで取りにいってもらった。

いま思えば、その時が奥田さんにお目にかかる最後のチャンスだったのだ。わたしは、それを逃してしまった。

それからお水取りがあり、小林敏也さんをご案内し、「お水取り」も「だったん」も、行の大切なところはすべて見ることができた。あのリボンのお陰で、小林さんは特等席で「だったん」を見ることができたのだ。

その後、母が倒れ、看病、死、という出来事があった。その時、わたしは書かなければならない短編をひとつ、抱えていた。母の葬儀を終えて奈良に戻り、まず取りかかったのがその短編だった。「蛍万華鏡」だ。東大寺の四季を背景に描く淡い恋の物語だった。そのなかに「大仏奉賛会」も登場させた。奥田さんへのお礼の気持ちも込めてのことだった。

この短編が収録されたアンソロジー「ひかりもの」は、9月にポプラ社から刊行される。本ができたら、いちばんに奥田さんに持っていくつもりだった。びっくりさせたかった。だから、そんな短編を書いているということは、奥田さんには黙っていた。9月になれば。9月になればお渡しできるところだったのに……。

もうすぐ二月堂十七夜盆踊りだ。わたしは「まんとくん音頭♪」の件でお願いがあって、きょう、久しぶりに奥田さんに電話をかけた。大仏奉賛会の事務所にかけて「奥田さんをお願いします」と言うと「奥田は一昨日亡くなりました。昨晩、お通夜、きょうは葬儀でした」とのこと。あまりのことに、言葉が出なかった。

気持ちを落ち着けて、もう一度電話をして、係の方とお話しした。奥田さんは、今年のお水取りが終わってほっとした頃、体の異変を感じられて検査をうけられたとのこと。その時、病気が発見されたそうだ。四月には事務局長を退かれ、闘病なさっていたという。嫁がれた娘さんに赤ちゃんが生まれるのを心待ちになさっていて、この七月、ようやく赤ちゃんが生まれたので、大変喜んでいらっしゃったとのことだ。

「ご葬儀はもう、もう終わってしまわれたでしょうか」
「ええ、一時からでしたから。ちょうどいまごろ、白毫寺でしょう」

白毫寺のそばに、火葬場がある。そのことをおっしゃっているのだとわかった。わが家の窓から、白毫寺のある山が見える。いまあそこから煙になって天に昇られているのだと思い、胸がいっぱいになった。

ご病気と知っていれば、短編も、本になる前の原稿の段階で読んでいただいたのに……。

東大寺二月堂の盆踊りは九月十七日。編集者から、本の発行が少し遅れて九月十七日になると連絡があったのは、昨日のことだった。何という偶然。

「ひかりもの」に収録される「蛍万華鏡」を、奥田静六郎さんに捧げたい。奥田さん、きっとお水取りの絵本を作りますから、見ていてくださいね。

ご冥福をお祈りします。合掌。

【前大仏奉賛会事務局長の奥田清六郎さん死去】
2008年8月28日20時16分>朝日新聞社
http://www.asahi.com/obituaries/update/0828/OSK200808280069.html

 奥田 清六郎さん(おくだ・せいろくろう=前社団法人大仏奉賛会事務局長)が28日、胃がんで死去、64歳。通夜は29日午後7時、葬儀は30日午後1時から奈良市大宮町6の2の9の大宮メモリアルホールで。喪主は妻尚子(なおこ)さん。
 奈良・東大寺の文化遺産の顕彰・保存に協力する同会の事務局長を04年11月から3年半務めた。


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