▲2007年11月の時の破片へ


■19 Jun 2007 ガンを覚悟した24時間


連載原稿を半徹であげ、友人の壮行会に出席、深夜まで飲んで戻り、目覚めてトイレに行くと、なんと、便器がまっ赤に染まっていた。下血だった。

実は、二週間ほど前からおかしかった。相棒に相談すると「トマトの色だよ」という。確かに、大好物のチリトマトビーンズを鍋いっぱいに作って食べていたから、そうかもしれないと思った。内心、どこか変だとは思いながらも、そのせいにすることにした。連載の原稿もできていなかったし、その方が都合がよかったからだ。

一般に人間というものは、予兆があっても見逃しがちだ。自分が大変な病気だなんて思いたくないし、喉もと過ぎれば熱さを忘る方式で、症状が収まれば、なかったことにしてしまう。わたしも、おかしいと自覚しながら、わざと見逃していた節があった。

しかし、今回は申し開きのできない有様。痛みもないのが、余計に不気味だ。これはまずいと思い、医者に駈けこんだ。

2時間ほど待たされて診察。触診では異常なしという。その時点で、そうか、まずいことになったぞ、と思った。痔とか、そんな簡単なもんじゃないんだ、とわかったからだ。
「指は6センチまでしか入りませんから、その先に何かあってもわかりません。原因が奥の方にある可能性があるので、大腸ファイバーで検査しましょう」と医師。
「この検査で、毎年2〜3人の人から、大腸ガンが見つかります」とも。
翌日、検査をすることになった。

出血するほどの状態であれば、ガンならばかなり進行しているはず。であれば、余命は長くあるまい。

まず、頭に浮かんだのは「連載中の原稿を仕上げる時間があるだろうか」ということ。すべての予定をキャンセルして、ともかく原稿だけは仕上げたいと思った。書きかけであの世に旅立ってしまっては、物語世界に申し訳ない。なぜななら、その世界は「既に存在している」のだから。そして、その世界への地図を指し示せるのは、この宇宙でわたしだけなのだから。

次に思ったのが、残される相棒のことだった。作品の次、というところがわたしの薄情なところだ、と我ながら思い、相棒に申し訳ないような気持ちになった。

相棒とは丸7年いっしょにいる。昨年、籍を入れたばかり。このまま、ずっといっしょに人生を歩んでいくのだと思っていた相手に突然死なれたら、きっとずいぶんとショックだろう。そう思うと、かわいそうで涙が出てきた。

でも、彼は若い。これから、もうひとつの人生を送ることができる。わたしは彼に言った。
「わたしが死んだら、再婚して、子どもも持ってね」
そして、こう付けたした。
「セント・ギガに書いた詩を、本にしてね」
ああ、わたしは、なんと業の深い女だろう。やっぱり作品のことで頭がいっぱいなのだ。

書きたい作品は、まだまだある。アイヌの絵本ももっと作りたいし、奈良の絵本も作りたい。「お水取り」や「元興寺のがんごぜ」「薬師寺のふたつの塔」など、すでに企画書も書いた。

ところが、である。それら未来に生まれるべき作品に関して、わたしは意外と淡白だった。そうか、これでおしまいか、と思っただけだった。「詩集」と「夢見る水の王国」の二つを仕上げることができたら、それでいいと思えたのだ。

実際に、それ以上の時間がないので、あきらめざるを得ない、ということもある。けれど、それだけではなくて、なんだか妙にさっぱりしている自分がいた。「ラッキー!」とさえ思っているらしかった。

「これで、出していない確定申告の書類も、もう書かないでいいんだ」とか、「この先、どうやって食って行こうか。相棒は稼ぎがないから、この先もずっとわたしががんばらなくては」とか、「最近、不眠でつらい」とか、「地球温暖化を食い止めるにはどうしたらいいか」とか、そういう諸々の憂いからすっかり解放されると思ったのだ。弱っている親よりも、自分のほうが先に逝ってしまうと思うと、親を看取るという重圧からも解放されるような気がした。つまり、すべての責任を免除されるような気がしたのだ。なんという奴だ、わたしは。

そして、思ったのだ。「奈良に来て、ダーリンと二人でいっぱい散歩をできて、楽しかった。人生の最期の一年を、こんなに楽しく暮らせたなんて、しあわせだった」と。

わたしは、自分の「生」への執着のなさにあきれた。やっぱり、根本的に人生を愛していないのかもしれない、とも思った。

「生きる気力」のある人が、病気とよく戦い、生還できる、という話をよく聞く。生き抜くためには、生きることへの執着が大切なのだ。「もういいや」と簡単に手を放すどころか「ラッキー!」などと思ってしまうわたしは、すんなりとあの世への橋を渡ってしまうような気がする。

そういうと、相棒が言った。
「言っとくけど、そんなに甘くないよ。病気になったからって、ポックリ楽に死ねるわけじゃないんだから。闘病生活があるんだから」
うーむ。言われてみれば、確かにそうだ。

さて、翌日、検査のため病院へ。

検査前の浣腸はきつかった。吐き気までした。そして、検査本番。「麻酔とか、かけないんですか」と聞くと「すぐに終わるから、そんな必要はないですよ。ちょっと我慢してくださいね」とのこと。うーむ。

大腸ファイバーを入れる。苦しい、というかショック。わたしは、過去に開腹手術をしているので、腸の一部が癒着し、そのために余計に苦しい。恐ろしい検査だった。

検査終了。医師が映像を見ながら説明してくれた。
「きれいなもんですね。心配ありません」
「えっ? じゃあ、なぜ出血が?」
「入り口付近、触っただけではなにもなかったし、血も付かなかったけれど、ここに小さな傷のようなものがあるでしょう。これですね。腸が少し荒れていて、固い便で傷ついたんでしょう。でも、痔と呼べるほどのものじゃない。だいじょうぶです」
「お薬は?」
「必要ありません」
「座薬とか?」
「必要ありません」
「でも、血が……」
「便秘したり、便が固くならないように注意してください。規則正しい生活が第一です」
「は、はあ……。ありがとうございました」

というわけで、キツネにつままれたような気分。なんでもなかったのである。ほっとしたというより、肩すかしを食らった感じだった。すべての責任から逃避できると思ったら、そうではなかった。まだまだ、やるべきことが山積み。引っ越しの荷物さえ、片づいていないのだから。やれやれ。

一旦は「死」を覚悟し、24時間で「生還」した。「死」を意識したら、世界が驚くほど美しく見える、とよく言われるが、そのようなことは全くなかった。もしかしたら、わたしには普段から、世界がかなり美しく見えているのかもしれない。それが、わたしに物語をかかせるのかもしれない。死はいつも隣にいる。それが、いつ自分に訪れてもおかしくないと思っている。

病院からの帰り道、お腹が痛い。腸を引っかき回されたショックから立ち直れない。自転車を引っ張っりながらろそろと行くと、駐車場の隅に生えたビワの木に、ビワがたわわに実っていた。生命力溢れるオレンジ色が、実に美しい。

思わず歩みよると、相棒がいった。
「絶対に、取っちゃだめだよ。手を伸ばしてもだめだよ」
「うん」
ビワの木には「立ち入り禁止」と札がかかっている。わたしは、食い入るように、重そうに垂れ下がったビワの実を眺めた。

すると、ガラっと向かいのアパートの窓が開いた。叱られるのかと思ってぎょっとすると、老人が顔を出してわたしに言った。
「取っていいよ。手前のは、小さいけど、奥の木には、大きなのがなってるから。好きなだけ持っていきな」
「ありがとうございます」とわたしは大きな声でお礼を言って、ビワの実をもいだ。生まれてはじめてのビワ狩りだった。うれしさが、心の底から湧きあがってきた。

町を歩いていて、ビワの実をもいでいいなんて言ってもらえたのは、うまれてはじめてのことだ。奈良は、なんていいところだろう。あのアパートのおじいさんが、ビワの木の持ち主なのかどうかは、多少疑問ではあるけれど……。

家に持ち帰り冷やして食べてビワは、野趣溢れる味で実においしかった。

あれ? 「生への執着」はさしてなさそうだけど、どうも「食べることへの執着」はあるらしい。もしかしたら、わたしを行かす原動力はそれ?!


■17 Jun 2007 リトル沖縄・元遊郭@大阪


7月に沖縄へ移住する写真家・勇崎哲史氏の壮行会が大阪で開かれた。

会は昼過ぎから。我々は、午前中に集まり、
「勇崎氏とともに歩くリトル沖縄@大正区ツアー」へと出かけた。

元は川の砂州だったという大正区には、
港湾労働者として働くために、沖縄から多くの人が移住してきたという。
そのため、町には「リトル沖縄」と呼びたいほど、
多くの沖縄料理屋や、沖縄系の食材店が軒を並べている。
こんな地域があるとは、東京にいるときには、露ほども知らなかった。

壮行会の会場は大正区の「うるま御殿」という沖縄料理屋。
昔の演芸場のように、広い座敷があり、正面には小さな低い舞台がある。
ゴーヤーチャンプルーをはじめとする おいしい沖縄料理が山のように出て、
店主自らが蛇皮線を弾き、歌ってくれた。

最後は、カチャーシーといって、沖縄の踊りをみんなで乱舞。
といっても、沖縄舞踊を知る人ばかりではないから、
阿波踊りのようになったり、ゴーゴー(古い)になったりと
みんなかなりテーゲーな踊りではあったが、実に楽しかった。

昼過ぎから開かれた会は夕方に終わり、 名残りを惜しむ我々は、そのまま大阪散歩へ。
大正区から、西区九条へと歩いた。

何やら趣のある料亭の建ち並ぶ通りへ来たと思ったら、 何か様子が違う。
どの店も、入り口に、きれいにお化粧をした女性が、ピンク色のライトに照らされて座っているのだ。
その様子は、アムステルダムで見た「レッドライト」そのもの。 つまり「飾り窓」というわけだ。

そこは「松島新地」という元遊郭街だった。

【松島新地の歴史】
明治元年(1868)7月15日、建て前上外国人居留者による性犯罪の予防を主眼とした対外国政策、新地開発、一向に減らない散娼の整理を目的として遊郭の設置が提案され、同年12月15日に設置の許可が下り、木津川と旧尻無川に挟まれた九条村町を筆頭に約四村をを合わせ、松島町(松島の由来は松ヶ鼻と寺島の地名を合せたものである)として新しい遊郭地の設立が始まった。(中略)

 昭和21年(1946)2月20日、GHQの指令で名目上公娼制度は廃止されたが、暫定措置として特殊飲食店として地域を限って売春が許容され、カフェーや待合を有する赤線地域として営業を継続。
 その後売春禁止法(昭和31年(1956)5月に成立。昭和33年(1958)施行)の成立により、『料理組合』を結成。後の風営法成立時には料亭、待合として届けを出し、遊郭から料亭と変貌を遂げた。かつては280軒を数えた大遊廓も現代は、その3分1の100件あまりが軒を連ね、大人の遊興地として18歳未満お断りの料亭営業を行なっている。

いまも、町の街灯には「松島料理組合」と看板が掛かっている。
しかし、実際には「18歳未満お断りの料亭営業=遊郭」だ。
日本に、こんな場所が、こんなふうに残っているのかと驚いた。
どのように法をかいくぐっているのだろう。
あのピンク色の光に浮かぶ女性たちは、 どのような人生を経て、そこに座っているのだろう。

リトル沖縄といい、松島新地といい、大阪はワンダーランド。
何が出てくるかわからない。
関東に住んでいれば、恐らく一生知ることのなかったこと、 見ることのなかった風景が広がっている。

生な人間社会の姿に軽いショックを受けた大阪散歩となった。


■17 Jun 2007 旅立つ友に贈る詞


友人の勇崎哲史氏が、沖縄に移住することになった。
勇崎氏は北海道で生まれの写真家。
東川で行われる写真祭を立ち上げ、運営してきたプランナーでもある。
2年前に大阪へ転居、
わたしと相棒も、あたかもその後を追うように、
昨年、奈良へと転居した。
西へ、西へと風の吹くなか、
勇崎氏はさらに大きな風に乗り、南の島で暮らすという道を選んだ。

勇崎氏には
「光の絵日記」[沖縄・宮古・八重山1971-72&90-98]
という作品がある。
写真集となっていないのが残念だが、すばらしい作品群だ。
スライドとして各地で上映されている。
わたしも、何度も見る機会があり、そのたびに深く胸打たれた。
遠い異国の風景でありながら、記憶の底で静かに光っているような、
限りないなつかしさを感じさせられる写真だ。
【勇崎哲史作品・プロフィール】

1970年代、勇崎氏が学生時代から撮り続けてきた沖縄。
そこに映っている人々がいまどこにいるか、
勇崎氏はいまでも追跡することができるという。
それは、沖縄の人々を単なる「絵になる被写体」として写してきた、
つまりエキゾチズムとして搾取してきたわけではない
ということを示している。

勇崎氏は、確実に交流関係を築き、自らの心に映った風景を
まさしく「光の絵日記」として記録してきた。
だからこそ滲みでてくる温かさが、確かにそこにある。

沖縄をただ美しい楽園として描くわけではなく、
また戦争や基地問題を糾弾するというスタンスでもない。
そこには、光は光のまま、影は影のまま、
当たり前の顔をして存在している。
沖縄の日常、一人一人の人生の一瞬が、
永遠の輝きを放ちながら映っているのだ。

勇崎氏の眼差しは変わらないけれど、
沖縄はこの36年で、大きな変貌を遂げた。
団塊の世代の定年退職で、
夢に見た憧れの南の島・沖縄への移住組も大量に出るだろう。
そこで、勇崎氏はどんな「沖縄」を見るのか。
新しい便りが届く日を楽しみにしている。

「旅立つ友に贈る詞」by 寮美千子


■15 Jun 2007 「夢見る水の王国」未知の領域に突入


『月刊北國アクタス』に連載中の幻想小説「夢見る水の王国」。
毎月15日締め切りで、50枚を書いている。
きょう、連載11回目をとりあえず完成させた。
挿画を描いてくれる上出慎也氏に原稿をメールし、
彼が挿画を描いてくれている間に、推敲する予定。

実は、すでに書きためていた草稿が500枚ほどあり、
それをリライトしながら発表してきたのだが、
いよいよその草稿が尽きた。
ここから先は完全書き下ろしの未知の領域。
目的地、つまり行き着くべき最終地点は決まっているのだが、
その途中の経路と風景は、まだ謎。
わたしも、主人公の少女と一緒に未知の土地を旅することになる。

気を引き締めて行こう!


■13 Jun 2007 水曜古着市@京終


うちのマンションのはす向かいに、倉庫のような、工場のような、不思議なスペースがある。謎のスペースで、奥にある工場の二階には、日本人の経営するリサイクルショップと、インドネシア人の女の子が経営する語学教室とヨガ教室がある。

手前には、長屋のような細長い倉庫があって、いくつかに区切られ、その一部屋は、天井まで古着でいっぱいだ。

水曜になると、ナカイさんという謎の美人がやってきて、この古着を倉庫の前いっぱいに広げて、水曜古着市を開くのだ。この人は熱帯魚のブリーダーという別の顔も持っているらしい。

古着もあれば、値札が付いたままの新古品もある。大概の品は、二百円から三百円。時々、五百円や七百円というものもある。わたしは、新品の羽毛肩掛け(冬に首周りにかけて寝るとあったかい)を七百円で買ったことがある。ここで売っているものの値段としては、最も高いもののひとつだった。

近所の、常連さんらしい人が集まってきて、古着をひっくり返しながら、世間話などしている。なぜか、古着に全然興味を示さないおじさんやおじいさんなどもやってきて、仮設のテーブルを囲んで、ペットボトルのお茶を飲み、お菓子を食べて、これまたまったりと世間話などしている。

服は、ぼちぼちと売れていく。安いので、ヘンテコなものを買ってもあんまり後悔しないのがいい。なんてことをいっていると、古着の山の一部が、そのままわが家へ移動、というだけのことになってしまうから、気をつけなければいけない。

ヨーガンレールの絹のTシャツや、ジュンコシマダのGジャンを買ったこともあった。きょうは、コムサの白いレースのブラウス新品で三百円なり。着こなすには、あと二キロや痩せなければ。

顔見知りになると「これ、どう? 似合いそうよ」なんていわれて、着せられ、そのままノリで買ってしまうことも。

ド派手な服もたくさんあって、おばさまたちがそういう服を選んでいく。みなよく似合うのが、また不思議だ。「イメチェンしたいときは、こういうところで買って試してみるのが一番よ。あんたも試しにてみなさいよ」といわれても、後ずさりするようなものもいっぱい。

値段設定といい、その雰囲気といい、実に不思議だ。なんだかケタが違うのだ。東南アジアの都市にいるようだ。

それも、京終という土地柄かもしれない。ここは下町なのだ。

東京なら、浅草が下町で、世田谷は山の手、という具合に距離が離れているけれど、奈良はコンパクトななかに、いろいろ揃っている。水門町は立派なお屋敷街。そこから歩いてこられる場所なのに、京終には独特な下町情緒が漂っている。しかし、循環道路というバス通りを渡れば、そこはもう奈良町。格子戸のしっとりとした町並みだ。

つまり、わが家はその奈良町と京終の境目にあるというわけ。両方の風情が楽しめる。

水曜古着市で、だんだん顔見知りのおばさんも増えてきた。事情も少しずつ分かってきた。間借りしていると思っていたあのリサイクルショップの店主が、実はこの土地の地主だったのだ?! わからないものだ。

倉庫には、謎のお兄さんがやけに頭の大きな立派な猫と住んでいて、猫に首輪をつけて散歩させているのだが、それはまた別の機会に。

そしてまた、奈良散歩は続くのであった。


■13 Jun 2007 しあわせな老犬@京終


京終と書いて「きょうばて」。
かつては市場もあり賑わっていたという町だが、
いまではすっかりさびれてしまった。

この町の一角に、漢方も扱う小さな薬局がある。
ここの家の犬のコロちゃんは、今年17歳。
足腰も、首の筋肉もすっかり弱ってしまって、
もう自分では、立つこともできない。

薬局の前を通りかかると、
コロちゃんをおばさんに散歩させてもらっているのに、よく出会う。
特製の吊りベルトをつけてもらい、上から吊ってもらって、
ぐるぐると歩き回るのだ。
首も垂れてしまい、あがらないけれど、
それでもコロちゃんは、実にうれしそうに散歩をしている。

きょうもまた、コロちゃんはお散歩をしていた。
ぱちりと写真を撮らせてもらった。

用事を終えて戻ると、すっかり夕暮れ。
薬局の前を通りかかると、
こんどはおじさんが、コロちゃんを抱いて出てきた。
振り返ってみれば、おじさんもまた、コロちゃんを散歩させている。

こんなによくしてもらっている犬が、どれほどいるだろう。
コロちゃんだって、寝たきりであれば、すぐに弱ってしまうだろうが、
こうやって運動させてもらっているお陰か、元気で機嫌もいい。
わたしがここに越してきて十カ月、コロちゃんはいつもこんな様子だ。

犬も猫も、飼い主を選べない。
平気で捨てる飼い主がいる一方で、
こうやって親身に面倒を見る人もいると知ると、ほっとする。

お散歩をしているコロちゃんと行き会うと、
わたしはいつも頭を撫でさせてもらって、コロちゃんに言うのだ。
「やさしいおかあさんで、よかったねえ」
コロちゃんは黙って「うんうん」と肯いている。


■10 Jun 2007 声明と賛美歌@徳融寺/奈良町


6/10 奈良町にあるお寺「融徳寺」で、「第1回宗教音楽へのいざない―賛美歌と声明の出会い」が開催された。融通念仏宗の若手僧侶による声明と、東向き商店街にある和風建築の教会「奈良キリスト教会」の関係者による聖歌との2本立てのコンサートだ。

山吹氏たちとの顔合わせを終えて外に出ると、どしゃ降り。傘がなかったので、帽子を被って、お寺前の道を相棒と二人で走った。

広々としたお寺の本堂は、すでに人で一杯。椅子席は埋まっていたので、案内されて、一番前の座布団の席に着いた。一番後から来て、なんだか得をしたような気分。足はしびれたけれど。

▼声明

内陣には天蓋がかかり、そこから金の飾り物が垂れさがっている。正面には仏像。そこに、若き僧侶たちが立ち並び、声明を唱えながら、散華をした。色とりどりの蓮の花びらの形の紙が撒かれる。手許に落ちたものを拾うと、仏様のお姿が印刷されていた。

声のいいお坊さんは、なかなかに色っぽい存在でもある。韓流スターのような、といったら語弊があるけれど、清潔で、凛として、しっかりと胸を張って立つ姿が美しい。

声明は斉唱。本堂に共鳴して、美しい倍音が聞こえてくる。目に見えない透明な存在が、高い澄んだ声でそこでいっしょに唱えているような、そんな気がしてくる。声に包まれて、心も体も清められたような心持ちになった。

▼聖歌

第2部は、ソプラノ、クラリネット、ピアノのトリオ「アンサンブル・シオン」。教会付属の「親愛幼稚園」に通う子どもさんのお母さん方3人のグループだが、声楽もしっかりしていたし、クラリネットも滑らかな演奏で、ママさんアンサンブル、という域を超えていた。

みな、舞台用のドレスを着用して、華やか。本堂の仏像たちとの取り合わせが、摩訶不思議な感じだが、妙にしっくりしている。ただ、キーボードの方の、肩がすっかり出たドレスが気になった。コンサートとはいえ、お寺の本堂。肩を軽く隠すタイプのドレスでもよかったのではないか。

演奏者の方に、いい音楽を聞かせていただいたお礼とともに、そう付け加えると「いいアドヴァイスをありがとうございます。これから、気をつけたいと思います」と気持ちのよいお返事。心がすうっと澄んでいくような気分になった。

外へ出ると、すっかり雨が上がっていた。滴にきらめく境内の緑がすがすがしい。入場料わずか300円で、いい時間を過ごさせてもらった。感謝。


■10 Jun 2007 ポエトリー・リーディング奈良/初顔合わせ


そろそろ奈良で詩の朗読をしてみたい、と思っていたところ、7月21日に「ポエトリー・リーディング奈良」 というイベントが開催されるという。

オープン・マイクの参加希望に手を上げると、主催者の山吹草太氏と、やまもとみゆき氏から「会いたい」との連絡あり。さっそく、会場に予定されている「TenTenカフェ」で初顔合わせとなった。

山吹氏は、2年前に川崎市から生駒へ移住。わたしと同じIターン組だ。演劇や編集のお仕事をしてこられたとのこと。奈良に移ってからは、フリーランサーとして奈良の地域雑誌『naranto』のプロデューサーとしてご活躍。奈良の深部に迫るフォトドキュメントのページを手がけられている。ディープな奈良を探検されていて、うらやましい。

なかもとみゆきさんは一人芝居もなさる女優さん。『naranto』でもご活躍中だ。

今回は、わたしはオープンマイクの一般参加者として参加。10分ほど読ませてもらう予定。奈良を題材にした新しい作品を書いてみたいと思っている。

山吹氏とは「よそ者が見た奈良」という視点が一致。地元の人ではなかなか気づかない奈良のよさ、面白さを発信したい、という話になった。映画の話などもたっぷり。さすが、演劇人だけあって、シナリオや演技に向ける目が厳しく、その厳しさが心地よい。

「稽古の時、椅子がいくつか置いてある。すると、役者が聞くんです。『ぼく、どこに座ったらいいんですか』って。なんでそれがわからないか。『役』の中に流れる水脈みたいなものを、ちゃんと自分のなかに流していたら、そんなこと、わかるはずです。ここはどんな家で、どんな家族構成で、自分はそのなかでどんな位置にいて、どんな暮らしをしていて……。と考えていけば、自然と自分の座る椅子も立ち位置も決まってくる。台詞の上っ面をなぞるだけじゃなくて、役者には、そういうことをきちんとわかった上で、演技をしてほしい」

「例えば、喧嘩をしていて、会話の中で何かをきっかけにふっと心がほぐれて、仲直りをする、という場面があるとします。そういう時、役者はもう先のことがわかっているわけですよ。これから仲直りするなって。するとね、喧嘩をしている段階から、仲直りにむけて体が動いちゃう。その瞬間は怒っているんだから、もしお茶なんか出すとしても、バーンって叩きつけるように置くはずだし、玄関で相手の靴なんか揃えてやるわけないじゃないですか。それをやっちゃうんですね。

そうじゃない。ある瞬間、何か一言をきっかけに、ふっと心が緩んで、あれ、こいつを許してやってもいいかな、と思いはじめる。そう思うその瞬間まで、その人は、自分が相手を許すなんて思っていないわけでしょう。だから、予定調和的にふるまうんじゃなくて、ちゃんとその瞬間瞬間を演じなければならない。みんな、なかなかそれがわからない」

実に刺激的な、面白いお話だった。小説を書くときもそうだ。作者は、その先、どうなるかを知っている。その結末に向けて、予定調和的に人物や物事を恣意的に動かしてはいけない。登場人物の内面が、自然とその行動を導きだすように書かなければ、そこにリアリティは生まれない。改めて、そのことに気づかされた。

演劇の方法論から、小説のあり方を見直す。新鮮な体験だった。

話は、映画にも及び、最近、カンヌ映画祭で賞を獲った日本の映画、というか、奈良発の映画が話題になった。その作品は、監督が恣意的に役者を動かしているようにしか見えない。「その人は、その場面で、そんな行動に出るわけないじゃない」と思ってしまうと、もう映画の中に入れない。せっかく(部分的には)美しい映像を撮っているのに、残念だ。

ポエトリー・リーディングをキーに、すでに山吹氏となかもと氏に出会うことが出来た。イベントには、さらにさまざまな人が来るだろう。どんな出逢いがあるか、楽しみだ。奈良での人の輪が広がってゆく予感がする。

みなさまも、ぜひご参加を!


■ 9 Jun 2007 ツバメのおしゃべり


奈良町の町屋の黒い瓦の上にかかる電線にツバメがとまっている。
まるで、五線紙の上の小さな音符のようだ。音符はさえずる。

  ちゅぴちゅぴちゅるりぃ ちゅぴちゅぴちゅるりぃ 
  ちゅぴちゅるちゅぴちゅる ちゅぴちゅぴちゅるりぃ 

そこに、時々、低い声が混じる。

  じぃーっ じぃーっ

ああ、何を歌っているのだろう。

これからの季節、いっぱい力をためて、
ツバメは秋に、長い長い旅に出る。
遠く海を越え、何千キロもの空の旅をする。
この小さな体のどこに、そんな力があるのか。

子育てが終わり、初めて飛ぶ歓びを知った若いツバメも、その両親も、
いまは、ひとときの安らぎの季節を謳歌しているのかもしれない。

ICレコーダーで録音したツバメのおしゃべり(mp3ファイル)


■ 9 Jun 2007 検死詩集/最強のメメントモリ


わたしは衛星放送ラジオに大量の詩を書いてきたが、活字としての詩集は一冊も出していない。詩の世界での評価もゼロなのに、ありがたいことに詩集の献本が送られてくる。まったく知らない著者からの本も多い。

先日も、見知らぬ著者本人からの献本。『漁師』という詩集だ。ぱらっと開いて、何だか様子がおかしい、と思った。なんと、検死医の綴った検死詩集だったのだ。

書評書きました。つづきはこちらで。

★詩集『漁師』谷口謙(土曜美術社 2007/5/30初版)
http://ryomichico.net/bbs/books0000.html#books20070609234846


■ 7 Jun 2007 ホタル@奈良東大寺


あちこちのブログや日記で「ホタルを見た」との報告。奈良ではどこで見られるのだろうと思って調べると、なんと東大寺の境内で見られるというではないか。さっそく、出かけてみた。

実は、わたしはホタルを見たことがほとんどない。子どもの頃、房総の上総湊にある祖父の別荘で1匹か2匹、見た覚えがあるだけだ。それが、わたしのホタルの記憶のすべて。

夕暮れを待ち、東大寺へ。大仏殿の裏手、二月堂へとのぼる「裏参道」とも呼ばれる道がある。ゆるやかな階段が続く、石畳の美しい道だ。高校生の修学旅行で来て以来、わたしの一番のお気に入りの道となった。

参道のライトに覆いがしてあり、光量を減らしてある場所があった。この辺だろうとあたりをつけた。あたりがまだ明るいので、二月堂に上って時間を潰す。しばし奈良の夕景を楽しみ、光が薄れかけた7時過ぎに、ホタルの川へと戻った。

道沿いに、小さな流れがある。以前はここにホタルがたくさんいたそうだ。しかし、生活排水などの影響で絶滅寸前。東大寺内に「大仏蛍を守る会」が発足して、ホタルの餌となるカワニナなどの養殖に努め、ようやく甦ったという。大きな光を放つ、ゲンジボタルだ。
http://www.pref.nara.jp/koho/back/110.html

暗やみが迫る7時半過ぎ、川沿いの真っ暗なところで、小さな光が灯った。光そのものが静かに息をしているように、ぼうっと灯ったり消えたりしている。まるで、わがパソコンeMacのスリープ・ライトの点滅のようだ、としか思えない自分がちょっとさみしい。

しばらく見ていたが、一向に光の数が増えない。ひとつ、ふたつ、灯るだけ。なあんだ、これだけか。やっぱり県庁所在地の県庁のすぐそばでホタルなんか、たくさん見られるはずないよなあ、と思ったその時、寺の鐘が鳴った。

午後8時、東大の鐘(国宝)が低い音でゴゴーンと響く。と、まるでそれを合図にしたかのように、ホタルが光りはじめた。ふたつ、みつ、よっつと、川面を漂う。

飛びながら光るホタルもいる。すばやく飛ぶと、まるで流れ星だ。ゆっくりと飛ぶものは、まるで魂が迷い出したかのよう。ふうっと光り、まるで水の中を泳ぐように漂い、消え、またふうっと思いもよらぬ方向で光る。

その光は、時に空で輝くシリウスのように強く青白く、またうっすらと緑を帯び、あるいは消え入りそうな幽けさで白く光るものもいる。

その光がいくつも、共演するように漂う美しさ! ああ、これがホタルというものなんだ。源氏物語の昔から、この大地で繰り広げられた光の言葉。

波があるようで、光りはじめるとあちらでもこちらでも光り、時折ぱたっと光らなくなる。

ご近所の老夫婦がやってきて「ああ、まだあんまり出ていませんね。これからもっともっと出てくるでしょう。ここ2週間くらいが見所でしょう」と話してくれた。

その老人の手の中に、一匹のホタル。

「わあ、こんな近くで、はじめてみました」
興奮するわたしに、老婦人が耳打ちする。
「手に載せてさしあげなさいよ」

老人は、わたしの掌にホタルを移してくれた。

なんという驚き。わたしの手の上で、ホタルが静かに輝いている。尾の下の方を二節、緑色の冷たい光が、呼吸するように光っては消える。

ホタルは逃げようともしない。手の上を歩いていって、袖にとまると、そこに居場所を定めた、とでもいうように、いつまでもいつまでも光っていた。

ああ、これは誰かの魂かもしれない、とその時、思った。死んだ人の魂が、初夏の夜、わたしに逢いに来たのではないだろうかと。だから、こうやって、いつまでもいつまでも、去ろうとしないのではないだろうかと。

わたしは、なつかしい人々の名を呼んでみた。
「オケさん、横井さん、宇山さん、大橋さん、渋谷さん、松崎さん……」
ああ、なんというたくさんの人を見送ってきたのだろうか。
思い出される人々の名を呼び終わると、ホタルは光りながら、
闇の中へと飛んでいった。

揺れるその光を見ながら、思った。
そうだ、愛猫のメイとノイも来ていたかもしれない、と。

幽けきホタルの光。美しい光だった。

写真:袖にとまるホタル


■ 7 Jun 2007 国民を弾圧する「軍隊」


陸上自衛隊の「情報保全隊」が、イラク戦争に反対する市民グループやジャーナリストの活動状況を情報収集、事細かに記載した内部文書を作成していたことが明らかになった。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-06-07/2007060701_01_0.html

神奈川県の大和で「9条の会」が結成されたとき、講演に来た佐高信氏が言っていた言葉を、即座に思いだした。

「軍隊が、国民を守るというのは幻想に過ぎない。軍隊ができれば、それは必ず国民を抑圧するために使われるものだ」

人々は「軍隊は『敵』から我々を守ってくれる」と思って、軍隊を持つことに賛成する。しかし、それは、自らの首を絞める縄を喜々としてなっていることに等しい。と今回の報道を見て思った。

現自衛隊でさえ、こんな有様なのだ。正式に軍隊となった日には、どんな恐ろしい弾圧が行われるのだろう。その弾圧を、喜々として支持するのは「軍隊は『敵』から我々を守ってくれる」と信じて疑わない「大衆」だろう。

戦時中、憲兵は恐ろしかったが、その憲兵に「あの人は非国民」と告げ口をしたのは、市井に住む普通のおじさんおばさんだったという。その結果、どうなったのか。

親類友人知人で、戦死者が一人もいない、などという人は、恐らくあの当時の日本に一人もいなかっただろう。誰もが、戦争で悲惨な目にあった。

人々は言う。「わたしたちは戦争の被害者だ」と。しかし、その戦争を支持したのはだれなのか?

そういうと、必ずこんな答えが返ってくる。「そういう時代だったんだから、仕方ない」

そしていま、また「そういう時代」がやってこようとしている。「軍隊」というものの本質を、わたしたちはよく見極めなければいけない。

こんなことを書いていると、自衛隊のブラックリストに載るかな……なんてことが、冗談ではない時代なのだ。それだけでもう、充分に言論弾圧の威力を発揮しているなあ。


■ 3 Jun 2007 鳩も恋の季節


猿沢の池のベンチに腰掛けてゆるりと五重塔を見ていると、鳩たちが足許に寄ってきた。首のところが虹色に光るドバトだ。中には、アルビノの白いハトも混じっている。

見ていると、その喉の虹色のところをいっぱいに膨らませ、一生懸命に別のハトの後を追っている。迷惑そうに逃げているのがメスで、追いかけているのがオスだろう。なんだか、人間の姿を見ているようでおかしい。

メスが立ち止まると、オスはここぞとばかりに羽根まで膨らませて「クルルルルー、クルルルルー」とやさしい声で歌いながら、水飲み鳥のオモチャのごとく首を上下させ、ぐるぐると回る。体を膨らませて、歌いながら踊る。どうもこれがドバトの求愛行動らしい。はじめて見た。

【動画:がんばるオスと、つれないメス@猿沢の池】

よく見れば、あちこちでけなげな踊りが繰り広げられている。メスはなんとも冷たくて、ほとんど知らんぷり。こうしているうちに、いつかカップルが出来るのだろう。

鳩なんて、もっとも身近な生き物なのに、いままでこんな行動のあることを知らなかった。見たこともなかった。ゆっくりと鳩を見るような時間も持たずに過ごしてきてしまったということだろうか。

奈良に来て、ツバメもたくさん見るようになった。ツバメたちの子育ても一段落、みんな巣立って、空になったツバメの巣を、町の人が壊しているのを見た。そこはレストランで、店先にフンが落ちてくるのは困ったことだけれど、それでも巣立ちまでお店の人が見守っていてくれたのだ。

昨日自転車で通過した平城宮跡の草地は、ヒバリの声でいっぱいだった。

生き物たちがとても近い。それもまた、この町の楽しさだ。奈良に来て、よかった。


■ 3 Jun 2007 猿沢の池がミシシッピになる日


奈良・興福寺脇の猿沢の池。ゼニガメがのんびりと甲羅干しをしている風景がおなじみだ。ところが、きょう行ってみたら、ミシシッピアカガメの大群が、投げ込んだエサに群がっていて驚いた。

ミシシッピアカガメは、縁日でよく売られているもの。小さいときはかわいいが、大きくなると顔の横に赤い線がくっきりと見えてきて、獰猛な姿になり、ガメラを思わせる。持て余した飼い主が、近所の池などに放つケースが多く、在来種のゼニガメが圧迫されている。在外来生物法では「要注意外来種」に指定されているものだ。

【特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律】

以前、この池では在来種しかみなかったのに、いつの間にこんなに増えたのだろう。ミシシッピアカガメは、在来種より繁殖力が圧倒的に強いため、一気に増えてしまう。これでは、猿沢の池のゼニガメも、早晩絶滅に追いやられることになるのではないか。

ゼニガメは奥床しい。繁殖行動のとき、カメはその前足で踊りのような動作をするが、ミシシッピアカガメが「ラスベガスのストリッパー」的な派手な動作をするのに比べて、ゼニガメは、まるで「お能の所作」のような、ミニマムな動きしかしない。捕食行動も、ミシシッピアカガメの貪欲さに比べて、控え目なので、ゼニガメはどうしても劣性になり、どんどん数が減る。

ひとつの場所で別種の生き物は共存できるが、同種の生き物はどちらかひとつしか生き残れないという生存競争の法則もある。猿沢の池がミシシッピの風景になってしまう日も近いのだろうか。かわいそうなゼニガメくん。運命やいかに? 市役所にでも知らせようか。


■ 2 Jun 2007 奈良の空の戦闘機@自衛隊航空ショー


▼文化財の上を飛び交う戦闘機

戦闘機の爆音が、奈良の空を切り裂く。
航空自衛隊による「航空ショー」だ。

きょう6月2日は「2007奈良基地際」
基地は「ウワナベ古墳」と「コナベ古墳」に挟まれた平らな土地にある。
すぐそばには名刹の「法華寺」がある、古くからの土地だ。
そこで、航空自衛隊の幹部候補生たちが学んでいる。

轟音を立てて空を飛んでいくその下には、
昔ながらの美しい瓦屋根の家々、
そして、麗しい文化財である神社仏閣と仏像たちがいる。

万が一のことがあったら、どうするのか。
人の命と貴重な文化財と、自衛隊の宣伝効果と、
天秤にかけて、どちらが大切だというのだろう。

▼一般市民よりも、タクシーのお偉いさん優先

それでも、実態をひと目見なければと、自転車で基地まで行く。
入り口で「タクシーが通るので、どいてください」と言われる。
「車より、歩行者と自転車が優先でしょう」といって、
止らずに門をくぐる。
基地の中までタクシーで乗り付けるのは、自衛隊のお偉方か関係者だ。
一般人は、中まで車もタクシーも入れない。

すると、別の人に「タクシーが来るから止りなさい」と制される。
「車より、自転車優先でしょう」というと
「後ろも確かめない奴が、なにをいうんだ」と突っかかられる。
「タクシーが来ているのは知っていました。入り口で言われましたから。
しかし、車より、歩行者や自転車が優先されて然るべきでしょう。
止るべきは、タクシーです。あなた方が一時停止をさせるべきは、
一般公開のためにやってきた徒歩や自転車の一般市民ではなく、
タクシーではないですか。
だから、わたしは止らずに走ってきたのです」
その人は、教務課の佐藤という中年の人物だった。
「自衛隊は、歩行者や自転車という弱者より、車を優先するんですか」
相手は、黙っている。
「入り口では、一時停止すべきは車で、
歩行者や自転車を優先してください。
きょうは、一般公開日なんですから」
そういっても、やっぱり黙っている。
「返事はしないおつもりですか」
そういうと、やっといやいや「はい」といって、
不愉快そうにわたしをにらみつけた。

自衛隊の存在の是非はともかく、
自衛隊の隊員は、一般に礼儀正しく、
弱者への思いやりがある、と言われているが、
こんな横柄な態度がまかり通っているのかと、憤然とした。

▼本土攻撃に備えた対空機関砲?!

入り口を入ると、広場があり、
そこに戦闘機とミサイルが展示されている。
「戦闘機とミサイル」と一口にいうが、実物を見ると生々しい。
このミサイルを飛ばして、相手を殺傷するのか。
この小さな戦闘機に乗って高速で空を飛び、空中戦をするのか。
そんなことで、果たして「国民」を守れるのか。

さらに行くと、運動場の脇で、対空機関砲VADS。住友重工製。
射程1.2kmのバルカン砲で、
最大で一分間3000発の発射速度を誇るという。
ただし装弾数は500発である。
弾切れしたら、手動で取り替える。
「取り替えている時は?」と聞くと、
「他の対空機関砲で撃つ」とのこと。

射程1.2km? ということは、敵はもう、日本の上空にいると言うことではないか。それに向かって10秒撃つと500発打ち終わって、
弾の補充。また10秒撃って、補充。
目の前にあるこれらの殺人兵器は、まるで「悪い冗談」だ。
ポール・ヴァーホーヴェンの映画を見ているようだ。
そんなことで、果たして「国民」を守れるのか。
守れるはずがない。

問題は、敵に上陸され爆撃されるような状況そのものを
作らないようにするということではないか。
つまり「外交」だ。
「日本という国がなくなったら困る」
「日本という国と友好状態でいたい」と思わせる外交ではないか。

▼イラクに赴任した幹部の話

昨年の7月から11月までイラクに赴任したという自衛隊の幹部に
話を聞いた。
「危険じゃないんですか」
「わたしたちは、輸送部隊なので、
普段はクウェートですからね。安全です」
「イラクは、危険ではないのですか?」
「安全ですよ。バグダッド空港は、安全のために大拡張をして、
非常に広くしたんです。
ミサイル弾なんか、届きっこありませんよ」
「小泉首相のいうように、
自衛隊のいるところが安全地帯というわけですね。
でも、ご家族は、ご心配になられたでしょう」
「いいえ。全然。いってらっしゃーい、なんてモンですよ。
安全だって、わかっていますからね」

この明るさは、なんだろう。
この過信は、なんだろう。

▼防弾チョッキ 試着コーナー

防弾チョッキを試着するコーナーがあった。
そこで試着してみる。ずっしりと思い。そして、通気性が悪い。
「イラクでも、これを着て活動するんですか」
「基地の中は安全なので着ませんが、移動の時など、着ています。
これに、さらに鉄板が入って、銃なども持つので、
総重量は22キロにもなるんですよ」
「暑いですね」
「ええ、暑いです」
「先日、SATの人が防弾チョッキを着ていたのに
弾が貫通して亡くなりましたが。これは?」
「これは、モノが違います。それにイラクでは鉄板入りですから。
ただ、覆っていないところ、たとえば首なんかに
弾や破片が飛んできたらダメですね。それはもう、運です」

▼子どものための 自衛隊員コスプレコーナー

子ども向けの迷彩服と帽子、士官の服装と帽子が揃っている。
女の子向けのものもちゃんと用意してある。
親は喜んで子どもにその服を着せ、ジープの前で記念写真。
子どもは敬礼をしてにっこり笑っている。
「○○ちゃん。かっこええわーっ!
親が、嬌声をあげる。

ああ、これも悪い冗談じゃないか。
この子どもたちが、大きくなって、
兵隊に取られ、戦地に赴いてもいいというのだろうか。
そんなことを望む親がいるだろうか。

いるんだ。アメリカだってそうだ。
胸を張って軍隊に志願し、親も歓び、
そして手足を失って戻ってきて、はじめて反戦に目覚める。
そんな様子が、度々テレビで報道されてきた。

どうしてそこまでしないと、気が付かないのか。

▼救命コーナー

災害時の救命活動のコーナーがあった。
救命活動のための小さな斧やピッケル、ナイフ、
ロープなどをワンセット入れたリュック。
瓦礫の中から被災者を捜しだすためのファイバースコープ。

ここには、人の命を救おうとする道具がある。

そのすぐ後ろに、人の命を奪うための道具がある。
その殺人マシーンは「国民の命を守るため」のものだという。

何かおかしい。異常だ。不条理だ。
この噛みあわなさに苛立つ。気持ちが悪い。

▼殺人マシーンが当たり前の風景になる戦争

しかし、人は慣れるものだ。
バズーカ砲も、対空機関砲も、ミサイルも、戦闘機も、
最初目に入った時は、生々しく目を背けたくなるようなものなのに、
いつも視野に入ってるうちに、だんだん慣れてくる。
そんなもののある風景が、当然の風景に見えてくる。
たった1時間で、そんなふうに見え方が違ってしまう。

戦争とは、そういうことだろう。
そんなものが、いつも身近にあって、それが当然の風景になる。
なんという恐ろしいことだろう。

▼これが「平和憲法」の国の風景?

これが「平和憲法」と呼ばれる憲法を持っている国の風景だろうか。
わたしたちは、自衛隊がこんな武器を持っていることを
当たり前のことにしてきてしまった。

でも、もう一度、自分の目でよく確かめたらいい。
これらの武器が、ほんとうに自分を守ってくれるのかと。
これらの武器が使われる事態とは、一体どんな事態なのか。
そして、なによりもそこにあるのは、
生身の人間を殺すためのマシーンなのだということを、心に刻むべきだ。

「敵が責めてきたら、どうする」
そんな設問自体が間違っている。Bad Question だ。

責めてくるような敵を作らない政治、外交。
まず、そこに力を注がないでどうするのだ。

兵器は、誰かを殺すためのものだ。
そして、その兵器を操る自国の兵隊も、死ぬ可能性がある。
そんなものを「平和のための道具」などとよぶことなど、できるはずがない。

▼殺人隊ではなく、純粋な人命救助隊としての自衛隊を!

自衛隊の人々が「災害救助隊」として、全力を発揮できるような、
そんな世の中になってほしい。

写真1 自衛隊限定発売「撃」せんべい。撃沈の撃か?
写真2 コスプレ記念撮影の子どもたち。
    この子たちが大人になった頃、日本はどんな国に?
写真3 対空機関砲の弾。10秒で弾切れ。


■ 1 Jun 2007 写真の日@奈良市立写真美術館


▼入場無料なのにガラ隙き

6月1日は写真の日。
奈良市写真美術館は、この日、入場無料になるというので、行ってきた。

さぞ混むだろうと覚悟していったら、なんとがらがら。
一時間ほど鑑賞していたが、その間の入場者は10人に満たなかった。

ここは、市立の美術館。
税金で作り、運営されているというのに、これでいいのか?

入場無料の告知が行き届いていない。
こんな日は、駅にタテカンでも立てればいいのだ。
美術館の入り口にも「本日入場無料」とのぼりくらい立てて欲しい。
模造紙に手書きで大書きしただけでもいい。

お役所仕事というか、本気でお客を呼ぼうという姿勢がない。
いくら良い企画をしても、これではダメだ。
「税金ばっかり使って」と市民の反感を買ってもしょうがない。

▼工藤利三郎の古美術写真

しかし、内容はよかった。
「明治・大正・昭和 一瞬の記憶 〜所蔵作品を中心に〜」

明治時代、法隆寺の金堂がまだ焼けていなかった頃の貴重な記録がある。
古美術写真の先駆者である工藤利三郎(1848〜1929)の作品だ。
興福寺の阿修羅は、修理前。欠けた手が痛々しい。こんな姿だったのだ。
昭和に入って盗まれ、そのまま行方不明の白鳳時代の仏像写真もあった。

また、東大寺や薬師寺が、荒れ寺だった頃の写真もある。
いまでこそ、国宝と大切にされているが、
廃仏毀釈ですっかり落ちぶれて、ひどい有様になっていた時代のものだ。
東大寺の大仏殿の屋根もたわみ、つっかえぼうがしてある。

いまの仏や寺の姿は、たゆまぬ復興の努力あってこそだと知り、
胸が熱くなった。

▼入江泰吉に惚れ直す

入江泰吉(1905〜1992)の大和路の写真もすばらしかった。
いままで、この人の作品を見て、
正直言って「月並み」としか思わなかった。
それは、いままで見た作品の多くが、
名所旧跡の写真だったからかもしれない。
なんでもない農村の風景、道ばたの様子。
そんなものに「美」を感じて心を寄せる写真家の息づかいが、
聞こえてくるような作品群だった。
そして、美しいと思ったものを、思ったように撮れるまで粘る
入江の撮影姿勢も強く感じられた。
展示作品の大きさも、感動の一因だろう。

いい展覧会だけに、入場無料の日に観客が少ないのが
返す返すも残念である。

会期は6月24日まであるので、みなさま、ぜひ!

▼白毫寺町へ

写真:白毫寺町の道しるべ 入江もここの写真を撮っている。入江泰吉の写真に写っていた大きな石の道しるべ、見たことがある。
美術館の帰りに、その場所に立ち寄ってみた。
入江の写真と比べながら見ていると、近所の人が覗きこむ。
おばあさんたちが次々通りかかって
「なつかしいねえ」と感想を述べていく。
「わたしも入江さんにここで撮ってもらったことがあるよ」
「ああ、これは○○さんちのボンじゃあないかね」
「昔は、みんな牛だったからねえ」
「この煙草屋さん、いまでもあるよ。ここをまっすぐいったところ」

入江の写真では、そこは野原と畑で、
牛が荷車を引く草だらけの細い道だった。
その道がいまは、アスファルトの自動車道になり、家も建った。

奈良は、この50年で、大きく変わったのだろう。
いまでも、目の前でみるみる古い建造物が壊されていく。
古い奈良の風情をうかがい知る最後の機会に、
わたしは居合わせているのだろうか。


▼2006年12月の時の破片へ


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