■17 Aug 2005 夢/星兎の皿
夢を見た。市街戦のようになっている。火のついた矢がびゅんびゅん飛んできて、わたしのふくらはぎをかすめる。すると、ふくらはぎに火がついてぼうぼうと燃え出す。まずい、と思い慌ててズボンを脱ぐが、それでも火は収まらない。ふくらはぎが痛い。
奈良の相棒からの電話で目覚めて、夢の話をしているうちに、ああ、これは昨日母からきいた空襲の話が、もう夢になって出てきたのだと自分でもわかった。「あなたの夢は、いつも表層心理だね」と相棒に笑われた。その通りだ。昨日見聞きしたものが、すぐ出てくる。わたしの心は、ものすごく浅いプールみたいなものなのかもしれない。
体がだるくてどうしようもない。小林敏也氏より、絵本『イオマンテ』原画展の案内はがきをたくさんいただいたので、25通ほど書いて投函する。中本ムツ子氏と姉崎等氏には、感謝の手紙も添えた。
ぼんやりした頭で、ネット・オークションで気になっていた5枚組の伊万里の皿を見る。5千円ぐらいで落ちるなら買いたいと思っていたが、ぐんぐん高くなる。1万6千円を超えている。一体、いくらまで自動入札しているんだろう、きっと2万円は入れているに違いないと思って、ちょっといじわるのつもりで1万7千1円入れてみたら、最高入札者になってしまった。きっとだれかが再入札すると思っていたら、なんとそのまま落札してしまった。しまったと思ったがもう遅い。うっかり買うことになった。反省。ああ、しまった、高い買い物してしまったと騒いでいたら、相棒がこういってくれた。「新宿で酔いつぶれてタクシーで帰ったと思えばいいよ」
買ったのはうさぎ文様の皿。写真では、墨弾きの技法も併用しているように見える。あまり古いものではなさそうだ。一枚の皿に5羽のうさぎは跳ねている。皿の裏には、なにやら星の文様。陰陽道でも関係しているのか。つまりこれは『星兎』の皿というわけ。月うさぎや波うさぎは多いが、星うさぎは珍しい。やっぱり、わたしのところに来るべくして来たものか。
そうこうすると、もう夜である。まるで空気の薄いところで作業しているように何もかもがゆっくりとしかできないので、あっという間に時間が経ってしまう。こうなったらいっそショック療法だと思って、スポーツクラブに泳ぎに行った。入館したのが夜10時半すぎ。時間がなく150メートルしか泳げなかったが、それだけでもう膝が痛んできた。軟水風呂に入って戻る。
明日はラシエット。楽しみだ。
■16 Aug 2005 詩集/母の「あの日」
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先日のプレ祝賀会で「仕掛かりの作品は、ひとつひとつ形にまとめなければだめだよ」といわれた。まったくその通りである。
・短編集(雑誌発表作品に加筆、新作1本書き下ろし)
・夢見る水の王国(ファンタジー 書きさし三百枚あり)
・水晶迷宮(泉鏡花の「草迷宮」を下敷きにしたファンタジー 書きさし百十枚あり)
・陶片絵本(取材済 企画書を書く)
・奇怪堂幻獣妖怪型録(イントロ短編あり 企画書を書く)
・詩集(手作りの私家版2冊 すでにあり 編集済)
・ユカラの日本語訳詞制作(実際に節に乗って歌えるものを目指す)
・高橋喜治氏依頼の作詞
・某作家との往復書簡の件(某作家の本を読み終えて最初の手紙を書く)
・宮沢賢治学会のための発表資料 まとめる
・あくまのあいうえお(原稿あり 少し手直し)
目先にやりたい大きなことは、これくらいだ。このなかで、詩集は既に編集も終わっているので、この際、先に進めたい。何社かプレゼンをしたが、返事が来ない。ひとつだけ返答のあった会社では、写真とのコラボレで出版を考えるので預からせてほしいと言われたが、こちらは一体いつになるか、先が読めなかった。誕生日が来ると、わたしの半世紀を生きたことになる。この際、ひとつの記念碑として自腹を切っても作ろうかと思いだした。
預からせてくれと言われた出版社の社長に電話、その旨伝えると「どうぞ」とのお返事。よし、やるか。さっそく装丁家H氏に電話してみた。打ち合わせは九月初旬になりそうだ。十一月いっぱいにはつくりたいというと、時間が足りないかもしれない、とのこと。「作るなら、きれいなものを作りたい。詩集ですから、文字もただ流しこむんだけではなくて、きっちりきれいにしたいです。そうなると、時間がかかります」とのこと。完璧主義者である。彼は、そこがまた魅力なのだ。
わたしは、文字はフォーマットで流し込みでいいのではと思っているのだが、ともかくお話ししてみよう。
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きのうは終戦記念日。そういえば、以前母に、その日のことを聞いたように思ったが、詳しい内容は忘れてしまった。ちょうど母から電話があったので、聞いてみた。その日のことも、空襲で家が全焼した記憶も、母の中には、まるで昨日のことのように鮮やかに残っていた。「目に焼き付いて、いまでも離れないの」という。電話で聞いた話、あとでまとめよう。
父の具合がよくないとのこと。心配である。看病している母のことも心配だ。年寄りだから、どこか悪いのは仕方ない。養生をして、この夏を乗り切ってほしい。
■15 Aug 2005 少しずつ復活
まだ体がだるくて仕方ないのだが、昨日当たりから少しずつ復活したらしい。「陰極まって陽となる」ということか。あの転んで腰を打ったあたりが最悪の日だったらしい。
短編を持って伊勢丹デパートに阿部氏に会いに行く。阿部氏、喜んでくれる。読んでから、感想を書いてくださるという。本のアイデアも喜んでくれた。思いついたばかりで、まだどうなるかわからないが。
「収束しなさい」と言われているのに、また興味が広がってしまった。こうなったら、競走馬のように、前しか見えないように目隠ししなければならないか。
■14 Aug 2005 奇々怪々屋の妖怪たちに遭遇
まだ、ぼうっとしている。しかし、もう食べ物がない。わたしのだけならともかく、頼まれて面倒をみている友人の猫の食料がなくなってしまった。買いに出る。
帰りに、伊勢丹のロビーを通過すると、手作り店をやっていた。木彫りはないかしら、と見ていると、おかしなものにであった。妖怪人形だ。「奇々怪々屋」と名乗る、阿部代里子さんという方が作られた石粉粘土の人形。異形の者たちだが、みんなどこか愛嬌がある。それぞれに名前があり、キャラがあり、想像が膨らむ。「妖怪ペットショップだと思っていただければいいんです。気に入った妖怪の里親さんになっていただけたらうれしい、という気持ちで売っているんです」と作者。
見ているうちに、これで本を作ったら楽しいだろうなあと思ってしまった。妖怪型録だ。家に戻ると、想像力が膨らんで、一気に物語を書き上げた。本のイントロのための作品だ。題して「奇怪堂謹製 幻獣妖怪型録」。四百字詰め26枚の短編だ。阿部氏の展示会は明日が最終日だという。明日、この短編を持っていってあげよう。
■13 Aug 2005 またも木彫
疲れが取れず、体も痛くてぼうっとしている。しかし、制作途中のアイヌ模様の木彫りの糸巻きが気になって仕方ない。こういうときは手を切るぞと思いながらも、どうしてもやりたくて、やってしまう。さすがに慎重にゆっくり彫った。そして、完成。木彫り第3作目だが、われながらいい出来だ。この調子で上達していったら、すごいものができるかも。
と思うと、我慢ができず、先日高瀬氏が「練習用に」ともってきてくださった20センチ角の板を彫りはじめる。高瀬氏が、きれいにヤスリまでかけてくださった板で、生地もやわらかい。しかし、やわらかすぎてうまくない。筋と地の部分のやわらかさに差がありすぎてよくない。ことに、鱗彫りのときに、潰れてしまう。
むずかしいものだ。やわらかすぎても、硬くてもむずかしい。はじめのコースターは、シナノキ。目が詰んでいてしかもやわらかく、これが一番彫りやすかった。版木の板はホウノキ。やわらかい部類の木だけれど、わたしには少し硬く緻密に感じられた。今回のは、なんの木だろう。輸入材かもしれない。もちろん名人ならなんでもいいのだろうが。
模様のデザインは楽しかった。基本を組み合わせていく。最初、大雑把な模様を彫った。すると細部を加えたくなって、どんどん複雑になっていった。その有機的に成長していく過程が面白かった。昔のアイヌの人も、彫っているうちに、もっと細かい装飾がしたくなって、どんどん精巧な模様になっていったのかもしれない。
糸巻きがよくできたので、糸巻きの土台となるものをたくさん作っておいて、いろいろな模様を彫ったら楽しいだろうなと思った。糸鋸で切るのが手間なので、ホームセンターにいって「お客様工房」のジグソーで切ってくるといいかもしれない。
しかし、昨日「小説がんばります」といったのに、このていたらくである。全体に気分がウツなのだ。木彫りは逃避行為かもしれない。わたしは依存体質の人間なので、なにかひとつはじめると「取り憑かれて」しまうらしい。この辺で一区切りにしよう。
■12 Aug 2005 ラシエットでカレーをつくる
ラシエットの坊やの太一くんから電話。
「ママが、インドのカレーの作り方教えてって」
以前、純インド式カレーをつくってごちそうしたら評判で、そのレシピを教えて欲しいというのだ。ちょっと疲れていたのだが、太一くんのかわいい声にほだされ、インド直輸入の各種スパイス持参で出かけた。
一人暮らしをしていると、滅多にカレーなどつくらない。久しぶりに作ったカレーだったが、うまくいってよかった。さらに工夫を加え、ラシエット風にアレンジして、お店のメニューに加えたいという。
カレーを食べて、家に戻ろうとすると、雷雨。雨の中、マンションの入り口にたどりつく。階段を上りきったところで、ご近所の猫にご飯をあげにいかねばならないことを思い出しUターン。雨に濡れて滑る階段を下りると、きゅっきゅっと靴の音がした。階段に腰掛けて携帯メールをしている少年がいて、ちょっと気をとられた瞬間、転んだ。がつんと派手にきた。「だいじょうぶですか」と少年。恥ずかしいので「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と空元気をだして立ちあがり、何食わぬ顔で歩いていった。しかし、痛い。
思えば、疲れすぎ。ぼうっとしていた。
夜になると、痛くて眠れない。寝返りも打てない。参った。注意一秒怪我一生である。疲れているときは、あんまり無理をしではいけない、と反省。
■11 Aug 2005 プレ祝賀会に新たな朗報
『楽園の鳥―カルカッタ幻想曲―』が、某文学賞の候補作に推薦されたというお知らせをいただいた。まだ候補の候補になっただけで、候補作になったわけでもないのだが、うれしくて各方面に電話。担当だった元講談社の宇山日出臣氏が「さっそく祝賀会を」とおっしゃってくださった。この期を逃すと祝賀会が開けなくなってしまうかもしれないので、地元でこじんまりと集まっていただくことにした。
メンバーは宇山日出臣氏、装丁画の門坂流氏、そして門坂氏と引き合わせてくださった浜野智氏。場所は、南林間のイーサン食堂。浜野さんに連れられて、はじめて門坂さんとお酒を飲んだタイ料理店だ。
乾杯の後は「寮美千子は絵本から小説まで幅広く仕事をしているけれど、その割にメジャーじゃない。なにか突出した仕事をして芯となるものを作らなければならない」というのがもっぱらの話題。「このままだとまだ暗黒星雲のようなもので、どこかにぎゅっと凝縮しなければ、星になれない。輝き出さない」と宇山氏。『楽園の鳥』の反応がさっぱりだったので、がっかりして、ここしばらくは小説のことは頭から追い払っていました、と申しあげると「ぼくが認めただけではだめですか」とお叱りのお言葉。ありがたい。あの出版界の名伯楽と呼ばれた宇山さんに認めていただいたんだから、簡単に投げ出したりしてはいけない。もちろん。投げ出したわけではないのだが、心が絵本作りに傾いていたことは確かだ。
わたしは「小説」というものがよくわからない。その面白さもよくわからないのかもしれない。「ああいう物を書きたい」とお手本になるような作品も思い当たらない。つまり、わたしが書きたいジャンルがない。わたしが書きたいものは、どのジャンルからもはみだしてしまう。受け皿がないから、書いても報われないのではと思ってしまう。それで、気持ちが鈍ってしまう面もある。
それでも、いままでも人に頼まれもしないのに書きたいものを書いてきた。そして、仕上げてきた。『小惑星美術館』も『ラジオスターレストラン』も『ノスタルギガンテス』も『星兎』もそうやってできた作品だ。さらに『楽園の鳥』でさえ、新聞連載の依頼がある前に、勝手に書き始めていた作品だった。130枚ほどの書きさしにして放置してあったものを、連載依頼を期に書き下ろしたというわけだ。
今までの作品の中では『小惑星美術館』がいちばん商品としての完成度が高いのではと、宇山氏はおっしゃった。この作品は、わたしがはじめて書いた小説。まだ右も左もわからなかったので、世間にあるいわゆる小説のイメージをなぞって書いた作品だった。だから、商品性が高いのかもしれない。『ノスタルギガンテス』では、みずからそのような枠組みをとっぱらってみようと試みた。「物語の展開に奉仕しない言葉」で綴ってみようと考えたのだ。そうやって、ほんとうに自分が書きたいことを書こうと試みた。
宇山さんも門坂さんも「ジャンルなんて気にしないで、ほんとうに自分が書きたいものを書けばいい」とおっしゃってくださった。文学の新人賞に応募してもいいのでは、ともいっていただいた。「これがこれからの文学ですよ、と、こっちからみせてやればいいんです。文芸誌『群像』もリニューアルを試みている。いまがチャンスですよ」と宇山氏。「ここ1〜2年が勝負所じゃないかな」
そうまでおっしゃっていただいて、やる気になって「はい。がんばります」と神妙にしていたところに、電話が入った。奈良の相棒からだ。『イオマンテ』が、小学館児童出版文化賞の候補作になったという知らせだった。文藝家協会の登録住所を奈良に移したため、そちらに知らせがいったらしい。
せっかく「小説で行く!」と話がまとまりかけているところ、この知らせ。なんだかみんな出した刀の収めどころもなくなってしまって「まあいいや。めでたい!」とやけくそ気味で再びの乾杯。「寮は心の赴くままに好きにやればいいや」というよくわからない結論になったのだった。
「じゃあ、次は残念会で!」と軽口をたたく浜野さん。「でも、受賞したらこんとは寮ちゃんのおごりだぞ」。うん、おごれるようになりたい!
■10 Aug 2005 糸巻きにこめられた祈りの形
夢中になって木彫りをしてしまう。三角刀はいけないが、印刀はけっこういける。鱗模様が少し上手になった。版木を一枚、アイヌ模様に彫り上げた。
調子に乗って、糸ノコを出して、版木をカット、アイヌの糸巻きの形にする。印刀と紙ヤスリで形を整え、掘りはじめる。こんどは三角刀をつかうのを断念して、印刀一本でいくことにする。アイヌも、昔はマキリ一本でなんでも彫っていたのだ。時間がかかるが、まえよりずっときれいにできる。コースター、ハガキ版木について、3作目である。
それにしても、ただの木を彫ることで、美しい装飾ができていくのを、この手で実感できるのがすばらしい。アイヌの絵本を書いているが、アイヌの物語の随所に出てくる木彫りとは、このことだったのかと、改めて思う。糸巻きだって、なにも装飾する必要などないのだ。それでも装飾すること。美しくなってうれしい、という気持ちもあれば、そこに呪術的な力を込めるという祈りもあるだろう。
自分の手で、少しずつ美しい模様が生まれてくる。確かにいとおしく、そこに何かの力がこもっているような気がしてくる。尖った模様の先は、悪魔除け。緩やかに流れる形は水や命のめぐり。鱗模様は世界を埋め尽くす見えない力だろうか。
祈りのこもった糸巻きに糸を巻き、その糸で家族の着物を縫う。糸は、すでに祝福されている。その糸で縫う模様にも、魔除けの形。すべてに祈りが込められている。日用品は、ただ実用品なだけではなく、心を支え豊かにする祈りの造形なのだ。
その優雅さ、豊かさ。わたしたちはいま、便利なものに囲まれているけれど、こんな豊かさを持っているだろうか。なんだか、昔の人のほうが、美しいものに囲まれて生きていたような気がする。
手を使うというのは面白い。頭ではなく、手が考えてくれる。アイヌ文化を題材にしているのだから、これからも少しでも、こういった具体的なものに親しんで、理解を深めていきたい。
■ 9 Aug 2005 彫刻刀購入/ルーターの使い方を習う
先日、北海道で木彫りを習ったという話をしたら、高瀬さんが、木彫りのための作業台を作って持ってきてくださった。激しい親切ぶりである。ルーターも持参で、工作方法を教わった。貝殻にもビーチグラスにも穴をあけることができる。これさえあれば、ストラップやモビールなど、自由自在だ。いままで、穴の開いた貝を見つけてモビールにしていたけれど、これからぐっと自由度が高くなる。もっときれいなモビールを作れるだろう。といっても、そんなに作っているわけじゃないけど。
世界堂で彫刻刀を購入。三角刀と印刀を一本ずつ。三角刀は5千円、印刀は3千円ほどした。さっそくハガキ用の版木を彫ってみるが、うまくいかない。木の繊維がギザギザになってしまう。木の質が悪いのか、彫刻刀が悪いのか、その両方かもしれない。特に三角刀がいけない。バリバリになってしまう。
■ 8 Aug 2005 星兎ドーナツ通信
父の従兄弟が、ミスタードーナツの店を3店経営している。叔父さんと呼んでいるのだが、その叔父が発行している3店舗限定の情報誌の名前は「星兎ドーナツ通信」。読者欄の投稿採用者へのプレセントのひとつは、拙著『星兎』だ。ありがたい。その叔父に会いに東村山に行く。連日忙しくて、疲れた。
■ 6 Aug 2005 陶片と縄文土器片/ストラップ制作
町田天満宮の骨董市で知りあった高瀬氏が、鎌倉で拾った陶片を持ってきてくれる。高瀬氏の本職は植木職人。趣味は鉱物・化石・水石と、蘭だそうだ。海岸に打ち上げられた陶片を集めている、と話したところ、鎌倉に拾いにいってくださり、プレゼントしてくださった。なかに、かなり古そうな、江戸期の染付けの欠片もあった。これは染付け、これは印判、というように分類していたら、だいぶ時間が経ってしまった。
高瀬氏は、縄文土器の破片も持ってきてくださった。多摩丘陵で造園をしていたとき、すでに発掘作業の終了した場所から出てきたものだそうだ。縁の下に放り込んでいたので、半分溶けかかっているし、大事にしてくれるならといただいたのだが、こんな凄いもの、いただいていいのだろうか。博物館に寄付すべき?
さらに、石に編んだ紐をつけたストラップも30個ほどもいただいてしまった。どう考えても多すぎる。高瀬さんは過剰な人だ。これはお預かりして、友人のお店で売ってもらえるかどうか打診してみることにした。紐の編み方の平編みと捻り編みを教わって、自分でもつくってみた。なにかと手作業の一日であった。
■ 5 Aug 2005 アイヌ文化普及啓発セミナー 瀬川拓郎氏講演
「アイヌ文化普及啓発セミナー」参加3日目。瀬川拓郎氏(旭川市博物館学芸員)の「アイヌ・エコシステムと縄文エコシステム−自然利用からみたアイヌ社会のなりたち−」を聴く。
瀬川氏は、大雪山麓に広がる上川盆地を考古学的に発掘調査しているうちに、否応なくアイヌ文化に足を踏み込むことになったとのこと。「正直、アイヌ文化は専門ではないんです」とおっしゃりながらも、当然、われわれ一般人より、はるかに知識を持っていらっしゃる。ただ、面白いのは、考古学から入っていらしたというだけあって、見方が実証的なのだ。「アイヌとはこういう民族」という先入観を持ち、そこからそれに合致する証拠をあげていくような方法では、さらさらない。あくまでも遺跡という現実から、推測していく。その手法が新鮮で感銘を受けた。
簡単に言えば、縄文とアイヌはある部分で文化的に切れている、というか、違う要素によってその村落が構成されてきた、ということだ。鮭漁は、自分たちが食べるため、ではなく、むしろ交易の品としての需要があったため盛んになった、と考えたほうが妥当だ、というお話だった。詳しいことは、いずれまとめて書きたい。
縄文=アイヌ と、安直に結びつけて、そこに幻想を抱こうとする一般の傾向に警鐘を鳴らすような、すばらしい講演だった。相当ヘタッていたけれど、無理してきてよかった。
■ 4 Aug 2005 アイヌ文化普及啓発セミナー 熊谷カネ講演
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「アイヌ文化普及啓発セミナー」参加2日目。熊谷カネ氏(様似民族文化保存会会長)の「父と母にみたアイヌの心」を聴く。熊谷氏は、アイヌの血を引いていらっしゃる。学者とはひと味違う、文化を受け継いできた者としての実感のようなものが、こちらに伝わってくる。それを感じたくて、足を運ぶ。
控えめな、けれどしっかりした方だった。お母さまがユカラを語る様子を写したビデオを7年前にテレビ局からもらい、それを見て、ああこんなすばらしいものを引き継がないできてしまった、と気づいて、それから勉強をはじめられたそうだ。子どもの頃、お父さまが時折口にするアイヌ語を聞いてはいたが、それを理解するまでには至らなかったという。そのことを、いまとても残念に思っていらっしゃる様子が、手に取るようにわかった。お父さまは、晩酌をするときに、いつもアイヌの流儀でお酒の滴を撒き、呪文のような言葉を唱えたという。ある時、その意味を尋ねると「神さまが、この村やみんなを守ってくださるよう、いつもお願いしているんだよ」とのことだった。お酒を飲むたびに、自然とそのような祈りをすることのすばらしさ!
熊谷カネ氏は、新しく習い覚えたユカラを語ることに、疑問と不安を感じて迷っておられた時期があったという。ビデオや録音に残されたアイヌの古老たちのような声や節回しができないからだという。それを中本ムツ子氏に相談したとき「カネさん。だれだって他の人とおんなじようにはできないんだよ。それでいいんだよ。あなたはあなたのユカラをやればいい」と励まされたそうだ。それでふっきれて、邁進することが出来たという。
中本ムツ子フチの言葉の、何と包容力のあることだろう。わたしも、その言葉に勇気づけられて『イオマンテ』を書くことができたのだ。ムツ子フチのポジティブなパワーは、こんな人も勇気づけているのだと、改めてそのすばらしさを感じた。
▼北斗七星七変化
新宿で雑誌「マンモス」の編集部と小林敏也氏と打ち合わせ。9月30日発売の号で星の特集を組むことになり、そのなかの12頁を世界の「北斗七星神話」で構成するという企画だ。原稿は、北海道に発つ前に仕上げて渡してあった。おなじ星が、民族や文化により違った者に見えるという面白さ。小林さんがまた素敵な絵を描いてくれそうだ。楽しみでならない。
■ 3 Aug 2005 アイヌ文化普及啓発セミナー 門崎允昭講演
八重洲のアイヌ文化交流センターで開催される夏の「アイヌ文化普及啓発セミナー」に参加。門崎允昭氏(北海道野生動物研究所所長)の「アイヌとヒグマ」の講演を聴く。ユリイカの星野道夫特集の時には、門崎氏の本から一部引用させてもらったし、『イオマンテ』でも、熊の習性に関していろいろと参考にさせていただいた。そのお礼を申しあげた。
講演は予想に違わずすばらしかった。熊の、愛情豊かに子育てをすること。親子で歩くときは、必ず母熊が先頭を歩くこと。子熊が二頭のときは、子熊同志で遊ばせて親は相手をしないが、一頭のときは母熊が遊び相手になってあげること。そのなかで子熊は運動能力などを養うこと。子離れの厳しさ。いつまでも母を慕う子熊の姿、など、胸打たれるお話し。すえべて門崎氏ご自身が撮られたという写真もすばらしかった。
「わたしは山へ一人ではいってこの写真を撮りました。熊のことは、山へ行かなければわかりません。実際にこの目で見なければ、ほんとうのことはわからないのです。熊の姿を見たら、簡単に駆除などということはできないはずです」
「北海道で熊に襲われたという事故のすべてを、わたしは検証しました。事故にあった人が生きていれば、その人に話を聞きに行き、警察の調書にも、すべて目を通しました。そして、そのすべてに関して、論文を書いて発表しました。熊の事故は、防げるのです。人間に危害を与えた熊は二千頭に一頭しかいません。それも、よく調べれば、人間が注意していれば、対処を間違えなければ、ほとんど防げた事故なのです。そういうことを考えもしないで、熊を見れば恐ろしい怖いといって、殺そうとする。頭数制御、などという西洋の考えを直輸入する。間違っています。けれど、それを間違っているといっているのは、学者の中ではわたしだけになってしまいました」
アイヌ最後の狩人といわれた姉崎等氏も、おなじことをおっしゃっていらした。「おれはいってやるの。学者先生に。先生、熊は机のうえにはいないよって。山でみなけりゃ、熊のことはわからない」「熊は、人間に遠慮して、遠慮して生きているんだ」
観念の操作ではなく、現実から学ぶと言うことの大切さをひしひしと感じる。現実から学ぶことはゆっくりだ。そして、熊の生態のような場合、だれもが現実から学べるわけではない。だから、机の上で組み立てた観念の理論ばかりがたやすく横行するようになる。それは、いわゆる学問かもしれないが「智慧」ではない。ほんとうに必要なのは「智慧」なのだ。姉崎さんや、門崎先生のような。
■ 2 Aug 2005 萱野茂二風谷アイヌ資料館/木彫りに初挑戦
二風谷へ。
萱野茂・二風谷アイヌ資料館と、平取町立アイヌ文化博物館を訪れる。萱野氏の資料館も、心温まるものだった。アイヌ文化博物館はきれいに整備され、見やすく展示されて、アイヌの民具の全体像がよりはっきりとわかるようになっていた。そのほとんどが、萱野氏から寄贈されたものだという。
博物館で、木彫り教室を行っていたので参加。コースターを彫った。彫刻刀を握るのは小学校以来だ。使うのは、三角刀と印刀。なかなか思い通りに動いてくれない。それでも、一時間半もすると完成した。それなりに見栄えがしてうれしかった。
二風谷のダムのほとりでしばらく水を見ていた。ここが、豊かなアイヌの大地だったのだ。来てみなければ、なかなか実感できない。その大地を水の下に沈めて、畔に美しい公園や遊歩道をつくっている。ダムのお金で作ったものだ。そこには、ひとっこ一人いない。なんのための公園。スタンプラリーの旗だけが、だれもいない公園に虚しく翻っていた。いくつか流木を拾った。
夕刻、空港に行くと、羽田が停電のため大混乱になっていた。わたしの便は4時間遅れである。それでは、羽田から家に帰る足がない。青ざめたが、とっさにもっと早い便に変更手続をしてもらって何を逃れた。少し早めに行っていてよかった。わたしのすぐ後から、もうキャンセル待ちで、何十人もが並んでいた。
■ 1 Aug 2005 川村カ子トアイヌ記念館/白老のアイヌ民族博物館
山岸享子氏らとともに、川村カ子ト・アイヌ記念館を訪れる。
小さな、心温まる個人博物館だ。
ボランティアが作ったというチセがほぼ完成していた。
ガイドをしていらしたのは、川村氏のご子息。
絵本『イオマンテ』を進呈する。
アイヌ文化への敬意がひいては差別をなくすのでは、という話をすると、
「それでも、貧しいアイヌは貧しいのだ。
言葉や踊りを勉強するひまさえない」とつぶやかれた。
その現実の淵の深さに、足のすくむ思いがした。
列車で移動。
白老のアイヌ民族博物館を訪れる。
湖畔にコタンさながらにいくつものチセがつくられ、
その規模の大きさに驚かされる。
学芸員の方にご挨拶をした。
『イオマンテ』はすでに寄贈して届いていたので、ご感想を伺うことができた。
「すべてはめぐる命のめぐみ」という思想は、
アイヌ文化とは違うのでは、
昔のアイヌはそのように感じたり考えていなかったのでは、というご指摘を受けた。
「これは、アイヌ文化紹介ではなく、創作として読みました」とのこと。
確かに、それは「命の恵み」ではなく「カムイの恵み」なのだ。
けれどもまた、アイヌのフチやエカシたちに話を聞けば、
神話世界レベルでは「カムイの恵み」と受け取ってはいても、
現実世界レベルでは「命の恵み」と感じていると言うことを、肌で感じてきた。
そのことを表現したつもりだった。
とはいえ、それは現代のアイヌのこと。
古い時代、そうだったかどうかはわからない。
もっと強固に、神話レベルでの世界解釈が浸透していたかもしれない。
そういう見方・考え方があると知るのは、意味深かった。
かなり凹んだが、とてもありがたい。