■24 Oct 2003 表象研究会 アイヌの文芸@和光大学
和光大学でアイヌ文化関連の研究会があるというので、でかけた。行くと、発表者以外には、3人ほどの教授がいるばかり。発表者は、バチェラー八重子の短歌『若きウタリに』の岩波現代文庫からの再刊を編集した村井紀教授。国文学の方だ。
カムイという意味で八重子が描いた部分を、金田一京助は「天皇」と解釈。八重子は当時「アイヌが正しく教化され、日本の伝統文芸である和歌で、天皇を誉め称える歌さえつくるようになった」という文脈で、高く評価されていたという。しかし、それだけではなく、八重子の歌そのものに、みずみずしい文学的魅力があったのではないか。それがいま「文学」として、日本文学史から抜け落ちているのは、おかしいのではないか。少数民族の歴史と、フェミニズムからしか語られないバチェラー八重子の短歌を、日本文学として再評価したい、というのが、村井紀氏の主な主張だった。
金田一の曲解を、なぜ八重子が許したのか? 自身の本であれば、校正もできたはずであろうに、おかしいではないか、という意見がある教授から出た。そのような質問がでたことに、わたしは驚いてしまった。当時のアイヌ女性に、それも宣教師の養女となり、それ故に和人たちにも受け入れられた者に、金田一の曲解を正すことなど、できたはずがない。そのような立場になかったのだ。彼女は、明らかに弱者の立場であったのだから。
宣教師の養女となったアイヌ女性であり、キリスト者である八重子が「わがきみは」というように、一般に天皇を示す言葉をあえて使って、カムイへの思慕を語ろうとしたことは、それだけで大きな抵抗だっただろうとわたしは思う。それを思うとき、彼女の勇気に心が震える思いがする。
さらに、別の教授から、植民地支配によって、現地の人々が日本語を読み書きするようになり、短歌や俳句なども盛んに作られるようになった結果、外国語や、外国の感性が日本語に流入してきて、日本語が豊かになり、日本文学が豊かになった、という意見が述べられた。例えば立原正秋は韓国人だが、日本人にはないとても鋭い感性を持っている。真似できない、というのだ。
この意見にもわが耳を疑い、わたしはとうとう何も言えなくなってしまった。自分が、ひどく場違いな場所に来ているように感じた。台湾語やアイヌ語が、短歌にはいってきてクレオールな響きを生み出し、また新たな概念が流入して日本語が豊かになったことは、確かに事実だろう。けれど、それだけを賞賛するような言い方は、やはりあまりに無神経だと思う。日本語という外国語を使うということは、それだけ彼らの言葉が奪われていたことの証明でもある。ただ手放しに喜べるはずもない。そのことに留意しながらでないと、そのような発言はできないのではないか。
村井紀氏は、八重子の短歌を、短歌として出来がいいから、日本文学史にいれるべきであると力説なさっていた。八重子は当時、パリを訪れて短歌を詠んでいる。同時期に与謝野晶子もパリを訪れて短歌を詠んでいる。村井氏は、このふたりの短歌を並べ、無記名で「どちらがどちらか、わからないでしょう、八重子の短歌は、晶子に遜色がないでしょう」とおっしゃったが、居合わせた人々は、どれが晶子のものかをほぼ言い当てた。八重子と晶子では、やはりかなり力の差があるようだ。
わたしが思うに、八重子の短歌を評価すべきひとつは、アイヌ語をそのまま日本語のなかにおいたクレオールな言語感覚だと思う。それは、いま見てもとても新しい。そして、アイヌ独自のカムイの概念を短歌で詠ったこと。その歌の正しい理解を得るためには、アイヌ文化が理解されるまで、時を待つしかなかったのかもしれない。『若きウタリに』は12月に出版とのこと。ぜひ読んでみたい。
■21 Oct 2003 工芸の世紀@芸大美術館
そうか、そういうことか、と思った。明治の文明開化の頃、工芸は、日本が胸を張って
輸出できる産業だったのだ。いかにも西洋人をびっくりさせてやろうというものもあったけれど、それだけではない、ぐっとくる作品も多数あった。その精緻さに、そして力強さに目を奪われる。ことに、ポスターになっている一連の金属細工の「鷹」の作品群はすばらしかった。ここまで本物より本物らしく、美しくつくれる技と心が、いまの日本にあるだろうか。
ギャラリー・トークをした芸大の漆芸科の教授はいう。「そういう時代だったんですね。おもいきり時間とエネルギー注いだ。それが明治期の漆芸の特徴です。いまの時代、とてもそんなことはできない」
できないのは、なぜだろう? コストの問題? 時間がない? 時代が下るほどに作品の質は下がり、ことに現代の芸大教授の作品は、目も覆わんばかり。いったい、どういうことだろう?
■17 Oct 2003 キロロアン 諏訪良光氏講演
今月のアイヌ文化交流センターの文化講座「キロロアン」は、塘路在住のトンコリ制作者の諏訪良光氏。以前、金子恵さんに連れられて塘路のアトリエを訪れたこともあり、うれしい再会だった。無口な諏訪氏。質問に答えながら、黙々と木を削る。諏訪氏がトンコリの制作方法を習ったのは、郷土館の学芸員からだという。「詳しいことは、わたしよりみなさんのほうがご存じでしょう」というのも、あながち謙遜ではなく、実際、研究者のほうが詳しいことも多い。アイヌ屈指の制作者が、実は和人から制作を習わなければならなかったというところに、アイヌ文化の悲劇があると思い知らされる。
しかし、そんななかでも、諏訪さんは地道に、そしてしっかりとトンコリ制作をしている。なによりも、安価でみんなの手に入るようなものを作りたいといって、利益らしい利益もなくがんばっている。その欲張らずに分かち合う気持ちは、まさにアイヌのものだ。諏訪さんの思いが通じて、各地に散らばっていったトンコリは、きっとアイヌの心をそれぞれの地で甦られてくれることだろう。
■16 Oct 2003 青山学院短期大学で特別講義
評論家の甲木善久氏に招かれて、青山学院短期大学で特別講義をする。学生諸君が『星兎』を読んで、感想を書いてくれていた。心の深いところに物語が届いているのを知って、とてもうれしく、励みになった。みんな、素直ないい子ばかり。この子たちが数年の内に社会に出て、保母さんになっていくんだなあと、感慨無量。
■11 Oct 2003 夢の標本箱撤収/「ヒバクシャ」町田上映会
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夢の標本箱2003は、好評のうちに終幕。「物語の作法」を受講したものの、途中から脱落してしまった学生が、いかにも残念そうに「ぼくも参加したかった!」と書いていたのが印象的だった。来年受験する受験生も、親子で見に来てくれたようで、うれしい。
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「ヒバクシャ」町田上映会は、満員御礼。上映トラブルなどあったものの、無事終了した。よかった。みんな、満足度が大きいようだ。それもよかった。
■ 4 Oct 2003 夢の標本箱搬入/ギャラリー・イヴ
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和光大学「物語の作法展 夢の標本箱2003」の搬入。昨年に引き続き2回目の展示。昨年より、展示方法も進化したし、内容もぐっと充実した。標本箱以外にも、自主的に鳥かごに入ったお人形を持ってきてくれた学生もいて、ぐっとすばらしい展示になった。うれしい。
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ギャラリー・イヴへ「月乃夢馬國」のオープニング・レセプションに行く。なぜこれが?というレベルにがっかりする。甘い。