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久我真紗子 ガラスみたいな、ね
2002年12月13日(金)12時25分53秒
▽日々研究。 への応答
欲張りじゃないよー!
横田さんのは今でも十分、透明で綺麗なエロが書けてると思うなぁ。
透き通ったピンク色とは、パステルピンクではありませんよ。
濃ゆいピンクです。ワインレッドに近いかな。
イチゴよりはザクロって感じ。
う〜ん、なんて抽象的な例えでしょ。
ボールペンからヘンなバネが出できたんで
直そうと思って分解したら元に戻せなくなった・・・・・・・・・くやしいぃ
これ 以外と複雑!!
横田裕子 日々研究。
2002年12月12日(木)19時10分07秒
「あの路線」で行こう!そういう気満々なのですが。
何回か書いてるとどこか2番煎じみたいに思えてきて、自分のなかで許せなくなってくる。
もっと沢山読んで、もっと沢山書こう!とはもう随分前から分かってるのだけど。
だからといってきわどい描写はしたくないし読むのに躊躇いを感じる・・・ノミの心臓だから。
透き通ったピンク色(by久我さん)で遠まわしで綺麗なんだけど、やっぱりエロい。
そんなのが書きたいです。
だけどこれって欲張りっていうんでしょうか?
昼休み、武井君と古内君と久我さんと私で、掲示板読んでました。
一人で読むのもいいけど、何人かで読むのもまた楽しい!
寮美千子 またほめます
2002年12月12日(木)00時59分02秒
▽杉作くんをほめます への応答
才能、といえば、杉井武作くんもまた、不思議な才能にあふれていると感じています。
ほんと、まぶしいくらいに。
しかし、この才能、どう使ったらいいのか?
どうしたら世間というものとつながるのか、これがまたむずかしい。
いまのところ全方位へ向けての才能なので、
どこへ収束させていったらいいのか、絞りきれない。
大切なのは、自分を上手に刈り込んで「世間」の求めるものに合わせていくことじゃない。
自分が純粋に自分のままで、どう世間に認めさせるか。
だと、わたしは思っています。
しばらく全方位のまま疾走するのも悪くないか、とも思います。
やるだけやりきったら、いずれ自分で収束したくなるだろう、とも思う。
傍観するしかない。ぐわんばれ、杉作。
寮美千子 宮田和美「日々のかけら」の魅力
2002年12月12日(木)00時52分39秒
▽いやいや。 への応答
視線が、ともかく魅力的です。
サンサーラへのプレゼンの視野に、宮田さんも入っていますが、
商品化するためには、もう一押しの「何か」が必要。
まあ、商品化するために文章を書いているわけじゃないから、
それだけを考える必要はないんだけれどね。
宮田さんの才能、どう世間というものとつなげていったらいいか、
その使い道を考えないといけないなあと思っています。
そのひとつの方法が「長編を書く」。
プロットをきちんと考えて、ともかく仕上げてみることが大事。
先日の授業でやったこと、ちゃんと自分なりに発展させた?
がんばれよ。
でも、これもひとつの方法で、短編でもいけるかもしれない。
ただ「習作」ではなく「短編」と読者に感じさせるためには、
やっぱりもう一押しの何かがほしい。
ところで、短歌を書いてみない? 遊び気分でいいから。
奥野さんのあの初々しさとはまた別の?! 独自の視線が現われたら面白いと思うのです。
寮美千子 杉作くんをほめます
2002年12月12日(木)00時45分07秒
▽せんせい。 への応答
1 ハンサム
2 暗く、かつまぶしい渦巻きのようなエネルギーを感じる
3 正直者
4 多作
5 駄作もあるのがかわいい
6 文章がすなおでわかりやすい
7 朗読が妙にうまい どんな文章も杉作の朗読を聞いていると楽しく聞けてしまう
8 ファッション・センスがいい 似合っているのがなおいい
9 心やさしい
10 実は照れ屋なところがまた好感度高し
まだまだあるけれど、書ききれないのきょうはこれくらいにしましょう。
杉作くんの文章、はちゃめちゃなパワーを感じさせられて楽しい。
現段階では、自分で方向性がみつからなくて、全方向にパワー全開で疾走している感じ。
いまはまだ「洗練」は必要ないかもしれないけれど、
洗練され、向かう方角がぴしっと定められて、
そこに向けてすべてのエネルギーが投入されたら、
とんでもない飛距離が出そう、と予感させられます。とても楽しみです。
杉井武作 せんせい。
2002年12月11日(水)23時21分39秒
▽どのくらい大きな声が出せるのかわからないまま叫ばないまま への応答
ぼくのこともほめてください。
まいにちのように。
杉井武作 だいすき。
2002年12月11日(水)23時16分08秒
▼掲示板:2A「O・RE」 への応答
ぼかぁバナナオ・レ、だいすきです。
ええ、だいすきです^−^
奥野美和 わあーあああ!
2002年12月11日(水)22時43分41秒
▽どのくらい大きな声が出せるのかわからないまま叫ばないまま への応答
すごい。がんばる。先生、有難うございます。
とにかくがんばる。書く!書く!
やー、書きます!
最近、落ちこんでいたりしたけれど
とにかく、がんばる。
うれしい。
飛び跳ねた、いま、こころ!
宮田和美 いやいや。
2002年12月11日(水)22時35分26秒
▽どのくらい大きな声が出せるのかわからないまま叫ばないまま への応答
わたし写真のセンス、皆無。ほんとにほんとに。
あの写真は高校2年のときに撮ったもので、わたしも気に入ってるんですけど、
あとはほとんどカスばっか!
でもうれしいなああ。褒めてもらうと。ありがとうございます
サンラーラ。
ず、るーいぃぃ。いいなあー。わたしもいきたーいい!短歌は書けないけど。
女子大生って天野慶さんですか。あのひとおんなのこだったんですか。
あのひとの短歌すきです。
東條慎生 明日の授業で扱う作品
2002年12月11日(水)20時27分47秒
▼掲示板:2A「水のエンパイア」(連作「水」1) への応答
を決めろとのお達しがあったので、昨年出したのにもかかわらず授業の関係で結局
合評には至らなかった「水のエンパイア」にします。
かなり前に書いたので、本当はもう読み返す気も起きなかったりするけれども。
まあ、暇な人は読んできてくださいとのことです。
本当は他のヤツ(塵と彼)は書き直す気があったりするので、まだ終わった気がしてないというのも
これを選んだ理由ですが。
逆に一番短い「雨の日」をみんながどう解釈するかを聞きたいとも思いますが、
エンパイアが長すぎるのでそんな余裕もないでしょう。
東條慎生 うわ、
2002年12月11日(水)09時35分28秒
▽東條さんごめんなさい への応答
すげえ量。
杉井武作 東條さんごめんなさい
2002年12月11日(水)03時54分33秒
▽オチをつけた。 への応答
ふっとばしてしまいました。
東條慎生 オチをつけた。
2002年12月10日(火)21時20分54秒
▼掲示板:6B「彼」 への応答
残雪に黒がまみれて夢消える今日この頃、本当はもっと時間を掛けて寝かせておくのがいいと
は思うけれども、とりあえずこの時点で提出した方が、読まれる率は高いと思うので、これく
らいでひとまず切り上げます。
6Bとなっていますが、四章を追加しただけでそれ以外は手をつけてないので、以前のを読まれた
方は、最後のところだけを読んで貰えば事足ります。
今、学期末のためかレポートが集中していて忙しいので、誰も読まない気はします。
私も今週だけで二十枚以上レポート書いたりして非常にキツイ。
本当は掲示板に出ている人の作品の感想とかも書きたいんだけれど、時間が……。
寮美千子 宮田さんの写真
2002年12月10日(火)13時57分11秒
▽どのくらい大きな声が出せるのかわからないまま叫ばないまま への応答
先日の、宮田さんの短編をあつめた小冊子、あれセンスよかった。
写真のよさにも感激しました。
短歌と写真のコラボレっていうのもありかも。
ほかにも、いい写真ありますか?
持っていたら、次の授業に持ってきて見せてね。
宮田さんの短編もオススメしておきましたが、
商品化するにはあと一歩は二歩か三歩の詰めが必要。
いっしょに考えましょう。
寮美千子 どのくらい大きな声が出せるのかわからないまま叫ばないまま
2002年12月10日(火)12時08分17秒
▼掲示板:14C「あの子はいつも笑っていて悩みがないとクロールする」 への応答
奥野さん。 久しぶりの短歌、冴えてます!
実は、最近「テノヒラタンカ」という女子大生3人組の短歌とイラストを集めた本を出版したサンサーラという出版社の社長に直談判してみました。わたしの講座にも、いい線いってる学生がいるから、売り込みたいと。まだ、作品は見せていないのですが「いいねえ。次に何を作ろうか考えているところだったから、学生さんを連れてオフィスに遊びに来ませんか」といってもらえました。やった! 売り込みに行くまでに、作品、たくさん作ろうね。そして、商品化可能なレベルにシェイプアップしよう! とりあえずは、たくさん書いてみてください。
というわけで、みんなも頑張ってください。いそいで短歌を書いてもいいよ。短歌以外にも、みんなの発表の場が得られないか、わたしもいろいろと頑張っています。わたしって、いい先生だなあ!
「テノヒラタンカ」はこちら。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4872337026/harmonia-22
奥山伸太郎 「徘徊者」 のかんそう
2002年12月05日(木)10時29分51秒
▼掲示板:久我真紗子/1B「徘徊者」 への応答
大っ好きです。こういうの。風景の描写(というかこの人の思い込み)がすごく生々しくてエグイ感じなので、最初「うわっ」と思って、気を失ったあとあたりからからだんだんおかしくなってきて、最後で思わず「畜生」といってしまいました。コウモリの話がそうだったように、久我さんの文章には人をその中に引き込む力を感じます。それはたぶん、情景がとてもリアルに浮かぶからなんだろうと思います。
それと、2度目、3度目が楽しめるのがいい。タネを知った上でもう一度読むと、作者の遊び心が見て取れて面白いです。ところで、非常口が見えたならそっから出りゃいいじゃん、と思うのは、ここではいけないことですか?
奥野美和 ごめん しらふでした
2002年12月05日(木)08時12分41秒
久しぶりにかけました。
これから、またがんばります。
みんなのも、きちんと読んで感想書きます。
たくさん読むものあるね。たのしみ。
あと、ちなみに、宮田さん。ごめん。
わたし、酔っ払う前でした。
岸田酔いね。岸田に会えるから、あのテンションです。
くるりも良かったけど、レイハラカミが良かったなあ。
先月末から、ライヴが続いています。
ヘルマン タヒチ くるり。
ミーハーでごめんなさい!
ハラカミ、惚れたあ。
滝 夏海 ちゃんと匂いのする文章っていいなと思う
2002年12月04日(水)23時57分11秒
▼掲示板:久我真紗子/1B「徘徊者」 への応答
とっても個人的な感想を先に言ってしまうと
「好きです」
の一言になります。
全体的な雰囲気や場所と小道具が、私は好きなようです。
地下道の天井の埃は、繭に見えます、確かに。
ただ、このままだと物足りなく感じてしまいます。
落ちの部分で「クスッ」と笑うにしても、笑いきれない。
それが勿体ない。
描写は巧いので(所々気になる言葉遣いはありますが)それを生かして、例えばもっともっと仰々しく大げさに書いてしまうとか、壊れっぷりをさらに強調してみるとかして、最後の一言とのギャップを激しくしてみるのも一つの手かと思います。
宮田 和美 プロット
2002年12月04日(水)22時33分17秒
▼掲示板:プロット への応答
ほかのも考えてみるので、明日はそれも扱ってもらえませんか?
というのも、わたし自身が気に入ってないんです、あの、最初に書いたプロット。
妙ちきりんな話を書く、ということだったんですけど、やっぱりわたしはもっとなんでもない、ありきたりな話が書きたいなって思うんです。それは、さくひん的につまんないのかもしれないけど。
で、ちょろっと書いてみたのは、魚喃キリコの『南瓜とマヨネーズ』をぱくらせていただいたあらすじです。
話はかわって、わたしはおとつい昨日とライブづけでした。
元サニーデイサービスの曽我部恵一と、くるりのイベントです。エンケンなんかもみました。
でもいちばん驚いたのはくるりのライブの会場で、奥野みわんぼんに会ったこと。よっぱらっていました。
横田裕子 慌ててて、
2002年12月04日(水)22時04分53秒
題名のまえに番号入れるの忘れてました。
「呪縛」は確か6Aだったかと・・・。
気合を入れて書いたところとそうでないところの差が歴然としてしまった気がします。
がくり。
越智美帆子 同じような体験
2002年12月04日(水)19時00分40秒
▽1Dと7A感想 への応答
『公衆電話』を書いた後で、うちの母にこの話のことを話したら、「ああ、よく鳴ってるよね」と言われてびっくりしました。私は遭遇したことないです。やっぱ公衆電話が鳴ってると取りたくなりますよね。
1D、7A、8A、9Aは、同じ時期に書いたせいかどこか似た感じの作品だと思います。だから、それぞれの作品の主人公や登場人物の未来が交錯してるような気がします。
さっき、ふと妹のほうを見たら、和製ゴーストワールドで爆笑しました。17歳なのに小学生に見える。うらやましい。
古内旭 メロン
2002年12月04日(水)05時04分18秒
▼掲示板:7A「クインシー」第二話 への応答
久我さんの『徘徊者』といいこの話といい、メロンはどうも不気味な存在のようです。
僕はメロンが好きです。メロンそのものも好きだし、メロンの入った乳性飲料も好きです。シャーベットのメロンも好きです。メロンはほとんど完璧なまでに美味しいと思われます。
『クインシー』の続く第3話は杉作氏です。楽しみにしたいと思います。
古内旭 久我さんの2作品への感想
2002年12月04日(水)04時58分17秒
▼掲示板:久我真紗子/1B「徘徊者」 への応答
1B「徘徊者」
地下鉄を謎の迷宮都市のように描く、という発想が好きです。グロテスクな描写にもっと力が入るといいかと思います。吐き気をもよおすような、もっともっとダークな描写です。
話は、ギャグ、ということでいいかと思います。最後の1文は決定的にそういう方向へと持っていっています。しかし、文体は非常に堅くしようとしています。ある種の堅い文というのは滑稽さを持っています。体言止めが何度も出てきますが、それらはかつてB級ドラマの次回予告などで見られたボイスオーバーのよう。そういった大袈裟さはやはりある種の笑いを呼びます。張り詰めていた緊張の糸が切れて後の描写は、完全にギャグであると言えます。しかし、最後の主人公の叫びは、これまでの文体を捨てています。「!」、「ー」の多用。また「無知なお嬢」というのもいかにも。当然一人称の語りなので口語であって間違いはないわけですが、僕としては違和感を感じます。好みの問題かもしれませんが、前半部の知的な雰囲気がここで崩れ、修復不可能になります。急にこの雰囲気から引き戻され、ある意味での興醒めを覚えるのです。また、オチが見える、というのもあります。それが少し残念だと思います。
「徘徊者」がギャグ小説であるとすると、そこに辿り着くまでが長い。もと短くてすっきりと読めるものが書けると思います。長くなればなるほど、オチが弱くなります。
あるいは、「徘徊者」は単に地下鉄の雰囲気をグロテスクに書いた小説として楽しめるかもしれません。面白い表現が多いのは素晴らしいと思います。
ところで、余談ですが、ドリンクバイキング等でよくみる緑色のメロンジュースは、メロンの味はしませんね。もう1つ余談、ひと昔前に「○○者」とか「○○人」というタイトルが非常に流行りました。たいていがミステリー、サスペンスと呼ばれるものでした。
ものすごくシリアスな雰囲気の小説に書き換えるという可能性についてはどうでしょう。ハードボイルド風オジサンが主人公で、地下迷宮都市を出てもそれはそれで地獄だという。日の光を浴びながら、(例えば全体主義的ディストピアのような)管理社会に出て行く。そこは地下迷宮よりさらに人間味のない地獄であるという風刺小説。単なるオジサンの出勤風景なのです。
2A「黒コウモリは朱色の空によく映える」
前回、僕は終了間際に到着したために感想を言えていないので、ここで書かせていただきたいと思います。
語りの内容は、とても面白いと思います。個人的な趣味から言えば、僕は大好きなのです。空が迫ってきて、「大いなる存在」を感じ、自分の存在を疑う。
ホラー短編において、よくこういう語り出しが見られます。何か異常な状態にある主人公が、そうなった所以を回想していくというスタイルです。それには、ミステリに近いものがありますが、どうしてそうなったのかという謎を追いかける楽しみがあります。また、ほとんどの場合において、最後に回想を終えたあとにもう1つのオチが用意されているのです。例えば、語っている相手は誰か、とかそういうオチです。
そう考えると、この語り出しは必ずしも成功しているようには思いません。語りだしたものが、最後にはやはり返ってきてほしいと思います。あえてそれを避けたのでしょうか?
友達との関係についても、もう少し書き込めるとよいかと思います。
語り出しの最後にある「ただこの事があって思ったんだけどね」というのは、結論のようなものなので、これを膨らませて最後にもってくるのはどうでしょう。遠くて大きいものほど頼りなく、近くにいる小さいものこそ信頼できるという。
なぜ、その時の子供でなく、大人になった「わたし」が語っているのか、それを活かしてほしいと思います。
東條慎生 「悲しみ」について
2002年12月03日(火)20時09分23秒
▽1Dと7A感想 への応答
久我さんは前に何を書いていたのか、雑談板を遡って見てみたら、古内さんの「テスト」について詳細な読解をしていた人だったのですね。あのときはあの読解にかなり納得もし、自分が気づかなかった様々なことを丁寧に読み込んでいたことに驚嘆したものです。今回の読みも丁寧かつ整理されていて、わたしの抽象的で言葉足らずなものに比べて非常に精度の高いものであることがよく現れています。
そうそう、わたしは「私」の悲しみについてある種の共感が土台になっていると(確か)書きましたが、作中の「彼女」と「私」が「断絶によってつながっている」と言い換えた方がよさそうです。なぜかというと、「私」が悲しみを覚えるのは、久我さんが指摘するように、「彼女」との決定的差異の認識によるところが大きいからだということが一つ。もう一つは、「私」が「彼女」に対してコミュニケーションを願うことはそれにも関わらず絶えることがないということ。この二つの要素の対立と交錯が、越智さんの作品には渦巻いていると思うのですが、それが端的に現れているのがこの作品での「悲しみ」だと思います。言い換えれば、「私」にとっての「悲しみ」が「彼女」と共有されないことがまた「悲しい」のです。そのようにして連関的に増殖していくそのコミュニケーションへの欲望が、決定的な形で断絶してしまうのが、越智さんの作のなかでの「精神病」だろうと思います。精神病がこれほどまでに反復されて使用されるのは、(個人的な理由は一度別にするとして)精神を病んでいる者というのは、何らかの形でそのコミュニケーションがたたれてしまった者、通常の仕方でコミュニケーションすることが不可能な者であるからだと考えられます。しかし、それでも精神を病んだ者たちがコミュニケーションを放棄するわけではなく、異なったやり方、症状という形で表出する表現するわけですが、それは余人には伝わらない、伝わりにくい。1Dではそれにまた「天使」「子供」「水子」というメタファー、この世ならざるもの(子供をのぞく。が、子供もまた過去の産物である点で異界に属すると言える)という比喩が重ね合わされています。これらが死の予兆であるのは、これらが元々異界からやってくるものであることも含意されているのでしょう。そのために、ここでは彼女の他者性がより強調され、「私」の悲しみにつながっていくのだろうと思われます。そして、このモチーフは決定的な断絶を刻印してしまうために、このモチーフの現れる作品にはいつも悲しい結末が訪れているように思われます。9Aではその断絶したコミュニケーションが回復する物語だったのですが、私が「パターンに埋まってしまっている」と言ったのは、両者のコミュニケーションの断絶がほとんど類型化していることです。そして、俯瞰的視点から見ているために、両者の断絶が読者に共有されることがなく、読者の与り知らぬ間に物語が展開してしまう。1Dのモチーフ、設定を元に、9Aのストーリーを展開できれば完璧だと思うのですが。それはたぶん越智さん自身も認識していると思うのですが、やはり、決定的な断絶を設定した上でそれを乗り越える物語を書くというのは相当な困難があるのでしょう。しかし、越智さんの様々な作品を読んでいると、割合目指すところは明確な気がします。
長々と久我さんの反復みたいなことを書いてしまいましたが、以上。
久我真紗子 1Dと7A感想
2002年12月03日(火)18時01分15秒
▼掲示板:1D ケーキボックス への応答
遅い投稿ですが1Dケーキボックスについて。
越智さんの作品の中でも、特に繊細で伝わってくるものがありました。語り手である「私」の悲しみが作品そのものになっていて、「彼女」に対する儚いイメージが読んでいて心地よかったです。
「彼女」は(たぶん)子供を亡くした受け入れ難い事実から逃れるため幼児に戻ろうとし、その無垢な姿に「私」は天使の美を見つけ、同時に悲しく思う。「私」が感じる悲しみが決して単一のものではなく、子供、天使に象徴される無垢・美、をも含んでいる所が作品の奥深さになっていると思います。しかし「私」の悲しみは冒頭から前提としてある訳ではなく、作品中のある会話がきっかけになっていると思います。
>「ねぇねぇ、世界が反転する。」
彼女ははしゃいだように、私に言った。
「それはあなたが反転してるからでしょ。」
そう言ってから、私ははっとした。きっと、私が子供なら彼女と同じように、そう言っただろう。
この会話をきっかけに作品後半、「私」視点の「彼女」の描写に、悲しみの感情が混じりはじめます。この会話の意味する所は、「彼女」は子供で「私」は違うということ。大人である現実を生きる「私」と、過去(子供)の入り混じった無垢な世界に生きる「彼女」。語り手である「私」は、この瞬間に自分と「彼女」とが違う位置にいることを自覚し、同時に「彼女」の無垢な世界に生きる孤独を理解したのだと思います。
そして天使=水子に暗示される「彼女」の死。直接的な死ではないかもしれませんが、「私」は「彼女」が天使のように羽を羽ばたかせてどこかへ行ってしまう姿を連想しています。天使の美しさと死の恐怖、そこに「私」は悲しみを見ているようです。
以上をまとめると「私」が思う悲しみは
1.無垢な世界に一人生きる彼女の孤独。
>彼女はどこにいるのだろう。
2.天使のようにどこかへ飛び立ってしまいそうな「彼女」の儚さに対して。
>必死に真剣に、その横顔は、その彼女の背中に見えた羽は彼女をどこに連れて行こうとしているのだろう。
3.「私」が「彼女」を引き止められる存在ではないこと。
>いったい、彼女の中で私は誰なのだろう。
の3つではないか、と思うのです。特に3番目の、「私」が「彼女」の中の自分の存在に疑問を持ち出すあたりがもっと話を深く出来そうでよいと題材だと思います。この作品での「私」の役割は単に「彼女」からの一方通行のイメージ的な流れの受け皿に過ぎませんが、この疑問によって逆に「私」から「彼女」への呼びかけが可能となり、呼びかければコミュニケーションが成り立ちます。「彼女」が呼びかけられる事にどう反応、変化し、「私」はそれをどう受け止めるのか。越智さんの作品には精神を病んだ者(主に少女)とその叫びを受け取る者がよく登場しますが、1Dの「私」と「彼女」の二人の関係は特に繊細なので、小説に組み込んでみたら面白いのではないでしょうか。すごい感動作が出来そうです。9Aは、お互いが苦しみを共有し、互いの中に互いの姿を認めて救われる、という力強い再生の物語でしたが、1Dなら現実を生きていない「彼女」に「私」の存在が入り込み、「彼女」の中で重みを増し再生する、て感じでしょうか?でも、「彼女」が現実に向き合えば8Aの少女と同じ結末を迎える気も。状況も子供が関わってる点似てますし。「彼女」と「私」の向かう先がどんなものでも、1Dを下敷きにしたら、感動作が出来上がると思います。
7A公衆電話について。
この話をウチの母にしたらこんな事言ってました。なんでも、アメリカに行った時、通りを歩いていたらいきなり道端の公衆電話が鳴り出して死ぬほどびっくりしたが思わず取ってしまった。が、受話器を取った瞬間やっぱり怖くなってそのまま切ってしまった、と。恐ろしい話ですねぇ。ゴーストですねぇ。ネタを明かせば電話局のおじさんだったんですけどねぇ。
聞くところによるとその公衆電話は電話局の交換員を通じるもので、前にかけた人が料金未払いのまま切っちゃったので催促の電話をかけ続けていたんだそうです。システムはよく分かりませんが。
で、その話を母に聞いて1Dの少女が「自分の歌を不特定多数の人々に伝えるため、公衆電話というツールを選んだ」という設定にした越智さんの観察眼は鋭いと思ったんです。公衆電話は、誰が誰に向けたメッセージであるかが謎であり、あまり意味を持ちません。それが少女の謎と都市伝説の神秘性に生かされいると思います。ちょうど母が恐怖を持ちながらも思わず受話器を取ってしまったように。越智さんが書く小道具はいつも作品の核心をついて素晴らしいとおもいます。少女の伝えたい想いが、あまりに純粋で見返りを求めない願いで、読んでいて痛いものを感じました。
東條慎生 リレー二話目です
2002年12月02日(月)14時39分11秒
▼掲示板:7A「クインシー」第二話 への応答
二話目書きました。
自分で書いておいてなんですが、無茶苦茶気持ち悪いです。
書かなきゃいいのに書くことでさらに気持ち悪くなった。
こっからどう次に続けるんだろう。
「彼」については、いろいろ難しいですね。
彼という指示語が一体誰を指しているのかという問題もありますし、語り自体が、語られている
彼の内心を知悉して語っているというのにも関わらず、「私」という言明をしているということ
を問題にしたかったのですが、それがうまくいってるかどうかはまた別の問題です。
久我さんの「頭上には」以降の文章などは、文章自体の瑕疵というよりは作品のなかで浮いて
しまっているということが問題だと思うのです。
>見てはならない領域に遭遇した直感的な恐怖で満たされた。
という文章はやはり一読した場合、文体の変化を感じますし、私が最も問題だと思ったのは、
「説明できない」ことがらであると指示されているこの件に関して、そのような語彙で、「説明」
してしまっていることです。この部分はそのような抽象的な文言で説明してはならない部分で、
描写なりもっと他のやり方を取らなければ冒頭から続く語りの意味がなくなってしまう。
また、「徘徊者」の方は、文章上の明かな間違い(初まり)があるものの、難解めかした文章が
雰囲気を作りだしてはいるのですが、やはり印象を文章化するという点からすると、少し弱いの
ではないかと思います。
過剰なレトリックを濫用した一種のダマシとすれば、オチをもう少し鮮やかに納得させる必要が
ありますから、その時には、読者がこれは何だろうと思ってしまうような(天井からぶら下がる
繭)ものは排除して、通常われわれの目には見えない見方で見るというやり方が効果的かと。
最初の方は「BLAME!」という漫画を思い出して楽しかったです。
小林泰三という作家は、いろいろ話を聞いていると面白そうですね。
先日マイノリティ・リポート関連でハヤカワ書房が出した「フィリップ・K・ディック・リポート」
というガイドブックみたいなものを読んでいたら、短いエッセイが載っていて、私が考えるディック
作品の好みと結構似ていて、面白かった。
ディックの本自体は、まあ、未訳短篇とエッセイ評論座談会みたいなものの寄せ集めで、まあ、
適当にという感じです。
水落麻理 「徘徊者」を読んで
2002年12月02日(月)14時14分45秒
▼掲示板:久我真紗子/1B「徘徊者」 への応答
並べた言葉や、文章に独特の雰囲気を感じました。鮮やかに描写が頭に浮かぶところと、そうでないところがありましたが、人間の感じる感情の模様を書くのはすごく上手だなと思いました。 「短く浅く吸い込む空気は、何度も人の口から口へ使い回され湿っぽくドロンと淀んでいて胸が悪くなる。」というところはなんだか満員電車のなかで私も経験したことがあるぞ・・・と思いました。そういった体の感覚を書いたところにもすごくリアルさがあり、私の実感を思い出させました。
途中の場面の移り変わりとそのつながりがいまいちよくわかりませんでした。私が読めなかっただけかも・・・。最後の「半蔵門線の改札口はどこですか。」のセリフが面白かったです。結局この人は半蔵門線の地下で迷っていただけだったんでしょうか?
越智美帆子 三人称って難しい。
2002年12月02日(月)05時11分50秒
▽二つの新作について への応答
感想ありがとうございます。
まず8Aについて。こちらは、客観視で書かれていますが、少女の意識が一人歩きした状態になってしまっていますね。何もわからないはずなのに、直後の文章ではわかってしまっている。ご指摘の通り、その間の時間、何があったかをもう少し書いたほうがよかったと思います。あと、クマの存在をもっと大きく書いたらおもしろいなぁと、後かた思いました。
そして、9A。明るい話が書きたくて緊急で書いたため、「階段に」が二回出てきたり、文法的に間違っている文がいくつか出てきてますね。これは、見直しがちゃんとできてないみたいです。すいませんでした。提案の、どちらかの未来から書き出す、というのはおもしろいと思います。そうなると、かなり長い話になりますね。ある日偶然再会した二人が、思い出話するところから始まるのもいいかもしれません。
借りてきたビデオが14本…。がんばって5本と半分は見たのですが、期限までに見きれるのでしょうか。しかもほとんど邦画…。
古内旭 中島みゆき
2002年12月02日(月)02時58分22秒
▽あれですかあれって への応答
以前、会社の研修で『プロジェクトX』の製作者の講演会に行ってきました。もちろんそれだけではなかったのですが、研修の1つにそれがあったということです。期待したのはもちろん『プロジェクトX』の舞台裏の話だったのですが、そういった話はほとんどなくて、経済の話が中心でした。
『プロジェクトX』自体は僕は結構好きです。賛否両論ありましょうが、それがどれだけ脚色されていたり、うそものであっても(究極的にはフィクションであっても)、番組で言うところの「男たちの熱いドラマ」は面白い。あれだけの数を放映していると、さすがに出来の良い回もあればそうでない回もありますが、「黒四ダム」とか「泣き虫先生」の回は面白かったです。
ところで、『プロジェクトX』を作るにあたって絶対に欠かせないものが2つあったそうです。それが1つは中島みゆきの『地上の星』、もう1つは田口トモロヲのボイスオーバーということでした。
『地上の星』の中身が『プロジェクトX』と微妙にリンクする部分があるわけです。言ってみれば、地上の星たちが奮闘する熱いドラマというわけですね。無論、違った見解もあるでしょうが、それも1つだと思います。一方、『ヘッドライト、テールライト』。これはもう「旅はまだ終わらない」の部分が使いたかったのだと思います。
実は僕もみゆき好きの1人なので、紅白歌合戦は楽しみにしてます。
個人的には、『後悔』が好きなんですが。
杉井武作 あれですかあれって
2002年12月02日(月)00時58分00秒
▽↓間違い発見 への応答
「地上の星」で御座います(怒)。
古内旭 ↓間違い発見
2002年12月02日(月)00時17分59秒
▽叙述トリック、カット への応答
投稿後間もなく、下の文に間違いを発見。最後の文ですが、
やはりカット「後」の状態で作品を理解しておこうと思います。
の間違いです。文がつながってないですね。やれやれ。
中島みゆきは紅白出場ですか。やはりNHKだしあれですか、あれ。星。いいですね。
古内旭 叙述トリック、カット
2002年12月02日(月)00時08分43秒
▽語っているのは何者か への応答
叙述上のトリックというのは非常に面白い考え方で、例えば小林泰三も効果的な叙述トリックを仕掛ける短編の名手だと思っています。映画化もされて(あまり面白くありませんが)代表作とも言える『玩具修理者』もそうです。ことに『ジャンク』においては語り手が誰であったのか、という引っ掛けを最後に持ってきていて、それが心地よいオチになっています。また、西部劇でありゾンビものでありSFであり、また恋愛小説でもある見事な作品だと思います。今なら角川ホラー文庫の『肉食屋敷』に収録されています。東條氏が試みたものとは種類は違いますが(別にアイデンティティをめぐる話ではない)、ぜひどうぞ。
東條氏の『彼』にラスト1文を入れるか否かは好みの問題もありますが、叙述上の食い違いというか面白みを分かりやすくする1つの手段ではあるかと思います。その場合、他の箇所もざくざくと削っていくともっとすっきりして明確になると思われます。あまり削りすぎると今度はさっぱりしすぎて、「一人称でのぼやき」的な面白さが損なわれてしまいますが。
カットについてはなかなか難しい問題ですね。映画ではひと昔前から「完全版」だの「ディレクターズ・カット」だのが流行っていますが。僕は東條氏のご指摘通り、すぐにざっくりとあちこち切ってしまうので、一通り書き上げた時に比べ、完成版は分量がだいぶ減ってしまいます…。
『彼』については、東條氏の判断のもとカットされた文ならば、やはりカット前の状態で作品を理解しておきたいと思います。
杉井武作 「物語の作法」猥談板への投稿
2002年12月01日(日)19時29分12秒
1.こないだの授業は僕にとって大変有意義なものだったと思います。それというのも僕の久我さんの作品への認識が、授業で言及されたことと甚だしいズレがあったからです。僕は久我さんの作品は、徘徊者の徹底的に濃い描写や、黒コウモリ『頭上には』以降の唐突に銀河までぶっとんでいく力のこもった描写に魅力を感じてて、無理があるとは微塵も思いませんでした。黒コウモリは6時間くらい眺めていたような気がしますが、むしろ冒頭からの口語体が読むのに手間取りました。時系列がずれてるとかが気になって、断片的であるという感想に至ったのだと思います。僕の書くものが感覚に寄るところが大きいので、作りこまれた文章に惹かれる傾向があるのでしょう。作品の解釈は人それぞれだけど、取り合えず自分の読解の信憑性のなさがわかって、あまりえらそうなことは言えないなあと反省。必ずしも良い読み手が良い書き手になるとは限らないけど、一部の天才を除いて、読む力がないと自分の作品も一人よがりなものになりがちです。自分の作品も、「ねればねるほど」が一番誉められると思ってたら違ったし。音楽のほうは「杉作君はプロデューサー気質だ」と先生に誉められるくらいよく聴けるのですが。多分圧倒的に読む量が足りないのかな。読みます。
2.徘徊者にしろ黒コウモリにしろ、他の作品への凝っていてしかも鋭い感想を読んでも、久我さんはユニークな世界を持ってるなぁとすごく感じます。それを構えずに形にしていけばいいと思います。
3.今回の東條さんの新作も、三回読み直しましたが僕には難しいです。これまでの作品よりはずっと読み易かったのでひとまず安心しましたが、これはループする話なのか。『彼』は『男』になったのか・・・ネタバレになるかな。謎解きゲームみたいで面白いです。情景描写の巧みさも相変わらず感嘆。『そして私は、彼が見つめているものとおなじものを眺めた。』・・・ますますわからなくなってきましたぁ。
4.三部作の感想、有難う御座います。『通常人々が考えてはいても大ぴらに表現することをはばかられることがらを大声で言ってしまう』のは、大好きな松本人志の影響で、一貫した僕の作品のテーマの一つです。このテーマをどうにか爽やかな方向に持っていけないかな?しかし僕のパロディを作品の一変奏であると言い得る古内さん《変態》には頭が下がる次第であります。確かに僕の書くものは小説からは逸脱してますよね。一段落したら、『悪食』のように一般的な形式とテーマ性を通じてナンセンスなものも描けたらいいかな。今は自分から出てくるものをただ吐き出しているという感じでしょうか。できるときにどんどんストックして、自分の世界を形にしておくのは有意義なことだと思います。
5.その意味で、次々と世界を表現していく越智さんは素晴らしいと思います。8Aは赤いクマを使う発想が、9Aは前向きなテーマを表現したいという熱さが伝わって良いと思いました。しかし、誤字脱字や文章ミスは減らすべき。僕も『サイクリング』は勢いで投稿してしまってミスがひどかったので直して頂きました。勢いで出してしまったのなら、はやる気持ちを押さえてたっぷりと睡眠をとって読み返して、客観的に読みやすく直してから投稿するとグッドラック。
6.さてリレー小説は一体どうなることやら。
7.中島みゆき紅白出場決定!!!見なきゃ耳元で世情百回熱唱
東條慎生 語っているのは何者か
2002年12月01日(日)13時33分11秒
▽一人称のような三人称 への応答
読んで頂けたようで、どうもありがとうございます。
一人称と三人称でも文章の雰囲気が変わらないとは、友人にも言われました。
私も完全な三人称を書こうとしたわけではないので、それはそうなのですが、
元々行おうとしていた語りの上での試みにおいて、ラストの一文を提出直前
に削っています。
試みの多くがうまく達成されているとは言えないので、混乱を招く文章を
あえて削ったのですが、以下の文章がラストにあるとすれば、如何でしょうか?
「そして私は、彼が見つめているものとおなじものを眺めた。」
まあ、これがあってもストーリー上の、もしくは概念の上でも発展性のなさという
私の作品の致命的な物足りなさに何ら資するところも有りはしないのですが。
今考えると、あの最後から出発しなければ面白みがないんですよね。
暴力の問題と繋げていけば良いのかも知れない。
クインシーは、まあ、何とか頑張ります。
古内旭 一人称のような三人称
2002年12月01日(日)02時45分31秒
▼掲示板:6A「彼」 への応答
読みました。確かに、こうして掲示板に投稿すると長く感じますね。しかし普通の短編だと思って読めば長さはそれほど気になりません。縦書きならもう少し読みやすいかとは思いますが(おそらく習慣的に)。
で、内容ですが、僕はこういう話は好きです。
アイデンティティをめぐる話。『彼』では名前も1つのモチーフになっていましたが、もちろん、名前というのはアイデンティティの基本的な拠所の1つです。英語をはじめ多くの言語でも、名前の呼びかけが会話に頻繁に含まれます。記憶、持ち物、家、といったものも自己同一性を象徴するものです。『ブレードランナー』では幼い頃の写真と、夢(というのが面白い)を印象的に用いていました。
『彼』では他人(自分らしき他人)との境界をなくしていきます。自分が他人と間違えられますが、そのあたりが面白かった。東條氏の作品としてはセリフが多いし、ストーリーが進みます。始めの方はずいぶんとストーリーが動く感があるのですね。で、どうやって結ぶのかな、と思っていたら特に説明はなく終わっていました。ラスト、アイデンティティを失って漂う主人公は、村上春樹の『ノルウェイの森』のラストを連想させます。
気になったのは、三人称で書かれているにも関わらず、かなり一人称的な描写であるという点です。彼の視点で物語が語られています。三人称で作中人物の心情描写をする際、「自分は〜」という表現を用いることがありますが、『彼』でも結構用いられていて、時々一人称小説である錯覚が起こります。タイトルからして三人称を意識したものだと思うのですが、この現象は意図的なのでしょうか。日本語の一人称は、僕、私、わたし、あたし、俺、オレ、と色々使い分けができて便利だと思います。
吉祥寺の本屋で『ダブル/ダブル』見つけました。白水Uブックス。これからも色々と本を薦めてください。
一瞬にして『クインシー』は過去ログに吹っ飛んでいきましたが、第2話よろしくお願いします。
東條慎生 一段落。
2002年11月30日(土)22時24分00秒
▼掲示板:6A「彼」 への応答
水のエンパイアより長いです。原稿用紙にして38枚。
前のヤツよりは随分読みやすいと思います。なにより、画面が黒くない。
前回までの主観的独白のなかで壊れてゆく世界を眺めていくという作風を大幅に変えて、
三人称視点で書いてみました。
なぜか非常に書きやすくて、一週間かからずに書き終わったのが不思議です。
二日で三十枚書いて、そのあと授業で忙しかったので、昨日一応の完成を見たあと、
推敲しても、その間六日。まあ、早いのは読めば分かるんですが。
試しにこれまで提出した作品の全枚数を計算したら、400字詰め原稿用紙129枚分でした。
雑談板のも今月だけで概算したら65枚分。
アホみたいな量だ。
まあ、できれば読んで感想を聞きたいですが、分量が分量ですから、微妙な。
あ、リレー小説の続きを書かなければ。
どう続けようかなー。
東條慎生 二つの新作について
2002年11月30日(土)17時23分35秒
▼掲示板:9A 明ける空 への応答
なにも完全な形で出さねばならない訳ではないのですから、習作で全然いいと思います(以前にもメモみたいな作品はありましたし)。
その上で、気になった点をいくつか書いておきたいと思います。
ひとつは、二作品ともに、慌てて書いたのかメモのようなものなのか、どうにも文章が荒れているように思います。
具体的には
>同じ屋上で、一人の少女がほとんど気絶している状態で、階段に階段に隠れるようにして、眠っていた。
という文は、
>その屋上には、(彼女からは見ることのできない)階段の影で一人の少女が気絶したように眠っていた。
という風にも書けるのではないかと思います。これは単に見直してないせいからかも知れませんが。
また、同じ文章に「しっかり」が二回出てきたり、「腕を上に上げる」というのも避けた方がいいと思います。
8Aの冒頭は特に冗長なので、書き直す必要があると思います。「まるで」を文頭に持って来るには喩えが長すぎて、息が続かない。
また、8Aでは展開が唐突と言うよりは、直前の文章と直後の文章で正反対のことを言っており読者の混乱を招きます。
> 彼女は自分の居場所を知らない。ましてや、もう子供が存在しない事実など、知る余地もない。
と地の文で書いておきながら次には彼女はすべてを知ってしまっていることになっています。
これも、間になにかの場面の展開をいれる必要があると思います。
また、9Aでは、作品の意図は分かるのですが、このテーマでこの書き方をするとなると、長篇一本分の長さは必要です。それでなくては世間のパターンのなかに埋まってしまう。両者の台詞の重みをつけるには、この長さではあまりに足りないのです。そのために、ラストの文章がまさにとってつけたように感じられることになってしまいます。また、三人称で書かれているために、読者がどちらかを視点に据えて読むことができず、二人の交流をまさに他人の目で見ているという感覚を持ちます。
もし、短篇の長さでこの作品を書き直すとすると、まずどちらかの人物に視点を据える必要があるでしょう。私が考えるには、まず、作品の時間を未来にして、二人が立ち直った時点から小説をはじめ、そこから誰かに語りかけるというかたちにします。設定としては、これからその彼女(語っている人物を結婚して裕福になる少女に設定する)に会いに行くという時に、その人とのこれまでの関係を、知人か誰かに回想しながら語るという導入にして、そこから彼女に会うまでの自分のこと、彼女と出会って立ち直ったことをその時の印象をとともに、今それをどう思っているかなども交えて語らせるのが、短篇として成立するやりかたではないかと思います。
こうすれば、彼女の現在(当時の希望)を実感的に語ることができ、過去の状況も一人称で語ればリアリティが増すでしょうし、誰かに語りかけるというやりかたならばその語法が自然に希望を伴ったものになり得ます。
と思うのですが、如何でしょうか?
8Aの内容は、自分が失敗したことをクマに託していたのだけれど、それすらも無駄になってしまうという絶望一直線な感じでしょうか。しかし、説明や述懐で言われていることがバラバラで、鮮やかな印象を残すわけではないので、ちょっと保留です。
9Aで重要なのは、自分以外にも同じ苦しみを共有できると言うことに気づくと言うことだと思います。言語化し、他人に伝わることによって、かなりの部分救われるものがあるだろうということ。
上記の二つのテーマを絡ませるとイイ感じの話になるんじゃないかと思うのですが。「公衆電話」にはその絡まりが確かにあったと思うし、それが二つのテーマを相乗効果で増幅したと考えてます。
なんかほとんど問題点の指摘みたいなえらそうなことばっかですね。お気になさらぬように。
東條慎生 文章が漂流
2002年11月30日(土)17時18分25秒
▼掲示板:久我真紗子/1B「徘徊者」 への応答
もうすでにかなり言われているので繰り返しになりますが、語彙が借物のようで用法に違和感を覚えることが多く、重複表現もしばしば見られる。「黒コウモリ」の後半もそうだけど、力を入れてそういう文章を書こうとして無理に単語を持ってきているためだろうか。
その時感じた印象を書きたかったと言うので、この作品で展開されているイメージはしっかりと頭に根付いていると思うのだけれど、それをいざ言葉にするときに「書くのに苦労した」と本人が思っている文章で書いてしまったために、印象、イメージが拡散してしまったと、ひとまずはまとめられるかも知れない。
「黒コウモリ」の冒頭は十分くらいで書いたというから、自分のなかのイメージを表現する技術はあると思うので、上記の文章を書いたときのように、自分が文章を書いていると言うことを忘れてしまうような書き方(だったと想像するが)で、徘徊者を書き直してみるのはいかがでしょうかと、提案。
ところで、三段落目の文章のいくつかは、なんとなく見覚えが……。
文章について云々したので、試みに自分で書いてみた。冒頭から。
何度も何度も繰り返され、いつ果てるとも知れない轟音の唸りに私の神経は臨界点を迎えかけていた。絶え間なく走り続けていた為に多量の酸素を要求する肺はしかし、人々の口から口へ延々と長い道のりを経てきた所為で、胸郭の激越な運動を鎮めるに足る清冽さを決定的に欠いていた。見上げれば天井はすぐ頭上にまで迫り、白いそれのところどころに無数の黒い繭が群れを成してぶら下がっているのが間近に見えた。心なしか、細い糸のみで我が身を支える繭たちが微かに震えているように見えるのは、未だ外界を見ること叶わぬ幼き虫の胎動なのか、はたまた私の幻覚か。
ふたつめの文章の主語が途中で変わっているのに気がついた。一段落文くらいやろうと思ったけど、このあとの文章を自分で書くのがが非常に難しく、ここで息切れ。他人のものはむずい。
東條慎生 武井氏三部作
2002年11月30日(土)17時12分55秒
▼掲示板:12A「えせ書評」(変態ワールド三部作) への応答
「真・テスト」
鳥山明「ドラゴンボール」において、悟空とチチが悟飯という子供を持ったということがらは、表層的には幸せな結婚生活と喜ばしき子供の誕生という文脈をまとって語られる。しかし、読者は不可避的にそこで何が隠蔽されているかを感じ取り、悟空とチチとの性生活という表層には浮上しないことがらについて思いをめぐらすことになる(もちろん、絶対にではない)。しかし、それは普通作品を鑑賞する上では明示してはならない思考として抑圧して読み進む。しかし、「真テスト」はその隠蔽を暴露している。笑いが起こる瞬間の一つは、通常人々が考えてはいても大ぴらに表現することをはばかられることがらを大声で言ってしまうというものだ。下ネタやブラックユーモアが笑いの基本的な形式であるのは、題材が共にオフィシャルな場では普通表現されてはならないものであるからだ。またさらに、「真テスト」は原作の文章から単語単位で置き換えるというやり方を取っている。その為に、真テストの文章は限りなく元の作品に近く、しかしその意味するところは対照的なものであるという鮮烈な効果によって、優れた替え歌が持つ笑いを読者にもたらしている。
しかし、この原文の単語を入れ替えるだけでこれだけ見事な対照を描き出すと言うことは、もとより素材自体に親和性があったと見るのが妥当だろう。少女の存在、通過儀礼、不気味だが人を惹きつけるもの、少年期のある感情の芽生え、純粋さとの訣別。言い換えれば、原作とパロディとで提示された物語が、構造上強烈な類似を示していることが、このパロディの存在を保証している。両者は双補的なのだ。
「かつ江」は結果的に両者共に贋物であるという結末に至る点で非常にディック的なアプローチを示している。通常のショートショートであれば、相手が本物で自分が贋物であるというオチがつきそうであるが、ここではエルボーバズーカ等を装備したかつ江とオイル漏れを起こす語り手という形で、どうしようもないナンセンスが待ち受けている。ことここにいたって、結局両方ともロボットなのになんで宇宙航海してるんだという疑問が現れるが、それを問うことはおそらく無意味で、なぜならそのような問い自体を無効化してしまうどうしようもなさが、武井氏の世界のひとつの特質だろうからだ。
「えせ書評」ボルヘス、レムといった博覧強記の作家が得意とする実在しない書物に対する書評という形式だが、やっぱナンセンス。適当言いたいためにでっちあげましたという感じ。しかも文章は電波一杯。あえていえば、形式を整えた方がいいかも。冒頭に書名と著者名と出版社とか。
武井氏の作品を読むと、上記のような文章で感想書きたくなりますね。
久我真紗子 チョコとおしるこが好き
2002年11月30日(土)03時35分51秒
コンビニ行ってきました
チョコ買いに
でも失敗です
さむすぎ
体温もどりません
いよいよ始まりましたねー 『クインシー』!!
連載ものってワクワクします
展開どんなかとっても楽しみです
★ 今日得た情報
一生のうち一般的な社会人の信号待ちの時間は約1週間だってさ (なが!)
by Discovery Channel
さすがにもう寝るかな〜
管理者:Ryo Michico
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