「物語の作法」課題提出板 (0017)

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東條慎生　6B「彼」 2002年12月10日(火)21時12分03秒

　　　一

　彼は電車に揺られて眠っていた。昼すぎまで続いた休日のバイトで疲れているためか、襲いくる眠気に耐えることができなかった。レールの継ぎ目が打ちならす震動に彼の頭は弾んでいる。
　日はすでに傾いていて、電柱やビルの隙間から何度も何度もまたたいては消える強い光に乗客たちはおのおの目を閉じてそれを防いでいた。オレンジ色に照らされた内装は、すでに文字や絵を判別できないほど夕陽の色一色に染めあげられている。色の明滅する車内で、人々は騒ぐことなくレールのきしみに身を任せていた。
　車外の景色はだんだんと都心のコンクリートの風景から、田畑や民家に変わりはじめていた。大きなビルよりは中程度の高さのアパートに、ネオンや眩しい看板の喧噪よりは住宅地の静穏に、景色は変わっていった。電車は速度を落しながら、住宅街のなかを通りぬけた。
　彼は眠気のなかにまどろんで、うつらうつらと頭を揺らめかせている。目に痛い夕陽の明滅や、電線の影がつくる波のような運動にも気がつかず、穏やかな午睡に浸っていた。
　電車は速度をさらに落して、静かに駅のホームへと滑りこんだ。人が歩く時のような速さで鉄の車体はゆっくりとホームについた。鞘に収まる真剣のようにぴたりとそれは停止した。
　進行方向と逆向きに働くブレーキの衝撃で、彼は目を覚ました。慌ててカバンを掴むと、急激に勢いを増した心臓の鼓動にうながされて駆け足で車外に出た。
　目が覚めた時の前後不覚の意識を、停車の震動でさらにかき回されたことによって、笑ってしまうような事態に自分が陥ったことを彼が知ったのは、乗っていた電車のドアが閉じた時だった。
　陽射しに染められていても自分の立っている場所が、見も知らないものであることに気づくのにたいして時間はかからなかった。いつも目の前にあるはずの階段は見当たらず、値段設定の不当に高い自動販売機が陽射しを跳ねかえしているのに気づいた。辺りを見回してみると、駅の外に広がる景色も、柱や壁の色も、駅の構造そのものもまったく見知らぬものだった。年数を経たように見える建物は、規模も小さく人通りもあまりない。そういえば今の電車から降りた人もだいぶ少なかったということに彼は気づいた。
　彼は自分の行動に苦笑を漏らすと、その駅の名前を確認した。降りるはずの駅から三駅ほど手前にあることを知ると、近くにあったベンチに腰を下ろした。改めて見回してみると、いつも通り過ぎる駅であるのに、車内からでなく駅から見た印象はまったく未知のものだった。
　新しい場所に訪れた時に感じる不安と好奇心で、彼は時ならぬ昂揚を感じていた。ゆっくり立ちあがって階段を登り切ると、改札口の方へ歩いていった。
　それほど人の多くない小規模の駅からはすぐに商店街がつながっていた。バスのロータリーは近くにはなく、タクシーの列が小さく隅の方にかたまっていて、おのずと町の規模も駅と変わりないことが知れた。立ち並ぶ商店街の軒先には、買い物客や学校帰りの学生たちが大きくはない喧噪を引き受けていて、小さいながらも確かな生活があることを感じさせた。
　（まあ、今日は暇だし、散歩でもするか）
　彼は見知らぬ場所のなかへと歩き出した。高さも不揃いの建物にはさまれた狭い道が、うねりながら続いていて、それぞれの建物からはそれぞれの売り物の匂いが漂ってきていた。果物や青果の匂いもあれば、精肉店の生臭さも花屋の水と花弁の匂いもある。ラーメン屋や食堂など、飲食店の裏手から漂ってくる油や生ゴミの匂いが、薄く沈んでいた。隣をすれ違う制服の少年や少女の着ている制服を見ても、どこの学校だか分からないことが彼には面白かった。特定の土地のなかに住んでいれば、制服はおのずとある特定の学校に結びつくのがつねだった。それは必ず数多の噂を引き連れて、近所の主婦たちの口元から好悪さまざまに語られるのがつねだった。
　店の並びのなかで本屋を発見した彼は、元からそこが目的地だったとでもいうようにドアを押して入っていった。どこに行っても変わらない、どこにでもある雑誌の並びのなかから、ひとつ選んでページをめくりはじめた。それは毎週読んでいるわけでもなく、たまに気がつくと手に取るだけの、彼にとってはどうでもいい雑誌だった。
　（暇をつぶすならいくらつぶしても変わらない）
　適当にめくって読んだあと、店の奥の方に入っていって文庫のコーナーをまわる。家に帰ってもすることはなく、翌々日までバイトもない空白の時間があることを、彼は思い出した。暇をつぶしながら暇つぶしの本を探す自分に自嘲の笑みをこぼしながら、ポケットに手を入れてやる気のない風情で歩き回っていたが、何か買うのも面倒くさく、彼はそのまま店を出た。
　商店街の終わりまでたどり着くと、その先には住宅街が続いていて、人通りはさらに少なくなり、狭い二車線の道をぽつりぽつりと車が走っていった。彼はざわめきが静かに流れてきている、閑散とした土地の入り口に突きあたった。彼はその先には興味をなくして、振り返って来た道を戻りはじめた。
　「あー、スミオさん、どこへ行かれるんですか？」
　背後から女性の呼びかけが耳にはいるが、彼は特に気にした風もなく辺りの景色を見回しながら歩きつづけている。
　「ちょっと、スミオさん、スミオさん？」
　執拗な呼びかけに、一体何事が起こったのかと気を取られて振り返ると、ひとりの女性がじっと彼を見つめていた。
　「もう、スミオさん。聞こえなかったんですか？　無視しないでくださいよ」
　そう言って女性は彼に近寄ると、
　「ところで、お子様は最近どうですか？」
　と話を切り出した。
　（スミオ？　この人、一体誰と間違えてるんだ？　しかも子供なんて。おれはまだ二十代だぞ）
　目の前に立っている女性に困惑した彼は、言いづらそうに口を開いた。
　「すみませんが、どちら様ですか？」
　女性はまあ、と口を開けて驚いた表情を浮かべたが、すぐに割れるような笑い声をたてて、彼の肩を叩いた。
　「何言ってるの？変な冗談はやめてくださいな。タクミ君になにかあったんですか？」
　女性は彼の言うことを真に受けなかった。女性は彼を気にせずに、タクミ君なる人物が最近幼稚園で起こした騒ぎの模様を、周知のことのように語りつづけた。
　「それでね、ショウコちゃんがそのときタクミ君の持ってたオモチャを逆に取りかえしたら、タクミ君が泣き出しちゃって……」
　「いえ、だから、わたしはスミオという人ではないし、タクミ君という子が誰かも知らないんです」
　半ば呆れた様子でつい話を聞いてしまっていた彼は、気を取り直して女性の長口舌に割り込んだ。
　「誰かと勘違いしていませんか？わたしは孝治です。長山孝治。スミオじゃありません」
　女性はふたたび口を開いたまま、呆然と彼を見つめていた。彼もそれだけ言ってしまうと次に言うべき言葉も見つからず、じっと立ったままになった。その沈黙のあいだに、彼らのそばを商店で荷物を下ろした軽トラックが通り過ぎた。
　「いえ、スミオさん、何を言ってるんですか？スミオさん。大丈夫ですかスミオさん。奥さんに連絡しますか？」
　人違いであることをかたくなに認めようとしない、その女性の物言いが彼には不快に感じられた。
　「だから違うんですよ。わたしは長山です。スミオとかいう人じゃないんですよ！」
　彼は叫び出したくなった。この女性がなぜこうも執拗に彼を「スミオ」呼ばわりするのか、それがわからなかった。
　「スミオさん？　大丈夫？　スミオさん？　ヨウコさんを呼びますか？　ちょっと、誰か……」
　彼女はスミオさんスミオさんと繰り返しつづけていた。信じられないものを見る目つきで彼とまわりの人たちに交互に顔を向けては、彼には理解できない言葉を撒きちらしていた。彼は次第にその女性に対して恐怖を感じはじめた。女性は自分を何かの罠に陥れようとしている。根拠はないものの、彼の頭のなかにはそういった災厄を予感させる考えが渦を巻いていた。災厄とも言えない、底知れぬ穴のようなものに絡めとられてしまうような恐怖感、または自分の立っている床が高度何百メートルもの高さにある透明なガラスであり、ふとそれを気づかずに覗きこんでしまった時の、寒さ。彼は言い知れぬ感情のなかに立たされていた。
　―スミオさんスミオさん、どうしたんですか？―
　「どうしましたか？」
　とつぜん男の声が脇から割り込んできた。彼はその男の出現に救われた気がした。
　「あ、この方がわたしのことを人違いしてるんですけれど、何だかおかしい人みたいで」
　女性は意外そうな顔をして、猛然と反論をはじめた。
　「何言ってるんですか！　いい加減に冗談は止めてください、スミオさん。せっかく人が話しかけているのにそれはないでしょう？　なんでちゃんと話をしないんですか。うちの子がタクミ君をぶったからってそこまでわたしのことを無視しないでもいいでしょう！？」
　男は困ったように二人の顔を眺めまわした。女性は延々とタクミ君と子供の話を続けていた。彼はその状況にうんざりしていた。
　女性の顔が怒りで赤く膨れあがり、口から泡を飛ばして怒鳴りちらしはじめると、さすがに男も参ったように、肩を叩いて耳元に口を寄せた。そして何事かを二言三言つぶやくと、女性ははたと口を閉じ、表情は次第におとなしいものになっていった。
　「あれ、どうしたんですか？」
　いくら何でもここまで簡単にことが運ぶとは思わなかった彼は、男に向かって驚きの顔を向けた。
　「いえ、大丈夫ですよ。この人はちょっとここら辺で有名な人なんです」
　男は穏和な笑みを浮かべる女性の手を取ると、ゆっくりと手を引きながら、商店街にあるラーメン屋の戸を開けた。
　男は店のなかに声をかけ、店の者に何かを言っていた。話し終わると女性を店の者に引き渡して彼の方へ戻ってきた。
　「これで大丈夫です」
　彼はその顔を見てやっと安堵のなかに落ち着くことができた。いつのまにか、それまでに感じた底知れぬ不安がきれいに消え去っていた。
　「どうもありがとうございます。ちょっとここら辺ははじめてなもので勝手が分からずご迷惑をおかけしました」
　「いえいえ、そんなにご丁寧になさらなくてもいいですよ。よくあることです」
　「いえ、どうもすみませんでした」
　そういって彼は深々と頭を下げた。こんな風に人にお礼を言うなんて、どれくらい振りだろうか。そんなことを思いながら頭を上げると、彼と男の目が合った。

　　　二

　「拓実、拓実。早く起きろ」
　彼はベッドのなかから起きようとしない子供に向かって大声を張り上げていた。ベッドのなかでうなりながら布団を放そうとしない手を開こうと力を込めるが、そう簡単には行かないほど子供の力は強かった。ここまで睡眠に全力をかけられる子供になかば愛情を込めて、しかし言うことを聞かないことに対する怒りをも込めて、彼は子供のてのひらを開き布団を引き剥がし、子供を朝の空気のなかに放り出した
　彼は寒そうに縮こまる子供をベッドから引き離して、床に立たせた。
　「ほら、早く下におりなさい。バスに遅れるぞ」
　彼は後ろから追い立てるように子供のあとについて歩き出した。子供は寝惚けた目をこすりながら、ぼんやりとよろめいていた。階段のところにさしかかると、子供は片手で手すりを掴み、片手で目をこすりながら降りはじめた。彼がうしろからついて降りはじめると案の定、子供はバランスを崩して落ちそうになったが、彼がその瞬間脇の下から持ち上げ子供を支えた。
　「ほら、さっさと顔を洗え、また転ぶぞ」
　子供は気の抜けた返事をして、よろよろと洗面所の方に歩いていった。
　彼はリビングへ入り、テーブルの椅子についた。
　「おい、拓実の寝起きは何とかならないのか」
　彼の妻はキッチンで朝食を作りながら、後ろを振り返った。
　「そんなこと言っても、拓実だってまだ園に行きはじめて間もないんですから、そう簡単に起きれるようにはなんないでしょ」
　彼はテーブルの上に折りたたまれていた新聞を開いて目を通しはじめた。
　「あいつを起こすのは一苦労だよ」
　「いつもわたしがやってるんだから。少しぐらいはあなたも苦労が分かったでしょ？」
　「わかった、わかったよ」
　彼は新聞を放り投げると、洗面所に向かった。蛇口から水の流れる音が聞こえてきた。廊下の角を曲がると子供が蛇口をひねりっぱなしで洗面所の床に寝ているのが見えた。
　「おい、こんなところで寝るんじゃない」
　彼は蛇口を閉めて、子供の頬をはたいて目を覚まさせた。そのまま子供をリビングに連れて行って、あとを妻に任せると、彼はゆっくりトイレに入り顔を洗い髭を剃った。
　隣の部屋でスーツに着替え、昨日の夜にやった仕事がちゃんとカバンに入っていることを確認すると、リビングに戻った。そこで朝食をとり、時間までゆっくりしていた。
　「今日は何時くらいに帰るの」
　「今日はそんなに遅くはならないと思うよ。仕事も今日で一段落だ」
　妻は一言返事をすると、子供の支度をはじめた。
　彼は、新聞をたたみカップのコーヒーを飲み干すと、カバンを持って玄関に向かった。
　「じゃあ、行ってくるよ」
　「いってらっしゃい」
　家を出ると朝のまだ冷たい空気が彼の頬を撫でた。
　似たような家が建ち並ぶ住宅街の道はねじ曲がっていて、はじめて来た人間には容易に目的地にたどり着けないようになっている。道の途中にはまだ造成されただけの宅地が広い面積を占めているところがある。順繰りに家を建てていき、完成した区画ごとに売りに出すために、すでに人の住んでいる家とまだ建築途中の現場が隣り合わせであることも珍しくない。
　「あら、田山さん、おはよう」
　ある家の前を通り過ぎるとき、玄関からゴミ袋を下げた女性がこちらに声をかけてきた。
　「あ、おはようございます。この間はどうもお子さんにご迷惑をおかけしたようで」
　「いえいえ、子供のすることですから」
　軽く挨拶を交わし、女性は大通りの方へとゴミ袋を抱えて歩いていった。
　（あいつ、ゴミ出しを忘れてないだろうな）
　彼は女性と別れ、右に曲がり、左に曲がり、十字路を直進してしばらくすると、工事も造成もされていない畑や林の側にさしかかった。まえには彼の家の辺りもまだ多く昔の景色を残していたが、ここ一、二年で一気に宅地が広がった。彼のあずかり知らぬあいだのこととはいえ、近隣の住人からは苦言を聞くことがある。その言葉や、蝙蝠の飛び交う夕方のなかから、彼は自分がここに住む以前の風景を思い描いた。
　また少し歩くと駅前の商店街に出る。
　住宅街と商店街のあいだに横たわっている開発途中のさびれた土地には、昼日なかならば駅前の喧噪のかすかな名残が流れている。朝の冷ややかな空気のなかには、開店の支度をしている飲食店や青果店の物音だけを聞きとることができた。ほとんどの店にはシャッターが閉まっていて、それぞれの開店時間や休日の表示、夜中に誰かが落書きしたらしい、アルファベットらしき原色の模様が浮かんでいた。道は直線を描くことはなく、小さい町の縮図のようにうねり、曲がって、駅への道をつないでいた。
　彼は道を急ぐ人の流れに紛れて、駅の改札をくぐる。
　タバコの匂いが漂うホームに数分待つと、半分ほど人の乗った電車がやってきた。この区間にはまだ人はそれほど乗っていない。二駅ほど通過するとアナウンスがかかり、停車した駅で彼は人の波に押しながされるように、隣のホームにつけている急行に乗り換えた。
　元々満員に近い人が乗っているその車両に入るには、駅員の力まかせの助力が必要だった。扉のなかに入りさえすればそれ以上は望まない謙虚な力業で、彼は貨物のように押しこまれた。扉が何度か開閉を繰り返したあと、極限の重量を抱えた車両は発進した。
　すいません、すいませんと男性女性わけへだてなく詰め込まれた車内で、誰かに放たれた謝罪の声が彼の耳にも聞こえてくる。彼はそれよりも、隣の男のカバンの金具や、中年の男の髪から漂う強烈な油の匂いと女性の香水のまざりあった何とも言えない臭気をこそ、謝罪して欲しかった。
　窓の外に広がる景色には、だんだんと大きなビルの占める割合が増えはじめ、職場の近づいてきたことが分かる。終点に近づくにつれて、乗り込むよりも降りる人の数が多くなり、少しは過ごしやすくなった車内のなかで、彼は遠く窓の外を眺めていた。ビルよりも遠くにある田畑の連なる山の景色や、電線を支える鉄柱の突きたつ様を口を開けて眺めていた。
　通り過ぎる駅ビルのなかに、彼はいきつけの飲み屋を見つけた。
　（昨日はよく飲んだなあ。高塚はちゃんと帰ったんだろうか？スクーターで飲みにくるなんて、危なくてしょうがない）
　彼は昨日の様子を思い出していた。今は会社に就職していて、つき合う暇もない友人たちが仲間の結婚式のために久しぶりに集まったのだった。披露宴の半ばで新婦共々目に涙を浮かべていたのが彼の脳裏に刻まれていた。
　電車は駅に着いた。彼は落ち着いた足取りで降り、多くない人混みのなかを歩き改札を出た。駅前には大きな広場があり、目の前のロータリーにはこれから出発しようとするバスの列が並んでいた。駅ビルのテナントもほとんどが開店していないなかでは、パン屋やコンビニが朝の出勤客を迎えいれていた。
　彼は駅から続く大通りに沿って歩き出した。背後には次の電車がホームに入ってくる音が聞こえていた。
　大通りには朝の静かな人波が彼とすれ違うように動いていた。この時間に駅の方から出てくる人間が少ないのは当然で、多くの人たちは駅に向かって歩いているのだった。彼は大通りを駅とは反対の方向に向かって歩きつづけた。駅から真っ直ぐ走る大通りは遠くの方を見渡しても、このままずっと続いているように見え、銀行や予備校の列が立ち並んでいた。しばらく進むと大通りと交差した、さして大きくないが二車線の余裕はある道路を右に曲がった。一気に街並は閑静になり、商店よりは民家の方が多く見られるようになった。途中には通学路の看板が見え、その先には小学校が朝の空気のなかにざわめきを放っていた。
　（昨日は疲れたなあ。朝までやるのはさすがに疲れる。こっちは学生だから大丈夫だけど、連中は今日会社に行くはずじゃないのかな。相当飲んでたやつがいたぞ）
　小学校を通り過ぎると十字路があり、彼はそれを右に曲がった。そこから五十メートルほど離れていない場所に、二階建てのアパートがたっていた。アパートに近づき、階段を上ると丁度その時目の前のドアが開き若い女性が出てきた。女性は目を丸くして彼を見た。
　「あ、おはようございます」
　彼が挨拶すると女性の方もすぐに挨拶を返してきた。女性はしかし、奇妙なものを見るような目で彼を見ていた。奇妙なものと言うよりは、見知ったもののなかに意外なものを見つけたときの表情だった。化粧と服装をきちんと整えて、女性は右手にバッグを提げていたが、左手にゴミ袋を抱えていることを思い出すと、曖昧な笑みを浮かべた。
　「今日はどうしたんですか？　スーツなんか着て」
　「ああ、昨日は知人の結婚式だったんですよ。それで」
　彼は自分のスーツをつまんで見せた。その時、自分がカバンを抱えていることに気づいた。
　（あれ、このカバン誰のだ？）
　怪訝な顔をしたのに気づいた女性が、
　「どうしました？」
　と訊いたのには、なんでもない、と答えると女性は失礼しますと頭を下げて階段を下りていった。
　（おかしい）
　彼は奇妙な感覚に襲われていた。自分はこんなカバンを持っていないと彼は思った。
　（だれの？　電車のなかにおいてあった誰かのを持ってきたのか？）
　彼はある扉の前まで歩くと、ドアに鍵が閉まっているのを確認した。鍵を取り出そうとした彼は、「松代」と書かれている表札を見つけた。彼はその名前を初めて聞いたような気がした。しかし、これは確かに自分の名前であるとも思っていた。自分は松代、松代……
　（スミオ？　スミオって誰だ）
　彼の脳裏にはさまざまな光景が広がっていた。昨日の結婚式、艶やかな衣装に身を包んだ新婦と新郎、飲み会ではしゃぎすぎて気分を悪くし、トイレに駆け込んだ男と、その時の慌てながらも笑っていた友人たち。布団のなかに眠っている子供を起こして、スーツを着ている時の様子、女性と一緒に朝の食卓でコーヒーを飲んでいるリビング、朝の静かな街のなかで歩くスーツ姿の人々。ビル街のなかにある小さな職場の仲間たち、バイト先での人の言うことを聞かない上司、論文がつまったときに話を聞いてくれ、問題点を指摘してくれる教授。
　どれが昨日のことなのか、彼には分からなくなりはじめていた。昨日自分は何をしたのか、判断がつかなかった。自分は一体今、どこから来たのか、それすら分からなかった。
　（今、家に帰ってきたのか？それとも、どこかに行こうとしてたのか？）
　慌ててポケットのなかから鍵を取り出そうとした。しかし、ズボンのポケットには見知らぬ財布と定期入れが入っているだけだった。一度も降りたことのない駅から、都心までの定期を彼ははじめて見たような気がした。しかし、見覚えがあるようにも感じられるのだった。そういえば、その駅の商店街の様子が鮮明に思い出せることに彼は思い当たった。
　（どこだ、あれは）
　知らないはずだった。降りたことはない駅であるはずだった。しかし、彼は知っていた。
　汗が噴きだしてきた手で、上着のポケットや内ポケットまで探して見るも、そこには鍵らしきものは見当たらなかった。代わりに、小銭や名刺入れが出てきた。名刺には、見知らぬ会社の肩書きと、「田山澄生」という名前が大きく印刷されていた。
　（田山澄生……。スミオ？）
　彼は名刺と表札を入れ違いに何度も何度も見返した。どっちが本当のことを告げているものなのか、彼には全く判別できなくなっていた。
　（どっちだ？　誰だ？　誰が？何を？）
　彼の頭には疑問符だけが渦を巻き、落ち着くことのない論理の糸がバラバラにちぎれながら燃えつきていった。さまざまな名前が彼の記憶に浮かんでは、また沈んでいった。どれが誰の名前なのか、誰がどの名前なのか、判別できないために、その名前は意味をなくしてしまった。名前の意味がなくなっていき、人々の顔もぼやけて思い出せない霞の向こうに遠ざかっていった。何もかもが彼の元から急速に離れていくのを感じていた。視界は一気に暗くなり、足下には風だけが吹いているような異様な感覚が彼を襲っていた。彼は叫び出しそうになった。手を振りまわすと、扉に手が当たった。ドアノブの冷たい感触が彼の手の熱さをしずめた。
　（そうだ、ここが俺の家だ。ここに違いない）
　鍵の差しこまれていないドアノブはまわることなく、金属質な音を辺りに響かせた。次第に力が強くなり、まわらないドアノブに憤った彼の顔は赤く染まり、扉を破壊しようとさえしはじめた。その音量が高まり近所中に不穏な空気が張りつめだした。
　そのために、彼は階段を上る足音に気づかなかった。
　「どうしましたか？」
　肩を叩かれるのと同時に聞こえてきたその声に、彼は一気に正気に戻った。
　見知らぬ男が自分の顔を覗きこんでいるのを見て、彼は途端に安堵の表情を浮かべた。
　「いえ、鍵を落してしまって家には入れなくなってしまったんです」
　彼は、とっさにそう説明した。それが最もつじつまの合う説明なのだと考えたのだ。そうでなくては、この事態をどう説明したらいいのか分からなかった。その説明だって、彼があれほど逆上して扉を開けようと躍起になっていたことの理由にはならなかった。
　「あ、そうですか、大変ですね」
　落ち着いた声で男は言った。
　「ええ、大変なんです」と彼は言った。
　男はしばらく思案していたが、すぐにポケットのなかに手を突っこんで何かを探しはじめた。そして、男がポケットのなかから取り出したのは、銀色に輝く鉄製の鍵だった。
　「これで大丈夫です」
　彼にその鍵を渡すと男はそういった。
　「え、これでですか？」
　「ええ、大丈夫です」
　彼は半信半疑で男から貰ったその鍵をドアノブに差しこみ、ひねった。
　鍵は開いた。

　　　三

　彼は昼もかなり過ぎたころに目が覚めた。ベッドから起きあがると、部屋のなかは日に埋めつくされていた。眩しい光に手をかざしながら、窓のカーテンを閉めた。そのとき、彼は自分がスーツ姿で寝ていたことに気がついた。硬くごわついた着心地が不快に感じられて、彼はすぐさま上着とネクタイを脱ぎすてた。なんでこんな格好で寝ていたのか、すぐには思い出せなかった。
　（昨日は、確か）
　彼は記憶のなかからその理由を探してみるが、泥のなかに手を突っこんでいるような気分になり、面倒くさくなってしまった。しばらく何もしないでベッドの上に座っているあいだ、頭が揺れているような感じがしているのは、酒を飲んだせいだろうと彼は考えた。
　彼は立ちあがって洗面所へ向かった。シャワーの栓をひねると水を出しっぱなしにして、水が暖まるあいだに服を脱ぎはじめた。シャツとズボンとベルトと肌着と、ベルトをのぞいていっしょくたに洗濯かごに放り込むと、目の前にあった鏡が彼の顔を映しだした。
　鏡に近寄ってかすかなひげの感触をさすりながら、不思議そうな表情を浮かべた自分の顔を彼は見つめた。彼にはそれが、珍しいとも懐かしいとも言えない奇妙なものに見えた。
　飽きもせず鏡を眺めていた彼に、水音と湯気が流れてきた。シャワーを浴びながら体を洗っているとき、床を流れる水を見て、昨日の結婚式のことを思い出した。それが分かってみると自分はなぜこんなことが思い出せなかったのか、彼には不思議だった。
　冷蔵庫をのぞいても何も見つからなかったために、仕方なく彼はカップラーメンを棚から取りだした。やかんを火にかけて湯を沸かすと、それで昼飯をすませた。そのまましばらくテレビを見ていたが、ふと立ちあがると机の横にあるパソコンの電源を入れた。ディスプレイに明りがつくと彼は椅子に腰をかけ、ばらまかれてる書類の束を整理しはじめた。要るものと要らないものを選りわけながら、ていねいに紙束をバインダーに挟んだ。彼はすでに起動しているディスプレイに向かうと、画面のなかのあるファイルを開いた。別のソフトが起動した画面には大量の文字が映しだされ、彼はその続きを書こうとしてキーボードに手を置いた。カーソルを動かしてそれまでに書いたところを読み返すと、新しいところに進もうとした。
　しかし、何を書けばいいのか彼には分からなかった。論文の続きを書こうとする気はあるのだが、そこに書くことが見当たらなかった。彼は記憶のなかから昔の話をすくいとるようにして、頭を働かせたが、どうにもならなかった。また前に戻って論文を最初から読み返してみる。彼は読み進むにつれて、よく自分はこれが書けたな、と不思議な気分になっていった。
　（やめよう。あとにした方がいい）
　パソコンを放ってベッドの上に座り、あたりに四散している本のなかから適当なものを拾って読みはじめた。短いエッセイをまとめたもので、それはどこからでも読めるような本だった。彼はそれを最初から読み進んだ。しばらく読んでいると、やはりどれもばらばらで繋がりが感じられない内容で、彼はいやになって読むのをやめた。
　ベッドの横にあるカーテンを開けると外はもう日が沈みかけていた。ところどころに浮かぶ雲には夕陽が照りつけていて、刻々と染められていくのが見えていた。
　携帯が鳴った。それはどこからかけたたましい音をわめき立てて、彼をいらだたせた。部屋中が音のために揺れているように彼は感じた。脱ぎすててあった上着のなかから音がしていることに気がつくと、すぐに取りだして電話に出た。
　―もしもし？
　「なんだ、どうした」
　―いや、お前暇だよな。よし、それじゃあこっちにこい
　「どうして？」
　―今家だろう？
　「うん、一応」
　―じゃあ、大丈夫だ。今日は森井が来るんだ。こっちはいつものところで適当にやってるから、すぐにこいよ
　「森井か、そうかわかった」
　―よし。じゃあな
　電話が切れると彼はすぐに服を着替えて外に出る用意をした。パソコンやテレビの電源を落して部屋の明りを消すと、鍵を持って玄関を出た。鍵をかけ力強い鉄の音が聞こえると、彼は早足に階段を下りた。少し歩くと隣室に住んでいる女性を見つけ、すれ違いざまにおたがい会釈をした。
　十字路を左に曲がりしばらくすると小学校が見えてくる。赤白黒の服装をした子供たちが校庭で走り回るさまを見て、彼は自分の子供のころのことを考えていた。しかし、明確に思い出せるものは少なく、漠然とした印象や感覚があるだけだった。
　（俺も子供のころはああいう感じだったのかな）
　記憶にはない自分の姿をどう想像したらいいのか、彼には分からなかった。彼は子供たちの元気に騒ぎたてる様子を眺めて歩いた。
　そのうちにすぐ大通りに突きあたり、駅の方向に曲がった。バス停やコンビニはもとより公共機関も多く集まっているために、人通りが雑多でにぎやかな通りをより人が多い方へ彼は歩いていった。すれ違う人々は会社帰りのサラリーマンや、若者たちが目立つ。店先から聞こえてくる音楽や人の声が彼にこれから会う友人たちの顔を思い出させた。歩道の狭いせいで人とすれ違うときにはぶつかることが多いために、彼は気をつけて歩かざるを得なかった。バスがすぐ側を通り過ぎていくせいか、ディーゼルエンジンの排気ガスの匂いがあたりに立ちこめていた。
　駅で切符を買うと、改札を通りホームに登っていった。夕方と言うよりは夜になりはじめた時間帯には、学校帰りの学生たちが集まっている。急行の乗換駅のためにさまざまな制服や顔ぶれが見える。買い物帰りと見える女性やスーツ姿の男性も多い。アナウンスがかかり、線路の遠くの方から先頭車両のライトが光っているのが見えた。その電車は彼のいたホームから線路を挟んだ向こう側にあるホームに滑っていき、そこで停車した。彼は自分が間違っていたことに気がついた。
　（違う、待ち合わせは逆ホームだ）
　彼のいるホームは彼の行く先とは逆の方向の電車が来るところだった。彼は今目に見えている向こうのホームに来ている電車に乗らなければならない。彼の見ているまえでその電車は扉を閉め、発車のベルと共に少し走り出し、やがて彼の行き先である駅の方へと消えていった。
　走る必要のなくなった彼は歩いて階段を下りて、頭上では線路が通っているところを横切り、向かいのホームへ行く階段を上っていった。そのホームへ上がると、向こう側にさっきまで自分がいた場所が見える。
　（あっちは大学へ行く時のだった）
　誰にも見られていないことを願うようにして、彼は下を向いた。次に電車が来るまでにはもうすこし時間があった。今の電車に乗っていったために人が居なくなったベンチに余裕を持って腰を下ろすと、屋根の隙間から空を見た。
　日はほとんど沈んでいた。ただ、山の向こうから伸びあがる赤い空の色が、その存在を示していた。突き刺さる光が、空の雲の端々を照らし出して、透きとおった鮮やかな朱をつくり出していた。
　空の景色をいくら眺めても彼は飽きなかった。空の色が赤から白、水、空色に変わっていくさまを見上げていっても、太陽の沈む方を見たあとに、昇ってくる方へ目を向け、その違いを見比べても、白い雲が何色に照らされているかを子細に検討するのも、彼は飽きなかった。
　電車が来た。
　扉が開くとなかから人があふれ出してきて、すぐにホームのなかへ広がっていった。彼は手近の席に座ると、左手にある鉄のポールを掴んだ。じっと掴んでいると、自分の汗ばんだ手の熱さはすぐに冷えていった。電車が走り出し、車体は揺られだしたが、彼は向かいの席の窓から、じっと空を眺めていた。
　電車が駅に到着し、扉が開いた。彼は立ちあがろうとして腰を浮かせた。その時、彼は目の前の席に座っている男と目が合った。そこが自分の降りる駅ではないと気づくと、上げかけた腰を落ち着けてポールを握った。人が降りていき、扉が閉まってふたたび電車が走り出すと、彼は自分がどこの駅で降りるのか、忘れてしまった。そもそも、自分がどこで電車に乗ったのか、忘れてしまっていた。
　（どこに行くんだっけ）
　彼は空を眺めながらそれを考えた。この電車は学校へ行く方向ではないこと、駅の名前がなじみ深いものではないことを彼は知っていた。
　彼は自分が右手に切符を持っていることを思い出した。ポケットのなかから手を出して、切符を見た。乗った駅も、降りる駅も、見覚えがなかった。
　（しかたがない。今はこの電車に乗っていれば大丈夫だろう）
　彼は、天井からぶら下がってゆらゆらと揺れているつり革を見ていた。

　　　四

　「そこは俺の席だ」
　そう言って誰かが彼の肩を掴んだ。いつのまにか彼の正面に立っていた何者かが、彼の肩に手を置いていた。彼はぼんやりとしたまま、つり革からゆっくり彼の方に視線を移した。ふと、彼はそれが彼だと気がついた。
　「あなたは……」
　座っている彼は戸惑いながら、立っている彼に尋ねた。彼はその声には答えずに、肩を掴む手に力を込めた。肩に痛みを感じは出した彼は、苦い顔をして、彼を睨みつけた。
　「どくんだ」
　彼は、両手で彼を力まかせに引き上げた。無理矢理引き起こされた彼は当惑した顔をしていた。彼を引きずり起こした彼は、彼が今まで座っていた場所に腰を下ろそうとした。
　その時、彼の顔を殴りつける男が現れた。拳は彼の右頬を撃ち、彼はよろめきながら殴りつけた男を振り返るが、その時彼が見つけたのはまたもや彼だった。
　彼は右頬をおさえたまま、彼を呆然と見つめていた。彼はそのまま、彼が座ろうとした席に近づいた。彼は彼に肩をおさえられた。殴られた彼を尻目に席に座ろうとする彼を彼は後ろに見ながら、彼を殴りつけた彼に対面していた。
　「どけ」
　彼が低い声で言った。さっきまでの彼の面影はすでになく、睨みつけるような眼光は鋭く彼を突き刺していた。彼と彼はにらみ合い、その場で立ち止まっていたが、彼が後ろから彼を蹴り飛ばした。さっき殴られた腹いせに蹴り飛ばした彼はしかし、彼が吹き飛んだ方向に彼がいることを深く考えてはいなかった。蹴り飛ばされ、のけぞるようにして上半身を彼にぶつけた彼は、そのまま彼もろとも倒れ込み、二人揃って電車の床にうつぶせに倒れた。巻き添えを喰らった彼は彼の上に倒れ込んだ彼の頭をひっ掴み、平手で叩きつけながら、
　「どけ、どけよ」
　と叫んでいる。それに怒った彼は組み伏せた状態になっている彼に向かって頭突きを喰らわし鼻っ柱をへし折ろうとした。それは避けたものの、頬に頭突きを喰らって顎に痛みを感じた彼は、急いで暴れ回る彼の下から抜け出そうとしていた。しかし、彼の頭の上には彼の足があり、彼の足は彼の頭を踏みつけて、彼の上に組み伏せる彼に殴りかかろうとした。二人で対立していた彼らは、とうとつに二人に対して敵対してきた彼に目標を変更した。
　まず下の彼が彼の両足を掴み、蹴りつけられるのにも耐え、彼の動きの邪魔をした。上にいた彼はそのまま彼の腰に頭から体当たりをして彼を倒すことに成功した。倒れ込んだ彼は足を掴み、もう一人の彼に腹や腰や背中を目一杯蹴り飛ばされていた。足を掴んでいた彼はそのまま、彼の脛を殴りつけていた。
　蹴られるあいだもそれに耐えていた彼は、彼が疲れて油断した隙を見て、彼が軸にしていた足を掴みとり、彼を引き倒した。足を掴んでいた彼は彼に顔を殴られ、その手を放した。伏せっていた彼は立ちあがり、まずは彼を蹴りつけていた彼に馬乗りになって反撃を行い、顔に向かって何度も拳を打ち付けた。
　彼はやめろ、と叫びながら、なんとかそこから逃れようと試みたのだが、彼の拳の勢い激しく脱しようとしても彼には何ともできないさまであったのを見てとった彼は、彼を殴りつける彼に加勢するために彼の下半身に向かって蹴りを放っていたが、それがつい目標を外れて殴っている彼に当たってしまったとき、彼は彼を振り向いて、彼を下に置いたまま彼の方に猛然と向かってくるのを見た彼は少しずつ後ろに退がりはじめたが、飛びついてくる彼から逃げることはできず、真正面から顔面にパンチを喰らってなかばボクシングのサンドバッグのように殴るだけ殴られていたが、彼から殴られなくなっていた彼はおもむろに立ちあがり、今まで彼を殴っていた彼には目もくれず、彼に殴られつづけている彼の背後に回ってそこから彼の肩を掴み背中を何度も殴りつけはじめていたため、彼は二人の彼に挟み撃ちにあって逃げようのない場所に追い込まれてしまい、二人の彼はそんな彼に頓着せず、中心を失って限りなく同じ動きを続ける機械のように、延々と彼を殴りつづけていたが、力尽きるように足下から崩れ落ちていった彼を見下ろしていた二人はふと相手と自分がなぜ共闘していたのか分からなくなって、彼は車両の連結部分から他の車両へ逃げようとし、彼は彼を追って走り出し、連結部の取っ手に手をつけていた彼の肩を後ろから力一杯掴んで振り返らせ、その右頬に渾身の拳を叩き込んだときに彼が見たのは学生服を着た見知らぬ少年だった。
　彼は彼以外の彼が車両のなかから消え去ってしまっているのに気がついた。彼は床に倒れ込み呆然とした表情で自分の方を見上げている少年を見た。少年の右頬には傷が走っていて、少年は自分の傷痕に手をやっていた。
　なぜか、少年の頬からは血が流れていなかった。赤い色が滲む傷痕からは血が流れていなかった。彼は痛みを感じて自分の右手を目の前に持ち上げた。ちょうど相手を殴りつけた関節の出っ張りの部分から、赤い血が傾いたバケツから水がこぼれるような勢いで流れ出していた。多くの靴跡で汚れた床に、血が池を作って溜まっていた。床の真ん中がへこんでいるせいか、血は彼の両隣にある扉の方と、彼の前と後ろに十字を描いて少しずつ流れていった。乗客たちはその血に触れないように、彼のまわりから離れていた。
　彼は、すべての人たちに眺められているように思った。彼の血の流れる拳は見つめられ、睨まれ、嘲笑われていた。彼の顔からはだんだん血の気が引いていった。彼の足下には膨大な量の十字の血の池ができあがり、扉の方に流れていった血はすでに車外に流れ出していた。縦に流れている血は、車両のなかを貫くように長く延び、それは私の足下にまで迫っていた。
　目を上げると、彼は拳を残して消えていた。彼の居た場所には、彼の傷ついた右手だけが残されていた。血の池のなかにそれは転がっていた。少年は、血の流れない自らの頬を撫でさすりながら、その拳を見ていた。
　私の足に、血が触れた。血の流れのなかから、小さい支流が私の足の方に真っ直ぐに向かってきていた。私の靴に、その血は触れていた。
　「痛っ」
　右手から誰かを殴りつけたような痛みを感じた。見ると、いつのまにかできあがっていた傷痕から、血が一滴、二滴と滲んでいた。
　私は違う、そうではない！私は誰も殴っていない！
　乗客たちの方を見ると、全員が自分の右手から血を拭っていた。ハンカチで丁寧に血の跡を拭き取る婦人、服に赤い模様を擦りつけてでも右手をきれいにする男、ポケットからティッシュを取りだし何枚も使ってその血の跡を消し去るサラリーマン。
　彼らを見て私も血の跡をぬぐい取ろうとしたが、血が止まらず何度拭っても血の跡を消すことはできなかった。必死でそれを消そうと躍起になっていると、辺りが静寂を帯びていることに気がついた。重苦しい静けさが車内に満ちていた。
　見まわすと、乗客たちが私を見ていた。いや、正確には誰も私を見ていなかった。乗客たちの目には黒目がなく、裏返しになったように真っ白な目でどこかを見ていた。全員が全員、押し黙って座っていた。張りつめていた空気が静かに私の方に集積してくるのが分かる。
　私を見ている！　それは間違いない。乗客たちはただ一人、血の跡を消し去ることのできない私を嘲笑っている！
　私の足は血の池のなかに溶け込んでいた。靴の輪郭がいつしかぼやけ、少しずつ血の色と黒い革の色が混ざりつつあった。立ちあがり、乗客たちを見回してみるが、その白い目には何の感情も見てとることはできなかった。無表情でその目を見開いている。
　怒りに見舞われながらも私は、歩き出そうとした。しかし血の池に足を取られて思うように進むことができない。ほとんど池と融合し始めていた私の足は、歩くことにはもう役立たない。立ち止まるしかなかった。
　粘つく足下からは血が私の足をよじ登ろうとしていた。蔦が壁を這うように、流れの先が伝う道を探りながら、私の足を逆流してきた。両足から登ってくるそのぬるい流れは、膝を超えると急激に速さを増し、一直線に私の右手の傷口を目指して走り出した。血の流れが傷口に侵入すると、そこから猛烈な勢いで血が噴きだした。気分が悪い。顔が蒼白になっているのが自分でも分かる。床に湛えられた池に新しい流れを注ぎ足すように、私の体の血はすべて流れ尽くし、私の体には何も残ってはいない。しかし、右手に熱いものが走るのを感じた。
　指先から血の雫がひとつ、その血の池に滴り落ちた。
　とろりと波紋が広がったとき、男はもうそこにはいなかった。波うつ程の量の血は扉と床の隙間から車両の揺れに流されて、次の駅に到着する前に赤い十字の池はすべて消えてしまっていた。
　電車が駅に着いた。乗客たちが降りてしまうとその車両には誰もいなくなった。傷ついた右手だけが残されていた。

滝　夏海　10A「望郷の詩」 2002年12月06日(金)23時25分18秒

　帰りたい──どこへ？
　帰りたい──どこかへ

　それは突然自分を襲う
　在りもしない感覚
　急に独りぼっちになった気がして
　切なさに胸を押さえ

　息苦しくなり
　喘ぐ様にして空を見上げ
　ビルの間に小さく覗く空を見上げ

　遠く遠くの
　空を、海を、山を、森を、畑を、草原を

　ひどく懐かしい何処かを思い出す
　思い出せるわけがないのに

　母の代から既に都会で生まれ育っていた私には
　田舎と呼べるものは無く
　故郷は、文字の意味を失い
　また、何度も引っ越しをするものだから
　実家ですらその場所ではなく

　テレビで繰り返し見る風景を
　メディアで繰り返しみる物語で
　故郷という物の姿を、その一般像を
　描き、作り上げられた物を
　それこそが故郷だと
　思い出すべき理想の対象だと
　幼い頃から刷り込まれ

　記憶ではなく記録によって感じる
　それは──

　帰りたい──どこへ？
　帰りたい──どこかへ

　あの場所へ。

奥山伸太郎　３Ａ「復讐のサマンサ」 2002年12月05日(木)13時49分45秒

私は、憎い。
憎い、憎い、憎い！
抑えきれない。
抑えきれない。
この底知れぬ憤りをどうしてくれよう。
理性、常識、道徳。
すべて排除してこの興奮に身を委ねてしまおう。
耐えられぬ。
もはや、耐えられぬ！

憎むべきは、家具。
私の足の小指を執拗に痛めつける。
週に３度はやられるわ。
お前なんてゴム製にしてやる！

憎むべきは、シャーペンの芯。
けーすから２・３本出そうとするときまって散乱する。
床のタイルの溝にきれいにはまってんじゃないわよ。
明日から鉛筆にしてやる！

憎むべきは、自動改札機。
私の直前は高確率で一時停止。
横の列に割り込むのって気まずいのよ？
キセルして２０円得してやる！

憎むべきは、携帯の電源。
時間かけて作った長文メールが水の泡。
何で濁点の近くにあんのよ。
連打して陥没させてやる！

憎むべきは…痛っ！！イッタ！！
あ～………
ゴム製にしとくんだった…

奥山伸太郎　２Ａ「Ｏ・ＲＥ」 2002年12月05日(木)13時22分25秒

カフェオ・レ
オ・レ界の始皇帝であり永遠の王者。
コーヒーの苦味がミルクによって緩和され
絶妙なまろやかさを生み出す。
コーヒーの可能性を無限大に引き出した逸品。

いちごオ・レ
オ・レ界の若きエースであり、言うなれば王子。
いちごの甘味がミルクのそれとあいまって
より爽やかな甘さを紡ぎ出す。
いちごの存在感を世に知らしめた逸品。

バナナオ・レ
オ・レ界の冒険の産物であり、いっちゃえば遊び心。
バナナの甘さがミルクのそれとあいまって
気持ち悪いくらいの甘ったるさが溢れ出す。
同時に、需要をはるかに超えたまろやかさ。
バナナの印象をすこぶる悪くした逸品。
一口で充分である。

奥野美和　14C「あの子はいつも笑っていて悩みがないとクロールする」 2002年12月05日(木)08時05分22秒

どのくらい大きな声が出せるのかわからないまま叫ばないまま

諦めは全ての終わり行き止まりわたしはわたしを飽きたりしない

感触は知らないけれどニオイだけつかんでいるさ　まぼろしじゃなく
　
おいかけるくるぶし大のたましいで　あくびの運命期待しながら

ブラジャーを初めてつけた違和感をいつのまにやら忘れていました

マフラーの巻き方同じそれだけで繋がってると思いたかった

つじつまを合わせて作った星座にはわかりたくないエピソードたち

ささくれた熱い指先ひっぱって　盗みたかった捕まってもいい

宮田　和美　プロット 2002年12月04日(水)22時16分35秒

昔すきだったひとを忘れられないいままいまの彼氏とつきあってたら、偶然そのすきだったひとと会い、気持ちがふっかつして彼氏と別れたけれど、その男とも結局うまくいかなかった女の子のはなし。

横田裕子　呪縛 2002年12月04日(水)18時12分42秒

１．
分厚い灰白色の空から、ざらざらざら・・・と落ちてくる雨粒が、天窓のガラスにぶつかっては壊れる。脆いガラス球が粉々になって流れていくのを、俺はベッドの上に寝転がって見ている。
あの日の空の四角の中は、高い青空であったり、群青のビロードの上に広がった星空であったりした。切り取られた空を眺めるふたりは、四角な窓枠の中で標本箱に入った虫みたいだった。箱の中の虫たちは、空の下でもぞもぞとうごめいていた。
繰り返し紡ぎだされる、甘ったれた戯言。
そしてある日を境に虫は一匹だけになった。
別れを切り出してきたのは確かに彼女の方からで、ここから先に続く道をふたりで歩いていけるのだろうか、という今となっては酸っぱくて青臭くて思い出しただけでジンマシンが出てしまいそうな不安が理由だった。ぐらぐらと安定の悪いつり橋を渡るような日々の末に。
わずかに甘い記憶を時間の谷間に置きっぱなしにして、ふたりの糸はぷっつりと切れた。
別れた次の日から、出会った頃のむず痒さもじゃれ合ってばかりの子供じみた日々も、全部忘れてしまうつもりでいた。
勿論、唖然ぼう然としたのは嘘ではない。ただそれを表に出したくなくて、隠そうとする術というのが「全てを忘れること」だった。ぐずぐず落ち込む姿を他の誰かの目にさらすことを恥じていた、当時の俺がとった「逃げ道」だった。
耳を塞いでも聞こえてくる彼女の声と、目をつぶっても瞼の裏に映るその姿に捕まらないように。
別れ、というより最後に見た彼女の笑顔が何よりも堪えた。
俺が一番好きな、とびきりの笑顔で。
それを知っていて意図しているかのような表情と、しかし心の底から染み出てきた「さよなら」だった。
　そして俺に背を向けた姿は、潔く勇ましく、いつかプレイしたゲームの女勇者みたいで、残された俺はずたぼろになったモンスターそっくりで。
　あの時の醜態は自分の中のどこにも残したくなくて、きっちり封印した。
　しておいた「つもり」だった。
　鍵をかけて二度と思い出せないように。

　２．
　高校を出てからもうすぐ両手を使わないと数えられない年月が経つ。
　調理系専門学校を経由した俺は、居酒屋の厨房に立つようになった。
　時にはカウンターに立ち色鮮やかなカクテルも作った。すべて漢字二文字の名前をつけたオリジナルのカクテルの評判は上々だった。
　そして今夜もカウンターでシェーカーを振っている。
　閉店の1時間前で、客は仕事帰りと思われる女性がが一人。
　金曜の夜だけあって月曜から今日までの疲れが一気に噴き出したような顔をして、テーブルに頬杖をついている。
　スーツと化粧の鎧を纏い、素顔に戻る時間はきっとわずかな間なのだろう。
　出来上がったカクテルは、足のついた小さなグラスの中でゆらゆらと揺れ、女の紅いルージュの中へ吸い込まれていく。
　女はカクテルを片手に閉店の準備をしようとしている俺の姿を、飽きもせずに眺めていた。時折メールを打ちながら。
　「どなたかと待ち合わせですか」
　「私は一人で飲む方が好きなの・・・時と気分によるけどね」
　「じっくり味わえますからね」
　「そんなのじゃなくて」
　女は空になったグラスをテーブルに置く。グラスの縁にライトが当たってチカリと星が飛んだ。
　何か、見透かされている気がした。俺はこの女の事は何一つ知らないはずなのに、その瞳に捕まえられた気分で、片付けものをする手の動きが鈍くなった。
　女は、きっと俺の事を知っている。俺の過去を知っている。
　そして封印した記憶の中身を今更になってぶちまけられそうな恐怖を感じる。
　視線に身動きできなくなってしまわないよう、俺は明後日の方を向いて仕事を続けた。
　知らない、知らない、知るものか。
　気が付くと、女は席から姿を消していた。時間が時間なのでそそくさと会計を済ませて帰ったらしい。
　最後のグラスを洗い終わったところで、閉店の時間になった。
　
　深夜２時の空気は冷たい、を通り越して痛い、という感覚に近い。
　けれども澄んだ空気で星が綺麗に見えそうだ、と思った。
　階段を下りてゆくと、出口のところに人影があった。
　さっきの女性客だった。
　心の底が「げっ」と叫んだ気がした。
　気づかない振りをして通り過ぎようとすると。
　「・・・ハシバくんでしょ？あなた、ハシバ　セイジでしょ」
　ハシバ　セイジ。俺の名前。なんで、この女が。
　「そうですけど・・・どうして知ってるんですか」
　「やぁだ、忘れちゃったんだ。高校、一緒だったじゃない～キクチ　コズエよぉ」
　まだ酒が残っているのか、ほんのり赤い顔をしている。
　「俺、そんな人知りませんよ、人違いじゃないですか」
　「あ、ひどーい。そんな言い方するんだぁ」
　「・・・・酔ってません？」
　「酔ってなんかないわよぉ～～」
　「分かりましたってば。もう遅い時間ですし送って行きますよ、」
　「そ・の・ま・え・に！」
　人差し指を俺の鼻先に突きつけて女が声を荒げた。マニキュアがキラリと光った。
　「ほんとにあなたが私のことを知らないのか、確かめてからね」
　「確かめる？」
　「そう、高校を出て随分経ってるものね。お互い変わって当然よね。でも変わらない部分だってあるわけじゃない？その変わらない部分が分かったら、私を思い出せるでしょ？」
　「だから、俺はキクチコズエなんて人、知りませんってば！」
　「じゃぁ、こっちきてよ、思い出させてあげるわ！」
　ぐい、と腕を引っ張られて俺は自宅とは反対方向の道を歩き出していた。
　ふらふらと駆けながら、普段は気にも留めない繁華街のネオンが、やけに毒々しい程鮮やかに感じた。
　
　３．
　湧き出る泉に深く身を沈めて息を吐いた。
　決して久しぶりではないはずの、煮え立った湯のような熱さに火が灯った。
　繁華街を潜り抜け、連れてこられたところは・・・・ホテルだった。
　そんな事で思い出させようだなんて。
放心状態で入り口で立ち止まったら、またもや強引に中へ引きずり込まれてしまう。
　そして、身に付けた鎧の全てを取り払った姿が、目の前に居る。
ギッ、と寝台が軋む度に定かではないが、見覚えあるような気がする顔が仮面から覗いた。
　もしかするとそれは記憶の欠片にもなっていないものかも知れない。
　思い出させる事ができるなら思い出させてみろ。
　自分で、そう呟いたのだと思う。
　自分にしか聞えない声で。
　そしてがむしゃらに熱情を女にぶつけた。この夜ごとぶち壊してしまうような勢いで。
　いつしか目をつぶったままになっていて、今度は瞼を上げるのが怖くなった。
　見てはいけないものを見てしまうような恐怖が心を走る。
　暗闇の中で声だけが執拗に溢れ出して俺を捕らえて離さない。ゲームの中の、トラップに掛かったように。じたばたともがくほど、底なし沼に嵌ってゆく。
　「・・・・・セイジ」
　女性特有の、甘く鼻にかかったような声が、零れ落ちた。
　それに答えるように、俺は瞼を上げてしまう。
　その途端。
　俺の中でガチャリ、と重く錆付いた音がした。
　視界に入ったのは紛れも無く封印した記憶の中の彼女だった。
　幾千年の眠りから覚めた妖怪のように、「あの日」の事が生々しく甦る。自分が記憶の中に留めておくのを恐れ、恥とした日が脳裏にプレイバックする。
　馬鹿！！
　何て事を思い出させるんだ。
　涙が、ぼろぼろと落ちる。口惜しいのと怒りと・・・その懐かしさと。
　俺は、もう彼女から逃れることはできない。この記憶を封印したとしても、今度はそれに付き纏われて生きていかなければならない気がした。
　彼女は俺の記憶の鍵を解く術を知っているのだ。そして俺をこの記憶に縛り付けてゆくのだ。
　永久に。
　
　
　

東條慎生　7A「クインシー」第二話 2002年12月02日(月)13時54分49秒
▽５Ａ『クインシー』第１話への応答

　　　『クインシー』

　　第二話　インターセプト

　メロンは甘く、柔らかい果肉を歯で抉るときの感覚は格別だ。唇の両脇からたれて流れた粘つく果汁が、顎の先からテーブルに滴っていた。甘い甘い、甘くて柔らかい。
「このメロン、どこで買ってきたんだ？」
　私は妻に訪ねた。
「いつものところ」
　妻の答えは素っ気なく、話はそれで終わってしまった。室内には、果汁と果肉との潰れる生々しい音。
「ところで、途中何か変わったことはあったか？」
二人とも次の一切れを食べていた。妻は口から果汁を垂れ流しながら、聞き返した。
「変わったことって？」
　妻は何も知らないようだ。やはり妻はあれを見てはいないようだ。では、アレはいったい何だったのか。
　見知らぬ男の首吊り死体。
　私はメロンを食べながら、妻に話を切り出した。
「なあ、この家から、首吊り死体が見えるとしたら、どう思う？」
「どうって、別に何も」
　私は顔を上げ、妻の目をじっと見つめた。その目には、感情の動きは感じられず、私の友人の近況を聞き流すときのように、落ち着いていた。
「いや、これは本当なんだ。二階から男の死体が見えるんだ」
　私はメロンを机におろし、ひどく真面目な口調で告げた。
「知ってるわよ」
　妻は、不可解なことを喋った。
「今、あなたが食べてるもの」

　机の上にあるメロンの切れ端は、赤い液体で縁取られており、果肉と見えた部分は、灰色のぷりぷりとしたなま暖かいゼリー状の物質だった。妻は笑顔でメロンをもう一切れ、包丁で切り出した。
　いや、違う。
　妻が刃を入れているのは、黒い髪の毛が全体を覆っているボーリングの球ほどの大きさの、メロンとは違う物体だ。こっちからはその正面が見えないが、それは確かに、頭だった。
　妻が刃を入れると、その傷口からは赤い液体が吹き出し、めりめりと気味の悪い音をたてて、新しい私のための赤いメロンの一切れが現れた。
　私の体は熱い脈を打ち、腹からせり上がってくる激しい違和感が脳内を駆けめぐった。
　しかし、私は何事もなかったかのように、妻からそのメロンを受け取っていた。
　いや、私ではない。私の体が、だ。
　私の体が、私の意思を離れて勝手にそのメロンにかぶりつこうとしていた。
　EGⅡが、EGⅡが狂っているぞ！
　全力で私はその行為をとどめようとした。
　私はそんなものを食べたくない！
　しかし、叫びは外界に放たれることはなかった。
　私の口は、ゆっくりとその果肉にかじりついた。人肌のぬくもりを持った柔らかい果肉の感触で、私の口内は充たされた。
「これはうまいよ。あのスーパーで売ってたなんて、考えられないよ」

　私の視界には、妻の顔が間近に迫っていた。しかし、その顔も血にまみれたように赤い糸が走っていて、完全に捉えることはできなかった。いや、視界が染まっているのは、私の目に血が垂れているせいだ。
　妻が誰かと笑いを浮かべて話をしている。大声で笑ったり、小声でほほえんだり、楽しそうに話している。
　妻は、私の方に顔を向けると、右手に持った包丁を私の左目の上の方に差しこんだ。

　私は、首に圧力を感じた。苦しい。
　苦しいのだが、それはとくに緊急の対処を要する問題ではないように思えた。私の足は地面を踏みしめている感触がなく、宙に浮いているようだ。
　しかし、首筋が痛い。何か縄のようなもので縛り上げられているようだ。
　私の視界には向かいにある一軒の家だけがあった。
　正面にある二階の部屋の窓が開いた。
　私が、私を見て驚愕の表情を浮かべたのが見えた。

（続）

東條慎生　6A「彼」 2002年11月30日(土)22時09分32秒

　　　一

　彼は電車に揺られて眠っていた。昼すぎまで続いた休日のバイトで疲れているためか、襲いくる眠気に耐えることができなかった。レールの継ぎ目が打ちならす震動に彼の頭は弾んでいる。
　日はすでに傾いていて、電柱やビルの隙間から何度も何度もまたたいては消える強い光に乗客たちはおのおの目を閉じてそれを防いでいた。オレンジ色に照らされた内装は、すでに文字や絵を判別できないほど夕陽の色一色に染めあげられている。色の明滅する車内で、人々は騒ぐことなくレールのきしみに身を任せていた。
　車外の景色はだんだんと都心のコンクリートの風景から、田畑や民家に変わりはじめていた。大きなビルよりは中程度の高さのアパートに、ネオンや眩しい看板の喧噪よりは住宅地の静穏に、景色は変わっていった。電車は速度を落しながら、住宅街のなかを通りぬけた。
　彼は眠気のなかにまどろんで、うつらうつらと頭を揺らめかせている。目に痛い夕陽の明滅や、電線の影がつくる波のような運動にも気がつかず、穏やかな午睡に浸っていた。
　電車は速度をさらに落して、静かに駅のホームへと滑りこんだ。人が歩く時のような速さで鉄の車体はゆっくりとホームについた。鞘に収まる真剣のようにぴたりとそれは停止した。
　進行方向と逆向きに働くブレーキの衝撃で、彼は目を覚ました。慌ててカバンを掴むと、急激に勢いを増した心臓の鼓動にうながされて駆け足で車外に出た。
　目が覚めた時の前後不覚の意識を、停車の震動でさらにかき回されたことによって、笑ってしまうような事態に自分が陥ったことを彼が知ったのは、乗っていた電車のドアが閉じた時だった。
　陽射しに染められていても自分の立っている場所が、見も知らないものであることに気づくのにたいして時間はかからなかった。いつも目の前にあるはずの階段は見当たらず、値段設定の不当に高い自動販売機が陽射しを跳ねかえしているのに気づいた。辺りを見回してみると、駅の外に広がる景色も、柱や壁の色も、駅の構造そのものもまったく見知らぬものだった。年数を経たように見える建物は、規模も小さく人通りもあまりない。そういえば今の電車から降りた人もだいぶ少なかったということに彼は気づいた。
　彼は自分の行動に苦笑を漏らすと、その駅の名前を確認した。降りるはずの駅から三駅ほど手前にあることを知ると、近くにあったベンチに腰を下ろした。改めて見回してみると、いつも通り過ぎる駅であるのに、車内からでなく駅から見た印象はまったく未知のものだった。
　新しい場所に訪れた時に感じる不安と好奇心で、彼は時ならぬ昂揚を感じていた。ゆっくり立ちあがって階段を登り切ると、改札口の方へ歩いていった。
　それほど人の多くない小規模の駅からはすぐに商店街がつながっていた。バスのロータリーは近くにはなく、タクシーの列が小さく隅の方にかたまっていて、おのずと町の規模も駅と変わりないことが知れた。立ち並ぶ商店街の軒先には、買い物客や学校帰りの学生たちが大きくはない喧噪を引き受けていて、小さいながらも確かな生活があることを感じさせた。
　（まあ、今日は暇だし、散歩でもするか）
　彼は見知らぬ場所のなかへと歩き出した。高さも不揃いの建物にはさまれた狭い道が、うねりながら続いていて、それぞれの建物からはそれぞれの売り物の匂いが漂ってきていた。果物や青果の匂いもあれば、精肉店の生臭さも花屋の水と花弁の匂いもある。ラーメン屋や食堂など、飲食店の裏手から漂ってくる油や生ゴミの匂いが、薄く沈んでいた。隣をすれ違う制服の少年や少女の着ている制服を見ても、どこの学校だか分からないことが彼には面白かった。特定の土地のなかに住んでいれば、制服はおのずとある特定の学校に結びつくのがつねだった。それは必ず数多の噂を引き連れて、近所の主婦たちの口元から好悪さまざまに語られるのがつねだった。
　店の並びのなかで本屋を発見した彼は、元からそこが目的地だったとでもいうようにドアを押して入っていった。どこに行っても変わらない、どこにでもある雑誌の並びのなかから、ひとつ選んでページをめくりはじめた。それは毎週読んでいるわけでもなく、たまに気がつくと手に取るだけの、彼にとってはどうでもいい雑誌だった。
　（暇をつぶすならいくらつぶしても変わらない）
　適当にめくって読んだあと、店の奥の方に入っていって文庫のコーナーをまわる。家に帰ってもすることはなく、翌々日までバイトもない空白の時間があることを、彼は思い出した。暇をつぶしながら暇つぶしの本を探す自分に自嘲の笑みをこぼしながら、ポケットに手を入れてやる気のない風情で歩き回っていたが、何か買うのも面倒くさく、彼はそのまま店を出た。
　商店街の終わりまでたどり着くと、その先には住宅街が続いていて、人通りはさらに少なくなり、狭い二車線の道をぽつりぽつりと車が走っていった。彼はざわめきが静かに流れてきている、閑散とした土地の入り口に突きあたった。彼はその先には興味をなくして、振り返って来た道を戻りはじめた。
　「あー、スミオさん、どこへ行かれるんですか？」
　背後から女性の呼びかけが耳にはいるが、彼は特に気にした風もなく辺りの景色を見回しながら歩きつづけている。
　「ちょっと、スミオさん、スミオさん？」
　執拗な呼びかけに、一体何事が起こったのかと気を取られて振り返ると、ひとりの女性がじっと彼を見つめていた。
　「もう、スミオさん。聞こえなかったんですか？　無視しないでくださいよ」
　そう言って女性は彼に近寄ると、
　「ところで、お子様は最近どうですか？」
　と話を切り出した。
　（スミオ？　この人、一体誰と間違えてるんだ？　しかも子供なんて。おれはまだ二十代だぞ）
　目の前に立っている女性に困惑した彼は、言いづらそうに口を開いた。
　「すみませんが、どちら様ですか？」
　女性はまあ、と口を開けて驚いた表情を浮かべたが、すぐに割れるような笑い声をたてて、彼の肩を叩いた。
　「何言ってるの？変な冗談はやめてくださいな。タクミ君になにかあったんですか？」
　女性は彼の言うことを真に受けなかった。女性は彼を気にせずに、タクミ君なる人物が最近幼稚園で起こした騒ぎの模様を、周知のことのように語りつづけた。
　「それでね、ショウコちゃんがそのときタクミ君の持ってたオモチャを逆に取りかえしたら、タクミ君が泣き出しちゃって……」
　「いえ、だから、わたしはスミオという人ではないし、タクミ君という子が誰かも知らないんです」
　半ば呆れた様子でつい話を聞いてしまっていた彼は、気を取り直して女性の長口舌に割り込んだ。
　「誰かと勘違いしていませんか？わたしは孝治です。長山孝治。スミオじゃありません」
　女性はふたたび口を開いたまま、呆然と彼を見つめていた。彼もそれだけ言ってしまうと次に言うべき言葉も見つからず、じっと立ったままになった。その沈黙のあいだに、彼らのそばを商店で荷物を下ろした軽トラックが通り過ぎた。
　「いえ、スミオさん、何を言ってるんですか？スミオさん。大丈夫ですかスミオさん。奥さんに連絡しますか？」
　人違いであることをかたくなに認めようとしない、その女性の物言いが彼には不快に感じられた。
　「だから違うんですよ。わたしは長山です。スミオとかいう人じゃないんですよ！」
　彼は叫び出したくなった。この女性がなぜこうも執拗に彼を「スミオ」呼ばわりするのか、それがわからなかった。
　「スミオさん？　大丈夫？　スミオさん？　ヨウコさんを呼びますか？　ちょっと、誰か……」
　彼女はスミオさんスミオさんと繰り返しつづけていた。信じられないものを見る目つきで彼とまわりの人たちに交互に顔を向けては、彼には理解できない言葉を撒きちらしていた。彼は次第にその女性に対して恐怖を感じはじめた。女性は自分を何かの罠に陥れようとしている。根拠はないものの、彼の頭のなかにはそういった災厄を予感させる考えが渦を巻いていた。災厄とも言えない、底知れぬ穴のようなものに絡めとられてしまうような恐怖感、または自分の立っている床が高度何百メートルもの高さにある透明なガラスであり、ふとそれを気づかずに覗きこんでしまった時の、寒さ。彼は言い知れぬ感情のなかに立たされていた。
　―スミオさんスミオさん、どうしたんですか？―
　「どうしましたか？」
　とつぜん男の声が脇から割り込んできた。彼はその男の出現に救われた気がした。
　「あ、この方がわたしのことを人違いしてるんですけれど、何だかおかしい人みたいで」
　女性は意外そうな顔をして、猛然と反論をはじめた。
　「何言ってるんですか！　いい加減に冗談は止めてください、スミオさん。せっかく人が話しかけているのにそれはないでしょう？　なんでちゃんと話をしないんですか。うちの子がタクミ君をぶったからってそこまでわたしのことを無視しないでもいいでしょう！？」
　男は困ったように二人の顔を眺めまわした。女性は延々とタクミ君と子供の話を続けていた。彼はその状況にうんざりしていた。
　女性の顔が怒りで赤く膨れあがり、口から泡を飛ばして怒鳴りちらしはじめると、さすがに男も参ったように、肩を叩いて耳元に口を寄せた。そして何事かを二言三言つぶやくと、女性ははたと口を閉じ、表情は次第におとなしいものになっていった。
　「あれ、どうしたんですか？」
　いくら何でもここまで簡単にことが運ぶとは思わなかった彼は、男に向かって驚きの顔を向けた。
　「いえ、大丈夫ですよ。この人はちょっとここら辺で有名な人なんです」
　男は穏和な笑みを浮かべる女性の手を取ると、ゆっくりと手を引きながら、商店街にあるラーメン屋の戸を開けた。
　男は店のなかに声をかけ、店の者に何かを言っていた。話し終わると女性を店の者に引き渡して彼の方へ戻ってきた。
　「これで大丈夫です」
　彼はその顔を見てやっと安堵のなかに落ち着くことができた。いつのまにか、それまでに感じた底知れぬ不安がきれいに消え去っていた。
　「どうもありがとうございます。ちょっとここら辺ははじめてなもので勝手が分からずご迷惑をおかけしました」
　「いえいえ、そんなにご丁寧になさらなくてもいいですよ。よくあることです」
　「いえ、どうもすみませんでした」
　そういって彼は深々と頭を下げた。こんな風に人にお礼を言うなんて、どれくらい振りだろうか。そんなことを思いながら頭を上げると、彼と男の目が合った。

　　　二

　「拓実、拓実。早く起きろ」
　彼はベッドのなかから起きようとしない子供に向かって大声を張り上げていた。ベッドのなかでうなりながら布団を放そうとしない手を開こうと力を込めるが、そう簡単には行かないほど子供の力は強かった。ここまで睡眠に全力をかけられる子供になかば愛情を込めて、しかし言うことを聞かないことに対する怒りをも込めて、彼は子供のてのひらを開き布団を引き剥がし、子供を朝の空気のなかに放り出した
　彼は寒そうに縮こまる子供をベッドから引き離して、床に立たせた。
　「ほら、早く下におりなさい。バスに遅れるぞ」
　彼は後ろから追い立てるように子供のあとについて歩き出した。子供は寝惚けた目をこすりながら、ぼんやりとよろめいていた。階段のところにさしかかると、子供は片手で手すりをつかみ、片手で目をこすりながら降りはじめた。彼がうしろからついて降りはじめると案の定、子供はバランスを崩して落ちそうになったが、彼がその瞬間脇の下から持ち上げ子供を支えた。
　「ほら、さっさと顔を洗え、また転ぶぞ」
　子供は気の抜けた返事をして、よろよろと洗面所の方に歩いていった。
　彼はリビングへ入り、テーブルの椅子についた。
　「おい、拓実の寝起きは何とかならないのか」
　彼の妻はキッチンで朝食を作りながら、後ろを振り返った。
　「そんなこと言っても、拓実だってまだ園に行きはじめて間もないんですから、そう簡単に起きれるようにはなんないでしょ」
　彼はテーブルの上に折りたたまれていた新聞を開いて目を通しはじめた。
　「あいつを起こすのは一苦労だよ」
　「いつもわたしがやってるんだから。少しぐらいはあなたも苦労が分かったでしょ？」
　「わかった、わかったよ」
　彼は新聞を放り投げると、洗面所に向かった。蛇口から水の流れる音が聞こえてきた。廊下の角を曲がると子供が蛇口をひねりっぱなしで洗面所の床に寝ているのが見えた。
　「おい、こんなところで寝るんじゃない」
　彼は蛇口を閉めて、子供の頬をはたいて目を覚まさせた。そのまま子供をリビングに連れて行って、あとを妻に任せると、彼はゆっくりトイレに入り顔を洗い髭を剃った。
　隣の部屋でスーツに着替え、昨日の夜にやった仕事がちゃんとカバンに入っていることを確認すると、リビングに戻った。そこで朝食をとり、時間までゆっくりしていた。
　「今日は何時くらいに帰るの」
　「今日はそんなに遅くはならないと思うよ。仕事も今日で一段落だ」
　妻は一言返事をすると、子供の支度をはじめた。
　彼は、新聞をたたみカップのコーヒーを飲み干すと、カバンを持って玄関に向かった。
　「じゃあ、行ってくるよ」
　「いってらっしゃい」
　家を出ると朝のまだ冷たい空気が彼の頬を撫でた。
　似たような家が建ち並ぶ住宅街の道はねじ曲がっていて、はじめて来た人間には容易に目的地にたどり着けないようになっている。道の途中にはまだ造成されただけの宅地が広い面積を占めているところがある。順繰りに家を建てていき、完成した区画ごとに売りに出すために、すでに人の住んでいる家とまだ建築途中の現場が隣り合わせであることも珍しくない。
　「あら、田山さん、おはよう」
　ある家の前を通り過ぎるとき、玄関からゴミ袋を下げた女性がこちらに声をかけてきた。
　「あ、おはようございます。この間はどうもお子さんにご迷惑をおかけしたようで」
　「いえいえ、子供のすることですから」
　軽く挨拶を交わし、女性は大通りの方へとゴミ袋を抱えて歩いていった。
　（あいつ、ゴミ出しを忘れてないだろうな）
　彼は女性と別れ、右に曲がり、左に曲がり、十字路を直進してしばらくすると、工事も造成もされていない畑や林の側にさしかかった。まえには彼の家の辺りもまだ多く昔の景色を残していたが、ここ一、二年で一気に宅地が広がった。彼のあずかり知らぬあいだのこととはいえ、近隣の住人からは苦言を聞くことがある。その言葉や、蝙蝠の飛び交う夕方のなかから、彼は自分がここに住む以前の風景を思い描いた。
　また少し歩くと駅前の商店街に出る。
　住宅街と商店街のあいだに横たわっている開発途中のさびれた土地には、昼日なかならば駅前の喧噪のかすかな名残が流れている。朝の冷ややかな空気のなかには、開店の支度をしている飲食店や青果店の物音だけを聞きとることができた。ほとんどの店にはシャッターが閉まっていて、それぞれの開店時間や休日の表示、夜中に誰かが落書きしたらしい、アルファベットらしき原色の模様が浮かんでいた。道は直線を描くことはなく、小さい町の縮図のようにうねり、曲がって、駅への道をつないでいた。
　彼は道を急ぐ人の流れに紛れて、駅の改札をくぐる。
　タバコの匂いが漂うホームに数分待つと、半分ほど人の乗った電車がやってきた。この区間にはまだ人はそれほど乗っていない。二駅ほど通過するとアナウンスがかかり、停車した駅で彼は人の波に押しながされるように、隣のホームにつけている急行に乗り換えた。
　元々満員に近い人が乗っているその車両に入るには、駅員の力任せの助力が必要だった。扉のなかに入りさえすればそれ以上は望まない謙虚な力業で、彼は貨物のように押しこまれた。扉が何度か開閉を繰り返したあと、極限の重量を抱えた車両は発進した。
　すいません、すいませんと男性女性わけへだてなく詰め込まれた車内で、誰かに放たれた謝罪の声が彼の耳にも聞こえてくる。彼はそれよりも、隣の男のカバンの金具や、中年の男の髪から漂う強烈な油の匂いと女性の香水のまざりあった何とも言えない臭気をこそ、謝罪して欲しかった。
　窓の外に広がる景色には、だんだんと大きなビルの占める割合が増えはじめ、職場の近づいてきたことが分かる。終点に近づくにつれて、乗り込むよりも降りる人の数が多くなり、少しは過ごしやすくなった車内のなかで、彼は遠く窓の外を眺めていた。ビルよりも遠くにある田畑の連なる山の景色や、電線を支える鉄柱の突きたつ様を口を開けて眺めていた。
　通り過ぎる駅ビルのなかに、彼はいきつけの飲み屋を見つけた。
　（昨日はよく飲んだなあ。高塚はちゃんと帰ったんだろうか？スクーターで飲みにくるなんて、危なくてしょうがない）
　彼は昨日の様子を思い出していた。今は会社に就職していて、つき合う暇もない友人たちが仲間の結婚式のために久しぶりに集まったのだった。披露宴の半ばで新婦共々目に涙を浮かべていたのが彼の脳裏に刻まれていた。
　電車は駅に着いた。彼は落ち着いた足取りで降り、多くない人混みのなかを歩き改札を出た。駅前には大きな広場があり、目の前のロータリーにはこれから出発しようとするバスの列が並んでいた。駅ビルのテナントもほとんどが開店していないなかでは、パン屋やコンビニが朝の出勤客を迎えいれていた。
　彼は駅から続く大通りに沿って歩き出した。背後には次の電車がホームに入ってくる音が聞こえていた。
　大通りには朝の静かな人波が彼とすれ違うように動いていた。この時間に駅の方から出てくる人間が少ないのは当然で、多くの人たちは駅に向かって歩いているのだった。彼は大通りを駅とは反対の方向に向かって歩きつづけた。駅から真っ直ぐ走る大通りは遠くの方を見渡しても、このままずっと続いているように見え、銀行や予備校の列が立ち並んでいた。しばらく進むと大通りと交差した、さして大きくないが二車線の余裕はある道路を右に曲がった。一気に街並は閑静になり、商店よりは民家の方が多く見られるようになった。途中には通学路の看板が見え、その先には小学校が朝の空気のなかにざわめきを放っていた。
　（昨日は疲れたなあ。朝までやるのはさすがに疲れる。こっちは学生だから大丈夫だけど、連中は今日会社に行くはずじゃないのかな。相当飲んでたやつがいたぞ）
　小学校を通り過ぎると十字路があり、彼はそれを右に曲がった。そこから五十メートルほど離れていない場所に、二階建てのアパートがたっていた。アパートに近づき、階段を上ると丁度その時目の前のドアが開き若い女性が出てきた。女性は目を丸くして彼を見た。
　「あ、おはようございます」
　彼が挨拶すると女性の方もすぐに挨拶を返してきた。女性はしかし、奇妙なものを見るような目で彼を見ていた。奇妙なものと言うよりは、見知ったもののなかに意外なものを見つけたときの表情だった。化粧と服装をきちんと整えて、女性は右手にバッグを提げていたが、左手にゴミ袋を抱えていることを思い出すと、曖昧な笑みを浮かべた。
　「今日はどうしたんですか？　スーツなんか着て」
　「ああ、昨日は知人の結婚式だったんですよ。それで」
　彼は自分のスーツをつまんで見せた。その時、自分がカバンを抱えていることに気づいた。
　（あれ、このカバン誰のだ？）
　怪訝な顔をしたのに気づいた女性が、
　「どうしました？」
　と訊いたのには、なんでもない、と答えると女性は失礼しますと頭を下げて階段を下りていった。
　（おかしい）
　彼は奇妙な感覚に襲われていた。自分はこんなカバンを持っていないと彼は思った。
　（だれの？　電車のなかにおいてあった誰かのを持ってきたのか？）
　彼はある扉の前まで歩くと、ドアに鍵が閉まっているのを確認した。鍵を取り出そうとした彼は、「松代」と書かれている表札を見つけた。彼はその名前を初めて聞いたような気がした。しかし、これは確かに自分の名前であるとも思っていた。自分は松代、松代……
　（スミオ？　スミオって誰だ）
　彼の脳裏にはさまざまな光景が広がっていた。昨日の結婚式、艶やかな衣装に身を包んだ新婦と新郎、飲み会ではしゃぎすぎて気分を悪くし、トイレに駆け込んだ男と、その時の慌てながらも笑っていた友人たち。布団のなかに眠っている子供を起こして、スーツを着ている時の様子、女性と一緒に朝の食卓でコーヒーを飲んでいるリビング、朝の静かな街のなかで歩くスーツ姿の人々。ビル街のなかにある小さな職場の仲間たち、バイト先での人の言うことを聞かない上司、論文がつまったときに話を聞いてくれ、問題点を指摘してくれる教授。
　どれが昨日のことなのか、彼には分からなくなりはじめていた。昨日自分は何をしたのか、判断がつかなかった。自分は一体今、どこから来たのか、それすら分からなかった。
　（今、家に帰ってきたのか？それとも、どこかに行こうとしてたのか？）
　慌ててポケットのなかから鍵を取り出そうとした。しかし、ズボンのポケットには見知らぬ財布と定期入れが入っているだけだった。一度も降りたことのない駅から、都心までの定期を彼ははじめて見たような気がした。しかし、見覚えがあるようにも感じられるのだった。そういえば、その駅の商店街の様子が鮮明に思い出せることに彼は思い当たった。
　（どこだ、あれは）
　知らないはずだった。降りたことはない駅であるはずだった。しかし、彼は知っていた。
　汗が噴きだしてきた手で、上着のポケットや内ポケットまで探して見るも、そこには鍵らしきものは見当たらなかった。代わりに、小銭や名刺入れが出てきた。名刺には、見知らぬ会社の肩書きと、「田山澄生」という名前が大きく印刷されていた。
　（田山澄生……。スミオ？）
　彼は名刺と表札を入れ違いに何度も何度も見返した。どっちが本当のことを告げているものなのか、彼には全く判別できなくなっていた。
　（どっちだ？　誰だ？　誰が？何を？）
　彼の頭には疑問符だけが渦を巻き、落ち着くことのない論理の糸がバラバラにちぎれながら燃えつきていった。さまざまな名前が彼の記憶に浮かんでは、また沈んでいった。どれが誰の名前なのか、誰がどの名前なのか、判別できないために、その名前は意味をなくしてしまった。名前の意味がなくなっていき、人々の顔もぼやけて思い出せない霞の向こうに遠ざかっていった。何もかもが彼の元から急速に離れていくのを感じていた。視界は一気に暗くなり、足下には風だけが吹いているような異様な感覚が彼を襲っていた。彼は叫び出しそうになった。手を振りまわすと、扉に手が当たった。ドアノブの冷たい感触が彼の手の熱さをしずめた。
　（そうだ、ここが俺の家だ。ここに違いない）
　鍵の差しこまれていないドアノブはまわることなく、金属質な音を辺りに響かせた。次第に力が強くなり、まわらないドアノブに憤った彼の顔は赤く染まり、扉を破壊しようとさえしはじめた。その音量が高まり近所中に不穏な空気が張りつめだした。
　そのために、彼は階段を上る足音に気づかなかった。
　「どうしましたか？」
　肩を叩かれるのと同時に聞こえてきたその声に、彼は一気に正気に戻った。
　見知らぬ男が自分の顔を覗きこんでいるのを見て、彼は途端に安堵の表情を浮かべた。
　「いえ、鍵を落してしまって家には入れなくなってしまったんです」
　彼は、とっさにそう説明した。それが最もつじつまの合う説明なのだと考えたのだ。そうでなくては、この事態をどう説明したらいいのか分からなかった。その説明だって、彼があれほど逆上して扉を開けようと躍起になっていたことの理由にはならなかった。
　「あ、そうですか、大変ですね」
　落ち着いた声で男は言った。
　「ええ、大変なんです」と彼は言った。
　男はしばらく思案していたが、すぐにポケットのなかに手を突っこんで何かを探しはじめた。そして、男がポケットのなかから取り出したのは、銀色に輝く鉄製の鍵だった。
　「これで大丈夫です」
　彼にその鍵を渡すと男はそういった。
　「え、これでですか？」
　「ええ、大丈夫です」
　彼は半信半疑で男から貰ったその鍵をドアノブに差しこみ、ひねった。
　鍵は開いた。

　　　三

　彼は昼もかなり過ぎたころに目が覚めた。ベッドから起きあがると、部屋のなかは日に埋めつくされていた。眩しい光に手をかざしながら、窓のカーテンを閉めた。そのとき、彼は自分がスーツ姿で寝ていたことに気がついた。硬くごわついた着心地が不快に感じられて、彼はすぐさま上着とネクタイを脱ぎすてた。なんでこんな格好で寝ていたのか、すぐには思い出せなかった。
　（昨日は、確か）
　彼は記憶のなかからその理由を探してみるが、泥のなかに手を突っこんでいるような気分になり、面倒くさくなってしまった。しばらく何もしないでベッドの上に座っているあいだ、頭が揺れているような感じがしているのは、酒を飲んだせいだろうと彼は考えた。
　彼は立ちあがって洗面所へ向かった。シャワーの栓をひねると水を出しっぱなしにして、水が暖まるあいだに服を脱ぎはじめた。シャツとズボンとベルトと肌着と、ベルトをのぞいていっしょくたに洗濯かごに放り込むと、目の前にあった鏡が彼の顔を映しだした。
　鏡に近寄ってかすかなひげの感触をさすりながら、不思議そうな表情を浮かべた自分の顔を彼は見つめた。彼にはそれが、珍しいとも懐かしいとも言えない奇妙なものに見えた。
　飽きもせず鏡を眺めていた彼に、水音と湯気が流れてきた。シャワーを浴びながら体を洗っているとき、床を流れる水を見て、昨日の結婚式のことを思い出した。それが分かってみると自分はなぜこんなことが思い出せなかったのか、彼には不思議だった。
　冷蔵庫をのぞいても何も見つからなかったために、仕方なく彼はカップラーメンを棚から取りだした。やかんを火にかけて湯を沸かすと、それで昼飯をすませた。そのまましばらくテレビを見ていたが、ふと立ちあがると机の横にあるパソコンの電源を入れた。ディスプレイに明りがつくと彼は椅子に腰をかけ、ばらまかれてる書類の束を整理しはじめた。要るものと要らないものを選りわけながら、ていねいに紙束をバインダーに挟んだ。彼はすでに起動しているディスプレイに向かうと、画面のなかのあるファイルを開いた。別のソフトが起動した画面には大量の文字が映しだされ、彼はその続きを書こうとしてキーボードに手を置いた。カーソルを動かしてそれまでに書いたところを読み返すと、新しいところに進もうとした。
　しかし、何を書けばいいのか彼には分からなかった。論文の続きを書こうとする気はあるのだが、そこに書くことが見当たらなかった。彼は記憶のなかから昔の話をすくいとるようにして、頭を働かせたが、どうにもならなかった。また前に戻って論文を最初から読み返してみる。彼は読み進むにつれて、よく自分はこれが書けたな、と不思議な気分になっていった。
　（やめよう。あとにした方がいい）
　パソコンを放ってベッドの上に座り、あたりに四散している本のなかから適当なものを拾って読みはじめた。短いエッセイをまとめたもので、それはどこからでも読めるような本だった。彼はそれを最初から読み進んだ。しばらく読んでいると、やはりどれもばらばらで繋がりが感じられない内容で、彼はいやになって読むのをやめた。
　ベッドの横にあるカーテンを開けると外はもう日が沈みかけていた。ところどころに浮かぶ雲には夕陽が照りつけていて、刻々と染められていくのが見えていた。
　携帯が鳴った。それはどこからかけたたましい音をわめき立てて、彼をいらだたせた。部屋中が音のために揺れているように彼は感じた。脱ぎすててあった上着のなかから音がしていることに気がつくと、すぐに取りだして電話に出た。
　―もしもし？
　「なんだ、どうした」
　―いや、お前暇だよな。よし、それじゃあこっちにこい
　「どうして？」
　―今家だろう？
　「うん、一応」
　―じゃあ、大丈夫だ。今日は森井が来るんだ。こっちはいつものところで適当にやってるから、すぐにこいよ
　「森井か、そうかわかった」
　―よし。じゃあな
　電話が切れると彼はすぐに服を着替えて外に出る用意をした。パソコンやテレビの電源を落して部屋の明りを消すと、鍵を持って玄関を出た。鍵をかけ力強い鉄の音が聞こえると、彼は早足に階段を下りた。少し歩くと隣室に住んでいる女性を見つけ、すれ違いざまにおたがい会釈をした。
　十字路を左に曲がりしばらくすると小学校が見えてくる。赤白黒の服装をした子供たちが校庭で走り回るさまを見て、彼は自分の子供のころのことを考えていた。しかし、明確に思い出せるものは少なく、漠然とした印象や感覚があるだけだった。
　（俺も子供のころはああいう感じだったのかな）
　記憶にはない自分の姿をどう想像したらいいのか、彼には分からなかった。彼は子供たちの元気に騒ぎたてる様子を眺めて歩いた。
　そのうちにすぐ大通りに突きあたり、駅の方向に曲がった。バス停やコンビニはもとより公共機関も多く集まっているために、人通りが雑多でにぎやかな通りをより人が多い方へ彼は歩いていった。すれ違う人々は会社帰りのサラリーマンや、若者たちが目立つ。店先から聞こえてくる音楽や人の声が彼にこれから会う友人たちの顔を思い出させた。歩道の狭いせいで人とすれ違うときにはぶつかることが多いために、彼は気をつけて歩かざるを得なかった。バスがすぐ側を通り過ぎていくせいか、ディーゼルエンジンの排気ガスの匂いがあたりに立ちこめていた。
　駅で切符を買うと、改札を通りホームに登っていった。夕方と言うよりは夜になりはじめた時間帯には、学校帰りの学生たちが集まっている。急行の乗換駅のためにさまざまな制服や顔ぶれが見える。買い物帰りと見える女性やスーツ姿の男性も多い。アナウンスがかかり、線路の遠くの方から先頭車両のライトが光っているのが見えた。その電車は彼のいたホームから線路を挟んだ向こう側にあるホームに滑っていき、そこで停車した。彼は自分が間違っていたことに気がついた。
　（違う、待ち合わせは逆ホームだ）
　彼のいるホームは彼の行く先とは逆の方向の電車が来るところだった。彼は今目に見えている向こうのホームに来ている電車に乗らなければならない。彼の見ているまえでその電車は扉を閉め、発車のベルと共に少し走り出し、やがて彼の行き先である駅の方へと消えていった。
　走る必要のなくなった彼は歩いて階段を下りて、頭上では線路が通っているところを横切り、向かいのホームへ行く階段を上っていった。そのホームへ上がると、向こう側にさっきまで自分がいた場所が見える。
　（あっちは大学へ行く時のだった）
　誰にも見られていないことを願うようにして、彼は下を向いた。次に電車が来るまでにはもうすこし時間があった。今の電車に乗っていったために人が居なくなったベンチに余裕を持って腰を下ろすと、屋根の隙間から空を見た。
　日はほとんど沈んでいた。ただ、山の向こうから伸びあがる赤い空の色が、その存在を示していた。突き刺さる光が、空の雲の端々を照らし出して、透きとおった鮮やかな朱をつくり出していた。
　空の景色をいくら眺めても彼は飽きなかった。空の色が赤から白、水、空色に変わっていくさまを見上げていっても、太陽の沈む方を見たあとに、昇ってくる方へ目を向け、その違いを見比べても、白い雲が何色に照らされているかを子細に検討するのも、彼は飽きなかった。
　電車が来た。
　扉が開くとなかから人があふれ出してきて、すぐにホームのなかへ広がっていった。彼は手近の席に座ると、左手にある鉄のポールを掴んだ。じっと掴んでいると、自分の汗ばんだ手の熱さはすぐに冷えていった。電車が走り出し、車体は揺られだしたが、彼は向かいの席の窓から、じっと空を眺めていた。
　電車が駅に到着し、扉が開いた。彼は立ちあがろうとして腰を浮かせた。その時、彼は目の前の席に座っている男と目が合った。そこが自分の降りる駅ではないと気づくと、上げかけた腰を落ち着けてポールを握った。人が降りていき、扉が閉まってふたたび電車が走り出すと、彼は自分がどこの駅で降りるのか、忘れてしまった。そもそも、自分がどこで電車に乗ったのか、忘れてしまっていた。
　（どこに行くんだっけ）
　彼は空を眺めながらそれを考えた。この電車は学校へ行く方向ではないこと、駅の名前がなじみ深いものではないことを彼は知っていた。
　彼は自分が右手に切符を持っていることを思い出した。ポケットのなかから手を出して、切符を見た。乗った駅も、降りる駅も、見覚えがなかった。
　（しかたがない。今はこの電車に乗っていれば大丈夫だろう）
　彼は、天井からぶら下がってゆらゆらと揺れているつり革を見ていた。

越智美帆子　9A　明ける空 2002年11月29日(金)04時06分45秒

　酒瓶を持って、そのままラッパ飲みをしている女がいた。女はある、廃虚になってしまったビルの屋上で、星を見ていた。
　彼女はいわゆるアルコール中毒寸前の状態だ。ハーブの入った、薄いブルーの酒を飲みながら、音程の高い声で歌を歌っていた。それは童話に出てくるような、かわいらしい歌だ。
　同じ屋上で、一人の少女がほとんど気絶している状態で、階段に階段に隠れるようにして、眠っていた。少女はその女の歌い声で寝覚めた。少女の目の下は赤く腫れていて、腕は上に上げようとしたらずきずきと痛んだ。どうしたんだっけ？と少女は自分がどういういきさつでここにやってきたか思い出してみることにした。そうだ、自分は殴られたんだ、酒を飲んで手の付けられなくなった父親に。少女は思い出して、自分の家に帰れないと思った。帰ったら、また殴られる。少女は歌の聞こえる方向に向かって歩き出した。
　女は屋上の端のコンクリートに足をかけて、ビルの下を見渡した。ネオンが散らばる夜の街。風が気持ちよかった。このまま、あのネオンに吸いこまれたら、私は楽になれるんだろうか。彼女はそう思いながら、目をつむった。
　少女は女の少し後ろで、彼女の行動を見ていた。あの人は、ここから飛び下りるつもりなのだろうか。少女は、そうだったらおもしろいのに、と思い空を仰ぎオリオン座を探した。そのとき、女が後ろを振り向いた。
「あんた、誰？」
女は少女に聞いた。少女は少し戸惑って、同じことを聞き返した。
「あんたこそ誰？」
女はぷっと吹き出して、笑いだした。
「威勢のいいお嬢ちゃんね。こっち来ない？ネオンがすごいキレイ。」
少女の張り詰めたような顔は一瞬緩んだ。そして、少女は女のほうに向かった。
「本当、キレイだね。」
少女は眼下に広がるネオンに見とれた。
「あれ、あんたどうしたの？その傷。」
女は少女の傷に気付いた。
「父親にやられたの。」
少女は言った。
「そう。」
女はそう言うと、まくしたてたように喋りだした。
「私ね、アル中寸前なの。寸前だったらどうしてやめれないのかって思うでしょ。でもやめられないの。このままいったら、自分がどうなるか分かってるのに、お酒がなきゃ恐くて。」
少女は聞いた。
「どうして、」
「どうしてって聞かないで。」
女は少女の言葉を遮るように言った。
「そうじゃなくて。どうして恐いの？何が恐いの？」
少女は聞き直した。女は考えた。その間の沈黙の間に、女は二回酒を口に含んだ。
「何もかも、うまくいかないのよ。でも、私はやった。がんばったの。できないなりに、うまくいくように。」
女の顔は酔っているのか、少し赤みがさしてきた。
「うまくいかなのかぁ。それはあたしもだよ。」
少女はくすっと笑い、続けた。
「学校大嫌い、出席日数やばい、勉強嫌いで頭も悪い。欠陥品。」
「…欠陥品でも、意味があって生きてると私は思うのね。」
女はふと真剣な顔をして言った。
「欠陥品上等。いいじゃん、欠陥品なら、欠陥品としての生き方がある。そこらへんで生きてる奴らの何十倍も楽しい生き方できるよ。」
女はさっきの弱々しい口調から一変して、言った。
「そっかなぁ。じゃあさ、アングラで波瀾万丈な道を歩むとか？」
「そうじゃなくて、まぁそれもありだけど、とにかく何でもいいから些細なことでもいいから、やりたいことをやるの。それがいいことでも悪いことでも。」
二人はぷっと吹き出した。
「つまり自己中突き通せってこと？」
少女は笑いながら言った。
「そうそう。」
「さっきまで、恐いとか言ってたくせに。」
「今、思い付いたのよ。」
女は言った。
「じゃあ、まず何やりたい？」
「うーん…叫びたい、かな。」
「わかりやすくていいねぇ。じゃあ、叫ぼう。」
女は立ち上がり、ネオンの広がる世界に向かって叫んだ。
「ばいばーーーーーーい！！！！」
その声は騒音にかき消されたが、どこかに届いたような気がした。
「何それ？」
「何となく。今までの私はこの世から消えました、ってのを言葉で表現したの。」
少女はまた吹き出した。そして、叫んだ。
「宣戦布告！！待ってろ親父！いつかぶっ倒してやる！！！」
あぁ、すっきり、と少女は言って、大声で笑いだした。
「何それ。反抗期の高校生みたい。」
そして、女も笑いだした。
　二人の笑い声は廃虚ビルに響き渡り、やがて夜が明け始めた。
「あ、夜が明けるよ。」
と、少女。
「まじで？！朝日見えるんじゃない？」
「すごいすごい、闇が薄れてくのが見える！」
「太陽あがってきたよ。」
「うわぁ、朝焼けだ。キレイ…」
「いいもん見れたねぇ。」
「ほんと。生きてればいいことあるねー。」
少女は呟くように言った。
「あんた、死ににきたんでしょ、ここに。」
女は煙草に火をつけながら、朝日の方を向いて言った。
「そうだよ。毎日、死ぬつもりで来てる。」
「やっぱりね。私も死ぬつもりで来たんだけど、星がキレイでさ。」
それに、と女は言って、どうでもよくなった、と付け加えた。
「自己中万歳。」
少女は大の字に寝転がり、空にむかって叫んだ。
「あはは。さて、帰るか。仕事あるし。」
「あたしも帰ろっかな。」
お互い、その言葉が二人同時に口から発せられた。そして、女が先に口を開いた。
「お互い気楽に生きていこ。また会えるといいね。」
「うん。生きてたら、なんてね。」
そして、二人はそれぞれの日常に帰っていった。

　少女のその後。父親と殴り合いの喧嘩の末、包丁で斬り付けて、そのまま家出。その後いろいろな男のもとを転々としたあと、年のかなり離れた裕福な男に拾われそのまま結婚。彼女からの伝言、いいことはそこらへんにいっぱい落ちてる。

　女のその後。勤めていた会社を辞めて、退職金で生活しながらやりたいことをする毎日。彼女は作家になるべく、長篇を書き溜めたり、本を読んで学んだりして、自分の夢に向かっている。彼女からの伝言、そのうちにいいことはやってくる。

　二人が再会するのは、まだ遠い未来。でも、そのとき彼女たちは、もうあの屋上で飛び下りようとしていた陰鬱な面影など微塵もないことだろう。

松永洋介（アシスタント）　来週（１２月５日）までの課題／来週の授業 2002年11月29日(金)01時28分17秒

きょう（１１月２８日）の授業では、久我さんの
2A「黒コウモリは朱色の空によく映える」
2B「今にも落ちてきそうな空の下で」
を扱いました。
かなりいい授業でした。

また、1B「徘徊者」については、朗読だけしてもらいました。
つきましてはみなさん「徘徊者」の感想を書いてください。書いた感想は、
作品へのコメントとして、できれば火曜までに、雑談版に投稿してください。
よろしく。

来週はこの感想と、
宮田さんのプロット
を扱います。
文章の断片を作品として成立させるために必要な構成力についてなど。

今年度の授業はあと３回になってしまいました（１２月に２回、年明けに１回）。
進行はどうしましょうかねえ。

古内旭　５Ａ『クインシー』第１話 2002年11月29日(金)01時19分56秒

　『クインシー』

　第１話　不確定領域

　異変が起きたのは十一月のある日曜日だった。
　私が目を覚ますと、時計は既に十一時を示していた。

　耳からモザートが流れ込んでいた。それは分かっていたのだ。しかしＥＧⅡが夢の世界に取り残され、覚醒するのに時間を要した。
　私の眠りは管理されている。必ず決まった時間にＥＧⅡが呼び戻される。休日なら十時半だ。私は必ず十時半に目覚めるよう管理されているのだ。十一時というのは有り得ない。
　私はベッドの中で、まだ完全に目覚めぬ頭に手をやりながら、管理の故障について考えた。有り得ない。管理は絶対だ。
　ＥＧⅡに問題があるのかもしれない。
　私は辺りを見回した。レコードの再生機が正面の壁を埋めている。大きな亀の絵が別の壁面に掛かっている。私の寝室だ。いつも通りだ。
　この家は、親に譲ってもらったものだった。母親は私が小学生の頃に死に、父親は愛人と共に五反田に住んでいた。正式な手続きを経て私はこの家を手に入れたのだ。町田駅から自転車で二十分ほどのところに建っており、空気は綺麗では無いが、静かなのでとても気に入っていた。
　私はベッドから出ると、レコードをモザートからバックに替えた。パイプオルガンによる古い宗教音楽である。
　私はＥＧⅡの連続性を考えながら、窓を開けた。
　寝室は二階にある。窓からは、隣のアパートのテラスが見え、普段ならそこには洗濯物やら布団やらが干してある。
　しかし、違っていた。
　私は絶句した。
　私がそこに見たのは、死体だったのである。
　首吊り死体。それは、手すりからロープでぶら下がっていた。痩せた男だった。手足はだらりと垂れ下がり、首は信じられないぐらい伸びていた。
　私は恐ろしくなって、すぐに窓を閉めた。勢いよく閉めたせいで、激しく音が鳴った。そして、レコードが自動的に入れ替わった。ドマイトライの歌曲だった。
　私はレコードをトレイから引き出そうとした。ドマイトライの歌曲は、この状況に相応しくない。しかし、再生機が故障したのか、トレイがせり出してこない。
　不気味なアルトの歌声が部屋を満たしていく。

　妻が戻ってきたのは、それから三十分も過ぎた頃だった。
「起きたんだね」と妻は言った。妻は私よりもいくつか年下で、まだ二十代半ばだった。妻の服装は学生時代とほとんど変わらなかった。オレンジのハイネックセーターと、無彩色のチェックのスカート。靴下も黒い。手にはスーパーの袋を持っていた。「メロン買ってきたよ」
「再生機が壊れた」と私は言った。「レコードが出てこないんだ」
「何が閉じ込められたの？」
「ドマイトライの『死者の歌』………」
「ふうん」と妻は言った。「ドマイトライ好きだったのにね。日曜だし修理者呼ぶといいよ」
「メロン食べる」と私は言った。

　妻は死体を見なかったのだろうか？
　スーパーまで出かけたのなら、隣のアパートの前を通ったはずだ。そしてもし見たのなら、私に報告するはずだ。妻はあの死体を見ていないということか。
　あの死体は、まだ誰にも発見されていないのだろうか？
　それとも私の見間違いか？
　ＥＧⅡの不確定領域。
　私はメロンを食べながら考えていた。

（つづく）

久我真紗子　久我真紗子/1B「徘徊者」 2002年11月28日(木)07時51分32秒

　・・ゴ・・ゴゥン・・・ゴゥン・・ゴゴゴゴゥンン・・・・・・・・・・・・・・
さっきから３分置き程で起こる地鳴りのような機械音に私は苛立っていた。短く浅く吸い込む空気は、何度も人の口から口へ使い回され湿っぽくドロンと淀んでいて胸が悪くなる。それが更に神経を緊張させた。上を見上げれば白地の低い天井に、無数の黒い繭達が相も変わらずへばり付いている。いや、心なしかそのむっちり肥えた身体を数本の細い糸だけで支える黒繭達が僅かに震えて見えるのは、まだ見ぬ幼き蟲の胎動なのか、はたまた私の幻覚か。
　思わず首筋に嫌な汗が滲んできたので、私は逃げるようにその繭の巣を一気に駆け抜けた。走りながら向かう先に出口と言う名の新天地が待っている事を期待しながら。
しかし。開けた視界に飛び込んできたものは、やっぱり薄白い壁が続く両端まで二百メートル程の広い通路だった。怒りと苛立ちが爆発寸前になる。まるで果てしなくデジャヴーを繰り返すような同じ壁、壁、壁の群れに発狂しそうになる。それでも、首の皮一枚で僅かに引っ付いている自我が、おそらく最期の指令“GO”を出すので、私はまた走り出した。
　出口を探しこの悪趣味な世界を彷徨うこと今日で四日目。服装は乱れ、空腹で足はフラフラした。

　四日前、私がここに来た理由は無謀にも単なる好奇心で、地上にぽっかり空いた穴を不思議に思ったのが初まりだった。穴には丁寧にも階段が付いていて、ずいぶん奥まで下りているようだった。あまりにも無防備なその空洞の佇まいにちょっと下りてみようかなっと思った。それがすべての始まり。地下迷宮都市への招待。
　地下迷宮都市について少し説明すると、ここは比較的大きな道と枝分かれした横道が縦横無尽に張り巡らされ、住人の蝋人形が通り過ぎて行く、グロテスクな場所だが大した危険も無い、ただそれだけの世界だ。そう、獰猛な猛獣も未知の生物も微細な虫すらもいない。ただ、動かない壁と天井、物言わぬ蝋人形がいるだけ。だが、考えてみれば何も無い世界ほど、巣に掛かった獲物が死ぬのをじっと待つ蜘蛛のように、じわじわと神経を蝕んでいく嫌らしさを持っているものはない。延々と続く無機質な壁の群れに人の方向感覚は奪われる、一度入ったら死んでも出られない魔の地下牢。自滅する獲物をじっと待つ蜘蛛の巣窟。

　私は走りながら、もし次に出口を見つけられなかったら、自分はたぶん狂うだろうなと感じていた。四日間の徘徊生活は、肉体的にも精神的にもとうに限界を超すものだったからだ。あと五メートルと迫った突き当たりの通路を思い切り左に曲がる。痛いほどの願いを込めて。と、やっぱりもう何度も通り抜けてきたのと同じ、白塗りの通路に突き当たった。ただ天井からは黒繭達の姿は消え、変わりに人間の骨と血管を思わせる、むき出しのパイプ缶とそれに絡みつく赤青黄のコードがあるだけ。
　ついに、張り詰めていた私の緊張の糸は、プツン、切れたギターの絃となって、コンクリートの床に落ちた。グロテスクな天井の下、私は狂ったように悪態をつく。服を引きちぎり、血が出るのも構わずに頭を壁に何度もぶつけ、眩暈がしたので今度は足で蹴り上げると、ぶつけた小指が痛いのなんので、床を転げまわる。一度寝転ぶと、人間が二足歩行動物である事を意図的に忘れだだっ子も真っ青、両手両足を狂ったようにぶん回し、そのまま半径十メートル程をがむしゃらに転がって移動する。回転した視界の隅に蝋人形達の恐怖に慄く表情をとらえると、眼が回るのも加勢して、恍惚状態。何だか妙にいい気持ちになって、そうだもっと奴等を怖がらせよう、転がりながら通路を移動することに決める。まるでモーゼの十戒の如く真っ二つに割れる蝋人形の海を泳ぐ。もはや誰も私を止められない。わたしだってやれば出来るんだ！！！無知なお嬢なんかじゃない！！！！馬鹿にするなよーーー！！！！！！！！・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
と、そこで私の意識は途切れた。大きな電光板に頭から突っ込んでいた。

　・・ゴ・・ゴゥン・・ゴゥン・・ゴゴゴゴゴゴゥゥンン・・・・・・・・・・・・
聞きなれた機械音がする。うっすらと瞼を開くと最初に飛び込んできたのは、眼に刺さるほど眩しい「非常口」と書かれた蛍光灯の文字だった。起き上がろうと腕に力を入れると、頭が割れるほど痛い。暫く頭を抱えうずくまっていたが、ふといつもと違う違和感を覚えた。胸の悪くなる淀んだ空気にまじって、むせるような甘い匂いがするのだ。体の底から脱力するような甘い、甘い、とろける匂い。どこか懐かしいその出所を見つけようと、私は辺りを探った。
　するとほんのすぐ先に、小奇麗で居心地の良さそうな、箱を彷彿とさせる小さな建物が目に入った。中は人一人入れるかどうかの広さで、実際中にちょっと太めの頬に林檎のような赤みのある中年の婦人が座っていたが、彼女の他に入れるスペースはなさそうだ。大人の目の高さくらいの場所にミキサーが並んでいて、久しく忘れていた鮮やかな、オレンジ、黄、緑、白、赤色のトロンとした液体が入っていた。どうやら甘い匂いはここかららしい。
　中年の婦人は私が近づくと警戒の色を顔に表した。が、私があんまりじっと緑の液体を凝視していたためか、ためらいながらその液体をコップに注いで「飲みなさい。」と言った。
　私は震える手でコップを受け取ると、乾いた喉に一気に流し込んだ。甘く、冷たい、メロン味だった。甘い甘いむせかえる味のメロン。私はなぜか溢れる感情を抑えることが出来なくて、激しくしゃくりあげながら泣いた。ここに来る前のこと、来てからのこと、心配してるであろう家族のこと、婦人のこと、色んな感情が渦巻き泣いた。
　婦人は驚きはしたものの、優しい眼差しで「どうしたの？言ってみんさい。」と言ってくれた。私はこみ上げる想いで声など出なかったが、なんとか絞り出すように言った。

　　「半蔵門線の改札口はどこですか。」

松永洋介（アシスタント）　ログ0016修復！ 2002年11月28日(木)00時59分14秒
▽掲示板のログが一部壊れましたへの応答

別にとってあったログが発見されたので、無事に修復できました。
ほっと胸をなでおろす。

修復前の状態では、奥野さんの投稿が名前だけ残して消えていました。
直前のログ（0015）のインデックスも、最後の一行を残して消えていました。
その結果：
「奥野美和　落語幽霊　～世界中にコマネチ～ (2002/10/10 13:52:42) 」
というものが出現していました。どんな作品だったのか……

松永洋介（アシスタント）　掲示板のログが一部壊れました 2002年11月27日(水)23時57分04秒

奥野さんの作品１２Ｃ「サンキューガーベラ」が消えたもよう。
保存しておいたログも壊れていました。毎度原因不明ですみません。

■一つ前の過去ログ：「物語の作法」課題提出板 (0016)

[杉井武作] 8B「『endless weave』ある阿呆の生涯　第二楽章」 (2002/11/27 09:27:54)
[越智美帆子] 8A　あかいクマのぬいぐるみ (2002/11/24 17:44:45)
[杉井武作] 12A「えせ書評」（変態ワールド三部作） (2002/11/23 21:37:02)
[杉井武作] 11A「かつ江」（変態ワールド三部作） (2002/11/23 21:34:03)
[杉井武作] 10A「真・テスト」（変態ワールド三部作） (2002/11/23 21:30:02)
[水落麻理] ６A　月の虫 (2002/11/23 16:04:16)
[水落麻理] 5B 　最後の願い (2002/11/23 15:45:19)
[水落麻理] ５A　最後の願い (2002/11/23 02:24:34)
[久我真紗子] ２B/今にも落ちてきそうな空の下で (2002/11/21 10:05:43)
[越智美帆子] 7A　公衆電話 (2002/11/19 02:06:29)
[松永洋介（アシスタント）] 「安東ウメ子＋寮美千子ライブ」感想書いてください／今週（２１日）の授業 (2002/11/18 04:31:57)
[古内旭] ４Ａ『ルイーズ』 (2002/11/16 06:29:19)
[越智美帆子] 1D　ケーキボックス (2002/11/13 19:26:31)
[横田裕子] ６Ａ　生き方、ってさ。 (2002/11/12 22:27:31)
[杉井武作] 9A「ETERNAL　SCENE」 (2002/11/12 10:32:44)
[杉井武作] 8A「bloody　fish」 (2002/11/12 10:17:23)
[松永洋介（アシスタント）] 今週（１４日）の授業 (2002/11/11 15:19:01)
[松永洋介（アシスタント）] あす（７日）の授業は齋藤亮作品 (2002/11/06 22:23:48)
[奥野美和] 13C「禁酒宣言」 (2002/11/06 11:12:18)
[杉井武作] 6B「鏡の果実」 (2002/11/06 07:22:06)
[滝　夏海] 9A「言葉のスケッチ：4」 (2002/11/04 23:24:28)
[杉井武作] ４B「tears’Ring」 (2002/11/04 21:52:40)
[宮田和美] プロットなんか考えてみたり。 (2002/11/04 19:53:21)
[奥野美和] 12C「サンキューガーベラ」 (2002/11/02 09:02:09)

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