「物語の作法」雑談板 (0009)


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古内旭 リレー小説『クインシー』スタート! 2002年11月29日(金)01時27分29秒
▼掲示板:5A『クインシー』第1話 への応答

リレー小説『クインシー』を始めました。ぜひ読んでください。
第2話は東條氏。乞うご期待。

古内旭 変態 2002年11月29日(金)01時04分11秒
▼掲示板:10A「真・テスト」(変態ワールド三部作) への応答

まず『真・テスト』ですが、これは僕が書いたものをいくつか言葉を置き換え作り直したパロディですね。単にギャグとして受け取ろうかとも思うのですが、これは僕の原作を杉作氏が再解釈した物語としても読めます。「僕」が謎の超越少女から何らかのテストを受け、その結果敗れ去る。というのが流れでしたが、確かに杉作氏の書いたものも一変奏であると言えそうです。タネ無しカボチャですか………。かわいそうに。僕は当然ながらオリジナルの文が頭によく入っているので、継ぎ接ぎの様に改竄された部分がかなり笑えました。
『かつ江』は、アイデンティティ喪失の話。慰安用アンドロイドをものにしようと奮闘するわけですが、実は自分もアンドロイドなのではないか、という暗示を受けます。オイルが出てたり、動きがぎくしゃくしてるのは、小説ならではの仕掛けですね。こういう話は容易には映像化できないでしょう。

『えせ書評』はほとんど意味は掴めないのですが、やはり書評である以上、ある程度の文体の整理が必要かと思います。色んなモノを詰め込んでいるのは東條氏が『交差点』でやっていましたが、柳瀬訳の『フィネガンズ・ウェイク』はまさに言葉遊び。しかもとてもよく考えられています。
『サイクリング』にしても『かつ江』にしても、文の崩れは無論わざとです。杉作氏の特徴でもあり面白さでもあるのですが、小説として、読み物としてどうか、というとそれは違う気がします。小説という枠組みに捉われるわけではありませんが、書き流し的な文から、1度考えてしっかりした文に組み直す、という方向にいってみるのもいいと思います。『悪食』みたいなものもあるわけですし。内容、表現したいものは同じでも、違った文体で書いてみるとまた違った楽しさ、魅力が出てくると思います。そういう意味では、小説のようなものと詩を同時に書いているのは有意義なことですね。

村田基(むらた・もとい)という人をぜひ1度読んでもらいたいと、お薦めします。しばしば鬼畜系と呼ばれることもあるようですが、なかなかユニークな作家です。短編がいくつかアンソロジーに収録されていますが、角川ホラー文庫からも1冊出ていた気がします。もちろん、こういうプロなんだかアマチュアなんだか分からない名の知れぬ作家の作品には、当たり外れが相当あります。しかも、外れの方が圧倒的に多い。村田基の作品集は、半分ぐらいは面白いですよ。

杉井武作 久我真紗子2A2B/鬼批評 2002年11月27日(水)10時16分52秒
▼掲示板:2A「黒コウモリは朱色の空によく映える」 への応答

なんか難しかったです。メッセージがありげに書かれてますが、伝わらなかった。道具だてが繋がらないというか。「コウモリにボールを投げに行ったら空が覆い被さってきた」という発想はおもしろいし、情景描写はきれいでなんとなく浮かんできたけど。僕はあまりそこから導き出せるものがなかったかも。「遠くにでっかくあるもの程頼りないんじゃないか」っていうのも、よくわからなかったです。あと、説明がすごい断片的で繋がらないというか・・・、なんか引き込まれなかったです。2Bは、今度はシンプルにまとまりすぎてて伝わらなかったです。1Aと繋がってるとすれば「頭上の重み」っていうのは空とか宇宙のことだと思う。しかし今回は、失恋とか人生の壁に襲われて、でも強がってるっていうふうにも取れますね。

杉井武作 久我真紗子1A1B/鬼批評 2002年11月27日(水)10時16分32秒
▼掲示板:1A『徘徊者』 への応答

暗く沈んだ濃い描写の徹底ぶりがすごくて、こっちまで気持ち悪くなってきそうでグッドトリップできました(笑)特におもしろかったのが、メロンジュースを飲むところで、暗くて汚〜い地下室のなかででそこだけ「むせるように甘いメロン」って、コントラストがなんかエグかったです。授業中配られた2Bのほうは、1Aで断片的な描写の連続だったのがある程度簡潔になったのか、繋がってきてスムーズに読めました。中盤の主人公のキレッぷりもおもしろかったです。

越智美帆子 すごい間違いです。 2002年11月24日(日)17時59分25秒
▼掲示板:8A あかいクマのぬいぐるみ への応答

 ビリーミリガンって、殺人犯じゃなくて、連続強姦魔でした。よって、冒頭の部分は「殺人鬼」を「多重人格者」にして読んでください。すいませんでした。

寮美千子 ピリカな夜の写真アップ! 2002年11月23日(土)03時38分57秒
アイヌ音楽のライブの感想を! への応答

11月16日の安東ウメ子ライブのデジタル写真、酒寄進一先生がアップしてくださいました。すばらしい写真の数々! みんなのムックリ写真もかわいい! 酒寄先生の視点が、またすてきです。ぜひ、感想文の参考にしてください。

http://www.wako.ac.jp/xpress/20021116ando_umeko/index.htm

寮美千子 アイヌ音楽のライブの感想を! 2002年11月23日(土)03時33分30秒

16日のライブ、まだ杉作くんと東條くんしかアップしていない!
諸君! 短くてもいいから、感想を書くように!
これは、正式の授業なんだから、感想をアップしないと完結しないのです。
あのライブで感じたそのままを書いてください。よろしく。

越智美帆子 日本のホラー 2002年11月21日(木)21時59分50秒
亡霊 への応答

って怖いですよね。とくに、お風呂入ってるときとか、背中が気になったリ。だから、私は一人では特にホラーは見れないです。回路、すごく見たいんですが、とても怖そうで。

 余談は置いといて。さすがですね、古内さん。私は最近Coccoにはまって感化されてずっと聞いてます。『リリィ・シュシュのすべて』の歌姫・リリィ・シュシュはたしかCoccoがモデルだそうです。だから、本当に間接的に古内さんは連想されたのだと思います。リリィの歌詞は読んだことないから知らないですが、『公衆電話』の歌詞は突発的に思いついた言葉をぽつぽつと並べてみた、私の初作詞ものです。だから本文も即興で書いているせいか、プロットのようになったのだと思います。内容に含まれている要素はかなり大きいのに、文章が説明文のようでしかない。もっと、いろいろな方面から、それこそケーキボックスのように、例えば女子高生の方面からの物語も書いてもおもしろそうですね。それか、客観でもっと中編くらいの長さにするとか。
 

越智美帆子 女子高生の意図 2002年11月21日(木)21時25分09秒
伝達への熱狂 への応答

とは、文中にもあったように、「自分が愛した人」に自分の歌が伝わることですが、公衆電話をつかって不特定多数の人々に自分の歌を伝えた理由は、自分が確かにこの世に生きていた証を残したかったから、です。その「愛した人」ですが、私の中の設定では仲のよい友達とか仲のよい先生とか、けっしてその関係を壊したくなかった人物、ということにしています。そして、女子高生の居場所ですが、彼女もまた公衆電話から公衆電話にかけています。とある病院の、閉鎖病棟に備え付けられたたった一つの公衆電話から。だから、行動が制限されていて、そういう手段をとったわけです。

 ネタばらしばかりですみません。なんかあまりにもお褒め頂いた言葉が嬉しすぎて、思わず昨日感涙してました。それと、わかりにくい私の物語を今回もより分かりやすく分析してくださってありがとうございました。自分でも気付かなかったこと、私の作品の共通点も気付くことができました。公衆電話にかけられることの説明や、上記したようなことをもっとわかりやすくして、いつか改稿版を書きたいと思います。

 私が大人じゃないか、という問いに関してなんですが、私は生っ粋の子供ですよ。ガキ、と言ってもおかしくないです。実際にお話して、ああ、この人は何てガキなんだ、と思われたらどうしよう(笑)

古内旭 亡霊 2002年11月21日(木)00時14分23秒
▼掲示板:7A 公衆電話 への応答

越智さんの作品は今回も、道具立てが良いと思いました。公衆電話、都市伝説、謎の少女。
亡霊論になりますが、亡霊というのは、「あちら側の住人」です。普通でない、この世から何らかの形で切り離され、孤独に「あちら側」を生きる存在です。あちら側からこちら側へのメッセージをもって、日常を切り裂いて現れます。その理由は様々です。『四谷怪談』や『牡丹燈篭』、『皿屋敷』といった古典では怨念が1つのテーマです。最近では『リング』もそうでしょう。復讐をするために亡霊となってやってくるわけです。しかし、一方でその理由がはっきりしない意味不明の亡霊というのもたくさんいます。『ほんとにあった怖い話』の一編『霊のうごめく家』(鶴田法男監督)では理不尽な亡霊がたくさん現れます。決定的な幽霊映画として黒沢清の『回路』を挙げますが、それも亡霊登場の理由は不明です。しかし、何らかのメッセージをもってこちら側に侵入してきます。
越智さんの『公衆電話』は決して亡霊を題材としたホラーではないのですが、こうした亡霊のテーゼは受け継がれています。あちら側からの伝達、というのが1つのテーマだと思います。無論、あちら側というのは何も死後の世界だというわけではありません。もっと象徴的なものです。そして、この作品の魅力は、それが美しいとか切ないといったところにあります。主人公「僕」がその亡霊に動かされるというのもそうですね。

アイデアや道具立てはとてもいいと思うのですが、小説としてもっと洗練させることができると思います。いわば、まだこれはプロットのような状態で、ひとつひとつの文にもっと力を込めて書く事ができるんじゃないか、ということです。例えば、都市伝説という言葉の使い方、オチの語り方。歌詞。なんとなく『リリィ・シュシュのすべて』も連想しましたが、これも伝説化した歌に関しては非常に考えて作りこまれている気がしました。都市伝説に関してはいとうせいこうの『ノーライフキング』がなかなか面白い小説で、表現も良いと思います。
ホラー的なものをどう扱うか、というのも難しいところだと思います。あくまでホラーでありながら、なおかつ最後には圧倒的な感動を呼ぶ作品も中にはあります。

東條慎生 わたしもまだよくわからない 2002年11月20日(水)18時41分28秒
まだよくわからない・・・ への応答

「テスト」の時もそう思ったし、今回の「ルイーズ」についてもコメントを読んでもそうなのだけれど、やはり古内さんの作品には、キモの部分が書かれてないことが多いと思う。
「記憶のゲバルト」の時は、その構成で試みが読みとれるのだけれど(実は読み落している可能性もあるが)、「ルイーズ」では致命的に言葉が足りないと思う。
武井さんから、古内さんが「ルイーズ」について解説したメールをちょっと見せて貰ったのだけれど、それを見ても、作品の核心がよく分からない。読者は必ず、二節の末尾での「ルイーズだと!」という台詞に立ち止まると思うのだけれど、それを最後まで読んでも結局意味が分からなくて、それを読み解くための痕跡が作品内に埋め込まれていないと思う。主題の展開のための重要な記述がきれいサッパリ削ぎ落とされているという感触がある。
「テスト」も、「ルイーズ」も、説明を聞いてはじめて、「え、そういう話なの?」と思わせてしまう部分があると思います。説明を聞いて「あ、そうだったのか!」という感嘆符ではなく、疑問符を浮かべさせてしまう。これは何でだろう。今回のは元にあった作品を書き直したからなのか、それとも、古内さんの癖なのか。

東條慎生 伝達への熱狂 2002年11月20日(水)18時40分43秒
▼掲示板:7A 公衆電話 への応答

ストレートな作品だという印象。
今までの作品と比べて病的な部分が緩和され、ひとつの切実な願いが前景に現れていることが、その印象を強くしたのだろう。
伝わることだけが願いのメッセージというアイテムは、都市伝説を絡ませることで、とても印象深いものになっている。公衆電話という時代遅れの、しかしそれが携帯電話のように個人に従属するものではなく、あくまで都市的な無名性を保っている存在だということが、電話、歌、都市伝説という結合を強化している。ホラーの定石を別の形でなぞったものと言えるかも知れない。ほとんどホラーと近接している話なのは、亡霊のようなメッセージと亡霊と化した人間の願いという連結を見てもわかる。この道具立てはすぐさまホラーに組み替えることができる。しかし、これはホラーではない。
アイテムの結び付け方は見事だと思う。都市伝説のような広がり方をする歌が、いつの日か遠くの人に届くようにという願いが込められているというひとつの暗号文のようなものでもあり、途上の人々がその願い、実体は知らなくてもその願いの力に惹かれるというこの作品のモチーフは強力だ。
この作品は、小説や詩や物語が書かれる理由を自ら根拠づけている。誰かに伝わって欲しいという願いが込められたメッセージを、その誰かにあてて人々の海の中に放つというプロセスを、この作品は小説化していると言える。その意味で、この作品は正しく願いの表出なのだと言える。しかし、それが越智さんの作品のなかで特異だというわけではない。その主題を一貫して扱っているのが越智さんの作品群だと言えるだろう。そもそも、繰り返し扱われる狂気というモチーフは、通常の仕方でコミュニケーションできない人たちの、異様な形での交流の願いそのものでもあると思う。それはひとつのメッセージなのだと。そして、越智さんの作品には誰か他人への問いかけ、話しかけが試みられていることがある。それはほとんどが失敗することを運命づけられた試みなのだが(ケーキボックスのBが特に顕著。これは失敗するコミュニケーションのプロセスを描いたものと言えるだろう)、その失敗が、登場人物たちに狂気をはらませることになる。
今度の作品には、やはりその失敗するコミュニケーションという主題を見ることができる。発信者は既に亡く、それが伝わったかどうかは発信者には知ることはできない。不可能なコミュニケーションの哀切、それがこの作品を貫くトーンの正体だろうか。しかし、それだけではなく、この作品の語り手の存在が、その主題に新たな発展を加えている。語り手は、歌を確かに受け取った。そしてそれを広めようと無駄な努力を続ける。そして、語り手はそのことを知っている人間に出会う。ここには、新しい形のコミュニケーションの成功がある。願いを聞き届けた人間がいるという希望がある。それが発信者にとっては成否がわからないことであっても、ここに確かに受け止めた人間がいるという事実が、哀しさと共に切実な感覚を抱かせる。失敗しつつも成功しつつあるという二重化された感情が、この作品の印象をより深いものにしている。
書いてるうちにどんどん、この作品はいいという印象を強くしているのが今のわたしだが、何だかそのために文章がちょっとアレになってしまっている気がする。しきり直す。
狂気の人間(それは越智さんの作品にあっては何らかのコミュニケーション、交流、伝達を熱望する人間である)とその反対側にメッセージを受け取る人間を配置することで、小説的立体感を構成することができたのが、今作品だという感想を得た。メッセージの伝達を問題にするこの作品を果たしてわたしは受け取ることができたのか。そんな感じもする。
ストレートな作品だと書いた。それは伝達の問題を正面から書いているからだろう。伝わること、伝えたいと願うこと。それが前面に出ている、わたしはそう思ったからそう書いた。

ただし、話の進め方についてはいくつか保留がつくと思う。発信者の女子高生がそのような手法で伝えることについての説明が欲しい。相手の居場所が分からないからだったり、一度町中で会ったきりの人間だったりというようなものでも、その説明があった方が説得力が増すのではないかと思う。それがこの作品のキモであるが故に、これは必要じゃないかと思う。あと、公衆電話に電話を掛けられることについても若干説明した方がいいと思う。公衆電話には固有の番号があって、番号さえ分かればかけられるということだったと思うけれど、小説の展開上、はじめに電話をかけた人からその説明がされているというのが、いいと思う。
と、こんなところかな。
そういえば、わたしはまえに1Dのケーキボックスを読んで感想を書いたときも、実は越智さんはとても大人なのではないかと感じたのだけれど、今作を読んでその感じをより強くした。視点の場所というか、書き方というか、主題のせいか、ちょっと言葉にできないのだけれど、そう思った。この授業でのなかで、一番大人なのではないか。大人という言葉がどういう意味かはやはりうまく説明できないけれど、何となく、しかしはっきりと、そう思う。

東條慎生 何とも言えない話 2002年11月20日(水)18時39分18秒
▼掲示板:「安東ウメ子+寮美千子ライブ」感想書いてください/今週(21日)の授業 への応答

安東ウメ子さんはすっとぼけたことを言ったり、とても緩やかな印象があって、いい年の取り方をした人だという感想を持ちました。アイヌのことをじかに生活していた最後の世代なのでしょうか、アイヌとわたしたちとの距離の取り方がすっきりしていて、アイヌという人々が存在することを忘れないで欲しいという願いに貫かれていて、とても好感を持ちました。その語りは人の気持を開かれたものにする何かを持っていて、押しつけたりせず、自然と話を聞くことができる。会自体は、やはりかなり年配の人が多く、前列の方にいる人はほとんどが中年以上、老年にさしかかっている人が多かったように思うのですが、踊りの時にたくさんの子供たちが参加しているのや、ムックリを鳴らそうと頑張っている多くの子供たちを見て、家族連れも多く参加しているのが分かった。人々に忘れられないこと、記憶に残すこと、物語を共有すること、それはとても大事なことで、物語の書かれる理由は、それが根源にあることが多い。物語を語る人は、それを誰かに伝えたいと願っている。そしてその物語を心にとどめておいて欲しいと願う。タブッキの小説にも出てくる投壜理論、壜の中につめた手紙が届くことを祈って、それを海に投げ入れる、そのような願いが物語を書かせているのだろう。越智さんの「公衆電話」はそれがストレートに扱われている作品だと思う。

ひとつ気になったのは、誰か忘れたけれどもアイヌと和人の関係を敵対図式のような感じで語っている人がいたように思う。わたしは、それに同意できない。歴史と個人の関係を一緒くたにしているせいか、その語り方、裁きの口調のせいか。和人という立場にわたしや、ふつうの日本人が含まれていることは分かっているし、その立場を抜きにして超然とした場所からその関係を俯瞰することができないのが、私たちの立場の困難さの一端を示している。そして、和人が加害者であるという事実からも逃れることはできない。その関係を込みでつき合うしかないのが和人とアイヌの関係である以上、私たちが裁かれる場所にいることを無しにはできない。
しかし、そうではあっても、その関係を敵対の図式で語ってしまうことには大きな欠点があると思う。裁くものは裁かれるという図式の反転を呼び起こしてしまうからだ。そして、その二項対立の図式が結局は私たちとアイヌの人々との隔りを生んでしまうのではないかと思うからだ。この話はものすごくデリケートな領域に近接していると思う。加害者である責任から逃れるための言い訳に聞こえてしまうこともある。わたし自身はそのような政治的集団に括られてしまうことは大嫌いだが、政治的社会に生活している以上、そこから逃れることはできないだろうことも知っている。

考えはまとまらない。デリケートというのは、その話が二律背反の場所にあることを言うのだろうと今思った。ただ、以上の話を抜きにすれば、わたしの感想は以下のものに過ぎない。
その人が語った口調、それには賛同できないものを感じる。しかし、安東氏の語りにはとても共感する。
わたしの感想はこれに終始する。

杉井武作 まだよくわからない・・・ 2002年11月20日(水)12時29分12秒
リッパロロジーと『ルイーズ』での試み への応答

古内さんの作品は、キモの部分が毎回説明不足であり、腑におちない感覚が僕には残る。読者に想像させる狙いであるが、ディティールが細かいから読者にあまり余計なことを考えさせない読みやすさが裏目に出て深読みしずらかったりする。構成とストーリーだけで面白いと思うので、もう少し踏み込んで読み手にわかり易く描くと良いと思う。

越智美帆子 たしかにこの1Dだけで、縦割りの連作をしてもおもしろいですね。 2002年11月18日(月)19時21分32秒
私と少女の対話 への応答

 褒めていただて、嬉しいです。ありがとうございます。
 ブランコと天使のイメージは友達と私の対話から産まれたものです。友達に感謝です。

 2A、3Aとしても…という話ですが、すでに2Aも3Aも作品で埋まっているので、次書くとしたら7A ケーキボックス(ブランコ)とか。「私」と「彼女」の向かう先は私にもわかりません。あくまで、ケーキボックスを構築する一つの物語りとして書いたものですから。でも、そこをつきつめていく、という古内さんのアドバイスで、新たな方向性が見えそうです。

越智美帆子 そのつもりです。 2002年11月18日(月)18時58分11秒
一つの小説にしてみたらどう? への応答

 小さな短編を、基盤(1A)をテーマにいっぱい書きたいと思います。
 この作品が、他のものと少し色合いが違うと感じられたのは、多分時間の流れの違いだと思います。
 1Aがケーキボックスの現在だとしたら、1Bがその直前の出来事、1Cがさらにその直前の出来事で主観が1A、1Bの少女と違い、ある青年になっています。そして今回の1Dは、過去に戻っていった1B、1Cと違い、1Aの少し未来の話になります。ここでは1Aで主観だった少女は、「彼女」として登場しています。「私」は「彼女」にとって何者かは、明かされずに物語りは終わります。「私」も自分が「彼女」の中でどういう存在なのか、「彼女」と接するうちにわからなくなっていきます。

 ラルク、聞いてみます。ちなみにこの物語りの「彼女」のイメージ(壊れた後の)は、Coccoの『幸せの小道』の娘です。

古内旭 私と少女の対話 2002年11月18日(月)02時42分29秒
▼掲示板:1D ケーキボックス への応答

越智さんの1Dは、今までの作品の中で1番好きです。とても良いと思います。ブランコと天使という道具立てが魅力的だと思います。セリフも良いですね。
この『ケーキボックス』は、AからDまで進みましたが、これは新たに2A、3Aというタイトルをふってもいいのではないかと思います。ある種の連作、ともいえるし、ストーリーをつなげてみるのもいいのかもしれません。
主人公の少女?と、語り手の「私」との対話が向かう先は一体どこなのでしょう。今後の展開を待ちます。
ところで、ここに投稿した自分自身の作品を振り返って見ると、なぜか常に「私」と「少女」が対話していた!だから僕は今回の『ケーキボックス』がお気に入りなのかもしれませんね。
語り手にはほとんどアイデンティティのようなものがなく、むしろ少女に同調すること、少女と対話することでそれを手に入れているようなふしがありますね。そのあたりを突き詰めていきたい気もします。

書き続けることは非常に価値のあることだと思います。それは確実に生産的なものだからです。たくさん書いてほしいと思います。

古内旭 リッパロロジーと『ルイーズ』での試み 2002年11月18日(月)02時15分31秒
古内さんはロンドン人? への応答

感想ありがとうございます。
『ルイーズ』には、予備知識は想定していません。ルイーズという人も史実には出てきません。
『ルイーズ』の試みは、「因果関係のズレ」と「女は存在しない」でしょうか。
1の少年と、2の男の少年時代は微妙にオーバーラップしています。
ルイーズというのは、男の殺された母の名だったのか。恋人の名だったのか。まあ何かしら知っている名だったようです。彼にとって、女を象徴するものがルイーズだったのかも知れません。でも結局、殺されていたのはメアリだったのですね。変な話です。

切り裂きジャックは、ロンドンのホワイトチャペル周辺で、2ヶ月ほどの間に5人の娼婦を殺しています(その1人目がメアリ・アン・ニコルズでした)。二重殺人を除いては、死体は解体されていて、最後のメアリ・ジェーン・ケリーに関しては(写真も残っていますが)まさにぐちゃぐちゃ。
今考えれば、ジャック以上に凶悪なサイコキラーは結構います。しかしジャックは捕まっていません。だからこそ、ジャックは伝説化され神秘的な存在になっていったのですね。一人間として、殺人鬼として、というよりも、時代の闇の部分の象徴、悪の象徴だったわけです。

杉井武作 アイヌの歌と語り 2002年11月17日(日)12時50分52秒

おつかれさまでした!僕は遅刻してしまったのですが、ホント楽しかったです。お話以上に、やっぱり歌や音楽が一番文化を肌で感じられました。ムックリがもらえなくて残念だった・・・びょんびょんやりたかった〜。みんなでバッタキやるところでこどもたちが僕の後ろで踊ってるのがほほえましかったです。
帰りに食べたラーメンも美味く、素敵な一夜になりました。すっかり冬ですね。

杉井武作 「テスト」改稿版 2002年11月17日(日)12時27分53秒

精神に異常をきたす恐れがあるので、投稿は控えさせて頂きます。閲覧希望者はメール下さい。

杉井武作 古内さんはロンドン人? 2002年11月17日(日)12時20分03秒
▼掲示板:4A『ルイーズ』 への応答

設定のディティールが非常にリアルでわかりやすいのにいつも感心させられます。前作の学生運動もそうですが、あくまでこちらが自然と巻き込まれてゆくような、研究ではなく作者がその世界へ浸っている愛情が感じられます。それだけでも面白い。アポロン的と形容するのは、もちろん内容ではなく、文章が端正で明確にこちらに伝わる整然さがあるということであり、それは魅力的なことだと思います。
東條さんと同じく、僕も切り裂きジャック知らないので、内容はわからなかった・・・。ラストで少年は男を殺しに行ったんですか?

杉井武作 一つの小説にしてみたらどう? 2002年11月17日(日)11時57分50秒
▼掲示板:1D ケーキボックス への応答

「ケーキボックス」シリーズは、どれも退廃的で儚いイメージがあります。小説としてまとめあげたら、そんな枠組みのなかでさまざまな表情が出て面白いんじゃないかな。この作品は少し色合いが違うように感じましたが、「ケーキボックス」にしたのは何故?
ブランコをこぐ彼女の描写が、美しさと悲しさと怖さがいい具合にでミックスされてて僕は好きです、稚拙な表現ですが。僕の好きなhydeの歌詞の世界に共通するものがあります。L'Arc〜en〜Cielの「Tierra」というアルバム中の「White Feathers」という曲が合うと思う。この時代(93〜94年)のラルクの曲は耽美派少女漫画のように幻想的で儚い世界なので聞いてみては。
それにしても、わりと抽象的な作品だと思いますが、確実な意味を与える東條さんの洞察力はさすがだと思う。

越智美帆子 とても嬉しいです。 2002年11月16日(土)19時36分24秒
とりあえず、感想を。 への応答

 とてもわかりやすく、しかも当たっていてびっくりしました。感想、解説ありがとうございます。おかげさまで入院は短くすんで、今は実家でのんびりしています。

 『1D ケーキボックス』は、気付いたら書いていた、というところでしょうか。岐阜時代の友達が滞在していて、その子と一緒に子供に帰ったように遊んだ日に公園に行って、ただ無心にブランコに乗って、それで興奮して書きたくてしょうがなくなって書きました。友達はさすがに、ずっと一生懸命ブランコをこいでいる私を見て、とても不安になったそうです(笑)。でも、いいですよ、ブランコ。なんか、本当に空に飛べそうで。こないだ行ったバーのバーテンダーさん曰く、酒が入ってブランコ乗ると楽しい、だそうです。はた目から見たら、でかい(友達も私も166センチです)大人が一生懸命ブランコこいでて、かなり不思議に思われたかもしれません(笑)。

 私は物語を書くことで、自分の中にある鬱屈したものを吐き出そうとしているのかもしれません。自分が今あぶないかどうかはわかりません。でも生活をしていく上で、感化されたものや、ふと思ったことを物語として書いています。私がどういう人かは、想像におまかせします。学校に行けたら、話をして、ああこんな人なんだ、と思っていただけるのですが…。ちなみに自分では、人より少し成長が遅いかなぁ、と思っています(笑)。

 

東條慎生 以上三つの書き込みと連絡事項 2002年11月16日(土)10時51分59秒

ログを思いっきり流してすっきり。クセになります。
古内さんと越智さんのへの応答は、気がついたら書き始めてしまい、いたずらに長くなりました。
それはいいとして、後藤明生についてですが、私的なノートであっても、本当に私的に書いて
しまうと纏まらないし、意味の通らないものになってしまうので、人に見せることを前提にして
書いたので、ここに発表したのですが、ご迷惑でしょうか。
ブックレビューの延長というには少し質が違いますし、何より読んでないと意味が分からないと
思います。自分の思考の整理のためという面もあるので。
というか、やはり人に見せないと面白くないのです。自分だけのために書く文章というのは
魅力がありません。
良ければこれからも延々とこういうアレな文章を投稿し続けるのですが。
後藤明生で卒論を書こうと思うので、今から著作の読み込みをやり始めているので、この場所が
丁度いいのです。
後藤明生以外にも面白いものがあれば以前のように紹介をします。気が向けば。
最近だと、タブッキを二冊読んだのですが、共に面白いです。
「インド夜想曲」は古内さんが興味を引かれる主題を扱っていると思うので、是非。
また、「供述によるとペレイラは」は、とてもいいです。全体主義の忍びよるなかでどのような行動がありうるか。
あと、最近内田樹(たつる)という人の本を読んでます。
レヴィナスというフランス哲学の研究者のようですが、それ以外の文章をいろいろ読んでます。
エッセイ集が面白いので読んでいるのですが、ちょっと説明しづらいですね。
ただ、面白いことは保証します。構造主義に関して書いたものも面白いです。これでラカンの
鏡像段階論というのがなんなのかおぼろげに分かったような気がします。あと、バルトの
エクリチュールについても。
そういえば、「ためらいの倫理学」という本に、「戦争論の構造」という、加藤典洋の「敗戦後論」や、
村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」など、戦争にまつわる文学の意味を論じた文章があって、
とても面白いので、古内さんをはじめ読んでみてください。
なんか、古内さんにばかり薦めていますね。じゃあ、ついでに白水Uブックスの「ダブル/ダブル」
も古内さんにはお勧めです。分身、双子、影、など二重体にまつわる短篇のアンソロジーでどれも
面白く大変よい本です。
個人的には、アンデルセンの古典的な「影」イタリアの幻想作家ランドルフィのナンセンスな
「ゴーゴリの妻」精神病者の内面を描くポール・ボウルズ「あんたはあたしじゃない」パーマンの
コピーロボットのようなスーザン・ソンタグ「ダミー」あとはちょっと忘れましたが、良い
アンソロジーなので、ダブルという言葉に興味のある人は是非。

ああ、長く書いていて忘れそうになりましたが、メールアドレスを変えました。
どうも以前のアドレスは不調で延着したり、送ったのに届かなかったりするようなので、
ここ一二ヶ月のあいだわたしにメールを送って返事がなかった方は、こちらlightdominion@saku2.comに連絡を下さい。

東條慎生 後藤明生「吉野大夫」についての私的ノート 2002年11月16日(土)10時50分16秒

 1.対象―対照―対称

 後藤明生が「吉野大夫」の八年前に発表した「挟み撃ち」の冒頭は「ある日のことである。わたしはとつぜん一羽の鳥を思い出した。」と書き出されている。これはこの作品自体が回想をモチーフとした作品であることを示す重要な記述であり、その記憶の連想から連ねられる様々な記述が次々と続けられ、作品が進行していく(また、「とつぜん」の一語が後藤明生においては非常に重要な言葉であるのだが、ここでは述べない)。しかし、それは迂回、脱線、逸脱を伴う非直線的な思考の数珠繋ぎのようなものであり、予定された終わりへと前進するのではない奇妙な横滑りを起こしている。ここでのこの書き出しは、作品自体を象徴し予告する働きを持っている。
 そして「吉野大夫」において、冒頭はより直截でより破壊的な示唆を含んでいる。

 「吉野大夫」という題で小説を書いてみようと思う。

 これが「吉野大夫」の書き出しなのである。ここからまず連想されるのは「挟み撃ち」の探索のテーマである。「挟み撃ち」がそうであったように、この小説の内容もまた、吉野大夫という遊女の探索なのである。「挟み撃ち」の探索の対象である外套は、母親によって与えられいつしか消えてしまったものとして、語り手の茫漠とした印象のなかに揺らいでいる。そして語り手の奇妙に迂回しがちで不確定的な言葉づかいによって予示されるとおり、それは結局外套がどこで消えてしまったのかわかいとことに気づくという冒頭の部分より、何一つ進まないまま終わることになる。
 「吉野大夫」において探索される対象は、吉野大夫という歴史上の、実在の人物である。この人物、小説の始めの部分から、どんな人物かがはっきりわからないということが、語り手によって語られる。語り手自身が彼女のことについてはっきりとした把握をしているわけではないのである。そして、そのまま小説は書き進められていく。読者もそれに参加することになる。そしてそれは予想通り、彼女の実体は何ら確定されず、多くの疑問符が解決されないまま、小説は終わる。
 「挟み撃ち」と「吉野大夫」において双方共に探索される対象は、共に二重化された存在として現れる。「挟み撃ち」の外套はゴーゴリの「外套」のなかの外套と、「吉野大夫」の吉野大夫は、宮本武蔵に関連した、名妓吉野大夫とそれぞれ重ね合わされ、二重化されていく。それはそのまま、唯一のものという確定性から、ふたつのもののあいだを往還する存在の不確定性へとつながっていく。そして、探索の対象の揺らぎは、それがいつしか探索者の揺らぎへと反射されることになる。この、探すことがすなわち失踪への道であるという、後藤明生に散見される安部公房的とも言えるモチーフは、行方不明という概念を連想させるばかりか、後藤にはそのものの「行方不明」という短篇がある。この短篇については詳述しないが、消えた雑誌の行方を追おうとする主人公に対して君こそが行方不明なのではないかという宣告が突きつけられ、小説が閉じられる。
(追記 節の表題である対象―対照―対称とは、「探索する対象」、「二重化され、対照される対象」、「対象の揺らぎが探索者に跳ね返る対称性」をそれぞれ意味づけて付けた)

 2.小説―私小説―非小説

 この小説の書き出しはすでに書いた。そしてその書き出しは「吉野大夫」が持っている「挟み撃ち」との位相の違いを露呈している。小説とは普通、登場人物が何かの行動を行うことを、人称の違いはあれ語られていく。「挟み撃ち」は小説自体が蛇行していき、必然的な筋の推移が混乱していくという点で、反小説的ではあってもまだ小説としての体裁は確かに残っていた。あえていえば、それは反物語的ではあったが、小説という形式からの根本的な踏み外しへは至っていない。小説のなかで小説でない小説を提示すること。それが「挟み撃ち」の面白さでもあるのだが、「吉野大夫」のフォルムは最早その位置から決定的に外れている。「小説を書いてみよう」と言う文章は、この作品自体が小説であること、そして小説を書いてみようとする試みそのものが小説化されているということ、その文章のなかで書かれている『「吉野大夫」という題の小説』そのものが今まさに読んでいる小説そのものであること、などなど様々な問題点を指摘することができる。この冒頭の部分の単語が「小説」ではなく「エッセイ」「文章」であるならば、この作品自体の形式は、紀行文と歴史探訪という種類の文章として自然に受け入れることができる可能性を持つのだが(内容の迂回ぶりは別として)、この冒頭の宣言によってこの書が「小説」/フィクションであると示されている。
 明らかに小説ではない書き方で、自作を小説と書き記すと言うことはどういうことなのだろうか。「挟み撃ち」においては小説的枠内で物語からの逸脱を示すことで、物語の持つ自然さという制度の露呈、言い換えれば物語とは何かという問いを突きつけ、小説概念の再考を促すという批評的側面が存在したのだと言うことができる。
 それが「吉野大夫」においては、物語なるものが姿を見せることはほとんどない。「吉野大夫」の記述の多くを占めるのは、吉野大夫という人物の痕跡(墓など)の探索や書物をひもとく行為であるなど、小説らしいドラマティックな場面がほとんどない場面である。また、語り手のわたし自身が、「挟み撃ち」ではひとつのフィクションの主人公としてある程度虚構の存在として受け入れられるのに対して、「吉野大夫」の語り手はほとんどそのまま書き手である後藤明生と重なっており、このふたつを分けるようにして読むことは困難でさえある。しかし、この形式が私小説的伝統に寄り添う形でなし崩しに現れたものでないことは、後藤のことを知らなくても冒頭の一行を見ればわかる。まさしく形式や方法と言うことについて自覚的である意識をそこに読みとることが可能であり、無自覚さを読むことなどできない書き出しなのである。
 そしてここで選択されている形式が露呈している問題とは、まさしく私小説、エッセイ、フィクションの区分けということではないだろうか。「挟み撃ち」が物語からずれていくことで物語とは何かという問いを提示したように、ここでは、これは小説か、それともエッセイかという疑問を喚起させると同時に、エッセイのような文章に小説という分類を施すことによって、小説とエッセイというものは何によって区別されうるか、その基準とは何なのかについての問いを読む者に突きつけているだろうと考えられる。事実、この作品は小説的構成へのひとつの抵抗として読もうとするとき、エッセイと私小説、またさらには小説と私小説が本当はどのようにして分かつことができるのか、そのような問いを発さざるを得ず、そのうちに果たしてこの作品は、何だったのかという混濁した疑問符の洪水だけが襲い来る印象に見舞われる。
 また、この小説と歴史小説を対置させるとするなら、この作品が位置するのは、歴史小説が書かれるその前段階になるだろう。事実作中で語り手は、真白い雪のなかで斬首され、血が飛び散る印象深いシーンを書きたいと言ったりしているのだが、その小説が書かれることはない。歴史小説を書くための見聞の様子、それがそのまま小説となってもいるのである。

 3.批評―模倣

 この作品で最も形式的に逸脱しているのは第四章であることは一読すれば納得頂けると思う。それまでは吉野大夫の探索をしていた語り手が、突如前触れなしにある人間からの手紙の返信を記述し始める。手紙とは、連載中の本作品への質問の書かれたものなのだが、それへの解答を作品のなかで行っているのである。契機としては、後藤明生自身が十二指腸潰瘍のために入院するという事件があるのだが、それが作品自体に導入されているのはどうしてだろうか。ひとつ考えられるのは、先行テクストの模倣、パロディであるということである。その質問の書かれた手紙には、谷崎潤一郎の「吉野葛」と花田清輝の「吉野葛註」についての質問があったのだが、それに応えて語り手自身も、それを意識しているかも知れないと書いている。ここの記述は、「吉野大夫」と「吉野葛」との類似や相違、花田の批判がどのようなものであったかについて書かれている。
 語り手はそれによって本作品が、それら先行テクストの模倣、パロディという面を持つことを示している。事実、「吉野葛」の破綻した構成と、「吉野大夫」の迂回した構成はある種の類似を見せているのだろう(谷崎のものは未読であるが、評価を聞く限りでの判断)。しかし、この四章の意図はそれだけにあるのではないだろう。谷崎の「吉野葛」に対する批判として機能する「吉野葛註」の役割を持つ手紙とその応答である四章は、それが「吉野大夫」というひとつのテクストのなかに挟み込まれることによって、「吉野葛」と「吉野葛註」の関係それ自体をも取り込むという批評的な意味をも持つのである。
 ここで後藤明生が文学の定義として提出した図式「文学とは模倣と批評である」という言葉の意味がおぼろげながら理解できる。


 追記
 以上、後藤明生の「吉野大夫」を「挟み撃ち」と比較しながら思いついたことを書いてきた。説明足らずのところもあるし、何より読んでないと分かりにくいと思われる。紹介と言うよりは自分のなかでの整理という形で書いたので場違いかなとも思われるが、そこは気にしない。そもそも読もうと思っても、今現在氏の本は数冊ほどが大型書店で手に入る限りで、古本屋を探してもそうそう見つからない。講談社文芸文庫の「挟み撃ち」と「首塚の上のアドバルーン」、講談社現代新書「小説」くらいだろうか(そういえばファラオ企画という出版社から「原点叢書」というシリーズで「吉野大夫」が一応まだ入手可能のようだ)。これではまったくもって不足であると思うし、わたし自身がそれ以外には短篇数作と「吉野大夫」しか読んでない。不足であると思う。小説という形式に対して徹底的な批評性を持った作家というのはあまりいないように思う。わたしが知らないだけだろうけれど。(日本のヌーヴォーロマンという評価もあるようだけれど、ちょっと方向性が違うように思う。ロブ=グリエも読んでないので風評での判断だけれど)「挟み撃ち」の衝撃はまさにそのワンアンドオンリーのショックだった。かといってやはり多数の読者に売れる可能性があるとはあまり思えない作品なのも確かである。物語を批判するが故に物語を欲望する読者には受け入れられないだろうし、日本的な情緒性や湿っぽさとはまさに無縁の存在であるが故に、その種の私小説的な情緒を求める読者にも受け入れられないだろうからだ。とぼけた語り口と迂回するユーモア、滑稽さ、作品全体が一つのジョークであったのだと思わせるような読後感。そういえば、後藤明生の執着した「笑い」について、何も書いてない。いやはやこれは難しい問題なので、どうにも書きようがない。そもそもわたしの文章は形式だけの問題に限られてしまっている。図式的に過ぎる文章だ。(今思えば、第1節の「対称」が即ち後藤の「笑い」のひとつの要素ではあるが)

東條慎生 とりあえず、感想を。 2002年11月16日(土)10時48分51秒
▼掲示板:1D ケーキボックス への応答

もはや一つの作品ではなく、病院ものというひとつの連作にも思える変化をしてきていますね。
何か重たい喪失感を抱えているような苦い雰囲気を湛えているように思えます。
作風自体が結構変化があって、狂的な安楽の世界を夢みるタイプのものがあるかと思えば、
困惑を形にしたようなもの、やはり喪失感を抱えたもの、日常にひとつの光を差し込むものや、
グロテスクな世界など、さまざまですが、今回のは天使のイメージと幼児退行の比喩が
きわどい効果を与えています。
また、その観察、対話が必然的に語り手の側に反射してくる日常の裂け目がかいま見えている。
語り手はその天使の彼女にある種のシンパシーを感じていると思われる。
傷のあまりの退行(推測ですが)のすえ、ブランコをこぎながら幼児のような行動をする彼女に対して、
語り手は自分もそうであったかも知れないと考える。
悲しさ、というのが二度出てくる。それはこの作品が意味するものを示している。
退行することについて語り手は判断を下すことができない。悪いとも、良いとも判断すること
はできない。彼女の行動は、子供のように無邪気であり、天使のような美しさを持っている。
そしてその美しさに語り手は悲しみを覚える。どうにもしようがないものに出会ったときの、
痛みの感覚に語り手は悲しいという言葉を発する。それは、同情というのでもなく、彼女と
わたしが、ある意味で同じであるという認識によって支えられている。
天使、子供、水子、この三つのメタファーが語るものは、それぞれ、語り手の何らかの
感情の現れである。
天使は美しさを、子供は無邪気さを、水子は恐怖を。それらがある種の無垢性に由来している
ことは確認できる。
しかし、無垢であることが肯定的なものだけではなく、悲しさや恐怖と結びついているところ
が、この作品の厳しい認識のありかたであろうか。無邪気さだって、ひとつの害毒である場合
があるだろう。

あまりうまくまとまらないけれど、とりあえず思ったことが以上です。
入院しているという話ですが、今はもう退院したのでしょうか。調子はいかがでしょうか。
わたしは越智さんのことはあまりよく知らないのですが、作品を読む限り、非常にあぶない
部分が見え隠れしているのがなんだか恐いです。重たい喪失感を感じるのです。それこそ、
虚無と地続きのような。
その危うさを作品として吐き出すことで逆に越智さん自身は安定を得るのでしょうか。
そうであることを願います。

東條慎生 切り裂きジャックを知らないために、理解し切れていない。 2002年11月16日(土)10時48分34秒
▼掲示板:4A『ルイーズ』 への応答

読みました。
端正な文章と小説の雰囲気がしっかりとあるまとまりを形づくっているところは流石というか。
古内さんのは掲示板で見るとつい読んでしまうような分量と文章、そして魅力的な惹句がある
ので、いいですね。端正でありなおかつ畳みかけるリズムがあるので、人を引き込む力があると。
わたしが書いてるのは見た瞬間に読む気をなくしてしまうような重苦しさが充満しているよう
なので、あまり掲示板には向かないようにも思います。
ところで、内容ですが、切り裂きジャックエピソードにわたしは馴染みがないのでわからないの
ですが、1と3は同じ場面ですよね? そしてその殺す男の側から書いたのが2と。もうひとつ、
「ルイーズ」というのがひとつのきっかけになっていますが、ルイーズって誰ですか? おそらく、
殺されたのはメアリという名なのにルイーズと名乗ることに何かのしかけがあり、それがこの
作品のキモだと思うのですが、何やらわたしには分からない。史実の切り裂きジャックに依拠した
話のようなので、そこら辺を知らないと作品の意味自体が分からない。もちろん、それが分からない
ことがそのまま作品の魅力自体を消去することにはならないし、構成と文章によってだけでも面白さは
感得しうるのですが、キモを欠いて読むのもまた魅力の減衰になってしまうので、ここはひとつ
屋台骨を崩して欲しいです。
もしかして、切り裂きジャック伝説の凄い有名な部分で、知らない方がおかしいような部分
なんでしょうか?
わたしの知識は偏っているので、それも考えられます。
是非ご教授を。

古内旭 切り裂きジャックもの 2002年11月16日(土)06時47分30秒
▼掲示板:4A『ルイーズ』 への応答

新作が書けたので投稿しました。読んでくれると嬉しいです。

内容は「切り裂きジャック」ものです。一時期切り裂きジャックに凝って、長めの小説を書いたことがありました。それを縮めて投稿用に短編にしようと思ったのですが、結局別物になって新作となりました。
世紀末ロンドンっていうのは実に興味深い奇妙な世界です。シャーロック・ホームズとワトソンが縦横無尽に活躍し、ルーマニアからはドラキュラ伯爵がやってきて、イーストエンドでは切り裂きジャックが連続殺人を行っていたのです。ダーウィンやディケンズも活躍していましたね。あ、エレファントマンも。

ところで、杉作君が僕の『テスト』をなぜか改稿していて、それを読ませてもらいました。やはり杉作君の方向へ転じていました。本人曰くパロディということなので、投稿するかは分かりませんが、かなり面白かったです。

杉井武作 そうか! 2002年11月12日(火)22時54分04秒
▼掲示板:6A 生き方、ってさ。 への応答

「自分にとってかっこわるいと思う何もかもが気づかないうちに色鮮やかなひとつの絵になってたりする」って、いいですね。最初から完成されてる人なんていないし、俺ももがいてる自分がカッコ悪いと思うけど、胸はって生きようと心がけてる。

杉井武作 わーい! 2002年11月12日(火)22時15分39秒
爽やか〜! への応答

あんがとお!
メロディーは実はもうつけてて、初めて自分で曲作りました。
今度授業で歌っちゃおっと。

>色々読んでて、それぞれの世界のギャップが素晴らしいです。
嬉しいなぁ。三百六十五重人格が日替わりですから。どれも自分から自然に出てきます。

>ぷーさんの、怖くてシュールで読み終わってからとってもうろたえました(びくびくびく)。
自分でも怖いッス!

>読んだのは夕方だったけど、動揺してて落ち着いたらこんな時間になりました。
早くおうち帰んないと森のくまさんに襲われるで!

横田裕子 爽やか〜! 2002年11月12日(火)21時26分45秒
▼掲示板:9A「ETERNAL SCENE」 への応答

と、読んだ後感じました。
メロディーを付けたらいいかも・・・むしろ付けて!
色々読んでて、それぞれの世界のギャップが素晴らしいです。

ぷーさんの、怖くてシュールで読み終わってからとってもうろたえました(びくびくびく)。
ぬいぐるみをずたぼろにする話はどこかで目にしたのだけど、ここまでエグいのは初めて。
読んだのは夕方だったけど、動揺してて落ち着いたらこんな時間になりました。


越智美帆子 高知から 2002年11月07日(木)22時27分53秒
どう? への応答

 実家にいます。こっちのほうが寒いです。お手数、おかけしますが、マニキュアは預かっていただけませんか?すみません。
 
 飴がけケーキ、幼いころに両親と行った喫茶店で食べて以来、見たことないです。でも、クロカンブッシュとかにかかってたりしません?砂糖と水を煮立たせて、飴がけ用のスプーン(?)でシャーっと自分でやってみたりしても楽しいかもしれません。

 最近、キャラメルマキアートのコーヒーにはまっています。それにバニラアイスを浮かべて飲んだり。冬が近いですね。

寮美千子 どう? 2002年11月07日(木)03時17分36秒
すごい読んでみたい。 への応答

どうしてる? このごろ顔を見ないので、さみしいなあ。
授業に顔出してね。「夢の標本箱」のマニキュアもあずかってるし。

ところで、飴がけのケーキって、どこで売ってるの?
なんだか、すごくほしくなっちゃった。
カンペキ雑談でゴメンネ。

越智美帆子 すごい読んでみたい。 2002年11月07日(木)01時15分52秒
ひょうろんろん への応答

 リレー小説、すごく読んでみたいです。古内さんが春樹調なまじめ風で始めて、それをすぎさっくがエロい感じで盛り上げて(?)いって、とどめに東條さんが幻覚妄想の世界へ誘う、と。おもしろそうですね。いったいどんな小説になるのだろう…。。。

奥野美和 ありがとう! 2002年11月06日(水)11時15分53秒
題名がいいネ! への応答

サンキューなんとか、っていうのが
やりたかったんです。

杉作くん、いっぱいかいてるね。
勢いあっておもしろい。
ちゃんと感想書くね。
待っててね。

すごい気になるわ!
古内くんととーじょー君とすぎさっくの
三人のトーク会を開こう。

見たい!客席で。

杉井武作 評論、楽しんじゃってください。 2002年11月06日(水)07時48分36秒
ひょうろんろん への応答

評論そのものを楽しんでもらったりいろんな解釈をしてもらうのは、書き手にとっても大変勉強になりますし、嬉しいことです。論負けしないような作品を作りたいです、ホント。
なるほど、たしかに現実逃避は「きめつけ」な要素があるので、安易に使うべき言葉ではないかもしれませんね。「アフリカの印象」おもしろそうです!

「BE」と「鏡の果実」を書き直しました。「BE」は、タイトルとか気に入らない部分を直した程度。「鏡の果実」に関してはほとんど別の作品になってます。ほのぼの系に生まれ変わりました。東條さんの「ゆうやけ」とタッチが似てるかな?あの作品、大好きです。
もっと一般受けするものが書きたいかも。。。

古内旭 ひょうろんろん 2002年11月06日(水)05時35分08秒
あえて真面目に、を真面目な顔で への応答

東條氏の小論を楽しく読みました。東條氏も楽しみながら書いたことだと思いますが、評論って面白いですね。二次的な楽しみ方ができます。言葉遊びみたいなものかもしれません。「評論も芸術の1つだ」ということを誰かが言っていましたが、そこまで考えずとも楽しい作業ではありますね。東條氏の論は、最後の部分が僕が最初に出した感想と違うわけですが、特に異論はありません。いくつか読む可能性があって、それをどう読むかはまあ好き好きでよいでしょう。自分の好みのようなものに作品を近づけることができる、すなわち、作品そのものを自分自身に取り込むというか、そういう状態にできるのはいいことです。自分の解釈を加えて完成する物語というのも面白いですね。

論じるのが楽しくなるような作品、論負けしない作品を作り出していきたいです。

現実逃避という言葉に関しては、僕も好みません。分かりやすい言葉ではあるのですが。確かに短絡的な二項対立を作っている気はしますね。二元論的なものは好きですが。リンチしかり。
ルーセルにしても『郵便配達〜』にしても、現実逃避という言葉ではあまりに足りませんし、そういったものではないでしょう。

ところで、先日東條氏や杉作氏と何かリレー小説をやろうと盛り上がったわけですが、さて、どうしようかと悩んでいます。僕がトップバッターなんですが、学園青春(的)恋愛小説を書いたら、どうなるのだろう?? なんて。

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管理者:Ryo Michico <mail@ryomichico.net>
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