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宮田和美 課題5 2001年09月28日(金)00時27分53秒

湾岸戦争とか阪神大震災とか、世界中でいつ誰が死のうが、いつもわりとふうん、と思っていた。何となく、ブラウン管の向こうは現実じゃないような気がしていた。
アメリカへのテロの映像をみた時も、アメリカって大変ねえ、何でも起こる国なのねえとぼうっと思い、その日は寝た。
しかし翌朝、この事件は私の中でくっきりと現実の色を帯びていった。朝、目が覚めると、母が開口一番、「あの事件でどうやら日本も厳戒体制らしいわねえ」と言った。
厳戒体制?つまりそれは日本にもテロが来るかもしれなくて、私たちの幸せな生活がだれかの手によって壊されるかもしれないってこと?そう考えると、世界と私がぐんと近づいた。世界とここはつながってるんだと、初めて思った。
学校に行くと、やっぱりテロの話が友だちとの間で出た。でもそれは、教授の悪口や繰り返される「なんか楽しいことないかね」の合間にのぼる程度だった。周囲ののんきに驚いたが、わたしもすぐ、沢山の学生の中でアホな顔して笑っていた。
ところが、その日の晩、布団に入って寝ようとしたら急に、恐ろしくなってきた。なにも案じずに安心して眠れるという、いままで当たり前だったこの幸せは、実はとても脆いもので、吹けば飛んでしまうということに気がついた。わたしには、やりたいことがまだ残っている。まだまだ死ねない。それなのに、誰かがわたしを殺すことだってありうる。本当に、怖かった。
以来、わたしは暇さえあればニュースを見ている。世界がどうなってるのか気になるのだが、やっぱり一番気になるのは、日本が安全かどうかだ。
そりゃあ、アフガニスタンにアメリカが攻撃することで死者がでるのは悲しい。わたしだって死にたくないから。おなじように生きたいと思う人には生きてほしいと思う。
けれど、やっぱり日本が大切。言ってしまえば、わたしが大切。それっていけないことなのだろうか。こういう自分勝手な気持ちが紛争を生むのかもしれない。だからといってアフガニスタンのひとの代わりになる気はない。 こんなわたしは、いけないのでしょうか。


遅くなりました。こんな文でいいのか分かりません。でも、まあ、送ります。
あっそうそう、わたしの家、やっとインターネットできるようになったんです。

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鈴木一業 課題5 2001年09月26日(水)02時13分22秒

 あらゆる議論があらゆる場所で行なわれてる。そしてあらゆることの正当性が、試されている。他者へ主張するためのあらゆる方法論を僕達は知っている。そして議論は行なわれる。だが、今回のテロへの憎しみをアメリカは「報復」という形で昇華しようとしている現実。
 全てを受け止め、全てを容認し生きてゆくこと。あるいは目をつむり、背を向けて生きてゆくこと。それは穏やかな日常を与えるかもしれない。だがそれは、あまりに脆い。世界貿易センタービルの崩壊してゆく映像を覚えているだろうか。生活の裏側に巣食うものが、脆い。権力構造や社会システム。そしてすべての憎しみや哀しみ。僕たちの生活は常にそれらに曝され続けている。そのことを知った上では、もう世界から目を背けることができなくなっている。
 全ての事柄の正当性を立証するならば、立証できるはずである。ただそれは各々の主観に立てば、のことである。自己の主観は捨て、徹底的に他者を受け入れたならば、である。
 寛容であること。寛容は黙認ではない。手放しで受け入れることは、極めて危険である。常にそこにある思想や感受性を踏まえ、そして寛容であるべきである。だが、理性や正義というものがあるならば、それは捨て去ることができるか。本能的に異化せざるを得ない事柄は、常に付きまとう。
 だが、殺すという行為は、正当化されうるのか。他者を裁くという行為が正義であるとしても、それが殺すということに結びつくのか。悪をもたらすものを排除するという発想は、アメリカもイスラム原理主義も変わらない。またそれぞれが持つ帰属意識(宗教として国家としての)の中で、排除すべき対象への憎悪は深まってゆく。テロも報復も、どこかで結びついているのではないか。それは、決定的に非寛容の世界である。
 戦争および報復による解決。選民思想やナショナリズムにより正当化されたこの行為の行く末には、無数の死が横たわることになるだろう。あらゆる方法論を吟味した上での、決定なのか。善悪の二項対立の中で、互いが悪に属すことがないかのように振る舞ってはいないか。国家における権力は、未来の(来世の)救済ではなく、今の(現世での)救済を保証するべきである。そしてアメリカならアメリカ、イスラムならイスラムの、客観的な真理へと導いてほしい。国家において、正義・法・裁きというものは切っても切れないわけで、その上での措置をとるべきである。それが、政治権力の本来の在り方ではないか。
 またメディアはこれまで、政治経済のシステムの中にあり、常に語るべきことと語らざることを混同してきた。その理由は、メディアそのものが報道機関としてよりも、企業として資本主義の元に成立しているということにある。事実、アメリカは政治活動においてのメディア戦略が巧みである。ナチズムやヒトラーのメディア戦略もまた、巧みであった。そしてメディアもまたある主観を孕み、その中での情報操作がなされていることは容易にわかる。
 事件当初に感じたある種の疎外感は、メディアによるものが大きい。常に僕達が知ることは、過去に存在する。手の届かない過去としてある以上、疎外感は否めない。そして、どんな事件が起きても僕たちの生活は、ある。各々が考えなくてはならないことだと気付いていても、自己の世界像から遠く離れたものとして感じる。事件そのものが、人々の心に深く根付いていかないのは、その世界認識の狭さにある。そして今、その認識の変革の必要に迫られている。
 僕たちはメディアを奪い返さねばならない。世論を広め、思想や価値体系を変えてゆくだけの力がメディアにはある。その可能性を最大限に活かすことができないか。破滅的な意味合いではなく、ポジティブな可能性をだ。あらゆる議論が、机上で終わらないためにもメディアを利用するのは、ひとつの方法論として必要である。
 とにかく各々の社会には、そこにしか共有されない経験による概念や構造がある。そして今アメリカあるいは報復賛成派の国々は、全世界に対し新しい共通の認識を与えることができる立場にある。暴力から解決を導き出すことはできない。リセットして未来へ向かうこともできない。全てを受け止めた上で何を世界に発信できるか。平和への限り無い可能性がそこにあると思う。


▼遅れてすいません。事件から二週間ほど経ち、それでもわからないことだらけなのが現状。言いたいことがないわけでもない。他者を殺すことは社会的規範の中で許されないだけでなく、殺すことでは思想も概念も回収されない。むしろ生かす。そして他者が無に帰らない以上、自己は他者を殺すことができない。その上で、殺すことは何も生まない、と言いたい。

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東條慎生 課題5 2001年09月24日(月)10時42分06秒

今回の事件の問題点で浮き彫りになったのは、このような事態に陥ったときのメ
ディアの報道の性質であると私は考える。事件の悲惨さ、規模の巨大さ、その他
についてはここでは問題にしない。

当該事件の報道でもっとも重要であるのに省かれている問題は、なぜ、敵側がこ
のような巨大な規模のテロを行ったという点に関する説明である。この問題説明
を抜きにして報道すればそれは「アメリカが一方的な同情すべき被害者」という
イメージの流布に他ならない。そもそもテロが確かにパレスチナからのものであ
るならば、アメリカがパレスチナにおいて実施している外交政策を問題にしなけ
ればならず、それを知っているならば今回のテロがどのような背景を持ったもの
かがわかる。

しかし、今回の事件に関する報道は私の見た限り、アメリカ側の悲惨な被害者ぶりを
垂れ流すばかりで、事件の詳しい背景情報をほとんどみたことがない。首謀者と
目されるラディン氏の情報も、「テロ集団を育成する悪辣な指導者」というイメー
ジである。ただ、私は日常テレビを見ないことにしているので細かいところで報
道されているかもしれないが。

そして、私が最も問題に思うのは、マスメディアが歴史を操作しうる重要な存在
であるのに、全く自己批判能力を持たないことである。さらに、感情の原始的な
部分を刺激することで、容易に現実を単純な物語と化すイメージの生産装置とな
っていることである。

アメリカが現事件をことさら強調して正義への攻撃だなどというのは、ラディン
をわかりやすい敵役にして戦争賛成の世論を作り出すためで、大衆操作以外の何
者でもない。ここでアメリカの外交政策を報道すれば、アメリカが悲惨な被害者
でなくなり、戦争を行うことが難しくなる。そして、なぜアメリカが戦争をした
がるかというと、中東には石油資源があり、それを確保しようとする経済的な理
由ではないだろうか。湾岸戦争も実はそういう面がある。またアメリカは軍需産
業が多く、それも理由の一端だろうとある教師は言っていた。

メディアに話を戻すが、湾岸戦争の折り、あらゆるメディアに流れた「重油にま
みれた鳥」の写真がある。これが世論を戦争賛成に盛り上げた重要なファクター
であったらしいが、この写真、実はCIAが捏造して流したもので全くイラクと関係
がないことがその後暴露された。現在の報道もあらゆる方策を用いて戦争賛成の
世論を作り上げようとしているように見える。

戦争は血で血を洗う不毛なものだからやめようと呼びかけるだけでは不足である。
その論理では今回の戦争を感情でしか非難できない。それでは被害者側の憤りを
なだめることはできない。今回言うべきことは、アメリカが被害にあったのはそ
れだけひどい政策を採っていたからで、なんらアメリカが自身を正当化する根拠
がないということである。アメリカの帝国主義を非難すべきである。

そして、メディアの一方的な報道、戦争があたかも正義の行使であるかのような
イメージを植え付ける報道を非難すべきである。そしてアメリカ被害者、ラディ
ン加害者という単純な図式を提示し、それを強化するような抑圧的な報道を非難
すべきである。

「無限の正義」という現今、三流漫画でもつけないような恥知らずな作戦名をつ
けたアメリカ。彼らの正義とは有り体に言えば、自国のエゴイズム以外の何者で
もない。彼らの自由とは資本主義の言い換えであり、有り体に言えば金儲けの自
由でしかない。だから当然、京都議定書もぶっちぎる。なぜなら経済に影響があ
るから。銃も規制しない。なぜなら重要な産業だから。戦争もやめない。なぜな
ら儲かるから。

参考資料にヤフーの掲示板に転載されたスーザン・ソンタグという文芸評論家(?)の文章へのリンクをつける。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835217&tid=a5da5a4a5sa5bfa5oa1bca4acbeca4a8a4bfa1aa&sid=1835217&mid=74
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835217&tid=a5da5a4a5sa5bfa5oa1bca4acbeca4a8a4bfa1aa&sid=1835217&mid=72
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835217&tid=a5da5a4a5sa5bfa5oa1bca4acbeca4a8a4bfa1aa&sid=1835217&mid=73

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杉山千絵 課題5 2001年09月22日(土)00時59分34秒

いつも思うのは、思わずにいられないのは、大好きな大切なものたちのこと。
無様な自分に気付いたり、気付いて失うものもあるけれど、この思いは悪くなりようがない。
だけど、思わずにいられないのが、憎くてたまらない相手だったらどんなに苦しいだろう。
憎しみはとても強い。とても強く人を捉える。縛られて動けなくなって視界は狭く暗くなる。
憎まないこと、少しでも違った見方をすることさえ罪のように思えてしまう。
そして、憎しみは大きくなる。生まれたばかりの命も、ただ在り続ける風景も、全てをのみ込んで、憎むべき塊にしてしまう。
憎しみは、言葉や文字のように求めて持ったものではなく、人が背負わされるように持ってしまったものなのかもしれない。

嘆いていても、憤慨していても、ブッシュ大統領の言葉は、被害者や遺族のものとはどこか違うように思える。
ブッシュ大統領も小泉首相も興奮しているのではなく、極めて冷静に戦争しようと言っているように見える。
それが恐い。事件の裏で爆発した気持ちは何だったのか、どうすれば憎しみは和らぐのか、
それを考える前に、考えようとする前に、「これは戦争だ」と言い切った。
日本では、何ができるかを論じている。「戦争ではない解決法」をではなく、「戦争の支援」に何ができるかを。戦争を放棄すると明記した法律の範囲内で戦争に加担しようとしている。
憎しみに憎しみで応えて、暴力に暴力で応えて、そうやって織り上げた布はどんな色だろう。
戦う相手はテロリズムだと言う。人の心の有り様と戦うのだと言う。
武器でもって思想が変わるなら、それは抑圧だ。
テロ事件によって、無理矢理に剥ぎ取られた多くの命と、アメリカの経済封鎖による医薬品の不足で助からなかった多くの命に、どんな違いもありはしない。
抱えきれない怒りと哀しみが、戦争という言葉に流されて歪んでいくのが恐い。
戦争で埋められるものなんてないのに、そこに何を求めているんだろう。
戦争で潤おうなんていう現実はおかしい。それが現実だと認めても、諦めるのは絶対に嫌だ。

国境を越えて難民の子供がやってくるアフガンでは、5歳まで生きられる子供は8割にみたないという、そんな国を相手に、
アメリカに従っても、逆らっても内戦の危機を抱えている国々を相手に、
まともに戦争したら必ず勝てる国を相手に、戦争しようとしている。
それ自体が目的の暴力ならば何も言えない。嫌だけど、恐いけど、それは在るから、なくならないから。
でも、何か別の望みがあって、それを叶える手段としての暴力は違う。絶対に違う。
テロリズムと戦うために出した舟が戦争なら、寄港地はどこにもない。
行く先のない舟はどうやって止まればいいだろう。

私達の生活を支える商品と資本の循環の中を武器も巡っていて、戦争さえもその循環に組み込まれているとしたら、今の生活を続けていくには必ず定期的に世界のどこかで戦争が起きるのだとしたら、
それでも、人は今の生活の持続(またはそこに至ること)を望むだろうか。戦争を求めるだろうか。
それとも、物の豊かさだけでは決して補えない、心の豊かさに辿り着きたいと願うようになるだろうか。
そうなりたい。そんな世界に向かう途中なのだと、信じたい。

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西浦多樹 課題5 2001年09月21日(金)09時26分25秒

遠く距離を隔てたアメリカで起っているたった今の事件を知ることができながら、
限りなく近い場所にある心の痛みを、そこから汲み上げられる想いを、
隣にいる人にさえきちんと伝えられないということが、私を打ちのめす。
何かを確実に置き去りにしている。どうして通じないようになってしまうのか。
ショッキングな映像の後に重ねられたものは、怒鳴り声にも似た言葉の嵐で、
その音に心臓はきしみ、掻きむしられる思いがする。不安の源。
この思いは、馴染むどころか、重ねられるたびにいよいよ深くなる。

今回の報道の有り様そのものについて考えることは、
事件の根の部分にも触れることにもなるのではないかと思う。
テロ事件に絡む言葉全体の在り様と言ってもいいかもしれない。
前回の講義でも出た小泉首相の発言についてもそうだが、
言葉の出し方ひとつにも争いへの道が見える気がしてならない。
こうして海を隔てたアメリカで起っている出来事が
確かに近くの身体感覚のような痛みと共鳴しているなら、
テロ事件そのものへの哀しみと痛みとに透けて見えるのは、
近くに居座っている深く淀んだ問題でもあり、それを見つめることでも、
今回のテロ事件を考えることにもなるのではないかと思う。

たとえば、ひとりひとり異なる言語を持っていたとしたら、
どうやって相手に言いたいことを伝えるだろうか。
人はもともとひとりひとりなのだ、という前提に立つと、
共通言語をもってしても通じないことだってあるのは当然かもしれない。
ならば、どうやって通じ合わせていけるだろうか。
自分の言葉を一方的に押し付けたりするだろうか?
それではいつまでたっても通じ合えないことはすぐに分かるだろう。
自分のコトバと相手のコトバを共鳴させるのではないだろうか?
自分を知ってもらうとすることと、相手を知ろうとすること。
「報復」しようと声をはりあげる熱をそちらに向けることはできないだろうか?
その努力が争いへと向う足並みを失速させることになる、そう信じていけないだろうか?
欲しいのは争いではなく、互いの幸せであるということを、確認しながら。

>根本さんの投稿
テロ事件の翌日だったかに、テレビを見ながら、
「事件の歴史的背景を特集したような番組、きっとやるよね」
と話していたのだけれど、あったのかしら・・・

>横田さんの投稿
昨日、母と、宗教のことを少し話していました。
自分の幸せと人の幸せを願うためのものであるはずなのにねって。
中学生の頃に家にあった三浦綾子氏の著作を読んでいたり、
高校がミッションスクールだったということもあり、
宗教について自分なりに触れながら過してきたと思うのですが、
大切なことは宗教という枠なのではなく、
大事だと感じたことを、自分がどのように考え続け、
それをどういう風に人と共有することができるか、
ということなのではないかと思うのです。
宗教と戦争が切り離せないものになっているということがどういうことなのか、
失っているものは何なのか、考えていかなくてはいけないとも思います。
子どもが「この家には宗教がない」と言って嘆いた、という話があるけれど、
大事だと思うことを互いに共有しようとする気持ちの余地がない、
ということを伝えている言葉のように、私には思えるのでした。


>寮先生
昨日のうちに投稿せず申し訳ありません。

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横田裕子 課題5 2001年09月21日(金)01時52分44秒

同時多発テロについて、色々な視点から見えることは沢山ある。
「絶望的な貧困の中の人々を、宗教そのものを、ラディンが『利用』した」のだと、私は思う。
イスラム教自体は何の問題はないのだから。
その宗教とのつながりのひとつとして、経済問題がある。
資本主義国から利益を還元されないために、国自体が貧困に陥いり、脱却できない人々がいて、
死ねばその苦しみから逃れられると、教えられてきた人々がいる。
宗教はそんな事の為にあるのではない。心を救うためにあるのではないのだろうか。
どんな経済体制の国でも言える事だと、思う。
しかし、貧しいからこそラディンの様な人間が出現し、テロリスト達を生み出す結果となった。
「そういう権力者に従えば救われる」のだと、人々は信じてしまっているからである。

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ネモト サヤカ 課題5 2001年09月21日(金)01時29分24秒

このニュースが報道された9月11日から数日の間、私はあまりのショックに目を閉じ、耳を塞いでいました。
この間の授業のときも、しゃべろうと思えば一時間半しゃべり続けてもいられたくらいに、様々なことを考えてはいましたが、どうかすると、それは全て“怖い”、ただその一言のためだけになってしまうような気がして、そして話し出せばそれを垂れ流しにしてしまうような気がして、口を開けなかったのです。(みんながあまりにおとなしくて、発言しづらかった、というのもありますが。)
そのショックというのは、単純にあの映像に対して、報道のしかたに対して、15年も前ですが、歩いたことのあるところがこんなことになってしまった、ということに対して、など様々なものに対してのものですけれども、でも一番は、今まで当然「ある」そして「あり続ける」と信じていたことが、それは何の根拠にも基づいていなかったのだ、と気付かされたことに対して、が大きかったと思います。
あのアメリカの、あのニューヨークが、壊滅した。
超大国であり、経済の中心であり、世界で最も国力のある国であり、しかし、一度も本土を爆撃されたことのない国。私は勝手に、「アメリカだけは安全」と思い込んでいたのです。
けれど、そうではなかった。
理性さえ蹴飛ばしてしまえば、カッターナイフ一本でこんなことができてしまうのだ。
なんて世界はもろいんだろう。私は何を信じてきたんだろう?
足元が立つそばから崩れ落ちていくような気がしました。私は一瞬何ものをも信用できなくなりました。
そもそも、何を根拠に信じればいいんだろう?
もしかしたら、今寝ているこのベットも、クッションも、信用できるものではないのではないか?
そういう、肌に張り付くような、生物としての恐怖を強く感じました。暗闇に脅え、目を凝らすホモ=エレクトゥス(火の使用以前の人類です)みたいな。

ともあれ、そうして耳を塞いだまま数日を過ごし、やっとこうして語れるだけの余裕が出来てきて、私は遅ればせながら情報収集をはじめました。
幾度となく流れる崩壊の瞬間、あるいは激突の瞬間の映像を見、ブッシュ氏や小泉氏、NATOなどの声明を聞き、事件のあらましを聞き。
でも私はどうしても、はじめに感じた不自然さを拭えずにいました。というか、今もそうです。
どうして、報道機関はこぞって「現場で何が起きたか」「米国、および各国政府の対応はどうだったか」そして、「ラディン氏とはいかなる人物か」を取り上げておいて、「何が原因でこういうことが起きたのか?」「犯人の目的はなんなのか」「犯人は誰なのか」ということが抜け落ちてしまっているのでしょうか。
もちろんはじめのうちは耳を塞いでいた私ですから、見落としてしまったものが多数あるのかもしれません。
でも、中東で何が起きていたのか?
そもそもあの映像をみて、アラブの人々が歓喜したのはなぜなのか?
あそこまで大規模なことに踏み切ったきっかけはなんだったのか?(するほうだって準備や犠牲や大変だったはずです)
不思議なほど触れられていないように思います。
しかも、だからといって、これが全く不当であった、アメリカには全く非が無かった、という話も無い。
なんだか私にはとても不自然に映ったのです。(アメリカがとても近しい国で、アラブは遠い隔たった世界、という日本人の意識もあるのでしょうが。それだってかなり問題だと思うのですが)
実は私はまだ中東に起こった歴史的事実、民族性などを、そして、アメリカが何をしてきたか?をきちんと把握できていません。
知ろうとする者の目にも触れない、というのは一体どうしたことなのでしょうか。


ところで、事件のあらましがわかってすぐ、私は他の日本人がこの件に関してどう思っているのか、どう受け止めているのかが気になって、この件に関するチャットに何度か行きました。
そこで受けた印象というのは驚くべきことに「無関心」でした。
そういう目的のチャットルームだったにもかかわらず、私が真面目な質問や意見を投げかけると、たいていの人は出て行ってしまうか、ふーん、すごいね。と聞いているだけです。(もちろんまともに議論できる人たちもいました。同意見だろうと無かろうと。でも、相対的にとても少なかった。)
現実感が無い、というか、自分の上に降りかかってくることではない、と端から信じているような感じでした。
とても、ショックだった。
そして、やはり、報道を鵜呑みにしたような意見を言う人も多かった。
「『報復』すべきだ」と。「戦争は回避できない。」と。「アラブ人はなんて野蛮なんだ!」と。
でも、そう言っている人たちの情報量ときたら、あとから情報集めをしていった私なんかより、新聞もとっていない私なんかより、よっぽど少ないように思えました。
なんだか空恐ろしくなりました。
アメリカ国民はすでに「報復」に向けてシュプレヒコールを挙げているし、それは世界中に広まりつつある。
でも、一体何に「報復」しようというのでしょうか。彼らは。
犯人さえ、まだわかっていないのに。
まるで、お祭りしようというような気軽さで、テンションで、戦争しよう、と言う。
その歪んだ顔を見るにつけ、背筋がぞくぞくします。
また、「在庫一掃整理」のために、何万もの人々が死ぬのでしょうか。
どうしてそれを、正気の目で見つめていられるでしょう。
アメリカが「報復」と称してしていることは、テロと何の変わりがあるのでしょうか。アメリカを擁護する意見の人は、こぞってこう言います。
「こんなに大きな、たくさんの人が死んだテロ事件は今まで無かった」「テロを許すべきではない」「国際平和のために殲滅すべきだ」。
でも、アメリカのしてきたことはなんだったんでしょう。
それ以上の死者を、近年アメリカが出してこなかったと?
それとも、「アメリカにした」から、そんなに罪なのでしょうか?容疑がかかっただけで「報復」されるくらいに。
そもそも、今回のテロは本当に、ブッシュ氏の言うように「民主主義への挑戦」「自由への挑戦」だったんでしょうか。
一体誰の自由なのでしょう。独善的な、アメリカの自由?アメリカが経済を思いどおりに操る自由?自分たちの価値観を、世界中に当てはめる自由?
この発言で、ブッシュ氏の、あまりにも傲慢な世界観に愕然としたのはごく少数の人のみなのでしょうか。
民主主義と言ったって、(公式の発表はありませんが)ピッツバーグで撃墜された旅客機を、どう説明しようというのでしょうか。
アメリカの、というか、歴史をさかのぼって、近代西洋のやりかたはひどく独善的で傲慢でした。科学を武器に、自らに相容れないものは「未開だ」「野蛮だ」としてねじ伏せ、強要してきたその歴史を、今まだ引きずっているように思われて仕方ありません。
もちろん日本に住んでいて、こうして文明の利器の恩恵を享受しているという点で、私も同じなのでしょう。
エラそうなことを言っていますが、今回の件で、私も“アメリカに近い方”の人間であったのを思い知らされたのですから。
でも、いい加減そろそろ、考え直す時期に来ているんじゃないのでしょうか。
正しいと思ったからといって、押し付けてこなかったか。
今、アメリカの言っていること(「世界平和のためにテロを殲滅すべきだ」)は、あれはファシズムでなくてなんなのでしょうか。
そのやり方をとったって、テロがなくなるはずが無いのは、誰の目にも明らかなのではないでしょうか?

なんだか、こう書くと、まるで私はテロを擁護する立場をとるようですが、そんな気持ちは毛頭ありません。
彼らがしたことは、もちろん許されるべきことではないし、出るところへ出て裁きを受けるべきです。
しかし、今のところその対象そのものが“無い”わけで、その中で、私にはあまりにもアメリカや各国の反応が際立って見えたので、こういった反応になってしまいました。
それに、この反応というのは確実に私の頭の上に火の粉をぶらせるものであり、しかも私はあまりにもちっぽけでなにが出来るでもない、独力で回避できない、そういうやるせなさ、恐ろしさで本当は今も、部屋の隅でうずくまってしくしく泣いていたい気分です。
でも、表に出ることで、せめて「この先どうなるかわからない」という恐怖だけは、克服できるかもしれない。そう思って、中東問題などの勉強中です。
それからこれは私一個人の意見であり、経験不足や情報不足から、多々の誤解等あると思います。
どうか、鵜呑みになさらないようよろしく。

>寮さん
提出、遅くなってしまって申し訳ありません。
私も言葉にするとかなしくて、垂れ流しになるし、情報も足りなくて・・・
わかりづらい、誤解を招きやすい言葉で不安です・・・
これでウェブに載せるのは本当に忍びない・・・
ご迷惑おかけして申し訳ありません。
明日(今日)は、自分でプリントアウトして持ってきます・・・。ゴメンナサイ。


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寮美千子 課題5/アメリカ同時多発テロ事件について、わたしが思うこと 2001年09月13日(木)23時30分02秒

いよいよ、明日14日より、授業開始です。

明日の授業は、予定を変更して「アメリカ同時多発テロ事件について語りあう」というテーマで進めたいと思っています。「創作」の根源にあるのは、その人の「世界認識」。自分がいかなる世界に住んでいるのか、それをどう捕らえているのか、どう生きていこうとするのか。それは、常に創作全般に深く関わる心の出来事です。このような世界を揺るがす大事件があったことを抜きにして、創作について語ることはできないと痛感し、このような授業をすることにしました。

これは「政治討論」の場ではありません。「あらゆる行為は(何もしないことも含めて)政治的行為である」という言葉がありますが、その意味においては政治的な論議の場であることは否めません。しかし、それ以上に「心」について語り合う場にしていきたいと思っています。

自分の感じたこと、自分の意見を、的確な言葉で相手に伝えることも、文章鍛錬に必要不可欠なことのひとつ。明日の授業で話し合ったことを踏まえて、各自「アメリカ同時多発テロ事件について、わたしが思うこと」という内容で文章を書いてもらうことにしました。オリジナルなタイトルもつけること。これを「課題5」にしたいと思います。課題提出は、各自掲示板にアップしてください。掲示板にアップすることで、授業だけの閉鎖空間での意見交換ではなく、広く世界へ向けての発信としたいと願っています。

以下に、わたしの掲示板 Cafe Lunatique に掲載したわたし自身の書き込みを転載して、課題5の資料としたいと思います。目を通しておいてください。

課題5/資料1/戦いに武器はいらない
課題5/資料2/日韓の米軍施設がテロ標的になる恐れ
課題5/資料3/砂の城/わたしたちが20世紀に築いてきたもの
課題5/資料4/報復目標は、誰か?
課題5/資料5/立ち止まるべき時の到来
課題5/資料6/素朴な疑問
課題5/資料7/世界のトラウマ

⇒この記事に応答する


寮美千子 課題5/アメリカ同時多発テロについて/資料7 2001年09月13日(木)23時02分28秒

世界のトラウマ 投稿者:寮美千子  投稿日: 9月13日(木)22時32分13秒



>あまりの恐ろしさに呆然としていろんなことが手につかない。>MARIKOさん

実は、わたしもそうです。
事件以来、ショックもあって家に引きこもっていたわたしは
きょうはじめて、街を歩きました。いつもの食料品の買い物、駅までの道のりです。

当たり前に見えていた風景、無意識に揺るがないと思っていた景色が
実はひどく脆い、壊れやすいものなのだと、歩いていて感じないではいられなかった。
街のビルにも、駅ビルの大きな吹き抜けにも、
旅客機が激突する映像や、燃え上がる映像、崩れ落ちる映像が重なります。
阪神大震災の時以上に街が「フラジャイル」を内包していることを
強く感じないではいられませんでした。
きっと、わたしだけではないだろうと思います。
西欧社会に足場を持った(持たざるを得ない)(無意識に持っている)etc.
人々の心に、少なからず傷をもたらした事件だと感じています。


>ニュースを見ていても、心の話がみつからない。それがとても怖い。 
>もっと心の話ができる人たちが、はやく手をつないで、声を大きくして、
>心の話をしなければ。
                          >MARIKOさん

MARIKOさんのいうとおりだと思う。
トラウマであるからこそ、ブリーフ・ワークも必要だし、
またこの事件をきっかけに、これからの世界について考えることも必要だと思います。


明日から、和光大学の講義がはじまります。
夏休み後のはじめての講義。
「物語の作法」は、今回のテロ事件について、
それぞれが意見を述べあうことにしたいと考えています。
「創作」の根源にあるのは、その人の世界認識。
それを自分で突き詰めて考え、
自分の言葉で伝えることができる能力が重要であることは、いうまでもありません。


強烈な事件が起こったとき、人は語らずにはいられないもの。
語ることで、それがなんであったかを把握したり、
他者の言葉を聴くことで、自分の意見や感じ方を検証できます。
あんまりすごい事件なので、みんな言葉もないかもしれませんが、
どんなつぶやきでも、ここで語ってもらえたらいいなあ、
この場が、そのような「心」を語る場所になれたらと願っています。

⇒この記事に応答する


寮美千子 課題5/アメリカ同時多発テロについて/資料6 2001年09月13日(木)22時58分06秒
http://www61.tcup.com/6100/burabura.html への応答

素朴な疑問 投稿者:寮美千子  投稿日: 9月13日(木)22時31分44秒


▼疑問1
「アラブ人乗客が使ったレンタカーの中にアラビア語の操縦マニュアルが」という報道。
あまりにわかりやすすぎはしないかなあ?
犯人は「フロリダ」の飛行学校で免許を取ったいう報道もあるし、
「流暢な英語で話していた」という情報も。
そのような人物に、どうして「アラビア語の操縦マニュアル」が必要なんだろう?
第一、飛行機用語は英語。
わざわざアラビア語のマニュアルを持つ必然性はどこに?

▼邪推1
「当局はちゃんと仕事をしているよ」とデモンストレーションするためのでっちあげ?

▼情報とは?
まさかとは思うけれど、そんな疑問を感じないではいられない報道でした。
自己弁護のために、虚偽の情報を流す。
それは、例えばネット掲示板で形勢不利とみるや、
別人格を立てて自分を弁護したり、誉め称える言葉を書き込む「困ったさん」と同じ行動。
国家規模で、そのようなことが起こったとしたら、大変な問題だと思います。
残念ながら、流される情報のすべてが「正しい」情報ではないかもしれない。
すべてを鵜呑みにせず、立ち止まって考えてみる。
できれば、さまざまな情報を付き合わせて検証する。
そういう姿勢を、受け手の一人一人が持つことが大事ではないか。
そう考えました。

▼馬渕公介氏(ノンフィクション・ライター)の発言

馬渕氏の掲示板「へちま☆クラブ」に、氏のこんな書き込みが。
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メディアリテラシー 投稿者:大長老  投稿日: 9月13日(木)01時44分27秒
ジャーナリズムの基本の一つは「疑問の創造性」なんですよ。
自分で考えた独自の疑問を発想できるかどうかが勝負なんです。
(中略)
こういう独自の素朴な疑問を呈する人って少ないんですよねえ。悲しいことに。
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わがCafe Lunatiqueの大長老も、そのようにお考えなのだなあと思いました。

大長老の「へちま☆クラブ」はこちら。
ただし、大長老はいま「ぢ」の術後で静養中であんまり登場できません。

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寮美千子 課題5/アメリカ同時多発テロについて/資料5 2001年09月13日(木)22時53分38秒

立ち止まるべき時の到来 投稿者:寮美千子  投稿日: 9月13日(木)18時40分41秒



わたしの下記の表現に「誤解を招くのでは?」というメールをいただきました。

>戦いに武器は要らない。
>命知らずの戦士がひとり、それだけで大国を恐怖の底に突き落とすことができる。

下記のようなご指摘です。

(一部引用)
>この書き方では、テロを容認しているかのようにも読めてしまうし、
>さらに、賞賛していると受け取られても、否定はしきれないと思うのだけど?
(中略)
>しかも、この部分は、事実認識にも、かなりの誤りがあるということを、
>少し冷静に受け止めてほしいと思う。
>今回のテロは、大規模な、極めて計画的組織的に行なわれたテロなのであって、
>その後の報道で明らかになってきているように、1機に3人から5人程度の
>テロリストがチームになって行動した結果であって、
>決して「命知らずの戦士がひとり」と言えるようなものではないと、
>ぼくは思うよ。
(引用終わり)

このような誤解を受ける表現があったことをお詫びします。
なにぶん、一刻も早く声を上げたいという気持ちでいっぱいでしたから、
表現にも不備なところがあったかと思います。


もちろん、テロを容認も賞賛もしているわけではありません。
また「命知らずの戦士がひとり」は、可能性の問題を指摘したつもりでした。
今回のテロ行為が、組織犯罪であることは明らかですが、
例えそうでなくても、たとえば「ベイブリッジの下をくぐりたかった」という
飛行機オタクのような人物にもハイジャックは可能であり、
その人物がベイブリッジではなくて
「原発に突っ込んでみたかった」という可能性もあるわけです。
テロという手法であれば、戦いに銃一丁必要ない。
搭乗券とカッターナイフ一本で、
とんでもない悲惨な事態を巻き起こすことが可能である。
それをいいたかったのです。


そして、その「心のありよう」には、核爆弾もミサイルも有効ではない。
組織を壊滅しても「最後の一人」として戦うことは可能だし、
その最後の一人が討ち死にしても、
新たにその心を引き継ぐ者が出てくるかもしれない。


だれも、世界中の人のひとりひとりの心の中にまで立ち入ることはできません。
だからといって、核爆弾やミサイル、強力な軍備というものが
テロ行為を防げるかといったら、そんなことはない。
では、わたしたちはどうしたらいいのか?


アメリカ合衆国は、いままでの方法論を捨てずに、
「アメリカ合衆国の威信」を軍事力によって誇示しようという考えを
提示しているように思えてなりません。
いままで、それで動いてきた巨大な車の進路を変えるのは、
並大抵のことではないと思います。
その車が巨大で、重ければ重いほど、惰性もある。
そのままの道を走ろうとする力は強いはずです。

ブッシュ大統領は、その演説の中でこう語っている。
America is going forward, and as we do so

けれども、ここで車を減速し、立ち止まって考えて欲しい。
ほんとうにその道が正しい道だったのか?
人々にとって、しあわせな道だったのか?

テロ行為は、許されるものではありません。
しかし、それが起こってしまったいま、
多くの犠牲者の死を無駄にしないためにも、
わたしたちは「ほんとうの平和」を求めて、立ち止まり、
考えなくてはいけないのではないか。
暴力に対する暴力の報復ではなく、別の道を見つけなくてはいけないのではないか。
あのテロは、暴力による主張だったけれど、
結果として「軍備」という暴力は無効である、という宣言だったのではないか。
そう受け取るべきではないか、とわたしは思うのです。


ブッシュ大統領は今回のテロ行為を「テロ以上。これは戦争だ」と述べています。
「テロ以上、これは戦争である」とはつまり
戦争はテロ行為以上に無惨な事態だ、とわたしは受け取りました。
実際「正当な」?手続きによって、殺人を正当化する戦争は、無惨な手段です。
殺人という行為において「正当な手続き」など、どこにあるのでしょう?
あらゆる殺人は、他者の命を奪う不当な行為でしかありません。

ブッシュ大統領は、11日午後8時半(日本時間12日午前9時半)、
全米向けに発表した声明でこう語りました。

>我々には緊急の反撃計画がある。米軍には力がある。
>我々はテロリストとそれを擁護する者を区別しない。

その「力」とは何か? 「反撃計画」とは何か?
それが、テロリストの暴力に対する「テロ以上」の行為でないことを、
「反撃」とは、純粋に「暴力」への反撃、
つまり暴力の完全否定であることを、強く願います。

多くの犠牲者が出たことへの対処、
それは、これ以上ひとりの犠牲者も出ないようにすることではないでしょうか。

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寮美千子 課題5/アメリカ同時多発テロについて/資料4 2001年09月13日(木)22時49分08秒

報復目標は、誰か? 投稿者:寮美千子  投稿日: 9月12日(水)23時52分17秒


アメリカ合衆国のニュース番組が、ヒステリックに叫んでいる。
「早く、報復目標が見つかるように」と。
報復目標とは、なんだろう?
どんな報復をしようというのだろう?

もちろん、これだけの死者を出した犯人は許されるものではない。
しかし、その直接の犯人は、すでに自爆している。
犯人を支持した組織?
もちろん、その解明は必須だろう。

しかし、そのような対立を招いた根元的な原因はなんだったのか。
彼らを、そこまで追いつめた理由はなんだったのか。
安全だと信じきっていた我々の安全は、どのような犠牲の上に成りたっていたのか。
世界把握の仕方に、狂いはなかったのか。
いままで、数限りなく見てきた戦場の映像。
その映像のひとつひとつが、きのうのテロ事件の映像と、
同じ痛みと悼みを伴わなければならなかったはずなのに、
それをわが身の痛みとして感じることができなかったのは、なぜなのか?

このような世界システムをつくってきた、われわれ一人一人が、
本来「報復」されるべき存在ではないのか。

再び、声を大にしていいたい。
テロで奪われる命が「不当に奪われた」命なら
ミサイルで奪われる命も「不当に奪われた」命だ。
テロリズムも、正式な手続きを経た戦争も、なんの変わりもない。
アメリカ合衆国が、どうか「正当な」報復をしますように。
平和のための、新しい一歩が刻まれるような対応をしますように。
心から祈ります。

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寮美千子 課題5/アメリカ同時多発テロについて/資料3 2001年09月13日(木)22時46分46秒

砂の城/わたしたちが20世紀に築いてきたもの 投稿者:寮美千子  投稿日: 9月12日(水)23時36分05秒


降りしきる書類。迫りくる煙。一瞬にして砂の城のように崩れてゆく高層ビル。
恐怖の風景のなかを、走る人々。
We are completely shocked.
インタビューに出たアラファト議長が、唇を震わせてそういった。
I am completely shocked.
わたしもそう感じていた。
これはまるで、戦場だ。
これ以上ショックな映像を、わたしは見たことがない。

そう思ったとたん、わたしは思い知らされた。
わたしは見てきたではないか。
戦場の映像を、数限りなく。
逃げまどう人々、瓦礫の山。
確かに胸が痛んだ。恐ろしく思い、気の毒になった。
けれど、きょうほどではなかった。
自分の立っている足許が崩れていくような、底なしの恐怖は感じなかった。
それは、遠い異国の出来事。
わたしもまた、アメリカの側にいる人間のひとりだったのだ。

テロの首謀者と目されているラディン氏の情報が流れてくる。
親米派だったラディン氏が、反米派に大転換をしたのは、湾岸戦争の時、
サウジアラビアに駐屯した米軍兵士の姿を見てからだという。
短パン、Tシャツ姿の女性兵士が、聖地を闊歩する。
それが、怒り心頭だったのだと。
宗教上の理由から、女性は夫以外の男に顔すら見せない。
そんな土地で、神聖な聖地を我が物顔に歩く異国の女性兵士。
ラディン氏には、それが、耐え難い異教の侵攻に思えたのだろう。

その報道を聞いて、思い出すことがあった。
タイの小さな島のことだ。
現地の人もくれば、外国人もくるというそのリゾートは、
豊満な体を惜しげなくさらす白人たちでいっぱいだった。
トップレスもいれば、全裸の男女もいる。そんな人々が海岸を闊歩していた。
そのそばに、ビーチボールで戯れる一団がいた。
それは、タイの人々。
男も女も水着の上からTシャツを着て、水の中でもそれを脱ごうとしない。
それほど慎ましい感性を持っている人々の国へ来て、
平気で裸になって歩く人々を、傍若無人といわずして、何と言おう。

経済力があるから。
軍事力があるから。
そうやって、我が物顔で異国をのし歩くアメリカがあった。
他者へのレスペクト、異文化へのレスペクト、
異国の土地へのレスペクトをネグレクトし、
たとえ異国であろうと、人々が自分たちのやり方を受け入れるのが当然、
という感受性があった。
経済力と軍事力で、他者を押さえ込めるという幻想があった。

それは違う。
いくら経済力が強くても、どんな強力な軍隊を持ってしても、防げないことがある。

こんどのテロは、まるでそう叫んでいるように、わたしには感じられた。

もちろん、こんな手段は卑劣だ。許せるものではない。
しかし、だからといって「報復」に出るとしたら、
それはテロリストたちと何ら変わることがないと、わたしは思う。

今回の事件の教訓とすべきは、
ミサイルも核爆弾も意味がない、ということではないだろうか。
彼らは確かに暴力に訴えてきた。
けれど、彼らが知らせたことは、国家規模の軍事力など、無意味だという、
暴力無効の通告ではないか。

矛盾している。確かに、暴力に対抗するのに、暴力を使ってはいけない。
これは、ひどい矛盾だ。

けれど、彼らの仕打ちに報復するために、さらなる暴力をふるうことは、
さらなる大きな矛盾だ。

失われた多くの命を無駄にしないために、するべきことは、
新たな命を奪うことではない。
お互いが、そんなことで命を奪い合うことがない世界を築いていくことだ。
そのために、歩み出すことだ。

いくらミサイルを配備して、迎撃しようとしても、
乗客を満載した旅客機を、だれが撃墜できるだろう。
旅客機が、原子力発電所に飛び込んだら、どうなるのか。
核爆弾など持っていなくても、
たったひとりの人間の強い信念と意志が、大地を核汚染することすらあるのだ。

軍備ではない。心だ。
結局、それしかないのだ。
そういうと、まるで腰抜けみたいに聞こえるかもしれない。
夢みたいな甘い話だと思われるかもしれない。
けれど、いまわたしたちのいる世界の方が、よほど夢のようではないか。
それも、悪夢。
微妙なバランスのうえに成り立つ核抑止力や、
軍事力による抑止力など、結局は幻想にすぎなかった。

2001年。
21世紀の幕開けのこの時に、わたしたちは新しい道を求めなければならない。
20世紀の論理は、ずいぶんと破綻のある夢物語だったねと、
そんなふうに思える、ほんとうの平和を求めていかなければならない。
いま、大きな発想の転換が求められている。

テロ事件により命を失った多くの人々を心より悼みます。
突然、理不尽な形で家族を、友人を、同僚を失った人々に、
心よりお悔やみを申しあげます。
アメリカ合衆国が、軍事的報復という手段に訴えないことを、心より願っています。

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寮美千子 課題5/アメリカ同時多発テロについて/資料2 2001年09月13日(木)22時43分42秒

日韓の米軍施設がテロ標的になる恐れ 米国務省が警告/8日 投稿者:寮美千子  投稿日: 9月12日(水)03時18分09秒


8日の朝日新聞に、すでにこのような記事が出ていました。

>米国務省は7日、日本と韓国の米軍基地と周辺の地域が
>テロ行為の標的になる危険があるとの警告を出した。

わたしの住む相模原市には、米軍の基地があり、
毎日のように、訓練機が上空を飛び交っています。
ここ一週間ほど、爆音が激しく、市役所にも抗議の電話が殺到していました。
新たな飛行経路が視覚で確認され、市役所から米軍に問い合わせをしたところ、
「通常の飛行訓練」との回答があったのみ。
お隣の大和市長は、きのう、米軍に直接抗議に出向いたとのことです。

平和をもたらすのは、武力ではない。
ましてや、テロ行為でもない。

名も知らぬ人々の命を奪う、というその行為は、
テロ行為に限ったことばかりではありません。
戦争もまた、名も知らぬ人々の命を奪う。

多くの人々の命が奪われたことに対する報復は、
別の多くの命を奪うことではない。
二度と、そんなふうに命が奪われることのない世界をつくっていく、
そのことによってしか、奪われた命は救われない。
わたしはそう思っています。

どうしたら世界が少しずつ暴力から遠ざかるのか。
それを思わずにはいられません。

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寮美千子 課題5/アメリカ同時多発テロについて/資料1 2001年09月13日(木)22時41分31秒

戦いに武器はいらない 投稿者:寮美千子  投稿日: 9月11日(火)23時50分56秒


「これは現実の映像です」
NHKのアナウンサーが悲痛な声で叫んだ。
ニューヨークの摩天楼街が、すべて煙に包まれている。
さっきまでそびえていた高層ビルが、もうそこにはない。

戦いに武器は要らない。
命知らずの戦士がひとり、それだけで大国を恐怖の底に突き落とすことができる。

ミサイルも核兵器も、何も役には立たない。
それを制御する国防総省さえ、火の海だ。

こうしている今も、新たに大型旅客機墜落の報が飛び込む。

どうすれば、そんな惨事をこの世界からなくすことができるのか。
一体、どうすれば。

武器ではない。
絶対に武器ではない。
ミサイル防衛構想なんて、なんの役にも立たない。

地道な話し合いと、理解。
どんなに遠い道のりに見えても、結局はそれがいちばんの近道なのだ。
気の遠くなるような対話を、繰り返していくしかない。
どこまでも、あきらめずに。

21世紀の曙。
わたしたちは、どんな未来をつくっていけるだろう。

ひとりでも多くの人が助かるように、
そして、アメリカ合衆国が武力による報復をしないことを、心より祈っている。

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松永洋介 「水草生うの巻」第八句の選句結果掲載 2001年08月21日(火)02時43分50秒
pttp0005.html#pttp20010820081404への応答

課題3の7、「水草生うの巻」第八句の選句結果を載せました。
得票はかなりばらけています。個々の句としてどう評価するかという観点と、「水草生うの巻」の連句としての方向性との衝突が、どれをとったらいいのやら、という迷いを発生させているのかも。

九句目候補はどういうのが出てくるか、楽しみです。もちろんぼくも出します。

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寮美千子 第八句決定/課題3(8)九句目募集 2001年08月20日(月)08時14分04秒

さて、捌き本人の寮美千子が、まるで夏休みの学生のように?さぼっていた連句です。
ずいぶん悩んだんだけれど、結局わたしの句をとらせてもらうことにしました。
せっかく詩的な緊張感を持続してきたこの「水草生うの巻」。
このまま突っ走りたい、ということでの選句です。

■連句「水草生うの巻」第八句まで

水草生う水の深きを悲しまず      四方田犬彦 
  ただひたすらに昇りゆく泡     寮美千子 
碧い空街角ノイズ耳塞ぐ       高橋阿里紗 
  光に溶けるバーガーの紙      小川美彩 
私から差しだす右手つなぐ恋      竹野陽子 
  フランス映画は理解できない    奥野美和 
色彩を抱えたこども駈けだして     鈴木一業 
  億万の蝶海峡を渡る        寮美千子

■九句目 募集

街から抜け出し、雄大な自然のなかへと入っていった九句目。
さて、これをどう受けるか。
つきすぎず、離れすぎず、ひらりとイメージで受けてください。
「色」関係、「こども」関係は、観音開きになるので、禁。
すでに「空」だの「光」もめいっぱい出ているので、
これも避けて欲しいと思います。
夏休み明けの10日中に、各自メールで寮美千子まで提出してください。
よろしく。

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寮美千子 「おひさま大賞」結果報告 2001年08月20日(月)07時55分03秒

みなさん、ごきげんよう。
どんな夏を過ごしていますか。
わたくしは、執筆の仕事に追われ、この掲示板の活用もままならぬ状態。
すっかりさぼってしまって、ほんとうにすみません。

まずは「おひさま童話大賞」のご報告から。
まだ雑誌紙面で発表されていないので、ここで発表するわけにはいかないのですが、
わが「物語の作法」から応募したみんなに関しては、発表できるのです。
なぜなら、全員予選落ちだったから!!

なんてこった!
信じられない。

下読みの人が読み、そこで荒選りしたものを、さらに編集部が読む。
審査員に手渡されるのは、30編の作品でしかありません。
この一次選考の段階で落とされてしまったら、援護射撃しようにも、できない。
実に、がっかりでありました。

もちろん、わたしとしては、贔屓するつもりはまったくなかった。
もっといい作品があれば、すなおにしゃっぽを脱ぐつもりでいました。
しかし、作品が残ってこないのだから、しょうがない。
では、残った30編がすべて、みんなの作品を上回る優れたものだったか?
というと、正直言って、わたしにはそう感じられませんでした。
これなら「物語の作法」のクラスの作品のほうが、ずっといいじゃないか。
そう思うものも多数あり。

特に、読後感の爽やかさが違った。
はっきりいって、読後感のよかった作品は、わたしにはありませんでした。
それと比べてもナンだが(そして、いくら排除したつもりでも、
わたしの思い入れもたっぷりあるのかもしれないけれど)
諸君の作品は、実に読後感がよかった。
気持ちのあたたかさや、純粋に何かを表現したい気持ちが感じられて、
粒ぞろいの爽やかな作品群だったと思います。

このような作品を、ひとつとして最終選考に残さない「下読み」とは何か?
何を基準に選んでいるのか?
ということを、ここで糾弾しても仕方ありません。
ただ、わたしが思い知ったことは、商業出版の世界の壁は厚い、ということでした。
どうしても、ある種の定型、わかりやすさ、などが求められる。
そこから、少しでもはみだしているものは、
もうそれだけで撥ねられてしまう。
創刊当時はかなり自由度の高かった「おひさま」にして、
このような選考をするのですから、後は押してしるべしです。

このような状況では、新しい、新鮮な作風の作家が出てくる隙がありません。
「新しい」といっても、なんというか、ある種受けそうな、
写真の世界でいえば HIROMIX みたいな作風なら受けるだろうけれど、
そうではない、正統派でありながらも新しさのある作品、というのは、
どうも評価されにくいし、発表の場もない。
つまり、育たない。
そういう閉塞状況にあるのだなあ、と改めて嘆息させられました。
新しい作家を生み出していくには、創作の発表の場が不可欠です。

そこで、予告したように雑誌「ぱろる」に
新人作品を載せるページを強引につくってもらいました。
ご快諾いただいた版元のパロル舎には、
なんと感謝したらいいか、わからないほどです。
ほんとうに、ありがたい。

紙数の関係もあって、発表できる作品に限りがありました。
そこで、発表です。掲載作品は、次の3作。

ミーコのあめがふってくる 鈴木一業
ゆうやけ         東條慎生
ちょっとだけだいじょうぶ 杉山千絵

それぞれの作者は、80字以内で「略歴」を書き、寮美千子までメールを!
とすでにメールで呼びかけましたが、鈴木一業くんのだけ、まだです。
きっと夏休みで、学校のメールを開けてないのかな。
これを読んだら、早速お送り下さい。
編集者が待っています。

ほかにも、もっと載せたい作品がありました。
ほんとに、ほんとに、今回発表できなくて、残念!
今回は見送ったけれど、この新人作品コーナーの人気がでるようであれば、
もっとページ数もとってもらえると思います。
そのためにも、どしどしいい作品を書いてください。
みなさん、これからも、がんばってください!

夏休みも、残り少なくなってきました。
すでに、新作をアップしてくれた人もいて、感心感心。
みなさんも、夏休み明けの授業に向けて、ぜひ意欲的な新作を!
よろしくお願いします。

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管理者:Ryo Michico <mail@ryomichico.net>
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